2012年11月12日

巨大地震と火山噴火。富士山、十和田カルデラ、白頭山


東日本大震災が発生した4日後(2011年3月15日)、「富士山」直下を震源としたM6.4の地震が起きた。

それはあたかも、東北の大揺れが富士山にまで「連鎖」したかのようであり、さらにその先には富士山の「大噴火」が待っているようにも思われた。



東北沿岸の震源域が複数枚にわたって連鎖したことに関しては「想定外」だったかもしれない。しかし、巨大地震と富士山大噴火の連鎖は「歴史が物語る事実」、つまり想定内である。

西暦700年代(8世紀)以降の富士山の活動を追っていけば、関東・東海地方で起きた13の大地震のうち、じつに11もの地震が富士山を刺激しており、大地震発生から約25年以内に富士山では「何らかの活動(噴火や鳴動、地熱活動)」が起きている。

なるほど、東日本大震災の直後に富士山直下の地震を受け、専門家たちが「すわ!」と身構えたのも故なきことではなかったのだ。



◎宝永噴火


富士山は過去3,000年間で3回ほど大噴火しているが、最も新しい大噴火は、今から300年以上前、江戸時代の「宝永噴火(1707)」である。

新井白石の回想記「折りたく柴の記」には、こうある。「家を出るとき、雪が降っているように見えたが、よく見るとそれは『白い灰』だった。地面は白い灰で覆われ、草木も白くなった。空が『非常に暗い』ので、灯りをつけて進講した」。

白石のいた江戸は富士山から100kmほど離れていたが、富士山のお膝元の浅間大社(静岡県富士宮市)では、天高く立ち昇る噴煙の柱が観測されている。そして、その噴煙は夜になると巨大な火柱となって明るく輝いた。

「夜は富士面の村里、明るきこと燈いらず。家の内まで暗きことなし(富士山噴火記)」



この時の大噴火を引き起こしたとされる大地震は、まず関東で起きた「元禄地震(1703)」。これは大噴火の4年前に起きている。

そして、直接の引き金になったとされるのが、東海地方で起きた「宝永地震(1707)」。この大地震のわずか49日後(12月16日)に、富士山は大噴火することになる(宝永噴火)。

南東斜面に新たな火口を開いた富士山は、その後16日間にわたってマグマを噴出し続け、推定7億立方メートルを辺りに吹き散らしたのだという。神奈川などの近場では砂や礫(小石)の大雨が何度も降り、火山灰は30cm以上も降り積もったと伝わる。

新井白石のいた江戸に降った火山灰も4cm以上、それはさらに遠くの茨城県霞ヶ浦、千葉県房総半島の突端にまで届いたということだ。





◎大地震と大噴火とプレートと


なぜ、大地震と火山噴火が連動するのかと言えば、それは双方ともに「プレート(地殻)の動き」によって引き起こされるからである。

日本列島という島々は、大きく分けて、列島の乗る「陸側のプレート」と太平洋から迫る「海側のプレート」に2分される。プレートというのは生き物のようにヌルヌルと動くものであり、海側のプレートは慢性的に陸側のプレートを中国大陸のほうへと押し付けている。



プレート(地殻)は非常に分厚い岩板でありながら、地球スケールで見ると「ゴムの厚い板」のように伸び縮みしたり、しなったりする。

そのため当然、押されればプレートは歪む。そして、あまりに歪みすぎると反発してビヨーンと跳ね上がる。その時の揺れが「地震」となる。



また、火山噴火の元となる「マグマ」も、そうしたプレートの動きにより発生する。

陸側のプレートと海側のプレートは、陸側が上になって大きく重なり合っており、海側のプレートはその下へ下へと潜り込もうとしている。そうすると当然、その両プレートの境目は「こすれ合う」。

こすれ合えば今度は「熱」が発生する。そして、その摩擦熱が岩盤を溶かし、マグマを発生させるのだ。



つまり、日本列島の乗る陸側のプレートの下に、太平洋の海側のプレートがグイグイと食い込んでくるほどに、地震の元となる「歪み」と火山噴火の元となる「マグマ」が同時にチャージされていくのである。

そして、歪みとマグマのそれぞれが「ある限界」に達した時に、それは地震となって、または噴火となって我々をビックリさせるというわけだ。

なるほど、プレートという巨大で鈍重な生物は、地震も起こせば噴火も起こすという怪物なのだ。



◎島だった伊豆半島


関東・東海の大地震が富士山の大噴火と直結するのには、然るべき理由がある。

そのキーとなるのは「伊豆半島」だ。



今でこそ静岡県にブラ下がるようにクッ付いている伊豆半島も、大昔は太平洋上に浮かぶ「独立した島」だった。

太平洋の南側にはフィリピン海プレートというのが存在するが、伊豆半島はその上に乗ってドンブラコと日本列島に接近。そして、本州に激突してクッ付いたのである。その証拠に、伊豆半島ばかりは日本列島の乗る陸側のプレート上ではなく、海側のフィリピン海プレートに乗っかっている。



今なお伊豆半島は本州を上へ上へと押し上げ続けている。その結果、箱根を挟んだ伊豆半島の両脇は右へ左へと押し退けられる。関東側は左斜め上(北北西)の方向へ、東海側はより左方向(西北西)へ。

伊豆半島の「押す力」と本州の「裂ける力」の境目、そこの隙間から湧き出てきたのが、お待ちかね、「富士山」である。まさに富士山はその間隙から溢れ出たマグマによって形作られたのだ。

その由来ゆえに、富士山は伊豆半島の乗っかっているフィリピン海プレートの動きによって、噴火のキッカケを与えらることとなるのである。富士山にマグマを供給しているのは、今も昔もフィリピン海プレートの滑り込みが生み出す摩擦熱だということだ。



◎300年間の沈黙


過去3,000年間に起きたといわれる富士山大噴火のうち、直近300年前の大噴火「宝永噴火」が直前の大地震によって触発されたことは先に触れた通りである。

そこからもう一つ前まで遡ると、平安時代の貞観噴火(864〜866)に行き着く。そして、この時の噴火も海側のプレートの一つ、フィリピン海プレートが動いていることが古文書などによって示唆されている。

さらにもう一つ前は、紀元前1,000年頃に短期間で複数回の噴火が起こったとされているが、こちらも房総半島の隆起や、九州・四国の太平洋岸の津波堆積物層の調査などから、やはり巨大地震と連動していた可能性が高いとされている。



現在の富士山は、最後の宝永噴火以来、およそ「300年間の沈黙」を保っているわけだが、それは逆に言えば「300年分のマグマ」が蓄積されていることをも意味する。

富士山にマグマを供給しているフィリピン海プレートは、年にcm単位といえども、この300年間、休まずに日本列島の下に潜り込み続けているのである。



◎前兆


火山噴火の前兆としては、火山直下の浅部を震源とする「群発地震」、そして「山体の膨張」が広く知られている。これらはいずれも、地下のマグマの動きが関係していると考えられている。

プレート移動の摩擦熱で発生するマグマは、周囲の岩石よりも軽いために、上へ上へと浮上する。しかし、ところどころで詰まってしまうため、岩盤の境目などに「マグマだまり」を形作る。富士山直下を見れば、地下約20kmのところに最も近いマグマだまりが存在する。



2000年から1年間、富士山直下では「低周波地震」の回数が増えた時期があったが、これはマグマだまりが何らかの活動を行った結果だと考えられた。

2008年から2010年頃には「山体の膨張」が確認されており、かの東日本大震災(2011)の直後にもやはり、山体の膨張は起きている。つまり、マグマだまりは沸々と「うごめいている」のである。





◎十和田カルデラ


有史以来、2度ほど富士山は大爆発を起こしているわけだが、じつはそれを上回る大噴火は「東北の火山」で起きている。

それが「十和田カルデラ(915)」の大噴火であり、「過去2,000年間に日本国内で起きた噴火では最大規模」といわれている。



現在、青森・岩手・秋田3県の交差する点に位置する「十和田湖」が、その痕跡である。

日本で3番目に深いとされる十和田湖(最大深度327m)は、「山は富士、湖は十和田、広い世界に一つずつ(大町桂月)」と謳われるほど優美な湖であるが、じつは「山の富士」が真っ青になるほど、荒々しい火山だったのである(湖である現在も活火山)。



その巨大噴火を引き起こしたとされる大地震が、平安時代の「貞観地震(869)」。それは東北地方の太平洋岸に大津波を引き起こした大地震でもある。

まずは、地震の2年後に「鳥海山」が噴火した。鳥海山とは山形と秋田の境目にある日本海側の火山である。

そして、鳥海山噴火の44年後、十和田カルデラが吹っ飛んだ。



その火山灰は足下の東北地方を埋め尽くすと同時に、「やませ」という夏の風にのって、遠く関西地方にまで飛来した。

「朝日に輝きがなく、まるで太陽が月のようだった。京都の人々はこれを不思議に思った」と京都・比叡山延暦寺の僧侶は記している。





◎朝鮮半島・白頭山


しかし、貞観地震の余波は、十和田カルデラだけに留まってはいなかった。

日本海を渡って朝鮮半島の白頭山(標高2,700m)の大噴火にまで連鎖していた可能性が浮上してきている。



この白頭山の大噴火に比べてしまえば、日本最大の十和田カルデラも真っ青だ。なにせ、「ここ2,000年間で世界最大の噴火」といわれるのが白頭山の大噴火なのだ。

その火山灰は日本海を悠々と越えて北海道、東北北部にまで至った。函館や青森での降灰の厚さは5cmを超えたと云われている。



ところで、白頭山という中国と北朝鮮の境にある山は、貞観地震の震源域とされる日本海溝からは1,000km以上もかけ離れている。しかも、地震発生から数えれば、白頭山の大噴火は約80年後の出来事である。普通に考えれば、貞観地震との相関は薄いと考えられる。

それゆえ長らく、白頭山の大噴火はハワイ島のようなホットスポット型、つまり単体の噴火だと思われていた。



しかし、地下600kmを調べてみると、中国大陸の白頭山といえども、日本海溝から下に潜り込んでいる太平洋プレートの上にあることが明らかに判る。

表面上は日本海溝で消える太平洋プレートも、じつは日本の乗る陸側のプレートの下を延々と斜め下に潜り続け、それが水平になるのはようやく大陸に至ってからのことだ。つまり、日本列島と日本海の真下には、ずっと太平洋プレートが続いているのである。

「白頭山という火山は、日本の東北地方の火山と同様、太平洋プレートの沈み込みに伴ってできたようだ」というのが最近の説であり、その噴火までに80年もかかったのは、「その距離が遠くて、影響が及ぶのに時間がかかったためだ」と説明されている。





◎警戒


そして、貞観地震から1,000年以上が経った今、東北地方でマグニチュード9.0という巨大地震、東日本大震災が起こった。

幸いにも現在のところ、東北地方の火山では活動の急変をうかがわせる目立った兆候は見られていない。しかし、専門家たちは今もなお一切の油断はしていない。



「世界でここ数十年間に起きたマグニチュード9クラスの地震を見ると、ほとんどの場合、『地震から数年以内』に付近の火山が噴火している」

東日本大震災からまだ2年も経っていないことを考えれば、東日本大震災の火山への影響が終息したとは決して断言できないのである。



遠く、中国・朝鮮の白頭山も然り。

白頭山が最後に噴火したのは、100年以上も前の1903年のことだというが、2000年頃から、付近で地震の回数が増える(群発地震)など「活動の高まり」が確認され、2002年以降は山頂部の隆起(山体膨張)も検出されている。



そして起こった東日本の大震災。この大地震を受けて、「中国と北朝鮮、韓国の地質学者たちが『異例の共同チーム』を結成して、山頂部の現地調査を実施」している。

日本海、そして国境を隔てているとはいえ、日本も中国も北朝鮮も韓国も、プレートという地質学の観点から見れば「一蓮托生」。たとえ多少の仲違いはしたとしても、「呉越同舟」ということか。



