2013年03月23日

膵臓ガンのスタインマンを救おうとした「樹状細胞の腕」。


「これは…、パズルの欠けていたピースかもしれない…」

顕微鏡をのぞき込んでいたスタインマンは、そう直観した。

彼が見ていたのは「樹状細胞」。それは細長い腕がいくつも生えた奇妙な細胞だった。



そして実際、それは「ノーベル賞級の発見」だった。

しかし当時(1970年代)、未知なる樹状細胞は信じられていなかった。同じ研究室のメンバーでさえも懐疑的だった、と当時高校生だったシュレジンガーは語る(彼女はスタインマンの研究室にちょうど加わった頃だった)。



免疫系の全貌が明らかにされていなかった1970年代、わかっていたのは「体外からの侵入者を見つける白血球(B細胞)と、それらの侵入者を攻撃する白血球(T細胞)がある」ということくらいであった。

しかしなぜ、何がキッカケとなって、B細胞とT細胞とが動き出すのか? それは不明だった。

そんな暗闇の中、樹状細胞を発見したスタインマンは、この樹状細胞こそが「パズルの欠けていたピース」だと直観したのである。



確かにスタインマンの「直観」は正しかった。

それは追って証明されていくことである。そのためには、20年以上の歳月は要することになるのだが…。



そしてついには、樹状細胞の発見が「ノーベル賞」の候補に上がる(2011)。

しかし、ノーベル賞を勝ち取ったこと知らせるメールを、スタインマンは受け取ることができなかった。

彼はその丁重な知らせの3日前、すでに息を引き取っていたのだった…。



スタインマンを死の淵に追いやったのは、膵臓ガン。患者の5人に1人が一年以内に死亡するという酷な病気であった。

余命一年とされたスタインマンであったが、彼は結局それから4年以上も生きた。それは取りも直さず、彼自身の発見した「樹状細胞」を活用した赫々たる成果でもあった。



しかし、今一歩およばず、ノーベル賞受賞の知らせの3日前に力尽きたスタインマン…。

ノーベル賞の規則によれば、故人への授与は認められていなかった…。



◎すい臓ガン


スタインマンの身体に異変が起きはじめたのは、2007年の初め、コロラド州でのスキー旅行からだった。おなかの具合の悪くなったスタインマン、家に帰ってから間もなく、黄疸が出た。

CTスキャンの結果、膵臓(すいぞう)に腫瘍が見つかる。その時すでに、ガンはリンパ節にまで転移していた。



スタインマンは即座に悟った。自分が生き残る見込みの薄いことを。

膵臓ガン患者の約80%は、1年以内に死亡するのである。



「グーグル検索しないで、とにかく聞いてくれ」

スタインマンは家族にそう前置きしてから、自身の深刻な病気のことを知らせた。

「だれかに殴られたような気がした」と、娘のアレクシスはその時の衝撃を振り返る。



絶望的なガンだった…。

しかしそれでも、スタインマンはどこか嬉々としたところも持ち合わせていた。それは、彼の「科学者として血」がそうさせていたのだ。

彼は患者であると同時に科学者。科学者としての彼が生涯をかけていた「樹状細胞」というのは、まさにガンの治療に役立つものであったのだ。



◎自然よりも賢く


スタインマンの研究室は、樹状細胞を用いて、エイズ(HIV)ワクチンや結核ワクチンのほか、ガン治療法の研究も行うようになっていた。

樹状細胞がその力を求められるのは、「免疫系の攻撃を切り抜けるのが上手い病気」に対してだ。

というのも、インフルエンザや天然痘などは、一度それらにかかった人には免疫がつく。ところが、エイズや結核、ガンなどではそうはならない。エイズ(HIV)に至っては樹状細胞が乗っ取られ、悪用されてしまうのだ。



樹状細胞というのは、そのいくつも生えた腕で体外からの侵入者を捕らえると、その外敵をほかの免疫細胞のところへ運んでいって、「何が敵か、何を攻撃すべきか」を仲間たちに教える役割をもつ。

しかし、変装の上手いガン細胞などは、樹状細胞の監視の目を欺くことがある。そんな時、仲間になりすましたガン細胞は、着々と事を推し進めてしまうのだ。



だがもし事前に、侵入者の情報を樹状細胞に与えておけば、もっと早い段階で樹状細胞はガン細胞を発見できる。

スタインマンの仕事は、「免疫系が攻撃すべきウイルスや腫瘍に関する『具体的な情報』を樹状細胞に与えて、助けてやること」であった。



ズル賢いガン細胞などに負けないためには、人間がもっと賢くなければならない。

「我々は、自然よりも賢くなくてはいけない」

それがスタインマンの信念であった。



◎実験


はたして、スタインマンは自分の冒されたガンより、賢く振る舞うことはできるのか。

ガンの告知を受けた彼の「実験」は、こうして始まった。彼は喜んでその実験台となったのだった。



同じ研究室のシュレジンガーは、高校以来の師・スタインマンのガンを知り「打ちのめされた」。長年の友人であったニコレットは、知らせを聞いて「よろめいた」。

それでもスタインマンは彼らをこう励ました。「非常に深刻な病気だが、私は『とても有利な立場』にいる」と。

スタインマンには、相談できる一流の免疫学者と腫瘍学者が世界中にいた。そして何より、彼は「彼自身の樹状細胞」がガン腫瘍に対する免疫を誘導してくれると確信していた。



シュレジンガーは、すぐに師の下で力を結集し始めた。

ニコレットは、スタインマンと共同で設立したRNA医薬品会社(アルゴス・セラピューティクス)の最高科学責任者。その有利な立場を利用して、即座に仲間を動かし始めた。



◎ワクチン


幸いにも、ニコレットはすでに樹状細胞を利用したワクチンを開発済みだった。そのワクチンは、患者本人の樹状細胞から、ガン細胞を攻撃するT細胞を誘導するものだった。

ただ、そのワクチンを作るためには、患者の腫瘍の一部が必要とされた。



ニコレットの開発したワクチンはその時、臨床試験の第U相(中間ステージ)。この臨床試験にスタインマンを参加させるためには、FDA(米食品医薬品局)にその許可を申請する必要があった。

その申請のために残されていた時間は「わずか数日」。

そこで2007年4月、スタインマンの膵臓の一部が大急ぎで切除された(ウィップル手術)。そして何とか、ギリギリのところで承認を取り付けたのであった。



◎時間


スタインマンがガンと診断されてからというもの、「試験段階にある治療法を試してみないか」とのさまざまな申し出が世界中から殺到していた。

「友人や研究者仲間たちみんなが、可能な限り最良の方策を示してくれたのです」とシュレジンガー。

スタインマンは積極的に「臨床試験で評価中の新しい免疫治療法」を検討。その結果、そのいくつかを受けることにした。



ただし、スタインマンは「治療をゆっくり進めよう」と主張した。というのも、いくつもの治療を同時に受けてしまうと、どの治療によって、どう免疫応答が変わったか分からなくなってしまう。

科学者としてのスタインマンはあくまで「一つの治療法を終えてから、自分の免疫系がどう変わったかを調べ、それから次の治療に移りたかった」のである。

スタインマンは、仲間たちがヤキモキするほど、この点は辛抱強かった。



しかし、シュレジンガーはそこまで悠長には待っていられなかった。

「時間がないんです…!」

死んでしまったら、実験もデータ収集も終わってしまう。そうスタインマンを説得するのに彼女は必死だった。



◎世界の頭脳



「一般的に科学は孤独なプロセスだと思われているが、じつは非常に社会的なんです」

シュレジンガーは、病に倒れたスタインマンの元に世界中から寄せられる好意に胸が熱くなっていた。

「スタインマンは長年、多くの人々と分け隔てなく仕事をし、この分野を率先してつないできました。そして今度は、その科学者ネットワークが一人の仲間を助けようとしていたんですから!」。

それほど多くの「世界の頭脳」が、ベッドの上のスタインマンを見守っていたのである。



ある秋の日、シュレジンガーはスタインマンと、青く澄み渡った秋空を眺めていた。

そして、こんな悲しい想いにとらわれた。

「先生は、次の秋を迎えることはないのかも…」



それでもスタインマンの健康状態は、良好な状態を保っていた。

むしろ幸運な知らせも舞い込んだ。「ノーベル賞の前触れ」といわれるアルバート・ラスカー賞基礎医学研究賞をスタインマンが受賞したのだった。



一連のビデオインタビューで、スタインマンは「ガンと闘う上で、樹状細胞が有望な手立てになること」を切々と説いた。

「まったく新しいガン治療法が生まれる可能性もあると思う」

そう語るスタインマンの言葉には、異様な熱がこもっていた。それは今まさに、自身が実験台として、その可能性を実感していたからでもあろう。



◎大文字


なぜか、スタインマンのメールは「すべて大文字」であった。

それらのメールは、被験者として自分のデータを検証し、研究室に出す指示だった。スタインマンは自分の身体が治療にどう反応しているかを詳しく記録していたのである。

あたかも、ふだん研究室で自分が行なっていた実験と同じように…。



ある夜、夕食が終えると、スタインマンの脚が異様に腫れ上がっていた。そこはワクチンの注射の痕だった。

「彼はその腫れにとても興奮していたんです」とシュレジンガーは振り返る。



「これはT細胞だ! すごいじゃないか!」

スタインマンは興奮を抑えきれない様子だった。脚の腫れは、自分の身体がワクチンに応じて免疫応答を起こしている紛れもない証拠だったのだ。



「彼はワクチン接種部位の様子を熱く書き記したメールを送ってきたりもしました」と、シュレジンガーは懐かしむ。

スタインマンの「大文字」は、その熱さを余すところなく伝えてくれていた。



◎不満と成果


「腫瘍マーカー」というのは、ガンの進行具合を示すタンパク質の量であるが、その値の変化にスタインマンの気持ちは一喜一憂していた。

マーカーが下がると、スタインマンは大いに喜んだ。「実験成功」という大文字のメールをみんなに送るのだ。

それは患者としての歓喜というよりは、科学者としてのそれであった。



ただ、スタインマンには不満もあった。

彼の得られるデータは、所詮一人のデータにすぎない。被験者が一人というのは、とうてい科学的な実験とはいい得ない。それを彼自身が痛感していたのだ。

しかも、いくつかの実験が並行して行われていたため、どの治療法が腫瘍マーカーを下げるのかが判然としなかった。



そんな不満の中にも、特筆すべき成果は得られていた。

スタインマンの治療中に、CD8陽性T細胞(別名・キラーT細胞)の約8%が、彼の膵臓ガンを特異的に攻撃していることがわかったのだ。

「8%は非常に大きな数字だ」

そう言って、スタインマンはじつに満足気であった。



◎ついに…


2011年9月、スタインマンは肺炎になった。

それは、妻のクラウディアと結婚40周年を祝ってイタリアを旅した3カ月後だった。



「退院できないかもしれないな…」

娘のアレクシスは、そう漏らした。



父・スタインマンは、すでに膵臓ガン患者の平均生存期間よりもはるかに長く生きていた。1年以内に死ぬどころか、もう4年半にわたって元気だった。

まさか、「あと数日」で父と永遠に別れることになるとは思っていなかった。



スタインマンが亡くなるのは、2011年9月30日。

肺炎による呼吸不全。享年68歳。

「ガンで弱った彼の身体には、もはや闘う力は残っていなかった…」



◎ある早朝


スタインマンの家族は、彼の死を世界中にどうやって知らせたらいいのか苦慮していた。その世界中に広がるネットワークは、あまりにも膨大であり、一家族の手に負えるものでは到底なかった。

結局、死から3日後の10月3日に、スタインマンの研究室にまず知らせよう、ということで落ち着いた。



ノーベル賞受賞の知らせは、彼の死を公表しようとした、まさにその日の早朝にもたらされた。

マナーモードになっていた故スタインマンのスマートフォン。それは妻・クラウディアのそばに置かれてあったのだが、彼女はその振動に気づかなかった。

ストックホルムからの連絡は、その時差ゆえか、非常識なほど早い時間帯であり、家族全員はまだ深い眠りの中だったのだ。



早朝の浅い眠りの中、妻・クラウディアは、スタインマンのスマートフォンが小さな光を点滅させていることに気がついた。

それは、スタインマンが2011年のノーベル生理学・医学賞を勝ち取ったことを知らせるメールだった。



◎3日遅かった


「バカッ!!」

その知らせに、娘・アレクシスはそう叫んでいた。



3日遅かった…。たった3日…。

ノーベル賞の規則によれば、故人への授与が認められないことを、彼女は知っていた。



だが、世界のほかの場所では、ノーベル賞委員会の発表に何の問題もなかった。

世界はまだスタインマンの死を知らなかったのだ。

その死が明るみに出るのは、ノーベル賞受賞の発表から数時間後のことであった。



当然、委員会は会議を開くこととなった。

スタインマンの死去は、あまりにも微妙なタイミングだ。

発表されから授賞式の間に亡くなったのであれば、その受賞は取り消されることがない。しかし、スタインマンの死は発表の3日前だった。ただ、委員会がその死を知らなかっただけで…。



◎幸運


その会議はだいぶ長引いだようだった。ようやく委員会の結論が出たのは、その日のだいぶ遅い時間であった。

「スタインマンをそのまま受賞者にする」

そう発表された。



スタインマンのノーベル賞受賞、そしてその死に関するニュースは、世界のメディアを大いに賑わせた。

その数日後、アップル社のスティーブ・ジョブズも、スタインマンと同じ膵臓ガンで亡くなったというニュースが上書きされた。



スティーブ・ジョブズは診断を受けてから8年間生きた。それは、同じ膵臓ガンとはいえ、神経内分泌腫瘍という進行の遅いマレなタイプであったためである。

一方、スタインマンの生存期間は「予想をはるかに超えるもの」だった。



◎みんなの腕


「何かが彼の生命を延ばしたことに、疑いの余地はありません」

シュレジンガーは自信をもって、そう断言する。

その「何か」が何だったのかは、目下、研究者たちが必死で追い求めている真っ最中だ。



その結論はまだまだ先とはいえ、シュレジンガーは確信している。

「仲間たちの治療が効いたのです。科学的に言えば、『免疫には効果がある』ということです」と。



きっと樹状細胞の長い腕は、スタインマンを死の淵から救おうと、ギリギリまで伸ばし続けられていたのだ。

その幾多の腕には、さらにスタインマンの仲間たちの腕が助勢に加わった。シュレジンガーの腕しかり、ニコレット腕しかり、世界中の科学者の腕しかり…。そして、家族の腕が…。



その最後に腕を差し伸べたノーベル賞委員会。

彼らの腕はスタインマンの腕に今一歩届かぬように見えたものの、最後にはガッチリ手に手を取り合った。



「幸運は、準備のできた心に味方する(パスツール)」

これは生前のスタインマンが、研究室に飾るほど好きだった言葉だ。



そしてまた、スタインマンはこうもよく言っていた。

「発見すべきことが、まだまだたくさん残っている」



志半ばに倒れたスタインマンは不幸だったのか?

いや、その志は幸運だ。きっと彼の仲間たちが、さらなる高みへと押し上げてくれるのだろう。

樹状細胞の奇妙な腕は、きっとまだまだ伸びていく…!







(了)



出典:日経サイエンス2012年4月号
「スタインマンの最後の闘い 自ら試したガンワクチン」

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2013年03月14日

ラパマイシンが見せた「不老長寿」への道。


一本の試験管に詰められた「土」。

50年ほど前にすくい上げられた「一塊の土くれ」が、人類を救うかもしれない「肥沃な土壌」になるなど、いったい誰が予想しただろうか?



その土が採取された場所が、人頭を模した巨石文化で名を知られるイースター島であったことには、何か意味があったのであろうか。

少なくとも、この孤立した島は、人類の近代化の悪影響からはしばらく逃れられていた島であった。ゆえに、そうした孤島に「奇妙な細菌」がいたとて、それほどの不思議はなかったのかもしれない。



その細菌は、「驚くべき特性の化学物質」を作り出していた。

それは「ラパマイシン(Rapamycin)」という化学物質(この抗真菌物質の名は、イースター島の現地語名である「ラパ・ヌイ」にちなんで名付けられたものである)。

この物質の具体的な効果は、「さまざまな動植物の寿命を延ばす」というものであり、加齢学にとっては「音速の壁の突破に匹敵する待望の成果」であった。







◎最長寿命の延び


「哺乳動物の最長寿命をハッキリ延ばした薬は、これが初めてだった」

「最長寿命」というのは、ある集団の中で最も長生きした上位10%の平均値であり、その延びは「老化が抑えらた証拠」と考えられている。

マウスでの実験(2009)によれば、ラパマイシンの薬が投与されたグループは、雄で9%、雌で14%、平均で12%の最長寿命の延びが見られたのであった(人間ならば100歳以上)。



加齢学者たちは、かねてより「老化を抑える化合物」の発見を夢見てきた。

それは単に寿命の延長だけが目的ではない。老化を抑えることにより、それに伴う多くの疾患(白内障や糖尿病、ガンなど)の発症や進行を総じて遅らせる道を拓くことができるかもしれないのだ。

「ラパマイシンは、現時点で最も有力な候補である」



◎ジキルとハイド


カロリーを制限すること(すなわち必要な栄養は確保しつつも「飢餓に近い状態」まで食事を減らすこと)は、マウスの実験などから、寿命を延ばすとともに、それにともなう疾患の発症を遅らせることがよく知られていた。

なぜ、食を減らすと長生きできるのか?

それは「あるタンパク質」が悪魔の顔を隠すからだと言われている。



そのタンパク質の名は、TOR(Target of Rapamycin)ラパマイシン標的タンパク質)。

この名前に「ラパマイシン」というイースター島由来の物質の名が入っているのは偶然ではない。なにせ、このタンパク質の仕事はラパマイシンの仕事を邪魔することだからだ(標的にする)。



TOR(ラパマイシン標的タンパク質)には、天使と悪魔の二面性がある。

「天使」というのは、人の成長を促進することである。「TORは若い時には、成長と発達に極めて重要」。

「悪魔」というのは、人の老化までをも促進してしまうことだ。「老後にまで活性が続くと、細胞の機能を阻害することがあり、組織が破壊される」。

なるほど、このタンパク質(TOR)はまるで、ジキルとハイドだ。







◎成長と老化


「成長」と「老化」、じつはこの2つはともに同じ現象を表す言葉である。

ただ、両者はその働く時期が異なる。繁殖期までが「成長」と言われ、それを過ぎると「老化」と言われるのだ。

つまり、「老化を遅らせる」ということは、繁殖期後の「成長を阻害する」ということでもある。



TOR(ラパマイシン標的タンパク質)は、基本的に「成長を促進する」。すなわち、それは同時に「老化を進める」ということとも同義である。

それに対して、延命の期待のもたれる「ラパマイシン」という物質は、逆に「成長を阻害する」、すなわちそれが「老化を抑える」ことにつながるのである。

アッチを叩けば、コッチが出てくる。コッチを叩けば、アッチが出てくる。そんなデコボコな関係が、TOR(ラパマイシン標的タンパク質)とラパマイシンのシンプルな関係性なのである。



◎TORとラパマイシン


じゃあ、若い時にはTOR(ラパマイシン標的タンパク質)にガシガシ働いてもらえばいい。そして、繁殖期を過ぎてからは、代わりにラパマイシンが成長を抑えてくれればいい。

ところが事はそう簡単ではない。年を取ってもなお、TOR(ラパマイシン標的タンパク質)の活性はたいがい上がったままである。ゆえに老化も加速してしまう。



なぜそうなるのかと言えば、それは「食物が豊富にある」ためである。

TOR(ラパマイシン標的タンパク質)という愚直者は、食物があればあっただけ、それを成長の力に転化しようするのである。たとえ、個体が年を取っていたとしても…。

一方、ラパマイシンという落ち着いた賢者は、ずっと控えめである。食が欠乏した時にはじめて、その働きの場を得る。そしてようやく、猪突猛進するTOR(ラパマイシン標的タンパク質)の頭を抑えにかかるのだ。



カロリー制限によって、一時的にでも飢餓状態を体内に生み出せば、自然とラパマイシンが顔を出してくる。

暴君が暴君でいられるのは、力を与える何かが存在するからであり、TOR(ラパマイシン標的タンパク質)が暴走するのには、それ相応の理由(過剰な食物)があるからである。







◎自食作用


TOR(ラパマイシン標的タンパク質)があまりに働いてしまうと、何が悪いのか?

成長という成果は評価に値するのだが、TORは後片付けには興味がない。成長の過程で生じる「損傷したミトコンドリア」や「不全化した細胞」などは放ったらかしだ。



その闇雲な成長は、一部のタンパク質を過剰に作りすぎてしてしまったりもする。一部だけの異常な成長は、周囲に悪影響をおよぼす。また、作られすぎたタンパク質は凝集して厄介者と化すことになる。

たとえば、動脈硬化の原因となる平滑筋細胞や、骨を破壊する破骨細胞、腫瘍など、好ましくない増殖をも引き起こすのである。

その混沌とした様は、まるで歪んだ現代社会を見るようではあるまいか。弱者を顧みない闇雲な経済成長、それに伴う一部の富裕化、そして広がる闇の世界…。



一方、食が欠乏すると、TOR(ラパマイシン標的タンパク質)は途端に鳴りを潜める。清貧の士・ラパマイシンの言うことを聴き始めるのである。

ラパマイシンによって成長を抑えられた体内では、食い散らかされた細胞の後処理が始まる。

「自食作用」と呼ばれるのがその清浄作業であり、損傷したミトコンドリアは修復され、正常に機能しなくなった細胞は分解され、リサイクルへと回される。腫瘍でさえ何かの部品として使えるかもしれない。こうして、体内のゴミは新たな資源として活用されていくのである。



◎飢餓状態


「一般に、細胞が『生存の危機』を感じ取ると、TOR(ラパマイシン標的タンパク質)の活性は下がる。その結果、タンパク質の生産と細胞の増殖が抑えられ、細胞は節約した分の資源をDNA修復などの『防御』に振り向けられるようになる(日経サイエンス誌)」

若い時には「攻撃は最大の防御」なのかもしれない。しかし、繁殖期を過ぎてからまで「攻撃一辺倒」では、自身の城壁はボロボロのままに放置されてしまうのだ。

「繁殖期を過ぎて生存する見込みが下がるにつれて、生物は『人の住まなくなった家』のように劣化していく(同誌)」



自分の家(つまり身体)、それを守るのがラパマイシンの仕事。

しかし、この控え目な御仁は、細胞が「生存の危機」を感じなければ、自分からは出しゃばってこないのだ。

この士に三顧の礼を尽くすのが、カロリー制限(飢餓)ということになる。



飢餓状態がTOR(ラパマイシン標的タンパク質)の活性を抑えることは、1990年代半ばに見出されたことであるが、飢餓が長寿につながること自体は、もっと早くから知られていた。

1935年、若いラットに与えるエサを減らすと非常に長生きすることを示したのは、栄養学者のマッケイ(コーネル大学)である。以後、こうしたカロリー制限が酵母からクモ、イヌやサルなど幅広い生物種で最長寿命を延ばすことが示されてきた。

「長期的にカロリー制限した高齢のアカゲザルは、並外れて健康で、実年齢よりも若く見える」



◎歴史的な研究結果


TOR(ラパマイシン標的タンパク質)の機能が明らかになり始めたのは2000年代初め。

2003年、ハンガリー人の研究者ヴェライは線虫の平均寿命を2倍に延ばしてみせた。それは、TORを遺伝子操作で阻害した結果だった。

たまたまTORが阻害される遺伝子変異を起こしていたマウスの寿命は、30ヶ月から5年にまで延びた。



TOR(ラパマイシン標的タンパク質)とラパマイシン、そしてカロリー制限の関連の解明は、寿命延長の野望に火をつけた。

そんな中、2009年に発表された研究結果は歴史的だった。

「ラパマイシンを与えたマウスは、与えなかったマウスに比べ、平均余命が老齢の雄で28%、雌で38%も延びたのだ!」



ストロング(バーショップ研究室)、ハリソン(ジャクソン研究所)、ミラー(ミシガン大学)によるこの研究で面白いのは、実験対象が「老齢のマウス」だったことである。

薬をマウスのエサに調合するのに手間取ってしまったため、最初のラパマイシンが投与されたのは、そのマウスがすでに20ヶ月(人間でいえば60歳)になっていた。そのため、「誰一人として、うまくいくとは予想していなかった…」。



ところがドッコイ、それでもマウスの寿命は延びたのだ。

つまり、たとえ高齢でも「諦めるにはまだ早い」ということだ。

「これはラパマイシンが主として、一生の後半に効果を発揮することをうかがわせる」







◎健康な老い


現在、TOR(ラパマイシン標的タンパク質)を阻害すると、さまざまな生物で寿命が延びるという事実は明らかになってきた。

「この事実は、老化を取り巻く霧の中で『光る灯台』のように目立っている」



当然ながら、カロリー制限という方法が寿命延長にとって唯一の道ではない。より広範で複雑なネットワークが機能することによって、「健康な老い」が導かれるのだから。

それでも、そのネットワークをコンピューターにたとえれば、そのCPU(中央演算処理装置)、つまり最も重要と思われるのはTOR(ラパマイシン標的タンパク質)なのである。

それゆえ、そのTORの陰に存在するラパマイシンに光が当てられるのは、自然な成り行きなのである。



◎謎と偶然


「そもそも、老化を遅らせるようなメカニズムが、どうして進化してきたのか?」

これは進化生物学者たちの頭を悩ませてきた「謎」である。



生物の目的は「繁殖」にある。

その時期を過ぎてまで、生物に「時間外労働」をさせる意味はどこにあるのか?

じつは、カロリー制限による労働時間延長(寿命延長)は、別の目的の「おまけ」のようなものではなかったのか、そう考える加齢学者もいる。



たとえば、動物は食物が乏しくなると、いつもは食べないモノまで食べるようになるかもしれない。

すると、そうした食べ慣れない食物には「毒」が含まれる危険性が高まる。それゆえ、体内では自ずと「防御機能」が働くように進化し、「図らずも老化が抑えられる」というのである。

カロリー制限による魔法の効果は、「偶然の産物」だったのか?



◎ソンビ化


TOR(ラパマイシン標的タンパク質)は、成長と繁殖には不可欠であるものの、個体が成熟した後には「老化を推進するエンジン」になってしまう。

若さの本質ともいえる成長能力は、高齢期には「私たちを死に追い立てる」のである。



食物の豊かさはTORを助長してしまうため、「もったいない精神」はどこへやら、次から次へと食いカケを残していく。

余ったタンパク質は凝集し、不全となったミトコンドリアは溜まる一方。それらのゴミは、DNAを傷つけるフリーラジカルとも化してしまう。神経細胞に難分解性のタンパク質が蓄積すれば、それはアルツハイマー病などの疾患の一因となる。

高齢期におけるTORは、「組織の再生能力を徐々に奪っていく『ゾンビ』のような存在」なのである。



高齢になってなお、TOR(ラパマイシン標的タンパク質)の勢いが衰えることがないのは、「進化は老化を遅らせるメカニズムなど作っていない」という主張につながる。

「ひねくれた成長」はいつまでも、それこそ死ぬまで続くのだ。

若い時には天使であったTORも、そのままソンビのような悪魔になってしまうのだから。



◎夢の抗老化薬


一方、「自食作用」という慎ましやかな生活を送ろうとするラパマイシン。

ラパマイシンが延ばす寿命は、マウスから推定すると、人間で平均5〜10歳に相当する。

「これは大きい。実際、先進国では平均寿命が20世紀に大きく延びたため、現在はオリンピック選手の記録のように、少しずつしか延びなくなっている」

たとえば、アメリカ人の平均寿命は20世紀に50%以上延びたが、ここ10年間の延びはわずか2%にも及ばない。



しかし、この物質とて完璧ではない。

ラパマイシンを薬として用いると「血中コレステロールを上げたり、貧血を起こしたり、創傷の治癒を妨げるなどの副作用」が現れる。

つまり「夢の抗老化薬」の候補にはならないのである。



ただ、その「予防薬」程度にはなるという。

「高齢期に起きる健康障害(認知症や骨粗鬆症、白内障やガン)の発症や進行を遅らせる予防薬となるだろう(日経サイエンス誌)」



◎聖道門


現代文明に毒されるのが遅れたイースター島の「土くれ」は、人類に「不老長寿の夢」を見せてくれた。

それは未だ可能性に過ぎないのかもしれない。しかし、その過程を知ることだけでも、十分過ぎるほどに有意義であった。



「成長とは何か?」

それはある時(繁殖期)を境に、老化となる。

「成長のエンジンは何だったか?」

TOR(ラパマイシン標的タンパク質)という成長エンジンは、あまりにも愚直すぎて、個体が死ぬまで前へ前へと進み続ける。その後ろには、「要らぬ置き土産」を量産しながら…。



ラパマイシンという不思議な物質は、酵母と人間の両方で「成長抑制の力」をもつという。

これは生物学者の興味をひくところだ。「酵母とヒトが進化の過程で分かれた10億年前から、両者に保存されてきたラパマイシンが同じ働きをする」ということを意味している。

現在では、線虫や昆虫、植物など多くの生物種が、同じ遺伝子を持っていることが知られている。



飢餓を凌ぐための「自食作用」を促すというラパマイシン。

しかし幸か不幸か、それはそのまま「夢の抗老化薬」として用いることはできない。

仏教では、他力的な道を浄土門、自力的な道を聖道門と言うらしいが、どうやら、ラパマイシンは聖道門への道を拓くキッカケにすぎないようである。



また仏教は、こうも教える。

貪瞋痴(とん・じん・ち)、すなわち「貪(むさぼ)り・怒り・愚かさ」が3つの毒だ、と。

ここまで長々と述べてきた通り、食を貪(むさぼ)ることは、まさに身体に毒のようである。



しかし、それを知ることができたことで、三毒の一つ「痴(愚かさ)」の一端には気づくことができたのではあるまいか。

ただ、それを成せるかどうかは、まったくの別問題ではある。



「老化を遅らせるために厳しい食事制限をするのは、非現実的だろう」

それこそが、現実なのだ…。

太古の香りは、そんな現実の中に漂っているのであった…。







(了)



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出典:日経サイエンス2012年4月号
「驚異の長寿因子 ラパマイシン」

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2013年02月13日

「本当の虹」とは? 神秘と物理学


「君たちは『虹』を見たことがあるか?」

当然、「ある」に決まっている。

「本当にそうだろうか? じつは誰一人として見たことがないのではないかと私は思う」

ルーウィン教授(MIT)の眉間にはシワが寄ったままだ。



「『本当の意味』で虹を見たことがあるのか?」

それがルーウィン教授の問いである。



虹の正体とは?

それを知れば「君たちの人生は変わる」。

そう、教授は断言する。



◎3つの問い


問1.虹の色の並びは?

問2.虹の内側と外側、どちらが明るい?

問3.2本目の虹はどこにある? その色の並びは?



「虹を見た時、赤は内側に見えるだろうか? それとも外側だろうか? それは時間によって違うのか?」

「虹の内側と外側では、空の明るさが違うということに気づいたことがあるだろうか?」

「同時に現れる2本目の虹は、どこを見ればみつかるのか?」



6世紀頃の美しい壁画には、虹の外側が青く描かれているものがある。だが、それは果たして物理の法則に従っているのだろうか?

「歴史上で最も早く『虹の正体』を理解した一人がニュートンだ」とルーウィン教授は言う。ニュートンが著書「光学」に描いた虹の図には、ちゃんと「2本目の虹」も正確な場所に描かれている。



虹はいわば、物理法則の結晶である。その色の並びから現れる場所まで、正確に計算できる。

その知識を知っていれば、インターネット上に12ドルで売られている「虹製造機」なる怪しいものに騙されることもないはずだ。

何より、そうした知識があれば「虹を見るのが、楽しみになる」。きっと「2本目の虹も探したくなるはずだ。それが見えなくとも、2本目の虹がある場所は確実に分かっているのだから」。



◎角度


まず虹は、「太陽の光」と「水滴(雨粒)」を必要とする。

あなたが太陽の光を「背」に受けて立った時、前方には自分の影が映るはずだ。そして、自分の頭とその影の先端を結ぶ線(仮想線)から40°ほど見上げた時、虹はそこにある(空気中に十分な水滴があれば)。

さらに、もう10°ほど見上げれば、2本目の虹もそこにあるはずだ(ただし、2本目の虹は1本目の虹よりも確実に淡く、まれにしか見えない)。


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なぜ、これほどまでに「正確な角度」が分かるのか?

それは太陽の光が水滴の中で折れ曲がり(屈折)、反射する角度が正確に計算できるからだ。そういう意味で、虹はその物理法則からは逃れることができない。



太陽光線が水滴に当たる時、その一部は水の抵抗により少し曲がって(屈折して)水滴中に入る。

水滴中に入った光線が水滴の端まで到達すると、一部は水滴の外に飛び出し、また一部は反射して水滴中に跳ね返る。





虹となって現れる光線は、一度水滴の中に入り、その中で一回反射して、その後に出てきた光である。

光線が斜めに差しこむほどに、水中での屈折の角度は大きくなるのだが、不思議と一回反射して水滴の外に出ていく光(虹の光)の角度は、あるところを境にして逆に角度が小さくなっていく。

その境となるのが、光の入射角がおよそ40°近辺。つまり、一度水滴の中に入った光は、その40°近辺よりも外側に出ていくことができなくなる。



ここでメガホンのような円錐形をイメージしてほしい。

メガホンの口を当てる部分に水滴があるとすると、虹の光はそのメガホンの内側でしか出てくることができない(声がメガホンに沿って伝わるように)。





これが、虹の光が円錐形に沿うイメージである。そして、メガホンの円錐形の広がった部分が、丸い虹として我々の目に写る部分である。

その円錐形の角度が40°近辺、つまり水滴中を光が出ていく限界値ということだ。



◎色ごとに異なる屈折率


ところで、太陽光(可視光線)には様々な色がある。赤、オレンジ、黄色、緑、青、紫…。そして、それらは虹の色でもある。

可視光線の色の幅は、赤から紫。赤を超えると赤外線、紫を超えると紫外線となり、いずれも人間の目に見ることはできなくなる。

すべての光線の色が重なった時、その光は「白」になる。だから普段、われわれの目に太陽光の色は見えないことになる。



では、なぜ虹はそれら各色が別々に見えるのか?

それは光の各色ごとに水中での「屈折率」が異なるからである。

水中での光の屈折率は1.33(この数字は、水の抵抗を受けた光が、3割ほどスピードダウンすることを意味する)。それを光の各色ごとに見ていくと、「赤」の屈折率が1.331、「青」の屈折率は1.343となる。



人間の目に見える色の限界は「紫」であるが、太陽光に含まれる紫の色はあまりにも少ないために、虹ができても紫はほとんど見ることができない。そのため、虹は赤から青までと考えた方が、より現実的である。

赤と青の光の屈折率を見ると、そこにはわずかであるが差がある(0.012)。そして、このわずかな差こそが、水滴中で赤と青を明確に分離させることとなる。

当然、赤と青の間に位置する黄色や緑色の屈折率もそれぞれ異なる。その結果、各色はきれいに分離するのである。





水滴中での各色の屈折率が異なれば、虹となる光が水滴中から飛び出す角度もまた、各色ごとに異なってくる。

そして、それら各色ごとにメガホン形(円錐形)の限界角度があり、それより外側には虹の光は出て行けない。

屈折率を元に、各色の限界角度を求めると、赤は「42.3°」、青は「40.7°」。赤と青以外の色はすべてその範囲内に収まるので、結果的に虹は「40.7°〜42.3°」のメガホン形の中に収まることになる。


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◎まん丸の虹


先に書いたように、あなたが太陽を背に立った時、虹は、あなたの頭とその影を結ぶ線(仮想線)の上、40°近辺に現れる。

もうお分かりだろう。なぜ、虹がその角度で正確に現れるのかを。



虹となる光は、水滴の中に入り、その中で一回反射して、そして出てきた光だ。光の各色は、水中での屈折率が異なるため、水滴を出てくる角度もそれぞれに異なる。そして、その角度は必ず「40.7°〜42.3°」のメガホン形に収まる。

これが物理の法則である。だから虹は、メガホンの縁に沿うようなキレイな円形に見えることになる。各色が重なり合わないのは、各色ごとに跳ね返る角度のピークが異なるからである。


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ここでお気づきのように、本来虹は半円ではなく「まん丸」である。

それがなぜ半円に見えるのかと言えば、その中心が地平線の下にあるから、円の下半分が見えないだけということだ。

もしあなたが、頭上の真上に太陽光を受けている時、自分の足元にホースで水を撒けば、そこには「まん丸の虹」を見ることもできるだろう。そして、その虹はあなたの目から「40.7°〜42.3°」の範囲内に収まるに違いない。


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◎明と暗


虹の内側と外側で、空の明るさは異なるのだろうか?

賢明な読者ならば、すでにその答えをイメージしているはずだ。

もちろん異なる。外側が暗い。



虹の外側というのは、メガホンの外側を意味し、そこに水滴中を出てきた虹の光は一切届かない。だから暗い。

一方、虹の内側にはすべての色の光が存在する。だから明るい。



ん? では、なぜ虹の内側には色がないのだ? 光は存分にあるというのに…。

それは先に述べたように、光の入射角の違いにより各色の光が水滴を出ていくピークが異なることに起因する。

各色はそのビーク(限界角度)において、突出した強い光を放つ性質がある。そのピークというのが、虹となって現れている色の部分だ。赤ならば42.3°、青ならば40.7°、その特定の角度において、それぞれの色は自らのカラーを強烈に主張する。



虹の内側には、すべての色の光が存在するにも関わらず、そこに色が一切現れないのは、すべての色が同じ強さで拮抗し合っている(譲り合っている?)ためである。

すべての色が同じ強さで重なりあった場合、光の色は「白」となって特定の色が出ることはない。色は出ないものの、明るさだけは残る。だから虹の内側(メガホンの内側)は、その外側よりも明るいのである。



◎神の手


虹の色の並びも、各色の光が異なる角度で雨粒を飛び出してくることに関係している。

青のメガホン形の角度は40.7°であり、赤の42.3°よりも小さい。どちらも中心は同じ水滴であるため、青のメガホンは赤のメガホンの中にすっぽりと収まってしまう。

すると当然、虹では、赤が外側、青が内側という配列になる(ほかの各色はその間に現れる)。



ところで、6世紀頃の壁画に描かれた虹は、その色の配列がまったく逆だった(青が外側だった)。

この壁画の虹の上には「神の手」が描かれている。それは聖書の一場面なのであろうか。ということは、虹の色の並びが逆に描かれていることには、宗教的な意味が込められていたのだろうか?



色の並びが逆の虹。

じつは「2本目の虹」が、そうなる。これは宗教的にではなく、物理的にだ。

幸運にも2本目の虹が見える時、その外側が青色である。これは通常の虹の外側が赤色であるのとは、まったく逆である。






◎2本目の虹(副虹)


2本目の虹は、光が水滴中を「2回」反射して出てきた光によって映し出される(繰り返すが、普通の虹は水滴中を一回反射して出てきた光である)。

通常は一回のところ、2回反射するので、結果的に2本目の虹の光は、一本目のそれよりも弱くなる。だから、なかなかお目にかかれない。



しかも、一本目の虹とは「真逆の世界」がそこには映し出される。

色の配列も逆であれば、本来暗いはずの外側のほうが明るくなったりもする。

もし2本目の虹を見た時、そこには神の姿が重なるかもしれない。人間界とはまったく真逆の…。



しかし残念ながら、その神秘的な2本目の虹ですら、物理の法則から逃れることは不可能だ。

2本目の虹をつくる光線が水滴中を反射・屈折する角度は正確に計算できる。計算の結果、2本目の虹は一本目の虹の10°ほど上に現れることになる。



2本目の虹も、メガホンの形をとることになるのだが、そのメガホンは内側と外側を反対にめくったようなイメージ。光はメガホンの内側ではなく、外側にしか届かない(一本目の虹と真逆)。

少し細かく言えば、一本目の虹は水滴から出てくる光の角度が「最大値(限界値)」の時のものであるが、2本目の虹はというと、その逆、「最小角度」の光である(光が出ていく角度は、その角度よりも小さくなることができない)。だから色の配列も逆になる。



2本目の虹はまるで、シャツの裏表を逆にひっくり返したようなものである。内側が外側に出て、外側が内側に入っている。だから、一本目の虹ではメガホン形の内側が明るいのに、2本目の虹では外側が明るい。

2本目の虹(副虹)が見える時、それは一本目の虹(主虹)の上を覆うように現れるのだが、それら2本の虹の間の空はえらく暗くなる。

なぜかと言えば、一本目の虹の上(外側)は暗く、2本目の虹の下(内側)も暗い。2本の虹の間は、両方の虹の暗さが重なり合うことになり、えらく暗くなるのだ(アレクサンダーの暗帯)。






◎白い虹


ところで、虹が7色とは誰が決めたのか?

尾瀬高原では時おり「白い虹」が見られるという。それは北極圏でも同様であり、霧虹とも呼ばれるものだ。



「霧虹」という名前が示すように、白い虹は極小の雨粒、たとえば30ミクロンのような細かい霧が発生したときに見られるものである。

通常の虹が7色に分離するのは、それぞれの色の屈折率のピークが異なるためであるが、白い虹の場合は、元となる水滴があまりにも小さいために、お互いの色が重なり合ってしまう。するとどうなるか? すべての色が重なりあうと「白」になる、というわけだ。





この白い虹は、光が波であるということも同時に教えてくれる。

波状の光線は、打ち消し合って暗くなったり、強め合って明るくなったりする(干渉)。白い虹では赤と青が重なり、青と緑が重なり、全部が混じり合ってしまい、お互いがお互いの色を強め合って、真っ白の光となるのである。

「過剰虹」と呼ばれるものも、これと同じく光の干渉の結果であり、直径1mm以下の雨粒が虹の元となる時、青色の部分に暗い帯が走る。これは干渉の結果、光が打ち消し合って暗くなってしまう例である。



◎赤い虹


「では質問だ。夕暮時の虹はどのように見えるだろうか?」

ルーウィン教授は学生たちに目を向ける。「あるいは日の出でも同じことだ」。

ある生徒は答える、「赤い虹だけが見えます」。



「そうだ!」

ルーウィンは満足そうである。だんだんと生徒たちは虹の本当の意味を理解しつつある。

「夕焼けと同じ理屈だ。そもそも赤い光しか届かない場合は、虹も赤だけになる」



赤い虹で面白いのは、その虹のラインのみならず、その内側の空間までが赤く染まることだろう。

「通常は白くなる部分も、赤い光だけしかないのだから、赤くならざるを得ない」



朱に染まれば赤くなる、郷に入っては郷に従え。

それが赤い虹である。






◎好奇心


6世紀の画家が壁画に描いた虹は、何を意味していたのだろうか?

なぜ、色の並びが上下逆転していたのか。それを物理的に考えると、2本目の虹(副虹)ということになるが、しかし2本目の虹は一本目の虹(主虹)があってこそ出現するものである。そして、一本目の虹よりも強いことは決してない。



確かに、2本目の虹は神秘的である。壁画に描かれたように「神の手」が手招きしていてもおかしくない。それは神秘の扉を開けてくれるかのようだ。

しかし、その手は「物理の手」でもある。「なぜ、2本目の虹が一本目の虹の上方10°の位置に出現するのか?」。それは神でなくとも解き明かせる謎であった。

その物理の手が開く扉は「好奇心」。



「この好奇心は、いわば病のようなものだ。もう元には戻れない。全部私のせいだ」とルーウィン教授は語り出す。

「君たちが次に虹を見る時、これまでとは全く違った見方をすることになる。虹の一番外側が赤であることを確かめ、2本目の虹もきっと探すはずだ。もしそれが見えたら、色の順番が逆になっていることも確かめたくなるはずだ」

「さらに、虹の内側の空の明るさにも、君たちは気づくはずだ。そして、アレクサンダーの暗帯を見つけようとするに違いない」



◎隠された美


虹の何たるかを知った我々はもう、虹を追い越そうとして走り出すことはないのかもしれない。なにせ、その正体が自分たちの足元にあることを知ってしまったからだ。

しかし、だからといって虹の魅力が色褪せてしまったわけではない。逆に、正しい知識がより一層その虹を輝かせてくれた。

そして、さらなる好奇心を刺激せずにはおかなかった。



「一度好奇心を知ってしまったら、もう後戻りはできない。この好奇心は一生つきまとう」

そう言いながら、ルーウィン教授はじつに嬉しそうである。

「君たちは虹の正体を知ることで喜びを感じたはずだ。虹の正体を知らない人たちに比べ、君たちは虹を見るたびに多くのことを発見し、より豊かな経験ができるようになった」



「知識は隠された美を解くカギだ。

 君たちはもう、これまでの君たちではないはずだ。

 次回また会おう」








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出典:NHK
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2013年02月06日

未来は予測できるのか? 「不確定性原理」の拓いた世界観


「『不確定性原理』にほころび。教科書の書き換え迫る」

こんな見出しが一年前の新聞に踊っていた(2012年1月)。小澤正直教授(名古屋大)が「不確定性原理の破れ」を観測したというのだ。



興奮と混乱を巻き起こした、この報道。

「誤報だ! 不確定性原理が破れるはずがない!」

研究者たちが批判を溢れかえらせる中、企業連中は「暗号の安全性は大丈夫なのか?」との不安もつのらせていた。



そもそも「不確定性原理」とは何なのか?

ネットには「量子力学まで否定されたのか」との驚きが広がっていたが…。



◎不確定性原理


86年前の1927年、当時弱冠25歳だったハイゼンベルクは一遍の論文を記した。それは、ある「思考実験」について語ったものだった(「量子論的な運動学および力学の直感的内容について」)。

物体の正しい位置を測る時、その測定値には「誤差」が生じる。さらに、測定という行為自体によって、物体の運動量に「擾乱(じょうらん・不規則な乱れ)」も生じる。

電子の位置を測定する時、光(光子)を当てられた電子の像はぼやける。このぼやけた電子のバラツキが「誤差」である(光の波長に比例)。また、光子が電子に当たった時に、光子によって跳ね飛ばされた電子には運動量が与えられる。これが「擾乱」である(光の波長に逆比例)。



ハイゼンベルクが最初に示した「不確定性原理の式」によれば、位置測定の誤差を小さくすると、運動量の擾乱は大きくなり、逆に運動量の擾乱を小さくすれば、誤差は大きくなる(トレードオフの関係)。

つまり、「位置と運動量の両方を、正確に知るのは不可能」ということがハイゼンベルクの式では示されている。



すなわち、「われわれは今の状態をすべて知ることは不可能で、それゆえ『未来は予測できない』」。ハイゼンベルクはそう言ったのである。

これが量子力学の創始者の一人とされるハイゼンベルクの拓いた「新たな世界観」。そしてそれは、量子力学への扉であった。以来、ハイゼンベルクの不確定原理は「量子力学の象徴」のような扱いを受けていくことになる。



◎未来予測の限界


「未来は分からない」

ごく単純にいえば、ハイゼンベルクの式はそういうことだ。



ところが、古典力学の世界では、そうは考えられていなかった。

ボールの位置は正確に測ることができる。そして、光を当ててもボールの運動量は変わらない。ボールの位置と運動量は正確に知ることができるのであるから「未来は予測できる」。そう考えられていた。

これが古典力学の「決定論的世界観」である。



「今この瞬間のことはすべて測定でき、未来は予測できる」

古典的な物理学の世界では、長らくそう信じられてきた。現在は過去の帰結であり、未来は現在の延長線上にあるとしか思えなかった。



そんな頑なな世界に投じられたハイゼンベルクの一石は、大きな波紋を広げずにはいなかった。

なにせ彼は、「現在のすべてを知ることは出来ず、したがって未来は予測できない」という、当時の常識とは真逆のことを言うのだから。

ハイゼンベルクは堂々と常識を否定する。「観測されるのは、多様な可能性のうちの一部だけだ。すべての実験は不確定性原理の式に従うので、量子力学は『因果律(原因と結果)の破れ』を確証する」。そう彼は結論づけた。

ハイゼンベルクが突きつけたのは、「測定によって得られる知識と予測の限界」にほかならなかった。



ハイゼンベルクがもたらしたこの新たな世界観は、人々の「モノの見方」を揺さぶった。

そして、彼の不確定性原理の式は、物理学の単なる数式ではなく、量子力学のもたらした「新たな思想」として人々の間に広く知れ渡っていくことになる。



◎神棚に祀られた式


古典力学が見ている世界と、量子力学の見ている世界とでは、その「精度」がまるで違う。

古典力学が「ボール一個」を見ている時、量子力学は「電子一個」を見ているのだから、当然、その誤差や擾乱の精度もまるで異なる。

ハイゼンベルクが予測不可能といった未来は、そういった極めて精緻な世界の話である。



確かに、ハイゼンベルクの不確定性原理が新しい時代の幕開けを告げ、人々の意識を変えたのは間違いなかった。しかし、それが実用的であったかどうかというのは、また別の問題。

「どんな分野でも測定はするが、通常、その精度は量子限界が問題になるようなレベルではない」



それゆえ、ハイゼンベルクの式は単なる「量子力学の象徴」として、「神棚に祀られた式」として長くホコリをかぶっていたのも、また事実。

「ハイゼンベルクの式を見直して、新たな一般則を作ろうという試みは、歴史を通じても数少ない」

物理学を学ぶ学生たちにとっても、この式は「押し入れにしまったまま忘れている式」に過ぎず、「普段取り出して見ることもなければ、仕事に使うこともない」。ハイゼンベルク自身も晩年、「私の思考実験はトリビア的なものだった」と認めている。



1976年、ハイゼンベルクは没した。

そして奇しくもその同じ年、ハイゼンベルクの式を破ることになる小澤正直氏は、東京工業大学の博士課程に進学していたのであった。







◎数学的


「われわれは何を知り得るのか?」

若き頃の小澤氏は、そんな哲学的な関心を強く抱いていた。それゆえ、「未来は予測できない」とするハイゼンベルクの不確定性原理にも惹かれずにはいられなかった。



小澤氏とハイゼンベルクは、ある意味、同じ方向を向いていた。

しかし、両者のアプローチはまったく異なる。物理学者のハイゼンベルクが思考実験で答えを探ったのに対して、小澤氏の武器は論理。彼は「数学者」であったのだ。



「そもそも測定とは何だろうか?」

Aという対象を測定する時、それを測るメーター(測定器)が必要となる。メーターによる測定値をXとすれば、そのXは時間的に変化し、量子力学では、その値Xは確率的にしか決まらない。

測定値Xの出現確率と、測定後の測定対象Aの量子状態を、小澤氏は「数学的な表式」で記述した(完全正値インストルメント)。



量子力学で有名な「シュレーディンガーの猫」は、箱を開けて中を見るまでは生きているか死んでいるのか分からない。

「猫の生死を示すメーターは、どんな確率でどこに振れるのか?」

小澤氏の数学的な測定理論(完全正値インストルメント)は、外部の観測者とは関係を持たない。それゆえ、彼の論理によれば、すべてを量子力学の枠組みの中で語ることが可能となる。



◎ゆらぎ


ハイゼンベルク以前の古典力学では、「位置はここ」「運動量はこれだけ」と決まった値にしかならなかったが、量子力学では「ゆらぎ」をも考慮に入れるため、その値は一つに決まらない。

小澤氏と研究をともにした長谷川祐司・准教授(ウィーン工科大学)は、中性子のスピンを測る実験をして、測定時の「誤差」と、測定によって生じた「擾乱」とを精度良く調べた。



その結果、「誤差と擾乱の積(かけ算)が、ハイゼンベルクの式が示す下限を下回った」。

つまり、ハイゼンベルクの不確定性原理の式が破れたのだ。

そして生き残ったのが、小澤氏の式。この数学的に突き詰めた式には、ハイゼンベルクが曖昧にしていた「ゆらぎ」が十分に考慮されていた。



「ゆらぎ」とは、測定という介入なしにも存在するものである(状態ゆらぎ)。それに対して「誤差と擾乱」は測定によって生じるものである。

ところが、ハイゼンベルクはそれらを明確な区別なしに用いている。



「ハイゼンベルクには数学的な証明をしようという発想はなかったように思います」

名古屋大学教授の谷村省吾氏は、そう話す。「ハイゼンベルクはとても物理学者的な発想の持ち主で、思考実験を通じて状況証拠を積み重ね、共通する法則に到達しようとしていたのです」。

しかし残念ながら、ハイゼンベルクの式は曖昧すぎた。「数学的な証明もなく、一般的に成り立つ話でもない。誤差と擾乱のハッキリした定義もなく、雰囲気の話だったんです(筒井泉氏)」。

この点、ハイゼンベルクの式自体が揺らいでいたのである。



◎曖昧さ


小澤氏の新たな不等式は、形としてハイゼンベルクの式に新たな2項が加わっただけである。その2項とは「位置の量子ゆらぎ」と「運動量の量子ゆらぎ」。

「だが、この違いは大きい」

小澤氏の式は、誤差と擾乱の両方がゼロになっても成立する。



量子力学において、2つの粒子が奇妙な連携状態になることが許されている。「位置の差と運動量の和は決まっているが、それぞれの値はなんでもいい」という「量子もつれ」の状態である。

2つの粒子が量子もつれになった時、それぞれの位置と運動量の「ゆらぎ」は無限大になる。この誤差も擾乱も生じない状態で、小澤氏の式は無限にゆらいでいるものを正確に測ることを可能にする。



しかしやはり、ハイゼンベルクの式と小澤氏の式の「最大の違い」は、そのアプローチの違いであろう。

小澤氏の式は「すべての測定について成り立つ普遍的な測定理論から、『数学的に』導かれている」。誤差も擾乱もすべて、数式によって定義されている。

「これまで、誤差を小さくするには、ゆらぎを小さくするしかないと考えられていましたが、小澤氏の式は『わざとゆらぎの大きな状態をつくり、誤差と擾乱を小さくするという方策があるということ』を示してくれました」と、谷村氏(前出)は語る。



◎意義


結果的に、ハイゼンベルクの式は「不完全」だった。

しかし、だからと言ってハイゼンベルクの功績が汚されるわけでもなかろう。彼が「測定によって得られる知識と予測の限界」を示してくれなかったら、新しい世界(量子力学)の扉は開かなかったのかもしれないのだから。

と同時に、「小澤氏の不等式もゴールではない」。



もし今後、小澤氏の式が破れるようなことがあっても、やはり彼の功績は揺るがないであろう。

なにせ小澤氏は、神棚の上でホコリをかぶっていたハイゼンベルクの式を、ふたたび「科学のまな板」の上に乗せてくれた。80年以上も神棚(押入れ?)の奥で眠っていたハイゼンベルクの式は、小澤氏の問題提起によって、ようやく動き出す機会を得たのである。



時代が進むほどに、モノの見方はどんどん精緻になっていく。

古典力学ではボールの位置に誤差などないと考えられ、それゆえ未来は予測可能とされてきた。ところが、量子のレベルに目を凝らしてみると、その位置は「不確定」。測定による擾乱もあれば、ただそこにあるだけで揺らいでいたりもする。

未来が精緻になればなるほど、ますます未来は予測不能になっていくのだろう。



◎破れ


小澤氏の見方で面白いのは、誤差や擾乱を少なくするには、わざと「ゆらぎを大きくする」という逆説的な方法も存在することを示したことなのかもしれない。

それはすなわち、ゆらぎを無くすことは不可能でも、ゆらぐにも限界があるということか。

たとえば人間がブレるにせよ、そこには限度があるのかもしれない。ブレない人間ほど、過去に大きくブレた経験があったりもする。



そうした「ゆらぎ」が未来を不確かなものとするわけであるが、それもまたある範囲内でのことなのかもしれない。

ただ、未来が「予測可能」だとした古典力学の世界は、少々傲慢だったように思える。

人間が謙虚であるためには、微細な世界にも注意を払う必要があるのかもしれない。



最後に付け加えておくが、ハイゼンベルクの式が破れたからといって、「不確定性原理」が破れたわけではない。

小澤氏の式は、量子力学の枠組みを揺るがすものではなく、逆にそれを強固にするものである(より数学的に)。



この点やはり、ハイゼンベルクが喝破した世界は破られていない。

「われわれは現在のすべてを知ることはできない」のであるし、「未来は予測できない」のである。

しかし、予測可能か不可能かというブレもまた、お釈迦様の手のひらの上で収まっているのかもしれない…。







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出典:日経サイエンス2012年4月号
「不確定性原理の再出発」
posted by 四代目 at 06:37| Comment(0) | サイエンス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月03日

「本当の自分」はどこにいる? 容易に欺かれる自己(身体錯覚)


「自己」とは、どこにいるのか?

それは本当に「自分の身体の中」に収まっているのだろうか?

それはもしかしたら、「錯覚」なのでは?



「体外離脱」

つまり自分の身体を離れて、自分を外から見ているような感覚には、どのような説明がつくのだろう?

「人間について、これまで想像もつかなかった謎解きが今、始まりつつある」



◎リアル?


スウェーデンの神経科学者「エアソン(Henrik Ehrsson)」の研究室では、「体外離脱の実験」が日常茶飯事のように行われている。

エアソンの目標は、「人間が自分の身体の中にいると感じる『自己意識』の仕組みを解明すること」である。



「私は自分の身体の後方2〜3mに浮いているように感じていた」

被験者の一人は語り始める。

「すると、一本のナイフが自分の身体に向かってくるではないか! 思わず私はそのナイフをよけようとしていた。自分がその肉体から離れているにもかかわらず…」



近くのノートパソコンには、その被験者が瞬間的に恐怖を感じたことを示す鋭い波形が、グラフに描かれていた。

それは、被験者の指に取り付けられていた電極が、反射的に皮膚からドッと出た汗を検知したからだった。

それほど、その感覚は「リアル」だったのだ。



断っておくが、この被験者は魂の進んだスピリチュアルな人物ではない。ごく一般的な人物だ。そんな普通の人物が「体外離脱」というスピリチュアルな体験をしているのは、「サイエンスの力」によるものである。

「エアソンは『錯覚を利用して』、人々の自己意識を探り、拡張し、移動させる」

実験に用いられたのは、一台のビデオカメラとゴーグル、それと2本の棒だけだ(ついでに被験者を脅かしたナイフも)。



◎錯覚


まず、被験者はビデオカメラの映像が眼前に映し出されるゴーグルを装着する。

映像元となるビデオカメラは、被験者の後方に位置しており、被験者の「後ろ姿」を撮影している。つまり、このビデオカメラの位置が、体外離脱した被験者の見る視点となる(被験者の装着したゴーグルには「自分の後ろ姿」が見えている)。



錯覚の仕掛け人たるエアソンは、両方の手に一本ずつ棒を持って、「片手に持った棒で被験者の胸元を軽く突き、それと同じタイミングで、もう片方の手に持った棒をカメラに向かって突く」。

当然、被験者は胸を突かれた棒を感じる。ところが、目の前のゴーグルの映像には「自分の後ろ姿」が見えている。

「あれっ? 自分の後ろ姿を見ている自分に、明らかな感覚があるぞ…」



このチグハグな感覚によって、「自分の本物の身体は、自分が見ている身体の背後に浮かんでいるのだと、鮮明に感じるようになる」。まるで後方に体外離脱してしまったかのように…。

「10秒足らずで、私は自分が実際の身体から離れて、その数メートル後ろに浮かんでいるように感じ始めた(被験者談)」



エアソンが作り出す錯覚は体外離脱だけではない。

彼はこれまでに、「ほかの人との身体の交換、3本目の腕の獲得、人形サイズへの縮小や巨大化」といった錯覚を誘発することに成功している。

「ほかの神経科学者たちは、我々のことを『かなり怪しい』と思っている」とエアソンは心地よげに笑う。







◎不確かな自己意識


「自分の身体を所有しているという感覚」は、われわれの心に深く根付いている。

そのため、この感覚を「改めて考え直そう」などという人は滅多にいない。過去の科学者や哲学者たちも、それは疑う余地のない当然のものだとしてきた。



かの哲学者デカルトは、「この世界で確信できるものがあるとすれば、それは『自分の手が自分の手である』ということだけだ」と言った。

しかし、エアソンが作り出す錯覚は、「視覚と触覚をものの10秒ほど欺くだけで、その確信をいとも簡単に突き崩してしまう」。目の前のラバーバンドを「自分の手」と思わせることなど、朝飯前だ。

エアソンは言う、「自己意識というものは、人間に元から組み込まれていて変化したりしないものだと思われてきた。ところが、それは全く違っていた。『自己意識はあっという間に変化する』」。



かの哲学者デカルトは、「われ思う、ゆえに我あり」と言った。自己という存在を疑ったデカルトは、その疑う自分がいるからこそ、自己は存在するのだと言ったのだ。

でも逆に、「そう思ってしまうからこそ、自己は閉じ込められてしまうのではないか?」

身体の感覚(触覚)だけに身を任せてしまうと、自己がどこにいるのか分からなくなってしまう。エアソンの体外離脱の実験は、そんなことを言っている。



◎身体錯覚


「自分の意識は、どこにあるんだろうか?」

大学生だった頃のエアソンは、そんなことを夢想していた。長く退屈な講義の最中に…。

「もしも自分がその辺に、フワフワと浮いていて、自分の身体を見ることができたら…?」



医学を勉強していたはずのエアソンは、そんな疑問に取り憑かれてか、いつの間にか医師になるのをやめていた。

彼がより強い興味を掻き立てられたのは「身体錯覚」だった。



たとえばアリストテレスは、人差し指と中指を交差させて鼻に触れると、人によっては「鼻が2つあるような感覚(錯覚)を生じる」ことを発見している。

「自分でやってみたら、本当にそうなった」とエアソン。「奇妙でシュールな経験だった…!」。



錯覚というと、一般的なのは「目の錯覚(錯視)」である。目(視覚)はいともアッサリ騙される。「だまし絵」などでも簡単に。その研究も幾多とある。

「でも、身体錯覚の研究は多くないんだ」とエアソン。

エアソンが研究したかったのは、「『身体の所有感覚』がどのくらい容易に歪められるか」ということであった。



◎身体の所有感覚


エアソンが「身体の所有感覚」を見事に歪めてみせたのは2007年。

「被験者に『自分の身体から離脱した』と信じさせることに成功した」

この驚くべき実験は、世界中でニュースになった。エアソンはヘッドフォンやカメラ、作り物の身体の一部を利用して、被験者の身体感覚を欺いてみせたのだ(前述の実験)。



その一年後、エアソンは「被験者に『マネキンの身体』が自分の身体であると信じさせることに成功した」。さらには、「マネキンの身体から元の自分の身体を見つめさせ、元の自分と握手させることにも成功した」。

続いて2011年、エアソンは「被験者が『小さなビーバー人形の中に入り込んだ』と信じさせることに成功した」。

米国立衛生研究所(NIH)の神経学者ハレットは、エアソンの生み出す身体錯覚を実際に体験してみて舌を巻いた。「この錯覚は非常に強烈であり、信じられないほど速やかに生じる」。



自分の身体を「所有している」という感覚は、はたして錯覚だったのか。

この身体は自分のものではなかったのか?

エアソンが奇抜な実験を成功させるたびに、古来より疑われることのなかった「身体の所有感覚」に疑問が突きつけられていく…。



◎胡蝶の夢


中国の荘子(荘周)は、自分が「蝶(ちょう)」になる夢を見ていた。

「夢の中での私は、嬉々として胡蝶になりきっていた。心ゆくばかりにヒラヒラと…」

夢の中で胡蝶となっていた荘子にとって、自分が荘子であることなどは思いもよらぬことだった。ところが、目が覚めるや自分が自分であることにハタと気づかされる。

「ハッと目が覚めると、これはしたり、荘周ではないか…!」



目が覚めてなお荘子(荘周)は、「自分は実は胡蝶であり、荘周だと思っている自分が夢なのか」と混乱する。

「いずれが本当の自分か、自分には分からない…」

そして荘子は、この夢の話をこう締めくくる。

「荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ。しかし、主体としての自分には変わりがない」







この説話にたとえれば、エアソンは被験者たちに「胡蝶の夢」を見せているかのような身体錯覚を引き起こさせる。

そして、「身体の所有感覚」に疑問を生じさせる。「胡蝶が自分か? はたまた自分が夢か?」



自己という主体はもしかしたら、一時的に今の身体に宿っているだけなのか?

だとしたら、「本当の自分」とは…?



◎視覚と触覚


脳の教科書によれば、人間は身体の位置を、皮膚や筋肉からの信号(感覚)によって知覚している。

「脳は休むことなく、これら感覚器官から情報を収集して、自己意識を組み立てている(固有感覚)」

それゆえ、これら感覚器官の「内側」、つまり身体内部に自分はいるのだと感じることになる(身体の所有感覚)。



ところが、この堅固なはずの感覚(身体の所有感覚)を、エアソンはいとも容易(たやす)く欺いてみせた。

視覚の錯覚(錯視)と肉体からの信号(触覚)を混ぜこぜにすることによって、自己がどこにいるのか分からなくしてしまったのだ。

時には自分の後方数メートル、時にはマネキン人形の中、時には小さなビーバー人形の中…、いったい「本当の自分はどこにいるのだ?」。



面白いことに、こうした錯覚に惑わされない人々も存在する。たとえば、ダンサーや音楽家など「視覚に頼らずとも、自分の身体の位置を正確に把握できる人々」だ。

エアソンの考えるところでは、身体錯覚が起こるのは「視覚と触覚が結びついた時」である。

ただ、その2つの感覚を結びつけるものが何であるのかは、いまだに「ミッシングリンク」。エアソンは「多感覚ニューロン」の働きによって生じているとの仮設をもってはいるが…。



◎未来


エアソンの示す「自己所有感覚の錯覚」は、スピリチュアルな人々を怒らせる。

「私の体外離脱は、断じて勘違い(錯覚)などではない!」







その一方で、将来的な希望も含んでいる。

たとえば、「人々がロボットなどの全く異なる身体を制御することを容易にする」。

「この錯覚を利用すれば、ロボットやアバターの緻密な操縦が可能になるはずだ。ロボットを操縦する人は、ゴーグルを用いてロボットの視点からモノを見て、ロボットの手に組み込まれたセンサーとつながったグローブで操縦できる」



その際、「新しい身体のサイズ」は重要ではない。

「外科医は患者の体内で極小のロボットを制御できるだろう。逆に、巨大なロボットに壊れた石油掘削装置を修理させたり、原子力発電所を解体させたりもできるはずだ」

そんな未来を夢想するエアソンの顔には、自然と笑みがこぼれる。



エアソンの予測によれば、人間と機械との間で100ミリ秒以内の信号のやりとりが出来れば、「完全な身体錯覚」が生じることになる。

その時、自分は自分でなくなる。そして、アバターの世界は現実となる。



◎2人の自分


「脳は、さまざまな感覚器官からの情報をいかに統合しているのか?」

エアソンはその仕組みの解明に忙しい。

「たとえばそれは、本質的に統計的なのかもしれない。脳は自分の手を、絶対座標で把握しているのではなく、『ここにある可能性が高い』と判断しているのかもしれない」とエアソンは考える。



その可能性の隙間には、錯覚の入り込む余地がある。

「その場合、脳を欺いて、この身体もあの身体も、とちらも同じくらい自分のものであるようだと思わせることができるかもしれない」とエアソンは微笑む。

もしそれが可能ならば、自己を2分割して「2つの身体」の中に同時に存在させることも夢ではない。自分の身体を所有しているということだけが錯覚ではなく、自己が一つであると感じていることまでが、じつは錯覚なのかもしれないのだから…。



エアソンの考えを聞けば聞くほど、自己というものの存在が危うくなっていく。

はたして「本当の自分」など、存在するのかどうか…。それは自分であり、自分でないのか…。

いったい、今こうして考えている「自分」は、じつは錯覚の世界の住人なのか?



しかし逆に、エアソンは自己の定義を拡大したとも解釈できる。

今までの自己意識は、自分の肉体の中だけに限定的に存在するものとされてきた。それに対してエアソンは、自己意識が自分の身体内だけに限定されるものではないということを、繰り返し示唆している。

それはつまり、自己の解放でもあろう。



もしかしたら、ドラマや小説の世界に感情移入している時、本当の自分は本当にその主人公のところにいるのかもしれない…。

たとえそれが錯覚だとしても、どうしたら錯覚でないと断言できようか(ホッペタでもつねってみようか? ただし、その手はラバーバンドかもしれないが…)。

荘士の胡蝶は、一体どこへ飛んでいく?



「あやふやな自己」

胡蝶の行く末はまだ、誰も知らない…。

「われ思う、ゆえに我なし」

それもまた錯覚か…?







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出典:日経サイエンス2012年4月号
「身体の錯覚を自由に操る科学者」

posted by 四代目 at 03:14| Comment(0) | サイエンス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする