2013年07月31日

垂直から水平へ。原住民に溶け込んで [植村直己 夢の軌跡より] その2




世界放浪1,000日 [植村直己・夢の軌跡より] その1 からの続き






世界中を放浪しながら、植村直己は「旅のあと」のことを考えていた。

「この最後の旅が終わった後、オレは日本でどのような生活の道を選ぶのか?」



旅は「わが人生の一つの遊び」に過ぎないと彼は考え、帰国後は「定職に就くこと」を真剣に考えていた。

「どんな仕事であれ、自分に定職をもつことこそ、真の人間としての価値があるように思われる」と、彼は新年を迎えた1月1日(1969)の日記に記している。

そして、こう断言する。「自分のやっている、何かわからない放浪の生活と登山は、自分の職業ではない」と。



だが、その決意虚しく、帰国後の植村の心はやはり「旅の空」から逃れられなかった。

金稼ぎのアルバイトをしながら、こうつぶやく。「無性に懐かしく思い出されるのは、無銭旅行のはずみで敢行したアマゾン河のイカダ下降のことだった」。



そんな時、植村のもとに「世界最高峰エベレストへの誘い」がもたらされる。

そして始まる。放浪者から一転、大冒険家としての一生が。






◎葛藤



結果を先に記すと、1970年5月11日、植村直己は日本人として初めてエベレストの頂上に立つ。

だがここでも、前回ヒマラヤの処女峰ゴジュンバ・カンに登頂した時と同様、「チームか個人か」という葛藤に植村直己29歳の心は大きく揺れ動いた。



悠然とそびえるエベレストの頂きがクッキリと見えた時、植村は思う。

「おれは是が非でも登るぞ。チャンスさえ与えられたら、しがみついて登っていくぞ」

だが、少し冷静にこうも考える。「ここで考えなくてはならないのは、アコンカグアやアマゾン河での単独行動ではないことだ。俺はエベレスト遠征隊の大きな歯車のひとつにすぎないのだ」

実力者ぞろいの遠征隊の中にあって、植村はむしろ下働きのような仕事に酷使される低い立場にあった。



遠征隊は15人。

「いかに自分が頂上に登ろうとしても、他の15人も俺と同様に、心に強くエベレストの頂きに立つ夢と野心を燃やしているのだ」と植村はメンバーらの気持ちを慮る。

そして、こう思う。「こういった人たちと競って、先に頂きに立とうとするのが自分であろうか。いや、そうでありたくない」

だが皮肉にも、この遠征隊において「登頂成功の栄冠」を手にするのは、植村直己と他2名の隊員のみである。そして不幸にも、隊員のひとり成田潔思は山中で体調を崩して死亡する。



かつて、王貞治というホームラン王は、自ら打ったホームランを喜びもせず淡々とベースを一周していたという。というのは、「打たれた投手」のことを思うと露骨には喜べなかったからだそうだ。

そんな心優しきホームラン王と同様、植村直己は仲間たちの心をいつも推し量らざるを得なかった。

だから、自分をヒマラヤに拾ってくれた明大山岳部の先輩、大塚博美氏が登攀隊長から外されたと知った時、「卒倒しそうになり、目の前がクラクラと昏(くら)くなった」のであり、ヒマラヤの頂きにに立った時、植村は途中で急死した成田隊員の写真を胸に携えていたのである。



のちに植村の冒険は、そのほとんどが「単独」となるのだが、それは彼の心が柔らかすぎたからなのかもしれない。

仲間に迷惑をかけまいと、植村は人前で疲れたという態度は一切見せず、高山病の気配があっても平気をよそおっていたという。そして何より、仲間を押しのけるような形での登頂を素直に喜べるような男ではなかった。






◎水平



植村直己の柔らかい眼差しは、ヒマラヤ登山を手助けしてくれた地元のシェルパたちにも向けられていた。

植村はヒマラヤ準備のために、ヒマラヤ山中でシェルパの家族と一冬をともにするのだが、「シェルパ族の話になると、植村の日記の書き方は伸びやかに柔軟になる。同時に、格段の熱がこもる(湯川豊)」。



同居したシェルパ族の家族には5人の子供がいた(1〜10歳)。その子らを見ながら、植村は思う。「丸顔といい、黒い髪といい、細いが切れ長の目といい、きりっとした感じでとても可愛い。日本の子供と似ているが、年齢より幼く見える。走ったら、きっとカモシカのように野を越え谷を越えていくだろう」。

植村はネパール語などほとんどできなかった。だがそんなことは問題にならぬほど、植村のシェルパ族に対する親愛感は深かった。彼らとの生活を心底楽しみ、同じ現地の食事を植村は本気でおいしいと思って食べるのであった。

登山においては「組織のなかの行動」に思い悩まざるを得なかった植村であるが、シェルパ族との生活は「もっとも安らぎに満ちていた」。



植村直己の冒険を振り返る時、「水平」という言葉は大きな意味をもつ。

たとえば登山を「垂直」とすれば、グリーンランド横断は「水平」である。登山隊のチーム編成が「縦型」だとすれば、原住民たちとの交流は「横のつながり」であろう。

西洋の冒険というのが高圧的に自然を征服するようなところがあるのに対して、植村直己の冒険は、水の高きが低きに流れるがごとく、自然とその風土に溶け込むようにして成されていくのである。。



植村の冒険相談役となっていた湯川豊氏は、こう語っている。

「植村直己の冒険の方法の一つは『先住民に徹底的に学ぶ』ということだった。その結果、彼の冒険は際立った表情をもつことになる。それは、自然を征服するのではなく、自然に従うこと、適応することである。順化するという言葉を使ってもよい」






◎敬愛



植村自身は西洋的な自然の征服に反駁しようとしたのではない。ただ、ヒマラヤではシェルパ族に、アラスカではエスキモーたちに心惹かれるうちに、自然とそうなっていったんだと彼は言う。

厳しい自然環境に何百年、何千年と暮らしてきた先住民たちの知恵は底知れぬ。「自然のもたらすものの中にこそ、人間の生き延びる道があった」のであり、「現地の人には、その風土に生きる知恵が自ずとあった」。



「そこで自分が何かやろうと思ったら、少しでも自分をそこに順化させていくのは、当然ですよね」と植村は言う。

たとえば、アマゾンの河下りで「なぜ筏(いかだ)を使ったのか」と問われれば、植村は「金がないから舟なんか買えなかった」と笑う。だが、彼の目はアマゾン河岸の原住民たちが筏をつかって河を自由に往来していた姿を確かに見ていた。

「彼らと同じようにやることができればいいはずだ、という気持ちになってくる」と植村は書いている。筏ばかりでなく、食べ物も現地ペルーの人々を真似て「平然と生き延びた」。青いバナナを煮たり焼いたり、猛魚ピラニアを釣って食ったり。



冒険する場所に人が住んでいる以上、彼らの生き方に学ぶことが最良であると植村は考え、彼らの食事や生活に深い敬意を抱いた。

植村の頭の中には、先住民が「未開な部族」であるという差別意識は毛頭なかった。むしろ自分が頭を下げて教えを請わなければならない目上の相手、その土地に古くから生きる人たち皆がそうした先生たちであった。



ヒマラヤにおいて、「植村は本気でシェルパ族の暮らしぶり、生活態度に感動し、彼らに敬意を抱いている。シェルパ族に言及するときは、つねに敬愛の気持ちが漂っている(湯川豊)」。

植村自身はこう記す。「現地の食べ物を家族と一緒に食べる方が、食事もおいしかった。私はどこへ行ってもその土地のものがおいしく食べられるので、ありがたい(著書『エベレストを越えて』)」






◎養子



植村直己という冒険家が、いかに土地に溶け込んでいたかを物語るエピソードの一つに「養子」の話がある。

それは、のちの北極横断のためにエスキモーに犬橇(いぬぞり)を学んでいた時のこと。村長イヌートソアに「養子にならないか」ともちかけられたのである。

日本で養子といえば大変なことだが、エスキモーの社会ではそれほど特別なことではない。私生児もたくさんいるし、誰が誰の子という感覚は薄い。村長イヌートソアは、植村が極寒の中、犬馬の労もいとわずに飲み水にするための氷塊を浜辺から毎朝運んでくれたことに感じ入っていたのだった。



最初は驚いたものの、養子の話を快諾した植村。その儀式はあっけないほどに簡単だった。

「3人(植村とイヌートソア夫婦)は両手を出し、重ね合わせる。それだけである。終わってお茶を飲み、クジラの生肉をかじった。どこに届け出をする必要もない(湯川豊)」

「私は満足だった。人間同士のあたたかい肌にふれたような気持ちで、私は最高に幸せだった」と植村は著書に記している。



村長イヌートソアという地元きっての教養人に、植村という人間は認められた。それは植村の冒険スタイルに対する絶対的な肯定だった。

というのも、村長イヌートソアは土足でドカドカ上がり込んでくるような白人の横暴に腹が立っていた。

極地の遠征隊のガイドをしていたというイヌートソアは、こう憤る。「白人はわれわれを騙す。わしは遠征隊に何度も加わったことがあるが、たった五頭の犬橇さえまっすぐに走らせることもできないのに、白人は威張ってばかりいるんだ」と。



一方の植村直己は、エスキモーに対してまったく偏見をもっていないばかりか、一緒に暮らすことを喜んでくれていた。

イヌートソアが養子にと思ったほど、植村はその土地と同じ色になっていたのである。






◎南極の夢



植村直己がエスキモーの村に暮らすようになったのは、「犬橇(いぬぞり)」の技術を学ぶためであった。

何のためかといえば、「南極を横断するため」である。この「南極横断」という冒険が植村の悲願であり、結果から先に言ってしまえば「果たされぬ夢」でもあった。



世界最高峰ヒマラヤの登頂を果たした後、植村は世界放浪時代に阻まれた北アメリカ大陸最高峰のマッキンリーにリベンジ。4人以下の登山が禁じられていたマッキンリーに植村はアメリカ隊に紛れて入山し、実働わずか4日間で単独登頂を果たしてしまう。

マッキンリーを制したことにより、植村直己は世界初の「五大陸最高峰」登頂者となった。

1966年7月、ヨーロッパ大陸最高峰モンブラン(標高4,808m)
同年10月、アフリカ大陸最高峰キリマンジャロ(標高5,895m)
1968年2月、南アメリカ大陸最高峰アコンカグア(標高6,960m)
1970年5月、アジア大陸最高峰エベレスト(標高8,848m)
同年8月、北アメリカ大陸最高峰マッキンリー(標高6,194m)

およそ4年間で、植村直己はこの偉業を成し遂げたことになる(達成当時29歳)。



そして次は、と開いた地図が「南極」だった。

日本に帰り、東京の建設現場でアルバイトをしていた植村は、彼が寝泊まりしていたバラック建ての飯場で一枚のたたんだ紙を取り出した。

「南極の地図です」と、クリームパンとアンパンとチョココロネを実に美味そうに平らげたあとで、植村は切り出した。



その南極地図はまるで「白地図」のように、ただの白い広がりでしかなかった。後援を頼まれた文藝春秋の湯川豊氏は、その白さと漠然さに戸惑う。

だが夢見る植村の目には、その白き世界が色鮮やかに、そして詳細に映っていた。



「南極を単独で横断します。距離にして3,000km、走行手段は犬橇(いぬぞり)です」

植村は決然たる口調で、そう宣言する。

「しかし、犬橇の操縦をあなたは出来るのか?」と湯川氏は怪訝に問うた。

植村は自信をもって答える。「これからグリーンランドに入って、エスキモーに習います」と。



この時点で、植村は南極大陸に行ったことすらなかった。ましてや、犬橇となると「ぼんやりした知識」があるだけだった。

それでも植村は「この最初に語った段階から、不思議なほど自信をもっていた」と湯川氏は振り返る。

この一年後、植村は生まれてはじめて南極大陸を一瞥するのだが、その氷雪を目にした時、植村は「確信といっていいほどの自信」を抱く。



「植村の途方もない夢には、何かしら強いリアリティーがあった。それは植村という人間が発しているリアリティーといったほうがいいかもしれない」と湯川氏は語る。

五大陸の最高峰登頂という「垂直の世界」から、氷と雪の「水平の世界」へ。

そして、組織から単独へ。植村の胸はその茫漠たる解放感に踊っていたのかもしれない。






◎生肉



その夢のため、植村はどんな遠大な回り道も惜しまなかった。

1971年、植村は日本列島3,000km、南は鹿児島から北は北海道までひたすら歩く。この時歩いた3,000kmという距離は、ちょうど南極大陸を横断する距離である。この遠大な距離を植村は51日間という短い日数で歩き切った。単純計算で一日60kmペースの徒歩である。



そして1972年9月、次の訓練地であるグリーンランドのシオラパルク村に入る。この村の村長がイヌートソア。先述した通り、植村直己の養父となる人である。

植村はこう語る。「私はもともと金がなかったから、何とかして現地の人に受け入れてもらわなくちゃやっていけないという実際的な事情がありました。食と住で、そして衣も含みますが、エスキモーの人たちに頼らなくちゃなりませんでした」。

「頼る以上、自分の都合とか理屈を抑えて、エスキモーの生活にできるだけ溶け込む。そこには極地の生活の長い歴史が生んだ貴重な知恵があるわけですから」

エスキモーに馴染むために我を抑えるのは、植村にとってはストレスではなく新たな発見のための喜びであった。この点、集団組織の中で自分を抑えることとは根本から意味合いが異なっていた。



知れば知るほど、エスキモーたちの「風土に生きる知恵」、寒気への対策法から極地でのさまざまな「生きる技術」には敬意を抱かざるを得ない。

だが、さすがの植村とてすんなりとエスキモーの生活に馴染めたわけではなかった。とくに「生肉」を食べることは最初、まったく喉と胃が受け付けなかった。



「ジャパニ、肉を食べないか?」

そう言ってエスキモーの男に差し出されたのは「黒い血らしいものに染まった肉塊」。室内の天井にぶら下がっていたものである。植村の後ろには、たくさんの村人たちが興味津々の眼差しを向けている。どうしても、その赤黒い物体を食わずばなるまい。

「私は恐る恐る肉片を口元へ運び、唇に肉片が触れないように前歯でおさえてからナイフで小さく切り込みを入れた。生臭さがプーンと鼻をつく。ところが生肉が舌に触れただけで、私の胃はたちまち拒絶反応を起こした」

胃液が口にまで逆流してきた。それでも植村は「ここが勝負どころ」と、痙攣する胃袋に辛うじて呑み戻す。



あとで、それが「クジラの生肉」であったことがわかった。そして、それは彼らが「マッタ」と呼ぶ大切な食材。日の出の祭りや子供の誕生パーティーなど、特別の日のご馳走であった。

初めてそれを勧められた時の植村は、まるで新人が試されているように感じていたが、じつは全くの逆で大歓迎されていたのであった。

クジラは捨てるところがなくじつに有り難い。その肉をエスキモーはとくに丁寧に保存していたのである。



驚くのは、その後の植村の「驚くべき適応能力」である。なんと、たった数日後である。あれほど痙攣していた胃袋が生肉に喜ぶのは。

「私は自分の身体ながら、その適応能力に感心してしまった」と記し、のちに「夕食にアザラシの生肉、一キロくらいペロリですよ」と植村は笑う。



エスキモーは「肉の焼ける匂い」をきわめて敏感に嫌うため、火を通すとすれば焼くのでなく煮るのであった。植村も同様、肉は生でなければ煮て食べるようになっていた。

また、エスキモー同様、「猫舌」にもなっていた。エスキモーは凍った生肉をナイフでそいで食べるのが常であることから、熱いものは苦手なのであった。






◎ウンコとオヒョー



食は良し。だが、「出すこと」に慣れるのはもっと時間がかかった。

エスキモーの家には部屋が一つしかなく、トイレもそこでする。入口付近に無造作に置かれたバケツ一個が便器である。男も女も人目をはばかることなく、そこで尻をまくり用をたす。厳寒期に外へ出て、吹雪の中で用を足すのはまったく現実的ではない。



さすがの植村も初めて会った人たちの面前で排便できず、身悶える。そして、こう漏らす。

「私はこれまで40カ国ばかりの国々を歩き回ってきたが、これほど風俗習慣の違いを身にしみて感じたことはなかった。習慣に従うという言葉は頭の中でこそ理解できても、いざ実行するとなるとなかなか難しい」



それでも半月もすると、堂々と大便をしていた。みんなと話をしながら。

「娘たちも話しながら尻をまくり小便をするようになって、私との間にはなんのこだわりもなくなっていた」と植村は書き付けている。

「私もはじめは彼らの排泄習慣になじめなかった。だが、『エスキモーと生活を共にする』という以上、食生活を同じにするだけでなく、同じ排泄行為をとることができるという条件も付け加えなければならないと思っている(著書『極北に駆ける』)」



こうして、「食よし、便よし」となった植村であったが、最後まで馴染めぬことが一つだけあった。それは「きわめて自由奔放な性交」であった。男も女も、老いも若きも、また既婚者も未婚者も、エスキモーたちは人目をはばからなかった。

仲間となった植村にエスキモーの女性らは容赦なく押しかける。困り切った植村はこう言って難を逃れていたという。

「私はドクターからオヒョーを使ってはいけないと言われている」

「オヒョー」というのは魚の名だが、ここではエスキモーたちが男性自身を表す隠語である。生真面目な植村にとって、開放的な男女の交わりは人前でウンコをすることよりも難儀なことであった。













(つづく)

冒険家の「心の支え」 [植村直己 夢の軌跡より] その3






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「南極の夢」とマッキンリー [植村直己 夢の軌跡より] その4(完)



出典:ナショナル・ジオグラフィック
「植村直己 夢の軌跡」湯川豊
posted by 四代目 at 13:06| Comment(0) | 山々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月29日

世界放浪1,000日 [植村直己・夢の軌跡より] その1



登山家、冒険家、「植村直己(うえむら・なおみ)」

日本人初のエベレスト登頂(1970)
世界初の五大陸最高峰、登頂成功(1970)
世界初の犬ゾリ単独行で北極点到達(1978)
世界初の冬季マッキンリー単独登頂(1984)
日本で国民栄誉賞を受賞(1984)



眩しすぎるほどの輝かしい業績。

だが悲しくも、国民栄誉賞を授かった時、植村直己はおそらくこの世にいなかった。

「おそらく」というのは、冬季マッキンリーの山頂に残した日の丸を最後に、彼はその厳冬の山中で「消息不明」となってしまったからである。



「現在に至るまで遺体は発見されていないため、最後に消息が確認された1984年2月13日が植村の命日とされた。43歳没(Wikipedia)」

植村最期の偉業となった冬季マッキンリー単独登頂。それを成した日は植村43歳の誕生日にして、消息が絶たれるその一日前、2月12日であった。






◎劣等感



「家は但馬(兵庫)の寒村の貧乏農家で、自分は7人兄弟の末っ子。はみ出し者である」と植村は常々語っていたという。

だが、「貧乏農家」と植村は言うものの、農家としての植村家は「経済的には上の部」にあったらしく、貧農というのは植村の謙遜にすぎない。ちなみに「寒村」と植村が言う兵庫県城崎郡日高町上郷(現・豊岡市日高町)は奈良時代から国府が置かれたほど「気候も穏やかで物成りが豊かな盆地」だった。

さらに、植村は「はみ出し者」と自ら言うものの、兄弟らに言わせれば「いい子の末っ子」であり、同級生らに言わせれば「とにかく平凡で、地味で、目立たなかった」。



冒険家・植村直己は当然のように「行動の人」である。ゆえに彼は「書くことは死ぬほど嫌いだ」と口癖のように言っていた。

だが、この言葉もまた額面通りには受け取れない。彼の冒険日記は驚くほど緻密であり、海外にいても年賀状を欠かさない律儀で筆マメな男だった。上下に揺れる犬ゾリの上でも植村は筆を握り、踊るような文字で臨場感みなぎる手紙を残している。



この点、植村直己をつぶさに取材していた湯川豊氏に言わせれば、植村には「自分はインテリではないという不要な劣等感、卑下癖、謙遜ぐせ」があったという。そのため、時に乖離する言葉と行動。その矛盾の中に植村という人間はいた。

常に「行動」が先行しがちな彼は、ときに言葉が追いつけない。湯川氏が初めて植村にインタビューしたとき、その驚きをこう語っている。

「私は編集者という仕事柄、ふつうの口下手には驚かないつもりでいた。しかし植村は、度外れていた。言葉が本当に出てこないのだった。彼は一言、二言話すたびに顔を赤らめ、大汗をかいた。一言いってつっかえ、つっかえたことで顔を赤らめる。当人自身、そのことに困惑して、ウー、ウーと唸った。言葉よりも手ぶり身ぶりが先に立ち、それでも言葉が出ないとなると、本当に身をよじった」



植村が出ない言葉に身をよじるのは、それだけ誠実に自らの体験を言葉にしようとするからでもあった。決して彼の言葉が稚拙からなのではなく、その体験が言葉を超えていたのである。それでも植村はそうした自分に「劣等感」を感じていたのだという。

だが逆に、そうした劣等感が数々の「冒険のバネ」になった、と夫人の公子さんや多くの知人たちが指摘している。






◎ドングリ



面白いことに、高校時代の植村は「山にはまったく興味がなかった」という(のちにヒマラヤにまで登るほどの男が)。

高校卒業後、植村は新日本運輸という運送会社に一度就職している。それは母親がサッサと人事課長に頼みに行って、一人で決めてしまったからだった。

植村はこう語っている。「自分としてはやはり学校へ行きたい。いちおう大学受けて通ったんですよ。関西大学でしたけど。しかしオフクロが半ば強制的に勤め先を決めてしまったんです(笑)」



表面的には「いい子」だった植村だったが、その内にはフツフツと進学への思いを沸き上がらせており、結局一年後、明治大学に入学することになる。

そして、ここで植村はようやく山に目覚める。山岳部へ入部してからというもの登山に没頭するようになるのである。そして、同じ山岳部の小林正尚がアラスカ旅行で見てきたという「氷河の話」に海外への憧憬を抱くようにもなる。



だが、それまで十分な登山経験のなかった植村は明大・山岳部において「劣等生」であった。ついたアダ名は「ドングリ」。コロコロとしょっちゅう転んでいたからだった。

そんな植村を面白がって、先輩らは隊列から遅れる植村の尻をピッケルで容赦なく打ち付けた。植村は当時の屈辱をこう語っている。「あんなに苦しく、恥ずかしい思いをしたことがない」と。

人前で怒りを表すことのなかったという植村は、この苦い経験を噛み締めながら、しばしば一人で山に入るようになる。大学時代、部活の合宿に個人の山行を加えると、年に120〜130日(およそ一年の3分の1)は山に入っていたという。






◎氷河



植村が日本を飛び出すのは、「氷河が一目見たい」、その一心だったと彼はのちに語っている。

その一途な思いが「世界放浪1,000日の旅」へとつながっていくのである。



だが、大学卒業を間近に控えた植村が、実家の家族の前で「卒業後、外国へ行きたい」と切り出すと、両親、とくに母親からは頭ごなしに反対された。

子供の頃から親に逆らえなかった末っ子の植村。小さい頃から家の仕事を手伝わされるのが「いやでいやでしょうがなかった」と言いつつも、真面目に牛の世話などをやっていたという。

だが、この時ばかりは両親の反対に納得いかなかった。マグマのように噴出しつつあった「世界への夢」は、もう抑えきれぬところまで上がってきていたのだ。



それでも、その強すぎる想いを言葉にできなかった植村。思い余って家を飛び出してしまう。

「円山川にかかる上郷橋の欄干につかまって、夜中、長いことシクシク泣いていた」と、長兄の修さんはその時のことを語る。「普段は大人しい末っ子」だったはずの植村だったが、大きすぎる思いが心からはみ出してしまっていたのである。

以後3日3晩、植村は断食を決行する。ハンガー・ストライキだ。これには両親も根を上げた。よって、海外渡航への判断は10歳年上の長兄・修さんに委ねられることになった。



「かわいい末弟があれだけ思い込んでいるんだから、やっぱり聞いてやらにゃあなるまい」

そう決めた修さんは、片道の船賃を工面してやることにした。この時の植村直己はまだ、泣いて断食して駄々をこねた「甘えん坊の末っ子」であった。






◎アメリカ



1964年5月2日、アメリカへ向け横浜港を離れる移民船「あるぜんちな丸」。その甲板上に植村直己の姿はあった。当時の日記にはこうある。

「日本を離れる夢は今や実現した。横浜の桟橋からはなれてゆくたくさんの見送りのテープに実感が初めてわいた。この乗船まで右や左と転びつつ、きわどく今日に至る経過をたどってきたが、今日という日を待ちわびて乗船してみると、意外と気持ちは落ち着いたものだ」



1964年という時代、まだまだ外国へ行くというのは大変なことだった。東京オリンピックが開かれるこの年の前夜、貿易自由化によって海外への観光旅行の道がわずかに開かれた折とはいえ、為替レートは1ドル360円。大学卒業後の若者が気軽に出かけられる旅ではあり得ない。

何しろ、当時の日本のサラリーマンの平均的な月収は2万円程度(約60ドル)。アメリカまでの片道の船賃10万円というのは、5ヶ月分の給料に相当したのである(現在価値にして100〜150万か)。

その大金を工面するため、植村は大学卒業までの朝から晩まで、ご飯とタマネギの味噌汁だけを糧に建築現場で汗を流し続けた。船の切符代を支払った後、植村の手元に残ったのは「110ドル(約4万円)」だったという。



植村の計画としては、まずは経済大国アメリカで一稼ぎした後、満を持してヨーロッパ・アルプスに乗り込み、「念願の氷河」を一目見るというものだった。

ロサンゼルスのホテルでの皿洗い、ブドウもぎの仕事などなど、手持ちの110ドルはわずか数ヶ月の肉体労働で1,000ドル(約36万円)にまで膨らんだ。

ところがある日、労働中の植村は移民局に捕まってしまう。労働許可証(ビザ)を持っていないことがバレたのである。身ぶり手ぶりで弁明に努めた植村は何とか強制送還は免れる。だが、アメリカ滞在はわずか半年に満たぬ間に終わりを迎え、その後、追い立てられるようにしてヨーロッパへ向かうこととなった。






◎フランス



フランスに渡った植村は、ここに「待望の氷河」をヨーロッパ大陸の最高峰「モンブラン」で足下に踏みしめる。

しかし、それからすぐに植村は「死の淵」へと姿を消す。憧れの氷河には、底も見えぬほどに深い亀裂(クレバス)が口を開けて待っていたのであった。

落ちたと気づいた時、クレバス両側の壁に胸とザックが挟まり、両脚がブラブラと宙に浮いていたという植村。九死に一生を得ていた。ちなみにこの際どい体験から以後、植村は何本もの長い竹竿をストッパーとして身体にくくりつけるようになった。落ちてもどこかに引っかかってくれるようにと願いを込めて。



こうして失敗に終わったモンブラン登頂。クレバスから無我夢中で這い出したあとは、足がすくんで一歩も進めなくなってしまったという。

リベンジせずんばなるまい、と植村はフランス滞在を決意。職探しに奔走した結果、冬季オリンピック滑降の金メダリスト、ジャン・ビュアルネ氏の経営するスキー場でパトロール職員として拾われる。



ところが、その就職直後、植村の元に母校の明大・山岳部から「ヒマラヤ遠征」の誘いが舞い込む。

「ヒマラヤへのあこがれ絶ちがたく」

植村はそう言って、拾ってくれたジャン・ビュアルネ氏の了解を取り付け、モンブランへのリベンジをそっちのけ、一路ヒマラヤに飛んだ。






◎初ヒマラヤ



目指すはヒマラヤの処女峰「ゴジュンバ・カン(標高7,646m)」。

ここでいきなり植村はその頂きに立つ。初登頂の名誉を授かるのである。



だが、この成功は植村にとって「複雑な思いを催すもの」だった。ヨーロッパからの飛び入りだった植村は、遠征隊の資金調達にも参加していなかったため、下働きのポーターとしての参加だったのである。

ところが、事故者の続出や第一次登頂隊の失敗などの末、結局、だいぶ席次の低かった植村がいちばんテッペンに立ってしまったのだった。頂上に立つことができたのは、並み居る隊員たちの中で植村とそのシェルパ、ペンバ・テンジンだけだった。



「穴があったら入りたい」

新聞などで自分の名前が大々的に取り上げられるのを見て、植村は居たたまれない気持ちに苛まれていた。

「自分はたまたま頂上に登らせてもらったのに、大きく扱われるのは自分だけで、隊員諸氏に申し訳ない…」

まるで植村は、トンビが油揚げを奪ってしまったように感じていたのである。



登山はチームを組んで行われるのが普通である。第一、第二という具合にキャンプをチームで先に進めながら、最後にアタック・キャンプから頂上を目指す。集団で目的を達成しようとするこの社会的行動のような登山を「極地法」と呼ぶ。

だが植村は、この方法に疑問を抱かざるを得なかった。最後の成功者となるのは実力者とは限らない。時に有力な第一次隊が捨て石となってしまうこともあった。植村の参加した今回のように。

のちに植村は、この極地法の対極にある「単独行」という登山・冒険方法へのこだわりを見せていくことになる。その因は確かにここにもあった。



ちなみに、植村の名である「直己」は、本来「直巳」であったという。生まれ年の干支である巳(へび)にちなんで名付けられたのであった。

だが、町役場の戸籍担当職員の誤字により戸籍名は「直已」として登録されてしまう。

このことに関して植村は、「巳(へび)より己(おのれ)の方が格好良い」と満更でもなく思っていたという。そして「己(おのれ)」という個に対するこだわりは、冒険家・植村直己の体を表すようにもなっていく。






◎矜恃



登頂成功に後ろめたさを拭えなかった植村は、隊長の「一緒に日本に帰れ」という指示に従うことができなかった。遠征隊とは別れ、植村は一人フランスのスキー場へと戻る道を選ぶのである。

その帰途、じつは植村の懐には帰りの船賃すらなかった。明大の遠征隊は植村の交通費を負担するくらいの余裕はあったが、植村はその好意を受けることができなかった。手柄を奪ってしまった遠征隊にすまないと思う気持ち、さらに彼なりの見栄もあったかもしれない。



船賃はカメラと時計を処分してようやく乗船することができたが、マルセイユからアルプスのスキー場まではまったくの無一文。頼りはヒッチハイクのみ。食うや食わずの4日間であったという。

「オレは物乞いなんてしたことありませんよ! 食べ物を恵んでもらうなんて!」

この時の無銭行を振り返る時、植村は顔を紅潮させながら語気を強めたという。普段は穏やかで、内にもっている激しさを滅多なことでは表にあらわさない植村が。

彼には彼なりの高い矜恃があった。「一人でやれることは一人でやろうとし、一人でやった。ごく自然に当たり前のように」。



飲まず食わずでスキー場に戻った植村は、節約に節約を重ねて資金を貯め込み、次なる冒険に備える。

「毎月無休で働いて、一方ではコーヒー、ワインは決してとらず…」

一時、無理がたたって黄疸に倒れるも、大陸最高峰を次々と制していく。ヨーロッパ大陸の最高峰「モンブラン」へのリベンジを果たし、アフリカに足を伸ばしてアフリカ大陸最高峰「キリマンジャロ」を制覇。ともに「単独行」という紛れもない自分自身の足で。



派手な業績とは裏腹な、ストイックな日常生活を送る植村。

「すべてを自分の責任で、一人でやり抜くこと」

その思いは強まるばかり、その矜恃は高まるばかり。世界の荒波にもまれながら、「甘えん坊の末っ子」という顔はその表情を大きく変えていったのであった。






◎アルゼンチン軍



植村がフランスにいたのは約3年間。

お世話になったビュアルネ氏の元を去った植村は、大西洋を渡り南アメリカ大陸の最高峰「アコンカグア」の頂を目指す。

その野望の前に立ち塞がったのはアコンカグアの高峰ではなく、「単独登山の許可」という事務手続きだった。



アコンカグアは軍の管轄下にあったため、軍の許可が必要だったが、単独行を申し出ると「ロコ(馬鹿)」と笑われるばかり。アルゼンチンという国には登山という文化自体が薄かった。さらに植村の見た目も悪かった。軍の司令官は植村の「登山装備が貧弱すぎる」と一蹴。

それに反論するため、手を大きく振りながら必死に弁明に努める植村。しまいにセーターを取り出し、両袖に足を通して見せる。「寒い時はセーターがズボンの代わりになるのだ」と。だが、そのパントマイムのような実演に大勢の軍関係者は大爆笑。

登山許可の交渉も、組織に属していればもっとスムーズだったかもしれない。だが、植村の選んだ道は「一人」。何のバックアップもない。フランス語は話せるようになっていた植村も、アルゼンチンで通じるスペイン語まではわからない。



それでも植村の熱意にほだされたのか、結局、軍の司令官は植村に登山許可を下す。そして手袋や防寒具を貸してやると植村に手渡した。

だが植村はその好意を跳ね除ける。「山登りは自分の足でやる。自分の装備でやるものだ」、そう言って。

普段、人付き合いにおいて穏やかさと笑顔を絶やさなかったという植村だが、アルゼンチン軍との顛末には、心穏やかならぬところがあったらしい。のちにこのアルゼンチン軍は、植村直己「未完の野望」となる南極大陸横断の前でも最大の障壁となることとなる。なんとも因縁深き話である。



アルゼンチン軍に散々バカにされ、猛然といきり立った植村。

20日はかかるというアコンカグアの困難極まる登頂を、「わずか15時間」という信じられないスピードで登頂してみせるのだった。



「オレの山行は主義があって登るのではない。心の勇んだときに登るだけだ」

放浪の旅のさなかにあった26歳の若者は、南米最高峰アコンカグアの山上で気を吐いた。






◎アマゾン河6,000km、筏下り



「無銭旅行のはずみで敢行したアマゾン河のイカダ下降」

あくまで一人の植村は、唯一の相棒となるそのイカダに「アナ・マリア」と命名した。アナ・マリアという女性は「僧衣をまとった穏やかな笑顔が本当に美しい」と植村が日記に記した女性。「一人の男を愛するわけにはいきませんが、あなたの無事を祈っていましょう」と行ってくれた修道女であった。



イカダの上で危機に直面した時、植村は「アナ・マリア、助けてくれ!」と心の中で叫んでいたという。

人に頼ることを嫌った植村にも「心の支え」は必要であった。「誰かに思いを託す」、それは植村の癖だったと、取材を続けた湯川豊氏は言っている。この時の植村はまだ独身。のちに最高の心の支えとなる公子夫人とはまだ出会っていなかった。



アマゾン川の猛烈なスコール(豪雨)に、小さな筏は木の葉のように弄ばれる。さらに川岸の原住民は武器を持って襲いかかる。そんな災難が日常茶飯事だった。

「首からかけている銀色の十字架が動くたびにキラリと光るのが忘れらない」と植村が記す、色白のアナ・マリアの面影。その霊験あらたかであったのか。植村の筏「アナ・マリア号」は60日間、約6,000kmにもおよぶ空前の単独川下りを耐え抜いた。






◎マッキンリー



そこまでして向かった先は、北アメリカ大陸の最高峰「マッキンリー」。アラスカの果てにそびえる名峰である。

だがこの時、植村はまたもや登山許可に阻まれる。マッキンリーは原則4人以下での登山が禁止されていたのである。アメリカのガードの固さはアルゼンチンの比ではない。さすがの植村もこの時ばかりは一時引き下がるを得なかった。



「マッキンリー」

この語は、植村直己の生涯を知る者たちに悲しく響く。植村が初めてマッキンリー山を目にして16年後、彼はこの雪山に姿を消すのである。

この時27歳、植村の直感は自身の運命を予感していただろうか…。



いずれにせよ、「世界放浪1,000日の旅」はここマッキンリーを見上げたところで終わる。

植村直己が日本に帰国するのは、じつに4年5ヶ月ぶりだった。













(つづく)

垂直から水平へ。原住民に溶け込んで [植村直己 夢の軌跡より] その2






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冒険家の「心の支え」 [植村直己 夢の軌跡より] その3

「南極の夢」とマッキンリー [植村直己 夢の軌跡より] その4(完)



出典:ナショナル・ジオグラフィック
植村直己「夢の軌跡」湯川豊
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2013年07月26日

美しくも悲しき山、谷川岳



「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」

川端康成の小説「雪国」は、この名文より始まる。



小説の舞台となったのは「越後湯沢」。

すなわち、ここに言う「国境」というのは、群馬と新潟の県境のことであり、小説の主人公・島村は群馬から新潟という「雪国」に抜けたのである(ちなみに、作中には越後湯沢という地名は一切出てこない)。



そして、その「長いトンネル」というのは、群馬と新潟をつなぐ「清水トンネル」。

このトンネルが開通するのは昭和6年(1931)。その数年後、川端康成はこのトンネルを抜け、越後湯沢の温泉宿(高半旅館)で小説「雪国」を書いたようである。



文字通り「長い」、清水トンネル。全長は10km近く(9,702m)もあり、その貫通工事は難航し、完成まで9年もの歳月を要している。

というのも、トンネルの穴を貫かねばならなかった山体は「谷川岳」という名峰で、「閃緑岩」という硬い岩が行く手を阻んだからである。



さて、今回の話はトンネルではなく、その真上に鎮座する「谷川岳」である。

川端康成の文学のごとき美質をもつこの山は、美しくも悲しい山である。その岩稜の険しさから、登山者の事故が絶えぬのである。

清水トンネルの開通から開始された統計によれば、その死者は現在までに800人を超えている。この数は国内のみならず世界にも突出しており、世界のワースト記録としてギネス認定を受けてしまったほどである。



ゆえに、谷川岳には「人喰い山」とも呼ばれる。

「美」に寄り添うようにある「死」。その深く急峻な谷間には、数々の若き花びらが散ったのだ。

谷川岳に交錯する生と死の世界、その歩みを知る。






◎遅れた初登攀



遠方から望む谷川岳は、「猫の耳」のように見える。それは、谷川岳はその頂部で2つに分かれ、それぞれ「トマの耳」、「オキの耳」と呼ばれる双耳峰となっているからである。

「トマ」とはトバ口や手前を意味し、「オキ」とは沖、奥を指す。その言葉通り、群馬側から見たとき、「トマの耳」が手前(南)、「オキの耳」が奥(北)に見えることになる。

標高はオキの耳が若干高く1,977m、トマの耳が1,963m。峰としては2,000m以下級であり、数字的な脅威はさほど感じられない。ましてや、「猫の耳」などという愛称を聞けば、まさかこの山が「魔の山」と恐れられているとは思えない。



この山の初登攀は大正9年(1920)7月2日。現在「谷川岳の日」となっている、およそ100年前のその日である。

この日、谷川岳の山頂に立ったのは、この山に精通していた「剣持政吉」に導かれた「藤島敏男」と「森喬」。この3人であった。

当時、すでに日本各地の高山はほとんど登り尽くされており、のちに谷川岳と並んで「三大岩場」に数えられることになる槍ヶ岳と穂高岳でさえ、冬の積雪期にも登攀されていた。



ではなぜ、谷川岳の初登攀だけがそれほど遅れたのか?

その理由は、谷川岳が難攻不落だったというよりも、むしろ挑戦する人がいなかったからである。なにより、その交通が不便だったのだ。

川端康成が通ることになる「国境の長いトンネル」こと清水トンネルが開通するまで、東京からこの谷川岳に近づくには、群馬・高崎から軽便や馬車に乗り継ぐか、もしくは新潟側へ大きく回る必要があった。

事実、藤島らによる初登攀は土樽から登っている。すなわち、新潟県側からということだった。






◎大島亮吉



谷川岳の「冬季」における初登攀はそれから7年後、昭和2年(1927)。慶応大学・山岳部の「大島亮吉」による。

大島は山岳部の部報で「近くてよい山なり」と谷川岳を評している。その頃はまだ、清水トンネルは工事中だったのだが…。

大島は谷川岳でもとりわけ「東面岩場」に情熱を注いだ。難所・マチガ沢を初登攀したのも彼である。さらに、三大岩場と称せられる槍ヶ岳・穂高岳の冬季登攀も成し遂げている。



彼は山登りであると同時に、文学者でもあった。

「道のありがたみを知っている者は、道のないところを歩いた者だけだ」

「尾根の悪いところでは、カモシカの歩く路と人間の通る路は一つになる。ひどいヤブの中では、ヒグマの歩いた路と人間の路は一致する」

「落ち葉の上を歩く足音ほど、心に響く音はない」

などなど、名言・名文を多数書き残している。



しかしながら、谷川岳の冬季初登攀の翌年、大島は突然この世を去る。

前穂高の北尾根で墜落死してしまうのである。

享年、いまだ29歳であった。






◎宙づり遺体



登山者たちは山に魅せられ、そして時に命を散らす。

「国境の長いトンネル」の完成は、大島の言葉通りに谷川岳を「近くてよい山」にし、登山者の急増をもたらした。だが同時に、遭難死という危険が背中合わせであったことも痛感させた。なんというジレンマか。



冒頭に述べたとおり、谷川岳で命を落とした人々は800人以上と一つの山としては「異例の多さ」である。ちなみに、ヒマラヤ山脈の8,000m峰14座、すべての死者を合計しても700人に満たない。

ゆえに谷川岳で遭難者がいっこうに減らないことが危惧され、昭和41年(1966)、谷川岳には世界初の登山規制「遭難防止条例」が出されたほどである。



この条例制定のきっかけとなった事件がある。それが「宙づり遺体」事件である。

発生場所は、難所中の難所「一ノ倉沢」。この沢を文筆家・瓜生草造に言わせれば「半円形をなした岩の大伽藍」となる。その地形は複雑で、まるで階段を手前に傾斜させたような逆層になっている。

つまり、ホールドが小さく非常に難しい。岩には草が付いていて、これがまた滑る、と八木原圀明・谷川岳山岳資料館館長は語る。



救助を求める声が聞こえたとの通報を受け、警備隊が一ノ倉沢に急行したところ、正面岩壁上部にザイルで宙吊りになっている2人の登山者を発見した。

だが時すでに遅く、この時点で2人は息絶えていた。それは遠方からの双眼鏡により確認された。






◎銃撃



問題となったのは遺体の収容である。

2人のブラ下がっていた衝立岩の正面岸壁は、当時登頂に成功したのは前年の一例のみという「超級の難所」。この岩壁に接近して遺体を収容することは不可能に思われた。無理を押せば、二次災害の危険が増すばかりであった。



そこで出された苦肉の策。それは2人を宙吊りにしているザイルを銃で撃ち抜き、切断するというものだった。太さわずか12mm、指一本分の細さしかないザイルを、数百メートルの長距離から…!

那須与一であれば一発でそれを成せたかもしれない。だが、自衛隊が消費した弾丸はなんと1,238発。2時間以上も小銃・軽機関銃を射撃し続けた末にようやくザイルの切断に成功した。



当時の新聞(昭和35年)はこう記した。

山肌に銃撃のこだま

1,238発で命中。ザイル切断に成功

谷川岳宙づり死体、絶壁下で数回はずむ



「あまりにも痛々しい遺体収容作業」であった。

遺体となったその2人の登山者は、20歳と23歳の若き男性だった。






◎厳格な教師



谷川岳の登山を難しくしているのは、その厳しい地形もさることながら「不安定な天候」もある。

谷川連峰というのは、太平洋と日本海を隔てる「中央分水嶺」に位置するため、その上空では、乾燥した太平洋側の空気と湿った日本海側の空気がせめぎ合う。その結果、天候の変化が激しいものとなるのである。



昭和31年(1956)、槇有恒らがヒマラヤのマナスル(標高8,163m)の初登頂に成功すると、日本に一気に山ブームが巻き起こる。

清水トンネルのおかげで交通の便も良くなっていた谷川岳も、この一大ブームで大変に賑わうことになる。首都圏からくる登山者たちにとっての群馬側の登山ベース、土合駅は足の踏み場も寝場所もないほどに込み合ったという。

便利になるほど気軽に訪れる者も多くなり、急激な気象の変化により遭難が後を絶たなくもなる。谷川ロープウェイが営業を開始するのは昭和35年(1960)。ますます谷川岳へのアプローチは容易になった。



時代を経るほどに近づく「魔の山」谷川岳。

その美しさは登山者の心を惹きつけてやまない。



「嵐は登山者の厳格な教師だ」と、登山家にして詩人であった大島亮吉は言っていた。

山に行け!

君がその憂鬱のすべてをばルックザックに入れて。

そしてこの青々と大気の流れる、明るい巌の頂きに登り来よ。

しかる時、いまや君の背負うその重き袋は、悦びのつまった軽き袋にかわり、心は風のように軽く、気持ちは蒼空のように晴れ晴れとほがらかになるであろう。













(了)






出典:日本山岳史
「谷川岳 近代登山の歩み」
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2013年07月23日

山と日本人 [日本アルプス略史]



古来、日本では山そのままが「神」であった。

とりわけ駿河の富士、加賀の白山、そして越中の立山は「日本三霊山」として古くから崇められてきた歴史をもつ。



その「立山」、日本を作り終えた神様が天界に戻る際、よいしょと踏み台代わりに足をかけて立ったから「立山」だという説がある。

その開山は古く、奈良時代の701年。そこにはこんな伝説が息づく。










◎白鷹伝説



時は文武天皇の時代、越中(現在の富山県)では騒乱がおさまらない。頭を悩ました天皇はこんな夢を見た。

「佐伯有若に治めさせよ」

神のお告げである。かくして越中国司に任じられた有若(ありわか)。

野を越え山を越え、有若が越中を目前とした倶利伽羅山に差しかかった時である。一羽の美しい「白鷹」が現れる。この白鷹のおかげか越中の国はその後、見事に治まった。さらには待望の男児・有頼(ありより)も授かった。



そして月日は流れ、息子・有頼(ありより)は16歳に。ここで事件が起こる。息子・有頼は父が大切にしていた白鷹を逃してしまうのだ。

無断で白鷹を持ち出して狩りをしていた最中だったから、さあ大変。有頼は血眼になって白鷹を探し回る。そしてようやく、一本の大松の梢に止まる白鷹を見つけ、ほっと胸を撫で下ろす。

だがその時、竹藪から現れた一頭の熊に白鷹は驚き、ふたたび大空高く舞い上がり、その彼方へと消え去ってしまった。



怒ったのは有頼だ。

「このバカ熊め!」とばかりに、はっしと矢を射ち放つ。怒りのこもったその矢は見事、熊の胸にグサリ。熊は手負いとなりながらも山奥へと逃げていく。

「待て!バカ熊」と追いすがる有頼。熊の流す血の跡を延々とたどり、何日も何日も険しい山中を駆け続ける。



川あり坂ありの至難の道を進み続け、ようやく有頼は美しい山上の高原へとたどり着く。ふと見れば、探しあぐねていた白鷹は天を翔け、いまだ傷癒えぬ熊は地を走り、ともにそろって岩穴へと入っていく。

「しめた」と有頼も岩穴へと続く。するとその時、漆黒の闇に包まれていたはずの穴の中が、突然まばゆいばかりに光に包まれる。

目のくらんだ有頼がようやく薄目を開けた時、その眼前に立っていたのは、胸に矢の刺さった仏さま。その後ろには不動明王。



その光景に有頼は即座に悟った。白鷹は不動明王、熊は阿弥陀如来の化身であったことを。

「なんてこった…」。自らが犯してしまった恐ろしい誤ちに、有頼は嘆き悲しむ。そして、その場で弓矢を折るや、すらりと剣を抜き放ち、自らの腹をかき切らんとす。

すると阿弥陀如来は世にも優しく語りかける。「乱れた世を救おうと、ずっと前からこの山で待っていた。お前の父をこの国の国司にしたのも、動物の姿となってお前をこの場所に導いたのも私である」

「切腹などせず、この霊山を開くべし」



のちにこの話を知った文武天皇は深く心を動かし、勅命により立山を霊域とする。

以後、有頼は「慈興」という僧名を得て、立山寺(現在の雄山神社)を建立。佐伯有頼こと「慈興上人」は、「立山開山縁起」においてその祖とされ、生涯を立山の開山に尽くしたということである。

現在、雄山神社のご神体は立山そのものであるが、その祭神はイザナギと天手力男命(たぢからお)、二柱の男神。神を仏に結びつける本地垂迹説によれば、イザナギは「阿弥陀如来」を、天手力男命は「不動明王」を本地にするとのことである。






◎修験道








平安時代になると、日本では山を師とする「修験道」と呼ばれる独自の山岳宗教が誕生し、立山の信仰にも深く結びついていく。

修験道によれば、山に入ることは「死」を意味した。一度死んで山中の修行に励むことにより、生前の罪や穢れを浄化し、下山すれば生まれ変わると信じられた。入山すれば「死と蘇り(黄泉がえり)」を体現できる、と。

ゆえに、山中には「地獄」と「極楽」が共存することになる。



立山においては、一宮・雄山神社のある雄山(おやま)が「仏そのもの」、極楽浄土。芦峅寺(あしくらじ)のある麓の高原は弥陀ヶ原。

硫黄臭ただよう地獄谷は、その名の通り「地獄」。その近くのみくりヶ池は「血の池」、剣岳は「針の山」とされ、日本中の死者は立山の地獄に落ちるとされていた。

その様を克明に描くのは「立山曼荼羅」。佐伯有頼が阿弥陀如来に出会う一場面から、閻魔大王が罪人たちを裁く風景などが入り乱れている。



日本に古くからある「山上他界」という信仰によれば、亡くなった人の魂は山の彼方へ行ってしまうと信じられていた。

もし、その他界である山から生きて帰ってくることができた時、修験者たちには常人に持てない力(法力)を身に付けられると信じた。この信仰は、生きながら悟りを開く「即身成仏」の観念とも通じるものであった。










◎立山信仰



江戸時代になると、立山は修験者だけのものではなくなる。信仰登山の対象とされた立山には大勢の登山客が訪れるようになる。

その理由は、山麓で熱心な布教活動を続けた「芦峅寺(あしくらじ)」や「岩峅寺(いわくらじ)」の御師による尽力が大きいといわれている(「峅」という文字は、神さまの降り立つところを意味し、「御師」とは社寺への参詣者を案内し、参拝・宿泊などの世話をする者たちのこと)。

江戸時代後期には、芦峅寺には24坊、岩峅寺には33坊もの宿坊が建ち並んでいたという。



御師(おんし)たちは諸国を巡り、立山信仰を全国へと広めていく。江戸はもちろん、全国各地に「檀那場(だんなば)」と呼ばれる立山信者が集中して暮らす縄張りを張り巡らせ、御師たちは護符や立山曼荼羅などを持って檀家を回ったという。

その時、同時に持参したものに「薬」、立山龍胆や熊の胆などがあり、それが「富山の薬売り」の流れにつながっていったという説もある。御師たちは「檀那帳(だんなちょう)」と呼ばれる顧客名簿のようなものに、いつどこの檀家を訪ねたかなどを事細かに記していたという。



檀家を訪れた御師たちが広げる、極彩色で描かれた「立山曼荼羅」は一番の見せ場であった。地獄や極楽の描かれたその掛け軸には立山の名所なども記されており、まるで絵物語。

難解な説教など理解しえぬ人らも、その分かりやすい絵画と御師たちの巧みな話芸を大いに楽しんだということだ。








江戸時代に越中富山を領したのは前田家であるが、当家は立山信仰を手厚く保護したと伝わる。

立山一帯の自然を乱すものがいないか見回りを命じる条例まで出されていたという。これは高山植物や動物保護に関する日本初の条例であるともいわれている。






◎近代登山の夜明け



明治時代になると、ヨーロッパに生まれた「近代登山」がいよいよ日本にも芽吹きはじめる。明治以後、信仰の山は娯楽の対象への道を進むことになる。

ここで大きな役割を果たすのはイギリス人。外国人による北アルプス登山として最も早く記録されているのは、明治5年(1872)に来日した「ウィリアム・ガウランド(William Gowland)」。

ガウランド(ゴーランドとも)が来日したのは、大阪造幣寮(現・造幣局)の冶金技師としてであったが、彼は日本各地の鉱山を回りながら、同時に立山などの北アルプスへの登頂を果たした(1875)。



「日本アルプス(Japanese Alps)」という言葉を初めて用いたのは、このガウランドだといわれている。

明治14年(1881)に出版された「中部・北部日本の旅行ハンドブック」の中でガウランドは、この地方の山脈は日本において最もすばらしく「日本アルプスと称して然るべきところであろう」と述べている。








そしてその後、のちに「日本近代登山の父」とされる人物「ウォルター・ウェストン」が、明治18年(1888)、宣教師として熊本にやって来る。当時26歳という若さであった。

マッターホルンの登頂など登山経験が豊富だったウェストンは、宣教師としての活動よりも「日本の山々」に夢中になる。明治23年(1890)に富士山に登ると、それを足がかりに日本アルプスへと取り掛かる。

ちなみにこの時代、女人禁制とされていた立山登山も明治5年(1872)にその禁が解かれており、その翌年、深見チエが女性として初登頂を果たしている(1873)。





◎上條嘉門次



イギリス人宣教師・ウェストンが「上條嘉門次(かみじょう・かもんじ)」に出会ったのは、前穂高岳(標高3,090m)に意欲を燃やしていた時だった(1893)。

当時といえばまだ山岳地図もなく、山中に宿泊施設もない。ゆえに山に精通した嘉門次のような案内人を雇うことが、登山成功へのカギだった。

だが、嘉門次とて山の案内が本職ではなかった。嘉門次は山麓の村に住む猟師であり、冬は熊やカモシカ猟、夏場はイワナ釣りなどを生業としていた。



ウェストンと出会った時の嘉門次は45歳。

12歳から父に連れられ山を巡り、30歳の頃から明神池のほとりに小屋を構えていた嘉門次にとって、その近辺の山場は彼の庭同然であった。請われれば、抜群の経験と鋭いカンで山の案内もしていた。時には滑落した人を背負って麓まで降りることもあった。



のちに深い絆で結ばれることになる2人であるが、その初対面はむしろ険悪だった。

ウェストンは先を急いでいた。だが、嘉門次は頑としてそれを拒む。天候がそれを許さないと譲らなかったのだ。

結局、折れたのはウェストン。その日の出発は諦め、翌日に出発することとなった。



翌日、山に入ったウェストンは嘉門次の慧眼に驚く。豪雨による爪痕はウェストンの想像以上に深く、それを山中で目の当たりにしたのだった。

嘉門次はといえば、それを誇るわけでもなく、黙々と重い斧を振り回して藪をなぎ倒して進んでいく。なんと頼もしき姿であろうか。

そして麓の小屋を出て6時間後、ウェストンは外国人として初めて穂高の一角に足跡を残すこととなった。






◎ピッケル



その後、いったんイギリスへ帰国したウェストン。ロンドンで「日本アルプスの登山と探検」という本を刊行し、その中で「ミスター・カモンジ(嘉門次)」を写真付きで「老練なる山岳人」として紹介。

こうして、穂高山中の一杣人であった上條嘉門次は、一躍日本の名ガイドとしての名が世界に轟いた。








2人が再会するのは18年後、ウェストンは婦人を伴って上高地を訪れた。嘉門次はといえば、すでに60代半ばとなっていた。

この時、ウェストン夫人が登頂を果たしたのは日本第3位の高峰「奥穂高岳(標高3,190m)」。女性としては初登頂となった。



その4年後、上條嘉門次は70歳で息を引き取る。

現在、明神池のほとりには嘉門次の曾孫が「嘉門次小屋」を営み、今も暖かく登山客を迎え入れている。

その囲炉裏のある部屋の奥、煤けて黒光りするカモシカの角には「一本のピッケル」が大切に飾られている。それはウェストンが友情の証にと、嘉門次に贈ったものだという。

生前、囲炉裏で焼いたイワナを頬張るときが「至福の時だ」と言っていた嘉門次。きっと2人は山行の疲れをその囲炉裏端で癒していたのだろう。










◎山小屋



ウェストンの開いた近代登山の扉は、小島烏水(こじま・うすい)を開眼させ、ウェストンの勧めにより彼は東洋初の山岳会「日本山岳会」を明治38年(1905)に設立。日本近代登山に先鞭をつける。

その翌年、登山者が山中で寝泊まりするためにと、松沢貞逸(まつざわ・ていいつ)によって北アルプス最初の山小屋が白馬岳山頂に開業する(1906)。

その山小屋は、元あった石室を改造したもので、立てば頭が天井につかえるような質素なものであったというが、「野営からみればまさに天国のような居心地」と登山者たちを大喜びさせた。








「近代登山には山小屋が必要だ」と考えたのは穂苅三寿雄(ほかり・みすお)も同様だった。

だが時代の風は厳しい。「あんな場所に山小屋をつくって君は何をするつもりなんだ?」と松本小林区署は冷たかった。三寿雄の計画では、槍ヶ岳の険しい山頂直下に山小屋をつくろうとしていたのである。



それでも三寿雄の決意は固い。彼が初めて名峰・槍ヶ岳を制したのは大正3年(1914)、23歳の時だった。当時の登山には案内人を雇うことが必要不可欠。それには相応の費用がかかったが、三寿雄は何とかその大金を捻出して山頂に立ったのだった。

その時痛感したのが、山小屋の必要性。当時の槍ヶ岳には石室があったものの、寒いうえに雨にも弱く、登山者がゆっくりと寛げる場所とは到底いえなかった。



幸いにも大正5年(1916)、東久邇宮殿下が槍ヶ岳登山を行う。いわゆる「宮様登山」。それに合わせて登山道や橋が整備されることになり、三寿雄の山小屋計画も半ば署員に呆れられながらも承認されることになったのである。

そして大正16年(1917)に開業したのが山小屋「アルプス旅館(のちに槍沢小屋に改名)」。これが北アルプスで2番目の山小屋である。質素ながらも大いに繁盛したとのことである。








余談ではあるが、宮様登山において秩父宮ご夫妻を槍ヶ岳に案内したのは、ミスター・カモンジこと上條嘉門次だといわれる。

妃殿下が断崖に向かって歩き出した時、「オオカミサンっ! そっちは行っちゃーなんねーっ!」と怒鳴ったという嘉門次。彼にとってそれが一世一代の敬語であった、と嘉門次の妻は語っていたという。

「なんせ、皇族の奥様をカミサン呼ばわりしたもんは、前にも後にもあの人しかおりましねぇ(笑)」










◎その後



宮様登山に次いで、次々と開業していく山小屋。

それが大正の登山ブームに火を着けた。

同時期、大正2年(1913)から発売された陸地測量部の「5万分の1の地図」は、映画「剣岳・点の記(原作・新田次郎)」にあった通り、最後の空白地であった剣岳の測量を終えると、すべての地図が出そろうこととなった。








昭和の一大登山ブームを巻き起こしたキッカケは、なんといっても「槇有恒(まき・ゆうこう)」ら世界的クライマーたちによるヒマラヤ山脈マナスル(標高8,163m)の初登頂であった。

1950〜1960年代に「カニ族」と呼ばれるのは、横にかさばるキスリング・ザックに鍋などをくくりつけた若者たちだ。ザックを背負ったままでは駅の改札口や列車の通路を真っ直ぐに通ることができず、横向きに歩かざるを得なかった。

今でこそ車で登山口へ行けるものの、当時は鉄道がメイン。日本アルプスへと向かう夜行列車「新宿発23時55分、長野行き」は登山列車の代表格だった。



「中央本線の登山列車は、ぼくの揺りかごだった」と岩崎元郎(いわさき・もとお)は当時の学生時代を語る。「座席よりも上等なのは『三等寝台』、床に新聞紙を敷いて横になった方がよく寝られた」

「神さまはけっこう激しく、揺りかごを揺らしてくれたものだが…」








最後に、松本営林署が配布したという昭和2年(1927)の登山案内にはこう書かれてあった。

「登山せらるる方へ

 まず、山嶽を尊重すべし

 山上の徳義を重すべし

 細心にまた周密なるべし」













(了)






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出典:時空旅人Vol.14 「日本山岳史」 2013年 07月号 [雑誌]
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2012年05月01日

人を寄せつけぬ火山から一転、一大観光地となった「蔵王」。


昔々、雪深い山あいのその村は、「冬は寝て暮らす」より他になかったという。

なにも、好き好んで寝ているわけではない。それより他、何もできぬ土地柄だったのである。米を作るにも不向きで、冬場に山上から吹き降ろす寒風は、全てを凍てつかせてしまうのだ。

ここは「蔵王」の麓の村である(山形)。



「蔵王」という名は、かの「蔵王権現」からとられている。

蔵王権現というのは、修験道の祖とされる「役行者」が呼び寄せたと謂われる仏様である(この仏様は、珍しくもインドや中国に起源を持たない、「日本独自」の仏様なのだとか)。



何故、そのような名がつけられたかと言えば、その山があまりにも「荒ぶる山」だったためである。100万年前から続くという「火山活動」。地の底深くマグマのたぎる火の山は、火を噴いてやまなかった。

その「荒ぶる山」を鎮めようと、都からは何人もの修験者たちが送り込まれ、その頂きに多くの神々を祀った。そして、その祈りの中心が「蔵王権現」だったのである。



蔵王権現というのは、仏様と呼ぶには似合わぬほどに「猛り狂っている」。

実に躍動的なその様は、煮えたぎるマグマを具現しているようでもあり、その形相たるや、思わずひれ伏さずにはおれぬほどに恐ろしい。まさに、噴火続きの荒ぶる山そのものである。

蔵王という山はそれほど人を寄せ付けぬ山でもあったのだ。

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蔵王が最後に火を噴いたのは、明治28年(1895)。

「火が垂直に舞い上がるほどの激しい噴火」。

近くの硫黄採掘場で働いていた人は、こう記している。「爆裂後、本地には一種のガスを発散し、人皆、目まい、卒倒せり」

硫黄が溶けた酸性の水は、いまだに生き物を生かしてくれない。噴火口となった「御釜」は元より、その水が流れ出る「酢川」もそうだ。

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しかし歴史上、その荒々しさはかえって修験者たちを魅了し、いつしかその山は「聖地」とされていた。

それでも、その土地に暮らす人々にとっては、厳しい環境は「苦」以外の何物でもない。「苦」を好んで求めるのは修行者ばかりである。



江戸時代、その厳しい蔵王に、ある一羽の鳥が「幸運のタネ」をもたらす。

そのタネはまさに実際の種であり、それは「柿」の種であった。その種は鳥が運んだとも、洪水が運んだとも、さらったゴミの中から出でたとも伝わる。

その由来はいずれにせよ、この種が発芽し、この貧しい村に「富」をもたらしたのは確かであった。



川口久右衛門の庭先に芽を出したというその種は、すくすくと成長し、いずれ「紅」のような美しい実をつけた。

そこで、山形のお殿様にその美しい柿を献上したところ、たいそう喜ばれ、その場で「紅柿」と命名されたという。



「秋に至り、数百万の取実ありて、その利を得、『莫大の潤ひ』とな り…(関根川口敏氏所蔵掛軸)


平たく言えば、紅柿によって「大儲け」したのである。

長年住民たちを悩まし続けた蔵王からの寒風。それがこの時とばかりは、大いなる味方となった。その風が吹き下ろしてくれるお陰で、たいそう質の良い「干し柿」ができたのだから。



その干柿に吹く「白い粉(糖分)」は高品質の証である。

「真っ赤な火」を噴く山のふもとで実った真っ赤な柿は、その寒風にさらされて「真っ白な粉」を吹くのである。その白い粉の吹いた様は、「小判」を連想させるとして、たいそうな「縁起物」としても扱われたのだという。

※今もこの地の「おせち」に干柿は欠かせない。この干柿を食えば「お金がたまる」と言い習わされてきているのである(なお、この紅柿は、今でもこの地「山形・上山」の特産であり、「干し柿の品質は無類」と絶賛されている)。

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江戸時代、別の「白い粉」も蔵王に富をもたらした。

それは温泉成分を干し固めた「湯の花」である。それが遠く江戸の町にまで出荷されていたのである。



その湯の花は、限られた家だけが作れる特権であり、その特権をもつ人々は、「湯之花取仲間」という組織をつくっていた(今なお、その伝統はこの地に息づいており、誰もが湯の花を取れるわけではない)。

温泉成分の濃い蔵王温泉のお湯は、温泉を引いてくるパイプを詰まらせる厄介モノでもあったのだが、それは取りも直さず、湯の花の豊富さをも示している。

現在でも2ヶ月に一度は真冬でも、温泉成分が蓄積するパイプの内側を清掃しなければならず、そしてその作業はそのまま「湯の花取り」ともなるのである。

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さて、いよいよ蔵王の話は現代につながってくる。

今の人々が「蔵王」と聞いて連想するのは、「スキー」をおいて他になかろう。



蔵王がスキー場として名を馳せるのは、明確なスタート地点がある。それは昭和25年(1950)である。この年に何があったかといえば、戦後に日本を支配していたGHQが、ある人気投票を行ったのだ。

それが「観光地百選」であり、そのトップに「蔵王」が選出されたのである。

この地に生を受けた歌人・斎藤茂吉もその喜びを詠っている。「みちのくの、蔵王の山が、一等に、当選をして、木通(あけび)霜さぶ」。



以後、皇太子さまが蔵王を訪れたり(1951)、白洲次郎が別荘を構えたり、映画が撮られたり…。

蔵王の「樹氷」を世界で初めて撮影し、海外に知らしめたのが「塚本閤治」。英国国際コンテスト風景実写部門1等賞を受賞した「Mount Zao」という映画は、その他多くの賞を海外で受賞している。

「トニー・ザイラー(オーストリア)」は、20歳そこそこでオリンピック(コルチナ・イタリア)の三冠王に輝き、その周辺の世界大会の金メダルを総ザライにもした伝説のスキーヤーであるが、彼の主演する映画「銀嶺の王者」は、ほかならぬ蔵王で撮影されたものである。

※皮肉にも彼は、映画によりスキー界を引退する。若くして名を馳せた彼は、その「爽やかな美男子ぶり」を買われ、以後、俳優に転向したのである。

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大昔の蔵王は、火の山として恐れられ、寄る人といえば修験の修行者ばかり。その熱すぎる火山とは裏腹に、寒すぎる寒風は、人々の食を脅かし続けてきた。

その蔵王が、いまや世界に知られる観光地となり、土地の豊かさは果樹王国とまで称されるようにまでなっている。



もし、300年前、庭先のゴミから柿の芽が出なかったら…。

もし、スキーがなかったら…。

この地は、また別の顔を見せていたのかもしれない。



今の我々は蔵王に火山の影を見ることは、まずない。

しかし、この山が火山をやめたわけでは決してない。



世界中の人々がこの地に遊ぶようになったのとは裏腹に、この山がかつて溶岩流で満たされた地域(現在のスキーエリア)には、いまだ猿たちは足を踏み入れないのだという。すぐそこの果樹園では、猿の群れがサクランボをかじっているというのに。

それは、「太古の記憶が、猿たちにこの地に住むことを躊躇させているのだ」、という人もいる。



有史以降の蔵王の火山噴火を見ても、773年、1227年、1624年、1694年、1809年、1831年、1867年、1895年と数多い。100年に一度くらいは暴れているようだ。

いまは静かに鎮座なさっている蔵王権現さまであるが、それは一時の休息を楽しんでいらっしゃるのかもしれない。



人の記憶は幸せにも忘れやすい。

地震や津波も、過去になれば忘れることができてしまう。

それに比して、地球規模の動きのなんと緩慢で、悠長なことよ…。





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出典:新日本風土記「蔵王」
posted by 四代目 at 07:50| Comment(1) | 山々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする