2011年07月08日

ラクダを殺して温暖化防止を図ろうとするオーストラリア。その賛否を問う。

オーストラリアが、野生の「ラクダ」を大量殺戮しようとしている。

その大義名分は「温暖化阻止」である。



なぜ、ラクダが温暖化と関係するのか?

野生のラクダが、草原を食べ尽くし、食後のゲップで、年間1トンの「メタン」を排出するためだそうだ。

メタンは二酸化炭素以上の温室効果ガスなのである。



現在、オーストラリアには120万頭の野生ラクダがおり、その殺処分の案として、「ヘリコプターからラクダを射殺する」ことや、「食肉工場で、ペットフードに加工する」などの話が出ている。

当然、反発も強い。

まず、メタンの排出量の計算が間違っているという。

計算の基準が、ウシとされているが、ラクダは「ウシに比べて20%少ないエサで、20%多いミルクを出す」ほど効率的で、そのメタンを出すという胃袋も、「ウシ(胃が4つ)よりもブタ(胃が1つ)」に近いという。

植物を食い荒らすという点でも、異論がある。

「世界にいる計2800万頭のラクダは、草食動物全体の1%にも満たない」。



地球を守るはずの温暖化防止策が、逆に自然の生態系を殺してしまっては、本末転倒ということだ。

野生のラクダを殺して回るくらいなら、マクドナルドでハンバーガーを食べる回数を減らすほうが、よっぽど建設的である。

まさか、当のラクダも、自分のゲップ(メタン)に関して、人間たちが真剣な争いを繰り広げているとは、夢にも思うまい。

論拠不十分の犬死(ラクダ死)には、成仏しきれるものではない。



posted by 四代目 at 07:45| Comment(1) | 動物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月06日

猫のいなかった島は、ネズミの楽園であった。しかし‥。

沖縄本島・北部の山原(やんばる)には、珍しい動物が数多く生息する。

飛べない鳥の「ヤンバルクイナ」もそうだが、「ケナガネズミ(毛長ねずみ)」もそうだ。

「ケナガネズミ」は、ネズミとしては最大級の大きさ(20〜30cm)でありながら、リスのようにスルスルと自在に木を登り、木の洞(うろ)に暮らす。シッポの先が白いのが特徴的だ。

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山原(やんばる)には、「スダジイ」というドングリをつける木々などが、青々と茂っており、山の食糧は豊富なのである。

もともと「ケナガネズミ」は、木の実や昆虫を食するので、それらを求めて木の上まで登っていったのかもしれない。

この地域には、「サルとリス」がいないため、「ケナガネズミ」は樹上を縄張りとすることができたようだ。地面には強敵「ハブ」がウヨウヨしているので、樹上の方がよほど安全なのである。



サルやリスに限らず、山原(やんばる)には、「肉食の哺乳類」が生息していなかった。

そのため、「ヤンバルクイナ」も飛ぶ必要がなかったし、「ケナガネズミ」も木の上で暮らすことができた。

しかし、世界のグローバル化とともに、状況は一変した。

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ハブ退治に人間が持ち込んだ「マングース」は、「ヤンバルクイナ」や「ケナガネズミ」を食い荒らした。

「捨て猫」も然り。猫を見たこともなかった「ケナガネズミ」は、猫から身を守る術を知らない。捨て猫たちは、おいしいネズミの森を、急速に我が物としていった。

交通事故も多発している。道路に覆いかぶさるように木々が茂っているため、木の実は道路に転がってゆく。道路に落ちた木の実を悠々と食していると、突然車がやって来て、ドカンである。



「肉食の哺乳類」がいない島というのは、ニュージーランドもかつてはそうであった。

その結果、やはり鳥は飛ぶ必要がなくなり、飛べない「キウイ」という鳥がニュージーランドには多数生息する。

そして、人間が肉食の哺乳類を持ち込むことにより、生態系はガラリと一変するのである。



世界がグローバル化すればするほど、強者が世界を席巻し、弱者は消え去ることとなる。

生態系の底辺を支えるのは、その弱者たちなわけであるが、強者はそんなことはお構いナシに、弱者を駆逐する。

その結果、生物の多様性は失われていき、ある特定の成功した強者が幅を効かせる世界が形作られてゆく。



しかし、その世界は一時の栄華に溺れているに過ぎない。

なぜなら、ピラミッドの頂点に位置する彼らは、そのピラミッドを支えるべき底辺を食い荒らすことしかできないからである。いずれ、そのピラミッドは崩壊せざるをえない。



頂点にいる者たちにとって、底辺の世界はかけ離れすぎているために、自分を支えている者たちには無思慮になりがちである。

ネズミがいなくなったからといって、人間様の生存が危ぶまれるはずはないと、誰しもが考える。ネズミの生活が人間の生活を支えているとは考えられない。

直接的にはそうかもしれないが、同じ地球に暮らす生物は、間接的には全てつながっている。そして、弱者の恩恵を最大に受けているのが、人間に他ならない。



本来は、強い者ほど、小さくなって謙虚に生きなければならないと思われる。

強い者ほど、全体のバランスには気を遣う必要がある。それこそが、強者が身を守る智恵である。




出典:ワイルドライフ
「沖縄やんばる 輝く森にネズミがつむぐ命の物語」

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2011年06月17日

ペットとして大人気のミニブタ。意外にも清潔で賢いブタたち。



アメリカ人の「飼いたいペット」、イヌ・ネコに次いで、第3位は…、

「ミニブタ」

今や、アメリカ国内では、100万頭ものミニブタが、ペットとして飼われているという。

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アメリカの「ミニブタ」ブームの火付け役は、ミニブタの「ネリー」。

芸達者のネリーは、ボール遊びなどで、テレビ・CMに引っぱりダコ。全米に一躍大ブームを巻き起こす。



ペットとして飼われるブタは「ポットベリー(太鼓腹)」という種。

ブタの野生種である「イノシシ」に近い小型の体型で、大きくなっても体重60kg程度。

家畜用の「大ヨークシャー」という種は、体重300kgにもなるというから、「ポットベリー」は、その5分の1。十分に「ミニ」なのである。



もともと、ミニブタ「ポットベリー」は、中国南部から東南アジアにかけての農村地帯で、家畜として飼育されていたという。

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そんな田舎ブタのポットベリーが、ヒョンなことから、1950年、ヨーロッパで「動物園」デビュー。

ヨーロッパで人気を博したポットベリー。1985年、カナダへ渡り、そして運命の地・アメリカへとたどり着く。

芸達者ネリーの活躍により、ミニブタ「ポットベリー」は大ブレイクしたという次第である。



テレビで大人気となったポットベリーであるが、「アイドル」としての道の他に、「警察官」としてもスカウトされた経緯もある。

麻薬犬ならぬ、「麻薬ブタ」である。



犬は「地上の匂い」を察する能力は極めて高いものの、「地中の匂い」までは、嗅ぎ分けられない。

ところが、ブタは「地中の匂い」を嗅ぎ分けられる。フランスのブタが、地中のキノコ「トリュフ」を探し出せることをご存知だろう。

麻薬は、地面に埋めて隠されることもあるので、その捜査のため、ミニブタに白羽の矢がたったのだ。

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麻薬犬の訓練官が、ブタを訓練して驚いた。

犬よりも物覚えが良いのだ。

犬は、繰り返し、繰り返し訓練しないと、なかなか覚えないが、ブタは、一発で覚えるという。



ブタの賢さは、研究者の間でも定評がある。

迷路を解く実験を動物にさせると、ブタが決まって一番になるといい、その知性は霊長類に次ぐものだと言われている。



ところが、そんな賢いブタさんにも、一つ欠点があった。

「仕事が遅い」のである。

犬なら数十分で終わる仕事に、ブタは数時間もかかってしまう。

この欠点は、麻薬ブタとしては致命的であった。警察の仕事はスピードが命。

ブタの丁寧すぎる仕事ブリが「アダ」となって、警察からのオファーは二度と来ることがなかった。



人間の先入観によって、ブタほど名誉を毀損された動物も珍しい。

ブタは「不潔」の代名詞とされる。

しかし、それは人間が狭い場所に、ギュウギュウと飼育していたためであり、ブタの責任ではない。

ブタの本性は「無類のキレイ好き」である。

ペットで飼っても、トイレはしっかりしているという。ブタは自分の排泄物の匂いが嫌いで、いつも居るところから、できるだけ離れた場所をトイレとする習性がある。



先に述べた「知性」もそうである。

誰もがブタは「能無し」と思い込んでいる。

「ブタに真珠」、「ブタもおだてりゃ木に登る」、世界各地にブタをバカにした格言は山とある。

ところが、ペットとして飼ってみると、皆その賢さに驚くのだ。そして、その意外性に魅かれてゆく。



医療の現場でも、ブタは重宝される。

意外にも、ブタは人間の臓器と共通点が多い。

臓器の構造、仕組み、働きなどが似ているため、臓器移植の研究は盛んである。



一見かけ離れたようにに見える、ブタと人間。

なぜ似通った臓器を持つのか?

お互いの「雑食」という食生活が、そうさせたと言われている。



雑食は臓器を似せると同時に、知性も発達させる。

食べる物の種類が多いほど、頭を使う必要がある。食べ物それぞれによって、実る時期や食べられる部位などが、異なるためである。

この雑食性が、ブタの知性を発達させたのではないかと言われている。



東南アジアの片隅でブヒブヒやっていた田舎ブタが、世界に躍り出るやアメリカン・ドリームを体現して以来、ブタは今までの不名誉を挽回しつつある。

ブタに真珠を与えると、高値になるまで保管しておくかもしれない。



家畜からペットへと転身をとげたミニブタ「ポットベリー」。

その意外な人気は、知られざる人間との共通性にあるのかもしれない。





関連記事:
健全に育てられる「イベリコ豚」。広大な土地と良質なエサが約束された珍しい家畜。

渡り鳥からガチョウへ。フォアグラとなった数奇な運命。食えぬ不幸に食わされる不幸。

ブタの臓器を人間に。おぞましくも有望な未来。「iPS細胞」の可能性。



出典:いのちドラマチック
「ポットベリード・ピッグ 偉大なるミニブタ」

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2011年06月14日

科学技術はアクセルかブレーキか? 動物愛護は是か非か? 原発は?





チョウのような、軽くて小さな昆虫に「発信機」をつけることが出来るだろうか?

北アメリカ大陸を南北に縦断するチョウ「オオカバマダラ」の追跡調査のためである。

ある研究者は、そんな無茶を実行した。アリのように小さい発信機。アンテナはギターの弦である。

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ある科学者は、草食動物の群れの動きを計算し、数字で表現した。

コンピューター上の動物の群れは、同じように動きを計算されたライオンを、巧みにかわしてゆく。



日進月歩の科学技術は、謎のベールに包まれていた「生物の生態」を、日に日に明らかにしてゆく。

かつての動物調査といえば、現地で何ヶ月も観察を続けたり、定点カメラや暗視カメラなどの「無人カメラ」での観察が定番であった。

これらは「目に見えるもの」の調査であり、現在でも重要な方法である。まさに「観て」「察する」。

先述の「極小発信機」や「コンピューター・シミュレーション」は、「目に見えないもの」を調査する手段である。



人間の眼やカメラには、自ずと限界がある。

「見えるもの」の先にある、「見えないもの」は捉えられない。

しかし、最新のツールは「見えないもの」まで明らかにしてくれる。



そこまでして、動物を調査することに、何の意味があるのだ?

我々人間の生活圏は、拡張に拡張を重ね、動物たちの領域を大きく侵害している。

その結果、人間と動物たちの境界線においては、様々な摩擦が生まれている。



たとえば、かつて、アフリカで「ゾウ」が激減したことがあった。

それは、「象牙」狙いの乱獲であった。

ところが、現在、ゾウを殺す主役は「密猟者」ではなく、「地元の住民たち」なのである。



なぜ、住民たちがゾウを殺すのか?

それは、畑の作物を荒らされるからである。

ゾウと人間の生活圏が重なってしまった、悲しい結果である。



ここで、先述の動物調査が役に立つ。

ゾウの首に、GPSを内蔵した発信機を取り付け、人間の領域にゾウが入ると、携帯にメールが来るように設定する。

住民たちはゾウの襲来をあらかじめ知ることができるので、ゾウを殺す以外の手段を講じることが出来るのである。

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動物保護は、とかく感情論に走りやすい。

「ゾウが可哀想だ」

「ゾウは賢い動物だから、殺してはいけない」

しかし、突然、巨大なゾウが眼前に現れたらどうか?

灼熱の大地で重労働に耐えながら育てた農作物が、一夜にして荒らされ、一年分の食料を失ったらどうか?



現地の実状、動物の生態、この両方を深く知ることで初めて、動物との共存を模索することが可能となる。

一方的な動物愛護は、バカ親的な害悪をもたらす。

動物の生態を知らずして、感情に訴えかける危険性は計り知れない。



目に見える現実は、表面の薄い層に過ぎない。深い現実は、目に見えないことろにこそある。

現地住民の声、ゾウたちの声なき声。聞こえない声にも、真摯に耳を傾ける必要がある。



科学は暴走しがちな側面も持つが、じつは、人間の感情にブレーキをかけてくれる側面も持つ。

数字を知ることで、安心することがあるのではないだろうか?

知らないから、必要以上に恐れることもあるのではないだろうか?

科学がうまく機能すれば、人々に安心を与え、正しく恐れる方法を示唆してくれる。



科学を「アクセル」としてしまうと、暴走の危険がある。

かたや、科学を「ブレーキ」と考えれば、暴走しがちな「人間の感情」を抑えてくれる。



科学技術というツールは、原子爆弾を作ることもできるし、戦争を止めることも出来る。

原子力発電所を作ることもできるし、それを壊すことも出来る。



進退一如。

「退くこと」は敗走とは限らない。

さらなる前進のための後退もある。

狭い視点と、目先の利益は、その実を見えなくしてしまう。



出典:地球ドラマチック 「密着!野生動物大追跡」
posted by 四代目 at 06:50| Comment(0) | 動物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月09日

世界最大の魚「ジンベエザメ」。フカヒレ乱獲をめぐる議論。

世界最大の「魚」は?

クジラではない。「ジンベエザメ」である。

もちろん地球最大の動物は「クジラ(シロナガスクジラ)」であるが、クジラは「魚」でななく、ホニュウ類に分類される。



「クジラ」と「サメ」では何が違う?

泳ぎ方が違う。

クジラは「バタフライ」のように、尾ビレを「上下」運動させて泳ぎ、サメは尾ビレを「左右」にフリフリ、金魚体操しながら泳ぐ。



世界最大の魚「ジンベエザメ」。

彼らの食料は、「プランクトン」や「マリンスノー(プランクトンの排泄物や死骸)」などの微小な海中浮遊物。

1.5mにもなる大きな口をいっぱいに広げ、さながら「鯉ノボリ」のように、海水を飲み込み、小さなエサを濾しとって食べる。

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世界最大の魚が、肉眼でやっと確認できるほどの「小さなエサ」を食べる。ここに最大サイズにまで進化をとげた秘密がある。

「小さいエサ」は、海中に無数に存在するため、食料に困ることはない。たまにしか捕れないような「大きなエサ」に頼ってしまうと、食料が安定しない。

陸上においても、肉食獣(ライオン)よりも草食動物(ゾウ・キリン)のほうが、巨大化しやすい。



「ジンベエザメ」が泳ぐ海は「豊かな海」である。

彼らは大量のエサを必要とするために、ジンベエザメの住む海域には、無数のプランクトンがいる。その大量のプランクトンを狙って、イワシやカツオなど大小様々な魚が集まってくるのである。

そのため、日本では「ジンベエザメ」が現れると、「大量の吉兆」とされ、「福の神」としてありがたがられてきた。ジンベエザメを「恵比寿(えびす)さん」などと呼ぶ地域も多い。

日本の漁師達にとって、ジンベエザメは海の「神様」であり、信仰の対象である。ベトナムでも「魚じい」と呼ばれ、親しまれると同時に信仰されている。



ジンベエザメと聞いても「縁遠く」響くが、「フカヒレ」というとグッと身近になる。

ジンベエザメのフカヒレは、最高級品であり、「金のなるヒレ」である。

ひとつのヒレが100万円以上の値をつけることがある。



1970年代以降、「金のなるヒレ」を求めて「乱獲」が始まる。

巨体を捕獲すると、船に乗り切らない。そこで「ヒレ」のみを切り取り、残りは海に捨てる。

2002年には、ワシントン条約により「保護」される対象に。

2003年にEU(ヨーロッパ連合)、2004年に日米が「フカヒレ目的」の漁を禁止。その他、各国が独自の捕獲規制をはじめる。

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各国が規制をしても、「フカヒレ」の需要は止まらない。

我が日本も、中国と並んで最大の「フカヒレ」消費国であり、そのフカヒレの何割かは「密漁」によるものである。

「金のなるヒレ」は、中国の密漁船に追っかけまわされている。



この事態を、海の環境・過激派「シーシェパード」が黙って見ているわけがない。

「シーシェパード」は、日本の調査捕鯨船に攻撃をくわえ、裁判所をたびたび賑わす「海のギャング」である。彼らにとって「クジラ」を喰らう日本人は「目の仇」である。

先月のニュースでは、シーシェパードが次のターゲットを、中国のサメ密猟に絞ったそうだ。

ユダヤの戒律を重視する彼等にとって、「ヒレやウロコのないものは食べてはならないのである」。サメには「ウロコ」がない。



サメの保護、漁規制に関しては、異論も多い。

まず、サメの実態が明らかでない。むしろ未知の部分のほうが多く、科学的には、謎の生物なのである。

ジンベエザメが卵でなく、胎児を生むとわかったのも、ここ10年の話だ。さらに、今までは水面近くに暮らしていたと思っていたが、意外にも深く海中に潜ることがわかったのも最近の話である。



クジラ、サメともに「ウロコ」がないためか、とかく感情論に走りやすい。

20世紀後半に乱獲があったのは、厳然とした事実であるが、個体数の増減は把握できていないのが現実である。

減ったという報告よりも、減っていないという証拠のほうが多いくらいである。



自然は、何でもかんでも「守ればいい」のか?

我々人類は、生物界では「弱い存在」であるため、ある程度「自然」を制御しなければ、あっという間に「自然」に飲み込まれてしまう。

普通の人間は、自然の中に放置されれば、一週間と生き抜けない。



日本古来の漁師達は、海との付き合い方を心得ており、小さな魚や貝をとっても、海に帰したりして、「長いお付き合い」を実践してきた。

それができたのは、海に対する「深い理解」があったからであろう。

彼らは、海とともに生き、ともに「死する覚悟」がある。

イイトコどりしようとは、露にも思わない。



捕っても捕っても減らない魚もいれば、そうでない魚もいる。

強い草を刈らなければ、良い作物は実らない。

世界の海は、いまだ見ぬバランスを求めて、彷徨(さまよ)っている。

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出典:ワイルドライフ
「フィリピン ドンソール湾 大接近!世界最大の魚 ジンベエザメ」
posted by 四代目 at 05:26| Comment(0) | 動物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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