2013年02月21日

身体で悟る。生涯無敗と謳われた「国井善弥」


血色のよい童顔に、鶴のような身体。

ジロリと睨まれただけで、身が竦むような威厳。

齢80を超えていたとはいえ、新陰流の「佐々木正之進」の存在感は圧倒的であった。



「相当な変わり者」

茨城県下の山中に隠棲していた正之進には、そんな風評もあった。



そこへ弟子入りしてきた「国井善弥」19歳。

明治27年(1894)、福島県に生まれた善弥は、8歳のおりから祖父について、そして厳父に家伝である「鹿島神流」を学んできた武道一筋の男。

その彼が、佐々木正之進の秘剣を習得せんと、意気揚々、門を叩いたのであった。






◎意味不明の用


入門した初日、善弥はいきなり肩透かしを喰ってしまう。

当然のように稽古を期待していたのだが、正之進にその気はまったくないようであった。



「何を持って来い。ついでに何もじゃ」

師・正之進は、弟子・善弥に、意味不明の用を命じる。



はて…? 「何」とはなんだ?

住み込んだばかりの善弥に、師匠の日常生活など皆目見当がつかない。



善弥が戸惑っていると、いきなりカミナリが落ちた。

「たわけ者! それぐらいのことがわからんで、真武の修行が積めるか!」

師・正之進は吠えるように、善弥を一喝したのだった。



◎カン


「何を持って来い。ついでに何もじゃ」

翌朝、しなびた頬を伸ばしながら、師匠は同じ問いを繰り返した。



さて、どうしたものか?

まごまごしていると、またカミナリが落ちてしまう。

いささか捨て鉢になった善弥は、適当に「新聞とメガネ」を師匠に持っていった。



善弥のカンは当たったのか、外れたのか?

とりあえず、この場は落着したようであった。



◎裸馬


「何に行く。お前も一緒に連れて行くから、何に、何に、何を用意しておけ」

禅問答にもならぬ師匠の不可解な命令は続く。



もしや…、鮎釣りか?

直感のままに、善弥は「釣竿と釣りエサ、そして弁当」を用意した。



ほどなくやって来た師匠は、ギョロリと大きな眼をひんむいたが、その表情は満足気にも見えた。

しかし、善弥が「よし!」と思った刹那、「たわけ者! 何はどうした?」との一喝が飛んできた。



わけが分からない。

だが、返答を躊躇すれば、また吠えられる。

「はい! 用意してあります」と善弥。完全に口からデマカセである。



たまたま馬のいななきを聞いた善弥は、馬を用意した。

だが、身支度を終えた師匠がさっさと姿を現してしまったために、「鞍」を置く余裕がなかった。

とっさに言い訳をする善弥、「先生、本日は新陰流の馬術、裸乗りの極意をご教示ください」。冷や汗をかきながらも、鞍がないのをごまかした。



ニヤリと師匠・正之進。

善弥も少しずつ、要領を得始めていた。



◎心眼


「何と何と何を、何しておけ」

師匠との推理ゲームが毎日つづくうちに、善弥は師匠のムチャぶりを完璧にこなせるようになっていた。

師匠と日常をともにしていた善弥は、師匠の立場になって「何」を推測し、それを用意することが出来るようになっていたのだ。



「人は当たり前のことしかしない」

たとえば、外出なら上着が必要かもしれないし、テーブルにつけば新聞を読むかもしれない。畢竟、人の行動は限られている。



のちに善弥は、意味不明の用によって「心眼」を試されていたことに気づく。

師匠はこう言っていた。「よいか、目に見えぬ世界を見、耳に聞こえない音を聴かずして、武道などはできもせぬ。剣の道を心がける者が、凡人なみの修行をしていて、どうして大成などできようか」。

相手の身になって「目に見えぬもの」を見ようとすると、善弥は自ずと相手の「先(せん)」が取れるようになったのだった。



◎無理難題


「そろそろ、道場に出てみるか」

その師匠の言葉に、待ってましたとばかりに小躍りする善弥。

いままで武道一筋に生きてきた善弥にとって、稽古のできない一日はたとえようもなく長かった。いつまでも続く師匠の禅問答には内心、不満が鬱屈していた。



ところが、いざ道場に入ってみると、師匠は木剣一本もたず、稽古着にすら着替えていない。

「またもや肩透かしか?」。そう善弥が思っていると、おもむろに師匠は床に白墨で一線を引いた。



「わしはこれからオマエを拳で打つ」

師匠はぶっきらぼうに言い放った。

「オマエはその白線の上に立って、素手で構えよ。一歩も動いてはならぬ」

その口調は、どんどん突き放すようである。

「なお、わしの腕をつかまずに、逆をとってみい」



「…」

善弥は無言であった。

打ちかかる腕をつかまずに、どうして相手の腕の逆がとれようか。しかも、一歩も動かずに…。



そんな困惑する善弥の顔面に、容赦なく正之進の拳は炸裂する。

一発、二発、三発…。

足を使えば善弥にもその拳はかわせたかもしれない。しかし今、武道の生命ともいうべき足を封じられている。そしてさらに相手の逆をとるなど、いかに武道を極めた人間にも不可能に思われた。



◎逃走


幾日も幾日も、善弥は打たれるばかり。

顔面は紫色に腫れ上がり、お岩さんも真っ青といったしろもの。

9日後、たまりかねた善弥は3日間の休養を願い出る。



そして休息3日目の夜、善弥は道場を逃げ出す決意を固めていた。

「こんなバカげた稽古があるものか!」



最後の夕食となるはずだった、その休息3日目の晩、師匠はモグモグと口を動かしながら、こう言った。

「そなた、ここを逃げ出そうと思っても、そりゃダメじゃぞ」

「心眼」をもつであろう師匠には、善弥の浅い肚の中などお見通しであった。



「この村をはさんで上下5駅、合わせて10駅は、どこもオマエには切符を売らぬように、はや厳重に手配をしてあるからのぉ」

師匠は美味そうに夕食を平らげた。

善弥は完全に「先」をとられていたのだ。



◎ヤケクソ


もはや観念した善弥。

翌朝はヤケクソで白墨の線上に立っていた。



相も変わらず、師匠の拳は面白いように善弥の顔面に炸裂する。

一発、二発、三発…。



「クソーーーッ!」

善弥は咆えた。

「バカもの!」

師匠は一喝して、さらなる拳を繰り出す。



しかしその時だった。

上半身をかすかに開いた善弥は、「トーーーッ!」と裂帛の気合をほとばしらせた。

その直後、鶴のような老人の身体は空を泳ぎ、鈍重な響きとともに、善弥の膝下に崩れ落ちた。



◎親指


「うむ。やっとわかったか」

足元の師匠の顔の奥には、ゆっくりと笑いがにじみ出てくる。



師匠のこの意外な言葉に、善弥は我に返った。

どうやらこの間、善弥の意識はあらぬところを彷徨っていたようだ。

師匠は起き上がりながら、相好を崩している。



「何をどうしたのか…?」

あの瞬間、師の4発目をかわすと、善弥は右手で師匠の伸びた腕をとらえ、関節を決めていたのである。

この時、善弥の右手の親指は内側に曲げられていた。つまり、親指は師匠の腕にかかっていなかった。だから、つかんだのではなく、残り4本の指で引っ掛けただけだった。



武道の立ち会いにおいて、とくに体術の場合、親指を用いて相手をつかんだりすると、そのまま逆をとられかねない。親指を制されると、その力を利用して投げられたり、自由を奪われたり…。

ゆえに日本伝来の古武術では、相手の親指をとる技法があまたとあった。



顔面をボコボコにされて、お岩さんのようになりながらも、善弥が学んだこと。

それは「親指」であったのだ。

言ってみれば、師匠・正之進は連日のごとく善弥の顔面を殴りつけながら、それだけのことを自得させようとしたのであった。






◎アメリカ vs 日本


「身体で悟らせる」

武道の悟りに近道はない。



弟子に手とり足とり、一つ一つ丁寧に教える師など、この世界には存在しなかった。すべてが体験であり、体感。そして、土壇場に追い込まれてこそ、その道は開けるのであった。

「立ち向かう 刃の下は地獄なれ 踏み込んでみよ 極意もあれ」と、鹿島神流の道歌は歌う。



のちの善弥は、「今武蔵(昭和の宮本武蔵)」とも呼ばれた「国井善弥(くにい・ぜんや)」であり、生涯無敗を誇った武道家である。

彼を語るエピソードの一つに、こんなものがある。

太平洋戦争終結後、アメリカのGHQから日本の武道家との試合の申し出があった。国と国の名誉をかけた、この一戦。そこで白羽の矢が立てられたのが国井善弥、その人であったのだ。



相手はアメリカ海兵隊の銃剣術家。

対する国井善弥は、木刀一本をもって立ち会いに臨んだ。



その試合は圧倒的であった。

善弥は相手の攻撃をすべて見切り、木刀一本ですべての動きを封じてしまったのだ。

さすがの銃剣術家も、負けを認めざるを得ない。



戦争という国と国の争いには敗れた日本。

だが、武と武、個と個の一騎打ちにおいて、ささやかな面目を躍如させたのが、この一戦であったという。






◎鹿島神流


国井善弥の鹿島神流は、「螺旋をもって発し、戻し、進む」といわれている。

先を取って相手の剣を殺し、相手の太刀筋よりも速く、先方を斬る。

「仕掛業(しかけわざ)に対して、反撃のない場合は、それがただちに決め業となり、『先先の先勝』を得られます。一方、反撃があれば、裏業に転じ、『先の先勝』を得るわけです」と、19代目・関文威氏(善弥の高弟)は語る。



その基本の構えが「無構(むがまえ)」、別名を「音無(おとなし)の構え」ともいう。

「赤子の心のごとく、無我無念にして…」

赤子が頭を叩かれようとする時に示す動作、それが神授の業となる。

「赤子が示す防御法と攻撃法を見習うべし」、人為の知恵が介在しないその業こそが、鹿島神流の業における太刀の操作原理になるのだという。



ちなみに、この鹿島神流というのは源義経が奉納した「天狗書」がその元になっているのだとか…。






◎真似び


「弟子というものは、師のなさることは何でも真似び(学び)、そしてやらなければならんものだ」

合気道の開祖「植芝盛平(うえしば・もりへい)」は、そう述べている。彼には数多くの弟子がいたが、この達人は弟子中の弟子、内弟子には稽古をつけるということをしていない。






盛平の内弟子、「塩田剛三(しおだ・ごうぞう)」もまた、「生ける伝説」と呼ばれた人物であるが、彼は師匠と真剣をもって立ち会ったことがあった。

「どないしたん、塩田はん。わしはこっちゃでぇ」

弟子・剛三の必死の斬り込みをサラリとかわす師・盛平。



京・鞍馬の山中は深い闇におおわれていた。

その漆黒の中、師・盛平は凄みのある笑みを浮べている。



改めて斬り込む弟子・剛三。

闇に白刃が光るや、逆に剛三の眼前には師の切っ先がピタリと止められた。

「いわゆる剣風というのでしょうか。剣でさえぎられた空気が、薄気味悪く私の頭にフワッと乗っかってくる感じで…(塩田剛三著・合気道人生)」






◎死


「塩田はん、いくでぇ」

闇夜の中、師・盛平は太刀を大きく振りかぶった。



「斬られる…!」

そう思った刹那、剛三の額の白鉢巻はハラリと落ちた。



「あと数センチ斬り下げられていたら、自分は間違いなく死んでいたでしょう」

のちに剛三はそう語る。なにせ、相手は日本一の武道家である。



この時、不思議なことに剛三は「死の甘美さ」を感じていた。

「死が身近に、そして楽しいものでもあるかのようにも感じられたのです」と、剛三はかすかに笑った。

のちに剛三は知る、「生死の境を超えたこと」を…。



「死への恐怖心が去った時、はじめて高次の世界は拓ける」

これが弟子中の弟子のみが体得しうる、師の悟りであったのだ…。










関連記事:

生死のはざまに立つ「古武道」。生き残ることこそが最大の勝利。

深淵なる「身体能力」の可能性。古武術の達人に聞く。

「自彊術」の教え。近藤幸世92歳



出典:月刊 秘伝 2013年 02月号 (特別付録DVD付)[雑誌]
「名人・達人たちの内弟子体験 加来耕三」
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2013年02月15日

武術の残すタネとは? 天野敏(太気拳)


「武術の問題は『素質』だというのか?」

それじゃあ、身もフタもない。

稽古以前に強さが決まってしまっているのであれば、弱いヤツは弱いまま、強いヤツがより強くなるばかり。面白くも何ともない。



「それよりも、弱いヤツがどうやったら強いヤツに勝てるのか、ってほうが魅力的じゃないか?」

そう問いかけるのは、太気拳の「天野敏(あまの・さとし)」氏。

「あるがままでしょうがない…、わけがない!」



天野氏の出発点は、技とか以前の問題。

「技の稽古? そんなの後回し!」

「素質」というのは稽古以前の問題。それで強さが決まるというのなら、それを変えてやろうじゃないか。みんなが「生まれついての問題」だと信じ込んでいる、その「素質」というヤツを…。



◎素質


「生まれつき素質に恵まれているヤツなんて、ほんの一握りだ。そうじゃないヤツの方が圧倒的で、私もその一人だったんだ」

天野氏は30年前、その「素質のカベ」に突き当たってしまい、閉塞感と限界を感じていた。



「そもそも、素質って何だ?」

運動神経が良いということだろうか。

「運動神経なんて神経は、身体中どこを探してもない。じゃあ、いったい何を指して言うんだろう?」



運動神経が良いということを具体的に言うのならば、反応が速かったり、動きにバネがあったり、筋力があったり、判断が冷静だったり…。

「いろいろ細かく言えばキリがないだろうけど、まずはこの4つあたりがすぐに思い浮かぶ。つまり『反応速度(反射神経)』『バネ(身体能力)』『膂力』『判断力』。これが素質の内訳ってことだ」と天野氏。



◎稽古


では、素質のないヤツは、どこから稽古を始めればよいのか?

「ここからだ」と天野氏は言う。

ここからって、どこからだ?

「つまり、素質を手に入れるところからだ。普通は技とかを稽古するけど、そんなのは後回しにして構わない。運動神経のないヤツがいくら技の稽古をしたってタカが知れている」と天野氏。



天野氏は素質を先天的なものだとは思っていない。

「先天的だ、と思い込んでいるものを『後天的に手に入れる』。あるがままでしょうがない、と思い込んでいるものを『変えていく』。これこそが『稽古』ってわけだ」



30年前に「素質のカベ」に突き当たってしまった天野氏は、そう信じて稽古を続けてきたのだという。

「限界だとか閉塞感、もうオレはこんなもんだ、っていうカベは、実はこの素質にある。カベが破れないっていうのは、大体これが原因だ」



◎武術の墓場


当時、「素質のカベ」にぶつかっていた天野氏を導いたのは「澤井健一(さわい・けんいち)」氏。彼は太気拳の創始者であり、「拳聖」とも称される人物。

太気拳というのは、中国武術である「意拳」の流れを汲むものであり、戦後の1947年に中国から帰国した澤井健一氏によって日本で創始された武術である。







澤井氏は、師匠であった王向斎の教えを厳守し、道場を持たなかった。ゆえに稽古は屋外、明治神宮で行われていた。

「澤井先生が太気拳を教えていた昔の神宮には、ずいぶんと色んな人が来たよ」と、天野氏は昔を振り返る。「その中には、いろんな武術の段を持っていたり、何年も修行したって人も多かった」。



「そんな強いヤツらが、なんで来たんだろう?」

そんなことを考えていた天野氏は、ふと何かに似ていることに気づく。

「あぁ、宗教か。救いを求めたけれども救済を得られなかったヤツらが、今度はコッチに来てみる。ここでもダメなら、次はアッチと、いろいろ顔を出す」



太気拳には「禅」という側面があり、そこに救いを求めるものも少なくない。

「いろんな稽古をしても思ったようになれなくて、それで神宮に来る。禅を教わる。禅を組めば何とかなるんじゃないか、と」

そうした人々の中では、武術と信仰がゴッチャになっている。

「禅を組んでいれば、なぜか『ご利益』があって、いつか何かの拍子に突然強くなる、なんてね」



「神宮は『武術の墓場』みたいだ」

天野氏は冗談まじりに、太気拳の稽古が行われる神宮を、そう揶揄したりもしていた。



◎勘違い


拳聖・澤井先生が稽古をしていた神宮の森には、多くの者が集い、また去っていった。

そこでの「稽古の意味」に気づく者もいれば、気づかぬ者もいた。



神宮の森の樹々は、そのすべてを見届けていたのであろう。

その樹々の下で禅を組む人の中には、強さという「ご利益」を求める人もいた。

しかし果たして、「樹はご利益を求めてそこに立っているものであろうか?」



「いくら禅を組んだって、勘違いしてたんじゃ何にもならない」と天野氏。

いくら技の稽古をしても、素質を変えなければ何にもならないのと同様、いくら禅を組んだって、「人まかせ(神だのみ?)」じゃあ、どうにもならない。



◎名人


「名人というのは、だいたい身体が小さいもんだ」

拳聖・澤井先生は生前、そんなことを言っていたという。

「この言葉こそが武術の本質を突いている」と天野氏。「つまり、太気拳に限らず、多くの武術の稽古はそういうもんなんだ。技の習得という形を通じて、それ以前のもの(素質)を作り上げようとしているんだ」。



多くの先人たちも、「素質のカベ」にぶつかった。それは体格や身体能力、才能のカベでもあった。

「なんでこんな小さな身体に産んだんだ…」と、親を恨んだ人も中にはいたかもしれない。



しかし、それにもめげずにカベを乗り越えようとした先人たちも確かにいた。そして、実際に乗り越えた人たちもいた。

「その乗り越えた方法が、稽古となって残っているわけだ」と天野氏。



身体が小さくとも、名人と呼ばれるまでになった先人たちの「苦労の結晶」。それこそが稽古であり、技以前のもの(素質)を作り上げる体系なのである。

「名人というのは、だいたい身体が小さいもんだ」

これはじつに、意味深い言葉である。



◎芽


「禅を組むってのを勘違いしてれば、いくら組んでも大した結果を出せないのと同じで、技とか体力という観点からしか稽古を見ることができないと、身体能力の限界で終わってしまう」と天野氏。

本来、素質(身体能力)の限界を打ち破るはずの稽古が、その限界で留まってしまうのであれば本末転倒であろう。



「オレって、運動神経ないから…」

これほど悲しい言葉もない。この言葉の先にあるのは、弱い者は弱いまま、強いヤツがより強くという身もフタもない世界ばかりである。



「じゃあ、そうならないためにはどうする?」

動作のノロい奴はそれを機敏に。膂力のないヤツは力強く。反応のトロい奴は素早く。

「先天的と思い込まれている素質を、後天的に身につける。素質って言われるものを稽古で作り上げていく」、それが武術の稽古だと天野氏は言う。



素質と言われるものは、ある意味、自分に元から備わっているものである。運動神経が良いと言われる奴らは、それが早い段階から芽吹いている。一方、運動神経がないという奴らは、それがまだ芽吹いていないだけだ。

「太気拳ってのは、眠っている芽を揺り動かして、芽を出させる。そんなものだ」と天野氏は言う。「素質があるというのは何のことはない、自分に元から備わっていたものが芽吹いただけだ、ってことに気づくだろう」。



◎花と実


ひとたび素質が芽吹けば、それはいずれ花を咲かせる。それは「強さ」という花かもしれない。

しかし悲しいかな、花というものは、時とともに萎れて散り落ちる。花はまた、若さの象徴でもある。

「散らない花なんてない。だから問題は、花の時期が終わって『実』をつけるかどうかだ」と天野氏。



世の中には、花が咲いても実がならないなんて植物もたくさんある。たとえば、お花見の代表格「染井吉野(そめいよしの)」という美しい桜の花もそうだ。

こんな古歌もある。「ななへやへ 花は咲けども 山吹の 実の一つだに 無きぞ悲しき(兼明親王)」

八重咲きの山吹は花が咲いても実がならない。その花が艶(あで)やかな分、実りがないのは余計に儚(はかな)い、と兼明親王は嘆く。



実がならなければ、種もできない。それを西行はこう詠んだ。

「散る花を 惜しむ心や留まりて また来ん春の 種のなるべき(西行)」

種ができてこそ、次代に花の美しさが引き継がれていくのであるから…。



◎静中に動


「実って何だ? 武術で実るってのは、何が実るんだ?」

天野氏は、そう問いかける。

「生まれついての素質なんてのは、言ってみれば『花』だ。花を咲かせた後には、何が実るんだ?」



天野氏は、この問いとともに「禅」を組んできた。

「いったい今まで何時間立っていたのか見当もつかない(立禅)」と天野氏。



「なんで禅を組むのか?」

この問いへの天野氏の答えは明白だ。

「静中に動をみる。これに尽きる」

静中に動を見て、その動の力を感じ、発展の予感の中に居る。これが天野氏の禅を組む理由だ。



「よく樹を抱くように禅を組む、って言われる。本当にそうだ。禅を組んでいると、まるで樹を抱えているような気分になる」と天野氏。

そして静中に動が満ちてくると、その樹をへし折れる気がしてくるという。そう感じた時だ。考えることもやることも、そして出来ること全てが違ってくるのは。







◎自らの湧き上がる力


「身体の深奥から力が満ちてくる気分だ…」

背中がゾクッと震えて、肌が粟立つ。そして身体の奥から何かが湧き上がってくる。

「こうなって初めて判る。何が判るって? 武術の大元はこの気分だ。技もなにも、すべてがこの上に積み重なるんだ」と天野氏。「いや、判るってのはちょっと違うかもしれない。身をもって感じるんだ…!」。



その力を感じた時、それを感じない人間とは全てが違ってしまう。

「ここが武術の出発点で、禅を組んではじめて、この出発点に立てたということだ」

一時は「素質のカベ」に阻まれていた天野氏であったが、禅を組むことでようやく、その出発点に立つことができたのだという。



「武術の技なんてのは所詮、何の役にも立たない。でも、自らの湧き上がる力で自らを鼓舞する。これは『生きていく力』だ」と天野氏。

時が経てば人生は終わる。それは花のように…。

「でも、その最後の最後まで生き抜こうとする気力。それを与えてくれるのは『身体の奥からの力』だ。これを自らのものにしなけりゃ、武術をやった甲斐がない」



◎動


もし、自らの奥底から湧き上がる力の上に立っていないのならば、それはタネを残さぬ花のように儚(はかな)いものなのかもしれない。

そしてきっと、いつかはこの出発点に戻らざるを得なくもなるのだろう。



素質が芽吹いていないのにも気づかずに、ただ技の練習ばかりをしていては、いつか全てをフリダシに戻されてしまうかもしれない。

それはまるで、「神だのみ」のままに禅を組むようなものだろう。

勘違いしたままでは、虚しさだけが募るばかりだ。



神宮の森の樹々は、動かず物言わぬ。

ただただ、自らに湧き上がる力によって立ち続けている。

静かなるその様にはきっと、途方もないほどの「動」が秘められているはずだ…!







関連記事:
古武術とバスケ、異色のコラボが開いた扉。金田伸夫監督(桐朋高校)

剣道の強さとは? 心の弱さこそがスキになる。

「無心」となれば矢は自ずと的を射る。「弓道」にみる日本の精神性。



出典:月刊「秘伝」2013年2月号
「禅が拓く新しい世界 天野敏」

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2012年01月13日

木彫りのニワトリこそが最強の姿? 横綱の強さとは?


ここは、とある相撲部屋。

若い力士たちが汗まみれで「ぶつかり稽古」に励んでいる。そんな中、ある一人の男が現れるや、部屋の空気は一変する。横綱「白鵬」の登場である。

横綱が身にまとうオーラは尋常ではない。一挙手一投足に風格があり、無言のうちに他を圧するものがある。白鵬は横綱の中でも「大横綱」と称されるほどに別格である。「平成の大横綱」とされるのは、白鵬の他には貴乃花、朝青龍だけである。




そんな大横綱・白鵬も、入門当初は痩せ気味でスラっとしていたのだという。体格が冴えなかったために、どこの部屋でも受け入れを拒んだほどであった(15歳当時は体重62kg、現在・152kg)。しかも、初土俵となった2001年3月場所(序の口)では、「負け越し」という後の横綱としては異例とされる最悪の成績であった。

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しかし、さすがに後の大横綱、その後、メキメキと頭角を現し始める。「白鵬という子は、一晩寝るたびに強くなる」と周囲を驚かせるほどの急成長を始めたのだ。

2004年1月場所で「十両」に昇進するや、わずか2場所で十両を通過。入門からたったの3年で幕入りを果たす(前頭)という快進撃(19歳)。2006年3月場所では「大関」への昇進を決め(生国モンゴルでの視聴率は93%!)、翌場所では「初優勝」という快挙(21歳)。

後の白鵬関は、「基本ばかりをひたすら稽古していた」と語っている。基本というのは「四股踏み」「摺り足」「鉄砲」「股割り」などなど、相撲特有の稽古のことである。



大関まで一気に登り詰めた白鵬関も、さすがに「横綱」の前では足踏みをする。

横綱はただ単に一番上の位というのではなく、まさに「別格」。ひとたび横綱となるや、現役引退までその地位は保証される。しかし、横綱に相応(ふさわ)しくない相撲は決してとれない。成績を出せなくなった時点で、引退あるのみである。

横綱は「神の依り代」ともされ、神が宿る存在でもあるのである。



何度か「綱獲り(横綱になること)」を見送られたものの、当時の大横綱・朝青龍に完勝した2007年3月場所を全勝優勝で終え、満場一致で文句なしの横綱昇進が決定する(22歳)。

現在までの優勝回数21回(歴代6位)、全勝優勝8回(歴代1位)、63連勝の大記録をも樹立する(歴代2位、横綱在位中では歴代1位)。まさに平成の大横綱である。

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横綱の強さとは?

肉体的な強さは言うまでもない。横綱・白鵬が相手にぶつかっていく衝撃力は600kgw以上(平均的な力士の2倍以上)。その破壊力は、3階建てのビルから落下して、コンクリートの地面に打ちつけられた時のものに匹敵するのだという。

スピードも尋常ではない。立ち会いのスピードは秒速4m。短距離選手なみのスタート・ダッシュである。力士の身体は太っているようで、その体脂肪率は20%以下なのだという(肥満とされる体脂肪率は30%以上)。

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しかし、本当の強さは表面的なものではない。

稽古で白鵬関と立ち合った格闘家のピーター・ペタス氏は、「本能的な恐怖」を感じたと語る。拳を土俵につけた瞬間に、「この人に立ち向かってはいけない」と直感し、横綱が動き出した瞬間に、思わず引いてしまったのだという。

横綱の圧倒的な威圧感を、豊ノ島関は「相撲力」と表現していた。相撲力とは相手に力を出させないほどに相手を圧してしまう力である。土俵に立つ横綱は、とてつもなく巨大に見え、自分自身が果てしなく小さく感じられ、横綱を前にするだけで押し潰されそうになってしまうのだという。



そうした大横綱の様は、「木鶏(もっけい)」と例えられることがある(木鶏とは木彫りのニワトリ)。

この言葉を一躍有名にしたのは、かつての大横綱・双葉山である。彼は69連勝という無比の大記録を樹立するが、70連勝がかかった一番で敗北を喫し、その後、立て続けに連敗してしまう。

「イマダモクケイニオヨバズ(未だ木鶏に及ばず)」とは、連勝が途絶えた時に双葉山関が安岡正篤氏に送った電報であった。




木鶏とは?

この言葉の真意を知るには、中国のある故事を知らなければならない。



昔々、闘鶏のための軍鶏を調教する紀渻子(きせいし)という人物がいた。

彼は王にこう尋ねられる。「軍鶏はもう戦えるか?」。答える紀渻子、「まだでございます。空威張りして闘争心ばかりです(虚憍にして気を恃む)。」

10日後、王は再び尋ねられた紀渻子は、こう答える。「まだまだです。他の軍鶏を見ると、いきり立ってしまいます(嚮景に応ず)。」

さらに10日後、「まだです。相手を睨みつけ、圧倒しようとしています(疾視して気を盛んにす)。」



その軍鶏の調教がようやくできてくるのは、その10日後であった。

「そろそろ良いでしょう。他の軍鶏に一向に動ぜず(己に変ずることなし)、その様は木彫りのニワトリ(木鶏)のように泰然自若としています。もはや他の軍鶏がかかってくることはなく、皆逃げ出すばかりでしょう(異鶏あえて応ずるものなく、返り去らん)」



真人(道を体得した人物)の喩えとして語られるのが、この「木鶏(もっけい)」である。その境地において、もはや他者に惑わされることはなく、鎮座する存在そのものが他者の範ともなるのである。

木鶏における強さとは、闘争心でもなければ、他を圧する力でもない。あえて挑むものがいなくなることである。己を変ずることなく、そのままの己がそこにいる。その木鶏のごとき様は「その徳全(まった)し」と表現されている。木鶏の強さは、その「徳」にあるとされているのである。



相撲界における横綱とは、圧倒的な強さのみならず、そうした人間としての大きさをも求められる存在なのである。

日本の武道においては、「ただ勝つこと」がそれほど評価されないことも少なくない。「勝つべくして勝つ」という存在であることの方がより重視されているようにも思う。







出典:SAMURAI SPIRIT 「相撲」

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2012年01月11日

剣道の強さとは? 心の弱さこそがスキになる。


ここは、とある「剣道」の大会会場。この一戦には、全国大会への切符がかかっていた。

「メーーーンッ」という凄まじい雄叫びが会場を揺るがし、鮮やかな一本が決まった。3人の審判の判定も文句なしの一本であり、この一本は全国大会への出場を確定するものでもあった。

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ところが…、ここから事態は急変する。

突然、主審がその文句なしの一本を「取り消した」のだ。会場はどよめき、勝者であったはずの選手も戸惑いを隠せない。



なぜ?

一本を取り消された理由は、一本をとった選手の「一本をとった後の『ある行動』」であった。その「ある行動」とは、「片手だけの小さなガッツポーズ」である。

剣道では、ことさらに「礼」が重んじられる。一本と認められるには、「気」「剣」「体」の三要素すべてが整っていなければならない。「ガッツポーズ」などはもってのほか。たとえそれがどんなに小さな動きであろうとも、相手に対して「礼を失する」行為であることに疑いはない。

それゆえに、一本は取り消されたのである。そのガッツポーズは、気づかぬ人が多かったほど本当にちょっとした動きに過ぎなかったが、主審はその小さな「非礼」をも見逃さなかったのである。



「礼に始まり、礼に終わる」とされるのが、剣道である。

「礼」とは、相手に対する「敬意(respect)」のことである。敵である相手を打ちのめすことが剣道の目的ではなく、敵と相対することで自分自身を磨くことの方が、より大切なのである。

「剣道は肉体的な強さを競うものではない」とも言われる。勝つためだけに剣を振るうことは、剣道とは見なされないのだ。相手との対戦は手段であり、目的ではない。至高の目的は、自分自身の精神的な成長にあるのだという。

「敵はもはや敵ではなく、己を高めてくれる存在である」



剣道におけるこうした精神論は、机上の空論ではない。なぜなら、年をとって肉体が衰えていっても、本当の剣士の強さは逆に増していくのである。

かつて、昭和の「剣聖」とまで讃えられた「持田盛二」氏は、80歳を越えてなお、若き強豪剣士を一切寄せ付けぬほどの強さを湛えていたという。伝説的な映像を見ると、持田氏はほとんど動かずに、猛攻を続ける相手をいとも簡単にいなしている。退くこともなく、出ることもなく、剣もほとんど動かさない。持田氏は「極小の動き」で相手の動きを封じ、一瞬のスキを巧みに突いている。




対する相手も相当に名のある剣士なのであろうが、その名士ですら持田氏の前では踊らされているようにも見えてしまう。まさか、80歳を過ぎた御老体とは思えぬ映像である。彼は89歳で倒れるまで、道場に立ち続けていたという不世出の達人である。




持田氏曰く、

「私は50歳を過ぎてから本当の修行に入った。『心』で剣道をしようとしたからである。60歳になると足腰が弱くなる。『心を動かして』、弱さを強くするように務めた。70歳になると全身が弱くなる。今度は『心を動かさない』修行をした。心が動かなくなると、相手の心がこちらの心の鏡に映って見えた。80歳になると『心が動かなくなった』。それでも、時おり『雑念』が入ってくる。動かぬ心に雑念が入らぬ修行を続けている。」



剣道の教えには「四戒」というものがある。四戒とは、「驚・懼・疑・惑」という四つの心の弱さである。予期せぬ相手の動きに「驚けば」自失し、相手を「懼(おそ)れれば」動きが止まり、相手の動きを「疑えば」決断がつかず、相手の動きに「惑わされれば」混乱する。

どれほど剣の技を磨こうとも、心にスキあらば打ち負かされてしまうのである。剣道は「1000分の1秒で決する」と言われるほどに「瞬時の世界」。わずかな心のスキは命取りともなったのである。



剣聖・持田氏の教えを受けた「新堀強」氏は、かつての師に訓戒されたことを、今なお大切に教え伝えている。

「打たずに打たれなさい。受けずに打たれなさい。避けずに打たれなさい。」

新堀氏は現在、剣道における最高位である「範士八段」という位を持つ。しかし、頂点を極めてなお、遠方にはさらなる高い山が聳(そび)えているのを痛感しているという。師である持田氏の言葉の真意を理解できたのも、頂点を登り詰めた後のことだったともいう。



持田氏の教えは続く。

「力を抜いて柔らかく、相手と仲良く穏やかに、姿勢は美しく匂うがごとき残心を」

この言葉が無比の剣士のものとは…。なんとも和(なご)やかな言葉である。この言葉を聞くにつけ、「剣道の強さは『力や攻撃性』にあるのではない」という意味も見えてくるような気がする。

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「武士たるものは、いかに剣を用いるべきか。そのために、いかに『心』を養うか。」

これは、江戸時代に剣の精神性を重んじた「柳生宗矩(やぎゅう・むねのり)」の書(兵法家伝書)にある言葉である。




柳生宗矩は、徳川将軍指南役として、当代最高の地位にあった人物であり、「古今無双の達人」とも称されている。

「乱れたる世を治めるために、殺人刀を用いて、すでに治まる時は、殺人刀すなわち『活人刀』ならずや」。人を殺す剣を、人を活かす剣へと昇華させたのは柳生宗矩その人であり、剣術を人間の精神性を高める『武道』にまで押し上げたのもまた彼である。また、「剣禅一致」などの言葉の通り、彼は剣を通して「禅」をも説いたのである。




ある時、将軍・徳川家光は宗矩に、こう愚痴った。「なぜ自分の剣の腕が上がらぬのであろう?」

すると宗矩、「これ以上は剣術だけではなく、禅による『心の鍛錬』が必要です」と応えたという。

宗矩の死後、将軍・家光は「天下統御の道は、宗矩に学びたり」とも語っている。剣が心(禅)、そして政治にも通じたというのである。




剣道の竹刀を「単なる棒切れ」と思っているうちは、スポーツの域を出ないとも言われている。

竹刀は「自分自身」であり、敵すらも「自分自身」である。そうした思いが心を磨く「武道」への道なのだとも言う。

剣豪たちの歩んできた道は、決して終わりのあるようなものではないのかもしれない…。




出典:SAMURAI SPIRIT 「剣道」

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2012年01月09日

生死のはざまに立つ「古武道」。生き残ることこそが最大の勝利。


「生きるか死ぬか?」

武道の原点ともいえるこの問いに、何百年と留まったままなのが「古武道」だ。戦国時代の「殺伐とした無骨さ」を残す流派も数多い。



「殺すか殺されるか?」

こう書くほうが、その本質をよく表しているかもしれない。現代に伝わる「武道」が精神性の昇華を導くものであるのに対して、古武道は依然として「生死のはざま」に留まったままなのである。



「生死のはざま」においては、「ルール」が存在しない。「死んだら負け」。それだけである。

その火急の場にあっては、適当な武器すら持ち合わせていないこともある。そのため、路傍の石ころが最大の武器となることもあるだろう。




こうした徹底した実践・実用主義が、古武道の躍動感を生んでいるとも言える。

その躍動感に魅せられてか、現在の日本には300以上の流派が継承されており、今なお日本各地で盛んに修練が繰り返されているのである。流派の中には、頑なに「古(いにしえ)の風(ふう)」を守るものもあれば、積極的に現代化しようとする流派もある。

「甲野善紀」氏の古武道は、現代化されたそれの一つである。彼はかつての武人たちが、現代人と決定的に違う身体の使い方をしていたのではないかと考えている。

「ねじらない・ためない・ふんばらない」。これらが古武道の特徴なのだという。もし、ねじったり、ためたり、ふんばったりすれば、それは次の動きを「敵に教える」ようなものである。




逃げようとする動きも然り。逃げる相手を追うのは、容易なことである。逆に敵の懐(ふところ)へと飛び込んでしまえば、敵の動きを読み易くなる。それは、キーパーが飛び出して、シュートコースを限定するようなものである。



一方、現代人の動きは、非効率で矛盾だらけのものなのかもしれない。我々には「生死のはざま」にいるという感覚は皆無である。無駄な動きが死につながることは、まずない。

ところが、かつての武士たちは、ただ歩いているときに突然斬りかかられることさえあった。彼らの一挙手一投足は、生死を左右したのである。

たとえば、現代の剣道では、竹刀をもつ両拳(こぶし)の間隔が拳(こぶし)一つ分くらい開いている。しかし、甲野氏は両拳をピタリとくっつけて剣を持つ。両拳がくっついていると、剣が振りにくい。それゆえ、手だけで振ることはできず、体全体を使う動きになる。

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手だけで剣を振ろうとすれば簡単に振れるものの、その動きは遅く、簡単に動きを読まれる。それに対して、振りにくい剣を体全体で振ろうとすれば、その動きは極めて速く、予測不可能となるのだという(もちろん、振りにくい剣を振るには長い修練が必要となる)。

目先のやり易さが効率的であるとは限らないことが、この例でわかる。手先だけの技術は動きとして非効率であり、本当に効率的な動きとは、体全体を連動して使うことなのだと、甲野氏は考えている。



古武道の目的は明瞭である。

「相手を殺す」、そして「生き残る」ということである。

目的が明瞭であるがゆえに、その動きは極めてシンプル(効率的)なものとならざるを得ない。そして、そのシンプルさゆえに、古武道には「純粋性」が宿っているようにも思える。



「殺す」という言葉を、現代人は蛇蝎のごとく嫌悪するであろう。

しかし、現代に生きる我々でさえ、戦国時代の武士たちと同じ「生死のはざま」に常に立たされていることを思い起こさなくてはならない。ひとたび「生」を受けた以上、その隣には「死」が寄り添っているのである。

現代人は「隣にある死」を徹底して遠ざけようと尽力してきた。その結果、「死」の影は遠ざかり、生死の天秤があるとしたら、「生」の比重が大きくなった。しかし、それでも「死」は必ずやってくる。天秤が「生」に大きく傾いているだけに、「死」に直面した時の「反動」は尋常ではない。「死」を極度に恐れ、必要以上に「生」へと執着してしまうようになる。



一方、「死」を当然のものと考えていた戦国時代の人々はどうか?

おそらく、彼らの生死の天秤は水平であり、古武道の精神はその天秤の真ん中に立つものなのであろう。生と死の度合いはおおよそ均等であり、生ばかりが当然ではなく、時として、死が当然でもあったかもしれない。



現代社会では「殺す殺される」という機会は極度に減りはしたものの、「生きるか死ぬか」という選択は厳然として目の前にある。人を殺傷する武器は形をかえ、時として自動車や飛行機、タバコなども死を招き寄せる凶器となりうる時代である。

それでも、現代人は「生死のはざま」から多少は遠ざかることができているのだろう。我々は「死」を当然のものとは決して考えない。



その現代にあって、古武道はあえて「生死のはざま」に立とうとしている。そして、そこに「生の限界」を見出そうとしている(生の限界というのは、痛みであり苦しみでもある)。

「人が本当に優しくなれるのは、その生の限界を知った時だ」。

水鴎流居合剣法15代目の勝頼善光景弘氏は、こう語る。他人の痛みがわかるというのは、自分が痛い思いをしたからである。



死の近くには、そうした痛みや苦しみがたくさん転がっている。そして、それらを体験することが、他人への加減にもなり、配慮にもなる。死を遠ざけすぎた現代においては、そうした痛みを体験する機会は大きく減じた。それは、生活の快適性を生んだものの、「本当の優しさ」からは遠ざかることになったのだろう。

「生死のはざまで生き残るためにもがくことで、大切なものを見つけることができる」と、格闘家のピーター・ペタス氏は語る。



我々は死を忘れ、戦争を知らない世代である。こうした時代の人類は過去の歴史において、「歴史を繰り返す」という愚を行うのが常である。生であれ死であれ、天秤が偏り過ぎることは危険なことなのである。

古武道があえて「生死のはざま」に留まり続けることには、理由がある。そして、現代の人々が古武道に魅了されることにも、また理由がある。

古武道の主眼は「生き残る」ことに向けられているのである。時には「殺す」ことによって生き残ることもあろうが、相手を「生かす」ことによっても生き残れる場合があるだろう。そう考えれば、古武道の深淵なる目的にも気付かされる。



古武道を志す人々が戒めるのは、「バランスを崩す」ことである。バランスが崩されれば、それは即座に死を意味することにもつながる。

その点、我々現代人は「生死のバランス」を欠いてしまっているのではなかろうか? 我々には現実がシッカリと見えているのであろうか?



古武道家・甲野善紀氏は、正面からくる力にまともに対抗するようなことはしない。その大きな力の側に入り、逆にその力を良いように利用するのである。

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「死」という強力な力には、まともに対抗できない。しかし、その懐(ふところ)にあえて飛び込むことによって、その力を利用することもできるのではなかろうか。死の側からの方が、生がよく見えるのかもしれない。日本を出た人々が、日本の真価に気がつくように。

この辺りに、死を恐れるよりも、その側に寄っていくという古武道の真意も見えてくるような気がしないでもない。「生があるから死がある」というよりは「死があるから生がある」と考えるのも、また新たな発想を生むように思える。







関連記事:
「無心」となれば矢は自ずと的を射る。「弓道」にみる日本の精神性。

深淵なる「身体能力」の可能性。古武術の達人に聞く。


出典:SAMURAI SPIRIT 「古武道」
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