2016年05月10日

一家に一本、「ネジザウルス」



「ドライバーでグリグリやっているうちに、ネジの頭がつぶれて困った経験ってないですか?」

エンジニア社長、高崎充弘(たかさき・みつひろ)氏は言う。

「ほかにも、ネジが錆(さ)びて固まったりすると、ドライバーではどうにもできません」



そして、高崎社長はペンチのようなものを取り出す。

「どう見ても、普通のペンチでしょ?」






「普通のペンチと大きく違うのは、

『ネジの頭をつかんで回せる』

という点です。これによって、

『どんなネジでも外してしまおう』

と」



その名も「ネジザウルス」。

高崎社長は言う。

「商品名を親しみやすいものにしようと思い、社内公募をしたんです。その中に、ネジの頭をつかむ先端部分を『恐竜のティラノサウルス』に見立てた案があって、『あ、これだ』と。即断で『ネジザウルス』に決めました(笑)」







どんなネジでも外せる秘密は、その「先端部分」にあるという。

高崎社長は言う。

「通常のペンチって、先端部分に横向きのミゾがはいっているんです。これは何かをつかんで引っ張るときに摩擦ときかせるためですが、ネジをつかんで回そうとすると滑ってしまうんです。そこで、まず先端のミゾを『縦』にいれました」



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さらに、もう一工夫。

「通常のペンチは、閉じたときに先端部分が平行になるよう設計されているため、ネジの頭をつかもうとするとハの字型になって、やはり滑ってしまうんです。そこでネジザウルスは開いたときに、ちょうどネジ頭を平行につかめるように、『逆ハの字型』にしました。この傾斜角がビートたけしさんの『コマネチ』というギャグに似ていたので『コマネチ角度』と命名したんです(笑)」



高崎社長は言う。

「やはり、われわれは大阪の会社なので『遊び心』があっていいんじゃないかと」

株式会社エンジニアは、大阪市東成区にある。従業員は30名。「ネジザウルス」の異例の大ヒットによって、一躍有名になった。



高崎社長は言う。

「社長に就任するまでの17年間に積み上げたアイディアは、じつに800点におよびます。恥ずかしながら、そのほとんどが失敗におわりました(笑)。ただ、裏をかえせば、800点もの失敗のうえに『ネジザウルス』の大ヒットが成り立っているといも言えるわけです」

通常の工具は、年間1万丁も売れれば大ヒットといわれる。

ところがネジザウルスは、2002年8月にホームセンターで販売を開始し、それから4ヶ月で7万丁も売れた。







高崎社長は言う。

「ネジザウルスは、ふとした思いつきから生まれた商品でした。当時、特注工具セットのなかに『先端に縦ミゾを切ったペンチ』がありましてねアメリカ発祥のガス管をつかむための工具なんですが、それを偶然みつけたときに、『これはひょっとしたらネジの頭をつかめるんじゃないか』と思ったんです」



2002年の初代ネジザウルスにはじまり、

2005年に「大きいネジ用」の二代目、

2006年に「小さいネジ用」の三代目を発売。

その結果、2007年にはシリーズ累計30万丁を突破した。



ところが、時悪く、リーマンショックがおきる。

高崎社長は言う。

「売り上げはガクッと落ちて、2,000万円の赤字を計上することになってしまったんです。このときが私自身、いちばん苦しい時代でしたね。奇しくも創業60年の節目の年でもありました」



さすがに、社内では「あきらめムード」が漂った。

だが、あえて

「四代目をつくろう!」

高崎社長は高らかに、そう宣言した。



「ネジザウルスは、まだ40万丁しか売っていない。日本には1億2,000万人、5,000世帯もの市場がある。

『一家に一本、ネジザウルス』

を合い言葉に、あと100倍は売れるだろう!」







改良すべき箇所は、まだまだあった。

1,000通以上の「ご愛用者カード」が、それを教えてくれた。


「グリップを握りやすくしてほしい」

「先端を細くしてほしい」

「バネをつけてほしい」

「カッターをつけてほしい」

「トラスネジを外せるようにしてほしい」



そして2009年8月、

最後の勝負として「四代目」、ネジザウルスGTが誕生した。







売り上げは前年比200%。

V字回復を果たした。



「トラブルがあれば、必ず、その痕跡があるはずや」

高崎社長は言う。

「ですから、ちゃんと目を凝らして見れば、そこには必ず、原因と答えがあるんです。そして遊び心。息をぬく瞬間が必要なんです。昔から、アイディアが生まれやすいのは『馬上、枕上、厠上』と言われるように、心身ともにリラックスしたとき、脳が活発にはたらく。ネジザウルスも『サウナ風呂』のなかで思いつきました(笑)」






(了)






出典:致知2016年6月号
高崎充弘「『執念』と『遊び心』が難局を打開する力を生む」



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2014年11月16日

どこかへ行かねばならない日本企業 [The Economist]




日本マネーが海外への流出をつづけている。

The Economist「日本企業は国内での投資をけちっている(Japanese firms have skimped on investment at home)」



国内で消費されない日本円はどこへ行くのか?

それは今、「東南アジア」だ、とエコノミスト誌は言う。

The Economist「東南アジア地域への日本の投資は、昨年、2兆3,000億円に倍増した。ソフトバンクはインドネシアの企業、トコペディアに対する1億円の投資を率いた。東芝は5年間で10億ドルを東南アジアへ投資すると約束した」






○中国から東南アジアへ



かつて、そうした資金は中国へと向かったものだった。中国の巨大で安価な労働力(China’s vast, cheap labour force)がそうさせていたのである。

The Economist「だが今や、中国で人件費が着実に上昇し、日中間の政治的緊張(political tensions)がつづく中で、東南アジアがふたたび魅力的に見えるようになった。昨年、日本企業は東南アジアに3倍近い規模の投資を行った。一方で、日本の対中投資は4割近く落ち込んだ」

こうした東南アジアに対する熱狂は、1980〜90年代以来のことである。その頃が日本による東南アジア投資の第一波であり、タイ、マレーシア、シンガポールなどに、各国の自動車・電機産業(automotive and electronics sectors)が築かれた。しかしそれは、1997〜1998年のアジア金融危機(Asian financial crisis)に遭って、おおむねストップしてしまっていた。






○国内に向かない投資



日銀は2013年、アベノミクスの一環として「新たに印刷したマネーで債券の購入をはじめた(いわゆる量的緩和、quantitative easing)」。

しかし国内での借り入れ需要が依然低迷しているため、国内各行は手元に残った多額の現金のうち、15%を超過準備として日銀に預けざるを得なかった(その利子がたとえ微々たるものだとしても)。



そして一方で、過剰資金は東南アジアを中心とするアジアへと流れた。

The Economist「邦銀のアジア向け融資は、2012年末以降、急速に増加し、6月時点で4,650億ドル(約54兆円)に達した。三菱UFJフィナンシャルグループは、タイのアユタヤ銀行の株式の72%を5,360億円で取得した」

結局、アベノミクスの期待した「国内企業による国内投資」は、思うようには伸びていない。日本の国内市場は急速に高齢化、そして確実に縮小しており、工場の新設などがためらわれているのである。



国内投資が鈍るなか、カメラメーカーのキャノンは「日本国内での生産比率を高める」ことを明らかにしている。

しかしこれは一般的な例ではない。

The Economist「インドネシアに新工場を建設している三菱自動車のような、反対の事例(counter-examples)が複数存在する」






○輸出品から現地生産品へ



紙幣増刷(量的緩和)もあって、日本円は安くなった。

しかし予期された輸出品の伸びはみられていない。

The Economist「ドイツ銀行の試算によると、日本からの輸出品に代わる”現地生産品”が対外投資によって提供されたことで、日本の貿易収支を16兆円減らしたという(2012)。これは、7兆円という同年の日本の貿易赤字を上回る額だ」



というのも現在、日本国内でつくって輸出するよりも、現地で生産販売したほうが高いリターンを得られるのである。これは皮肉にも、コーポレート・ガバナンス(企業統治)が改善した結果であるという。

「コーポレートガバナンスが改善したおかげで、日本企業は以前よりも利益を重視するようになった(Japanese firms focus more on profits)」と、ロバール・フェルドマン氏(モルガン・スタンレーMUFG証券)は指摘する。



The Economist「海外事業(overseas ventures)が加速するにしたがい、日本はより頻繁に貿易赤字(trade deficit)に陥るようなった」






○不労所得



日本企業は229兆円という巨額の現預金を貯め込んでいるという。しかし、それは国内へと還流しないために、日本人の賃金上昇という結果を生んでいない。

脆弱な国内経済が、日本企業を海外での拡大へと駆り立ててしまうのだ。



今年、カンボジアに同国最大となるショッピングセンター、イオンモールが開店した。

プノンペンでのその記念式典に、一国の首相が立ち会った。これは異例のことだったが、「それが日本投資の象徴(a symbol of Japanese investment)だ」とエコノミスト誌はいう。というのも、スケートリンクからテレビ局まで備えるその複合施設は、日本企業が建設したものだったからだ。

The Economist「東南アジア各国の政府が、日本企業に秋波を送っている。そして、大量の日本円が東南アジアに押し寄せている」



「このままでは、日本が”レンティア経済(rentier economy)”に陥りかねない」と、マルティン・シュルツ氏(富士通総研)は懸念する。

それは、国内での経済活動が振るわぬ結果、海外資産の「レント(不労所得)」で生きていくことを意味する。これは”持てる者”にとっては朗報であろう。しかし”持たざる者”にとっては辛いことだ。



The Economist「プノンペンの郊外には、携帯電話向けの小さいモーターを製造するミネベアや、調味料メーカーの味の素をはじめとする、日本メーカーを誘致するための新しい工業団地(industrial park)がある。団地には新たなテナントが引きも切らない」

その団地の総責任者、植松浩氏は言う。

「民間企業は、どこかへ行かなければならない…」













(了)






出典:
『The Economist』Nov 1st 2014「Japanese investment in South-East Asia: Outward bound」
JBpress「東南アジアへの投資:日本マネーが大量流出」



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タイと日本の不思議な共通項。今後ともに期待される両国の関係。

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2013年06月10日

モノ以上の「想い」。サトーカメラ・佐藤勝人



中学の頃は、勉強なんてほとんどしない「不良少年」。

東京の専門学校へ行っても、3ヶ月で辞めて「ブラブラ」。

そして栃木に帰ってきたはいいが、家業カメラ店の「さえないダメ店長」。



それが、それまでの「佐藤勝人(さとう・かつひと)」さん。

のちに、「サトカメ」ことサトーカメラの大店長となる人である。



22歳の時、近所に「大型カメラ店」がオープンした。

そこが連日満員の大賑わい。月に5,000万円も売り上げているという話が耳に入ってくる。



一方、サトカメのダメ店長は、その頃はまだ小さな店の主。

給料も月7万円ほどにしかならない。



だが今では、栃木県No.1のカメラ店といえば「サトカメ」の方である。

来客リピート率80%以上、利益率40%以上という驚異的な数字を叩き出し、栃木県内のカメラ販売シェアトップの座を15年間連続で暖めている。



なぜ、町の小さなカメラ店が、ナショナル・チェーンに勝ることができているのか?

ダメ店長はいかにして大店長へと昇り詰めたのか?










◎とりあえずの成功



近所の大型カメラ店に触発されたダメ店長は、いきなり宣言した。

「栃木で一番の店にする!」と。

そして、朝から夜まで店に立って、気ぜわしく働き回った。

「とにかく速く回せ! 効率良くやれ!」と社員らにハッパをかけながら。



当時は「売ること」しか頭にない。

「客なんて面倒くさいだけ。さっさと売ってなんぼや!」

その猛烈努力の甲斐あって3年後、見事サトカメは栃木県No.1となる。県内に400軒以上あったカメラ店の最下位からスタートして、当時の店舗数は県内に10を数えるようになっていた。



高級外車に乗って毎晩飲み歩き、ゴルフやサーフィンに遊ぶ。

「これが若い頃に描いた大人の姿だ」

成功を収めた佐藤さんは、しごく満足気であった。



だが時々、どこか楽しくない…。

どこかに虚しい気持ちが残る。

心の真ん中にスキマが空いているような…。






◎10年前のある出来事



「モノが売れれば、それでいいのか?」

どんどんと商品が売れていく光景を虚ろな目で眺めながら、佐藤さんはそんなことをボンヤリと考えていた。



すると、70代ほどのある「お婆さん」が、佐藤さんの肩を叩く。

「こんにちは。わたしのこと憶えてる?」

はて? さっぱり記憶に無い。



「10年前、あなたに勧められて、この一眼レフ(カメラ)買ったのよ」

そう言われても、そんな昔の話思い出せない。カメラは星の数ほど売ってきたのだ。客の顔なんてろくすっぽ見ずに。







キョトンとしている佐藤さんを尻目に、そのお婆さんは勝手に喋りだす。

「60の時に旦那に先立たれて、やることもないから毎日毎日パチンコばっかしてたのよね。カメラを買ったのは65歳の時。息子に子供が生まれてね。でも使い方がよく分からない。それで、毎日のようにオタクの店に来て、カメラの使い方を教えてもらったのよ」



「ああ」と、佐藤さんは10年前を薄ボンヤリと思い出す。

お婆さんは、勢い込んで喋り続ける。

「あなたに使い方を教えてもらったから、毎日のように楽しく写真を撮ったの。賞もいろいろもらったわ。もう70になったけど、カメラを覚えたこの10年間が、人生のなかで一番幸せだったわ。ありがとね」



そう喜んで話すお婆さんを見ながら、佐藤さんは子供の頃に抱いていた「別の大人像」を思い出していた。

「人に影響を与えるような人間になりたい。そんな仕事をしたい」

それは「モノを売るだけ」でなれるものではなかった。そのためには「モノ以上の何か」も売らなければならなかった。






◎想い出をキレイに



モノを残すんじゃない。

「想い出」を残さなければ。



以後、サトカメの経営方針は大転換。

「とにかく売れ」から「想い出を残す」に。

そして生まれた言葉が「想い出をキレイに一生残すために」。



開眼した佐藤さんは、社員たちにこう語った。

「効率は考えなくていい。お客さんが納得するまで話をしよう。聞いてあげよう」

これまでの「売ってなんぼ。時間を惜しめ」とは、まるで正反対の言葉に社員たちも戸惑いを隠せない。

また、「社員」という呼び名も「アソシエイト(仲間)」に改めた。



セルフ・プリント機の前には、ゆったりと寛げるソファが置かれた。

そのソファは、立ちながらサッサと写真を選ばせるのではなく、ゆっくりじっくり時間を気にせずに写真を選んでもらいたいという想いの現れであった。家族も一緒に腰掛けられる。

時にアソシエイトが、写真選びを手伝うこともある。素人とはちょっと違うプロの視点からアドバイスを加えながら。



時にアソシエイトは、一台のカメラを売るのに6時間もかけることがある。

そのお客さんの買うカメラは予め決まっていたのだから、「はい、これです」とさっさと手渡せば、あっという間に50万円の売り上げになるはずだった。

ところが、お客の質問に耳を傾けるうちに、スタジオでの撮り方講義にまで発展してしまっていた。







おそらく大型量販店でそんなことをやっていたら、上司からすこたま叱られてしまうかもしれない。

でも、サトカメでは「あり」だった。

幸いにも、そのお客様はいまでは熱烈な「サトカメ・ファン」になっているのだとか。



「われわれは常識的な小売業からはみ出した『異端児』なんです」と佐藤さんは言う。

だが、そのサトカメの異端児たちが、お客さんたちを惹きつける。






◎考える集団



「何をすればお客さんに喜んでもらえるか?」

それをみんなで考えた。そしていつしか、「指示待ち集団」は「考える集団」へと変わっていた。



ある有能な女性店長は、閉店間際に追い込まれていた赤字店舗を、わずか一年で瞬く間に黒字にしてみせた。

「お店をもっとカフェっぽくしたら、女性も足を運ぶんじゃないかしら」

その提案によって、お店は「手描きのポップ」や「お客さんの撮った写真」であふれるようになった。これは今に続くサトカメの店内風景にもなっている。



サトカメに足を運ぶお客様の「想い出」は、着実にキレイなものとなっていった。

アソシエイトはお客様の名前を覚えるようになった。それはお客様に尽くそうと、一歩踏み込むことも多くなったからだった。

そのお客様が「何を買ったか」も覚えている。いろいろ聞かれたり丁寧に説明したりしているうちに、自然とそうなるのであった。










◎お客



かつてのサトカメでは、顔の表面では笑っていても、心では「買うのか買わないのか? さっさと買えよ」とヤキモキしていたという。

それも仕方がない。「さっさと売れ」とキツく言われていたのだ。さんざんお客さんに時間を取られて、結局買いませんでしたじゃ、元の木阿弥。たとえ売ったとしても、その人の顔も名前も知ったこっちゃない。何を売ったかも覚えていない。残るのは「数字」ばかり。



佐藤さんが若い頃は、それでも成功した。

しかし、その成功が持続的なものだったかどうかは分からない。もしかしたら一発だけの打ち上げ花火で終わっていたかもしれない。

いずれにせよ、お店に来たお客さんの心に残る「想い出」はあまり好ましいものではなかった。



かつて専務である佐藤さんが店に顔を出すと、社員たちは接客中のお客様を差し置いても挨拶に来たというが、今ではそんなことは許されない。

「オレに挨拶してるヒマがあったら、お客さんの方を見ろ!」と逆に叱られてしまう。

茶髪でもピアスでもいい。会社への忠誠心もいらない。

ただ、お客様の想い出をつくるためには「全力を尽くせ」、と佐藤さんはアソシエイトたちに言うのであった。










◎フィルム



目には見えない「想い出」の価値が見えるようになった佐藤さんは、フィルムからデジタル・カメラへの移行にもまったく抵抗がなかったという。

当時の誰に聞いても「フィルム・カメラはなくならないよ」と言っていた時代、サトカメばかりは早々にデジカメへと大きく舵を切った。それは今から10年前。専門家がデジカメへの完全移行を予言するその前だった。







いきなりのデジカメ転換に、社内や銀行、お客さんまでもが大反対。

それでも佐藤さんの心は揺るがなかった。

「われわれの大義は『想い出』を残すことです。フィルムを残すことではありません」と、堂々と言い切った。



それから10年。

カメラがフィルムからデジタルに移行したことで、全国に1万店以上あったカメラ店は、3,000店ほどに激減してしまっている(約70%減)。

そんな中でもサトカメが生き残れたのは、いち早く商品構成をデジタルに変えいたからだと言われている。










◎桜の写真



「写真の価値というのは、上手い下手ではありません」

と佐藤さんは言う。

「その一枚一枚に、撮った人のさまざまな『想い』が込められているんです」



だから、サトカメが企画する写真展は、写真に込められた「想い」を評価する。

昨年の「桜のフォトコンテスト」で特別賞に選ばれた写真は、明らかにアングルが悪かった。きっと普通のフォトコンテストでは、決して選ばれない一枚である。



だが、そのアングルの悪い桜の写真は、「病気で寝たきりになっている母がベッドから撮ったものなんです」と、写真を持ち込んだ息子は言うのであった。

動けなくなった母の数少ない楽しみの一つ。それが病室の窓から見える一年に一度の桜の花。



その母がいつでも桜の花を見れるようにと、息子がデジカメをプレゼントし、そして母はそのカメラで大好きな桜の花を撮影したのだった。

こうした撮影者の想いをサトカメが知っていたのは、お客さまの心に一歩だけ踏み込んで、それを聞いていたからだった。



「サトカメのフォトコンテストで『特別賞』をとったよ!」と息子が報告すると、母は嬉しくて嬉しくて、ボロボロボロボロと泣いていたという。

間もなく息を引き取ったお母さん。

その大切な桜の写真は、お葬式の時にも丁寧に飾られていたという。



その後、店を訪れた息子さん。

「ありがとうございました…」

深々と頭を下げたという。













(了)






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出典:致知2013年6月号
「想い出をキレイに一生残すために サトーカメラ専務 佐藤勝人」

posted by 四代目 at 06:21| Comment(1) | 企業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月19日

「できない糸」ができた時。オバマ夫人を彩ったモヘア糸(佐藤正樹)。


「いやぁ…、困った息子が帰ってきた…」

従業員たちは冷ややかだった。

ここは山形の小さな繊維工場。そこに東京からUターンして帰ってきた「困った息子」、四代目の佐藤正樹(さとう・まさき)さん(当時26歳)。

この四代目が、「世界のどこにもないオリジナルの糸を作りたい!」などという夢物語を熱く語っているのだ。



従業員たちが「困った息子だ…」と思うのも無理はない。

この工場は、長年、大手メーカーの規格品ばかりを作ってきた下請け工場だ。「世界に一つだけの糸」など作れるはずがない。

そんな特殊な機械もなければ、そんなノウハウもない。そもそも、新しい糸を生み出すような環境ではまったくなかった。

ここは山形県寒河江市、人口はわずか4万人程度。雪国の小さな町である。地元の高校に求人票を出しても、一人の応募者がないことも珍しくなかった。



こんな田舎の小さな繊維工場の従業員たちに、東京帰りの四代目は「雲をつかむような話」ばかりをする。

「このモヘア、世界で誰も作れないから! これ、すごく面白くなるから!」

四代目の夢物語が始まるたびに、むかしからの従業員たちは「できない理由」を一から説明してやらなければならなかった。



ところがまさか、その困った息子が本当に雲をつかんでしまうのが、今回の物語。

佐藤正樹さんが生み出すことになる「世界一細いモヘア糸」、その糸で織られたカーディガンをオバマ大統領のミシェル夫人が着ることになるのだ(大統領就任式2009)。



「そんなに立派になるとは思わなかった(笑)」、佐藤さんが生まれる前から工場で働いている勤続49年の芳賀きぬ子さんは、おかしそうに笑う。

今や、世界のトップブランドがこぞって使うという、山形生まれの糸。それは、いかに生まれたのか?







◎できないこと


「いや、できない」

糸の試作を行う試紡室では、勤続45年になるベテランの技術者「槇正紀(まき・まさき)」さんは首を横にふるばかり。

「世の中にない糸を作ってほしい」と四代目に言われたのだが、できるわけがない。工場にあるのは古い機械ばかり。なかには昭和30年代から使い続けているものもある。



そもそも今まで、自分たちでアイディアを出して糸を作るということをしたことがなかった。大手メーカーに言われるままに作るのが、自分たちの仕事だったのだ。

しかし、「できないこと」というのは、どこかで人の心をくすぐるものがある。四代目に「こういう糸はできないか」と言われるたびに、ベテラン技術者の槇さんの心はくすぐられていった。



「一つの機械で、太さも色も不規則な糸をつくってくれないか」

四代目は槇さんにそう頼んだ。「できるわけがない…」、そう心の中で思いながらも、槇さんはうなずいた。そして、ひとり密かに試作を繰り返した。

槇さんは機械の部品を手作りして、原料を引っ張る力加減や、糸を通す隙間の幅などを細かく変えていく。なにぶん古い機械なので、歯車やローラーは手作業での調節である。



◎できる


そして4ヶ月後、槇さんは四代目の言った通りの糸をつくってみせた。

しかし、四代目は納得しない。「もっともっと」と、槇さんへの要求は尽きることがない。

結局、2年かかった。最初のオリジナル糸「マグマ」ができるまでに。



そのオリジナル糸は、細くなっていったり太くなっていったり、糸の表情は変転してやまない。四代目が表現したかったのは、「自然の移り変わり」であった。

「色も自然と変わっていくんですけど、どこを見ても色が混ざっているんですよ」と四代目。

その糸に込められていたのは、「モノづくり」にかける自分たちのとてつもないエネルギー。その名の通り、マグマのような膨大なエネルギーが沸きたぎっていたのである。



四代目にとって、オリジナル糸の完成は喜ばしいことであったが、それ以上に職人たちが「できる」ということを確信してくれたことが嬉しかった。

ベテラン技術者の槇さんも、新しい糸を生み出すことに「やりがい」を感じ、「つくりたい」という気持ちが沸々と湧き上がりはじめていた。

「わりと紡績の人っていうのは、すごく真面目で固いんですよね。だから、トンでもないやり方で糸をつくるっていうのは、たぶん受け入れられないんです。でも、そこまで行けたのは、ちょっと自分でも信じられない」と槇さん。



どうやら、最初のオリジナル糸は、凝り固まっていた従業員たちの心を揉みほぐしたようである。

そしてそれはいよいよ、「世界で一つだけの糸」へとつながる布石となっていく。



◎モヘア


四代目・佐藤正樹さんを世界的に有名にしたのが、オバマ大統領のミシェル夫人の「カーディガン」。

ミシェル夫人はこのカーディガンがたいそうお気に召したようで、大統領就任式だけでなく、ノーベル賞授賞式でも着用している。

このカーディガンに用いられたのが、ほかならぬ佐藤さんのオリジナル糸、「世界一細いモヘア糸」である。



モヘアというのは「アンゴラヤギの毛」であり、シルクのような光沢が特徴である。しかし、糸が滑りやすく加工しにくいために、ヨーロッパではウールを混ぜるのが常識であった。

そのため、モヘアを得意とするヨーロッパで作られる糸は、どうしても表面がデコボコで、彼らがつくる糸では綺麗なニットが編めなかった。

きっと、従来のモヘアで編んだカーディガンでは、ミシェル夫人の心を捕えることはできなかったであろう。佐藤さんの挑戦は、「究極のモヘア糸づくり」に絞られていった。



「どうすれば、モヘアで綺麗なニットを編めるのか?」

ウールを混ぜてしまうと、モヘア特有の光沢が損なわれ、その上、ニットの表情がデコボコに汚くなってしまう。

「もしかしたら、今まであり得ないぐらい細ければ…?」



とりあえず、ウールが入っていてはダメで、さらにもっともっと細くなければ、佐藤さんの求めるモヘアにはならなかった。

「まずはウールを混ぜないでつくろう。そっからもっと、細い糸をつくろう」

そのためには、そんな細さにできる毛をもつ「アンゴラヤギ探し」から始めなければならなかった。



◎アンゴラヤギ


同じ動物の毛であっても、気候風土や牧羊家の育て方によって大きな違いが出る。ペルーのアンゴラヤギと、南アフリカのそれとでは明らかな違いがある。

南米からアフリカまで、アンゴラヤギを訪ね歩いて9カ国。より良いモヘアを探し求めて5年、ついに佐藤さんは南アフリカの高地(カンデブー地区)で、そのアンゴラヤギと出会うことになる。



その子ヤギの毛は、これまで見たこともない細さと光沢をもっていた。その繊細さは格別だ。

そのヤギを育てる牧羊家もさるもの、「オレがつくる原料は、世界一だ」という強烈なプライドを持っている。佐藤さんが「こんな糸をつくりたい」と熱く語れば、彼も身を乗り出してくる。

即座に意気投合した2人は、朝まで飲み明かす。「やっぱり、価値観が同じなんで」と語る佐藤さん。「ちゃんと理解してくれる人が現れたときはやっぱり、嬉しいですよ(笑)」。



◎極細


その南アフリカの牧羊家自慢のモヘアは、じつに細い。なんと人間の髪の毛の3分の1という細さだ。

その光沢も素晴らしく、素晴らしすぎてツルツルとじつによく滑る。これだけ滑ると、機械で糸を撚(よ)るのは至難の技だ。



幸い、歴史ある佐藤さんの工場には古い機械がたくさんあった。

「古い機械っていうのは、すごく遅いんですけど、原料に負担をかけない理想的な機械だったりするんですね」と佐藤さん。

丁寧にゆっくりと撚っていったアンゴラ糸の極細の毛。それは1g(はがき一枚)で44mという信じられないほどの長さに縒られていった。



紡績に加えて、染色もまた難題。

従来の染め方では、この繊細すぎるモヘア糸はまたたく間に擦り切れてしまう。試作の段階では、この貴重な原料を100kgもダメにしてしまった佐藤さん。

「もう、ショックでしたね…。正直いうと苦しかったですね…。」



◎打開


幾度となく続く失敗。まったく改善が見込めず、もう一歩も前に進めなくなってしまう。

「もう、ほんとに辛かったですね…」

ドン詰まりにあった染色の解決策を見つけてくれたのは、隣り町(山辺町)の染色工場。ここには昭和の中頃から使われていた古い染色機がおいてあり、昔ながらの「染料に糸を漬け込む方法」を試すことができた。

この方法では、大量の染料が必要となるために効率は悪いものの、極細のモヘア糸を痛めることなく染めるには、この方法をおいて他にはなかった。



そしてついに、細さが従来の2分の1という「究極のモヘア糸」は完成する。独特の光沢、そして風合いは他に類を見ないものであった。

ところがこの「世界で一つだけのモヘア糸」、意に反してまったく売れない。

値段が高過ぎるのだ。普通のモヘアの4倍はする代物だった。



またもや行き詰まった佐藤さんの目は「海外」を向く。

究極のアンゴラヤギは地球の裏側にいたではないか。そしてそこには、佐藤さんと価値観を同じくする人物もいたではないか。

「きっと、世界のどこかには、この糸の価値を分かってくれる人がいるはずだ…!」



◎イタリア


フィレンツェ(イタリア)で開かれる糸の展示会「ピッティ・フィラーティ」。ここには世界の名だたるトップブランドが大集結する。

当然、出展のための審査は厳しい。それでも佐藤さんが送ったサンプルは認められた。それは日本産の工業用糸としては初めての出展となった。



ところが、広大な会場で割り当てられた佐藤さんのブースは「地下のスミ」。誰も来ない。

それでも「目のある人」はいる。佐藤さんのモヘア糸を一目見て、「なんでこんなものが、あなたのところにあるの?」と目を丸くする人が現れた。



きっとその人は名のある大御所だったのか、午前中は閑古鳥だった佐藤さんのブースだが、午後にはどんどんどんどんお客さんが押し寄せる。

「その一番最初に買ってくれた糸で作られたのが、オバマ大統領のミシェル夫人のカーディガンなんです」と佐藤さん。



◎新しい世界観


「おいマサキ! おまえの糸がこんなになったゾ!」

フランスのデザイナーは、そう叫んでいた。それは、佐藤さんの糸で編まれたカーディガンを、ミシェル夫人が晴れの場で身につけたという朗報だった(大統領就任式2009)。

「おまえの糸のおかげで、こんなもんが作れたんだ(泣)!」



「山形で、日本で、今までの歴史があったからこそ、出来た技術」

「困った息子」としか思われていなかった四代目・佐藤正樹さんは、ついに世界へと雄飛した。

「世界のファッションの中に、日本から新しい世界観を発信できました」と佐藤さん。



◎ファミリー・ストーリー


その後、国内市場ではなかなかその価値が認められなかった佐藤さんのブランドであるが、日本を飛び越えて出品したニューヨーク(アメリカ)では高い評価を受ける。

アメリカ人という人種は、代々親の技術を引き継いでいくというストーリーを、すごくリスペクトする(敬意を払う)。

この点、佐藤繊維という町工場のファミリー・ストーリーは、そんなアメリカ人たちの心をガッチリとつかんだ。



佐藤繊維の創業は昭和7年(1932)。もともと養蚕が盛んだった山形の寒河江で、佐藤さんの曽祖父がいち早く羊の飼育に取り組み、手紡ぎの毛糸づくりをスタートさせたのだった。

祖父の代では、近代的な紡績工場を建設。昭和40年頃からニット製品の下請け生産も始まった。しかし親の代になると、中国産の安い繊維の波に押され、みるみる仕事を奪われていく。



四代目となる佐藤正樹さんは、東京の服飾専門学校を卒業後、3年間のアパレル勤務をへて、山形にUターン。

「下請けを続けていては、生き残れない」との危機感を抱いた佐藤さんは、これまで述べてきた通り、オリジナルの糸を開発したというわけだ。困った息子と従業員に嘆かれながらも…。

ちなみに、デザインを担当するのはデザイナーである佐藤さんの妻である。



明治以来の一家のモノづくり。

「80年前から代々、羊を飼うところから、山形で糸作りがはじまったのです」

このファミリー・ストーリーは、ニューヨーカーたちの心を揺さぶらずにはおかなかった。この展示会をキッカケに、日本からも商談が舞い込むようになったのだという。



◎若者たち


かつては地元の高校に求人票を出しても、誰ひとり応募することのなかった佐藤繊維。

しかし今や、全国各地から就職希望の若者が殺到しているという。東京、大阪をはじめ、遠くは九州からやって来る若者も珍しくない。

現在180名いる従業員のうち、その3割は20代というフレッシュさだ。



「もう、今まで見たこともないニットばかりで、すごく『モノづくりをしたい!』っていう気持ちに駆られて入社しました」

若者たちは興奮を隠さない。

「やっぱり、糸がすごい特殊です」

その難しさもまた、やりがいであり、喜びのタネである。



佐藤さんは、県外から来た若手社員たちのために、会社の近くに3つの寮を建設し、そこには今、32人の若者たちが暮らしている。ときには、社長である佐藤さん自ら、若者たちと鍋を囲むことも…。

「地方でも、働きたいと思う場所があれば、若者は集まってくるんです」と佐藤さん。

若者たちが集うほどに、その場所はさらに魅力を増していく。



◎一歩前へ


現在、優秀な若者たちが流出して過疎化してしまう地方が少なくない。それは地方に魅力的な仕事がないからでもある。

若き日の佐藤さんが東京に職を求めたのも、そうした流れの結果であったのだろう。

しかし、佐藤さんは帰ってきた。そして、自分が仕事をつくろうと立ち上がった。



「一番大事なのは、自分自身で一歩前に出ること」

佐藤さんは、そう語る。

「つくりたいんだっていう気持ちをもって」



「やっぱり、自分がやらないと」

山形から世界へ。

佐藤さんが紡ぎ出すストーリーは、まだまだその途上にある。







関連記事:
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名車「フェラーリ」をデザインした日本人「奥山清行」

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出典:NHK 仕事学のすすめ
「北国で紡ぐファッションの夢 佐藤正樹」

posted by 四代目 at 06:25| Comment(0) | 企業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月22日

株は公開すべきか否か。Facebookを襲った洗礼。


「悪魔との取引」

ロイターで金融ブログを担当するフェリックス・サーモン氏は、新興企業による「株式公開・上場(IPO)」を、そんな風に表現した。

というのも、「一瞬のうちに炎上して消え果てていく新興企業」を、彼は無数に目にしてきたからだ。



「上場は『投資家のため』にはなっても、多くの場合、企業自身のためにはならない。それは『短期的な株価の変動』に気をとられて、長期的な成長を犠牲にするように仕向けられていくからだ(フェリックス・サーモン)」

上場へと突き進んだ若い企業は、時として「持続不可能な成長という死のスパイラル」に陥ってしまう。

はて? 若き新興企業に金を出す投資家たちは、「エンジェル投資家」とも呼ばれるが、彼らは天使ではなく、悪魔だったのか?



◎長者番付


先日、経済誌・フォーブスは恒例の「長者番付」を発表した。そのトップは19年連続でMicrosoftのビル・ゲイツ氏。これはもはやニュースになるようなネタではない。飽き飽きするほどの「お決まり」である。

それよりもむしろ注目されたのが、前年の14位から36位へと大きく後退した「マーク・ザッカーバーグ氏」のほうだ。彼は言わずと知れた「Facebook」の創設者である。

ザッカーバーグ氏の推定資産は、前年の175億ドル(約1兆3,600億円)から今年は94億ドル(約7,300億円)へと「ほぼ半減」。万年トップのビル・ゲイツ氏が1年で70億ドル資産を増加させているのに対して、ザッカーバーグ氏は逆に、それを15%上回る81億ドルも資産を減らしてしまっている。

いったい、この一年で彼に何が起きたのか?



◎上場


去年のザッカーバーグ氏にとって、最大のビッグイベントとなったのは、「Facebookの株式公開・上場(NASDAQ)」。サーモン氏の言う「悪魔との取引」である。

FacebookのIPO(新規株式公開)による資金調達額は約1兆2,700億円。これはクレジットカード大手Visa(2008)に次ぐ、アメリカ企業としては2番目の巨大規模。時価総額は最大8兆円以上、Google上場時(2004)の4倍以上の大型上場(過去最高)となる見込みであった。



ところが…、世界を大騒ぎさせたFacebook株は、2日目にして10%以上の急落。その後もさしたる反発もなしに、コロコロと下り坂を降りながら、最安値では一時17ドルをつけた。公開価格が38ドルであったから、この最安値はおよそ「56%減」の悲惨な数字である。

こうして、天使は泣き、悪魔は笑った。株価の急落とともに、ザッカーバーグ氏が長者番付を大きく後退させたのも無理はない。



◎不本意な新郎


そもそも、Facebookが株式を公開して上場する意味はなかった。公開前年度の経常利益は10億ドル(780億円)もあったのだから、上場の最大の目的となる「資金調達」は不要であったのだ。

それでも上場せざるを得なかったのは、ただ単に証券取引所のルールに従わざるを得なかったためである。そのルールによれば、株主が500人を超えると、その企業は株式を公開しなければならなくなるのである。



ザッカーバーグ氏の笑顔は「不本意な新郎のように、ひきつっていた」。

彼は株式公開の悪影響を最小限にとどめるべく、全精力を傾けて奮闘した結果、何とか自分自身の持ち株比率を50%以上に保つことには成功した。

もし、ザッカーバーグ氏の株が50%を下回っていれば、彼は単独で役員を決めることもできなければ、後継者も指名することができなくなるところであった。彼はギリギリで、Facebookを「私企業」のように経営できるラインだけは確保したのである。



しかし、公開された株ばかりは、完全に彼の手から離れた。公開市場で取引される株は、企業の管理下を離れて勝手に取り引きされるのだ。最近「高速化」する株取引は、そのアルゴリズムによって一日何千回と売買されることも珍しくない。

当然、コンピューターが取り仕切るアルゴリズムは、「その企業が何をやっているかなど分かりもしないし、気にもかけない」。企業の「独自性」は蚊帳の外である。



上場後、初の決算となった4〜6月期におけるFacebookの業績は、1億5,700万ドル(約122億円)の「赤字」。

上場関連の費用がかさむことは分かっていたが、投資家らは驚きを隠せなかった。こうして、Facebook上場前に異様に高ぶっていた「ソーシャル熱」は、一気に冷めた。

Facebookの広告収入は前年比32%増、アクティブ・ユーザー数は、前年比で約30%もの伸びを見せていたのだが…。蚊帳の中では、その実績とはまったく別の事態が進行してしまっていたのだ。





◎矛盾


「1933年から1988年くらいまでの65年間、新規公開株はアメリカ資本主義の原動力となってきた(フィリップス・サーモン)」

その重要な資金調達源だったIPO(新規株式公開)は、いまやおかしなジレンマにはまりこんでしまっている。それは、「上場が可能になる頃にはもはや、外部の資金は必要としていない」という矛盾である。



たとえば、Googleは2004年に株を公開する3年前から「黒字」だった。結局
Googleは「そこで調達した資金を一度も使っていない」。

そもそも、多くの起業家たちは以前ほどに資金を必要としなくなっているという現実もある。ITやクラウドの発達によって、企業を立ち上げるコストが飛躍的に下がっているからである。

そのため、若い企業は上場を急がなくなっている。1985年頃までは創業4年以内に株を公開する企業が多かったが、近年では創業10年を超える企業ばかりである。



◎無慈悲な天使たち


「安く買って、高く売れ」

エンジェルと名前がつく投資家たちも、この「ありきたりな打算」からは逃れられない。

「5年、長くてせいぜい10年で全ての持ち分を手放す。あとは『野となれ山となれ』。その企業が数年で潰れようが、100年続こうがお構いナシ。願わくは、投資した額が何倍にもなることを」

天使たちの息は、そう長くはないのである。シリコン・バレーという谷底には、天使に手を離されてしまったベンチャー企業たちが無数、永眠している。



ベンチャー投資家は、ただ見ているばかりではない。時には、「もっと大きくなれ」とツンツンせっつく。そして、「不相応のリスク」を強いるのである。

たとえば、クーポン・サイトの先駆け「グルーポン」。2010年までは、まことに健全な収益率を上げていたのだが、その翌年、突然、収入が1,300%以上の急上昇。

それに反して、その陰では1億4,600万ドル(114億円)もの巨額損失が計上されていた。マーケティングに大量の予算を投下した結果、1,300%も増えた莫大な収益を使い切ってしまっていたのだ。



この異様な様を、「成長のための『生け贄』として、収益を差し出した」とサーモン氏は批評する。

天使たちに危ない橋を渡ることを強いられたグルーポン。それは危険な賭けであった。しかし幸いにも、彼らは見事にこの橋を渡りきる。その結果、グルーポンの時価総額は130億ドル(1兆円)を超え、創業者、CEOともに億万長者になった。



◎落ちた人々


しかし、誰もが彼らのようにうまく橋を渡れるとは限らない。大方はその危ない橋から落ちて、シリコン・バレーの谷底行きとなるのだから。

たとえば、通話サービス会社のAmp'd Mobileは落ちた。不相応の成長を強いられ、支払い能力のない契約者までをも無闇に増やし続けた結果、倒産。

「Amp'dは倒産せずともよかった会社だ。あのような『無謀なペース』で拡大さえしなければ、適正な収益を上げ続けることができたはずだった」と、サーモン氏は苦言を呈する。



あるいは、アパレル関連の通販サイト・ザッポス(Zappos)。ベンチャー投資家たちに圧力をかけ続けられたCEOトニー・シェイ。「経営状態が良くならなければ、『利益の最大化しか頭にないCEO』にすげ替えられるところだった」と振り返る。

追い詰められたシェイの苦渋の決断は、「Amazonへの身売り」であった。彼は「投資家だらけの役員会よりはマシだ」と考えたのである。

Amazonへの売却の結果、シェイは役員会に会社を乗っ取られることは避けられた。しかし、「自身の力で会社を動かしていくこと」はもう諦めなければならなかった。



「巨獣の腹の中にいったん収まってしまうと、買収された企業はほぼ間違いなく、自身のアイデンティティや使命を諦めてしまう」

それはザッポスしかり、フリッカー(Flickr)しかりである。フリッカーはYahooに買収されたことによって、「取って付けたような写真共有サービスへと堕してしまった」





◎蛮勇


1967年のツール・ド・フランス。イギリスのトム・シンプソンは、「酷暑のレースを控えて、ブランデー(酒)とアンフェタミン(覚醒剤)を一緒に飲んだ」。

そのおかげで、彼は限界を超えて走り続けることができた。しかしその快走も「モン・ヴァントゥの坂で『昏睡死』するまでのことだった」。



ひとたび上場してしまうと、投資家たちからは「絶え間ない成長への要求」が加速する。「悪魔との取引」のスタートである。

「問題は、企業が四半期(3ヶ月)ごとの投資家の期待に応えようと、『蛮勇』を重ねることにあります。それが『身の丈に合わない』と知りながらも(リズ・バイヤー、IPOコンサルタント)」



「最善の策」が3ヶ月ごとの成長にあるとは限らない。ときには「長期戦に勝つために、力を温存する必要もでてくる」。

それでも鼻息の荒い投資家たちは、ブランデーとアンフェタミンを一緒に飲ませたがる。そしてそれは、若い企業たちへの無理強いばかりとも限らない。

たとえば、ヒューレット・パッカード(HP)は、「経費削減しか頭にない経営陣」と「株価ばかりを気にして、企業にとっての最善などには目もくれない役員会」によって、呼吸困難に陥っている。

Yahooはいったい何回、「利益の最大化しか頭にない新しいCEO」を迎え入れたことだろう。



◎代替策


「わずかの勝者を見つけるために、多くの敗者に資金を提供する」

ベンチャー投資家にとって、上場する前に企業が潰れるのは「必要経費」にすぎない。シリコン・バレーの谷底を埋める屍たちは、ベンチャー投資家たちに「王家のような富」を与えた”なれの果て”の姿なのだ。



だから、最近の企業は上場したがらない。そんな時、ベンチャー投資家はこう考える。「上場させられなければ、売却すればいい」。

2011年、ベンチャー投資家に支援された企業429社が大手に買収されている。その一方、上場は52社にとどまる。



「もし、あなたがヤル気にあふれる若い起業家で、『上場』も『買収』もイヤだとしたら?」

いま注目を集めるその代替策は「民間市場への参入」だ。



◎民間市場


民間市場(SecondMarketやSharePostなど)では、公開の審査なく株が取り引きされる。そして、公開市場とは違い、誰が株を買い、誰が内密情報にアクセスできるかを企業側がコントロールできる。つまり、「好まざるヨソ者に力を与えずに済む」のである。

投資家にとっての自由は逆に少ない。まず、好きなときに株を売ることができない。売買するには定められたオークションを待たなければならないのである。たとえオークションまでに株価が急降下していたとしても、途中下車は許されない。

また、売買の取引回数も「制限」されている。間違っても、コンピューターの限界にチャレンジするかのように、一日に何千回も売買されることは決してないのである。



システムが企業優先であるため、逆に投資家にはリスキーな賭けとなる。実際、「ほぼ間違いなく、多くの投資家は相当の金を失うことになる」。

あららら、公開市場とはまったく逆ではないか。シリコンバレーの谷底に落ちるのは投資家たちの方なのだ。それでも心配はない。そんなリスキーな賭けができるのは、「名のある裕福な投資家ばかり」。彼らは本当の天使たちなのであるから。

その結果、企業は3ヶ月の呪縛から解き放たれ、公開市場では軽んじられる「企業の独自性」を追求することができるのだ。



◎上場という選択


Googleは、こう言った。「短期的な成長を逃したとしても、長い目で見れば、世界に善をもたらす企業に私たちはなれると信じている。邪悪であってはならない」。

Facebookは、こう言った。「簡単に言おう。金を儲けるためにサービスがあるのではない。良いサービスを提供するために金を儲けるのだ」。



日本でも上場企業は減少傾向にあり、逆に、自らの意志(経営陣による買収)で「上場廃止」を選択する企業が後を絶たない。

IPO(新規株式公開)というシステムで日本に流れ込んできた「アメリカ流資本主義」は、実質的に崩壊しかかっている。IPOという「錬金術」の魔法は解けつつあるかのように…。



◎新たな潮流


そうは言えども、IPO(新規株式公開)を志向する企業はまだまだ多い。ただそれは、以前のような「資金調達」という目的よりも、「世間の注目を集めること」や「優秀な人材を集める」ことのほうに重きが置かれる傾向にあるという。

投資家として生き残っている人種には、じつは保守的な人々が多く、古くからのIPOを目指す企業を贔屓(ひいき)にするという傾向は否めない。



それでも、Inc.誌が掲載する急成長企業を見ると、新しい潮流は明らかである。

1997〜2007年までの10年間、ベンチャー投資家により支援されていた企業は900社。これは急成長企業全体のわずか16%にすぎない。

つまり、ここ10年で急成長した企業の圧倒的多数は、「ベンチャー投資家の金」を必要としなかったということである。



◎不屈


Facebook株の予想をはるかに下回る低迷は、時代の転換点を表しているのかもしれない。同社が被った好ましからざるルール、500人の株主という枠は今、1,000人にまで拡大されようとしている。

アップルの共同創業者、ウォズニアック氏はFacebook上場前に警告を発していた。「株主たちに翻弄されることになるだろう」と。そして、「創造性よりも、日々の収支に追われることになるだろう」と。



「アップルで最も幸せだったのは、『上場する前』だった」とウォズニアック氏は回想する。上場するや、「突然、株主たちが会社に対して『命令』を始めたんだ。自分たちが望んだように事が進まないといって腹を立ててきたんだ」。

スティーブ・ジョブズ氏とともに、ウォズニアック氏は「最高の製品を創造したい」という想いを持っていた。「株主を喜ばせようとしていたわけじゃないんだ」と彼は語る。



幸いにも、アップルはそんな不本意な時代をすっかり過去のものとしてしまっている。

「最高の製品」を送り出し続けているアップル社は先日、その株価が700ドルを超え、史上最高値を更新している。同社の時価総額はいまや「世界一」である。





一方のFacebook、今はIPO(新規株式公開)の洗礼にされされ、低空飛行を余儀なくされている。

願わくは、アップルのごとき不屈の企業とならんことを。

Facebookの歴史は、まだまだ緒についたばかりだ。






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出典:WIRED (ワイアード) VOL.4 (GQ JAPAN2012年6月号増刊) [雑誌]
「さらば愛しき『IPO』」

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