2011年11月25日

ユーロ危機に笑う人、泣く人…。恐ろしくもシナリオ通り。


闇の深まるユーロ危機の渦中にあっても、「大儲け」している人々もいる。

ヘッジファンドを運営する「ルイ・ギャルゴア」氏も、その一人である。

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彼の戦略は、危機が深まれば深まるほどに大金が流れ込む仕組みになっている。

主なターゲットは「CDS(クレッジト・デフォルト・スワップ)」。

CDSというのは、国債にかかる「保険料」のようなものであるから、その国の国債が不安視されるほどに値段が「上昇」する。



具体的なCDSの価格は、国債の「利回り」と連動して上昇するものと考えても差し支えない。

安全な国債ほど利回りは低く(CDSは安い)、危険な国債ほど利回りは高い(CDSは高い)。

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ある意味、利回りというのは、金融商品の「危険度」を表している。

たとえば、利回り「1%」の国債よりも、利回り「10%」の国債の方が危険度が高い。

その危険を承知で引き受けるからこそ、「利子」というご褒美も高くなるわけだ。



CDSは国債の「保険料」であるから、安全な(金利の低い)国債ほど安く、危険な(金利の高い)国債ほど高くなる。

ギャルゴア氏は、このCDSの動きに目をつけたのだ。



彼はCDS(保険料)が安いうちに、ギリシャ国債のCDSを大量に購入。

その後、ギリシャは混迷を深め、ギリシャ国債はみるみる金利が急上昇。同時に、CDSも急上昇。



ギャルゴア氏は頃合いを見計らって、相当に値上がりしたギリシャ国債のCDSを「売却」。

その結果、投資資金は4倍になって帰って来たという。作戦は目論見通り大成功である。



現在のギリシャ国債の金利は30%を超えるという異常な水準である。

ギリシャはこの巨額の利払いに耐え切れず、ヨーロッパに救済を要請。それでも耐え切れず、ついには借金の半分をチャラにしてもらうことになった。

金利が30%を超えるというのは、それほどに危険な水準なのである。



汲々のギリシャを横目に、ホクホクのギャルゴア氏。

さて、次は…、「イタリア」だな。



ギャルゴア氏がターゲットを定める目安は、その国の財政状況である。

借金が多い、経済成長が鈍い…となると、いずれその国の国債は信用を失う。

収入が伸び悩んでいるにも関わらず、借金だけが増え続ける。そんな状況におかれた国家が持続可能なわけはない。

じつにシンプルな考え方である。



現在のユーロ危機とは、そのくらい単純な仕組みなのである。

国の借金が増える。そして、その借金が返せそうになくなる。すると、その国の国債は信用を失い、国債の利回りは上昇する。

ただでさえ払えそうもない借金。さらにその金利が上昇するとなれば、すっかり悪循環。他の国に助けてもらうより他になくなる。

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ギリシャ、アイルランド、ポルトガルは、皆同じ過程をたどってニッチもサッチもいかなっくなっているのである。

そして、次に同じ道をたどるのは…、「イタリアだろう」とギャルゴア氏は目をつけたわけである。



その結果は…、大当たり。

イタリア国債の利回りは急上昇。危険水域である7%を一気に突破(7%越えが救済を受ける目安とされている)。

8年半にも及んだベルルスコーニ首相の脂ぎった首まで吹っ飛ばしてしまった。

このタイミングで、ギャルゴア氏はイタリア国債のCDSを売却。

「グラッチェ、イタリー」

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シャンパンで祝杯を上げながら、次のタヌキの皮を品定めするギャロップ氏。

次は…、「フランス」だな。



現在のフランスの「格付け」は世界最高レベルであり、国債の利回りも低い(安全な)水準にある。

しかし、その最高ランクのフランス国債の信用は、格下であるはずの日本やブラジルなどよりもすでに低くなっている。



つまり、フランスの目下の懸念は「格下げ」である。

アメリカも格下げされる状況にあっては、いつフランスが格下げされてもおかしくはない現状がある。

もし、格下げされれば、フランス国債の利回りが上昇するのは避けられない。



そうなれば、あの悪循環がスタートするのである。

そして、ギャルゴア氏が再び勝利の美酒に酔うのである。



ユーロ危機が騒がれはじめて、すでに2年ほどが経過しているが、この過程は恐ろしいほどに「シナリオ通り」に進んでいる。

ギャルゴア氏は、このシナリオ通りに事を運んでいるだけである。

彼は特別な世界観を持って投資をしているわけではない。新聞やメディアが予測していたような、世間一般の見解のままに動いているのである。

すなわち、ヨーロッパ各国は「分かっていながら」も、衆目が予想した最悪のシナリオをバカ正直に歩んでしまっているのである。



思えば、ユーロ危機が表面化したのは2年前(2009秋)。

ギリシャの政権交代により、ギリシャ財政の予想以上の悪化ぶりが明るみに出されてからだった。



当時、ギリシャは「犬のシッポ」と思われていた。

ギリシャの経済規模は、ユーロ圏の3%にも満たない。

ドイツやフランスなどのユーロ圏の大国がその気になれば、口笛を吹きながらでも軽々と救済できる規模だったのである。



ところが、大国はそうしなかった。

「勤勉なドイツ人が真面目に稼いだ金を、ギリシャ人のバカンスに使われるのは納得いかない」として、容易には救済しなかったのである。

救済はつねに「遅すぎるし、少なすぎる」と非難されがちだった。



そして、現在。

ヨーロッパどころか、世界全体が「犬のシッポ」に振り回されている。

震源地のヨーロッパでは、ユーロ圏中核国であるイタリア、フランス、ドイツにまで火の手が及びつつある。



ユーロ圏の経済規模は、1位ドイツ、2位フランス、3位イタリアである。

すでに火の手は3位のイタリア国債を炎上させている(ちなみに、国債残高ではイタリア国債がユーロ圏で一番多い)。



最悪のシナリオに従えば、次は二の丸フランス、そして遂には本丸ドイツである。

フランスは格下げの影に怯えている。

最強のドイツですら、悪い兆しが現れつつある。



先日のドイツ国債(10年物)の入札は、悪い兆しの一つである。

なんとドイツ国債が「札割れ」である。応札率は61%。つまり4割近くに買い手がつかなかったのだ。

見たことも聞いたこともないほどの異例の事態である(ドイツ連銀が残りの全てを買い取った)。



ヨーロッパ各国は、金融市場に翻弄され続けている。

苛立ったドイツのメルケル首相は、「誰がボスなのかを市場に分からせてやる」と断言していた。

ルクセンブルクの首相は、「拷問の道具なら地下室にある」と言っていた。

また、「アングロサクソンは、ずっとユーロを毛嫌いしており、ユーロを潰す気だ」と言う人もいる。



光の見えないユーロ危機に、ヨーロッパ首脳たちの「被害者意識」は軒並み高まっている。

その様は、あたかも金融市場は「敵」であり、ユーロ危機が悪化を続けるのは、その凶悪な敵のせいだと言っているようである。

「我々は適切な対応をとっている。それでも良くならないのは、市場の悪意によるものだ」



彼らに言わせれば、ギャルゴア氏は悪人の一人であろう。

かのベルルスコーニ首相(イタリア)は、辞任声明で「投機筋の仕業だ」と言っていた。



しかし、投機筋と言われるギャルゴア氏に敵意はない。

投資家として適切な行動をとっているだけだと言う。神の見えざる手の一本である。

「政府は正すべきことを正さなければならない」



かつて、ジョージ・ソロスという大投資家は、イギリス政府を打ち負かした(1992)。

その結果、イギリスはERM(欧州為替相場メカニズム)からの脱退を余儀なくされ、ユーロ導入を断念せざるを得なくなった。



ソロス氏の信念は、「政治統合なしに通貨を統合することは危険である」というものであった。

当時のイギリスは、ユーロ参加へ向けて自国通貨が「高く固定」されており、その悪影響として、経済が後退し、失業率も上昇していた。

ソロス氏は、イギリスのユーロ参加は不利益であると判断したのである。そして、実力でそれを阻止したのである。



現在、イギリスがユーロを導入しなかったことは、ひとまずの朗報となっている。

そして、ユーロ危機の本質には、ソロス氏が懸念した通りの「政治統合なしの通貨統合」の弱点がある。



同じ通貨を使う国々の政治がバラバラであるために、話が一向にまとまらず、一向に進まないのである。

その結果、決断は遅れ、救済は後手後手に回り、火を見てから水を汲みにいっているような状態である。



「政府 vs マネー」の対立構図は、当面続きそうである。

そして、そのトバッチリは確実に庶民に及び続ける。

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ギリシャの街中では、回収されないゴミが山と積まれている。

イタリアの小学校では、雨漏りを直すお金も、トイレットペーパーを買うお金も与えられていない。

それもこれも、政府が生んだ巨額の借金を返すために、削減に継ぐ削減を余儀なくされている結果である。



公的サービスの低下により、身軽な人々はヨーロッパの国を離れつつある。

ギリシャ国民であったヴェルギス氏は、家族ともどもオーストラリアの国籍を取得し、ギリシャを後にした。



ポルトガルのコスタ氏は、「アンゴラに行くかもしれない」と言っている。

アンゴラとはアフリカ南西部の国で、ポルトガルの旧植民地である。

かつては植民地(アンゴラ)から宗主国(ポルトガル)へと人々は移動したものであるが、今やその流れは逆流を始めているようである。

内戦が終結したアンゴラでは、現在石油ブームに沸いており、来年(2012)の経済成長は12%という高い数字が見込まれている。



ポルトガル政府の統計(2009)によれば、約4万人のポルトガル人が国外へ移住している(アンゴラへ2万3,700人、ブラジルへ1万6,900人)。

民間による最新の統計では、その数は倍近くの7万人以上。年々増加傾向にあることがうかがえる。



身軽な国外へ旅立つのは、若いか、才能があるか、エネルギーがあるか、そういった国家としての一番の働き手たちである。

そして、残される人々は…、お金がないか、高齢か…。



日本にも魔の手は確実に回りつつある。

ユーロ危機のあおりを受けて、「厚生年金基金」の多くがマイナスの運用成績である(平均マイナス7.4%)。

運用見込みは5%前後のところが多いのであるから、その差は10%以上。急激な勢いで、厚生年金基金が減少している。

つまり、高齢化社会に黄色信号が灯り始めているのである。



現在、日本国債の金利は世界一低い部類である。

しかし、借金は多く、景気は低迷している。

ところが、日本の通貨・円は、国の景気が悪化しても買われるという世界でも不思議な通貨の一つである。

これには、日本の輸出産業も悲痛な面持ちにならざるを得ない。



たとえば、キャノンは売り上げの80%以上が海外である。

円高に対処するために、徹底して経費、そして現場のムダを削減せざるを得ない。

足の動き一歩=0.8秒、振り向き90°=0.6秒、手の動き20cm=1.0秒…。

涙ぐましいまでにムダを洗い出し、一つでも多くのデジカメを作り出そうとしている。

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かたや、ギャルゴア氏は…、世界が荒れるほどに大金が転がり込んでくる。

世界の乖離は予想以上に激しいようである。



ヨーロッパの空が晴れ上がるのは、いつの日のことであろうか?

現状のままでは、痛みだけが腫れ上がるばかりである。




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出典:NHKスペシャル
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2011年11月12日

お金がなくとも生きて行けるのか? 14年間もそうして生きてきたドイツ人女性の話。


「お金がなくても、生きていけるのか?」

あるドイツ人女性は、14年前、こんな素朴な疑問に直面した。

それ以来、彼女は一円(1ユーロ)も使わずに生きているという。



彼女の名前は「ハイデマリー・シュベルマー」。

もともとは豊かな生まれでありながら、幼少期、第二次世界大戦によって全てを失った。それでも両親は再び事業を成功させ、また豊かな暮らしを取り戻す。

それから、ハイデマリー氏は2人の娘に恵まれ、教師をやりながら、ごく普通の安穏とした日々を送っていた。



娘たちが手元を離れ、老境に入ってからである。

彼女が突然、家屋敷を処分し、スーツケース一つで旅立ってしまったのは。

「すべてが失くなったら、一気に解放された気分で、跳び回りたいほどに嬉しかった。」



当初の計画では一年間ほど、お金のない生活を試みてみる予定であったという。

しかし、食べ物をくれたり、泊めてくれる人々が次々と現れて、あれよあれよと14年間も何不自由なく暮らせてしまったというわけだ。覚悟していた野宿はまだ一度もしていないという。

さらには、講演の依頼やテレビ出演なども次々と舞い込み、彼女のスケジュールは常に満杯である。

当然、彼女は金銭的な報酬を受け取らない。ただ、その日暮らしに必要な最小限のモノだけを受け取るのである。



ハイデマリー氏がこの暴挙を敢行した理由は、「この世界はどこか間違っている」と感じていたからだそうだ。

その間違いを見極めるために、彼女は清水の舞台(金銭の世界)から飛び降りた。

真っ逆さまに落下するかもしれないと思った。

ところが、以前よりも豊かになってしまった。金銭的にではなく、心の世界が豊かになったのだ。

人々の無償の好意により、彼女の人生は新たなステージへと押し上げられたのである。



「人に好意を乞うとは、何と図々しい奴だ」と罵る人もいる。

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彼女は図々しいどころか、人一倍繊細で傷つきやすい。テレビに出るたびに、からかわれバカにされ、すっかり落ち込んでしまう。

なぜなら、彼女には身を守るための理論武装はほとんどない。ただあるのは「理想」だけである。

そんな草食動物のように「か弱い」彼女は、理論的で否定的な人々の「格好の餌食」である。



「確かにお金には頼っていないかもしれないが、すっかり他人に頼りきりではないか」と人は言う。

まさに、その通り。ドイツという豊かな国でなければ、彼女の今の生活はなかったかもしれない。



彼女の人生に対しては、肯定派と否定派がキレイに分かれる。

すごく面白がって、いろいろと手を貸したがる人々がいる一方で、彼女の存在自体を不都合と感じて、無闇に攻撃を繰り返す人々もいる。

それは、この世界がお金に対して、いかに「固定的な価値観」を置いているかの裏返しでもあろう。

現代社会においては、「お金がなければ生きられない」が真理なのである。



「お金がなくても生きている」という存在は、「食べなくても生きられる」というほどに極端で非常識な存在である。

ヘタをすると、世界がひっくり返ってしまうほどに危険な存在でもある。



しかし、そんな恐れは幻想であろう。

現状では、彼女の存在は極々少数のマイノリティーの域を出ることはなく、世界がひっくり返った後でなければ、多数派にはなり得ない。

それでも、人々は「根源的な問い」を突き付けられることに不快感を隠し切れないようである。

「王様は裸である」と彼女は言っているようなものなのだから。



ハイデマリー氏は、人々が喧々諤々の議論をするほどに大それたことをやっているつもりはない。

ただ、世界との接点を「お金から別の何かに変えた」だけである。

普通の人々にとって、外界との出入り口は「お金」しかない。この出入り口を通らなければ、何物をも得ることができないと思い込んでいる。



ところが、ハイデマリー氏はその唯一とも思えていた出入り口を自らの手で鍵をかけてしまった。

それにも関わらず、あらゆるモノが魔法のように彼女の元にもたらされ続けている。

まさに魔法。現代社会だからこそ成し得る魔法であろう。

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彼女の生き方の是非を論ずるだけでは、枝葉末節に囚われて、本末転倒にもなりかねない。

出発点はその「是非」ではなく、彼女の存在をまず認めることだろう。すでに結果として出ているのである。

「彼女にできたことが他の人にもできるのか」という問いも愚問である。彼女は問いの提起者であり、解決策を提示しているわけではない。



もし「お金がなくても生きられるのか」という問いの答えを知りたければ、彼女に答えを聞くことはできない。

自らが答えを探し出さない限り、納得のいく解答は得られないであろう。



ハイデマリー氏はいきなり結論に行き着いた。

「お金がなくても生きていけた」のである。

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我々が頼りにしている「お金という接点」は、頼りになるようにも思えるが、じつは「クモの糸」のようにか細いものなのかもしれない。

現代の競争社会において、その頼りの糸を断ち切られてしまった人々も大勢いる。

世界一の経済大国であるアメリカでさえ、職を失って困窮している人々で満ちているのだ。



現代社会において、お金が入って来なくなることは、水を絶たれるようにツライことだ。

「生きていける」とは到底思えない。そこには「絶望」しかないように思える。



そのお金を持たずに悠々と生を楽しむハイデマリー氏。

お金に困窮している人々にとっては、イヤな存在でもある。まるで、己の無能を曝(さら)されているようではないか。お金にしか頼ることのできない無能を。



一方で、彼女の存在は「希望」でもある。

そんな生き方もあったのかと、目からウロコが落ちたという人々も大勢いる。



ハイデマリー氏が世に現れたことは、現代の必然だったのかもしれない。

彼女の出した一つの解答は、多くの人々が胸に抱いた疑念を晴らすものでもあった。



多くの人々はモヤモヤした疑念を胸に抱えたままだったが、彼女は真っ先に勇気ある一歩を踏み出したのだ。

そして、幸運にも新たな世界に到達できた。



彼女は喫茶店でコーヒーを飲んだ後、レジに向かうのではなく、掃除道具入れに向かう。お礼の掃除をするためだ(お店も了承の上である)。

少し余計に分けてもらったコーヒーを、八百屋さんに持っていくと、野菜や果物を分けてもらえる。彼女が分けてもらうのは、売り物にならずに捨ててしまうようなモノだ。

クズ野菜といえども、食べられないわけではない。選んで盛り付ければ立派なサラダを作ることもできる。

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お金の恐怖から解放されたハイデマリー氏は、誰よりも自由である。

モノやお金があるほうが自由になれることもあれば、モノやお金がないからこそ得られる自由もある。



今の彼女には、お金という命綱が必要なくなってしまった。

それよりももっと頑丈で強固な結びつきを、共鳴してくれている人々との間に育(はぐく)むことができたからだ。



彼女は自分の生き方に確信を持ってはいるが、決して他の人には強要しない。

「思い切ってやってみたら、とは言えません。」



それでも世間の人々は、彼女に関心を寄せずにはいられない。それが肯定的であろうが、否定的であろうが。

それは、彼女の生き方の中に、長らく求めていた何モノかの影を人々が見出すからであろう。

ドイツの大学で実施されている「一週間お金を使わずに生活する」というワークショップに、学生たちはワラシベ長者のような生活を楽しんでいる。

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お金は元々、世の中を便利にするために生み出されたモノだったはずである。

もし、この世にお金が生み出されなかった時の不便は、想像に難(かた)くない。

ところが、その便利なはずのモノで、逆に苦しむ人々が多数いることも現実である。それは現代でも、あらゆる歴史においても。



お金には、その便利さの影に、明らかな不具合いもある。

どうやら、お金は持つ人を「選り好み」するようだ。集まるところにはたくさん集まるという奇妙な性質がある。

「お金様」の意に沿わなければ、その恩恵にはあずかれない。素晴らしい絶対君主である。それゆえに、お金の力は強大化してゆく。多少の歪み(不具合い)はものともしない。

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ハイデマリー氏は、そんな独裁者に対する反逆者である。

そして、お金の生み出した歪み、獅子身中に生きている。



世の中が方向を正す時、それはその歪みにエネルギーが満ちた時だろう。

彼女のお陰で、世の中はより面白くなってきている。



彼女は「お金は一つの手段に過ぎず、決して目的ではない」という綺麗事を、見事に成し遂げてしまったのだ。

しかも、その手段を一銭(1セント)も使わずに。




さて、蛇足ながらに、もう一段踏み込んでみよう。

そうすることで、表面的には貨幣経済の反乱者に思えた彼女も、本質的には貨幣経済の原則を見事に遵守していることが分かる。



なぜなら、貨幣価値の大本には「信頼・信用」があるのであり、彼女の場合は、その信用を銀行口座にではなく、他人の心の内に積んでいると見ることができるからである。

彼女は銀行口座を閉鎖したかもしれないが、その代わりに、彼女を支持してくれる人々の心の内に新たな口座を開設したことになる。

だからこそ、彼女はクレジット(信用)カードを持たずとも、人々に信用を示すことができるのである。



一方、現代社会において、マネーの信用は「名ばかり」のものとなりつつある。

形骸化しているマネーの信用は、危機的状況に対して極めて脆弱である。ひとたび不安視されてしまうと、その信用は一気に急低下してしまう。

昨今のイタリア国債の信用低下は、その好例である。

この薄弱なマネーの信用こそが、過去にアジアの通貨危機を激化させ、近くはリーマンショックの混乱を引き起こしたのである。そして、今、それはヨーロッパで確実に進行中である。



そもそも、信頼関係というのは、危機的な状況にこそ発揮されるべきものではなかろうか。

「敵が攻めてきた!」という時に、一致団結して結束し、見事その危機を乗り越えることこそが美談である。

ところが、「敵が攻めてくるかもしれない…」という憶測だけで、マネーは一斉に引き上げる。これは信頼・信用と呼べるものなのであろうか?



名ばかりであるマネーの信用は、かくも儚(はかな)い。

発祥の発端となったはずの信頼・信用からマネーは一人歩きして、随分と遠くまで行ってしまったようだ。



にも関わらず、我々はマネーを信頼するより他にない。

お金を介してしか、他人の信用を測ることができず、それ以外のルートは半ば閉ざされてしまっているかのようだ。

「そうは問屋が卸さない」とはよく言ったもので、マネーという問屋は他のルートを事実上許してはいない。

そして、「カネの切れ目が縁の切れ目」ともなるわけである。これは古来より日本人が卑しんできたことの一つである。



事実上、マネーに集約された信用は、皮肉にも「無縁社会」という言葉を生んだ。

お金を通しての付き合い以外は疎遠となり、また逆に、それなりのお金があれば、人と接する必要もなくなったのである。



ここで再びハイデマリー氏に想いを馳せる。

すると、彼女はマネーの信頼の原点に立っていることが判る。

しかも、その原点は貨幣が発生する以前の状態である。それは、お互いがお互いを知っているという状態とも言える。

お互いをよく知らないからこそ、ユニバーサルな価値観をもつ貨幣が必要とされたのである。



世界を股にかける大企業ならいざ知らず、たった一人の人間が生きていくだけであれば、それほど広範な信頼を勝ち取ることも必要ない。

親のスネを噛る息子は、親から見放されなければ、それで良い。



縁(つながり)を広げてきたはずマネーは、今、逆にさまざまな縁の息の根を止めてしまっている。

とりわけ、有機的なつながり(信頼)が先に絶たれ、無機的なつながり(数字)だけが健在である。



投資家たちは、投資する国や企業のことをよくよく知らない。知っていることといえば、単なる数字の羅列である。

その数字も、格付け機関や投資顧問、経済評論家などなどの特定の人々が恣意的に練り出したものかもしれない。その数字が正しいのかどうかは、「いざ」とならない限りは知る由もない。

誰が、オリンパスの不正を知っていたのか?



ハイデマリー氏の示唆は意味深い。

貨幣は信頼を失い、数字だけが残っている。

一方、ハイデマリー氏は数字から離れ、本来の信頼に立ち戻った。



マネーの暴走を許しているのは、他ならぬ我々である。

決して一部の投機筋だけが悪者なのではない。黙認・甘受は共犯である。

ハイデマリー氏以外に、マネーを批判することはできないであろう。





「お金への価値観の変化」関連記事:
モノを買わなくなるつつあるアメリカ人。「小さきことは良きこと哉?」。

「マネーの理論」関連記事:
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悩めるギリシャの若き農民。「もはや戦場だ」。そこに現れた不思議な像とは?


リーマンとは明確に異なる「ギリシャ危機」。ギリシャだけなら恐るるに足らず。しかし‥。







出典:BS世界のドキュメンタリー
シリーズ 世界を翻弄するカネ 「お金を持たない生き方」


posted by 四代目 at 09:39| Comment(2) | 経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月10日

悩めるギリシャの若き農民。「もはや戦場だ」。そこに現れた不思議な像とは?


「俺たちは作った作物を『捨てろ』と教わったんだ」

「市場に出すよりもいい値段で『補助金』が貰えるからだ」



ここは「ギリシャ」である。

ヨーロッパ金融危機の震源地であり、返済不能の借金は先頃50%がチャラにされたばかりだ(実際に金融機関がどれほど受け入れるかは未だ不明であるが)。

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年老いた農民たちは、こう言う。

「昔は良かった。補助金が頻繁にもらえた。」

「今の首相パパンドレウの父親が首相をやっていた頃が一番良かった。」



しかし、若い農民たちは、こう思っている。

「昔のツケが今のオレたちを苦しめている。」

「作物を捨てるなんて、お金をドブに捨てるようなもんだぞ。

本当に収穫したばかりのアプリコット(あんず)をあそこの川に捨てに行くんだぞ。」



年老いた農民は、こうも言う。

「昔のドラクマ(ユーロ導入前のギリシャ通貨)は良かった。

ユーロになってからは、さっぱり儲からねえ。」

おそらくは、ドラクマのお陰で儲かっていたわけではなく、昔のほうが景気が良かったのであろうが…。

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若い農民のほうが視野が広い。

「補助金がギリシャの農業をダメにしたんだ。収穫しなくともアプリコット(あんず)をたくさん植えるだけで補助金が貰えた。

だから、みんな土地を広げるだけ広げて、果樹の品質には無頓着だった。

そのせいで、すっかりギリシャの作物の品質は悪くなり、外国から入って来る作物と競争できなくなっちまったんだ。」



日本の農業にも数々の補助金が存在するが、それが農業を救うものなのか、もしくは殺すものなのかは、時の証明を待たざるを得ない。

日本の品質に懸念はなかろうが、その価格となると競争力が疑問視されている。



そんなギリシャの農村で、ある事件が起きる。

紀元前6世紀の彫像の密売により、ある農民が逮捕されたのだ。

その彫像は彼の農地から、偶然出てきたものだった。

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農民仲間たちは、彼の無罪を信じて疑わない。

「アイツはそんなことをする奴じゃねえ。」



しかし、こう言う仲間もいる。

「彼は無一文で奴隷のように働かされていた。

病気の子供を抱え、多額のローンもあった。

誰かに『売れ』とそそのかされたのさ。」



海外ニュースだけでは、ギリシャ危機による国民の苦悩は伝わってこない。

ただ、派手なデモの映像だけが放映されるだけである。

ギリシャの労働組合がアプリコット(あんず)の輸入を阻止しろとのデモもあった。

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「オレたちゃ圧力鍋の中にいるようなもんさ。

鍋の中には積もり積もった色んな事情がギュウギュウに詰まってる。

このままだと、いずれ革命がおきるだろう。」



「家を50軒も持っている閣僚もいる。

長官であれ、閣僚であれ、お偉いさんは皆同じだ。

一番デッカイ寄生虫は政治家なんだ。」



国民の不満のハケ口は行き着くところに行き着く。先日、ギリシャのパパンドレウ首相は辞任を表明した。

しかし、それでギリシャの問題が片づくと思っている人は誰もいないはずである。

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ギリシャ政府はある人物、ノーベル経済学賞を受賞したジョゼブ・スティグリッツ氏に助言を求めた。

彼の言によると、国も金融機関も「損」を隠しておく傾向にあるのだという。




それはアメリカでもヨーロッパでも同じで、その隠しておいた損は、景気が上向いた時に、さりげなく何かと相殺して「なかったこと」にするのだとか。

オリンパスの不正も、まさにこの手法であった。



景気が上向けば、どこかにプラスは現れるかもしれないが、もし、それが現れなかったら?

なし崩しとなるより他にない。

ギリシャ経済に成長の見通しはない。年々、経済規模はジワジワと縮小していくばかりである。



世界がヨーロッパを不安視していたのは、ギリシャを心配していたわけではない。

ギリシャ一国の問題であれば、解決策はいくらでもある。



かつて、アルゼンチンがギリシャと同じような苦境に陥った時には、アルゼンチンを「米ドル」から切り離し、積もり積もった借金を「デフォルト(債務不履行)」にした。

その過程においては苦境が深まったものの、長期的には6年にも及ぶ高度経済成長(年平均9%成長)がアルゼンチンを潤した。



しかし、ギリシャはアルゼンチンではない。

ギリシャはユーロと借金によって、ヨーロッパ各国と複雑怪奇に絡み合っている。

その複雑に入り組んだ中から、ギリシャだけを丁寧に取り出すことは名人芸であり、そんな名人はどこにもいない。

ヨーロッパを繁栄に導くためのユーロのつながりは、蟻地獄へと連鎖的に引きずり込まれる足カセと化してしまった。



そのため、世界はギリシャ危機がヨーロッパ各国に悪影響をもたらすことを心配していたのである。

それは、半ば現実化しており、ギリシャの引きずられたアイルランド、ポルトガルなどは救済計画の最中である。

それでも、これら経済規模の小さい国を救済するのは、ヨーロッパにとってはさほどの苦痛ではなかった。それくらいの資金はあった。



しかし、危機は明らかに大国・イタリアに狙いを定めてきた。

イタリアはヨーロッパ第3位の経済大国(世界でも7位)。この大国を救済するほどの資金をヨーロッパは持ち合わせていない。

イタリアが救済の船に乗ろうとするのは、小舟に象が乗り込んで来るようなものである。



その国がどれほどの危機的状況にあるかを測る指標の一つが「その国の借金(国債)の利回り」である。

国債の利回りが大きいほど、国の信用が低いということになり、余計な金利を支払わなければならなくなる。

イタリアの公的債務は1億9,000億ユーロ(約200兆円)である。



昨夜、注目のイタリア国債の利回りが急騰した。

イタリアが耐えられる限界とされていた6.5%を軽々と突破し、7%までをも超える急騰である。



この7%という水準は、ギリシャ、アイルランド、ポルトガルなどが支援を要請した水準でもあり、イタリアという巨象が船に乗り込んで来る可能性が高まったことになる。

イタリアの諸悪の根源であるとされたベルルスコーニ首相が辞任を表明した矢先、ヨーロッパがホッと一息ついた翌日の急襲であった。



また、イタリア単体での利回りの他に重要な指標もある。

それは、ユーロ圏最強国・ドイツとの利回り格差(スプレッド)である。この差は、ドイツとの信用格差を意味する。

このスプレッドが5%を超えると、危険水域に突入したとみなされ、イタリア国債を融資の担保とする際には、追加の証拠金の支払いを求められるのだ。

このように、利回りの高騰は、様々な弊害も誘発しながら、悪循環のドツボにはまって行くのである。ちなみに、イタリア国債とドイツのスプレッドは5%を超え、すでに一部の金融機関では追加の証拠金を課し始めている。



ギリシャ危機がユーロ中核国にまで波及するのは最悪のシナリオの一つである。

残る大国は、ドイツとフランスしかいない。

そのフランスですら「格下げ」の影に怯えている。今月のドイツの鉱工業生産指数は、ドイツの経済ですら急減速したことを伝えている。



あるギリシャ人は、こう言っている。

「これは金融危機なんかじゃない。もはや戦場だ。

第二次世界大戦よりも酷いことになる。」



農地から偶然顔を出したギリシャ彫像・クーロス。

この彫刻は、のちの華麗なギリシャ彫刻につながる「原点」とも言われている。

真っ正面を向いた直立不動のその姿は、原初的で素朴な力強さに満ちている。

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「クーロスが現れたのは、偶然じゃない。

我々は原点を思い出さなければならないのだ。

思えば、随分と遠いところまで来てしまっている。」



クーロスとはギリシャ語で「青年」を意味する。

おおよそ動きのない像ではあるが、左足が一歩前へと踏み出されている。

静から動への偉大なる一歩である。



2,500年以上も土中に埋(うも)れていたクーロス。

どれほど偉大な歴史であれ、土に埋もれる日はやって来る。

それでも、残るものは残ってゆく。あの農村では、どこの家にもクーロス像が置いてあるのだという。



土中で眠っていたクーロス像は、いったい何を言わんとしているのだろうか?

歴史は大きな転換点を迎えようとしているのかもしれない。

力強い一歩は、どの方向に踏み出せば良いのであろうか?




「ギリシャ」関連記事:
長期化するギリシャ不安。パパンドレウ首相の無欲さは、国を救えるのか?

リーマンとは明確に異なる「ギリシャ危機」。ギリシャだけなら恐るるに足らず。しかし‥。



関連記事:
ユーロ危機に笑う人、泣く人…。恐ろしくもシナリオ通り。

お金がなくとも生きて行けるのか? 14年間もそうして生きてきたドイツ人女性の話。



出典:BS世界のドキュメンタリー
シリーズ 世界を翻弄するカネ 「ギリシャの悲劇〜経済危機と遺跡泥棒」


posted by 四代目 at 08:26| Comment(0) | 経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月20日

「安価尽くし」であった中国の成長モデル。今、その見直しが迫られているようだ。


中国の巨大な経済は、多少なりともバランスを崩しつつあるようだ。

中国東部の温州市(浙江省)では、ここ数週間で多額の借金を抱えて夜逃げする経営者が相次ぎ、ある工場のオーナーは48兆円を超える借金を苦に自殺を図ったというニュースも聞かれた。

温州市はライターとメガネの世界最大の生産地で、昔から「中国経済全体の趨勢を決める都市の一つ」とされてきたため、この都市の変調に凶兆を見る人々も多いとか。



中国は過去30年間、年率平均10%成長という驚異を成し遂げてきた。

20年前(1990)には、中国の一人当たりの国民所得は「サハラ以南のアフリカ諸国の平均を30%下回っていた」というが、今や「サハラ以南のアフリカ諸国の『3倍』」に達しているという。

この成功はひとえに「安価な資本と安価な労働力、安価なエネルギー、そして安価な土地」という、安価尽くめによるものであった。



しかし、かつての中国の成長モデルは大いに変容した。

中国政府は低金利の貸し付けを減らし、労働者の最低賃金は年率20%を上回るペースで上昇。タダ同然の土地はもはや見当たらない。

皮肉にも、中国の急激な経済成長は、すべての価格を大きく押し上げ、成長の基盤であった「安価尽くし」は過去の話となってしまったのである。

中国の国家主席「胡錦濤」氏曰く、「中国は今、不均衡、不調和、そして持続不可能性という深刻な問題に悩まされている。」



中国の持続的な成長のためには、「国内消費(内需)を増加させ、輸出や投資への依存を低下させる必要がある」と中国政府は10年以上言ってきたという。

しかし、国内消費の対GDPは増えるどころか、45%(1990)から33%へと低下し。投資の割合は減るどころか、25%(1980)から50%へと倍化した。

この点、中国の計画は順調とは言い難い。



30年前はGDP比25%の投資で、年率10%のペースで経済は拡大していった。

ところが、今はその倍のGDP比50%の投資をしてようやく、同率の成長を維持するのがやっとである。

つまり、30年前に比べて「投資効率」が大きく悪化しているのである。注ぎ込んだ金が、思うようなリターンを生んでくれなくなっているのだ。



中国は、2008年のリーマン・ショックを実にうまく切り抜けたように見えた。

それは、中国の断行した史上最大の金融・財政緩和策の賜物(たまもの)であった。

しかし、借入金による投資の急増は、その効率の悪化とともに、従来の中国の成長モデルの歪みを増幅する結果に繋がってしまったようだ。



現在の世界経済は、大国・中国への依存が高まりつつあるだけに、今後の中国の動向は世界の命運をも左右する。

現に、中国の成長鈍化が資源の需要を低下させ、原油供給量は下方修正、資源国通貨は下落という現象を引き起こしている。

中国がクシャミをすれば…、の如き様相である。



アメリカの衰退、ヨーロッパの混迷…、世界は季節の変わり目を迎え、新たなバランスを模索しているのかもしれない。

しばらくは寒い季節が続くのであろうか?



posted by 四代目 at 20:16| Comment(0) | 経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月15日

モノを買わなくなるつつあるアメリカ人。「小さきことは良きこと哉?」。

アメリカ国内で興味深い「変化」が見られている。

「ここ50年で初めて、アメリカ人が『前より小さい家』を建て始めた」という。

タイニー・ハウス(Tiny House)と呼ばれる「物置のように小さな家」が人気なのだ。最近だけでも、全米で1,000戸以上のタイニー・ハウスが建てられたという。

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タイニー・ハウスを自分で建てたという「ディー」さん。

建築費用はたったの100万円ほど。同時に太陽光パネルも設置し、月々の光熱費は500円以下に抑えているという。

現在は両手を広げた幅しかない小さな家に住むディーさんも、以前は1,200万円以上のローンを組んで、アメリカンサイズの家に住んでいたという。

しかし、「住宅ローンを返済するために、必死で働く生活」に疑問を感じ始めたのだとか。



「自分にとって、本当に大切なことは何か?」

ディーさんの結論は、ボランディアをしたり、自然を楽しんだりすることだった。



ところ変わって、今度は「タミー」さんの家。

この家には、テレビもエアコンも、冷蔵庫すらない。

家に置くものを「100個以下」に制限しているのだとか。「新しい物を一つ買ったら、必ず一つを捨てるか寄付するかする」というルールがある。

彼女は「物を持たない生活」に喜びを見出しているのである。



そんなタミーさんも、以前の生活は典型的なアメリカ人。

ローン(借金)をしてでも「物を買いまくる」という生活だったという。

しかし、「お金を稼いでは、それ以上に使うという悪循環」に疑問を感じ始めるようになる。

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「幸せとは何か?」

彼女の行き着いた先は、モノを持たないことであった。

その転機となったのは、9.11テロだったという。



こうしたアメリカ人の変化は、ある一冊の本に簡潔にまとめられている。




この傾向を一言でいうと、「スペンド・シフト(消費の転換)」となる。

大量消費の権化であったアメリカ国民が、「量より質を求めはじめた」というのである。

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こうした傾向は、個人レベルを越えて、大企業の活動にも変化をもたらした。

「ウォルマート」という超大型スーパーをご存知だろうか?

世界中に進出し、個人商店をブルドーザーのように駆逐していく巨大資本のスーパーである。



その巨人も、小型店(通常店の10分の1)「ウォルマート・エクスプレス」の出店を広げている。

まるで日本のスーパーのように「慎ましやか」で、棚に並ぶ商品もアメリカンサイズではなく、小分けされた商品ばかりである。

店員たちは、こまめに商品を補充する。その様も、まるで日本である。店員の体格が良いだけに、よけいに商品が小さく見える。

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21世紀に入り、9.11テロ、リーマンショックといった大激震がアメリカを襲い続けた。

巨大な力で揺さぶられたアメリカは、もはや以前のままではいられなくなったのかもしれない。

アメリカ国民は無意味にお金を使うことをやめ、「賢い消費者」へと生まれ変わった。



かつての富の象徴といえば、モノが溢れていること、そして巨大であることであった。

しかし、今のアメリカ人は「小さきこと」へも価値を見出している。



これは、世界にとって朗報であろう。

しかし、経済界にとっては訃報かもしれない。

なにせ、世界経済はアメリカ人の貪欲すぎる消費欲に支えられていたのだ。アメリカ人の個人消費は年間1,000兆円近いとも言われている。

世界経済が惰性でも成長を続けられていたのは、アメリカ人が借金をしてでもモノを買ってくれていたお陰である。



冷静になってしまえば、不確実な将来を「先買い」してしまうのは、大変に危険である。

借金をするということは、不確実なはずの未来を「強引に確定してしまうこと」を意味する。

世界経済は不確実性を嫌う。そのために借金をさせる。借金があれば、石にかじりついてでも働き続けなければならなくなる。

そうすることによって初めて、不確実な未来が多少なりとも予測可能なものと変わるのである。



しかし、この方法論はすっかり破綻してしまっている。

各国の借金は限界を越えてしまい、お金を貸す方も借りる方も身動きが取れなくなってしまっているのだ。

アメリカの消費も行き詰まるとなると、今度は「中国」ということになるのだろう。

それでも、限界があるのは確かである。



限界を迎えるまで気づかないほど人間は愚かではないかもしれない。

人々は気づき始めている。借金という矛盾に。

可能性を広げるはずだった借金が、逆に可能性を制限してしまっている。



マネー中心の世界は、そろそろ回りづらくなってきたのかもしれない。

マネーという軸は、ギシギシと軋(きし)み始めている。

マネー経済を加速させてきた借金という仕組みが、逆にブレーキになってしまっているのだ。



世界は本当に価値のあるものを求めている。

「浪費」をする人が少なくなり、「希望」の持つために消費をする人々が増え始めている。




「お金への価値観」関連記事:
お金がなくとも生きて行けるのか? 14年間もそうして生きてきたドイツ人女性の話。

「マネーの理論」関連記事:
天下に回らなくなったマネー。勝ち目のない籠城戦に突入した世界経済。


出典:WBS 大転換 さらば“消費大国”

posted by 四代目 at 15:05| Comment(0) | 経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする