2012年04月03日

「男体山(日光)」に残る神々の物語。


「日光(にっこう)」という信仰の地は、江戸時代に徳川家康が祀られたことにより一躍有名になった土地であるが、その信仰の歴史はそれよりもずっと古い。

「日光」という文字が文献に現れるのは「鎌倉時代」。言い伝えによれば、さらに時代が下る「空海」がこの文字を当てたのだという(空海は820年に日光を訪れたとされている)。



それ以前の記録(記紀六国史)では、「日光」という漢字ではなく、「二荒(にっこう)」という漢字が当てられている。

元々の「二荒」は「ふたら」と読まれ、それは「山の崩落部」を表す古語であったとともに、「二荒神」という神様を表すものでもあったのだという。

その二荒神を祀るという日光の「男体山(なんたいさん)」はかつて「二荒山(ふたらさん)」とも呼ばれた山である(その山頂には「二荒山神社」が鎮座している)。

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この男体山を信仰の山として開いたのは、奈良時代の僧である「勝道上人」。

当時、「物の怪(もののけ)でも近寄れぬ」と恐れられていた男体山は、その標高およそ2,500m。関東以北では最高峰である。

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その恐ろしい山に挑まんとした勝道上人。

「もし山頂に至らざれば、菩提に至らず(もし山頂に達することができなければ、悟りを開くことは叶わない)」と、その決意は極めて固いものであった。

そして、さらなる苦行を自らに課すため、勝道上人は登山がより一層困難になる残雪期を選んで前人未到の男体山に挑むこととした。



しかし、物の怪ですら恐れる男体山は、決して一筋縄では行かなかった。

嵐や悪天候に阻まれ、勝道上人は何度も撤退を余儀なくされる。

その宿願が果たされるのは、初挑戦から16年をも経てからのことであった。


聖なる衝動―小説・日光開山勝道上人


勝道上人の不屈の意志により男体山に開かれた「二荒山(ふたらさん)神社」は、以後この地の山岳信仰の中心となっていく。

そして、多くの高峰が連なる日光連山にあって、その信仰は男体山の周辺の山々へも広がりを見せていく。

隣りの「女峰山」は男体山の対の山とされ、その夫婦両山の子供たちとして「太郎山」「大真名子山」「小真名子山」と、家族は増えていった。

※かつては「二荒山(ふたらさん)」と呼ばれていた山が男体山と呼ばれるようになったのは、むしろ女峰山との対称で名付けられたものとのこと。


山の宗教 修験道案内


男体山が家族を増していったのは、その信仰の根底に流れていた「神話の世界」が物語を膨らませていったからなのかもしれない。

諸説あるものの、ある一説によれば「二荒神」とは「天照大御神(アマテラス)」と「須佐之男命(スサノオ)」のこととなる。

※この両神はアマテラスが姉で、スサノオが弟の兄弟である。



暴れん坊だったスサノオは、父親のイザナギから海を支配するように命じられたのに、母親のイザナミのところ(黄泉の国)に行きたいと駄々をこねる。

怒った父・イザナギは息子・スサノオを追放。困ったスサノオはとりあえず姉のアマテラスの元(高天原)へ向かうことにする。




スサノオが高天原に昇って行くと、国中の山川が響動して大地が大きく震動し始める。

何事かと慌てた姉・アマテラスは、てっきり暴れん坊の弟・スサノオが国を奪いに来たものと勘違いして、弓矢を構えて臨戦体制をとる。

「おのれスサノオ!高天原を乗っ取るつもりか!」



姉・アマテラスと弟・スサノオが対峙したのは「天の安河(天の川)」の両岸。

※「天の安河」はのちの「天の岩戸隠れ」の舞台ともなる場所。

スサノオは姉の誤解を解かんとして、自らの剣(十拳剣・とつかのつるぎ)を姉に差し出す。

その剣を受け取ったアマテラスは剣を3つに折って、三柱の女神(宗像三女神)を生み出す。

※「柱」は神々を数える時の単位。



今度はアマテラスが髪に巻いていた勾玉(八坂の勾玉)をスサノオに渡す。

スサノオはその玉を水(真名井)で清め、五柱の男神を生み出す。

※アマテラスの生んだ三女神とスサノオの生んだ五男神(合わせてハ柱)は、五男三女神として「八王子神社」などに祀られることになる。




以上が「天の安河」における「アマテラスとスサノオの誓約(うけひ)」の物語である。

「うけひ」というのは、あらかじめ約束した事柄がその通りに実現するかどうかを占うことであり、この時の「うけひ」は「子を産む」ということであった。

スサノオの持ち物(剣)から生まれたのは「か弱い女神たち」であったため、アマテラスはスサノオの「邪心のない清らかさ」を確信し、和解に至ることになるのである。



ところが、スサノオはその和解を勘違いする。

姉・アマテラスが折れたことで、「自分が勝った」と思い込んだのだ。

しかも、アマテラスから受け取った勾玉から自分が生んだのは「男神」であったため、スサノオは勝手に「男を生んだ方が勝ち」だと信じ込んだのである(最初の「うけひ」においては、男を生んだ方が勝ちとは決めていなかったのだが…)。



調子に乗ったスサノオはやりたい放題に高天原を荒らし回る。

激怒したアマテラスは、その後「天の岩戸」に籠ることになるのだが、それはまた別のお話。


そうだったのか! すっきりわかる日本の神話


日光にそびえる男体山とその家族たちは、こうした神々の神話を想起させる。

男体山の二荒山神社に祀られる「大国主」は、結局は高天原を追われたスサノオの6代目の子孫であり、妻・女峰山に祀られる「田霧姫(たぎりひめ)」は、三つに折られたスサノオの剣から生まれた三女神のうちの一人である。




そして、男体山と女峰山の子供とされる太郎山に祀られるのは、「味鋤高彦根(あじすきたかひこね)」。神話においても大国主と田霧姫の子供である。

※幼い頃のアジスキタカヒコネはその泣き声がとても大きく、それをあやすのに日本全土の島々(八十島)を巡ったり、天と地に梯子をかけて何度も昇り降りしたりと大変だったそうだ。




静かなる山々に、古代の人々はなんと躍動的な姿を見たことか。

荒々しい神々ですら、どこか微笑ましい人間味に満ちている。



男体山を開いた勝道上人は、地元である栃木県(下野国)の住人であったというが、男体山に祀ったのは遠き出雲(島根)の神「大国主」。

なぜ、地元・下野国の祖とされる「豊城命(とよきのみこと)」ではなかったのか?

この不自然さは今なお謎とされている。



「豊城命(とよきのみこと)」は第10代・崇神天皇の第一皇子であり、皇位継承の権利を有していた。

しかし、夢占いによって東国を治めるために派遣され、次期天皇となったのは第三皇子の弟「活目命(いくめのみこと)」であった。



兄・豊城命の見た夢は「東に向かって槍や刀を振り回す夢」であり、弟・活目命の見た夢は「四方に縄を張ってスズメを追い払う夢」である。

その夢のお告げに従い、東国に派遣された豊城命は、のちに上野(群馬)・下野(栃木)の始祖となっていったとのことである。



一方、天皇となった弟・活目命は「垂仁天皇(第11代天皇)」となり、諸国に多くの池を作って、夢のお告げ通りに国の農業を盛んにしたそうである(殉死を禁じて、その代わりに埴輪を埋葬させるなど、心優しき天皇でもあったようだ)。

強き兄・豊城命、そして優しき弟・活目命。彼らはそんな兄弟だったのかもしれない。


神話から歴史へ (天皇の歴史)


下野国の神となった豊城命(とよきのみこと)。

その土地の神を勝道上人は男体山に祀らなかったわけだが、その代わりに宇都宮に設けた「宇都宮二荒山神社」には豊城命を主祭神として祀った。

「宇都宮」という名の由来の一つに、「移しの宮(うつしのみや)」というのがあるが、「二荒山神社」は男体山と宇都宮の二ヶ所に設けられたのである。



「二荒神」という響きには、暴れん坊の神様・スサノオの姿もあれば、強き皇子であった豊城命(とよきのみこと)の姿もある。

スサノオも豊城命もともに兄弟同士の逸話が残ることも共通している。



二つの神と二つの宮を持つ「二荒山神社」。

そのイメージは、天の安河を挟んで対峙した姉・アマテラスと弟・スサノオの姿もだぶり、兄は外部との戦闘を、弟は内政を担った豊城命と活目命の兄弟の姿もある。

さらには男体山と女峰山という二つの峰が、その奥に堂々とそびえている。



神を生み、国を生み、山を生んだ日光に残る信仰。

そこには喧嘩するほど仲の良い二人の姿が見え隠れしているようだ。



男女一対の山岳は日本全国に各所あれど、子をなした夫婦山というのは珍しい。

二つに別れることは悲しいこともあるかもしれないが、それらが新たなものを生むのであれば、それはそれで喜ばしいことなのでもあるのだろう。



荒ぶる神は時として「破壊の神」でありながら、分裂によって多くの子をなす創造の神でもある。

アマテラスが荒神スサノオに求めた「誓約(うけひ)」は、「子をなす」ことではなかったか。



生むものがあるのであれば、その争いも是とされるのかもしれない。

もし何も生まぬのであれば、その争いは「不毛」であろう。

日光の男体山は幸いにして「黒髪山」とも呼ばれるほどに、山頂まで黒々と樹々が生い茂っている。そして、太郎山をはじめとする数々の子供たちにも恵まれているのである。



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出典:新日本風土記 シリーズ山の祈り 日光
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2012年02月01日

森に生きた縄文人。森を伐って稲を植えた弥生人。「あがりこの森」の示すものとは?


「あがりこ」というのは、「ブナの奇形樹」のことである。

そのブナが、なぜ奇形になったかと言えば、人間がそのブナの枝を切りながら、薪や炭として利用していた時代があったからである。



枝を切られたブナの木は、切り落とされた部分から「萌芽」を生やして、枝を再生させる。

人間による枝切りと、ブナによる再生が繰り返されたことにより、そのブナは次第にゴツゴツとコブがちになり、立派な「あがりこ」となっていったのだ。

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鳥海山(秋田側)には、「あがりこの森」と呼ばれるブナ林があり、その森の中では、変形しながらも逞しく生きるゴツゴツしたブナたちが今も元気に育っている。

その「あがりこ」たちの中でも、ひときわ目を引くのは「あがりこ大王」と呼ばれる巨木であり、その樹齢は300年以上と推定されている。



「あがりこ大王」が芽を出したのが300年前だとすると、日本は江戸時代(1700年)。

あがりこ大王は江戸の民とともに生き、彼らに枝を分け与えながら、明治・大正・昭和…、そして現代にまで生を繋いできたことになる。



森の民の知恵は深い。

彼らは森の木々を切りながらも、木々を殺すようなことは決してしなかった。あがりこ大王が切られ続けてなお、300年以上も生きながらえているのが、その証左でもあろう。

秋田のような北限近くのブナの平均樹齢は170年程度と考えられているが、あがりこ大王はその平均寿命の2倍近くも生きているのである(人間ならば140歳!)。そして、今なお健在なのだ!



通常、ブナの成木は根元から斬られてしまえば、斬られた切り株から新しい芽(萌芽)を出すことは、まずない。成熟したブナの根幹は一代限りなのであり、新たな生命は次世代の「種」から育まなければならない。

それでは、なぜ「あがりこ」は人間に切られながらも、萌芽を出し続けたのであろうか?



それは、知恵深い森の民がブナを「根元から斬らなかった」からである。

彼らが斬るのは、深い雪の中に埋もれたブナが「雪上に顔を出している部分」のみ。この部分を切る限りにおいてのみ、ブナは再生を続けることができるのだ。

雪の降り積もる冬期間にブナを切ることには、別の理由もある。足元を邪魔する低木やササ藪などが雪の下に沈めば、高木であるブナに近づきやすいし、切った後の運搬も、ソリに乗せて引いていけるので楽なのである。



また、「適度に切る」という行為は、樹木を活性化させもする。「切られる」という適度なストレスが樹木にかかることにより、樹木はより生命活動を盛んにするのである(切られた部分からは、2本も3本も枝を伸ばそうとする)。

「あがりこ大王」は薪を与えて人間の生命を育みながら、人間によって適度に鍛えられ続けていたのでもあろう。そして、この程良い共生関係が、あがりこ大王に稀有な長命を与えたともいえる。



ある人によれば、こうした森とともに生きる知恵は、「縄文時代」に育まれたのだという。

縄文の昔、日本の人口の90%は「東日本」に暮らしていたのだそうだ。なぜなら、「稲作」が日本に伝わる以前、人間が食糧を確保できる場所は、ブナなどの茂る「落葉樹の森」が主体になっていたからだ。



ところで、西日本にも森はあるはずなのに、なぜ縄文の人々の多くは東日本の森に住むことを選んだのか?

それは、西日本の森の多くが「常緑樹」に覆われていることが、大きな原因だと考えられている。(西日本の落葉樹は、標高1,000mを超えるような高山地帯にしか見られない)。

暖かい西日本に「落葉樹」は少なく、寒い北日本には「落葉樹」が多い。それゆえに、縄文の民は落葉樹の多い東日本に暮らし、森の知恵を深めていったのである。



西日本に多い常緑樹の森というのは、年間を通して「薄暗い」。木々が葉っぱを落とさないということもあり、常緑樹は密に鬱蒼と茂り、その薄暗さのために他の動植物を寄せ付けないところがある。

一方、冬に葉っぱを落とす「落葉樹(ブナなど)の森」は、葉っぱのない冬期間はもちろん、葉っぱの生い茂る夏ですら、常緑樹の森よりも明るい。

この明るさゆえに、落葉樹の森には他の動植物が暮らしやすく(もちろん人間も)、多様性という豊かさに満ち溢れている。

要するに、東日本に多い落葉樹の森のほうが、「食の恵み」が豊かだったのである。




ところが、東日本優位の形成は、日本に「稲作」が伝わることにより「大逆転」することになる。

稲作に向いた土地というのは、「暖かい西日本」である。稲作は寒い東日本に不向きであり、東北や北海道などで稲作が可能となるのは、つい最近の話なのである。



稲作とともに日本にやって来た「弥生の民」は、鬱蒼とした西日本の森を次々と切り開き、稲作に向いた「明るい平地」を作り出していく。

そして、稲作の生産性の高さから、あっという間に「縄文の民」を凌駕するまでになる。

BC3世紀からAD3世紀の間の600年間、この逆転劇が日本を席巻し、圧倒的な生産力を誇った西日本に日本の都が置かれることともなった。



こうした革命は、なにも日本だけに限ったことではない。

日本では稲作という形をとって、森林を切り開いた文明が定着したわけだが、森林を破壊しながら文明を発展させていくという潮流の源は、チグリス・ユーフラテス(中東)に求めることができる。

花粉の分布を分析すれば、今は乾燥地帯である場所も、かつては豊かな森林が茂っていたであろうことが推測される。そして、その花粉の変遷を追うことにより、どのような経路で森林が消えていったかも、おおよその見当がついてくる。



農耕文明の発祥地でもあったチグリス・ユーフラテス地域は、およそ8,000年前から森林が姿を消しはじめ、その後、草原となり、最後には砂漠となった。

砂漠と化した地に長く留まることはできない。森林を失った彼らは、新たな森林を求めて、西へ東へと旅立っていく。そして、行く先々で同様の森林破壊を繰り返しながら、新たな砂漠を生み出してゆく。




西へ向かった人々はヨーロッパに至り、森を食い潰しながら地中海文明を栄えさせた。

東へ向かった人々は中国へ至り、黄河流域の落葉樹林を活用して大文明を発展させた。



その森林破壊の旅は、5,000〜6,000年前、西はアルプス山脈、東は日本海にまで至る。

そして、森林破壊のまだ及んでいなかったアルプス山脈より北に住むゲルマン民族や、日本海の向こうにいた縄文人たちは、野蛮で未開な民族とされ、その地は辺境だと考えられていた(じつは、それら辺境の地こそが、豊かな森林に育まれた豊穣の大地だったのだが…)。



西の地中海文明が周辺の森林を平らげた時、彼らはアルプス山脈を越え、野蛮なゲルマン人を征服した(ローマ帝国)。

そして、東へ向かった群れは、朝鮮半島の風景をアカマツ一色に変えた後、日本海を渡り、稲作とともに日本列島へ上陸したのである(弥生時代)。



森林を伐採して、生産性の高い農地を作るという作業は、のちの工業化にとって、大いなる「下地作り」ともなっていた。

平らにした農地に工場を建てることは、じつに容易なことであり、農地の開拓が進んでいた地域ほど、工業化も早かった。そして、工業化という作業が、ひとまずの終着点ともなって現代に至る。

「森を押しのけた」という点において、農業化と工業化は共通しており、双方ともに時代に一大変革を巻き起こす結果となったのである。



ところで、世界を一変させた農業化と工業化の流れは、その後に何を残したのだろうか?

かつての文明地を振り返ると、そこに残されているのは「砂漠」ばかりである。なぜ砂漠化したかと言えば、無思慮に森林を伐採してしまったからでもあろう。

森を失った過去の文明地は、今や「搾りカス」のようですらある。



略奪的な森林の伐採は、時の文明を栄えさせた。

しかし、略奪的な発想には当然「限界」があり、限界を迎えるたびに、文明の地を変え、文明の主を変えていく必要があった。

その取っ替え引っ替えにも当然「限界」があり、その変遷の末の現代世界には、もはや「新天地の森」は残されていない。



弥生時代から始まった稲作は、日本という国を一大国家に仕立て上げたわけだが、その陰には明らかに失われていったものもあることを忘れてはならない。

現在、日本に残る原生林は、それほど多くはないのである。



貨幣の価値観に従えば、山林ほど価値の低いものはない。

山林に生える木々の金銭価値も低ければ、深山の傾斜地など、土地として二束三文の価値もない。

その当然の帰結として、貨幣経済の終着駅に山林が残っている可能性は極めて低いと言わざるを得ないであろう。それは、ここ半世紀で失われた膨大な日本の山林が物語るところでもある。



現代の人類は、もうすぐ地球を食べ尽くそうとしているのかもしれない。化石燃料(石油など)の底が見え始め、森林なども目に見えて激減した。

食べ放題だと思っていたそれらの資源は、明らかに有限であったのだ。

意気揚々と進めてきた農業化・工業化は、その実「略奪的」だったのであり、「持続不可能」だったのである。



それでも、我々の乗る船は急には向きを変えられない。たとえ、行く先に滝壺の気配を感じたとしても、その滝壺目指してまっしぐらである。

最悪の事態を回避するには、発想を大転換させるという大舵を切る必要もあるのだろう。



さて、どんな方向に舵を切ったらよいものか?

そこでふと思い浮かぶのは、再び「あがりこ」の姿であった。

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人間に散々に切られて奇形と化したブナ、「あがりこ」。しかし、その切り方は、決して略奪的ではなく、むしろ樹木を大きく長く育てる切り方であった。

この発想は、ついぞ「弥生の民」には見られぬものであった。古くから森とともに生きた「縄文の民」ならではの知恵だったのである。



日本に縄文の民がいたことは幸いであった。

彼らの持続可能な知恵が、弥生の民をも感化し、日本列島には各所で再生可能な農業が根付くことにもなったのだから。

田んぼを耕しながら、山の恵みを得るという里山スタイルは、縄文文化と弥生文化のハイブリッド形態であり、今になって世界中から注目されはじめているスタイルでもある。



縄文の民は、北では蝦夷(えみし)・アイヌなどと呼ばれて、不遇な歴史をかこってきた。

しかし、それでも彼らは耐え忍び、その知恵を絶やすことがなかったのである。



縄文人と弥生人の典型的な違いは、「丸と棒」で示される。

縄文人の世界観は「丸」である。その丸は、自然の事物が同一の地平上で巡り巡ることを示している(ストーン・サークルなど)。

かたや、弥生人の世界観は「棒」である。大地に垂直に立てられて棒は、天と地をつなぐものであり、そこには明らかな上下関係、支配・被支配の思想が示されている(神を数える単位は「柱」であり、その柱こそ棒の発展型である)。

要するに、縄文人は「自然の横」に並ぶことを好んだが、弥生人たちは「自然の上」にアグラをかきたがったのである。




日本列島においては、両者の思想がゴチャ混ぜになり、その結果として略奪一辺倒となることは避けられたが、世界に目を向けると、略奪一辺倒と化した痕跡は幾多と見い出せる。

典型的な欧米型の発想は、基本的に略奪的な要素を持つものであり、自然の上にアグラをかきながら、自分の乗っている自然を食い潰すのが常なのである。



日本に残されたブナの森に何を想うのか?

その森に生きる動植物の、なんと多様なことだろう。

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「あがりこの森」のある鳥海山の裾野は、四方に向けて豊かに広がり、恵みを求める人間たちを喜んで迎え入れんとしているかのようでもある。

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森とともに生きることを選んだ民は、幸せでもあった。

自然に寄り添い続ける限り、行き止まりなどはなかったのだから。



森を押しのけた民は、儚(はかな)かった。

盛者必衰、諸行無常…。一瞬の煌(きらめ)きが永続することは、ついぞなかった。



今、「あがりこの森」は深い深い雪に閉ざされている。

かつての民は、この厳しい冬に「あがりこの森」に足を踏み入れ、薪を切ったり、運んだりと忙しかったのでもあろう。



現在の「あがりこの森」は、象徴的な存在に過ぎないのかもしれないが、その森で育まれてきた知恵は、これからの将来、大いに必要とされるものでもある。

あがりこの森がある限り、そこに希望は湧きいでてくるはずなのだ。



しかし、「あがりこの森」の価値が見いだせなくなった時、それは我々が自らの運命を決する時なのかもしれない。

さすがの「あがりこ」と言えども、根元から伐られれば、その命は絶たれてしまうのである…。




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出典:さわやか自然百景
鳥海山麓の森


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2011年12月04日

火山と温泉。イタリア人と日本人は「フロ仲間」?


日本とイタリア。

遠く隔てられたこの両国は、「温泉文化」という共通項をもつ。

それは両国が「火山」の上に成り立っているからである。



ローマ人の「風呂好き」は、つとに名高い。




彼らはヨーロッパ全域を支配下に置くほどに絶大なる勢力を誇っていた時代があったが、新たな征服地には決まって「浴場(温泉)」を作っていったのだという。

たとえば、イギリスのバース(世界遺産)、トルコのパムッカレ(世界遺産)、ハンガリーのテルマルバス…。



本国の首都・ローマに作られた「カラカラ浴場」は、冷たい水から熱い湯までを様々にとりそろえ、さらにはジムなども完備した一大娯楽施設であったという(総工費:400億円とも)。

ちなみに、この大浴場を作ったカラカラ帝は、暴政の限りを尽くした末、暗殺されることになる。

おそらくは、その暴君も湯につかったのであろう。歴代のローマ皇帝たちは庶民たちとともに裸で湯につかることも珍しくなかったのだという。

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そうした「湯の文化」は、現在のイタリアにも色濃く根付いている。

イタリアにおいて、「温泉療法」は正式な医療として認知されており、国民健康保険も適用される。



イタリア人の温泉療養地の一つとして、地中海に「エオリエ諸島」という島々がある(シチリア島の北方)。

この島々には、海中から温水が湧出する「海中温泉」もあれば、火山灰のドロが美肌をつくると言われる「ドロ温泉(ポッツァ・ディ・ファンギ)」もある。

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島の医療施設では、温泉の蒸気を吸入できたり、温泉療法士によるマッサージなどを受けることもできる。

火山の生んだ火山灰(ドロ)、溶岩の石なども治療に用いられる。



このエオリエ諸島というのは、言ってみれば「火山のテッペン」である。

海底火山のテッペンが、地中海上に頭を出しているのである。

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そのため、火山の噴火は絶え間ない。

最も火山活動が活発な島(ストロンボリ島)では、数十分に一回は火口からマグマが飛び散るほどである。



安全さえ確保されていれば、火山の噴火ほど見事なショーはない。

まるで花火のように、島の人々、そして観光客は噴火を楽しむ。

「た〜まや〜」ではなく、「グラ〜ッチェ〜(ありがとう)」。火山は島の宝である。

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冷えて固まった「溶岩」は黒曜石にもなれば、軽石にもなった。

古代の人々は黒曜石でナイフのような石器を作り、ローマ人たちは軽石の軽さを利用して、建物の天井を仕上げた。

火山の真っ赤な噴火は「夜の目印」にもなり、ストロンボリ島は「地中海の灯台」とも呼ばれていたのだという。



荒ぶれば恐ろしい火山とはいえ、その恵みは大きい。

火山灰が豊かな土壌を生み、溶岩が家や街になる。そして、温泉も湧く。

古代の大帝国・ローマは火山の賜物(たまもの)とも言えようか。全ての道をローマにつないだという石畳もそうであろうか。




そして、それは日本も然り。

日本列島史上、最大の火山噴火は「およそ3万年前」にあったという。

それは「姶良(あいら)大噴火」と呼ばれるものである。



その場所は、現在の鹿児島湾。

火山からはトンでもない量のマグマが噴出したため、火山の内部が巨大な空洞となり、噴火が収まるとべコリと凹んで現在の湾になったのだそうだ。

桜島はその忘れ形見である。



その大噴火により降り注いだ「火山灰」の量と規模も凄まじい。

鹿児島には現在も40m以上の火山灰が残り(シラス台地)、当時は関東地方に10cm、東北地方にも5cmは降り積もったという。まさに日本全土を灰まみれにしたのである。

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噴出した溶岩の量もケタ外れ。

最も近い富士山の大噴火(9世紀)の10倍以上だという。

もし、姶良大噴火がもっと小規模であれば、鹿児島湾には富士山のような壮麗な山が誕生したのかもしれない。

しかし、その噴火が並外れて巨大であったため、周辺がゴッソリとフッ飛び、ドーナツのように凹んで、クレーターのようになってしまったわけである(姶良カルデラ)。



しかし、巨大噴火がもたらしたモノは惨劇ばかりではなかった。

先頃、鹿児島発のビッグ・ニュースが世界に発信されたのも記憶に新しい。

「レアアース180年分(90万トン)を発見」というニュースである。

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姶良カルデラの海底から見つかったレアアースとは、「アンチモン」。

半導体やバッテリーなどに使われる現代文明に欠かせない金属であり、現在は「中国」が世界生産の8割以上を占めている。



もし、鹿児島湾のアンチモンが使えるようになれば、全量を国産でまかなうことも可能となり、それは180年間も使い続けることができるほどの膨大な量だというのである。

まさに、降って湧いたような話である。

地元の人々は鹿児島湾のことを「錦江(きんこう)湾」と呼ぶらしいが、この湾はまさに「金鉱(きんこう)湾」となるかもしれないのである。



そして、このレアアースは明らかに火山の恩恵である。

海中深くから湧き出るアンチモンは、硫黄と結合することで「硫化アンチモン」となり結晶化して海底に蓄積する。



アンチモンが結晶化するには、海が「酸性」である必要がある。

ところが、世界の海はアルカリ性(pH8程度)。酸性の海というのは、世界中を探しても3ヶ所しか見つからない。

この鹿児島湾と南極、そしてナポリ湾(イタリア)である(こんなところにも、日本とイタリアの奇縁が…)。




レアアースを生んだ酸性の海は、3万年前の姶良大噴火の余波である。

3万年たってなお、いまだ火山活動は収束していないのだ。



火山の生きるスケールは、人間のスケールで測れるものではない。

この星では、火山が陸地を作ったところも少なくない。



大陸が移動し、地球の表面を移動する。

すると、地殻には薄い部分と厚い部分ができて、薄い部分からマグマが噴き出る。

噴き出たマグマは島を作ったり、フッ飛ばしたり…。



我々はそんな荒々しいマグマの上で、小さな小さな生命を営んでいるに過ぎない。

火山に泣いたり、笑ったり…。



そんな火山が沸かしてくれた温泉は、小さな小さな人間の心を癒してくれる。

それは、荒ぶる神(火山)を恐れながらも、あえてその元で暮らそうとする民族たちのささやかな楽しみでもある。

イタリア人と日本人は、遠く遠く離れながらも、そんな同じお湯でつながっているのである。






関連記事:
噴火、噴火のエトナ火山(シチリア)。人間にできることは…。

世界一クリーンな国「アイスランド」。氷の国であると同時に、火山の国でもある。



出典:
世界遺産 時を刻む 「温泉〜火山の大いなる力」
サイエンスZERO 「鹿児島湾 知られざる巨大海底火山」


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2011年12月03日

噴火、噴火のエトナ火山(シチリア)。人間にできることは…。


日本に「火山」が多いとはいえ、そうそうしょっちゅう「噴火」ばかりしているわけではない。

ところが、世界にはしょっちゅう噴火ばかりしている場所もある。

シチリア島(イタリア)の「エトナ火山」が、その一つである。

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今年だけで、すでに16回も噴火して、その度に「溶岩」が流れ出している。

単純に計算すれば、一ヶ月に一回以上は溶岩に襲われていることになる。

この地に暮らす人々にとって、火山の噴火はそれほどに「日常茶飯事」なのである。



「溶岩が来たぞ!」という叫び声は、決して狼少年のものではない。

歩いている時、寝ている時…、それは突然訪れる。

幸い、溶岩流というのは、走って逃げることもできるらしい。



逃げる時は、溶岩に背中を向けてはならないという。

必ず溶岩のほうを向いて、「降ってくる溶岩」をよけながら逃げるのだそうだ。

ウソのようなホントの話、ゲームのような現実である。

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エトナ火山の周辺には、300を超える「火口」が存在する。

「マグマ」が地表近くまで迫っているところもあり、足元の岩の隙間からは、炭火のように赤々と燃えたぎるマグマが垣間見られる場所すらある。

山肌は熱気でムンムンとし、場所によっては岩の表面が300℃にも達している。



ひとたびエトナ山が噴火すれば、溶岩があふれ出て、大量の火山灰が降り注ぐ。

3,000年以上にわたって、人々はこの地で火山とともに暮らしている。

エトナ火山は「恐怖」でもありながら、「恵み」でもある。



できたての溶岩は、「発泡スチロール」のように軽く脆(もろ)いというが、100年もすると、「大理石」のようにガッチリするのだという。

この地の家々は、こうした溶岩で出来ている。

断熱性に優れた溶岩は、地下のワイン貯蔵庫を冷房なしでも最適な温度に保ってくれる。

家々には必ず「溶岩プレート」があり、その上で「焼きモノ」をする。たいそう美味になるのだとか。



シチリアのワインも、火山灰の上に育つ。

火山灰にはミネラル(鉄・カリウムなど)が豊富で、いわば天然の肥料である。それが空から定期的に降って来る。

ブドウ畑は、人々が住む場所よりも、あえて火山に近い場所に作られることが多いのだという。



「ブドウ畑は溶岩に流されないのか?」

流されることもあるらしい。

「流されても、また作る。その繰り返しさ」

ブドウ農家の男は、当然のようにそう話しながら、自慢のワインを傾ける。そうしたリスクがあってなお、火山灰の養分が豊かな土地には、大きな魅力があるらしい。



標高3,300mほどのエトナ火山は「観光地」にもなっており、年間100万人以上の人々が足を運ぶ。

ロープウェイやリフトなども完備され、標高2,500m付近までは、歩かずに登っていけるのだ。



「危険はないのか?」

危険はある。1979年の大噴火の時には、登山客9人の生命が失われた。



当時、火口付近にいた登山ガイド「オラッツィオ」氏は、その様子を語る。

「溶岩は1,000mを超えるほどの高さに噴き上がった。

そして、我々の目の前にも次々と溶岩が飛んで来たんだ。

不幸にも、その一つが登山客に当たってしまい、尊い生命が…」

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それ以来、オラッツィオ氏は登山のガイドを辞めてしまった。

「いかに自分が未熟だったか…、悔やんでばかりいる」



数年後、失意のままのオラッツィオ氏のもとに、ある少年が訪れる。

その少年は義足だった。あの噴火の時に、脚を失っていたのだ。あの日、少年はオラッツィオ氏とともにあった。



義足の少年は、オラッツィオ氏にこう言ったという。

「もう一度、一緒にエトナ山に登ろう。

僕はエトナ山を少しも恨んでいないよ」



少年の言葉に生気を取り戻したオラッツィオ氏は、自分のなすべきことを悟る。

エトナ山のことを誰よりも知っている自分のなすべきことを…。

オラッツィオ氏の復帰は、シチリアのある街を溶岩から救うこととなる。



1983年の大噴火から出た溶岩の量は凄まじく、3ヶ月経ってもなお流れ続けていた。

「このままでは、麓の街が飲み込まれてしまう」

その街は人口3万人。恐ろしい被害が予想された。



この危急に、男たちは立ち上がる。

「溶岩の流れを変えるんだ!」

その計画は、ダイナマイトで爆破して、「新たな溶岩の道」をつくるという極めて困難なものであった。

流れ続ける「溶岩の河」に近づくことすら容易ではない。



オラッツィオ氏は、灼熱の溶岩の流れを見極めようと、ジッと溶岩の流れに目を凝らす。汗は止めどなく流れ落ちる。

神経を研ぎ澄ましていると、ふっと溶岩の雰囲気が変わったような気がした。それは、長年溶岩を見続けてきたオラッツィオ氏だけが知る「溶岩の声」であった。

「今だっ!」

ダイナマイトは溶岩のカベを吹き飛ばし、見事に溶岩の河は流れを変えた。まるで、街を避けていくかのように。



オラッツィオ氏は語る。

「大自然を前にすれば、人間の出来ることなどホンの僅(わず)かしかない。

それでも、その僅(わず)かなことを精一杯やる。

それが、私の役割なんだ」



エトナ火山とともに生きる人々は、火山の物語を子供たちへ丁寧に語り継ぐ。

それは、いつ襲ってもおかしくない災害に備えるためでもある。



ある街には、「溶岩の教会」というものがある。

その教会は、350年前の大噴火で溶岩に飲み込まれた。

ところが、全てのものを焼き尽くした溶岩は、なぜか、マリア像だけを焼かずに去って行った。

土地の人々は「このマリア像が、災害を忘れてはいけないと私たちに教えてくれているのです」と話す。

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人間はややもすると「自然を支配できる」と勘違いしてしまうこともある。

しかし、本当の自然を知る人々は、決してそうは思っていない。



山の男・オラッツィオ氏は、こうも語る。

「自然に逆らうことは決してできない。

しかし、幸いにも、私たちは自然とうまく付き合う知恵を受け継いでいる」



オラッツィオ氏は、エトナ山が一番よく見える場所に家を建てた。

朝起きれば、一番にエトナ山に挨拶をする。



火山ばかりを見ているオラッツィオさんに、心中穏やかでないのは彼の奥さんだ。

そんな彼女が「噴火」したのは、誕生日のプレゼントがまさかの「溶岩」だった時…。



オラッツィオさんは、こちらの火山にも決して逆らうことはできないようである。

いやむしろ、本当に恐いのは…。






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出典:地球イチバン
「地球でイチバン噴火する火山」〜イタリア・エトナ山〜


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2011年09月04日

日本の心を残す里「遠野」。時代に流されなかった心とは……。神の山「早池峰山」とともに。

川の淵に釣り糸を垂れる人々。

釣り糸の先には……、なんとキュウリ。

「河童(カッパ)」を釣るのだという。ここは、民話の里「遠野(岩手)」である。

「小学3年以下は、キュウリを使っちゃいかん。河童が釣れた時、川に引っ張られる。

ピーマンを使え。ピーマンは水に浮かぶから安全なんだ。」

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ほのぼのとする光景ではあるが、この地に伝わる河童の話の陰には、悲しい歴史が横たわっている。

「河童の子供を孕(はら)みたる家あり。

生まれたる子は斬り刻みて、土中に埋めたり(遠野物語)」



寒さ厳しい北国の地では、子供を養うのもままならず、意に反して子供を間引かなければならない時代もあった。

ただでは殺せない。でも河童なら……。「人間で生きるより、河童様になったほうが幸せだから」と親たちは自らを慰めた。

「河童は神様だから、万年も生きるんだ。だから、河童におなり」。そう言って、子供を河原へと連れてゆく……。



この地には、「座敷わらし」も生きている。

「旧家には、ザシキワラシという神の住みたまふ家少なからず。

この神の多くは、十二、三ばかりの童子なり(遠野物語)」

この地の多くの子供たちは、神様となって生き続けているのである。



歴史を紐解けば、東北地方には「敗者」の歴史が色濃く残る。

その最初の決定打となったのは、征夷大将軍「坂上田村麻呂」による蝦夷平定である。

遠野の地は、806年(大同元年)に朝廷により平定されている。



それ以前の蝦夷(えみし)と朝廷は、多少のいざこざはありながらも、おおむね良好な間柄だったと言われている。道嶋嶋足という蝦夷は、朝廷において出世(正四位上)したりもしている。

ところが、光仁天皇(在位770〜781)以降、その関係は急速に悪化する。「三十八年戦争」と呼ばれる蝦夷征討の時代が始まるのである。

この頃の天皇の家系には、「天智系」と「天武系」と大きな2つの流れがあり、光仁天皇は久々の「天智系」の天皇であった。両家筋の諍(いさか)いは絶えず、政(まつりごと)は不安定で、天変地異も続いていたという。



蝦夷の本拠地と目されたのは「胆沢(いさわ)」であった。

胆沢には、「アテルイ」という蝦夷の優れた指導者がおり、「巣伏の戦い」においては、寡兵(少ない兵)をもって、朝廷の大兵を破るという、古代戦史上類を見ない「鮮やかな勝利」も収めている。

その「古代東北の英雄」アテルイも、坂上田村麻呂には屈することとなる。敗れたアテルイは平安京へと連れてゆかれる。



英雄は英雄を知るのか、坂上田村麻呂はアテルイの「助命嘆願」を願い出る。田村麻呂は、アテルイを介して、東北蝦夷の民心を懐柔することを提言したのである。

しかし、心が荒(すさ)みきり、疑心暗鬼となっていた朝廷は、「野生獣心、反復して定まりなし」として、無残にもアテルイを処刑してしまう。

アテルイの死を惜しんだ坂上田村麻呂は、自身が創建したと伝わる清水寺に、アテルイを弔ったとも(2007年、アテルイの顕彰碑が建立された)。

それ以来、東北地方に争いは絶えるも、朝廷との絆は表面的なものとならざるを得なかった。



アテルイは、朝廷への反逆者であり敗者である。当然、歴史の本流からは除外された。

しかし、1980年以降、再評価の動きが活発化している。アテルイをテーマとした高橋克彦の「火怨」は、吉川英治文学賞を受賞(2000)。市川染五郎主演の「アテルイ」、長編アニメの「アテルイ」などがある。

ちなみに、政治家・小沢一郎(岩手)は自身をアテルイになぞらえているとも。アテルイが拠点とした胆沢には、小沢ダムとも呼ばれる「胆沢ダム(国内第2位の規模)」が建造されている。このダムは前原氏によるダム凍結の難も逃れている。しかし、この大事業は自身を失脚させかねない裏献金問題とも深く絡んでいる。



さて、話を「遠野」へと戻そう。

大和朝廷の蝦夷平定の狙いは、東北に眠る「金」だったとも言われている。

当時、桓武天皇による「奈良の大仏」には、仕上げとして全身に塗るための大量の「金」が必要とされていたのである。

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遠野には、多くの金が眠っていたと言われる。その金は、大仏に塗布されるのみならず、奥州平泉・藤原氏三代の栄華を支え、大正時代に閉山されるまで掘られ続けていたという。

遠野の地を支配した大和朝廷は、何としても「遠野の金」を死守する思いがあったのかもしれない。

盆地状の遠野を取り囲むように、5つの観音堂を建てている(現存する)。これらの観音堂を結べば、「星の形」が浮かび上がる。この星には、「守る」という意味が込められたのだという。

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そんな朝廷の支配を受けながらも、遠野の人々(蝦夷)の土地への信仰は根強いものがあった。

その信仰は、自然を敬うものであり、山(早池峰山)を神とするものであった。遠野には三人の女神が降り立ち、一番良い夢を見た長女の「お早」が早池峰山を貰い受けたのだという。

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今でも、肉体を抜けた魂は「早池峰山に帰る」と信じられている。元々、早池峰という名前はアイヌ語の「パパヤチニカ(東に伸びる長い足)」に由来するとされ、古くから信仰の対象とされてきたのである。



山に働く遠野の男たちは、12月12日を「山神の日」として、一切の仕事の手を休めるという。

なぜなら、この日は「山の神様が自分の山の木の本数を数える日」。その邪魔をしたら「罰があたる」というのである。お年寄りの中には、この日に仕事をして「事故にあった仲間を何人か見てきた」と言う人もいる。

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「遠野」の名を広く全国に知らしめたのは、今から100年前に書かれた柳田国男の「遠野物語」であろう。

「日本民俗学の黎明を告げた」といわれるこの名著は、遠野出身の佐々木喜善が語る民話を書き記したものである。河童や座敷ワラシの話なども載っている。

著者・柳田国男は、明治を生きた人である。明治といえば、西洋の文物が日本に大量に持ち込まれ、それらを有り難がるばかりに、日本古来のものが軽視される傾向にあった。

明治政府の官僚として地方を巡った柳田は、日本の持つ価値を良く理解していたのだろう。失われゆく日本の価値観をたいそう惜しんでいたという。

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「遠野物語」に曰く。

「願わくは之を語りて、平地人を戦慄せしめよ」

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日本の良さを忘れつつある平地人に向けた辛辣なメッセージである。



山の神々はいつも見ている。東北を巡る権力の闘争、日本を巡る欧米の歴史、そして東日本の大震災……。

歴史の表面は大きく波打ってきたが、その根底には何があったのか?

表の勝ち負けの裏には何があったのだろう?



歴史は動いていたようで、動いていなかったのかもしれない。

今も昔も、早池峰山は悠然としたままである。





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出典:新日本風土記 「遠野」

posted by 四代目 at 06:36| Comment(0) | 山々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする