DAS WAHRE IST GOTTÄHNLICH
真理は神のごとく(ゲーテ)
ブラックホールの底に眠るという「真理」。
光さえも出て来られないその奥底を、もし数式で書き表すことができれば、宇宙のすべてが読み解けるという。
この世の森羅万象を「純粋な思考」だけで解き明かそうとする物理学者たちの試みは、いよいよ宇宙誕生の謎に迫る。
137億年前、ビッグバンと呼ばれる大爆発で、この宇宙は「ある一点」からはじまったとされている。
これまで物理学者たちが作り上げた数式は、そのビッグバンから「10のマイナス43乗秒」以降をすでに解明している。
すなわち、人類に残された最後の謎は、宇宙誕生まさにその最初の瞬間だけなのである。
その宇宙が生まれたまさにその瞬間は「ブラックホールの底」に記されているという。
なぜなら、ブラックホールの底というのは「極限まで圧縮された超ミクロの一点」。それは宇宙が巻き戻され一点に集約したかのような場所である。
宇宙が産声を上げることになる「ある一点」、それは意外にも、この世の終焉とも思われるブラックホールの底と数式上は同じなのだという。
■一般相対性理論
「ほら、アインシュタインだよ」
ここロサンゼルス郊外のウィルソン山には、アインシュタインも訪れたという天文台がある。
この20世紀が生んだ物理学の巨人は、コンピューターもない時代に、遠い宇宙の動きを正確に表すことに成功している(もっとも、新しい数式を発見するにはコンピューターは使えないという。なぜなら、コンピューターは人間がすでに発見している数式を基にプログラムされているからだ)。
アインシュタインの編み出した「一般相対性理論」。
難解そうなこの式、じつは意外とシンプルに書き表わされているのだという。式の左側は「空間の歪み」、右側には「モノの重さやエネルギー」。すなわち、「重さやエネルギーがあると空間が歪む」ということを意味している。
「空間が歪む」とは、どういうことか?
たとえば、空中にピンと張ったシーツの上にボールを乗せれば、当然シーツはボールの重みで沈み込む。そうしてできた窪みが「歪み」である。
その歪んだシーツ(空間)にもう一つボールを乗せれば、それが前のボールより小さく軽ければ、最初にできた窪みに沿って動くだろう。そうした動きが、太陽など大きな星の重力に引き寄せられる小惑星の動きである。
アインシュタインの一般相対性理論によれば、星の重さによって周りの時空が歪み、その歪みに沿って他の星々が動いていることになる。
そして、その時空の歪みは「星が小さくて重いほど大きくなり、強い力が働く」。
この重力理論によって、宇宙誕生の謎は解き明かされると、当時は大きく期待されていた。
■盲点
だが、かの一般相対性理論にも思わぬ落とし穴があった。
それが「ブラックホールの底」だった。
それを鋭く指摘したのは、車椅子の天才ホーキング博士。
恐ろしく強い重力ですべてを呑み込んでしまうブラックホール。「その最も深い部分をアインシュタインは見逃した」とホーキング博士は言う。
アインシュタインの理論によれば、小さくて重いものほど空間を大きく歪める。では、「とてともなく重く小さな点」があったとしたら?
その空間は、その一点に向かって無限に沈み込んでいくはずだ。これが理論上のブラックホールである。
ブラックホールを表す数式の分母には、その奥底との距離を表す「r」がある。それは、ブラックホールが深ければ深いほど、その空間の歪みが大きくなっていくことを示す。
だが、もしブラックホールの底に着いてしまったら? その距離「r」はゼロになってしまう。
その時、数式の分母はゼロとなる。つまり「無限大(∞)」。それは数学上、計算不能を意味する。
それがアインシュタインの盲点だった。
宇宙誕生の謎を解き明かすと一身に期待された一般相対性理論も、ブラックホールの底にだけは辿り着くことができなかった。
ホーキング博士「ブラックホールの底では、一般相対性理論が通用しませんでした。その問題を解消しないと、宇宙の始まりはわからないのです」
■融合
冒頭に記したように、ブラックホールの底が見えなければ、宇宙のはじまりも知ることができない。
残念ながら、ホーキング博士の指摘により、一般相対性理論だけではブラックホールの底で発生する「無限大の謎」を解くことができないことが判った。
ならば、ということで、ロシアの天才「マトベイ・ブロンスタイン」は、一般相対性理論に「素粒子の数式」を組み合わせるというアイディアに挑んだ。
なぜ、広大な宇宙の謎を解こうというのに、超ミクロの世界である素粒子(物質の最小単位)の数式が必要なのか?
というのは、宇宙のはじまる最初の一点も、ブラックホールに吸い込まれる最後の一点も、ともに「極限まで圧縮されたミクロの点」。あのアインシュタインも見逃した盲点というのは、そうしたミクロの世界だったのである。
すなわち、もし一般相対性理論に極小世界の理論である「素粒子の数式」を組み込むことができれば、その理論は宇宙のすべてを隈なく表すことができるはずだ。ブロンスタインはそう考えた。
貧しい家に生まれながらも、独学で物理学を学んだというブロンスタイン。わずか19歳にして、一般相対性理論も素粒子の数式も完璧に理解していたという。
ブロンスタインがまずやったことは、空間を素粒子よりもはるかに小さい「超ミクロのサイズ」に区切って、そこに働く重力を計算することだった。
つまり、素粒子の数式に欠けていた重力理論を、アインシュタインの一般相対性理論で補おうとしたのである。
■無限大
すると意外な結果が現れた。
またもや分母にゼロが出てきてしまった。これでは元の木阿弥、計算不能を意味する「無限大(∞)」ではないか。
「正しい2つの数式を合わせたはずなのに、なぜ?」
ブロンスタインはさらに精度を高めて計算を押し進める。
しかし皮肉にも、計算の精度を高めるほどに無限大は増えていく。そして最終的には、無限大が「無限大個」発生してしまった。無限大の謎を解くどころか、掘れば掘るほど無限大が出てきてしまうのであった。
「もしそれが正しいとすれば、この空間もいつか崩壊してしまうかもしれない」
そんな恐怖にブロンスタインは苛まれた。じつは私たちの身の回りの空間というのは、ミクロの眼で見るとじつに不安定で、無限大を生み出すブラックホールのようなものが満ち溢れているのではないか、と。
ブロンスタインの頭の中が無限大でいっぱいになっていた、ちょうどその頃、彼の国(ソビエト連邦)では恐ろしい嵐が吹き荒れていた。スターリンの時代となり、100万ともいわれる知識人や一般人に対する大弾圧が巻き起こっていたのである。
今も存命中のブロンスタインの娘(エレーナ)は当時を語る。「6歳の時でした。私の誕生日に逮捕されたのです」。
父ブロンスタインは無限大の謎を抱えたまま秘密警察に逮捕され、その後すぐに銃殺された(1937年8月)。
「なぜ、スターリンはこんなことをしたのか?」
ブロンスタインの後輩であったゾーレフ・アルフェロフは、今も納得ができない。
「スターリンはブロンスタインの個人的な能力を恐れたのではないでしょうか。これは決して正当化することはできない悲劇です」
享年31歳。
若き大天才ブロンスタインは、非業の死を遂げた。
その死は半世紀以上、娘ら家族に知らされることはなかった。
サンクトペテルブルクの郊外の森にある2つの銃痕が刻まれた墓、そこに彼は眠る。
■輪ゴム
ブロンスタイン亡き後、無限大の謎は物理学界に居座り続けた。
そして、やけっぱちに「無限大の謎に挑むことは、人生を棒に振ることと同じだ」とまで言われた。
いずれ、ほとんどの物理学者たちはこの難問から目を背けた。
そんな沈鬱とした中に現れたのは、当時まったく無名だった若き研究者「ジョン・シュワルツ」。
彼はジョエル・シャークとともに1974年、論文『非ハドロン粒子の双対モデル』を発表し、無限大の謎を解く数式を見つけたと謳った。
シュワルツが元にしたのは「見捨てられた古い数式」。弦理論と呼ばれるアイディアだった。
シュワルツは語る。「当時の研究は『見捨てられた分野』でした。仕事はまったく評価されず、職を恵んでもらっているようなものでした。担当教授は私のことを『絶滅危惧種だ』と言っていたほどです(笑)」
その絶滅寸前だった弦理論というのは、物質の最小単位である素粒子を、点ではなく輪ゴムのような「ふるえる弦」だとしていた。その考えを進化させたシュワルツとシャークは、「超弦理論(超ヒモ理論)」として世に発表したのだった。
なぜ、素粒子を点ではなく輪ゴムのような形だと考えたのか?
それは、無限大を生んでしまう「分母のゼロ」を回避するためだった。分母がゼロになるのは、素粒子同士の距離がゼロになる時。すなわち、粒子同士の衝突の瞬間である。
ならば、もし粒子が点ではなく、輪ゴムのような形だったとしたら?
粒子同士がぶつかっても、その輪の大きさ以下には潰れない。そのおかげで、衝突しても粒子同士の距離がゼロにならず、無限大も出なかった。すなわち、世界は「ふるえる弦」の弾力によって崩壊を免れていたのであった。
こうして、無限大の謎は解かれた。ブロンスタインの非業の死から30年以上が経っていた。
■異次元
ところが発表当時、シュワルツらの超弦理論はまともに相手にされなかった。
というのは、その理論を成り立たせる条件が「10次元」という異次元の世界だったからである。
ご存知の通り、われわれの住む世界は「4次元」。縦・横・高さに時間が加わった世界である。それなのに、超弦理論の説く世界は10次元という奇妙奇天烈な世界だったのである。。
「残る6つの次元をどう考えればいいのか? それでは何の解決にもならない。私はこの超弦理論にまったく興味をなくしました」と、ゲラルド・トフーフト(1999年ノーベル物理学賞)は当時を振り返る。
「超弦理論は物理学とも呼べない。そんな研究をする奴は締め出してしまえ!」という声まで飛び交った。
シュワルツは物理学の権威たちからもからかわれていた。
「やぁ、シュワルツ。今日はいったい何次元にいたんだい(笑)」
超弦理論を提唱したシュワルツとシャーク本人らも、「なぜ10次元なのか?」わからなかった。だが、数式の計算上はどうしてもそうなるのであった。
「見えない異次元は、いったいどこにあるのか?」
超弦理論が認められない中、同僚シャークは重い糖尿病を患い、故郷フランスへと帰ってしまった。
そしてシャークは突然、34歳の短い生涯を閉じる。
「彼は、自分がやっていることは果たして正しい道なのか、途方に暮れているようでした…」、元妻のアンはそう語る。
異次元の研究に没頭していたシャークは、取り憑かれたように仏教の世界に傾倒し、瞑想にふけっていたという。
部屋には、糖尿病の治療薬を大量に注射した後が残されていた。
■496
シャークの遺志を一人で継ぐことになったシュワルツ。
ほかの物理学者たちが華々しい業績を上げるのを横目に、ひたすら超弦理論の示す異次元にこだわり続けていた。
最初の論文発表から10年、超弦理論に新たな才能が加わった。
マイケル・グリーン。ケンブリッジ大学(イギリス)でホーキング博士も務めたという、名誉あるルーカス教授職の継承者である。
グリーンはこう言った。「そもそも、この世が4次元でなければならないとする証明はない。数式が10次元と示しているのだから、自分たちの常識のほうが間違っているのかもしれない」
そして始まった超弦理論の検証。それは、超弦理論に「一般相対性理論」と「素粒子の数式」が含まれるかどうかの複雑な計算だった。
一見まったく無関係に見える2つの数式だったが、超弦理論の数式から次第にその姿が浮かび上がってくる。そして、数式に矛盾がないか最後の計算をしている時のこと、「496」という数字が次々と数式に現れてきた。
「その数字について議論しようとしたとき突然、雷鳴が轟きました」とグリーンは言う。
「神に違いない。答えに近づきすぎて、神の怒りに触れたのだ、と」
496。
それは完全数(Perfect Number)の一つで、古代ギリシャ時代、天地創造と関係があると崇められてきた数だった。
その神聖な数が一斉に現れたということは、超弦理論の数式の中で、広大な宇宙と微小なミクロ世界が美しく調和していることを意味していた。
その数字の出現とともに、超弦理論からは一般相対性理論と素粒子の数式が矛盾なく導き出されていた。
シュワルツは興奮した。「それは奇跡でした。はるかに高度な数式に偶然たどり着いていたのです!」
■隠れていた次元
「これは革命だ!」
シュワルツとグリーンの計算結果は、世界を驚愕させた。
「宇宙のすべてが分かる!」
The theory of everything(万物の理論)として、「天からの声」とも讃えられた超弦理論。
以後、世界中の物理学者たちは雪崩をうってその研究に取り組むことになる。
かつては「見捨てられた数式」だった弦理論、それが超弦理論という形に進化して一躍、物理学の最前線に踊り出たのであった。
ところで、なぜ異次元は認められたのか?
それには次元という概念を少し知っておく必要がある。
「次元というのは『動くことができる座標の数』を指します」と、ジョセフ・ポルチンスキーは説明する。
たとえば、縦・横・高さの3方向に動ければ、それは3次元。さらに時間も動けば4次元、われわれの世界となる。
「この綱渡りの女性にとって、綱は『一次元』です」とポルチンスキーは言う。
なぜなら、綱上の彼女は「前か後ろ」にしか動けない。つまり、線の世界(一次元)にいるのである。
「では、この綱の上をはうテントウムシを見て下さい。彼はずっと小さいので、一本のロープは線ではなく『面(二次元)』に見えるはずです」
確かに、小さなテントウムシは前か後ろだけではなく、右にも左にも動くことができる。すなわち、その視点をより小さいところに移していけば、「隠れていた次元」が見えてくるのである。
それは、超弦理論が示す10次元も同様であった。
小さな小さなミクロの世界、原子の一兆分の一の、そのまた一兆分の一の極小世界には「隠れた次元」があるのだという。
超ミクロであるがゆえに、普段われわれの目からはその次元を見ることができない。だが、それは確かに潜んでいるのだという。
「多くの物理学者は、宇宙には未知の異次元があると信じています」とポルチンスキーは言う。
■コインランドリー
さて、万事丸く収まったかに思えた超弦理論。
ここに再び、車椅子の天才ホーキング博士が水を差す。
それは「ホーキング・パラドックス」と呼ばれることになる、ブラックホールの奥底で発生する「謎の熱」であった。
ブラックホールの真奥という極限の一点においては、素粒子さえもまったく身動きがとれないはず。
ではなぜ、そこに熱が発生するのか?
それがホーキング博士の問いであった。
さらなる難問を突きつけられたシュワルツは、こう振り返る。
「ホーキング博士の指摘は極めて鋭く、私たちはその問題をなかなか解くことができませんでした。ホーキング・パラドックスを解けない限り、ホーキング博士は超弦理論を認めようとしませんでした」
かつて、アインシュタインの一般相対性理論に「無限大の謎」を突きつけたホーキング博士は、今度はシュワルツの超弦理論に「ブラックホールの熱の謎」を問いかけたのであった。
またもや、シュワルツは手詰まりとなった。
すると、新たな若き救世主が現れる。
ジョセフ・ポルチンスキー。綱渡りの女性とテントウムシを例に、異次元を説明してくれた人物である。
彼は、学会の合間に立ち寄ったコインランドリーでヒントを得た。
「洋服は細い糸がたくさん集まってできている。では、ミクロの世界でも粒子である弦は一つ一つではなく、まとまっているのではないか?」
そう考えた彼の数式から導かれたのは、膨大な数の弦が集まって「膜のように動いている現象」であった。
ホーキング・パラドックスを解くカギとなったのは、ブラックホールの奥底に潜んでいた「異次元」であった。
その異次元で、膜状に集まった弦は動き回り、熱を発生させていた。
ポルチンスキーは超弦理論に「膜の数式」を新たに加えることによって、ブラックホールの「謎の熱」を解明するのである。
■探求
2004年、ホーキング博士はついに認める。
ホーキング「私がかつて発見したブラックホールの謎の熱に関し、ずっと誤りがあったことを報告します」
ポルチンスキーはホーキングの問いに感謝する。
ポルチンスキー「もし、ホーキング・パラドックスが存在しなければ、私たちは前に進むキッカケをつかめなかったと思います。このパラドックスは、科学の歴史に残る偉大な思考実験でした」
ホーキング博士のくりだす問答を、次々と乗り越えていった物理学者たち。彼らはいよいよ宇宙誕生の姿に近づきつつある。
しかし、その切り札ともなった超弦理論の生みの親、シュワルツはすでに71歳。自分の命があるうちに、宇宙誕生の秘密にはたどり着けないかもしれないと思いはじめている。
「最終的な答えが分からないのは悲しいことです」とシュワルツ。
だが、こうも言う。
「でも、答えが分かってしまったら、それも悲しいでしょう(笑)。探求を続けることが、何よりも素晴らしいことなのです」
現在、最新の数式が描く宇宙は11次元。
しかも、10の500乗個という想像を超える数の宇宙が存在し得るという新たな難問も浮上してきているという。
「私たちは答えを探している。しかし、なぜ質問しているかも分からないのです(カムラン・バファ)」
たとえ人類がブラックホールの奥底を覗けたとしても、その先にはさらに広大無辺な世界が広がっているかもしれない。
アインシュタイン以来、知れば知るほど広がってきた宇宙。
知る由もない次元は、あとどれほどあるのだろうか…?
Das Wahre ist gottähnlich;
真理は神のごとく
es erscheint nicht unmittelbar, wir müssen es aus seinen Manifestationen erraten. (Goethe)
それは、直接的には現れない。我々は真実を神の顕現から推測するしかないのである。(ゲーテ)
(了)
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出典:NHKスペシャル
「神の数式 第2回 宇宙はなぜ生まれたのか」