2011年07月09日

冷戦の遺物「原子力潜水艦」の廃棄艦は、いまだに放射線を放ちながら海に浮かんでいる。


原発、原発と世間が姦(かしま)しいが、原子力発電所は海中にもウヨウヨしている。

海の原発とは、「原子力潜水艦」のことである。

「原子力潜水艦(原潜)」は、地上の原子炉なみの出力をもち、自由自在に動き回るのみならず、敵の艦隊や原潜を付け狙いうという物騒極まりない存在である。おまけに核兵器まで積んでいることすらある。



地上で起きる原発事故というのは、チェルノブイリ、スリーマイル、フクシマなどのように、蜂の巣を突ついたように、世間を騒がせるが、原潜事故となると、国家機密も関連するために、地上ほどには騒がれない。

しかし、騒がれないからといって事故を起こしていないわけでもない。

アメリカの原潜は、1963年と1965年に、それぞれ一隻づつ、計2隻の原潜が沈没し、乗員228名が死亡している。

旧ソ連・ロシアにおいては、1968年、1970年、1983年、1985年、1986年、1989年、2000年と、計7回、7隻の原潜が海中の藻屑となり、計232名が死亡している。

原子力潜水艦が沈むということは、その艦に搭載されていた核兵器や原子炉、核燃料などの「放射性物質」も、同時に沈むということである。当然、それら放射性物質は、現在も海底で放射線を放出し続けていることになる。



これら、幾多の原潜事故のうち、最も世間の耳目を集めたのは、2000年にロシアが起こした原子力潜水艦「クルスク号」の沈没事故であろう。

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この事故において、ロシア政府の対応があまりにも醜悪だったために、時の世論は非難轟々であった。

まず、事故を「隠蔽」しようとし、隠蔽しきれなくなり、事故を「過小評価」。そして、最後は「責任転嫁」である。



原潜「クルスク号」が沈没したのは、2000年8月12日。

原因の詳細は明らかではないものの、とにかく途轍もなくデカい爆発が2度起き、原潜の艦首部分が大破。

この事故は、ロシアの海軍演習中の出来事であったために、ロシアのみならず、世界各国がこの爆発の情報を即座にキャッチした。音波探知機には「耳をつんざくような轟音」が鳴り響いたという。

しかし、ロシアの動きは緩慢で、救助作業を開始したのは翌日。事故を公表したのは2日後。ロシアの手に負えないとして、外国への支援要請したのは、事故から何と4日も経っていた。



爆発後、118名の乗組員のうち、少なくとも23名は生存していた。それは後に引き揚げられた遺体のメモ(暗闇の中、手探りで書かれた模様)により明らかとなった。

つまり、もし、ロシアが迅速に救助活動を行っていれば、最低でも23名は助かっていたかもしれないのである。このことが、この事故の悲劇性を大きくし、国民の反感を買ったのである。

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ロシアの救助は、まことに稚拙なものであった。原潜クルスクの沈んだ海中90mというのは、ダイバーの到達できる海域でありながら、救助に必要な要員や機材がロシアにはなかった。

この事実を認め、イギリスとノルウェーに支援を要請したのは、事故から4日がたっていたものだから、乗組員の死亡はすでに確定的であった。原子炉が停止し、電源は喪失、艦内の酸素は徐々に失われ、浸水とともに溺死したと推定されている。乗組員118名が全員犠牲となった。



なぜ、ロシアの対応は、これほどまでに非人道的であったのか?

それは、人命よりも国家機密が優先されたためである。原子力潜水艦というのは、国家機密の塊のようなものである。救助を他国へ要請すれば、その秘密の一端(原潜の設計図など)を明らかにしなければならなくなるのだ。

特に、この事故の起きた軍事演習は、ソ連崩壊後に衰退したと思われていたロシア海軍の威容を世界に示す目的があった。

偉大であることを世界に見せつけるはずが、原潜の事故、そして稚拙な救助の失敗。まさに国辱である。おいそれと他国に「助けてくれ」とは言いにくかったのだ。



旧ソ連、そして敵国アメリカは、冷戦時代に原子力潜水艦を造りまくった。

燃料を補給することなく何年でも潜水していられる原潜は、潜ってしまうと探知が極めて困難で、原潜には原潜で対抗するしかなかったのである。

原潜に搭載される核兵器は、一隻の原潜で、いくつもの都市を壊滅させるに充分な破壊力を有していた。その気になれば、地球を破壊することまで可能であった。

その原潜の強力さが、米ソ両国間の大きな抑止力となり、核戦争は回避されたというが、冷戦後に残された原潜は、いまや厄介な放射性廃棄物に過ぎない。

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ロシアで解体を待つ原潜は200を超えるという。

原潜を造るよりも、解体するほうが遥かに難しい。何せ原子炉がそのまま入っているのだ。一歩間違えれば大惨事である。

丁寧に丁寧に解体して、原子炉を取り出し、それを100年以上も保管しておかなければ、最終的な処理はできない。原子炉の放つ放射線はそれほどに強力であり、時間をかけて待つより他にないのである。

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20数年間、ロシアは、不要となった原潜を海上(バレンツ海)に放棄していた。

それらサビついて老朽化した原潜の放つ放射線は、チェルノブイリ爆発の何倍にも上る量となっている。

ロシアと国境を接し、バレンツ海を共有するノルウェーにとって、放射性廃棄物の放置は黙認できることではない。

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他国からのクレームもあり、ロシアは渋々解体作業を継続しているが、放射能の危険もあり作業は遅々として進まない。

200ある原潜のうち、一年に解体・移動できるのは、せいぜい7隻だという。となると、今から20〜30年は、この作業を続けなければならない。

移動が完了しても、処理が完了するわけではない。害の少ない場所に移し変えるだけで、問題は先送りされるに過ぎないのである。まあ、海にプカプカ浮かんで、いつ沈むか分からないよりは、よほどマシではあろうが。

日本も安穏とはしていられない。極東のウラジオストク港にも、ゴミと化した原潜がプカプカと浮いている。



人類は、核兵器を造り、核の脅威を生み出したが、その脅威は、現在、「核汚染」の脅威となっている。

熾烈な核製造競争は、過剰な放射性物質を地球上に生み出した。

核兵器が削減されても、一度作られた放射性物質は、何世代にもわたって保管・処理をしなければならない。

現在、ロシアには、処理を待つ放射性廃棄物が、山ほどある。これらは、次世代、次々世代、次々々世代への不幸な贈り物であり、最も醜い遺産である。

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原子力発電所から出る放射性廃棄物も同様である。確たる処理方法のないまま、何百年、何千年分の危険なゴミが延々と排出され続けている。



森の動物たちは、自分たちの生きた痕跡を極力残さない。

人間たちは、自分たちの偉業を後世に知らしめんと、必死で痕跡を残す。

害のない痕跡ならば、その幼稚な行いを笑い飛ばせるかもしれないが、腫れ物のように触ることもできない痕跡まで残すのはどうか?

生物が後世に残せるのはDNAの情報くらいである。どんな偉大な歴史や文明も、何万年先には何も残らない。



出典:BS世界のドキュメンタリー シリーズ
 放射性廃棄物はどこへ 「旧ソ連 原子力潜水艦の末路」

posted by 四代目 at 07:20| Comment(4) | 原子力 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月05日

いまだ放射能汚染の実態が明らかとされない日本。独裁国家ベラルーシですら、汚染対策に大金を投じている。

福島原発の放射能汚染の調査は、まだまだ不十分だという。

チェルノブイリ原発の放射能事故においては、半径300km以上の汚染地図が作成されたが、福島原発においては、その3分の1以下の「半径100km」の範囲しか調査されていない。

チェルノブイリ周辺の汚染状況を見れば、原発直下の半径100km以内はもちろん、遠く離れた200〜300km地域でも、原発直下地域に勝るとも劣らない汚染が確認されている。

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福島原発から200〜300km圏内というと、東京を含めた関東全域がその対象となる。

チェルノブイリと福島では、事故の質や状況が違うことは確かではあるが、日本政府の調査範囲は「あまりにも狭い」と、各国から非難を浴びている。



現実に、福島原発から250km以上離れた神奈川県のお茶から、大量の放射性物質が検出され、出荷停止に追い込まれた農家も存在する。

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というのも、広くバラ撒かれた放射性物質セシウム137は、「雲に乗って」移動したため、100キロでも200キロでも、楽々と旅することができたためだ。

運悪く、その放射能の雲(放射性プルーム)と「雨」が重なれば、雨の降った地域は極度に汚染されることとなる。

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群馬県の一部地域などは、福島県並みに汚染されているが、それは放射能の雲と強い雨が重なったためである。

この汚染過程は、チェルノブイリと全く同じであり、チェルノブイリの汚染地域がランダムなマダラ模様を描いた理由である。

原爆投下後の「黒い雨」とまではいかないが、少なくとも「灰色の雨」が日本に降ったことは、確かなことなのだ。

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チェルノブイリの汚染をうけた「ベラルーシ」のストレリチェボ村では、25年が経過した今でも放射能汚染の影に怯(おび)えている。

住民は農産物の汚染を自ら検査し、子供たちは定期的に検診を受けている。

放射能検査は住民の安心をえるためには欠かせない。そのため、国は国家予算の2割を対策費用として計上し、あらゆる検査を「無料」で行っている。

村の各学校には、必ず放射能測定設備があり、住民が農作物を持ち込むと、本人立会いのもと、無償で検査をしてもらえる。

村の病院・診療所にも、人体の被曝量を検査する設備が完備されており、子供たちの定期健診は義務化されている。

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食品の放射能汚染検査も徹底しており、定期的な検査が実施されている。

キノコ、ベリー類などは、特に汚染されやすいということで、住民達はめったなことでは口にしないという。



かたや、日本の対策は、後手後手となっている。

福島の小学生は、放射線管理区域なみに汚染された通学路を登下校し、校舎の窓を閉め切って、校庭で自由に遊ぶことすら叶わない。

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人体や食品の検査も、不十分である。というのも、検査設備が少なすぎて、24時間体制で検査を実施しても、ほんの一部のサンプルを調査することしかできないのである。

日本政府の動きは鈍重で、民間の有志が現場を駆けずり回って、実態の究明に奔走しているような状態である。



独裁国家で国民が虐げられているといわれるベラルーシでさえ、先述の通り、徹底した調査を欠かさず、大金(国家予算の2割)をその対策に投じている。

問題解決のためには、「忍耐と努力、そして『予算』が必要だ」と担当官は語る。

原子力発電には、どれほど高い代償を払わなくてはならないのか?

それほどの代償を払うくらいならば、15%の節電などは、何ということもないのではなかろうか?



出典:NHKスペシャル
シリーズ 原発危機 第2回「広がる放射能汚染」

posted by 四代目 at 04:45| Comment(0) | 原子力 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月24日

ホントはいくら? 原子力発電のコストに潜む「カラクリ」。

日本の原子力発電のコストは、「世界一安い」という。

「さすが、日本の技術力」と思うのは早計だ。

単なる「政治的なカラクリ」の結果だそうだ。

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原発のために土地を提供した自治体には、多額の補助金が支払われる。その額は、一年間で約4,000億円を超える。

青森の六ヶ所村には、この20年間で約350億円の交付金が支払われ、ショッピングモール、住宅街、温泉施設などが、次々と建造されていった。

しかし、これらの費用は、原発のコストに含まれないのだという。補助金は電源コストではなく、「財政資金」なのだそうだ。意味不明の区分である。

補助金なしに、原発を受け入れる自治体は存在しない。自治体への補助金と原発は、不可分の関係にあることは周知の事実である。



また、原発には「揚水発電」がセットで作られる。

なぜなら、原発は一旦稼働させるとアクセルが踏みっぱなしになり、出力調整が困難。電力消費が少ない夜間は、そのパワーが有り余ってしまう。

そこで、夜間、その余ったパワーで、水を高いところに汲み上げる。そして、昼間に水を落として発電する。これが原発による揚水発電の仕組みである。

原発単体では、電力の調整ができない。そのバランスを取るために、揚水発電などが欠かせないのである。

ところが、原発のコストに、こうした関連設備のコストは含まれていないという。



果たして、原発はどれほどのコストがかかるのか?

上記の補助金・揚水発電のコストを含めた、原発のコストを試算したのが、立命館大学の大島教授である。



20年前から研究を続ける大島教授だが、その算出は苦労の連続であった。

情報公開法を使って調べようとしても、資料は黒ヌリだらけで、数字が一切伏せられている。

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有価証券報告書や国の予算書から、数字を拾うしかない。膨大な資料をひっくり返して計算した結果、公式発表である経済産業省の数字とは、大きく異なる結果が出た。

予想通り、原発のコストは、他の発電方法よりも高かったのである。

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大島教授が言うには、この試算ですら不完全なのだという。

この計算には、「使用済み核燃料」の処理コストが半分しか含まれていないからだ。

現在、日本が出す「使用済み核燃料」の半分は六ヶ所村で処理する予定(いまだ未稼働)で、その費用として19兆円が計算されている。

残りの半分は?

なんと未定なのである。処理方法が未定であるため、計算のしようがない。

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使用済み核燃料の処理は、日本に限らず、世界中が頭を抱える難問だ。

10万年は放射性物質を発し続けるという「使用済み核燃料」。以前はドラム缶に詰めて、海に投げ捨てていたが、今はそんなバカなことが出来るわけがない。

宇宙に捨てろだの、埋めてしまえだの、無謀な意見が次々と出てくるだけで、決定的な解決法は未だない。

使用済み核燃料は、原発のウンコといわれるが、現在、世界のウンコは垂れ流しである。便器のフタは見つかっていないのだ。



福島原発の事故は、原発のコストに、「賠償金」を新たにつけ加えた。この額は、いくらになるのか見当もついていない。

大島教授の試算は、使用済み核燃料と賠償金が入っていないので、実に控えめな額ということになる。

しかし、それでも他の発電方法より割高なのである。実際の数字は如何ほどまで高額に昇ることやら‥。



安いからという理由で原発を推進してきた国は、日本をおいて世界には存在しない。

今までは隠されてきた原発のコストが、福島原発の事故後、突然白日の下に晒された。

日本国民は、騙された気持ちでいっぱいである。

大震災においては、世界にその態度を絶賛された日本人。国の方策においても、世界に誇れる国となりたいものである。



出典:WBS
エネルギー再興 第2回 原発コストは安いのか

posted by 四代目 at 12:05| Comment(0) | 原子力 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月14日

電力以外の原発の必要意義。その理解が脱原発の道を示す。




「本当に原子力発電のコストは安いのか?」

日本には、原発の「安全神話」と並んで、原発「低コスト神話」も、根強く信仰されてきた。

「安全神話」は、先の巨大津波により、あっさりと流されて行ったが、「低コスト神話」はどうなのであろうか?



原発の「燃料コスト」が安いのは確かである。

しかし、燃料コストが全てではないのは、自家用車を持つ人は、よく心得ている。車体購入費、車検代、各種保険料、維持・修理費、廃車費用‥‥。

原発には、一般的なコストの他に、原発特有のコストも必要である。

反対派を抑え込むためのコスト、事故後の賠償コスト、使用済み核燃料の廃棄コスト、廃炉時の最終処理コスト‥‥。

今回の賠償コストにしてもそうだが、最終処理コストも、関係者すらいくら掛かるか分かっていないのが現状である。



世界は、原発のコスト高に気づいている。

1970年〜80年にかけて、目くるめく建造されていった原発も、90年代になると、横バイ。今世紀に入ってからは、ついに減少傾向である。

原発反対の世論の高まりも、減少の一因ではあろう。

しかし、利権しか眼中にない腹黒い連中が、反対の声に真摯に耳を傾けるものだろうか? キチンとソロバンを弾いているはずである。



原発の影には、核兵器が見え隠れしていることも忘れてはならない。

先進国における原発ブームは、90年台に収束に向かう。この時期は、東西冷戦終結の時期と、偶然にも軌を一にする。

チェルノブイリ、スリーマイル島の放射能事故も念頭に入れなければならないものの、それを勘案しても、もし、東西冷戦が激化していれば、世界はさらなる原発への道を歩んでいたかもしれない。



ところが、冷戦終結後、世界はおおむね平和といえる状況が続いている。

核兵器を作るのに、必要以上の原発は「金食い虫」になるだけ。最低限の頭数さえあれば良い。

アメリカ、ロシアでさえも、必要以上の核兵器は「金食い虫」だとして、核兵器の削減を模索中である。



冷戦以降、世界平和とともに、先進国は冷静さを取り戻しつつある。

すでに、最低限の原発は確保していあるからだ。

しかし、そうでない途上国は、いくぶん熱い。

国の安全保障のためにも、それなりの数の原発は欲しいところである。



これらの事実は、今後の原発の方向性を示唆している。

各国とも、必要以上の原発は必要としていない。

原発のコスト高が、必要以上の原発建造を抑え込むからである。

しかし、全廃するわけにはいかない。核兵器への可能性を残しておきたいという下心があるからである。



これらを踏まえれば、原発全廃を叫ぶよりも、少数の原発維持を認めるほうが、ずっと現実的であり、効果的である。

何事においても完全撲滅は難しいもので、あまり躍起になると、追い詰められた者たちは猫を噛む。テロなどが良い例であろう。

それよりかは、逃げ場所を用意しつつ、敵を「極小」に押さえ込んでおくほうが、ずっと賢明である。極小の状態が続けば、敵は自ずと弱ってくる。



世界の平和が維持される限り、時間が経てば、核兵器も原発もいずれ必要とされなくなると楽観したい。

かのカダフィ大佐でさえも、「使わなくなった武器は必要ない」と言い、2008年に大量破壊兵器を放棄した(今の彼には、再び武器が必要になったが)。

それは、果実が熟して、自然に落ちるようなものである。

熟さぬうちにモギ取ろうとすれば、その抵抗は凄まじいであろうし、藪から蛇が出てくるかもしれない。





本当に原発廃絶を望むならば、充分な時間が必要である。

原発という苦い果実ですら、落ちる時がくる。

その日のために、その素地を醸成することが大切である。



徒らに反対派と賛成派に「分裂」して「対立」を深めてゆけば、逆に核兵器が今より必要になってしまうかもしれない。

本末転倒にならぬよう、電力以外の「原発の必要意義」を理解しなければならない。


posted by 四代目 at 11:24| Comment(0) | 原子力 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月11日

対立を続ける原発の是非。妥結点なき論争が未来を暗くする。



関西電力が「15%の節電をお願いします」と頭を下げた。

このままでは、夏場の電力が「6%」足りなくなるというのだ。

大津波からはじまった東日本の節電の波が、「浜岡原発」を越えて、関西電力にまで到達した形だ。



関西電力は、発電の半分を原子力発電に頼ってきた。

管内11基の原発のうち、現在4基が停止中。7月までには、さらに2基が停止する。

夏場に稼動する原発は、11基中5基、半分以下となる。



なぜ、次々と原発が停止していくのか?

浜岡原発は政府の要請で停止したわけだが、その他の原発が停止してゆくのには、別の理由がある。

原発は13ヶ月稼動させたら、一旦止めて3ヶ月ほど点検しなければならないというルールがある。

世論が厳しさを増す現状にあって、点検のためとはいえ、一旦停止させた原発の再稼動が難しくなってきている。

そのため、点検に入った原発は、順次「待機」状態となってしまう。



現在日本にある54基の原発のうち、その「3分の2」はすでに停止してしまっている。

残る3分の1の原発も、順次点検に入っていくために、来春までには全原発が停止することとなる。

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国の電力の3割を原子力に頼る日本。このままでは15%の節電では追いつかない。

原発再開の道が示されない今、電力会社は戦々恐々としている。

今回、関電は悲鳴を上げたわけだが、次なる悲鳴は九州から聞こえてきそうだ。

九州電力は発電の4割を原子力に頼っているのである。予定では中部電力から、足りない電力を融通してもらうはずだった。しかし、中部電力の浜岡原発の突然の停止で、その望みは断たれた。



反原発の「雄叫び」は鳴り止まず、関電の節電要請に、大阪の橋本知事は猛反発。

「節電に協力しません!」と断言。

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「原発が必要だという根拠をひたすら言っているようにしか聞こえない」。



大阪の町工場からも苦渋の呻きが‥。

「これ以上の節電は無理」。

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大阪の町工場は、破壊された東北の工場の肩代わりをするために、休日返上、採算度外視で操業を続けているのである。



原発「推進」、原発「反対」。

この対立は激しくなるばかりで、妥結点を見出せずにいる。

大地震により結束しかけていた国民の「絆」は、原発を巡る是非によって、再び断ち切られようとしている。

明るい未来は、この対立の先にある。



出典:WBS 関西電力が15%節電要請
posted by 四代目 at 07:43| Comment(0) | 原子力 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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