◎地球スケール


地震と噴火。

この腐れ縁の上に、われわれの国は築かれている。

地球スケールという尺度は、人間の尺度の何十倍、何百倍も壮大であるために、ついつい人間は地震や火山のことを忘れてしまう。だが、地球は決して忘れない。人間よりも小さな小さな動きを、休むことなく続けているのだ。



東北地方の太平洋岸への大津波は、500〜1,000年の間隔で何回も襲来している。たまたま、ここ200〜300年間、東北地方で巨大地震が起こらなかっただけである。現在、宮城県沖の巨大地震によるスーパーサイクルは600年間隔と考えられている。

北海道も然り。過去5,500年間に少なくとも15回の大津波が東部に襲来しており、そのスーパーサイクルは500年と推定されている。

東海・東南海における地震間隔は100〜150年。おおむね400〜600年に一度は巨大津波もやって来ている。

東京を含む関東地方では、関東大震災のような非連動型の大正タイプと呼ばれる地震の平均サイクルは200〜400年。より規模の大きい連動型(元禄タイプ)となると、その間隔は2,000〜2,700年。



いずれの統計も学説の域を出ないわけであるが、その呼吸が数百年単位であることくらいは見て取れる。そして、100年くらいは軽く「ブレる」。

日本列島周辺において、この大きな呼吸(数百年、数千年というスーパーサイクル)が数万年、数十万年というスケールで延々と繰り返されてきたのである。



「いつ起きても不思議ではない」

地震予測の主軸が、100年単位でブレる時間軸にあるということは、そういうことだ。その誤差は人間の平均寿命を軽く超えている。



それでも、地球的なスケールで眺めて見れば、東日本大震災が起こるまでは、おおむね平和な時代であったことに気づかされる。

ただ、マグニチュード9クラスという巨大地震の余波は、いまだ地下深くに生き続けていると考えていたほうがよさそうだ。

悠久と思われる富士の雄姿ですら、いつまでもそのままでいられるとは限らないのである…。







関連記事:
噴火、噴火のエトナ火山(シチリア)。人間にできることは…。

日本人の心の山・「富士山」。その信仰の歴史とともに。

想定外を生んだ未知のアスペリティ。東日本大震災



出典:日経サイエンス
「迫る巨大地震 最悪のシナリオ」

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2012年09月18日

想定外を生んだ未知のアスペリティ。東日本大震災


東日本大震災、まったく何も想定されていなかったかというと、じつはそうでもなかった。

東北沖は「地震の巣」。この地域においてマグニチュード7クラスの地震というのは過去に意外とたくさん起きている。しかも、おおむね規則正しい「周期」にのっとって。



たとえば、過去220年間を振り返ると、1793年以降、宮城県沖ではマグニチュード7以上の地震が6回起きている。その周期は25〜40年。単純に平均すれば37年というスパンである。

東日本大震災が起こる前、宮城県沖での最後のM7クラスの地震は、1978年6月12日のものであった。この地震のマグニチュードは7.4。仙台市などでは震度5を記録し、28名の方が亡くなっている。



さあ、次は?

もし、宮城県沖地震が周期的に起きるのであれば、最後に起きた1978年から25〜40年後が、次に予測される時期となっていた。それは2003〜2018年の間であった。



◎ワン・フェイク


地震の予知が単純な周期にのみ従うわけではないが、2003〜2018年にかけては、宮城県沖の「危険期間」となっており、その確率はじつに99%と発表されていた。

そして、2011年3月9日、「やはり、来た!」。マグニチュード7.3、最大震度は5弱。震源は予想通り、宮城県沖である。一時、津波注意報も出されたものの、間もなく解除。危惧されたほど大きな被害も出さずに、この地震は終息したかに見えた。



「3月9日の地震は単独で終わったように見えたので、安堵しました。思ったより被害も少なかったので、嬉しかったという部分もありました」

そう語るのは、東北沖の地震を20年以上研究してきた松澤暢教授(東北大学)。彼にとって、この地震は予知された想定内の地震であった。



しかし、後世のわれわれは、このわずか2日後に東日本大震災が起こったことを知っている。一難去って、また一難。しかも次の一難は特大級であったのだ。

3月9日の地震に比べれば、3月11日の大地震のエネルギーはおよそ360倍もの破壊力をもっていた(マグニチュード9)。



◎多すぎる余震


東日本大震災の2日前にマグニチュード7クラスの地震が起きたことで、地震学者たちは気を許していた側面があった一方で、気になる兆候に不気味さも感じていた。

「余震が多すぎるな…」

身体には感じない小さな地震も含めれば、3月9日から11日までの2日間で、なんと1,000回以上もの地震が宮城県沖を震源として起こっていた。



宮城県沖には東日本大震災が起こる半年前から、その海底にたくさんの「水圧計」が設置されていた。もし、プレート移動などによって海底が隆起すれば、それは水圧の変化となって現れる。つまり、水圧の変化を調べれば、地震の予知にも役立つことになるのである。

東日本大震災の2日前、3月9日のマグニチュード7.3の地震の際、震源地付近の海底は10cmほど上昇(隆起)していた。

一度地震が起こってプレートのひずみが開放されれば、その隆起は止まるはず。ところが奇妙なことに、マグニチュード7クラスの地震が起きたにも関わらず、その隆起はジワジワと小さく小さく継続していた。



多すぎる余震、そして隆起をやめない海底。

明らかに何か未知の事態が進行しつつあったのだ。



◎想定


それでも、大方の地震学者たちは、まさかマグニチュード9ほどの巨大地震が来るなどとは夢想もできなかった。

確かに、2004年にはスマトラ沖でM9クラスの地震が起きている。しかし、東北沖合の日本海溝沿いでは、「せいぜいマグニチュード8くらいだろう」というのが定説であった。



もちろん、震源域が「連動」して地震規模を巨大化させることも予想されていた。過去400年の記録を見ると、宮城県沖では2つのエリアが連動することは珍しいことではなかった。

しかし逆に、2つのエリアでしか連動した記録がなかったため、その連鎖は過小に見積もられていた部分もあった。「2つが連動しても、マグニチュード8.2くらいではないか」。

不幸にも、現実には4つも5つも連動してしまうわけだが…。



◎想定外


そして、運命の3月11日はやって来た。

午後2時46分、その出だしは小刻みな揺れだった。20秒後、揺れはドンと大きくなる。その衝撃は40秒ほど尾を引いた。「そろそろ終わるかな?」。

もし、ここで終わっていたら、それは想定内であった。ところが、その直後である。ドカン!と来たのは…! これが想定外の一発であったのだ!

その時、震源域の海底では、「起こるはずのなかった大連鎖」が起こってしまっていたのである。海底の水圧計によれば、なんと3mも一気に海底が持ち上げられていた(2日前のM7.3地震の30倍)。



東北沖では、継続的に海側のプレートが陸地のプレートの下に潜り込んできているために、慢性的に「ひずみ」がたまっていくことになる。そして、そのひずみが限界に達して開放されたときに地震となる。

海側のプレートの動きが継続的であるため、ひずみの開放(地震の発生)にはある程度の周期性が生まれることになる。これが宮城沖地震の周期性(25〜40年)にもつながるのである。

ところが、陸地のプレートとその下に入り込む海側のプレートの接する境界面は一様ではない。全部が全部、ベタッとくっついているわけではなく、ガッチリ固着しているところもあれば、スカスカに浮いているところもある。こうした「まばらさ」が、時として地震の周期を狂わせるのである。



◎アスペリティ


海と陸、2つのプレートがガッチリ密着している場所は「アスペリティ」と呼ばれる。そして、地震を起こす「ひずみ」は、このアスペリティに蓄積されている。

いうなれば、このアスペリティは上下のプレートを支える「柱」のようなものであり、この柱がひずみに耐えられなくなって折れてしまうと、その衝撃で地震が起こることになる。

ちなみに、東北沖合いには、およそ1,000以上ものアスペリティが確認されている。



普通の地震では、アスペリティが崩壊すると、支えを失ったプレートは一瞬で2mも3mも滑ってしまう。ところが今回、宮城沖ではもっと「静かな事態」が進行していた。

それは「ゆっくりすべり」と呼ばれるもので、一日で10cm程度しかプレートが動かない微細なものであった。このゆっくりすべりが始まったのは、東日本大震災のおよそ1ヶ月前、2月中旬頃から観測されていたのだという。



◎ゆっくりすべり


この「ゆっくりすべり」に伴って、小さな地震は頻発していた。いわば小さな柱がポキポキポキポキと折れ続けていたのである。そして、その震源は3月11日に向かってジワジワと動き続けていた。震源の移動は一日あたり2kmとか5Kmという牛歩のようなものであった。

しかし、この「ゆっくりすべり」は一旦止まる。それでも、これは終わりではなかった。止まったことによって、ひずみの力が蓄積されることになったのだ。まるでダムが大量の水をせき止めたかのように…。



最後まで粘っていたのは大震災の2日前の3月9日に地震を起こしたアスペリティであった。そして、このアスペリティが踏ん張りきれなくなった、まさにその時、「最後の引き金は引かれた」のである。

その場に十分すぎるほどに溜められていたパワーは、2日間に頻発した余震を伴いながら、ついには3.11大震災の震源となったアスペリティを直撃。ドミノ倒しのごとき「大連鎖」の始まりとなった。



◎隠れていた超巨大アスペリティ


じつは、東北沖のアスペリティはまだ全容が解明されていたわけではなかった。そして不幸にも、知られざる超巨大アスペリティが東日本大震災の主犯となったのだ。

3月11日の揺れは、2つの大きなピークをもっていた。1つ目が20秒後、2つ目が40秒後である。そして、より巨大で想定外だった2つ目のピークこそが、未知のアスペリティによって引き起こされた衝撃波だった。



ドミノの連鎖が致命的な破壊を招いた超巨大アスペリティ。これがズレ動いてしまったことで、過去400年間で見られることのなかった複数エリアの連動は起こってしまった。

まず、震源の北側のエリアが揺らされ、その衝撃が跳ね返ったかのように反対の南側のエリアも揺さぶられる。そしてそれはそのまま、福島沖、茨城沖へと波及し、その範囲はじつに南北200kmにも及ぶこととなった。

増幅につぐ増幅により、ついには未曾有のマグニチュード9までに達するのである。



◎灯台もと暗し


ところで、なぜそんな巨大なアスペリティの存在に気づかなかったのか。

それは「巨大すぎて」気づかなかった。まるで足下の島が巨大なクジラであることに気づかなかったかのように。



そもそも、アスペリティを特定するには過去に地震が起こったことが大前提となる。そのため、過去に地震のなかったエリアのアスペリティの存在は知りたくとも知ることができない。

過去に地震がなかったエリアには、まったく正反対の2つの解釈が成り立つ。1つはプレート間の固着がまるでなく、ズルズルズルズルとゆるゆるにプレートが移動している場合。この柔らかい場所に「ひずみ」がたまることはないため、地震を引き起こすことも考えられない。

もう1つは、プレートとプレートがあまりにも強固に密着している場合。ここにはとんでもない「ひずみ」が蓄積されているのだが、その踏ん張りの強さから、容易にはそのひずみを開放しないので、滅多なことでは地震を起こさない。いったん開放されるや、その一発は途方もなくデカいのだが…。



つまり、ひずみが全くない状態と、ひずみが極度に蓄積されている状態というのは、まったく正反対の性質をもちながらも、表面的には見分けがつかないのである。

東日本大震災の起因となった超巨大アスペリティは、過去に震源地となった記録がなかったために、アスペリティは存在しないという方に解釈されていたのである。

ところが、今回の大震災があって初めて、その巨大な黒幕はその存在を世にさらすことになったのであった。



◎知見の蓄積


「今回は残念でしたが、一方で貴重なデータも得られました」

水圧計の変化を見ると、東日本大震災により3mも隆起した海底は、その後8ヶ月をかけて40cmほど沈降している。

この潮が引くような沈降を調べることにより、知られざるアスペリティを新たに発見することもできる。なぜなら、もしアスペリティが隠れている場合、その場所が沈み込むことはないからだ。

東北沖のアスペリティは、こうした地道な活動によって1,000以上も特定さてきたのである。これは日本を取り囲む海域では、大変研究の進んでいるエリアである。



一方、西日本の南海トラフなどは、まだまだ未知の部分が多いという。

なぜなら、この地域ではマグニチュード8クラスの巨大地震は起きるのだが、それより小さい地震がほとんど起きない。そのため、アスペリティが顔を出してくれることがあまりないのである。



◎経験値


地震の根源となるアスペリティ。

しかし、その存在は地震が起こるか、もしくは起こった後の変化を見ることでしか明らかにすることはできない。いずれにせよ、動いてくれて、初めてその存在が判るのだ。

クジラも動いてくれなかったら、それを島と勘違いしてしまうかもしれない。



東日本大震災以降、東北沖に沈められた水圧計は、それまでの倍以上に増やされた。そして、その調査範囲は今までノーマークであったエリアにも拡大されている。

東日本大震災によって奪われたものも甚大であった反面、その教訓は確かに活かされつつもある。そして強化されつつもある。

地震の予知が困難なのは、実験室で地震を起こせないためでもある。ただただ実際の地震を詳しく観察して、経験を積んでいくしかないのである。



不幸な大震災の解析は、確実に後世のためとなる。

過去に想定外とされた巨大地震は、すでに未来の想定内となっている。

われわれの涙は必ず、のちの世代の笑顔となるはずである。われわれは確実に前へと進んでいるのだから…。







関連記事:
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出典:サイエンス・ゼロ
「最新報告! 明らかになった巨大地震の全貌」

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2012年04月11日

風評被害をどう受け止めるのか? 10年後の東北を見据える星野佳路氏とともに。


東日本大震災(2011)の被災地となった東北地方。

それ以来、「風評被害」という言葉が東北のアチラコチラから絶えず漏れ聞こえてくる。



風評被害という言葉には、「どうしようもない」「しょうがない」といった諦観が漂っている。

それもそのはず。今季の東北のスキー場などでは「集客が半減した」というところも珍しくなく、場所によっては8割減などという信じ難い数字までがあるようだ。

そんな恐ろしい数字を見てしまえば、「風評被害のせいだ」と責任追求したくもなるだろう。



それでも、「星野佳路」氏は10年後の東北を見据えている。

「(震災が起こる前の)2010年の東北よりも、2020年には遥かに強い東北をつくる」

星野氏はリゾート開発の達人であり、今までに幾多となく廃れた観光地に新しい息吹を送り込んできた。

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星野氏自身、東北に2つのスキー場を持つ(アルツ磐梯・裏磐梯猫魔、ともに福島県)。

さすがの星野氏といえども、今季の集客減は免れられなかった。原発直下の福島県は、被災地・東北の中でも最も不利な立場に立たされていたのである。



しかし、星野氏は今回の風評被害を「一時的なもの」と断じている。

その論拠は、福島と同じく原発事故を起こした「スリーマイル島(アメリカ)」に求められるのだという。



スリーマイル島の原発事故の翌年、確かに観光客は減った。

それでも3年もたつと、観光客は過去の実績を上回ると同時に上昇局面に入っている。

それはアメリカ同時多発テロ(2001)の起きたニューヨークにも同じことが当てはまる。やはり3年後には観光客が回復して上昇しているのだ。

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星野氏に言わせれば、地震や事故などによる落ち込みは「時間が解決してくれる」ということになる。

それよりも懸念しなければならないのは、「震災前」からくすぶっていた諸問題の方だという。それら長期に渡る諸問題は根が深いことが多いために、いつまでも足を引っ張り続ける危険性があるのだという。

悪いことにそれら旧来の諸問題は、風評被害という影に隠れてしまいがちなために、震災後に軽視される傾向にもあるとのこと。


星野リゾートの教科書
サービスと利益 両立の法則



たとえば、星野氏も手がけるスキー場産業の抱える問題は一筋縄では行かないようだ。

一時のブームに沸いたスキー場産業は、バブル期の過剰投資が仇となり、いまや設備更新のおぼつかないスキー場がほとんどだ。

設備が古くなれば客足は遠のき、客が減ればスタッフを減らす。スタッフが減ればサービスの質が低下し、来るのは閑古鳥ばかり…。

そうした悪循環が新たな悪循環が呼び、日本のスキー人口はピーク時から半減してしまっている。



そんなカツカツのスキー場に、風評被害は吹き荒れたのだ。

そのダメージたるや、息の根を止められんばかりである。その責任を東電に追求しようとするのも無理はない。

しかし、スキー場産業の抱えていた問題はそればかりであったのか?



スキーといえばヨーロッパが本場であり、200年前の歩くスキー(ノルディック)から始まり、ゲレンデスキー(アルペン)の歴史は100年を超える。スキー産業(レジャー)としての歴史でも80年以上。

そんなヨーロッパですら、1980〜1990年代にはスキー産業が落ち込み、抜本的な改革を余儀なくされている。その荒波の中、波濤に消えたスキー場は数知れず。



日本のスキー産業の起こりを戦後の1950年代と考えれば、本場ヨーロッパに遅れることおよそ20〜30年。そろそろ変革の時を迎えようとしてもおかしくはない。

ただ厄介なことに、バブル期における日本のスキー場の「成功体験」は忘れ難いほどに素晴らしすぎた。あの夢をもう一度…、と思うのが人情だ。それゆえに、過去に固執してしまいがちで、改革の火の手もなかなか上がらない。

そうこうするうちに、客はドンドン離れ、ますます新たな一手を打つことがためらわれ、手をつけられないほどの悪循環がスタートしてしまったのだ。



そして不幸にも、風評被害はそんな東北のスキー場産業を直撃した。

この風評被害は東北にあまりにも悲惨な結果をもたらしたため、多くの人々はその責任を「外部」に求めた。「賠償しろ!」と。

そんな中、少なくとも星野氏のような人達は、もっと深い部分の原因を見つめていた。



星野氏は、こう考えた。「情報戦に敗れた」と。

風評というのは、とどのつまり情報の一種である。

「実態と違う情報(風評)を持たれてしまったことを含めて、それが私たちの実力なのだ」

より正確で魅力的な情報を提供することこそが、観光産業の仕事だと星野氏は肝に命じているのである。




歴史を振り返れば、控えめな日本国民は情報戦に敗れがちである。

なぜ、アメリカは真珠湾攻撃をあれほど喧伝したのか?

なぜ、中国は南京大虐殺をあれほど強調するのか?



歴史上の事実に真実はあれど、ただ座してばかりでは「言ったもん勝ち」になることも珍しくない。その点、人の記録する歴史というのは非情なのである。

風評被害という実害はあれど、そればかりに囚われすぎてしまっては、歴史の敗者となってしまう恐れもあろう。



もし第二次世界大戦に敗れた日本が、原爆を投下したアメリカの非ばかりを鳴らしていたのでは、世界を驚かせた高度経済成長を実現できなかったかもしれない。

日本は散々な目に遭いながらも、進み続ける道を選んだのではなかったか。かつての敵であった国々とも手を結んで。



星野氏は言う。

「自分が被害者だと思っている限り、東北の観光は本当の意味で復興しない。

本当の問題は3.11(東日本大震災)前からあったのだ。」

風評被害という困難を前向きにとらえるのであれば、それは過去の誤ちを修正するための絶好の機会ともなりうるのかもしれない。

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星野氏の力強い言葉に感銘を受けた若き東北の志士たちは、今立ち上がろうとしている。

「凄く熱い心になっています!」



10年後の東北はいったいどんな姿をしているのだろうか?

その頃、今の若き志士たちは新たな志士を続々と生み出しているのかもしれない。




奇跡の職場 
風評被害から職場を守り抜いた人々




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出典:東北発☆未来塾 
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posted by 四代目 at 13:09| Comment(0) | 地震 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月08日

地震予知の代名詞たるナマズ。そのナマズの感じている微細な電波が見えてきた。


「地震は予知できるのか?」

地震大国・ニッポンにおいて、この問いは何度も浮上し、そのたびに沈んでいった。

それでも、日本人たちにとっての地震予知は、悲願でもあり渇望でもあり続ける。



江戸の日本人たちは、「ナマズ」にその助けを求めた。

「安政見聞誌」にはナマズの地震予知に関する、こんな逸話が残る。



安政の大地震(1855)の起こる数時間前、ある男は夜の川釣りを楽しんでいた。

その男の狙いはウナギである。ところが、その夜に限ってナマズがひどく騒ぐ。ナマズが騒ぐからか、ウナギはみんな逃げてしまったようだ。釣れるのは、パニクったナマズばかり。



「なんで、ナマズがこれほど暴れるのか?」と不思議に思ったその男は、ふと思い至る。

「さては、大地震か?」。

ナマズが騒ぐ時は地震があると言われていたことを思い出したのだ。



さあ、今度はその男がパニクった。

慌てて家に駆け戻るや、家財の一切を庭へと運び出す。

夜中のトンだ大騒動に、男の妻は呆れるやら、笑えるやら…。



幸か不幸か、その男のカラ騒ぎはカラ騒ぎに終わらなかった。

その数時間後である。江戸直下で巨大ナマズが大暴れしたのは。

大名屋敷は全壊多数、江戸に起こった大火災は半日以上も町を焼き続けた。マグニチュード6.9ともいわれる江戸直下の大地震。安政の大地震であった。




この大地震の直後、江戸の町には「鯰絵(なまずえ)」と呼ばれる錦絵が大流行。

その錦絵に描かれたナマズは、「鹿島大明神」にその頭を押さえつけられている。鹿島大明神が両手に抱えるは「要石(かなめいし)」。その巨大な石がナマズの動きを封じているのだ。



鹿島大明神がナマズを封じている間は、地震が起きない。

ところが、鹿島大明神は外出する時もある。たとえば、10月(神無月)には出雲まで出掛けて、神々の会合に参加しなければならない。

そんな時、鹿島大明神はナマズの押さえを「恵比寿さま」にお願いしていくのだが、どうやら恵比寿さまの押さえは鹿島大明神ほど強くはないようだ。大地震が起こるのは、決まって恵比寿さまが留守番をしている時なのだから…。



こんな神話めいたナマズと地震との関係は、単なる俗信なのであろうか?

1976〜1992年の16年間、東京で飼育されていたナマズは、東京で起こった震度3以上の地震87例のうちの、27例を「10日前」に検知したという(畑井博士)。打率に直せば、3割1分だそうである。



もっと科学的に説明する人は、ナマズの「電気」に対する敏感さに言及する。

ナマズほど電気に敏感な魚も珍しく、その感覚の鋭さは人間の「100万倍」とも言われている。ナマズは数キロ先で水中に落とされた乾電池に気付くほど、電気に対しては過敏なのだそうだ。



ちなみにウナギはナマズよりももっと繊細らしく、ナマズの10倍以上の感度があるのだとも。

その点、先の安静見聞誌でウナギがいなくなっていたのは、ナマズが騒いだからではなく、ウナギはもっと先に異変を察知して退避していたとも考えられる。



ところで、地震と電気にはどんな関係があるのだろうか?

大地震というのは、突如として起こるようでいて、実は地中深くでは小さな前駆現象が発生していると考えられている。たとえば、大きく揺れる前には、地下で「小さな割れ」が幾多と生じている。

※微小岩石破壊(マイクロフラクチャ)と呼ばれるその小さな割れは、震源付近の圧力が高まるにつれて必ず起こる現象である。

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地盤の圧迫、そして摩擦は「電気」を生む(圧電効果・摩擦電気)。

この電波は非常に微弱である。周波数の区分でいえば「超長波(ULF・Ultra Low Frequency)」と呼ばれる最も微(かす)かなものである。



人間には到底感知できないほどの微弱さであるが、ナマズはそれを知ることができる。ナマズは1〜30Hzの低周波に敏感に反応するのである。

ナマズの感知する30Hz以下の低周波は、ELF(extremely low frequency)と呼ばれ、 電波としては最も弱い周波数である。



大地震の前の微小岩石破壊(小さな割れ)が発する微細な電波が初めて確認されたのは、1988年のスピタク地震(グルジア)。次いで、翌年のロマプリエタ地震(カリフォルニア)でも観測されている。

それ以来、地震の前には「電気」が起こる、という考えが地震予知の世界を広げていくことになる。



それまでの地震予知と言えば、大地震の前の「小さな揺れ(前震)」をいかに早く感知できるかが大きな課題とされていた。

ところが、前震をともなう地震は全体の2〜3割程度と言われており、いくらそれを追い求めても、その精度の限界は明らかであった。



たとえ前震は検知できずとも、前震以前の小さな割れ(微小岩石破壊)は必ず地下で生じている。その小さな割れを知るには、それによって発生した電気を見つければよい(ナマズがそうしているように)。

さらに最近、その小さな電気はナマズのヒゲを揺らすだけでなく、上空80km以上に広がる「電離層」にも変化をもたらす可能性があることも示唆されている。

阪神淡路大震災(1995)の時、電離層の擾乱(じょうらん)が早川教授により確認されている。




「電離層(地上80〜500km)」というのは、文字通り電気が離れる(電離する)層であり、具体的には原子が「電子とイオン」に分離する(プラズマ)。

※その分離するキッカケを与えるのは、太陽光による電磁波であるため、昼と夜では電離層の厚さは変化する。太陽エネルギーの強い昼間は電離層の密度が高まり、逆に夜間は薄くなる。



この電離層の特性は、電波を吸収、または反射すること。

周波数の高い電波は電離層を通り抜け、宇宙まで届き、周波数の低い電波は電離層によってすぐに跳ね返されてしまう。

各種の電波通信は、この電離層の特性を利用したものであり、跳ね返りやすい低周波は長距離回線に、透過しやすい高周波は宇宙との交信に用いられる。



昼と夜でも密度が変化するように、電離層というのは多分に可変的である。

たとえば、ひとたび巨大な太陽フレアが発生すると、地球の電離層は大きく影響を受けて変化するため、地球上の各種通信には障害が発生する(デリンジャー現象)。



早川教授によれば、大地震前に微小岩石破壊によって発生する微細な電波でも、この電離層に変化をもたらすのだという(電離層擾乱)。

彼の率いる「地震解析ラボ」では、その電離層の変化を察知するために、日本全国に設置した送受信機で絶えず電波を飛ばしており、異常があれば通信速度の変化として知ることができる。

大地震の前の電波異常は、およそ1週間前には検知されるとのこと(的中率6〜7割)。地震解析ラボでは、こうした情報を一般公開しており、月額210〜525円での配信サービスも行なっている(過去に発表された予測情報は、オンラインで公開中)。

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先の東日本大震災においても、電離層に変化が生じたことを、アメリカのNASAが正式に発表している。

その観測結果によれば、電離層における電子の量が劇的に増加していたそうである。



こうした最新の地震予知に関しては異論も多いため、政府としても腰が重くならざるをえない。

それでも、この分野の研究は大地震が起こるたびに、大きく前進して行っているのは確かなようである。

実際の揺れを検知する時代から、今は「揺れ以前」の電気的変化を察知する時代に差し掛かりつつある。そのための人工衛星もフランスは打ち上げている(2004)。



幸か不幸か、日本の地震予知研究は世界に先んじている。

それは地震大国・ニッポンにおける苦難の歴史の恩恵でもある。



「地震は予知できない」と諦めるのは簡単であり、地震予知の研究を否定することもまた容易である。

しかし、ナマズをバカにする人がいた一方で、ナマズから電離層までたどり着いている人々がいることも忘れてはならないだろう。




じつは、冒頭の安政見聞誌には、2人の男が登場している。

一人は先に語った通り、地震前から慌てて家財一切を庭に運び出した男。

もう一人の男は、ナマズがたくさん釣れると喜んで、ひたすら釣りを続けていた。彼が大地震に気付くのは、大揺れの後。

それから慌てて家へ飛んで帰ると…、家も蔵も、すべてが崩れ去った後であった…。



ナマズが釣れたと喜ぶのか、それとも、もっと価値のある(美味しい)ウナギを追い求めるのか?

地震予知に日夜研究を重ねる人々の狙いは、明らかにウナギの方なのであろう。







出典・参考:
ナマズと地震との関係
地震解析ラボ
教訓どう生かす? 地震観測の最前線 テレビ東京WBS特集



posted by 四代目 at 06:28| Comment(0) | 地震 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月13日

大地震を引き起した「空白域」とは? 想定内であり想定外であった東日本大震災。


「想定外」と一口に言えど、そこには様々な想定がある。

東日本大震災ほどに大規模な災害となると、「想定外」と言われれば、「さもありなん」と大いに納得してしまう。ところが、これほどの大災害ですら、「想定していた人々」は確かにいたのである。大袈裟すぎると馬鹿にされながらも…。

たとえば、「島崎邦彦」氏は宮城県沖の「大地震」の可能性を警告していた。



彼の想定の根拠は、プレートの「空白域」にあった。

空白域とは、何千年もプレートが動いていない帯域のことである。地震学の基本的な考え方に従えば、何千年も動いていない部分には、相当のエネルギーが蓄積されている可能性が高い。そのため、ひとたび動けば、大地震を引き起こす危険性がある。



宮城県沖には、過去に大地震をもたらしたプレートがいくつかある。

明治三陸地震(1896)、慶長三陸地震(1611)、延宝房総沖地震(1677)…。

しかし、それらのプレートの狭間にあって、未だ大地震を記録していないプレートが一部分残されていた。それが島崎氏の警告した「空白域」である。そして、それが今回の東日本大震災を引き起こしたプレートでもあった。

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この「空白域」という考え方が一般化したのは、今から30年以上前の「根室沖地震(1973)」においてである。

北海道沖合のいくつかのプレートの中でも、この「根室沖」だけが過去の大地震の記録がなく、いわゆる「空白域」と認識されていた。ところが、その不気味な静けさを保っていた「空白域」は遂に躍動し、根室沖の大地震を引き起こしたのである。

こうした実例から、宮城県沖の空白域は、いつ動いてもおかしくない一触即発の状態にある、と島崎氏は考えていた。彼は国の地震本部で重要な役割を占めており(長期評価部会長)、長期的な「地震の予測」を作成するという重責を担っていた。



ところが、島崎氏の警告は「思わぬ反対」に合う。それは防災の立案を行う「中央防災会議(内閣府)」の反対であった。その反対の理由は、「十分な資料がない」ということだった。

これは実に奇妙な見解である。資料がないからこそ、「空白域」と呼ばれているのであり、それゆえに危険度が高いのである。

島崎氏は唖然とするより他にない。



最終的に内閣府が「想定」したのは、「実例」のある「塩屋埼沖地震(1938)」であった。この地震は、空白域の手前にあるプレートが引き起こした地震で、言ってみれば、空白域に蓄積された巨大なエネルギーの一部が「小出し」にされたようなものである。

たまらず島崎氏は「なぜか?」と問いかける。

「効果的に人や金を配分する必要がある」というのが、その答えであった。



想定とは「目に見えること(現実に起こったこと)」だけに対するもので十分なのであろうか。「目に見えないこと(未だ現実化していないこと)」を想定する必要はないのだろうか?

目に見えることだけに囚われていては、「未曾有(未だかつて無い)」と呼ばれるような事態には、一切対処できないということになってしまう。



政治的な想定は「過小評価」されがちであり、逆に科学的な想定は「過大評価」し過ぎることもある。

そのことを考慮した内閣府の最終決断は、「ギリギリのバランスのとれた意思」により、政治的な過小評価に大きく傾いた。結果的に、島崎氏の空白域は完全に無視されることとなった。しかし、この静かなる空白域が大きく波打つのは…、時間の問題であった…。



苦渋を飲まされたのは、島崎氏ばかりではない。「箕浦幸治」氏もまた、過大評価だ(大ゲサだ)という理由で、業界の爪弾きにあった人物である。

箕浦氏の研究していたのは、「地層」である。彼は幾多の地層調査から、過去の大地震の痕跡に気付いていた。津軽沖(1341)、渡島沖(1741)、鯵ヶ沢沖(1793)、山形沖(1833)、日高沖(1856)…。

そして、宮城県沖では貞観地震(869)の時に、大津波が運んだ大量の砂の地層を発見していた。貞観地震は「日本三代実録」に残る大津波を、東北の太平洋沿岸一帯にもたらした大地震である。そのため、箕浦氏の想定の中には、今回の大津波ですら視野に入っていた。



ところが、時はバブル全盛(1986)。大津波の可能性があるなどと喧伝されては、沿岸の土地の価値が大いに下がってしまう。箕輪氏の発見は、経済界にとって大いに不都合。

箕輪氏の研究資金は絶たれ、度重なる脅迫により日本国内にすら居場所を失い、遠くカムチャッカの地まで追い立てられてしまった…。



しかし、浮かれた日本にも聞く耳は残っていた。

箕輪氏の指摘を受け、「岡村行信」氏は宮城県沿岸を5年以上かけて400ヶ所以上の調査を行い、明らかに貞観地震の大津波の跡を各地に見出した。当然、福島第一原発へも警報を発した。

ところが、先にも記したように、国が想定するのは「塩屋埼沖地震(1938)」ばかりである。貞観地震(869)などと言っても、「は? いつの話?」となってしまう。



それでも、岡村氏は訴える。「貞観地震においては、塩屋埼沖地震とは全く比べものにならないほど非常にデカい津波が来ているのです!」

しかし、東京電力には聞く耳がない。「被害がそれほど見当たらない」との返答。貞観地震の記録は、平安時代の「日本三代実録」のみ。

しかし、その中には多賀城が破壊されたという記述があると主張した岡村氏の健闘虚しく、原子力安全保安院による本報告は「先送り」にされた。そして、その本報告は、東日本大震災よりも「先送り」されてしまった…。



結局、箕輪氏の発見は生かされなかったのか?

「捨てる神あれば、拾う神あり」。幸いにも、東北電力は箕輪氏の研究を高く評価した。女川原発(宮城)の増設にあたっては、箕輪氏の意見が十分に考慮されていたのである。



そして、運命の3月11日。東日本大震災、そして大津波。

箕輪氏の話を聞いていた女川原発は、大津波を食らいながらもほぼ無傷。

一方、岡村氏の警告を一蹴した福島第一原発は、世界最悪の原発事故を起こしてしまった…。



「嗚呼…」

識者たちは、天をあおいだ…。



今、大津波の被害受けた宮城平野では、貞観地震の時の地層が露出しているところもある。平安時代の大津波(869)とはいえ、地層としては、それほど近い過去だったのである。

太平洋沿岸の大地は、親切にもその痕跡をしっかりと留め置いてくれていた。しかし、その声なき大地の声に耳を傾けていたのは、箕輪氏、岡村氏などの少数の識者のみでしかなかった。



昔々、中国での話。

秦という国の宰相(趙高)は、「鹿」の掛軸を指差して、「馬である」と言い放った。

周囲の群臣の反応は?「う…、馬で…、ございます…」

趙高の権勢を恐れた人々は、鹿を馬と認めた。一方、正直に「鹿です」と答えた者たちは…、殺された(史記)。

「馬鹿」な話である。



しかし、この馬鹿な話は、現代においても確実に存在している。

島崎氏、箕輪氏、岡村氏などは、正直に「鹿です」と答えた人々であろうか?

そして、「想定外」と公言する人々は…。




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出典:ETV特集 シリーズ
 大震災発掘 第1回「埋もれた警告」


posted by 四代目 at 08:09| Comment(0) | 地震 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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