「ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず…」
名文「方丈記」は静かに始まる。
「淀みに浮かぶ泡沫(うたかた)は、かつ消え、かつ結びて、久しく留まりたるためしなし」
水泡が水泡のままで、いつまでいられようか。
「世の中にある人と栖(住処)とまた、かくの如し」
なんと無常な…、なんと儚きことか…。

◎負け犬の遠吠え
「方丈記」という著作はこのあと、原稿用紙でおよそ20枚分ほど続いていく。しかし、あまりにも美しい冒頭の数文がすべてを物語ってしまっているため、その先を読む人はマレである。
それでもあえて読み進めていくと、意外にも鴨長明という著者が「人間臭い」ことに驚かざるを得ない。最初の数文は明らかに世を悟った人だけが書ける文章だ。しかし、その後の文章に現れてくる長明はといえば、まったく達観しておらず、迷走に迷走を重ね、最後まで迷いのままに生を閉じることとなるのである。
彼の終(つい)の住処となる小さな「方丈の庵(およそ3m四方)」というのは、なにも彼が望んで建てたわけではなかった。人生の節目、節目で、負けて負けて負け続けた「没落の末」の惨めな住まいだったのである。
落伍者、負け犬…。「方丈記」は、そんな長明が京のはずれの山中で吠えた、虚しい遠吠えであった…。
しかし、その遠吠えは、遠く遠く800年後の現代にまで雄々しく鳴り響いてきている。そして、いつの時代の人々の心をも揺さぶってきた。
いったい、この負け犬の遠吠えに、どんな魅力が秘められているというのか?
◎大社の御曹司
鴨長明の「鴨」という苗字は、鴨社(現在の京都・下鴨神社)の「鴨」である。
当時、鴨社の所領は全国23カ国、70カ所以上にものぼる膨大さ。江戸時代であれば、間違いなく大名レベル。平安末期という時代は、庇護や優遇を求める荘園の寄進が、鴨社などの大社に相次いでいたのである。
そんな大社の御曹司として鴨長明は生まれた。生まれながらの超ボンボン。長明は数え年7歳にしてすでに「従五位下」という異常に高い官位までが授けられていた。
順風満帆の長明がそのまま行けば、その先には決して方丈の庵などはなかった。むしろ、そんなみすぼらしい住まいとは一番縁遠いところにいたのである。
ところが、その華やかなはずの街道は、18歳にして早くも曲がり角を迎える。それは「父との死別」であった。
平安当時、親の庇護というのは極めて重要視されていたらしく、早くに父に死なれた長明はその後、「みなしご」ということで周囲の人々から邪険に扱われていくこととなる。
そんな長明を哀れに思ってか、長明の琵琶の師(中原有安)は励ましの言葉をかけている。
「重代の家に生まれて、早く『みなしご』になれり。人こそ用いずとも、心ばかりは思ふところあり。身を立てむと骨ばるべきなり(無名抄)」
志を高くもって頑張れよと言われても、生まれてこのかた、箸より重いものをもったこともなく、自分の足で地面を踏むことすら少なかったボンボンにとって、父親の死は絶望以外のなにものでもない。
父を失ったと同時に、安穏とした未来までをも失ってしまった長明。「もう、死んだほうがいいんだ…」、そんな絶望の歌を読んでいる。
「住みわびぬ、いざさは超えむ死出の山、さてだに親の跡をふむべく」
いっそ死んで、親の跡を追おうと嘆くのであった…。
◎あられぬ世
時は平安末期、平清盛が現れては消え、源義経が勇名を馳せる。奢れる平家が壇ノ浦で滅亡するまでの源平争乱は、京の都をグシャグシャに荒らし回った。
暴れたのは人ばかりでない。天も怒った。大火、辻風(竜巻)、飢饉、極めつけには大地震(元暦の大地震)。無常も無常、久しく留まりたるものなど何もない。
「山は崩れ、河を埋(うづ)み、海は傾きて陸地を浸せり…」
「在々所々、堂舎塔廟一つとして全からず。あるいは崩れ、あるいは倒れぬ…」
源平争乱の鏑矢となった保元・平治の乱が京を騒がした時、鴨長明は2〜5歳。
そして、のちに5大災厄と呼ばれる天変地異が続発するのが、長明23〜31歳。
世の人心は麻のごとく乱れ、住まいも天災のたびにブッ壊れる。ただでさえ過酷な時代にあって、父を亡くしてしまっていた長明の命運は、輪をかけて薄幸となっていった。
鴨社の屋敷を追われ、しばらくは父方の祖母の家に身を寄せるも、それも長くは続かない。そして、住まいを追われるたびに、屋敷は小さくなっていく。
「これをありし住まいにならぶるに、十分の一なり」
ついに住まいは生家の10分の1にまで縮みこんでいく…。
◎怠慢
確かに長明の生きた時代は激動であり、彼自身にも不幸は襲いかかった。しかし、長明が没落していくのは、そうした外部の環境ばかりが原因ではなかった。
彼自身、志を高くもって精進を重ねていたかというと、どうやらそうではない。鴨社の神職をおろそかにし、和歌と琵琶ばかりにかまけていたというのだ。
朝廷との縁厚き鴨社には、朝廷から参る「然るべき御方」が少なくない。そして、その参詣を滞りなく済ませるだけで官位は自動的に上がる仕組みになっている。
ところが、長明の官位は7歳の時の従五位下のまま、その後一切上がっていない。それはすなわち、通常の職をも怠っていたということである。
では、長明は何をしていたのか?
「社の交らひもせず、籠り居てはべりしか…(源家長日記)」
鴨社の人々との交際を絶って屋敷に引き込もり、和歌と琵琶に興じていた。俊恵という歌人の家で開かれる「歌林苑」というサロンには、足繁く通い詰める熱心さであった。
職務を怠り、和歌と琵琶に血道を上げていた長明。そのおかげで、その腕前はプロ級。
しかし、ときどき「死にたい」と口走って涙を流しているような面倒くさい元ボンボンを、誰がいつまで面倒を見てくれるというのか…。
◎有頂天
ところが、そんな怠け者の長明に、降って湧いたような幸運が舞い降りてくる。
後鳥羽上皇から「和歌所の寄人(よりうど)」に大抜擢されたのだ。その大役は「新古今和歌集」の編纂であった。
なんとなんと、和歌ばかり詠んでいたどうしようもない元ボンボンは、その才を世に開花させるまたとない機会に恵まれたのである。ついに、30年以上に及ぶグウタラ生活に終止符を打つ時がきた。この時すでに長明47歳。
まるで、何十年も売れなかったミュージシャンが、いきなり大手レコード会社と電撃契約を結んだかのような長明。和歌所といえば、当代一流の歌人であることの何よりの証明。その顔ぶれは藤原定家、九条良経、慈円、寂蓮などなど、そうそうたるエリートたちばかりである。
一気に有頂天になった長明、御所に入り浸り、昼も夜も構わず、一心不乱に仕事に没頭する。「よるひる、奉公怠らず」。
その懸命なる長明の働きぶりは、後鳥羽院の耳にも届くほど。
すると後鳥羽院、勤労に励む長明に何か「褒美」でもと考え、河合社という神社の禰宜職(トップ)の座に長明を推挙することとした。
あぁ、これほど極上の褒美など、ほかに長明に考えられようか…。河合社といえば鴨社の摂社、そのトップはのちのち鴨社のトップ(正禰宜)になることが決まっている。
思えば父を失ってから、どれほど願っても手に入らなくなっていた鴨社の正禰宜の座。そこに返り咲く道が長明に用意されたのである。
あれから苦節30年、ついに…。
「喜びの涙、堰き止めがたき気色なり…」

◎急転直下
ところが、不遇時代に鴨社の職を怠けていた長明の評判は、神社関係者の中ではすこぶる悪い。和歌の腕前は超一流だとしても、神職としては最悪の人物なのだ。
それゆえ、当の河合社では長明を拒絶した。たとえ後鳥羽院の申し出とはいえ、もっと上位の然るべき人物は河合社にいるのだと丁重にお断り申し上げたのである。これには、さすがの後鳥羽院といえども「社官の並び」を乱すわけにはいかなかった。
すっかり夢の世界の住民となっていた長明。
それが急転直下、厳しすぎる現実を眼前に突きつけられることとなった。
それが身から出たサビだとはいえ、その落胆ぶりは形容しようもない。芸術家と呼ばれる人々の心は、人一倍敏感、繊細にできている。
ただただ、その後の行動だけが長明の失意を物語る。
失踪。
あれほど嬉々として励んでいた和歌所から、長明は突如姿を消した…。
「負け犬」極まり、運命の「方丈の庵」へと向かっていたのだ…。
◎封殺された過去
洛南日野の山中に建てたその小さき庵は、往年の屋敷に比べればわずか100分の1。
土台も築かずに柱を組んだだけで、釘は一本も使われていない。それは、いつでも解体して運べるようにという配慮からであった。荷車にのせてしまえば、たったの2台分しかない。
「もし心に適わぬことあらば、易く他へ移さむがためなり。……積むところ、わずかに二両」
モノと呼べるようなモノが一切ない中、琵琶と琴ばかりはしっかりと置かれている。のちに語るが、それは長明の「執着」の現れでもあった。
「かたわらに琴、琵琶、おのおの一張を立つ」
きっと長明は都での出来事を思い出したくもなかったのだろう。
結果的に人生の頂点となった和歌所の寄人への大抜擢、そしてその後の失落に関して、「方丈記」では一言も触れられていない。30歳の記述の後、いきなり50歳の出家にまで飛んでしまうのである(和歌所に入ったのは47歳、失踪は50歳)。
「折々の違(たが)い目、短き運を悟りぬ…」
有頂天からの大転落は、この短い文章の中に封じ込められてしまっているのだ。
◎執念
都から逃げるように転がりこんだ方丈の庵。
それでもなお、栄達・出世の夢を長明は捨て切れなかった。わざわざ鎌倉へと足を運び、三代将軍源実朝に会いに行っているではないか(57歳)。
将軍・実朝(さねとも)は、初代将軍・源頼朝と北条政子の子であり、武門の生まれにして卓越した歌才に恵まれていた(金槐和歌集など)。しかし、当時の鎌倉には京ほどの文化人はあまりいなかったため、都からの歌人を求めていたのである。
はるばる「東下り」をする長明。淡くも切なる想いを抱きながら…。
ところが、すでにその役は藤原定家に占められていた。かつての和歌所の同僚に…。結局、長明の鎌倉行きは無駄足と終わる。
しかし、よほどに未練があったのか、のちにこの時の長明を題材にして小説を書いた太宰治は、「油断ならぬご老人」として長明を描いている(小説:右大臣実朝)。
こうして、一縷の望みも失った長明には、いよいよ歴史的な著書となる「方丈記」を書く運命が近づきつつあった。
それは必然だったのか? 「方丈記」を生むために長明の人生は用意されていたのか?
「人と栖(住みか)」の儚さを知らしめるために…。
◎気ままな庵暮し
「老いたる蚕(かいこ)の繭(まゆ)を営むがごとし」
山中の方丈生活を長明はこう記している。厳しい世間に追い立てられるようにして方丈の庵に至った長明は、蚕の繭のように必要最小限の原点に立ち帰らされていた。
栄達も出世も諦めたというか、諦めさせられた長明であったが、山中の庵生活もまんざらではない。なにせ、気が向かなければ読経をサボることもできるし、気ままに琵琶を奏でることもできる。
当時の琵琶の楽曲には「秘曲」といわれる軽々しく弾いてはならない曲もあった。たとえば、「流泉」と呼ばれるのもそれで、師から許可を受けられなかった長明は、その曲を人前で弾くことが許されていなかった。
ところが、「水の音に『流泉』の曲をあやつる」と方丈記にはある。秘曲であるはずの曲名まで明らかにして記してあるとは…。
芸術の才に秀でた人というのは、型にはめられてしまうのを嫌うものなのかもしれない。
幸か不幸か、人と世に捨てられた長明。もはや何のしがらみも気遣いもする必要がない。
ただただ、心を山中に、架空の世界に遊ばせるばかりであった。
◎童
庵生活には、一人の童が登場する。
「かれは十歳、これは六十。その齢ことのほかなれど、心をなぐさむること、これ同じ」
長明の暮らす日野山の麓には、山を守る番人の小屋があったらしく、そこの子供が時々遊びに来るのだ。その童は10歳、それに対して長明は60歳。孫とジイジである。
このデコボコ・コンビの付き合いは実にサラッとしている。そこらに生えている食べられそうな植物(チガヤ・岩梨・ヌカゴ・セリ)などを採って歩いたり、落ち穂を拾って輪っかを作ったり…。
これほど害のない人間関係は、都暮しの長かった長明にとっては、さぞや新鮮で心地の良いものでもあったのだろう。全編を通して陰鬱とした空気の漂う方丈記にあって、このシーンばかりは微笑ましいばかりだ。
都の世知辛い人間関係は、長明を苦しめ続けた。
「勢いある者は貪欲深く、独身なる者は人に軽めらる。財あれば恐れ多く、貧しければ恨み切なり」
出世した者はますます貪欲になり、独り身であれば軽んじられる(長明は独身)。財産があればあったで心配事が多くなり、貧乏であれば恨みがましくもなる。
「世に従えば、身苦し。従えわねば、狂せるに似たり」
世の中の言いなりになっていると、実に窮屈な思いをするが、かと言って、それに背を向けてしまえば狂人あつかいだ。
「たまゆらも心を休むべき」
一瞬たりとも心安らかに暮らすことができないよ…。
◎家
日本人には古来より「家や土地」にこだわる性向がある。土地本位制、家本位制…。今の日本人にとっての一番の財産も不動産、つまり家や土地である。いつかは一軒家というのは、日本人の変わらぬ夢である。
ところが長明はと言えば、生まれた時の家がとんどもない豪邸で、その頂点から10分の1、100分の1と家がみるみるスケールダウンしていき、終の住処となるのは単なる掘っ立て小屋という有様。
それは望んだものとは正反対の、夢にも思わなかった「まさか」の末路の末である。本人にもその自覚は強く、方丈の庵を「末葉の宿り」と表現している。
捨てたくなかったのに捨てさせられた「家」。
しかし、いつしか、長明は山中の方丈暮しに溶け込んでいた。まるで魚が水に遊び、鳥が林に住みたがるように。
「魚は水に飽かず。鳥は林を願ふ。閑居の気味もまた同じ」
そして、「住まずして誰か悟らむ(この気持ちは住んでみなければ分かるまい)」とまで記すに至る。
◎執着
「今、寂しき住まい、一間の庵、自らこれを愛す」
すっかり気に入ってしまった貧しくも気ままな暮らし。最初は負け惜しみの念も込められていた筆も、素直に庵暮しを賛美する。
春は藤の花房が風になびき、紫色の雲のように匂い立つ。夏はホトトギス、秋はヒグラシの鳴き声に耳を楽しませる。冬の雪は心が洗われるように美しく、また春が来て、その雪の溶けゆく様を見ていると、自分の心に積もり積もっていた罪業までもが消えてゆくようだ…。
仏教の大きな目的の一つに「執着を断つ」というものがあるが、どうやら長明の心からは「家」への執着が離れていったようである。
「人の営み、皆愚かなる中に、さしも危うき京中の家を作るとて、宝を費やし心を悩ますことは、優れてあじきなくぞはべる」
家という、いつ壊れるか襲われるかも分からぬものに大金を投じ、そのために神経をすり減らすことほど馬鹿馬鹿しいことはない、と長明は言う。
ところが、方丈の庵を愛し始めていた長明は、一つのジレンマに気付く。
みすぼらしい家で満足していた自分も、じつは逆に「方丈の庵」に執着してしまっているではないか!
「今、草庵を愛するも、閑寂に着するも、障りなるべし」
立派な家への執着からは離れたと思っていた長明、こんどは山中の庵にこだわり過ぎてしまっていた。
しかも、その庵の中には琵琶もあれば、和歌もある。
「捨てられないもの」はまだまだあった。
いや、むしろ「捨てること」に執着し過ぎていたのではないか?
◎迷い
「仏の教えたもう趣は、事に触れて執心なかれとなり」
方丈の庵も執心(執着)であれば、要なき楽しみ(和歌・琵琶)もまた然り。これでは、都人と何ら変わるところがないではないか。
しかも、今だに都に顔を出すと、自分のみすぼらしい身なりが恥ずかしくてしょうがない。
「汝、姿は聖人(ひじり)にて、心は濁りに染みる」
出家した格好ばかりは聖に見えるが、その心の内はといえば、濁ったまんまだ…。
夜が白みはじめる前の静けさの中、長明の頭はグルグルと思い悩む。
「妄心のいたりて狂せるか」
迷いに迷い、頭が狂ってしまいそうだ…。
そして、方丈記はその迷いのままに幕を閉じる。
「心、さらに答うることなし。ただ、かたわらに舌根をやといて、不請の阿弥陀仏、両三遍申してやみぬ」
心に答えはまったくない。ただ「阿弥陀仏」と三回唱えて、もう終わりにしよう…。
◎そのままに
いったい、何だったのか?
方丈記の鴨長明は散々「問い」ばかりを残し、何も答えぬままに筆を置いてしまった。
長明自身も悟り切らぬままで良しとした。
「ものうしとても、心を動かすことなし」
「ものうし」というのは、憂鬱な気持ちであり、自分の心の色が何色なのか分からない状態。白か黒かもはっきりせず、赤もあれば青もある。それはまさに迷える状態に他ならないが、それでも「心を動かすことなし」、それはそのままで良しとしたのである。
普通の人間であれば、自分の気持ちが定まらぬ時、なんとかその心を過去の経験と結びつけて自分自身を納得させようとしたがるものだが、長明はそれはそれで良しとしたのだ。
たとえば、医者が自分の知らぬ病いに直面した時、無理やりにでも病名をつけようとする。しかし、そのことで逆に患者を苦しめることもあれば、傷つけてしまうこともある。
◎一歩を進む
人生には生まれて始めての経験というものがあり、それは新鮮で貴重なものだ。それを無理やり過去の何かと結びつけてしまうのは、ある意味もったいない。せっかくの新しい経験が古い色で塗られてしまう。
禅の言葉では、「百尺竿頭に一歩を進む」という。とんでもなく長い竿のテッペンまで登ってなお、一歩を踏み出せというのである。つまり、これが悟りだ、テッペンだと思ってもなお、そこに留まるなというのだ。
心は変わり続けなければならない。それが「無常」というものであり、常に同じではないということである。すなわち、「無常」というのは過去への諦めかもしれないが、未来に対しては希望となるのである。
「淀みに浮かぶ泡沫(うたかた)」は、すぐ消えてまたすぐできるが、それはいつも新しい泡沫(うたかた)なのである。
新しい体験をしたら、新しい自分を作り直さなければならない。もしそこに留まり、過去の経験を引っ張り出してきて、無理やり納得してしまったら…。
それゆえ、長明は割り切れぬものは、割り切れぬままで良しとした。
「ものうしとても、心を動かすことなし」
それが方丈の庵から踏み出すための次の一歩だったのである。

◎心
「それ三界はただ心一つなり」
心ひとつの持ち方次第で世界は変わる。方丈の庵とて宮殿楼閣と思うは、その人の勝手である。
その生涯を外部の環境で大きく左右され、その浮き沈みのたびに、必要以上に感情的になっていた長明。結果的には世間から相手にされなくなってしまった。
しかし、方丈の庵にあっては、心次第で世界は変わりうることに思い至った。
唯物論から唯心論へ。外部環境の問題にイヤというほど振り回された長明は、振り回す者のいなくなった草庵にあって、ただただ心の世界へと没頭していったのだ。
そして、心の見つめていったら、執着の心に苛まれてしまった長明。
最後は念仏三回で方丈記を閉じる。
執着はそのままに…。
※法然という人は一日に南無阿弥陀仏を6万回も唱えたというが、その弟子の親鸞は2〜3回で良しとした。それは、誰それが何万遍唱えたとなると、その回数ばかりに執着してしまうと考えたからだという。
◎揺らぎ
長明は悟り切らぬまま方丈記を閉じた。
悟り悟りと願うことこそが執着と感じたのか、もしくは、どんな状況にでも通用する一辺倒な悟りなどないと悟ったのか。
その迷える長明の記した方丈記は、「揺らぎ」に満ちている。人も栖(住みか)も揺らぎに揺らいで、最後は心までもが揺れに揺れている。そして、あえて揺れたままに終わるのだ。
それゆえ、方丈記は読む人読む人に違う顔を見せてくる。同じ人が読んでも、読む時によってもその印象が変わるかもしれない。
大災害のあとに方丈記を読み直したという僧・玄侑宗久さんは、何気なく青々と茂る水田の苗に涙が止まらなくなってしまったという。
方丈記は決して一色ではない。色んな色に満ちている。長明は悟り顏だけを気取ることなく、恥ずかしい自分までもそのままにさらけ出してているのである。
もともと、方丈記というタイトルは、お釈迦様の弟子の「維摩」という人が住んでいた建物からきているのだという。その建物はじつに狭い。しかし、心に執着がなければ何人でも、どんな大勢でもその建物にはいれてしまうのだそうだ。
方丈記も然り、どんな人の心もそこに入ることができる。維摩の住まいとは異なり、執着がある人にこそ開かれている。それが、800年も読み継がれてきた理由なのかもしれない。
方丈記を書き上げた鴨長明は、その4年後にこの世を去った。
その人生は、まるで方丈記を書くためであったかのように…。
あの童は、少し寂しくなったであろうか。山に住む変わった爺さんがいなくなってしまって…。
その爺さんが、まさかこんな本を書いていたとは、あの童は知っていたであろうか…?
まさか、自分も登場しているなんて…。

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