2011年09月02日

地震は予知できるのか?地震の神様「今村明恒」が後世へと伝えた熱い想い。

9月1日は「関東大震災(1923)」の起こった日である。

この地震の前後で、その評価が180°変わった学者がいる。

地震前は「ホラ吹き」と罵(ののし)られていたのが、地震後には「地震の神様」となってしまったのだ。「今村明恒」という地震学者である。



関東大震災前、今村は関東地方で起こるであろう「大地震」を警告していた。

彼は、日本書紀から始まる「日本の地震の記録」をつぶさに調べ上げ、およそ2,000を超える過去の地震に関して、ソラで唱えられるほどに精通していた。

詳細な検証の結果判ったことは、「関東では100年に一度、大地震が起こっている」ということだった。

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今村はその研究論文を発表する。

「50年以内に東京を大地震が襲う危険性がある。防災対策を徹底すべし。」

この論文が発表されたのは1905年、関東大震災の起こる18年前の話である。



ところが、時の新聞社は、「大地震の恐怖」を煽(あお)るような報道をする。

パニックに陥った民衆は、ちょっとした地震で家財道具一式を持って逃げ出したりと社会的な大混乱へと発展する。

事態を鎮静化しようと、時の地震学の権威「大森房吉」は、「東京に大地震はない」と断言する。それ以降、今村は「天下のホラ吹き男」となってしまったのである。「私利をはかるために浮説を流布している」とまで世間からは蔑まれた。

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今村が主張したかったのは「防災対策」である。しかし、奇をてらいたがるメディアは、「大地震の恐怖」だけしか報道しなかったのである。



その後、歴史は容赦なく関東地方を襲い、史上空前の大被害をもたらした。

今村が懸念したように、耐震性の弱い家屋はもろくも「倒壊」。火の元の始末をせずに避難した結果は「大火災」。東京の家屋の7割が消失したと言われる。

「紅蓮の吐き出す煙は、入道雲のごとく渦巻きかえる(今村の日記)」

もし、今村が論文で主張した「家屋の補強(筋交い)」や「火元の注意」などの防災対策がなされていれば……。



今村は激しい後悔の念にかられる。

「私の意見が世人のいるるところとならなかったのは、全く自分の研究の未熟と自信の薄かったことによる」

「思えば…思えば…、実に残念で堪(たま)らぬ!」



自らの不明を贖罪すべく、今村は立ち上がった。

新聞、雑誌、テレビ、ラジオ……、考えられるあらゆる手段すべてを使って、「防災への啓蒙活動」を開始する。

子どもたちにも伝えねばと、いかに分かりやすく説明するかを工夫した結果、子ども雑誌にはなくてはならぬ「地震のおじさん」と親しまれた。

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地震による津波を警告した物語「稲むらの火」を、教科書に掲載するよう活動したのも今村である。

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しかし、この話を文部省に持ち込んだときは、無下に断られる。「そんなスペースはない」と。

今村は発奮する。「ドリアン(臭すぎる果物)の話を載せる余地があって、幼い小国民に地震のことを教える余地が無いものか!」

思わず納得した文部大臣は、一転して教科書への掲載を許可。

そんなこんなで、今村は「地震の神様」とまで世間に賞賛されるようになった。

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次なる今村の懸念は、「南海大地震」であった。

歴史を紐解けば、関東地方に続き、関西地方に地震が連鎖する傾向が見て取れるのだ。

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今村は政府に対して、南海地方一帯に「地震の観測網」を作る計画を進言。しかし、政府はまたもや却下。

「政府は全くアテにならん」と憤慨した今村は、私財をなげうって観測網を整備して、地震観測をはじめる。

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今村は決してお金持ちではなかった。20年以上続いた助教授時代の給料はゼロ。8人の子宝に恵まれるも、子供に靴も買ってやれず、家族を旅行にも連れていけなかった。

「地震の神様」としての公演などで一時的にお金が入るも、それら全ては「南海地震の観測所」の費用として吹き飛んでしまった。

彼の「防災への想い」はそれほどに強いものであり、決して「私利のために浮説を流布するような軽薄な輩」ではなかったのである。



しかし、時代は第二次世界大戦を挟んで、大きく揺れ動いた。

今村の観測所も、「弾薬庫」として接収されてしまう。それでも観測の重要性を訴え続け、戦争で壊れた計器の修理のために協力者を募ったりしていた。

時の政府は地震対策の重要性をサッパリ理解しない。いつ起こるか分からない地震に予算を割いている余裕はない。目の前の戦争で大わらわである。



そして、終戦……。

この失意に追い打ちをかけるがごとく、翌年「南海大地震(1946)」が起こる。

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今村は東京の自宅でこの大地震の発生を知る。彼はラジオの前に立ち尽くしたまま、言葉を失っていた。

今村はまたしても、地震の発生を予知しながら、なす術なく大震災を迎えてしまったのだ。

失意のうちに今村は死去。地震に捧げた人生はこうして幕を閉じた。享年77歳であった。



今村の地震人生は無に帰したのか?

ここに彼の人生を慰める一通の手紙がある。この手紙は、南海地震の対策のために今村が目をかけていた町からのものであった。

「平素のご教示の通り指示しましたので、津波に流れた人もなく幸いでした。ご教示に対し感謝を捧げます。」



今村の草の根活動は決してムダではなかった。真摯に防災対策に取り組んでいた人々も少なくなかったのである。

また、この地震前後に今村が捉えた観測結果は、「地震直前の兆候を捉えた日本で唯一のデータ」として、後の地震研究に確固たる基礎を与えることとなった。

現在の東海地震を予知する基本的な考え方は、今村のものと全く同じである。

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地震の被害は「反省」と「忘却」の繰り返しである。

関東大震災ほどの大打撃を受けても、時が経てば人々をは忘れてしまう。そして、また大地震に泣く。3.11の大地震ですら、そうなるかもしれない。

「大地震の周期」は「人の一生よりも長い」ために、次代に伝わらない限りは、確実に忘れ去られてしまうのである。今村の懸念はここにあった。そのため、彼がもっとも力を入れたのは、子どもに対する防災教育だったのだ。



今村の自説は、「必ずや地震は征服できる」というものであった。

しかし、地震という「重要な問題」は、より目先の「緊急な問題」よりも後回しにされる傾向がある。関東大震災(1923)から南海大地震(1946)までの日本政府の対応は、その顕著な例である。

今、東日本大震災の復興が遅れていると言われているが、現在の政府も歴史を繰り返しているかのようである。

そんな中にあっても、孤軍奮闘している日本人がいることを忘れてはいけない。かつての今村は、必ず現代にもいるのである。



日本人各々が防災意識を高めること。

これが今村の最大の願いなのである。




関連記事:
大地震を引き起した「空白域」とは? 想定内であり想定外であった東日本大震災。

大津波から村民を救った和村前村長の置き土産。大反対を受けてなお建造された巨大堤防。

怒れる市長が、津波の町を救う。福島県相馬市、復興への道。




出典:歴史秘話ヒストリア
「地震の神様 命を守る闘い〜関東大震災を“予知”した男 今村明恒(あきつね)」


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2011年08月28日

「稲むらの火」で大津波から村民を救った「濱口梧陵」。「志は遠大に、心は小翼に」。

地震に揺すられ、津波に洗われる日本列島。

歴史上、特筆すべき大地震、そして大津波が、激動の江戸末期(安政年間)の日本を襲った。そして、その大災害に果敢に立ち向かっていった男が、紀州(和歌山)の「濱口梧陵(はまぐち・ごりょう)」である。

一連の彼の行動を追うことは、今回の3.11大災害の復興へ向けた大いなる指針となりうる。

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「稲むらの火」という話を聞いたことがあるかもしれない。教科書にも載る話であるが、その話の主人公こそが、「濱口梧陵」である。

当時、35歳であった濱口梧陵は、大揺れの後、ただちに海岸に出て「異常な波の流れ」を見る。危険に身震いした梧陵は、村人たちを急かしながら、高台の神社へと導く。

その夜、海面は不気味に静まり返っていた。それでも村民たちは警戒を緩めず、避難先の神社で一夜を明かす。

翌日、「さすがにもう大丈夫だろう」ということで、村人たちはゾロゾロと家路へと向かう。前日の大揺れで、家屋に相当な被害が出ていたのだ。



ところが……!

その日の夕刻、前日とは比較にならないほどの大地震が村を襲う。「激烈なること、前日の比にあらず。瓦(かわら)飛び、壁崩れ、塀倒れ、塵煙(じんえん)空をおおう。」

突然、海の方から「巨砲を連発するがごとき響き」が村中に轟(とどろく)く。

梧陵は直感する。「海嘯(津波)だ!」。

彼の脳裏には、およそ1000年前の「貞観地震」の光景が去来したに違いない。彼は博識であり、貞観地震を記録した「日本三代実録」を蔵書として保有していたという。この書には、大津波の前に「激しい雷」のような轟音があったと記録されている。

津波の高さは4mを超えたと言われている(津波の高さとしては、3.11大津波の半分程度であるが、当時の貧弱な護岸を考えれば、その迫力は3.11に匹敵するとも言われている。)波よけの石垣は軽々と越えられ、大津波は大木や大石を巻き込みながら村を破壊していった。



梧陵も津波に足をさらわれ、浮き沈みを繰り返すが、かろうじて難を逃れる。避難所の高台の神社へ命からがらたどり着くと、行方のわからぬ家族を心配する村人たちが大混乱を起こしていた。

すでに辺りは真っ暗になっていたものの、梧陵は即座に村の若い衆を呼び集め、決死の捜索隊を結成する。梧陵は日頃から「耐久舎」という私塾を通じて、有能な若者たちを育てていたのである。

しかし、家屋の残骸や流木に行く手を遮られ、思うような成果が上がらない。この間にも何度も津波が押し寄せる。梧陵は苦渋の撤退を決意。

その撤退の途上、田んぼのワラ山に次々と「火」を放って行った。逃げ遅れた者たちへ「逃げる方角(神社)」への道を示すためである。

暗闇を煌々と照らす田んぼの炬火、この火こそが有名な「稲むらの火」である。

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梧陵が撤退を完了した直後、最大の大津波が轟然と村を飲み込んだ。梧陵の「稲むらの火」も、この大津波によって全て消えてしまうほどであった。

しかし、「この計、空(むな)しからず」。村民1,323人のうち、犠牲者はわずか30人にとどまった。1000年に一度の大津波を受けた海岸の村で、「生存率97%」という数字はまさに奇跡である。

梧陵の放った「稲むらの火」が村人を救ったのである。

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この話は、外国の人々の感涙を誘った。

日本にこの話が広まるのは、外国からの逆輸入である。この話を最初に記したのは「小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)」。「Living God(生き神様)」というタイトルで海外に紹介された。

その後、この作品に感銘を受けた日本人「中井常蔵」が児童向けに翻訳。そして、国定教科書に採用され、多くの日本人の知るところとなった。



2005年、シンガポールのリー首相が、日本の小泉首相にこう訊ねた。

「日本の小学生の教科書には、『稲むらの火』という話がのっていて、子供時代から津波対策を教えているというが、それは本当ですか?」

残念ながら、小泉首相、この話(稲むらの火)を知らなかったという。

「稲むらの火」はアメリカのコロラド州の小学校でも、「The burning of The rice field」として採用されている。日本の話でありながら、外国の人々への認知のほうが高いというのも、この話の面白い点である。

この話の舞台となった地域(広村)の小学生たちは、もちろん、この話を知っている。「津波が来たらどうする?」と質問されれば、100発100答、子供たちは当然のように「神社に逃げる」と答えるという。



濱口梧陵の本当の凄みは、村の「復興」である。

藩全体が莫大な被害にあった「紀州藩」の救済は全く当てにならない。そこで、梧陵は藩に申し出る。「波よけ土手の建設を許可願いたい。工費は私がまかないます」と。

彼の家は代々の醤油商人であり、私財は莫大であった。しかも、紀州(和歌山)だけでなく、千葉(銚子)にも店を構えていた。和歌山と千葉は地理的には離れているものの、「黒潮」の流れに乗れば、目と鼻の先なのである。現在でも、銚子(千葉)には、和歌山からの移民が数多い。イワシを追って、千葉へと移り住んだ移民の末裔である。

幸い、銚子(千葉)は被害を受けていなかった。和歌山の村を復興するために、莫大な金銀が銚子(千葉)から次々と送られていった。その額、現在価値にして5億円とも言われている。

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その大量の私財を擲(なげう)って、梧陵は巨大堤防の建設を開始する。

その労働に携わったのは村民たち。女や子供たちにまで日当を支払ったという。すべてを失った村民たちにとって、この大事業ほど有難い仕事はなかった。その甲斐あって、離村者はほとんで出なかったという。

梧陵は、村に仕事を創出しただけでなく、日々の「炊き出し」も積極的に行った。自分の家の米をすべて放出し、それでも足りない分は隣村から借り受けてまで握り飯を配った。

さらには「長屋」をも建設し、住む場所まで無料で提供したという。



およそ4年後、大堤防は完成する。

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その大きさも当時ではケタ外れであったが、梧陵は細かい点まで抜かりなかった。

大堤防の内側には、6000本の松の木を植えた。これらの松は、防風・地固めのみならず、津波の引き潮によって海に引きずり込まれる危険を軽減することができる。

さらに、堤防の上には「ハゼ」の木も植えた。この木の実は、ロウソクの燃料として使われていたため、貴重な現金収入となった。梧陵の考えでは、この収入で長く堤防の維持費をまかなう計画であった。

さらに念の入ったことには、大堤防の敷地になった田畑を、藩の課税対象から外すことまで行っている。



梧陵は「百世の安堵」を復興の大義として掲げた。

一代を30年と考えると、百世とは3,000年を意味することになる。梧陵の目は、はるか彼方の水平線を見据えていたのである。

ところが、この村を次の津波が襲うのは、100年もかからなかった。1946年、昭和南海地震が発生し、再び大津波が襲来した。

「津波どんと来い!」と言わんばかりに、梧陵の大堤防は見事に大津波を跳ね返したという。

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濱口梧陵は、紀州藩の勘定奉行を経て、明治新政府の駅逓頭(郵政大臣)へと異例の出世を遂げる。

しかし、梧陵の方針は、新政府の施策とは相容れないところがあった。

梧陵は、徹底して「民」の力を活用することを提言した。たとえば、飛脚の力を活用するなど、今で言う「民営化」の発想である。

これに反して、明治政府が望んだのは、プロイセン(ドイツ)に学んだ「専制政治」である。意見の相違からか、梧陵はほどなく新政府を去ることとなる。



梧陵の言葉に、「志(こころざし)は遠大にして、心は小翼に」というものがある。

「稲むらの火」によって人々が感銘を受けたのは、梧陵の犠牲的精神であり、私心のなさである。

「百世の安堵」を願う遠大な志(こころざし)と、私財をなげうつ潔さ。彼の言葉は、彼の人生そのままである。

濱口梧陵の功績を讃えようと、村人たちは「濱口大明神」なる神社を建てようと考えた。しかし、梧陵は頑としてそれを許さなかったという。

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濱口梧陵の醤油屋は、今に残る。それが「ヤマサ醤油」である。

また、梧陵の手による大堤防も、今に残る。彼の指揮のもとに植えられた松林は、はや樹齢150年。それらの老松たちは、今も片時と休まず、かなたの水平線の波を睨み続けている。

この松たちは、1000年どころか3000年(百世)でもここに居座る覚悟を決めている。





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出典:BS歴史館
「復興のカギは民にあり〜幕末・安政の大地震に立ち向かった男」


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2011年08月19日

「想定に囚われるな」。児童たちの生死を分けた苦い教訓。有事を他人任せにすることはできない。

東日本大震災に起因する「大津波」によって、多くの小学生たちが犠牲となった。

その一方、大津波に校舎を飲まれながらも、「全員無事」の小学校も存在する。

生死を分けた、その差とは?

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ここに対照的な3つの小学校がある。

生徒の7割、教師の9割が犠牲になった「石巻市大川小学校」。津波被害を受けた小学校で、これほどの犠牲を出した小学校は他にない。

対して、全員無事の「大船渡市立越喜来(おぎらい)小学校」と「岩泉町立小本(おもと)小学校」。



これら3校の「立地」は、極めて酷似している。

前面には、津波を誘導した「川」があり、背面には、津波に飲まれなかった「山」がある。

当然、3校とも裏の山に逃げれば、津波の被害から逃れることができた。事実、全員無事の2校は山に登って難を逃れたのだ。



ところが、最大の児童被害を出した「石巻市大川小学校」は、安全な裏山に避難しなかった。

逆に、「裏山は斜面が急で登りにく」という理由から、なんと津波が迫る「川の堤防」へと向かってしまったのだ。

その結果が、生徒7割、教師9割の散々なる犠牲である。



しかし、この小学校を一方的に責めることはできない。

この大川小学校があった地域は、ハザードマップ(災害予測図)によれば「津波の浸水区域」から外れており、まさか校舎の2階まで津波に沈むとは思ってもいなかったのである。

そのため、校庭が水につかるような事態は想定されておらず、「児童をどこに誘導すべきかも、はっきり決まっていなかった」のである。



「どこに逃げるべきか?」と議論がなされたのは、児童が校庭に集まってからであり、意見は喧々諤々。不幸にも、強力な決定権をもつ校長は不在であった。

その結果、裏山は斜面が危険と判断。安易にも川の堤防の高台を目指してしまった。

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震災前、大川小学校の保護者からは、「万一の場合、裏山に避難できるように『通路を整備』してはどうか」という意見が寄せられていたという。

しかし、残念ながら、この意見は実現しなかった。

これに対し、児童全員無事の前出2校では、地域の人たちの強い要望により、震災数ヶ月前に「避難通路」が設置されていた。

この2校では、避難通路が明確に確立されていることで、教師も児童も「迷いなく」その道をひた走って逃げることができた。

その避難通路の費用は100万円ほど。

この差は、取り戻すことができないほどに大きかった。



また、「釜石の奇跡」と呼ばれる事例もある。

3,000人近い小・中学生がいる岩手県釜石市で、子供たちの生存率が99.8%だったという奇跡である。犠牲になった5人の生徒は、残念ながら学校管理下にはいなかった。

「奇跡」とは報道されたものの、この犠牲の少なさは、地道な「防災訓練」のタマモノである。



その防災訓練とは?

まず上がるのが、「想定に囚われるな」。

決してハザードマップ(災害予測図)を信じてはいけないというのである。



先述の通り、最大の児童被害を出した「大川小学校」では、学校がハザードマップの外にあったために、充分な避難意識が根付いていなかった。

釜石市でも同様、ハザードマップ外の小学校は、「自分の学校は大丈夫だ」ということで、変に安心してしまっていた。

この現状に強烈な不安を抱いた「片田敏孝」氏は、「想定は想定に過ぎない。たとえ先生が大丈夫だと言っても安全だと思ってはいけない。」と子供たちに諭した。



その結果、指定の避難所に到達してなお、子供たちは「先生、ここじゃダメだ!」と、さらなる避難を敢行。

指定の避難所は、新たな避難所に到着した「わずか30秒後」には津波にさらわれた。

もし、想定に囚われていたら、全員が犠牲者になっていたところだった。



さらに片田氏は諭す。「他人を救うよりも、まず自分の命を守れ」。

「誰よりも先に、まず自分が逃げろ」と教えたのだ。

「真っ先に逃げるには余程の『勇気』がいる。非常ベルが鳴って真っ先に逃げるのは、『弱虫でおっちょこちょい』のように思われるかもしれない。」



「それでも逃げろ!」と教えられていた子供たちは、今回の大津波でも、「大声を出しながら、全力で逃げた」。

大挙して避難する子供たちを見て、津波に疑心暗鬼だった「住民たち」も、子供たちにつられるように避難を開始した。

これが片田氏の最大の狙いであった。子供たちは見事に避難の波を生み出すことに成功したのである。

「たいていの人間は、イザという時に『逃げるという決断』がなかなかできない。その決断の遅れが死を招く。」

最大の児童被害を出した「大川小学校」が、校庭に集まってなお協議を繰り返しているのは、この事例とは全く対照的である。



災害時になれば、誰しも「身内」の安全を気にかけ、「逃げる」行為を後回しにしてしまう。

まさか、自分だけが真っ先に逃げるわけにもいかないと思ってしまうのだ。

片田氏は、それでも「真っ先に逃げろ」と子供たちに諭した。

「家の人にはこう言いなさい。『イザという時、僕は必ず逃げる。だからお父さんもお母さんも僕のことは気にせずに、必ず逃げて欲しい』と」



東北地方には、「津波てんでんこ」という教えが伝わる。

津波が来たら、「てんでバラバラ」に逃げよという教えである。そうしないと、家族や地域が全滅してしまうからだ。

お互いが逃げのびることを信じて、あえてバラバラに散るのだ。この行為は、中途半端な信頼関係では実現することが極めて難しい。我が子を置いて逃げるのか?

この教えは、先人たちの「苦渋の決断」である。「津波のたびに、家族の絆が家族全滅を招いた不幸」を目の当たりにしてきた人々にしかできない決断である。

本当の絆の意味をわかっていなければ、決してできない勇断である。



釜石市の奇跡は、徹底した意識改革の成果である。

世の一般常識からは逸脱しているような教えを、必死で子供たちに教えてきた好結果である。

日本の常識では、ややもすると全滅という憂き目に遭いかねない。アメリカでは、日本よりも個人の危機意識が強い。

「街で一人倒れていたら助けろ。二人倒れていたら用心しろ。もし、三人も倒れているようなら、真っ先に逃げろ!」とあるアメリカ人は学校で教えられたという。



日本人は、リスクを「過小に見積もる」傾向があるという。

「自分に都合の良い情報を大きく見積もり、都合の悪い情報を小さく見積もる」という心理作用が強く働くのだ。

そのため、防災に関する備えは疎(おろそ)かになりやすい。

なにせ、防災の成果が現れるのは、「災害に遭って、何事もなかった時」だけである。

政治家たちも、道路を作れば喜ばれるが、堤防を作っても直接的には何の成果も見えてこない。さらに、その防災の成果は「何事もなかった」となるのだから、なおさら消極的にならざるをえない。

100万円の避難階段を高いと感じることもあるだろう。



しかし、「有事」に備えることこそが真のリーダーの役割である。

誰もが軽んじる「有事」を見据えてこそのリーダーである。優秀なリーダーほど「想定の守備範囲」は広い。「想定外」は最大の恥辱である。

たとえ何事もなくとも、それが「最大の成果」と信じればよい。防災への投資が「無駄」になって大いに結構である。



国民の誰しもが大なり小なり、何かしらかのリーダーである。「有事」を人任せにするわけにはいかない。全員がこうした意識を持つことで「最大の防災」へと道がつながる。

避難階段を作って、子供たちに道を示さなかったのは、大人たちによる決定的なリーダーシップの欠如である。

釜石の奇跡は、子供たちの見事なるリーダーシップにより達成された「当然の奇跡」である。




出典:時論公論 「生死を分けた学校の避難経路」
致知8月号「釜石の奇跡は、かくて起こった」


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2011年07月20日

韓国の高層ビルが、原因不明の大揺れに襲われた。その原因は、なんと……。共鳴のもつ、侮りがたき巨大な力。

およそ2週間ほど前、こんな奇妙なニュースが流れた。

「ソウルの高層ビルで、原因不明の揺れ10分間。数百人が避難」

そのときビルにいた人は、「ビルは上下に揺れ、吐き気がするほどだった」と語っている。



韓国では、「1995年に三豊百貨店が倒壊し、500人を超える死者が出た事故」があった。

そんな記憶や、日本の大震災の記憶までが重なったのかもしれない。

現場は大パニックに陥ったという。

憶測は憶測を呼び、「北朝鮮による、何らかの攻撃では?」とまで囁(ささや)かれていた。



ところが、昨日、揺れの原因が判明した。

その原因とは、「スポーツジムで行われたエクササイズ」だったという。

「ビルの固有振動数と、エクササイズの振動が一致したことが原因」だと説明された。

実証実験も行われた結果、やはり2週間前と「同じ揺れ」が再現できたという。



昔、NHKのサイエンスゼロで、10人くらいの人間が、一定のリズムで運動(反復横飛び)を続けることで、高層ビルをユラユラと揺らす実験をしていた。

そのリズムは、ビルの高さや構造により異なるが、小さな力でも、その振動数がビルと一致することにより、高層ビルという大型の建造物をも揺るがすことができるのである。



振動数のイメージは、メトロノーム。

一定時間内に何回のリズムを刻むかによって、それぞれの振動数が決定される。ビルには、そのビル固有の振動数、アキレス腱のようなものが存在するのである。



長周期地震なども、同じ原理である。

古くは1985年のメキシコ大地震のとき、2.5秒という地震の周期に、ビルの固有振動数が一致した建物は崩壊した。崩壊したビルは、高さ10〜15階のビルに集中していた。

先の東日本大震災においては、地震の周期は1秒以上だったおかげで、一般家屋の倒壊は少なかった反面、震源から遠くはなれた東京の超高層ビルが、大きく揺れた。

阪神大震災の周期は、東日本大震災の周期よりずっと短く、一般家屋の多くが倒壊した。

地震は、周期によって、被害の出る「建物の高さ」が変わってくるということだ。低い建物が壊れず、高い建物だけが崩壊することもあれば、逆のこともありうる。



振動には、「共鳴」という現象があり、振動数が一致したものは、離れていても振動が連鎖する。

音叉(おんさ)の原理が「共鳴」である。同じ周波数をもつ音叉同士は、ひとつの音叉を響かせれば、その振動は、無線のように離れた音叉をも響かせる。

ビルに限らず、あらゆる物体には、その固有の振動数が存在するのである。



今回のソウルのビル事件は、集団エクササイズが、ビルの固有振動数と一致したことにより起こったという、非常に珍しいケースである。

たくさんの人が同じ動きを、一定のリズムで繰り返せば、巨大なビルをも揺るがしてしまうとは信じ難いが、現実である。



中東の民主化デモなども、ツイッターやフェイスブックで、多くの人々が「共鳴」した結果、国家を揺るがすほどの大事に発展した。

インターネットの世界では、「共有」という概念(クラウド)が、一世を風靡しつつある。

「共有」、そして「共鳴」は、時代を揺るがす原動力となろうとしている。




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2011年07月15日

大津波から村民を救った和村前村長の置き土産。大反対を受けてなお建造された巨大堤防。

先の9日大臣を始め、現首相、最大野党などなど、日本には「まともな政治家がいないのか」という嘆きが聞かれるようになって久しい。

そんな中にあって、これからお話しする人物は、日本にも素晴らしい政治家がいたことを再確認させてくれ、新たな希望を感じさせてくれるはずである。



彼の名は「和村幸徳(わむら・こうとく)」。

岩手県の小さな漁村、「普代(ふだい)村」の村長であった。

彼は国を動かすような大事を成したわけではないが、彼の功績は、先の東日本大震災において、世界中から喝采を浴びることとなった。



その功績とは、東北随一の巨大さを誇る、大堤防と大水門を建造したことである。

これら和村村長の主導による津波対策のお陰で、3.11大津波の直撃を受けてなお、村民の犠牲を一人も出すことがなかった。

防潮堤の外側にあった漁業施設が、ほぼ全滅したにもかかわらず、防潮堤の内側の被害はゼロ。彼の偉業の大きさは絶大である。

「普代村の奇跡」と各メディアが絶賛した快挙である。



3.11の大津波を直接目にしていた村民は語る。

「高台から見ていましたが、津波がものすごい勢いで港に押し寄せ、漁船や加工工場を一気にのみ込みました。

バリバリという激しい音がして、防潮堤に激突。

みな祈るように見ていましたが、波は1メートルほど乗り越えただけで、約1000世帯が住む集落までは来ませんでした」(普代村漁協・太田則彦氏)

また、大津波は大水門をも5〜6mほど越えたというが、大津波は大水門に激突したあと、その威力を減衰させ、やがて止まったという。



もし、この大堤防と大水門が、あと1mでも低かったら‥‥、「村の被害は、計り知れなかっただろう」と村民は述懐する。

同じ県下の宮古市・田老地区の防潮堤は、高さが10mもあり、「万里の長城」と呼ばれていながら、今回の大津波に軽く飲み込まれてしまった。その結果、田老地区の死者・行方不明者は数百人にも及んだ。

普代村の防潮堤は、その万里の長城の1.5倍の高さ、15.5mもあった。しかし、それでも大津波は、この高さを越えてきたのだ。

確かに、あと1mでも低かったら‥‥。



しかし、この巨大防潮堤の建造は、一筋縄ではいかなかった経緯がある。

田老地区の万里の長城を遥かに上回る「巨大防潮堤」の建造計画には、反対しないものがいなかったというほどに、批判の集中砲火を浴びたのである。

「これほどの高さは必要ない!」

「無駄に金を使うな!」



それでも、和村幸徳村長は、一歩も譲らなかった。

1mたりとも防潮堤を低くすることを、頑(かたく)なに拒んだ。

必死で県に懇願し、最後には独断で、強引に反対派を押し切った。



なぜ、和村氏はそれほどまでに強い信念を持ち得たのか?

1933年、普代村は「昭和三陸地震」の津波により、600人以上の死傷者を出した。

当時の強烈な印象を、和村氏は回想録に記している。

「阿鼻叫喚とはこのことか。

堆積した土砂の中から死体を掘り起こしている所を見た時には、なんと申し上げてよいか、言葉も出なかった」



普代村の津波被害の歴史は、これだけにとどまらない。

1896年の「明治三陸地震」においても、1000人以上の犠牲が出ている。

過去の記録を遡れば、津波が15mに迫る現実があったのである。



だからこそ、和村氏は堤防、そして水門の高さを15mとして、ガンと譲らなかったのである。

彼の固い決意のもとには、反対派の意見などは、何ら障害となり得なかった。

そして、彼の歴史に残る英断は、彼の死後14年たった、2011年3月11日に、見事に証明されることとなった次第である。



彼は村長退任のときに語っている。

「村民のためと確信をもって始めた仕事は、反対があっても説得をしてやり遂げてください。

最後には理解してもらえる。これが私の置き土産です」。



あまりにも素晴らしい「置き土産」であった。

大堤防・大水門はもちろんのこと、彼の政治的信念と行動は、後世へ希望を与えた。

「政治」というものは、多少「現在」の犠牲を払ってでも、「未来」のために苦渋の決断をしなければならないこともある。

「今だけ」を考えて行動するのは、「精神的(スピリチュアル)」とは言えるかもしれないが、決して「政治的」ではない。



真の政治家の視点は、一個人のそれよりも、はるかに先を遠望するものであろう。

そして、現在の延長線上に、何らかの不都合を発見したら、悪人になってでも、未来のために軌道修正する人物こそが、真の政治家であろう。

「政治」という絵画は、充分な時を経てはじめて、その美しさを現出させてくれる。

現在、「政治」という言葉に、良い印象が少なくなってきているが、本来の「政治」とは、「まことに有り難いもの」であると信じたい。

和村幸徳氏は、そんな政治への希望を確信させてくれる。



命を救われた普代村の村民たちは、今になって和村氏の功績に気づかされ、感謝の念を深めている。

震災以来、和村氏が静かに眠るお墓には、多くの村民が訪れ、美しい花の絶えることがない。

「最近は、見たごどのねぇ方々がいらっしゃる。あの世に行っても、人さ呼ぶ偉大な村長さんだぁ」と近所の老婆はしみじみと語る。



村民ばかりか、日本中から多くの人々が普代村を訪れるようになった。

「(和村氏は)きっと天国でホッとされているのではないでしょうか」。当時の和村氏の苦労を知る役所の人にとっては、何とも誇らしい。

大津波を見事防ぎきった和村氏の大堤防と大水門を、「歴史的建造物」として史跡としようという動きまで持ち上がっている。



もし、東日本大震災が起こらなかったら、和村幸徳氏の名前は、小さな村にとどまっていたことだろう。

それどころか、大金を投じて無駄に巨大な堤防を造ったとして、悪人扱いされていたかもしれない。

ところが、幸か不幸か、大震災により彼の名前は、世界に鳴り響いた。そして、彼の果断は世界中の賛辞を浴びた。



和村氏の本心としては、大堤防が無駄となってくれることを望んでいたかもしれない。

大堤防が活躍するということは、三陸が再び大災害に見舞われるということだからだ。

それでも、万が一の備えは急務であった。歴史の「繰り返す」という習性ばかりは、如何ともしがたい。

天国の和村氏の心境は複雑であろう。



今、東日本大震災を体験した我々は、この大震災が「繰り返される」という前提で、防災機能を高めていかなければならない。

ところが、残念なことに、この大震災、そして福島原発の事故は、「特例」だとして、防災基準にはなり得ないという意見も多い。

かつてはチェルノブイリも特例扱いされて、原発の安全基準とはなり得なかった。

悪い意味で、歴史は繰り返されようとしている。



皆、汚名を買ってまで自分を犠牲にしようとは思っていないのかもしれない。

だが、100年の汚名を着る覚悟も、政治家には必要である。

目先の選挙結果が最大の焦点となっている現実は、民主主義の弊害である。

国民の意見におもねるだけでは民主主義の未来は暗い。時には、世論の間違いを指導する勇気も求められるだろう。

和村幸徳という人物は、一個の傑物ではあったが、日本で無二の政治家ではないと思いたい。彼と同じか、それ以上の人物が日本の在野に眠っていると信じたい。




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posted by 四代目 at 09:16| Comment(3) | 地震 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする