2012年07月07日

「豊かさ」は測れるのか? GDPへの疑問と挑戦。


その国の「国力」を表す最大の指標は、現在、GDP(国内総生産)という数字である。

この数字によれば、世界最大の国力を有する国家はアメリカであり、日本のGDPは10年も20年も失われたとされ、挙げ句の果てに数年前には中国に追い抜かれて3位に転落した。

名目GDP(USドル)の推移(1980〜2012年) - 世界経済のネタ帳


しかし、このたび国連が示した新しい指標を見ると、なんと日本は世界最高の「人材」を有している国家であると高く評価されていた。

3.11 大震災の大混乱時における日本国民の「立派なふるまい」は世界を刮目させることにもなったわけだが、今回の指標はそのご褒美ではなく、国民の教育や労働熟度などを勘案されたものであった。

この指標に従えば、日本は依然として中国よりも豊かな国家であり、両国の間には、2.8倍という厳然たる開きが存在する。



◎GDPが見るのは足下ばかり


GDP(国内総生産)には欠陥が多い。まず、この数字の視野は恐ろしく狭い。長期的な展望はまるでなく、まるで足下だけを一生懸命に凝視しているかのようである。

たとえば、山の木々を無思慮に伐りまくれば、のちのちの災いとなるであろうことは、想像に難くない(土砂災害、大洪水…)。しかし、GDPの数字に限れば、山の木々を伐れば伐るほど、その数字は見事に上昇していくのである。

これが中国であれば、木々を伐りまくって手っ取り早くGDPを上げることが、共和党内の昇進にもつながることになる。逆に山の木々を一生懸命に守ったとしても、GDPの数字は一向に上昇しないため、その行為は政策立案者にとっては一文の価値もない。

ここで問題なのは、GDPだけを競えば、山をハゲ山することが促されてしまうことであり、後々の災禍は無視されてしまうことである。子々孫々のことなどは蚊帳の外ということだ。




◎アメリカの抱える影


また、GDP(国内総生産)の数字は、「量」を注視するばかりで「質」を問わない。たとえば、アメリカの莫大な「医療コスト」は、先進国平均の2.5倍にも達するというが、この大きなコストは同国のGDPの伸びに大きく貢献している。

しかし、冷静な目で見れば、病気や肥満の人がたくさんいる国家が強力な国家とは思えない。それゆえ、専門家の多くは、アメリカの競争力低下を「肥大化する医療コスト負担」に求めるのである。さらに悪いことは、世界一お金のかかるアメリカの医療が、世界最高ではないことだ。



別の例では、リーマン・ショック(2008)の遠因ともなった住宅問題も挙げられる。庶民に返せないほどの借金を負わせることは、一時のGDP上昇という恩恵をもたらす。

しかし、かわいそうな庶民にその借金が返せないと分かった時には、社会全体がとんでもないシッペ返しを食らうことになる。これがサブプライム問題であり、世界をドミノ倒しにした金融危機である。この時にアメリカの住宅市場が負った深手は、いまだに膿んだままである。

後先考えないで、その時の大量生産・大量消費ばかりを生んでしまうのは、GDP偏重による不利益の一つであろう。お金でも資源でも、使えば使うほど、GDPの数字は上がるのであり、それが枯渇した時のことは、高い棚の上に乗せられたままなのである。



◎どんなに不美人でも勝てるコンテスト


少し覗いて見ただけでも、GDP(国内総生産)の不備はポロポロとこぼれ落ちてくる。これは万民の認めることでもあるにもかかわらず、依然GDPの数字は絶大な権勢を誇り続けている。なぜなら、それに変わるほど有力な指標がいまだ存在していないからである。

よく言われるように、GDPは「不美人(ugly)コンテスト」の勝者なのであり、世界一の美女だから選ばれているわけではなく、その対抗馬が醜すぎるのである。





◎質より量のGDP


単純化してしまえば、GDPの問題は「金銭の流れ(フロー)」にのみ着目し、「富の蓄積(ストック)」には無関心なところに根ざしている。そのせいで、その視点はごく短期的、近視眼的なものになってしまい、流れの量ばかりを追って、その「質」を問わなくなってしまうのである。

その結果、GDPの概念には「幸福・健康・安全・永続性」などの基本的な要素が完全に欠落してしまっている。ブータンというGDP世界163位の国家が、「国民総幸福量(GNH)」という新しい尺度を提唱するのも、ゆえなき話ではない。





GDPの数字だけを追っていては、世界は自らを不幸にしてしまいかねない。

しかし悲しいかな、その先が断崖絶壁だと知っていながらも、その数字を後押しする力があまりにも強力であるため、世界はGDPの矢印が示す方向に突き進んでいくしかないのが現状である。

そして、分かっていても崖からストンと落ちてしまうのだ。リーマン・ショックのグラフのように…。




◎GDPが産声を上げた時代


現在では褒められることの少なくなったGDPではあるが、この数字が考案された80年以上前の時代にあっては、大変に有り難い数字だった。

時は1930年代、世界は大恐慌、そして大戦争の時代、人々は先行き真っ暗な不安におののき、右往左往するばかりであった。その時代、ロシアに生を受け、アメリカで教育を受けた「サイモン・クズネッツ」氏が考案したのが、GDP(国内総生産)という新しい指標だった。



当時の数字は、現在ほどに洗練されていない粗いモノであったが、それでもその効果は絶大であった。この数字のおかげで、平均的な景気後退の長さは、それまでの21ヶ月から11ヶ月へとほぼ半減し、その周期も4年に一度から5年に一度へと、より緩やかなものになったのだ。

銀行への取り付け騒ぎ、金融パニック、恐慌に陥る回数が減少したのも、確かで全体的な数字、GDPが下支えしたお陰だとも言われている。この数字があってくれたお陰で、人々の心に生まれる疑心暗鬼という鬼は、その力を大きく弱められたのであった。

※サイモン・クズネッツ氏は、その功績もあり、のちにノーベル経済学賞を受賞している(1971)。



◎もともと、旗振り役ではなかったGDP


GDPの生まれた背景をみると、この数字の意義も見えてくる。

その役割は、人々の先の見えない不安を抑えるという「縁の下の力持ち」的な要素が強い。そして逆に、旗を振って人々を先導するのは苦手なのである。時々、崖に向かって世界を誘導してしまうのだから…。





かつてのGDPの数字は、古いデジカメのように画素数の粗いものだったとはいえ、その意図を違えることがなかったために、その役割を十分に果たしえた。

しかし、現在のGDPの数字は80年前よりも格段に洗練されたとはいえ、どこか違うレールに乗せられてしまった感もある。そして何より、時代は80年前からダイナミックに変動しているのである。



◎新たな経済指標の模索


数年前、フランスのサルコジ前大統領は、GDPに代わる新しい経済指標の叩き台を発表した。ここには、GDPにはない「豊かさ」を測るという意図があった。

この新たな指標作りのために、サルコジ前大統領が白羽の矢を立てたのは、ノーベル賞を受賞している「ジョセフ・スティグリッツ」氏。彼はアメリカのクリントン政権時代に経済顧問を務めていた人物でもある。

ここで面白いのが、スティグリッツ氏はフランスで取り上げられた同じ提案をアメリカでも行い、それが却下されているところである。アメリカでは「大きな政治的抵抗」に遭って、彼は挫折しているのだ。



というのも、GDPという指標の下では世界一のアメリカも、別のモノサシで測れば世界一とは限らない。とくに「豊かさ」などが絡むと、アメリカはベスト10にも入れないのが常である。

「豊かさ」に強いのはヨーロッパ。とくにノルウェー、スウェーデン、アイスランドなどの北方系はとりわけ強い。モノサシを変えれば、フランスが世界一になることもある。GDP懐疑派がヨーロッパに多いのはこのためだ。



アメリカでは所得が高くとも、生活費として消える金もまた多い。一方、フランスでは有給休暇の多さや退職時期の早さもあり、フランスのGDPの数字はその豊かさを過小評価してしまう。

年をとっても休まずに働いた方が、よりGDPに貢献することとなるが、それが果たして「豊かな生活」なのか? GDP では世界一になれないフランスは、それを問うて、新たな指標を提示したのである。



◎人間の豊かな日本


今回、エコノミスト誌が注目した国連の指標も、やはり「豊かさ」を問うものであり、特徴的な点は、「人的資源」と「自然環境」に重きを置いている点である。

この指標で見ると、アメリカの富はGDPの10倍(9500兆円)にも及ぶ。しかし、それでも一人当たりに換算すれば、日本のそれには及ばない。日本の人的資本は、他のどの国よりも多いのである。

※国連による人的資本の計算に、「平均教育期間、労働者が得られる賃金、彼らが引退する(あるいは死ぬ)までに働くことを期待できる年数」などを用いている。





◎自然を守った日本


日本の美点は「人材」ばかりではない。1990〜2008年にかけて、日本は「自然資本を消耗しなかったわずか3カ国の中の一つ」でもあった(残りの2カ国はフランスとケニア)。

日本は、石油や鉱物などの資源をもたないといえども、その国土の大半は豊かな森におおわれ、清らかな水と空気に恵まれている。そして、その美しい自然環境は、幸いなことにここ30年間は消耗していなかったというのである。



自然資本の消耗が激しい国家は、ロシア、コロンビア、ナイジェリア、サウジアラビア、南アフリカ、ベネズエラなどなど、世界に名だたる資源国であった。

逆に言えば、日本には資源がなかったお陰で、もしくは森林などの開発にお金がかかりすぎるがゆえに、その自然が守られたとも考えられる。



◎代替可能な3つの資産


国連の指標は、物的資本、人的資本、自然資本の3つのカテゴリーに分かれているのだが、この3者は金銭価値に換算することで入れ替えが可能である。

たとえば、サウジアラビアは自然資本である石油を3兆円分も消耗したが、その替わり、教育の充実により人的資本を80兆円分も増加させている(1990〜2008)。つまり、石油を売ることにより、その27倍も人的資本が豊かになったのである。

掘ればいずれなくなる石油でも、それを人的資本に変えて貯めておくことが可能なのだ。



◎本当に代替は可能なのか


「モノ・人・自然」の3者が、お互いに入れ替え可能であるという発想は実にユニークなものであるが、この点に関しては異論も多い。

なぜなら、一度失われた自然を再生するためには、どれほどの年月、どれほどの労力が必要になるかは、正確には計測できないためでもある。「自然資産はうまく値段を付けるのが難しいことや、まったく値段が付けられないことがよくある」。

そのため、国連のいう自然資産というのは、化石燃料や鉱物、木材などの「市場価格が存在する資源」に限られている。所有することも売買することもできない「キレイな水や空気」などは除外されている。



◎ミツバチがつくるのは蜜ばかりではない。


自然に「値段を付ける」というのは、よほどに難しいようで、さすがの経済学者たちもこの点ではだいぶ苦労しているようである。

聡明な経済学者たちは、ミツバチが作る「蜜」には値段が付けられるが、ミツバチが植物の受粉を手助けする「サービス」には値段が付けにくいことを知っている。

明らかなモノとして存在すれば、容易く値段を付けられるのだが、失って初めてその価値が分かるモノには、値段が付けにくいのである。

Source: flickr.com via Mark on Pinterest





この点、国連の指標は不完全ではある。

しかし、値段が付かないモノに値段を付けようとする姿勢は高く評価されている。結局、ヒトは数字となって目に見えない限り、その価値を信じることができないのであるから。

80年前に考案されたGDPとて、そのスタートは完全ではなかった。ただ、その方向性の明瞭さから、何十年もかけて洗練されてきたのである。それと同様、スタートアップは大局を示すだけでも十分価値があるのである。



◎人は石垣…


かつて、武田信玄は「人は石垣、人は壁、人は堀」と言って、人こそが「国の基(もと)」であると考えていた。たとえ時代が変われども、「世界の当局者たちは、しばしば自国の最大の資産は人である」と言っている。

今回の国連の指標をみれば、それは明らかな事実である。世界のほとんど全ての国において、3つの柱(モノ・人・自然)のうち、人的資本が最大の資産となっている。

人的資本は、イギリスで90%、アメリカ78%、日本で73%もの比重をもつ。人的資本が最大の資産でない国は、世界に3カ国(ロシア・サウジアラビア・ナイジェリア)。いずれも石油に恵まれた国家ばかりである。



◎資源よりも長寿命な国家


日本の泣き所は、長らく「資源の少なさ」であったわけだが、この欠点は逆に日本の自然を守り、人間を育てる結果につながったとも考えられる。

たとえどんなに石油に恵まれていようとも、その栄華は100年も続くものではない(いずれ枯渇してしまうのが分かっているのだから)。その資源の短命さと比較すれば、国家の寿命はずっと長い。ギネス記録の日本国家は2600年以上だ。

そんな長寿命の国家の行く末を考えたとき、100年ももたない資源に依存することはどれほど危険なことなのか。それはあたかも短くなり続ける「背もたれ」に体重を預けているようなものである。



