2016年04月14日

人を恐れないライチョウ、それを食べるサル



日本のライチョウ研究者
中村浩志(なかむら・ひろし)氏は言う。

「恐れていたことが、ついに起きてしまいました」



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2015年8月、北アルプス東天井岳で、ライチョウの雛がサルに捕食されていることが確認された。

中村氏は言う。

「本来は草食性のサルが、ついに肉食にも手をだしたということです」

この写真が撮影された東天井岳では現在、ライチョウの幼鳥がほとんど育っていないという。

中村氏はつづける。

「オスの猿は大人になると、生まれた群れを離れて他の群れへと分散してゆきます。つまり、ライチョウを食べる習性も他の群れへ次々に伝播していくということですから、もはや待ったなしの状況です」







中村氏がライチョウの調査に乗り出したのは、20代の頃。

ライチョウは特別天然記念物なだけに、捕獲して調査すること対して、環境省、文化庁、林野庁、さらには捕獲場所の県や自治体など、すべての関係機関からの許可が必要だった。そのためか、従来の研究者たちはライチョウに触れることすらしていなかった。

しかし、しっかりした保護のためには、一羽一羽のライチョウを捕獲し、足環によって個体を識別して、ライチョウの生態を細かに把握する必要があると中村氏は考えた。



中村氏は言う。

「ライチョウの捕獲方法をいろいろと試行錯誤しました。当初はカスミ網を張って、ライチョウの群れを追い込もうとしたのですが、彼らもイザとなると俊敏で、なかなか上手くいきませんでした。思案の末にたどり着いた方法は、釣竿の先にワイヤーの輪をつけて、その輪をライチョウの首にかけて捕獲するというものでした」

思ったよりも簡単な方法で、ライチョウは捕まえることができた。なぜなら、日本のライチョウは人を警戒しなかったからだ。

中村氏は言う。

「世界各国のライチョウを見てきましたが、驚いたことに海外のライチョウはみな警戒心が強く、100m離れたところでも人間の姿を見つけると飛んで逃げるんです。一方、日本のライチョウだけは人を恐れません。その原因には日本文化が深く関わっていることに気づきました。この独自性に、海外の研究者はとても驚きます」

なぜ、日本のライチョウは人を恐れないのだろう?

その理由を、中村氏はこう語る。

「日本人は昔から、里と里山は人の領域、奥山は神の棲む領域として使い分けてきました。だから奥山にはいったときは神罰を恐れて、動物を殺して食べるといった殺生はほとんどしてこなかったに違いありません。奥山のもっとも高いところに棲むライチョウは、日本人にとって長いあいだ『神の鳥』だったのです。だからこそ、日本のライチョウだけが今日でもなお、人を恐れないのだと思います。私はこれを奇跡だと思います」







中村氏が最初にライチョウを調査した1985年、その数は3,000羽をかぞえた。それから25年後、ライチョウの数は2,000羽へと減少していた(約33%減)。

白馬岳では784羽から321羽へ(約60%減)、仙丈ヶ岳では288羽から154羽(約47%減)へ。また、白山、木曽駒ケ岳、蓼科山、八ヶ岳などでは絶滅が確認された。

中村氏は言う。

「野生動物は一般的に『1,000個体いれば安定的に存続できる』といわれていますが、それはあくまで一つの集団として生息している場合です。ライチョウは長い距離を飛ぶことができないので、生息環境が悪化しても他の山岳に移動することができません。隔離された小集団は、遺伝的な多様性が低いため絶滅の危険が高い。ライチョウの絶滅はそれぞれの山ごとに起こりつつあります



ライチョウは何万年もかけて、高山の寒い環境に適応できるよう進化してきた。ところが昨今の温暖化によって、その生息環境は徐々にせばめられてきている。

中村氏は言う。

「温暖化により年平均気温が1℃上がると、ライチョウの生息できる標高は154m狭まってしまいます。全山のなわばりを調査した結果、1℃の上昇により、30年前の74.2%にまで数が減少すると推測しています。最も標高の低い生息地である火打山には、30羽にも満たない日本最小の繁殖集団がいますが、今後、たった1℃の上昇で絶滅してしまうでしょう」

もし3℃上昇すれば、生き残れるライチョウは全体の6.4%にすぎないという。それは「ほぼ絶滅」を意味する。



山岳地帯の温暖化は、ライチョウのみならず、他の野生生物の動向も変えてしまった。

中村氏は言う。

「サル、クマ、シカ、イノシシ、チョウゲンボウといった、本来低山に生息する動物が、ここ20年で高山帯に侵入するようになりました。彼らの一部はライチョウを捕食し、エサや棲家となる高山植物も根こそぎ荒らしています。とりわけ南アルプスの鹿の食害は甚大で、あと数年もすると今あるお花畑がほぼ全滅してしまうのではないかと私は考えています」

食害のあとには、高山からの土砂流出も懸念される。

また、野生生物が増えすぎた原因は人間のライフスタイルの変化にもある、と中村氏は言う。

「かつては狩猟によって、大型野生動物は増えすぎずにバランスを保ってきました。しかし狩猟にたずさわる人が大幅に減ったことにより、これらの動物が人里ちかくで著しく増加したのです。増えすぎた野生動物は、新たな食料をもとめて高山へ侵入し、ライチョウだけでなく高山そのものの環境まで破壊しつつあります」







山や川で遊んで育ったという中村氏。

野に遊んだ思い出をかたる。

「近所の神社の大きなケヤキの樹上に、アオバズクの巣穴がありましてね、卵からかえった真っ白なフワフワの雛を、巣穴からとりだして見るのが毎年の楽しみでした」

学校の授業はそっちのけ、自分の手のなかで鳥を観察することが大好きな「鳥少年」だったという。

信州大学では生態研究所にはいった。

「研究室の活動で、長野の戸隠高原にある探鳥会にでかけることがあったんです。戸隠山周辺には古くから修験道を中心とした山岳信仰で崇め守られてきた、ブナやミズナラの豊かな原生林があります。そこで、子供の頃には見たこともなかった色美しい野鳥をたくさん目にして、将来は鳥の研究者になりたいと思うようになりました」

その研究室で、羽田健三先生にお世話になった。羽田先生は日本ライチョウ研究の第一人者であり、中村氏がライチョウにかかわるキッカケを与えてくれた恩師であった。



あれから30年。

羽田恩師はもう亡くなられた。

そして現在、羽田恩師の時代には考えられなかった様々な問題が、ライチョウをはじめとする野生生物の身におきている。



中村氏は生粋の野生児だっただけに、自然に対する直観力がするどい。そうした自然の感性にくわえ、鳥類の捕獲、足環による個体識別などデータ的な実績も深い。

ゆえに、現在日本で行われているライチョウをはじめとした絶滅危惧「予備軍」に対する保護のありかたに納得がいかない。

中村氏は言う。

「現在、環境省の予算の多くは "すでに絶滅したトキ" に使われています。しかしトキに注目している間に、人知れず絶滅に近づいている種がどんどん増えているのです。トキの輸入元である中国では保護に成功して2,000羽になり、絶滅の危険性はなくなりました。日本でこれだけお金と労力をかけてトキを増やす意味は、もはやないのです。野生動物の保護は、その種が危篤状態になってからどんなにお金や最新技術を注ぎ込んでも、もう手遅れです。だから、現存する生物の保護は、まだある程度数が保たれているうちに手をつけなくてはならないのです」

それが、絶滅した日本のトキが教えてくれる教訓だ、と中村氏は言う。







日本のライチョウは、まだ生きている。

氷河期、日本に移り棲んで以来、脈々とその血族をつないできた。



中村氏は言う。

「世界最南端たる日本の高山で、ライチョウは奇跡的に生き延びてきました。日本のライチョウは、日本最後の『自然を象徴する鳥』でもあります。世界の研究者が驚くこの貴重な鳥を、高山の自然とともに次の世代に残すために何ができるのか? いま問われているのです」










(了)






出典:岳人 2016年 05 月号 [雑誌]
中村浩志「切り拓く、ライチョウ保護のかたち」



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2015年02月03日

われ幻の魚を見たり [ウナギと畠山重篤]



宮城県気仙沼

舞根(もうね)湾にはかつて「ウナギがうごめいていた」と畠山重篤(はたけやま・しげあつ)氏は言う。

「海辺や川の石垣からは、夕方になるとウナギが顔を出したり引っ込めたりしている。大きめの釣りバリに、ハリが見えないように餌のミミズをつける。そして、石垣の穴の中へミミズを差し込んでやる。ウナギが食えば、少し手応えがある。ハリを引っ掛けた竹を素早く引き抜き、グッ、グッと強い引きを感じたら、それに合わせてテグスをたぐる。見事なウナギが釣れるのだ」

畠山氏は小学生時代、そうやって大量のウナギを釣っていたという。



「秋口、台風が到来して、海が茶色になった時がチャンスだ。大きなタモ網ですくい上げると、『こんな小さな湾にどうしてこれほどウナギがいるのか?』と首をかしげたくなるほどの大漁だ」

山にいたウナギは、秋になると川を下って海へと出て来る。そして海水に慣れるため、汽水域である舞根湾にしばらく漂っているのだという。

畠山氏は言う、「木造の小舟の底がウナギで見えなくなるほど捕れたんだ!」。



大漁のつづく夏から秋、畠山家のおかずは連日のウナギ三昧。

「農家の出である母は、慣れない手つきでウナギをさばく羽目になった。川のウナギと違って、海で捕れるウナギは大きくて力も強い。手にグルグル巻きつかれ、何度悲鳴を上げたことか(笑)」







ウナギをさばき続ける毎日に、氏の母はついに夢にまでウナギを見たという。真っ黒なウナギの大群が、山の中腹にある自宅までウネウネと登ってくる。その迫り来る大群に恐れおののいた母は、ギャーッと大声をあげて飛び起きたとか。

そして畠山少年に、こう言った。「オマエがあんまり捕りすぎるから、ウナギが怒っているにちがいない。タタリがあるかもしれないから、ウナギ捕りはもうやめておくれ」。



寝汗びっしょりの母にそう言われ、さすがにウナギ捕りを控えた畠山少年。

しかしほどなく、あれほど大量にいたウナギが舞根湾から姿を消してしまう。

まさか、ウナギが怒って…?











■ ウナギ騒動



「新幹線”ひかり”に乗ると、浜松で途中下車したくなる」と畠山氏は言う。「気の合う友人がいて『ウナギに行こう』と誘いがあるからだ」

畠山氏のひいきは、浜松駅前の老舗「八百徳」。

「創業明治四十五年という看板に惹かれて立ち寄ってから、すっかりファンになってしまった。味もさることながら、中居さんの客対応が気に入っている。けっして若くて美人ぞろいというわけではないが、5人のスタッフがテキパキしている。”遠州人気質”なのか、べたつき感がないのがいい。調理場も晒しで、板長とおぼしき年配の人の目配りが隅々まで届いている。どんなに混んでいても、白焼き、肝焼き、蒲焼き、酢の物、櫃まぶしが次々に運ばれてくる。飽きのこない味は友人の気質とも重なり、何度訪れても満足感に浸ることができる」







ところが昨年(2014)、ウナギに大騒動が起こった。

ウナギ養殖の要となる稚魚、シラスウナギがかつてないほどの大不漁に見舞われたのだ。



畠山氏は言う。

「シラスは、わずか55〜60mmと小さなものだが、価格はとてつもなく高い。豊漁年でもキロ30万〜50万。それが不漁となると、あっという間に値が跳ね上がる。昨年は史上最高の300万円にもなってしまった。金(ゴールド)の価格がキロ単価およそ5,000円だから、その高さがおわかりいただけるだろう」

稚魚であるシラスウナギは、人工的な孵化・育成が困難である。そのためウナギの養殖業者は、厳寒期に河口に上がってくるシラスウナギを採捕し、約半年間、エサを与えて飼育しなければならない。

畠山氏は続ける。「シラスの値上がりは、たちまち成魚価格に連動する。ウナ重の”上”の値段は3,000円台だったのが、東京では5,000円を超えてしまった。産地とはいえ、浜松のウナギ屋さんも値上げとなり、心なしか客足も減ったようである」。










■ 人工採苗



卵から孵ったばかりのウナギは「レプトセファルス(小さな頭の意)」と呼ばれる。

小学生だった畠山氏は、子供向けの魚の本でそのことを知った。

畠山氏は振り返る。「当時、”レプトセファルス”とそらんじられる子供はいなかった。その本の中には、デンマークの魚類学者、J.シュミット博士の伝記があった。ヨーロッパウナギの産卵場が、バミューダ諸島近くのサルガッソー海(藻の海)であることを発見した人だ。ヨーロッパ大陸から6,000kmも離れていた。子供の頃には、シュミット博士のようなウナギの研究者になりたいと夢見ていた」。







日本ウナギの産卵場所が特定されたのは2009年。

「西マリアナ海嶺南端部の海山域で、受精卵31個が発見された。東京大学海洋研究所のチームがついに突き止めた。シュミット博士の発見から80年以上の月日が流れていた」

そして昨年(2014)、日本の水産総合研究センターは世界で初めて、ウナギの卵からシラスウナギにまで育てあげることに成功した。ウナギ価格の上昇も相まって、ウナギの人工的な採苗(さいびょう)技術への期待は一気に高まった。



しかし、畠山氏は素直に喜べない。

「私はその考え方にどうしても馴染まない。たとえ人工採苗の技術が向上しても、天然ウナギを取り巻く環境は悪化の一途をたどっている」






■ ウナギの悲劇



ウナギは川と海を行き来する。

サケもそうだ。しかし、ウナギとサケの生育環境はまったく異なる。

畠山氏は言う。「サケの資源は安定している。大量に稚魚を生産できることと、生育環境が北洋という大海で人間生活の影響を受けにくい。ところがウナギの生育水域は、人間の生活圏と重なる。それが”ウナギの悲劇”である」







かつての天竜川は「シラスウナギが最も遡る川」だったという。

天竜川の水源は長野県の諏訪湖、河口は静岡県の浜松市。浜松は今もウナギの産地であるが、かつては諏訪湖畔にもウナギ屋が軒を並べていた時代があった。

しかし現在、諏訪湖にウナギはいなくなった。

なぜ?



畠山氏は言う。

「天竜川河口から諏訪湖まで、213kmをたどってみたことがある。下流は見事な杉林が続き、上流は山また山だ。木曽駒ヶ岳、赤石岳、八ヶ岳、もちろん富士山も見える。しかし、この川の流域は”ウナギに対する配慮”がまったく欠けている。いくつもの巨大ダムによって流れが分断されてしまったのだ」

下流から船明(ふなぎら)ダム、秋葉ダム、佐久間ダム、平岡ダム、泰阜(やすおか)ダム…。

「あの巨大なコンクリートの壁は、シラスウナギはとても上れない。諏訪湖にウナギがいなくなるのは当然だろう」



諏訪湖から天竜川へ流れ出る地点には、「魚道」とよばれる施設があり、こんな説明が付されている。

”諏訪湖と天竜川では水位差が約3.5mあるので、ゆるやかな階段式魚道になっています。魚道を流れる水量は、毎秒2〜4㎥、流れる水の速さは毎秒2mになるようにつくられています”

その魚道を見ながら、畠山氏はつぶやく。

「魚たちは、本当にこの魚道を行き来できるのだろうか...?」



前長野県知事は「脱ダム宣言」をした。

そこで畠山氏はこう提言した。

「諏訪湖にウナギを蘇らせるプロジェクトを立ち上げたらどうか? まずやらなければならないのは、日本一のシラスウナギが上る天竜川を、”ウナギの故郷”として復活させることである」

しかし残念ながら、「無しのツブテ」だったという。



畠山氏はしぶとくも、河口の静岡県庁にも赴いた。

「もし私が県知事だったら、長野県と提携して諏訪湖にウナギを…」

ところが話は「富士山を世界遺産に」という方向に流れてしまったという。






■ 幻の魚



我、幻の魚を見たり。


そう言ったのは和井内貞之。十和田湖にヒメマスを増やすことに成功した人物である(それまで十和田湖に魚は生育できないと信じられていた)。



その同じ言葉を今、畠山氏は言う。

「我、幻の魚を見たり」

じつはウナギが消えたと思っていた気仙沼の「舞根(もうね)湾」で、ウナギがふたたび捕れはじめたのである(2010年)。冒頭に書いたとおり、舞根湾は畠山氏が子どもの頃、大量のウナギを捕っていた場所である。

「あまりの嬉しさに、大先輩の金言を引用させていただいた」



地元・気仙沼で畠山氏は、牡蠣(かき)を育てるために山に木を植え続けてきた。「森は海の恋人」で知られる運動である。その成果はカキのみならず「ウナギの復活」にまで結びついたのだ。

畠山氏は自信をもってこう言う。

「ウナギを蘇らせるという話は、思っているより深い意味がある。それは『人間とは何か』という問いかけが含まれているからである。人間さえ決断すれば、ウナギは復活させることができるのだ。舞根湾にはとうとう、夢にまで見たウナギが復活したのである!」







その喜びの翌年(2011)、舞根湾は東日本大震災の大津波によって壊滅的な被害を受けた。

それでもウナギは絶えなかった。

畠山氏は言う。「大津波をへてウナギはどうなったか心配したが、ちゃんとくぐり抜けて姿を現した。ウナギは人々の『自然を大切にしよう』という心の象徴なのである」。



気仙沼の大井川でできたことが、浜松・諏訪湖の天竜川でできないということがあろうか。

畠山氏は明るい未来に胸をはずませる。

「浜松に途中下車するのが楽しみだ」













(了)






出典:岳人1月号
畠山重篤「ウナギの夢」



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2014年10月21日

ヤマメとサクラマス。同じ魚の、違う生き方。


ヤマメとサクラマス

両者の大きさは、小舟と戦艦ほどに異なる。体長20cmほどのヤマメに対して、サクラマスは60cmほどもある。体重で比べれば、その差は30倍にも達する(100g 対 3,000g)。



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それでも、この2種の魚は同じ卵、同じ母親から生まれるのだという。生まれた時は同じでも、その後、川に残るか、海に出るかで、それほども異なってしまうのだ。










■川での争い


真冬の12月。凍りそうな川の中に彼らの卵はあった。この段階ではまだ、どの卵がヤマメになって、どの卵がサクラマスになるのかは判らない。



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生まれたばかりの稚魚たちは、お腹に赤い袋を抱えている。そこにたっぷりと詰まった栄養を唯一の頼りに、しばれる川の石の隙間で、じっと春を待つ。



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5月はじめ、北海道の遅い雪解けとともに、ヤマメの赤ちゃんは活動を活発化させる。川に浮遊する小さな虫たちをせっせと食べて、着実に大きくなっていく。

6月。稚魚によって、ずいぶんと大きさが異なるようになってくる。川の上流に位置する稚魚のほうが、流れてくる水棲昆虫を早くゲットできるために、より大きくなれる。一方、下流の稚魚たちは「おこぼれ」に甘んずるしかない。よって小さなままである。

体格の大きな稚魚たちは、流れが強くエサが豊富に流れてくる「瀬」を占領できる。そして増々大きくなっていく。一方、貧弱な稚魚たちは流れが弱くエサの乏しい「淀み」に戯れるのみ。メダカのように小さなままである。



ここで、勘のよい読者は気づくかもしれない。

「ははぁ、大きな稚魚たちが将来、巨大なサクラマスとなるのだな」と。

ところが、事実はその真逆である。川でのエサ争奪戦に敗れた小さな稚魚たちこそが、意外にもサクラマスに大変身するのである。






■試練の大海


なかば川を追われるように、負け組のヤマメたちは大海原へと旅立っていく。その小さな身体のままで。

海が近づくにつれ、彼らの身体の模様は薄らぎ、まるでイワシのような銀色の体色になっていく。外敵の多い海にあっては、ピカピカ反射する銀色が身を守ってくれるのだ。色だけでなく、エラや内蔵なども少しずつ海の塩水に合わせて変化していく。



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海には、驚くほどエサが豊富にある。川とは比べものにならないほど、生態系が豊かなのである。小さなヤマメたちは海の恵みを腹に、どんどんどんどん、その身体を大きくしていく。

海にはエサがふんだんにある一方で、自分たちがエサになってしまう危険も多い。獰猛なシャチやオットセイなど、天敵が山ほどいる。海に出て川に帰ってこれるヤマメは、わずか一割にすぎないという。だから、できれば川で一生を過ごせるのなら、それにこしたことはない。

実際、九州など暖かい地方の川のヤマメは、あえて海に出ていくことはしない。しかし寒くて食べ物の少ない北海道では、じつに4分の3(75%)ものヤマメが海に出ていかざるをえない。その内訳は、メスのほとんどとオスの半分。つまり、強いオスだけしか川に残れない。



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大海は厳しい。

それでも、もしこの試練の荒海で生き延びることができれば、そのヤマメはサクラマスへと大変身を遂げることになる。立派な体躯となって、故郷に錦を飾ることができるのだ。






■川のぼり



また春が来た。

一年前に海にでた、かつての小さなヤマメたちが川を遡ってくる季節だ。

その姿はもうヤマメとは呼ばれない。サクラマスという大型の、まったく別の魚のような風貌。海での武者修行が、その身を鍛え抜いた結果である。



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海から戻ったサクラマスには、その身に傷をもつ者も多い。獰猛な天敵たちに襲われもしたのであろう。今はようやく危険な海を離れたとはいえ、目指す故郷はまだまだ遠い。そして、川の旅もそう生半可なものではない。

行く手をはばむ大きな滝。3mもの段差が、サクラマスの群れを遮る。それでも彼らは、果敢に身を空に投げ出して、その滝を乗り越えようとする。何度も何度も激流に身をぶつけ、ときには岩に打ちつけられても、決して諦めようとはしない。コツをつかんだサクラマスは、滝壺の底に深く身を沈め、浮上の勢いをかって一気に大ジャンプ。そうして次々と、サクラマスが大きな滝を飛び越えていく。



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目指す故郷、川の上流にたどり着くには数ヶ月も要する。春にはじまった遡上の旅は、もう3ヶ月がすぎ、北海道の短い夏も終りを迎えようとしていた。

そんな8月、浅瀬に差しかかったサクラマスたちは、浅い川底に腹をこすり、背ビレを水面に出してバチャバチャと進んでいた。すると、そのしぶきの音を聞きつけたヒグマが、彼らを襲いくる。浅瀬で身動きのままらならないサクラマスたちは、面白いようにヒグマに狩られていく。ヒグマにとってサクラマスはまたとない御馳走なのだ。



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大海原を生き抜いたサクラマスといえど、無事に故郷まで帰り着けるのは、ほんの一握り。それでも彼らは、一途に故郷を目指す。






■争い



夏が終ったころに、ようやく懐かしき故郷が見えてきた。

繁殖の準備がととのったサクラマスは、その身に赤いマダラ模様を浮かび上がらせる。とくに変化がはげしいのがオスの顔。上アゴが鈎状に曲り、鋭い歯がはえてくる。まるで赤鬼のような形相である。



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ふる里の川には、ずっと川に残っていたヤマメたちが元気に泳いでいる。そこに突如あらわれた巨大なサクラマスの群れ。はたして、川のヤマメたちは彼らが昔わかれた兄弟だということを認識できるのであろうか。

川に残っていたヤマメの体重は、わずか100gほどにしかなっていない。一方、荒武者サクラマスの体重は、3kgを悠に超える(ヤマメの約30倍)。

かつての勝ち組はもう、海帰りのサクラマスには歯が立たない。川に残っていたお山の大将たちは(そのほとんどが昔強かったオスであるが)、もはやサクラマスとなったメスの恋愛対象とはならず、尾ビレで軽くあしらわれるのみである。



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戦いはまだ終らない。

サクラマスのいかついオスたちは、メスを巡って新たな戦いをはじめる。巨大化したアゴで相手に噛みつき、意中のメスを我がものにせんと激闘を繰り広げる。大変身したオスの鋭い牙は、この戦いのためのものだった。皮肉にも、同じ兄弟たちと戦うために、最後の武器を用意していたのであった。

オスたちの真剣勝負は、ときに数時間にわたって続く。相手がシッポをまいて逃げ出すまで、戦いはつづく。






■産卵劇



戦いに勝ったオスは、その身を震わせ、メスに産卵をうながす。

メスは川底を尾ビレで叩き、卵を産みつけるための穴を掘る。

そうしている間にも、ほかのオスがちょっかいを出してくる。最後の最後まで気が抜けない。



ついにメスが産卵した。

感動の瞬間だ。

大きなオスはブルブルと、ますます身を震わす。



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と、その瞬間、小さなヤマメが両者に割って入った。

一瞬の隙をつき、メスの産んだ卵に自らの精子をかけたのだ。

必死で子孫をのこそうとする、最後のあがきであった。この時ばかりは、小さな身体が役にたった。小ささを逆手にとって、土壇場で大逆転を試みたのである。産まれる子の何匹かは、このヤマメの血を受け継いでいくのかもしれない。



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■新たな命へ



季節はもうすっかり秋。

森の木々はすっかり葉をおとし、寒々しい景色となっていた。



川面を見れば、力尽きたサクラマスが口をぱくぱくさせて、身を横たえている。

もう動ける力は残っていない。波乱にみちた生涯は、もうすぐ終ろうとしていた。

こころなしか、生気を失いかけた眼が満足げにも見える。



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川で敗れ、海に出ていかざるをえなかったサクラマス。

海の危険をくぐり抜け、そして決死の思いでたどり着いた故郷の川。



新たな息子・娘たちは、きっと来春には生まれているはずだ。













(了)






出典:NHKダーウィンが来た!
「ヤマメ vs サクラマス」



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2012年11月29日

クジラを優しくした魔法。小さなオキアミと怖いシャチ


冬のクジラは赤道近くに暮らしている。だがなぜか、夏に向けては北極の海にまで北上していく。その回遊距離は5,000km以上。

こんな壮大な旅をクジラたちは毎年の恒例行事として行なっている。というのも、エサが豊富にあるのは北の海なのだが、子育てとなると寒すぎる。クジラの赤ちゃんの薄い皮膚では耐えられない。そのため、暖かい南の海にまで南下して来なくてはならなくなるのである。

しかし、この大回遊には大きな危険も伴う。それは海の殺し屋「シャチ」が虎視眈々とクジラたちを待ち伏せしているからであった…。



◎赤ちゃんクジラ


12月のメキシコ、バハ・カリフォルニアの海には待望のクジラの赤ちゃんが誕生した(コククジラ)。

赤ちゃんといえど、生まれた時から体長は悠に3mを超す巨体である。デカイはデカイが、その身にはまだ脂肪が充分についておらず、寒さにはとても弱い。これから母親のオッパイをたくさん吸って充分な脂肪を付けていくことが必要だ(一日500リットルもの乳を飲むという)。

クジラはわれわれ人間と同様、哺乳類である。魚ではない。だから海で長く息が続かない。とりわけ赤ちゃんクジラは「数分に一度」、水面上に浮上しなければならない。しかし、生まれたばかりの赤ちゃんは自力でそれが出来ない。母親の背中に持ち上げてもらわなくてはならない。



必然、母親クジラの子育ては多忙となる。大量のお乳を与えるのみならず、つきっきりで頻繁に水面上へと持ちあげてやらなければならない。

冒頭に書いた通り、クジラのエサは北の海にある。子育てをする南の海は栄養に乏しく、大人になったクジラを満足させるほどのエサがない。それゆえ、赤道付近の暖かい海は子育てに最高の場所である一方で、母親クジラにとっては最悪の場所である。エサがないのだから。

母親クジラの授乳は5ヶ月ほども続くというが、その間、ほぼ「絶食状態」となる。そんな中、毎日毎日、大量のお乳を赤ちゃんに吸われ、数分に一度の海面浮上を繰り返す。赤ちゃんクジラが着々と肥え太る一方で、母親クジラは痩せ衰えていく。その体重は激務の中、3分の2にまで減少してしまうのだという…。



◎進路は北へ


メキシコの海には「コククジラ(克クジラ)」という種が暮らし、日本の海(小笠原諸島近海)やハワイには「座頭(ざとう)クジラ」が泳いでいる。これら北太平洋のクジラたちは、春になると一様に北の海を目指す。豊富なエサを求めて。

腹を空かせたクジラたちは、太平洋の北の果て「アリューシャン列島」のスキマを抜け、その先に広がる「ベーリング海」へと向かうのだ(ロシアとアラスカを首飾りのように繋ぐのがアリューシャン列島であり、その先の北極海につながるのがベーリング海)。



なぜ、北の冷たい海に大量のエサがあるのかというと、北極海の氷に閉じ込められていた栄養分が解氷とともに一気に解放されるからである。

解放された栄養の濃い海水は南へ南へと流れていくものの、ロシアとアラスカをつなぐアリューシャン列島が「防波堤」となり、ふたたび北へ北へと回流していく。そして、その栄養の渦はベーリング海を反時計回りに撹拌することになる。

こうして、アリューシャン列島という防波堤に隔たれたベーリング海という巨大な水たまりは、とんでもなく栄養豊富な巨大なスープと化すのである。



この濃いスープを狙ってわざわざ北上してくるのはクジラばかりではない。ニシンもくれば海鳥も来る。

ニシンの大群は推定10万トン。日本で水揚げされるニシンの30倍近く。オーストラリアから来る海鳥(ハシボソミズナギドリ)は何万羽いるのか数知れず。10km四方の海面は真っ黒に埋め尽くされることになる。

人はこの異様な生物の集中を「アリューシャン・マジック」と呼ぶのだそうな。



◎オキアミ


クジラ、ニシン、そして海鳥らが狙うのは「オキアミ」という小さな小さなエビである。

冬の間、北極の氷の中に閉じ込められていた栄養が、春の光を受けて植物プランクトンの大発生を促す。そして、それを糧に動物プランクトンの一種である「オキアミ」が大量発生するという流れだ。この時期、このベーリング海に大発生するオキアミは「世界一の密度」という特濃ぶりである。



クジラはその巨体に似合わず、この小さな小さなオキアミが大好物だ。巨大な口をガバリと開けて、大量の海水ごとオキアミを丸呑みにする(海水はクシのような歯のスキマから海に戻す)。

そもそもクジラが巨大化したのは、このオキアミのお陰だとも言われている。160万年前の氷河期が終わると、地球は一時急激に温暖化。それはまるで冬が終わったあとの北極海のようであり、それまで氷の中に閉じ込められていた栄養分が解け出し、海中へと大量放出されることとなる。

その結果、春先のベーリング海のようにオキアミが大量発生。赤道付近の海全体が特濃スープと化す。アリューシャン・マジックどころの比ではない。食えども食えども尽きぬオキアミ。この無尽蔵のオキアミを無尽蔵に食べ続けたお陰で、クジラは現在のように巨大化したのだという。



しかし、その巨体は災いともなった。巨体を維持するために、慢性的に大量のオキアミを必要とするようにもなっていたのだ。

氷河期の頃には赤道付近にあったオキアミのスープも、温暖化が進むにつれて徐々に北へ北へと遠ざかっていく。遠ざかるにつれて、クジラの回遊する距離は伸びていく。1,000km、2,000km、3,000km…、まるで忍者が成長する苗木を飛び続けて、その飛躍力を高めていくようにクジラたちは回遊力を高めていった。

それでも赤ちゃんクジラは依然として寒さに弱いままだったため、クジラたちはどうしても赤道付近の暖かい海を必要とした。しかし皮肉なことに、暖かくなればなるほどエサは減っていった。そしてついに、エサ場は現在の北極海直下のベーリング海にまで遠のいてしまっているのだ。その距離なんと5,000km。

これがクジラが大回遊を宿命づけられることとなった壮大な歴史の内幕である。



◎対シャチ


激ヤセした巨体にムチ打つ母親クジラ、赤ちゃんクジラとともに北の海を目指す。

南の海をあとにして2ヶ月、ようやく親子クジラにはアリューシャン列島が見えてくる。オキアミのスープ、ベーリング海はこの火山列島の先にある。しかし、アリューシャン列島を抜けるのはそうそう容易ではない。なにせ、クジラの通り道を熟知している狩人「シャチ」がその関所で寝ずの番をしているからだ。

待ち伏せするシャチは総勢およそ200頭。これほどのシャチが一堂に会するのは、世界の海広しといえどもこの時期のこの場所だけだ。幅わずか10kmのユニマック海峡をクジラたちは通ることになっている。ここがオキアミのスープへの最短コースだからだ。



さすがのシャチといえども、大人のクジラは襲えない。デカくて強すぎる。そこでシャチの狙いは必然的に「赤ちゃんクジラ」一本に絞られることとなる。

母親クジラも分かっている。これは毎年のことだ。シャチを恐れていては餓死するばかり。その危険を覚悟で狭い海峡(ユニマック海峡)に突入していかなければならない。



クジラ親子はあっという間にシャチに見つかった。シャチに見つからないということは不可能。シャチのよく聞こえる耳は、40km先の音をも拾うことができる。海峡の幅はその4分の1にすぎない。シャチの最高スピードは時速70kmだ。

一気に戦闘隊形をとるシャチ軍団。横一列になってクジラ親子を猛追。そして即座に捕捉。彼らの戦略は赤ちゃんクジラを母親から引き離すというただ一点。

防御体勢をとる母親クジラ。赤ちゃんクジラを自分の背中の上に押し上げてオンブ体勢。容易にはシャチに手を出させない。しかし、この体勢は自分の身をつねに海中に沈めて置かなければならない。赤ちゃんよりは息が長く続くといえども、母親クジラにも呼吸は必要だ。繰り返すがクジラは魚ではない。われわれと同じく空気を必要とする肺をもつ。



母親のスキはそこにあった。一瞬のスキにシャチは赤ちゃんクジラに強烈な体当たりを食らわせ、あっという間に赤ちゃんクジラを母親の背中から引き離してしまう。

続いてシャチは孤立した赤ちゃんクジラの上に覆いかぶさり、海中へと沈めにかかる。赤ちゃんクジラの息が続くのはわずか2分程度。人間同様、数分間沈められただけで命はない。

そこに突進してきたのは母親クジラ。指をくわえて見ている場合ではない。一分を争う緊急時だ。そのガリガリの身はもう力が残っていないようでもあったが、何とか気合いで赤ちゃんクジラを奪い返す。



この攻防は何回も繰り返され、ついには40分を超えていた。母親クジラももう限界を超えている…。

しかし幸いにも、シャチは去っていった。彼らの体力とて永遠ではない。この親子はついに持久戦を制したのである。



◎シェア


先の親子クジラは、幸運な例である。

実際、狩りの名手であるシャチの成功率は50%以上。この狭い海峡を通る赤ちゃんクジラのじつに半数はシャチの餌食となる。クジラが命がけでオキアミを目指すのと同様、シャチも命がけでクジラの大群を求めてやって来るのである。

一頭のシャチが一日に必要とする食物の量はおよそ300kg。この海峡にあっては、ときにそれ以上の大漁に恵まれる。すると、シャチたちは不思議な行動をとる。食べきれないほど獲ったクジラを「違う群れ」の仲間と共有するのである。



「普段シャチは、群れごとにバラバラに暮らしています。しかしクジラが獲れると、血縁のない群れとでも一緒にエサを食べるのです」と長年観察を続けるマトキン博士は言う。

食べきれないほどのクジラが獲れると、その群れはわざわざ盛んに鳴き声をあげて、他の仲間を呼び寄せるのだという。おおよそ獰猛なハンターには似つかわしくない思いやりの行動ではあるまいか。



ほかの群れと分け合ってなお、クジラの肉が余るときもある。

するとその肉は海上に打ち捨てられ、それはアラスカの岸辺にまで流れ着く。その棚ボタを待ち構えているのがヒグマたち。シャチの食べ残しは一切無駄になることがなく、誰か彼かのお腹の中に収まっていく。



◎救出劇


シャチ以上に仲間同士の絆が深いといわれるクジラ。

狭い海峡でほかの群れと出会ったクジラは、決まって行動を共にする。群れが大きくなるほど、シャチにやられる可能性は低くなる。血のつながりなど関係ない。



ところがある日、なぜか赤ちゃんクジラがたった一頭になっていた。普通であれば母親が面倒を見るはずの赤ちゃんクジラ。なんらかの理由で母親を失ったのであろうか…。

これほどの好機をシャチ連中が見逃すはずはない。いつもは母親から引き離すのに苦労するはずが、すでに母親がいないのだ。

あっという間に包囲されて海中へと沈められる赤ちゃんクジラ。もう絶体絶命…。



ところが…!

遠方より鳴り響く雄叫び、巨大なザトウクジラの群れが猛烈な勢いで突進してくるではないか!

普段、ザトウクジラがシャチに向かってことなど考えられない。それが大きな唸り声を上げて、赤ちゃんクジラの救出に現れたのだ! 海中であえぐ悲痛なる赤ちゃんクジラの叫び声をキャッチしたのだろうか…?



クジラの中でも巨体を誇るザトウクジラは大型バスよりも巨大である。そして、その巨体の3分の1もの長さを誇る立派な胸ビレが最大の武器。重さ500kgを超える巨大な鉄槌となる。シャチの群れに飛び込んだザトウクジラの群れは、シャチの頭を狙ってその鉄槌を振り下す。もし当たればシャチには致命傷だ。

巨大な尾ビレも力強く縦に振る。大量の海水ごとシャチは吹っ飛んでいく。これほど激しいザトウクジラの猛攻にシャチの群れは大混乱。ほうほうの体(てい)で逃げ回る。

それでもザトウクジラの怒りは収まらず、執拗なまでにシャチを全速力で猛追していく。シッポをまいて逃げまくるシャチにはもはや最強のハンターの称号は似合わない。



◎心優しきザトウクジラ


じつは助けられた赤ちゃんクジラはコククジラであった。つまり、助けてくれたザトウクジラとは別の種である。種を超えた絆がクジラ間では存在するということか。

「明らかにザトウクジラはコククジラを守っています。クジラが何を考えているのか、本当のところはよく分かりません。ただ私には、彼らには弱いものをかばう、いわば思いやりの心のようなものがあると思えてならないのです」

30年以上にもわたりクジラの観察を続けてきたマトキン博士も、クジラによる種のカベを超えた救出劇は初めて目にするものだった。



そういえば、と博士が思い出したのが、ある論文。そこにはアザラシを助けたザトウクジラの話が書かれてあった。

シャチの群れに完全に包囲された哀れな一頭のアザラシ。それをザトウクジラの群れが助け出したというのだ。アザラシを巨大な胸ビレの内に抱え込んだザトウクジラは、アザラシが沈まぬように自身は背泳ぎのような格好になって20分もの間、シャチの攻撃からかばい続けたのだという。



地球上でも有数の巨大生物であるザトウクジラ。その巨体に似合わず、その心はじつに繊細なのかもしれない。

オキアミという小さな小さなエビを食べ続けていることが、そんな思いを想起させる。

彼らにとっての「生き抜く」というのは、きっとそういうことなのだろう。なにも力に任せて他者を追い落とすことだけが生き抜くことにつながるわけでもない。



◎祭典


さあ、シャチの海を抜けた先に広がるのは、豊饒の海ベーリング海。

夏の到来を告げる激しい嵐はその先触れだ。嵐によりかき混ぜられた海底の栄養、それはオキアミの大発生のための下準備となる。



ポツリポツリと現れた水鳥は、1時間も経たぬうちに海面を真っ黒に覆い尽くす。いよいよ、アリューシャン・マジックの幕開けだ。

来た来た来た。お腹を空かせたクジラたち。母親クジラも赤ちゃんクジラも、コククジラもザトウクジラも…。北太平洋中のクジラたち4万頭が姿を現した。

身体を横倒しにして口いっぱいにオキアミを頬張るクジラたち。心なしか、その顔は笑っているようにも見える。ひたすら海面に踊るクジラたちはここで一年分の栄養を食いだめしておくのである。食っても食っても今は食い尽くすということがない。かつての氷河期明けの海のように…。



なぜ、母親クジラが恐ろしいシャチの群れに突っ込んでいったのか?

オキアミの大群を前にした赤ちゃんクジラもその意味を悟ったに違いない。



この夢のような夏が終われば、子どもたちは母親から離れ一人立ちすることとなる。

来年またこの海に来る時には「自分の力」で来なければならない。



守られる者は守る者となり、強き者は弱き者を助けることになる。

オキアミの起こした魔法は、クジラたちに巨体を与える一方で、そんな優しい心も同時に授けた。

餌であるオキアミも、捕食者であるシャチも、そんな魔法の立役者なのだ…。







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出典:NHKスペシャル
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posted by 四代目 at 07:47| Comment(1) | 動物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月29日

消えゆくウナギ…、流され続けたウナギの行く先は…。


「山芋から化ける途中のウナギがとれた」

明治時代の新聞には、こんな奇妙な記事が載っている。山道でウナギを見つけた御仁は、きっと不思議に思ったのだ。「川を泳ぐはずのウナギが、なぜか地を這っている…」と。

そして、中国の言い伝えでも思い出したのだろう。「山芋が変じて、ウナギとなる」とかいう…。納得のいった御仁、「ああそうか、このウナギは山芋から化けたばかりで、川へと向かう途中だったのだ」。



じつは、ウナギが山道を這うのは珍しいことではない。体表にウロコをもたぬウナギは、皮膚の毛細血管が露出しているために「皮膚呼吸」もできる。それゆえ、身体に湿り気さえあれば、水中でなくとも一週間くらいは生き続けられるのだ。

洪水などで川から打ち上げられたとしても、ウナギは山中を這って、また元の川へと戻っていけるのである。明治の御仁はきっと、そんなウナギでも目にしたのであろう。



◎謎多き生き物


まことしやかに「山芋がウナギに化ける」と信じられていたほど、古今東西、ウナギは謎多き生き物であり続けた。ウナギなだけに、ツルツルと「つかみどころ」がなかったのだ。

ギリシャの賢人・アリストテレスは「ウナギは卵から生じるものではなく、泥の中から自然に湧き出てくるものだ」とうそぶいたり、中国の学者が「ウナギにはオスしかいない」と公言したり…。

とりわけ、その生態には謎が多く、いったいどこで生まれるのかを知る者などいなかった、ほんの数年前までは…。



◎グアム島生まれ


ドクター・ウナギこと、塚本勝巳教授(東京大学)らの活躍により、今やウナギの「産卵場所」が特定されている。それは泥の中などではなかった。なんと、日本から2500kmも南方の海、常夏のグアム島の沖合いだったのである。

日本の川で十分に育ったウナギは、その時が来ると大海へと向かって泳ぎ出す。海底の山脈を目印に、南へ南へと延々と泳いでゆくウナギたち。その目的地は、西マリアナ海嶺付近、水深200mという深海である。



6月の新月、空も暗ければ海の底はもっと暗い。

何万匹という無数のウナギたちは、その新月の闇に呼応して大集合。わずか10m四方の空間に、数万匹のウナギたちがギュウギュウ、ヌルヌルとひしめき合いながら、一斉に産卵が始まるのだ。



◎流れ流され…


生まれたての赤ちゃんは、体長わずか3mm以下。その数、数十億。その姿は蒲焼きとなる親たちとは似ても似つかぬもので、まるで透明な柳の葉っぱのようである。

その状態のウナギのことを「レプトセファルス」と言うのだそうだが、ウナギに限らず、アナゴや海ヘビなどニョロニョロ系の生物たちは、小さい頃にこうした形をしているらしい。

中には体長が2mもあるというレプトセファルスも網にかかることがあるというが、それは一体何になるのか? まさか龍ではあるまいな(残念ながら、網にかかったレプトセファルスを育てることはできない。なぜなら、何を食うかわからず、捕まえてもすぐに死んでしまうからだ。ゆえにウナギの養殖も困難を極める)。





ウナギのレプトセファルスは、流れに身をまかせる木の葉のように、フラフラと海流(北赤道海流)に流されながら、フィリピン沖にまでやって来る。薄っぺらいその形は、まるで帆船の帆のように、流されるには一番最適な姿なのである。

そして次には、北へと向かう「黒潮」に乗り換える。その黒潮の流れに乗って、ウナギはめでたく日本へとたどり着くのである。そして、日本の川を登り、その一部は日本人の食卓にまで登るのである。



◎ウナギの律儀さ


ところで、ウナギは何を好き好んで、こんな大回遊をするのであろうか?

一説によれば、昔は産卵場所と生育地はもっと近かったらしい。もともとウナギは「深海」に暮らしていたというが、フィリピン沖あたりがその産卵場所だったという。これは3000万年も4000万年も大昔の話である。

悠久の時が流れるとともに、ウナギたちの根城としていたフィリピン海プレートの角っこは、少しずつ少しずつ徐々に徐々に、フィリピンから遠ざかっていく。その間、ウナギの赤ちゃんレプトセファルスは流されやすい形になって、陸地の川にまで何とかたどり着けるように進化していった。



そして現在、フィリピン海プレートの角っこはグアム島沖にまで遠ざかり、流されやすく進化したウナギのレプトセファルスは、もっと遠くの日本にまで流されるようになった。

その結果、日本に来るウナギたちは、何千kmにも及ぶ大回遊をするようになったとのことである。

なるほど、ウナギたちは遠泳が好きなわけではなく、起点となっていた産卵場所がプレートの移動ととも遠ざかってしまっただけだったのか。しかし、何千万年も前の生まれ故郷にトコトンこだわり続けているという律儀さは、いかんとも形容しがたい。



◎江戸の蒲焼き


そんな律儀なウナギたちは、日本人に愛されすぎて、食べられ続けている。

江戸時代の記録を見ると、ウナギという食は「そば」の値段と変わらなかったということだ。江戸の干拓とともに増えた泥炭湿地で、ウナギがたくさんとれたらしい。

江戸の労働者たちは、沼などでとれたウナギをブツ切りにして串に焼いたというが、それが「蒲(かば)焼き」の元となった。ブツ切りにされたウナギは、文字通り「蒲(がま)」の穂のように見えたのである。



そんな国民食のウナギは、今や高値の花。

今年6月の東京卸売市場では、キロあたり4,700円。去年より4割も高い。その原因は、単純な需給の問題である。要するに、取れる量が減ってしまったから、高くなったのだ。

日本で養殖されるウナギは河川をのぼる稚魚・シラスウナギを捕まえて育てられるが、そのシラスウナギの量が愕然と減ってしまっている。50年前には200〜250トンも取れていたシラスウナギは、今や取れても数万トン。もはや数十分の一にまで激減してしまったのである。

一部報道では、ワシントン条約で保護しようかという話も出てきている。もしそうなると、ウナギは絶滅危惧種となり、正式には食べられなくなってしまう(一部、ヨーロッパ・ウナギは、すでに国際的な取引が禁じられている)。





◎揺れ動く産卵場所


おいおい、どうしたウナギ、何かあったのか?

どうやら、数千万年以来の大事な産卵場所に「異変」が生じているようだ。



年々、ウナギの産卵場所は南へ南へ、数十kmずつ移動している。それはプレートの移動の速度よりもずっとずっと速い移動速度である。

なぜ、ウナギが産卵場所を南下させているかというと、それは海に降る「雨」の場所が変わったからなのだそうだ。エルニーニョなどの温暖化要因が、雨の降る場所を移動させているのである。



雨が降った場所は、雨水により海水の「塩分濃度」が薄まる。すると、その淵となる部分には、「塩分フロント」と呼ばれる塩分濃度の境目ができあがる。

ウナギが産卵場所として記憶しているのは、この塩分フロントの「匂い」であると考えられている。そのため、雨の降る場所が変われば、その産卵場所もそれにつられて移動するのである。



◎死滅への旅路


このように、ウナギの産卵場所というのは、気候環境の影響と無縁ではない。そして、その移動はついに「ある一線」を越えてしまった。

あまり南に行きすぎてしまうと、フィリピン海沖に出たときに、黒潮への乗り換えが失敗してしまう。北の日本へ向かう黒潮に乗るには、あまり南に出すぎると、うまくいかなくなるのである。



南に出すぎたウナギの赤ちゃん・レプトセファルスは、北の日本へ行く黒潮の代わりに、南のインドネシアに行くミンダナオ海流に乗ってしまう。まったくの逆方向だ。

たとえ南へ行っても、インドネシアで生き続けてくれれば良いのだが、残念ながら、そう簡単に陸地の鞍替えは難しいようで、結局は「死滅」してしまうようである(死滅回遊)。



緯度にしてわずか1度ほどの産卵場所のズレが、ウナギの生死を左右してしまうとは…。

生命の作り上げているバランスとは、なんと精緻なものなのだろう…。



◎通れぬ関所


こうした地球規模のバランスの変化に加え、日本国内の要因も指摘されている。それは日本の河川ならば、どこにでも目にすることができる「堰(せき)」の存在である。

なんと、ウナギはこの堰が大の苦手であった。堰には決まって「魚道」と呼ばれる魚用の通路が設けられているのだが、ウナギはここが登れないのである。アユやサケならば、流れに逆らって果敢に登れるところが、ウナギはここで行く手を閉ざされる。

海の河口からわずか数百メートルから出現する堰(せき)。一つ超えたとしても、いくつもいくつもの堰がウナギの行く手を阻み続ける。そして、いずれは堰のたもとで力尽き、鳥や肉食魚などの餌食となってしまうのである。こうして、何千kmにも及ぶ旅路は突然終わりを迎えてしまうのだ…。



堰(せき)というのは、ウナギの思わぬ弱点であった。ウナギは決して登りの下手な魚ではない。日光の華厳の滝を登って、その上の中禅寺湖までたどり着くウナギもいれば、アメリカのナイヤガラの瀑布を登る強者ウナギもいる。

しかし、その登り方はヌルヌルと這うように登るのである。流れのないところを。この登り方は断崖の絶壁をもモノともしないが、わずか数メートルの堰が登れない。なぜなら堰の魚道には流れがあって、ヌルヌルとした自らの身体の「ひっかけどころ」がないからだ。

「魚道などは、ウナギの気持ちになって造られていないんです。日本の場合には…」



◎親切なフランスの魚道


ところ変わって、ここはフランス。なんとフランスの川には「ウナギ専用」の魚道が設置されているではないか。

「イール・ラダー(ウナギの"はしご")」と呼ばれるそれには、ヌルヌルのウナギが滑らぬように人工芝が植え込まれていたり、身をくねらせて引っかけられるように杭状の円筒が並んでいたりする。

フランスでは、ウナギが普通の魚道を登れぬことを知っていて、ウナギだけのために専用通路が設けられているのである。フランス人が蒲焼きを食うわけでもなかろうに…。





一方の日本では、ついぞウナギへの配慮がなされぬまま、ウナギの減少ばかりを嘆いていた。ところで、フランスにあるイール・ラダーは日本の川には付けられぬものであろうか。

「いえいえ、これはスゴく安いから、日本の川にも全部つけたら良いよ」

なんとも気の抜けるような、簡単な返答ではないか。



◎生命の大先輩


近年、ドクター・ウナギこと塚本教授らの大活躍もあって、謎の生物・ウナギの生態はかなり解明されてきた。ウナギは泥の中から生まれるのでもなければ、山芋が化けるわけでもない。メスもちゃんといることが今は分かっている。

我々霊長類は、ついつい他の生物を下等だとバカにしがちだが、じつは、ウナギは我々人間よりもずっと大先輩。数千万年前の恐竜がいた頃から、脈々と命をつないで来ているのである。流れ流され、太平洋を大回遊しながらも…。



人間よりもずっと長い歴史の中で、ウナギが日本に立ち寄ったのは、ほんのチョットした偶然だったのかもしれない。そして、それがいなくなるもの、ほんのチョットした偶然に過ぎないのかもしれない。

そう考えれば、ウナギにとって、日本との付き合いはほんの最近のごく短い出来事なのかもしれない。しかし、我々日本人にとっては、少なくとも万葉集以来の長い長い付き合いである。



◎敬意


我々の祖先の日本人たちは、このウナギたちへの「敬意」を忘れなかった。

一部の地方では、敬意を表してウナギをまったく食べない。なぜなら、ウナギは「虚空蔵菩薩」のお使いと信じられているからだ。虚空蔵菩薩というのは、知恵の象徴であり、「空(そら)んじる」という言葉は、虚空蔵菩薩の「空」から来ているのだそうだ。

そのため、虚空蔵菩薩への信仰が厚い人々はウナギを食べない。とくに、丑年と寅年の人ならなおさらである。なぜなら、虚空蔵菩薩が司るのが丑と寅だからだ。





なぜ、ウナギを神聖視するのかの詳細は不明だが、一説によれば、洪水などの水害によって陸に打ち上げられたウナギを見た人々は、ウナギを怒らせたからバチが当たったと考えたという。

また、ウナギを食べて死ぬケースがあり、それも畏れられる原因となったいう話もある。ウナギの血液は人間にとって「毒」であるために、決して刺身になどできないからだ。しかし、蒲焼きのようにシカッリと焼いてしまえば、その毒は毒ではなくなる。



逆に、敬意を払ってウナギを食するということもある。

あえて、虚空蔵菩薩の司る「丑(うし)」の日にウナギを食べることもそうかもしれないし、「山の芋、ウナギに化ける法事をし」などと言うのもそうだろう(山芋の化けたウナギなら生臭モノではないのだから、法事で食べてもかまわない)。

ウソも方便、詭弁も方便。生きたモノを食べずに済むほど、昔は食に溢れてはいなかったはずである。ウナギを食うにせよ、食わぬにせよ、どちらにしてもウナギへの何からの想いは感じられる。



一方の現在、我々はウナギを食べなくても死ぬことなどなくとも、高い高いと文句を言うばかり。

ウナギに限らず、食というものへ「敬意」を払う人などいるのだろうか?



人間の大先輩たるウナギ様。

その謎が明らかになるにつれ、我々はまだまだ学ぶべきことに事欠かないことを思い知る。



かの空海も、知恵を求めて虚空蔵菩薩に祈ったという。

我々はその代わりに、ウナギにでも祈ろうか。ウナギを食べる前に、少しだけでも…。







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出典・参考:
サイエンスZERO 「ウナギはどこへ行った?」

posted by 四代目 at 17:52| Comment(1) | 動物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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