2013年01月06日

遺伝子のスイッチたる「エピジェネティック」。麻薬中毒から子育てまで


「一卵性双生児」、つまり双子のマットとグレッグ。

2人は同じ遺伝子を持つはずなのに、両者の人生は両極端というほどに異なるものとなってしまった。

マットが堅実な歴史教師という職を全(まっと)うしたのに対して、薬物依存症(コカイン)に陥ってしまったグレッグは、結局そこから抜けだせずに無一文のホームレスになってしまう。



「何が原因で、グレッグは人生を破滅させるほどコカインという誘惑にのめり込んでしまったのだろう?」

高校までの2人は、両者同じように成績優秀で、運動能力もそこそこ高かった。もともと遺伝子が同じ双子の2人なのだから、それはごく自然なことだった。

しかし、2人が別々の道を歩み始めるのは大学時代、コカインに手を出してからだった。

マットの場合は、そのコカインが「若き日の過ち」で済んだ。しかしグレッグの場合は不幸にも、一生涯にわたる薬物依存症に苛(さいな)まれることとなってしまったのだ。



◎エピジェネティック


遺伝子が同じ双子の2人が、なぜこうも違う人生を歩んだのか?

この疑問は何も目新しいものではない。神経科学者は何十年となく、この疑問に取り組んでいるのだ。そしてここ10年で、「遺伝子の情報を変えずに、『環境』がその振る舞いを変化させる様々なメカニズム」が明らかになってきた。



遺伝子という「生まれ」が同じ双子でも、「育ち」という環境が異なれば、その人生は両極端ともなりうる。それは、遺伝子の本体が変わらずとも、育つ環境が遺伝子の「活性化の度合い」を変化させるからだ。

どうやら、遺伝子には「スイッチ」のようなものがあるらしく、その「on / off」が遺伝子を活性化させたり、逆に不活性にしてしまうようだ。



遺伝子の活性化を決定するスイッチのことを、専門的には「エピジェネティック」な裝飾と呼ぶ。

「エピジェネティック」という言葉は、「エピ」と「ジェネティック(遺伝子)」の合成語。「エビ(epi-)」とは、「エピソード」や「エビローグ」などの接頭語と同様、「外側の」「上の」という付属的な意味合いである。

つまり「エピ-ジェネティック」とは、遺伝子の外側に位置する要素であり、遺伝子本体を変えるほどの力はないものの、遺伝子の「活性化(on・off)」には強い影響を与える要素である。







◎「若き日の過ち」か否か


遺伝子が「生まれ」という先天的なものだとしたら、エピジェネティックは「育ち」という後天的な要素。

双子のマットとグレッグは遺伝子は同一だったものの、その後の環境によって遺伝子のエピジェネティックな要素が変わってしまった。薬物依存症に陥ったグレッグは、薬物(コカイン)に反応する遺伝子のエピジェネティックな裝飾が「異常に活性化」してしまったのだ。



たとえば、マウスにコカインを投与した時、一回目(初めて)の投与では遺伝子が「一時的」に上昇するだけで、一週間もすればその上昇は元に戻る。ここでやめれば、コカインは「若き日の過ち」で済むはずだ(マット)。

ところが、コカインを「連続投与」すると、コカインに反応する遺伝子の一部が一週間経過した後でも、上昇したままの状態が続くようになる。

さらに悪いことに、その活性化した遺伝子はコカインに過剰に反応するようにもなる。つまり、より強い快楽が得られるようになるのである。こうなってしまうともう「若き日の過ち」では済まなくなってしまう(グレッグのように…)。



◎ON・OFF


薬物依存に陥る時、遺伝子の「エピジェネティックな裝飾(スイッチ)」はどう変化しているのか?

それを知るためには、少々「遺伝子の構造」を理解しておかなくてはならない。



遺伝子というのは、いわば長い長い糸のようなもので、それは「ヒストン」と呼ばれる「糸巻き」に巻かれている。その糸巻き「ヒストン」が束になったものが「染色体」であり、別名「クロマチン」とも呼ばれる。

遺伝子のDNAに刻まれた情報は主に、身体に必要なタンパク質を作るための設計図である。そして、RNAというメッセンジャーがその情報をコピーすることで初めて、体内ではタンパク質を作り出すことが可能となる。



逆に言えば、RNAが遺伝子の情報をコピーできないと、その遺伝子の情報は生かされることがなくなってしまう。

たとえば、遺伝子の糸巻きであるヒストンを束ねるクロマチンが、あまりにも「密に折り畳まれている」と、その遺伝子の情報にRNAが「近づけない」。これが遺伝子の不活性な状態、言い換えれば「スイッチOFF」の状態である。

もしクロマチンの束が緩んでいれば、RNAは易々と遺伝子に近づけるので、盛んにそのコピーを作ることができる。これが「スイッチON」、遺伝子が活性化した状態である。



◎アセチル基とメチル基


クロマチンの構造が「緩むか凝縮するか」は、エピジェネティックな裝飾によって決定される。

たとえば、「アセチル基」という標識で装飾された遺伝子はクロマチンの構造を「緩める」。逆に、「メチル基」という標識はクロマチンを「凝縮させる」。

つまり、アセチル基という裝飾が施された遺伝子は活性化した状態(ON)となり、逆にメチル基がついた遺伝子は不活性の状態(OFF)ということになる。



薬物依存症の場合、コカインに反応する遺伝子にはアセチル基がたくさん付いている。それは、遺伝子がコカインに対してオープンであることを意味し、大いに緩んでいるということでもある。だから、コカインの刺激に対してより強い快楽を得られるようになるのである。

初めてコカインをやった時には、このアセチル基は一週間もすれば取れてしまう。ところが、連続服用することで、このエピジェネティックな裝飾はそう簡単には外れなくなる。

「標識(アセチル基)は何ヶ月も何年も付いたままになる。一生続くことさえある」



不幸にも薬物依存症の淵にハマり込んでしまったグレッグは、コカインに対してオープンな状態が一生続いてしまったということだ。

少々詳しく言えば、グレッグの脳内では報酬系の一部である側坐核で、遺伝子のエピジェネティックな裝飾パターンが変化してしまっていた。コカインに対する青信号であるアセチル基によって遺伝子が裝飾されていたのである。



◎うつ病


慢性的な精神疾患である「うつ病」。

これもまた、エピジェネティックな遺伝子の裝飾で説明される。



社会的な敗北感を味わわされたマウス(いじめられたマウス)は、快感をもたらす活動を楽しむことができず、より不安になり内気で臆病になる。

このうつ病になったマウスのDNAを詳しく調べてみると、脳の報酬系で2,000もの遺伝子に「エピジェネティックな変化」が起きていた。具体的には、遺伝子の活性を妨げる赤信号である「メチル基」がたくさん付いていた。

メチル基の付いている遺伝子は、DNAの糸巻きの束であるクロマチンを固く固く引き締めてしまう。いわば心を閉ざしてしまったように、その情報をコピーされることを嫌うようになってしまうのである。



一方、どんなにいじめられても平気の平左のマウスも存在する。社会的ストレス(敗北感)を毎日与え続けたとしても、3分の1ほどのマウスはうつ病にならない。その飄々としたマウスらは、決して引きこったり無気力になったりはしないのだ。

面白いのは、これら平気の平左のマウスたちは決してストレス(敗北感)に強いわけではないということだ。ストレスに強いというよりはむしろ、立ち直りが早いのだ。あたかも抗うつ剤が体内で働いているかのように、遺伝子を閉鎖するメチル基が簡単に取れてしまうのである。



◎子育て


遺伝というのは生殖細胞(精子と卵子)によって子々孫々に伝わるものであるが、こと「子育て」に関しては、その埒外(エピ)に置かれているようである。

たとえばラットには、自分の子を舐めたり毛繕いするといった「子育てを熱心に行う母親」もいれば、そう熱心でない「冷淡な母親」もいる。

いくぶん予想されることではあるが、「キチンと養育する母親に育てられたラットは、自身も子どもをキチンと養育する母親になる」。



「穏やかで面倒見のいい母親の元で育った子どもは穏やかな性格になり、そして成長すると、自身もまた大らかで思いやりのある親になる。一方、養育に熱心でない親に育てられた子どもは、神経質で冷淡な親になる」

遺伝子レベルでその違いを見てみると、「神経質で冷淡な親」の遺伝子にはビッシリとメチル基が張り付いている。つまり固く遺伝子を閉ざしてしまったOFFの状態である。そして、世話をされない子どもにはもっとたくさんのメチル基がくっついて、ますますDNAの糸巻きは固く閉ざされてしまうことになる。



より具体的に言うと、冷淡なラットではストレス・ホルモンである「コルチゾール」が増加傾向にある。

このコルチゾールというのは、グルココルチコイド受容体というものによって抑制される物質であるが、あるDNAがOFFになってしまうと、ストレスの抑え役であるこのグルココルチコイド受容体の数が減ってしまうのだ。

DNAのメチル化(OFF化)によってグルココルチコイド受容体の数が減ると、「ストレス反応が悪化し、不安や恐怖を感じやすくなる。この性質は生涯にわたって続く」。







◎生まれと育ちの狭間


生殖細胞の遺伝とは異なり、エピジェネティックな裝飾は「育つ環境」によって左右される。

「ある世代のある遺伝子に生じたエピジェネティックな変化は、生殖細胞を介さずに次の世代に伝わっていく。母親の行動が子どもの脳内の遺伝子のエピジェネティックな調節を変え、そのせいで子どもが母親と同じ行動をとるようになる」

しかし残念ながら、「エピジェネティックな変化が、次世代にどのくらい遺伝するのかという興味深い問題には、まだ答えが出ていない」。



母親の熱心な養育行動は、確かに子どもに伝わっている。また、薬物(コカイン)や精神疾患(うつ病)も同様、明らかに遺伝子をエピジェネティックなレベルで変化させている。

クロマチン(DNAの糸巻きであるヒストンの束)が緩めば、そのコピーが作られやすくなって遺伝子は活性化する(ON)。逆に縮こまれば、その中にある遺伝子の活躍は抑えられる(OFF)。

そして、そのオン・オフを示す目印となるのがアセチル基(緩ませる青信号)とメチル基(凝縮させる赤信号)。これらはエピジェネティックな要素、つまり一時的なものである。



こうしたエピジェネティックな変化は後天的なものに過ぎないため、「精子や卵子が作られる過程で消失してしまう」。

それでも、これら後付けのエピジェネティックな裝飾が遺伝する可能性も示唆されている。たとえば、生まれてすぐに母親から隔離された子マウスはうつ病になりやすい。そして、そのうつ病マウスの子もまたうつ病のような行動を取りやすい。

「精子と脳の両方で、いくつかの遺伝子に生じたDNAのメチル化(OFF化)のレベルと相関があった」







◎揺らぎ


かつて、18世紀の生物学者であるラマルクは、「生物がその生涯で獲得した形質、たとえば鍛えられた筋肉組織は、それらの子孫に伝わりうる」という理論を示した(獲得形質の遺伝)。

現在その理論は、遺伝子のエピジェネティックな裝飾によって説明することも可能である。



「私たちは現在、成長過程や大人になってからの環境や様々な経験が、私たちの遺伝子の活性(オン・オフ)を変えることを増々認識するようになっている」

遺伝子と環境の間には、明らかに「エピジェネティックなメカニズム」が介在している。それでもこのメカニズムは決して遺伝子ほどに確定的なものではない。



しかし確定的でないからこそ、そこには希望もあり失望もある。

遺伝子による運命を100%受け入れる必要もなければ、「後からどうにでもなる」という可能性も残されている。「三つ子の魂」は100歳まで続くのかもしれないが、もしかしたら途中で変えられるかもしれない。



遺伝子のエピジェネティックな裝飾は、人工的に変化させることもできる。

たとえば、遺伝子のオン・オフの標識となるアセチル基とメチル基は人工的に操作することができる。マウスの体内を操作してコカイン(薬物)を連続投与したような状態を作り出すと、そのマウスは実際に薬物中毒のようにコカインに強い快楽を感じるようになる。

また、抗うつ剤として広く知られているイミプラミンという薬は、固く閉ざされた遺伝子を解きほぐすことが可能である。



◎めげないマウス


ちなみに、ストレスからの立ち直りが早いマウスは、薬(イミプラミン)を頼らなくとも自力で遺伝子が解放されている。

この「めげないマウス」の示唆するところは、遺伝子のオン・オフを決めるエピジェネティックな要素がコントロール可能かもしれないということである。たとえば「心の持ちよう」でそれは操作可能なのかもしれない。

だからこそ、自己啓発書などが「心構え」というのを強調するのであろうし、教育者たちが後天的な教育を重視するのでもあろう。そして今、彼らの主張は精神論にとどまるものではなく、科学的にも証明されつつあることなのでもある。







こうした遺伝子のエピジェネティックな裝飾は、われわれが「文化」と呼ぶものにも近いのかもしれない。たとえば子育てひとつ取っても、日本と諸外国はその文化が異なるだろう。

それぞれの国にはそれぞれの文化が存在し、それは遺伝子の「外」で脈々と受け継がれてきている。そしていずれは、それら文化が遺伝子そのものを変化させていくことになるのかもしれない。



動物的には、子どもを丁寧に養育する哺乳類もいれば、産んだら産みっぱなしの爬虫類もいる。

哺乳類と爬虫類ほどの違いになれば当然、その遺伝子そのものが異なるのであろうし、哺乳類の中だけだったら子育てへの熱心さはエピジェネティックなものに依るのであろう。



◎半分半分


きっと「生まれ」も「育ち」も半分半分なのだろう。

先天的にどうしようもない部分も半分、後からどうにでもなる部分も半分くらいはあるのではなかろうか。

幸にも不幸にも、今のところその答えはまだ出ていない。



また、遺伝子がすべて活性化すれば良いというものでもなければ、閉ざされているから悪いということでもない。

コカインに過剰反応する遺伝子が活性化(オン)しすぎれば、グレッグようによう破滅的な人生を送ってしまうことになるかもしれない。このスイッチはある意味、パンドラの箱のようなものでもある。

遺伝子にこのような「装飾的なスイッチ」が付いているということは、時に応じてそれをオンにする必要もオフにする必要もあるからなのだろう。やはりこの点でも、オン半分、オフ半分なのではなかろうか。



いずれにせよ、遺伝子は極論を許してはくれないようだ。

彼らが今の今まで生き残ってこれたのは、エピジェネティックのような揺らぎを内在してきたからなのかもしれない。生存のためには、時に冷淡な母親も必要とされるのだろう。

半分半分、結局それくらいが良いバランス、そして必要な揺らぎなのかもしれない…。







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出典:日経サイエンス2012年3月号
「脳と心のスイッチ エピジェネティックス最前線」

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2013年01月01日

光は「粒か?波か?」。現実世界に落とされる「矛盾の影」


テントウ虫が歩いている。

そのテントウ虫は、横断歩道のように「縞々(しましま)」になった光と影の上を歩いている。

ところが不思議なことに、当のテントウ虫には、足元の縞々が「見えていない」のだそうな。



このテントウ虫は目が悪いのか?

そうではない。彼の自慢はむしろ、「目の良さ」なのだ。



では、なぜ足元の光と影が見えていないのか?

この「奇妙な現象」、これこそが「量子力学」の世界である。





◎干渉縞


テントウ虫の横切っている横断歩道のような縞々は、量子力学でいう「干渉縞(かんしょうじま)」。干渉縞というのは、縦長の2つの穴を通過した光がつくり出す縞々(しましま)のことである。

縦長の2つの穴(ダブル・スリット)を通過した光は、なぜか縞々に映る。

もし穴が一つならば当然、縞々にはならない。すべての光は同じ所を通るので、穴の先でぶつかり合わない(干渉しない)からだ。



ところが、光が通る穴が2つの場合、穴を出た先で光同士がぶつかり合う(干渉する)。すると、ぶつかり合って打ち消される光と、意気投合して明るさを増す光の2種類の光が現出する。

実際、一つの穴(シングル・スリット)を通った光よりも、2つの穴(ダブル・スリット)を通った光の方が2倍以上明るくなる(場合によっては4倍以上)。逆に、光が打ち消し合ってできる暗い影は、シングル・スリットの時よりもずっと暗くなる。



たとえば水面にできる波紋は、その波が打ち消し合えばその上下動は収まっていき、波の山同士(もしくは谷同士)が重なり合えば、その波はますます大きくなる。

上記の干渉縞の実験が示唆することは、光にはこうした波紋のような「波の性質」があるということである。

もし光に波の性質がないのだとしたら、下駄の歯で開けたような2つの縦長の穴を通ったときに「干渉縞」が現れるはずはない。干渉縞が現れるのは、光の波の山と山(もしくは谷と谷)が重なり合って強まり、山と谷が重なり合って打ち消し合うからである。



◎粒と波


「光とは『粒』なのか? それとも『波』なのか?」

およそ100年ほど前(1803年)、イギリスの物理学者ヤング(Thomas Young)が上記の干渉縞の実験を行なって以来、「粒」だと思われていた光が実は「波」でもあることが示された。

では、光は「粒」なのか、「波」なのかと問われれれば、現在の物理学者たちはこう答える。「粒でもあり、波でもある」と。

この時点で、一般人の頭は大混乱に陥る。そして、「どっちかに決めてくれ」と懇願するはずだ。しかし残念ながら、どちらかには決められない。光は粒子と波、「どっちも」なのである(こうした光の二面性をボーアは「相補性」と呼んだ)。



何度実験を繰り返しても、光は粒子と波の「どっちも」という結論に落ち着いてしまう。いやむしろ、実験を繰り返すほどにその事実は確固たるものとなっていく。

さらに悪いことには、手を変え品を変えて実験を繰り返せば繰り返すほど、「さらなる不思議」がドンドンと生まれてきてしまう。

時に光はタイムマシーンに乗って「時をさかのぼる」ようにも見えたり、光同士が「テレパシー」で連絡を取り合っているように見えたりもする。そんな量子力学の世界は、「風変わりな景色」ばかりである。



◎矛盾


もし壁に2つの扉があるとしよう。人間ならば当然、どちらか一つの扉しか通れない。ところが、光ならば両方の扉を同時に通れる。たとえ光が「一粒」しかなかったとしても。

「?」。一粒の光は一回扉を通った後に、もう一回戻って違う扉を通り直すのか? それとも、両方の扉を同時に通り抜けられるほどに巨大化してスリ抜けていくのか?



ノーベル賞を受賞した朝永振一郎氏は、光のこの奇妙な挙動を「光子の裁判」という物語に仕立てあげた。

不法侵入の容疑で起訴された「波乃光子」。彼女は「私は2つの窓の両方をいっしょに通って室内に入ったのです」と主張する。光子がどちらの窓を通るか見張るのは警察官の役割だが、実地検証によって光子の「奇妙な主張」が正しいことが証明される。



なぜ、一粒の光が両方の扉(もしくは窓)を同時に通り抜けられるのか?

2つの細長い穴(ダブル・スリット)目がけて、光を一粒ずつ発射していっても必ず「干渉縞」は現れる。光は一粒ずつ充分な時間差をもって発射されているのだから、「光子は他の光子と干渉しているのではない」。一粒の光子が「自分自身と干渉している」のである。

「一粒の不可分な光子が、あたかも『波』のように広がって、同時に2つのスリットを通り抜け、左右の波が互いに干渉し合う」



現実世界では「ありえない現象」、そして「矛盾」。量子力学の世界では、それらが平然と行われている。

「しかもそれは巨大加速器の中といった遠い世界の出来事ではなく、ごく普通の実験室で、机の上に組み立てられた装置で物理学者たちが見ている現象なのだ」



◎だまし討ち


光子の振る舞いがあまりにも度を越しているので、それに対する物理学者たちも「風変わり」にならざるを得ない。

「今から行う実験を、光子に察知されないようにする」。そんなことを言い出す物理学者は完全に「あぶない人」だ。

しかし、光子は測定してしまうと「粒」にしかならない。だから実験を察知されないように工夫して、なんとか「波」としての光子を捉えようと物理学者たちは必死なのである。



物理学界の重鎮ホイーラー(John A. Wheeler)は、実験を始めてしまった後、「大慌てで実験装置を変える」という「光子のだまし討ち」を提案した(遅延選択実験)。

「いわば光子にフェイントをかけて、その素性を暴いてやろうというアイディアである」

ある時は「粒子」として、またある時は「波動」として振る舞う光子。このままでは、光は「観測者によって変化する何か」でしかない。いったい「測定されていない時の光子」はどうしているのか? それを知るための「だまし討ち」である。



◎だまされない


ホイーラーは思考実験として、この「だまし討ち」を提案したわけだが、2007年、フランス科学研究センターのジャック(Vincent Jacques)とアスペ(Alain Aspect)らのグループは、「ほぼこの通りの実験」を実施した。

その結果は?

「光子は決してだまされなかった」。測定方法を「あと出しジャンケン」のようにしてみても、物理学者が光子に勝つことはできなかった。



この実験で用いられたのは、「偏光板」という角度によって光の透過率の変わる板であったが、それをどう組み合わせても、どうしても光子を騙すことはできなかった。

たとえば偏光板を90°に傾けた時に光の透過率はゼロになる。すると干渉縞はすっかり消えてしまう。しかし、その途中に45°の偏光板を「あと出し」で加えると、なぜか干渉縞は復活してしまうのだ!

いったん90°の偏光板で完全に遮られたはずの干渉縞が、45°の偏光板によって「掘り起こされたように現れてくる」。光の波は90°の偏光板によって完全に消されてしまうはずなのに…。



◎出処


「いったい、光子の『運命』はいつ決まるのか?」

どうやら、細長い穴(スリット)を通った時ではない。その後に偏光板を置けば、その干渉縞は出たり消えたりするのであるから。

「実験のやり方次第で光の挙動が変化するという『不気味さ』は依然変わらず、謎は解けないままだった…」



そんな中、米メリーランド大学のキム(Yoon-Ho Kim)らの行った実験は、「ダブル・スリット実験の最高峰」とも呼ばれるものだった。

彼らは偏光板の代わりに「ビーム・スプリッター」と呼ばれる半透明の鏡をその実験に用いた。従来の偏光板を使う実験はいわば、「光子を乱暴に扱う実験」。それに対して、ビーム・スプリッターを用いる実験は「光子そのものに測定器は接触しない」という丁重なものだ。



2つの光源から左右同時に発射される対になった2つの光子。その片方はビーム・スプリッターに当たらずに測定器の中に飛び込み、もう一方の光子だけがビーム・スプリッターで50%の確率で一回、もしくは2回反射してから測定器で観測される。

ここで重要なのは、光子がビーム・スプリッターで2回反射すると、その「出処がわからなくなる」ということである。反射して光子の進路が変わるのは「偶然(50%の確率)」。そして、2回反射すると2つの光源のうちのどちらから来たのか分からなくなってしまう。



この最高峰の実験の結果でも、やはり「光と影(干渉縞)」は現れた。ここで面白いのは、その縞が現れるのは「光子の出処が分からなくなった時だけ」だということである。

たとえば、ビーム・スプリッターで一度も反射しなかった光子は、その出処が明らかである。この時に、光は干渉縞をつくることがない。1回だけ反射した光子も同様、その出処が追跡できるために、しましまは生じない。

ところが2回反射すると、その光子はどこから来たかが分からなくなる。その時だけなのである。光が「波としての性質」である干渉縞をつくるのは。



◎因果


ビーム・スプリッターによる実験が示唆することは、「原因と結果」の不思議である。

光子の出処が明白であれば、光子は縞々をつくらない。つまり、波としての性質を表さない。言い換えれば、原因と結果の因果関係が明白である時には、光は「粒」でしかない。

逆に、光子がどこから来たのか分からない時、光は「波」として振る舞う。そして同時に「粒」でもある。



原因と結果、粒と波。

原因が分かっているのであれば光は「粒」となり、それが分からぬ時に光は「波」ともなる。



冒頭のテントウ虫が自らの足元の光と影(干渉縞)に気づかぬのは、このためである。

天井を見上げるテントウ虫は、その光が2つの穴のうちのどちらを通ってきたかが「分かっている」。だから「一様に明るい光」を見る。ところが、床にまで届いた光はもはや、どちらの穴を通って来たか「分からない」。だから光の波としての特徴である干渉縞(光と影)を生じるのである。

しましまを見るか見ないかの違いは、光がどこから来たか分かっているか分かっていないか、つまり原因が明らかか不明かという違いに帰結することになる。



◎矛盾


なるほど、光には「二面性(粒と波)」があり、それは原因と結果(因果関係)と相関し合っているのか…。

思えば、こうした二面性(矛盾)は現実世界にも幾多と存在する。スポーツで言えば、個人プレーとチームプレー。企業で言えば、個人と法人。社会で言えば、個人と集団。国で言えば、国民一人ひとりと国家全体…。

個人が全体の中に埋没してしまう時、その因果関係は希薄となる。そのためであろうか、個人=全体という図式が成り立たなくなるとき、あたかも「波」のようなウネリを生ずるのは…。



光が矛盾した二面性を見せるのは、原因が分からなくなった時。それを社会一般に当てはめれば、全体の中で個人が特定されなくなった時。

たとえばインターネットの世界などでは、こうした匿名性が一般的であるのかもしれない。もしくは独裁国家などでは、一個人というのはあえて無視されるのかもしれない。きっとそうした時なのであろう、幾多の矛盾、そして不思議が世に現れることになるのは…。



◎二元論


光の二面性は「二元論」にも通ずるように思う。二元論というのは、暑いがあるから寒いがある、高いがあるから低いがあるという相対性である。

しかし仏教の世界などでは、こうした二元論(二面性)は幻想だと切って捨てられる。「色即是空」「空即是色」などと言われるように、それら2つは元々は一つであると宗教家たちは教えてくれる。

江戸の剣豪・柳生宗矩は「活人剣」と言って、日本刀を人を殺す「殺人剣」からの転換を訴えた。だが沢庵和尚は、「活人剣」であれ「殺人剣」であれ、それは「一剣」に収束すると静かに言った。



2つの細長い穴(スリット)に光を通すという物理学の実験は、元々は一つの光の間に「影」を挟み込み、一つの光をあえて2つに分光する実験である。

これは一元論の光をあえて2つに分けて、二元論の世界を映し出すようなものであろう。スクリーンに映し出される光と影は、もともとは生じるはずのなかったものである。

しかし、ひとたび光と影が生じ、さらにその因果関係(原因と結果)が分からなくなった時に、世の「矛盾」は生じる。そして人々は混乱する。たとえ般若心経が「不生不滅」「不垢不浄」「不増不減」と言ったとしても、ひとたび2つに分かれた光の本質を理解することは極めて困難なこととならざるを得ない。



◎矛盾の先


それでも、天井を見上げるテントウ虫はその本質に気がついている。

このテントウ虫が光と影の縞々(二元論)ではなく「均一な光(一元論)」を感ずることができるのは、2つの穴を通る光をそれぞれ認識しているからである。

逆に、光と影の縞々が見えてしまうのは、その光の出処が分からなくなってしまった時である。



「テントウ虫の目に捉えられた光は床には当たらないし、床に当たった光はテントウ虫の目には入らない」

つまり、テントウ虫の目に入る光と、床にまで届く光は「まったくの別物」なのである。だからここに「矛盾」は生じない。

「矛盾というのは、一つの現象が異なる現象に見えること」

この点、テントウ虫と床は「別々の現象」を捉えているのである。



ただここで重要なのは、テントウ虫の目が「充分に良い」ことである。

ここで言う「目が良い」とは、2つの細長い穴を通ってくる光を同時に識別できることである。「テントウ虫の目のレンズ径は、最低でも干渉縞の幅よりも大きくなければならない」。

もし、そのテントウ虫の目が悪ければ、光の出処は分からない。すると、その悪い目には均一であるはずの光が縞々に写ってしまう。それは矛盾を生じさせる二元論の世界である。



◎トリック


「ルビンの壺」というトリックアートは、向かい合った2人の横顔のシルエット(影)の絵である。ところが、2つの横顔の間に目を凝らすと、それは「壺」にしか見えなくなる。

「しかし壺と顔が同時に見えることはない」

壺を見ようとすれば横顔は消え、逆に横顔を見ようとすれば壺は消えてしまうのだ。







これが我々の認識能力の限界なのでもあろう。

もし壺と横顔が同時に見えるのであれば、われわれは世の矛盾に苛まれることはないのかもしれない。

もしかしたら「目の良いテントウ虫」ならば、壺と横顔が同時に見られるのかもしれないが…。



光は「粒か波か」?

この問いはじつに深淵であり、その答えは出ているようで出ていない。

ただ、壺と横顔が同時に存在することを理解し、そこにトリックが潜んでいることを知っていれば、多少はその深淵を覗き見たことになるのかもしれない…。







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出典:日経 サイエンス 2012年 03月号

「光子の逆説」
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2012年12月02日

交わり続けた現生人類。弱くも強い生存術


「石器とパソコンのマウス」

両者は50万年という長大な時を隔てながらも、その形と大きさだけは不気味なほど酷似している。それは、この2つともに「人間の手になじむように作られている」ことだけは見事に共通しているからだ。



はたして、われわれ人類はいかなる歴史を経て、石器からマウスに至ったのか?

石などを道具として使う動物は人間のほかにもいる。だが、マウスを作るまでに至るのは現在の人類のほかに見当たらない。

石器とマウスの間には、人類特有の行動原理とこれからの未来が隠されているというのだが…。





◎性別による分業


「人類は最初に男を女のために働かせ、そして女を男のために働かせたようです」

ここで注目するのは男尊女卑とかそういう類いのことではなく、純粋に「分業」という観点である。この点、男が上か女が上かはまったく関係のないことで、両者の仕事が大昔から異なっていたということだけが注目される。



たとえば、昔々の狩猟採集生活において、男は遠くへ狩猟に出かけ、女は近場で木の実を採っていた。

ハッザ族の場合には、男はイボイノシシを倒し、女は植物の根を掘っている。お互いの仕事が分かれているので、男は地面を掘る必要がないし、同様に女はイボイノシシの危険にさらされることがない。



こうした事例はわれわれ現生人類にとっては全く目新しいことではなく。「何をいまさら…」とウンザリされるほどである。

ところが不思議なことに、こうした「性別による分業」の痕跡は、ネアンデルタール人にはまず見られない。といっても、彼らに知性が欠けていたわけではない。脳ミソの大きさだけとってみれば、むしろ今のわれわれよりも大きいくらいだ。彼らは高度の知的な種だったのであり、死者を丁重に葬る心の深さも持っていた。

また、ネアンデルタール人には言葉もあった。FOXP2という遺伝子の存在がそれを示している。それでも彼らに「分業」という概念がなかったらしいのだ。狩猟といえば男女一緒に出かけていたらしい。



一時はネアンデルタール人も大変な隆盛を誇ったわけだが、結局は現生人類、つまり今の我々にその地位を取って代わられることになる。そして、今の世の中にネアンデルタール人たちは存在しない。古い土の中から発掘されるだけである。

両者の運命を分けたものは何だったのか?

その一つの可能性が「分業」ということだ。





◎交換


そしてもう一つ、賢いはずのネアンデルタール人のしなかったことが「交換」だったという。

彼らの遺跡から発掘される道具類は、決まって「その地方原産の素材」で作られている。一方、同じ谷にある現生人類の遺跡からは、遠く離れた地域にしか存在しないはずの黒曜石で作られた道具が出土したりする。



ネアンデルタール人にも身近な交換はあったのかもしれない。しかし、地域を大きく隔てた「交易」と呼べるような交換は彼らにはなかったようである。

一方、現代につながる現生人類はおよそ数万年前から集団間の交易が行われていたと考えられている。いや数万年どころか、100万年以上前のアフリカの遺跡からも黒曜石や碧玉などが遠く離れた地にまで運ばれていたことが示唆されている。アルジェリアの海岸から200kmも内陸に貝殻が運ばれている例もある。



モノの長距離移動は、民族そのものの移動ではなく、やはり交易によるものだったということをオーストラリアの原住民アボリジニは示している。

彼らはアイザ山という場所で石斧用の石を採掘し、それを隣り合う部族とエイのトゲなどと交換し、それが数珠つなぎとなりオーストラリア大陸に広く行き渡っていった痕跡が見てとれる。



現生人類によるこうした交易の歴史は実に長い。農耕の歴史の10倍以上も長い。

交易により栄えたというのは、何もシルクロードや大航海時代のことばかりではないのである。交易はむしろ、現生人類の要石とも言えるほどのものなのだ。



◎効率


ネアンデルタール人ができなくて現生人類ができたこと、それが「分業と交換」であったと考えられている。そしてそれば、石斧で終わるかマウスにまでつながるかの別れ道でもあった。

たとえば、槍を作るのを得意とするアダムが、土器づくりの名人・オズがいたとする。その2人がそれぞれの槍と土器とを交換したら、両者ともにWinWin(三方良し)。それは時間の節約にもなるだろうし、専門技術をさらに磨くことにもつながるだろう。この協力関係は「交換」という前提において享受できる果実である。



石器は一人でも作れるかもしれないが、マウスは無理だ。

たった一つのマウスが必要とするモノは、金属、シリコン、プラスチックなどなど多岐に渡る。異なる物質、または異なるアイディアが一つに結晶化したものこそマウスという存在なのだ。

そして、その裏には必ず分業と交換が成り立っている。



この「分業と交換」が人類の歴史上、いかに効率的であったかを示す好例がある。

「明るさ」を手に入れるため、今から200年前の1800年頃、1時間灯るロウソクを買うには「6時間分の労働」が必要であったという。

それが100年後の1900年ともなると、「たった15分」働くだけで1時間分の明るさが手に入るようになる。単純計算すれば、100年で4倍の進化だ。この100年間でいかに人類の交易の範囲が広がったかは語るまでもない。



そして現在、1時間分の明かりはどれほどの労働を必要とするのか?

なんと「わずか0.5秒」。最近の100年の進化は1800倍ということだ。

これこそグローバル化による交易の広がり、そして分業による専門的技術の深化の成果といえるであろう。





◎鉛筆の作り方


「いったい、何人ほどが一つのマウスの製造に関わっているのでしょう。数十? 数百? 数千? いや数百万かもしれません」

工場でマウスを作る人は、原材料を必要とする。原材料となるプラスチックを作るには原油を採掘する必要がある。石油採掘場で働く男たちはコーヒーを飲むだろう。そのコーヒー豆の栽培は…。などと考えていけば、キリがない。



その昔、フランスのルイ14世の夕食は500人にも及ぶ一流の料理人たちが腕を振るったというが、現在のわれわれはどうか? 街にでも繰り出せば、ルイ14世以上の美食が堪能できるではないか。今のわれわれにとって、自ら一流の料理人を自宅に抱える意味はほとんどない。

分業と交換の結果、われわれには「するべきこと」が格段に減った。だから、マウスの作り方など当然知らないし、生きることの基本である食料生産にすら関わらずともよい。



こうした状況を経済学者のレオナルド・リードは「私は鉛筆」という論文で皮肉った(1950年代)。

「誰も鉛筆の作り方を知らない…」

鉛筆を組み立てる工場の人も、芯の材料となる黒鉛を採掘する方法や、木々の伐採方法など知らないのだ。ましてや一般の人々をや。もしたった一人で無人島にでも放り出されたら、鉛筆一本つくることすら適わない。もちろん、鉛筆以上に必要なものなど…。



◎取り引き


それでも現生人類が成し遂げた「交換と分業」の価値は今のところ色褪せない。

「未だかつて、犬と犬とが公正に取り引きするのを見たことがない(アダム・スミス)」

チンパンジーですらそうだ。彼らは群れの中では木の実を石で割ることを教え合うかもしれないが、群れという枠を超えた交流は好まない。

働きアリもそうだ。彼らはその名の通り大変な働き者かもしれないが、それは自分の女王様のためだけに働くのであり、間違っても他の巣の女王様のためではない。



一転、現生人類はこの点に関してたいそう寛大である。確かにはじめは他の地域との交易に抵抗するかもしれない。しかし、人類の歴史を振り返れば、一貫して交易の幅は広がり続けている。政治的には問題視される自由貿易なども、経済的な視点で見てしまえば問題は氷解してしまう。

たとえば、農産物を自由化してしまうと、その土地の弱い農家などはグローバル化の大波にあっさりとさらわれていってしまうのかもしれない。しかし、人類全体で見れば、それは局所的な悲劇にとどまる。歴史的には、そうした発想が人類という種全体を利してもきたのである。





◎世界の終わり


マッド・リドリー氏が学生だった今から40年前の1970年代、世界には「終わり」が近づいていた。

「人口爆発は止めようがなく、世界規模の飢餓は避けられない。環境中の化学物質はガンを世界に広め、人類の寿命を短くする一方。森林には酸性雨が降り注ぎ、砂漠化の拡大にも歯止めがかからない。頼みの綱であった石油は枯渇、挙げ句の果てには核戦争が一触即発だ」



ところが現在、それらの懸念が完全になくなったわけではないが、少なくとも世界は終わらなかった。

いやむしろ好転した面も多い。人間の寿命は縮むどころか30%も延びて、幼児死亡率は60%も減少した。世界の食料懸念は逆に、一人当たりの食料生産高を3倍にも拡大させ、2倍にも増えた人口を何とか賄い続けている。



なぜ、人類の世界は終わらなかったのか?

ではなぜ、ネアンデルタール人は終わったのか?

そこには「今のことろ」という条件がつくのかもしれないが、やはり際どいながらも現代の人類が正しい道を歩み続けている結果とも楽観できる。



「お断りしておきますが、私はIQの議論をしているのではありません」

マット・リドリー氏が言わんとすることは、個々の人間が賢いから人類が生き残ってきたということではない。「交換と分業」を基本とする全体としての集合知がうまく機能したと言いたいのである。個々の知性だけだったならば、ネアンデルタール人の方が上だったかもしれない。



「社会にとって意味があるのは、人々がいかに上手にアイディアを伝達し合っているか、いかに上手に協力しているかなのです」

個人個人がマウスの作り方を知っている必要はない。「私たちは皆、断片は知っていますが、全体は把握していません」。それはそれで良しということだ。マウスのアイディアは共有され、うまい具合に活用されている。





◎孤絶


もし、人類が交易から切り離されたら? 現代風に言うならば、もし、人類が情報共有から遠ざけられたら?

「その答えは、技術の進歩が遅れるばかりではなく、実際に後退することもあるのです」



タスマニアという現在の島は、かつてオーストラリア大陸とつながっていた。ところが一万年前、温暖化と海面上昇により、大陸から切り離された。

「島民は進歩が遅れたばかりでなく、退歩したのです」

骨から漁の道具を作れなくなり、衣服すらも作れなくなったのだという。その頃のタスマニア島には4万人もが暮らしていたというが、それでも「必要なスキルを維持するには少なすぎた」のだ。

一方、南米のティエラデルフエゴ島は、南アメリカ大陸から切り離されてしまいながらも、その文化が後退することはなかった。それは島と大陸間の交易は途切れなかったためであった。地続きではなくなったものの、完全に孤立したわけではなかったのである。



昨今、日本のガラパゴス化、つまり孤島化を心配する声もあるが、長大な歴史を概観すると、その心配の根っこも見えてくる。それは現生人類にとって本能的な恐れなのかもしれない。

しかし幸いにも、日本は一万年前に孤立したようなタスマニア島とななり得ない。この現代において孤立することは甚だ困難。北朝鮮ほど徹底していても、それは難しい。

インターネットなどによるソーシャル化は加速するばかりで、情報交換の頻度はどこまで増えれば気が済むのかと問いたいほどだ。





◎生殖


男女の別から始まったという「分業」も、今や細分化につぐ細分化、専門化につぐ専門化である。

鉛筆一本の作り方どころか、そもそも、この世界の全体像を把握している人など存在するのであろうか。



しかし、それでも人類が人任せにしていないことが一つある。

それは「生殖」。働きアリが女王様に任せきりにしたことを、人類は頑なに「これだけは自分でやる」と言い張っている。

「イングランドでさえ、それを女王に任せようとはしないのです(笑)」



人間の行う生殖方法を「有性生殖」という。その反対は無性生殖だ。両者の違いは、「拾うか捨てるか」である。

無性生殖というのはアメーバが分裂するような殖え方であり、その方法は必然的に強いものしか生き残れないことになる。あるアメーバは他のアメーバと交わって殖えるのではなく、どちらか強いもの、もしくはその場に適したものだけが生き残って殖えていく。選ばれなかった方は、残念ながらサヨナラだ。

一方、人間などの有性生殖というのは、他者と交わることで初めて殖えることができる。その際、両者のそれぞれの形質を基本的には半分半分とり入れることになる。その両者に優勢・劣勢はあれど、たとえ弱い要素であっても不用意に捨て去られることはない。とりあえず取り込まれ、そして融和していくのである。



確かに、ネアンデルタール人という種は今はもういないのかもしれない。

しかし、われわれのDNAの中に彼らの要素が取り込まれている可能性は高い。



◎現生人類とは


人間の有性生殖という特性は、強いものだけが生き残る社会ではない。弱いものを見捨てずに内包していくことにこそ、新たな道は拓ける。

また、ネアンデルタール人との違いを考えると、他人に任せるということと、モノや情報を共有することの意味も見えてくる。



はたして、現生人類というのは競争の上に成り立ってきたのであろうか。

数万年の歴史を振り返るにつけ、どうしてもそこに疑問を感じざるを得ない。われわれの本能には、アメーバのような切り捨てをどうしても受け入れられない心も存在する。



石器で終わるのか、それともマウスまでたどり着くのか。

その意味をもう一度見つめ直してみることは無駄ではない。



強さ、そして賢さとは何か。

きっと、われわれのDNAはそれを知っているのであろう。

強さの中に潜む弱さ、賢さとともにある愚かさ、そんな矛盾がわれわれのDNAには組み込まれているのだから…。







関連記事:
弱いからこそ生き残れた我々ホモ・サピエンス。他人の目を気にする理由とは?

なぜ、人間はこれほどまでにお節介なのか? 20万年を生き抜いた人類の知恵。

世界を二分する「進化論」対「創造説」。「違い」は「優劣」か?



出典:NHKスーパープレゼンテーション
「アイディアがセックスするとき マット・リドリー」

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2012年11月18日

善悪こもごも、デング熱と遺伝子組み換え「蚊」。


「飛べない蚊」

「死の遺伝子」をプログラムされたその蚊は、卵から羽化しても水面にジッとしたまま。そして、死を迎える。生まれてからは、飛ぶことも交尾することもできない。



なぜ、このような蚊が作られたかと言えば、それはウイルス性疾患である「デング熱」の拡散を抑えるためだった。デング熱は「世界で流行している最も悪性の感染症」であり、毎年約1億人が感染している。

このデング熱のウイルスをバラまくのが「ネッタイシマカ」と呼ばれる「蚊」なのである。この蚊が人間の血を吸うときに、人体にウイルスが侵入してくるのだ。



もし遺伝子を操作して、この蚊を全滅させてしまえば…。

ジェームズとアルフェイはさっそく実験に取り組み、そして成功させた。

しかし、この両者はのちに「まったく異なるアプローチ」で、この蚊を世界に広めようとする。誠実なジェームズに対して、アルフェイのやり方は「荒かった」。それが世界に「遺伝子組み換え蚊」に対する拒絶反応を引き起こしてゆくことになる…。



◎死の遺伝子


ジェームズは蚊の遺伝学において「草分け的存在」だった。蚊の遺伝子を初めて単離したのも、遺伝子組み換え蚊を初めて作ったのも彼だった。

その蚊を伝染病の根絶に活かそうと思い立ったのは10年前、農業向けの害虫駆除を応用することを考えた。農場では放射線を当てて「不妊にした虫」が害虫の繁殖を抑えていた。

しかし、蚊という小さな生物は、放射線を当てるとヒドく弱ってしまい、すぐに死んでしまうのだった。



ほぼ同じ頃、アルフェイは「メスだけを殺す遺伝子」をハエに組み込むことに成功していた。

デング熱を媒介するのは「メスの蚊」である。なぜなら、オスの蚊は人間を刺さない。つまり、メスさえ飛べなくしてしまえば、デング熱は広まらなくなるということである。



こうして、ジェームズとアルフェイはお互いの知識・技術を持ち寄り、2002年、ついに「メスの飛翔筋を操るスイッチ」を突き止める。

飛翔筋の発達を阻害されたメスは、飛ぶこともオスを惹きつけることもできなくなる。その一方で、オスの蚊は正常に成長するので、まんまと他のメスに「死の遺伝子」を伝えることが可能であった。

蚊の受精卵に導入されるその遺伝子には、識別用の遺伝子も同時に組み込んである。そのため、その幼虫は妖しい蛍光色を放っていた…。



◎デング熱


デング熱という伝染病は、約25億人が暮らす熱帯・亜熱帯の国々に発生する。赤道を中心に北回帰線と南回帰線に囲まれた地域は、ほぼその全域がターゲットとなる(インド、東南アジア、中南米、アフリカ中部などなど100以上の国々)。

デング熱を媒介するネッタイシマカという蚊は、もともとアフリカに住んでいたというが、400年前の奴隷船に乗って、世界各地へ伝播していったのだという。以後、海外旅行者などがその役を担うことになり、1970年以降は「10年ごとに倍増」する勢い。とりわけ、人口が過剰に密集した貧困地域などでは悲惨な状況が展開されている。



軽度のデング熱は「骨折熱」とも呼ばれるが、その症状はインフルエンザ程度のもので、1週間ほどで治る。

しかし、もっと重い「デング出血熱」となると、目や鼻・口・女性器などから出血し、最大で20%の患者が死に至る。ただ、適切な治療を受けさえすれば、その死亡率は1%にまで下がる。

デング熱による世界の年間死者数は、「エボラ出血熱やマールブルグ熱など、他のすべての出血熱による死者数の合計を上回る」。ちなみにデング熱に効くワクチンはまだない。



◎ネッタイシマカ


メキシコの、とある貧困地域をジェームズは訪れた。

ある女性の家は、四方を囲むはずの壁が「3枚しかない」。まるで映画のセットのようであり、「これでは蚊を家から閉め出せない」。慢性的に濡れた土間、たくさんの容器に溜まった雨水などなど、蚊が卵を産みたがる場所は無数にあった。「大さじ2〜3杯の水」があれば、蚊はどこでも繁殖できる。

その女性はもちろん、デング熱のことは知っていた。しかし、その病気が洗濯オケの中にウヨウヨと身をくねらせるボウフラ(蚊の幼虫)によって広まることまでは知らなかった。



ネッタイシマカという蚊は、日本にいる蚊よりも少々小さめで、その分、羽音があまりしない。「プーン」という不愉快な音がハッキリしないため、「叩き潰したり、追っ払ったりする手がかり」がない。

しかも、この蚊は夜ではなく日中に人を刺すので、「蚊帳(かや)では身を守れない」。

もっぱら人間の血だけを狙うネッタイシマカは、一回血を吸えば一ヶ月は生きられる。「あちこちで人を刺して病気を広めるには、充分な時間だ」。



デング熱と同様、マラリアという病気も「蚊」が運ぶ。

それでもジェームスがデング熱をターゲットに選んだのは、デング熱がネッタイシマカというほぼ一種類に限られるからである。一方のマラリアは30〜40種類もの蚊が運び役となっている。

すなわち、ネッタイシマカの遺伝子さえどうにかしてしまえば、デング熱は劇的に封じ込められる可能性があったのだ。





◎反発


一般的に考えれば、ジェームズとアルフェイのやろうとしていることは、とても良いことのように思える。実際、デング熱に苦しんでいる熱帯・亜熱帯の各国には、そうした遺伝子技術を歓迎する政府も数多い。

しかし、遺伝子操作を生理的に嫌う向きも確実にある。「いかなる遺伝子組み換え生物を野外に放つことにも反対する団体は多い」。

さらに、デング熱に直接苦しめられている貧困地域においても、反対の火の手は上がる。途上国と呼ばれる国々は長い間、「先進国の野外実験をするのに都合のいい場所」であり、研究者たちの「無神経な態度」が地元の反発を買ってきたのである。



たとえば、今から40年以上前(1969)、WHO(世界保健機関)とインド政府が協力して、3種類の蚊を減らす遺伝子的実験を行ったことがあった。それはフィラリア、デング熱、黄熱、マラリアを媒介する蚊をターゲットにしたものであった。

ところが3年後、ある村には奇妙なウワサがたちはじめる。村の飲み水用の井戸に、チオパテという薬品が投じられたというのである。ある研究者によれば、その薬品は「動物に奇形やガンを引き起こす」というのだから堪らない。



さらにインドのPTI通信社は「WHOがアメリカのためにインドで極秘実験」と報じる(確かにアメリカ政府は一部の研究に資金を出していた)。その報道の内容はと言えば、「ネッタイシマカを生物兵器」として実用化されようとしているというのである。

「ほかの蚊と違って、卵を乾燥させれば、紙にくっつけて封筒に入れて送れば、国中どこでも羽化させることができる」

こうした陰謀論の高まりによって、結局WHOはインドでの計画を断念せざるを得なかった。



◎慎重なジェームズ


ジェームズはこうした「過去の失敗」を熟知していた。それゆえに、遺伝子組み換え蚊がたとえ善意であれ、その押し付けには慎重であった。地元の混乱を起こしてしまったらもう、どうしようもないのである。

「人々は遺伝子組み換えを怖がっている」



熟慮の末、ジェームズは「メキシコ」に目をつけた。

「メキシコには遺伝子組み換え生物に関する『国内法』があり、遺伝子組み換え生物の輸出入に関する国際的枠組みである『カタルヘナ議定書』にも署名していました」

とくにタパチュラという地域は、遺伝子組み換え昆虫を使う考え方を「怖がっていなかった」。なぜなら、この地域では以前に別の昆虫・チチュウカイミバエの実験も行われていたことがあった。



それでも、地元農村の長は「変な話だ」と思っていた。

「どうして、わざわざ人口の蚊を大量に飼おうとするのか? 蚊が逃げ出したら、村民や畑に害は出ないのか? ほかの昆虫まで不妊になりはしないのか?」

ジェームズは根気よく地元の人々との対話を続け、その疑問を一つ一つ丁寧に分かりやすく説明していった。身振り手振り、ときにはジョークを交えながら。そのおかげで、ジェームズは次第に「よそ者のアメリカ人」ではなくなっていく。



「よく分かったし、このプロジェクトが気に入ったくらいだよ!」

大豆農家の村長は金歯を見せながら笑っていた。

「ここだけじゃなく、メキシコ全体、世界各地でも役立つだろう!」





◎強引なアルフェイ


一方、アルフェイは全く異なったやり方で、「事を密かに素早く」進めていた。

2002年に企業「オキシテック」を設立していたアルフェイは、2009年にカリブ海のケイマン諸島(グランドケイマン島)で「遺伝子組み換え蚊を野外に放っていた(当時、未公表)」。その効果は絶大で、300万匹以上放たれたオスの蚊によって、同地域のネッタイシマカの数を80%も減らすことに成功した。



しかし、地元からの賛同は得ぬままであり、ただ地元政府に言って「夜のローカルニュース番組中で、5分間の枠を一回取った」だけだった。不妊の蚊について説明するパンフレットも作られたものの、「遺伝子組み換えについては、まったく触れられていなかった」。

当然、「地元住民が懸念を口にする機会」もまったく与えられない。それゆえ、悪いウワサがたった。

「科学者が蚊を入れたバケツをもって外に飛び出し、誰にも監視されずに野外に放っている…」

いまやアルフェイのオキシテックは「秘密主義」だとみられ、人々は「なぜ秘密にするのか訝(いぶか)っている」という有様だった。



◎悪意


ジェームズがアルフェイの暴挙を知るのは、ケイマン諸島での実験から14ヶ月も経った頃。

イヤな過去がジェームズの頭の中を駆け巡る。「遺伝子組み換え昆虫全体に対する反発を招きはしないか?」「この技術の可能性が十分に認知されないうちに、研究が潰(つい)えてしまうのではないか?」



現在、遺伝子組み換え生物の試験を取り締まるための「国際的な法や機関は存在しない」。それゆえ、研究者もバイオ企業も「やりたい放題」。「バイオ植民地主義者」たちは、こっそりと他人の裏庭で実験を行い、それを黙っていることもできるのだ。

とりわけ、アルフェイが選んだケイマン諸島という場所には、「最低限の規制」しかない。税制も緩いため、金融業者はこの地をタックスヘイブン(租税回避地)と呼び、マネーロンダリング(資金洗浄)の場として用いたりもする。



そんな場所でコッソリ行われたアルフェイ大規模な実験には、悪意を感じざるを得ない。

「蚊が(グランドケイマン島の)野外に放たれていたことを、国際社会は驚きをもって受け止めた」

それでもアルフェイの実験は「合法」だった。企業のオキシテックは「何の法も破ってはいない」と強気である。「良くも悪くも注目を集めるには違いないが…」と幹部は語る。



アルフェイの進撃は続く。

次はマレーシア。「20を超える非営利団体が抗議する中、オキシテックは人の住んでいない地域での実験を始めた(2010)」。

そしてブラジル。「蚊とデング熱に一年中悩まされる貧しい地区で、6ヶ月にわたる試験を始めた(2011)」

さらには、興味を示しているパナマとフィリピン、フロリダ州へもその食指を伸ばしている。





◎論争


「オキシテックによる遺伝子組み換え蚊の野外放出試験は『極めて危険』だ」と、国際環境保護団体グリーンピースのコッター上級研究員は警告する。「『完全はあり得ない』ので、繁殖力のあるメスの蚊が多少は放たれるだろうし、それがどんな影響を及ぶすのか、今は分からない」。

たとえ狭い地域内であるにせよ、「ある生物を根絶することが倫理的といえるのか?」。そんな問いも発せられる。



一方の推進派は、こう反論する。

「ネッタイシマカは人間が住む環境だけを利用して進化してきた『侵入種』だ」

侵入種ゆえに、都市部のネッタイシマカは「重要な食物連鎖のいずれにも属していない」というのである。すなわち、その根絶の影響は限定的なのだという。



そんな水をかけ合う論争はさておき、そもそも、「ネッタイシマカを根絶しても、デング熱の伝播を永久に止められるかどうかは疑問だ」との意見もある。

というのは、1950年代と1960年代にアメリカで行われたネッタイシマカの根絶作戦は「無残にも失敗した」からだ。デング熱を媒介する別の種・ヒトスジシマカがすぐに侵入して来て、ネッタイシマカの仕事を取って代わってしまったのである。



◎特殊管理下


ところ変わり、ここは誠実なるジェームズの実験施設。メキシコのタパチュラの外れである。

有刺鉄線で厳重に取り囲まれた検問所には、「蚊の両脇を男女で固めている図」が描かれている。この看板は遺伝子組み換え蚊が厳重に管理されていることを示している。その下のスペイン語を読めば、「特殊管理下」であることが分かる。



この土地を取得した時、ジェームズは誠心誠意、地元住民の理解を得ることに務めた。それは前述した通りである。

「地域のリーダーたちと協力し、伝統的な土地共有プログラムによって土地を入手。安全な試験施設を建設した」

ジェームズは根気よく時間をかけて、慎重に事を運んだのだ。



そんな彼にとって、アルフェイの横柄な行為は残念なことであった。たとえそれが合法だとしても、人々に要らぬ不信感を与えてしまったことに変わりはない。

たとえ世界のためになることとはいえ、「予想外の結果が生じることを恐れて反対する人々」は必ずいるのである。



◎昔日の夢


かつて、ジェームズとアルフェイが一緒に協力して「メスの飛翔筋を操る遺伝子」を発見した時、二人は同じ夢を見て興奮したはずだった。

「これで、デング熱を撲滅できるかもしれない!」

しかし、その後の2人は対照的だった。あくまでも地元住民の心に気を配り続け、ゆっくりと歩を進めたジェームズに対して、アルウェイは急ぎ過ぎた。そして、企業による合法という名目は、逆に人々の疑いを強くしてしまった。



人間は蚊のような小さな生き物に悩まされるほどに「弱い」。その弱さゆえに、物事を必要以上に疑う性向も内面に抱えている。

確かに科学者は「最強の武器」を手にしているのかもしれない。そして、それは確かに多くの人々の生命を救う可能性を秘めているのかもしれない。

しかし結局、人間の心は一歩一歩ずつしか進めないのである。たとえ科学が一足飛びに発展しようとも。



ジェームズが管理する施設には、何千匹のネッタイシマカがゲージ内に育てられている。

朝7時、そのゲージのアミの目を通り抜けた朝日が、光の筋となって金色に輝く。

「この世のものとは思えぬほど、美しい…」

しかしその美しい光は同時に、一部のゲージに「たまらなく暗く陰」をもつくり出していた…。










関連記事:
なぜ細胞は自ら「死」を選ぶのか?雌雄(オス・メス)の別が生み出した、巧みな「生」の形。

放射性物質のもたらした光と影の世界。キュリー夫人を想いながら。

遺伝子はどこにある? タンパク質に囚われていた科学者たちの蒙昧をといた「オズワルド・エイブリー」。



出典:日経サイエンス
「遺伝子組み換え蚊でデング熱を撲滅」

posted by 四代目 at 07:36| Comment(0) | サイエンス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月15日

色が「聞こえる」。テクノロジーの拡げる現実世界


子どもの頃の彼が見る世界は、そのすべてが「白黒」だった。

生まれながらの色覚障害。そのため、ニール・ハービソンはそれを特別なこととは思っていなかった。



ところがある日、ニールは小学校の友だちに笑われてしまう。

「なんで、みんな笑うんだ?」

彼にはそれが分からなかった。自分が左右「色違い」の靴を履いていることも…。



それ以来、「色」に対して心までをも閉ざしてしまったニール。

彼の身につけるものは、「白と黒」だけになってしまった…。



◎出会い


そんな白黒だったニール、ある人物との出会いがその人生を一転、ひと一倍カラフルなものへと変貌させる。

音楽を学ぶためにイギリスに留学していたニールは、大学でコンピューター・サイエンティストのアダム・モンタンドンと出会うのだ。



「見えない色を、音で聞こえるようにしよう」

それがアダムの計画だった。そして作り上げたのが「アイボーグ(eyeborg)」と呼ばれる装置。ニールの目の前にブラ下げられた「アンコウのチョウチン」のようなその装置は、目の前の色を「音」に変えることができた。

アイボーグが認識した色は、一定の規則に基づいて「周波数の音」へと変換されてニールに伝えられる。つまり、ニールはその音の高低差で何色かを判別できるようになったのである。



◎サイボーグ


「サイボーグみたいだな」

ニールはその装置を一発で気に入った。はじめは音と色の名前とを結びつけることに多少の苦労はあったが、そんなことは物の数ではなかった。

生まれて初めて白黒以外の「色の違い」を知ったニール、その世界は360°の広がりを見せてくれた。アイボーグという装置を使って彼が識別できるようになった色数は360色。丸く一周する色相環すべての色を「聞き分けること」が可能になったのだ。

そして、現実世界のみならず、ベッドで見る夢までがカラーの世界になっていた。





「ピカソを聴ける!」

美術館に入ったニールは歓喜した。ピカソというのは音楽家ではない。でも、アイボーグで見るピカソの絵画は、音楽を奏でてくれるのだ。



「洗剤コーナーがヤバイ!」

単なるスーパーマーケットの陳列棚からも音楽が聞こえてくる。とりわけたくさんの色がそろう洗剤売り場は、色んな曲が賑やかに鳴り響く。まるで、夜のクラブだ。



◎見た目より「音」


「一度も色を見たことがない」というニールの白黒の世界は、アイボーグによって音楽あふれる世界へと劇的に変化した。もう白黒の服だけを着ているのはツマらない。

「今日はCメジャーを着ています」

そう言うニールの服装は、ピンクのジャケットに青色のシャツ、そしてズボンは黄色。ニールの耳には青色は「ド」、ピンクは「ミ」、黄色は「ソ」の音となって聞こえてくる。すなわち「ドミソ」、見事にCメジャーのコード(和音)になっている。



「お葬式はBマイナーかな」

色で言うとターコイズと紫、オレンジ。その色の組み合わせは全然お葬式向けでないように見えるが、耳を澄ますと聞こえてくるのは、確かにBマイナー(ターコイズが「シ」、紫が「レ」、オレンジが「ファ♯」。

ニールの服装は、その見た目(looks good)よりも「音」にこだわってコーディネートされるようになっていた(sounds good)。



服装だけでなく、「人の顔」からも音が聞こえてくる。

「キレイな顔なのにヒドイ音の人も、その逆の人もいます」

チャールズ皇太子にトム・クルーズ、レオナルド・ディカプリオ、ニコール・キッドマン…。ニールのお気に入りはニコール・キッドマンだ。「いい音(Sounds good)!」

「観客の顔を楽器代わりにコンサートだってできるんです。で、いい音がしなかったら客のせいにできる(笑)」





◎音に色を見る


また逆に、音を聞くと「色」が浮かぶようにもなった。

電話が鳴ると「緑色」が見え、BBCの時報は「ターコイズ」。

音を聞いて脳に浮かぶ色が面白くて、ニールはそれを絵画にして作品を作り始める。



ニールの描いた「夜の女王(モーツァルト)」は、赤青黄色、いろんな原色が洪水のように押し寄せる。曲の音程が上へ下へと飛び回るように、その色のコントラストも鮮やかで激しいものだ。

一方、ジャスティン・ビーバーの「ベイビー」という曲は、アイドルらしくピンクと黄色。わりと単調な色使い。



音楽だけでなく、「人の声」も色となって聞こえてくる。

たとえばヒトラーの演説は、色のギャップが激しいながらも、そこには妖しい魅力が秘められている。それに対して、キング牧師の演説(I have a dream)は、青から赤へと広がるシンプルな印象。そこには統一感と方向性の明瞭さが感じられる。

「ヒトラーとキング牧師、この2つの絵画を『無題』で展示して、どっちが好みか聞くんです」とニール。

歴史的な背景を無視すれば、両方の絵画ともに素晴らしい魅力がある。

しかし、「あとでネタばらしをすると、ほとんどの人が意見を変えるんですよ(笑)」。





◎超人


色と音の世界で散々に遊び回るニール。それでも次第に「物足りなさ」を感じるようになってきた。

そこでアダム(アイボーグの制作者)に改良を依頼し、「人間には見えない色」まで音として見えるようにしてもらった。

人間の目にみえる色域を「可視光線(380〜780nm)」というが、それよりも周波数の低い「赤外線」、もしくは周波数の高い「紫外線」は人間の目には見えない。しかし、音にすることはできる。



「つまり、人間の目を超えたのです」

テレビのリモコン(赤外線)を向けられると、ニールはすぐに気づく。赤外線が聞こえてくるのだ。

日光浴に良い日もわかる。紫外線が多く聞こえてくる日はヤバイ。



人間には通常見えない赤外線と紫外線。

紫外線が見えるというチョウやミツバチ(昆虫)は、花の蜜の有無をその色で判断でき、赤外線の見えるマムシやハブ(蛇)は光のない夜でも狩りができるという。

そして、ニールはその両方が可能ということだ。まさに超人…。



◎身体の一部


もはや、アイボーグはニールの「身体の一部」となった。その目は赤外線センサーの罠を見抜き、危険な紫外線をも回避する。

「アイボーグ(eyeborg)」という言葉は、「eye(目)」と「cyborg(サイボーグ)」を組み合わせた造語であるが、まさにニールは映画やテレビに登場するヒーローのような能力を手に入れることとなったのだ。



彼のパスポートの写真を見れば、そこにはちゃんとアイボーグも写っている。

「普通、電子機器の装着はNGなんですが、これは『身体の一部』だからと説得して、この写真が認められたんです」



ニールはこう語る。

「知識は感覚から得るもの。だから、感覚を『拡張』すれば知識も増える」

アイボーグによって、ニールは自らの可視域を赤外線から紫外線にまで拡張した。そして、その広がりを増した世界はメチャクチャ面白かった。

「ケータイ用のアプリなんかより、人間の身体のためのアプリのほうが、ずっと刺激的ですよ」



※2010年、ニールはサイボーグ基金(NPO)を設立。テクノロジーによって人間の能力や感覚を拡張する活動に本腰を入れ始めた。アイボーグは目の見えない人へと提供されている。





◎アプリ


ニールはアイボーグを「人間のためのアプリ」と表現したが、今やケータイ電話それ自体が「人間用アプリ」とも考えられる。このアプリなしには、面と向かわぬ相手と会話することなど到底不可能である。

そう考えれば、自動車もそうだ。走るより速く移動するなど人間業ではない。飛行機もそう。つまり、人間の発明全般は、すべて人間用アプリの範疇に入ってしまう。

「言葉」ですらそうだろう。言葉なしに刹那の想いを未来に託すことは不可能だ。しかしまあ、言葉はあまりにも多くのものの底流でもあるために、アプリというよりはOS(基本システム)と言ったほうがいいかもしれないが…。



話をアプリに戻そう。そしてケータイ電話に。これは最も最近発明された「人間用アプリ」だ。

人間がどういう風に携帯電話を使っているかという様々な研究の中に、「Full-time Intimate Community(常時、親密な共同体)」というものがある。

われわれ現代人は携帯電話を用いて、自分以外の人間いく人かの行動を常時把握している。それは自他のブログを通じてかもしれないし、Facebookやツイッターのチェックからかもしれない。



いわば、自分がそうした共同体の脳となっている。携帯電話という感覚器を通して、他者(外部)の情報を管理している状態だ。それはもはや、他人の脳と間接的につながっているようなものでもある。

まさに「身体の一部」、それがなければ「違和感」を感じてしまうだろう。



◎拡張現実


「仲間はいますから(You won't be alone)」

サイボーグという言葉は少々大げさかもしれないが、現代人にとってのテクノロジーは確実に「身体の一部」。

何も、ニールが目の前にブラ下げているアイボーグだけが特別なわけではない。われわれ現代人はすでに、テクノロジーの力を借りて、自らの感覚、そして現実を「拡張」しているのである。



「みなさんは、どの感覚を拡張したいですか?」

今世紀中にも、われわれの「見る」という感覚は一変するかもしれない。「補聴器」というモノも、聴覚を補う以上に、人間に聴こえない音までをも聴こえるようにしてしまうかもしれない。



味覚はどうか?

すでにニールは「好きな曲」を食べている。

「メインがラフマニノフで、デザートはビョークかマドンナ。サラダがレディー・ガガの曲だったら、子供も野菜を食べるかな? どんな音楽かは『盛り付け次第』です」



拡張され続けるわれわれの「現実」。

いったい、その「現実」とは何モノか?



「現実」という確かそうな響きは、「感覚」という不確かでユルい膜に包まれている。

そして、そのオブラートのような薄い膜はテクノロジーの進化とともに、一枚一枚、その厚みを増しているようである…。







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出典:TED Talk
「Neil Harbisson(ニール・ハービソン) : I listen to color(色が聞こえる)」

posted by 四代目 at 06:23| Comment(0) | サイエンス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする