2014年09月01日

山賊の正体 『黒部の山賊』より その2




山賊のウワサ 『黒部の山賊』より その1
からの「つづき」






■富士弥



思わぬところで山賊と鉢合わせした伊藤正一。

−−私は山賊のウワサの真疑のほどはわからなかったが、ウワサについては彼の名誉回復のために努力すること。警察でも過去のことについては何も言わないことを説いて、結局、私が山賊の身元保証人のような格好になって話がついた(伊藤正一『黒部の山賊』、以下−−引用は本書)。



山賊の名は「遠山富士弥(ふじや)」といった。

−−この山賊こそ、上高地の嘉門次とならんで黒部の主と称された名猟師、遠山品衛門(しなえもん)の実子で、すでに当時60歳だった。



日本山岳会発行の山岳(明治44年)に、富士弥の父・品衛門のことがのっていた。

〜先に「穂高の仙人」上條嘉門次を紹介せられたり。嘉門次翁に匹敵するアルプス北方のオーソリチーは「黒部の主」の称ある我、品衛門翁をおいて他になかるべし。翁は戸籍上の姓名を遠山里吉という。本年61歳なり。年々冬はアルプス連峯の雪に獣を狩り、夏は黒部の清流に岩魚を釣る。黒部河畔ダイラの小屋を根拠地として釣魚に従事すること37年の久しきに及ぶ、「黒部の主」の名ある亦(また)むべならずや。翁、体躯大ならず、むしろ小男の部に属するほうなれども、多年山岳の秀霊に親しめる身は自ら俗悪の気なく、極めて円熟せる山人の風骨をみる。

翁に三男あり、三男は海兵として目下、横須賀に奉公中なりと。翁は笑いながら「わしゃ小さくても、倅(せがれ)は大きうがす。カカに似たのでしょ」と言う。




−−ここに書かれている、海兵に奉公中の三男というのが、ほかならなぬ富士弥のことである。彼は明治20年(1887)生まれ、堂々たる体躯で目つきは鋭く、海軍で習得したのであろう、柔道は二段で水泳も達者だった。彼のあかぬけした身だしなみも、こんなところからきているのであろう。彼は小学生のころより叔父の文弥とともに、父・品衛門に連れられて山や猟を教えこまれた。











■裏話



ひょんな縁から、伊藤は山賊に親しむこととなった。

そして彼の話を聞くうちに、「山賊側の語る」事件の裏側が見えてきた。



まずは「医師殺害事件」のウワサから。

−−じつはこの事件は裁判になった。場所は黒部の下ノ廊下、被疑者は富士弥、被害者は金満家の医者というので、当時かなりに世間の注目をあびた。それは大正10年(1921)ごろのことだという。富士弥が平ノ小屋にいたときだった。一人の医師が小屋へきて、富士弥から岩魚釣りを習ったりなどして幾日か遊んでいた。医師は人格者だったし、富士弥もいろいろと彼の面倒をみてやったので、2人は心から打ち解けあった仲になった。そのうちに下ノ廊下をぜひ案内してくれと懇願されたので、棒小屋の近くまで案内して別れた。別れぎわに医師は、金が足りなくなったというので、富士弥は金まで貸してやり、岩魚の薫製を一貫(3.75kg)もくれてやった。医師は非常に喜んで「ぜひ一度横浜まで遊びにきてくれ」と言って、服やカバン、靴などを買ってくれる約束をして名刺まで置いていった。そのまま医師の行方はわからなくなってしまった。

後日、「富士弥が殺したのではないか」と言いだす者がいたため、裁判になった。富士弥は裁判で「それほどの約束までした相手を、私が殺すはずがないではないか」と主張した。結局、富士弥は証拠不十分で無罪となった。しかし世間は、無罪になったことがかえって怪しいと訝んだ。そして富士弥を山賊だと言って恐れた。

−−のちに彼は「嫌疑をかけられるのは嫌なものです」と、しみじみ私に語った。



つぎに盗伐事件(ウワサ話によれば、富士弥は「大量の山の木」を盗伐、トラックで運び出すところを営林署に見つかったという。そして現場検証の際、富士弥は関係者全員を「ものすごい断崖の上」に置き去りにし、自身は風のように行方をくらましたとされていた)。

−−あるとき富士弥は湯俣付近で、盆栽にするための「小さな木を一本」とって持ち出すところを営林署に見つかった。そこで現場検証することになり、関係者立ち会いで富士弥に現場を案内させた。ところが彼はとんでもない岩壁を指差して「あの上でとった」と言った。そこは富士弥以外にだれも登ることのできないところだったが、とった本人だけが一人で登って見てきたのでは意味がないので、結局、現場検証はできなかったのである。

−−のちにこの問題が裁判になった時に、「これはおもしろい問題だ」と言って、信州諏訪の某弁護士が無報酬で弁護を買って出た。彼の弁論はつぎのごとくであった。「第一、現場検証もできないところにあった小さな一本の木である。これをそのまま放っておいたら、おそらくは誰の目にもとまることなく立ち枯れてしまったであろう。その木を、けなげにも盆栽にするためにとってきた富士弥の行為は、むしろ称賛されるべきであろう。しかし、あえて盗ったというのなら、それを金額に見積もれば一銭五厘である(当時の金で)」というのだった。それで結局一銭五厘を払ったとか払わなかったとかで終わったという。



そして、山賊に「首を刺す」と脅されて逃げた猟師の話。

−−富士弥は「ええ、わしは生きたウサギを”りょうる”ときは、逆さにして首を刺して血をしぼるですわね」と言った。なるほど、それを聞いた猟師が、てっきり自分のことだと思って逃げ出したのだろうか?






伊藤は山ではじめて富士弥に会ったときから、彼に悪い印象はもたなかった。ただ、富士弥が山賊だという先入観だけが、伊藤を必要以上に警戒させていただけだった。

−−私は富士弥をともなった記者会見などをして、大いに彼の名誉を挽回した。そして以後数年間、私と山賊たちとの山小屋生活がはじまったのである。






■生まれながらの山男



山に暮らす富士弥は、得意の狩猟で命をつないできた。

−−私は富士弥に「いままでに熊やカモシカを何頭くらい獲ったか」と聞いたことがある。彼は”そんな数はぜんぜん数えられない”といった面持ちだったが、それでも「熊は500〜600頭、カモシカ2,000頭は下らないだろう」と言った。



その昔、黒部は遠山一家のすみかであり猟場であった。そしてカモシカを獲ることは「正当な生活手段」であった。しかし時代が下り、カモシカを獲ることが「違法」になった。

−−その後、アルプスは国有林に編入され、自然保護法とか自然公園法などができた。これらは彼らから「生活手段をとりあげる法律」にほかならなかった。生まれながらの山男である彼らから見ると、営林署のほうがむしろ「彼らの生活をおびやかす侵入者」に見えたかもしれない。昔は獲ったカモシカをソリに積んでおおぴっらに運び出す時代もあったが、カモシカを獲ることが違法とされると、営林署は富士弥を追い、彼はますます山に立てこもった。



ただでさえ縄張り意識のつよい猟師。

−−富士弥は体格はいいし、得意の話術で相手をおどすこともあった。そのうえ拳銃をいじりまわしたり、夜中にナタを研いでみせたりもした。こんなことも山賊のウワサの広まった一つの要素であったにちがいない。






■イワナ釣り



山には富士弥の仲間たちがいた。

遠山林平(りんぺい)
鬼窪(おにくぼ)善一郎
倉繁(くらしげ)勝太郎



まず林平。

富士弥の従兄弟(いとこ)にあたる彼は、岩魚(イワナ)釣りの名人であった。

−−林平は富士弥に似て立派な体格をしていたが、顔は丸顔でどことなく滑稽味がただよっていた。明治34年(1901)の生まれである。



あるとき岩魚を釣りにでた鬼窪は、「だめだ。一つの淵にでかいのがウヨウヨいたが、ちっともかからぬわ」と帰ってきた。すると林平は言った。「ばかやろう。俺が明日いって釣ってくる」。

翌朝、淵にいった林平。その夕方、釣った岩魚を重そうにかついで帰ってきた。「80匹全滅させてきた」。彼は会心の笑みで顔をほころばせた。

−−岩魚は少しでも姿を見られたり針を投げそこねると、同じ淵では絶対に釣れないものである。まして一匹でも釣りそこねたら、ほかの魚は釣れない。林平はほかの岩魚に気づかれないように、後ろにいるのから静かに上げていったのである。それらの岩魚は全部尺二寸(30数cm)以上のものばかりであった。



−−岩魚はふつう上流を向いている。そして少しでも人の影を見ると、絶対に餌は食わない。だから岩魚に気づかれないように釣るには、上流に針を落とし、自分のいるあたりまで流しては、また上流へ投げる。この動作をくり返しながら、下流から上流に向かってつり上げていくのである。

−−林平は流れのはたを、上流に向かって静かに歩きながら針を投げた。針を投げつつ歩く速さは、常人がふつうに歩く程度だった。彼の手もとが軽くかすかに動くと、針は生きたもののように彼の思うところに落ちた。すると、まるで磁石にでも吸いつけられるように魚が吸いつけられてきた。つぎの瞬間、岩魚は空中をひらひらと舞うように飛んで、左手の手網の中へ飛び込んだ。そしてそのときには針がはずれているのである。万一途中で針がはずれても、岩魚だけは手網のなかに飛び込んでくる。「拾うよりも早い」と彼は言っていた。まさに、見惚れるほどの名人芸である。後日、政府のある高官が「無形文化財にしようか」と言ったほどである。



林平はあるとき、黒部に「知らぬ猟師」が来ていることを察知した。いつの間にか岩魚を釣られていることに気がついたのだった。どうやら山賊のウワサを恐れて、夜歩いているらしかった。

一週間後、林平はとうとう谷でその猟師をつかまえた。

「いったい何者だ!」。林平は一喝した。

「へぇーッ、私は松本の上條と申しまして、岩魚を少々釣りたくて参ったものでございます。どうかお見逃しを…」と、男は平伏した。

「この源流には三俣蓮華の小屋がある。小屋には挨拶をして通るのがお互いのためなのに、黙って通るとはけしからん!」

「へぇ、これから小屋に挨拶をして通ります」

「君が夜歩いていることはちゃんと知っていた。40年も黒部を歩いていると、一歩一歩オレの踏んで歩く石まで決まっているから、留守のあいだに誰かが歩けばすぐわかってしまうのだ。君が釣る岩魚くらい、どうせ大したこともなかろうから見逃してやってもいい」

そして上條という男は、林平の釣り方を見て、そのあまりの見事さにおそれいった。そして林平の子分になり、林平の釣った岩魚を上高地に運んだ。上高地では岩魚が少ないので、大量に運ばれる「黒部の岩魚」は珍鳥がられたという。上高地からは野菜などを運んできた。



−−山賊たちは岩魚を釣るが、あまり食べたがらない。生ぐさい臭いが鼻についていやだという。登山者が珍重がる塩焼きはとくにまずい。むしろ薫製のほうがいいし、それよりも海の魚のほうがさらにいいと言う。そして彼らは「山で餓死するなんてのはバカだ。それは山での生活技術を知らないからだ」と言っている。



林平の調子がいいときは、岩魚を半日で十貫(37.5kg)もとった。それ以上釣らなかったのは、釣った岩魚を薫製にするのに半日かかるからだった。

−−林平は猟をするだけでなく、山と魚を愛していた。絶対に小さな魚は釣らなかった。まちがって小さなのを釣ったときは「来年まで、でかくなっていろよ」と言って逃がしてやった。一度私のビクに小さなのが一匹入っているのを見た彼は、さも惜しそうに「逃がしてやればよかったのに」と言った。

−−通常、岩魚はだれかの釣ったあとしばらくのあいだは絶対に釣れないものだが、不思議に林平の釣ったあとは、直後でも釣れた。彼はぜんぜん魚をおどかしていなかったのである。



黒部の猟場を荒らされようものなら、林平は怒り心頭、徹底的にこらしめた。

「毒を流すと、幼魚や岩魚の餌になる川虫までが死んでしまう」

−−したがって彼らのいた頃は悪い猟師が入らず、黒部は荒らされなかった。その点は、むしろ山賊のよい反面であった。










■クマ獲り



鬼窪(おにくぼ)はクマを見つける名人だった。

−−小男だが足は速く、常人の3〜4倍を平気で歩き、数km先にいる熊をよく発見した。彼といっしょに縦走路を歩くと、しばしば熊を見ることができる。ワラジばきの彼はいつも足下は見ずに、熊にばかり気をとられていたので、木の根や岩につまずいて、足の先は生傷の絶え間がなかった。あわてると口をとがらせ、首をふりながらトツトツとものを言った。鬼窪は山を歩いてさえいれば機嫌がいい男だった。



生まれは大正3年(1914)。

−−のちに私が鬼窪の家を訪ねたとき、彼の足の速い理由がわかったような気がした。その村の小学校の周囲といえば、まるで鷲羽岳の登り(ザラザラした急坂)のような道に囲まれていた。隣りに見える家といえば、険しい谷の向こう側か、急坂を上った頭上にある。この村で平らなところといえばタタミの上以外になく、馬も通れないような急坂を歩くことのほうがむしろ正常な状態だといっていいだろう。



「あっ、いた」

そう言った鬼窪以外、何がどこにいたのか誰も判らなかった。

−−双眼鏡で見ると、なるほど大きな熊が草地に寝ころがっている。彼は数km先の熊を見たのである。鬼窪は荷物を置いて銃をもって走っていき、近寄りざま一発ぶっぱなした。熊はでこぼこの斜面を猛烈ないきおいで谷のほうへ駆けていった。鬼窪はあとを追いながらもう一発打った。それきり彼の姿は見えなかった。



夕方の雪のなか、倉繁が小屋に帰ってきた。

「ちくしょう、オニ(鬼窪)の奴、俺がせっかく狙っていたものを、ぶっぱずしゃあがって」

−−倉繁はさかんにぶりぶり言っていた。猟師の嗅覚とでもいおうか、彼らは同じ熊を狙っていたのだった。熊という動物は、耳と鼻は非常に敏感だが、目はあまりよくない。したがって風下から、音を立てないように近づくのが熊獲りのコツである。倉繁は風下から熊の至近距離にしのび寄っていた。そこでどの方向から射止めようか様子をうかがっていると、上のほうで、からからと石の転がる音がするので、見ると鬼窪がとんでくる。まずいな、と思っていると、熊はすでに気づいて頭を上げていた。2人でかなり追跡していったが、だめだったとのことである。



翌日、2人はその熊の追跡を再開した。血をだいぶたらしながら逃げているので、その血の跡をたどった。

−−熊は腰をぬかし、前足のあたりで薮をひっかきまわして唸っていた。鬼窪の第二弾が腰のあたりの背骨に当たっていたらしい。大きな熊だった。夕方になって彼らは熊の皮と肉を背負えるだけ背負ってきた。翌日もまた別の2人が行って肉を背負ってきたが、まだだいぶ残してきたらしい。林平は上手に皮をはったが、長さは六尺三寸(約2m)あった。



大きな鍋で肉を煮た。

その中に、倉繁が「熊の腸」を入れようとしたら、あわてて鬼窪がとめた。

「やいやい、これサ、そんなものを入れる奴があるか、クソじゃあねえか」

腸の中には排泄寸前の糞がぎっしり詰まっている。

倉繁は首を横にふった。「うんにゃ、これを入れなけりゃ味がでねえ」

山賊たちの食べっぷりは盛大であった。



−−肉は結局食べきれなかったので、残った分でハムをつくった。倉繁は骨まで丁寧にとりまとめた。神経痛だかなんだかの薬になるから、持ち帰って売るのだという。なかでも彼らが大切に取り出したのは、万病の薬だといわれる「熊の胆(い)」である。胆というのは胆嚢(たんのう)のことで、熊を怒らせるか苦しませるかしたあとで取ると大きくなっている。それは小さなナス形の、ブヨブヨしたものだが、これを焚き火の上の棚につるして乾かすと、やがてチューインガム程度に粘り気が出てくる。それを二枚の板のあいだに挟んで薄い楕円形にし、さらに乾燥させて固くすれば出来上がりである。熊の胆は目方で金と同じ値段がするといわれているので、彼らは興味深く目方を量った。それは約八匁(30g)で、熊の胆としては大きなほうだった。






■鬼窪と倉繁



−−富士弥は倉繁(くらしげ)のことを「金の中にころがしておいても間違いのない正直者だ」と言って私に紹介した。小柄な丸顔の男で、いつもニコニコして古い民謡などを口ずさんでいた。富士弥から猟を教えこまれ、生涯にクマ約100頭、カモシカ300頭を射止めた。



鬼窪が熊を見つける名人なら、倉繁(くらしげ)は熊獲りの名人だった。

目の早い鬼窪は、山腹にいる熊を発見してすぐに駆け登った。倉繁はその後からノコノコとついていった。

「ぶっぱずしたーッ! 助けてくれーッ!」

最初に登っていった鬼窪は、ものすごい勢いで跳び下りてきた。その後ろからは、猛烈な勢いで熊が追いかけてくる。



倉繁が助けに駆け上がったときには、すでに熊は約30mと迫り、こちらに襲いかからんと突進していた。それでも彼はとっさの間に弾丸を詰め替え詰め替え、4発撃った(倉繁の銃は旧式な単発銃だった)。

−−あまり突然だったので、最初の3発は全部急所を外してしまい、最後の一発を、ほとんど熊の身体に押しつけるようにして射止めた。倉繁は熊を撃つときは必ず弾丸を、一発は銃にこめ、二発を左手の指のあいだに挟み、一発を口にくわえていたのだった。

この時は倉繁の早業に助けられたが、鬼窪はときどき、そんな「滑稽な失敗」をする男だった。






こんな話もある。

あるとき鹿島の集落で熊がでるというので、山賊たちにクマ退治の依頼がきた。クマは岩山の深い穴に棲んでいたので、穴の入り口で火を焚き、クマをいぶし出そうとなった。穴には誰かが潜らなくてはならない。その役に選ばれたのは鬼窪だった。

−−鬼窪は銃と懐中電灯をもって入った。穴は這っていかなかくてはならないほど狭いものであり、しかも中ほどでは下方に下がっていたが、さらに進むとまた上方へ上っていた。「これでは煙も入っていかぬわけだ」と思いながら、彼は用心しつつ前進した。狭い部分を通り抜けると、中は一坪(約2m四方)ほどの空洞になっていたが、そこに熊はいなかった。その奥に一段高くなった岩棚があったので、鬼窪はおそるおそるその棚の上へ懐中電灯をかざした。

その途端、鬼窪の懐中電灯はクマに叩き落とされた。

真っ暗闇になってしまった。熊がどこにいるのか見当もつかない。鬼窪は身の凍る思いだった。穴の入り口ちかくの狭い部分では、もう一人が這っていくところだったが、その背中の上を熊は歩いていった。穴の外には、中に入った2人を固唾を飲んで待っている人たちがいたが、その目の前にクマだけが飛び出してきた。

−−急いで熊を射ちとった一同が、穴にかけ寄って中へ声をかけると、その声でわれにかえった鬼窪たちは、真っ青になって這い出してきたのだった。






鬼窪は愚直な男でもあり、こんなエピソードがある。

アルプスの奥地から大町へ買物に行くのは、もっぱら鬼窪の受け持ちだった。あるとき伊藤が彼に買物を頼むと、鬼窪は「明後日に帰ってくる」と約束して、大町へ向かった。

そして鬼窪は約束の日時ピッタリに帰ってきた。だが、頼んだ物を持っていない。「買物は?」と聞くと、「買ってこなかっただ」と鬼窪。「だって買おうとしているところへバスが来てしまったもの、乗らなきゃ約束の時間までに帰って来られねえじゃねえか」

−−彼にとっては買物の約束よりも、時間の約束のほうが重要に思われたのだろうか。山での約束は守らなくてはならない。それにしても、あれだけ遠いところを、はるばると空足を踏んで帰ってくる神経には、おそれいったものである。






■誤射



熊と間違えて、人間を撃ってしまうという話がある。

ずっと昔、営林署の署長はクマ狩りに行った。すると木の上に黒い影がみえた。署長はてっきりクマが木に登って山ブドウでも食べているものだと思い、弾丸を放った。すると落ちた黒い影は「撃たないでくれ! 殺さないでくれー 私が悪かったー」と叫んでいる。

−−彼は国有林内で山ブドウをとっていたので、署長に撃たれたと思ったのだ。そして戸板に乗せられて運ばれて行くあいだも、同じことを叫びつつ死んでいった。



そんな話を富士弥が聞くと、こう言った。

「わしだったら、どんなに暗いようなところでも、熊の耳がちゃんと立っているのを見とどけてから撃ちますわね…。ええ、熊の耳はよく見えるものですから」



あるとき逃げる熊を追っていた林平は、先回りして待ち伏せをしていた。林平は熊の通る道筋を知っていた。

すると待ち伏せていたその場所に、たまたま星野というガイドが薮をわけてヒョッコリ顔をだした。林平が銃をかまえていたその真ん前に。熊が出てきたのは、その後だった。熊は驚いて数メートル横に跳躍したが、林平は熊が地面に着地する場所を見極めて、正確に一発で射止めた。

のちにガイドはこう言った。「もしあれが林平さんでなかったら、わしは熊と間違えられて撃たれていたかもしれません」。






■熊がでたら



熊に出合ったら、どうすればいいか?

−−もし熊がおそってきたらどうしようもない。走ることは速い、木登りは猫よりうまい、水泳もうまい、力はものすごく強い。身体は頑丈だし、頭蓋骨は厚くできている。ピッケルでなぐったくらいでは致命傷など与えられない。かえって熊を怒らせてしまうからよしたほうがいい。死んだマネなどは無駄ごとである。もし睨み合いになったときには、恐れずに睨み合っていることだ。一般に動物は、背中を見せると跳びかかってくる習性をもっているらしい。

−−よく世間では、熊は出合い頭になるといけないとか、仔連れの熊はいけないなどと言っているが、私は仔連れの熊に出合い頭になったことがある。その場合でも熊のほうが逃げるのが普通である。私自身、熊には数えきれないほど出合っているが、いつの場合でも熊のほうが逃げてくれたので、どうということもなかった。






あるとき伊藤と鬼窪は、薮の中で寝ている仔連れの熊をあやうく踏みつけそうになった。

−−仔熊は驚いて近くのカンバの木に登った。親熊は仔を追って行こうとしたが、太いハイマツの枝が十文字に交差しているところに首がひっかかった。押しては返されしていたが、そのうちに首がかかった枝がはずれたので、仔熊を連れて行ってしまった。

鬼窪はそれを追いまくると言って、「ワァワァ」あらんかぎりの声で叫び続けた。



−−こんな場合、富士弥だとまたやり方が違う。

あるとき露天風呂に入っていた登山者が「熊が出た」と言って、裸で小屋に跳びこんできた。すると富士弥は「ええ、あれは山の神ですからね。(小屋の周りの)イチゴを食べにおいでなすったんだから、”もしもし”と言って、あっちへ行ってもらいますわね」と言った。

−−富士弥のことだ、心配はなかろうと思って見ていると、彼は少し腰をかがめながら熊に近寄って行って、”もしもし”とやっている。熊はゆっくりと富士弥のほうを一度ふりむいたが、やがてのろのろと上のほうへ登って行ってしまった。






■小屋の再建



戦争中、三俣小屋は番人がいなかったので、七分どおり壊れてしまっていた。

それを再建すべく伊藤は行動を開始した。だが、折り悪く連日の雨。集めた大工や人夫は山に不慣れで、遭難しかけながら全員擦り傷だらけになって下山してしまった。



−−私は善後策を講じるために大町へ行き、倉繁に連絡した。彼はただちに山賊の仲間を呼び集めてくれた。

山賊全員が三俣に集まったのはこの時だった。

−−彼らはさすがに山慣れていた。昼間は材木を運び、帰り道でとってくる山菜や岩魚は晩の食膳をにぎわし、夜はランプの灯りでワラジをつくった。重い荷物を背負って歩く彼らのワラジは、特別に強くつくられたが、半日しかもたなかった。鬼窪のごときは一日に四足のワラジを履きつぶした。






昭和24年(1949)、アルプスをキティ台風がおそった。

−−天気はよいのに、得体の知れない山鳴りがもう5〜6日もつづいている。それは山がうなるような、地面の下を急行列車が通るような音だった。私はなにかしら不安な予感におそわれて、倉繁と顔を見合わせていた。40年も山に入っている彼にとっても、こんなことは初めてだった。



突然の暴風に、屋根の端がめくれ始めた。

−−屋根を飛ばされては、小屋にいながらに凍死してしまう。屋根を押さえるために跳び出す瞬間、身体が3mほど吹き飛ばされる。顔に当たる雨は、パチンコで小石をぶつけられたように痛い。夢中にしがみついて屋根を押さえているが、寒さのために数分間で身体がこごえて自由がきかなくなってしまう。この風は2時間ほどで弱まったからよかったが、もう少し長くつづいたら私も倉繁も生きてはいなかっただろう。



このとき、屋外に出ていた空の風呂桶は、2時間半ほどで降った雨であふれていた。

−−つまり2時間半で数百ミリの雨が降ったことになる。通常平地では一日の降雨量が数十ミリといえば最高の部類だが、それはまったく信じられないほどのものだった。あとにも先にも私の山小屋生活で、これ以上の降雨量を経験したことはない。

信じがたい豪雨は幾日もつづいた。

−−山崩れの音はますます激しく大地を揺すぶりつづけた。小屋の後方の、平常は水も流れていないようなところに、大きな滝が4本も現れて、水中で岩がぶつかって火花を散らしていた。尾根の上にある三俣小屋が流されるかと思われるほどの水の出方だった。



「林平さんはどうしたか?」

このとき林平は岩魚釣りに出ていた。

−−そもそも広大な水域をもつ黒部源流の水は、上ノ廊下で約10mの川幅に狭められ、両岸は切り立っている。そんな場所では、雨が降るとあっという間もなく水面が10mも上がってしまう。またいたるところに鉄砲水というのが出る。小さな沢が倒木などでせき止められ、その堤が切れると、ちょうどダムが決壊したときのようになって、水は雪崩のように落ちてくる。

雨は一週間つづいた。その間、林平の消息はまったく不明だった。

−−山の上がこれほどの水の出方では、谷にいる林平はとうてい生きているとは思えなかった。






雨がやむとすぐに、倉繁が探しに出た。

林平は生きていた。痩せてヒゲだらけになって。

−−最後まで半食分の食料を食べずに残しておいた林平は、いざ出発というときに、それをお粥にして食べた。彼は水面下にどんな岩があるかを知っていたので、まだ水が引かない黒部を徒渉して、最後の力をふりしぼって登ってくるところを倉繁と出合ったのである。



帰ってきた林平は言った。「私は大木に身体をしばりつけて夜をすごしました。薬師沢は向かい斜面に乗り上げて流れていました。いたるところに鉄砲水が出て、大木が吹き飛ばされ、粉々になるのを見ました…」

そして神妙な面持ちで、こう続けた。「人間というのは不思議なもので、生死のさかいをさまよっていると、あらゆる知人が次々に夢の中に現れました。だがこの源流の三俣小屋には伊藤さんがいると思うと、どんなに力強く、勇気をあたえられたかわかりません…」






−−山で生活する男たちにとって、大自然との戦いの中において、命を賭けても助け合わなくてはならない場合が往々にしてある。私と山賊たちとの関係も例外ではなかった。人影まれな当時の黒部の歴史において、彼らの存在は決して忘れることのできないものである。人間的には長所も短所もある者たちであったが…。













(つづく)







出典:伊藤正一『黒部の山賊



関連記事:

山賊のウワサ 『黒部の山賊』より その1

世界放浪1,000日 [植村直己・夢の軌跡より] その1






posted by 四代目 at 17:07| Comment(0) | 山々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月30日

山賊のウワサ 『黒部の山賊』より その1




黒部の山の奥深く、山賊がいるとの噂がたった。

−−うわさ飛ぶアルプス山上。小屋にどっかり山賊。ひげ男、炉端にウサギの丸焼きかじる。北アルプスの烏帽子から三俣蓮華にかけ山賊が現われ、猟師や登山家をまっ裸にするそうな。山開きを前にして、アルプス山賊の噂話が山岳家仲間のあいだでもっぱらである。なにしろ海抜2,600余メートル、山賊の跳梁はおだやかでない…(毎日新聞・長野版、1947年6月21日)。



時代は昭和20年代、終戦直後の混乱期

−−里は食料難で安定せず、人々は一片のパンを求めてさまよっていた。あちこちに行き倒れの姿がみられ、都会の焼け跡には毎夜ピストル強盗が横行していた。このような世情を反映して、山もまた荒れ果てていた。そのころ広い北アルプスに登山者の姿はほとんど見られなかったのに、山小屋では布団や窓ガラスまでが盗み去られていた(伊藤正一『黒部の山賊』。以下−−引用は本書)。











■三俣小屋



山賊は三俣蓮華(みつまたれんげ)の山小屋にいるという。

三俣蓮華岳(標高2,841m)は北アルプスの心臓部といえる場所で、信州・飛騨・越中、三つの国境。三俣に入るには、アルプスの高峰をいくつも越えて2日以上かかった。その鞍部(尾根のくぼんだ部分)に位置する三俣蓮華小屋は、アルプス最奥の山小屋であった。

−−そのころ、三俣蓮華小屋は戦争中何年間か番人が入らなかったあいだに、床板や壁板はぜんぶ焚かれて(燃料がわりに)屋根や柱もほとんど無くなっていた。持ち主は戦死してしまって、子どもはまだ幼かった。



山賊の住まうという、その三俣蓮華小屋(以下「三俣小屋」と略)。

伊藤正一(いとう・しょういち)に「権利を買い取ってくれないか」との話がもちかけられた。伊藤は戦争中にジェットエンジンの開発をしていたが、終戦によって研究は打ち切られていた。

−−もともと山好きで科学好きな私は、その空白期間を登山と探検によって過ごしてもいいような気持ちもあった。それに、アルプス最奥の三俣小屋や、人跡未踏の黒部渓谷は、私の探検への野心をそそるに格好なところであった。

「三俣小屋はライカ(カメラ)一台分の値段であった」という噂は事実ではない。そのころのライカの値段は数百円。伊藤が支払った価格は2万円だった。それは持ち主の遺家族が今後生計を立てていくのに充分な金額として、村長らが算定したものであった。



さて三俣へ行くかと腰をあげた伊藤、しかし例の噂話が気になった。伊藤が聞いていたのはこんな話である。

−−三俣方面に、モーゼル拳銃をもった前科30何犯かの兇悪殺人強盗がいて、黒部渓谷一帯を荒らしまわっている。彼は登山者や猟師をおどしては物を盗っているが、昔から黒部方面での行方不明者はすべて彼の手にかかって死んだものである。また彼は山の地理に精通しており、手下も大勢いて各所で見張っているので、警察が上がって行くと事前に彼らにわかってしまい、絶対に見つかることがない。しかも約30年のあいだ、里へは下っていない。彼はクマ、カモシカ、ウサギ、イワナなどを獲って食べているが、二人の息子がいてときどき大町から米や塩などを運んで行くという。

さすがに、三俣行きは一時中止にした。そして事情を調べた。すると、こんなことが判ってきた。

−−大町営林署の課長の談である。あるとき、山賊が湯俣(ゆまた)の近くで山の木を大量に盗伐してトラックで運び出すところを大町営林署が見つけてとりおさえ、現場検証をすることになって彼に案内させた。山賊は神妙な態度で一行を案内しつつ山中に分け入ったが、それがワナだった。一行はいつのまにか物凄い断崖のうえに立たされて身動きができなくなってしまった(同行した数人の係官は岩登りのベテランぞろいだったにもかかわらず)。するとどうだろう、山賊はとつぜん身をひるがえして、この危険な岩場をするすると渡り、あれよあれよというまにどこかへ消えてしまった。それはまったく人間業とは思えない有様だったという。

ほかにも、黒部渓谷で消息をたった金満家の医師は、山賊に殺害され金品を盗られたに違いないとの話もあった。






■濁小屋



時を同じくして、濁(にごり)小屋で殺人事件がおこる(1946年7月)。

狙われたのは学生4人。食料難のなか彼らは苦心して食料を貯え、大きなリュックにそれらを満載して山小屋にたどり着いた。その彼らに、新宿駅から付けてきた復員風の男2人がいた。2人は一日中働いても空腹を満たすだけの食料が手に入らず、学生らの大きなリュックに釣られてふらふらと付いて来たのであった。

学生らは山小屋でリュックを広げると、盛大に晩餐会をひらいた。それを羨ましげに見ていた復員風の男2人。羨望はいつしか憎しみに変わっていた。2人は学生たちが寝静まるのを待つと、そこにあった丸太で一人ずつ撲殺していった。そして学生らの食料をむさぼり食った。



幸い一人の学生は気を失っていただけだった。正気づいた彼は頭部の激痛と恐ろしさに耐えて布団をかぶっていたが、頃合いを見計らって裏の窓から抜け出した。そして、ほうほうのていで山を下りると東京電力の社宅に危急をつげた。

翌朝、刑事を乗せたジープが現場へと向かった。その途上、山から下りてくる2人の男を見つけた。

「みなさん、どちらへ行きますね?」

「大町へ下ります」

「それはちょうどいい。私たちもこれから下るところです。どうです、よかったら乗って行きませんか」

警察の車と気づかなかった男2人。喜んで乗ると、相当に疲れていたのだろう、そのまま大いびきで寝入ってしまった。彼らが揺り起こされたのは、警察署に着いてからだった。






■逃げてきた猟師



−−時代は戦後の混乱期、濁小屋での殺人事件もおこり、場所はアルプスの最奥、人跡未踏の黒部である。そこでなにが起こったと言われようと、人々は真相を知るすべもなかったし、またそれを信じざるをえない当時の世相でもあった。こうして山賊は見つからないままに、山賊に獲物や金銭を巻き上げられたという猟師の数はしだいに増え、噂は噂を呼んでひろまっていった。



それでも三俣小屋を山賊に占領されたまま放ってはおけない。

伊藤は意を決して、友人2人とともに山へと向かった。



その山路で、伊藤ら一行は山から逃げてくる猟師に出会った。イワナを釣って三俣小屋に泊まったところ、噂どおりの山賊がいたのだという。

−−その夜は難なく床につくことができたと思ったのも束の間、山賊は彼の枕元でものすごい山刀を研ぎはじめた。神経をそば立てている彼の耳に、山賊たちの話し声がとぎれとぎれに聞こえてきた。

「殺(や)っちまおうか」

「どうやって」

「首ったまを刺せばいいさ」

「いつやる」

「朝にしようか」

「逃がすなよ」

−−彼は恐ろしさのあまり、歯がガクガクと合わなくなった。”朝までは逃げ出さなくては”と思った彼は、山賊たちの寝しずまるのを待って、獲物や持ち物などはそのままに、そっとぬけ出し、けわしい西鎌尾根を夜通し走って逃げてきたのだった。






■山賊、登場



山賊が三俣小屋にいることに疑いの余地はない。

さすがに前進する気がなえた。伊藤らはひとまず双六小屋に泊まって、作戦を練ることにした。

−−山賊は猟師に出合うと、縄張り根性も手伝ってとくに凶暴になるらしい。まして私が小屋主だなどと言ったら、どういうことになるかわからない。何も知らない登山者をよそおって行くことにした。



翌日は快晴だった。

−−山々はますます美しく、山賊の恐怖はますます強くわれわれを包んだ。



いよいよ小屋が見えてきた。

小屋からは山賊が焚く煙が立ち昇っている。小屋には、剥いたばかりの獣の皮がいくつも干してあった。周囲には獣や岩魚のはらわたが散乱している。

−−私たちは山賊の拳銃を警戒して、少し離れたところから恐る恐る声をかけ、固唾を飲んだ。緊張した瞬間だった。



ぬっと現れた山賊。

山賊は小屋の主であるかのように、伊藤らを招じ入れた。

−−用心しながら小屋の中へ入った。私はポケットのなかで短刀をにぎりしめていた。



山賊は世間話をはじめた。

「先日、濁小屋で登山者が殺されたが、どうしてあんなことをしたものか。物が欲しくても、なにも殺さなくてもよかったのに…。山の好きな者はお互いに助け合わなければいけない」

伊藤は「おやっ?」と思った。山賊のくせに善人のようなことを言うではないか。人を信じさせる話術に長けているのであろうか? 彼の見た目は、かっぷくのいい堂々たる紳士で、山にいるのにポマードで髪をととのえ、ヒゲもきれいに剃っていた。






■山賊の話



山賊の話は面白かった。

「カモシカの喧嘩はとてもあっさりしているが、クマの喧嘩はえらい騒ぎのものですね。カモシカは両方から跳んできて、角を二度ばかりぶっつけ合って離れてしまうが、クマときたら殴る蹴る、ひっかく齧る、まずえらい騒ぎですわい」

「見たことありますか」

「わしが子どもの頃、黒部で釣りをしていると、向こう岸でものすごい騒ぎが起こったので、何事だと思って見ていますとね、二匹のクマが喧嘩をして、とっくみ合ったまま川の中へ転がり落ちてきて、水の中でまだやっていましてね。それから今度は川の中州へ上がって一時間以上も喧嘩していましたわい」

「ほう、それからどうなりました」

「大きなほうのクマが、のされてしまってね。つまり大きなほうが年をとって弱っていたんですね。そして勝ったクマは負けたクマを水際まで引きずっていって頭を水の中へつっこんで、その上に大きな岩をのせて、よたよたと向こうの山へ登って行きましたがね、わしは恐る恐る近寄って行って、頭の上の大岩を、やっと、どかして皮だけ剥いで持って帰ったが、よっぽどころふけて(年をとって)いたクマとみえて、長さが六尺三寸もあって、爪が3本白くなっていましたわい」



−−私たちはつい彼の話に引き込まれながらも、”こんなうまい話をしながら、だまし討ちにするのではないか”という不安な気持ちが、つねに脳中から離れなかった。



「それから狸がいたずらをしましてね。平ノ小屋で猟をしてたときに毎晩、ズイコズイコと大木を切る音がして、そのうちに、ミキミキミキッと大木がものすごい音を立てて小屋の上に倒れてくるので、とても寝られたものではなかったですわい。ところが翌朝おきてみると、初雪が一寸ほど降って、入口の戸の前の雪の上に、狸がこちらを向いて座った跡がありましてね。そのうしろには尾っぽを左右に振って地面をなぜた跡があったので、”ははぁ、これだな”と思って足跡をたどって行ってみると、大木の穴の中に入っていきました。そこで棒をもって穴の前に待ちぶせて、大木をコンコンとたたくと、中から狸が飛び出してきたので、”やれ狸”と言って頭をこつんとやったら、ころりとまいってしまいましてね。そこへもう一匹跳び出したので、またこつんとやって二匹とも獲ってしまいましたがね。ころふけた白ダヌキの雄雌で、狸汁にして食べてしまいましたわい」



−−彼がしゃべると、おとぎめいたこんな話も、不思議に真実味をもって、私たちを引きこむのだった。山賊もさすがに里が恋しいのであろう、私たちの語る下界の話には、なつかしそうな眼差しをして聞き耳を立てていた。






■長い夜



”こんな話をする山賊は、まんざら悪人ではないのかもしれない…”

”いや、小屋主になりすまして、平気で嘘を言っているのではないか”

”それにあの鋭い目つきを見ると、ただ者ではなさそうだ…”



疑心の去らぬまま、夕の帳(とばり)がおりてきた。

−−山賊の話につられて、つい時間の過ぎるのを忘れ、三俣小屋に泊まることになってしまった。小屋は狭かった。私は山賊と肩を突き合わせて寝ることになってしまった。こんなときに、私にいくらかでも剣道の心得があったことが、せめてもの気安めだった。私は相変わらずポケットの中で短刀をにぎったまま寝た。私は肩を通して彼の息づかいを感じ、彼が寝返りを打つたびに彼の動静をはかった。



眠れぬ夜は長かった。

静かな夜、小屋の前を流れる黒部源流のせせらぎだけが微かな音をたてていた。

−−このときの彼の出方によっては、私は彼を殺していたかもしれないし、あるいは彼に殺されていたかもしれない。そしてそのことは、なんのためいらいもなく行われたであろう。少なくとも私は、平常では考えられない心理状態になっていた。






伊藤はだれよりも早く起きた。

そして、いそいそと出発の準備をととのえた。



−−山賊は小屋の主になりすましているし、私たちは何も知らない登山者になりすましているので、自分の小屋に泊まりながら山賊に宿泊代を支払った。「まけてください」と言うと、「ええ、ええ。山の好きな者は助け合わなくてはいけないから」と言って山賊はいくらかまけてくれた。



山賊が「とても楽に下れる」と教えてくれたコースは、そう簡単なものではなかった。湯俣川の両岸はもろくて崩れやすく、徒渉するところは激流で、ときには滝になっていた。

−−こうした中を、私たちは絶えず、どこからか山賊に狙撃されるのではないかという不安にかられながら湯俣へ下った。湯俣付近の噴湯丘のある一帯を”湯俣地獄”といっているが、そこをぬけ出して発電所の建物が見えたとき、われわれはまさに地獄から蘇生した気持ちだった。






■騒ぎ



山賊と一夜をすごしたことを、伊藤は秘めておきたかった。山賊を刺激するようなことはできるだけ避けたかった。しかしどこから嗅ぎつけたものか、新聞に掲載され全国に報道されてしまった。

松本市観光課のK氏は、声を震わせて言った。「君、よく命があって帰ってきたな。こんど山へ行ったら命がないぞ。もう行くな…。これはえらいことになってしまったよ。もうこの記事は山賊の耳にはいっているに違いない。どこに手下がいるかわからないぞ」



「とにかく相手が武装しているのだから、発見ししだい、ぶっぱなせ!」

長野、岐阜、富山三県の営林署会議では、強硬派が息巻いていた。いまにも山岳戦をはじめんばかりの勢いであった。

こうなってしまった以上、山賊も警戒しているに違いなかった。



困り果てた伊藤。できるだけ穏便に話をつけようと、大町のどこかにいるという山賊の家族を探すことにした。

−−そこで私は山賊の家を探すために、古いガイドや猟師など、少しでも山賊のことについて消息を知っているらしい人たちを根気よく訪ねて歩いた。たまたま大町の猟師が山賊の仲間であるらしいことを知って、ようやくその猟師の家を探し当てることができた。



その猟師に伊藤は以前、山で会ったことがあった。それでいくぶん心安く、彼の家の戸口をまたいだ。が、中から現れた人物に伊藤は当惑した。

なんとそれは山賊自身ではないか!

その傍らには、あの記事がのっている新聞が置かれてあった…。













(つづく)

→ 山賊の正体 『黒部の山賊』より その2






出典:伊藤正一『定本 黒部の山賊 アルプスの怪



関連記事:

美しくも悲しき山、谷川岳

謎のビッグフット、そして「敬意」

山と日本人 [日本アルプス略史]






posted by 四代目 at 08:30| Comment(1) | 山々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月29日

謎のビッグフット、そして「敬意」



アメリカ19世紀半ば
西部開拓の時代

ゴールドを求めて西海岸に押し寄せた人々は、ロッキー山脈の深い森のなかで「それ」と遭遇した。



現地の先住民によれば、その生物は森の奥深くに棲み、シャケをとって食べ、夜中に人をさらう。

ある部族はそれを「サスカッチ」と呼んだ。「毛むくじゃらの巨人」という意味だ。その体長は、ヒトをはるかに見下ろす2〜3m。全身が剛毛で覆われ、人間のように二足歩行をするという。



「山小屋で、サスカッチに襲われたんだ…!」

そんな証言が、金の採掘のために山に入った入植者たちの間から聞かれた。

だが、その姿をハッキリとらえた写真などはなかった、1967年までは。






■疑惑の映像



1967年10月、謎の巨人「サスカッチ」の映像に、世界は衝撃を受けた。

カリフォルニア州の森の中、開けた川原を悠々と歩く姿が撮影されたのだ。途中、獣人はカメラに気が付いたのか、一瞬こちらを振り向いている。








この謎の獣人を、人は「ビッグフット」と呼ぶようになっていた。

ヒマラヤ山脈のイエティ(雪男)、中国の野人、オーストラリアのヨーウィ、日本のヒバゴンなどなど、世界各地では「人に似た獣人」の目撃は相次いでいる。

ビッグフットは、北アメリカ大陸のロッキー山脈を根城としているようだった。



ビッグフットを初めてカメラでとらえたのは、元カウボーイの「ロジャー・パターソン」。彼は相棒のボブ・ギムリンと森でキャンプを張りながら、ビッグフットを待ち構えていたのだった。

この映像は、のちに「パターソン・フィルム(Patterson Film)」と呼ばれるようになり、今なお世界中で再生され続けている。



しかし、それを疑う声も高い。

「『着ぐるみ』を着たイタズラだろう」

フィルムの撮影された1967年当時、映画界では「猿の惑星」が撮影されており(1968年公開)、そのスタッフがビッグフットの映像と関わったというウワサも流れた。










■着ぐるみ



「『猿の惑星』が撮られた当時の技術では、あの映像はつくれないと私は思います」

そう言うのは、長らくハリウッドで特殊メイクの専門家として働いていた「ビル・マンズ」。

「毛皮を植え付ける『伸び縮みする素材』がまだなかったからです。伸縮素材が出回りはじめたのは1984年ですから」

ビッグフットと思しき生物は、映像の中で腕を振りながら歩き、振り返るなどの大きな動きを行っている。それでもその毛皮は完璧に身体にフィットしている。そうした「たるみ」や「もたつき」を出さない素材は、当時まだなかった伸縮素材を使う方法しか思い浮かばない、とビルは言う。



また、ビッグフットが「小顔」であることも、ビルにとっては不自然に思われた。着ぐるみでゴリラのような顔をつくる場合、それは人がかぶるために一回り大きくならざるを得ない。

「ビッグフットの頭はバランスが良くて、とても小さいんです」

さらに、首回りに「毛羽立ち」が全く見られない点も、技術者としては解せぬことだった。着ぐるみの頭は取り外せるように作るのが鉄則で、そのため首回りには繋ぎ目ができるため、その周辺の毛はちょっとした動きですぐに毛羽立ってしまうのだ。

「着ぐるみの撮影中は、首回りが毛羽立つたびにカメラを止めて、我々が毛をとかして馴染ませねばなりません。ですがビッグフットは、こちらに振り返るような大きな動きの後でさえ、首の後ろがきれいなままです。私の経験上、もし着ぐるみであれば、こんなきれいな状態が続くことはありません」



最後に、彼はこう言って首をかしげた。

「謎なのは、これがビッグフットだともも考えにくいし、逆に着ぐるみだと考えるのも難しいということなんです。なぜなら、着ぐるみであれば当然起きることが起きないんですから。もしあれが着ぐるみだとしたら、今までで最もすごい着ぐるみであることは確かだと思います」










■現在の森



パターソン・フィルムが撮影された場所は、ほぼ特定されている。

現在ビッグフットの聖地となっている町「ウィロウ・クリーク」から、およそ40km離れた「ブラフクリーク」という森の中だ。

今は道の通っているこの森も、問題の映像が撮影された当時はまだ道路もなく、パターソンとギムリンは道なき道を深く深く進んで行ったのだという。今でも、現場に近づくには徒歩で谷を下り、さらに5kmほど森の奥深くに分け入っていかなければならない。



「爪痕だ。これはクマだね」

撮影現場を10年かけて追求した地元の研究者らは、森の木に残されたクマの痕跡を指差す。

「クマの糞もたくさんあるよ。まるでクマがキャンプをしていたみたいに」

この一帯は「アメリカ・クロクマ」の生息地。その体長は2m近くあり、その姿をビッグフットと見間違えるケースも多いといわれている。



パターソン・フィルムが撮影されてからは、およそ50年近い月日が流れている。その間、森の様子もすっかり様変わりしてしまった。樹木は大きく成長し、川筋も洪水などを経て地形が変わってしまっている。

それでも、映像に残された「恐竜クラスの巨木」などは、そのままにあった。

「パターソンは、ここで有名なビッグフットが振り返るシーンを撮ったんです。その時ビッグフットはあそこで振り返ったんです」



いまだ人跡のほとんどない鬱蒼とした森の中、撮影場所を特定した研究者は、最後にしみじみとこう言った。

「もし、パターソンたちがでっち上げの映像を作るつもりなら、重いサルの着ぐるみを持って、わざわざこんなに大変な森の奥まで来る必要はありません。もっと手近に撮影しやすい森はあったはずです」










■足跡



もし、未知の生物を自然界に探る時、その証拠となるものを「フィールド・サイン」と呼ぶ。

たとえば、爪痕や足跡、食べ跡や排泄物、その巣など「生きている証」があって初めて、その生物の実在が認められる。

ビッグフットについても、毛や糞などを見つけたという人がいる。その組織をDNA鑑定したという研究者もいる。だが現在、最も信ぴょう性が高いとされているビッグフットのフィールド・サインは、その「足跡」だ。



bigfoot1.jpg




足のサイズは40cm強、幅は20cmもある。その名前の由来ともなった、まさに「ビッグ・フット(大きな足)」である。

人間のプロレスラー、アンドレ・ザ・ジャイアントの足のサイズも38cmと巨大だが、それと比べると、ビッグフットの足跡はその足幅が断然広い。



だが、映像同様、その足跡に関しても「偽造」の疑いは付いて回る。

カリフォルニアの森に住むアメリカ・クロクマは、その姿もだが、足跡もビッグフットに間違われやすい。しかし、決定的な違いがある。クマの足は親指が一番小さく、小指が一番大きい。つまり、左右が逆に見えるのである。



bigfoot2.jpg




ゴリラの足跡はどうか?

じつは、ビッグフットの足跡には「中折れ現象」と呼ばれるゴリラの足跡と似た形跡が残っている。中折れ現象というのは、足が地面を蹴り出す時に、足の真ん中付近がグニャリと曲がる現象だ。

「ビッグフットの足跡の中には、このように真ん中に圧力がかかって凹んだ部分があります。これは中折れ現象が起きているんです」と、人類学者のジェフ・メルドラム博士(アイダホ州立大学)は言う。彼は人や猿の歩き方を研究している人物だ。



bigfoot3.jpg




木の上で暮らすゴリラは、足でも手のように枝をつかめるように、その構造は人間以上に柔らかくできている。そのため歩く時にも、真ん中あたりから2つに折れるように足の関節ができている。

一方、人間の足裏にはアーチ状になった土踏まずがあり、ゴリラのような中折れが起きないような骨格になっている。それは、長時間安定して歩くために進化したからである。

つまり、中折れが起きる足というのは、地面を歩くというより、木の上で生活しやすい足なのである。



では、中折れ現象の起こるビッグフットの足は、樹上生活に適したものなのか?

いや、その指の並びは地面を歩きやすいように、人間と同じく5本の指が一列に並んでいる。それに対してゴリラの足指は、まさに手のように親指だけが離れているのである。

「もしかすると、これは二足歩行が独自に進化したケースなのかもしれません」とメルドラム博士は言う。「二足歩行をしながらも、非常に急勾配の山で、地面を指先でしっかり掴みながら移動するための適応だと考えます」






■グレート・エイプス



われわれヒトを含む霊長類の進化は、およそ8,000万年前にはじまったと言われている。ゴリラやチンパンジーはそうした流れから分岐したと考えられている。

その系統図には、現在にまで生き残っている種もあれば、すでに絶滅してしまった種もある。



bigfoot4.jpg




たとえば、今はもういない「ギガントピテクス」という巨大な類人猿は、800万年前に南アジアあたりで発生したと考えられている。発見された化石は下アゴと歯のみだが、そこから推定される体長は3m、体重は500kg。史上最大の類人猿である。

また、二足歩行をしていたことが判っている「パラントロプス」という霊長類は、200万年前のアフリカに発生した初期の人類の一種である。



そうした絶滅種の「まさかの生き残り」が、ビッグフットやイエティなど獣人伝説の元となっているのだろうか?

そう考えようとした時に疑問視されるのは、霊長類という種が基本的に「寒さに弱い」ということである。

「アジアの化石類人猿というのは、生息していた地域はもっぱら熱帯・亜熱帯で、樹木が少ない温帯には分布をしていません。化石類人猿の北限は現在の北緯約30度、それより北では化石類人猿もまったく発見されておりません」と、中務真人教授(京都大学)は言う。

とくにアメリカ大陸という大地は、アフリカで発生されたとされるヒトにとっても最も遠くの僻地であり、最も最後に到達した場所であると考えられている。ヒトという種は、その知恵を用いて寒さを何とかかんとか克服して、ロシアを経て北からアメリカ大陸に入ったと定説は言う。



もしアフリカ大陸から大西洋を渡れば、すぐに南アメリカ大陸に到達できる。だが、身体の大きな霊長類ほどそれは難しいと中務教授は言う。

「現在、南アメリカ大陸に住んでいる霊長類は、もともとアフリカに住んでいた霊長類が約4000万年前に大西洋を漂流して漂着した子孫だというふうに考えられていますが、漂流していた霊長類はおそらく比較的軽い身体の小さな猿だったと考えられています。大型の霊長類が大西洋を漂流して無事漂着する可能性は、皆無だと思います」



類人猿学者の島泰三氏は、こう言う。

「まずアメリカだというのが、私は非常にひっかかったことです。すべての大型類人猿というのは、ゴリラ、オラウータン、チンパンジーですが、このグレート・エイプス(Great Apes)たちっていうのは熱帯地域に住んでいるんです。ところがアメリカでビッグフットが見つかったっていうのは、温帯地域、あるいは少し山際で寒帯に近いようなそういうところ。ですから、今までのグレート・エイプスが住んでいることろとは全く違う」






■敬意



学術的にはあり得ない存在の「ビッグフット」らの獣人。

それでも今なお、その目撃情報はアメリカのニュースを騒がせる。これまでの目撃情報は全米で3,800件以上(足跡200個以上)。昨年(2012)冬にも、アメリカのABCニュースは最新映像を報道。謎の黒い影は、腕を振りながら二本足で歩いているように見えた。

謎に満ちた不思議な森の住人は、世界一の先進国であるはずのアメリカで、その息吹を確かに感じさせるのである。



アメリカ大陸の先住民たちの間では、そうした存在は脈々と語り継がれている。

「彼らは、われわれ人がこの大地に生まれるよりずっとずっと前からこの地にいた。彼らが兄で、人は弟のようなもの。

 人は愚かで自分勝手で、母なる大地を傷つけることも彼らはお見通しだ。だから彼らは、人に近づこうとしない。

 人から姿を隠し、興味が湧いたときだけ、その姿を現すのだ(北米先住民の伝説)」



日本では、「ヒバゴン」と呼ばれる真っ黒の剛毛で覆われたギョロ目の怪物が、広島県の比婆山で目撃された事件があった。

土地の伝説によれば、ヒバゴンは「天之御中主(あめのみなかぬし)」の化身であり、神聖な山(比婆山)に何かあったときにだけ里に現れるのだという。

時は高度経済成長期、開発という美名のもとに比婆山の森は大きく崩し取られ、スキー場がつくられようとしていた。



人は興味本位から、未知の生物に憧れる。

そして実際に会った時には、どんな思いがするものだろうか?

世界各地に語り継がれる伝説を聞くと、そこには「敬意」がうかがわれる。



同様の思いを、類人猿学者の島泰三氏はゴリラに感じたという。

「ゴリラには到底こちらが及ばないなと思うような崇高さっていうのが、心の中にあります、明らかに彼らの中には。ゴリラはしっかり目を見てやらなきゃいけないんです」

たいていの野生動物が「目を見る」というのは、威嚇であると島氏は言う。だが、ゴリラの場合はそうとは限らないのだという。

「その150kgもあるような大きな大地の主がそこにいて見た時に、そのゴリラの目っていうのは、すーっと落ち着いているんですよ。『毛皮の外観』に騙されてはいけないっていうことです。毛皮の外観を見ただけで、我々よりも下かなって思ってはいけないということです」



ゴリラの澄んだ眼差しに、島氏は「我々よりも遥かに上の精神をもっている動物」と感じたという。

「ビッグフットの中にそれを感じるかもしれないというのは、我々にとっては大きな望みだということです」



北米に住むクヌート族の間では、ビッグフットを「姿を見せない隣人」と言う。

「僕らは彼らは”シアコ”と呼ぶ。シアコは僕らの兄弟、家族だ。姿は見せないけど、いつもそばにいるんだよ」

そして、こう続ける。

「僕らが探せば探すほど、見つけるのは難しくなる。もう探すのをやめた時、彼らは姿を見せてくれるのさ」













(了)






関連記事:

日本の豊かな風土が生んだ多様な「妖怪たち」。恐ろしくも温かい妖怪たちの眼差し。

大王イカの棲む世界へ…。窪寺博士の開いた扉

交わり続けた現生人類。弱くも強い生存術



出典:幻解!超常ファイル「謎の獣人・ビッグフット」


posted by 四代目 at 06:50| Comment(0) | 山々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月04日

「南極の夢」とマッキンリー [植村直己 夢の軌跡より] その4(完)




冒険家の「心の支え」 [植村直己 夢の軌跡より] その3 からの「つづき」






「南極の夢」

南極のことを語る時、植村直己の目は子供のように生き生きしていたという。



彼が初めて南極大陸を目にするのは、北極圏グリーンランドでの冒険を開始する前。その時の感極まった日記にはこう記されている(1972年1月14日)。

「ちょっとのぞいてみるかと起き上がってベッドから下り、窓から顔を出して船先の方をみると、白い起伏のある線が青い空と接している。流氷の水平線ではない。南極大陸だ。氷に覆われた南極大陸だ。生まれて初めてみる南極大陸だ」

植村はアルゼンチン海軍の船に乗り込んで、この白い大陸を初めて目にしたのである。

「俺はやって来た。遂にやってきた。神は私に南極の道を開けてくれたのだ。もう俺の心は宙に浮いたように、顔のしまりがなくなってしまった。ねむいどころではない」






◎成功への確信



「マッキンリー登頂以来、この南極にかけてきたのだ。何一つ疑う心なくして」

北アメリカ大陸の最高峰「マッキンリー」は、植村にとって五大陸最後の最高峰。この山を単独で制したことにより、世界史上初の「五大陸最高峰登頂者」の栄冠にあずかっていた。

それ以来、彼の夢は「雲こえる高み」よりも「果てしなく続く水平線」に向けられていったのであった。



「太陽はまさに今日初めて南極に入らんとする私のために、さんさんと照ってくれているかのように、雲をはらいのけ、空は一面、濃紺の海をつくっている」

その太陽は「水平線の上を転げて、落ちようとも昇ろうともしない」。南極圏においてはこの時期、太陽は沈まないのであった。

到着したその日、さっそくヘリコプターに乗せてもらって上空から氷と雪の世界を一望する。その世界はまるで平らで、氷の山一つない。そこにはヒマラヤの氷河のような危険な匂いは感じられなかった。

「これだったら私は南極大陸横断は出来ると直感で感じとった」と植村は記す。初日に南極大陸の風景を一瞥しただけで。



その計画も具体的に頭に浮かんでいた。

かつてアルゼンチン隊がウィーゼル車で南極点まで到達したことを聞いていた植村は、「自分はウィーゼル車よりずっと軽い犬橇(いぬぞり)でやるのだから、より安全にクレバス帯を通過できるはずだ」と確信する。

また、「旅の後半は背中に風を受けるはずだから、犬橇に帆を上げることによって、橇を曳く犬たちの負担はずっと軽くなるはずだ」とも思い付いた。



南極の氷雪を実際に踏んだ植村は、「見れば見るほど、自分の計画に対する自信が持てた」と記す。

植村の頭の中は、南極大陸が想起させるアイディアがぐるぐると巡り、その胸はせっかちにも膨らみっぱなしであった。






◎軍と戦争



だが、この白い大陸は植村を容易には寄せ付けなかった。

横断成功のテクニックそれ以前に、入陸許可がなかなか下りず、やむなく植村はその矛先を「別の極」である北極に向けざるを得なかったのである。



「自分ではやれる自信を充分もった。というより肌で確かめた。だがしかし、自分ではいくらやれると思ったところで、私を助けてくれる人がいなくてはできないのだ」

具体的には、アルゼンチンとアメリカ両軍の許可・協力が必要であった。植村の南極横断計画は、その出発地がアメリカ軍基地、到達点がアルゼンチン軍基地であったのだ。

その実現に向けた植村の決意は固い。「ここまで南極横断のために進めてきている以上、許可がでないので中止などといわれても引き下がれない」と日記には記されている。



南極一瞥から10年後の1984年、植村はついにアルゼンチン軍の協力を取り付けることに成功する。

そして早速、アルゼンチンのサンマルティン基地に飛んだ。足となる犬と犬橇はグリーンランドから運び込んだ。

ちなみに、アメリカ軍はアルゼンチンよりもずっとガードが固かったため、横断のコースはアルゼンチン軍部の協力だけで実行できるように変更されていた。



その南極の基地で、「いまかいまか」と出発の時を待っていた植村。その「じりじりとした待機」はじつに10ヶ月にも及んでいた。

というのも折り悪く、アルゼンチンとイギリスが戦争(フォークランド紛争)に突入してしまったため、アルゼンチン軍が混乱をきたしていたのである(1984年2月)。






◎夢破れて…



「軍は協力できない」

フォークランド紛争が集結してから半年後、南極で待機していた植村には一方的にそう告げられた。

「よって行動は中止である」



「植村直己は、いいようもなく暗い表情をしていた。断念した彼の横顔は、慰める言葉を失うほど、暗く重かった」

植村の冒険をサポートし続けてきた文藝春秋の湯川豊氏は、当時のことをそう振り返る。

「私は植村の無念はいかばかりかと思うしかなかった。どうすることもできなかった。そして、植村の暗い顔だけが脳裡に焼きついた…」



戦争は半年も前に終わっていた(1982年6月14日、アルゼンチン軍降伏)。だが、その後の政権交代により軍部の人事にも大幅な変更があり、その勢力図が大きく変わってしまっていたのである。植村が頼りにしていた軍幹部も多かれ少なかれ傷ついていた。

夢破れて氷雪あり。

南極大陸に残されたのは「痛ましい植村」の姿ばかり。せっかちに膨らんでいた植村の胸は、もうペシャンコになっていた…。






◎予感



「夢は一つぐらい残しておいてもいいんだ」

植村は妻・公子さんの前で、そう強がった。

のちに公子さんは、その時のことをこう語る。「私はそれを聞いてゾッとしました。心のなかがスーッと冷たくなりましたもの」



その公子さんの言葉に、文藝春秋の湯川氏は「狼狽した」と話す。

「植村は、あの鋭い直感力で、夢が実現しないままこの世を去るのを予感していたのか? そう思った瞬間に言葉が出なくなった…」



南極横断が失敗に終わった翌年の正月、湯川氏のもとに植村からの年賀状が届く。湯川氏はのちにそれを「読み返したくない年賀状」と言うようになる。

「賀正

大変お世話になりました。今年もよろしく。

指導員の訓練行がカナダ国境へ2週間。マイナス48℃を記録。厳しい中にも楽しさあり、元気に頑張っています。一月中旬からアラスカへの極地のマッキンリーの冬に試みます。」

書くことが死ぬほどきらいだと言いながら、毎年の年賀状を欠かさなかったという植村直己。これが湯川氏の受け取った「最後の年賀状」となってしまう…。






◎新たな芽




南極大陸で苛酷な断念を強いられた植村直己は、帰国後、ことさらに軽さを装っていた。

「いやぁ、みなさんの期待に応えることができなくて、すみません。残念です」

とはいえ、「南極の夢」はまだ諦めたわけではなかった。フォークランド紛争は予想外の事故。もう2、3年かけて、もう一度アルゼンチンの支援を得るか、別な国の援助を考えるかして単独横断をやり遂げたい、と植村はハッキリ語っていたという。



と同時に、植村の心のうちには「南極後の夢」のことも夢想されていた。

アメリカからある友人に宛てた手紙には、こう記されている。「3〜4年後を目標に、是非このような学校を北海道の日高山脈の麓あたりに作りたいという新しい夢も芽生えてきた」

植村のいう「このような学校」というのは野外学校のことである。それは「アウトワード・バウンド・スクール」と呼ばれるもので、1984年当時、アメリカで8カ所、世界17カ国に広がりはじめていた本格的なものであった。



植村はこの野外学校に本気で学ぼうとして、南極から帰国後の1983年10月に渡米し、ミネソタの野外学校に入学。この学校を選んだのは、唯一「犬橇のカリキュラムがあったから」だった。

だが、学校側は「植村が何者であるか」を知っていたため、生徒ではなく「無給の犬橇インストラクター」として迎え入れられることになった。



「北海道の人里離れた所に、掘立小屋を一つ建てて、水道もない電気もないという中、季節に合ったサバイバル生活をやったりしたら、結構おもしろい訓練ができるはずです」と、アメリカから帰った植村は話している(『植村直己の冒険学校』)。

実際、北海道の帯広で具体的な話がはじまっていた。植村直己を校長として野外学校を設立しようと帯広動物園の中村園長が動き出していたのである。この帯広動物園は、北極点到達の時の犬を引き取ってくれたという縁があった(ちなみに現在も、北海道にはその子孫犬がたくさんいるとのこと)。






◎意図



植村がアメリカに渡ったのは、野外学校の視察以外にも、確かな目的があった。それはやはり、捨てきれぬ南極への夢である。

アルゼンチンの協力が得られぬのであれば、頼るはアメリカ。その軍部の壁がずっと高く厚いことを重々承知の上で、植村は何とか「交渉の糸口を見つけたい」と語っていた。



だが、アメリカの関係当局への接触は思うにまかせなかった。そしてそのまま、帰国の日だけが迫っていた。

そんな時である。植村が突然、「アメリカからの帰国の途中、ちょっと寄り道して」と、冬季マッキンリーの登山を言い出したのは。



「まぁ、のんびりやってきますよ」

その軽い言葉の裏には、彼の悲壮なる決意も秘められていた。湯川氏はこう語る。「日本に帰国する前、マッキンリー冬季単独登頂を実行したのは、アメリカで自分の存在感を訴えようとする意図が確かにあった」。

公子夫人もさすがに植村の心の底を見抜いていた。

「自分のなかにずっとためて、深くしていったから。冬のマッキンリーの失敗は自分のなかでどうしても許せないから、ぜったいに無理して登頂していたと思う。登らずに帰ってくることはできなかったから…」






◎何が何でも…



「何が何でもマッキンレー、登るぞ。---」

1984年2月6日、体ごと吹き飛ばされそうな猛吹雪に行く手を遮られ、閉じ込められた雪洞の中で植村はそう記している。

「このところ天候はずっと悪天候続き。そろそろ晴れてもよいのに。天候は私に非情なり」



その前日(2月5日)、風速25〜30m、気温マイナス28℃。

雪洞を掘るのに3時間もかかり、雪洞の手前50mに置いておいたザックを取りに戻るのにも「風に飛ばされそうになり、四つ這いになって歩く」。

這ったまま雪洞の場所まで戻るが、「掘った雪洞が見あたらない」。その時、「俺はここで死ぬかもしれない」と日記には記されている。だがようやく見つけた雪洞に飛び込んで、辛うじて助かる。



「夏はここから2日で頂上にいける。冬ははて何日かかるのか」

雪洞の中でもマイナス21℃という極寒。カリブーの冷肉をかじりながら、植村は日記を記す。

「シラフ(寝袋)は凍ってバリバリ。温かいシラフで寝てみたい。ローソクが5センチ弱になってしまって夜が長い。食料はまだ6日分ある」

※植村はさんざん北極圏を旅したにも関わらず、「無類の寒がりだった」と妻・公子さんは言っている。



この日の日記が、植村直己、最期の記録である。

その日の締めくくりは、冒頭に引用した「何が何でもマッキンレー、登るぞ。---」である。

4,200mの雪洞に残されていたこの決意は、切なくも公子夫人の言葉「登らずに帰ってくることはできなかったから…」と呼応している…。






◎遭難



日記は途絶えたが、交信は続いていた。

「明日アタックする」

植村が言った「明日」とは2月12日。彼の43回目の誕生日である。そうした「げん」を担ぐ余裕がまだあった。



「あと2時間ほどで登頂できる」

そう交信してきた植村を、飛行機のパイロットは上空から目撃している(5,200m付近)。だが、その後に天候は急変。飛行機は引き返すことを余儀なくされた。



「えー、きのう(2月12日)、7時10分前にサウス・ピークの頂上に立ちました」

頂上付近のガスで植村の姿は確認できぬものの、2月13日午前11時に交信は成功。だが雑音が多く聞き取りにくい。

「2万、2万、2万フィート(約6,000m)」、雑音に紛れたこの言葉を最後に、植村の声は途絶えた。



懸念される遭難。

パイロットたちは急遽、マッキンリーに飛んだ。

ようやく2月16日に、パイロットらは「植村らしき姿」を確認する。だが、確実か、と問われて「100%確実ではない」と答えている。



居ても立ってもいられなくなったのは、植村の若い後輩たち。

橋本清、松田研一、中西紀夫、高野剛、米山芳樹ら各氏は救援隊を結成。彼ら明治大学・山岳部による第一次救援隊は悪天の中、一路、植村の跡を追う。冬季マッキンリーは凄まじい悪天候に支配されており、一瞬の油断も許されなかった。

決死の彼らは、最後の日記(2月6日)にあった4,900mの雪洞のさらに上、5,200m地点に「新たな雪洞」を発見。



恐ろしく緊張しながら、その雪洞の中をのぞくも、そこに植村の姿はなかった。

あったのは、きちんと整理された装備と食料。その上には吹き込んだ雪が積もっていた。それらの装備は紛れもなく植村のもの。全部で35点。後輩たちはそれをすべて橇にのせ、やむなく下山するしかなかった。



それでも諦めきれぬ。

第二次捜索隊は4月17日に日本を出発。

一行はじつに徹底的にマッキンリー一帯を捜索したが、植村はどこにも見つからなかった…。







※最期に残された映像には、植村直己が4mはあろうかというほど長い「竹竿」を腰の両脇に2本付けて歩く姿が写っている。

それは、かつて世界放浪の手始めに登ったヨーロッパ大陸最高峰のモンブランで学んだ教訓であった。彼はその時、クレバスに落ちるもザックが氷の割れ目に引っかかって九死に一生を得る。それ以来、落ちてもどこかに引っかかるようにと、何本もの竹竿をストッパーとして身体にくくりつけるようになったのだった。






◎日の丸



「冒険とは生きて帰ること」

生前、植村直己はそれを呪文のように唱え続けていたという。

最期となったマッキンリーから妻・公子さんへの手紙にも、何回も何回も繰り返し繰り返し「どんなことがあっても必ず帰って来るから」と書いている。



植村が消息を絶った後、妻・公子さんは悲しみに堪えつつも、記者陣に対して気丈にこう言っていた。

「夫は『生きて帰ることが冒険だ』といつも偉そうにいってたくせに、ちょっとだらしないんじゃないの? と言ってやりたい気持ちです…」

トンカツ屋での初対面のあと電撃結婚した2人であったが、新婚ほどなくして植村は北極圏犬橇1万2,000kmへと旅立ってしまう。そのとき彼女は、植村の後ろ姿を見送りながら「何でもいいから無事に帰ってきてほしい…」と切に祈っていたという。

結婚生活10年間において、植村が旅先から妻・公子さんに送った手紙は280通を超えていた。



長年取材を続けてきた湯川豊氏は、こう語る。

「アラスカに残された彼の手荷物のなかに、マッキンリー下山後に出そうとしていたらしい『何も書かれていない絵ハガキがたくさん残されていた。捜索隊が帰ってきてその話を聞いたときの、胸をつかれるような寂しさをいまでもありありと覚えている」

植村がマッキンリーに旅立つ直前、湯川氏は植村と山で一泊キャンプを張っている。その時、植村は冒険家らしくもなく「イワナのお化けが出そうで…」と夜を怖がっていたという(日中にイワナをさばいていた)。また、公子さんは「猫がガチャンと音をさせても怖がる」と笑っていた。それほどに植村は臆病なところがあり、それゆえに彼の単独行は慎重細心であったという。






植村が消えた後のマッキンリーの頂上には、植村が結わえたであろう「50cm四方の日の丸」が揺れていた。

マッキンリー(標高6,194m)における冬季単独登頂は、世界初の快挙であった。



遺体は現在にいたるまで発見されていない。

最後に消息が確認された1894年2月13日、その日が植村直己の命日とされた。

享年、43歳。













(完)






後記:

没後の1984年4月19日、時の中曽根内閣は植村直己に「国民栄誉賞」を授けた(当時、史上3人目)。

そして、植村直己の「南極後の夢」だった北海道・帯広の野外学校は1985年に開校。いまもなお少年少女たちに「生きる技術」を教え続けている。

野外学校の目標は「ウエムラ・スピリッツ」を学び近づくこと。「厳しい自然の中でどう生き延びるのか」、自分たちの力で生きることを教えるため、手助けはほとんどない。だが、たとえ単独といえども「多くの協力」に支えられていた植村直己の冒険を手本に、「支え合わなければ食事もできない」ということを大切に教えている。

「小鳥のさえずる優しさだったり、吹雪の峻烈さだったり、野外学校の基地に立つと『自然の息づかい』が感得される。私たちは、山の急斜面をあえぎ登り、せせらぎに魚を追うだろう。自然に耳を澄ますことが、私たちのテーマだ(「野外学校の目標」より)」






関連記事:

世界放浪1,000日 [植村直己・夢の軌跡より] その1

垂直から水平へ。原住民に溶け込んで [植村直己 夢の軌跡より] その2

冒険家の「心の支え」 [植村直己 夢の軌跡より] その3



出典:ナショナル・ジオグラフィック
「植村直己 夢の軌跡」湯川豊

posted by 四代目 at 04:58| Comment(0) | 山々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月02日

冒険家の「心の支え」 [植村直己 夢の軌跡より] その3




垂直から水平へ。原住民に溶け込んで [植村直己 夢の軌跡より] その2 からの「つづき」






下宿近くのトンカツ屋。

植村直己はそこで「野崎公子(のざき・きみこ)」さんと初めて会った(1973年7月)。その頃の植村は、ほぼ一年間におよんだグリーンランド滞在から帰国したばかりだった。



そのトンカツ屋で、公子さんは友人から植村を紹介された。

「公ちゃん、この人さ、このあいだグリーンランドから帰って来たんだってよ」

その時、公子さんは「へぇ」と思っただけだった、と後に語る。「お風呂帰りの艶やかな顔にしては汚かったんですよ。なんだかちびたものを身につけていて」。



割と淡々としていた公子さんに対して、その話の向こう側の植村は「一目惚れでドギマギしていた」という。

以後、トンカツ屋に顔を出すたび、植村は「公ちゃん呼んでください」としょっちゅう頼むようになる。ちなみに、公子さんは江戸時代から続く豆腐屋の娘であった。



初めて会ってから約半年後、植村家の長兄・修さんと次兄は、野崎家に結納をもってきた(1973年2月)。そして、結婚が本決まりとなった。

だが、こともあろうに結納の翌日、植村はネパール(ヒマラヤ)へと旅立った。

「公ちゃん、あとは全部まかせるから」と言い置いて。



ヒマラヤ山中から公子さんに宛てた手紙にはこうある。

「このヒマラヤ山中にも、心はいつも東京にあり、我々の5月の式のことが心配であり、便りせずにいられません。(中略)公ちゃんの希望の日程で式を挙げてもらえば結構です。式その他の件、公ちゃんの判断で総て決めてください。たいへん勝手な言い方で申し訳ございませんが宜しくお願いします」

この少し前、植村はこうも書いている。

「俺のような悪人につかまってしまったと、一生を棒にふってしまったとあきらめて下さい」



結婚式の直前までヒマラヤの遠征偵察隊に行っていた植村。その帰国は一週間遅れることとなり、帰国するや否やバタバタと式を挙げることになる(植村直己、当時33歳)。

そして、新婚生活も半年そこそこに、植村はグリーンランドへと旅立ってしまう。



目指すは「北極点」。

世界初となる「単独行」のはじまりである。






◎使命



「この北極計画は私にとって、是が非でもやらなければならない使命であった」

グリーンランドの旅の許可が下りるのを待つ間、植村は公子さん宛の手紙にそう書いている。そして、こう続く。

「待つ身は行動をとっているものより長くつらいことと思うが、カンベンしてくれ。俺とて、今までの行為と違って今度は自分のためにやるということばかりでなく、バックにいる公子君の為にもどんなことがあろうと、成功して帰らなければならないと、すごい意志のささえとなっている」

以後、植村の妻に対する「一方的気づかい」がグリーンランドから次々に届くことになる。



植村は「自分のためにやるということばかりではない」とここに書いてあるが、それは公子さんの為というばかりではない。

ヒマラヤ登頂を皮切りに、世界で初めて五大陸最高峰を制していた植村直己にとって、その冒険はもはや彼個人の域を超えたものになっていた。

文藝春秋やナショナル・ジオグラフィックなどからも後援を得ていたため、その冒険は「是が非でもやらなければならない使命」となっており、何より世界の人々が冒険家・植村直己の一挙手一投足に熱い視線を注いでいた。そのため彼の冒険は「成功して帰らなければならない」ものともなっていた。



かつて無名であった頃、植村直己の世界放浪や単独行はじつに自由な心で行われていたように思う。

だがその心が大きくなるにつれ、いろいろなところにぶつかり始める。壮大になっていく冒険には、その地を支配する国家の許可も必要となれば、個人では負担しきれないほどの資金も必要となってくる。

そして冒険家の宿命として「初」を追うことを求められる。その冒険は誰も行ったことがない場所を目指さねばならないし、誰もやったことがない方法で成されなければならない。



20世紀に入って世界最高峰は次々と登り尽くされ、世界の「地理上の空白」はもはや北極と南極ぐらいにしか残されていなかった。

その北極と南極ですら、すでに人跡はついている。ただ「単独」でそこにたどり着いた者はまだいなかった。

この点、植村の単独北極点到達という偉業は「世界初」の冒険となるのである。



だが、その冒険はさすがに熾烈を極めた。

植村は「いちばんの心の危機」に襲われるのである。






◎犬らの脱走



「犬橇(いぬぞり)を走らせ手袋をはめ、橇(そり)の上でこの手紙を書いていますので、読みづらいと思いますが御許し下さい」

橇が揺れるほどに踊る文字。その臨場感みなぎる北極圏から手紙からは、植村の息づかいまでが聞こえてきそうだ。

「太陽は昇り始めたとはいえ、1年のうち1番低い気温の時期、マイナス30℃〜40℃(2月)」



出発して間もなく、植村はちょっとした手違いから犬たちに逃げられる。

「暗闇と寒さのなかに取り残され、さすがの彼も氷の上にへたりこんだ。犬橇旅行で犬を失うことは、直接、死の危険につながる(湯川豊)」

いきなり橇(そり)を捨てることを余儀なくされた植村。歩くことを決意し、必要最小限のものだけを背負えるだけザックに詰め込んだ。

そんな時であった。リーダー犬のアンナが5頭の犬を連れて帰って来たのは。








犬は6頭に減ってしまったが、とりあえず命だけは助かった。半分以下の犬で辛うじて町までたどり着いた植村は、フラフラと町をさまよい、缶ビールを6本買ってテントに戻る。

ヤケになって何も考えずにビールを次々と空けた植村。いつの間にかそのまま眠り込んでしまう。



夜中に目を覚ました植村は、過去の回想にとっぷりとふける。

「深い静寂があり、ときおり風の吹き抜ける音だけが聞こえた。私は暖かいコンロの火を見つめながら、過去のことを想い出していた」

過去の単独行においても、そうした回想が彼の「一つの癖」になっていた。テントの中で、時には雪洞の中で。

「それは単独行にのみ許される、楽しい、ときには甘美でさえある時間だった」と植村は記す。そして、そうした時間が植村に「新たな力」をみなぎらせたようである。






◎割れる氷



この時の旅は最終的に1万2,000kmにも及ぶことになる。

順調であれば、犬橇は時速10kmくらいの速度で走る。行動時間は平均すると一日8〜9時間。ときに10時間以上というのも珍しくない。夕方には氷上にテントを張る。

「テントに入るとまず石油コンロに火をつけ、履いていた靴、内靴、毛糸の手袋、マフラー、ヤッケをテント内に渡した紐に吊り下げて乾かす。テントの天井はたちまち一杯になってしまう」

「氷を溶かしたお湯で紅茶を飲み、カンテラの明かりを頼りに地図を見ながら夕食をとる。セイウチの肉には塩をつけるが、肝臓やキビアにはなにもつけない。腹いっぱいに、これ以上は何も入らないというところまでつめ込む。約1キログラムだ」

朝はコーヒーを飲むこともあったようだが、紅茶に「溶けきれないほどの砂糖」を入れて飲むことが多かったようだ。食べるものは「犬たちと一緒」である。





シュラフ(寝袋)を二重にして眠るものの「寒くてたまらない」。

そんな厳寒の中、植村は暗い海に落ちる。グリーンランドのメルビル湾を通過中、薄い新氷帯に橇(そり)を入れてしまい、氷が割れて橇が海中へと沈んでいったのだ。

この危急に植村は、「助けてください! 俺を助けて下さい!」と声に出して神に叫んだ、と著書に記されている。と同時に妻・公子さんの顔が目に浮かんでいた。



幸い、橇はそれ自体の浮力で浮き上がり、犬たちもまた海中から氷の上に這い上がってきた。植村自身は濡れることはなかったものの、橇の上の大切な装備品は皆濡れた。

九死に一生を得た植村は、「俺は元気だよ」と脳裏の公子さんに叫んだという。






◎白熊



ある日の明け方、犬の鳴き声がふと止んだかと思うと、「犬とは違う足音」が聞こえてきた。

「はっ」と目が覚めた瞬間、異様な鼻息の音が不気味に響いてくる。間違いない。白熊だ…!



あろうことか、寝袋のわきに置いていたライフルに弾は込められていない。もし、起き上がって弾を装填すれば、その音で白熊はまっすぐこちらに向かってくるだろう。

それにライフルの手入れも怠っていた。照準も合っていないし、もし油が凍っていれば、たとえ弾を込められたとしても発射できない。犬たちはどうした? 鳴き声もしない。逃げてしまったか…。



なすすべがない…。

足音が近づいてきた。もう枕元のすぐそばだ。

臭いを嗅ぐ鼻息は耳元に聞こえている。そしてなんと、巨大な足がテントの上から植村の頭を押さえつけにかかる。白熊は爪でテントを引っかき始めた…!



絶対に身動きしてはならない。

呼吸の音さえ、気づかれてはならない。



「公ちゃん、俺は死ぬよ…」

植村は観念した。全身の毛穴からは汗が噴き出している。

しかし幸いにも白熊は、テントを揺さぶり裂いただけで、襲っては来なかった。どうやら植村の存在に気づかなかったらしい。白熊はテントの外に置いてあったアザラシの凍肉を食べ、クジラのラードを食べ荒らしているようだった。



すると不意に、あの恐怖の足音が遠ざかって行く。

助かった…!

「状況からすれば、奇蹟的に、といってもよかった」



だがまだ動いてはならない。

植村は十分に静けさを保ったまま、ようやく二重にしたシュラフ(寝袋)のファスナーを慎重に下ろしはじめた。

テントの外に出てみると、白熊の足跡がありありと残っていた。「輪カンジキほどの大きさの、爪の方が広く踵の方が小さい」。食料類はめちゃくちゃにされており、クジラの脂肪を入れていたポリバケツなど、まるで紙屑のようにズタズタに散らされていた。

植村が白熊に遭遇するのは初めてではなかった。だが、このような「不意打ち」は初めてのことだった。



この翌日、味をしめたあの白熊は、ためらうことなくテントに向かってきた。

だが、今度は恐れることはない。再襲来に備え、ライフルの手入れは万全であった。植村は何発か弾丸をブッ放すと、この白熊を仕留めた。

日記にはこうある。「大体、こんな目にあうのも、どこか準備に手抜かりがあったからではないか。心をひきしめて、自分自身を取り戻さなければ」






◎濃い憂鬱



出発して2ヶ月、植村は「気が滅入る…」とつぶやく。

「やっぱりこの旅は自分にとって厳しすぎた。心身ともに疲れ切ってしまったのだ…」

彼の著書には「なぜか濃い憂鬱に襲われた」と語られている。犬たちの脱走や橇を海水に落とすなど、その原因はさまざまに考えられた。



「橇は砂の上を走らせるように滑らず、1日最高50km、ある日は乱氷の中に1日10km進むのがやっとでした」

「気温はマイナス40℃を越し、乱氷に悩まされ、その上、C.B.で手に入れた新しい犬は橇を曳いたことなく、グリーンランド犬とケンカ、凍死したり、疲労死、闘争死で、500kmと走らない内に犬は9頭に減ってしまいました」

ルートを大きく変更して新しく手に入れたコッパーマイン犬は、「犬の数ばかりで、橇を曳くことより、犬同士のトラブルばかり」。



その上、「予定していたカリブーの狩りは2頭とっただけ」。犬橇に乗せられる食糧には限界があるため、現地での狩りや釣りなどで自分や犬の食料を確保しなければならなかった。

「橇の犬の食料は食べ尽くし、犬は元気なく、わが体も調子悪く」

「気温はマイナス40℃〜50℃にも下る寒さにより、一日一食(夕方)しかとれない」

「マイナス50℃という寒さには、もう防寒衣をつけても体全体が寒く、そして痛み、橇にじっと乗ってムチを振れない厳しさです」

「顔の凍傷はC.B.を出て4度目、やけどのようにヒフはただれるが、4〜5日もすると新しく表皮ができ、またそこが新しくやられると、いつも同じところが凍傷になること、くりかえしています」






◎心の支え



無限かと思われる氷雪に、たった一人の単独行。「どうしても1人でやらねければならなかった」冒険。エスキモーたちにさえ「トコナラヤカイ(死にに行くのか)?」とその一人旅を心配された。

その惨憺たる旅のなか、妻・公子さんの存在は「唯一無二の心の支え」となっていた。公子さんは北極圏のさなかにある植村に手紙を書き、また植村も書いた。

「君が俺のことを心配してくれて、思ってくれて、本当に俺は幸せものだと感じている」



時には率直に、「暗闇の中に暗中模さく、俺を助けてくれ」とも植村は書いた。

そして時に心配をかけまいと、気を使った。海に橇ごと落ちた時などは「海水に落ちたけれど、とっさに逃げて助かった」と短く報告するだけだった。



「いちばんの心の危機」を感じていたという北極圏1万2,000kmの冒険旅。その心が細くなっていた時、家で待つ妻の存在は限りなく大きなものとなっていた。

「テントの外は目も開けていられない地吹雪、犬はテントの前で風を背中に向け顔を腹わきにつっこみ、丸くなって死んだように身動き一つしない。(中略)テントが風にブンブンなり、タイコの音のように鳴りひびいて、テントの中で、君の便りを繰り返し読んでいる」






◎怒り



1974年5月に「電光石火のような早業」で結婚した植村直己と妻・公子さん。

その直後、およそ1年半にも及ぶ最初の北極圏単独行1万2,000km(1974年12月〜1976年5月)。1978年には、世界史上初の「北極点単独行」に成功(およそ56日間)。

その後、マッキンリーの雪山に植村が消える1984年まで、その結婚生活はおよそ10年。だが、冒険の合間にあったような2人の生活は、実質的に半分の5〜6年程度。



人当たりの良かったという植村は、滅多なことで怒りを人に向けることはなかったというが、妻・公子さんにばかりは怒りを爆発させることがあったという。

それは「ごくつまらないこと」から始まるのが常だった、と公子さんは語る。冷蔵庫の中に残っていたはずのものがない、といったような。

しかし、植村の怒りは「公子さんに全身を預けるようにして頼りにしていた、その現れ方の一つ」と、幾多の取材をしてきた湯川豊氏は語る。



そのことに関して、公子さんは次のように言っている。

「結婚してだいぶ経ってのことですが、だんだん外に対して怒れるようになったと思います。ある報道関係の人にすごく怒ったことがあって、この人、変わってきたなと思ったことがありました」

だが同時に、公子さんはこうも悲しむ。

「植村も年をとっていったのかもしれません…」






◎背負っていたもの



冒険家・植村直己の内に秘めるエネルギーは、もともとマグマのように膨大であったろう。時にそれは爆発しなければ収まらなかった。

それを公子さんは、こう語る。「自分の中のものを全部出さないと収まりませんでした」

だが、爆発してしまえばあとはケロッとしたもので、怒りを向けてしまった公子さんに真剣に、深刻に謝ったのだという。



それでも、そうした爆発は彼の中のエネルギーのほんの一部だったのかもしれない。というのも、冒険に関する心のストレスは妻の公子さんにも決して見せようとはしなかったのだ。

「自分の冒険の結果については多くを語ろうとはしなかった。ひとりで黙々と背負っているようだった(湯川豊)」



じつは、植村直己「渾身の偉業」となった北極圏単独行ののち、彼の心は相次ぐ冒険の失敗に苛まされる。

1980年、植村が隊長になって試みた冬季エベレスト登山の不成功。そして後に語るが、南極大陸横断の不成功。

「植村は、この二つの行動の結果に、深くこだわっていたと思われる(湯川豊)」



妻・公子さんはこう記す。

「厳冬期のエベレスト、南極のビンソンマシフと失敗が二度続いて、彼の中に穴があいたように感じました」

「その穴の大きさや深さを窺い知ることはできませんでしたが、時折その穴に入り込んでいる彼を見るのは辛いものがあり、失敗は自分自身どうしても許せなかったのでしょう」



そして、公子さんは最期の結果に触れる。

「その果てが厳冬のマッキンリーになり、自爆してしまったと哀しく思うのです」

「堂々めぐりの中から抜けられなかった。ちょっと気持ちをそらせば違う生き方だってできたのにと切なく思うのですが…」













(つづく)

「南極の夢」とマッキンリー [植村直己 夢の軌跡より] その4(完)






関連記事:

世界放浪1,000日 [植村直己・夢の軌跡より] その1

垂直から水平へ。原住民に溶け込んで [植村直己 夢の軌跡より] その2

「南極の夢」とマッキンリー [植村直己 夢の軌跡より] その4(完)



出典:ナショナル・ジオグラフィック
「植村直己 夢の軌跡」
posted by 四代目 at 06:56| Comment(0) | 山々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする