閣議決定した脱原発の関連法の施行を待たずに、6月9日、暫定停止していた2基の原発の「廃炉」を決定した。
ヨーロッパでは、ドイツのみならず、スイス、オーストリア、イタリアも、脱原発の姿勢を打ち出している。
原発推進国のフランスでも、国民の世論調査で8割近くが、「原発反対」という結果だった。
日本は?
菅首相の突発的な発言をうけ、「浜岡原発」が停止。
浜岡原発を抱える「中部電力」は、突然の原発停止により、決定的な「電力不足」に陥る。
余裕のなくなった中部電力は、「東京電力」と「九州電力」に援助していた電力供給を停止。
さらに、原発により失われた電力を「火力」で補おうと、カタールと緊急交渉して、天然ガスの緊急輸入を決定。
何とか今夏の電力を確保しようと必死だ。数字上は、需要を満たせる目処が立ってきたものの、もし、何らかのトラブルがあれば、危機的状況に陥るという「綱渡り」状態だ。
ヨーロッパの脱原発国の電力は足りているのか?
足りていない。しかし、ヨーロッパ各国は、「地続き」であるため、電力を「輸入」することができる。
日本は、四囲が海であるため、電力を他国から輸入することはできない。
電力を「輸入」できるか否か。これは日本とヨーロッパの決定的な違いである。
また、自然エネルギーの活用を目指すドイツの電気料金が「高い」ことも忘れてはならない。
原発を捨てるからには、国民も電気料金をドンと払う覚悟が必要である。
おそらく、脱原発は「善」であろう。
しかし、「善」ならば、何をやっても良いのか?
昔、ソ連の共産主義者は、国境なき世界を目指し、そのためならば、ウソをついても、人を殺しても「是」とされた。
「国境なき世界」は「善」であろう。しかし‥‥。
たとえば、タバコは「悪」であろう。
「悪」ならば、禁止にして良いのか?
昔、アメリカでは「酒」が禁じられた時代があった。その結果、闇の取引が横行した。禁酒法は「小悪」を駆逐したものの、「巨悪」を生み出してしまった。そして世界恐慌が引き起こされた。
原子力は「善」か「悪」か?
おそらく「善」であり、「悪」である。
この矛盾は興味深い。どちらの解釈も正しいため、国民が、そして世界が2つに割れる。
たとえば、今回の浜岡原発停止は「善」であり、「悪」である。
たとえ良いことでも、過度に行えば、「悪」になることもある。
タバコは身体に悪いからといって、強制的にタバコを取り上げられたら、ヘビースモーカーは精神に異常をきたしてしまうかもしれない。
牛乳は身体に良いからといって、無理やり牛乳を飲ませたら、牛乳アレルギーの人は死んでしまうかもしれない。
たとえ悪いことでも、少しずつ行えば「善」になることもある。
放射能が身体に悪いといっても、ごく微量を浴びる分には、健康増進につながることもある。放射線を発する「有馬温泉」には、皆ありがたがって入りに来る。
お酒が身体に悪いといっても、日本人は「酒は百薬の長」と信じて疑わない。
原子力発電は、絶対的な「善」でもなければ、絶対的な「悪」でもない。
原発を続けるにしろ、やめるにしろ、その「やり方」に善悪が生じるのみである。
よって、原発それ自体の善悪を議論することは、不毛であり、もし、絶対的な善悪を決めてしまったら、それは害悪となりうる。
かつて、アメリカが「オオカミ」を「悪」と決めつけて、徹底的に殺しまくったことがあった。
その結果、オオカミに食べられなくなった「シカ」が爆発的に増加。シカは植物を食い荒らし、生態系を大きく歪めてしまう。
また、「クジラ」を「善」と決めつけて、クジラを過度に保護する傾向がある。
その結果、クジラが増えすぎて、イワシが激減したという話もある。
「オオカミ」も「クジラ」も、それ自体に善悪はなく、生態系にとっては、それぞれ「然るべき役割」があるだけである。
原発もやはり、人間社会という生態系において、「然るべき役割」がある。
この「然るべき役割」は、絶対不変のものではなく、時の流れとともに、役割も変わりゆく。
必要とされれば増えてゆくし、不要とされれば減ってゆく。
日本の原発政策が起動して、50年以上。
その根が浅かろうはずがない。
原発が役割を終えるにしろ、よほど丁寧に掘り起こさなければ、のちに禍根を残す。
「有終の美」ほどに難しいものはない。