「こたつミカン」
コタツの上にミカンがあり、猫がいる。
そのミカンの正式名称は、「温州(うんしゅう)ミカン」と言う。
「温州(うんしゅう)」とは中国の地名であり、この地はミカンの名産地として名高い。
三国志(演義)において、方術士・左慈(さじ)が時の権力者・曹操の食べようとするミカンを、「皮だけ(実がない)」にしてしまう話が出てくるが、そのミカンは「温州」から運ばれてきたという設定である。

とはいえ、日本の「温州ミカン」は中国からやって来たわけではなく、その原産地は「鹿児島」だとされている。
「温州(うんしゅう)」の名が冠せられたのは、中国の名産地にあやかったもの(イメージ)だということだ。
ちなみに欧米などでは、温州ミカンのことを「サツマ(Satsuma)」と呼ぶ(鹿児島=薩摩)。
温州ミカンの原産地とされる鹿児島では、戦前(1936)に樹齢300年と推定される温州ミカンの古木が発見されている(太平洋戦争中に枯死)。
そして、その古木には「接(つ)ぎ木」の跡が見受けられたことから、日本における温州ミカンの歴史は400〜500年に及ぶであろうと考えられるようになった。
温州ミカンの祖先は、「九年母(くねんぼ)」という東南アジア原産のミカンに求められ、それが中国をへて日本へと伝わったのだろうと言われている。
ただ、日本に伝わった時には「種あり」だったと考えられ、現在のような「種なし」温州ミカンの元祖は、「突然変異」によって偶然発現したものだとされている。
「種なし」であるが故に、その繁殖方法は「接ぎ木」が一般的である(「接ぎ木」というのは、枝の一部を切り取って、根を張った別の木に「移植」する栽培技術)。
植物というのは他者を受け入れること(部分移植)に対して、人間ほどの拒絶反応(免疫)を示さない。根っこと枝が別々の種類だとしても、立派に育ってくれるのだ。

「接ぎ木」により殖やされた温州ミカンは、すべて「クローン(遺伝子が全く一緒)」ということになる。
それは、日本の「桜(そめいよしの)」が全て同一のクローンであることと共通である(日本を代表する桜とミカンが双方ともにクローンであることは興味深いことであり、そうした同一性を好む国民性なのかとも思えてくる)。
「種なし」、かつ「クローン」と聞くと、どことなく不自然な響きを感じ、敬遠したくなる人もいるだろう。
それは、江戸時代の「武士」も一緒だった。「種を生じない」ということに「縁起の悪さ」を感じていた武士たちは、温州ミカンを遠ざける傾向にあったのだという。
江戸時代の武士たちにとってのミカンといえば、「紀州ミカン(種あり)」が定番であった。
「和歌山(紀州)」で主に栽培されていた紀州ミカンは、江戸で大人気。そこに商機を見出したのが紀伊国屋文左衛門であり、彼は紀州ミカンにより巨富を得たと言われている。
隠居後の徳川家康が「静岡(駿府)」に植えたとされるのも、この紀州ミカンであり、その後の静岡ミカンの先駆けともなった。
我らが温州ミカンが持て囃されるようになるのは、「明治時代」を待たねばならない。
明治時代に入り、温州ミカンを嫌った武士たちの世の中が終わると、庶民たちは「縁起」よりも「利便性」を好むようになる。
その結果、「種がなくて食べやすい温州ミカン」は、一気に大ブレーク。
紀州ミカンの一大産地であった和歌山・静岡においても、栽培の主流は温州ミカンに取って代わられることとなる。
現在の温州ミカンの生産量を見ると、和歌山・静岡の両県だけで「3分の1」を占め、そこに愛媛が加われば、その3県で「ほぼ半数」を生産していることになる。
「愛は静かに」というのは、「愛(愛媛)・は(和歌山)・静か(静岡)に」という語呂合わせの覚え方だそうだ。
この3県(和歌山・愛媛・静岡)には、意外な共通点がある。それはこの3県の土壌が、「秩父(ちちぶ)古生層」と呼ばれる地層の上にあることだ。
この地層の特徴は、「礫(れき)」が多いこと。礫(れき)とは、砂よりも粒が大きい「小石(直径2mm以上)」のことで、礫が多い土壌ほど「水ハケが良い」。

果樹(ミカン)栽培において、「水ハケが良い」というのは何よりの好条件である。
土壌の水分が少ないほどに、果樹(ミカン)の甘みは増すのである。逆に水分が多い土地では、甘みが水で薄められたようになるため、食味としてはイマイチとなる。
現在、温州ミカンの栽培は「九州地方」でも盛んであるのだが、雨の多い九州地方の温州ミカンは、食味という点で「和歌山・愛媛・静岡」には一歩及ばないというのが現実である。

ただ、九州地方のメリットは、その暖かい気候を利用して「早出し」ができることである(早熟ミカン15種類のうち、その3分の2の10品種が九州産)。
本来の温州ミカンは、年が明けてから収穫されるものであるが、最も早い品種となると、その収穫は9月から始められる。
同一のクローンであるはずの温州ミカンが、なぜにこれほど収穫時期をずらすことが可能になったかといえば、これもやはり「突然変異」の恩恵である。
たまたま「早く実をつけるようなった枝」を見つけては、その枝を「接ぎ木」によって殖やしていったのである。
九州地方における「温州ミカンの早出し」というのは、ミカン農家たちの「生き残りをかけた戦い」でもあった。
時は高度成長期、温州ミカンはバカ売れし、その価格は高騰。「黄色いダイヤ」とまで呼ばれた時代があった。
ところが、オイルショックを機に温州ミカンの価格は一転「大暴落」。生産過剰となっていた煽(あお)りも受けて、多くのミカン農家が急坂を転がり落ちていった。さらに、オレンジ輸入自由化は泣きっ面に蜂ともなった。
一連の大打撃をとりわけ受けたのが、食味で劣る九州地方。
天然の優良土壌(秩父古生層)に恵まれていた「和歌山・愛媛・静岡」のミカンと違い、九州地方のミカンの勝機は薄かった。

崖っぷちに立たされた九州のミカン農家たちが血眼(ちまなこ)で探し回ったのは、「できるだけ早くミカンが実る枝」である。
彼らの勝機は、早生(わせ)栽培にしか見い出せなかったのである。
種をつけない温州ミカンには、受粉による品種改良の道はない。ひたすら突然変異を待ち、それを見つけるしかなかった。
しかし、突然変異の起こる確率は、10万分の1〜100万分の1と極めて低い。
それでも、彼らの熱意は奇跡を起こした。その奇跡の結晶こそが、最速で9月から収穫が可能となった種々の「極早生」ミカン(日南1号など)である。
科学的な眼で見ると、温州ミカンには他のミカンにはない際立った特徴がある。
その特徴とは、色素「β(ベータ)クリプトキサンチン(β-CX)」の異常な多さである。
「β-CX」は「抗酸化物質」の一つであり、人体に有害とされる「活性酸素」を撃退するという強みがある。
植物にとっての色(色素)とは、「自らの身を守る」ための手段である。
植物は光合成という「光の恩恵」を受ける一方で、強すぎる「紫外線」からは身を守らなければならない。
そういった点で、「光」というのは植物にとっての「諸刃の剣」なのである。
紫外線からの防御策の一つが、植物の発する「色(色素)」ということになる(人間であれば、日焼け)。
秋の木々が色づくのは、来年の新芽を紫外線から守るためであり、果樹が色づくのも内部の種を紫外線から守るためでもある。
温州ミカンに種はないとは言えども、その名残りこそがあの美しい橙(だいだい)色なのである。
紫外線に対抗するために、温州ミカンは「β(ベータ)クリプトキサンチン」という色を、多量に作り出すようになった。
ミカンを食べ過ぎると手が黄色くなるというのも、この「β(ベータ)クリプトキサンチン」のイタズラである。
そして、食べて手が黄色くなるほどに人体(腸)に吸収されやすい性質が、この「ベータ・クリプトキサンチン」にはある。
そして、人体に吸収された「ベータ・クリプトキサンチン」は、人体にとって有害である「活性酸素」を親切にもやっつけてくれるのである。
植物にとって、「光」は欠かせないものでありながらも有害であるのと同様、人間にとっても、「酸素」は絶対必要でありながら、それは時として「敵(活性酸素)」ともなる。
温州ミカンが紫外線対策として生み出したはずの「ベータ・クリプトキサンチン」は、不思議にも人体のとって有害である「活性酸素」に対しても有効なのである。
そして、その活性酸素に対する「ベータ・クリプトキサンチン」の強さこそが、「抗酸化」と言われる由縁でもある。
光、そして酸素。
両者は高エネルギーであるが故に、危険な側面をも併せ持つ。
植物にとっての光、人間にとっての酸素。両者は高エネルギーを味方につけたようでいて、依然その高エネルギーが刃向かってきた時の警戒を必要ともしているのである。
日本人が「ベータ・クリプトキサンチン」が豊富な温州ミカンを選んだことは、まったくの偶然であったのかもしれない。
それでも、その選択は最も賢明でもあった。我々日本人は、知らず知らずのうちに温州ミカンの恩恵を多分に受けているのである。
そして、その大きな味方は、いつもコタツの上で控えてくれているのである。有り難き「こたつミカン」…。
出典:いのちドラマチック
「ウンシュウミカン 進化する“こたつミカン”」