2012年05月25日

「ムラの掟」が色濃く残る日本の政治。絡まり合う「地下茎」。


「『政策』ではなく、『政局』で政治が決まるのは、日本の特殊な現象だ」

経済学者の池田信夫氏は、そう語る。

「政局」というのは、政党や政治家の「動き」であり、そして、それらの「つながり方」でもある。




たとえば、元民主党代表の小沢一郎氏は、「公的には何の地位にも就いていない」にも関わらず、その去就が現在の政局の焦点となっている。

それは、とりもなおさず「彼を中心とする『非公式の人間関係』が、決定的に重要だからである(引用部分は池田信夫氏の記事より)」



具体的には、「消費税」賛成の野田首相に対して、それに反対する立場をとる小沢氏の去就に、アナリストたちは目を光らせているのである。

イギリスの政治経済専門誌「The Economist」の今週号の記事でも、小沢氏は「闇将軍(shadow shogun)」として、その復権が「消費税に反対」「TPP(自由貿易)に反対」「(アメリカよりも)中国との関係強化」に繋がるのではないかとの懸念をのせていた。

※「The Economist」2012年5月19日号、Banyan「Trading strategies」



山本七平氏の言葉を借りれば、小沢氏は政界内部に「地下茎(非公式の人間関係)」を張り巡らせていることになる。

その地下茎は、田中角栄氏や金丸信氏により育まれてきたのもであり、それは自民党時代の大きな遺産でもある。




しかし、こうした「地下茎」は、自民党のというよりは、日本の歴史に根付いた「伝統」と言った方が正確だ。

というのも、江戸時代までの日本は、西欧諸国に比べて「国家や法律」の力がそれほど強くはなかったのである。



典型的な例として「村八分(仲間外れ)」がある。

これは、江戸期の日本では、国家の法よりも、伝統的な「ムラの掟」の方が強い支配力を発揮していた証でもある。



村に生きる人々は国家の法よりも、村内の身近な人間関係の方に、より強く縛られていたのである。

そして、こうした人間関係の「つながり(時には束縛)」が、政治のみならず日本社会の「地下茎」を形成していくことになった。

※今でも「地域(かつての村)や家」の束縛は、ところによって少なからぬものがある。



そんなムラに「降って湧いた」のが、明治期の文明開化であった。

当時、「遅れた国家」としての劣等感を抱いていた日本は、西欧の文明国に「追いつき、追い越せ」と息巻いた。

「プロイセン(ドイツ)から法体系を輸入して、西洋を真似て膨大な法体系をつくった」のである。



当時のドイツは、ヨーロッパでは「後発国」であり、同じ後発国であった日本がドイツを真似たのは「一見すると合理的」であった。

しかし、「横並びの人間関係(ムラやイエ)」が強い拘束力を持っていた当時の日本社会にとって、「法律による上から支配」というのは、およそ馴染みにくいものであったようだ。

次第に「厳格な法律」と「ムラ中心の世の中」の乖離は大きくなり、地下茎(人間関係)は、より深い地下へと潜り込まざるを得なくなってしまった。



せっかく輸入した「膨大な法体系」は、ほとんど使われることがなく、「鹿鳴館のような飾り」だと揶揄される始末。

庶民には理解不能の複雑な法律。それを解することができるのは「優秀なエリート官僚」だけとなり、彼らはいわば特権階級となった。

西欧から降ってきた法律は、日本の土壌にさっぱり染み込まず、それらの法律は「上澄み液」のように、知る人(官僚)ぞ知るモノとして乖離していったのである。



奇妙なことには、西洋由来のはずの法律も、日本に来ると、それは日本化するようだ。

それぞれの法律が横へ横へと伸長し、「スパゲッティのごとく、絡み合ってしまった」のである。それはあたかも、日本伝統の絡み合う「地下茎」のごとくに。



そのため、一つの法案を改正するのでさえ、「多くの関連法案を同時に改正しなければならなくなった」。

たとえば、福島原発事故の賠償を行う時も、「予算措置は財務省、東京電力の監督は経産省、原発の安全基準は文部科学省、農協への補償は農水省…」というように多くの法律の改正が必要となるのである。



もし、一つの官庁でも「拒否」しようものなら、法の改正はそこでストップ。

それゆえに、関連省庁や政治家たちへの「根回し」が官僚の重要な仕事となり、それは官僚の仕事の8割を占めるとまで言われるほどである。



日本社会はどこへ行っても、こうした複雑な人間関係(地下茎)が自ずと形作られるようである。

日本民族がその長い歴史の中で育んできた「つながり」は、時として絡まり過ぎるようでもある。



明治維新という偉大な革命は、表面上、日本という国を大きく変えた。

しかし、その根底に根差す国民性というのは、そう易々と変わるものではないのかもしれない。むしろ、表面上の変化が急進であるほど、「本音」との乖離は著しくなるようでもある。



維新後に導入された西洋の法律は「付け焼き刃」的であったためか、乖離の起こりやすい隙間は、至るところに存在した。

たとえば、明治憲法には「内閣」の規定がなかった。国務大臣は天皇を「輔弼する(助ける)」という建前だったのである(内閣総理大臣も、国務大臣の一人として、他の国務大臣と同格であった)。



そのため、合意形成には有力者間の人脈が欠かせず、それは強力な「地下茎」を必要とすることになったのである。

たとえば、破格の元老であった山県有朋の権力の源泉は、「法律でも武力でもなく」、見えない地下茎にあったのだ。



この地下茎を「悪の温床」と考える機運が育つのも、また自然な流れなのであろう。

しかし、その地下茎を断つことが、よほどに危険であることは、現政権与党が計らずも証明してくれている。



「政治主導」を謳った民主党政権は、官僚との間の地下茎を自ら断ち切ってしまったがゆえに、重要法案の通る見通しが、ほとんどなくなってしまっている。

先に記したように、どこか一つの省庁でも「拒否」してしまえば、その法案は日の目を見ることがなくなってしまう。

優秀な官僚たちが、その主たる仕事であった「根回し」を積極的に行わずに、ただ「◯◯省の合意が得られません」と言ってしまえば、そこで終わってしまうのだ。



明治憲法に軽んじられた「内閣」の権限は、いまだに「求心力が弱い」。

日本の法律の8割は「官僚の書く法案」であり、国会はそれを「事後承諾する場に過ぎない」。



いかに地下茎の力が大きいか。

地下茎を軽んじた政権与党は今、地下茎を大切に育んできた「公式には何の地位にも就いていない人物」を恐れるハメに陥っている。



時代は変わったはずだったのに、やはり「全員一致」でないと動かない日本社会。

池田信夫氏はこう言う、「形の上では法治国家になった明治以降も、日本は法律や権力よりも人的な関係の強い『大きなムラ社会』のままだった」

地下茎(ムラの掟)を軽んずるものは、今の時代にも「村八分」にされてしまうのである。



「政策」ではなく、「政局」に左右される日本の政治。

その政局を仕切るのは、日本の古き伝統であったということか。

乖離していたと思っていた「本音(地下茎)と建前(法律)」は、いよいよ複雑に絡み合っていくかのようである。







関連記事:
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2012年01月21日

イタリアからの独立を宣言した寒村「フィレッティーノ」。何もないが夢だけはある。


「国」とは何か?

我々は何のために「国」をつくったのだろうか?



いと小さきイタリアの山村「フィレッティーノ村」は、昨年8月に突如「独立」を宣言した。そして、新しい国「フィレッティーノ公国」が誕生した(イタリア政府は未承認)。

すでに独自の憲法を制定し、国旗もあれば国歌もある。さらには独自通貨まで地味に流通し始めているという。

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彼らが「国」をつくった理由は明白だ。それは「身を守るため」である。

人口600人にも満たない寒村であるフィレッティーノ村は、イタリア政府の市町村合併により、ウカウカしていると「消滅」してしまうところだったのだ。

というのも、現在のイタリア政府はGDPの120%という莫大な借金を抱え、「緊縮財政」を余儀なくされており、町村合併により無駄な公費を削減しようという目論見なのである。



ある人はこう言う。

「多すぎる国会議員を減らしたほうが、市町村合併で村の役員を減らすよりも、よっぽど無駄が削減できる」と。

しかし、国会議員を減らすには「憲法改正」が必要であるため、それは簡単にはできないのだという。そこで、イタリアに8000以上あるという多すぎる市町村のうち、1970市町村を合併し、36県を消滅させるというアイディアが採用された。



この火急の事態に戦慄した「フィレッティーノ村」は大いに異議を唱え、「独立」という強行手段に打って出たわけだ。

フィレッティーノ村は、「廃止される村」のリストに名前が挙がっていたのである。



ところで、フィレッティーノ村とは?

面積は78平方kmという小ささで、日本の平均的な市町村程度。かつてはスキー・リゾートとして繁栄した時代もあったが、今では朽ち果てたリフトやホテルが放置されたままになっている。日本で言えば、閉鎖されたスキー場と寂(さび)れた温泉町といったところであろうか。

この村には病院もなければ、警察署や消防署もない。銀行もないし、ガソリンスタンドすらない。かろうじてある小学校は生徒数わずか17名。

村としてすら独立していない現状だ。

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それでも「夢」だけはある。

独立を企画立案した村長「ルーカ・セッラーリ」氏によれば、「水資源」が貴重な財源になるのだという。

現在は水道会社に押さえられている水源の「権利の0.1%」でも獲得できれば、村の収入の2倍の財源になりうる。村長に言わせれば、「この水資源は新時代の石油だ」ということになる。ちなみに、彼は地域の不動産王でもある。

森林資源も有力な財源だ。現在、この地域は州立公園であるために伐採が禁じられいるものの、8000ヘクタールにも及ぶ森林には様々な活用方法が考えられる。



フィレッティーノ公国憲法・第21条には、こうある。

「公国はスキー場、水資源、森林資源を活かすことで、土地の経済の発展を支援する」

そうは言えども、スキー場の設備は老朽化しているため、一からの再建が必要であり、水資源の権利も獲得できるかどうか定かでない。森林資源も然り。

現在においては、全てが「夢物語」なのである。

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それでも、この村は「独立」を宣言し、自称・公国となった。

国会議員の選挙は、村の小さなカフェの2階で行われ、そのカフェの店主「パオロ・チェロッキ」氏がトップ当選。彼はかつて酪農を営みながら、若い頃にはスキーのインストラクターもやっていたのだという。総投票数720のうちの53票を獲得し、首相としての最有力候補ともなった。

公国の君主として暫定的に決まったのは、弁護士「カルロ・タオルミーナ」氏。彼はベルルスコーニ前首相の弁護士を務めていたこともあり、イタリアではちょっとした有名人だ。



ところで、当の村人たちは「独立」をどう思っているのだろう?

ある村人は「選挙が行われていたことすら知らなかった」という。また、ある村人は「村に仕事を増やして欲しい」と願っている。

多くの村人たちにとって、独立というものに「現実味がない」というのが実際のところのようである。それでも、何となく歓迎している村人も多いようである。



新国家・独立という、とんでもない見切り発車は、どう考えても現実味がない。しかし、現実味がないゆえに、苦笑とともに容認されているようなところもある。

多くの人は、「単なる宣伝行為」くらいにしか思っていない。言ってみれば、独立宣言は「村おこし」のキャッチフレーズくらいにしか受け取られていないのだ。独自通貨「Fiorito」は単なる記念通貨だと思われている。



それでも、独立を推し進めた人々は大きな夢を見ている。

小さな寒村の住民たちが、真剣に天下国家を論じ始めているのである。「法務大臣には誰がふさわしいだろうか?」「県知事に内務大臣をお願いしよう」などなど。

「他のスキー場は10日間有効のパスを42ユーロで客を呼び寄せたそうだ。我々はもっと安くしよう」など、一度死んだスキー場への夢も新たにしている。



「独立」という突拍子もない宣言は、冷笑を買いながらも、一部の村民たちを大いに前向きな気持ちにさせている。

放って置けば高齢化・過疎化の坂を転がり落ちるだけだったフィレッティーノ村は、「独立」という偉大なる野望によって、息を吹き返そうとしているのである。



現実的な人々の見ているのは「過去」ばかりである。他方、独立に尽力している人々の見ているのは「未来」である。

歴史を振り返れば、時代を動かしてきたのは「未来」を見ている少数の人々に他ならない。誰が空を飛べると信じていたのか? 誰が宇宙に行こうと思い立ったのか?

「笑わば笑え、我は行く」。



暗澹たる世界経済にあって、この闇を切り裂いて行くのは何者なのであろうか?

いと小さき村であるフィレッティーノ村の起こした風は、世界中の心ある人々の感性を震わせている。



かつて、新国家として世界に打って出た明治政府(日本)の心意気は、如何なるものだったのであろうか?

当時は欧米にバカにされていたチョンマゲの日本人たちが、今のような大国を作り上げることを誰が夢想しえたのであろうか?

少なくとも、新政府を立ち上げた人々は、そんな夢を見ていたのであろう。




フィレッティーノが公国として迎えた初めてのクリスマスの日、町の広場には大きな焚き火が夜通し燃え続けていた。

炎は一直線に上を目指す。そこに熱意がある限り、気流は上昇せざるを得ないのだ。

もともと、中世ヨーロッパは小さな公国だらけであった。今でも「サン・マリノ」や「バチカン」などのミニ国家がその面影を残している。その点、イタリアには「ミニ国家としての独立」という選択肢が残されているのかもしれない。

はたして、フィレッティーノ村の荒唐無稽な試みは実を結ぶのであろうか?

立ち昇る炎は、どこまで届くのであろうか?




関連記事:
火山と温泉。イタリア人と日本人は「フロ仲間」?

噴火、噴火のエトナ火山(シチリア)。人間にできることは…。



出典:ドキュメンタリーWAVE
「私たち 独立します!〜イタリア財政危機・揺れる小さな村」


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2011年12月14日

新たな風が起こりつつあるロシア。変革の歴史を振り返りながら…。


「ソ連に生まれて、なんてラッキーなんだと思っていました。」

1970年代の子供時代を述懐して、リューバさんはそう述懐した。

彼女が心底そう思っていたほどに幸せな時代が、ソ連にはあったのである。当時、西隣りのヨーロッパやアメリカでは、暴動やデモが毎日ようにニュースに流れていたのだという。



子供時代の彼女は、赤いネッカチーフをした「ピオネール」の一員。

ピオネールとは、ソ連共産党の少年団(10〜15歳)のことで、「フシェグダー・ガトーフ!(いつでも準備よし!)」が合言葉となっていた。

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そんな彼女が、何気なくテレビを見ていたある日のこと、ソ連の「国家」の最初のフレーズが流れてきた。

すると無意識に彼女は立ち上がり、テレビの前で「敬礼」。「いつでも準備よし!」と叫んでいたという。



そんな子供の自分を省みながら、「思わず、感情が高ぶってしまったんです。」と彼女は語る。

「今考えると、冗談みたいな話です。

あれは善悪の概念を、はるかに超えたものでした。

洗脳されていない人、特に今の子供たちには、とうてい理解できないでしょうね」



そんな「体制派」だったリューバさんの夫・ボーリャ氏は、彼女とは真逆の「反体制派」だったという。

それは、彼がユダヤ系だったということもあったかもしれない。赤いネッカチーフを付けなかったり、USAと書かれたTシャツを着ていたり…。



「個人の全財産を、皆で共有しようなんて考えられるかい?

アパートを没収し、共同住宅に変えたんだ。農民からは、土地も家畜も家も没収した。そして、追い出した。

食料も無い列車に乗せられ、その途中で大勢が死んだ。そして、カザフスタン、中央アジア、シベリアに送られた人々は、こう言われた。

『親愛なる人民よ。今日からここで暮らしなさい』とね」



当時のソ連では、ボーリャ氏のような反体制派は少数であった。

ところが、彼が長い兵役から戻った時、ソ連には「新しい風」が吹いていた(1985)。



モスクワにモヒカン刈りのパンクロッカーが歩いている。それでも逮捕されない。

「♫金持ち同盟なんてブッ潰せ! NATOなんか壊してしまえ♫」

通りの脇では、ヒッピーがギターを弾いて、画家が作品を売っている。禁止されていた本や新聞記事までが読めるようになっている。

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「レーニンは正しいのか?」

こんなことまでが公然と議論されている。スターリンは批判されても、レーニンは依然「神」だった時代に、である。

レーニンとは、世界初の社会主義革命(ロシア革命・1917)を成功に導いた人物である。



この新しい風は、ゴルバチョフ元書記長の吹かせた風だった。

「ペレストロイカは反飲酒運動から始まった」

ペレストロイカとは、1980年代後半におけるソ連の改革運動である。



テレビでゴルバチョフ氏を初めて見たボーリャ氏は「衝撃を受けた」。

ゴルバチョフ氏は、「人間みたいに話をしている」ではないか。メモも見ないで。

思わずボーリャ氏は、この新顔の男が「暗殺されるのではないか」と心配になったという。

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人々も驚いた。

店頭から食品が消えた。

すべてが「配給制」になったのだ。ウォッカを飲まない家にまで、毎月一人2本のウォッカが配給される。



情報公開(グラスノスチ)も行われた。それは、チェルノブイリ原発事故がキッカケになったとも言われている。

しかし、一連の改革は「諸刃の刃」でもあった。

自由化と民主化は、今まで国民に知らされていなかった共産党幹部の贅沢や汚職までをも明らかにしてしまった。



そんなソ連のテレビに、ある日、「白鳥の湖」が流れた。

不都合な「重大事件」が起きると、全局「白鳥の湖」になってしまうのが、当時のソ連の常であった。



何が起きたのか?

休暇中で避暑地にあったゴルバチョフ氏が拘束されたのだ。

世に言う「8月革命」、クーデターである(1991)。「ゴルバチョフ氏は病気であり、我々が権力を掌握した」。

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このクーデターが起きたのは、8月19日。

この日は、新連邦条約が締結される、まさにその前日であった。

この条約が締結されると、事実上、ソ連は消滅してしまう。ソ連共産党の「旧守派」は、それを避けたかったのだ。



エリツィン氏は、このクーデターに対抗して国民に「ゼネスト」を呼びかけた。

この呼びかけに市民10万人が大集結し、「エリツィン!ロシア!エリツィン!ロシア!」の大合唱。

エリツィン氏が立ち上がったことにより、クーデターは敢えなく失敗。同時にソ連も崩壊。15の共和国は離れていった…。

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「自由と正義のために、市民たちが集まったのかって?

それはナンセンス。ただ単に、食べ物がどこにもなかったからだよ」



いずれにせよ、こうしてゴルバチョフ氏の時代は終わり、エリツィン氏の「幸福な時代」が始まった。

「彼は永遠に若く、愉快な男だった」



しかし、理想は現実とかけ離れて行き、再び混乱が始まった。

「90年代初頭に人々の心に燃えた理想は、打ち砕かれたんです」

肉や牛乳の値段が、一晩で倍にも跳ね上がる。



そして、プーチン氏の時代が始まり、それが現在にまで続いている。

ボーリャ氏はつぶやく。「変わったのは、飾りの部分だけだよ」。

「いや、むしろソ連時代の愛国主義に戻っているのかもしれない」。



歴史の教師でもあるボーリャ氏は、プーチン氏の言動を危惧している。

「彼は歴史の解釈に口を出し過ぎている。『第二次世界大戦については、こう教えなさい』とか。

今のところは、小さい苗木にすぎないが、やがてこの苗木は『厄介な大木』になりうる。ソ連時代を生きた私には、それが予想できるんだ」

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ある女性は、ソ連時代を懐かしむ。

「本当に楽しい毎日でした。

サボったり酔っ払ったりしない限り、首にはならないし、昇進もできました。」

ところが、彼女は結婚に失敗し、現在は競争のストレスに晒されている。



ある男性は、ソ連崩壊により、大事業を成し遂げた。

外国ブランドのワイシャツとネクタイを輸入する会社を立ち上げ、今ではチェーン店の経営者となっている。

「ソ連の体制下では、好きな仕事を選べませんでした。今の仕事は、ソ連時代には不可能だったのです。」



また、ある男性は、アメリカに矛先を向ける。

「アメリカ人の持ち込んだのはガムやジーンズだけではない。くだらない考えまで持ち込んだ。

人を押しのけ、人より金を稼ぐ。奴らの生き方には、この一つしかない。稼ぎが少なければ、負け犬だ。」



ここ100年間、ロシア(ソ連)は様々な時代を体験してきた。

そして、再び「選択の時」を迎えている。

盤石と思われていたプーチン体制に「亀裂」が生じているのだ。



かつては禁じ手とされていたプーチン氏への「ブーイング」が公然と行われている。

ロシアの民主主義は「管理されていた」のではなかったのか?



プーチン氏が権力を握ったのは、1999年末。

それ以来、首相(1年)・大統領(4年)・大統領(4年)・首相(3年)という長期体制を築き上げていた。

そして来年、再び大統領の座に就く「予定」である。




しかし、プーチン氏の統一ロシア党は、「不正と泥棒の党」と陰口をたたかれており、今回の選挙では「不正」の疑惑まで持ち上がっている。

今の時代に情報を操作することは、次第に困難になりつつある。インターネットの衆目監視の網は年々密になっている。



ボーリャ氏は、今の子供たちに期待している。

「この子らは、どんな情報にも侵入できます。私には無理ですが…。

子供たちの世代には、情報の壁がないのです。」



来年に控えたロシアの大統領選挙。

筋書き通りに事が運ぶのか?

それとも、新しい風が北の大地に吹き荒れるのか?







関連記事:
北方領土はどこへ行く?ロシアと日本の深い因縁。

日本に好意的なロシア人。日本とロシアに働く不思議な引力。

小国の悲哀「モルドバ」。ヨーロッパ最貧国で泣く子供たち。

学ぶことが許されないアフガニスタンの女性たち。現代にも残る愚民政策。



出典:BS世界のドキュメンタリー
シリーズ ソビエト崩壊 20年 第1週 「わたしのペレストロイカ」


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2011年11月08日

エジプト、革命のその後…。いまだ見えぬ道筋。


今年2月、首尾良く独裁者を追い出し、奇跡的な「革命」を成し遂げたエジプト。

しかし、独裁者の大岩を打ち砕いた力が、今、勢い余ってエジプトを分裂の危機へと向かわせている。

独裁者・ムバラク前大統領という「共通の敵」に立ち向かっていた時は一枚岩であった革命勢力も、その共通の敵を失うや、それぞれがそれぞれの立場で異なる方向を目指し始めているのだ。



とりわけ、「イスラム国家」を目指す勢力と、「市民国家」を目指す人々の折り合いがつかない。

この両者の違い(論点)は、宗教(イスラム教)を政治に持ち込むか否かである。

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エジプト国民の90%がイスラム教徒であるのだから、両者ともにイスラム教を信奉しているという点では共通している。

しかし、イスラム法(シャーリア)を政治の規範とするかどうかは全くの別問題だ。



宗教の法というのは、往々にして論理的でないことも多い(いささか強引なところもある)。

そのため、それをそのまま政治に持ち込んでしまうと、正常な発展に支障をきたすのではないか、と反対派は危惧するのである。



そうした危惧を持ち、政治と宗教の「分離」を主張する人々の多くは「若者たち」である。

つまり、イスラム国家か市民国家かの衝突は、世代間の衝突とも重なる部分が大きい。



エジプト国民の3分の2は「30歳以下」であるため、若者たちの勢力は侮り難いものがある。

しかし、悲しいかな、彼らは組織だって行動することは少なく、明確な理念や施策を持つわけではない。そのため、あふれる情熱は散発的であることが多く、その力を充分に発揮しきれずにいる。

そして、そのもどかしさは時おり暴力的にもなり、それがまた若者同士の分裂を生むという好ましからざる結果にもつながっている。

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その点、イスラム国家を志向する勢力は、充分に組織だっており、性急な若者たちよりもずっと老獪である。

そして、そうした宗教勢力のうちでも、大きな力を持つのが「ムスリム同胞団」である。



ムスリム同胞団の歴史は古く、その成立は1928年である。

当時のエジプトはイギリスの植民地であったため、ムスリム同胞団は民族の独立を旗頭に掲げ、1952年、見事にエジプトを独立へと導くことに成功している。



しかし、独立後に誕生した政権は不安定で、ムスリム同胞団は反対勢力であるナーセル(のちのエジプト大統領)の「暗殺」という暴挙に打って出る。

この暗殺計画は失敗するものの、この事件以来、ムスリム同胞団は厳しい「弾圧」を受けることとなり、その歪んだ結果として、ムスリム同胞団は大いに「過激化」した。



それでも、天敵であったナーセル大統領が退くと、ムスリム同胞団は過激思想の排除に努め、現在は比較的「穏健派」と見られている。

独裁政権を率いていたムバラク大統領の元では、民選444議席のうち、88議席(約20%)を占める最大野党ともなった。



ムスリム同胞団は幾多の試練をかい潜ってきただけに、生き残りの術(すべ)を若者たちよりもずっと心得ている。

彼らは、反対するだけ、対立するだけではラチがあかないことを充分に知っている。

いかに反対勢力とも手を結んでいくか、という政治的解決の手腕に長けているのだ。



エジプト国民の9割はイスラム教徒であるが、残りの1割はコプト教徒(キリスト教系)である。

ムスリム同胞団とコプト教徒との諍(いさか)いは度々起こり、時には過激な焼き打ち事件なども起きたりする。



それでも、今回ムスリム同胞団が主体となった政党・自由公正党の副党首にはコプト教徒が迎え入れられている。

この政党は、今月末に行われる選挙において、最も有力視されている。

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かたや、エジプトの若者たちの迷走はやまない。

自らの欲求を形にできずに苦悩し、理想だけがプカプカと浮いている。



断食月(ラマダン・今年は8月)に入るや、エジプト国民たちは若者たちに厳しい目を向けるようになる。

なぜなら、断食月はイスラム教徒にとって神聖な月である。

それでも、若者たちは改革の象徴となったタハリール広場を、意味なく占拠し続け、人々の日常生活を不便にしていた。

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暫定政権をになっている軍は、その広場から居座る若者たちを追い出し、それがまた若者たちを逆上させる結果ともなった。

矛先の定まらぬ若者たちの激情は、あらゆる方向へと向いてゆく。

深夜にイスラエル大使館のビルに侵入し、文書の束をビルの窓からブチまけたり(イスラエルの軍事行動でエジプト5人が死亡した事件があった)。

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若者たちの行動は理想を掲げ、法律を無視する。

しかし、それは自らの首を締める行為である。

国家共通の価値観である法律を無視してしまっては、単なる暴徒でしかない。

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若者たちが暴挙に出るのは、失うものがないからとも言える。

彼らの多くには職がない。エジプトの失業率は10%前後であるものの、若年層に限れば、失業率は30%を超えているとも言われている。

職をもつ若者とて、十分な収入が得られているとは限らない。エジプトの最低賃金は約5,000円(月)と低く、同国の物価といえども苦しいものである。最低賃金の4倍(月2万円)でギリギリだともいう。



エジプト国民の4割は一日2ドル以下、つまり貧困層に属する。

それでも、イスラムの教えにより施し(喜捨)は盛んであり、貧困層と言えども、何とか食べていくことができる。

ムスリム同胞団も困窮者への喜捨には熱心であり、それが同団体への大きな支持にもつながっている。



若者たちの言葉は正論である。

しかし、現実と乖離していることも否めない。いきなりの結論であるため、途中のステップが明示されず、現実味に乏しいのである。



ここに彼らは苦悩する。

「正しいことなのに、なぜ否定されるのか?」

彼らの思想は「ゼロか全て」であり、一切の矛盾を内包することができない。



その点、イスラム同胞団は百戦錬磨。

異教徒をも抱え込めば、ときには積極的に妥協もする。

貧者への施しを怠らず、子供の教育へも熱心で、支持基盤も多様。団員にはビジネスでの成功者も多く、活動資金も潤沢である。



しかし、イスラム同胞団は「民主主義とはほど遠い」と懸念する声もある。

神の声には耳を傾けるが、人々の意見には耳を傾けないというのだ。

イスラム同胞団のスローガンは「イスラムこそが解決」であり、答えのすべては神にあるのである。



大きく割れたエジプトは、いまだ最統合への道筋が不明瞭である。

今月末の総選挙は何らかの方向を指し示すことにはなろうが、それがさらなる対立の溝を深めることにもなりかねない。

革命というのは偉業であったが、再構築というのは、革命以上にエネルギーが必要なのかもしれない。



革命においては敵が明確であった。

だからこそ、エジプト国民はみんなで同じ船に乗り込んで戦った。

しかし、革命が成されてみると、呉越同舟であったことは疑いようがなく、船から降りてみると、それぞれがバラバラの方向に歩き始めてしまっている。

はたして、その道はどこへ通じているのだろうか?



後続のアラブ諸国は、エジプトの行方を注視している。

エジプトは他の諸国に希望を与えることができるのだろうか?





「砂漠に若者、立っている。

通りかかったジイ様は、

街へ行くぞと彼を誘った。



時は革命、まさに今、

すべてが変わる時だった。



街に若者、立っている。

通りかかったジイ様は、

まだ、おったのか?と彼に冷たい。



当たり前だろ、ジイ様よ。

オレの仕事はこれからさ。



バカをいうなよ、若者よ。

オマエの仕事は終わりだよ。



そんなはずがあるものか。

時代はすっかり変わったぞ!



バカをいうなよ、若者よ。

時代は何にも変わってないさ。

夢を見てろよ、いつまでも。



そうかい、そうかい、ジイ様よ。

夢を見ること、そのことが、

たった一つのオレらの仕事。



ついでにジイ様、もう一つ。

時代は確かに変わったよ。



ジイ様の眼にゃ見えぬのだろが、

オレらの心が変わったよ。」




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出典:ETV特集 シリーズ 
イスラム激動の10年 第1回「“エジプト革命”ラマダンに民主化は揺れた」


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2011年11月02日

功罪ともに深いカダフィ大佐。その死に想う。


「カダフィ大佐が死んだ」

この一報に世界は、「ビン・ラディン氏死去」の時と同様の反応を見せた。

狂喜する人々がいる一方で、「なにも殺さなくても…」と同情する声も聞かれたのだ。



リビアの独裁者として名高かったカダフィ大佐には、死に値する暴挙が数々ある。

しかし他方、彼の知られざる功績があったことも、また事実。

外敵には噛みつきまくっていた彼も、身内に対しては意外な優しさを見せていたのである。




ここにリビアの意外な姿を列挙してみよう。

この国の教育費と医療は無料である(薬の一部も無料)。

赤ちゃんが生まれれば7,000ドル(約55万円)、新婚の住宅購入には6万4,000ドル(約500万円)が支給される(購入のローンも無利子)。

自動車の購入は最大で50%の補助があり、ローンは無利子。さらに、ガソリン1リットルはたったの14セント(約10円)。

電気料金は完全無料。



かといって、リビアは社会主義の国ではない。

カダフィ大佐の理想とした国家像は、社会主義でもなく資本主義でもない、「第三の国家体制」である。

これは、カダフィ大佐の自著「グリーン・ブック」で力説する論である(緑色は毛沢東の赤色に対抗する)。



全国民が政治に参加するという「直接民主制」がその基本となる。

欧米型の民主主義というのは、ごく少数の代表が政策を決定するスタイルであるが、リビアの目指した民主主義は「全国民」が直接的に政治に参加するものである。

そのため、リビアは34のシャアビヤ(州・県)と468のマッハラ(市町村)に分けられ、その各地域には基礎人民会議が置かれ、18歳以上の全成人が参加する。

中央には全国人民会議があり、ここで国の重要事項が決定される。

ちなみに、カダフィ大佐は中央の全国人民会議には属しておらず、立場としては一民間人である。



システム的には、欧米の民主主義以上に国民の声を政治に反映できる。

しかし、リビアが民主国家という話はついぞ聞いたことはない。それどころか立派な独裁国家である。



なぜなら、上記のシステムはうまく機能しなかったからだ。

最終的にはカダフィ大佐の「助言」が決定事項となり、国の方針が決められていたのである。

つまり、リビア国民への社会保障はカダフィ大佐の独断だったということになる。



カダフィ大佐の自国への偏愛は、リビア全国民に向けられたものではなかった。

リビアには多数の「部族」が存在し(14大部族、細かくは500以上)、部族は国家以上に結束していた。

そのため、カダフィ大佐は自分を支持する部族に対しては実に寛大であったのだが、その反面、反抗的な部族に対しては徹底的な弾圧を行ったのである。



今回の革命の口火を切ったのは、カダフィ大佐に弾圧された部族(ワルファラ部族)である(カダフィ大佐は1993年にワルファラ部族の指導者を処刑している)。

ワルファラ部族が根城としていた「ベンガジ」は、ただでさえ反骨精神の旺盛な地域。カダフィ大佐の独裁が破られた最大の原因は、この地方の部族の忠誠心を得られなかったことにある。

リビアは一国の体をなしながらも、実は部族によってカダフィ派と反カダフィ派に二分していたのである。



それでもカダフィ派が圧倒的な力を持ちえたのは、莫大な石油マネーがあったからだ。

カダフィ大佐は無血革命(1969)に成功した後、石油を国有化した。

そして、それはカダフィ派に対する寛大な保障の原資となった。



カダフィ大佐は一国のオイル・マネーを牛耳ったとの批判を受ける。

確かにリビア一国の石油収入は巨額である。同国の輸出のほとんど(90%)が石油であり、年間の輸出額は422億ドル(約3兆3,000億円)。

カダフィ大佐が欧米諸国に対して堂々と喧嘩腰でいられたのも、この後ろ盾があってこそである。



カダフィ大佐の「極端すぎる欧米嫌い」は、欧米諸国から強烈なバッシングを受ける結果となったが、一方でアフリカ諸国の反欧米派にとっては英雄的存在ともなった。

歴史上、アフリカ大陸は欧米諸国により搾取され続け、数々の辛酸を舐め、幾多の悲劇を味わってきた。

アフリカ大陸における反欧米気質は、長い苦難の歴史の中で培われてきた筋金入りのものである。



しかし、悲しいかな、アフリカ諸国は力のなさから、常に抑圧に甘んじざるを得なかった。

ところが、カダフィ大佐は違った。徹底して欧米諸国に噛みつきまくったのである。

一部では「カダフィ大佐こそが欧米諸国と伍して闘う人物である」とまで賞賛された。



しかし、カダフィ大佐の所業は傍目(はため)にも行き過ぎていた。

好意的に解釈すれば、それは虐げられてきたアフリカの叫びだったのかもしれない。

彼はあたかも欧米諸国に対するアフリカの恨みが結晶化したような人物であった。



莫大なオイル・マネーを持つカダフィ大佐は、アフリカへの投資を惜しまなかった。

2007年、アフリカ初の通信衛星が打ち上げられた。そして、その最大の出資者はカダフィ大佐であった(230億円)。

この衛星が打ち上げられる前までは、アフリカはヨーロッパの通信衛星に頼らざるをえず、そのために毎年5億ドル(390億円)の支払いを強いられていた。これがアフリカの通信料が異常に高かった一因である。

その他にも、カダフィ大佐はアフリカ連合(AU)を財政的に支え、将来的には国際通貨基金(IMF)に替わるアフリカ通過基金(AFM)の構想も抱いていた。



カダフィ大佐は自身の愛する者たちへは、とことん寛大で、その反動のように敵対勢力に対しては暴れ続けた。

アフリカ諸国の首脳たちも、その危うさを十分に認識しており、カダフィ大佐の支援を手放しで喜べないのも、また現実であった。



カダフィ大佐の生涯は激動であった。

革命により身を起こし、そしてまた革命により倒された。

その独裁政権は42年にも及び、その期間、徹底的に自分自身を貫き通し、彼の偏愛は敵と味方を明確に区分けした。




彼の理想は歪んだ形で現実化してしまったが、彼は世界がこのままで良いとは決して考えていなかった。

それは、現代に生きる我々にも共通した思いではなかろうか。

現在の延長線上には明るい未来ばかりが待ち受けているとは考えにくい。何かしらかの修正が必要とされている。



しかし、それでも我々の社会はそれなりに安定しているために、まあいいかと妥協してしまっているのが現実だ。

良くも悪くも、カダフィ大佐は現状に甘んじずに暴れ続けた。

その迷惑をこうむった人々はたまったものではなかろうが、その外側に位置していた人々はおおむね冷静でいられる。



カダフィ大佐が世界に提示した疑義は、一考の価値がある。

彼を悪人として斬り捨てるのは容易なことであるが、その前に少し世界のあり方に考えを巡らしてみることは決して無駄ではない。



誰しも胸の内には、心底納得していないこと、かすかな疑問を感じることがあるものだ。そして、社会の問題の数々は、たいていそうした深い部分に根差していることが多い。

つまり、世界を変えるには、そういう自分自身の内に眠る「小さな闇」を注視する必要がある。その闇はその小ささゆえに簡単に無視することも可能であるが、時としてガン細胞の如く暴れ回ることもある。

その「小さな闇」は何と、あたかもカダフィ大佐のようではないか。


関連記事:ならず者は本当にならず者か?「カダフィ大佐(リビア)」。国連演説にみる別の顔。

posted by 四代目 at 09:06| Comment(0) | 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする