2016年11月17日

現実か? 妄想か?




「自分の能力が、下から25%にはいっていると思う人?」

そう聞かれても、誰も手をあげない。

「じゃあ、平均以上だと思う人は?」

8割がたの人が手をあげる。



これは少し可笑しな話だ。

「8割以上の人が平均以上」ということは統計学上ありえない。



「人はもともと楽観的なんです」

と専門家は言う。

そして、こう付け加える。

「自分のことには楽観的で、自分以外のことには悲観的なんです」



タバコを吸うと肺ガンで死ぬ確率が高くなる、というデータが明示されたとしても、喫煙者の多くは、なぜか「自分だけは死なない」と思い込んでいる。

バイクの死亡事故は自動車の30倍だと聞かされても、なぜか「自分だけは大丈夫」と多くのバイク乗りは思っている。

専門家は言う。

「そう考えるほうが、生存に有利だったのでしょう」







生存のためなら、脳は平気で現実を無視する。

都合が良ければ、無いものでも有ると思い込み、都合が悪ければ、有るものでも無いと思い込む。

たとえば、木に隠れたネコの、尻尾だけが見えているとしよう。すると人間の脳は勝手に、見えないはずの「ネコ」を作りあげてしまう。これは「アモーダル補完」と呼ばれる脳の働きのひとつであり、過去のデータから連想して、自動的に現実をつくりだしてしまうのである。

もちろん、ネコの尻尾が見えたら、おそらくそれはネコだろう。だが、この働きがエスカレートすると、脳の現実は幻想的になっていく。つまり「楽観的」になるのである。







テレビに映る像は、現実ではない。

それは「たくさんの点の集まり」にすぎない。

動いて見えたとしても、それは動いているわけではない。

1秒間に30回くらい、点の色が変化しているだけだ。



言葉も本来は意味をもたない。

ただの音だ。

実際、自分の知らない言語を聞けば、その意味はチンプンカンプンであり、それらが有意に連続しているなどとは到底思えない。きっと、ランダムな音の羅列にしか聞こえないはずである。



ありのままを見れば、あるいは、ありのままを聞けば、そういうことになる。

意味や連続性は、言ってみれば、脳があとから味つけした情報にすぎない。そして、その情報というのも、電気伝達の結果でしかない。

初期仏教の長老がたは、その辺りをよくよく心得ている。







サイエンスでいえば量子力学になる。

量子という存在は「不確定」とされている。空間的な位置を定めれば、時間的な速度に逃げられる。また逆に、時間的にとらえれば、こんどは空間の中に逃げられる。

物理学者たちが好むネコ、「シュレディンガーの猫」は箱を開けるまでそこに存在するとは限らない。たとえ、さっき箱の中に入れたとしても。もし、シッポが見えていたとしてもだ。



じゃあ、現実とは何か?

この問いには、根本的に可笑しなところがある。

とらえられる現実が存在すると、前提しているところである。量子力学者なら、そうは言わないだろう。







かつてギリシャのプラトンは、現実を「洞窟の壁にうつる影」と表現した。洞窟のなかで焚き火をしていると、洞窟の壁には人々の影が写しだされる。現実とは、そんな影のような存在だ、と。これを現代人は「ホログラフィック原理」という。

そういえば夏目漱石『夢十夜』の第8夜に、床屋の椅子にすわる男がでてくる。彼に見える世界は、床屋の鏡のみ。鏡という2次元空間に写る、豆腐屋や芸者しか見えない。

男は言う。

「ちょっと様子が見たい。けれども粟餅屋はけっして鏡の中に出てこない。ただ餅をつく音だけする」







3次元だと思っている世界が、じつは影や鏡のような2次元だったとしたら。これは面白い。多次元のようにどんどん次元を増やしていくよりも、いっそ減らしていこうというのだから。

しかし、階段の塵は竹の影が掃いても動じない。どんな激流も水に映った月を押し流すことはできない。二元論は禅の強く戒めるところだ。



ならば禅僧なら、なんと言う?

両忘(りょうぼう)? 光と影、大と小、中と外などなど、なんでもかんでも2つに分けて考えなさるな、両方とも忘れろ、と。

二元論はどこまで行っても、平面たる二次元からは抜けられない。所詮、同一平面上、お釈迦さまの掌上を出ることはない。



莫妄想(まくもうそう)

そろそろ妄想はおわりにしよう。


















(了)






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2015年09月03日

目的的ではないゴリラと京大 [山極寿一]



「山極(やまぎわ)教授に投票しないで」

京大総長を投票で決める際、そんなビラが学内の掲示板を埋め尽くした。

山極寿一(やまぎわ・じゅいち)氏は日本のゴリラ研究にとって欠くべからざる人物である。もし彼が総長にでもなってしまえば、今後の研究がストップしてしまう。それは「世界の霊長類学にとって損失だ」というわけであった。

しかし研究者らの訴え虚しく、山極氏は2014年秋、京都大学の第26代総長に選出された。






通称、「サル学」。

それは京大が生み出した日本発の学問。その創始者は今西錦司氏。それを伊谷純一郎氏が継承し、山極氏が世界的な学問へと発展させた。

「人間の社会から動物を見るのではなく、動物の社会から人間を見る」

この逆転の発想こそが、京大サル学の肝であるという。創始者・今西氏は「動物の世界にも人間同様の社会がある」と提唱したが、その発想自体、欧米にとっては絶対タブー。人間中心のキリスト教が支配する世界においては許すべからざるものであったという。



「チンパンジーの研究者はチンパンジーに似てくる」らしいが、ゴリラ専門の山極氏は「肩から背中にかけての雰囲気がシルバーバックそのもの」と評される。成熟したオスのゴリラは、その背中が白っぽくなるためシルバーバック(silver back、銀色の背中)と呼ばれている。

「ぼくは研究難民でね、ルワンダからコンゴに移って、いまはガボンですよ」

そう言って山極氏は、ゴリラよろしく豪快に笑う。しかし京大総長になってからは

「自分ではフィールドに行けないから、院生をアフリカに行かせてますよ」






「京大っていうところはね、教えないんですよ。『学問は自ら学ぶもんだ』って昔からそういう伝統がある。最近、ヨーロッパのトップクラスの大学の学長たちと話す機会があったんですが、そういう大学はみんなそうなんです」

京大伝統、「自由の学風」というやつだ。その伝統のおかげか、東大とは異なり、京大には冒険・探検の歴史が深い。

「京大は『探検大学』って言われてきたからね。それは今西さんたちのAACK(京都大学学士山岳会)の影響が大きいよね。何度も大規模な探検隊を出してきたからね」

AACK(京都大学学士山岳会)は、1933〜34年の白頭山遠征にはじまり、1938年の内蒙古探検、1942年、大興安嶺探検などがよく知られている。世界に14座ある8000m峰のうち、日本が初登頂を果たしたのはマナスル。その登頂者、今西寿雄氏は京大山岳部の出身だった。

「それに負けまいとして学問の世界でも未知の領域の探検が行われたんだ。それをやるには自由な発想、目的的ではない『バカな発想』が必要。成果や出世を考えてるとできない。ただおもろいことやろう、誰もやってないことをやろう、と。そういう精神は、常に先頭を走らなければならない東京ではできない。東京にいると、どうしても『目的的』になっちゃうんだよね」

しかし山極氏は、その目的的な東京の生まれである。

「うん。だから京都に来たわけだよ(笑)」






伊谷純一郎著『ゴリラとピグミーの森

この一冊が、山極氏をサル学の世界へと引き込んだ。

「『野生の世界にこそ学ぶべきことがある。人間や文明社会だけが研究の舞台ではない』と、その本から教えられた気がした」

学生時代は自主ゼミをつくってニホンザルを研究した。自分自身がサルになりきり、北は下北半島から南は屋久島までニホンザルを追っかけた。



「ゴリラをやってみないか」

山極氏は、師事していた伊谷氏からそう声をかけられた。

まずは単身、ザイール(現コンゴ民主共和国)に。そしてゴリラ研究の聖地、ルワンダのカソリンケ研究センターに乗り込んだ。

「ゴリラの挨拶を真似てみろ」

それが入所試験だった。

「伊谷さんは単独行を愛した。隊ではなく個人で自然と対峙する。僕もそれが大好きだった。僕はすべてを現地調達するんです。食料から何から。服も現地人と同じ。ジャングルは危険が多く、さすがに一人では入れないので、地元の狩猟採集民、焼畑農耕民、トラッカーと呼びますが、森に詳しい彼らを伴って歩く。テントすら使わなかった時期もあった。トラッカーがあっという間にすばやく周りの木や草をつかって小屋をつくってくれるんです」






サルは登山をするのか?

その質問に山極氏は「しないだろう」と答える。人間は登頂したときに得られる達成感を「予想(予期)」することができるが、サルは自分が頂上に立っている姿を想像できない。

「意図的という意味を定義すると、『自分のやろうとしていることを見ている他の自分』がいるってことです。それが動物にはない。チンパンジーにはちょっとあるらしいけど」

サルが山に登るには、そこに食べ物があるとか仲間がいるとか、何かに追われてそこにしか逃げ場所がないとか、そういった逼迫した理由が必要だという。「そこに山があるから(Because it's there)」というのは、理由として不十分なようだ。



まったく目的的ではない動物は、目標を立てることなどしない。ただ、目の前の現実をそのままに受け入れるのみ。

「森林には何が潜んでいるかわからない。ゾウもいるしバッファローもいる(氏はバッファローに追われ、樹上で半日すごしたことがあるという)。ヘビが怖い。イノシシも危ない。不意に出会うと、こっちもビックリするけど、向こうもビックリする。それが一番怖い。そもそも森では相手の存在なんて忘れてるんですよ。出会い頭にどう対処するか、それだけ」

人間の根源もまた然り。

「人間はもともと森林から出てきた生き物なんだよね。だから、あらかじめ『アイツがこう来たらどうしよう、こっちがこう出たらあっちはどうするんだろう』なんてことを考えて行動するんじゃなくて、いい加減でいい。森から出てきた人間が、いつでも予測して行動できるなんて思ったら大間違い。相手の存在を忘れて、出てきたときにいい加減に対処する。でも、その『いい加減さ』が適切である必要がある。そこが人間の知性の介入するところ」



山極氏のサル学は、「人間とは何か」という哲学的な問いと深く関わっている。

「今西さんや伊谷さんに触れてわかったことは、人間っていうのが一番、未知の領域だということ。ある固定観念のなかでの未踏峰はなくなっているのかもしれないけど、『人間という未踏峰』があるわけです。それにはいろんな登り口がある。それはゴリラかもしれないし、チンパンジーかもしれない」







(了)



出典:岳人 2015年 09 月号 [雑誌]
山極寿一「未知なる頂きを踏む。それがフィールドワークの精神」


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2014年11月13日

バクテリアと話すための言葉



○光るバクテリア



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ホタルのように発光するバクテリア

ビブリオ・フィシェリ(Vibrio fischeri)

彼らはイカの中に住んでいる。



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ハワイヒカリダンゴイカ(Hawaiian Bobtail Squid)は海中で、蛍光灯のように光る。それは体内に棲む細菌、ビブリオ・フィシェリが光るからだ。

昼は砂の中で寝ているこのイカ、夜になると狩りにでる。彼らの狩場は月明かりや星明かりがとどくくらいの浅い海域(深さ数フイート)。海面近くに漂いながら、背中にあるセンサーで、どれくらいの月や星の光が背中に当たっているかを感じながら、その光量とまったく同じ量の光を自らも発する(光るバクテリアであるビブリオ・フィシェリが棲んでいる2つの突起部分には、開閉できるシャッターが付いており、光量を自在に調整できる)。

星月とイカの光がまったく同量である時、イカの下には影ができない。つまり、その下にいる獲物たちは、上にイカが近づいてきたことに気がつけないことになる。まるで「海のステルス爆撃機(the stealth bomber of the ocean)」だ。



光るバクテリア、ビブリオ・フィシェリは、数が足りない時には発光しない。ある一定量を超えなければ光らないのである。

だから、朝になってイカがビブリオ・フィシェリのほとんど(約95%)を吐き出してしまうと、その光は消えてしまう。だが、イカが砂中で眠っている間に、ビブリオ・フィシェリは細胞分裂を繰り返し、日が沈む頃には発光するに十分な量に達することができる。






○化学の言葉



ボニー・バスラー(Bonnie Bassler)は言う。

「ここで興味深いのは、バクテリアが光るということではなく『いつ光るのか』ということです。バクテリアが孤立している時、つまり薄められた培地の中では光りません。増殖して一定の数を超えたときに、すべてのビブリオ・フィシェリがいっせいに光るのです」



しかし、バクテリアという原始的な生物が、どうやって自分が孤立しているのか、それとも集団の中にいるのかを知ることができるのだろう。

ボニーは言う。「彼らが光るとき、お互いに話し合っているのです。化学物質という言葉(a chemical language)を使って」

それぞれの細胞はホルモンのような小さな分子を分泌していて、それが自分の周りのたくさん存在するときに光るのだという。

ボニーは続ける。「近くにどれだけの仲間がいるのかを、細胞外の分子の量で認識し、それが十分であれば発光するスイッチが入るのです。これが彼らの生体発光(bioluminescence)の仕組みで、彼らは化学的な言葉(chemical words)で話し合っているんです」



そのメカニズムを、もう少し詳しく見てみよう。

ボニーはこう説明する。「ビブリオ・フィシェリは細胞内に、言葉となるホルモン分子(hormone molecule)をつくる酵素をもっています。そして細胞表面には、ほかの細胞から発せられたホルモン分子を感知する受容器(a receptor)も持っています。その受容器はホルモン分子と『鍵と鍵穴』のように組み合わさり、ホルモン分子が一定量を超えたときに発光するスイッチが入るのです」



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このようなバクテリア間における情報伝達は、なにもビブリオ・フィシェリに特有のものではなく、バクテリア全般に見られる一般的なコミュニケーション方法だと、ボニーは言う。

「つまり、バクテリアは互いに”おしゃべり”できるのです」

その”おしゃべり”は専門用語で「クオラムセンシング(quorum sensing)」というのだそうだ。

「バクテリアは化学物質で投票をおこない、投票は受容器で計測され、皆がその投票に反応するのです」






○社会的行動



ところでなぜ、ビブリオ・フィシェリは少数のときには発光しないのだろうか。

その理由は、光を「毒」に置き換えてみると理解しやすい。たとえば人間の体内に、毒性のあるバクテリアが侵入したとき、それが少数であるとき我々は何の影響も受けない。我々はとてつもなく巨大で、バクテリアはあまりにも小さいからだ。

ボニーは言う。「たかだか数個のバクテリアが体内に侵入したくらいでは、毒素を分泌しはじめることはありません。あなたは巨大ですから。だからバクテリアは待ちます。分裂して増殖し、例の分子で”おしゃべり”をしながら自分たちの数を数え、ある一定数を超えたことを知ってはじめて、一斉攻撃にうつるのです。毒性が十分に高まっていれば、巨大な宿主を倒すこともできるのです」



一つひとつは弱く小さいバクテリアでも、化学物質という言葉をつかって社会的行動(social behaviors)をすることで、驚くべき力を発揮することができるのだ。

しかし悪さばかりをするわけではない。われわれ人間の体内・体外には、自分の細胞数のおよそ10倍のバクテリアが付着している(1兆個のヒト細胞に対して、10兆個のバクテリア)。遺伝子の量で比較すれば、ヒト遺伝子3万個に対して、その約100倍のバクテリアの遺伝子が存在することになる。

ボニーは言う。「あなたはせいぜい10%か、あるいは1%だけが人間なわけです。あなたは自分をヒトだと思っているでしょうが、90〜99%はバクテリアなんです。バクテリアはただあなたに乗っかっているだけではありません。彼らは信じられないくらい重要で、あなたを生かしているのです。バクテリアは目に見えない鎧で周囲の攻撃をはねのけ、私たちの健康を維持しています。われわれの食物を消化してくれ、ビタミンをつくり、免疫系を教育して悪いバクテリアを排除してくれるのです」



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皮膚の顕微鏡写真をみると、じつに雑多なバクテリアがそこに棲息していることがわかる。バクテリアは通常、何百何千という種類がごちゃ混ぜになって生活しているのである。

「そこで考えたのは、もしバクテリアが単に同類だけを数えていては不十分だろうということです。そこで調べてわかったのは、バクテリアは多言語を話す(multilingual)ということでした。つまりバクテリアは『自分』がいくついるかと同時に『自分以外』がいくついるかも数えられるのです」とボニー。

バクテリアの言語(化学物質)には、細菌のエスペラント語(the bacterial Esperanto)とも言うべき共通言語が存在し、それを用いて種の異なるバクテリア間でもコミュニケーションがはかれるのだという。彼らは顕微鏡で見なければ見えないほど微小な存在でありながら、決して「社会性のない隠者(asocial reclusie organisms)」ではない。むしろ種を問わず活発に”おしゃべり”をする社交家たちなのである。



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○抗生物質



バクテリアの言語を理解したボニーは、それを実用化するアイディアを思いついた。

「もしバクテリアが互いに話したり聞いたりできなくしたらどうなるのか? 新しい種類の抗生物質(antibiotics)になるのではないか?」



現在の一般的な抗生物質は、バクテリア(細菌)を殺すことを主にしている。その細胞膜を攻撃するかDNAを複製できなくするか。しかし、その手法は今、最悪の事態を引き起こしてしまっている。

ボニーは言う。「伝統的な抗生剤はバクテリアを殺しつづけた結果、恐ろしく強い耐性菌だけが生き残ってしまいました。私たちは現在、世界規模の感染症(infection diseases)の問題に直面しています。われわれの抗生物質が底をついてきているのです」



ボニーが考えたのは、バクテリアを殺すことではなく、そのコミュニケーションを邪魔すること。そして、自分たちの数をわからなくして、毒性を発動させるタイミングを与えないことだった。

「標的は種族間のコミュニケーションです。実際の分子に似ていて、少し違ったものをつくります。この偽の物質はバクテリアの受容器(receptor)に結合して、本物の分子の認識を妨害するんです」とボニー。

先に、バクテリア間の”おしゃべり”を専門的には「クオラムセンシング(quorum sensing)」ということを述べたが、ボニーのつくったのは抗生物質ではなく「抗クオラムセンシング剤」と呼べるものであった。

ボニーは言う。「多剤耐性の病原性細菌にかかった動物を、抗生物質と同時に『抗クオラムセンシング剤(anti-quorum sensing molecules)』で治療すると、実際のところ動物は生き残るのです」



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○「抗(anti-)」から「向(pro-)」へ



「バクテリアは何十億年も前から地球にいますが、人間はまだ数十万年です。地球上の行動ルールはバクテリアが決めたものです。もし我々がバクテリアからその原理と法則を発見することができれば、ヒトの病気にも応用できるのです。研究ははじまったばかりです。すべてのアイディアは、原始的な生物のつくったシンプルなシステムの中にあると思います」

ボニーは続ける。

「私たちは善良で素晴らしいバクテリアのために『向クオラムセンシング分子(pro-quorum sensing molecules)』をつくっています。思い出してください、あなた自身の10倍のバクテリアがあなたに付着していることを。あなたの健康を維持するために。私たちがやろうとしていることは、私たちと共生しているバクテリアとさらに会話して、私たちがして欲しいことを彼らにやってもらうことなのです」




















(了)






出展:TED talks
ボニー・バスラー(Bonnie Bassler)
「細菌はどうやってコミュニケーションするのか(How bacteria “talk”)」



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2013年10月09日

音を奏でる数、「素数」。いまだ残る美しき謎



「数学者と呼ばれる人たちは、毎日いったい何をしているのか?」

そんな質問をよく受けるという「マーカス・デュ・ソートイ」教授。彼はオックスフォード大学(イギリス)で働く数学者の一人だ。



ソートイ教授いわく、「たとえば、物理学者や化学者であればイメージはしやすいだろう。化学者は薬品を混ぜて爆発させ、物理学者はモノをぶつけて壊している。では数学者は?

 普通の人はこう考えているだろう。数学者とはきっと小数点以下何十ケタまでの割り算をこなしているのだろうが、でもそのうち、コンピューターに仕事を奪われてしまうのではないか、と。

 でも、そう考えるのは学校での数学の教え方がまずいからだ。それはたとえば楽器を教えるときに、本当に素晴らしい音楽を聴かせることなく、ひたすら音階やアルペジオだけを練習させる教え方だ」



数学者とは何か?

「その質問に私はいつも、数学者とは『物事のパターンを探す人だ』と答えている。数学はパターンや法則を見つける科学である。つまり数学とは『秘められた法則を探す科学』だ。

 これは音楽がただの雑音と違い、ある規則やパターンによって演奏されることとよく似ている」



今回の特別講義において、ソートイ教授が紐解くのは「素数」に秘められた謎。

素数とは、小さい方から「2、3、5、7、11、13…」と続く数で、1と自分自身でしか割り切れない数のこと。

たとえば、「105」という数は「3」と「5」と「7」で割ることができる(105 = 3 × 5 × 7)。だが、3と5と7はそれ以上割ることができない。つまり素数だ。

「とてもシンプルな数字でありながら、数学界最大の難問といわれる素数の問題。これらの数は『数の原子』とも呼ばれ、すべての数学の基礎となるものです。でも、この素数の正体はいまだ多くの謎に包まれているのです」とソートイ教授は言う。






■謎



数学者が「謎」という言葉と使うとき、それはそこに法則性やパターンを見つけられない時だ。最もシンプルで、すべての基礎となっていながら、未だパターンが証明されていないという素数。

具体的には「2、3、5、7、11、13、17、19…」と続く素数だが、「さあ、次の素数は?」と問われたときに、それを答え得る公式がまだ発見されていない。

小さい数ならば、その数よりも小さな数で順に割っていけば、その数が素数であるかどうかを確かめることができる。だが、1,000万ケタもの膨大な数となるとどうか?



「世間には1,000万ケタ以上の素数を発見すれば10万ドル(約1,000万円)の賞金が与えられるコンペがあって、見事、その賞金を手にした人もいる」とソートイ教授は言う。

「最初に10億ケタの素数を見つけたひとに、20万ドル(約2,000万円)の賞金を与えるという競争もある。インターネット上にはGIMPという素数探索ソフトウェアがあって、ダウンロードすればパソコンが勝手に計算を進めてくれる。私のパソコンにも入っている。だが、このやり方ではコンピューターの電気代のほうがきっと高くつく(笑)」

素数を探す公式が存在しないため、その探索はおのずと人海戦術とならざるを得ない。その仕事をコンピューターに任せてすら、新たな素数の発見は容易ではないと教授は言うのであった。










■パターン



「パターンを探す」という数学者によって、これまでさまざまな数の法則が明らかになってきた。

たとえば「1、3、6、10、15、21、28」と来たら、次は?

そう、「36」。



これは「三角数」と呼ばれるパターンで、それぞれの数に2、3、4、5と順に足していくことで次の数が求められる。

三角数と呼ばれる所以は絵に描くと一目瞭然。それぞれの数は、石などで正三角形をつくるのに必要な数であり、底辺に一列ずつ石を増やしていくと次の数になる。もし100番目の三角数を知りたかったら、すでに発見されている公式を使えばいい。この数にもう謎はない。



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では「1、1、2、3、5、8、13、21」と来たら、次は?

そう、「34」。

これは小説『ダ・ヴィンチ・コード』でも広く知られるようになった数列で、「フィボナッチ数列」と呼ばれるものである。次の数は、直前の数字を足し合わせることで求めることができる(34 = 13 + 21)。








このフィボナッチ数列は、身の回りの自然界の至るところに見い出すことができる。

ソートイ教授は言う。「たとえば、花ビラの数を数えてみるとフィボナッチ数になっている。ひとつの花の上にもう一つが重なっている花の場合は、数は倍だ。もしフィボナッチ数ではない花を見つけたら、きっと花ビラが落ちてしまったに違いない。数学者ならそう考える(笑)」

その公式はすでにある。この式を「なかなか素敵な式だ」とソートイ教授が言うのは、そこに「黄金数」と呼ばれる、芸術界にもたびたび登場する不思議な数字が関係しているからだ。



ついでに、もう一つ。

「2、9、10、11、13、19」、この次は?



「数学科の学生や教授も参加してくれて構わない」、ソートイ教授がそう呼びかけても、誰も答えられない。

「…静かだね。三角数やフィボナッチ数は知っていても、これは分からないかな? 数学科の教授たちはどうですか? 答えてもいいんですよ」



「正解は26。

 もし当たった人がいたら、今週末の宝クジも必ず買うべきだ。そう、これは宝クジの当選番号だ(笑)

 すべてのことに規則があるわけじゃない。じつはこうしたランダムな数列の研究も進められているが、残念ながら私はまだこの数列を見破る式は持ちあわせていない。もしあったら、ここにはいないだろう。南の島で暮らしているはずだ(笑)」










■最大の挑戦



素数の謎は、三角数やフィボナッチ数よりもむしろ「宝クジのほうに近い」とソートイ教授は言う。

「素数の数列(2、3、5、7、9、11、13、17、19、21、23…)では、23のあとは少し間があいて29がくる。まったく不規則で、次がいつ来るか予測できない。23のあと、だいぶあってから続けざまに2回くる」



「数の原子」といわれる素数は、すべての数字をつくりだす。

ならば、すべての物質をつくりだす元となる元素のように「元素周期表」なる一覧があってもよいものだ。だが、それがない。

ソートイ教授は言う。「元素に法則があるように、素数にも何らかのパターンがあるのだろうか? しかし、実際にそれを探ろうとすると、まったく何も見つからないことに君は驚くだろう。素数を求めるための万能な式はいまだに発見されていない」



パターンを探すのが数学者たる使命。

しかれども、素数にばかりはそれが見い出せない。数学者と素数の格闘苦闘。

「だからこそ私たち数学者にとって、素数は『最大の挑戦を突きつけているもの』なのだ」とソートイ教授。






■素数ゼミ



素数を最初に発見したのは誰か?

「正解は、この小さな虫だ。どんな数学者よりもずっと昔に、彼らは素数を見つけていた」

ソートイ教授が指差すのは「17年ゼミ」という昆虫。

「彼らは、とんでもなくおかしな生態をもっている。北アメリカに生息するこの種のセミは『17年のライフサイクル』をもっている。17年間ずっと土の中で過ごし、17年目になると突然いっせいに地上へと現れるんだ」



彼らのライフサイクルの基本となっている「17」という数は、素数である。

「なによりも私が興味をそそられるのは『17』という数。このセミたちは、素数を利用することが自分たちの生存競争にとって極めて効果的であることを知っていたんだ」とソートイ教授は言う。

というのも、北アメリカには13年周期のセミもいる。だが、12や14、16など素数以外の周期をもつセミは存在しない。



セミと素数の関係とは?

ソートイ教授は言う。「はっきり分かってるわけではないが、きっとこういうことだと考えられている。森の中には『セミの天敵』がいて、それらも周期的にあらわれていた。その時、素数の周期で出現したセミは、そうでない周期で出てきたセミと比べ、天敵と遭遇する確率が低かったのではないか、と」

セミと天敵が鉢合わせするのは、その周期が重なり合ったとき。ならば割れる数の少ない素数の周期のほうが、その確率は低くなる。

もし天敵が6年周期で、セミが9年だったら、その最小公倍数である18年ごとにセミは危機にさらされる。ではセミの周期がより短い7年だったら? その最小公倍数は42となり、周期が短くなったにも関わらず、セミが天敵と出会う確率は半分以下に激減する。



「このように、素数の周期をもったセミのほうが天敵を避けやすく、進化の過程で生き残った可能性がある」とソートイ教授は言う。

「北アメリカの森では、セミが17年の周期を見い出すまでにちょっとした競争があったのではないだろうか? 7年のセミが現れ、でもやがて天敵もそれに対応して、するとセミがもう少し頑張って『次の素数を見つける』というふうにだ」










■無限



”人間として”はじめて素数を発見したのは、古代ギリシャ人だと考えられている。

その中でも、素数について大きな発見をしたのは「ユークリッド」。彼は「素数が無限に存在すること」を証明してみせた。



「でも、どうやって? 人間のような”はなない存在”が、どうやったら”無限”なんてものを証明できるのだろうか?」

ユークリッドは、あえて素数を「有限」と仮定することで、それが不可能であることを証明してみせた。



たとえば、素数が2から43までしか存在しないと仮定すると、それら有限な素数だけで、理論上すべての数をつくれなければならない。

「でもユークリッドは、これではいつも素数が足りなくなることを証明してみせたんだ。彼はまず、すべての素数を掛けあわせたうえで、『最後に1を足した』。まさに天才的な発想だ」とソートイ教授。

1を足して新たにできた数字は、有限な素数のリストでは決して割り切れない。リストにあるどの素数を使っても”あまり”が出てしまう。つまり、新たにできた数もまた素数だった。

「じゃあ、これを新しく素数のリストに足せばいいんだ、と書き加えたとしても、ユークリッドはまた『同じ手』を使って、また全部を掛け算して最後に1を足す。何回やろうとも、ユークリッドはそのたびに新しい素数をつくりだし、素数のリストが無限にできることを明らかにしたわけだ」



ならば、その「最後に1を足す」という方法で、新しい素数を次々と見つけることができるのではないか? 1,000万ケタだろうが10億ケタだろうが。

「でも、あいにくそうはならない」とソートイ教授。素数はもっと気まぐれだった。

「たとえば、2から13までの素数を掛け合わせて、最後に1を足しても素数にはならない(30031 = 59 × 509)。まったく手に追えない。

 もし、このやり方を応用して素数を突き止めることができたなら、君の名前は歴史に残るだろう。まだ誰も成功していないからだ。ユークリッドが証明して以来、素数が『無限に続くこと』は知られるようになった。ただ、素数がいつ現れるのかは全く見当がつかなかった」






■ミステリー



先にも記した、素数探しのプロジェクトGIMP(Great Internet Mersenne Prime Search)というパソコンのソフトウェア。

この計算に使われた式(メルセンヌ数)を最初に発見したのは、メルセンヌというフランスの数学者。

ソートイ教授は言う。「計算方法は、まず2の累乗をどんどん求めていく。この場合、43,112,609乗。ここから『1を引く』と突然、素数に変わった。これが2008年に発見された、初めて1,000万ケタを超えた素数だった」



そしてつい最近(2013)、1,700万ケタを超える大きな素数が発見された。

ソートイ教授「もし、今からこの素数を一ケタずつ読み上げたら、私たちは何ヶ月もこのままここにいることになる。だから、それは諦めよう(笑)」



三角数であれフィボナッチ数であれ、すでに公式が知られたものであれば、それを利用して10億ケタの数を探すことはできる。

「しかし、素数に関しては完全なミステリーだ。私たちは素数について、まだあまりにも無知なんだ」とソートイ教授は言う。










■ガウス少年



”物事があまりに複雑になりすぎた時は、そもそも正しい質問だったのか問い直すべきだ”

これは素数の専門家、エンリコ・ボンビエリの言葉。彼の言う通り、一時期、素数の問題はあまりにも複雑になりすぎていた。



そんな蒙昧のなか、「新たな問い」は15歳の少年によって投げかけられた。

その天才の名は「ガウス」。15歳の誕生日にプレゼントされた「対数の本」が、素数の世界に新たな幕を開くことになる。

ソートイ教授いわく、対数の本は「数学者なら誰もが喜ぶ誕生日プレゼント(笑)」。その本の末尾には「素数の表」が付いていた。

「対数を理解したガウスは、次に素数に取り憑かれたんだ」



「この数の秘密は何なのだろう?」

聡明なるガウス少年をしても、素数の出現に一定のパターンは見い出せなかった。

そこでガウス少年は、「素数をどうすれば求められるか」というそもそもの質問を疑い、新たに「素数はいくつあるのか」という問題に取り組み始めた。



それは、まったく馬鹿げた試みだった。

だって、すでにユークリッドは「素数は無限にある」と証明していたのだから。それを今さら「いくつあるか?」はないものだ。

そうした頭の良いオトナの数学者たちに、ガウス少年はこう反論した。

「僕が知りたいのは、たとえば1から10までの間に素数はいくつ存在するか、ということなんだ」



1から10までの間、素数は4つ(2、3、5、7)。

1から100までであれば、その数は25個。

1から1,000までなら、168個。

さらに先まで数えていったガウス少年は、それをグラフに書き落とした。それは「ガウスの素数階段」と呼ばれる、素数の個数を数えたグラフだった。たとえば100未満には25段あって、101が素数なので、ここで階段は一段あがる。



そのグラフを、ソートイ教授はこう説明する。

「ここでガウスは、これまで『一つ一つの段差がどこにあるのか』とこだわり過ぎていたと考えた。それよりも、この階段が『どのように増えていくのか?』、一步下がって大まかな傾向がないかを見てみることにした。そうすることで、ガウスの前に『秘密のパターン』が浮かびはじめたんだ」



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■整っていく階段



素数がどんどん大きくなるにつれて、パターンが見えてきた。

1〜1,000までに168個の素数があるということは、およそ「6個に1個」の割合で素数が現れるということ。

1万までなら、およそ「8個に1個」。10万までは、およそ「10個に一個」が素数。



10倍ずつの階段を上るにつれ、素数の現れる確率は下がっていった。

より正確に記すなら

1,000まで「6.0個に一個」
10,000まで「8.1個に一個」
100,000まで「10.4個に一個」
1,000,000まで「12.7個に一個」

見えてきたパターンは、確率が低下する割合だった。

8.1から10.4への差は「2.3」
10.4から12.7への差も「2.3」

つまり、階段の「段差の高さ」は奇妙にも整っていたのである。



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ソートイ教授は言う。「多少の誤差はあるが、本質的にこのパターンが続いていく。一見無秩序に見える素数のパターンが、このように浮き立って見えてきたというわけだ」

木を見ず、森を見る。素数を細かく見るのをやめたガウスは、その「大まかなパターン」に気がついたのだった。

「ガウスが素数の個数についての大まかなパターンを発見したとき、まだ15歳の少年だったというのは本当に驚きだ!」










■リーマンの登場



だが、揺るぎない正確さを好む数学者は、ガウスが見つけた大まかなパターンを、より正確な式にしようと考えた。

それに挑んだのは、ガウスの弟子「リーマン」。

かの有名な「リーマン予想」という、驚くべき発見はここに発する。








それは数学における最大の難題。複素数や虚数、解析関数やゼータ関数など、難解な要素が駆使して編み出されている。

それを、ソートイ教授は「音楽」にたとえて、わかりやすく説明しようと試みる。

「リーマンがやったのは、『素数に秘められた音楽』に耳を澄ますことだった」



理解の前知識として、まずは音のことを少し知る必要がる。

数学の基礎単位が素数だとすれば、音楽のそれは「音叉の音だ」とフランスの数学者・フーリエは言った。

音叉の出す音は、音のなかでも最も純粋なものであり、その波形は「正確な正弦波(サイン・カーブ)」を描く。








一方、バイオリンという楽器の音の描くカーブは「ギザギザの波」。それは、その音がたくさんの音(正弦波)が重なり合ってできているからだ。

バイオリンの出す正弦波は、バイオリンの弦の長さでそれが決まる。これが基本振動となり、さらにそこに「倍音」と呼ばれるいくつもの音の波が重なり合う。

たとえば、コンピューターで音叉の純粋な音に、一つずつ倍音の波を加えていくと、それは階段のように形を変え、新たな倍音が加わるたびにその段差は細かく数を増やしていく。



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ソートイ教授は言う。

「この考え方を頭に入れれば、リーマンの功績が理解できる。つまり、素数階段を音楽のように理解すればいいんだ」

ガウスがはじめにつくった「素数階段」は、いわば純粋な「音叉の音(基本振動)」のようなもの。そこにリーマンは、ゼータ関数や複素数といった、いわば倍音のようなものを重ねながら、ガウスのグラフをより正確に細かく修正していった。










■倍音の波



「これからそのリーマンの発見をお見せしよう。もし、無人島になにか一つ持っていけるとしたら、私はリーマンの数式を選ぶ」とソートイ教授は言う。

ガウスが対数を使って求めた素数階段のグラフは、大まかには合っているが正確ではない。そこにリーマンの倍音の波が重なることで、それは正確さを増していく。



ソートイ教授は言う。「さながら、バイオリンの音を構成するそれぞれの倍音を足すことで、本来のバイオリンの音が再現されていくように、グラフは押されたり引っ張られたりしながら正確な素数階段に近づいく」

ちなみに、バイオリンの音色をコンピューターで再現する際も、同じような方法が採られる。基本振動である音叉の音にいくつもの倍音を重ねて再生することで、バイオリンの音に聞こえるよう調整するのである。



100個の倍音を重ねたとき、リーマンのグラフにもガウスの素数階段が再現されていく。

ソートイ教授は言う。「100個目の波まで重ねれば、たとえば『23と29の間に素数がない』ということも判別できる。これはガウスのグラフでは予想できなかったことだ」



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■音量



リーマンが突き止めたのは、さらに驚くべきことだった。

森の木々を注意深く調べることで、ある隠されたパターンをその森の奥深くで見つけたのだ。



「たとえば、君たちがCDプレーヤーで音楽を聞くとき、その『音量』も大切だ」とソートイ教授は言う。

「そこでリーマンは、波の振動数と音量を別のグラフにまとめた。すると驚くことに、振動数はそれぞれ違うものの、波の音量はどれもまったく同じだった。すべての音が魔法のように一直線上に並んでいたんだ!」

てんでバラバラでも不思議でなかった、それぞれの音量。ところが、それらは完璧に同じだったのだ。それは偶然の一致には思えなかった。この直線はのちに、「リーマンの臨界線」と呼ばれるようになる。



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「リーマンが最初の10個の波で試したら、このように整然と並んだので、彼はすべての波がこの臨界線上に並ぶはずだと予想を立てた」とソートイ教授は言う。

それが「リーマン予想(Riemann Hypothesis)」。

「もし、この線から外れる音があるとすれば、その音は他の音に比べてずいぶん大きな音で鳴ることになる。オーケストラを聴いていると突然チューバが入ってきて、ほかの演奏を台無しにしてしまうようなものだ」



果たして、素数というオーケストラは、みな同じ音量で奏でられているのか?

ならばリーマン予想は正しいということになる。

一方、とんでもなく大音量のチューバがあるとしたら、リーマン予想は破れることになる。だが今のところ、そのチューバを見つけたものはまだ誰もいない。というのは、リーマン予想は未だに証明されていないのである。



ソートイ教授は言う。

「もしリーマン予想が正しくないとすると、このように外れた音が存在するはずだ。

 つまり、すべての音が同じ音で演奏されるというこのリーマン予想は、すべての音が平等で偏りがないことを示しているんだ」






■自然が与えてくれた数字



神がサイコロを振るかのように、ランダムに出現する素数。

しかしリーマン予想に従えば、そのサイコロはある枠の中から決して出ることはない。

ランダムの中に、ある種の平等なパターンが存在するとリーマンは予想したのである。



ソートイ教授は、素数を部屋のなかの空気にもたとえる。

「空気中の分子は、その一つ一つがどこにあるのか正確に知ることはできない。でも、どこか部屋の片隅に行ったら突然酸素がなくなり窒息するなんてことは起こらない。ランダムながら分子はどこでも平等に分配されている」

空気の、ある一つの分子がどこにあるかは、さして重要な問題ではない。それがどの場所にも行き渡っていることの方がより大切である。

「数学者にとって素数について知る必要があるのも、じつはそういうことだ」とソートイ教授は言う。「すべてを知る必要はない。むしろ、その配置についての真実が知りたいのだ」



素数はいわば、自然が与えてくれた数字。

素数の森があることは一目瞭然なのだが、その一本一本の木々がどこに生えているかは、いまだ何のパターンも見い出せていない。

リーマン予想を証明できた数学者には、アメリカのクレイ数学研究所から100万ドル(1億円)の賞金が与えられることになっている。











■暗号



逆に、素数のまだ明かされていないその不規則さを、人類はすでに利用している。

インターネット上で安全性を確保する「暗号」がそれである。



たとえば、9999911という数字。この数は、ある2つの素数の掛け算の上に成り立っている。そして、暗号を解くカギは、いわばその2つの素数。

「君がクレジットカードを使ってオンラインで買い物をしたいとする。当然、カード番号の暗号化が必要だ。するとお店はこうした番号を送ってくる。実際はもっと大きな数だが、この数とカード番号を使った暗号がつくられ、お店とやり取りをする」とソートイ教授は言う。



もし、その暗号の数字を簡単に素数に分解できる公式があるとすれば、暗号化された数字はあっさりと見破られてしまう。ところが素数にそうした式はまだ発見されていない。

ゆえに、素数が用いられた暗号を解くには、途方もない時間と労力が必要とされることになる。これがインターネット上の暗号が安全だと考えられる理由である。

ソートイ教授は言う。「とにかく、インターネット上の暗号は、まだ素数を求める式が解明されていないことが前提になっている」








ところで、9999911という数は「307」と「32573」という2つの素数によって導き出される。

ちなみに、この程度の小さな数であれば、それを求めるプログラムがインターネット上や、スマホのアプリにも見つけることができる。






■生きた学問



数学者に対する最大の挑戦、「素数」。

「化学物質を分子や原子に分けることはできても、数字を素数に分解する簡単な方法はまだ存在しない」とソートイ教授は言う。



それでもいずれ、リーマン予想でさえ証明される日が来るのだろう。

「その成果そのものよりも、そこに至る進歩そのものが私たちの大きな財産になるだろう」とソートイ教授は確信する。

「私にとって、数学がまさに『生きた学問』であるのは、こうした問題のおかげだ。リーマン予想や素数を追い求める挑戦こそ、私にとって数学の醍醐味だと感じている」



余談ではあるが、ソートイ教授が引っ越しをしたとき、電話番号を変えることになった。

「そこで電話会社に新しい番号が欲しいと伝えたんだ。すると、担当の女性がある番号を割り当ててくれた。だが、その番号は素数ではなかった。私はその数が覚えづらいとか何とか言って、ほかの番号に変えてもらうように頼んだんだ」

ロンドンの電話番号は8ケタ。数字でいえば1,000万。その新しい電話番号が素数である確率は、ガウスの素数階段によれば「15個に一個」。つまり、15回、番号を変えてもらえば素数に当たる可能性があった。



だが、次の番号もあいにく素数ではなかった。

「それを何度か繰り返すと、ついに彼女を怒らせてしまい、私は謝って、素直に次の番号を受け取ることにした。

 でも、その番号は偶数だった。

 まったく最低だ…」













(了)






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「神の数式」を求めて。ヒッグス粒子に至るまで

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出典:オックスフォード白熱教室
第1回 「素数の音楽を聴け」


posted by 四代目 at 08:03| Comment(1) | サイエンス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月30日

「神の数式」を求めて。ヒッグス粒子に至るまで



この世にもし創造主がいるとしたなら、一体どんな「設計図」に基いて宇宙を作り上げたのか?

この世に起こり得るあらゆる現象を寸分の狂いもなく、しかも「たった一つの数式」で説明することができるなら、それこそが創造主の設計図、つまり「神の数式」といえるのではないか?



そんな野望に取り憑かれた物理学者たち。

その一人、ファビオラ・ジアノッティは言う。「すべての物理学者は、いわゆる『万物の理論』を見つけることを夢見ています。自然界のありとあらゆるもの、素粒子の世界から大宇宙までを説明できる数式です」



「この世のすべての出来事は『数式で書けるに違いない』と信じて疑わない、ちょっと変わった人たち」

それが物理学者、なかでも素粒子物理学。彼らの頭のなかは、とにかく数式で一杯なのだという。



その金字塔ともいえる石碑が、CERN(ヨーロッパ原子核研究機構)の裏庭に立つ。

そこに刻まれた数式こそが、彼らのいう「神の数式」。それに最も近いと考えられる最先端の数式である。

それは、ここ100年にわたる天才たちの苦悩の結晶であった。



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■神の数式



その一行目、ここにはこの世を作り上げている物質の最小単位、つまり素粒子がどんな性質をもっているかが表されている(たった一行で!)。

その素粒子は4種から成る。原子の中をクルクル回る「電子」、中心の原子核を作り上げている「クォーク(2種)」、その原子核から時おり飛び出してくる「ニュートリノ」。



これら4種の素粒子すべての挙動は、「3つの力」によりほぼ説明される。

電子を原子核に引き寄せている「電磁気力」、2種類のクォークをまとめて原子核を作り上げている「強い核力」、ニュートリノを原子核から飛び出させる力「弱い核力」。

これら3つの力を説明する数式が、それぞれ一行ずつ。計3行。

最後の2行は近年になってようやく発見された「ヒッグス粒子」を説明する数式。



「神の数式」と呼ばれるものはなんと、それらたったの6行に集約されている。それが、CERN(ヨーロッパ原子核研究機構)の裏庭に立つ石碑に刻まれた数式である。

この数式に従えば、夜空にオーロラが輝く理由や台風の動きから、この世のすべてが説明できるとされている。



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しかし、神はあまりにも完璧すぎた。

完璧すぎて、尖った先端を下にした鉛筆すら決して倒れなくなってしまった。人間がどれだけ真っ直ぐ、垂直に立てようとしても必ず倒れてしまうというのに…。

それが、神を求めた物理学者たちの突き当たった壁であった。



尖った鉛筆を立てることが出来ないという「当たり前」の現実は、やれば子供にでもすぐに分かる。

その簡単なことが、物理学の天才たちを100年間、悩ませることになる。



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■美しさ



神の数式探しの最初の舞台となったのは、1920年代のケンブリッジ(イギリス)。

そこに暮らしていた若き天才物理学者「ポール・ディラック」。彼は30歳の若さで、ケンブリッジ大学で最も権威あるルーカス教授職に就くことになる大天才(この職に就いた人物は、あのニュートンや車椅子の天才ホーキング博士など)。








当時、ディラックが興味を抱いたのは、4種類の素粒子のうちで唯一発見されていた「電子」。すでにシュレディンガー方程式というものがその性質を説明していたが、ディラックはそれに不満であった。

なぜなら、その数式は「美しくなかった」。

彼の座右の銘はこうだ。「Physical law should have mathematical beauty(物理法則は数学的に美しくなければならない)」



美しさ?

それほど曖昧な概念もない。蓼食う虫も好き好き。何を美しいと感じるかは、人の勝手ではないのか?



いや違う。物理学という学問における「美しさ」はハッキリと定義されている。それは「対称性(symmetry)」をもつか否か。

たとえば、回転させても変化しない数式を「回転対称性がある」といい、物理学者はそれを美しいと感じる。

また、彼らは「シマ模様」も大好きだ。なぜなら、座標軸を平行にずらしてもその数式は変化しない。その美しさは「並進対称性がある」と呼ばれる。



「見る人の視点を変えても、数式が変わらないこと」

それが物理学者の愛する、対称性という美しさ。

「対称性とは、見る人の視点が変わっても元々の性質や形が変わらないということです。正方形は視点を90°回転してもまったく同じに見えますよね。物理の数式も、見ている人の視点が変わったとしても変化しないのです(スティーブン・ワインバーグ)」

つねに変わらない。何ものにも左右されない。それこそが「神の視点」であった。






■ディラック方程式



ではなぜ、ディラックは電子を説明した「シュレディンガー方程式」を美しくないと判断したのか?

それはその式に、時間を表す「t」が1つしかないのに、空間を表す「x」は2つあったからである。つまり、時間と空間が釣り合っていなかった。

アインシュタインの相対性理論によれば、時間と空間は本質的には同じものである(時間 = 空間)。それは「ローレンツ対称性」と呼ばれる美しさであるが、シュレディンガー方程式にはそれがなかった。



「見る立場が変わると変化してしまう数式は、神の数式として相応しくない」

ディラックの目指したのは「すべての対称性をもった美しい数式」。回転させても、平行にずらしても、時間と空間を変えても決して形を変えない数式であった。



神の数式を求め3ヶ月間、書斎にこもりっきりになったディラック。

外部との接触は一切断ち切り、何度もパニックに陥りながら、ついに1928年、論文『電子の量子論』を書き上げる。

それを読んだ物理学者ミチオ・カクは言う。「ディラック方程式を初めて見たとき、私は涙がこぼれました。じつに美しいのです。多くの物理学者はディラック方程式を見ると涙を流します。電子の複雑で奇妙な性質が、対称性のおかげで一つの数式にヒューッとまとまっているのですから」



かつてシュレディンガー方程式では、なぜ電子は地球のように自転し、さらに磁石のように両極があるのかを説明しきれていなかった。それが、この式の美しさを欠いていた点だった。

それに対して、美しさにとことんこだわったディラック方程式は、それら電子の謎めいた性質をすべて正確に説明していた。



さらに、その美しさは驚くほど完璧で、この数式はその後に見つかる素粒子(クォーク2種とニュートリノ)までをも先どって説明していた。

ゆえに、CERN(ヨーロッパ原子核研究機構)の裏庭の石碑には、今もこの数式が第一行目に記されているのである。

ここに初めて、神の数式にふさわしい完璧な美の世界が姿を現しはじめた。



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■無限大(infinite)



さて、次なる課題は素粒子を結び付けたり動かしたりする「3つの力」を説明する数式。

そのうちの一つ、電子を原子核に引き寄せる力「電磁気力」。その解明への扉はロバート・オッペンハイマーによって開かれた。

「オッペンハイマーは本物の天才でした(シルバン・シュウェーバー)」








オッペンハイマーもまた「美しさ」、つまり対称性を数式に取り込むことを目指した。そして目を付けたのが「ゲージ対称性」。回転対称性と似た、より難解な対称性である。

そして編み出されたオッペンハイマーの数式には、回転対称性・並進対称性・ローレン対称性というディラック方程式が満たしていた美しさに加え、さらにゲージ対称性という新たな美しさをも併せ持った完璧なものだった(論文『場と物質の相互作用の理論について(1930)』)。



ところがどっこい。

「いろいろな計算を行ってみると、無限大(infinite)というまったく意味がわからない数値が出てきたのです(ピエール・ラモン)」

オッペンハイマーがその数式で示した世界は、電子の放つ光子という光の粒が電子と原子核を結びつけており、電磁気力を伝えるのもまたそうした粒のような存在だという、じつに興味深いものだった。

しかし、実際に数式を使って計算してみると、電子のエネルギーは無限大(infinite)という数値になってしまう。それは「あらゆる物質が存在してはならない」という奇っ怪なことを意味していた。



なぜ、無限大という意味不明の数値ばかりが出てくるのか?

数式が間違っているのか?

オッペンハイマーは血眼になって、その原因究明を仲間の物理学者たちとともに躍起になった。しかし、計算を何度やり直しても、無限大という答えから逃れる術はないように思われた。



そんな時、ドイツがポーランドに侵攻(1939年9月)。

第二次世界大戦がはじまった。

オッペンハイマーの歯車も、大きく狂いだす。






■原爆の父



アメリカ人であるオッペンハイマーは、ほかの多くの物理学者たちと同様、「原爆」の開発へと駆り出されることになる。

1942年、フェルミンがウランの核分裂連鎖反応に成功。

アメリカが誇る天才・オッペンハイマーは、原爆開発であるマンハッタン計画の責任者に任命され、ニューメキシコ州のロスアラモスでその頭脳をフル回転させることになる。



もはや、神の数式などそっちのけ。

彼はひたらすに原爆の開発に打ち込み、ついには広島・長崎という大成果を得て、ジャーナリストたちから「原爆の父」という称号を授かる。

以後、彼が電磁気力の研究の第一線に戻ることはなかった…。








なぜ、純粋な学問の世界で生きることができなかったのか?

何十万人もの命を奪った原爆に、戦後、オッペンハイマーは自戒の念に苦しめられた。

そんな時、自分が開発した原爆の被害国から、思わぬ知らせを受ける。






■深淵からの声



差出人は朝永振一郎(ともなが・しんいちろう)。オッペンハイマーは名前も知らぬ日本の物理学者。

だが、1948年に届いた手紙の内容は驚くべきものだった。朝永は戦争中、「無限大の問題を解決する方法を見つけていた」というのである。

「オッペンハイマーは手紙を受け取るとすぐに、日本で行われていた研究の重要さを認識しました。そして、朝永へ返事を書き、彼の研究を世界に知らしめるため、権威ある物理界誌に論文を書くように勧めたのです(シルバン・シェウェーバー)」



そうして朝永はオッペンハイマーの手助けを得て、世界で最も権威あるフィジカル・レビュー誌に論文を掲載されるに至る(論文『量子場理論での無限大の反作用について(1948)』)。

そこに記された特殊な計算方法に、世界は度肝を抜かれた。無限大の困難が見事打ち破られていた。

その数式の計算結果の精度たるや驚くべきもので、実験事実と小数点以下10ケタまでピタリと一致していた。



アメリカの物理学者フリーマン・ダイソンは、こう記す。

「戦争と廃墟と混乱のさなかにある日本で、国際的に完全に孤立状態にありながら、朝永はどうにかして理論物理の研究集団を維持し、ある意味では世界のどこよりも進んだ研究を行っていた。われわれには『深淵からの声』のように響いた(著書 "Disturbing the Universe")」








以後、戦後の自由な空気の中、無限大の問題は一気に解決することになる。

有限(finite)を示した数式。

それが石碑の2行目に記されている。






■ゼロ



解明された電磁気力。

残るは2つの力、「強い核力」と「弱い核力」。

「強い核力」は原子核をつくるクォーク同士を結びつけている力。「弱い核力」はニュートリノを原子核から飛び出させる力。



1950年代、中国出身の風雲児「楊振寧(ヤン・チェンニン)」は、やはり「美しさ」を武器に、さらなる対称性を追求した。

そして辿り着いたのが「非可換ゲージ対称性」。物理学者にとっても超難解な美しさであった。

楊(ヤン)は同僚のミルスとともに1954年、研究論文『荷電スピンの保存とゲージ不変性』を発表し、その偉業を世界に知らしめた。



ところが、楊は「落とし穴」に落ちた。

どう計算しても、「強い核力」や「弱い核力」を使える粒子の重さが「ゼロ」になってしまうのだった。

重さがゼロでよいのは光子のみ。ほかの粒子はすべて重さを持つはずだったのに…。



重さのない世界は、まったく現実とかけ離れていた。

それでも、楊の数式は素晴らしく美しい。理論上は完璧な対称性を持っていた。

不幸なことに、その現実と理論の乖離は研究が深まるほどに広がっていってしまう。数式が美しさを増すほどに、現実からは遠ざかっていくのであった。

まるで、知れば知るほど神が遠方に霞んでいくかのように…。






■破れ



重さゼロの矛盾。

もし本当にすべての素粒子に重さがないのだとしたら、計算上は原子から電子が飛び出し、ありとあらゆる物質はバラバラになってしまう。

物理学者ミチオ・カクは、こう表現する。「すべての素粒子の重さがゼロだったとしたら、あらゆるものが飛び散ります。すべてが光の速さで飛び出すのです。安定なものはなくなり、人も犬も猫も、すべての都市もなくなります。あらゆるものが光の速さで動き、原子を構成するものがなくなってしまうからです」

光に満ちた神の世界はあまりにも眩く、人はおろか何ものをも光としてしまうのだった。



計算上はそうなってしまう世界。

ではなぜ、この世界は存在し得ているのか?

まさか、この世は幻なのか?



「倒れない鉛筆」

神の数式による計算の世界では、それが現実だった。

その鉛筆をじっと睨んでいたのは、日本の物理学者「南部陽一郎(なんぶ・よういちろう)」。

「未来が見えている」とまで言われた異質の天才である。








1960年代、世界が頭を抱えていた「重さの謎」に、南部陽一郎は一閃に斬り込む。

その後ノーベル賞に輝く「自発的対称性の破れ」を示すのだ(論文『超電導の類推による素粒子の動的模型(1961)』)。

それは、神の設計図には対称性があっても、実際に起こる現実には対称性がなくても良いという、誰もが予想しなかった大発見だった。



南部いわく、「長い間、考え考えた挙句の一つの解決策でしたが、後になって考えれば、それはもう当たり前の現象なんだと判ったわけです」

立てた鉛筆は倒れる、という当たり前の現象だった。



南部が示したのは「満つればすなわち欠く」、つまり「完璧な美しさは崩れる運命にある」ということだった。

美しさが崩れる結果、世界には「重さが生まれる」のであった。

神の美しさが現実によって崩されたゆえに、この世は生まれた。神の眩い光が陰るからこそ、この世は存在し得るというのであった。



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■トイレ



南部の理論をもってしても、解決できない問題は残っていた。

南部が示したのは、強い核力からクォークの重さが生まれることであって、その力を感じない電子やニュートリノなどは依然、数式上は重さがゼロになってしまうのだった。



この最後の問題を解決するため、スティーブン・ワインバーグは意を決して「ある禁じ手」を打った。

それは、この世に存在しない「都合の良い粒子」が存在すると仮定することだった。



それが「ヒッグス粒子」。

それは物理学者ヒッグスが1964年、論文『ゲージ対称性の質量と対称性の破れ』に書いた理論。その粒子は最初、空間にほとんど存在しないのにも関わらず、その後、勝手に空間を埋め尽くしてしまうのだという。

ワインバーグによると、空間を埋め尽くしたヒッグス粒子によって電子などはその行く手を阻まれ、その結果、動きにくくなってしまう。それが「重さの正体」になるのだという。

それは南部の考えた、「最初は完璧な美しさを保っていた世界が、その後、勝手にその美しさを失ってしまう」という理論を応用したものだった。



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そうした理論が書かれたワインバーグの論文『軽粒子の一つの模型(1967)』。

その評判は散々だった。ありもしないヒッグス粒子が、あまりにも都合が良すぎたのである。



楊は言う。「それは美しくありませんでした。本当に美しいものは、ひと目見て『これしかない』と感じさせます。ヒッグス粒子には美しさはありませんでした」

シェルドン・グラショウは言う。「ヒッグス粒子は『トイレ』のようでした。きれいな家を成り立たせるためには汚れ役が必要なように」






■ヒッグス粒子



見つかってもいないヒッグス粒子という禁じ手。

それを犯してまで、神の数式の完成に賭けたワインバーグ。

その賭けは2012年、「ビンゴ!!」の時を迎える。



ついに見つかったのである。

ヒッグス粒子を見つけるために作られた、人類史上最大のエネルギーを空間に一点に注ぎ込む実験装置(CERN)によって、ヒッグス粒子が叩き出したと思われるシグナルがとらえられた(2012年7月)。

「We have a success today, we have discovery. We have discovered new particle boson(新しい素粒子), must be a 『Higgs boson(ヒッグス粒子)』.」








ワインバーグの論文から40年以上、ついにその理論が実証された。

そして完成した神の数式こと「標準理論」。

ヒッグス粒子を発見したCERN(ヨーロッパ原子核研究機構)の石碑には、それが誇らしげに刻まれた。

その最後の2行、それはこの世に重さをもたらしたヒッグス粒子を記したものである。



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■重力



天才物理学者たちが100年もの歳月をかけて完成した「神の数式」。

「美しさ」を求めて得られた結果は「重さ」であった。



最先端の数式に従えば、この世はこう記述される。

「宇宙は設計図である神の数式に従って誕生し、当初は設計図通りの『完璧な美しさ(対称性)』を保っていた。しかし、ヒッグス粒子などが引き起こす『自発的対称性の破れ』によって、素粒子に重さが生まれた。その結果、素粒子がまとまり原子が作られ、星々が輝きはじめて銀河も形成されていった」

神の世界ではあらゆる素粒子に重さはなく、光のごとくバラバラに飛び回っていた。ゆえに、物質は存在し得なかった。だが、その神の完璧な美しさ(対称性)が崩れることにより、世界に重さが生じ、物質が生まれるのであった。



神の数式「標準理論」に従えば、いまやこの世に説明できない現象はないとまで言われている。

が、しかし、物理学者らの野望は尽きない。

神の数式に最後のピースをはめ込んだワインバーグはなおも、こう言う。「私たちは単に、数学的に美しい議論だけでは満足しません。そこには重力が入っていないからです」



ワインバーグの言う通り、現在最先端の「神の数式」では重力が無視されている。

それは素粒子の世界における素粒子はあまりにも軽いため、重力を考えに入れる必要がないと考えられていたからである。

だが今は、「重力をも採り入れなければ、本物の神の数式には辿り着けない」という考え方が支配的になっている。



立てた鉛筆が倒れるのと同様、重力があるのもまた「当たり前」のことのようにも思われる。

だが、その解明はまだまだ先になりそうだ…













(了)






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出典:NHKスペシャル
「神の数式 第一回 この世は何からできているのか 〜天才たちの100年の苦闘〜」


posted by 四代目 at 06:56| Comment(0) | サイエンス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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