2013年10月03日

無限大とゼロのはざまで。[超弦理論に至るまで]



DAS WAHRE IST GOTTÄHNLICH

真理は神のごとく(ゲーテ)



ブラックホールの底に眠るという「真理」。

光さえも出て来られないその奥底を、もし数式で書き表すことができれば、宇宙のすべてが読み解けるという。

この世の森羅万象を「純粋な思考」だけで解き明かそうとする物理学者たちの試みは、いよいよ宇宙誕生の謎に迫る。



137億年前、ビッグバンと呼ばれる大爆発で、この宇宙は「ある一点」からはじまったとされている。

これまで物理学者たちが作り上げた数式は、そのビッグバンから「10のマイナス43乗秒」以降をすでに解明している。

すなわち、人類に残された最後の謎は、宇宙誕生まさにその最初の瞬間だけなのである。



その宇宙が生まれたまさにその瞬間は「ブラックホールの底」に記されているという。

なぜなら、ブラックホールの底というのは「極限まで圧縮された超ミクロの一点」。それは宇宙が巻き戻され一点に集約したかのような場所である。

宇宙が産声を上げることになる「ある一点」、それは意外にも、この世の終焉とも思われるブラックホールの底と数式上は同じなのだという。






■一般相対性理論



「ほら、アインシュタインだよ」

ここロサンゼルス郊外のウィルソン山には、アインシュタインも訪れたという天文台がある。

この20世紀が生んだ物理学の巨人は、コンピューターもない時代に、遠い宇宙の動きを正確に表すことに成功している(もっとも、新しい数式を発見するにはコンピューターは使えないという。なぜなら、コンピューターは人間がすでに発見している数式を基にプログラムされているからだ)。



アインシュタインの編み出した「一般相対性理論」。

難解そうなこの式、じつは意外とシンプルに書き表わされているのだという。式の左側は「空間の歪み」、右側には「モノの重さやエネルギー」。すなわち、「重さやエネルギーがあると空間が歪む」ということを意味している。



「空間が歪む」とは、どういうことか?

たとえば、空中にピンと張ったシーツの上にボールを乗せれば、当然シーツはボールの重みで沈み込む。そうしてできた窪みが「歪み」である。

その歪んだシーツ(空間)にもう一つボールを乗せれば、それが前のボールより小さく軽ければ、最初にできた窪みに沿って動くだろう。そうした動きが、太陽など大きな星の重力に引き寄せられる小惑星の動きである。



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アインシュタインの一般相対性理論によれば、星の重さによって周りの時空が歪み、その歪みに沿って他の星々が動いていることになる。

そして、その時空の歪みは「星が小さくて重いほど大きくなり、強い力が働く」。

この重力理論によって、宇宙誕生の謎は解き明かされると、当時は大きく期待されていた。










■盲点



だが、かの一般相対性理論にも思わぬ落とし穴があった。

それが「ブラックホールの底」だった。

それを鋭く指摘したのは、車椅子の天才ホーキング博士。








恐ろしく強い重力ですべてを呑み込んでしまうブラックホール。「その最も深い部分をアインシュタインは見逃した」とホーキング博士は言う。

アインシュタインの理論によれば、小さくて重いものほど空間を大きく歪める。では、「とてともなく重く小さな点」があったとしたら?

その空間は、その一点に向かって無限に沈み込んでいくはずだ。これが理論上のブラックホールである。



ブラックホールを表す数式の分母には、その奥底との距離を表す「r」がある。それは、ブラックホールが深ければ深いほど、その空間の歪みが大きくなっていくことを示す。

だが、もしブラックホールの底に着いてしまったら? その距離「r」はゼロになってしまう。

その時、数式の分母はゼロとなる。つまり「無限大(∞)」。それは数学上、計算不能を意味する。



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それがアインシュタインの盲点だった。

宇宙誕生の謎を解き明かすと一身に期待された一般相対性理論も、ブラックホールの底にだけは辿り着くことができなかった。

ホーキング博士「ブラックホールの底では、一般相対性理論が通用しませんでした。その問題を解消しないと、宇宙の始まりはわからないのです」






■融合



冒頭に記したように、ブラックホールの底が見えなければ、宇宙のはじまりも知ることができない。

残念ながら、ホーキング博士の指摘により、一般相対性理論だけではブラックホールの底で発生する「無限大の謎」を解くことができないことが判った。



ならば、ということで、ロシアの天才「マトベイ・ブロンスタイン」は、一般相対性理論に「素粒子の数式」を組み合わせるというアイディアに挑んだ。

なぜ、広大な宇宙の謎を解こうというのに、超ミクロの世界である素粒子(物質の最小単位)の数式が必要なのか?

というのは、宇宙のはじまる最初の一点も、ブラックホールに吸い込まれる最後の一点も、ともに「極限まで圧縮されたミクロの点」。あのアインシュタインも見逃した盲点というのは、そうしたミクロの世界だったのである。

すなわち、もし一般相対性理論に極小世界の理論である「素粒子の数式」を組み込むことができれば、その理論は宇宙のすべてを隈なく表すことができるはずだ。ブロンスタインはそう考えた。



貧しい家に生まれながらも、独学で物理学を学んだというブロンスタイン。わずか19歳にして、一般相対性理論も素粒子の数式も完璧に理解していたという。

ブロンスタインがまずやったことは、空間を素粒子よりもはるかに小さい「超ミクロのサイズ」に区切って、そこに働く重力を計算することだった。

つまり、素粒子の数式に欠けていた重力理論を、アインシュタインの一般相対性理論で補おうとしたのである。



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■無限大



すると意外な結果が現れた。

またもや分母にゼロが出てきてしまった。これでは元の木阿弥、計算不能を意味する「無限大(∞)」ではないか。

「正しい2つの数式を合わせたはずなのに、なぜ?」

ブロンスタインはさらに精度を高めて計算を押し進める。



しかし皮肉にも、計算の精度を高めるほどに無限大は増えていく。そして最終的には、無限大が「無限大個」発生してしまった。無限大の謎を解くどころか、掘れば掘るほど無限大が出てきてしまうのであった。

「もしそれが正しいとすれば、この空間もいつか崩壊してしまうかもしれない」

そんな恐怖にブロンスタインは苛まれた。じつは私たちの身の回りの空間というのは、ミクロの眼で見るとじつに不安定で、無限大を生み出すブラックホールのようなものが満ち溢れているのではないか、と。



ブロンスタインの頭の中が無限大でいっぱいになっていた、ちょうどその頃、彼の国(ソビエト連邦)では恐ろしい嵐が吹き荒れていた。スターリンの時代となり、100万ともいわれる知識人や一般人に対する大弾圧が巻き起こっていたのである。

今も存命中のブロンスタインの娘(エレーナ)は当時を語る。「6歳の時でした。私の誕生日に逮捕されたのです」。

父ブロンスタインは無限大の謎を抱えたまま秘密警察に逮捕され、その後すぐに銃殺された(1937年8月)。








「なぜ、スターリンはこんなことをしたのか?」

ブロンスタインの後輩であったゾーレフ・アルフェロフは、今も納得ができない。

「スターリンはブロンスタインの個人的な能力を恐れたのではないでしょうか。これは決して正当化することはできない悲劇です」



享年31歳。

若き大天才ブロンスタインは、非業の死を遂げた。

その死は半世紀以上、娘ら家族に知らされることはなかった。

サンクトペテルブルクの郊外の森にある2つの銃痕が刻まれた墓、そこに彼は眠る。






■輪ゴム



ブロンスタイン亡き後、無限大の謎は物理学界に居座り続けた。

そして、やけっぱちに「無限大の謎に挑むことは、人生を棒に振ることと同じだ」とまで言われた。

いずれ、ほとんどの物理学者たちはこの難問から目を背けた。



そんな沈鬱とした中に現れたのは、当時まったく無名だった若き研究者「ジョン・シュワルツ」。

彼はジョエル・シャークとともに1974年、論文『非ハドロン粒子の双対モデル』を発表し、無限大の謎を解く数式を見つけたと謳った。



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シュワルツが元にしたのは「見捨てられた古い数式」。弦理論と呼ばれるアイディアだった。

シュワルツは語る。「当時の研究は『見捨てられた分野』でした。仕事はまったく評価されず、職を恵んでもらっているようなものでした。担当教授は私のことを『絶滅危惧種だ』と言っていたほどです(笑)」

その絶滅寸前だった弦理論というのは、物質の最小単位である素粒子を、点ではなく輪ゴムのような「ふるえる弦」だとしていた。その考えを進化させたシュワルツとシャークは、「超弦理論(超ヒモ理論)」として世に発表したのだった。



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なぜ、素粒子を点ではなく輪ゴムのような形だと考えたのか?

それは、無限大を生んでしまう「分母のゼロ」を回避するためだった。分母がゼロになるのは、素粒子同士の距離がゼロになる時。すなわち、粒子同士の衝突の瞬間である。

ならば、もし粒子が点ではなく、輪ゴムのような形だったとしたら?

粒子同士がぶつかっても、その輪の大きさ以下には潰れない。そのおかげで、衝突しても粒子同士の距離がゼロにならず、無限大も出なかった。すなわち、世界は「ふるえる弦」の弾力によって崩壊を免れていたのであった。

こうして、無限大の謎は解かれた。ブロンスタインの非業の死から30年以上が経っていた。






■異次元



ところが発表当時、シュワルツらの超弦理論はまともに相手にされなかった。

というのは、その理論を成り立たせる条件が「10次元」という異次元の世界だったからである。



ご存知の通り、われわれの住む世界は「4次元」。縦・横・高さに時間が加わった世界である。それなのに、超弦理論の説く世界は10次元という奇妙奇天烈な世界だったのである。。

「残る6つの次元をどう考えればいいのか? それでは何の解決にもならない。私はこの超弦理論にまったく興味をなくしました」と、ゲラルド・トフーフト(1999年ノーベル物理学賞)は当時を振り返る。



「超弦理論は物理学とも呼べない。そんな研究をする奴は締め出してしまえ!」という声まで飛び交った。

シュワルツは物理学の権威たちからもからかわれていた。

「やぁ、シュワルツ。今日はいったい何次元にいたんだい(笑)」



超弦理論を提唱したシュワルツとシャーク本人らも、「なぜ10次元なのか?」わからなかった。だが、数式の計算上はどうしてもそうなるのであった。

「見えない異次元は、いったいどこにあるのか?」

超弦理論が認められない中、同僚シャークは重い糖尿病を患い、故郷フランスへと帰ってしまった。



そしてシャークは突然、34歳の短い生涯を閉じる。

「彼は、自分がやっていることは果たして正しい道なのか、途方に暮れているようでした…」、元妻のアンはそう語る。

異次元の研究に没頭していたシャークは、取り憑かれたように仏教の世界に傾倒し、瞑想にふけっていたという。

部屋には、糖尿病の治療薬を大量に注射した後が残されていた。






■496



シャークの遺志を一人で継ぐことになったシュワルツ。

ほかの物理学者たちが華々しい業績を上げるのを横目に、ひたすら超弦理論の示す異次元にこだわり続けていた。



最初の論文発表から10年、超弦理論に新たな才能が加わった。

マイケル・グリーン。ケンブリッジ大学(イギリス)でホーキング博士も務めたという、名誉あるルーカス教授職の継承者である。

グリーンはこう言った。「そもそも、この世が4次元でなければならないとする証明はない。数式が10次元と示しているのだから、自分たちの常識のほうが間違っているのかもしれない」



そして始まった超弦理論の検証。それは、超弦理論に「一般相対性理論」と「素粒子の数式」が含まれるかどうかの複雑な計算だった。

一見まったく無関係に見える2つの数式だったが、超弦理論の数式から次第にその姿が浮かび上がってくる。そして、数式に矛盾がないか最後の計算をしている時のこと、「496」という数字が次々と数式に現れてきた。



「その数字について議論しようとしたとき突然、雷鳴が轟きました」とグリーンは言う。

「神に違いない。答えに近づきすぎて、神の怒りに触れたのだ、と」



496。

それは完全数(Perfect Number)の一つで、古代ギリシャ時代、天地創造と関係があると崇められてきた数だった。

その神聖な数が一斉に現れたということは、超弦理論の数式の中で、広大な宇宙と微小なミクロ世界が美しく調和していることを意味していた。



その数字の出現とともに、超弦理論からは一般相対性理論と素粒子の数式が矛盾なく導き出されていた。

シュワルツは興奮した。「それは奇跡でした。はるかに高度な数式に偶然たどり着いていたのです!」






■隠れていた次元



「これは革命だ!」

シュワルツとグリーンの計算結果は、世界を驚愕させた。

「宇宙のすべてが分かる!」



The theory of everything(万物の理論)として、「天からの声」とも讃えられた超弦理論。

以後、世界中の物理学者たちは雪崩をうってその研究に取り組むことになる。

かつては「見捨てられた数式」だった弦理論、それが超弦理論という形に進化して一躍、物理学の最前線に踊り出たのであった。



ところで、なぜ異次元は認められたのか?

それには次元という概念を少し知っておく必要がある。

「次元というのは『動くことができる座標の数』を指します」と、ジョセフ・ポルチンスキーは説明する。

たとえば、縦・横・高さの3方向に動ければ、それは3次元。さらに時間も動けば4次元、われわれの世界となる。



「この綱渡りの女性にとって、綱は『一次元』です」とポルチンスキーは言う。

なぜなら、綱上の彼女は「前か後ろ」にしか動けない。つまり、線の世界(一次元)にいるのである。

「では、この綱の上をはうテントウムシを見て下さい。彼はずっと小さいので、一本のロープは線ではなく『面(二次元)』に見えるはずです」

確かに、小さなテントウムシは前か後ろだけではなく、右にも左にも動くことができる。すなわち、その視点をより小さいところに移していけば、「隠れていた次元」が見えてくるのである。



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それは、超弦理論が示す10次元も同様であった。

小さな小さなミクロの世界、原子の一兆分の一の、そのまた一兆分の一の極小世界には「隠れた次元」があるのだという。

超ミクロであるがゆえに、普段われわれの目からはその次元を見ることができない。だが、それは確かに潜んでいるのだという。

「多くの物理学者は、宇宙には未知の異次元があると信じています」とポルチンスキーは言う。










■コインランドリー



さて、万事丸く収まったかに思えた超弦理論。

ここに再び、車椅子の天才ホーキング博士が水を差す。

それは「ホーキング・パラドックス」と呼ばれることになる、ブラックホールの奥底で発生する「謎の熱」であった。



ブラックホールの真奥という極限の一点においては、素粒子さえもまったく身動きがとれないはず。

ではなぜ、そこに熱が発生するのか?

それがホーキング博士の問いであった。



さらなる難問を突きつけられたシュワルツは、こう振り返る。

「ホーキング博士の指摘は極めて鋭く、私たちはその問題をなかなか解くことができませんでした。ホーキング・パラドックスを解けない限り、ホーキング博士は超弦理論を認めようとしませんでした」

かつて、アインシュタインの一般相対性理論に「無限大の謎」を突きつけたホーキング博士は、今度はシュワルツの超弦理論に「ブラックホールの熱の謎」を問いかけたのであった。



またもや、シュワルツは手詰まりとなった。

すると、新たな若き救世主が現れる。

ジョセフ・ポルチンスキー。綱渡りの女性とテントウムシを例に、異次元を説明してくれた人物である。



彼は、学会の合間に立ち寄ったコインランドリーでヒントを得た。

「洋服は細い糸がたくさん集まってできている。では、ミクロの世界でも粒子である弦は一つ一つではなく、まとまっているのではないか?」

そう考えた彼の数式から導かれたのは、膨大な数の弦が集まって「膜のように動いている現象」であった。



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ホーキング・パラドックスを解くカギとなったのは、ブラックホールの奥底に潜んでいた「異次元」であった。

その異次元で、膜状に集まった弦は動き回り、熱を発生させていた。

ポルチンスキーは超弦理論に「膜の数式」を新たに加えることによって、ブラックホールの「謎の熱」を解明するのである。






■探求



2004年、ホーキング博士はついに認める。

ホーキング「私がかつて発見したブラックホールの謎の熱に関し、ずっと誤りがあったことを報告します」

ポルチンスキーはホーキングの問いに感謝する。

ポルチンスキー「もし、ホーキング・パラドックスが存在しなければ、私たちは前に進むキッカケをつかめなかったと思います。このパラドックスは、科学の歴史に残る偉大な思考実験でした」



ホーキング博士のくりだす問答を、次々と乗り越えていった物理学者たち。彼らはいよいよ宇宙誕生の姿に近づきつつある。

しかし、その切り札ともなった超弦理論の生みの親、シュワルツはすでに71歳。自分の命があるうちに、宇宙誕生の秘密にはたどり着けないかもしれないと思いはじめている。



「最終的な答えが分からないのは悲しいことです」とシュワルツ。

だが、こうも言う。

「でも、答えが分かってしまったら、それも悲しいでしょう(笑)。探求を続けることが、何よりも素晴らしいことなのです」



現在、最新の数式が描く宇宙は11次元。

しかも、10の500乗個という想像を超える数の宇宙が存在し得るという新たな難問も浮上してきているという。

「私たちは答えを探している。しかし、なぜ質問しているかも分からないのです(カムラン・バファ)」



たとえ人類がブラックホールの奥底を覗けたとしても、その先にはさらに広大無辺な世界が広がっているかもしれない。

アインシュタイン以来、知れば知るほど広がってきた宇宙。

知る由もない次元は、あとどれほどあるのだろうか…?



Das Wahre ist gottähnlich;
真理は神のごとく

es erscheint nicht unmittelbar, wir müssen es aus seinen Manifestationen erraten. (Goethe)
それは、直接的には現れない。我々は真実を神の顕現から推測するしかないのである。(ゲーテ)













(了)






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出典:NHKスペシャル
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posted by 四代目 at 07:15| Comment(1) | 宇宙 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月31日

「見えないと始まらない」 人類、月へ。



「見えないと始まらない

 見ようとしないと始まらない」

400年前、そう言ったガリレオ・ガリレイは、自らが作り上げた望遠鏡で夜空の星々を見上げた。



それまで、月の表面は真っ平らだと考えられていた。

ところが、ガリレオの好奇心が見たその月は、表面がデコボコだった。



もっと遠くを見たい。

もっと宇宙を知りたい。

そんな思いが、イタリアの天文学者、ガリレオ・ガリレイにより触発され、人類はついに、ガリレオがはるか遠くに見たその月に足跡を刻むこととなる。










■青い地球



人類が実際に宇宙へと飛び出したのは、ほんの50数年前。

過去の2つの大きな戦争が、皮肉にもロケット技術を飛躍的に進歩させた余燼であった。



その嚆矢となって地球から飛び出したのは、ソ連の「人工衛星」スプートニク(1957年)。

そのビッグ・ニュースは、ほぼ同時期に開始されたテレビ放送によって世界へと報道され、「人工衛星の姿を見てみたい」と宇宙ブームが巻き起こる。

狂喜乱舞していた民衆を尻目に、ギリギリと歯噛みしていたのはアメリカだ。自らが宇宙への先鞭をつけるべく躍起になっていたところ、ソ連に先を越されたからだった。そのアメリカは、ソ連の人工衛星打ち上げ成功を「スプートニク・ショック」と呼んで肝に銘じ、臥薪嘗胆の日々を送ることになる。



国家の威信を宇宙にかけたアメリカは、3,000人もの志願者の中から7人の宇宙飛行士「マーキュリー7」を選び抜き、その過酷な任にあたらせた。

しかし、当時のロケット技術は信じられぬほど拙く、その成功率はわずか50%。選び抜かれた7人の宇宙飛行士がロケットを視察した時、そのロケットは脆くも空に散った。

目の当たりにした現実を、マーキュリー7の宇宙飛行士、スコット・カーペンターはこう語る。「恐怖をおぼえました。ロケットが爆発したり、宇宙船が壊れたりすることを常に覚悟しておかなければならないと知りました」



一方、ソ連の躍進は止まらない。

1961年4月12日、ソ連のユーリ・ガガーリンが「人類初の有人宇宙飛行」を成し遂げた。

アメリカの悲願であった「宇宙一番乗り」は、ついにソ連の手柄となったのだった。








「地球は青かった」

人類で初めて宇宙から地球を見たガガーリンは、この名言を残した。

より正確に記すと、実際にガガーリンが言った言葉はこうなる。

「地平線の眺めは独特で、並外れて美しいものでした。そして、地球を取り巻く薄い膜は淡い青色でした」



残念だったのは、ガガーリンが乗ったソ連の宇宙船には「外を撮影できるカメラ」がなかったことである。

ガガーリンの言葉を聞いた世界の人々は、ガガーリンの言う「青い地球」の姿を思い思いに夢想するより他なかった。






■窓とカメラ



一度ならず二度までも、ソ連に先を越されたアメリカであったが、2番手となって宇宙へ出ていったアメリカは、ガガーリンの成し得なかったことを成し遂げる。

それは、ガガーリンが言葉にした「青い地球」を、写真として世界に示したことだった。



しかし最初の段階では、アメリカの宇宙船は窓もない単なる「鉄の箱」だった。というのも、ソ連に先んじられていたNASA(アメリカ航空宇宙局)は「人間を宇宙に送り出すこと」にしか関心がなかった。窓を付けると構造的に弱くなると言うのであった。

「私たちは『窓がないとダメだ』と主張しました」と、アメリカの宇宙飛行士「マーキュリー7」の一人だったスコットは言う。真っ暗闇の鉄箱の中で宇宙空間を往復しても、青いという地球を見ることすらできない。



ようやく、窓が認められると今度は、マーキュリー7のリーダー的存在だったジョン・グレンが「宇宙から見える地球を写真に撮ろう」と提案した。カメラは自腹で購入するから、宇宙船に持ち込ませてくれと懇願したのである。

400年前、ガリレオは「見なければ始まらない」と言ったが、ジョン・グレンに言わせれば、人々に宇宙からの地球を「見せなければ始まらない」のであった。



ソ連のガガーリンに遅れること10ヶ月、1962年2月20日、グレンらマーキュリー7は宇宙に向けて飛び立った、自前のカメラを携えて。

地球の上空260kmを周回したグレンは、その眼下に展開される息を飲むような光景を次々とカメラに収めた。

そして、地球の夜側に回り込んだ時だった。グレンの目にしたのは、地平線に浮かび上がる美しい光の帯。それは大気の放つ青い光、ガガーリンの言った「淡い青色の薄い膜」であった。



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■月への思い



勢いづいたアメリカは、大胆にもこう宣言する。

「人を月に送り込む。これを次のアメリカの国家目標とする(ジョン・F・ケネディ大統領)」

そう、月面への着陸を目指す「アポロ計画」の始動である。



月への思いは、ソ連もまた同様であった。そして、アメリカを出し抜かんと虎視眈々、密やかにアメリカを上回る巨大ロケットの建造を進め、完成まであと一歩というところまで迫っていた。

その静かな動きを機敏に察知したアメリカ。今度こそは前轍を踏むまいと、強引にも急遽、月への予定を繰り上げた。



1968年12月、アポロ8号はあわてて地球を離れた。

その名誉ある乗組員はフランク・ボーマン、ジム・ラベル、ビル・アンダースの3名。

有人宇宙飛行を目指したマーキュリー計画から10年、この時は着陸こそしなかったものの、ついにアメリカは月への先鞭をつけることができた。








「月は見渡すかぎり、灰色の世界だ」

月上空を巡りながら、宇宙飛行士はNASAにそう報告した。

その直後、「あれは驚くべき光景だった」と、のちにジム・ラベルが語る景色が眼前にあらわれる。



「あれは月の裏側から表側に戻ろうとしていた時だった。進行方向を見ていると、月の地平線から地球が顔を出したんだ」

日の出(サン・ライズ)ならぬ、地球の出(アース・ライズ)。

青く輝く地球が、ぽっこりと眼前に現れた。



その神々しさに心打たれたジム・ラベルは、「写真に撮らねば」と咄嗟にカメラを取り出す。

ところが、「それはできない」と止められる。「フィルムは月を撮るために持ってきたのであり、地球を撮るためではない」というわけだ。

「しかし、実際に地球の出を見せてやると、おぉーっ!と声を上げて、すぐに3人ともそれぞれのカメラを取り上げて撮影しまくった」とジム・ラベルは言う。



38万kmの彼方から見る地球。

漆黒の宇宙に浮かぶその姿は、人々の地球への認識を一変させてしまうほどの力をもっていた。

そこに醜い国境線は見えない。ただ、1つの美しい球体があるだけだった。



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■生中継



いよいよ月面への着陸を目指すアメリカのNASA(航空宇宙局)は、その偉業の達成と同時に、ある挑戦に打って出る。それは、その瞬間を世界同時にテレビで「ライブ中継」しようというのであった。

月を目指すというアポロ計画には、アメリカの国家予算のおよそ4分の1もの大金が投じられていた。その必要性を国民に納得してもらうのに、テレビ中継というのは極めて有効な手段であった。

「見せなければ終わってしまう」

NASAは月面着陸をテレビ公開することで、世論の後押しを狙ったのである。



だが、当時の技術では「どうすれば上手くいくのかわからない」と、テレビ中継の責任者であったエド・フェンデルが言うほどに、月からの生放送は荒唐無稽の企画であった。

まず、アポロ計画が始まった頃のテレビ・カメラというのは、重さが100kg以上もある鉄の塊のようなもので、それを宇宙飛行士が担いで撮影するというのは、まったく非現実的なことであった。

「カメラの重量は、宇宙船の安全性を脅かすものでした。カメラだけでも重いのに、中継に必要なさまざまな付属品も重いんです。これは大問題でした」と中継を任されたエドは言う。



さらに、月への最初の一歩を撮影するには、その前に誰かが月面にいなければならない。しかし、そうすると撮影されるのは最初の一歩ではなくなってしまう。

そのため、月に降りる宇宙飛行士自身が、テレビ・カメラを持ちながら月着陸船のハシゴを降りるという案もあった。だが、それは危険過ぎた。ハシゴを無事に降りれるかどうかすらも危ぶまれていたのである。



そもそも、38万kmという月と地球との距離の中、うまく電波は送受信できるのか?

月から映像を送信するアンテナは直径60cmという小型のもので、出力はわずか20Wに過ぎない。その微弱な信号を受け取るには、地球側に最大64mという超巨大アンテナが必要とされた。

「たとえて言うと、何百キロも離れたところから、ロウソクの炎を見ようとするほど無茶なことでした」と、中継担当者の一人、ビル・ウッドは言う。

さらに、地球が回ると地上のアンテナが月からの電波を受信できなくなる時間帯が生じてしまう。そのため、アンテナの設置場所はアメリカだけでは不十分であり、地球全域を網羅する必要があった。






■情熱



当時のアメリカの月への熱意は、そうした諸々の問題を次々に解決していった。

100kgを超えていたテレビ・カメラは、なんと3kgという片手で持てるほどに技術改良された。加えて、月面の明暗激しいコントラスト(約1,000倍)の元でも撮影できるよう、アメリカ軍の暗視カメラの技術も取り入れられた。



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撮影方法は、月着陸船のメサという収納スペースからカメラを飛び出させる方法が採用された。

「宇宙船の外に出るとき、宇宙飛行士が小さなレバーを引くんです。すると、メサが飛び出す仕組みでした。メサは耐熱シートに保護されており、カメラはその中に収められていたんです。ハシゴを降りる飛行士が映るよう計算されていました」



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月からの微弱な映像を受信するためには、その画質が3分の1に落とされ、巨大アンテナはアメリカのみならず、オーストラリア(ハニーサックル)、スペイン(マドリード)の3ヶ所に設置された。






だが、その準備はまことに慌ただしいもので、月着陸船にカメラが取り付けられたのは、ロケット発射のわずか数日前。

宇宙飛行士や技術陣らが実際の手順を充分に確認できたかという、それは付け焼き刃のようなものであった。

それが、のちのライブ中継でのドタバタ劇を巻き起こすことになる。






■月着陸へ



1969年7月16日、月面着陸そして生放送の使命を帯びた「アポロ11号」は、ついに打ち上げられた。

乗組員は、ニール・アームストロングとエドウィン・オルドリンの2人。

地球を蹴ってから3日と3時間49分後、アポロ11号は月の軌道に乗った。



「着陸を開始せよ」

その指令とともに、月面への着陸船イーグルは、ゆっくりと月面に降りていく。

「こちら、静かの海。イーグルは着陸した」

アームストロング船長のその言葉に、固唾を飲んでいたNASAの職員らは、とりあえず胸を撫で下ろす。

「了解。みんな青くなっていたが、おかげで生き返った」



さあ、世界中の人たちがテレビ画面を前に、瞬きも忘れて食い入ることになるライブ中継がいよいよ始まる。その予定は、宇宙飛行士の2人が仮眠をとってからのはずだった。

ところが、一刻も早く月面に降りたいと逸ったアームストロング船長。船外活動の開始を早めると伝えてきた。

「許可がもらえるなら、ヒューストン時刻の8時頃に船外活動をはじめたい。つまり、今から3時間後だ」



この突然の変更に、テレビ中継のスタッフらは大混乱。3時間などという時間は飛ぶように過ぎ、あっという間にアームストロング船長が宇宙船の扉を開く時間となってしまった。

「ハッチを出たところだ」

その言葉が月から届くも、なぜか映像は届かない。テレビ中継のスタッフらは大慌てに慌てて走り回り、その原因の究明に神経をすり減らす。

じつはこの時、着陸船の中にいたオルドリン飛行士が、映像送信のスイッチを押し忘れていたのである(アームストロング船長は手順通り、カメラの入ったメサを開くレバーをちゃんと引いていた)。






■執念



誰もが「もうダメだ…」と観念した時、

「テレビ映像が入った!」

弾んだ声が、管制室に響いた。



だが、その映像はどこかおかしい。

「画面の上下が逆さま(upside down)だ…」

じつは、メサに取り付けられたカメラは、その構造上、上下が逆さまに取り付けられており、受信した画像を地上で「反転」する予定であった。混乱に次ぐ混乱の中、映像を反転させるスイッチを押し忘れてしまっていた。

地球で初めて見た月の映像は、その混乱を象徴するかのように、上下が逆さまだったのである。



反転はすぐに解消されるも、その画質は絶望的に悪い。アームストロング船長の姿すら定かでない。

その時、ある管制官がハニーサックル(オーストラリア)の画質が良いことに気がついた。

即座に映像はハニーサックルのものに切り替えられた。そのタイミングは、アームストロング船長がまさに「最初の一歩」を月に踏み出すほんの数秒前。間一髪とはこのことであった。



その一歩を踏みしめたアームストロング船長は、全世界に言った。

"That's one small step for man, one giant leap for mankind."

「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大なる飛躍である」



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この言葉をテレビで聞いた全世界6億人、40カ国の人々。その興奮は極みに達していた。そして誰もが、自分の手柄のようにその映像を脳裏に刻み込んだ。

「アポロ計画の偉大な点は、テレビ中継の映像を通じて、誰もがアポロ11号の快挙を共有できたことです。実際に月に行ったのは私たち宇宙飛行士ですが、みんな誰もが自分たち人類が月に行ったと言うんですよ(笑)」

アポロ11号の4ヶ月後に月に降りた宇宙飛行士の一人、アラン・ビーンはそう言って満足気に笑う。



執念とも呼ぶべき月面からのテレビ中継によって、アームストロングの「小さな一歩」は人類共有の財産となったのであった。

「私たち人類が、この映像を見ることができなかったとしたら、その影響は計り知れません」と、スミソニアン航空宇宙博物館の研究員、ジェニファー・レバソーは感慨深げにそう振り返る。








アメリカには、こんな言葉もある。

What you see is what you get(見たものが得られる).

その頭文字をとって、俗にウィズウィグ(WYSIWYG)とも言われる。

もとはコンピューター画面に写ったそのままが印刷されるという意味であるが、人間の経験の限界を示す意味にもとられる。「見なければ始まらない」し、人間が得られるものは「実際に目にしたもの」だけなのである。






■月面カメラ



アポロ計画が残したのはテレビ映像だけではなく、写真も山と撮った。その数およそ3万枚。

月面で用いられたカメラは特別仕様。昼夜の温度差が260℃という月面の厳しい気候に耐えられるように、そして分厚い手袋をした宇宙飛行士でも扱えるようにと改造されている。

一つ面白いのは、被写体を確認するためのファインダーがないことだ。巨大なヘルメットをかぶった宇宙飛行士は、それを覗くことができなかったからである。



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アポロ11号が撮った写真のうち、物議を醸すことになる一枚もあった。

それは月面にアメリカの国旗「星条旗」を立てた時に撮った写真である。その時の映像を確認すると、空気がないはずの月面でその旗がはためいている。そのため、アポロ計画で記録された映像は「地球で撮影されたものだ」と主張する人々がいたのである。アポロの月面着陸は「真っ赤なウソだ」と。

「真相はこうです。この星条旗、あるNASAの職員がデザインしたものなんですが、空気のない月でも、月の重力でも旗が垂れないように、ここ(旗の上辺)に棒が入っているんです。じつは宇宙飛行士が旗を月面に立てた時、ポールが揺れて、旗も揺れた。こういうことだったんです。月面は空気抵抗がないので、旗の揺れはむしろ収まりにくい。月という地球とは全く異なる環境ならではの、面白い現象だったわけです(NHK)」








アポロ11号の、月面の写真を撮ったカメラはその後、月に置いてきた。

月着陸船に積める荷物の重さには限界があるため、カメラの重さ分、「月の石」を持ち帰るためだった。






■最後の一歩



アポロ計画では、じつに6回の月面探査が行われた。

アポロ12号のコンラッド船長は「ニール(アームストロング)にとっては小さな一歩だが、私には大きな一歩だ」と言って月に降り立った。



月の重力は地球の6分の1。その月面でゴルフ・クラブを振りぬくと、そのボールは宇宙の彼方に飛んでいくかのようだった。

空気がないことで、ガリレオの重力実験は見事に証明できた。

「私はいま、左手に羽、右手にハンマーを持っています」

同時に手を放すと、軽い羽も重いハンマーも同時に月面に着地した。

「ほらね。ガリレオは正しかった」

ちなみに、400年前のガリレオはピサの斜塔で、大小2つの鉄球を落とす実験を行っている。








1972年12月、3年に及んだアポロ計画は幕を閉じる。

それは月面着陸の栄光とは裏腹に、失敗の連続でもあった。発射台上で火災に巻き込まれたアポロ1号、アポロ13号の爆発事故…。








最後のミッションを務めたのはアポロl7号。その船長であったジャック・シュミットは、この言葉を月に残した。

「私が月面に『最後の一歩』を踏みしめた後、人類はしばらく地球に帰ります。ですが、遠からざる未来を信じています。私たち人類は、ふたたび月に戻ってくるでしょう」










■身体の壁



宇宙開発の黎明期において、人類の前に立ちはだかったのは「無重力の壁」であった。

地球で進化を続けた我々ヒトの身体は、宇宙に向いてはいなかった。長く宇宙の無重力にさらされると身体がふにゃふにゃになってしまい、地球に帰還すると立って歩くことすら適わなくなってしまうのだった。

重さがないという無重力の身軽さは、皮肉にも人間の身体をダメにするのであった。それはまるで、贅沢三昧の旅のあと、自宅の質素な生活に耐えられなくなってしまうかのようである。



長く宇宙に留まるには、無重力への対策は必須であった。

そこで、長期ステイが計画されたアメリカの宇宙ステーション「スカイラブ(1973年)」では、直径7mという広い船内をフル活用し、激しい運動で筋力を維持するなどの、徹底した無重力への対策が講じられた。重さのなくなってしまう宇宙空間においては、地球上より何倍もの負荷が必要とされた。

そうした努力の結果、3ヶ月という長期滞在にも関わらず、地球に帰還した宇宙飛行士たちは全員、立って歩くことができた。無重力の壁は、そうした尽力によって見事に克服されたのであった。



ところで、アメリカに対抗すべく、ソ連も宇宙ステーションを宇宙空間にこしらえる。それが1986年に打ち上げられた「ミール」である。

アメリカには遅れたものの、ソ連はそのミールでアメリカを凌ぐ「長期滞在記録」を次々と打ち立てる。438日間というワレリー・ポリャコフの成した記録は今も破られていない。










■心の壁



宇宙での滞在期間が伸びるにつれ、新たな問題が生じることになった。それは「心の問題」であった。動かせば鍛えられた身体とは異なり、心というのは実に繊細な部分を持っていた。

「時には涙も流しましたよ。宇宙では涙は落ちませんがね。涙が盛り上がってくるんです」

そう語るのは、438日間も宇宙に居続けたソ連の宇宙飛行士、ワレリー・ポリャコフ。

「感受性が麻痺したように鈍るのです。限られた仲間の中だけで、単調な日常生活を続けていると、感受性が鈍ってくるのです」

感受性の麻痺(無気力)にともなう孤独感は、日に日にポリャコフの心に積もっていき、その心はすっかり塞がれてしまっていた。



宇宙に閉鎖された感覚。

そんなミールの中で、唯一「外の希望」を感じられる場所を、ポリャコフはついに見つけた。

それは「観測用の窓」だった。



「私は多くのものを見ました。最も感動したのは、宇宙ステーションから見た、美しい地球です」

地平線の向こうに何があるのだろう?

あそこには何があるのだろう?

そんな疑問をもって地球の姿を眺めるうちに、ポリャコフの心には新たな力が湧いてくるようであった。

「知識欲、好奇心。これらは神がこうした逆境を乗り越えるべく、人間に与えたものなのです」と、ポリャコフはしみじみ語る。



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400年前、ガリレオ・ガリレイは地球から宇宙を遠望して、その思いを膨らませたものだった。

ところが、人類が宇宙に行けるようになった後、ポリャコフは逆に宇宙から地球を眺めて、そうした思いを新たにしたのであった。

「見なければ始まらない。見ようとしなければ始まらない」とガリレオが言った真意はやはり、見ようとする人の意欲と、そこに生まれるエネルギーを語ったものであったのでだろうか。






■協調へ



技術の壁を超え、身体と心の壁を超え、そしてついに人類は宇宙を介して、部分的ながら「国境の壁」をも超えることになる。

ベルリンの壁が音を立てて崩れると、ソ連という大国は瓦解した(1991)。

そのソ連崩壊後、宇宙開発史は大きな転換点を迎えることになる。それが1993年に行われた「国際宇宙ステーション共同建設」の調印式である。冷戦と呼ばれた東西陣営の対立は、ついに宇宙で手を結ぶ約束を交わしたのであった。



幕を開けた新時代の象徴は、ロシアの宇宙ステーション「ミール」と、アメリカの宇宙船「スペースシャトル」のドッキングという壮大なミッションだった。

1955年6月

アメリカ「さあ、シャトルのハッチを開けてくれ」

ロシア「OK、開けるぞ」

それまで犬猿の仲で覇を競い合っていた両大国は、国境線を遠く離れた宇宙空間で、その一線をついに超えたのであった。



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時代は「対立から協調へ」。

ロシアも参加した国際宇宙ステーションの建設は1998年に開始された。日本も含め15カ国が技術と資金を出し合った。

ちなみに、宇宙開発の黎明期、日本はどうしていたのか?

ソ連とアメリカが覇を競って大型ロケットを宇宙に飛ばしていた頃、日本が作っていたのは小さな小さな「ペンシル(鉛筆)ロケット」。最初の飛行時間は17秒、到達高度600mというオモチャのようなものであった。というのも、第二次世界大戦後、敗戦国となった日本は長らく宇宙開発を禁止されていたからであった。

出鼻を大きく出遅れた日本であったが、もともと優れた技術を内包していた日本は、月探査船「かぐや」をはじめ、世界初の偉業となる小惑星探査機「はやぶさ」など、地味ながらも着実な成果を確実にその歴史に刻んでる。










■400年という時の流れ



ガリレオは400年前、地上の望遠鏡で星々を夢想した。

そして今、人類は宇宙空間に巨大な望遠鏡を浮かべて、宇宙の隅々にまで目を凝らしている。「ハッブル宇宙望遠鏡」が地球に届ける映像は、宇宙の謎と神秘を次々と明らかにしてくれている。








カメラを持った最大の冒険者は「ボイジャー」。

1977年に地球を旅だった航海者、ボイジャー1号とボイジャー2号、この2機の探査機は今も現役で宇宙を旅している。

ガリレオは400年前、木星の回りに4つの衛星を見つけた(ガリレオ衛星)。そしてボイジャーは、そのカメラを使ってガリレオには分からなかった衛星イオの正体を明らかにした。それは火山噴火を活発に続ける天体だった。



ガリレオは土星の輪にも首をかしげた。

ボイジャーの撮影した画像は、とにかく美しく、そして驚くほど詳細。その土星の輪に電波を当てると、その正体が「氷の粒」であることも判明した。

「小さなものは数ミリ、ほとんどが雪玉くらいの大きさですが、最も大きいのは家の一部屋ほどもありました」と、ボイジャー計画を率いたエドワード・ストーン博士は興奮気味に言う。

ボイジャーが目指す恒星系への接近は「5億年後」の予定である。



ガリレオはその晩年、地球が回っているという地動説を頑なに唱え続けたため、教会から異端視され苦難に満ちた人生を送る。

「それでも地球は回っている」

彼は自らの目で観測した事実を、信じ続けた。400年後の我々は皆知っている。「ほらね、ガリレオが正しかった」と。



ガリレオは、こうも言っている。

「宇宙は、我々の目の前に開かれている巨大な書物である」

夜空を見上げるだけで、この巨大な書物は何かを語りかけてくる。



「見ようとしたから始まった。見せようとしたから始まった」

人類の宇宙への探究心は、知れば知るほど深まるばかりである。

幸いにも、宇宙の謎は知れば知るほど、その深さを増すようだ…













(了)






関連記事:

月への見果てぬ夢を実現した、天才フォン・ブラウンの超弩級ロケットエンジン。

宇宙開発、ソ連黄金時代の立役者「コロリョフ」。ガガーリンを宇宙へと押し上げた実力者。

なぜ、日本は国産ロケットにこだわったのか? H2シリーズに結晶化したその高い技術力。

月のおかげで、地球の傾きは安定している。ところが、その月が遠ざかりつつあるのだとか……。



出典:NHK 阿部寛の”宇宙への挑戦”


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2013年06月14日

UFO事件と、宇宙への道



アメリカ・ニューメキシコ州

「ロズウェル(Roswell)」

ここは世界で最も有名な「UFO事件」の現場である。



1947年7月8日

ロズウェル陸軍飛行場は「ロズウェル付近の牧場から、潰れた『空飛ぶ円盤(flying disc)』を回収した」と発表。

付された写真には、銀色に輝く不思議な物体が写っており、軍はそれらを「空飛ぶ円盤の破片」だとした。



だが、その数時間後、その発表は即座に訂正される。

「職員が回収したものは空飛ぶ円盤ではなく、『気象観測用気球』であった」と。

ここで一旦、事件は終わる。そして人々はこの事件をあっさり忘れてしまう。



ところが30年後、この話はふたたび蒸し返される。

「宇宙人の死体」とともに。



「当時、ここには『軍の病院』が建っていました。そして、あの赤い水道メーターのあたりに『手術室』がありました。そこで『宇宙人の遺体』が解剖されたというのです」と、ロズウェル事件の研究者、E.J.ウィルソンさんは言う。

彼の話によれば、軍はUFOに乗ってきた宇宙人の遺体を回収し、解剖したのだという。そして、その宇宙人の身体には毛がなく、頭と目が大きかったとも…。










◎ロズウェル・リポート



「軍は真相を隠しているに違いない!」

UFO熱が沸騰寸前にいたった市民運動は、アメリカ政府に「情報公開」を迫る。

そして、政府による再調査が決定した。それは事件から50年近くも経った1994年のことだった(アメリカ空軍ロズウェル事件調査)。



その再調査によると、「UFOの残骸」とされたものは、やはり気球の残骸。だが当初発表されていた「気象観測用」ではなく、ソ連の核実験と弾道ミサイルを検知するためのものだった。その気球に取り付けられていた「レーダー反射板」が、あたかもUFOの金属片と勘違いされたのだという。

当時のアメリカはソ連と「冷戦」の開始段階にあり、多数の軍事行動が秘密裏に行われていたが、その気球もまたモーグル計画と呼ばれる極秘計画の一つであった。



「(UFOの残骸と言われた)ゴムひも、凧棒、その上に貼られたシンボルが印刷されたテープ、アルミフォイル…、これらはモーグル計画のデバイスの正確な構成要素である!」

UFO墜落事件があったとされる1947年7月には、アラモゴードから上空に送られた気球隊列のいくつかが失われており、同時期、UFOの目撃情報は突出して多く、その報道も激増していたという。



では、「宇宙人の死体」は?

市民たちの話では、「8人の死体が2ヶ所の墜落現場から発見され、(UFOの残骸のあった)フォスター牧場からは1人が『生きたまま』回収されたというが…」



これには2つの事件が重なり合っていた。一つは、1956年に発生したKC97航空機の墜落事故の記憶。そしてもう一つは「ダミー人形」。それは「パラシュートの開発」のために使われた人形であった。

地上に落下したそのダミー人形の回収が、宇宙人の遺体の回収と錯覚されたのだろう、そう軍は結論づけた。

これらがアメリカ空軍により示されたロズウェル事件の真相、「ロズウェル・リポート」と題された報告である。










◎ヘスダーレンの怪光



こうしてロズウェル事件を彩っていた「尾ひれ羽ひれ」は、政府の手によってバッサリと切り捨てられた。

それでも、政府の報告を否定するUFO信奉者たちも依然として数多く、その夢はいまだに続いている。むしろ無下に否定されたことで、その熱が逆に沸騰した人々もいるくらいだ。

誰しも心のどこかでは、「UFOにいて欲しい」と願っているのかもしれない。



だが、空に輝く「不思議な光」のすべてがUFOというわけでもない。

たとえば、ノルウェーの山岳地帯で古くから知られていた「ヘスダーレンの怪光」というのは長らくの謎であり、それは鬼火ともUFOとも村人たちの間でささやかれていた。

「大きさはだいたい20〜40cm。ふわふわと生き物のように水平に動く。音もたてずに…。ときには1時間も2時間もうろつき回る。グルグルと上空を回ることもある」



ヘスダーレン渓谷に現れるというこの「怪しい光」は、1980年代より頻繁に目撃されるようになり、数千人の目撃者が存在するという。写真も大量に撮影されており、大きなニュースとして取り上げられることもあった。

「雪に触れても、雪を溶かさず、重さがないかのように複雑で素早い動き」

未知のエネルギーではないのか、と世界中の注目を集めている。







その「ヘスダーレンの怪光」を、科学者らは「プラズマ現象」ではないかと説明する。

たとえば、金属の筒の中で電磁波を発生させ、それを空気にあててみると「不思議な光」が発光する。それは「プラズマ発光」と呼ばれる現象で、電磁波が筒の中で反射して強まることで、空気中の分子が「イオンと電子」に分解されプラズマという状態になる。その時に光が放出される。

極北のオーロラ、入道雲に光る稲妻などが、自然現象としてのプラズマ発光であるという。



ヘスダーレンという山岳地帯は、むかし鉱山だった場所であり、その地下には「石英」という鉱物が眠っている。そして、その石英に圧力がかかることで「電磁波」が発生する。

また、ヘスダーレンという渓谷は「霧」で覆われやすく、その内部に電磁波を閉じ込め反射させやすくする(まるで金属の筒の中のように)。すると空気中の分子は「プラズマ化」し、「光」を放出しやすくなる。

そのプラズマ発光が、「ヘスダーレンの怪光」の正体ではないか、と科学者らは言う。しかし、これまたロズウェル事件と同様、それを信じない人々も数多い。






◎科学とUFO



「科学者」と「UFO信奉者」

彼らは水と油のように、お互い相容れない領域に暮らしている。科学者が「既知」の世界に住むとすれば、UFO信奉者たちは「未知」の世界に居を構えている。

現代社会の風潮としては「科学者」のほうに分があるようだが、それでも人智で解明できない現象はこの地球上に数多い。科学的な調査によれば、UFO信奉者にも「2割」ほどの分があることになる。







たとえば、フランスにはUFOを専門に調査する政府機関が存在する。

それはCNES(フランス国立宇宙研究センター)の一組織である「ジェイパン(GEIPAN、未確認飛行物体研究所)」。

1954年に設立されて以来、この組織はOVNI(オヴニ、フランス語でUFO)を科学的に追いかけ続けている。



このジェイパン(GEIPAN)に寄せられたUFO情報は、なんと1,600件を超える。それを調査員たちは、現場に赴いて一つ一つ科学的に調べて回っているという。

フランス全土からもたらされるUFO情報には、確実に解明できるものもある(約10%)。

たとえば、結婚式のときに「灯籠のような小さな気球」を夜空に飛ばすことがフランスで流行っているというが、結婚式の多い土曜の夜には、それをUFOと見間違えた情報が数多く寄せられる。



だが、UFO情報のすべてが科学的に立証できるわけではない。

現在259件の事例が「正体不明」としか言いようがないと、ジェイパン(GEIPAN)によって結論付けられている。それは全体の「22%」を占める。

つまり、この22%の中には「本物のUFO」もいるかもしれない、ということだ。



同様の結果は、アメリカのUFO調査でも得られている。1950年代に目撃情報が相次いだことから、やはり政府が科学的な調査を行うようになっている。

航空機や気球、惑星や流れ星などの見間違いも多いが、ここでもやはり「正体不明」がおよそ2割(19.7%)を占めている。






◎宇宙人



「謎の2割」

それはUFOかもしれないし、科学が進めば解明されることかもしれない。

だが、現時点では完全に「グレーゾン」。科学者がUFOでも捕まえない限り、いつまでもグレーのまま。地球から空を見上げているばかりではラチがあかない。



ならば、その目を「宇宙」に向けてみよう。

そもそも、この広い宇宙に「宇宙人」はいるのだろうか?



「宇宙人はね、この宇宙にあふれてるんじゃないか、と思うわけです」

そう話すのは、日本の宇宙物理学の大御所「佐藤勝彦」さん(自然科学研究機構)。

物理学の世界では、ノーベル物理学賞をとった「エンリコ・フェルミ」が「宇宙人ははたして、地球に来ているのだろうか」と大真面目に問いを投げかけて以来、60年以上さかんに議論されてきたという。



近年、太陽系の外には「ものすごい数の惑星」が見つかってきている。

少なくとも3,000個は存在し、そのうちの50個くらいには「水」があるのではないかと考えられている(宇宙における水の存在は、知的生命体の可能性を飛躍的に高めるものである)。



たとえば、「グリーゼ581」という星がある。それは天秤座の近くにある。そしてその周りを回る惑星に「第2の地球があるのではないか」と考えられている。

生命体が存在する条件として、「水が液体のまま存在できるかどうか」というものがある。まさに地球がそうであるが、少しでも太陽に近いとその水はすべて蒸発してしまう。また、太陽から遠すぎると水は凍りついてしまう。



「液体の水」が存在するゾーンを「ハビタブル・ゾーン(生命が居住可能な領域)」というが、そのストライク・ゾーンは極めて狭い。地球の一つ内側の軌道を周る金星はアウトだし、一つ外側の火星でもアウト。

「グリーゼ581」という恒星(太陽に相当)の周りには、金星や地球のように、いくつかの惑星が周っているわけだが、そのうちの「グリーゼ581g」か「グリーゼ581d」が、ハビタブル・ゾーンに入っていると考えられている。恒星からの距離から考えて、水を液体のまま保持できるのではないか、と。







もちろん、「水」のみが生命の絶対条件ではないかもしれない。ただ我々の絶対条件であるだけで。

たとえば木星の近くにある「タイタン」という星には、生命の存在の可能性がたかい。だがそこに水はない。あるのは「メタンの海」。水がなくともメタンに住める「単細胞生物」は確認されている。

だが、それはあくまでも単細胞生物。そこから知的生命体と呼ばれるような複雑な形態をとっていくためには「多様性を許す環境」が必要と考えられる。この点、「水という環境」は生命進化の多様性を促すのに好ましいものである。






◎宇宙旅行と相対性理論



「グリーゼ581g(もしくはd)」にいるかもしれない知的生命体、すなわち宇宙人。

もしいるのなら、電波でも発しているかもしれない。そう考えて、その方向に向けて科学者らは「聞き耳」を立てたこともある。アンテナをグリーゼ581へ向けたのだ(残念ながら期待した信号は拾えなかったらしい)。



では、もし彼らが宇宙船に乗って地球に行こうと思い立ったとしたら、その宇宙の旅はどれくらいの時間がかかるのだろう?

地球からの距離は、およそ20光年。つまり光の速さで20年かかることになる。帰りの旅程まで考えたら、往復で40年。



だが幸いなことに、アインシュタインの相対性理論によれば、光速のUFOに搭乗している人たちの時間間隔は20年よりもずっと短い。

たとえば、光の99.98%の速さで飛ぶUFOだとしたら、乗っている人の時間は「5ヶ月くらい」しかかからない。往復で一年足らず。相対性理論によれば、光速近くで動けば時間はグッと遅く進むようになるのである。



だが、グリーゼ581の母星で待っている人たちの時間は遅くならない。UFOが20光年の旅を往復している間、ちゃんと40年が経過する。

すなわち、UFOの乗組員が地球旅行から故郷に帰った時、周りのみんなはオジイちゃん・オバアちゃんになっている。まるで浦島太郎のなるわけだ。相対性理論には、そんな「時の玉手箱」が隠されているのである。










◎放射線



だが、UFOによる宇宙旅行にはもっと大きな問題がある。それは「放射線」である。

「光の速さで宇宙を飛ぶっていうことは、ほんとはものすごく危険なことなんです」と物理学者の佐藤勝彦さんは言う。

「なぜかというと、宇宙空間にはいろんなガスがあります。たとえば水素ガス。それに向かってほとんど光の速さでぶつかると、水素原子とかそういうものが『放射線』になってしまうんです」







もし、グリーゼの宇宙人がわれわれ人類と同等のDNAを持っているとしたら、それは宇宙旅行で食らう放射線によって、たちどころに破壊されてしまう。すなわち、光速で飛ぶUFOの中でコロッと死んでしまう。

たとえ光速で飛ばなくとも、宇宙には放射線があふれている。

NASAの無人火星探査機「マーズ・サイエンス・ラボラトリー」が火星までの旅で累積される放射線を実際に測定したところ、その道中のだけで「人間の生涯被曝の上限」に達する可能性が示唆されている。

ちなみにNASAの試算によると、火星への往路飛行にかかる日数は180日前後である。



いずれにせよ、宇宙の旅はなんとかして「放射線」の問題をクリアーしなければ成し遂げられない。

グリーゼ581から来る知的生命体は、どうやってその問題を克服するのであろうか。もしかしたら、全部機械のロボットを送ってくるのか?

それじゃ、まるでターミネーターだ。










◎ワームホール



「ワームホールというものを使えば、すぐに行けるんじゃないかという話もあります」と、物理学者の佐藤勝彦さんは言う。

それはいわばドラえもんの「どこでもドア」のようなもので、その空間を通り抜ければ、時空を超えることができるという便利なものである。



ワームホールの宇宙構造は、ブラックホールとブラックホールをくっつけてトンネルのようにしたものであり、それは相対性理論の論理では可能なことである。

だが、それは理論の中だけの話であり、人類はまだ実際には宇宙に見つけていない。それでも、ブラックホールのいくつかは発見している。



しかし、ワームホールとブラックホールは表面的には同じように見えるため、はたしてそのブラックホールが向こう側へ抜けられるかどうかは判別ができない。

すなわち「入ってみないと分からない」

だが、そのブラックホールにもし出口がなかったら…。

じゃあ、やっぱりロボットに行ってもらうか?










◎未知の道



UFOおよび宇宙人への空想は、すぐにファンタジーかSFの世界へと飛んでいってしまう。

たとえ相対性理論や宇宙物理学が「論理の階段」を積み上げていっても、それがどこにつながっているのかは分からない。



だが、UFOという未知の存在が仮定されるだけでも、そこには道ができ、宇宙への意欲を掻き立ててくれる。

「UFOを完全に否定することは、ほんとはできないことですよね」と物理学者の佐藤勝彦さんは言う。

「可能性が残っているUFOをこれだけ考えることによって、宇宙における生命のことも考えるわけですし、光速とかも考えるわけです。UFOはそういうことにつながる良いテーマじゃないかと思いますね」



UFOの示す道しるべが、いったいどこにつながっているかは誰も分からない。

だからこそ、誰もがそこに惹きつけられていくのかもしれない。



「いま、パッと動いたぞ!」

「来て! 来て! 見てよ!」

「見ろ! 光の輪だ!」



今も地球上のどこかで、UFOに興奮している人がいるのだろう。













(了)






関連記事:

流れ星のくれた生命。彗星のもたらした奇跡

惑星を巡る壮大なツアーを成し遂げたボイジャー。その旅はまだまだ終わっていない…。

「ブラックホールを見てみたい!」、その欲望が開いた宇宙への新たな扉。



出典:NHKサイエンスZERO
「UFO! 科学的に”あり”? ”ナシ”?」

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2013年04月16日

未来のロケットは、より小さく、より安く。目指せ、サンダーバード!


ほとんどマンガの世界だ。

パソコン一つでロケットを打ち上げるなんて…。



そのロケットの管制室には、電機屋で売っているようなパソコンが2台ポツンと置かれてあるだけ。それを動かすのも2人だけ(管制室といえば、100人以上が熱気ムンムンに巨大スクリーンを見つめるものではなかったか…?)。

「これを我々は『モバイル管制』と呼んでいるんです」

JAXA(宇宙航空研究開発機構)の森田泰弘(もりた・やすひろ)教授は、そう微笑む。

「私のこのパソコンからでも、ロケットの管制をやろうと思えば出来るんですよ。原理的には世界中のどこからでも」





◎サンダーバード



「僕が小さい頃は、サンダーバードみたいなロケットがあって、ボタン一つで飛んで行くっていうのが普通だったんですね」と森田教授。

「そもそも、ロケットっていうのは『ボタン一つで飛んで行くべきもの』だったんです」







ところが現実のロケットはといえば、ボタン一つどころか、気の遠くなるような手間と人手が要求される。

たとえば、日本が誇るH2Aロケット。その全長は53m(ガンダムの約3倍)、重さ290トン(ガンダムの6倍以上)。その巨体を飛ばすためのエンジンは318万馬力(鉄腕アトムの3倍強)。

H2Aロケットの打ち上げには、100人以上の熟練技術者たちが管制室で息を飲む。



たとえ発射がつつがなく成功したとしても、人工衛星が切り離されるまでは、片時も気を緩めることは許されない。

ロケットが地球を蹴った後、燃料タンクである左右のブースターが切り離される。そのためには、火薬を爆発させてボルトを吹き飛ばすという少々手荒な方法が採用されている(電気制御よりも確実性が高いとのこと)。

ロケット専用であるその部品一つにしても、正しく動作してくれるかどうか最後の最後まで心配なのである。



「それをようやく、『イプシロン・ロケット』で、ボタン一つとまでは言わないですけれども、それに近いような形で打ち上げられるようになったんです」と森田教授は話す。

H2Aロケットが、打ち上げの準備に50日、100人以上の人手を要求するのに対して、新型ロケット「イプシロン」は、発射台に立ててからわずか6日で宇宙に旅立つことができるのだという。

「翌日の片付けを入れても、一週間でロケットが打てます。サンダーバードは週に一回やってましたから(笑)」と、森田教授は笑う。










◎イプシロン・ロケット



週一の発射を目指すイプシロン・ロケットとは?

「より安く、より小さく」を目標に、日本が12年ぶりに新開発するロケット。



イプシロンの目標とする打ち上げ費用は30億円。これは従来比3分の1の価格破壊である(1号機53億円 → 4号機以降38億円 → 最終的に30億円)。ロケットの製作期間は、従来の3年から1年以内に短縮されている。

全長は24m(H2Aの半分以下)、重さ91トン(H2Aの3分の1)。その小さなガタイのお陰で、組み立てた状態のまま射場に運搬できる(H2Aは射場に運んでから組み立てていた)。





「ロケットの発射っていうのは、テスト無しのブッつけ本番なんですよ」

巨大すぎて作ってから運ぶことのできないH2Aロケットは、いったんバラバラに分解してから発射台で再度組み上げる。

「たとえば、エンジンのバルブ。これはロケットでいうとまさに心臓部で、これの点検っていうのは、物凄く大変なんですよ。熟練のエンジニアが集まって、アアでもないコウでもないと、だいたい50日くらい、ざっと100人くらいでやっている」と森田教授(JAXA)。



100万点にも及ぶというロケットの全部品。その半分の50万点は、その心臓部たるエンジンに集中している。その点検精度はミリ単位でも大きいくらい。部品同士をつなぐ溶接面の微かな凹凸からでも、大爆発は誘発されてしまう(スペースシャトル・チャレンジャー号は、寒さによってわずかに縮んだゴム部品から、発射直後に空中分解してしまった…)。

名うての熟練技術者たち100人以上が、神経をすり減らしながら50日もかけて精密緻密にロケットの発射準備を整えていく。



「ロケットというと『ハイテクの集大成』みたいな感じがすると思うんですが、じつは『超アナログの世界』なんです」と森田教授は言う。

たとえば、エンジンのバルブ一つとっても、理想通りには動いてくれない。

「バルブっていうのは機械部品なので、急には動けない。出だしの部分でちょっと遅れて、オーバーシュートといって必ずちょっと行き過ぎてしまう」



その計算できないほどの精妙なズレが、バルブごとにちょっとずつ異なる。同じバルブでも測る条件が違えば、また微妙にズレてくる。熟練エンジニアたちは、そうした「パーツの個性」を肌で感じながら、慎重に調整しつつ組み上げていかなければならないのだ。

その無数の点検を120%完璧にするためには当然、人員も時間も膨大に必要とされる。なにしろ、ロケット発射はブッつけ本番なのだから…!



一方、新型ロケット・イプシロンは、ずっとデジタルである。

たった一つの、手の平サイズの小箱が、熟練技術者100人分の仕事をこなしてくれるのだという。

その小箱は、人工知能「ROSE」と呼ばれるもの。この小箱の頭脳は、無数にあるパーツの個性を予め見破っている。だから発射前の点検に6日しか要しない。大幅な期間・人員の削減を可能にしたのである(50日→6日、100人→2人)。










◎未来のロケットのお手本



「これからの50年っていうのは、ロケットを簡単に点検できる仕組み、これを作ることが大事なんです」と森田教授。

日本のJAXA(宇宙航空研究開発機構)が開発する次世代ロケット・イプシロンは、人工知能を積んだ世界で初めてのロケット。



「イプシロンは、ロケットを打ち上げる『シンプル性』で世界一を今目指そうとしているんです」

最短わずか一週間の打ち上げ準備。ノートパソコンをネットワークにつなげば、エンターキーをポチッとするだけで、イプシロンは宇宙に飛び立つ。世界で最もコンパクト、かつ射場に依存しない究極のモバイル管制。



「もちろん世界で初めての試みであり、未来のロケットのお手本になるものです。すでに試作モデルは完成し、その現実もすぐそこまで来ているのです」

打ち上げ予定は今年(2013年)8月。

「ロケットの打ち上げをもっと手軽なものにし、宇宙への敷居を下げよう…。それがイプシロン・ロケットの最大の目的なのです(JAXA)」



「僕の夢としては、『今週のイプシロン』みたいな形で、毎週いろんな衛星を打ち上げていきたいな、っていうのがあるんです」

森田教授(JAXA)はあくまで、週一やっていたサンダーバードの夢を諦めてはいない。さすがに現在の予定では1年に1回の打ち上げではあるが、いつの日にか本当にサンダーバードと張り合える日が来るのかもしれない。



イプシロン・ロケットは小さいとはいえ、「あかつき」程度の人工衛星ならば宇宙に運べる可能性を秘めている。探査機の小型化も進めば、月惑星ミッションに挑戦することも十分に可能である。

そして何より、小型・効率化によりロケット開発は加速する。開発製造の期間が短くなることにより、人も育ちやすくなる。

そして、イプシロンによる実験的試みは、より大型のH2Aロケットへの応用への下地となる。ある意味、イプシロンは「革新的技術の練習台」としても位置づけられているのである(モバイル管制など)。






◎レジ袋で飛ぶロケット



イプシロン・ロケットは一発38億円。

従来のロケットよりは格安とはいえ、まだまだ高い。



北海道(赤平市)の町工場、植松電機の植松努(うえまつ・つとむ)さんの作るロケットは、なんと一発1,000万円。ワゴン車に載せて運べるほど小型・軽量である。

「やっぱり小さい頃からの憧れですね」

そう言う植松さんは、自ら屋上に天文台をしつらえ、なんと世界に3ヶ所しかないという無重力の実験棟までこさえてしまったほど、宇宙熱が半端ない。



本業は磁石の製造とのことであるが、その傍らには無造作にロケットの胴体が置かれている。インターネットで買った炭素樹脂を加工したものだという。

ロケットの燃料も変わっている。プラスチックの塊だ。ポリエチレン、レジ袋の原料である。

「これ(ポリエチレン)、きっと今のガソリンより安いですよ。リッター100何円の世界ですから(笑)」

なんと、レジ袋削減で余ったポリエチレンで、ロケットが飛ぶ時代なのか?










◎カムイ(CAMUI)ロケット



ロケットの燃料といえば、液体燃料が一般的(液体ロケット)。液体酸素と液体水素という2種類の燃料を混ぜて燃焼させ、あの爆発的な推進力を生むのである。

日本の大型ロケット・H2Aもそうであり、重量290トンのうちの実に200トンまでが、この液体燃料で占められている。そして、巨大な燃料タンクは使い切ったところから切り離していかなくてはならない。なるべく軽い状態で飛びたいからである。



ところが、レジ袋たるポリエチレンは、一触即発の液体燃料のような危険物ではない。

「安全管理のための機能がかなり簡素化できるんです」

そう語るのは、植松さんと共同でロケット開発する北海道大学の永田晴紀教授。開発中のロケットはカムイ(CAMUI)という名だ。



プラスチック燃料の難点は、その燃えにくさ。いっぺんにドーンと燃やすのはなかなか難しい。

そのため、その着火には液体酸素を吹き付けなければならない。カムイ・ロケットのように、液体と固体、両方の燃料を用いるタイプを「ハイブリッド・ロケット」と呼ぶそうだ。

※ちなみに、JAXAの次世代ロケット・イプシロンも基本的には固体ロケット。精度を要求される時にのみ、液体燃料を用いる。






◎キューブサット



「理科の実験くらいに安全にロケットの打ち上げができます」

はたして、そんな簡易なロケット、カムイは宇宙で活躍できるというのだろうか?



じつは小型化が進んでいるのはロケットばかりでなく、人工衛星しかり。キューブサットという人工衛星は片手の平に乗るほどの小ささながらも、必要な機能はすべて入っている。

大きさわずか10cmの人工衛星・キューブサット。それを宇宙まで運ぶに、カムイ・ロケットは十分すぎるほどだという。







小さな巨人、キューブサットの秘める可能性は果てしなく大きい。

気象観測用にたくさん打ち上げれば、超ピンポイントの天気予報も可能になる。さらには農作物の成長を見守る衛星から、トラクターを自動操縦させる衛星。魚群を的確に探知する衛星まで存在する。

アイディアは無限大。自由な発想が、まったく新しい世界を切り拓く。



ところがこれまで、キューブサットを打ち上げるためのロケットは存在しなかった。仕方がなく、大型ロケットのちょっと空いたスペースに間借りして、「おまけ」として打ち上げられていたに過ぎない。

だから、自分の行きたい時に飛べない。行きたい軌道にもいけない。これはコバンザメの悲劇である。



そのニッチ(すき間)に登場するのが、超小型のカムイ・ロケット。

「大きなロケットと大きな衛星も必要なんですけど、これからは小さなロケットと小さな衛星のコンビネーションが可能性をものすごく広げていくと思うんです」と森田教授(JAXA)は将来を語る。

今や宇宙は「使ってなんぼ」の世界に突入しつつあるのだという。



「これじつは、日本が最も得意とする分野(小型・高性能・低コスト)なんです。これからはロケットの分野でも日本がそういう力を発揮して、世界をリードしていきたいと思っています」

子ども時分にサンダーバードに憧れた森田少年は今、世界に大きな革命を起こそうとしている。

そして小さな町工場からもまた、小さなロケットが大きな未来を切り拓こうとしている。



宇宙という広大無辺の世界は、いよいよ切り取り次第となっていくのだろうか?

かつてのマンガの世界が、遠い宇宙をじょじょに手元に引き寄せつつある。

「今週のイプシロン」を毎週楽しみにする日も、きっと来るのだろう…!







(了)






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出典:サイエンスZERO
「次世代国産ロケット 世界に挑む」

posted by 四代目 at 07:20| Comment(0) | 宇宙 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月11日

生き残れ! 天に尾をひく大彗星。


「なかなか『ほうき星(彗星)』っていうのは、当たりハズレが大きいんですよ…」

そう言うのは、アマチュア天文家の「中野主一(なかの・しゅいち)」さん。彼にとって、今回現れた「パンスターズ彗星」は少々期待ハズレだったようである。



「去年の夏頃の観測では、こんなに明るいところがあるんですよ」

中野さんが指差すのは、パンスターズ彗星が「どこまで明るくなるか」を予想したグラフ。じつは中野さん、1994年にシューメーカー・レヴィ第9彗星が木星に衝突したとき、その軌道計算に世界で最初に成功したほどの人物である。



もし、去年8月の時点の明るさ(約10等級)のまま、パンスターズ彗星が太陽に近づいていけば、肉眼で見えるほど明るくなるだろうと予想されていた(最大マイナス1等級)。

その年の秋までは、予想を上回る速いペースで増光したパンスターズ彗星。否が応にも期待は高められていた。まさに「大彗星」の予感であった。



◎最後の踏ん張り


ところが、今年に入って増光ペースに翳(かげ)りが見られ始めたパンスターズ彗星。「最大でも3等級止まりか…」との悲嘆の声が広がっていった(1月半ば)。

過去において、いくつもの彗星が「大彗星」になると大型ルーキー並みに期待されながら、期待ハズレに終わっていっているのも、また事実…。



それでも、パンスターズ彗星は最後の最後で「ひと踏ん張り」してくれた。

日本で初めて検出されたのが3月8日。地球に最接近したのは、その2日後の3月10日(近日点)。日本各地からは「見えた!」との嬉しい報告が相次いだ。

日の出前と日の入り後、薄明の空に一日2回、きわめて低い空に姿を現したパンスターズ彗星。よく晴れた日も多かったおかげで、多くの人の目を楽しませ、多くのカメラに収まった。







パンスターズ彗星の明るさは、人によってだいぶ印象が違っていた。「0等級の大彗星!」と感嘆する人もいれば、「2等級にしか見えない…」と肩を落とす人もいた。

低空で見られる星は、どうしても大気の影響を強く受けてしまうため、上空にある星よりも暗く見えてしまうのだった。

「平均すると、パンスターズ彗星の最大光度は1等級だったようだ(AstroArts)」



すでに太陽から遠ざかり始めているパンスターズ彗星。ゆっくりと暗くなっていきながらも、大型連休の頃までは、辛うじて肉眼でも確認できるそうである(6〜7等級)。

ちなみに、離心率が1を超えているパンスターズ彗星は、今回の接近を最後に、もう二度と回帰して来ないと考えられている。つまりパンスターズ彗星は、ハレー彗星のように周回するタイプではなく、「一回限りの彗星」だったのだ。



◎当たりハズレ


「予想ハズレも結構あるから、叱られたりしますよ(笑)」

中野さんほどに軌道計算の実力がある人でも、彗星の当たりハズレは博打のようなものだという。要するに、来てみなければ分からない、ということが多分にあるのだ。



たとえば今回、パンスターズ彗星が世の天文家たちの心を大きく膨らませたのは、それが早い段階から「明るいフリ」をしていたからだった。

一酸化炭素や二酸化炭素を持っていたパンスターズ彗星は、遠くにある時にそれらが低音で蒸発、噴出しており、より明るく見えたのであった。

「いわば、明るいフリをするんですね。そのフリに騙されてしまうんです。ですから、どんな素顔を持っているかは、太陽に近づいてからの楽しみなんです」と、渡部潤一(国立天文台副台長)さんは言う。



数ある彗星の中には、期待ハズレもあれば、ダークホースも潜んでいる。たとえば2007年のマックノート彗星。その尾はまるで「九尾のキツネ」のように夜空に何本も広がった。

「これは彗星としてはそんなに明るくなると思っていませんでしたので、こんな尾を見せるとは予想してなかったんですが…。大彗星になった例です」と渡部さんは言う。



またホームズ彗星(2007)も、嬉しい誤算だった。

「これ、じつはですね、もともと17等星というすごい暗い彗星だったんですよ。ところが一晩のうちに2等星まで明るくなったんです!」

なんと15等級もの大出世。一足飛びに100万倍も明るくなった。たった一晩で!

「尾っぽがないような彗星なんですけど、肉眼で見ても雲が浮いているように見えましたね」と渡部さん。



一方の外れクジは、オースチン彗星(1990)。

「これはね、マイナス等級になるって言われていたのに4等級。まあ、100分の1の明るさにしかならなかったんです」

じつは、このオースチンさんが見つける彗星には期待ハズレの彗星が多い。

「われわれの中では『オースカちん』って呼んでいるんですよ(笑)」



◎大本命


彗星が明るく見えるのは、太陽の熱によってその表面が溶かされ、内部に閉じ込められていたガスが宇宙空間へと放出されるからであり、それらのチリやガスが太陽光を受けて明るく輝くからである。

「彗星が溶ける?」

じつは彗星、その8割は氷。つまりほぼ「氷の塊」なのである。ゆえに彗星は「汚れた雪ダルマ」とも形容されるのである。



彗星の美しい尾は、その身を溶かして、たなびかせる。

いわば、己の身を削って、その美を演出しているのであった。



ということは、彗星が太陽の近くを通るほどに、その輝きを増すということである。

今回のパンスターズ彗星は、太陽との距離がおよそ4,500万km。それに対して、今年12月に来ると言われている「アイソン(ISON)彗星」はなんと、約180万km(0.012AU)にまで急接近するという。

「アイソン彗星は、まさにケタ違い。太陽スレスレ」



おまけに、地球にも大接近(約0.3AU)。かなり大きく見えるはずであり、ほぼ確実に「大彗星」への道まっしぐら。

「2013年11月からは肉眼で見える明るさとなり、近日点通過後の11月28日には視等級がマイナスになり、『満月の明るさを超える大彗星』になる可能性がある」

現在予想されているアイソン彗星の明るさは「マイナス13等級」。ちなみに満月が最大の明るさでマイナス12.7等級であるから、このレベルになると、明るい昼空にも輝くことができるほどである。



◎崩壊?


アイソン彗星の明るさは驚異的である。

この彗星に関する懸念はむしろ、その明るさよりも「太陽との近すぎる距離」にある。

「たとえばね、リニア彗星(2000年)っていうのが、観測している間にバラバラに分裂して、無数のちっちゃな彗星になって、何日かしたら全部消えちゃったっていう例があるんです」と、渡辺さん(国立天文台副台長)は言う。



熱に弱い雪ダルマ。あまりに近くで炙られると、彗星は崩壊してしまう恐れがある。だが、3つ4つぐらいに分裂してくれた方が、その輝きは増すのだという。

「あぶられる表面積が大きくなると、ガスもたくさん出てきますので、分裂したほうが派手に明るくなるんですよ」と渡辺さん。



さらに、分裂によって研究のチャンスも広がるという。

「彗星っていうのは、46億年前の物質を氷漬けにして閉じ込めた化石みたいなものなんです。われわれ研究者はほんとは中を割って、中に何が含まれているかを見てみたいんです」と渡辺さんは言う。

彗星が尾をつくっている段階では、太陽光を反射しているだけなので、その砂粒の成分までは分からない。ところが、太陽にものすごく近づくと、その砂粒が溶け出して、その中にどんな金属が含まれているかまでが解明できるのだという。



無情な言い方をすれば、アイソン彗星は崩壊してくれたほうが、ありがたい。その輝きも増せば、宇宙研究も大きく飛躍する。

さらに無慈悲になれば、アイソン彗星というのは、パンスターズ彗星と同様「一回きりの彗星」。というのも、その故郷が太陽系から遠く遠く離れた「オールトの雲」というところにあるため、弱まった太陽の引力では周回軌道をつくることができないからだ。

ならば、死に花を咲かせるもよし…。それでも、彗星崩壊というのは、人情的には悲しい出来事である…。



◎池谷・関彗星


じつは50年ほど前、アイソン彗星と「よく似た彗星」があった。

それは1965年、太陽に大接近した「池谷・関彗星」。

この彗星、大変なドラマを演じてくれた。



この彗星の発見者の一人「関勉(せき・つとむ)」さん。発見したのは大接近の1ヶ月前。夜明けの4時過ぎ、山の上に突然、その彗星は現れた(1965年9月18日)。

「思い出しますねぇ。あの山の上ですよ」

そう言いながら、関さんは遠くの山に視線を送る。コメットハンター(彗星捜索家)だった若き日の関さん、手作りの望遠鏡(口径8.8cm倍率19倍)を肩に担ぎながら、彗星を追いかける日々を送っていた。この彗星は、自身3つ目の発見であった。



高知市にいた関さんの発見に先立つこと15分、浜松市では池谷薫さんもまた、台風の通過中に同じ彗星を発見していた。

両者からの発見電報を受けた東京天文台(現・国立天文台)は、国内での確認作業なしにアメリカにある天文電報中央局に報告(確認はその後オーストラリアで行われる)。正式に「池谷・関彗星(1965f)」の名前が確定した。

「この小さな彗星が、この後に『世紀の大彗星』に成長したことから、2人は世界的に有名になることになる」







◎世紀の大彗星


「近づく、今世紀最大の彗星」

関さんの小さな観測所には、すぐさま多くのマスコミが詰めかけ、新聞には景気のいい見出しが踊った。

軌道計算の結果、太陽にもっとも接近するのは10月21日。太陽表面からはわずか45万km(太陽直径の約1/3)という大接近だった。



「極端に近すぎる…」

太陽に近づき過ぎて、彗星が消えてなくなるのではないか?

関さんはそんな不安を胸に、固唾を飲んで運命の日を迎えていた。



「10月21日の朝だったですか。非常によく晴れていましてね。太陽にだんだんだんだん接近していく様子が、青空をバックにして肉眼でも見られたんです」と関さんは鮮明な記憶を語る。

日本時間の正午ごろ、彗星はマイナス17等級という明るさに達し、約60分間、満月よりも明るく青空に輝いていた。「真昼の太陽のすぐ近くでもハッキリと見え、その尾が太陽の周りに巻き付いているように見えた」という報告もある。

この大彗星は、過去数千年で最も明るくなった部類に入るものだった。



◎1,000年後に…!


午後一時、やがて彗星は太陽に飲み込まれるかのように、その陰に隠れて見えなくなった。

「太陽のモノ凄い高熱によって、氷たる彗星は蒸発したんじゃないか?」

そういった情報がハワイなどから入った。気の早いニュースは「池谷・関彗星はバラバラに砕けた」と報じていた。



それでも、関さんはそんな情報を信じたくなかった。

何としてでも、自分の眼でそれを確認するまでは信じられなかった。



翌朝、夜明け前。寝てもいられぬ関さんは、手作りの望遠鏡を担いで、すでに近くの山上にあった。

「どうなったんだろう? ふたたび現れるのか? それとも消えてしまったのか…?」

複雑な想いに苛まれながら、関さんは夜明けを恐れるように待っていた。



午前6時、関さんは信じられない情景を目撃する。

「太陽が昇る寸前にですね。彗星という姿ではなかったですね」

関さんの目に飛び込んできたのは、まぎれもない池谷・関彗星。その核は3つに分かれながらも、芯のある青白い光を放っていた。



思わず、バンザイ三唱!

「健在であった…! 元気であった…!!」



夜が明けても、その彗星がだんだんと離れていく様子がうかがえた。

この彗星がまた帰ってくるのは約1,000年後。



「さよならー! アデュー! また1,000年後に会おうゼ!」

関さんは両腕を大きく振って、去りゆく彗星に別れを告げた…。



◎伝説の彗星


「われわれ彗星の研究者にとっても、これは『伝説の彗星』なんです」

当時の感動を知る渡部さん(国立天文台副台長)は、そう語る。

「太陽のすぐそばを通過したマイナス等級の彗星。しかも生き残ったということで」



芸術的に美しい彗星。

そして、この彗星で初めて「溶けた金属」が見えたことでも衝撃的であり、その後の彗星の天文学を大きく押し進めた。



さて、今年12月に訪れるという久々の大彗星・アイソン(ISON)。

この星は、どんなドラマを見せてくれるのか?

研究者たちの想いも複雑だ。「なくならないでくれ」と願う一方、少しだけでもその中身を覗き見たい。



現在82歳となられた関勉さんも、夜空のアイソン彗星から目が離せない。

「まだ暗いけど、なんかその辺に彗星があるような感じだね」

望遠鏡を覗いた関さんは、木星の近くにあるアイソン彗星を確かに確認した。

「今はまだ、彗星のタマゴだね。タマゴから孵ったばかりだ」



はたして、その雛は「鳳凰」となるのだろうか?

火の鳥のごとき、美しい姿は見られるのだろうか…。







(了)



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出典:サイエンスZERO
「接近中! 巨大彗星」

posted by 四代目 at 06:07| Comment(0) | 宇宙 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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