2014年06月12日

人の気、天地の気 [藤平光一]その4(完)




ヒビわれた茶碗と、坐禅修行 [藤平光一]その1

「気」と植芝盛平 [藤平光一]その2

「心」と中村天風 [藤平光一]その3

からの「つづき」






海軍少将だった叔父は言った。

「アメリカには鬼や熊のような奴がいる。殺されるぞ」



藤平は、そんな忠告を意にも介さず

ハワイへ向かう船上の風に吹かれていた。



ハワイで出迎えてくれた人は言った。

「先生は若いんですね」

当時の藤平はまだ33歳。



遠慮のないハワイの人たちはさらに言う。

「先生は小さいですね」

藤平は小兵だった。身長162cm、体重65kg。



最後は疑ってかかった。

「本当に強いのですか?」



−−現地で私を出迎えてくれた人は、合気道の達人というから「ヒゲでも生やした巨体の人物」を想像していたらしい。こんな小柄な人物が達人だというなら、「合気道は八百長か芝居みたいなものではないのか」と不安を抱いたのである(藤平光一『氣の確立』)。






■洗礼



「ハワイで強いといわれる人を、10人ほど集めていただけませんか」

藤平はそう提案した。実際に技を見せなければ、誰も信用しそうになかった。



すると早速、ハワイの腕自慢たちが続々と集まってきた。柔剣道四段、五段は当たり前。なかには100kg超の巨体プロレスラーまでが混じっていた。

そんな強者たちを自由にかかってこさせ、藤平は次々、軽々と投げてみせた。

そうしてようやく、「これは本物だ…」と認められるに至った。



同年、本土カリフォルニア州にも足を伸ばした。

ここでもやはり同じように試された。

アナウンスは言う、「まだ八百長だと思っている人もいるだろう。そこでこの5人の柔道家にかかっていかせる。突いても蹴っても、あるいは噛みついたりしてもよろしい」

その5人は輪になって藤平を囲んだ。そして、その輪を徐々にせばめながら、一斉に飛びかかろうとした。

−−間もなく、5人が襲いかかってきた。私はそのうちの一人を輪の中央に投げると、そのまま輪の外へ飛び出した。こうなればすでに相手の作戦は破綻したも同然である。私は、彼らが疲れ果てて動きを止めるまで、5人を縦横無尽に投げ飛ばし続けていた(藤平光一『氣の確立』)。



以来、藤平は思う存分、アメリカで合気道を指導した。そして合気道の唱える「心」や「気」といったものを、アメリカ人に啓蒙していった。

その甲斐あって、ハワイを中心に合気道の道場は増え続けた。そして「気」というものがアメリカにも徐々に浸透していった。






■気と心



藤平がアメリカ行きを決めたのには、一つの思いがあった。それは、日本人が戦後の疲弊で忘れてしまった「日本人の心」を思い起こさせることだった。

−−当時の日本人は、私がいくら「気」について語っても、決して言うことを聞こうとはしてくれなかった。それは国民の意識がすっかり海外へと向かってしまっていたからでもある。国産品は見向きもされず、外国製品であればどんなものでも有り難がる時代だった。とにかく日本中が「アメリカかぶれ」と言っていい有様だったのだ(藤平光一『氣の確立』)。



ならば、先にアメリカで「心」や「氣」を広めてやろうじゃないか。

アメリカで認められたものならば、きっと日本人ももう一度目を向けてくれるに違いない。その方が手っ取り早い。

−−この狙いは見事に的中した。いざ日本に帰ってみると、日本の合気道熱も高まっていたのである(藤平光一)。



しかし残念ながら、そうした熱に浮かされた合気道では、「理にかなっていない技」が教えられることも多かった。それは明らかに「気」を軽視しているからだった。合気道を単なる肉体運動としかとらえていないからだった。

たとえば力で相手をねじ伏せていたのでは、自分より力の強い相手には技が効かないということになってしまう。それでは合気道とは呼べない。



そもそも力というのは、相手の気の流れに対抗する動きである。だが本来、そうした相手の気の流れは尊重するものであって逆らうものではない。

−−たとえば相手が私の腕を取りにきたなら、少なくとも相手の手にはある一定の方向に気が流れている。それに対して押し返したのでは、気の流れがぶつかり合うことにしかならない。だが、相手の気の流れに合わせた方向へそのまま私の気を流せば、相手はそのままひっくり返ってしまうのである(藤平光一『氣の確立』)。

まず相手の気を導き、そしてその方向を変える。それが合気の道であり、相手の強さも自分の強さにすることができた。相手が力めば力むほど、技の効果も倍増するのだった。



藤平はそれを実演してみせる。

だが、「藤平先生は強いからだ」と、弟子たちはどうしても力が強い弱いの問題に落ち着いてしまう。

そうではない。藤平が言いたかったのは、「天地の理」、すなわち物は下に落ちるとか、秋冬は春夏の次にくるといった類いの、逆らうに逆らえない理(ことわり)に対して「正しいかどうか」であった。


−−気を出すためには何も特別なトレーニングはいらない。ただ「気が出ている」と考えればよい。心で気が出ていると思えば、すなわち気がほとばしり出る。よく「気が強い」「気が弱い」などと言うが、気に強いも弱いもあるはずがない。あるとすれば、その出し方が強いか弱いか、それだけしかない。つまり、すべては本人の心にかかっている(藤平光一『氣の確立』)。






■不満



敗戦当時、アメリカに占領されていた日本では武道が禁止されていた。

そんな中、藤平の合気道だけは特別に許可をうけ、GHQの前で演武をすることになった。それは司令官が、藤平の語る「争わざる理」にいたく共鳴したからだった。



だが、連れて行った内弟子が勝手なことをした。

その弟子は投げられる前に、自分から調子を合わせてひっくり返ったのだ。

藤平は激怒した。「まだ投げちゃいねぇ! いらんことをするな! 帰れっ!」



弟子のなかには、勘違いしている者もいた。

受け身の反復練習のクセで、何もしていないのに受け身をとる者もいた。相手がこう来たら、転がるものだと思っているのだった。それを藤平は激しく嫌った。肉体の反復動作ではない。それじゃ八百長だ。合気道の技はあくまでも気の力によってなされるべきだった。



そう繰り返し指導しても、間違いはおこる。

「相手の気に合わせるのが道」と思われてしまうのだった。

藤平に言わせれば、それは違う。相手の気は尊重するものであるが、合わせるのは「天地の理」に他ならない。



−−ハワイでの仕事を一通り終え、日本でも目論見どおり合気道は大ブームとなった。しかし、そのありようは私には不満だった。日本の合気道は気のことを疎かにし、技と型だけのものになっていたのだ。私は「合気道とは気があってこそのものなのだ」と訴えたが、それは取り合ってもらえなかった(藤平光一『氣の確立』)。






■分裂



ハワイに合気道本部が設立されたとき、その会館の落成式に植芝盛平を招いたことがあった。

ハワイの弟子たちは熱狂的に喜んだ。

「あの伝説の達人、植芝先生を直接見ることができる!」



現地での歓迎ぶりは、じつに盛大。

武装警官のオートバイが数台、植芝盛平の乗った車をしっかりガードし、街中の信号もすべて止めてしまった。まるで大統領がハワイに来たかのような歓待ぶりだったという。



その伝説の植芝盛平も、昭和44年(1969)に息を引き取った。

道場の後継者には、子息・吉祥丸が立った。



だが、藤平と吉祥丸の合気道に対する考え方は大きく異なっていた。

二代目・吉祥丸は「人の気に合わせるのが合気道」と言って譲らなかった。一方、藤平はつねのとおり「天地の気に合する道」と言い続けた。

これほど理念の異なった2者。一つの道場に共存することはもはや不可能であった。二代目・吉祥丸はハワイやアメリカ本土の諸道場から「藤平の写真」を取り外すように命じたとき、両者の決裂は決定的となった。



それ以後、藤平は「心身統一合気道会」を立ち上げ、独立することになる。

余談ではあるが、植芝盛平が存命中に最高段位十段を与えた人物は唯一、藤平光一のみであった。













■物質と心



「もともと日本では、天地を通じて、心の問題を真摯にとらえていた」と藤平は言う。

だが敗戦により日本にやってきた占領軍によって、日本伝統の心の文化は破壊されてしまった。天照大神の権威は地に落ちた。

その代わりに日本人の心を占めたのは「物質」だった。

−−早い話が、日本はこの物質に負けたわけだ。食うや食わずになった日本人は、必死になってこの物質の道を求め続けた。その結果、大切な心の問題を忘れてしまった(藤平光一『氣の確立』)。



藤平は言う、「心を忘れれば、人間としての反応が欠落してしまう。それを治すためには、心と身体を統一し、天地の理にかなうようにする以外、方法はないのである」

植芝盛平も中村天風もつまるところ、そうした自然体を会得していた人物だった。

「私に言わせれば、自然体というものを独自に会得したというだけで、すでに千万人に一人というくらい貴重な、特別な人なのだ」



藤平はアメリカでこんな話を聞いたことがあった。

飛行機のパイロットが初めて飛行する時、雲に入ると猛烈な恐怖に襲われる。目の前がまったく見えなくなるからだ。

それでもコックピットには種々の計器が状況を把握してくれているのだから、何の問題もなく飛行はできる。それは頭ではわかっている。だが「見えない」という危機的状況は、心の底に恐怖を芽生えさせるのだった。

いずれ雲は通り抜ける。眼前にはふたたび広大な視界がひらける。すると恐怖心は一気に霧消し、とても幸せな気分になる。ところがまた雲に入る。そしてまた恐怖心が…。

そんなことを繰り返すうち、雲があってもなくても同じなんだという当たり前のことを、心と身体が理解する。藤平の言う「心と身体の統一」である。そうして初めて、楽に飛行ができるようになるのだという。



戦後の日本は、いったいどんな雲に覆われていたのであろうか。

いずれにせよ、その不安を解消したのは物質だったのかもしれない。だが現在、あまりにも大量の物質が新たな雲を形づくってしまっている。

藤平は言う、「あまりにも目にあまる状況になったせいか、最近になってようやく心の問題が見直されはじめてきた。心が大事だと言われるようになったのだ」






疑われても、馬鹿にされても、私はまったく平気である。

天地の理に対して正しいことは、いずれわかってもらえる。

それが私の一生であり、人生であった。



2011年5月19日

藤平光一、肺炎のため死去。

享年91歳。













『荘子』にいう



堯(ぎょう)は舜(しゅん)に問うた

「皇帝はどのように心を用いておられるか?」

堯は答える

「寄るべなき民をおざなりにせず、窮する民に心をくばる。死者に悲しみ、子らを慈しみ、女を憐れむ」

舜は言う

「天はあるがままで地は安らか。日月が照らし、四季は巡る。昼は昼で、夜は夜。雨は降るとき降ります」

堯は言った

「私は人に合わせていた。おまえは天地と合している」



荘子曰く

「天下に王たる者は、何をか為さん。天地のみ」






(完)






出典:藤平光一『氣の確立



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2014年06月10日

「心」と中村天風 [藤平光一]その3




ヒビわれた茶碗と、坐禅修行 [藤平光一]その1

「気」と植芝盛平 [藤平光一]その2

からの「つづき」






「日本男児は目隠しなんかいらん!」

銃殺では目隠しされることになっていた。だが中村天風はそれを拒み、磔(はりつけ)の柱上で威勢よく啖呵をきった。

「的を外さぬよう、しっかり狙って撃て!」



時は戦雲のさなか、日露戦争。

天風は軍事探偵として大陸にわたり、ロシア軍に捕まっていた。

そして、今まさに銃殺されんとしていた。



ちょうどその時、馬賊の頭目、ハルピンお春が爆弾を投げつけた。

そして、天風を柱ごとさらっていった。






■中村天風(なかむら・てんぷう)



九死に一生をえて帰国後、

天風は結核に冒された。

−−当時の日本、いや世界随一の北里柴三郎の診たてでも「どうしようもない」と言われたことから、その絶望の深さがうかがわれる(藤平光一『氣の確立』)。



それでも天風は、銃殺寸前で「撃て!」と啖呵をきれるほど肚のすわった男。

日本男児たる驚嘆すべき精神力によって、命を永らえていた。医者には、とっくに危篤状態になっているはずだと言われても。



「日本にいても仕方がない」

そう思うと、天風は中国人に化けてアメリカへ渡った。アメリカになら、自分の病を癒してくれる医者がいると期待した。

ところがアメリカでは失望の連続だった。結局、天風はヨーロッパ行きの船にのり、ドイツの高名な医者のもとを訪れた。しかし、「ワタシにも分からない。もしアナタが先に分かったら教えてくれ」と言われる始末。



もはや万策尽きた。

「どうせ死ぬなら、桜咲く日本で死ぬか…」

悲壮な覚悟のままに、天風はマルセイユを発つ船に乗りこんだ。



のちに天風は、この時の自分を「失意のドン底。文字どおり息をしている屍(しかばね)」と言っている。






■ヨガ



その老人を見かけたのは、アレキサンドリア港に立ち寄ったときだった。

弟子らしき人が扇で仰いでいる。薄紫色のガウンを着たその老人は、どこかの王様のようにも見えた。



「ちょっときなさい」

突然、老人は天風に声をかけた。

「おまえ、右の胸に非常な病をもっているね」

天風はひどく驚いた。顔を見ただけで病を言い当てられた。



「ついてきなさい」

そう言われるまま、天風はインドにまでついて行った。



その老人こそ、ヨガの大哲学者、カリアッパ師であった。

師のもと、天風は3年間、朝に晩に教えを受けた。

インドでの修行は生易しいものではなかった。

天風の身分は「奴隷」。羊や牛よりもはるかに下のランクで、寝るときは羊と一緒。それでも天風は「一人で寝るより温かくて快適だ、極楽極楽」とまったく意に介さなかったという。



カリアッパ師の教えに、具体的なところは何もなかった。

だが、「気持ちを変えるんだ。自分の心が身体を動かすんだ」、そう言われたときに、天風はハッと目が覚めた。



それを実践しているうちに3年が過ぎた。

そしていつの間にか、不治の病はどこへやら、消えていた。












■「心が身体を動かす」



藤平光一は、知人の紹介で中村天風と出会った。

その頃の藤平は、合気道の師・植芝盛平との愕然とした力の差に、もがき苦しんでいた。

−−あいかわらず植芝先生には、もの凄い力を感じていた。私がいくら先生に技をかけようとしても微動だにしない。いったい、この違いはどこからくるのだろうか? 一生懸命考えてもわからない。最後の壁がどうしても越えられないのだ(藤平光一『氣の確立』)。



そんな悩める藤平の前にあらわれた中村天風。

はっきりとこう言った。

「心が身体を動かしているんだ」

その一言に藤平はハッと気がついた。

「あっ! そうか」

それまでバラバラだったピースが一つにまとまる瞬間だった。

「こんな大切なことを忘れていたのか…!」



「心が身体を動かす」ということに気づいた藤平は、もう一度、植芝盛平の動きをじっくり観察してみた。

するとやはり、植芝先生は必ず最初に心を動かしていた。それから身体が動くのであった。先生は相手の気を導き、そして身体を導いていた。

相手の気を知るには、こちらが完全に力を抜いていなければならない。そうして相手の気を尊ばなければ、それを知ることさえできない。植芝先生は、完全な自然体で相手の気を導き、ポンポンと技を決めていた。



−−そこに気づいてからというもの、植芝先生の教えが全部わかってきた(藤平光一)。












■ニワトリ



鶏の動きを止めて、眼鏡をかけさせる

それが中村天風の得意技であったという。

天風が「えいっ!」と気合いをかけると、鶏の動きがピタリと止まる。そのジッとしている鶏に人間用の眼鏡をかけてみせるのだった。



ある地方公演の会場、天風は言った。

「藤平、今日は鶏の一番強い、気の荒いやつを連れてこい」

ああ、あれをやるんだな。藤平はすぐにわかった。



幸か不幸か、そのシャモ小屋にはケンカ専門の鶏がいた。気が荒ぶりすぎて他のニワトリを傷つけるというので、一羽だけが隔離されていた。

藤平はちょっと困った。「よりによって、こんな気の荒いヤツか…」

天風先生からは、「鶏というやつは、一番暗示にかかりにくい動物だ」と聞いている。もし失敗でもしたら…。



やむなくその鶏を捕まえようとすると、聞きしにまさる気の荒さ。たちまちトサカを怒らせて藤平を威嚇にかかる。

とっさに藤平は天風のマネをした。グィッと気を当てたのだ。するとどうだ。なんとその鶏がピタリと止まってしまったではないか。

「なんだ、簡単じゃないか…」

自分にもあっさり出来てしまって、藤平は拍子抜けした。



とりあえず、その鶏は天風先生のところへ持っていった。目を覚まさせて。

すると先生、ニヤリと笑っている。

そして「えいっ!」とやって、大観衆のまえでその動きを止めてみせる。

案の定、やんややんやの大喝采。






■暗示



じつは天風、藤平をからかっていたのだ。

「鶏こそは暗示にかかりにくい」と言いながら、じつは一番かかりやすかったのである。

他の弟子たちも然り。誰も先生の言葉を疑う者はいなかった。この点、むしろ暗示にかけられていたのは、藤平を含む弟子たちのほうだったのである。先生以外にできる人はいないと思い込まされて、誰も試そうとすら思わなかったのだから。



天風にはそんな茶目っ気があった。

そして藤平がその暗示を見切ったのも先刻ご承知だった。

だから天風はニヤリと目配せする。その顔には「黙っていろ」と書いてあった。



ネズミはどうなんだろう?

素朴な疑問から、藤平はネズミに気合いをかけた。昔の剣豪ならば、ぐっと睨んで動きを止めるところだ。だが、ネズミの動きは止まらなかった。ネコもダメだった。

明らかに出来る動物と出来ない動物がいた。一般の人が考えるほど気の力はオールマイティーではないように思われた。どうやら、万能の超能力のようなものは世の人の願望らしかった。






■潜在意識



「起きているとき、顕在意識が上にあって潜在意識は下にある。これは夜寝るときにひっくり返る。顕在意識が下へいって潜在意識が上にくる。朝起きると、またひっくり返る。人間というのは、これの繰り返しだ」

天風はそう語っていた。

確かに人間は、朝どうしても起きなければならない大切な用事がある時、どんなに熟睡しても急に目が覚めることがある。潜在意識が起こしてくれるかのように。



それを利用した天風流の暗示法があった。

「こうやれ」と鏡に向かって自分に命令するのだ。

願望よりも命令のほうが効果が高く、さらに鏡を使うことで命令の力が2倍になるというのであった。



さっそく藤平はやってみた。

命令暗示は寝る間際が一番良い。一つだけのほうがいい。欲張るほどに暗示は弱まる。

「おまえは煙草が嫌いだ」

それを寝る前に1分間。最低半年は試せというでやってみた。



すると確かに効果はあらわれた。

一週間もたたないうちに、煙草が不味いような気がしてきた。そしていつの間にか、煙草を吸うことさえ忘れてしまっていた。半年もすると、煙草は一本も吸わなくなっていた。



「先生、教わったとおりにやったら、煙草をまったく吸わなくなりました」

藤平は天風にそう報告した。

「そうだろう。そう教えているんだ。ただ、皆んなはなかなかやらないんだ」



だが藤平は、そこで終わらなかった。

「おまえは煙草が好きだ」と暗示をかけ直した。

するとその効果はてきめん、すっかり元の愛煙家に戻っていったという。



−−私が本気で煙草をやめたのは、それからしばらくあとのことだった。そのときは「おまえは煙草が嫌いだ」と鏡に一言いっただけで、翌日にはピタリとやめてしまった。つまりこれは暗示の反応力が強くなったということだ。人間には順応性があるようで、暗示の効果も次第に早くなってくる。あれ以来40年になるが、一本も吸っていない(藤平光一『氣の確立』)。






■クンバハカ



「クンバハカ」というのはヨガの呼吸法で、中村天風が弟子たちに教えていたものだった。

その目的は、不動の心と身体をつくるというものだった。



しかし藤平が見るに、弟子たちのクンバハカはどうにもおかしい。

「そんなクンバハカはないだろう」

高弟2人のクンバハカでさえ、不動に思えなかった。試しに、その2人の胸を押してみると、2人はいとも簡単にひっくり返ってしまった。安定打坐のはずなのに、弟子らのそれは力をこめた脆い姿になっていた。



それも仕方がない、と藤平は思った。天風先生は「下腹に力をこめろ」と教えていた。力を込めたら、不動の自然体(リラックス)からは遠ざかってしまう。

−−尻の穴を締めるということは正しい。人間は死ぬと、尻の穴から便がでる。つまり、生きている以上は尻の穴を締めているのが正しい状態である。リラックスしていても尻の穴は自然に固く締まっている。しかし、下腹に力を入れれば必ずみぞおちにも力が入る。これでリラックスなどできるはずがない。下腹は心を鎮めるところであって、力を入れるところではない(藤平光一『氣の確立』)。



むしろ新参の藤平のクンバハカのほうが不動であった。彼はすでに合気道を通して、そうした天地の理にのっとった不動体を会得していたのである。

試しにやってみせた。アグラをかいて、そのまま両脚を上げ、不安定な姿勢になった。そして、高弟2人がかりで両肩を押させた。それでも藤平はビクともしなかった。



「おまえ、それは何だ」、天風先生は聞いた。

藤平は答えた、「これがクンバハカでしょう。先生が教えたいのは、これでしょう」

「そうだ」

天風はうなずいた。そして呟いた。

「負うた赤子に浅瀬を教わる、か…」






■忘れろ



天風先生が危篤だという連絡があった。

藤平は見舞いに行ったが、弟子の一人が「先生はお会いになりません」と言う。

「これは先生からのご伝言ですが…、藤平には弱ったところを見せたくない、と…」



−−なんとも颯爽とした人だった。死ぬときは死ぬのだから、わざわざ弱った姿を見せたくはない。その気持ちは私にもよくわかった。昔、斎藤実盛が討ち死にするときに化粧をして死んだという、あの心境かと思われた。まるで昔の武人のようだった(藤平光一『気の確立』)。

それ以後、藤平は見舞いに行かなかった。



中村天風は昭和43年(1968)、92歳でこの世を去った。

その最期を看取った人々に、天風はこう言ったという。

「おれが今まで長年教えたことは、みんな忘れろ」



−−最期ににやっと笑って死んだという。あれだけ長い間、人に教えてきた先生だ。普通ならそれを惜しむ。自分の教えを守り続けろと言うのが普通だろう。私はここに、改めて天風先生の凄みのようなものを見た思いがした。本当の師とは、こういう人をいうのであろう(藤平光一『氣の確立』)。



中村天風という人物に共鳴した人々は数知れず。

山本五十六や東郷平八郎、原敬、松下幸之助といった大物たちも続々と弟子入りしたものだったという。












■心



−−天風理論というのは「心が身体を動かす」、川の流れと同じだということに尽きた(藤平光一)。

だが戦争で焼けただれた日本では、「心」というものが軽んじられるようになっていた。誰もが食べることに精一杯で、気だの、心だのと言ったところで、なかなか耳を貸す人は少なかった。



「日本人には心など全然ないように見える」と、同胞の心が廃れるのを嘆く人もいた。

確かに国土は焼け野原。他人にかまっている暇はない。自分だけよければ、それでよかった。



だが逆に、アメリカ人のなかには日本を尊敬する人々もいた。

あれだけの小国で、身体も小さいにもかかわらず、なぜ世界を相手にあれほど長いあいだ戦えたのか? 日本には、アメリカにはない精神的な深みがあるのではないか?



それじゃまるでアベコベだ、と藤平は思った。

「日本人は日本を軽蔑して日本文化を捨て、アメリカ人は日本を見直して日本のお茶や禅を学ぼうとしている。こんな皮肉な話はあるものか」



そんな時代が交錯していた時

「ぜひハワイに来てください」と藤平は誘われた。

こういう時代だからこそ、心を説く人が必要なのだという。

「それならば、行かねばなるまい」




こうして藤平の合気道は、ハワイに歩をすすめることとなった。






(つづく)

→ 人の気、天地の気 [藤平光一]その4(完)






出典:藤平光一『氣の確立



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「気」と植芝盛平 [藤平光一]その2



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2014年06月07日

「気」と植芝盛平 [藤平光一]その2




ヒビわれた茶碗と、坐禅修行 [藤平光一]その1からの「つづき」






藤平はいつしか柔道から遠のいていた。

というのも、近代柔道では「心の動き」というものが軽視されているように思えた。身体的な動きだけが研究されて技にされている。となると、どうしても身体が大きくて力の強い者のほうが強いということになる。これは小柄な藤平にとってまったくの不利であった。

「柔よく剛を制すの精神なのに…」

おかしいと思えて仕方がなかった。



そんなとき

「日本にもすごい武道家がいる」

という話を聞いた。



それが植芝盛平(うえしば・もりへい)だった。






■小柄な老人



植芝盛平は白いヒゲを生やし、ニコニコと笑っていた。

しかし、藤平はその異様な気にはすぐに気がついた。

「あれ…、なんか普通の人とは違う」



道場へ案内されると、演武を見せてくださった。

弟子らが軽くひょこひょこと投げられている。

八百長にしか見えないほど、簡単に。



藤平が首をひねっていると、植芝盛平は声をかけた。

「あんたも来なさい」

−−相手は小柄な老人だ。柔道の技でつかまえて、すぐに投げてしまおう。

柔道二段の藤平は、秘かにそう思った。



ところが、つかまれた瞬間、老人に投げられた。

えっ?

わけがわからない。



どこかを触られたり掴まれたりしたのなら、次からはそこを警戒すればいい。

だが、身体をさわられた感触すらない。

考えるほどに分からなかった。



「どうした?」

茫然と倒れたままの藤平に、植芝は声をかけた。

「いや、どうもしません」

起き上がるとすぐに、藤平はその場で入門を願い出ていた。










■リラックス



「合気道はすごいものだ」

藤平にはつくづくそう思えた。

自分がいくら力を入れても、相手は倒れない。逆に簡単に倒されてしまう。中学生からも簡単に倒された。



それが開祖・植芝盛平の技となると、それは凄まじいものだった。

力で投げられたのなら、何とか次の手はある。だが、何もされていないのに投げられてしまうのだ。

「いったい、植芝先生と自分の技は、どこが違うのか?」



ひとつ気づいたのは、リラックスだった。

植芝先生の技は、完全に力が抜けているように思えた。



最初にそう気がついたのは、電車に揺られながらのことだった。

揺れる電車の中で思い切り力んで立つと、電車が激しく揺れるたびにバタンとひっくり返ってしまう。ところが電車の中の鉄柱はそうではない。見ていると、電車が動くときに鉄柱も一緒に動いている。

「ならば、この鉄柱になってしまえばいい」



電車が揺れたら、身体も自然に動揺するに任せる。

すると面白いことに、いつまでたってもひっくり返らない。

普通、電車が動くと、その逆方向へ身体を動かしてしまいがちだが、そうではない。あえて電車の揺れる方向へと身を任せていくのだ。船も同様、同じ方向、同じ方向へと一緒に動いていけば、逆に身体は全然揺れなかった。



たとえば高層ビルは、つねに微動するように設計されているという。それを不動に設計してしまうと、風や地震で簡単にひっくり返ってしまうのだそうだ。

「リラックスしていればこその不動」

目から鱗、それこそが自然体と呼べるものであった。



それまでは、力を入れて相手の技に逆らっていた。

ところが逆に力を抜くと、なぜか相手の技にかからなくなる。不思議なほどに、全身がクタクタに疲れている時のほうが、そうした強さを発揮できた。

当時、藤平は一九会の坐禅・みそぎの行も並行して行っていた。その昼夜を問わぬ激しい修行のあと、腕もあがらぬ疲労困憊のままに道場に立つと、なぜか誰も藤平を倒せなかった。逆に藤平の技は面白いように決まった。



「なぜ藤平は、稽古を怠けているのに強くなっているんだ?」

道場の仲間たちは不審におもった。

じつは藤平、自分では気がつかないうちに完全に力を抜くことを身体で覚えていた。力が入らなくなるほどみそぎの修行を行っていたおかげで、いつの間にか自然体というものを体得していたのである。

あとはそれを意識して、合気道にも応用するだけでよかった。すると相手は簡単に吹っ飛んでいく。そして自分は滅多に倒されないようになった。



植芝先生を見ると、やはり「不動の自然体」になっている。

だが先生は「リラックスしろ」などとは一言もいわなかった。むしろ稽古では逆に「力を入れろ」「力を入れてしっかり持て」と教えていた。










■気



「自分はどれくらい強くなったんだろうか? いったいこの合気道というのは、どれほど効くのだろうか?」

強くなった藤平はそれを確かめたくて、古巣の慶応柔道部に顔を出してみた。

ところが藤平がリラックスしているうちに、パーンと一気に投げられてしまった。かつて圧倒的に藤平のほうが強かったはずの相手にまで、簡単に倒されてしまう。



投げられて藤平は目が覚めた。

「本当のリラックス(自然体)というのは、力が抜けてしまうことではない」

力を抜いて、なおかつ気を出すということが一番正しい。力が抜けただけでは、簡単に吹っ飛ばされてしまうではないか。



一転、藤平は力を抜きつつ、気の重みを下においた。

すると今度は、相手がどんな技をかけてきても全然動かない。誰も藤平を投げられなくなった。

こちらは何もすることはない。ただ相手の動きに合わせるだけで、相手は自ら潰れてしまった。



本当にリラックスすると、全身に気がみなぎった。

ところが筋肉を使おうとすると、部分的にしか力が入らなかった。



藤平はよく、新宿の人混みのなかで気を出す練習をした。

気を出して歩くと、不思議とみんな避けて通る。ところが気を抜くと、とたんに人がぶつかってくる。



そんな話をすると、

植芝先生は「気を前へ向けていたら、後ろもわかるよ」とおっしゃる。

なるほどと思い、さっそくやってみる。すると、後ろの人々の動きまで手に取るようにわかるようになった。後ろを振り返る必要はまったくなかった。






■弱かった



「植芝は、私に入門したころは弱かったよね」

鈴木新吾という人は、確かにそう言った。じつは植芝盛平は兵役を終えたあと、和歌山の田辺で、この鈴木に柔道を習ったのだという。

「熱心なのはいいけれど、ヤブに肥桶を隠して稽古にくるから臭くってねぇ」



その後、植芝は武田惣角という人に習った(大東流合気柔術)。

そして再び、鈴木新吾のもとを訪れた。

「あのときもダメだったよね。大東流を習ってきたから負けない、なんて言いながら、やっぱり弱かったよね」



植芝は投げようとした瞬間に投げられたという。爪先でポーンと飛ばされ、腰をしたたかに打ちつけた。

「あのときは、一ヶ月寝込んだよね」

へんな昔話をされた植芝は、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。



一方、一緒に話を聞いていた藤平は驚いた。

−−あろうことか鈴木さんは、私の目の前で植芝先生が「弱かった」と言われたのだ。それまで神格化されて伝えられていた植芝先生のイメージとは、あまりにもかけ離れたものだった(藤平光一『氣の確立』)。

小説などで植芝盛平は、戦争で敵の銃弾の軌跡を見切ったり、また北海道での開拓団時代には悪者たちを何人も叩き伏せたり、さまざまな武勇伝が描かれていた。



「でも、あのときには強くなっていたね」

鈴木の話によると、どうやら植芝盛平は大本教に行ってから強くなったらしい。

しかも、別人のように劇的に。



植芝自身、大本教の影響はよく口にしていた。

「修行が終わって、ぱっと水を浴びて歩いていたら、世の中が黄金色に変わっていた。見ると、自分の身体も黄金色になっていく。そのときに、虫の鳴き声、鳥の鳴き声がみんな聞こえた。天地の神々が紫色の煙になって入ってきた」

その体験からか、植芝は朝から晩まで祈っていたという。

「これをやらないと天地の神が来ない」

あげていた祝詞(のりと)は、神様の名前だけでも百八あった。



なにごとにつけても、開祖というものは神格化されやすい。

植芝盛平も然り。500mもの距離を一瞬にして駆け抜けたとか、大木を引き抜いたとか、壁を生身で突き抜けたとか…。

−−困るのは、こうしたデタラメが幅をきかし、虚偽の人物像ばかりが一人歩きすることによって、植芝先生が実際にやられた偉大な功績まで、すべてが嘘だということになりかねないことだ。

−−ただし、これはハッキリと書いておくが、植芝先生はとにかく強かった。押しても突いてもビクともしない。鋼鉄のような感じで、なぜこれほど強いのだろうかと、いくら考えてもわからないほど圧倒的に強かった。これは間違いのない事実である。その実力はまぎれもなく本物だったのである(藤平光一『氣の確立』)。










■天



植芝盛平は「氣払い・氣結び」というのをよく使っていた。

氣払いというのは、「えいっ」と氣を払うことであり、氣結びというのは、剣を使って天と氣を結ぶことであった。



藤平ももちろん一緒にやった。

だが、どうしても納得がいかない。

「仮に天と自分とが氣を結ぶとする。ということは、天と自分は相対していることになってしまう」



天と自分は別々なのか?

いや。一つであるはずだ。

−−なぜなら、人間は天地と対立するものではなく、天地の氣の一部なのである。それなのになぜ、わざわざ相対して結ばなければならないのか? そんな必要はない。



藤平にとっては、そう考えるほうが自然であり、そして実戦的でもあった。

−−8人がかかってくれば、その8人の氣はそれぞれ違う。一瞬の戦いのなかで、それぞれ別個に氣を合わせることなどできるのか? いや、一つの天地に氣を合わせるだけで十分だ。






■神々



「あのジイさんを持ち上げてみろ」

あるとき、高松宮は植芝を指差してそう言った。そこで屈強な軍人4人が一度にかかって、小柄な植芝を持ち上げようとした。

ところが、まったく持ち上がらなかった。



藤平もまた、ハワイで大きな力持ち2人に試されたことがあった。

そのとき植芝は「やめさせろ。藤平は上げられる。やめさせろ」と騒いだ。

というのは、藤平は前の晩、明け方まで弟子たちと酒盛りをしており、それを植芝は承知していたのだ。



「藤平のような大酒のみに神々が入るわけがない。やめさせろ」

植芝によれば、天地の神々が身体のなかに入ることによってのみ盤石となり、動かなくなるのだった。弟子たちにも何百回となく、そう言い聞かせていた。だから、酔っ払っている藤平は軽々と持ち上げられてしまうと心配したのである。

だがしかし、藤平はそうは思っていなかった。自然体になりさえすれば平気だと思っていた。



案の定、藤平の身体は大男2人がかりでもビクともしなかった。

さらに現れたハワイの大男たちがウンウン唸りながら持ち上げようとしても、地に根が張ったように微動だにしなかった。



藤平に神々は必要なかった。

藤平は、特別な人しかできないようなことに関心はなかった。

むしろ、みんなができてこそ本当に意義がある。そう考えていた。






■無邪気



植芝盛平は、つねにニコニコと笑う無邪気な人だったという。

自分に子供っぽいところがあるからか、子供も大好きだった。



あるとき、藤平は合気道の子供のクラスを担当していた。

すると植芝はそれが気になってしょうがない。便所に行くふりをしてチラチラと覗き見をしている。

「先生、どうぞ子供たちに稽古をお願いします」

藤平がそう言うと、植芝は嬉しそうに子供たちに技を教えはじめた。しかも、いつもよりずっと一生懸命に、普段はやりもしないような技まで披露して大奮闘。



さらに自分の財布をとりだすと、事務所の人間にアメを買ってこさせた。

そんな好好爺の植芝に、子供たちはすっかり慣れ切ってしまった。寝っ転がってロクに話も聞かなくなった。

「こら! ちゃんと先生のお話を聞け」

思わず藤平は怒鳴る。後ろで見ているお母さん方の手前もある。

「いや、いいから、いいから。子供だから」

植芝はどこまでも甘かった。お母さん方は逆に、大先生に失礼があってはと気を揉むばかりであったという。










■戦争



大東亜戦争がはじまったのは、ちょうど藤平が合気道の稽古をしているときだった。日本が真珠湾を攻撃したというニュースは、道場で聞いた。

藤平もじきに戦地にとられていくことになる。

−−しかし幸か不幸か、この戦争体験こそが結果として私を「天地の理」に目覚めさせ、長年の疑問を解くことなったのだから、人生というものはよくできている(藤平光一『氣の確立』)。



しかし戦争は恐ろしかった。

闇夜の空を、ビュンビュンと敵弾が飛んでくる。

−−私も戦地へ行くと決めてからは、つねに死を頭に描き、死を意識して坐禅の修行を行っていた。しかし実際に弾丸が飛んできた瞬間、死の覚悟などどこかへ吹き飛んでしまった。武士道とは死ぬことと見つけたり、などと言うが、軽々しく口にできるものではない(藤平光一『氣の確立』)。



「畳の上の修行など、役に立たない」

それを藤平は戦地で痛感していた。

「どんな苦行をしても、一発でも弾丸が当たれば、まったく無駄になる」



そして、ふと思った。

「もしも天地に心があるならば、私が天地に修行させられたのなら、ここで死ぬわけがないではないか」



そう開き直ると、その翌日から弾丸が雨のように降り注いできても、まったく気にならなくなっていた。

−−それまでは、弾丸という弾丸が私に向かって飛んでくるような気がしていたのに、そんな気持ちがきれいに消えてしまったのだ。もし小さな弾丸一発くらいで死んでしまうなら、「はい、さよなら」、潔く諦めてしまえばいい。もうやめた、やめた。坐禅なんかやめた。

戦地に入ってからも毎晩つづけていた坐禅であったが、それっきりになった。



それからというもの、不思議と弾丸は藤平に当たらなかった。

調子づいた藤平は「オレのあとを付いてくれば、弾丸なんかみんな避けて通る」と、大ボラを吹いて歩いた。

そして実際、藤平は部下80人ともども、一人の怪我人もださずに日本に帰ってきた。






■天地の理



天地の理に合っていれば出来る。

合っていなければ出来ない。

それが藤平の戦地で拾い得たものだった。



すなわち、植芝盛平に平然とできることができないというのは、自分がどこかで天地の理に違えているからである。そう考えるようになった。

天地の理というのは、誰にも逆らえないこと、あまりにも当たり前すぎること。たとえば、重さが下にあるという類いのことである。



はたして自分のどこが、天地の理と反しているのか?

そんな思いを巡らしているとき、藤平は脳溢血に倒れた。

そして思った、「天地に怒られた」と。



天地に合わないことはやめればいい、そう公言しながら

家内に「それなら、お酒をやめればいいじゃないですか」と皮肉られたまま、飲み続けていたのだった。

倒れた藤平は「もう酒は飲みません」と天地に誓った。



すると、その言葉を天は聞いたのか、2週間で退院することができた。

だが医者が余計なことを言ってしまった。

「一合くらいなら、身体に良いんですよ」



それをしかと聞いた藤平。天地に頼み直した。

「やめようと思いましたが、ここはひとつ医者の顔を立てて、一合だけは認めてください」

なんとも都合の良い天地の理であった。






■剣



かつて藤平は剣道をやってみようかとも思った。

だが実際にやってみると、真っすぐに向いた相手、つまり前から来る敵にしか対応できない。後ろや横からデタラメに攻められるとお手上げだった。

そんな経験から、剣道はやめていた。



ところが軍隊に入ると、そうも言っていられなかった。

「おまえの剣道はおかしい」

予備士官学校にゴロゴロいた剣道の有段者らは、藤平を笑った。



よし、自分流の剣法を試してみよう。

藤平はそう思って、「不動剣」という静止の稽古をはじめた。



裏山へ行き、木立を見ているだけで動かない。

まったく動かない、心だけの稽古。

−−たとえば光は、一秒間に地球を7周半も回れるくらいに速い。心(気)も、その程度には充分速く動けるはず。



その時の身体は停止しているわけではなかった。停止ではなく「静止」、すなわち車がアイドリングをしているような状態だった。

−−停止というのは、完全に動きの止まった状態である。それに対して静止とは、動きを半分、半分と小さくしていって、肉眼では止まったようにしか見えない状態のことをいう(藤平光一『氣の確立』)。



実際の試合でも試してみた。

相手は藤平の剣をパンと払う。すると、気の出ている藤平の剣はすぐに元へ戻る。そのあまりの速さに、相手の剣にはほんの少しの隙が生まれた。そこを藤平は連続して突きまくった。

−−どこを狙うなどということはない。どこに当たったのかもわからないし、とにかく当たれば何でもいいという気持ちだった。さらには勢い余って身体ごとぶつかっていったら、相手はひっくり返ってしまった。



「あいつは無茶だ」

それ以来、誰も藤平の相手をしなくなった。



あるとき、銃剣道の大会にでた。

するとさすがは猛者ぞろい。藤平の戦法を見切った者もいた。藤平が身体をぶつけようとすると、その瞬間サッとよけて、するりと後ろへ駆け抜けていく。

しかし藤平はすかさず振り向くと、その将校の尻を銃剣で突っついてやった。



「こら、人の尻を突くやつがあるか!」

その将校は怒鳴った。

藤平も負けてはいない。「戦いの最中に、相手に尻を向ける奴があるか!」とやり返した。

すると審判は「一本!」と手をあげた。



のちに藤平は、剣道の達人らに左右両方から打ち込ませるという演武を見せている。

不動剣を用いれば、それらを同時にかわすことなど造作もなかった。

−−私の不動剣では、真ん中でドンとやると、瞬時に両方を切ることができた(藤平光一『氣の確立』)。






■壁



だが、どれほど藤平が腕をあげようと、依然、植芝盛平ばかりは微動だにしなかった。

天地の理を会得したと思っていた藤平だが、どうしても植芝盛平のいる領域には入れなかった。そこには最後の大きな壁があるようだった。



藤平にとって、ずっと謎だった。

「植芝先生は、なぜあれほどまでに強いのか?」 

「自分と先生との違いは何なんだ?」



その答えへの道は、次の出会いにあった。。

中村天風(なかむら・てんぷう)

この人物が、藤平に新たな扉をひらくこととなる。










(つづく)

→ 「心」と中村天風 [藤平光一]その3






出典:藤平光一『中村天風と植芝盛平 氣の確立



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2014年06月05日

ヒビわれた茶碗と、坐禅修行 [藤平光一]その1




藤平光一(とうへい・こういち)

彼は幼いころから虚弱であった。

近所で風邪でもはやろうものなら、まっさきにクシャミをする。



親が柔道をはじめさせたのは、なんとかしなければという思いがあったのだろう。

その甲斐あってか、中学に入るころにはすっかり丈夫になっていた。



だが、慶応の柔道部でアクシデントが起こる。

身体の大きな相手に投げられ、左胸を強く打ってしまう。

肋膜炎と診断された。



医者は言った。

「おまえの身体は、ヒビの入った茶碗だ。こんどガチャンときたら、それでオシマイだ」






■山岡鉄舟



失意のなか、学校は一年間休学。

とくかく肋膜炎がおさまるまでは、田舎でジッとしていなければならなかった。



少し治りはじめると、彼は本を読みはじめた。

幸い、実家の蔵には本がいくらでもあった。

意味もわからず仏教書から聖書まで…、とにかく貪(むさぼ)るように読んだ。



そしてたまたま、『おれの師匠』という本に出会った。

それは小倉鉄樹という人が、自分の師匠である山岡鉄舟(やまおか・てっしゅう)について講演した内容だった。つまり、山岡鉄舟の一代記。







幕末から明治を生きた剣豪・山岡鉄舟

欲もなく、何事にも捨て身でぶつかる。

自分で納得しなければ承知せず、とことん自分で体験する。







藤平は切に思った。

そういう生き方がしたい…!



藤平はすぐに飛び出した。

山岡鉄舟の春風館道場はすでに存在しなかったものの、その弟子・小倉鉄樹のつくった道場、一九会(いっくかい)道場が中野にあるというである。

当然、親には内緒だ。猛反対されるのは目にみえていた。



−−それが、今日の私がある、最初の出来事だった。私の原点である。それだけしかない、と言ってもいい。人生はそんな小さなきっかけで、大きく転換していくものなのだ(藤平光一『氣の確立』)










■一九会



道場に飛び込んだ藤平は、とにかく夢中で入門を請うた。

しかし、頭ごなしに言われた。

「慶応のような柔弱な学生にできる修行ではない」



それでも必死に食い下がった。

肋膜炎を患っていることは正直に話した。

「どうせこのままでは、一生涯寝たきりになってしまうかもしれません。それは嫌だから、命がけでお願いします!」



そうした押し問答が続いていると、奥から道場主、日野鉄叟(ひの・てっそう)が現れた。

そして静かに言った。

「坐禅からはじめてみなさい」

入門の許可はおりた。



−−今から思えば、われながら無茶だという気もするが、その行動自体にはなんら迷いも疑いもなかった。そして、こうした真摯な願いこそ、本当に必要なものや大切なものに出会うための条件なのだという思いもある(藤平光一『氣の確立』)。






■坐禅とみそぎ



最初の半年間は、ひたすら坐禅。

京都の大徳寺から、管長の太田常正老師が来る日が、月に3日あった。その3日間は不眠不休、昼夜を徹して坐禅がおこなわれる。夜の6時から坐りはじめて、7時から8時までは老師の講話を聞く。そのあとは、ひたすら坐禅を組んで過ごす。

坐禅は「静の修行」とはいえ、まったく甘いものではなかった。



半年して、夜通しの坐禅にも慣れてきたころ、日野先生は言った。

「そろそろいいだろう」

そして、次なる「みそぎ」の修行がはじまった。



みそぎの修行では、「と、ほ、か、み、え、み、た、め」と、鈴に合わせて腹一杯の大声をだす。

坐禅が静的であるのに対して、みそぎは動の極致。この静動の両修行を同時にやれば、両者を早く体得できるようになる。それが一九会のやり方だった。



冒頭、神前にて宣言される。

「この修行は、生死脱得の修行なれば、喪身失命を避けず、一声一声、まさに吐血の思いをなして喝破すべし」

そして全員が一声に

「と、ほ、か、み、え、み、た、め」

と唱える。あらん限りの大声を絞り出す。時間にして一時間から一時間半。弱ってきた者は、容赦なく背中をぴしーっと引っ叩かれる。



朝5時半頃からはじまって午前に3回、午後にも3回、さらに夜1回。一日に8回も繰り返す。まさに全身全霊を賭けた戦い。その凄まじさに、便所の草履をはいたまま逃げ出す者もいたという。

藤平も、半日たたぬうちに声が完全に潰れた。それでも息だけはガラガラと吐き続ける。夕方には肋膜の胸がチクチクと痛みはじめた。

「とうとう再発したな…。当たり前だ。医師から禁止されたことばかりをやっているんだ」



もはや観念した。

「ええい、ままよ!」

奇妙なことに、捨て身となってみそぎを続けるうちに、痛みは感じなくなっていた。



この荒行を藤平は3日間のセットで、都合60回おこなった。

一方、毎月一回、不眠不休の坐禅も休まず続けていた。



そんなフラフラな状態で学校へ行けば、どうしても眠くなる。授業中はきまって居眠りだ。

だが藤平は少しも身体を崩さず、直立不動の姿勢のままに眠っていたという。

そしてついたアダ名が「天上天下唯我独尊」だった。






■土蔵をけ破る



修行ではひっくり返るまで息を吐かなければならない。

だが、藤平は肋膜を患っているせいで、病巣に息が引っかかってうまく吐き出せない。

そのため、どうしても吐く息が弱々しく、スパッときれいに吐ききれない。いつも一歩引いた感じになってしまうのだった。



小倉先生は言った。

「まず、その殻を壊してこなければダメだ。おまえの心の土蔵をけ破ってこい」



心の土蔵?

何のことかまるで分からない。

アメリカでは「ガラスケースを破ってこい」と言うらしい。



当時、藤平は16歳。

−−あのころの私は、本ばかり読んでいた。だから最初に一九会に入ったときも、頭を凝らし、理屈として納得できないことが多かった。あからさまに言えば、みそぎの効果を頭のどこかで疑っていたのだ(藤平光一『氣の確立』)。



一時期、坐禅をやりすぎて、いわゆる「禅病」にもなった。

なにを見ても「空(くう)、空…」。ノイローゼの一人歩き。現実と空想の境目がわからない。

重症になると、電車が来ても「あれも空じゃないか」と走る電車に向かってしまったり、「あのきれいな花をとりましょう」とビルの屋上から一歩を踏み出してしまったりするらしい。

それが、静的な修行の落とし穴であった。



だが幸い、藤平は極端に動的な修行、みそぎも並行して行っていた。

静から動へと急に移り、ガッシャン、ガッシャンと鈴を振っているうちに、そうした禅病はパッと消えてしまう。しかし坐禅に戻ると、またふたたび妄想が鎌首をもたげてくる。それはまた、激しいみそぎで消え去る。また坐禅。妄想。みそぎ…。静、動、静、動…。

いつしか静動一致。どっちも同じことをやっているのではないかと思えてきた。



ともあれ、激しい修行は藤平の心身をクタクタにさせるに充分であった。

そんな疲労困憊の状態では、修行の是非を疑う頭も働かない。理屈もクソもあったものではない。



肋膜ももう問題ではなかった。

いつの間にか、息はスパッと吐き切れていた。

我知らず、土蔵の殻はけ破られていたのである。






■冷暖自知



坐禅とみそぎを続けて、およそ一年半

慶応病院でレントゲン写真を撮ってみると、肋膜炎がきれいに消えていた。それも、まるで跡形もなく。当然、そんな前例はかつて一つもなかった。

治療といえば湿布だけ。それ以外は何もやっていない。むしろ肋膜に悪いことばかりをやっていた…。



さらに医者は言った。

「こんな立派な心臓は他にない」

医者は「不思議だ」と首をひねるばかり。



−−慶応に復学したときには、ほとんど半病人の状態だった。ところが修行がはじまって命懸けになって、もうどうでもいいやと決めたら、逆に身体が良くなってしまった。肋膜炎は消え、心臓もたくましいと言われる(藤平光一『氣の確立』)。

−−何事であれ、とにかく自分で体得しなければ物にはならない。身体ごとぶつかって会得する。そして初めて自分のものになる。頭でっかちになって、いくら理屈を並べてみたところで、それは何の役にも立ちはしない(同)。



それはまさに、山岡鉄舟のいう「捨て身の修行」であった。

それを坐禅では「冷暖自知(れいだんじち)」という。食うにしろ飲むにしろ、実際に自分の舌で味わってみなければ、味はおろか冷たいのか熱いのかさえわからない。






ところで、

藤平が修行に夢中になっていた、ちょうどその頃、日本と中国は険悪な空気に包まれていた。

そして起きた、日支事変。

時はいま、大きく動かんとしていた。






(つづく)

→ 気と植芝盛平 [藤平光一]その2








出典:藤平光一『氣の確立



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2013年03月12日

武術家の見る「体内宇宙」


「ただ立つ」

それだけのことが、どうやってよいか分からない。



身体を動かしてもいないのに、汗が流れ落ちる。今は真冬だというのに…。

ただ我慢して立つ。疲労にきしむ身体が悲鳴をあげてもなお、立ち続ける。



「大丈夫か?」

そう、立禅の先生が声をかけてくれていなかったら、気を失っていたかもしれない、と「平直行(たいら・なおゆき)」氏は言う。



「その時はじめて、気は首から上に上げてはいけないということを知りました」と平氏。

立ち続けていると、体内には何か「もやもや」としたものが広がってくる。その「もやもや」は気が動き始めた証拠であり、それをコントロールしなければ身体を壊してしまう。

「気を首から上に上げないよう出来てから、ようやく始まるのです」







◎思うこと


何が始まるのかと言えば「太気拳」。

動かないで動く筋肉、思うことで動かす筋肉。それが太気拳の初歩。

「人は思うことで身体を動かします。その思うことを磨くのが太気拳なのです」と平氏。



武術では「皮膚の下の筋肉」が動く。「思うこと」を日々繰り返せば、自らの意志で皮膚の下の筋肉を自由に動かせるようになるのだという。

皮膚で空気を感じることを「思う」。すると、風を受けて皮膚が動くように、風がなくとも自分の意志で動かせるようになる。

今度は皮膚で水を「思う」。そうやって、思う力を大きくしてゆくことで、やがて皮膚の下の筋肉が強く大きく動くようになっていく。



「動かないで動くのは、皮膚の下の筋肉です」と平氏。

立禅は、動かないで身体中を動かす。

そして、その力を産み出すのが「丹田(たんでん)」。丹田を鍛えてある武道家のお腹は「目に見えるほど大きい」。そして、「上下左右に驚くほどよく動く」。

「デブか武道家かは、お腹に触れてみればすぐに分かります(笑)」と平氏。







◎筋膜


平氏の言う「皮膚の下の筋肉」というのは、より正確に言えば「筋膜の下の筋肉」ということになるのかもしれない。筋肉というのは、ソーセージのような薄い膜によって包み込まれているのである。

「思うこと(イメージ)」によってまず反応するのが「筋膜」である、と身体論者の藤本靖氏は言う。



筋膜が反応すると、筋膜と筋肉の間には「スペース」がつくられる。イメージすることにより、実際に動く前に、動けるスペースが空けられるのである。

「イメージせずに筋肉を動かそうとしても、筋膜と筋肉の間にスペースができていないので、筋肉はすぐに動けず、引っかかって固いままなのです」と藤本氏。



太気拳の言う「動かないで動かす」というのは、こうした筋膜の下の筋肉のことかもしれないし、その間のスペースのことなのかもしれない。

そして、そのスペースをつくるのが「思うこと(イメージ)」と藤本氏は言う。







◎地球の力を借りる


武術では、「地球の力を借りる」という口伝がある。

地球の力というのは、下に落ちる「重力」。しかし、ただ力を抜いた状態(脱力)だけでは、武術には程遠い。



「身体を下に落とす動きに合わせて、一緒に皮膚の下の筋肉を下に動かすのです」と平氏。

その際、水が波打つように、皮膚の下の筋肉も下に向かって波打ちながら力を発するのだという。



たとえば、突きを放つ時、まっすぐ突くプラス皮膚の下の筋肉が下に向かい、同時に体重も下に向かってかかる。

「単純に前に出る手に、数倍の重さと威力が突きに加わるのです」と平氏。

武術において、点では攻撃にならない。

「構えた状態の拳から拳が伸びきるポイントまでを結ぶすべての場所に重さがなければ、武術の突きとは言えないのです」と平氏は言う。

ただ力を抜いたばかりでは、武術の突きではない。皮膚の下の筋肉の流れが絶えないゆえに、重さのある突きとなるのである。



◎倒木法


地球の重力を利用する方法に、武術には「倒木法」というのがある。それはいわば、木が倒れるように自らの身体が前方へと倒れる動きを利用するものだ。

しかし、実際に倒木法を行なって前に倒れこんでみると、十分な加速が得られるまでには「思いのほか時間がかかる」。



「身体を『倒れる木』のごとく自然落下の速度に任せる時、完全に倒れきる前に一秒はかかる」

そう言うのは、太極拳の近藤孝洋(こんどう・たかひろ)氏である。

「一秒ありますとね、鍛えた人は5発は打てる。鍛えていない人でも3発は打てる」



武術の勝負は「初動の速い方が勝つ」。もし初動によけいな時間がかかってしまっては、勝負にならない。

では、どうすれば倒木法の初動を速めることができるのか?

初動の遅さは、その「摩擦」の大きさに起因する。そして、それは筋膜と筋肉との間の摩擦の大きさということもできる。



ならば、「思うこと(イメージ)」でその摩擦を少なくするのか?

それも一手かもしれないが、近藤氏はなんと「自分の身体の中に向かって倒れるんだ」と言う。

自分の前方へ倒れると思われていた倒木法は、じつは自分の内側、具体的には「丹田」に向かって落とし込んでいく動きなのだ、と近藤氏は言うのである。



「倒れる方向が逆なのです」と近藤氏。

前に倒れるから時間がかかるのであって、自分の丹田に倒れこむことで、倒木法は初動の摩擦が消えると言うのだ。







◎見えない動き


地球の重力が地球の中心に向かって働くように、人間のもつ重力もその中心たる「丹田」に向かって働くものなのであろうか。

そう考えれば、人間は一個の星であるのかもしれない。



倒木法によって足が一歩前に出るのは、丹田に向かって倒れた後の話。

まず丹田に倒れこむことによって初動の摩擦は霧消し、その結果、予兆のない「見えない動き」が生まれることになる。



沖縄空手も同じようなことを言う。

「筋肉で動いていないから速いのです」と新垣清(にいがき・きよし)氏。

「すべての動きは重力落下。自分は動いていない。落ちているだけです」



重力落下は予備動作を必要としない。

それゆえ、その力を用いた動きは「起こりの見えない動き」、そして「消える動き」の正体となり、相手は反応することすら至難となるのだそうだ。







◎螺旋(らせん)


落ちる力に加えて、武術では「螺旋」の動きも大きな秘訣とされている。

「螺旋とは、手や足を回転させる動きではありません。身体が上に伸びる際に、下に動く皮膚の下の動きが同時に発生すれば螺旋となるのです」と太気拳の平氏。



下に向かう力と、その真逆の上へ向かう力が出会う時、螺旋は生まれる。

それは竜巻と同じ原理であり、互いに矛盾しあう力がぶつかり合うことにより、巨大なエネルギーが発生するのである。



人は落ちることにはエネルギーを使わなくても済むが、立ち上がるにはエネルギーを必要とする。

「ちゃんと立ち、ちゃんと落ちることが重要なのです」と沖縄空手の新垣氏は言う。

その2つの真逆の力を、螺旋という一つの力に集約することによって、それが武術の技となるのであった。



◎宇宙


武道家たちは、自身の体内に小宇宙を見ているのであろうか。

さらにその体内では、自然現象のような竜巻を起こしている。



独自の重力も感じれば、風も感じる。

そして矛盾を恐れない。いやむしろ、その力を利用するのである。



ただ立っているだけでも、大いに動いている。

目に見える動きに至るまでには、想像以上の見えない動きを伴わせている。

密着していると思われた皮膚、筋膜、筋肉の間には、じつは大いなるスペースをつくることが可能であり、それゆえに動かなくとも動けるのであった。



深遠なる身体宇宙。

矛盾の渦巻く身体動作に、その深淵を垣間見る思いである…。







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古武術とバスケ、異色のコラボが開いた扉。金田伸夫監督(桐朋高校)

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出典:月刊 秘伝 2013年 02月号 (特別付録DVD付)[雑誌]

「武術と格闘技をつなぐ私的考察 平直行」
「動きのホームポジション 藤本靖」
「太極拳の探求 近藤孝洋」
「沖縄空手道無想会 新垣清」

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