山賊のウワサ 『黒部の山賊』より その1
からの「つづき」
■富士弥
思わぬところで山賊と鉢合わせした伊藤正一。
−−私は山賊のウワサの真疑のほどはわからなかったが、ウワサについては彼の名誉回復のために努力すること。警察でも過去のことについては何も言わないことを説いて、結局、私が山賊の身元保証人のような格好になって話がついた(伊藤正一『黒部の山賊』、以下−−引用は本書)。
山賊の名は「遠山富士弥(ふじや)」といった。
−−この山賊こそ、上高地の嘉門次とならんで黒部の主と称された名猟師、遠山品衛門(しなえもん)の実子で、すでに当時60歳だった。
日本山岳会発行の山岳(明治44年)に、富士弥の父・品衛門のことがのっていた。
〜先に「穂高の仙人」上條嘉門次を紹介せられたり。嘉門次翁に匹敵するアルプス北方のオーソリチーは「黒部の主」の称ある我、品衛門翁をおいて他になかるべし。翁は戸籍上の姓名を遠山里吉という。本年61歳なり。年々冬はアルプス連峯の雪に獣を狩り、夏は黒部の清流に岩魚を釣る。黒部河畔ダイラの小屋を根拠地として釣魚に従事すること37年の久しきに及ぶ、「黒部の主」の名ある亦(また)むべならずや。翁、体躯大ならず、むしろ小男の部に属するほうなれども、多年山岳の秀霊に親しめる身は自ら俗悪の気なく、極めて円熟せる山人の風骨をみる。
翁に三男あり、三男は海兵として目下、横須賀に奉公中なりと。翁は笑いながら「わしゃ小さくても、倅(せがれ)は大きうがす。カカに似たのでしょ」と言う。
−−ここに書かれている、海兵に奉公中の三男というのが、ほかならなぬ富士弥のことである。彼は明治20年(1887)生まれ、堂々たる体躯で目つきは鋭く、海軍で習得したのであろう、柔道は二段で水泳も達者だった。彼のあかぬけした身だしなみも、こんなところからきているのであろう。彼は小学生のころより叔父の文弥とともに、父・品衛門に連れられて山や猟を教えこまれた。
■裏話
ひょんな縁から、伊藤は山賊に親しむこととなった。
そして彼の話を聞くうちに、「山賊側の語る」事件の裏側が見えてきた。
まずは「医師殺害事件」のウワサから。
−−じつはこの事件は裁判になった。場所は黒部の下ノ廊下、被疑者は富士弥、被害者は金満家の医者というので、当時かなりに世間の注目をあびた。それは大正10年(1921)ごろのことだという。富士弥が平ノ小屋にいたときだった。一人の医師が小屋へきて、富士弥から岩魚釣りを習ったりなどして幾日か遊んでいた。医師は人格者だったし、富士弥もいろいろと彼の面倒をみてやったので、2人は心から打ち解けあった仲になった。そのうちに下ノ廊下をぜひ案内してくれと懇願されたので、棒小屋の近くまで案内して別れた。別れぎわに医師は、金が足りなくなったというので、富士弥は金まで貸してやり、岩魚の薫製を一貫(3.75kg)もくれてやった。医師は非常に喜んで「ぜひ一度横浜まで遊びにきてくれ」と言って、服やカバン、靴などを買ってくれる約束をして名刺まで置いていった。そのまま医師の行方はわからなくなってしまった。
後日、「富士弥が殺したのではないか」と言いだす者がいたため、裁判になった。富士弥は裁判で「それほどの約束までした相手を、私が殺すはずがないではないか」と主張した。結局、富士弥は証拠不十分で無罪となった。しかし世間は、無罪になったことがかえって怪しいと訝んだ。そして富士弥を山賊だと言って恐れた。
−−のちに彼は「嫌疑をかけられるのは嫌なものです」と、しみじみ私に語った。
つぎに盗伐事件(ウワサ話によれば、富士弥は「大量の山の木」を盗伐、トラックで運び出すところを営林署に見つかったという。そして現場検証の際、富士弥は関係者全員を「ものすごい断崖の上」に置き去りにし、自身は風のように行方をくらましたとされていた)。
−−あるとき富士弥は湯俣付近で、盆栽にするための「小さな木を一本」とって持ち出すところを営林署に見つかった。そこで現場検証することになり、関係者立ち会いで富士弥に現場を案内させた。ところが彼はとんでもない岩壁を指差して「あの上でとった」と言った。そこは富士弥以外にだれも登ることのできないところだったが、とった本人だけが一人で登って見てきたのでは意味がないので、結局、現場検証はできなかったのである。
−−のちにこの問題が裁判になった時に、「これはおもしろい問題だ」と言って、信州諏訪の某弁護士が無報酬で弁護を買って出た。彼の弁論はつぎのごとくであった。「第一、現場検証もできないところにあった小さな一本の木である。これをそのまま放っておいたら、おそらくは誰の目にもとまることなく立ち枯れてしまったであろう。その木を、けなげにも盆栽にするためにとってきた富士弥の行為は、むしろ称賛されるべきであろう。しかし、あえて盗ったというのなら、それを金額に見積もれば一銭五厘である(当時の金で)」というのだった。それで結局一銭五厘を払ったとか払わなかったとかで終わったという。
そして、山賊に「首を刺す」と脅されて逃げた猟師の話。
−−富士弥は「ええ、わしは生きたウサギを”りょうる”ときは、逆さにして首を刺して血をしぼるですわね」と言った。なるほど、それを聞いた猟師が、てっきり自分のことだと思って逃げ出したのだろうか?
伊藤は山ではじめて富士弥に会ったときから、彼に悪い印象はもたなかった。ただ、富士弥が山賊だという先入観だけが、伊藤を必要以上に警戒させていただけだった。
−−私は富士弥をともなった記者会見などをして、大いに彼の名誉を挽回した。そして以後数年間、私と山賊たちとの山小屋生活がはじまったのである。
■生まれながらの山男
山に暮らす富士弥は、得意の狩猟で命をつないできた。
−−私は富士弥に「いままでに熊やカモシカを何頭くらい獲ったか」と聞いたことがある。彼は”そんな数はぜんぜん数えられない”といった面持ちだったが、それでも「熊は500〜600頭、カモシカ2,000頭は下らないだろう」と言った。
その昔、黒部は遠山一家のすみかであり猟場であった。そしてカモシカを獲ることは「正当な生活手段」であった。しかし時代が下り、カモシカを獲ることが「違法」になった。
−−その後、アルプスは国有林に編入され、自然保護法とか自然公園法などができた。これらは彼らから「生活手段をとりあげる法律」にほかならなかった。生まれながらの山男である彼らから見ると、営林署のほうがむしろ「彼らの生活をおびやかす侵入者」に見えたかもしれない。昔は獲ったカモシカをソリに積んでおおぴっらに運び出す時代もあったが、カモシカを獲ることが違法とされると、営林署は富士弥を追い、彼はますます山に立てこもった。
ただでさえ縄張り意識のつよい猟師。
−−富士弥は体格はいいし、得意の話術で相手をおどすこともあった。そのうえ拳銃をいじりまわしたり、夜中にナタを研いでみせたりもした。こんなことも山賊のウワサの広まった一つの要素であったにちがいない。
■イワナ釣り
山には富士弥の仲間たちがいた。
遠山林平(りんぺい)
鬼窪(おにくぼ)善一郎
倉繁(くらしげ)勝太郎
まず林平。
富士弥の従兄弟(いとこ)にあたる彼は、岩魚(イワナ)釣りの名人であった。
−−林平は富士弥に似て立派な体格をしていたが、顔は丸顔でどことなく滑稽味がただよっていた。明治34年(1901)の生まれである。
あるとき岩魚を釣りにでた鬼窪は、「だめだ。一つの淵にでかいのがウヨウヨいたが、ちっともかからぬわ」と帰ってきた。すると林平は言った。「ばかやろう。俺が明日いって釣ってくる」。
翌朝、淵にいった林平。その夕方、釣った岩魚を重そうにかついで帰ってきた。「80匹全滅させてきた」。彼は会心の笑みで顔をほころばせた。
−−岩魚は少しでも姿を見られたり針を投げそこねると、同じ淵では絶対に釣れないものである。まして一匹でも釣りそこねたら、ほかの魚は釣れない。林平はほかの岩魚に気づかれないように、後ろにいるのから静かに上げていったのである。それらの岩魚は全部尺二寸(30数cm)以上のものばかりであった。
−−岩魚はふつう上流を向いている。そして少しでも人の影を見ると、絶対に餌は食わない。だから岩魚に気づかれないように釣るには、上流に針を落とし、自分のいるあたりまで流しては、また上流へ投げる。この動作をくり返しながら、下流から上流に向かってつり上げていくのである。
−−林平は流れのはたを、上流に向かって静かに歩きながら針を投げた。針を投げつつ歩く速さは、常人がふつうに歩く程度だった。彼の手もとが軽くかすかに動くと、針は生きたもののように彼の思うところに落ちた。すると、まるで磁石にでも吸いつけられるように魚が吸いつけられてきた。つぎの瞬間、岩魚は空中をひらひらと舞うように飛んで、左手の手網の中へ飛び込んだ。そしてそのときには針がはずれているのである。万一途中で針がはずれても、岩魚だけは手網のなかに飛び込んでくる。「拾うよりも早い」と彼は言っていた。まさに、見惚れるほどの名人芸である。後日、政府のある高官が「無形文化財にしようか」と言ったほどである。
林平はあるとき、黒部に「知らぬ猟師」が来ていることを察知した。いつの間にか岩魚を釣られていることに気がついたのだった。どうやら山賊のウワサを恐れて、夜歩いているらしかった。
一週間後、林平はとうとう谷でその猟師をつかまえた。
「いったい何者だ!」。林平は一喝した。
「へぇーッ、私は松本の上條と申しまして、岩魚を少々釣りたくて参ったものでございます。どうかお見逃しを…」と、男は平伏した。
「この源流には三俣蓮華の小屋がある。小屋には挨拶をして通るのがお互いのためなのに、黙って通るとはけしからん!」
「へぇ、これから小屋に挨拶をして通ります」
「君が夜歩いていることはちゃんと知っていた。40年も黒部を歩いていると、一歩一歩オレの踏んで歩く石まで決まっているから、留守のあいだに誰かが歩けばすぐわかってしまうのだ。君が釣る岩魚くらい、どうせ大したこともなかろうから見逃してやってもいい」
そして上條という男は、林平の釣り方を見て、そのあまりの見事さにおそれいった。そして林平の子分になり、林平の釣った岩魚を上高地に運んだ。上高地では岩魚が少ないので、大量に運ばれる「黒部の岩魚」は珍鳥がられたという。上高地からは野菜などを運んできた。
−−山賊たちは岩魚を釣るが、あまり食べたがらない。生ぐさい臭いが鼻についていやだという。登山者が珍重がる塩焼きはとくにまずい。むしろ薫製のほうがいいし、それよりも海の魚のほうがさらにいいと言う。そして彼らは「山で餓死するなんてのはバカだ。それは山での生活技術を知らないからだ」と言っている。
林平の調子がいいときは、岩魚を半日で十貫(37.5kg)もとった。それ以上釣らなかったのは、釣った岩魚を薫製にするのに半日かかるからだった。
−−林平は猟をするだけでなく、山と魚を愛していた。絶対に小さな魚は釣らなかった。まちがって小さなのを釣ったときは「来年まで、でかくなっていろよ」と言って逃がしてやった。一度私のビクに小さなのが一匹入っているのを見た彼は、さも惜しそうに「逃がしてやればよかったのに」と言った。
−−通常、岩魚はだれかの釣ったあとしばらくのあいだは絶対に釣れないものだが、不思議に林平の釣ったあとは、直後でも釣れた。彼はぜんぜん魚をおどかしていなかったのである。
黒部の猟場を荒らされようものなら、林平は怒り心頭、徹底的にこらしめた。
「毒を流すと、幼魚や岩魚の餌になる川虫までが死んでしまう」
−−したがって彼らのいた頃は悪い猟師が入らず、黒部は荒らされなかった。その点は、むしろ山賊のよい反面であった。
■クマ獲り
鬼窪(おにくぼ)はクマを見つける名人だった。
−−小男だが足は速く、常人の3〜4倍を平気で歩き、数km先にいる熊をよく発見した。彼といっしょに縦走路を歩くと、しばしば熊を見ることができる。ワラジばきの彼はいつも足下は見ずに、熊にばかり気をとられていたので、木の根や岩につまずいて、足の先は生傷の絶え間がなかった。あわてると口をとがらせ、首をふりながらトツトツとものを言った。鬼窪は山を歩いてさえいれば機嫌がいい男だった。
生まれは大正3年(1914)。
−−のちに私が鬼窪の家を訪ねたとき、彼の足の速い理由がわかったような気がした。その村の小学校の周囲といえば、まるで鷲羽岳の登り(ザラザラした急坂)のような道に囲まれていた。隣りに見える家といえば、険しい谷の向こう側か、急坂を上った頭上にある。この村で平らなところといえばタタミの上以外になく、馬も通れないような急坂を歩くことのほうがむしろ正常な状態だといっていいだろう。
「あっ、いた」
そう言った鬼窪以外、何がどこにいたのか誰も判らなかった。
−−双眼鏡で見ると、なるほど大きな熊が草地に寝ころがっている。彼は数km先の熊を見たのである。鬼窪は荷物を置いて銃をもって走っていき、近寄りざま一発ぶっぱなした。熊はでこぼこの斜面を猛烈ないきおいで谷のほうへ駆けていった。鬼窪はあとを追いながらもう一発打った。それきり彼の姿は見えなかった。
夕方の雪のなか、倉繁が小屋に帰ってきた。
「ちくしょう、オニ(鬼窪)の奴、俺がせっかく狙っていたものを、ぶっぱずしゃあがって」
−−倉繁はさかんにぶりぶり言っていた。猟師の嗅覚とでもいおうか、彼らは同じ熊を狙っていたのだった。熊という動物は、耳と鼻は非常に敏感だが、目はあまりよくない。したがって風下から、音を立てないように近づくのが熊獲りのコツである。倉繁は風下から熊の至近距離にしのび寄っていた。そこでどの方向から射止めようか様子をうかがっていると、上のほうで、からからと石の転がる音がするので、見ると鬼窪がとんでくる。まずいな、と思っていると、熊はすでに気づいて頭を上げていた。2人でかなり追跡していったが、だめだったとのことである。
翌日、2人はその熊の追跡を再開した。血をだいぶたらしながら逃げているので、その血の跡をたどった。
−−熊は腰をぬかし、前足のあたりで薮をひっかきまわして唸っていた。鬼窪の第二弾が腰のあたりの背骨に当たっていたらしい。大きな熊だった。夕方になって彼らは熊の皮と肉を背負えるだけ背負ってきた。翌日もまた別の2人が行って肉を背負ってきたが、まだだいぶ残してきたらしい。林平は上手に皮をはったが、長さは六尺三寸(約2m)あった。
大きな鍋で肉を煮た。
その中に、倉繁が「熊の腸」を入れようとしたら、あわてて鬼窪がとめた。
「やいやい、これサ、そんなものを入れる奴があるか、クソじゃあねえか」
腸の中には排泄寸前の糞がぎっしり詰まっている。
倉繁は首を横にふった。「うんにゃ、これを入れなけりゃ味がでねえ」
山賊たちの食べっぷりは盛大であった。
−−肉は結局食べきれなかったので、残った分でハムをつくった。倉繁は骨まで丁寧にとりまとめた。神経痛だかなんだかの薬になるから、持ち帰って売るのだという。なかでも彼らが大切に取り出したのは、万病の薬だといわれる「熊の胆(い)」である。胆というのは胆嚢(たんのう)のことで、熊を怒らせるか苦しませるかしたあとで取ると大きくなっている。それは小さなナス形の、ブヨブヨしたものだが、これを焚き火の上の棚につるして乾かすと、やがてチューインガム程度に粘り気が出てくる。それを二枚の板のあいだに挟んで薄い楕円形にし、さらに乾燥させて固くすれば出来上がりである。熊の胆は目方で金と同じ値段がするといわれているので、彼らは興味深く目方を量った。それは約八匁(30g)で、熊の胆としては大きなほうだった。
■鬼窪と倉繁
−−富士弥は倉繁(くらしげ)のことを「金の中にころがしておいても間違いのない正直者だ」と言って私に紹介した。小柄な丸顔の男で、いつもニコニコして古い民謡などを口ずさんでいた。富士弥から猟を教えこまれ、生涯にクマ約100頭、カモシカ300頭を射止めた。
鬼窪が熊を見つける名人なら、倉繁(くらしげ)は熊獲りの名人だった。
目の早い鬼窪は、山腹にいる熊を発見してすぐに駆け登った。倉繁はその後からノコノコとついていった。
「ぶっぱずしたーッ! 助けてくれーッ!」
最初に登っていった鬼窪は、ものすごい勢いで跳び下りてきた。その後ろからは、猛烈な勢いで熊が追いかけてくる。
倉繁が助けに駆け上がったときには、すでに熊は約30mと迫り、こちらに襲いかからんと突進していた。それでも彼はとっさの間に弾丸を詰め替え詰め替え、4発撃った(倉繁の銃は旧式な単発銃だった)。
−−あまり突然だったので、最初の3発は全部急所を外してしまい、最後の一発を、ほとんど熊の身体に押しつけるようにして射止めた。倉繁は熊を撃つときは必ず弾丸を、一発は銃にこめ、二発を左手の指のあいだに挟み、一発を口にくわえていたのだった。
この時は倉繁の早業に助けられたが、鬼窪はときどき、そんな「滑稽な失敗」をする男だった。
こんな話もある。
あるとき鹿島の集落で熊がでるというので、山賊たちにクマ退治の依頼がきた。クマは岩山の深い穴に棲んでいたので、穴の入り口で火を焚き、クマをいぶし出そうとなった。穴には誰かが潜らなくてはならない。その役に選ばれたのは鬼窪だった。
−−鬼窪は銃と懐中電灯をもって入った。穴は這っていかなかくてはならないほど狭いものであり、しかも中ほどでは下方に下がっていたが、さらに進むとまた上方へ上っていた。「これでは煙も入っていかぬわけだ」と思いながら、彼は用心しつつ前進した。狭い部分を通り抜けると、中は一坪(約2m四方)ほどの空洞になっていたが、そこに熊はいなかった。その奥に一段高くなった岩棚があったので、鬼窪はおそるおそるその棚の上へ懐中電灯をかざした。
その途端、鬼窪の懐中電灯はクマに叩き落とされた。
真っ暗闇になってしまった。熊がどこにいるのか見当もつかない。鬼窪は身の凍る思いだった。穴の入り口ちかくの狭い部分では、もう一人が這っていくところだったが、その背中の上を熊は歩いていった。穴の外には、中に入った2人を固唾を飲んで待っている人たちがいたが、その目の前にクマだけが飛び出してきた。
−−急いで熊を射ちとった一同が、穴にかけ寄って中へ声をかけると、その声でわれにかえった鬼窪たちは、真っ青になって這い出してきたのだった。
鬼窪は愚直な男でもあり、こんなエピソードがある。
アルプスの奥地から大町へ買物に行くのは、もっぱら鬼窪の受け持ちだった。あるとき伊藤が彼に買物を頼むと、鬼窪は「明後日に帰ってくる」と約束して、大町へ向かった。
そして鬼窪は約束の日時ピッタリに帰ってきた。だが、頼んだ物を持っていない。「買物は?」と聞くと、「買ってこなかっただ」と鬼窪。「だって買おうとしているところへバスが来てしまったもの、乗らなきゃ約束の時間までに帰って来られねえじゃねえか」
−−彼にとっては買物の約束よりも、時間の約束のほうが重要に思われたのだろうか。山での約束は守らなくてはならない。それにしても、あれだけ遠いところを、はるばると空足を踏んで帰ってくる神経には、おそれいったものである。
■誤射
熊と間違えて、人間を撃ってしまうという話がある。
ずっと昔、営林署の署長はクマ狩りに行った。すると木の上に黒い影がみえた。署長はてっきりクマが木に登って山ブドウでも食べているものだと思い、弾丸を放った。すると落ちた黒い影は「撃たないでくれ! 殺さないでくれー 私が悪かったー」と叫んでいる。
−−彼は国有林内で山ブドウをとっていたので、署長に撃たれたと思ったのだ。そして戸板に乗せられて運ばれて行くあいだも、同じことを叫びつつ死んでいった。
そんな話を富士弥が聞くと、こう言った。
「わしだったら、どんなに暗いようなところでも、熊の耳がちゃんと立っているのを見とどけてから撃ちますわね…。ええ、熊の耳はよく見えるものですから」
あるとき逃げる熊を追っていた林平は、先回りして待ち伏せをしていた。林平は熊の通る道筋を知っていた。
すると待ち伏せていたその場所に、たまたま星野というガイドが薮をわけてヒョッコリ顔をだした。林平が銃をかまえていたその真ん前に。熊が出てきたのは、その後だった。熊は驚いて数メートル横に跳躍したが、林平は熊が地面に着地する場所を見極めて、正確に一発で射止めた。
のちにガイドはこう言った。「もしあれが林平さんでなかったら、わしは熊と間違えられて撃たれていたかもしれません」。
■熊がでたら
熊に出合ったら、どうすればいいか?
−−もし熊がおそってきたらどうしようもない。走ることは速い、木登りは猫よりうまい、水泳もうまい、力はものすごく強い。身体は頑丈だし、頭蓋骨は厚くできている。ピッケルでなぐったくらいでは致命傷など与えられない。かえって熊を怒らせてしまうからよしたほうがいい。死んだマネなどは無駄ごとである。もし睨み合いになったときには、恐れずに睨み合っていることだ。一般に動物は、背中を見せると跳びかかってくる習性をもっているらしい。
−−よく世間では、熊は出合い頭になるといけないとか、仔連れの熊はいけないなどと言っているが、私は仔連れの熊に出合い頭になったことがある。その場合でも熊のほうが逃げるのが普通である。私自身、熊には数えきれないほど出合っているが、いつの場合でも熊のほうが逃げてくれたので、どうということもなかった。
あるとき伊藤と鬼窪は、薮の中で寝ている仔連れの熊をあやうく踏みつけそうになった。
−−仔熊は驚いて近くのカンバの木に登った。親熊は仔を追って行こうとしたが、太いハイマツの枝が十文字に交差しているところに首がひっかかった。押しては返されしていたが、そのうちに首がかかった枝がはずれたので、仔熊を連れて行ってしまった。
鬼窪はそれを追いまくると言って、「ワァワァ」あらんかぎりの声で叫び続けた。
−−こんな場合、富士弥だとまたやり方が違う。
あるとき露天風呂に入っていた登山者が「熊が出た」と言って、裸で小屋に跳びこんできた。すると富士弥は「ええ、あれは山の神ですからね。(小屋の周りの)イチゴを食べにおいでなすったんだから、”もしもし”と言って、あっちへ行ってもらいますわね」と言った。
−−富士弥のことだ、心配はなかろうと思って見ていると、彼は少し腰をかがめながら熊に近寄って行って、”もしもし”とやっている。熊はゆっくりと富士弥のほうを一度ふりむいたが、やがてのろのろと上のほうへ登って行ってしまった。
■小屋の再建
戦争中、三俣小屋は番人がいなかったので、七分どおり壊れてしまっていた。
それを再建すべく伊藤は行動を開始した。だが、折り悪く連日の雨。集めた大工や人夫は山に不慣れで、遭難しかけながら全員擦り傷だらけになって下山してしまった。
−−私は善後策を講じるために大町へ行き、倉繁に連絡した。彼はただちに山賊の仲間を呼び集めてくれた。
山賊全員が三俣に集まったのはこの時だった。
−−彼らはさすがに山慣れていた。昼間は材木を運び、帰り道でとってくる山菜や岩魚は晩の食膳をにぎわし、夜はランプの灯りでワラジをつくった。重い荷物を背負って歩く彼らのワラジは、特別に強くつくられたが、半日しかもたなかった。鬼窪のごときは一日に四足のワラジを履きつぶした。
昭和24年(1949)、アルプスをキティ台風がおそった。
−−天気はよいのに、得体の知れない山鳴りがもう5〜6日もつづいている。それは山がうなるような、地面の下を急行列車が通るような音だった。私はなにかしら不安な予感におそわれて、倉繁と顔を見合わせていた。40年も山に入っている彼にとっても、こんなことは初めてだった。
突然の暴風に、屋根の端がめくれ始めた。
−−屋根を飛ばされては、小屋にいながらに凍死してしまう。屋根を押さえるために跳び出す瞬間、身体が3mほど吹き飛ばされる。顔に当たる雨は、パチンコで小石をぶつけられたように痛い。夢中にしがみついて屋根を押さえているが、寒さのために数分間で身体がこごえて自由がきかなくなってしまう。この風は2時間ほどで弱まったからよかったが、もう少し長くつづいたら私も倉繁も生きてはいなかっただろう。
このとき、屋外に出ていた空の風呂桶は、2時間半ほどで降った雨であふれていた。
−−つまり2時間半で数百ミリの雨が降ったことになる。通常平地では一日の降雨量が数十ミリといえば最高の部類だが、それはまったく信じられないほどのものだった。あとにも先にも私の山小屋生活で、これ以上の降雨量を経験したことはない。
信じがたい豪雨は幾日もつづいた。
−−山崩れの音はますます激しく大地を揺すぶりつづけた。小屋の後方の、平常は水も流れていないようなところに、大きな滝が4本も現れて、水中で岩がぶつかって火花を散らしていた。尾根の上にある三俣小屋が流されるかと思われるほどの水の出方だった。
「林平さんはどうしたか?」
このとき林平は岩魚釣りに出ていた。
−−そもそも広大な水域をもつ黒部源流の水は、上ノ廊下で約10mの川幅に狭められ、両岸は切り立っている。そんな場所では、雨が降るとあっという間もなく水面が10mも上がってしまう。またいたるところに鉄砲水というのが出る。小さな沢が倒木などでせき止められ、その堤が切れると、ちょうどダムが決壊したときのようになって、水は雪崩のように落ちてくる。
雨は一週間つづいた。その間、林平の消息はまったく不明だった。
−−山の上がこれほどの水の出方では、谷にいる林平はとうてい生きているとは思えなかった。
雨がやむとすぐに、倉繁が探しに出た。
林平は生きていた。痩せてヒゲだらけになって。
−−最後まで半食分の食料を食べずに残しておいた林平は、いざ出発というときに、それをお粥にして食べた。彼は水面下にどんな岩があるかを知っていたので、まだ水が引かない黒部を徒渉して、最後の力をふりしぼって登ってくるところを倉繁と出合ったのである。
帰ってきた林平は言った。「私は大木に身体をしばりつけて夜をすごしました。薬師沢は向かい斜面に乗り上げて流れていました。いたるところに鉄砲水が出て、大木が吹き飛ばされ、粉々になるのを見ました…」
そして神妙な面持ちで、こう続けた。「人間というのは不思議なもので、生死のさかいをさまよっていると、あらゆる知人が次々に夢の中に現れました。だがこの源流の三俣小屋には伊藤さんがいると思うと、どんなに力強く、勇気をあたえられたかわかりません…」
−−山で生活する男たちにとって、大自然との戦いの中において、命を賭けても助け合わなくてはならない場合が往々にしてある。私と山賊たちとの関係も例外ではなかった。人影まれな当時の黒部の歴史において、彼らの存在は決して忘れることのできないものである。人間的には長所も短所もある者たちであったが…。
(つづく)
出典:伊藤正一『黒部の山賊』
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