それでは、人の教育というものはどうなのか。

たとえば、人を導く世界宗教の歴史は軽く1000年を超えている。哲学や思想に関しても、何百年も前の書物がいまだに深い意味を持っていることも珍しくない。

今回の国連の指標において、「日本人」の価値は高く評価されたわけだが、それはこの国が2600年以上かけて育んできた何かしらかの蓄積の成果なのだろう。



◎小さくなった世界


モノが豊かであれば、その暮らしは消費的になり、逆にモノがなければ、そこには生産・再生・持続する知恵が生まれる。

アメリカという大国が消費的であるのは、その国土が豊かであるためであろうし、日本人が水を贅沢に使うのは、その国土に水があふれるほどあるためであろう。



幸か不幸か、世界のモノには終わりが見えつつあるものがある。そして、少なくなったモノは大事にせざるを得ない。経済原理から言えば、希少なモノの値段は上がり、それは無駄に浪費されなくなる。

もし、自然に値段がつけられるのならば、それが失われていけばいくほど、その経済的な価値は高まることになる。



◎岐路、ふたたびか


かつてGDPが考案された時、世界は岐路に立たされていた。

そして今、他の指標が求められているということは、世界はまた別の岐路までたどり着いたのかもしれない。



モノを選ぶのか、人を選ぶのか。

そして、自然とどう折り合いをつけていくのか、という岐路に…。

現代文明という大食漢は、そろそろ食べてばかりもいられないようだ。






関連記事:
無知のヴェールの中で想う「富の格差」。

石油大国のサウジアラビアが石油を輸入する日。

森に生きた縄文人。森を伐って稲を植えた弥生人。「あがりこの森」の示すものとは?



出典・参考:
The Economist「The real wealth of nations」
Foreign Affairs Report「GDPは万能ではない。だが、代替経済指標はあるのか?」
“Inclusive Wealth Report 2012”
Newsweek「サルコジが推す『豊かさ』新指標」

posted by 四代目 at 13:15| Comment(0) | 経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月04日

ブータンの「わらしべ長者」は何も持たない。それで十分満足だ。


昔々あるところに、「ヘレー」という陽気なお爺さんがおりました。

ある時、山仕事をしていたヘレー爺さんは木の根っこの下から、それはそれは立派な「トルコ石」を掘り出しました。



そのトルコ石を持って村に戻ってきたヘレー爺さん、村の人に声をかけられ、そのトルコ石を「馬」一頭と交換しました。

さらに、へレー爺さんは馬を「牛」に、牛を「羊」に、羊を「ニワトリ」へ、次々と交換していきます。



ニワトリを抱えたへレー爺さん、さらに歩いていると、遠くの方からとても美しい「歌声」が聞こえてきます。

その歌声に惚れ惚れしたへレー爺さんは、こう言います。

「その歌を教えてくれんか。このニワトリをやるから」と。



ニワトリと「歌」を交換したへレー爺さん、手元には何もなくなりました。

それでもへレー爺さんは「幸せ」です。

その歌を歌えば、村の人みんなが喜んでくれるのですから。



この話は「ブータン」という国に伝わる昔話である。

日本人ならば、この昔話とよく似た話を知っている。

他ならぬ「わらしべ長者」の民話である。



しかし、へレー爺さんとわらしべ長者は決定的に違う。

日本のわらしべ長者が最初は価値のなかった「わら一本」を「立派なお屋敷」にまで交換していくのに対して、ブータンのへレー爺さんは最初に高価な「トルコ石」を手に入れていながら、どんどん価値の低いモノに交換していき、最後には手元に何も残らないのである。

へレー爺さんのお話は、言うなれば「逆わらしべ長者」である。



ブータンという国は「経済小国」ではあるものの、国民一人一人の満足度が極めて高い国として、近年とみに世界中から評価されるようになった国である。

※ブータンの国民一人当たりのGDPは、日本の20分の1以下。調査対象181ヶ国中、122位。

決して豊かな生活を送っているわけではないブータンの人々。しかしなぜ、ブータンの人々は自分たちの生活に高い満足を感じているのか?

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その秘密が、へレー爺さんにあるような気がする。

へレー爺さんは「トルコ石」を掘り当てなくても、すでに幸せだったのだろう。

ただ、それを欲しいという人がいるから交換していっただけなのだろう。交換した人たちの喜ぶ姿を見るのが、へレー爺さんにとっては嬉しかったのかもしれない。

全部の持ち物を人にあげてしまったへレー爺さんは、最後に「歌」というとっておきのご褒美を手に入れた。

モノはあげればなくなってしまうけれども、歌ならば自分が歌う限り、いつでもみんなを喜ばせることができるのだから。



ポブジカ谷の村長は、こう語る。

「自分が幸せになりたいなら、他の人や他の生き物の幸せも考えなければなりません。

自分よりも弱い立場のものを大切にするのです。」



ブータンの人々にこんな質問をすると、その国民性が浮き彫りになる。

「自分さえよければ良いと考えたことはありますか?」

じつに78%の人々が「絶対にない」と答える。さらには同程度の人々が「他人を羨ましいと感じたこともない」と答える。

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彼らが自分単独の幸福を望まないのは、「地域のつながり」が密接であることも深く関係している。

同じ村の人々の連帯感は極めて強く、まるで同じ家族かのように、他人の家にも自由に出入りするほどである。



「困った時、何人の人が助けてくれますか?」

この問いに対して、64%の人々が「8人以上」と答え、「誰もいない」と答えるのは1%にも満たない。

その助けが「金銭的なもの」であったとしても、国民の半数以上の人々が「3人以上が助けてくれる」と答えている。

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ブータン政府の高官は、こう話す。

「他国をよくよく観察すると、世界のゴールがGDP(お金)にしかないことが分かりました。しかし、それでは『不十分だ』と我々は感じます。

お金が一番と考えれば、それには『終わり』がありません。より速い車、より大きな家、より素敵な服が欲しくなるだけです。

お金が与えてくれる喜びや楽しみは『一時的な感情』にすぎません。我々が目指すのは、もっと『長期的な満足感』なのです。」

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おっしゃる通り、お金で得たモノからは「その時の満足感」は得られるものの、そこからさらに「もっと良いモノ」が欲しくなり、結果的には「不満足」を増すことにもつながってしまう。

さらに悪いことには、相手の持つ「もっと良いモノ」を羨望、嫉妬してしまうことすらある。



GNH(国民総幸福)委員会長官は、こう語る。

「幸福は木の後ろや家の中、お寺にあるものではないのです。探せば探すほど見つからないもので、探すのをやめた時にようやく見つかるものなのです。

『自分の中にあるものを知ること』、それが幸福なのです。」



日本に来日したブータン国王は被災地・福島を訪問した際、子供たちにこう語りかけた。

「私たち一人一人の心の中には『竜』がいます。

その竜は私たちの経験を食べて育ちます。私たちは心の中の竜を大切に大切に、何年も何年もかけて強く育てなければならないのです。」

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国王の言う「竜」は、GNH委員会長官の言う「自分の中にあるもの」に他ならないのだろう。


ブータン王室はなぜこんなに愛されるのか


そう言えば、わらしべ長者も観音様にこんなことを言われていた。

「初めに触ったものを大事にしなさい」と。

観音様にそう言われた男は、初めに手にした「わらしべ」を大事にするあまり、その先に結びつけたアブを欲しがる子供を前にしても、そのわらしべを子供に譲ろうとはしなかった。

それでも、男が初めに触ったものがたまたま価値の低い「わらしべ」だったからこそ、男はわらしべを手放す気にもなった。



しかし、それが「トルコ石」のような高価なものだったら、男はそれを譲ったであろうか?

貧乏人だった男の心のままであったのならば、それは決してできなかったであろう。



観音様がおっしゃったのは、自分の持っているもの、もしくは身近にあるものを大事にしなさいということだったのだろう。

そして、それを欲しがる人やそれを喜ぶ人がいるのならば、それを与えてやることでもあったのだろう。人にあげることで、そのものの価値が上がるのならば。



冒頭のへレー爺さんもわらしべ長者も、その物語の帰結は全く正反対でありながら、その心根は同じところに根差しているような気がする。

どちらの物語も「自分だけが良ければよい」ということを暗に戒め、より長期的な満足を得るには「他者を満足させなければならない」と教えているようだ。



わらしべ長者は最後に「大きな屋敷」を得て、へレー爺さんは「歌」を得た。

表明上は両極端な持ち物を得た二人ではあるが、その途上で多くの人々を満足させていったことに変わりはない。

その違いは、わらしべ長者は最初幸せでなかったのに対して、へレー爺さんは最初から幸せだったことであろう。


幸福王国ブータンの智恵


さて、話を再びブータンに戻そう。

先のポブジカ谷の村には「ツルの舞」という伝統的な踊りが代々受け継がれている。

その歌に耳を傾ければ、こんな言葉が耳に届く。



「♪ ツルが翼を羽ばたかせる時、人の罪は清められる♫

♫ ツルは人の罪を清めながら世界を回る♪」



この土地の人々は、鶴は人の罪を清めるとして、とても大切に思っているのである。毎年、村に飛来する鶴は村人たちの喜びでもある。

だから、チョットでも鶴が村に来るのが遅れると、みんな心配して鶴の話ばかりをするのだという。

「鶴がいるだけで、本当にホッとした気持ちになれるんです」と村人は言う。

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そのツルを大事にするあまり、この村の一部には長らく「電気」が引かれなかった。

なぜなら、その地域に電気を引こうとすると、その電線は「ツルの集まる湿原」を横切らざるをえず、それはツルたちの邪魔になると慮(おもんぱか)られたからである。

それでも、電気の来なかった住民は文句一つ言わなかった。小さな灯油ランプで十分満足していたのである。



そんな話は海を越えて、遠くオーストリアの地に伝わる。

この話に感銘を受けたオーストリア政府は、その村への資金援助を申し出て、電線を地中に埋める工事を買って出た。地中であれば、ツルの邪魔になることもない。

なんとも微笑ましい「ツルの恩返し」のようなエピソードではあるまいか。



別名「風の谷」とも呼ばれる美しいポブジカ谷。

その村の人たちは、ツルの話に見られるように、そこに生きる動植物をも他人を大切にするように大切にしているのである。

家畜も「飼っている」というよりかは、一緒に「住んでいる」といった風情で、寒い日などには、牛のエサを大鍋で温めてから与えるほどである。

先の村長の言葉通り、村人たちは「自分たちよりも弱いものたちを大切にしている」のである。

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我々先進国の住人は、ここで考えさせられる。

私たちの幸せは一時的な感情を満たすだけのものではないのか?

そして、その一時的な幸せはどこかの弱い人々を不幸しているのではあるまいか、と。



「嬉しい・楽しい」を一時的な感情と切って捨てるブータン政府は英邁である。

それらは「不満足」を助長するだけかもしれないのだから。

そのブータンの標榜する「長期的な満足感」こそが、今の世界に欠けているものなのかもしれない。



手に入れれば入れるほど、失うリスクの高まるものが「長期的な満足感」を人々に与えることはできるのだろうか?

いや、むしろ「満足を他から与えられる」という発想自体が、すでに満足に背を向けてしまっているのかもしれない。「竜」は誰の心の中にもすでにいる、とブータン国王は言うのであるから。

とどのつまり、「わらしべ」も「トルコ石」も必要なかったのである。それらは単なるキッカケに過ぎなかったのだ。





ブータン、これでいいのだ



関連記事:
親日国家ブータン。その友好の礎を築いた日本人「西岡京治」。

お金がなくとも生きて行けるのか? 14年間もそうして生きてきたドイツ人女性の話。

出典:地球イチバン
地球でイチバン幸せな国 ブータン




posted by 四代目 at 05:45| Comment(0) | 経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月28日

相手がいないと思うからこそできる「独り占め」。盲(めくら)になった現代金融。



「お金のない世界」

カメルーン(アフリカ)の「バカ族」は、そんな世界に生きている。

男たちは森で狩りをし、女たちは果物や木の実を集める、いわゆる「狩猟採集」の世界である。



男たちが獲物を仕留めてくるや、その獲物は即座に解体されて、村のみんなに分け与えられる。獲物を獲ってきた人たちの取り分が多いわけではなく、獲物の様々な部位は「几帳面なほど平等に」分配されている。そして、村で待っていた人々は、「当然のように」それらの分配に預かる。

「みんな平等」、それが彼らのルールである。

彼らの中には、「独り占めしよう」という人間はいないのだ。「独り占めなんかしたら、みんなに軽蔑されますよ」

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さて、こうした世界に「お金」が入ってきたら、一体どうなるのか?

お金の持つ、その特有の価値に気づいた人々は、きっと驚いたに違いない。「何とでも交換できるではないか!」

その時の彼らの脳ミソの中を覗けるのならば、きっと「腹側線条体」が活発に活動しているはずである。腹側線条体というのは、人間の快楽を司る部位であり、人間の「果てしない欲望」を刺激する部分でもある(中毒症状にも関係が深い)。お金を儲ければ儲けるほど、腹側線条体の活動は増々活発化していく。

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バカ族のムテさんは、森で「ペケの実」を集めてくるのを得意としていた(ペケの実は調味料になる)。この貴重な木の実を集めるのには、森の奥を広範囲に探し回らなければならず、数ヶ月もかかるという大仕事だ。

そんな大仕事から帰ったムテさん。いつもなら、みんなの家に「平等に」ペケの実を配って歩く。ところが、今日ばかりは様子が少し異なるようである。彼の向かった先は、都会から移住してきた商人のもとであった。

そして始まったのが「値段交渉」。

「いくら?」と商人が聞く。「2000」と答えるムテさん(2000セーファーフラン=400円)。「もっと安くしてよ」と商人。「ダメだ」と無下な回答のムテさん。初めての交渉を強気で押しまくったムテさんは、結局最初の言い値で交渉を成立させる。



「ペケの実を売ったのは初めてです」、とムテさん。

「村の人々には、申し訳なく思っています。でも、どうしてもお金が必要だったのです」、とも。

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お金を手にしたムテさんの向かった先は、とある商店。その店で、「石けん」と「塩」を買い求め、家へと戻る。

夫の持ってきた「便利なもの」に満足気の妻。「まだ、お金が残っていて幸せです」



ムテさんは、さらなる野心を抱き始めている。「カカオ」を栽培して、それを高値で売るという野心だ。

いつもは一緒に狩りをする仲間たちを呼んで、カカオの木々の下草を刈るように指示するムテさん。今までは、「平等な狩り仲間」だった関係が、いつのまにか「主従のような関係」になっているようだ。

狩猟採集という生活スタイルにおいては、「何でも平等」という横並びのルールに何の疑問も抱かなかったバカ族の人々。ところが、そこに「お金」が紛れ込んできたことによって、明らかな「上下」の概念が芽生え始めたのだ。俗にいう「持つ者」と「持たざる者」による、格差関係である。



狩猟採集生活では、獲物や収穫物を保存して貯めておくには限界がある。そのため、「独り占め」する者がいたとしても、それには明らかな限界があった。ところが、「お金」という便利なものは、「ほぼ永久に」保存して貯めておくことが可能である。

お金が入ってきたことで、「その日暮らし」に終始していた狩猟採集スタイルから、「明日を考える」未来型の発想が生まれてきたのである。そして、その「明日」は際限なく未来へと拡張されていく。未来が拡張すればするほど、より多くのお金が必要になる。幸いにもより多くのお金を手に入れることができた人々の欲望は、野火のような広がりをみせる。



幸か不幸か、人類はある時、お金のもつマジックに気が付き、それにすっかりと魅了された。

「アテネ(ギリシャ)」は、お金のもつマジックによって大いに栄えた都市国家である。紀元前487年、アテネ郊外で発見されたラウレイオン銀山は、コインの原料となる「銀」を大量に提供してくれたのである(昔は金よりも銀の価値が高く、金にも銀メッキが施されたほどだとか)。

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銀により栄えたアテネ(ギリシャ)は、銀の衰えによって衰退した。

そして、次に頭角を現すのが「ローマ(イタリア)」である。当然、ローマの銀にも限界があった。ところが、彼らが賢かったのは、コインに占める銀の割合いを下げていっても、その通貨価値を落とさなかったところである。

当初100%近かった銀の含有率が、300年近く経つと、たったの「2%」になっている。通貨それ自体が持つ銀の価値ばかりではなく、「ローマという信用」がその通貨価値を支え続けたのである(ローマという信用は、銀の価値を50倍にも高めたことになる)。

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このローマが用いた手法は、現代金融の原点でもある。

いわゆる「レバレッジ」という概念ということだ(レバレッジとは本来「てこ」を意味する)。この「てこ」を使えば、たった「2の力で100を動かす」ことも可能になる(レバレッジ50倍)。ローマのレバレッジが、それである。

ここで注意しなければいけないのは、このレバレッジによる信用は「水もの」であるということである(元々本来の価値を「水増し」したものであるのだから、それは当然のことである)。この「水増し」がバレなければ、さほどの問題は起きない。しかし、その化けの皮がはがれた時が、さあ大変。

銀行の取り付け騒ぎや、現在のユーロ危機などが、その最悪の事例である。ユーロ危機の震源地が、かつてのアテネ(ギリシャ)だというのも、じつに皮肉な話であるのだが…(さらにそれはローマに飛び火した)。



初めてコイン(お金)を手にした人々は、その「永遠性」に魅了されたはずであった。そして、人間の限りない欲望は、その永遠を「さらに先へと」伸ばそうとした(レバレッジの発明)。

ところが、人間たちが欲張り過ぎた結果、その永遠の命は「水増し」され「水もの」となり、逆に不安定なものとなってしまった。お金によって安定させたはずの未来は、単なる架空の未来、つまり「獲らぬ狸の皮算用」となり下がってしまったのだ。



お金のもつ魔力は、度が行き過ぎると「不安定な未来」を生み出してしまう。さらに、格差が行き過ぎると「いらぬ争い」までをも巻き起こす。

はて、人々はお金を発明し、「安定」を求めたはずではなかったか? いつの間にやら、諸刃の剣は好ましくない方向、つまり自らを傷つける向いてしまっているようである。



レバレッジが効き過ぎて、水増しされ続ける現代の金融事情。

不安定化してしまった未来を、無理矢理に安定させるため、無限に発行され続ける貨幣(一日に発行される貨幣の量は、世界中で8兆円にも上るのだという)。これほど水増しされた貨幣価値を、現代の為政者たちが保ちうるかといえば、そこには大いなる疑問がある(実際に、ユーロ圏内は破綻をきたさんばかりではないか)。

貨幣が増えれば増えるほど、その安定性は脅かされるというのに、その矛盾を解消する手立てを未だ人類は見い出せずにいるのである。なんと希望のない話が展開されていることだろう。



最後に、希望のある話を一つ。

先に述べたように、人間の脳内にある「腹側線条体」というのは、お金を獲得することで人間の無限の欲望を刺激する。ところが、その同じ腹側線条体は、「他人と平等であること」をも望むともいうのだ。



とある実験。

2人の人物がくじを引き、「金持ち役」と「貧乏役」を決める。「金持ち役」の所持金は80ドル、「貧乏役」のそれは30ドルである。

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さて、ここには別の「50ドル紙幣」がある。もし、この50ドル紙幣を「金持ち役」に渡せば、「貧乏役」との差はますます広がる。その反対に、もし「貧乏役」に50ドル紙幣を渡せば、両者の所持金は同額となり、その差は全くなくなる。

はたして、人間はどちらを好むのか?

金持ちがさらなる金持ちになることか? それとも、両者が平等になることか?



この実験結果を見ると、ほとんどの人々が「平等」であることに快楽を感じている。その証拠に、両者が同額のお金を手にした時に、「腹側線条体」が活発に活動している。つまり、とても喜んでいるのだ。

この実験の示唆するところは、人間の脳は「他者との平等を好む」ということである。ではなぜ、現代の人々は「独り占め」をしようとするのか?



その一つの回答を、エリザベス博士はこう解説する。

「脳の腹側線条体は、お金を儲ければ儲けるほど反応すると考えられていました。ところが、実験結果を見ると『全く逆』の反応が見られています。それは、本来儲かることを喜ぶはずの脳が、『公平かどうか』をとても気にしているからです。人間の脳には、『お金以外のもの』に価値を置く仕組みが、確かにあるのです。」



「お金以外のものに価値を置く仕組み」が正常に作動するには、「いくつかの条件」が必要だとも博士は指摘する。その「いくつかの条件」の中でも最も重要な条件は、「相手が目の前にいる」ということである。

自分が得した分を、その分損した相手を目の前に見ることで、お金以外の価値観が自然と浮上してくるのだ。その価値観とは、「分かち合おうとする心」であったり、「協力し合おうという心」だったりする。

生物としては弱すぎた人間が現代を謳歌しているのは、そうした価値観が心の底にあったからこそ、助け合うことができたからなのであろう。



ところが現代、他者の姿は見えなくなりつつある。自分が得した時に、損する相手がいることなど、頭の片隅にも思わない。必然、独占欲も生まれ、格差が助長され、社会は大きく歪んでいくこととなった。

さらに、現代においては、未来のお金までおも使い込まんとする勢いだ。当然、未来の人々の姿は肉眼で見ることなどできない。腹側線条体は、徒(いたずら)な欲望ばかりを刺激され、間違っても「未来の人々と平等であろう」などとは夢想だにしないだろう。

世界が広がるほど、相手の姿がおぼろげになってゆく…。



お金が発明されたことで生まれたのが、「個人」という概念でもあるそうだ。

狩猟採集スタイルでは、一人で生きていくことはまず不可能だった。ところが、お金の発明により、お金さえあれば、一人で生きていくことも可能になった。個人主義が、貨幣の起こりとも軌を一にするのである。

「個人」の関心は当然、自分の足元に集中し、他者とのバランスは二の次となる。こうした個人主義にグローバル化が加われば、他者など「どこにいるか」すら定かでなくなってしまう。得をする人々は、その分損をする人々を知らず、また同様に、損をする人々は、その分得をする人々を知らない。



一体、どこでバランスがとれているのか?

実際問題、そのバランスはとれていないのだろう。各国政府が盛んに紙幣を増刷するのは、盲(めくら)になってしまった脳が必死でバランスを模索しているからなのでもあろう。皮肉にも、非伝統的な金融緩和(紙幣増刷、および国債買取など)が問題を解決へと向かわせているとは限らないのだが…。

隣人の姿が見えなくなった時、我々は次なる一歩をもう少し慎重に踏み出すべきだったのかもしれない。ところが、警戒すべきその状況で、誰も見てないことをいいことに暴走してしまった。そして、時代とともにその速度は加速度的に増加し続け、いまや目隠ししたまま高速道路を突っ走っているかのような危うい状況へと追い込まれてしまっている。



その先が「崖」になっていたとしても、もう止まれない。ただ、その崖の先に、「突き出た岩棚」があって、奇跡的に命拾いすることを期待するだけである。コメディアン(ビル・ヒックス)の冗談そのままということか(ledge beyond the edge)。

しかし、英国エコノミスト誌に言わせれば、「いくつかの国を岩棚から突き落とさなければならない(They might first push some countries off the ledge)」ということにもなるのだが…。




出典:NHKスペシャル ヒューマン
 なぜ人間になれたのか 第4集 そしてお金が生まれた


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2011年12月22日

達人の選択は「先を読まない」? 過信して先ばかり読む悲しき人間の性(さが)。


2000年のアメリカ「大統領選挙」で何が起きたのか?

このフレーズの後に決まって語られるのは、「フロリダ」での出来事のことだろう。例の「投票用紙問題」である。

連邦最高裁が票の数え直しの「停止」を命じたため、「ジョージ・W・ブッシュ」が537票差で勝利した。

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実は、ここで着目しなければならないのは、投票用紙の問題ばかりではない。

ジョン・クルズニック氏によれば、名前の記載される「順番」にも注目すべきことになる。

過去の選挙を精査した結果、名前が「最初」に記載された候補者は、他の候補者よりも「2%有利」であることが判ったのである。「たったの2%?」と軽んずるべきではない。ケネディとニクソンが争った時の票差は「たったの0.2%」である。



さて、フロリダの名簿で「最初」に名前があったのは?

お察しの通り、わずかの差で勝利した「ジョージ・W・ブッシュ」である。

なぜなら、フロリダ州知事の所属する政党の公認候補が、名簿の最初に記載されることになっていたからである(当時のフロリダ州知事は、ジョージ・W・ブッシュの「弟(ジェブ)」であった)。

フロリダ票の2%といえば「5万票」。実際の選挙結果の差が、その5万票の100分の1程度だったことを思えば、いかに名前の順序に意味があったかが自ずと窺える。



こうした例が問いかける問題は、「人は何をどうやって選んでいるのか?」という選択の問題である。

「最初」にあるものの方が記憶に残りやすく、選択されやすくなるという傾向は、「初頭効果」と呼ばれるものである。

最初の次は何が有利か? それは「最後」である。最初のものと同様に、記憶してもらえる確率は高い。



また、選挙の際には「親近効果」というものも巧みに利用される。

親近効果というのは、よく目にするものや、よく耳にするものに「親近感」を抱くという効果である。

不思議なことに、選挙の結果を左右するのは、その人の考えや主張以上に、どれだけその候補者のポスターを目にし、その名前を耳にしたかが大きいのだという。



というのも、よく目にし、耳にする方が、より「具体化する」からでもある。

たとえば、「文章」で表現された景色よりも、「写真」の風景の方が当然、具体的で分かりやすい(百聞は一見に如かず)。

そして、人間には、より具体的なものを「重要である」と認識する傾向があるらしい。候補者がどんなに立派なことを語っても、有権者が目にするのは、その人の「顔」なのである。



このように、人間の選択には、常に偏りが生じている。

その偏りは、以下の実験にも明らかである。次の2択のうち、どちらがより選ばれる傾向にあるのか?

A.何もしなくても「1万円」がもらえる。
B.ジャンケンに勝てば「2万円」もらえる。

結果を先に言えば「A」である。もらえる額が半分でも、「確実に」もらえる方を選択する人が圧倒的に多い。



それでは、次の選択ならばどうか?

A.必ず「1万円」支払わなければならない。
B.ジャンケンに負けた時にだけ「2万円」を払う。

結果は…、一転「B」が圧倒的に多数を占める。ひょっとしたら、2倍の金額を支払わなければならないというのに!



お金を「もらう時」と「支払う時」では、その選択の「基準」が変わってしまっていることにお気付きであろうか?

「もらえる」と聞くと、「利益モード」になる。すると「リスク(失敗)」を避けようとする気持ちが強く働く。そして、少額であれ確実に現金を受け取ることを選択する。

ところが、「支払う」と聞けば、今度は「損失モード」に切り替わる。このモードでは、「リスク(失敗)」を厭(いと)わないという、利益モードとは全く逆の行動に変わってしまう。その結果、場合によっては倍の金額を支払うことにもなってしまう。



こうした心理は「投資家たち」のより知るところである。

彼らの言う「利小損大」とはこのことを表現している。利益は小さく、損失ばかりが大きくなってしまうという人間の悲しい心理である。

こうした人間の性向は「プロスペクト理論」としても知られており、この理論はノーベル賞をも受賞している(ダニエル・カーネマン、エイモス・トベルスキー)。



投資家たちの哀しい性質は、こればかりではない。時として、サイコロを振って投資する会社を決めた方が、大きな利益に結びつくこともある。

投資家たちの判断は、サルにも劣るとまで言われることがある。




そうした過ちを犯す人々に共通して見られる傾向は、自分の知っている情報を「過信」してしまうことだという。

「過信」するのは、どういう人々に多いのか?

逆に「過信しない」人々を考える方が分かりやすい。まず、何も知らない人は過信しない、というか出来ない(ビギナーズ・ラック)。また、とてもよく知っている人も、あまり過信しない傾向にある。

残るは…、そう、中途半端に「知っていると思っている」人々である。そして、哀しいことに大多数の人々がこのカテゴリーの中に入ってしまう。



投資の神様とも崇(あが)められる「ウォーレン・バフェット」氏は、珍しくも「過信しない人々」の一人であるようだ。

1990年代、投資家たちがIT企業に投資しまくって、大きな利益を出していた時代があった。ところが、投資の神様・バフェット氏はなぜかIT企業への投資を見合わせていた。

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なぜ?

「よく分からないから」というのが、彼の答えだった。IT企業のこともよく知らなければ、なぜ、ここまで買われるのかも分からないというのだ。

過信しがちな人々は、バフェット氏を笑った。「直感が鈍ったんだ」と。

ところが、結果を知る人でバフェット氏を笑う人は誰もいない。その後のIT関連株がどうなったのか? バブル崩壊、宴の終焉である。笑った過信家たちは大いに泣いた。



「知るを知るとなし

知らざるを知らざるとなす。

これ知るなり(孔子)」



「チェス」の元世界チャンピオンに「ガルリ・カスパロフ」という人物がいる。22歳で世界一になって以来、15年以上もその座に留まり、その勝利数はまさに群を抜いている。

チェスと言うからには、どれだけ先の手を読んでいることか? ところが、彼は「先を読まない」と言っている。

チェスの次の手は「星の数」ほどもあるが、天才的なカスパロフ氏は、「直感」で無数の星の中から、もっとも輝く星を選び出す。

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カスパロフ氏の直感は、闇雲の直感(一か八か)ではないだろう。

無数の経験に裏打ちされているはずである。それは投資の神様・バフェット氏も同様であろう。

彼らに共通するのは、まずは経験的な「理性(知性)」によって、必要な情報を選び出し、その上でその場の直感を活用していることであろう。



ある有名な軍事演習において、「ポール・バン・ライパー」司令官は、弱小な勢力を率いながらも、最強のアメリカ軍を打ち負かした。

その戦略とは? 先のことを計画しない「行き当たりばったり」だったという。

作戦はあらかじめ決めずに、その場の情勢で判断し、自分たちの持つ限られた兵器のみで勝利を収めたというのだ。その鮮やかな勝利は、真珠湾以来の屈辱をアメリカ軍に与えたとも称せられたという。

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いかに選択するか?

この問いに直面した時、我々はついつい「先のこと」を考えてしまう。

ところが、達人クラスの人々ともなると、逆に「先は考えない」と口を揃える。



この差は、どれだけ「今(現在)」に重きを置いているかの差でもある。

先のことを考え過ぎれば、当然、多少なりとも「今」が軽んじられることになる。

ところが、敢えて先を考えないようにする達人たちは、一様に「今」に最大限のエネルギーを集中する。そして、その選択の差の結果は雲泥のものとなる。



そして、その今に直感を働かせる前に、経験を元にした理性的な取捨選択があることも忘れてはならない。

経験なしの理性的な判断は、時として「単なる過信」であることも少なくない。よく知るということは、この過信による誤ちを避けるためのものであると考えた方が良さそうだ。

「理性的な判断」は、必ず「先のこと」を見据え、ややもすると「今」を見ていないこともあるのだから…。



これらはコロンピア大学の「シーナ・アイエンガー」氏の講義の一幕である。

過信しないために、自分の知ることと知らないことを理性によって明瞭にし、最終的な判断は、先を読まない直感に任せる。

そんな最高の選択は、我々凡人には極めて難しい。しかし、そんな選択をする人が存在するということは、一聴に値するであろう。



出典:コロンビア白熱教室
第3回「選択日記のすすめ」


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2011年12月20日

選択肢の多さは自由の象徴。とはいえ、うまく選べていない現代人たち。


自由とは何か?

選択肢の「多さ」であろうか?



しかし、選択肢が「多すぎる」と、逆に「不自由」になり、「誤った選択」をして後悔する恐れもある。

やはり、選択肢の多さにも「限度」はあり、自由には快適と感じる「ほどほどさ」もある。



それでは、人間はどれほどの「選択肢の数」に耐えられるのか?

それは「7つ前後だ」という人がいる。これは、ジョージ・ミラー氏の「
マジカルナンバー7 ± 2」という考えである。



それ以上に選択肢が多くなると、多くの人々が「選べなくなる」。その結果、選ぶのをやめて「現状維持」を決め込む。

また、たとえ選んだとしても、「誤った選択」をすることも多くなる。

さらには、「もっと良い選択があったのではないか?」と考え、選択の結果に「満足できない」ということも起きてくる。



ある調査によると、好況期に多数の選択肢の中から会社を選んだ人よりも、不況期に限定的な会社選びをした人の方が「満足感が高い」という実例もある(給料が低いにも関わらず)。

選択肢が多いほど、選択の結果に対する満足感が低くなるという意外な結果である。



しかし、それでも人間は「選択肢の多さ」に憧れる。そして、惹かれる。

じつは、ここに「一つの罠」が潜んでいる。

たとえば、商品点数の多い店ほど、お客は興味をそそられ、たくさん集まる。しかし、実際の「購入」に結びつくかと言うと、それは別問題なのである。



ここに、ある実験がある。

有名な「ジャムの試食」実験である(シーナ・アイエンガー教授)。

「6種類」のジャムの試食(選択肢・小)と、「24種類」のジャムの試食(選択肢・大)。

どちらの試食が、より多くの人を集めるのか? そして、どちらが購入に結びつくのか?



その結果は…、

来店客の60%が、選択肢の多い24種類を試食し、選択肢の少ない6種類のほうを試食したのは来店客の40%に留まった。

つまり、選択肢が多いほど、より多くの人々が集まったのである(1.5倍)。



ところが、24種類の試食の「購入率」は、たった3%。

それに対して、6種類の試食の購入率は、なんと30%(割合としては10倍)。

割合ではなく、実購入者数でみても、選択肢の少なかった6種類の試食のほうが、「6倍」も多かった。

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この実験から分かることは、こうである。

選択肢が多いということは、人を引きつけはする。

しかし、いざ買おうとすると、その選択肢の多さの前に悩んだ末、「買わずに終わってしまう」ことも多いということだ。



この錯覚に惑わされていないスーパーもある。

世界第9位のスーパー「アルディ(ALDI)」の商品点数は「1,400点」しかない。

通常のスーパーが4万5,000点(アルディの30倍以上)、大型スーパーであれば10万点(アルディの70倍以上)の品揃えをしていることを考えれば、アルディの商品点数の少なさは際立つ(トマトソースはたったの1種類しかない!)。



商品点数が格段に少ないといえど、アルディの売り上げは他を凌ぐ。

アルディは「見かけ」の人の多さには、決して惑わされていないのである。より本質的な「買わせる」ということに狙いを定めて、見事に成功している。



さらに、選択肢が少ないということは、「満足感」の向上にも寄与する。

徒(いたず)らに選択肢が多いと、人は「余計なこと」を考える。「あっちの方が良かったんじゃないか?」「これは高すぎたんじゃないか?」などなど。その結果、自分の選択に対して「後悔」することもしばしば。

それに対して、選択肢が少なければ、余計なことは考えることはなく、結果を素直に受け入れられるということだ。



また、たとえ選択肢が多くとも、人は「決まった選択しかしない」という傾向もある。

たとえば、アイスクリームは何十種類とあるものの、そのほとんどの選択は「チョコ」「バニラ」「ストロベリー」に絞られるのだという(51%)。

選択肢の多さに惹かれながらも、結局は「お馴染みのモノ」を選んでしまうわけである。

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選択肢をどんなに増やしても、実際の人々の選択は「限定的」である。

多くの人は、あまりにも一般的なものを避ける傾向にある。しかし、あまりにも個性的なものも逆に敬遠される。

その結果、どこに落ち着くのか? 「少しだけ個性的なもの」ということになる。

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人々は「広大な自由」を求めながらも、実際に歩み出す一歩は「ちょっとずつ」なのである。

なんと生命の理に適っていることか。種の多様化のスピードというのは、呆れるほどに遅いのが常である。

世界は自由を求めながら、実は「ちょっとだけ」自由なだけで大いに満足するということか。



人々は選択肢がない(自由がない)ことに猛反発する割には、選択肢が多すぎる(自由すぎる)とまた、文句ばかりになる。

良い上司は、部下に「適度な選択肢」を与えるのだという。

あまりに独裁的すぎると、部下は上司の能力は評価するものの、リーダーシップや人間性に疑問を抱く。しかし、部下に任せすぎると、能力を過小に見積もられてしまう。

実際には、2つぐらいの選択肢を部下に与えることで、リーダーシップ、能力ともに高い評価を得られるという実験結果がある。



さて、現代という社会には選択肢が溢れている。

そして、それゆえに人々は選択を誤りやすく、不平不満を抱えるようにもなっている。これは、民主・自由化の弊害でもある。

自由な世界というのは、制限された世界以上に、「選択の技術」が必要とされるのである。



この「選択の技術」は、単純な心理の上に成り立っている。

まず、「簡単な選択から始める」ということである。



ある実験で、自動車のオプションを選択してもらった。

その際、選択肢の少ない(4種類のエンジンなど)ものから選んで行くほうが、適切な判断が下せる。

しかし、逆に選択肢の多い(56種類の車体の色など)ものから始めると、選ぶのに疲れてしまい、その結果、好ましくない選択をしてしまうことも多かった。



ある人によれば、「3つ」から一つを選んで行くと、正しい判断を下しやすいとしている。

まず、3つ選んで、その中から一つを選ぶ。次にまた3つから一つ…(3×3のルール)。

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また、日常的に下している選択の半分は、「どうでもいい(重要でない)」ということにも気づくべきかもしれない。そして、選択の中には、どちらを選んでも結果に「大差がない」選択というもの意外と多い。

選択した結果、十分な満足感が得られる選択というのは、10に一つぐらいしかないとのことだ。



企業の経営者などは、その点をよく理解している。

他人に任せられる判断は、他人に任せ、自分しかできない判断でも、ほとんどを10分以内に決断するのだという。

そして、選択の結果で満足感が大きく変わりそうな決断にだけは、一時間以上もの時間を費やすとのことだ。

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パレートの法則は、こう言っている。

「日常生活の結果の8割は、たった2割の選択がもたらしたものだ」と。

選択の技術というのは、その2割の見極めることにあるのだろう。そのためには、選択肢を大胆に削ぎ落とす必要も求められる。



ニコラス・ローズ(社会学者)は、こう言っている。

「現代に生きる個人は、単に自由に選択できるのではない。

自由に選択することを『強いられて』生きているのだ」



自由な世界に生きるということは、思ったよりも楽なことではないようだ。

逆に制限された中の「限られた自由」を楽しむほうが、満足感は高いのである。

世界の自由主義世界で、デモやストライキが頻発する理由も、薄々見えてくるような気もする。



改革を志す人々は、こう自問してみると良いかもしれない。

「改革は必要だ。しかし、この一歩は大き過ぎやしないか?」と。

人々の求める変化というのは、思ったほどに大きくない。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」という言葉が頭をよぎる。



オッカム(哲学者)は、こう言っている。

「単純なほうが、より良い」



人間は自由を求めながらも、自由を求めていないところがある。

無いものをネダる割には、無いなら無いで済むことも多々ある。

こうした心情的な欲求と現実との「乖離」はまま見られるが、この「錯覚」に気づける人々は、そう多くなないのだろう。

だからこそ、人々は商品が多い店に足を運ぶのであり(あまり買わなくても)、多数の選択肢が示されていることに安心するのである(選ぶ時に散々迷うとしても)。



選択肢が多いことは、人々の「喜び」でもある一方、「苦しみ」の元凶でもある。

それゆえ、自由であればあるほど、喜怒哀楽の幅は大きくなり、その振幅の大きさに振り回されてしまうことも少なくない。



自由すぎる世界は、「振り子」の止まるべき一点をどこだか分からなくしてしてしまっている。

そして、その一点を見出すことこそが、「選択の技術」なのであろう。

「単純化する」というは、そう単純な話ではなさそうだ。




出典:コロンビア白熱教室
第4回「あふれる選択肢 どう選ぶか」


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