2016年11月23日

銃が「時代おくれ」となるまで[アメリカ]



"All of that suddenly changed on February 23,1997"

「1997年2月23日、突然すべてが変わってしまった」とダン・グロス(Dan Gross)は言う。

"My little brother Matt was shot in the head."

「弟のマットが、銃で頭を撃たれたんです」



幸い、一命はとりとめた。

しかしアメリカでは、毎日90人もの人々が銃で命を失っている。

"loved ones, brothers, sisters, sons, daughters, parents..."


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国内におよそ3億丁あるというアメリカの銃。

Keep our families safe
「家族の安全を守る」

という思いが、その根底にある。



「かつてアメリカがフロンティアの時代、田舎の村には警察とかいなかったので、村は村で『自分たちの身は自分たちで守る』必要があったんです」

アメリカで暮らす伊藤穣一は言う。

「日本ではテレビや映画でしか見ない銃も、アメリカでは『生活の一部』なんです。ぼくも何度か、銃のトレーニング学校に通いました。先生は『とにかく必ず銃をもって歩け』と言ってました。『トレーニングを受けたあなたが銃をもっていることによって、アメリカはより安全になる』と言うのです。いわば『社会の責任』として銃をもっている人たちもたくさんいるんです」


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The younger, the better
「若ければ若いほどいい」

銃のトレーニングは、若いときからはじめるほど良いのだと教える先生もいる。



A gun makes your home safe
「銃が家庭を安全にする」

そう信じるアメリカ人の割合は、10年前の42%から63%にまで増加している。その背景には、アメリカで多発する銃乱射事件などが深く影響している。


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しかしアメリカでは毎日、銃による犠牲者が90人もでている。

その10%は、不幸にも子供たちである。

毎日9人の子供たちが銃撃に巻き込まれている。年間では900人もの子供や若者たちが自らの命を銃で絶っている。



さらに不幸なことに、

"They're almost all with a parent's gun."

子供たちは、親の銃で命を落としている。



「銃が家族を守る」と信じて疑わないアメリカ国民。

だが皮肉にも、その銃こそが、多くの家族の命を奪っているという現実がある。


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さすがに、もうたくさんだ。

"Enough!"

「銃乱射事件は、もうたくさんだ(Enough)。銃の暴力におびえる毎日は、もうたくさんだ(Enough)。銃をもつべきでない人たちが銃をもつのは、もうたくさんだ(Enough)!」



兇悪な銃犯罪がおきるたび、アメリカ人は声をあげてきた。

Enough!

今度こそ、銃を規制しよう、と。



だが、銃規制をはばむ力は根強い。

「銃なしで、どうやって自分の身を守るんだ?」

フロンティア時代につくられた合衆国憲法は、こう謳っている。

A well regulated Militia, being necessary to the security of a free State, the right of the people to keep and bear Arms, shall not be infringed.

規律ある民兵団は、自由な国家の安全にとって必要であるから、国民が武器を保有し携行する権利は、侵してはならない(1791年成立『アメリカ合衆国憲法、修正第2条』)。

200年以上前の、この文言こそが国民の武装する権利を保障している。


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「1年くらい前、『近くで銃撃があった』というアラート・メールが来ました」

スプツニ子は言う。

「銃をもった相手に対面したら、普通なら逃げるとか、静かにしているイメージなんですが、そのメールには『即席の武器をつかって応戦せよ』と書いてあったんです」



銃乱射事件がおきるたびに、その直後、銃は売れ行きは爆発的にのびる。

銃関連のニュースを見たあと、24時間放送の銃専門チャンネルに切り替えて、リビングにいながら簡単に銃を注文できる。もちろん、インターネットでの売買はもっと盛んだ。また、ガン・ショーと呼ばれる銃の展示即売会は、全米各地で年に5,000回以上も開催されている。

つまり、アメリカにいれば、いつでもどこでも銃を買い求められるのである。



誰でも買えるのか?

いや、ブレイディ法という法律によって、銃を買うときには身元調査(background check)が義務付けられている。この法律は1981年、時の大統領ロナルド・レーガンが銃で狙われたとき、銃弾をうけて半身不随になった議員、ジェイムズ・ブレイディ報道官が成立にこぎつけたものだ。


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「しかし現在、この身元調査はインターネットの個人売買や、展示即売会には適用されません」

すなわち、誰でも買える、ということだ。



銃規制の強化をもとめる団体「Brady Campaign」の代表、ダン・グロスは言う。

"There shouldn't be thousands of gun sales every day at guns show or online without Brady background checks."

「ブレイディ法による身元調査をせず、毎日、展示会やネットで何千もの銃を販売すべきではありません」


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"90% of Americans support expanding Brady background checks to all gun sales."

「アメリカ人の90%が、すべての銃器販売に対するブレイディ法の実施を支持しています」

"Only 6% of the American public disagrees. That's about the percentage of the American public that believes the moon landing was a fake."

「反対しているのは6%のみ。この数字は『月面着陸は捏造だ』と信じるアメリカ人の割合とほぼ同じです」


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では、しぶこく反対しているのは誰なんだ?

"The corporate gun lobby has spent billions of dollars."

「企業による銃規制反対のロビー活動には、何十億ドルもの大金がつかわれています」とダン・グロスは言う。

"They're desperate to hide the truth, because they view the truth as a threat to their bottom line."

「彼らは、必死で事実を隠しています。なぜなら、事実が彼らの利益をおびやかすからなのです」

"If you tell a big enough lie enough times, eventually that lie becomes the truth."

「まったくの嘘でも、十分な数を繰り返すと、現実になりますからね」


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過去10年間は、そうした銃規制に反対するロビー活動(政治的はたらきかけ)が功を奏してきた。しかし今や…、

"The stranglehold of the gun lobby is clearly being broken."

「銃ロビー活動の支配は、明らかに壊れかけています」とダンは続ける。

"Some candidates are being forced to reverse very bad positions they defended very comfortably, until very recently. It's almost surreal to watch."

「ほんの最近で銃規制に反対していたにも関わらず、その主張をくつがえさなければならない候補者もでてきているのです。それは私たちにとって信じがたいことでした」



ダンは声を強める。

"We're on offense."

「今度は私たちが攻撃する番なのです」

"We're flipping that narrative on its head."

「私たちは数で逆転しているのです」

"We are so clearly at a tipping point."

「私たちは明らかに、転換点にいるのです」



そして、オバマ大統領による歴史的な発令をみた。

"Anybody in the business of selling firearms must... conduct background checks."

ブレイディ法による身元調査を、いままでには対象とされてこなかった、何千もの銃販売窓口に拡大させる、というのである。


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ある日、飛行機に乗っていたダン・グロスは、ぼんやりと隣の人が見ているテレビドラマを眺めていた。

それは「Mad Men」というドラマで、1960年代を描いたものだった。

"I'd seen somebody smoking in an office or around children or while pregnant or drinking and driving or driving without seat belts or sexually harassing a coworker."

画面のなかには、タバコを吸っているシーンがたくさんあった。オフィスの中でも、子供や妊婦の近くでも、平気でタバコが吸われていた。

さらに飲酒運転やシートベルトなしでの運転も、普通におこなわれていた。







ダンは言う。

"Think about how much the world has changed in a relatively short period of time."

「考えて見てください。いかに短い時間で世界が変化したかを」

"how all those behaviors that were once considered commonplace or normal have become stigmatized in just a generation or two."

「たった一世代か二世代のうちに、それまで当たり前とされてきたことが、非難されるべきものへと変わってしまったのです」



確かに、ドラマの喫煙シーンは、かつての主人公を魅力的にみせている。しかし、現在の常識では、もはやあり得ない。酒飲み運転もそうだ。

ダンはつづける。

"Maybe someday, some period TV show will depict the terrible nightmare of gun violence, and a future generation of children might only be able to imagine how terrible it must have been."

「きっといつか、暴力的な銃による悪夢をえがく時代ドラマがつくられ、将来の子供たちはその悲惨さを想像もできなくなるでしょう」

"That's my dream. Thank you."

「それが私の夢です。ありがとう」











(了)






出典:NHKスーパープレゼンテーション
Why gun violence can't be our new normal
銃暴力が”普通のこと”になってはいけない理由
Dan Gross
ダン・グロス



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posted by 四代目 at 08:29| Comment(0) | 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月24日

ミャンマー民主化の星「アウン・サン・スー・チー」。孤高から泥沼へ。


「日本人は好きだけれど、『日本という国』には好意的な印象を持っていない」

ミャンマーの「アウン・サン・スー・チー」女史は、かつてそんな目で日本を見ていた。



当時の日本という国は、スー・チー氏を不当に自宅軟禁していたミャンマーの軍事政権とパイプを保っており、欧米各国が主導する軍事政権への経済制裁にも距離を置いたままだった。

日本は日本で、ミャンマーの民主化を促すためには「軍事政権とのパイプも必要だ」という融和的なスタンスを取っており、どうしても欧米諸国のような強硬一辺倒の姿勢には抵抗があったようである。



しかし、そうした日本のある種あいまいな態度は、ミャンマーの民主化をまっしぐらに願うスー・チー氏にとって、歯痒いものであったのだろう。

90年代終わり頃、自宅軟禁下にあったスー・チー氏に、「軍事政権に民主化を促すために『国連の大使』を選定したいが、『この国籍の特使だけは相応しくない』と思うのはどの国か?」と尋ねたところ

「それは日本」と、スー・チー氏は即答したと伝わる。










◎アウン・サン将軍の娘



第二次世界大戦時、イギリスの植民地下に置かれていたビルマ(ミャンマー)は、1942年、日本軍と共闘したビルマ独立義勇軍の「アウン・サン将軍」がイギリス軍を撃退。翌年(1943)、ビルマ国の建国を果たす。

だがその後、日本の敗色濃厚と見たアウン・サン将軍は、戦局有利のイギリス側に寝返り、日本の指導下にあったビルマ国に対してクーデターを敢行。そして今度は逆に日本軍を駆逐。

しかし、その勝利後、イギリスはアウン・サン将軍との約束を反故にし、ビルマの完全独立を許そうとはしなかった。



イギリスに裏切られたアウン・サン将軍は、何を想ったか。

軍を去ったアウン・サンは、反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)を率い、イギリスにビルマ独立を要求し続けた。イギリスにとってのアウン・サンは、いわば厄介な反イギリス独立主義者。それゆえ、彼に反感を抱くイギリス軍将校は少なくなかった。

それでも、アウンサン率いるAFPFLは議会選挙で圧勝(202議席中196議席獲得・占有率97%)。



だが、1947年7月19日、アウンサンは暗殺者たちの凶弾に倒れる(享年32歳)。

ビルマが真の独立を果たすのは、その翌年の1948年。アウンサンの死は、まさにその直前の悲劇であった…。



この「建国の父」アウンサン将軍の末娘が、現在、ミャンマー民主化を主導する「アウン・サン・スー・チー」女史。

父が暗殺された時のスー・チー氏は、まだ2歳の幼子であった。










◎民主化運動のシンボル



物心つく頃には、すでに父を亡くしていたスー・チー氏。

それでも、その血はひときわ濃く受け継がれていた。



ミャンマーの軍事政権に対して、1988年、学生が中心に起こした反政府運動(8888民主化運動)。

この運動のさなか、スー・チー氏は50万人の市民の前で大演説をぶち上げ、一躍「民主化運動のシンボル」となる(当時43歳)。



軍と衝突した学生の死により激化した一連の民主化運動。

その成果として、1962年より26年もの長きに渡って続いていた軍事独裁政権は退陣に至る。だが、その後に勃発した軍事クーデターによって、民主化運動自体は流血とともに鎮圧された。

※軍は数千人の市民(学生・仏僧を含む)を殺害したといわれるが、軍事政権の主張によれば犠牲者は20〜30人に過ぎない。



この8888蜂起の中、スー・チー氏の政治的母体となる政党「国民民主連盟(NLD)」は結成される。

結成から2年後に行われた総選挙(1990)で、この政党は歴史的大勝を収める(485議席中392議席獲得・占有率81%)。



だが、軍事政権は権力移譲を拒絶。

国民民主連盟(NDL)の政治活動を禁止するばかりか、同党の幹部や議員らを、政治犯として多数投獄するという暴挙に出る。

スー・チー氏は自宅軟禁という軍事政権の監視下に置かれ、この状況はその後、延べ15年にも及ぶことになる。






◎自宅軟禁



「たゆまぬ努力、それが人生なのです(Life is constant endear)」

その言葉通り、スー・チー氏はいつ終わるとも知れぬ自宅軟禁下にありながら、その志を変えることはついぞなかった。



その軟禁下にあった1999年3月、スー・チー氏の夫マイケルは遠くイギリスの地で死去する。

死を悟ったマイケルは、再三ミャンマーへの入国を求めたというが、軍政は頑なにマイケルにビザを認めない。その代わり、軍政はスー・チー氏の出国を促した。

「政府はこの機に、私を国から追い出そうとしたのです。もし、私が一旦国を出てしまったら、二度と再入国は認めらないでしょう」

そう言って、スー・チー氏はミャンマー国内に留まった。そして、夫マイケルとは死に目に会うことなく生き別れた。



バリケードの築かれた自宅軟禁の館から、時おり顔を見せていたスー・チー氏の頭髪には「鮮やかな花の髪飾り」が見られた。

それは再会することなく死別した夫マイケルとかつて、誕生日に贈り合った花だったという。その美しい花を頭につけることは、彼女に許された軍政への精一杯の抵抗であった。



本来、スー・チー氏は留学先のイギリス(オックスフォード大学)で、アカデミックな人生を送るはずであった。マイケルと結婚したのも、同大学での出会いがそのキッカケだった(スー・チー氏、当時27歳)。

子供も2人もうけた。だが、故国からの一本の電話が、それまでの穏やかな生活のすべてを変えてしまった。それは母が倒れたとの知らせ。



急遽、家族をイギリスに置いたままビルマ(ミャンマー)に戻ったスー・チー氏は、あの民主化運動(8888蜂起)の鮮血を目の当たりにしてしまう。

そして、数百万人の民衆に担がれるようにして、熱弁を奮っていた。

「私は叫びました。涙が溢れてきました」



民衆を前にした彼女は、もはや妻でも母親でもなかった。人々の切に求めていた新しい政治指導者の姿だけがそこにあった。

すぐにでもイギリスに帰国しなければならなかったスー・チー氏だが、もはやその心は完全に祖国のために捨てる覚悟を決めていた。

軍の向ける銃口にも恐れを感じなかった。道の中央に毅然と立ったスー・チー氏は、軍の引き返せとの言葉を断固拒否。逆に、その銃を下ろさせた。



その後、軍によって自宅軟禁されたスー・チー氏。

「彼らは自宅の電話回線を切断しました。実際にハサミで切って、電話を持ち去ったのです」

イギリスに残した2人の息子たちは、その時12歳と16歳。夫のマイケルがその面倒を見ていた。

「自宅軟禁下での歳月は、気の遠くなるような遅さで流れました…」



そして、夫マイケルの病気から死別(1999)。

「国民と祖国に対する強い義務感」

スー・チー氏の血に流れるその想い。「建国の父」アウン・サン将軍の娘という宿命は、彼女の身を2つに切り裂いた…。










◎現実路線



ようやく、風向きが変わり始めるのは、ミャンマーの大統領が穏健派のテイン・セイン氏に代わってから。

自宅軟禁を解かれたスー・チー氏は、昨年4月の補欠選挙へ出馬。彼女の政党NLD(国民民主連盟)は、スー・チー氏を含む44人の候補者を擁立し、40人が当選するという大勝を収めた(当選率90%)。

1990年の幻の大勝から20年以上の時を経て、ついにスー・チー氏は政治の檜舞台へと立つことが叶ったのであった。



議員になって1年。清流にあったはずの彼女は今、政治の泥沼に汚れている。

本当に国を変えたいと思うのなら、理想ばかりでは現実を動かせない。民主化のシンボルから一転、彼女は「現実路線」を歩み始めている。



これまで鋭く対立していた軍に、スー・チー氏は自ら歩み寄った。先月行われたミャンマー国軍の軍事パレードに、スー・チー氏の姿があった(もちろん初めての参加)。対立する与党のパーティーにも、彼女は足を運んで協力を呼びかけた。

さらに、軍事政権下で利権を牛耳ってきた財閥にも、自ら声をかけた。ミャンマーの不動産王と呼ばれるキン・シュエ氏は、軍とともに巨万の富を築いた男で、欧米の経済制裁の対象ともなっている。その彼にも、スー・チー氏は協力要請を躊躇わなかった。






◎罵詈雑言



「スーチーさん、あんたにはガッカリだ…」

理想ばかりを見つめる人々は、議員となって豹変したようなスー・チー氏に失望した。



「希望が打ち砕かれた。あなたは政権に利用されているだけだ!」

これまでのミャンマーで、「民主化の星」であるスー・チー氏に罵声が浴びせかけられることなど、およそ考えられなかった。

しかし、今は違う。大胆と思えるほどの現実路線を歩み始めたスー・チー氏は、軍の鉱山開発ですら、今はそれを支持する。



「国のために利用されるのなら構いません」

たとえ軍の手先と罵られようが、スー・チー氏がその態度を変えることはない。

彼女は自分の美声を守ることよりも、やはり祖国の人々の生活が良くなることを望まずにはいられない。議会には多少の変化が起こせたとはいえ、まだまだ国民の生活は変わっていないのだ。



「本当の改革とは、国民の生活が変わることだと考えています。それはまだ実現できていません」

そう語る彼女は両目を見開き、あくまでも現実を見据えている。










◎絶対的な軍



高潔の女史は今、譲歩も恐れない。

たとえ自分の名が折れても、進み始めた民主化だけは後退させるわけにはいかないのだ。

「ギブアンドテイクは、100%こちらの要求を通すということではなく、相手の立場もよく理解することです。そして両者が新しい状況で、何かを得るということです」



スー・チー氏は、絶対的な権力を握る軍に対して、権力を移譲するように求めているわけではないという。

「軍として、より価値のある『役割』があるということを理解してほしいのです」

と彼女は言う。

「より名誉ある、良い役割を引き受けてほしいのです」



現在、ミャンマー議会の議席は、その4分の1が無条件で軍人に割り当てられる。そして、非常時には軍が政府の全権を掌握できる、と憲法には定められている。

憲法の改正には、4分の3以上の賛成が必要とされるため、たとえスー・チー氏の政党(NLD)が軍以外の議席をすべて占拠しようとも、軍の協力なしには、大きな改革には手を付けられないのである。






◎恐怖



「安心感というものが必要です。未知の新しい領域に足を踏み入れても大丈夫だという安心感。それは軍だけでなく、誰にも言えることです」

変化の前に必要とされるもの、それが「安心感」だとスー・チー氏は話す。



「失敗を恐れていれば、失敗すると思います」

民主化を後退させるもの、それは「恐怖」だとスー・チー氏は言う。

ミャンマー国民は今も、軍事独裁政権の復権に怯えている。未だ生活が好転しない状況下にあって、それは無理もない(国連の人間開発報告書でミャンマーは186カ国中149位の後発開発途上国)。



「一人ひとりが自らの心を恐怖から解き放ち、自由を求めない限り、国は変えられない」

これは「建国の父」アウン・サン将軍の言葉である。娘のスー・チー氏は、この言葉を自著「恐怖からの自由(Freedom from Fear)」に引用している。



軍の協力なしに国を変えられないのと同様、国民一人ひとりが変わることなしに、その生活を変えることはできない。

軍に然るべき役割があるのと同様、国民一人ひとりにも「然るべき役割」がある。それを今、スー・チー氏は国民に求めるのである。

「真の民主主義の実現はこれからです。私は自らの役割を果たしてきました。みなさん一人ひとりにも『自分の務め』を果たしてほしいのです」










◎自立



「私は国民に自立してほしいと思っています」

スー・チー氏は、そう語る。

「私や私の党に頼ることで自分の望みを叶えようとせずに、参加してほしいのです」



「人生でタダで手に入るものは何もありません。何もせず、ただ希望しているだけ、他の人がやってくれると期待するだけではダメです。自分でやらなければなりません」

穏やかな表情を湛えたままであるが、スー・チー氏の言は強い。

以前の彼女ならもっと強い。「何かに向かって努力していない者は、希望についてい話す資格はない」とまで言い切っていた。



かつて、日本が明治維新を成した時、福沢諭吉は著書「学問のススメ」にこう記していた。

「一身独立して、一国独立する」と。

諭吉が痛烈に批判したのは「お上(かみ)頼りの百姓根性」。そんな輩ばかりでは、日本は「先導する人のいない盲人の行列」に成り果ててしまうと、諭吉は危惧したのだ。

「この国民あっての、この政治。政府が悪いのではない。愚民が自分で招いた結果なのだ」と諭吉は厳しかった。






◎大統領



現在、国政の場にあるスー・チー氏に、大統領となる期待は大きい。

だが、「大統領になる自信があるとは言いたくありません」と当のスー・チー氏は言う。

「それは人々が私に投票してくれるということだから。それは国民が決めることで、私が決めることではありません」



次回のミャンマー大統領選挙は2年後(2015)。

その時、スー・チー氏は70歳になっている。

「恐らく最後のチャンスでしょう」と、スー・チー氏の側近(ウィン・テイン議員)は語る。



「時間との戦いだと思いますか?」との問いに、スーチー氏はこう答えた。

「いいえ、そうは思いません。政治の世界では2日でも長い時間です。まして2年は長いと思います」



大統領になることだけが、彼女の勝利ではない。

「ただ勝てば良いのではなく、どのように勝つかが大事」とスー・チー氏は言い続けてきた。

「信念や価値観を犠牲にして成功しても、それは本当の勝利とは言いません。それは実際、失敗です。敗北です」



スー・チー氏の考える勝利とは?

「それで信念が強まった、あるいは社会にとって良い価値観が生まれたというのであれば、それが勝利と言えるのです」

敗北と勝利は表面的に考えてはいけない、と彼女は言う。



スー・チー氏が民主化運動のシンボルと囃されてから、早25年。そのうちの実に15年が、自宅軟禁下にあった。

それでも彼女は屈しなかった。彼女の払った犠牲は多大であったかもしれない。だが、信念や価値観を犠牲にしたことは一度もなかった。



彼女は敗者とされながらも、ある意味、勝者であった。自宅軟禁下にありながら、ノーベル平和賞も受賞している(1991)。アメリカからは議会名誉黄金勲章を授与された(2008)。軟禁が解かれた後に訪れたイギリスでは、国賓として遇された。

なにより、彼女がいたからこそ、圧政下のミャンマーでも民主化の火が消えることはなかった。










◎日本観



冒頭でも述べたように、スー・チー氏の日本観は複雑である。

父アウン・サン将軍は、反イギリス闘争の中、一時的に日本に逃れていた時期もある。だが結局、日本との共闘は捨てた。



娘スー・チー氏も、自宅軟禁にあった時、軍事政権に加担し続けた日本を苦々しく思っていたかもしれない。だが、聡明な彼女は、日本の行動にも一定の理解を示していた。

「制裁に加わらなかった日本を友人と認めない、という見方もありますが、そんなことはありません」と彼女はのちに語っている。



日本は欧米各国が制裁を課したミャンマーに留まり続け、30年にわたり現地での支援を続けてきた(人道支援を含む)。

たとえばJICAによる少数民族支援、電力・水道などの整備、農村部での母子保健事業…。NGO「AMDA」による貧困生活向上のためのブタやヤギへの融資プロジェクト。

2008年のサイクロン・ナルギスが14万ともいわれる被害を出した時も、日本は他国に先駆けて被災地入り。緊急支援、復興支援に尽力している。



政治家となったスー・チー氏は、ぐっと柔軟になった。

かつて彼女は「ミャンマー」という呼称も使おうとしなかった。この国名は軍事政権が勝手に変えてしまったものだと納得せずに、「ビルマ」という呼称以外認めなかったのである。

ところが最近、「大事なことは中身であって、呼び方ではないでしょう?」と、一気に彼女は軟化していた。「日本は、日本でもジャパンでも変わらないんですから」と。



軟化してしまったスー・チー氏に落胆する声もある。

しかし、彼女の軟化は決してフニャフニャしたものとは考えられない。どちらかと言えば「柔」。芯のある柔らかさであろうし、「剛」を制しうるものでもあろう。



「民主化の星」は依然、輝きを変えることはない。

それが一時的に闇雲に隠れたように見えても、きっと変わらぬはずである。

そしてもう彼女は、勝敗を超えたところに存在しているのかもしれないのだから…。







(了)






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出典:NHK
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posted by 四代目 at 09:18| Comment(2) | 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月18日

迫るアメリカ大統領選挙。経済界の静かなオバマ離れ


「信じられない数字だ(Unbelievable jobs numbers)」

GE(ジェネラル・エレクトリック)の元大物経営者、ジャック・ウェルチ氏は、今月初めに発表された「アメリカの失業率」の数字を頭から疑ってかかった。その数字が信じられないほど好転し、8%を割り込んだからだった(8.1% → 7.8%)。

「あのシカゴの連中(オバマ陣営)は何でもする(do anything)」とツイッターに書き込んだウェルチ氏。オバマ大統領たちが来月(11月6日)の大統領選挙で不利にならぬように、「統計データをごまかした(change numbers)」とまで非難した。





◎経済界の不満


こうした疑心暗鬼によるジャブの応酬は、選挙戦に付き物。むしろ今回の大統領選挙に関しては、極めて少ないのだという。

ここで問題になるのは、経済界の大物が公にオバマ大統領を非難したことである。言い換えれば、ウェルチ氏の発言は、オバマ大統領に対する経済界全体の不満を「代弁」していたということである。

大企業の重役で「オバマ大統領の経済界に対する姿勢を褒めそやす人物を、たった一人でも見つけるのは至難の業だ」と、エコノミスト誌は記す。



「私はオバマ大統領が掲げた『チェンジ』に賭けた。しかし今は、まるで愛する人に裏切られた気分だ」と、映画業界のある企業経営者は打ち明け、その苛立ちをあらわにする。ここで実名を挙げられないのは、こうした発言を公にすることが憚られるからであり(その理由は後述)、ウェルチ氏のように公言する人物は極めて異例だ。

多くの企業トップは、オバマ大統領に期待していた。しかし今、そう考えている人の数は少なくなっているのだという。かつてはオバマ・ファンだったというある大物実業家は、「我々の話をじっくり聞くよりも、一緒に写真を撮ることに熱心だった」と不満を述べる。つまり、ポーズだけで中身が伴っていなかったというのである。

同じような不満はベライゾンの元CEOの口からも漏れた。「ホワイトハウスに招かれてスーパーボールを観戦したものの、大統領と過ごす時間をわずか15秒しか与えられなかった」。



◎優秀なセールスマンだったが…


「オバマ大統領はセールスマンとしては優秀だが、カスタマー・サービスはおざなりだ」と、ある企業経営者は言う。つまり、売り込むことばかりに長けていて、売った後はほったらかしだったと言うのである。

具体的には、オバマ大統領がこの4年間の任期中に「アメリカの財政問題を放置した」と多くの企業経営者たちは考えている。そして、ビジネスに対して「細かい規制をあまりにも多く導入しすぎた」とも非を鳴らす。ある企業トップは「新しいルールはあまりにも煩雑だ」と不満を述べる。こうした煩雑さにより、実際、そのためのコストが急増しているのだという。

また、オバマ大統領が富裕層への増税にも言及しているため、ある人は「金持ちを剥製にして、勝利の証として壁に飾る」ことを恐れているとまで言う。



結果として、経済界にはオバマ大統領に背を向ける人々が増えてきている。

DLAパイパー法律事務所の調査によると、来月の大統領選挙でオバマ大統領の勝利が望ましいと答えた経営者は、わずか41%。対抗馬であるロムニー氏は、オバマ大統領を圧倒する64%もの支持を集めている。



◎匿名の献金


実際、経済界からのオバマ大統領への献金は減っている。ここ数年で多額の政治献金を行なった企業25社のうち、3分の1以上がオバマ大統領へと支援をやめている(センター・フォー・レスポンシブ・ボリティクス調べ)。

先の映画界の大物に加え、ゴールドマン・サックスの役員や従業員など、4年前にオバマ大統領におびただしい資金を提供していた人々も、「今はキッパリとロムニー氏を後押ししている」。

献金者は「スーパーPAC」という新しいルールを通じて、「匿名」で献金を行うことができるようになっている。そのため、今までの民主党(オバマ大統領)支持者が、「退路を断つことなく(without burning their bridges)、ロムニー氏を支援することも可能」となっている。



ところでなぜ、経済界の人たちは「匿名」でロムニー氏の支持に回るのか?

それはロムニー氏が「99%」のアメリカ国民に、あまり心良く思われていないというのが、その大きな理由だ。もし、ロムニー氏がアメリカの大統領となれば、「ロムニー政権は1%による1%のための政府になるだろう」とも言われている。

ここで言う99%というのは「一般的なアメリカ国民」のことであり、1%というのは「一握りの超富裕層」のことである。



◎苛烈なロムニー氏


ロムニー氏というのは、自身、大企業のトップとして何億円も稼ぎ上げてきた辣腕実業家である。

それゆえ弱者には容赦のないところがある。たとえば、彼は47%のアメリカ国民を「役に立たない社会の寄生虫(useless parasites)」とバッサリ切り捨てる発言をしている。47%の国民が所得税を国に払っていないというのが、その理由である。





一般的に寛容な民主党(オバマ大統領)に対して、ロムニー氏の属する共和党は、より狭量だ。

たとえば、中国を許さない。ロムニー氏は大袈裟な反中国的な言動を得意とし、大統領になった暁には「中国に為替操作国(currency manipulator)の烙印を押してやる」と息巻いている。この狭量さには、企業経営者たちも眉をひそめる。最大の貿易相手国である中国との貿易戦争は、ビジネスにとって全く望ましいものではない。

また、同性愛者を許さないロムニー氏の姿勢も、経営者たちにとっては大きな問題だ。なぜなら、彼らの企業は同性愛者の顧客や従業員を多数抱えているからだ。



幸いにも、ロムニー氏は共和党の中では「穏健派(moderate)」と言われている。この穏健派という言葉は、共和党内では「侮辱」であるが、企業経営者たちにとっては、もっけ中の幸いだ。



◎はばかられる名


はたして、オバマ大統領の財政手腕はそれほど悪いものだったのであろうか?

彼がブッシュ前大統領から政権を受け取ったのは、かのリーマン・ショックによる金融危機の真っ最中。肯定的に考えれば、この4年間でオバマ大統領はアメリカ経済をそこそこ安定させ、「アメリカの経済界が記録的な利益を上げるまでにアメリカ経済を成長させている」。

それでも経済化に不人気なのは、ひょっとすると、経済界の「欲」は深すぎたのかもしれない。



ところで、この4年間で不遇だったのは経済界の大物たちではなく、名もない庶民たちの方ではなかったか。失業率が高止まりし、働きたくとも働けない状況がアメリカでは依然として続いている。

弱者を切り捨てようとするロムニー氏に対して、オバマ大統領はお節介なほど、その面倒を見ようともしている。しかし、それが逆に1%の大金持ちたち(fat cats)には大いに不満なのである。



もし、ロムニー氏が勝利すれば、「アメリカは急激に方向を転換することになるだろう」とも言われている。おそらく、その転換はより強い者たちへ向けられたものだ。それゆえ、非白人の5人に4人はロムニー氏に投票したくないと言っているのである。

こうした状況を鑑みて、企業経営者たちも「ロムニー氏の名を語ることを、はばかっている(the love that dare not speak its name)」のである。これが企業経営者たちの公の場で沈黙を守る理由である。



◎いよいよ決戦


ちなみに、オバマ大統領は経営者たちが批判するように、金持ちたちを「剥製」にはしていない。前大統領のブッシュ氏(共和党)のほうがよほど多くの「剥製」をこしらえている。

念のために記すが、アメリカ大統領選挙の行方は、依然、オバマ氏優勢で進行している。その再選の可能性は62%と、イートレード・ドット・コムのオッズは示している。



泣いても笑っても、投票日まであと3週間を切っている。

今もっとも注目されているのが、両候補による「テレビ討論会」。第一回目はオバマ大統領の「まさかのヘマ」により、その支持率の数%をロムニー氏に譲ってしまっている。

そして迎えた先日の第二回目。両者はわずか数十センチの距離に接近する「批判と反論」の応酬。大声で主張し、大声で応戦する。オバマ大統領は「最初の数回の発言の応酬で、眠気を誘った第一回討論会の90分すべてで費やしたよりも多くの情熱とエネルギーを披露」し、おおむね良好な評価を獲得したとされている。残念ながら、最も上品さに欠けていたようではあるが…。



一般有権者による投票は11月6日、大統領選挙人による投票は12月17日、そして新たな大統領が正式に決定するのは来年(2013年1月6日)とのことである。

はたして、これからオクトーバー・サプライズ(投票一ヶ月前の10月に何が起こるかわからない)というのは、起こりうるのであろうか?







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あらゆる法律が無視される「グアンタナモ収容所」。最もアメリカらしくない負の施設。



出典:
Schumpeter: The silence of the suits | The Economist

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2012年09月09日

民主主義国の船底にはりついたフジツボ。寛大すぎた国民たち



「フジツボに覆われた船」

民主主義国家を、そう称した人がいる。もちろん、褒め言葉ではない。



「フジツボ」というのは数ミリ〜数センチ程度の小さな貝のような生物(分類的には甲殻類)であるが、これらが密集して船底に張り付かれると厄介だ。船の速度は遅くなり、燃費は落ちる。

かつての日露戦争の折に、延々と海上でロシア艦隊を待ち受けていた日本海軍は、その船底にフジツボが付くことを非常に気にしていたという。なぜなら、軍艦らの速度低下は、そのまま戦力の低下に直結していたからである。



今の民主主義国という船は、「その底をフジツボに覆われ、その重みに耐えかねて沈みかけている」と、英国エコノミスト誌は書いている。

彼らがフジツボとたとえるのは、国家の債務(借金)のことである。



◎静かに溜まっていく借金


民主主義国の借金は、静かに静かに溜まっていく。それは、国民一人一人の税負担がそれほど大きなものではなく、それに反対する大きな理由が見当たらないためである。何より、納税により国家から受けられる社会サービスの恩恵は多大である。

しかし残念ながら、最近の民主国家が国民に提供するサービスは、収入の限度額を超過してしまっている。国家の収入(歳入)から使ったお金(歳出)を引いたものを「財政収支」というが、ここ30年でそれが黒字になっているのは、日本ではわずか数年間(1988〜1992)しかない。しかも、そのプラスの額は氷山の一角のように、いと小さきものである。

財政収支の推移(1980〜2012年) - 世界経済のネタ帳



ここ30年間で静かに降り積もった日本の借金の総額は、およそ1200兆円以上。

国家の数字は現実離れしていて何の実感も沸かないことが多いのだが、それを国民の数で割れば少しはリアリティーも出てくる。国民一人あたりにすれば、950万円の借金だそうである。ちなみに、日本のサラリーマンの平均年収というのは、400万円程度である。



◎安定した国家の不安定な債務


日本と同様、世界の民主主義国も赤字赤字である。それはいち早く民主化した国家、つまり先進国ほど、苦しい状況にある。

なにせ、民主主義の時代が長いほど、借金が溜まっていくという皮肉な構図があるからだ。それはあたかも、海上に浮いている時間が長いほど、フジツボがたくさん付いてしまうかのように…。



こうした結果を、エコノミスト誌はこう皮肉る。「安定した民主主義国は、多くの不安定な国がかつて成し得たことがないほど、膨大な債務を積み上げることができた」。

かつての専制君主国家や独裁国家よりも、今の民主国家のほうが多額の借金を抱え込んでいると言うのである。それほどに、民主国家の国民は寛大だと。

歴史上、民主主義が主流となったのは、今の時代が初めてである。第二次世界大戦後、世界中で民主化が進んだ結果、今や「世界の人口の半数近くが民主主義国に住んでいる(エコノミスト・インテリジェンス・ユニット)」。



◎民主主義への恐れ


昔々、古代ギリシャの哲学者・プラトンは、民主主義は「破滅を招く」と恐れていたという。そのプラトンはこう言った、「民主主義は金持ちからカネを奪い取る。民衆に分け与えられるカネは、政治家たちが懐に入れた後の残りのカネだ」と。

プラトンと同じように、アメリカ第2代大統領、ジョン・アダムズは、「金持ちに対する重税」を危惧した。一生懸命働いた人々のカネが、「平等」という名のもとに、怠け者や乱暴者たちによって放蕩の限りを尽くされるのではないかと懸念したのである。



こうした先人たちの警鐘は、当たったような、外れたような…。なぜなら、アメリカやイギリスなどでは、過去30年間で「格差」が拡大している。つまり、金持ちがカネを奪われるどころか、金持ちは増々金持ちになったのである。その一方、フードスタンプ(食糧配給)を受けるアメリカ国民は急増している。その数、いまや4,600万人以上(国民の7人に1人)。

それでも、「民主主義の平等」の名のもとの不利益は、いまだ本格的には顕在化していないのかもしれない。今は国家の債務(借金)という形で、何とか吸収されているのである。

その不利益が顕在化するのは、国家がその債務に耐え切れなくなった時なのかもしれない。たとえばギリシャなどのように。



◎デフォルト


民主主義国には、自国の債務問題を軽減するために、いくつかの方法が許されている。

たとえば、「インフレ」。物価が上昇すれば、過去の借金の価値は相対的に減る。極端な話、今の物価が10倍になれば、過去の借金は10分の1になるのである。

最悪の手段は「デフォルト(債務不履行)」。もう借金は返せないと宣言するのである。第二次世界大戦終結以降、世界では60カ国近くがデフォルトしている。かつて、デフォルトする国家は途上国が圧倒的に多かったわけだが、最近では、先進国と分類されるギリシャも事実上デフォルトしており、その債務の半分が帳消しとなっている。



先進国のデフォルトは、過去の例がなかったわけではない。たとえばアルゼンチンは、第二次世界大戦に直接関わらなかったこともあり、かつて「先進国」に分類されるほど豊かな国家だった。

しかし、1980年代にデフォルトするや、経済は「なし崩し」となり、現在では、新興国より格下の「途上国」にまで転落してしまっている。ちなみに、世界で最多の破綻回数を誇るのも、このアルゼンチンである。



◎外国の貸し手(対外債務)


アメリカ建国の父の一人であるジェームズ・マディソンは、「デフォルトへの誘惑」を民主主義国の欠点として挙げている。アルゼンチンの例をみれば、その不利益が如実にわかる。

デフォルトで最も怖いのが、外国からの借金を踏み倒すことである。アルゼンチンはそれを3回もやっている(1982・1989・2001)。自国民からの債務をチャラにすることは、ある程度許されても、外国の貸し手に対してそれをやってしまった時は、かなりヤバイ。

そのヤバイ一線を超えようとしているのが、今の欧州各国であり、それがユーロ債務危機の根本的な問題である。そして、ギリシャは一足早く、その一歩を踏み出してしまったのである。



民主国家の船底に付着したフジツボは、速度が落ちるだけであれば、まだ進んでいける。この状態が、国家の債務を国民が負担できている状態である。しかし、そのフジツボを放っておくと、船が傾きかける。これが今のギリシャであり、外国からお金を借りすぎている民主国家の泣き所である。

「デフォルトしたくても、デフォルトできない」。それが外国からの借り入れであり、超えてはならない一線なのでもある。しかし今、多くの民主主義国がその一線を足元に見始めている。

独裁国家であれば、とうの昔に破綻していたであろう借金を、今の民主主義の国民は許容してきた。しかし、それにも限界がある。他国の国民は、自国民ほどに寛大ではないのだ。



◎テクノクラート


この問題を解決するため、今のヨーロッパでは新たな試みが行われている。それは「選挙で選ばれていない政治家」に政治を任せるという方法である。テクノクラート(実務家)と言われる政治家たちは、国民に選ばれたわけではなく、国家の財政を立て直すために選ばれた専門家集団のことである。

ギリシャで一時政権を率いたルカス・パパデモス氏は、元中央銀行家であり、その肩書きを聞くだけで頼もしいような気がしてくる。イタリアで今、国を率いているマリオ・モンティ氏もやはりその手の専門家であり、EUの元欧州委員である。



こうしたテクノクラート(実務家)たちに政治を任せるメリットは、「国民に不人気な決断」を積極的に下してくれることである。選挙が絡んだ政治家たちには、どうしてもそれが出来ない。ついつい人気取りに走ってしまうからだ。

かつて、「金融政策(紙幣発行や金利決定)」が政治家たちの手から離されて、独立した中央銀行に委ねられるようになったのと同様、苦境に陥った民主国家では今、「財政政策(お金の使い道)」が政治家たちの手からもぎ取られようとしているのである。



選挙のことを考えなければならない政治家たちは、どうしても国民に「アメ」ばかりを与えてしまう。それが民主主義の欠点でもあり、衆愚政治に陥る危険でもある。

一方、選挙のことを一切考えなくて良いテクノクラートたちは、果敢に「ムチ」を振るうことができるのだ。



◎民主主義に反する側面


ところで、国民に選ばれていない人たち(テクノクラート)が政治の方向性を決めることは、民主主義に真っ向から反しているようにも思われる。まるでそれは独裁国家のようである。

しかし、テクノクラート政権の下す決断は、議会の採決にかけられることになるので、「民主主義が完全に放棄されるわけではない」。

国民に「アメ」ばかりを与えていると、その船はフジツボだらけになってしまう。そこで、テクノクラートにそのフジツボを取ってもらおうというわけである。一時的に。



今世紀に入ってからの一連の金融騒動は、民主主義という体制の欠点を浮き彫りにしてくれた。今まで静かに静かに借金がたまってきたのは何故だったのか。それが今、抜き差しならぬところに差し掛かっているのである。

日本という国を見れば、その国家債務は膨大であるといえども、まだ国内問題といえば、国内問題である。その借金の大方が国民の負担なのであるから。しかしそれでも、船底に張り付いたフジツボは、その数を増し続けるばかりである。



◎新たな船出


エコノミスト誌の言うとおり、民主主義の歴史はまだ浅い。そして、その欠点もある。それゆえ、今後ともに改善・革新を必要なのであろう。フジツボが付き過ぎないように。

そういう意味では、民主化への歩みは、先進国と言えども、終わったようでいて終わっていないのかもしれない。昔からの先進国ほど逆に、その弊害が顕著に現れてきているのだから。



世界経済が停滞している今、フジツボの付き過ぎた船は、いったん港に戻らなければならないのかもしれない。

それは後退ではないのだろう。また船出するための前進である。かつての日本海軍も、いったん港で船底をキレイにしたからこそ、世界最強と目されていたロシアのバルチック艦隊を殲滅できたのである。

もし、あまりに無理を押すならば、その船は港にも帰れなくなってしまうかもしれない…。先進国という巨大な船を曳ける船は、そうそうない。それゆえ、巨大な船ほど、自らに頼むより他にないのである。







関連記事:
英語で学ぶ「The Economist」 「なぜ増える? 民主国家の借金」

相手がいないと思うからこそできる「独り占め」。盲(めくら)になった現代金融。

お金がなくとも生きて行けるのか? 14年間もそうして生きてきたドイツ人女性の話。



出典・参考:Buttonwood: Democracies and debt | The Economist

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2012年08月16日

稲田朋美という政治家の憤。歴史を知り、国を知る。


もし、日本で初めて「女性の首相」が誕生するとしたら…?

それは「稲田朋美」氏(自民党・副幹事長)かもしれない。

森喜朗、阿倍晋三、両元首相等は彼女を「日本のサッチャーだ」と呼び、その他、多くの識者連中も彼女を熱烈に後押しする。





◎気骨ある女性・弁護士


「今、最高裁までがダメだと著書に書くほど勇気のある政治家は、稲田先生の他にいませんよ」、と渡部昇一・上智大学名誉教授は語る。

稲田氏は元々弁護士が本業であり、阿倍晋三・元首相のラブコールによって、政治家となった女性である。その彼女が弁護士時代に、「あぁ、日本は裁判所もダメなんだ…」と深い悲しみと怒りを感じた事件があった。

それは、南京「百人斬り」と呼ばれる事件の訴訟を担当した時のことであった。






◎百人斬り


「百人斬り」とは、第二次世界大戦の中国・北京攻略時、2人の日本軍少尉が「どちらが早く100人を斬るか」を競い合ったとされる出来事である。



「南京入りまで『百人斬り競争』という珍競争を始めた向井敏明、野田毅の両少尉は、さすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した。

野田『おい、おれは105だが、貴様は?』

向井『おれは106だ!』

両少尉『アハハハハ!』

結局、いつまでにいづれかが百人斬ったか、これは不問。『ぢゃ、ドロンゲーム(引き分け)といたそう。知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快ぢゃ!』(1937年12月13日・東京日日新聞)」



戦後、この新聞記事および、その時の日本刀が動かぬ証拠とされて、向井・野田両少尉は中華民国によって南京郊外で処刑されることとなる。

現在、中国・南京市にある南京大虐殺紀念館には、この新聞記事が「虐殺の証拠」として展示されており、台湾・台北市の国軍歴史文物館には、「南京大虐殺時の日本軍の刀」といわれる傷ついた刀が飾られている(その刀には「南京の役 殺一〇七人」と刻まれている)。





◎その是非


一聞しただけで違和感を感じずにはいられない「百人斬り」事件。南京大虐殺が絡んでいるということもあり、その真偽は当然のように論争の的となり、いまだに肯定派と否定派の間に横たわる溝は深い。

その是非を巡り、向井・野田両少尉の遺族は「死者に対する名誉毀損」として法廷に訴え出た(2003)。そして、その遺族たちを弁護したのが、稲田朋美・弁護士(当時)であったのだ。



稲田氏が憤(いきどお)るのも無理はないほど、裁判は一方的に進められていった。稲田氏が証人の出廷を要請しても、「どういうわけか」却下。裁判所は遺族ら原告側に反対尋問の機会も与えずに、そのまま遺族らは敗訴。

納得いかない稲田氏は、東京高等裁判所へ控訴するものの、たった一日で控訴棄却。つづく最高裁への上告も、上告棄却。

「どう考えても、何か大きな力が働いているとしか思えませんでした」と稲田氏。



◎日本刀


「考えてもみて下さい。日本刀で百人も斬れますか?」

遺族等を中心とした否定派は、「百人斬り」事件の不自然さを強調する。日本の戦国時代や幕末の動乱期ではあるまいし、銃器の発達した近代戦において、日本刀を振り回して敵陣に切り込む少尉などいたのであろうか。

そもそも、日本刀という武器は非常にデリケートな道具であり、「刀に付着した血脂はすぐに白くなり、時間が経つと固形化し、そうなってしまうと絶対に取れなくなる。布で拭ったくらいではダメで、砥石をかけなければならない。もし血刀をそのままにしておけば、一晩で真っ赤にサビてしまう」。



当時の官給軍刀というのは「昭和刀」と呼ばれるものであるが、その軍刀には粗悪品が極めて多く、「官給品は役に立たない」として、自前で伝統的な日本刀を所持する将校も多かった。向井・野田両少尉も自前の日本刀を持っており、向井少尉は「関の孫六」、野田少尉は「無銘ながらも先祖伝来の宝刀」を携えていたという。

いかなる名刀を持とうとも、スパリと人が斬れるかは修練次第。その技術は想像以上に高度なものであり、かの北辰一刀流の名手でも、切腹人の介錯に失敗することさえあった。



「百人斬り」の記事の記述を追っていくと、向井・野田両少尉は「一日平均、4〜5人のペース」で斬り殺していることになる。

毎日毎日、丁寧に刀の手入れをしたとしても、相当に傷んだ刀を研ぎ上げるには「最低でも10日前後、長くて一ヶ月」もかかってしまうと言われる。

それゆえ、現場の兵等は「銃剣で刺してしまった方が、はるかに効率的」と考えていた。腰に携える日本刀は「愛国の精神的な象徴」であり、時として「重いばかりの代物」であったというのだ。



ちなみに、台湾・台北市に展示されている「一〇七人斬りの日本刀」には「98式軍刀」であり、南京攻略の1937年には存在しなかった刀である。さらには、軍刀のハバキ部分に彫られた稚拙な文字、「南京の役 殺一〇七人」は上下逆という至らなさである。



◎憤(いきどお)り


南京大虐殺の象徴的事件とされた「百人斬り」の是非は、ここでは問えない。稲田氏自身の憤(いきどお)りも、その是非にというよりは、遺族らの話を聞こうとうもしなかった裁判所側の不遜な態度に向けられたものであった。鼻から南京大虐殺を確定事項として扱っているような、その態度に…。

弁護士にとって、第二次世界大戦時のようなデリケートな歴史問題を扱うということは勇気のいることである。その賛否は激しく、国家間の問題にまで容易に発展してしまうのだから…。

ましてや、政治家がそれを口にすることすらはばかれる。政治家が靖国神社に詣でるだけで、日本海の向こうはハチの巣をつついたような大騒ぎになるのだから…。



◎東京「茶番」


それでも、稲田氏は果敢である。彼女は第二次世界大戦後の「東京裁判」にも堂々と異を鳴らす。

そのキッカケはと言えば、とある記録映画。東條英樹・元首相を担当していた清瀬一郎・弁護士が、こんな問いを発していたのを聞いたことだった。

「この裁判は、罪刑法廷主義とポツダム宣言に違反して、二重の意味で『国際法違反』である。この法廷に、この人たちを裁く権利があるのか?」





「罪刑法廷主義」というのは、「今日突然『禁煙法』をつくっても、昨日タバコを吸っていた人を裁けない」、つまり、「法律のなかった過去に遡っては、処罰できない」という近代法の大原則である(法の不遡及)。

具体的には、ポツダム宣言が出された時に戦争犯罪人でなければ、それ以前の行為に対して罪は問われない、はずであった。



しかし事実は、国際法違反であるとされる東京裁判において、法の不遡及という近代法の大原則を無視して、数多くの「A級戦犯」が処刑されたのである。

「これは『裁判』と呼ぶに値しません。言ってみれば『茶番』です。東京茶番」



東京裁判の起訴は、昭和天皇の誕生日(4月29日)に行われ、死刑の執行は当時皇太子だった現在の天皇陛下の15歳の誕生日(12月23日)に行われるという残酷さであった。

稲田氏の憤(いきどお)りは続く。「祖国のために命を捧げた人たちに着せられた汚名をなんとかして雪(そそ)ぎたい。貶(おとし)められた日本の歴史を何とかしたい…!」



◎勝者による復讐


やはり賛否のキッパリ分かれる東京裁判。肯定派は「法と正義」に基づく「文明の裁き」と呼ぶ一方で、否定派は「勝者による復讐の裁き」と呼ぶ。なぜなら、裁く側すべてが戦勝国の任じた人物であり、原爆投下を含めた戦勝国の行為はすべて不問とされたからである。

※判事に任じられた国は、すべて戦勝国の11カ国(アメリカ・イギリス・インド・フランス・オランダ・オーストラリア・ニュージーランド・カナダ・フィリピン・中国・ソ連)。中国の判事は裁判官の職を持たず、ソ連とフランスの判事は法廷の公用語となった日本語と英語のどちらも使えなかった。



日本の懲罰に最も熱心だったのがオーストラリア。「天皇を含めて、日本人戦犯全員を撲滅する」として、「天皇有罪」の立場を貫き通した。

その一方、日本の肩をもったのがインド(当時・イギリス領)。インドのパール判事は、「事後法で裁くことはできない」として「全員無罪」とした(パール判決書)。





それに同調したのがオランダ。「東京裁判の判決は、どんな人にも想像できるくらい酷い内容であり、私はそこに自分の名前を連ねることに嫌悪の念を抱いた(レーリンク判事)」。



のちにイギリスは「東京裁判は世界人権宣言の規定と相容れず、退歩させた」と述べている。さらに1951年、東京裁判を仕切ったアメリカのマッカーサー自身が、日本が戦争に踏み切った理由を、「侵略ではなく自衛のため」と証言している(アメリカ議会証言録)。



◎醸成された自虐史観


戦後の日本では、東京裁判を是とする「自虐史観」が常識とされていくのであるが、稲田氏はその風潮を決して是としない。

「歴史を知り、理不尽な裁判などを通じて、もう黙っていられなくなりました。言いたいことが溢れ出てきて止まらなくなってしまったんです。だから弁護士から政治家への道を選んだのです」

彼女が政治家への誘いを受けたのは、平成17年8月15日、奇しくも戦没者たちの英霊を祀る靖国神社を参拝していた時のことであった。

「私の政治家への道を開いたのは、靖国に眠る246万柱の英霊だと思っています」



◎神経過敏なる靖国参拝


昨日(8月15日)、民主党の松原仁・国家公安委員長と羽田雄一郎・国土交通相が靖国神社を参拝してニュースになっていた。「2009年に民主党政権になって以来、終戦記念日に閣僚が靖国神社を参拝するのは初めて」。

政治家が靖国神社を参拝しようとすると、周りの秘書や官僚が止めに入るのが常であるという。「先生、靖国に参拝した時の諸外国への影響を考えて下さい。中国や韓国から取引を停止されて、日本経済はガタガタになってしまいます!」

それでも靖国神社に詣でる政治家は、よほどに信念を持つ人ばかりである(小泉純一郎・元首相のように)。



当然、稲田氏は靖国神社を詣でる。

「今の日本の閉塞感は、靖国神社の英霊が篤く弔われていないことにあると思うのです。祖国のために命を捧げても、尊敬も感謝もされない国にはモラルもないし、安全保障もあるわけがない。

そんな国をこれから誰が命を懸けて守るというのですか」



◎靖国神社とA級戦犯


靖国神社が創祀されたのは明治2年(1869)、アメリカのペリーの来航以来の日本の国難に立ち向かった戦没者たちを弔うためであった。

明治維新の戦役ではおよそ1万5,000人、日清・日露の両戦役を通じては10万人以上(うち日露戦争が9万人弱)、2度の世界大戦では235万人近くの犠牲者たち(うち第二次世界大戦が230万人以上)が、靖国神社に「英霊」として祀られている。

※正確には「人」という数え方ではなく、「柱」と数える。それは神々を数える時の単位である。



なぜに、国家に殉じた死者を弔う靖国神社を詣るのに、他国の顔色を窺わなければならぬのか?

それは、この靖国神社に東京裁判でA級戦犯とされて処刑された14人の英霊が合祀されているからである。すなわち、靖国神社に詣でることは、A級戦犯にお参りすることであり、それは日本の軍国主義を礼賛することだと断じられるからである。



戦後の日本を支配したアメリカは、靖国神社を焼き払い、その地に犬のレース場を建設する計画を立てていたというが、その暴挙を止めたのは、ローマ教皇庁の代表であったビッテル神父。

「いかなる国家も、その国家のために死んだ戦死に対して、敬意を払う権利と義務がある。靖国神社を焼却することは、犯罪行為である」と言い切った。

それ以来、戦後の国際連合において、靖国神社の廃止や、政治家などの公人による参拝の禁止や自粛を提案されたことは一度もない。現在でも公人による靖国参拝を槍玉に上げるのは、中国・韓国・北朝鮮のみである(たまにシンガポール)。

そもそも正当性の疑問視される東京裁判によって裁かれた戦犯の扱いには、微妙なものがある。ゆえに、その戦犯を祀っているからといって靖国神社への参拝を遠慮するのも、どこかチグハグな感じを免れない。



◎迷える魂の目印


第二次世界大戦を戦った兵士たちが「靖国で合おう」といって遠い戦地に旅立ったのは、死んで魂が故郷に帰るとき、その帰国の目印として靖国神社を選んだからであった。

「靖国のことを想えば、そこに仲間が集まっており、それを目印に戻って来られる」。もし、遠くの戦地で魂が迷ってしまっても、招魂の儀式により魂に呼びかければ、迷える魂もその呼び声を頼りにして故郷に帰れるということである。靖国まで戻れれば、自分の故郷までそれぞれの魂が帰り着くことは容易である。

終戦の日(8月15日)に靖国神社に参拝することには、遠く離れた戦地で心細く迷ってしまっている魂を呼び寄せる、そんな意味があるのである(現在、終戦日における特定の祭事は遠慮されているが…)。





◎政治家としての本望


多くの政治家たちが「政治的に」二の足を踏む靖国参拝。それを稲田氏は辞さない構えである。

「少々の犠牲を払ってでも自らの信念を貫く、一種の『狂』も必要だと想います。

これまでの首相や閣僚たちは、尖閣諸島だけでなく、竹島や北方領土も含めて『摩擦を起こしたくない』と言っていますが、摩擦を起こさずにどうやって領土問題を解決するんですか」



かつて、イギリスのサッチャー首相は「命に代えてでも、我がイギリス領土を守らなければならない」と言って、フォークランド諸島に進出してきたアルゼンチンとの戦争を断行した。反対した国防大臣をクビにまでして…。

そんな過激なサッチャー首相は、「テロに遭ったり、ホテルを爆破されたり」と執拗に命を狙われ、自身のブレーンを亡くしていく。まさに「命懸け」で領土を守り抜いたのである。





稲田氏はこうしたサッチャーの信念を高く評価する。

「政治家にとって、自分の信念に従って活動している最中にテロに遭って死ぬのも、ある意味、幸せな死に方だと思うんです。それは政治家の終わり方としては『本望』だと思うのです」

この稲田氏の言葉を聞いた渡部昇一氏は、いたく感銘を受ける。「このぐらい腹の据わった人に首相をやってもらいたいものだ。稲田先生なら本当に中国や韓国に対しても、今と同じことを言ってくれると思う」。



はたして、「憤」から発した稲田氏の「狂」は、危険なものであろうか?

もしかしたら、それこそが今の日本に欠けてしまっているものなのかもしれないが…。







関連記事:
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「マッカーサー宣言」に見る第二次世界大戦。日本は凶悪な侵略国家だったのか?

卑怯と罵られた日本の真珠湾攻撃。その裏で交錯していた日本人たちの想いとは?

8月15日で戦争が終わったわけではなかった。植民地化を回避した終戦後の暗闘。



出典・参考:
致知2012年7月号 「将の資格 〜いま、政治リーダーは何をなすべきか〜」

posted by 四代目 at 12:37| Comment(4) | 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする