2016年11月08日

みんなのダルマさん[高橋是清]


「あぶない!」

爆走する暴れ馬。

その先には、4歳の男の子が…。



バーン!

狂馬に吹きとばされた4歳児。

誰もが青ざめた。



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ところが…、

その子はなんと無傷。

のちのダルマ宰相「高橋是清(たかはし・これきよ)」、4歳のときのエピソードである。



彼は自伝に、こう書いている。

「私は子供の頃から幸せ者だ、運のいい者だと深く思い込んでおった。それが私を『生来の楽天家』にした原因じゃないかと思う『高橋是清自伝』)」







江戸に生まれた是清であったが、生後まもなく仙台藩の武士、高橋覚治の家へ養子にだされる。

そして江戸時代、最後の年、慶応3(1867)年、当時12歳の是清に大きなチャンスが与えられる。仙台藩がアメリカへと派遣する留学生の一人に抜擢されたのだ。



アメリカの大地に降りた是清。

さっそく手ひどい洗礼を受ける。悪質な契約書に、うかとサインをしてしまい、奴隷同然の労働を課される羽目になってしまったのだった。

是清は言う。

「私は疲れた体をベッドに横たえる時、これから一体どうなってしまうのだろうと、泣き明かしたことが度々あった『高橋是清自伝』

そして悩む。

「もし私が逃げ出したりしたら、それは契約違反だ。事態は一段と難しくなって周りにも迷惑をかけてしまう『高橋是清自伝』



数ヶ月後、是清はある一策を案じる。

ともにアメリカに渡った仙台藩士らとともに、日本の領事館へと駆け込んだ。そして奴隷のような契約を結んでしまった相手、ヴァンリードという役人に契約の破棄を迫り、認めさせてしまった。

このとき是清、わずか14歳。英語という外国語を駆使し、アメリカの役人に契約破棄を承認させるとは、なんたる機智であろうか。

是清は言う。

「わたしの言う『楽天』の意味は、そうのうちどうにかなるであろうとか、棚からボタ餅式に幸運が落ちてくるのを漫然と待っているとかいうような意味の楽天ではない。自分の全身全霊を傾けて最善を尽くす。あとは天に任せるのみである(高橋是清『随想録』


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是清が日本に帰国したとき、日本は文明開化、明治の世になっていた。

是清は得意の英語を駆使し、その10代を翻訳業や英語教師として過ごす。ちなみに、正岡子規や秋山真之らは、是清の教え子たちである。



明治13(1880)年、是清26歳のとき、うまい儲け話がころがりこむ。今後、かならず銀が値上がりすると耳打ちされたのだった。

しかし残念ながら銀の値はいっこうに上昇せず、是清は結局、5,000円を失うことになる。当時の5,000円は現在価値で2,000万円に相当する大損であった。

「ひどい目にあった」と是清は悔いた。と同時に、「ひとつ相場というものを研究してみたいという考えが起こった『高橋是清自伝』」。



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大損から一転、なんと是清、みずから米相場の仲買店を立ち上げてしまう。

当時、経済の知識が無に等しかった是清であったが、毎日、米の相場とにらめっこ。その動向、仕組みを貪るように吸収していった。

米の価格は日々、小刻みに変動していく。だが、じっくりと腰を落ち着けて眺めてみると、その背後には大きな流れが感じられた。是清の言う「根本」というものが見えてきた。



こうして是清は、小さな経済よりも、より大きな国全体の経済に目覚めた。海外の専門誌まで取り寄せて勉強したという是清。またたくまに経済の専門家へと成長を遂げた。

そして34歳のとき、新たな儲け話が舞い込んでくる。南米ペルーのある鉱山に、良質な銀が大量に眠っているというのだ。しかし、2度あることは3度ある。是清が実際ペルーに着いてみると、その鉱山は100年間掘りつくされた廃坑であったことが判明する。多額の借金だけが是清の手土産となってしまった。

のちに「財政の神さま」と崇められるようになる高橋是清であるが、若い頃はまだまだ形無しであった。



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ペルーから戻った失意の是清は、日本銀行で働きはじめる。

是清は言う。

「わたしは役人を長年やっていたので、実業界に転じるにあたっては丁稚奉公からたたき上げねばならぬと考えております『高橋是清自伝』

ペルーでの大失敗は、現場を知らぬことにあった。そこで是清は、現場から学び直すことを決意したのであった。

「元来、仕事そのものに軽い重いはないものであるが、虚栄の心があるとそれがわからなくなってしまうのである。どんなささいな仕事でもおろそかにしてはならぬ(高橋是清『随想録』



ある日、現場の職人たちが騒然としていた。骨組みの鉄棒が足りないというのだった。そして、大慌てで大量に発注していた。

是清はふと倉庫に入ってみると、職人たちが「ないない」と騒いでいた鉄棒が、そこに大量に眠っているではないか。是清は唖然とせざるをえなかった。現場レベルでは日銀ですら、基本的な在庫管理というものができていなかったのだった。



日銀ビルの建築現場では、また別のことが問題になっていた。

予算がまったく足りていなかった。そこで建築家の辰野金吾は、総石造りをあきらめ、2階部分は安いレンガで代用しようと設計を変更した。ところが当時の日銀総裁は、その変更に激怒。国家の威信をかけた建物は、断固、総石造りでなければならないと言うのであった。



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理想を曲げようとしない上層部、そして十分に予算を与えられない現場の人間たち。その両者の立場を経験していた是清は、双方の事情がよく見えていた。そして打開策が頭にうかんだ。2階のレンガ部分の外壁として、薄い石を貼り付けるという妙案だった。結果、見た目は総石造りそのもので、見事予算内におさまった。これが現在の日銀本館である(石積みレンガ造り、花崗岩貼り)。

のちのことであるが、高橋是清は日銀の副総裁、総裁を歴任することになる。






日露戦争が起こったのは、明治37(1904)年、是清49歳のとき。

2月の開戦からひと月半後、是清はロンドンへ飛んだ。戦費を調達するためだった。日本のおよそ10倍の国家予算をもつロシアを向こうにまわしては、日本経済が破綻する恐れがあったのだ。

ロンドンでの戦費調達は、日本の国債をどれだけ売りさばけるかにかかっていた。しかし、ロンドンでの日本の評判はすでに芳しくない。「大国ロシアに貧しい日本が噛みついた」と、銀行をはじめとする投資家たちは見向きもしてくれなかった。



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それでも是清はロンドンの銀行を毎日、訪ね歩いた。

目標額は一億円(現在価値にして約3,000億円)。日本の戦費はすでに底を尽きかけ、政府からは催促の電報がひっきりなしに是清のもとへ届いていた。

この切迫した状況のなか、是清はあえて時間をかける作戦にでた。というのも、開戦前から日本国債は暴落をつづけており、すぐに販売できるような信用がまったくもってなかったからである。

是清は銀行家たちに、こんな話をしていた。

「日本人は家族を基礎として、社会の結束が非常に強いのです。礼儀を重んじ、忍耐強く物事に取り組む武士道の精神があります『高橋是清自伝』

じっくりと時間をかけて、日本人の信頼を高めようとしていたのである。



日本の戦況が思わしくない、ある日、一人の投資家が是清のもとを訪れた。

「日本には同情します。600万円なら投資しましょう」

常人なれば、手を打って喜んだことであろう。いまは一円でもお金の欲しいところだった。ところが是清は、

「お断りします」

と、その申し出を言下に断った。

是清は、そのときの状況をこう記している。

「相手を操るために腹芸をしなければならない事もある。それが相手に響いて『この態度では他と取引される』と相手を心配させることができれば、もうしめたものだ(高橋是清『随想録』

わずかな金額に、日本国債を安売りするわけにはいかなかった。それでは信用を下げてしまうことになってしまう。是清はあえて強気の姿勢をつらぬくことで、日本国債がさも有望であるよう演出したのであった。



日本とロシアの激戦は、海戦から陸戦へとうつっていた。

「体格の貧弱な日本人は、陸戦でロシアに勝てない」

陸戦における日本人の評判は、まったく振るわなかった。



ところが、鴨緑江で奇跡がおこる。

弱小とみられていた日本軍が、ロシアの強大な騎馬軍団を蹴散らしてしまったのである。

ここに世界の常識がひっくり返り、ロンドンの投資家たちも「もしや…」と考えはじめた。



「いまだ!」

是清は一気に攻勢にでた。

くどいほど銀行を訪ね歩いていた是清のもとに、投資が殺到した。投資家たちは、いつの間にか日本人を信用するようになっていたのである。

目標の一億円は、わずか一週間で達成。その後3年で、是清は10億円の国債を売りさばいてしまった。



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無事に使命を果たしたことで、是清は有頂天になってもよかった。しかし是清はずっと冷静だった。

「借りた金は返さなければならない」

10億円という借金(国債)は、当時の日本のGNPの30〜50%を占めるほど膨大な額だった。どうやって返していくか、借金が成功した瞬間から、是清は今後の経済運営を考えはじめていたという。



56歳で日銀の総裁になった高橋是清、その2年後には大蔵大臣(以後、7回つとめる)。そして67歳で総理大臣にまで登りつめた。

72歳で政界を引退した是清は、隠居生活にはいった。

じつは、是清が国民から絶大な人気を得るのは、このあとの話である。



昭和4(1929)年、アメリカ発の大恐慌が、日本を直撃。失業者が町にあふれ、わが子を身売りしなければならないほど、悲惨な状況が日本を覆い尽くした。

時の首相・犬養毅は、ここに是清を呼び戻した。是清、77歳のときである。

大蔵大臣を拝命した是清は、次々と革新的な経済政策を打ち出す。まずは国債を大量に発行し、大胆すぎるほど公共事業に資金を注入した。とにかく雇用を生み、冷えきった景気を回復させることに全力をつくしたのである。

それから4年、日本は世界のどの国よりも早く、世界恐慌から抜け出した。「財政の神さま」はこうして誕生したのであった。







さらに国民の人気を決定づけたのは、是清による「軍事費の削減」であった。

軍事費に手をつけるのは、まったくのタブーの時代であった。昭和6(1931)年の満州事変以来、軍拡、軍拡で、ついには国家予算の半分にまでが軍事につかわれるようになっていた。

当然、軍事費削減に猛反発する軍部。是清は陸軍大臣・川島義之に正面きって言った。

「軍備といえども国力、すなわち国民の経済力にふさわしいものでなければならぬ」



軍部との攻防は8日間におよんでいた。

「こうなるともう、政治問題というよりはむしろ、体力問題だ」

21時間にわたった交渉最終日、首相官邸はほのぼのと明けはじめた。

当時の新聞には、こうある。

「以外にも、安政元年生まれ、当年82歳の高橋蔵相が遂に押切った」

「八十二翁の頑張り 耐久王・高橋さん 充血で危機線突破」

「『高橋さん、どうぞお休みください』と気付のウイスキーで赤くなった岡田首相は、やきもきしながら口説きにかかったが、『奇跡の達磨』のごとく厳然たる高橋翁は『ナーニ、議会の連中を相手に夜の十一時、十二時まで引張られる事を思えば、ずっと楽です』と…」



是清の軍事費削減を、国民はこぞって賞賛。

是清が官邸を出ると、いっせいに万歳の嵐。

「奇跡のだるま!」

国民の生活を良くするためには何が必要か、この一事を是清は考え抜き、そして実行したのであった。







その3ヶ月後、奇跡のダルマは軍部の凶弾に倒れる。

ニ・ニ六事件である。

「大蔵大臣・高橋是清、死す」







是清の葬儀には、数千人の市民が押し寄せた。

当時の新聞には、こう記されている。

”ぎっしり並んで「我らの高橋さん」を見送る町民、電車もバスもみな停車して、国民の心からなる哀悼の意を、古翁の霊にささげる”










(了)






出典:NHK知恵泉「高橋是清」



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posted by 四代目 at 15:10| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする