血色のよい童顔に、鶴のような身体。
ジロリと睨まれただけで、身が竦むような威厳。
齢80を超えていたとはいえ、新陰流の「佐々木正之進」の存在感は圧倒的であった。
「相当な変わり者」
茨城県下の山中に隠棲していた正之進には、そんな風評もあった。
そこへ弟子入りしてきた「国井善弥」19歳。
明治27年(1894)、福島県に生まれた善弥は、8歳のおりから祖父について、そして厳父に家伝である「鹿島神流」を学んできた武道一筋の男。
その彼が、佐々木正之進の秘剣を習得せんと、意気揚々、門を叩いたのであった。
◎意味不明の用
入門した初日、善弥はいきなり肩透かしを喰ってしまう。
当然のように稽古を期待していたのだが、正之進にその気はまったくないようであった。
「何を持って来い。ついでに何もじゃ」
師・正之進は、弟子・善弥に、意味不明の用を命じる。
はて…? 「何」とはなんだ?
住み込んだばかりの善弥に、師匠の日常生活など皆目見当がつかない。
善弥が戸惑っていると、いきなりカミナリが落ちた。
「たわけ者! それぐらいのことがわからんで、真武の修行が積めるか!」
師・正之進は吠えるように、善弥を一喝したのだった。
◎カン
「何を持って来い。ついでに何もじゃ」
翌朝、しなびた頬を伸ばしながら、師匠は同じ問いを繰り返した。
さて、どうしたものか?
まごまごしていると、またカミナリが落ちてしまう。
いささか捨て鉢になった善弥は、適当に「新聞とメガネ」を師匠に持っていった。
善弥のカンは当たったのか、外れたのか?
とりあえず、この場は落着したようであった。
◎裸馬
「何に行く。お前も一緒に連れて行くから、何に、何に、何を用意しておけ」
禅問答にもならぬ師匠の不可解な命令は続く。
もしや…、鮎釣りか?
直感のままに、善弥は「釣竿と釣りエサ、そして弁当」を用意した。
ほどなくやって来た師匠は、ギョロリと大きな眼をひんむいたが、その表情は満足気にも見えた。
しかし、善弥が「よし!」と思った刹那、「たわけ者! 何はどうした?」との一喝が飛んできた。
わけが分からない。
だが、返答を躊躇すれば、また吠えられる。
「はい! 用意してあります」と善弥。完全に口からデマカセである。
たまたま馬のいななきを聞いた善弥は、馬を用意した。
だが、身支度を終えた師匠がさっさと姿を現してしまったために、「鞍」を置く余裕がなかった。
とっさに言い訳をする善弥、「先生、本日は新陰流の馬術、裸乗りの極意をご教示ください」。冷や汗をかきながらも、鞍がないのをごまかした。
ニヤリと師匠・正之進。
善弥も少しずつ、要領を得始めていた。
◎心眼
「何と何と何を、何しておけ」
師匠との推理ゲームが毎日つづくうちに、善弥は師匠のムチャぶりを完璧にこなせるようになっていた。
師匠と日常をともにしていた善弥は、師匠の立場になって「何」を推測し、それを用意することが出来るようになっていたのだ。
「人は当たり前のことしかしない」
たとえば、外出なら上着が必要かもしれないし、テーブルにつけば新聞を読むかもしれない。畢竟、人の行動は限られている。
のちに善弥は、意味不明の用によって「心眼」を試されていたことに気づく。
師匠はこう言っていた。「よいか、目に見えぬ世界を見、耳に聞こえない音を聴かずして、武道などはできもせぬ。剣の道を心がける者が、凡人なみの修行をしていて、どうして大成などできようか」。
相手の身になって「目に見えぬもの」を見ようとすると、善弥は自ずと相手の「先(せん)」が取れるようになったのだった。
◎無理難題
「そろそろ、道場に出てみるか」
その師匠の言葉に、待ってましたとばかりに小躍りする善弥。
いままで武道一筋に生きてきた善弥にとって、稽古のできない一日はたとえようもなく長かった。いつまでも続く師匠の禅問答には内心、不満が鬱屈していた。
ところが、いざ道場に入ってみると、師匠は木剣一本もたず、稽古着にすら着替えていない。
「またもや肩透かしか?」。そう善弥が思っていると、おもむろに師匠は床に白墨で一線を引いた。
「わしはこれからオマエを拳で打つ」
師匠はぶっきらぼうに言い放った。
「オマエはその白線の上に立って、素手で構えよ。一歩も動いてはならぬ」
その口調は、どんどん突き放すようである。
「なお、わしの腕をつかまずに、逆をとってみい」
「…」
善弥は無言であった。
打ちかかる腕をつかまずに、どうして相手の腕の逆がとれようか。しかも、一歩も動かずに…。
そんな困惑する善弥の顔面に、容赦なく正之進の拳は炸裂する。
一発、二発、三発…。
足を使えば善弥にもその拳はかわせたかもしれない。しかし今、武道の生命ともいうべき足を封じられている。そしてさらに相手の逆をとるなど、いかに武道を極めた人間にも不可能に思われた。
◎逃走
幾日も幾日も、善弥は打たれるばかり。
顔面は紫色に腫れ上がり、お岩さんも真っ青といったしろもの。
9日後、たまりかねた善弥は3日間の休養を願い出る。
そして休息3日目の夜、善弥は道場を逃げ出す決意を固めていた。
「こんなバカげた稽古があるものか!」
最後の夕食となるはずだった、その休息3日目の晩、師匠はモグモグと口を動かしながら、こう言った。
「そなた、ここを逃げ出そうと思っても、そりゃダメじゃぞ」
「心眼」をもつであろう師匠には、善弥の浅い肚の中などお見通しであった。
「この村をはさんで上下5駅、合わせて10駅は、どこもオマエには切符を売らぬように、はや厳重に手配をしてあるからのぉ」
師匠は美味そうに夕食を平らげた。
善弥は完全に「先」をとられていたのだ。
◎ヤケクソ
もはや観念した善弥。
翌朝はヤケクソで白墨の線上に立っていた。
相も変わらず、師匠の拳は面白いように善弥の顔面に炸裂する。
一発、二発、三発…。
「クソーーーッ!」
善弥は咆えた。
「バカもの!」
師匠は一喝して、さらなる拳を繰り出す。
しかしその時だった。
上半身をかすかに開いた善弥は、「トーーーッ!」と裂帛の気合をほとばしらせた。
その直後、鶴のような老人の身体は空を泳ぎ、鈍重な響きとともに、善弥の膝下に崩れ落ちた。
◎親指
「うむ。やっとわかったか」
足元の師匠の顔の奥には、ゆっくりと笑いがにじみ出てくる。
師匠のこの意外な言葉に、善弥は我に返った。
どうやらこの間、善弥の意識はあらぬところを彷徨っていたようだ。
師匠は起き上がりながら、相好を崩している。
「何をどうしたのか…?」
あの瞬間、師の4発目をかわすと、善弥は右手で師匠の伸びた腕をとらえ、関節を決めていたのである。
この時、善弥の右手の親指は内側に曲げられていた。つまり、親指は師匠の腕にかかっていなかった。だから、つかんだのではなく、残り4本の指で引っ掛けただけだった。
武道の立ち会いにおいて、とくに体術の場合、親指を用いて相手をつかんだりすると、そのまま逆をとられかねない。親指を制されると、その力を利用して投げられたり、自由を奪われたり…。
ゆえに日本伝来の古武術では、相手の親指をとる技法があまたとあった。
顔面をボコボコにされて、お岩さんのようになりながらも、善弥が学んだこと。
それは「親指」であったのだ。
言ってみれば、師匠・正之進は連日のごとく善弥の顔面を殴りつけながら、それだけのことを自得させようとしたのであった。
◎アメリカ vs 日本
「身体で悟らせる」
武道の悟りに近道はない。
弟子に手とり足とり、一つ一つ丁寧に教える師など、この世界には存在しなかった。すべてが体験であり、体感。そして、土壇場に追い込まれてこそ、その道は開けるのであった。
「立ち向かう 刃の下は地獄なれ 踏み込んでみよ 極意もあれ」と、鹿島神流の道歌は歌う。
のちの善弥は、「今武蔵(昭和の宮本武蔵)」とも呼ばれた「国井善弥(くにい・ぜんや)」であり、生涯無敗を誇った武道家である。
彼を語るエピソードの一つに、こんなものがある。
太平洋戦争終結後、アメリカのGHQから日本の武道家との試合の申し出があった。国と国の名誉をかけた、この一戦。そこで白羽の矢が立てられたのが国井善弥、その人であったのだ。
相手はアメリカ海兵隊の銃剣術家。
対する国井善弥は、木刀一本をもって立ち会いに臨んだ。
その試合は圧倒的であった。
善弥は相手の攻撃をすべて見切り、木刀一本ですべての動きを封じてしまったのだ。
さすがの銃剣術家も、負けを認めざるを得ない。
戦争という国と国の争いには敗れた日本。
だが、武と武、個と個の一騎打ちにおいて、ささやかな面目を躍如させたのが、この一戦であったという。
◎鹿島神流
国井善弥の鹿島神流は、「螺旋をもって発し、戻し、進む」といわれている。
先を取って相手の剣を殺し、相手の太刀筋よりも速く、先方を斬る。
「仕掛業(しかけわざ)に対して、反撃のない場合は、それがただちに決め業となり、『先先の先勝』を得られます。一方、反撃があれば、裏業に転じ、『先の先勝』を得るわけです」と、19代目・関文威氏(善弥の高弟)は語る。
その基本の構えが「無構(むがまえ)」、別名を「音無(おとなし)の構え」ともいう。
「赤子の心のごとく、無我無念にして…」
赤子が頭を叩かれようとする時に示す動作、それが神授の業となる。
「赤子が示す防御法と攻撃法を見習うべし」、人為の知恵が介在しないその業こそが、鹿島神流の業における太刀の操作原理になるのだという。
ちなみに、この鹿島神流というのは源義経が奉納した「天狗書」がその元になっているのだとか…。
◎真似び
「弟子というものは、師のなさることは何でも真似び(学び)、そしてやらなければならんものだ」
合気道の開祖「植芝盛平(うえしば・もりへい)」は、そう述べている。彼には数多くの弟子がいたが、この達人は弟子中の弟子、内弟子には稽古をつけるということをしていない。
盛平の内弟子、「塩田剛三(しおだ・ごうぞう)」もまた、「生ける伝説」と呼ばれた人物であるが、彼は師匠と真剣をもって立ち会ったことがあった。
「どないしたん、塩田はん。わしはこっちゃでぇ」
弟子・剛三の必死の斬り込みをサラリとかわす師・盛平。
京・鞍馬の山中は深い闇におおわれていた。
その漆黒の中、師・盛平は凄みのある笑みを浮べている。
改めて斬り込む弟子・剛三。
闇に白刃が光るや、逆に剛三の眼前には師の切っ先がピタリと止められた。
「いわゆる剣風というのでしょうか。剣でさえぎられた空気が、薄気味悪く私の頭にフワッと乗っかってくる感じで…(塩田剛三著・合気道人生)」
◎死
「塩田はん、いくでぇ」
闇夜の中、師・盛平は太刀を大きく振りかぶった。
「斬られる…!」
そう思った刹那、剛三の額の白鉢巻はハラリと落ちた。
「あと数センチ斬り下げられていたら、自分は間違いなく死んでいたでしょう」
のちに剛三はそう語る。なにせ、相手は日本一の武道家である。
この時、不思議なことに剛三は「死の甘美さ」を感じていた。
「死が身近に、そして楽しいものでもあるかのようにも感じられたのです」と、剛三はかすかに笑った。
のちに剛三は知る、「生死の境を超えたこと」を…。
「死への恐怖心が去った時、はじめて高次の世界は拓ける」
これが弟子中の弟子のみが体得しうる、師の悟りであったのだ…。
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出典:月刊 秘伝 2013年 02月号 (特別付録DVD付)[雑誌]
「名人・達人たちの内弟子体験 加来耕三」








