2013年07月12日

貧富を結ぶ、虫のようなキノコ「冬虫夏草」



「山の雪も解けてきたな…」

小さな畑に家畜の糞を混ぜ込みながら、スガ・ラルはヒマラヤの高峰をしきりに気にしていた。

「現金を稼ぐには、山へ行かんといかん」



すると女房、「山にはまだ雪が残っているわ。何日か身体を休めてからいきましょう」と言う。

だがスガ・ラルの心はもう決まっているようであった。

「グズグズしていると損をする」



スガ・ラルの住む村は、ヒマラヤ山麓ネパール西部のドルポ地方にある。

この地方の村人たちは毎年、山の雪が解ける5月からの丸2ヶ月間、ヒマラヤの標高4000〜5000mにテントを張って籠り、その間ひたすら「冬虫夏草」採りに明け暮れる。

山へ行くのは男たちばかりではない。女も子供も家族ぐるみでみんな連れて行く。村を挙げての大移動である。そのため、春を迎えたばかりの村々にはすっかり人影が絶えることになる。学校や公共期間も、寺院も休み。

村に残されるのは山を歩けない老人ばかり。もし誰かが亡くなっても荼毘に付すことすらできない村もあるといわれる。



さあ、いよいよ「冬虫夏草」が目覚めるのだ。「ヤルツァクンブ(チベット語で冬虫夏草)」の季節のはじまりだ。

スガ・ラルはこの2ヶ月間で、一年分の収入を稼いでやろうと意気込んでいる。

額にバターを塗り、首に白いスカーフをかけるのは、危険な山道で幸運を祈るネパールの風習だ。ニワトリの生き血を生贄に捧げ、重い荷とともに長い旅路へいざ行かん。






◎ゴールド以上



冬虫夏草とは、中国人に「若返りの秘薬」として珍重されている「小さなキノコ」である。

この不思議なキノコは、セミやクモ、ガなど昆虫の幼虫に寄生する。冬虫夏草が寄生のターゲットとするのは冬の間、土中で眠っているイモムシたち。



冬虫夏草の胞子(植物でいう種)は水分とともに土中に染み込み、そしてイモムシの体内に侵入。その栄養分を吸いながらイモムシの体内に菌糸を張り巡らせていく。

寄生されたイモムシは身体の異常にあわて、必死に地表へ逃れようとするものの、ついには死に至る。死んだ幼虫はもう虫ではない。キノコの菌のかたまりだ。

その菌塊(冬虫)は春になると地面に芽を出し、夏には棍棒のような草になる(夏草)。虫がキノコに変わるという自然界でもマレにみるこの奇妙な現象。これが「漢方の横綱」、冬虫夏草である。



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「冬虫夏草の価値は、金以上だ」

冬虫夏草を取り扱う業者は、そう言って顔がほころぶ。

その価格はここ10年で20倍以上に跳ね上がり、いまや1kgで「6万ドル(約600万円)」を超えている。ちなみに金(ゴールド)の価格は現在、1kgあたり400〜500万円程度。その業者の言う通り、金のほうが安値で買える。

というのも、中国に台頭著しい富裕層が冬虫夏草をありがたがることから、冬虫夏草の供給はその旺盛な需要にとてもとても追いつけない。ゆえにその値は天井知らずに高騰を続けるのである。



現在、冬虫夏草はまさにゴールド・ラッシュ。

金のごとき冬虫夏草を求め、欲の色目をした人々がヒマラヤに群がり来る。

そのせいで、スガ・ラル一家の暮らすドルポ地方は冬虫夏草の収穫シーズン(5〜6月)、人口がいつもの6倍にまで膨れ上がるという。村にではなく山に。

冬虫夏草シーズンのこの地方は、憧れの黄金郷となるのである。






◎祈祷師



スガ・ラル一家が2日がかりで山を登り、標高3800mのバンガ・キャンプに到着した時、すでに辺りは色とりどりのテントでいっぱいに彩られていた。

すでに冬虫夏草を掘り当てた人の中には、お互いの冬虫夏草を賭けてバクチに興じる姿もみられた。



そんな喧騒のかたわら、キャンプの一部は重苦しい空気に包まれていた。

「手も足も動かない…」

白眼をむいて横たわる男性は昨日、崖から落ちたのだという。その男には奥さんと2歳になったばかりの幼子がいた。

「病院までは歩いて5日かかるぞ…」



そんな時に呼ばれるのは「祈祷師」。山で起こる事故はみな「悪霊の仕業」なのである。

「この谷ではもう、16〜17人が命を落としているんです…」

結局、瀕死の男は祈祷師にお祓いしてもらった後、背中のカゴに担がれ、小さくなって山をあとにした。

「何日もかけて長く険しい山道を登ってようやくたどり着いた挙句に、こんな事故に遭ってしまうなんて…」



冬虫夏草のブームとなって以来、大忙しとなった祈祷師。彼はこう語る。

「遠くからわんさか人が来るけれど、その人たちは山で暮らした経験なんてないんだ。薄っぺらい粗末な服装で、着替えすら持たずにやって来る奴もいる。そのせいで凍死する人もいるんだよ。そうじゃなきゃ、病気になったり落石や雪崩でケガをしたり。食い扶持を求めてここにやって来るのに、命を落とすこともあるんだ」






◎仲買人



人々がすっかり出払い、ひと気のなくなった村に、ダンチャンドラという男は数人の部下たちとともに残っていた。

彼は冬虫夏草の「仲買人」であり、ネパールの首都カトマンズにいる輸出業者ダヌに冬虫夏草を売り渡す仕事をしている。



ヒマラヤの山中で冬虫夏草を買い付けるには「前払いの現金」が必要であり、その数百万円単位の大金をダンチャンドラは輸出業者ダヌに出資してもらっている。

仲買人ダンチャンドラはこう話す。

「小さい頃は親父と山へ行き、少ないお金を元手に冬虫夏草を買い付けました。そんな私たちの話をダヌが聞きつけ、取り引きが始まったんです。今ではダヌが買い付けの資金を工面して、私が品物を届けるのです」



その現金を、ダンチャンドラは部下たちに手渡して、ヒマラヤ各地に点在するキャンプで冬虫夏草を買い集めさせる。

渡された大金を腹に巻きつける部下たちに、ダンチャンドラは言う。「去年みたいにバクチや酒に使い込むんじゃないぞ。それはオマエの金じゃないんだからな」



そして、輸出業者のダヌと電話で話す。

ダンチャンドラ「今年は雪の影響でまだあまり採れていません。収穫量は少ないですが、質はいいですよ。買い値はまだ未定です」

ダヌ「そうか。慎重に頼む。やるべき事はすべてやってくれ。追加の金が必要なら送る」






◎冬虫夏草の稼ぎ



「冬虫夏草ってキノコ? 虫?」

スガ・ラルの息子ラージは、今年初めて冬虫夏草採りに山へやって来た。この地域の子供たちは12歳になると山に入り、家族とともに家計を支えることになる。

「キノコで虫だ」と父親スガ・ラルは言う。「その二つが一緒になったのが冬虫夏草だ。中国人が薬にする。オレらに金やモノをくれるのはそのためだ」



一説によると1500年前、長旅から帰った商人がこの奇妙なキノコをヤク(家畜)に食べさせたところ、その疲労の回復が早いことに気づき、薬草として利用されるようになったと云われている。以来、冬虫夏草は中国皇帝への献上品とされてきた。

冬虫夏草のほとんどは中国チベット高原で採取される。スガ・ラル一家の住むネパールで採れるのは総生産量の2%以下。それでも小さな村や家族を支えるには十分すぎる量である。

中国で漢方薬として珍重される冬虫夏草は、コウモリガという蛾の幼虫に寄生した冬虫夏草であり、その限られた生産地がネパールにもある。スガ・ラル一家もそれを探しているのである。



だが、芽を出したばかりの冬虫夏草は、地表に2〜3cmほどしか出ていない。まるで黒っぽい小枝のようなそれを広大な斜面、数多くの雑草の中から見つけ出すのは決して容易なことではない。朝から晩まで地面に這いつくばって、10本見つけられれば大収穫である。



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かつては一人一日に100本以上採れたというのだが、近年の乱獲によって、それはもう夢のような話となっている。

それでもスガ・ラルは、「たった2ヶ月間でまだ何万ルピーという大金が稼げる」と言う。1万ルピーはおよそ1万円に相当するが、ネパールでの月給はおよそ5000ルピー(約5000円)、日雇いであれば200ルピー(約200円)程度といわれている。



サガ・ラルが冬虫夏草を山で仲買人ダンチャンドラらに売る価格は、並で1本100ルピー(約100円)、上物ならば1本150ルピー(約150円)、とびきりの特上ならば300ルピー(約300円)。

並物でも一日に10本採れれば、それは一般的な日雇いの5倍の稼ぎを得ることになる。たった1本だけでもネパールでは酒や肉、何でも買える。

そして、その仕事はラージ(スガ・ラルの息子)のような12歳の子供でも可能なのだ。いやむしろ目の良い子供の方が、コツさえつかんでしまえば大人よりもたくさん見つけることも多いのだという。






◎12歳



さあ、ラージの見習い修行がはじまった。

父親スガ・ラル「冬虫夏草を採る時は、こんなふうに掘るんだ。出てきただろ? わかったか?」

手のひらサイズの鍬(くわ)のようなもので、冬虫夏草の周りの土を起こして見せる父親に、息子ラージは「うん」とうなずく。

「じゃあ、探してみろ」



しばらく地面に這いつくばって目を凝らしていたラージは

「父さん、見て! あったよ!」と喜声をあげる。

さっそくのお宝発見である。



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サガ・ラルだけに限らず、多くの家族が我が子を山へ連れてくる。子供のよく見える目はありがたい。

だが、標高4500mでの作業は12歳の少年にとっては辛いものである。一日の食事はトウモロコシの団子が数個のみ。朝晩は手足がしびれるほどに寒い。そんな中、早朝から地面に這いつくばって日暮れまで血眼にならなければならないのである。



「一日10本以上探せるか?」とサガ・ラルは聞く。

「うん大丈夫」と息子ラージは力強くうなずく。

「よし、頼んだぞ」



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◎賭け事



「さあ、勝負だ! 勝って、デカい水牛を買うぞ!」

山腹のキャンプでは、サガ・ラルの「悪い虫」が騒いでしまっていた。バクチの虫が賭け事の誘惑に負けてしまったのだ。

賭け金の代わりとなるのは、採ったばかりの冬虫夏草。各々が布の上に山盛りの冬虫夏草を賭ける。



この日、運のなかったサガ・ラルは、それまで息子ラージと一緒に必死で集めてきた冬虫夏草一山をすべて取られてしまった。

うつむきいて力なく首を振るサガ・ラル。息子ラージはその父親のうなだれる様子を、賭場を囲む人垣の間からじっと見ていた。そして静かに立ち去った。



翌日、スガ・ラル一家はそのキャンプをあとにして、さらに標高を上げようとしていた。父親が賭けで負けた分を挽回するには、もっと高いところにいって、もっともっと冬虫夏草を取らなければならない。

すでに6月になっていたが、標高5500mの峠道にはまだくるぶしほどの雪が残っていた。



一家の着いたキャンプは岩棚にあった。標高は4600m。ちょうど雪が解けた土に、冬虫夏草の新たな狩場があらわになったばかりの絶好機。

着々と冬虫夏草を見つけるスガ・ラル一家。12歳の息子ラージも経験と勘が養われてきたようだった。なにより、賭けの負けを取り返そうと、彼らは必死であった。



さらなる穴場を求めて、ある日、スガ・ラルは息子ラージとともに山の頂へと向かった。だが、折悪く天候が悪化。近くの岩穴に身を寄せるハメに。

「焚き木があるよ!」とラージは喜ぶ。外は凍えるほどの寒さだったのだ。この地方では、岩穴を後にする時には次にやって来る人のために必ず焚き木を残していく風習があった。

「冷えるな。雪になるぞ」とサガ・ラルは焚き火にあたりながら言う。

その言葉通り、夜半過ぎに雨は雪へと変っており、朝起きた時には猛吹雪となった。






◎取り引き



初夏だというのに雪に閉ざされた岩棚のキャンプ。

雪を掘ってまで冬虫夏草は探せない。そんな時、キャンプ地の人々はそれまでに集めた冬虫夏草を歯ブラシで磨く。手入れをして色艶を出し、少しでも高値で仲買人に売りたいのである。

高く売るのに重要なのは「色」だ。黒ずんでいるモノは買い叩かれる。



そんなところに、仲買人のダンチャンドラが馬に乗って現れた。

ダンチャンドラは、小川でポリタンクに水をくんでいたラージに声をかける。

「冬虫夏草を見せてくれるか?」



ダンチャンドラはラージに連れられて、一家のテントに入る。

「息子さんから聞いたよ。大収穫だってね。これ全部一人で採ったのかい?」と仲買人ダンチャンドラは、サガ・ラルに話しかける。

「オレよりも息子の方がたくさん見つけた」と、サガ・ラルはどこか誇らしげにそう言った。視力の良いラージは、いまや父親を凌ぐ働きぶりを見せていたのである。



「1本180ルピーならまとめて買う」とダンチャンドラ。

うなずくサガ・ラル。「了解だ」

「数えるぞ。…191、120、121。全部で121本だ。しめて2万1,780ルピー」

そう言って、ダンチャンドラは札束を手渡す。

「2万2,000ルピーだ。お釣りは今度もらう」



「知り合った記念に写真を撮ろう」

ダンチャンドラは、この地方を激変させたヒマラヤの「ゴールド・ラッシュ」を写真で記録しておこうと、いろいろとシャッターを切っている。

「それじゃあ、また来るよ。今度も全部買い取る」

そう手を振って、ダンチャンドラの馬は雪の峠に消えて行った。






◎出荷



村に戻ったダンチャンドラは、涼しく暗い蔵に広げておいた冬虫夏草の具合を確かめる。

乾燥させすぎるのは禁物だ。乾きすぎて割れやすくなるとせっかくの価値が一気にさがり、それまでの苦労が水の泡となってしまう。



冬虫夏草のシーズンが始まってから2ヶ月後、ダンチャンドラは出荷の準備に取り掛かった。

「重さは?」

「全部合わせて10kgある」

冬虫夏草10kgの値段は、取引先の漢方薬店の見積もりではおよそ3,000万円。ネパール人の平均年収の数百倍という大金である。

厳重に鍵のかけられた鉄の箱。その中に大切にしまわれた冬虫夏草。何人もの警備員に前後を固められ、首都カトマンズへと向かっていく。



ネパールの首都カトマンズ。

買い付け資金を提供してくれたダヌは、ダンチャンドラを待っていた。

「今年の出来はどうだ?」

「雪のせいで遅れましたが、質はとても良いし、豊作です」とダンチャンドラは言う。



ダヌが冬虫夏草の取り引きを始めたのは1998年、今から15年前のこと。当時、冬虫夏草の価格は1kgあたり1万ルピー(約1万円)に過ぎなかったという。

だが、いまや同じ1kgで数百万ルピー(数百万円)の高値がつくこともある。出荷先はカネの舞う「香港」だ。






◎効能



香港・上環地区。漢方薬の専門店がひしめくこの地区に、ダヌの取り引きする専門業者がいる。

ピ、ピ、ピ、ピ、ピ。

冬虫夏草の重さを金属で水増ししていないかどうか、金属探知機に通される。

「金属が見つかった場合、賠償金を請求されます」とダヌは言う。



冬虫夏草の薬としての効能には疑問視する声もある。それでも「強精強壮」、男性自身を元気にすると、富豪たちの間での人気は極めて高い。

「冬虫夏草を意欲的に買っているのは、中国の新しい金持ちたちや政治家です。富と権力をてにした人々は、自ずと長寿と精力を求めるようになるのでしょう」と業者は言う。

業者の話では、冬虫夏草は精力剤としてだけでなく、「不老長寿の妙薬」としても人気が高いらしい。



漢方の話では、冬虫夏草には「肺」と「腎臓」を強める働きがあるという。

「肺は呼気をつかさどり、腎は納気をつかさどる」と漢方医が言うように、呼吸は肺と腎臓の共同作業。息を吐き出す(呼気)のは肺の力で、吸い込む(納気)は腎臓の力だという。そのため、喘息や気管支炎などの患者には、冬虫夏草が処方されるのだとか。

ちなみに、冬虫夏草を世界的に有名にした「馬軍団」というのがいる。1993年、ドイツで開かれた世界陸上選手権で、馬コーチ率いる中国選手たちがメダルを独占したことがあったが、それは「肺機能」を高めるために選手たちが冬虫夏草ドリンクを飲んでいたというのであった。






◎富裕層



香港の高層ビル。

そのバーからはきらめく夜景が眼下に見える。

着飾った富裕層はカクテル・グラスやワイン・グラスを手に、ヒマラヤの山中で撮られたという写真を物珍しげに眺めている。



「これは、スガ・ラルという一家です。この大きな岩穴に寝泊まりしています。この子はラージ」

写真の説明を聞きながら、人々はスープに入っている冬虫夏草を箸でつまみ上げ、ペロリと一口。

写真に写っている世界は、まったくこことは別世界。スープの中の冬虫夏草がその奥深い山とつながっている実感はまるで湧いてこないようだった。



それでも、その冬虫夏草はネパールの貧しい人々が命を懸けて採ったもの。

その冬虫夏草のスープが豊かな人々を長寿にするかどうかは疑わしい。だが確かなことは、それを採るために命を縮めている人々がいるということだ。

もしかしたら、お金持ちの彼がいま口にした冬虫夏草は、ラージが採ったものだったかもしれない。土にまみれた手で採られたであろうそれを、富者は上品にも箸でつまむ。






◎祭りのあと



ヒマラヤにもようやく夏の日が来た。

熱狂した冬虫夏草の季節ももう終わりが近い。



サガ・ラル一家もすでに山を降りていた。

いつまでも家の畑を放っておくわけにもいかない。

家には老婆も一人待っていた。



閑散としたヒマラヤのキャンプには、まだ祈祷師が残っていた。そして、訪ねてきた友人と雑談に興じている。

「崖から落ちたあの例の男、病院で亡くなったそうだ」と、友人は言う。

それを聞いて祈祷師は「ケガが酷すぎたな…。精根尽き果てたんだ、まだ若いのに…。女房と子どもは置き去りだ…」



静かな村に冬虫夏草のブームが到来して以来、確かに豊かになった村人はいた。だが、冬虫夏草のせいで死んだ者もいた。冬虫夏草がキノコだか虫だか分からぬように、それは毒だか薬だか判然としない。

果たして、この悲喜こもごものラッシュはいつまで続くのか。

サガ・ラルは言う。「あと15年もすれば、冬虫夏草は絶滅すると思う。だけど、もうここの生活は冬虫夏草に頼り切っている。その収入が絶たれたらどうすりゃいいんだ?」



ネパール西部ドルポ地方は、まるで冬虫夏草の菌に寄生されてしまったかのように、その生気を冬虫夏草に奪われてしまっている。

冬虫夏草に寄生されたコウモリガの幼虫は、もう虫ではない。それと同じように、サガ・ラルの村も、もう何者かに寄生され、本来の姿を失ってしまったかのようだった。



夏が来れば待っているもの。それはコウモリガにとっては他の仲間を殺すキノコの萌芽。

では、サガ・ラルの村は?

お金持ちたちが気まぐれに巻き起こすブーム、冬虫夏草の次は何に寄生するのだろうか…













(了)






出典:BS世界のドキュメンタリー
「ヒマラヤのゴールドラッシュ 冬虫夏草を求めて」


posted by 四代目 at 08:45| Comment(1) | 植物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月13日

津軽の男たちの守る「弘前の桜」。その100年の美しさ



「桜は、老木こそ美しい」

それが、小林勝さんの信念。

樹齢の若い桜は、上へ上へとばかり伸びてしまいがちで、横への迫力が生まれない。一方、太くゴッツい幹を持つ老木は、横へ横へと見事な枝を伸ばしながら、その美しさを全面に押し広げていく。



ここは青森・弘前公園。

2,600本の桜が咲き競う、日本屈指の桜の名所である。

この公園内の桜の管理を任されているのが、樹木医・小林勝さん(59)。市役所の職員(弘前市公園緑地課参事)として、日々、園内を歩き回っている。







「まぁ、古めかしさと、あと花が付いている枝の若々しさとがミックスされて、貫禄が出るっていうのかな」と小林さんは言う、その見事な枝ぶりの老木を見上げながら。

弘前公園の桜には「老木」が多い。そのほとんどが樹齢60年以上。100年を越える樹も少なくない。



一般に、ソメイヨシノという桜の樹は、60年で勢いが衰え、花の数が減るといわれている。

ところがどうだ。60年を越えてなお、弘前公園の老木の桜はじつに若々しく、むしろ若い木よりも一箇所からでる花の数が多いとさえいわれている。

ここの老木らは老いてなお、花を咲かせる枝先の若さは少しも衰えていないのだ。



小林さんの手にかかると、100年の老木たちが次々と若返っていく。

「はっきり言って、100年なんて、まだまだ若造ですから」

そう言う小林さんに、老木を伐採する考えは、まずない。



たとえ、老木に多少のガタがきていたとしても、何とかして若い花を咲かせてやりたい。

「せっかく今まで100年以上も育ってきたっていう、いわゆる価値だよな。桜の価値。それをやっぱり、なくしたくない」

それが、小林さんの想いである。






◎生きる力



木には、枝を切ると植物ホルモンの働きが変化して、新たに若い枝を伸ばす、という性質がある。

「その力を利用すれば、いつまでも木は若返る」と小林さんは言う。

「ちゃんと手入れさえしていれば、何十年でも何百年でも育つんだ。動物と違って、樹木っていうのは障害のない限り細胞分裂が続くんだがら」



老木の生きる力を引き出すため、時には大胆にその大枝を切り落とす。

木の上から「これ残してもいいですよね」と言う職人に、小林さんは「いや、斬れ」と指示を下す。

「えーーっ?」

時に、職人たちが驚くほどの荒業を仕掛けるのだ。



昔から「桜きるバカ、梅きらぬバカ」と言われてきたが、小林さんは、果敢に「桜をきる」。

それが「弘前方式」とも呼ばれるようになった、積極的な剪定方法である。






◎リンゴと桜



弘前方式という剪定(せんてい)方法は、およそ半世紀をかけて、弘前公園で築き上げられてきたものである。

その模範となっているのが、弘前が全国に誇る「リンゴ栽培」の技術。

リンゴ農家が毎年剪定を行うのを学び、弘前公園でもまた、毎年冬に桜の剪定が行われるようになったのである。







「芯止め(しんどめ)」というのは、上へ伸びようとする一番の幹を切り止めてしまう方法であるが、これはリンゴ栽培で一般的なものである。あまりに樹高が高くなってしまうと、収穫が難儀になるばかりだからである。

これが弘前公園の桜にも応用されている。桜の木が高くて困るということはないのだが、芯止めをすることで、上へ上へと伸びようとする力が横へ横へと広がりをもつようになるのである。それに加えて、樹冠内部へ日光もよく当たるようになる。



また、枝を切ったところから病気が入らないように、切り口に「墨汁」を塗るのも、リンゴ農家から授かった知恵だという。

「桜きるバカ」というのは、桜が切り口から病気にかかりやすく、そこから腐ってしまうことも多いためだ。その病気の入り口となりかねない傷口に、殺菌力のある墨汁を塗っておけば、その予防策となるのだという。






◎重い決断



「こっち、ひでぇな…」

たとえ剪定によってカビた枝などを落としても、老木は幹や根にも問題を抱えてしまうことが多い。

腐った幹は白くボロボロと柔らかくなっている。そうした病巣に目を光らせ見逃さず、丁寧に削りとっていくのもまた、小林さんの仕事である。



「手入れ」さえしっかりしていれば、多少幹が腐ってしまっても問題はない。一生細胞分裂をやめない植物は、その上へ上へと新しい生を積み重ねていくのだから。

ただ、病魔が広がることは避けなければならない。早期発見、そして適切な対処。樹木医・小林さんの腕の見せどころである。



日本最古と呼ばれるソメイヨシノが、弘前公園にはある。その樹齢はじつに130年以上。その雄大な姿には、誰もが足を止める。

その巨木を見上げながら、小林さんは悩み始めた。

「どうすっかな…」



上部の太く立派な枝の一つに、腐ってしまう兆候が見られたのだ。この樹はここ数年、病気がちであり、これからも命を永らえさせるためには、ここで大胆な手を打つ必要がある。

だが、小林さんの決断は鈍っていた。あまりに太い枝を切ることは、老木への重い負担ともなってしまう。

「結構、悩むな…。どうすっかな…」



答えを出しあぐねて、一時間近く。

ついに決断した。

「これ、切るか。こっから上を落とす」

切った枝は、全部で4m。じつに大胆な決断だった。一枝間違えれば、130年の大樹は枯れてしまうかもしれない。それほどその責任は重かった。






◎春の苦しみ



「春は楽しみですか?」

この問いかけに、小林さんは難しい顔をする。

「いや〜、楽しみでもないな…。春は苦しみが多い…」



翌春、幸いにも、最古のソメイヨシノの元気は衰えていなかった。小林さんの大胆な決断は、吉と出た。

しかし、この樹に限らず、小林さんには弘前公園2,600本すべての花の命が、その双肩にかかっている。「春は苦しい…」、それが小林さんの本音でもある。



春に咲く花は結果にすぎない。その短い開花期のために、小林さんは一年間、片時も心を休めることなく、老木たちを一本一本をケアして回らなければならない。

「今年も見事、咲いてくれるか?」

それが、100年を越えて受け継がれてきた伝統の重み、美しさへの重みでもあった。



「やっぱ、結果をね、いい結果を出したいっていうのがある。毎年いい花を咲かせたい。咲かせなくちゃいけない」

そう言う小林さんの表情は引き締まっている。










◎倒木



事件は一年半前の冬に起こった(2012年12月)。

「弘前の宝」といわれた樹齢100年の大シダレが、雪の重みに耐え切れず、豪快にひっくり返ってしまったのだ。

冬の寒風にさらされる、むき出しとなった大シダレの巨大な根っこ。地中に広く深く広がっていたはずの根は、その8割以上が切れてしまっていた。



「生きてんのか?」

「重症だ…。危篤状態だ…」

横転している大シダレを取り囲むんだ関係者ら。そこには悲壮感、そして諦めの雰囲気が漂っていた。



そんな中、小林さんは言い切った。

「生かすことが先決だ」

普通なら処分されるはずの致命傷。それでも、小林さんは「この桜を復活させる」と決定した。



そう決断した小林さんの脳裏には、この大シダレの往年の勇姿がありありと蘇っていた。

樹高16m、建物でいえば4〜5階の高さから枝垂(しだ)れていた大シダレ。まるでナイアガラの滝のごとき壮観さであった。







そして同時に、10数年前、兄が脳溢血で倒れたときの光景も、まざまざと思い起こされていた。

「呼びかけの反応がないっていうか、そういう状態だったね…」

慌てて現場に駆けつけた小林さんは、諦めかけていた。だが幸いにも、兄・範士(のりお)さんは一命を取り留めた。

現在、小林さんが弘前公園の桜の全権を任されているのは、兄・範士さんから引き継いだ重責であった。範士さんは後遺症のために、仕事を続けられなくなってしまったのだった…。






◎根接ぎ



「この辺は死んでる…」

ブチブチに切断されてしまった大シダレの根の大小一本一本を丹念に調べながら、小林さんはその処置に考えを巡らせていた。

「この辺は生ぎでるがら、ここさ根接ぎして…、んで、こう埋めればいいんでねが?」



「根接ぎ(ねつぎ)」というのは、別の桜の苗木から、根っこをもらって繋ぐ方法。いわば根の移植手術。それが成功すれば、失った根っこを一気に増やせる。

だが、ほかの樹木医は否定的だった。「これは無理だよ…。あんたの希望なんだろうけどな」。

なにせ、倒れた桜に根接ぎをしたケースは、過去に例がない。



それでも、この大シダレを救うには、それ以外の処置は考えられなかった。たとえ、希望にすぎぬと言われようとも。

至急、根接ぎの専門家が現場に駆けつけた。若い苗木の表面をわずかに削り、それを同じように削った大シダレの根に密着させる。

「手早くすねど…、密着が悪ぐなる」

すべてが手探りの作業。この日、何とか2本の苗木が、大シダレのすっかり弱ってしまっていた根に、新たに接がれた。






◎ギリギリの攻防



翌日、気が気でない小林は、足早に大シダレのもとへと急いだ。

「あっ…、全然、入ってねぇ…」

昨日、大シダレの幹に何本も差しておいた逆さのボトル。木を蝕む菌を殺すための薬剤が減っていない。

それは大シダレの水分を吸い上げる力がかなり弱っているということであり、根っこがほとんど機能していないということであった。



「やり直さねど…」

急遽、さらに7本の根接ぎが決行された。あとは、木の生きる力を信じるしかない。

倒れたあとに、太い幹の多くは思い切って切り落とされていた大シダレ。その巨体は辛うじて、無数の支柱に支えられていた。



問題は「夏」だ。

暑い夏を乗り越えられるか、だった。



「いやー、暑い…」

皮肉にも、この年の弘前は例年よりもずっと暑かった。まぶしい日差しに目を細めながら、大シダレを見上げると、その枝の一部は枯れていた。



「また、キノコが…」

夏の暑さに喜んでいるのは、幹を蝕むキノコの菌ばかり。その広がりは、予想以上に早かった。思いっ切り幹の内部を削り取らなければ、その猛威を抑えられないようであった。

ただでさえ弱っている大シダレ。外科処置の負担は多大である。

まったく未知との闘い。ギリギリの攻防が繰り広げられていた。






◎入院と豪雪



意地の悪い夏は、ようやく過ぎた。

一部の枝葉を枯らせながら、大シダレは辛うじて命をつないでいるようであった。

小林さんが最も心配していた夏場から秋口は、無事すぎた。



ひとまずホッとした小林さんだったが、ここに来てその無理が身体にたたっていた。

「視野が今ちょっと、狭くなってて…」

脳に腫瘍が発見されていた小林さん。良性ではあるものの、それは視神経を圧迫するほどに大きくなっていた。



その症状は夏前から現れていたのだが、夏場は大シダレから離れられないと、自分の脳の手術を延ばし延ばしにしていたのである。

かつて脳溢血に倒れた兄・範士さんも、地元の誇りである桜を守ることの熱心さにかけては誰にも引けをとることがなかったというが、この兄にして、この弟ありである。



津軽に雪のふる12月、大シダレに後ろ髪を引かれながらも、小林さんはようやく入院することにした。

だが、その冬。病室の小林さんは、安穏と寝てはいられなかったであろう。常ならぬ豪雪に見舞われた弘前。12月としては観測史上2番目となる68cmという、凄まじい積雪を記録していた。

その前の年の大雪が、大しだれをひっくり返したのだ。そして、その悪夢はふたたび繰り返される恐れがあった。






◎一本の枝



「大丈夫?」

たいそう雪の積もっていた1月末、ようやく現場に顔を出した小林さん。

なにより、大シダレへと心が急ぐ。



「枝は落ちてなさそうだ…」

小林さんが入院している間も、ほかの職員たちがせっせと雪下ろしをしていてくれたお陰である。

弘前の人々の桜への愛着は深い。黙々と手入れしてきた兄をはじめ、弘前の人々の総力が、弘前公園という芸術を100年以上にわたって支えてきたのである。



そして3月下旬。桜の開花予想に胸が踊る頃、小林さんは作業車のカゴに乗り込み、大シダレの様子を上からつぶさに調べていた。

「もったいねぇなあ」

枯れて乾燥した枝は、パキパキと音をたて苦もなく折れてしまう。大シダレの回復は思ったほどには進んでいなかった。



少々がっかりしていた、その時。

小林さんは、一番太く高い幹の切り口から、「一本の新しい枝」が天に向かって伸びているのを見つけた。

「よし」

その勢いのある様を見て、小林さんは強くうなずいた。



その一本の枝は、まだ小指よりも細い。

それでも、小林さんの目には、30年後、その枝が鈴なりの桜の花をシダレさせている様が写っていた。

「今はまだ、太さ数ミリ程度だが、大事に育てれば30年後、立派な幹になる」

そう確信していた。






◎日本一の…







今年5月はじめ、弘前公園の桜は例年より遅い見頃を迎えた。

咲き誇る2,600本の「若い」老木。小林さんらの巧みな剪定技術が、古い老木たちを見事に若返らせていた。日本最古のソメイヨシノも若い衆に負けじと、四方八方に咲き乱れる。

大シダレも生きている。かつての大滝が、幾筋かの白糸の滝のような心細さに変わってしまっていたが、それでも確かに生きている。



津軽生まれの小林さんは多くを語らない。

それでも、津軽の男の粘り強さは人一倍。

100年どころか、何千年でも桜を咲かせ続ける覚悟をもっている。



弘前の人々の想いも人一倍。

「また今年も咲かせてくれて、ありがとう」

そんな声を小林さんにかけてくる人もいる。誰かがきちんと手入れをしているからこそ、この美しい桜が咲いていることを、ちゃんと知っているのである。



「日本一」と称される弘前の桜。

かつて小林さんは、兄と2人で「何が日本一なんだろうな?」と話し合ったことがあるという。

「なんで日本一なの? って言われた時に、なんて答えればいいんだ?」

愚直な小林さんは、兄にそう聞いた。

「ちゃんと手入れしてるっていう一生懸命さじゃねぇか?」

兄はそう答えた。



老木こそ美しい。

だからこそ大切に手入れをする。

「木っていうのはやっぱり、今までやってきたことの積み重ねだから」と小林さんは語る。



弘前公園の桜たちは、その古さにますます若々しさを積み重ねていくようだ。津軽の男たちのひたむきな粘り強さが、その命を支えている限り。

「100年なんて、まだまだ若い」

弘前公園の美しさはきっと、まだまだはじまったばかりなのだろう…!










(了)






関連記事:

桜の「魔力」。「散る」という一時の死が支える「生」。

吉野の桜、熊野の山々は何をか語らん。

自然を守ることは、貧しくなることか? セーシェルの克服した現代の矛盾。



出典:NHKプロフェッショナル仕事の流儀
「桜よ、永遠に美しく咲け 樹木医・小林勝」

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2012年11月22日

日本の海岸線を9,000年守る「緑の長城」への想い。宮脇昭


「瓦礫は『資源』です」

開口一番、「宮脇昭(みやわき・あきら)」名誉教授(横国大)はそう言った。

東日本大震災が生んだ気の遠くなるほど膨大な「震災瓦礫(総量3,000万トン)」。それが実は、厄介モノのゴミではなくて、「これからの日本に必要な資源」だと言うのである。



「捨てればゴミ、活かせば資源」とは言うものの、世間に震災瓦礫を活かそうという気運は、およそ無きに等しい。十把ひとからげに「廃棄物」として扱い、北は北海道から南は沖縄まで「画一的にバラ撒いて焼こうとしている」。そして、どこが引き受けて処分するかで「モメに揉めている」。

その震災瓦礫を、宮脇氏はどう活かすのか?



◎自然の防潮堤


「緑の堤防を…」と、宮脇氏は説明をはじめる。

「海岸沿いに穴を掘り、瓦礫と土を混ぜて、高さ20mほどのマウンド(小高い土手)をつくるんです。そこに木々を植樹して20年もすると、20〜30mの樹木が生い茂ることになります。そうすれば、マウンドと合わせて高さ50mもの緑豊かな『自然の防潮堤』が出来上がるわけです」



今回の大津波を受けて、われわれは「コンクリートの防潮堤」がいかに脆いものだったかということを痛感させられた。世界一だと誇っていた釜石の防潮堤(63m)ですら、「結局は住民の命を守りきれなかった」。それは、ノッペラと固いコンクリートが大津波のエネルギーを「倍加させてしまった」からでもあった。

「どんなに高い堤防を建設しても、おそらく津波を完全に止めることはできません。そもそも、高い堤防で津波を止めると考えること自体、人間の傲慢さのような気がするんですよ」



一方、自然の森には「破砕効果がある」と宮脇教授は言う。複雑な「しなやかさ」をもつ森は、受けたエネルギーを「減殺」してくれる。

また、「引き潮」の際にも森の防潮堤は最後の「救いの手」となり得る。

「気仙沼の階上(はしがみ)地区では、ほとんどの家が流されましたが、昔ながらの森林が残っておって、それにしがみついた人たちが助かったんですよね」



平常時、森の堤防は「防風林や防砂林」としても役立つ。

そして万一の時、身を呈して津波のエネルギーを吸収し、なおかつ、引き潮に奪い去れようとしている人々を、最後の最後まで助けようとしてくれる…。

「大自然の営みと、どのように呼吸を合わせていくかによって、災害を最小限に食い止めることはできると思います」



◎緑の長城



その森の堤防、青森から福島までの東北沿岸300kmに幅100mでつくる計画を、宮脇教授は提案する。そして、それは日本の海岸線3,000kmにまで延長していく。中国の「万里の長城」ならぬ、「緑の長城」である。

「この『緑の長城』は、次の氷河期がくるまでの9,000年間、日本の国土と日本人の命を守ってくれることになります」

その森は、東日本大震災で亡くなられた方々の霊を弔う「鎮魂の森」であり、同時にこれからの日本人にとっては「希望の森」ともなる。



「瓦礫を生かす森の長城プロジェクト」

その財団をつくったのが細川護煕(ほそかわ・もりひと)元総理。彼は熊本県知事時代から「森づくり」にかけては熱心で、その指示に従わない役人は「課をすり替えた」ほどだったという。熊本のお殿様の生まれである細川氏は、自身も立派な「菩提の森」をもち、森づくりに対する関心には浅からぬものがあったのだ。

「宮脇さん、森の長城づくり、苦労しているようですが、僕にできることは何でも言ってください」。そんな電話が細川氏からあったのだという。以前、細川氏が中央政界に乗り出した時、宮脇氏にも参議院出馬の要請があったのだとか。



「ぜひ、お話を聞きたい」

宮内庁からもそんな電話がかかってきた。天皇陛下がそうおっしゃっているというのだ。

はじめは40分間という予定であったが、陛下が「もっと聞きたい」とおっしゃるので、結局は1時間10分もの会談となったそうだ。「非常に熱心に耳を傾けてくださいました」。

「明治天皇は明治神宮を残されました。昭和天皇は戦後の奇跡的な復興という歴史を残されました。今上陛下には、9,000年続く南北3,000kmの『緑の長城』を残していただきたい」と、宮脇氏は熱く語ったのだという。





◎引き算


名のある有識者の中には、「海岸沿いに住むから被害に遭うのであって、高台に住めばいい」という人もいる。

しかし、それでは不十分だと宮脇氏は考える。寺田寅彦が言うように、「20年経ち、30年経てば、人間は忘れてまた海岸沿いに下りてくる」。

そんな息の短い人間が忘れたとしても、森の長城は逆に根を深く張り、その強さを増すことであろう。同じ悲劇を繰り返さないためには、人智・人命を超えた何かを残しておかなくてはならない。そのことを、宮脇氏は必死で提案するのである。



「総理! これは今しかできないことなんです!」

しかし、残念ながら政府の腰は重かった。役人たちも「前例がない」と許可を渋る。宮脇氏の脳裏には細川元総理の言っていた言葉が浮かんでいた。「役人ほど使いにくものはない…」。

政府や役人の周りには、高い高い堤防が張り巡らされているかのようであった。



それでも食い下がる宮脇氏。

「ドイツのベルリンでは、戦争瓦礫を全部土に埋め、そこに植樹して、いまでは高さ120mの立派なトイフェルスベルクの森に育っているんです!」

それでも、「日本はドイツと違う」、「土に埋めて、廃棄物から有毒ガスが出たらどうするのか?」などなど、みんな「引き算」をするばかり。



宮脇教授は机上の学者ではない。いままで、世界1,700ヶ所以上で4,000万本もの木を植えてきた実績も伴っている。「現場、現場、現場」の人間なのである。

ところが、「一本も木を植えたことがない人間」が異を唱える。机に座ったままでの空論を…。彼らは現場の調査を具体的に行わぬままに、瓦礫処理に税金3,500億円を静かに計上するのであった…。





◎木を植える以外、釘一本打てない男


かつて宮脇氏が細川元総理に秋波を送られた時、家内から「あなたは木を植える以外、釘一本打てないんだから」と言われたという。

岡山県の農家の生まれである宮脇氏は、小さい頃から「一年中草むしり」に追われていたという。そこで、なんとか両親を楽にさせてあげたいという一心から、「雑草の研究」に取り組むこととなる。

しかし、雑草という地味な論文には誰も見向きもしてくれない。そんな中、唯一目を止めてくれた人物が、のちに恩師となるチュクセン教授。宮脇氏は彼の招きに応じて「ドイツ」へ渡ることとなる。



ところが、期待に胸を膨らませていた宮脇氏は、ドイツで幻滅…。

来る日も来る日も、現場で植物を調べ、土を掘り続ける毎日。「せっかくドイツまで来たのに、本も読めなければ、ほかの教授の話も聞けない…」。



そんな不満を聞いたチュクセン教授は、宮脇氏にこう言ったという。

「見よ、この大地を! 39億年の生命の歴史を!

 現場に出て、目で見て、匂いを嗅いで、舐めて触ってみろ!」



チュクセン教授に言わせれば、すべては大地に書いてある。

「大地が発している微かな情報から、見えないものを見ようと努力するんだ!」



◎土地本来の森林


宮脇氏がチュクセン教授から学んだことは、それぞれの土地には「土地本来の森林」が必ずあるということだった。

ドイツは何千年も前にそれを失っていた。森を破壊し、過剰な放牧を行い、その上に都市と文明を築いてきた。それゆえに、土地本来の森林の姿は「着物の上から素肌を見る」ほどに困難だった。それでも、その微かな痕跡をチュクセン教授は嗅ぎ取ろうとしていたのである。



一方の日本はどうか?

2年後に帰国した宮脇氏は、日本に古くからの森林が「鎮守の森」として無数に残されていることに驚いた。ドイツとは違い、この国の民族は森林を破壊せず、むしろ共生してきた歴史を持っていたのである。

「そういう意味では、欧米人よりも日本人は森を大切にし、森と共生してきた民族です」



全国の神社を歩きまわった宮脇氏は、その森に共通して生えているのが「タブノキやシラカシ、アカガシ」などの常緑広葉樹であることに気がついた(北海道や山地を除く)。

つまり、日本の土地本来の森林とは、そうした種の樹木であり、それらが最も強く日本に根付くことができるということであった(潜在自然植生)。





◎本物の森


こうした気づきを元に、宮脇氏は日本の「災害跡地」を調べていくことになる。

すると予想通り、やはり潜在自然植生である常緑広葉樹(タブノキやシラカシ、アカガシなど)が幾多の災害を生き抜いてきていることが明らかになった。

「阪神淡路大震災の時も、多くの建造物が倒壊し、火事も広がりましたが、アラカシやタブノキ、クスノキなどに囲まれた家や公園の前で火勢は止まり、多くの命が救われました」

東日本大震災において、気仙沼の階上地区で引き潮から人々を守ったのは、ほかならぬこうした木々であった。



しかし残念ながら、神社を守っていた鎮守の森は現在激減している。たとえば、神奈川県にはかつて2,860もの鎮守の森が存在していたというが、今あるのはわずか40ほどだという。

今の日本で行われていることは、伝来の森との共生ではなく、欧米式の破壊による文明の構築であった。



伐採した樹木の代わりに、「土地に合わない樹木」が取って付けられたように植えられている。たとえば、7万本も植えられていたという「アカマツの防潮林」は、東日本大震災の大津波にすっかり洗い流されてしまった。

「たった一本生き残ったアカマツが『奇跡の一本松』と報道されましたが、あの事実が教えているのは『マツの単植では防潮林の役目は果たせない』ということです」



土地本来の本物の森は、「火事にも地震にも台風にも、ビクともしない」。

それが科学者としての宮脇教授の結論であり、緑の長城に植えるべき樹種でもあった。



◎そのうち


「日本人の『そのうち』は、『やらない』という意味です」

行政が出てくるのを待っていたら、何10年も仕事が遅れてしまう。



この点、宮脇氏には苦い後悔もあった。それは福島第一原発の周辺に森づくりを勧めた時のこと。

「原子力はCO2(二酸化炭素)を出さないから、結構です」と、福島原発側は宮脇氏の提案を一蹴したのである。



「もしあの時、海側にマウンドを作っていれば…」。そんな想いが宮脇氏の心の片隅に残る。「今ごろ、高さ50mの森に育っていたはずだった…」。

浜岡原発も同様、「すでにハードな防潮堤がありますから」という理由で、宮脇氏の防災の森は結局、海側ではなく山側につくられることになった。「これでは、津波から守れない…」。



◎遺産


「庭がなくて人でも、自宅のベランダでポット苗を育てて、それを植樹する土地に寄付するだけでもいいんです」

「やれることからすぐに始めなければ」という想いを強くしている宮脇氏は、そんな「志民」を求めている。



「木は2本植えれば『林』、3本植えれば『森』、5本植えれば『森林』になります。

 できることから始めて、点から線(林)、線から面(森)、面から帯(森林)になっていけばいいと思っています」





御年84の宮脇氏はいま、今後の9,000年につながる大仕事を日本に残そうとしている。

「緑の長城」

それは日本が世界に誇る遺産になるかもしれない。



終戦から3年後の広島、原爆の爆心地から2kmも離れていないところのタブノキからは「新芽」が出ていたという。30年は住めないと言われていたのに…。

「やはり本物は強い」

その新芽を目の当たりにした若き日の宮脇氏は、そう確信したという。



時代に流れていくものとは何か?

そして、残るべきものとは?







関連記事:
オババのいる4000年の森。山は焼くからこそ若返る。

日本の森は「オオカミ様」が支えてくれていた。オオカミ信仰を忘れると…。

大津波から村民を救った和村前村長の置き土産。大反対を受けてなお建造された巨大堤防。



出典:致知2012年12月号
「震災の瓦礫から未来を拓く 宮脇昭」

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2012年04月09日

桜の「魔力」。「散る」という一時の死が支える「生」。


「本物の桜と間違えて、鳥が止まろうとした」

こんな逸話が残るほどに見事な「桜」を描き切ったのは、江戸時代(後期)の女流画家「織田瑟々(おだ・しつしつ)」という人である。53年という生涯の中で、彼女が描き残したのは「桜のみ」(70点ほど現存)。

「織田」の姓から連想されるように、彼女は戦国時代の一時的な覇者「織田信長」の末裔である(より正確に記すならば、織田信長の九男・信貞の子孫ということになる)。

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近江(滋賀)に生まれた瑟々は、お隣りの京都へ出て絵を学ぶ。

ところが彼女が30そこそこの頃、夫(石居信章)に先立たれ、それ以降は髪をおろし「尼」となる。

※「瑟々」と号したのはそれからであり、それまでは「津田政江」という姓名であった(尼になってから、織田姓を名乗るようになった)。

そして、桜に専心するようになったのもその頃からである。



当時の京都には「桜画」の始祖とされる「三熊思孝(みくま・しこう)」がいた。

自らを「花顛(かてん・花狂いの意)」と称した思孝は、のちの桜のみを描く「三熊派」と呼ばれる会派の祖ともなる。



絵を学び始めた頃の思孝は主に「麒麟や鳳凰、龍」などの「架空の動物」を描いていた。それは師である大友月湖の影響であった。

ところが思孝はこう考えた。「見も知らぬモノを描くことは、『一時の目』を喜ばせるだけであり、世のためにならない」。

そして、こう思い至る。「日本国中で最も優れた花は『桜』であり、この花は他国に存在しない。ゆえに、そういう花を描くことは『国の民人の務め』である」と。

そう思い至って以来、こだわりの強い思孝は「同じ画面上に、桜以外の他の事物を組み合わせない」というほどに「桜花だけの世界」にこだわったとのこと。



織田瑟々が師事したのは、その思孝の妹「三熊露香」であった。

師である露香は「繊細な桜」を描いたというが、弟子の瑟々の桜は「力強い桜」であり、「織田桜」の異名をとるほどだったという。

瑟々は覇王・織田信長から200年以上も後の人であるが、その血が薄まることがなかったのであろうか。



夫を失い尼僧となってからの瑟々は、仏の道を歩む傍ら、お寺(西蓮寺)で桜を描き続けた。

そして、その描いた桜の絵を世話になった村の人々へと惜しみなく与えていったのだという。

※村の人々は瑟々のことを「おヒンさん、おヒンさん(お姫様の意)」と呼び親しんだと伝わる。



現存する瑟々の桜画の数々は、そうした村人たちが大切に各々の家に伝えて来たものである。

桜の咲く頃となると、そうした家々では家宝のように大切に仕舞ってあった「瑟々の桜」をおもむろに紐解き、自然の桜を愛でるように瑟々の桜を愛でるのだという。

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ある人は桜を称して、こう言った。

「桜には魅力があるのではない。『魔力』があるのだ」

桜ばかりを描いたという織田瑟々、そして三熊思孝・露香もその『魔力』の虜(とりこ)になってしまったのであろう。



瑟々の生きた江戸後期、「ソメイヨシノ(染井吉野)」の全国的な普及とともに、現代の我々の「花狂い」の歴史は幕を開けることになる。

しかし意外なことには、戦国の香り残る江戸初期の武士たちは「桜を嫌っていた」のだという。なぜなら、桜の「一気に散る様」が縁起をかつぐ武士たちの好むところではなかったからだ。

※椿(つばき)が嫌われるのも、その花の落ちる様が生首のようだという理由からであった(椿は花びらを散らさずに、花ごと地面に落ちる)。



その武士たちの価値観が180°転換させるのは「忠臣蔵」。

歌舞伎「忠臣蔵」で用いられた「花は桜木、人は武士」という台詞が武士の心を魅了し、その「散りゆく潔さ」が逆に高く評価されるようになったのだという。



しかし悲しいかな、その「あまりの潔さ」は第二次世界大戦中の「神風」となって、多くの若き花々を散らすこととなる。

「特攻(とっこう)」と呼ばれる日本軍の捨て身の攻撃は、兵士が生還する確率が「皆無」という信じ難い作戦であった。



「特攻隊」が編成されるのは、日本軍が完全に追い詰められた終戦一年前から。

空中では「神風」が敵艦に体当たりを喰らわせ、海中では魚雷「回天」に人間が乗り込み敵艦に向けて発射された。



後進できないという人間魚雷「回天」で出撃した87名のうちの一人であった「塚本太郎」隊員は、その手記にこう書き残している。

「わが庭に春廻りなば徒桜(あだざくら)、香り伝えよ黄泉路征く身に」

出征する彼の脳裏に映っていたのは、懐かしき庭の桜花であったのか。



その遺書には、こうある。

「日本中が軍神で埋もれねば勝てぬ戦です。ご両親の『幸福の条件』の中から太郎を早く除いて下さい」

1944年1月9日、塚本太郎隊員は黄泉路へと向かい出撃して行った…。内側からは開かぬというハッチを閉めて…。

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桜の「魔力」は日本人の「美の心」を育むこともあれば、「早すぎる死」へ駆り立てることもあった。

この「魔力」という言葉は「佐野藤右衛門」の口から出たものであり、彼は弱った桜の古木を蘇らせるという「桜守(さくらもり)」である。



彼の元には「わが町の桜を救ってほしい」という懇願が日本全国から寄せられる。

その日の彼が訪ねたのは樹齢300年を越えるという桜。この桜は山腹の神社を守るかのようにそびえる大切な桜である。

その桜の上部の枝が花をつけなくなったというのであるから、町の人たちが気を揉むのは無理なからぬこと。



現地に着いた佐野氏は、職人たちに幹のアチコチをコンコンと叩かせると、自身は桜の古木に抱きつくようにして、その音の響きに耳を研ぎ澄ます。あたかも、聴診器の音に注意深く耳を傾ける名医のように。

「異変の原因やいかに?」

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町の人たちが言うには、昭和の初めに神社の境内を広げた時に、桜の根元に「盛り土」をしたのだという。

佐野氏は言う、その盛り土に「悪いカビ」が潜んでいたのだろう、と。



「人間は自分たちが楽なように楽なように自然を変えてきた。その無理を元に戻してやれば、樹も元に戻る」と彼は言う。

佐野氏の生まれた家は180年以上続く植木職人。そんな佐野氏自身、桜の「魔力」に魅了されてしまっているのだと自ら語る。



桜の根が目覚める頃、桜の古木の根元を掘り返してみると、佐野氏の言う通り「悪いカビ」が根っこに食らいついていた。

佐野氏は燃やしたワラで黴びた根っこを殺菌。もちろん、盛り土は元の通りにすべて取り除かれた。



その春、老齢の桜は誇らしげにいつもより多くの花をつけた。しかし、上部の枝にはやはり花がついていない。どうやらその枝は枯れてしまっているようだ。

それでも佐野氏は「枯れた枝はそのままに」と言う。

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「どんな樹木でも身体が弱れば、どこかを切り捨てなければならない。抱えきれなくなった枝を枯らして落さなければ、本体までもが枯れてしまう。

『部分的に枯らすことができる』というのは、生きようとする意志がいまだに健在であることの証(あかし)。

この桜はまだまだ大丈夫だ。必要以上に手を加えることはない。」



「生きようとする力を信じて、その力添えをする」

これが佐野氏の基本的なスタンスである。

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「散る」のは桜の生きる道であり、それは「死ぬ」ことではない。

その散る様に「死」を見た人々もいれば、「生」を見る人々もいる。

幸か不幸か、桜の魔力はその力がどちらを向いていても、その力を増幅させてしまうようである。




関連記事:
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オババのいる4000年の森。山は焼くからこそ若返る。

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出典:新日本風土記 
桜前線の旅 沖縄から北海道まで




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2012年03月02日

たかが白菜、されど白菜。本当は変わりたいその想い。


現在の日本では、「大根」「キャベツ」に次ぐ国内第3位の生産量を誇る「白菜」。

その普及発展は意外にも遅く、「明治時代」も後期に入ってからである。



日清(1894)・日露(1904)などの戦役を通じて、中国と日本を行き来した軍人たちは、中国で見つけた「珍しくも美味しい野菜(白菜)」の虜(とりこ)になった。

「こんな美味しい野菜ならば、ぜひ日本でも栽培したい」と思った軍人の一人が、「庄司金兵衛」。彼は第2師団に属する仙台出身の兵士であった。



さっそく中国から「白菜の種」を日本に持ち帰った庄司。郷里の友人たちにも、その貴重な種を配り歩く。

庄司の予想通り、「中国には、なんと美味い野菜のあることよ」と、友人知人に大いに賞賛されることとなる。




ところが、その美味しい白菜が、その問題を露呈するまでには、それほど長い期間はかからなかった。

なんとなんと、種を採って育てるうちに、白菜の形態がみるみる変化(へんげ)していくではないか。あるモノは葉っぱが巻かなくなったり、あるモノは根っこばかりが異常に肥大したり…。

それもそのはず、白菜の属する「アブラナ科」という植物は、多種との交雑が極めて激しく、「同じ姿、同じ味」を維持するのは至難の業(わざ)であったのだ。



アブラナ科植物のこうした交雑性は、ときに「浮気が過ぎる」とも表現される。

人間に例えるならば、「白人・黒人なんでもござれ、国際結婚なんのその」。さらには、一夫多妻の大活躍である。その子孫はと言えば、どこの民族なのか、何人なのかも判然としないであろう。髪が金髪だったり、肌が浅黒かったり…。

そんな雑多な中を生き抜いてきた「白菜」の親元を探っていくと…、意外にも「カブ」と「チンゲンサイ」に行き着くことになる。親たちとは似ても似つかぬ風貌の白菜ではあるが、カブからは「葉っぱをたくさん出す性質」、チンゲンサイからは「葉っぱを立ち上がらせる性質」をそれぞれ受け継いでいるのだという。

白菜が産声をあげたのは7世紀頃と言われ、その地は中国・揚州であるとされている。白菜を英語で言うと「チャイニーズ・キャベツ」となるのは、その原産地に対する敬意でもあろう。

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日本には、江戸時代ころからチラホラと白菜が姿を現していたそうなのだが、なにせその品種保持の困難さから、なかなか日本人に親しまれることはなかったということだ。

日露戦争のお土産として「白菜の種」を持ち帰った庄司金兵衛も、やはりその栽培を諦めざるを得なかった。最初は美味しい白菜ができても、何年と栽培を続けるうちに、だんだんと美味しくなくなって、その形も奇形ばかりが目立つようになるのだから。



ところが、庄司の持ち帰った種の幾粒かは、幸運にも「沼倉吉兵衛」の手へと渡っていた。

もし、白菜の種が沼倉の手をすり抜けていたとしたら、現在のように白菜がスーパーの陳列棚に列をなすことは、ついぞなかったかもしれない。宮城農学校に勤めていた沼倉は、なんと20年もの長き年月を費やして、白菜の品種固定に成功したのである。

多種との交雑を避けるために、その栽培の地を孤島たる「馬放島(松島湾)」に求め、ひたすらに純血を保つことに専念した。その様は、愛しい愛娘をカゴの中で育てるに等しいもので、盛んに言い寄ってくるヤクザな連中には、指一本触れさすまいとする強い決意のあったことであろう。

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そうして誕生した純潔の白菜こそが「仙台白菜」。大正11年(1922)、東京に初出荷されて好評を博し、そのわずか1年後には全国へと普及していく。

この頃、宮城県には陸前中田駅(現・南仙台駅)という駅が作られているが、それは爆発的に需要の増大した仙台白菜を、全国に送り出すためだったとも言われている(中田地区は仙台白菜の主要な生産地であった)。

そして、昭和初期には「日本一」の称号も仙台白菜には与えられたとのことである。




これほど一世を風靡した仙台白菜であるが、現代に生きる我々のほとんどは、その存在を知らないし、また食したこともないであろう。なぜなら、第二次世界大戦以降、仙台白菜が栽培されることは、ほとんどなくなってしまっているからだ。

「盛者必衰の理」に従うこととなった仙台白菜。その衰退の原因は、やはり当初から問題視されていた「激しい交雑性」。同じ姿形・同じ味を保つことが極めて困難で、一定の品質を保持しきれなかったのである。

変化したがる白菜を無理くり同じ品質に留めておこうとする所業は、白菜に対しても多大なストレスとなる。それゆえ、「栽培が難しい」という欠陥も仙台白菜が敬遠される大きな原因となった。



自然界の視点に立てば、白菜が同じ姿形を保持することほど不自然なこともない。

あれほど好色なアブラナ科の植物(白菜)が、なぜに無理矢理ストイックな暮らしを強要されねばならぬのか?

それこそが「人間の欲望」である。我々人間は、白菜が永遠に「白菜のまま」であることを求め続けるのだ。



ところが、当の白菜にとって、そんなことは「知ったこっちゃない」。その花粉をミツバチたちに運んでもらい、常に新たな出会いを求め、さらなる進化を模索してやまないのである。

これがアブラナ科植物(白菜)の成長戦略であり、「変わり続けること」こそがその根幹に位置する最重要課題である。彼らはそうすることで、野原を黄色一色に輝かせ続けてきたのである(菜の花もアブラナ科)。

彼らの求めるのは、単なる姿形の整合性ではない。むしろ、姿形には一切こだわることなく、貪欲すぎるほどに「生のみ」を追求し続けているのである。




一方の人間はと言えば、じっとできない白菜たちを「まあまあ」となだめ、「その場にとどまる」ことを強いる。市場においては、姿形が規格から外れるものは「規格外」。何の価値もない「クズ野菜」にしかならない。

概して農業とは、進化(変化)したがる植物たちを、ある意味、無理ヤリ畑の中に閉じ込めておこうとするものだ。植物のみならず、畑だって進化(変化)しようとする。最初は短い草しか生えない土地でも、土壌が豊かになってくれば、低木が生え、高木が生え、いずれは森となり山ともなる。

しかし、農家にとっては、畑が雑木林になられてしまうのは、大いに困る。徹底的に草を刈り、土地をひっくり返しながら、畑が「畑のまま」で進化(変化)を止めてもらわなければ、商売あがったりだ。



工業的、商業的な農業においては、もはや「自然の理(ことわり)」に従うことなど許されない。むしろ、いかに上手に自然の理に逆らっていくかが焦点となるのである。

変化(交雑)しようとした仙台白菜の言い分は大いに正論ではあるものの、栽培農家にとっては最大のタブーでもあったのだ。




さて、一部の地域で「伝統野菜」として細々と栽培の続けられていた「仙台白菜」は、ひょんなことから再び脚光を浴びることとなる。

仙台白菜の栽培が続けられていたのは、宮城県名取市。仙台白菜全盛の時代に、もっとも栽培の盛んだった地域である。ご存知の通り、この地は東日本大震災において、大津波が直撃した地でもある。

大津波が去った後には一切の人造物が消え、その代わりに残されたのは、大波が持ってきた「塩分」ばかりであった。塩をまかれた畑に育つ作物は、ほどんどない。大津波に洗われた農地は、もはや使い物になるものではなかった。



ここに「仙台白菜」の出番があった。

野生の中を強く生き抜いてきた歴史をもつアブラナ科の植物は、「塩害」に強いものが多い。栽培野菜となった仙台白菜とて、他の野菜に比べれば、その強さは相当なものである。

昨年夏、津波による塩害を受けた農地に播種された植物の中には、「仙台白菜」もその名を連ねていたのである。



自然環境が安定している時であれば、人間のワガママは大いに許される。

しかし、ひとたび自然が牙を剥いた時には、我々はシッポを股の間に挟んで逃げまわるより他にない。我々人間という種は、自然界においてそれほどに弱い種であり、小さな存在でもあるのである。

ワガママが言っていられるうちは幸いだ。しかし、ワガママが言えるのは、ヌクヌクとした温室の中に寝ていられる時だけであることも忘れてはならないだろう。大地震が来て、大津波が来れば、人間が自然の理に逆らうことなどは、毛の先ほども許されない。文明の力によって自然の厳しさを遠ざけてきたつもりでも、我々がその厳然たる法則から逃れる術はどこにもないのである。



白菜たちはその辺の事情を熟知しているのであろう。「変わらないことほど危険なことはない」と思い定めているかのように、飽くなき進化を止めようとはしない。

人間たちに良い顔をする一方で、さっぱり野生の魂を失ってはいないのだ。



交雑を得意とするアブラナ科の植物たちは、じつに多彩である。

菜の花、ナズナなどの野生種から始まり、栽培種もブロッコリー、キャベツ、大根、カラシ菜、高菜、白菜、ラディッシュなどなど、数え上げたらキリがない。アブラナ科の植物だけでも、我々の食卓は十分な豊かさを保てるほどである。

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このように、姿形が雑多なアブラナ科の植物たちではあるが、その花は概ね共通している。十字架のような形をした4枚の花びらが、その特徴だ(色は白や黄色など、種によって異なる)。また、種子の形状も似たものが多い。その種を植えてみなければ、将来何になるのかは分からないほどである。

こうした変わらない部分ばかりは、変化を主とするアブラナ科の植物たちがとりあえず出した結論でもあるのだろう。

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そろそろ寒い冬に春の光が差してくる季節となる。春の野には、菜の花の黄色い姿がよく似合う。

それらの花は静かに咲いているようでいて、その胸には「今度はどう変わってやろうか」と野心を抱いているのかもしれない。



我々が期待するよりも、自然の理はダイナミック(躍動的)である。

そしてそのダイナミズム(躍動)こそが、その魅力なのでもあろう。

大海原に杭を打って固定するのも良いが、その波の動きのままに遊ぶのも、また可笑(おか)し。




出典:いのちドラマチック
「ハクサイ 浮気野菜の甘い秘密」



posted by 四代目 at 06:48| Comment(0) | 植物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする