2014年07月15日

ヨーガの里にて 〜悟り〜 [中村天風] その4(完)




ヨーガの里にて 〜壺中の水〜 [中村天風] その1

ヨーガの里にて 〜心と病〜 [中村天風] その2

ヨーガの里にて 〜死と復活〜 [中村天風] その3

からの「つづき」






■声



滝での瞑想がつづいていたある日

三郎は師にこう愚痴った。

「あの滝の音がうるさくて、どうしても気が散るんです。もっと静かなところだと、いいんですが…」

すると師は不思議そうな顔をした。

「滝の音? あの音が気になるのか?」



「気になるなんてもんじゃありませんよ。あのとおり猛烈な轟音なんですから。一日中あそこにいると、頭までがおかしくなりそうです」

「ほう、それは意外だった」

師が意外だと言ったことのほうが、三郎にはよっぽど意外だった。あの割れんばかりの爆音が気にならないとは…。坐禅というものは元来、静かなところでするものである。そんな考えが三郎の頭の中にはあった。



しかしどうやら、師のほうではそうは思っていないらしい。

師は言う。「あの滝壺で心がまとまらないとしたら、どこへ行ってもまとまらないぞ。だいいち、あの場所はな、私がお前のために苦心して選んだところなのだ」



「え? わざわざですか?」

それは思いもしなかった。

「なぜ、あんなうるさい場所を選んだのですか?」

三郎はそう聞かずにいられなかった。



「それはな、一日も早くお前に『天の声』を聞かせてやろうと思ったからだ」

「え? 天に声があるのですか?」

「ある」

師ははっきりと答えた。



三郎は少し鼻白んだ。また迷信めいた妙な話になってきたと思ったのだ。

三郎はからかい気味に聞いた。「師はその天の声を、実際にお聞きになったことはあるのですか?」



師は揺るがない。

「いつも聞いている。こうしてお前と話をしている間にも、聞いている。天の声ばかりではない、地の声も聞いている」

「あれ? 地にも声があるんですか?」

「もちろんだ。その気になれば、お前にも聞こえるはずだ」

「あの滝壺の轟音の中で、ですか?」

「そうだ」



「…」

なんと無茶なことを言うのだろう。

「それは無理でしょう」と三郎は言った。



しかし師は最後に、こう言った。

「聞こえないと思っているかぎりは、いつまでたっても聞こえないだろうがな」






■小鳥の声



天の声?

地の声?



この滝壺で?

師の声すら、口元に耳を寄せなければ聞こえないというのに…。



半信半疑のまま、三郎はとりあえず耳を澄ましてみた。

しかし、相変わらずの轟音が耳をつんざくばかり。

そのうち、耳だけでなく、頭の芯までが麻痺してきた。



ふと目を開けると、膨大な流れの周りを小鳥たちが飛び交っている。

その一羽をじっと見つめていると、その嘴(くちばし)が微かに動いているのが分かった。

<普通なら、鳴き声が聞こえるはずなんだが…>



30分、1時間と時は過ぎていった。

気ままな小鳥たちは、岩と岩の間を楽しげに往来している。

三郎は必死にその声を拾おうとしていた。だが鳴き声どころか、何の音も三郎の耳にはとどかない。



<やっぱりダメか…>

と諦めかけた時、

チチッ

<あっ…、聞こえた>

信じられなかった。ほんの一瞬ではあったが、滝の轟々たる響きのなかで、鳥の小さなさえずり声が確かに聞こえたのだ。



よし、と意気込んで、もう一度ためしてみた。

<ダメだ…>

一度できたことが出来ないはずはないと、何羽も何羽もターゲットにしてみた。躍起になった。だが、そのことごとくが失敗に終わった。全神経を集中して聞き耳をたてても、耳に入るのは滝の轟音ばかりであった。



すっかり疲れ果てた三郎、坐禅をやめて辺りをブラブラ歩いてみた。もうすっかり集中は切れてしまった。

しばらく、ぼーっとしていると

チチッ

<また聞こえた!>

チチッ

チチッ

今度はいつまでも聞こえるではないか。



何となく三郎には分かった気がした。

聞こう聞こうと躍起になっていると、逆に聞こえない。

むしろ何も考えずにいるほうが、心は澄んでいるようだった。






■地の声



3日もすると

三郎の耳は面白いほどに、いろいろな声を聞けるようになっていた。

小鳥のさえずり、浅瀬のせせらぎ、森からの蝉の声…。さらには、遠くで狼が吠える声までが。



それまで滝の轟音ばかりに囚われていた心は、いつのまにかそこから離れることが出来ていた。

それは、そうしようと意識しないほうが、やはり上手くいくようであった。

なんと解放的な心地良さであろうか。今までは滝の轟音にすべてを閉ざされていたと思っていた。だが、じつは三郎を妨げていたものなど何ものもなかったのだ。それに気がついた。



「そうか、それは良かった」

師も喜んでくれた。

そして、次なる課題をさずけてくれた。

「一口に『地の声』といっても、いろいろある。虫の鳴く声から、風に揺らぐ微かな枝葉の音まで。そのうちの一つ一つを、自分の思うままに取り出して聞いてみなさい」

さらに、こう付け加えた。

「心が本当に澄んでくると、アリの這う音ですら耳に入ってくる」



「…」

はたして、アリが音など立てて歩くものだろうか。

そういえば、禅寺では線香の灰の落ちる音を聞くというが…。






■天地の声



3日、4日、そして10日と経った。

しかし、三郎の大きな耳でも、アリの音をとらえることはできなかった。



「そうか、聞こえないか」

師は微笑むばかり。

「『天の声』を聞こうとする者なら、そのくらいは出来なくてはいけないのだがな…」



天の声と言われると、ますます分からない。

地の声が地上の音ならば、天の声は風の唸りか…?



一ヶ月がたった。

師は相変わらず何も教えてくれなかった。それでも、小さなヒントはくれた。

「たとえ、どんな音が耳の中に入ってこようと、心の方がそれを相手にしなければよい。そうすれば自然に、天の声が聞こえてくる」



<よし。地の声を相手にしなければいいのだな>

三郎は俄然やる気になった。改めて坐を組み直した。そして、地の声を聞かぬように聞かぬようにと努力した。

しかし、そう思えば思うほど、心は地の声に囚われるようで、地の声はますます大きくなるばかり。かつてはあれほど苦労して聞こえるようになった地の声が、いまはただ忌まわしいだけだった。



師はもう何も言わなかった。

三郎も、どう聞いていいのか分からなかった。






そして三ヶ月がたった。

さすがに三郎は、すっかり音をあげてしまった。



「どうしても出来ません…」

誇り高き三郎にとって、そう打ち明けるのはひどい苦痛であった。

すると師は「むずかしいと思えばむずかしい。やさしいと思えばやさしい」と、意味のわからないことを言う。



「たとえば今、お前はこうして私と話しているね。その間にも、お前の耳にはいろいろな音が入ってきているはずだ。蝉の声やら鳥の鳴き声が。でも、今のお前はそれらを相手にせずに、私の話だけを聞いているだろう?」

「はい…」

「ほら、簡単だ」

「…?」



よく分からないが、分かった気もした。

でも実際にやってみると、やっぱり分からなかった。

そのまま、もう一ヶ月が過ぎた。






■天の声



「もう、やめた!」

三郎は突然、すべてを投げ捨てた。

「天の声が聞こえたところで、どうなる? 馬鹿馬鹿しい」



その身を草むらに投げ出し、大の字になって寝っ転がった。

仰いだ空は紺碧だった。

小さな千切れ雲が、ひとつ、ふたつと漂っている。



その時、一瞬、なにかが閃(ひらめ)いた。

<あっ、これのことか…?>

なんとも言えぬ清々しさ。ほんのわずかな時であったが、三郎は一切のとらわれから解き放たれたような気がした。






「どうやら、できたようだな」

その帰り道、三郎が何も言わなくとも師はわかっていたようだった。

しかし、そう言われても、三郎には自信がなかった。というのも、何も聞こえていなかったからだ。ただ、何かが分かったような気がしただけで。



「それが天の声なのだ」

師は三郎の心を見透かしているように言った。

「聞こえない声。声なき声。絶対の静寂(しじま)。それが天の声なのだ」



確かあの時、三郎は地の声を聞いていた。聞こうとも聞くまいとも思わずに、ただ聞いていた。そして師の言うとおり、聞こえているのに聞こえていなかった。

師は言った。

「お前が天の声を聞いている間は、辛いことも苦しいこともなかっただろう。そこに心を預けるとき、人間の生命は本来の面目を取り戻す。秘められた本然の力が勃然として顔を出す。それが本当の人間の姿であり、あるべき姿なのだ」



三郎は深くうなずいた。

師は続ける。

「このことが分かったのなら、できるだけ心に天の声を聞かせてやりなさい。そこにはもう、病もなければ煩悶もない。そうした生き方こそが、人間の生き方だ。それよりほかに、お前の生きる道はない」



三郎は思わず「じゃあ、病は治るのですか?」と意気込んだ。

師はあきれたように、「治る治らないを考えたら、心はまた元へ戻ってしまうではないか。お前はすぐ他に道を求めるから、そんな惨めな目に遭うのではないか」と三郎をたしなめた。



「たとえ身に病があっても、心がそこになければ、その人は病人ではない。反対に、病がなくとも病のことを考えているのなら、その人は病人と同じだ。お前の病も、これからは肉体だけのものにしなさい。心にまで迷惑をかけるでない。本当に安らぎは、声なき声のある世界にしかないのだ」

師の言葉に、三郎の目が涙でかすんだ。今まで分からなかったことが一気に氷解した思いだった。具体的に何かが分かったわけではない。しかしそれでも、今までの人生がいかに誤っていたかは分かった。

三郎がようやく聞いた「声なき声」には、師の言うとおり、確かな安息があった。



<あぁ、自分は救われたのだ…>

言葉にならぬ喜びが、三郎の肉体にあふれた。






■無念無想



あの日以来、三郎の進展には目覚ましいものがあった。

体のだるさも次第に遠ざかり、痩せ細っていた手足には、肉がつきはじめた。



この村に来た当初、三郎は肉も魚もない食事に文句を言ったものだった。

しかし結果はまるで逆だった。三郎が必要だと信じていた肉や魚よりも、村のあっさりした粗食のほうが病身を癒すには理想的だった。

また、ヨギたちは実によく噛んでいた。水を飲むのにも噛む仕草をしていた。三郎もそれを真似た。おかげで唾液がよく出て、消化器官への負担を減らす役に立ったようだった。それが、100歳を越しても元気なヨギたちの生活だった。






いつものように三郎は、師のロバのあとに付いて歩いていた。

しかし今日は暑い。額から汗がしたたり落ちる。



しばしの休憩

三郎は石の上に腰をおろすと、汗を拭った。そして、高峰カンチェンジュンガを見上げた。いつもながらに、心洗われる美しさである。

あたりは蝉の声に満ちていた。数十、いや数百はいるのだろう。おびただしい蝉の鳴き声が、山々を覆わんばかりである。



その時、ふっと蝉の声が途絶えた。

それまでの喧噪が一転、空白静寂となった。



<あっ、これだ…!>

蝉が鳴き止んだわけではなかった。

三郎がふたたび「天の声」、あの声なき声を聞いたのであった。



何も思わず、我も思わず。

無我にして無念無想。

そんな三昧境(サマーディ)に、一瞬とはいえ三郎は入れるようになっていた。少しずつではあるが、三郎の心に積もっていた塵が、取り払われつつあった。






■朝の川



朝夕、だいぶ冷え込むようになってきた。

このヨーガの里に来てから、3度目の冬が迫っていた。



薄い布をまとっただけの三郎の肌を、朝の冷気が強く刺す。

その寒さを気にもせず、三郎はその薄布を脱ぎ捨た。

腰布一枚の裸になった三郎。その筋肉は赤銅色に輝いていた。もはや病人の面影など感じられない。川へと向かう歩みにも、堂々たる力強さがあった。



朝靄の川辺では、すでに幾人かのヨギ(ヨガの行者)が水に浸かっている。

三郎もいつもの場所に身を沈めると、朝の行である打坐(ダーラナ)を組んだ。

氷河より流れくる水の冷たさは、三郎の腰下をぐっと締めつける。それでも、三郎の心には一点の動揺もなかった。



しばらくすると、流れのなかを静かに歩む人の気配がする。

カリアッパ師である。師はゆっくりと、ヨギたちの行を見て回る。



その気配が三郎のそばで止まると

「それでよい」

と小さく言った。



そんなふうに言われたのは初めてだった。

三郎はこの2年半で、明らかに人が変わっていた。

それまでの理詰めは影をひそめ、より直感的に物事をとらえられるようになっていた。



それから数日

三郎の打坐は、より静けさを増していた。静寂の支配する渓流のなか、三郎の心はすっかりそれと同化し、静そのものとなっていた。

彼にはもはや、打坐をしているという意識さえ希薄であった。



「そうだ。それでいいのだ」

ふたたび師は優しい声をかけてくれた。



ところが川を上がった途端、「終わった」という安堵感からか、三郎の心に隙が生まれた。またたくまに朝の冷気に打ちのめされた。襲いかかってきた寒さに、三郎の体はブルブルと震えが止まらなかった。

「それではダメだ」

そこには師が立っていた。その叱声はじつに冷淡であり、師はそのまま足早に去ってしまった。






■体得



なんとも後味が悪かった。

川の中では自分でも、心身ともに安定しているのを感じていた。身を切るような冷水の中でも、心が揺らぐことはなくなっていた。

しかし川から上がると、自分でも頼りなさを感じてしまう。



「そうだ、そうだ。それだぞ」

川の中では、再三、師は納得の声をかけてくれた。

しかし、川から上がった三郎には、師は決して満足しなかった。どんなに気を緩めないようにしても、師は失望したように三郎に背を向けるだけだった。



どうしたらいいか分からなかった。

それでも、もう三郎は理詰めで考えようとはしなかった。頭で何とかしようとしても、結局は遠回りになることが分かっていた。

三郎はただ、打坐なら打坐、瞑想なら瞑想、ひたすらその中に自分を溶け込ませていくことだけを心がけた。そうしている間は、疑念も苦しみも消え去っていた。






ある朝、三郎は閃いた。

<そうだ…、川の中のままがいいと言うのなら、このままそっくり岸辺へ上がってみよう>

その決意のままに、三郎はそっと目を開いた。

そして、身も心も川中にあったそのままに、それを微塵も崩すことなく、岸辺へと歩んでいった。



「そうだ! それがクンバハカだ!」

師の快活な声が響いた。

「よくできた。よくできた」

師は子供のように喜んでくれた。



三郎は師の下にひれ伏した。

その三郎の両肩を、師は力強く抱きしめた。

ぽたり、ぽたり、と三郎は首筋に熱いものを感じた。師が涙を流していたのである。思わず三郎も涙した。師がそれほどまでに喜んでくれたことが何よりも嬉しかった。



クンバハカとは、ヨギにとって大きな難関とされるものである。

「壺の中に水をいっぱいに入れた状態」と師は教えてくれていた。しかし、それから1年半、三郎は五里霧中の状態が続いていた。

それが今朝、三郎のものになったと師は言うのだ。にわかには信じられなかった。人によっては何年も、何十年もかかると言われていたのだから…!






■本有の心



三郎は毎日、秀峰カンチェンジュンガを仰ぎ見てきた。

そして今さらながら、その自然の威に打たれる。



「カンチェンジュンガ」とは、もともとチベット語である。「カン」は山、「チェン」は大、「ジュンガ」は五つの宝。日本風に言えば、五宝大山とでもなろうか。

ヒマラヤの山々は概して、刃物を突き立てたような鋭さをもつ。そうした峰々にあって、カンチェンジュンガは珍しく容量を誇った山である。その周囲には、その名の示すとおり、5つの衛星峰が居並ぶ。

人の世の無常を思うとき、これら白き神々の座は泰然、むしろ「思うところなし」といった風である。






いつものように、三郎は滝壺の大岩に坐した。

クンバハカを体得した今、それまでの景色が一変して三郎の目に入った。

眼前の奔流も、点在する大小さまざまな岩々も、そして飛び交う小鳥たちも、それらすべてが輝ける存在のように感じられた。身に浴びる細かな飛沫ひとつ一つまでもが、水晶の玉のように思われた。



不思議ともう、心の動揺はなかった。

自分が不治の病に冒されていたことなど、すっかり忘れていた。わけもなく死を恐れていた自分は、もはや遠い他人のように思われた。

クンバハカは、心身ともに完全な状態と説明される。感情の動揺などとは一切無縁の境地。そこに心の動揺など入り込む余地はなかった。



「朝(あした)に道を聞かば、夕(ゆうべ)に死すとも可なり」

かつて孔子はこう言ったという。

そして「道」は、「本(もと)より具(そな)われり」とも。



本有の心

仏教などでは、もともと心は不垢不浄であると説く。

それが世間の俗塵にまみれることで、本来の輝きを失っていくのだという。



三郎の場合、彼がかつて自慢にしていた知識や学歴、文明国の人間だという優越感などが、本来の心を曇らせていた。

しかし、それら俗念は自分のもののようでいて、自分のものではなかった。取って付けたような儚いものにすぎず、いたずらに恐れを生じさせる厄介ものでしかなかった。

古人いわく、「眼裏に塵あって三界窄(すぼ)く、心頭無事にして一生寛(ゆた)かなり」

目の中にわずかの塵があるだけで、見える世界は狭くなる。そうしたものが心に一切なくなって初めて、廓然無聖、世界は開けるのだ、と。



もし、三郎がそれら塵のようなものに心をとらわれていたかぎり、「絶対不可能の暗中模索」は続いていたことだろう。そしていずれ、「この病は治らないのだ…」と諦めたままに死を迎えていたかもしれない。

それが幸いにも、三郎はカリアッパ師の知遇を得ることができた。今にして思えば、師の言うこと為すこと、そのすべてが懇切丁寧に、いまの自分へと導くものだった。師の厳しい一喝までが、いまは有り難く思い出される。

おかげで三郎の濁っていた心は、少しずつ洗われていったのだ。



その教えはいずれ、不立文字、言葉を越える領域にまで及んでいった。言葉でクンバハカを知ることなど、およそ無意味である。それは師の言うとおり、自得するものでしかなかった。

「ちょうど独楽(こま)を廻すに、はじめは綱とともに廻るが、おわりに綱を放れて廻るように…、真道を大覚し…(梅路見鸞)」の言葉どおり、カリアッパ師は導けるところまで、三郎の手を引いてくれたのだった。

それが今の三郎には、痛いほどに理解できた。






■別れ



クンバハカの会得から、およそ一ヶ月もした頃だった。

師は三郎を家に招いた。そして言った。

「お前はじつによくやった。初めの一年は、病人でありながらも本当によくやった。さぞ辛い思いもしたであろう。しかしそのお陰で、お前はクンバハカを身につけた。私も今まで、ずいぶん多くの弟子を育ててきたが、お前のように、こんなに早くクンバハカを会得した者などいなかった」



その温かい言葉に、三郎の胸は熱くなった。

師は続けた。

「あとはもう、自分の国へ帰って、幸せに暮らしなさい」



思わず、三郎は泣き伏した。

子供のように大声をあげて泣き叫んだ。

見ると、カリアッパ師の両眼からも涙があふれている。



師は、泣きじゃくる三郎を慰めた。

「寂しがることはない。もし困ったことがあっても、私の代わりに”もう一人のお前”がいるではないか」



もう一人の自分

かつてそれは、三郎を苦しめるだけの存在であり、墓場にしか導かないものだった。

だが今はもう違う。塵の払われた心は、花の咲く方へと向き続けている。「濁に入って濁らず、汚に入って汚れず」。それがクンバハカを会得した者の心。心ない人間社会にあっても、三郎の感情が乱されることはそうそうないであろう、と師は言うのであった。



別れに際し、師は紙に何かを書き付けた。

旺喇毘呍陀

「おらびんだあ。どうだ、いい名だろう」



それは師が考えてくれた三郎の名前だった。

「陀(だあ)」という称号は、一定の行を終えた者にだけ贈られる敬称であった。



その紙片を見つめ、三郎はまた涙した。

師は、崩れんばかりの笑顔であった。






■後日



帰国後、日本は大きな戦争を経験した。

そして敗れた。

敗戦国となった日本は、アメリカの領するところとなっていた。



その占領から2年

昭和22年(1947)の秋のこと

中村三郎(天風)は、東京有楽町の毎日ホールの演台に立っていた。それはアメリカの高級将校が企画した講習会で、三郎はヨーガの講師として招かれていたのであった。



大柄な外国人らを前に、諄々と説く小柄な日本人。

それは一種、異様な光景であった。もとより、誇り高き戦勝国の軍人が、敗戦国の一市民の言葉に耳を傾ける、それ事態、破格の待遇といえた。

言い換えれば、三郎が本場インドから持ち帰ったヨーガの哲学とは、それほどに貴重なものであった。しかしそれにしても、当時の日本にも多くのインド人がいたはずである。そのなかで、あえて日本人の三郎が講師に抜擢されたのは、彼本人の体得していたヨーガの深淵さであったのだろうか。



毎日ホールには連日、250人ものアメリカ将校たちが押し寄せていた。

本日はその7日目。いよいよ佳境へと入りつつあった。



三郎は朗々と、堪能な英語でもって語る。

「…この方法は、私が35の時に、遠くヒマラヤの麓で、2年7ヶ月におよぶ難行苦行の結果、ようやく得られた貴重な方法なんであります。あちらでは、これをクンバハカと言っていますがね。

 ま、本当言うと、あなた方にも、私が嘗めたようなあの艱難辛苦の末に、あなた方ご自身が体得されれば、あなた方のためには一番いいんですが、それはできない相談ですから、ここで私が手っ取り早く教えてしまおう、というわけです。

 それでは、その方法なんですが、口で言ってしまえば簡単なことなんです。感情にとらわれたり、感覚的な衝動に見舞われたとき、それから逃げようとか打ち消そうなんてことは考えないで、一瞬、まず肛門を閉めてしまうんです。

 かっと腹を立てたり、恐ろしいと思ったような時にですよ、それを鎮めようと、たいていの人は一生懸命努力するんですが、それは一見もっともなようでいて、これほど無駄なことはないんです。それで押さえられればいいですけど、押さえられない。それよりも、それはそれで放っておくんです。それで気がついたら、さっと肛門を閉める。

 そして同時に、お腹の下の方にぐっと力を入れる。その時、肩の力を意識的に抜いてやるんです。肛門と、お腹と、そして肩と、この3つを瞬間、同時にやるんです。同時ですよ。1、2、3と次々にやるんじゃないんですよ。一緒にやらなきゃあいけない…」



そこまで話したとき、静かだった会場に、突如、奇声が発せられた。

「ハロー! グレーター!」

その金切り声をあげたのは、アメリカの女性少佐であった。



彼女は壇上にまで駆け上がるや、三郎に抱きついてきた。

その興奮冷めやらず、涙をぼろぼろと流して、三郎に口づけの雨を降らせた。



「ルック、ヒャー!」

女性の示した古ぼけた紙片には、クンバハカの命題が記されていた。それは3年前、アメリカのヨーガ・スクールで与えられたものだと言う。

そしてクンバハカをこう説明されていた。「自分の体を、コップに水をいっぱい入れたような状態にする」と。当然、彼女にとってそれは難題であった。時がたてば経つほど、その難解さは深まるばかりであった。



それが今日、三郎の一言によって、わがものになったと彼女は叫ぶ。

この思いもかけない出来事に、ほかの聴衆らは唖然とするばかりであった。



しかし三郎ばかりは、彼女の喜びがよく理解しえた。

そして脳裏には、あのカンチェンジュンガの威容が鮮明に思い起こされていた。



世話をしてくれた老爺

滝壺の轟音

川での打座

天地の声

そしてカリアッパ師…



夢のごとき昔日は、今もありありと三郎の心中にあった。






三郎はいつしか、女性少佐とともに涙していた。

この女性の姿は、ありし日の自分であった。

そして今の自分の涙は、あの日に、師が流したものだった。



ここには、自もなければ他もなかった。

ただただ、大きな喜びだけがあふれていた。

お互いの壺はもう、同じ水で満たされたのだから。













(完)






出典:『ヨーガに生きる―中村天風とカリアッパ師の歩み』おおいみつる



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2014年07月14日

ヨーガの里にて 〜死と復活〜 [中村天風] その3




ヨーガの里にて 〜壺中の水〜 [中村天風] その1

ヨーガの里にて 〜心と病〜 [中村天風] その2

からの「つづき」






■恐れ



「病は必ず治る」

カリアッパ師は力強く断言した。



しかし、こうも続けた。

「治るけれども、時がくれば死ぬ」



それが天の摂理だと、三郎(のちの天風)もわかっている。

しかしそれでも、死を恐れる気持ちを禁じえない。自分の病が治るとは、自分自身が信じきれていない。



「人間は、とかく死を恐れる」

三郎の心中を見透かすように、師は言った。



三郎の心は大きく動揺した。彼は幼少より武士の教育を受けてきただけに、死を恐れるということを最大の恥辱と考えてきたのである。

<死を恐れるなど、男子としてあるまじきこと>

しかし、今の自分は明らかに死を恐れている。故国を遠く離れた、このインド山中で野垂れ死ぬことを。それを認めないわけにはいかなかった。



師は言う。

「いずれ死ぬことが分かっているなら、それを恐れたり気にすることなどない。同じ死ぬなら、気にしないほうが気楽だろう。死にもしないうちから、死ぬことを気に病むなど無駄なことではないか。いや、無駄以上に滑稽だ」



その言葉は、三郎の胸にズンときた。

じつは三郎も、ロシアの戦場ではずっとそう思ってきた。戦争という異常な心理状況においては、三郎も死などは少しも恐れなかった。殺すか殺されるか、そんな修羅場を三郎は何度も斬り抜けてきたのである。









しかし今は違う。

平和のなか静かに迫る死とは、かくも恐ろしきものなのか。

<同じ死との対決であるにもかかわらず、条件が変わるとこうも情けなくなってしまうのか…>

三郎は、そんな自分を嘆かざるをえなかった。






■眠り



「お前は戦争のときにも、同じような体験をしたそうだねぇ」

「はい。戦争では二度か三度、『もうダメだ』と覚悟しました」

「でも、その時も夜になったら眠っただろう」



「…」

三郎は、師の言わんとするところをつかみかねた。



師は構わずに続ける。

「あのな、死は『目覚めない眠り』、つまり永遠の眠りと言うねぇ。その通りだよ。夜よく眠っている間は、死んでいる時とまったく同じなのだ。とすればだ、われわれ人間は毎晩眠っているわけだが、それはそのまま毎日死んでいるのと同じことなのだ」

「…?」

「もっとはっきり言うと、人間は毎晩死んで、毎朝生き返っている」

「…?」



「では、永遠の眠りと、普通の眠りの違いを知るのは誰だ?」

「…」

「お前が眠っているとする。そのとき、『よく寝ている』と思うのはお前自身かね?」

「いえ、違います」

「そうだろう。眠っていると自分で思っていたら、それは眠っていない証拠だ。つまり、それが判るのは本人ではない。周囲の者がそう判断するのだ。その眠りに命があるかどうかは関係ないのだよ」



「では聞く。毎晩眠るのは恐ろしいことか?」

「…いえ」

「そうだろう。むしろお前は眠ることを楽しんでいるからな。私が、小屋へ帰って寝ろ、そう言うと、お前はじつに嬉しそうに帰っていく。眠るのも死ぬのも同じことなのに、お前は一方を恐れ、一方を楽しんでいる。それはおかしいだろう」



「…う〜む」

三郎は唸った。

「それとも何だ、永遠の眠りは長すぎるから嫌なのか?」

「…」

「それは大きな間違いだぞ。なぜなら、眠りのなかに時の流れはない。時間という観念は、心の働きがあってこそのもの。眠っている人間には時の流れなど感じられない。どれくらい寝ていたかは、目覚めたあとにしか分からないのだ」

「…」

「つまり、一夜の眠りであろうと、永遠の眠りであろうと、その違いはない。あるのは考え方の違いだけであり、それが死への恐怖というものなのだ」






■時間



眠っているときの時間は感じられない…?

そう言われると、三郎には思い当たる節があった。



それは戦場でのこと。

三日三晩、眠り続けたことがあった。

しかし起きたときに部下から、「三日もたっているんですよ」と言われても、まったくその実感が湧かなかった。



あの時は、見張り台の上から落ちたのであった。

敵から正確極まる射撃をうけ、とっさに身を投げたのである。幸い、落下地点には刈り取ったばかりの高粱(コーリャン)が山と積まれていたため、それがクッションとなって命は助かった。だが、意識は失ってしまっていた。



「あれから三日もたっているのか…?」

まったく信じられない。三郎には「ほんのわずかな間、気を失っていた」としか思えなかった。

もし部下から「三日も眠り続けていたのですよ」と聞かされなかったら、そんなことは夢にも思わなかっただろう。



いま思えば、あの不思議な体験は、「眠りに時の流れはない」という師の言葉そのままであった。

<あれが10日、20日と続いていても、目覚めたときは同じだろう。いや仮に、1ヶ月、2ヶ月つづいたとて、きっと同じことなのだ>

どう考えても、時というものは目が覚めないかぎり出てこない。

<もし、あのまま息絶えていたら…?>

三郎は死んだことに気づかなかったかもしれない。



そう考えると、死が恐いと感じるのは、他人の死を自分と重ね合わせた結果のように思われた。

逆に、自分にとっての自分の死とは、むしろ他人事なのかもしれなかった。






■ヨギの死



とある夕べ、ヨーガの里が騒然としていた。

老爺が言うには、つい今しがた、死んだと思われていた一人のヨギ(ヨガの行者)が、10年ぶりにひょっこり山奥から帰ってきたのだという。



山奥というのは、三郎が修業をしている大滝のそのまた向こう、そのまた奥である。

昼なお暗いというその鬱蒼とした密林には、虎や豹、猛毒のコブラなどがうようよとひしめいているという。そのうえ、悪性のマラリア、コレラなどの病原菌までが蔓延しているのだそうな。

そんな恐ろしげな森が、ヨギたちの最終修業場(アシュラム)とされていた。山中に入ったが最後、生きて帰らぬものも多かった。この難行苦行を完遂して最高の境地に至ることができるのは、100年に一人いるかいないかだった。



そうした稀な修行者が、この村に帰ってきたのだ。

そのヨギは、60くらいの年齢に思われたが、老人めいたところは少しもなかった。



師は三郎に言った。

「お前は、よくよく運が良い。これから行われる行は、滅多に見られるものではない。一言でいえば、死んだ人間が生き返る」

「…?」



広場には皆が集まっていた。

その中央には白い布が敷かれている。

そのヨギは、布の上に坐を組んだ。カリアッパ師をその正面に見据えている。



場には、極度の緊張感がみなぎっていた。

三郎には、それが武士の切腹の場面のように思われた。



そのヨギの打坐(ダーラナ)はしばらく続いた。

そして、おもむろに両手で自分の首を絞めはじめた。

ヨギの顔面は激しく紅潮した。

三郎は思わず身を固くした。



がくり、とヨギの首が傾いたとき、血の気はすっかり失われていた。

次第に前のめりとなったヨギは、力なく崩れていった。



敷かれていた白い布に、ヨギはそのまま包まれた。

用意されていた棺が運び込まれると、白布ごとヨギはその中に納められた。

棺は大理石でできており、その重い蓋が閉められた。



近くには、すでに2mほどの穴が掘られており、棺はそっとその暗がりへと降ろされた。

そのまま棺は埋められ、あとにはこんもりとした墳墓ができあがった。



なんという不気味な行であろうか。

三郎は茫然と、盛られた土を眺めていた。

<もし生き返らなかったら…?>

というより、生き返ったヨギの姿など三郎には想像もできなかった。






■儀式



七日七夜がたった。

その間、見張りのヨギが交代であの墳墓を見守り続けていた。



そして8日目の朝

いよいよ掘り起こされた。



広場の中央には、あの日と同様、白い布が敷かれていた。

棺から出されたヨギの体は、あの日のまま白布に巻かれていた。

そしてゆっくりと、白布がはがされていく。



<死んでいる…>

遠目にも、三郎にはそう見えた。

ヨギの手足はミイラのように細くひからび、皮膚は土の色をしていた。

どう見ても、それは屍体であった。



そのヨギの体を、4人のヨギが囲んだ。

そして、そのこわばった体に油(ギータ)を塗り込んでいく。さらに白い粉をふりかけると、今度は体の各所を丹念に揉みはじめた。

あたりには読経のような声が鳴り響いている。どうやらそれは古典サンスクリット語のようであった。



30分ほども経ったであろうか。

<あれっ?>

三郎にも変化がわかった。

枯れ木のようだったヨギの体に、いくらか潤いが出てきたのだ。



もちろん、4人のヨギもそれに気がついている。

彼らの揉む手は、いっそう活発になった。

すると皮膚には赤みがさし、筋肉には弾力がでてきた。



三郎は我を忘れて、凝視していた。

赤味が全身にひろがると、死人のようだったヨギの顔が、生きた人間のそれのように見えてきた。



広場の誰もが、もう確信していた。

その復活を…!






■復活



ヨギの胸がかすかに動いた。

呼吸が戻ってきたのだ。

その呼吸は次第に大きくなり、今はヨギの胸をはっきりと上下させている。



そしてついに、ヨギの目が開いた。

彼はそっと身を起こすと、白布の中央にしっかりと坐を組んだ。

正面のカリアッパ師は、静かに微笑んだ。



周りの者たちは、一斉にひれ伏した。

三郎も、すっかり身を投じていた。



ヨーガ最高の行とされる「入定(にゅうじょう)の行」は、こうして終わった。

その瞬間、そのヨギは「偉大なる聖者(グレイト・ヨギ)」の一人となった。



生命の復活

その信じられないことが現実になった。

この荘厳なる光景を目の当たりにした三郎は、ただただ夢中で、心打たれるばかりであった。いつもの科学的な屁理屈など少しも頭に浮かばなかった。






■死の曖昧さ



翌朝、カリアッパ師は「入定の行」について話してくれた。

「あのヨギとて、必ずしも生き返れるとは限らなかったのだ。そうだな…、3人のうち2人くらいは、そのまま永眠していく」

「えっ? そうなんですか…」

三郎は驚いた。よみがえりの確率は3分の1くらいしかなかったのだ。それでもあのヨギはそれに挑んだのだ。まさに命を賭して。



「でもな、生き返れなくとも同じなのだ。だいいち当人は七日七夜、土の中に埋められていたことなど覚えていない。覚えているのは、自分で息をつめていったところまでだ。そして、次に目を覚ましたときにようやく、『ああ、そうか、息をつめたのだったな』と思い出すだけなのだ」

そう言う師は、この入定の行をかつて二度も行ったのだという。

「あの時は、自分は死んでしまったと思っていたよ。ちょうどそれは、お前が毎晩、楽しく小屋に帰って眠る、それと同じことなのだ」



「そんなものですか…」

なんだか、死ぬことを恐がるのが馬鹿らしくも思えてきた。

そして、ついこんな軽口を叩いてしまった。

「できれば私も…」



すると師は「馬鹿なことを言うな」と三郎をたしなめた。

「お前なんかがやったら、それっきり、二度とこの世に帰ってこられないだろう。あの行ができるまでには、少なくも30年はかかるのだ。お前がもし、あの山奥の修業地(アシュラム)に入ったら、おそらく3日と生きていられない。すぐにでも猛獣にやられてしまうだろう」






■クンバハカ



師は言った。

「まずお前は、クンバハカというものを悟らなければならない」



「え? 何ですか、それは?」

師は答えた。「もっとも神聖な状態だ。心と体をその状態にすることができれば、猛獣も襲ってくることはできない」



「では、そのクンバハカというのは、どうしたらできるようになるのですか?」

師は言う。「言葉で教えることはできない。自分で悟るよりほかない。あえて言うなれば、体を『壺の中へ水をいっぱいに入れたような状態』にするのだ」



クンバハカ

これは修業を重ねたヨギたちにとっても、なかなか通過できぬ関門らしい。

村には100人を越すヨギが住んでいるが、そのうちでクンバハカを会得しているものは、ほんの一握りしかいないとのことであった。あの老爺でさえ80歳をすぎた今でも、その悟りは得られていないのだという。



のちの話ではあるが、この難題は、三郎にとっての最終命題となる。

そしてそれはもう、そう遠い話ではなかった。













(つづく)

→ ヨーガの里にて 〜悟り〜 [中村天風] その4(完)






出典:『ヨーガに生きる 中村天風とカリアッパ師の歩み』おおいみつる



関連記事:

ヨーガの里にて 〜壺中の水〜 [中村天風] その1

ヨーガの里にて 〜心と病〜 [中村天風] その2

「切腹」にみる責任と犠牲。生死と自他の境に想う。



posted by 四代目 at 07:12| Comment(0) | 心身 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月13日

ヨーガの里にて 〜心と病〜 [中村天風] その2




ヨーガの里にて 〜壺中の水〜 [中村天風] その1からの「つづき」






■打坐



まことに荘厳な夜明けである。

暗い帳(とばり)のなか、巨大な鉄(くろがね)を伏したようだったヒマラヤの山々は、その東天から、ほんのりと明るみが射しはじめる。

山々の上部に先鞭をつける日の出の陽光。濃いエンジ色のそれは、あまりにも神秘的であった。



山あい深いヨーガの里には、濃い朝靄が立ち込めていた。

生い茂ったシダや沙羅双樹。鬱蒼とした森の奥からは、鳥の鋭い鳴き声が聞こえている。

その清澄な空気のなか、三々五々、ヨギたちが川のほとりに姿を現わす。



<冷たい…>

冷たいというよりも痛い。

川の浅瀬に身を沈めた三郎は、思わず身震いをした。



ほかのヨギたちは、なにくわぬ顔のまま、霊山からの川水にヘソまで浸かっている。

川のなかでの坐禅。打坐(ダーラナ)といわれる行である。

半ば水中に没した手には、仏像のような印(親指と人差し指でつくる小さな丸)がつくられている。



しかし、冷たい。

南国とは思えぬ水の冷たさだ。ヒマラヤの高峰から直接、釣瓶落としに流れ落ちてきた山水は、氷水のようであった。

三郎は全身に力を入れて、懸命に耐えていた。ただ願うのは、はやくこの行が終わってくれることだけだった。






■制感



肉体に受ける刺激は、心を動かす。

ヨガでは、心を動かされぬよう感情を制する(制感・プラトヤハラ)。



初心の者はまず、川の水から受ける痛いまでの冷たさを、どこかへ転ぜねばならない。

たとえば、両眼をよせて鼻の頂点をジッと凝視してみるとか、あるいは舌の先に全神経を集中してみたり。そうして心をどこか一処に集中し、一心という状態をつくりだす。それはいずれ、無心の境とされる三昧(さんまい)へとつながっていく。



のちにヨガを習得したあとの三郎は、こう語っている。

「海辺には、男波女波が絶え間なく押し寄せています。これと同じように、われわれ人間の心にも、好むと好まざるとを問わず、また気づくと気づかぬとを問わず、感情や感覚からの刺激が押し寄せて参ります。

 この感情や感覚から受ける影響をそのまま放っておくと、しまいには、わずかな感情の動きが、必要以上に心に大きく伝わって、その結果、忍べば忍べるような刺激であるにもかかわらず、もう、打ちのめされたような惨めな状態を自ら招くことになります。もう些細な感情の動き、あるでしょう、心配だ、不安だ、とねぇ。あるいは憎らしいとか、腹を立てたりで、それは忙しいこってす。

 そこで、制感(プラトヤハラ)というものが必要になってくるんだが、これができてくると、5の刺激は5、それ以上のものになって心には伝わらない。ところが、5ぐらいの刺激が、10にも100にもなって心に伝わると、もう周章狼狽。もっとも、それで済めばまだしも、それが度重なると、しまいには身体まで壊してしまうことになる。

 しかし、制感(プラトヤハラ)ができている人は、たとえ50くらいの大きな衝動が押し寄せても、心には5か1くらいにしか伝わらない。ですから、けっして周囲の状況に左右されるようなことがないんであります。

 この方法はですね、私が35の時に、遠くヒマラヤの麓で、2年7ヶ月におよぶ難行苦行の結果、ようやく得られた貴重な方法なんであります。あちらでは、これをクンバハカと言っていますがね…」



たとえ肉体が苦痛を訴えても、心の方がそれを相手にしなければ、苦痛も和らぐ。

しかし困ったことに、心は何かを相手にしていなければ気が済まぬ。「冷たい」と思えばそれに、「早くやめたい」と思えばそれに心が囚われる。それを思わぬようにと思えば思うほど、逆にそれを相手にすることになり、ますます心は乱される。

ゆえに心を統御する基本は、波騒ぐ心そのものには手をつけず、むしろ放っておいて他に転ずるということになる。



とはいえ、その時の三郎にとっては初めての行。

<早く終わらないかな…>

心はその一念。それは集中されたものではなく、千々に乱れた心の末であった。



<鯉かな?>

ふと、三郎は膝頭を何かを感じた。そっと目を開いてみると、大きな魚が口先で三郎の足をつついている。

このヨーガの里の人々は魚を食べる習慣がない。そのため、魚も人を恐れなかった。



そうして30分ほども経ったであろうか。

周りにいたヨギたちは、一人また一人と川を去っていく。

ようやく、朝の行は終わったようだった。






■馬



陽がすっかり昇ってしまうと、ヨギたちは山での行へと向かっていった。

ヨギの出払った里は、まことにのどかなものである。残っているのは老人や女子供ばかり。三郎は大きな菩提樹の下で、どんどん強くなる陽射しを避けながら、吹き抜ける涼風をたのしんでいた。



眼下にみえる広場では、裸んぼうの子供たちが無邪気にリスを追いかけている。

すると一人の男の子が、草を食んでいた馬の後脚にしがみつくのが見えた。



「危ない!」

思わず三郎は大声をあげた。

「何がだ?」

すぐ隣りに座っていた老爺は、少し驚いて三郎を見た。



「あの子供だ! 馬に蹴られるぞ!」

三郎は必死だった。

しかし老爺はのんきなもので、「せっかく遊んでいるんだ。あのままにしておけ」と少しもあわてない。馬は人を蹴らない、とまで言うのである。



三郎には信じられなかった。馬の後ろ脚になどまとわりつこうものなら、即座に蹴り飛ばされる。少なくとも日本ではそうだった。

そう老爺に話すと、そのことの方が老爺には信じられぬらしく、「そういう馬は猛獣なのか?」と逆に聞いてくる。老爺は「分からぬ」とばかりに首を左右に振っている。

しまいには「お前が行って確かめてみろ。馬は何もしないから」と三郎に言ってくる。



では、と三郎は恐る恐る馬の後ろに回り、後脚をひっぱってみた。

すると老爺の言う通り、馬はどこ吹く風とばかり、無心に草を食み続けている。

老爺は笑って言った。「何もしないだろう、馬なんだから。お前の国では馬をいじめているのではないか? 動物は可愛がっていれば、人間に害など与えないよ」



なるほど、と三郎は妙に得心した。

そういえば今朝も、川の魚が手で触れるほどであった。

このヨーガの里には、人を恐れる生き物などいないようであった。






■月夜



西の陽が沈んだ。

暗くなれば寝る。それが普段であったが、今宵は満月。

村では夜通し、踊りを楽しむことになっていた。



村人たちは、男も女も、老人も子供も、皆いそいそと広場に集まった。

若いヨギが高らかにラッパを鳴らすと、ホラ貝、太鼓、横笛がそれに続く。夜のしじまは一気に破られた。

賑やかな踊りの夜がはじまった。普段からほとんど裸の男女は、月明かりに照らされ、より艶かしい。軽快なリズムに、豊満な乳房と尻が揺れていた。



「お前の修業がはじまった日が、ちょうど満月だというのは、ずいぶん幸先がよいぞ」

老爺は言った。手にした粟汁(マルワ)を飲んでいる。少し酒気があるようだ。

三郎はもともと酒を好まなかった。そのかわりにカレーライスをつまんでいた。これは普段は食べられない御馳走である。三郎にとっては米を食べられるのが何より懐かしく、嬉しかった。

里の周囲には水田もあった。だが、ヨギたちは米を好まなかった。米を毎日食べると身体が弱くなると言うのである。彼らにとっての米は、日常品(布や真鍮の器など)と交換する作物にすぎなかった。



踊りも極まっていくと、仲のよい男女らはそっと場を離れた。そして堂々と性の営みがはじまった。人がいようと子供が見ていようと、いっこうに頓着しなかった。

性に対して、彼らは極めて自然であった。そこに卑猥さは微塵もない。ただただ神聖であった。絶対平和の境がそこにはあった。

キリスト教や儒教が禁欲的であるのに対して、ヨーガ哲学は、天から与えられたものを決して否定することがなかった。すべてを肯定した上で、それを統御していくというのが道であった。






■断崖



朝の坐禅、打坐(ダーラナ)は三郎の日課になっていた。

そしてやがて、三郎にも山の行が課されることになった。

カリアッパ師は毎日、ロバに乗って山行に励むヨギたちを見てまわる。三郎はそれについて行くことになった。



山は深かった。

屹立した底知れぬ谷。ためしに石を落としてみると、石は音もなく暗闇に吸い込まれていった。そんな危険な場所も、簡単な吊り橋がかけられているのみ。大きな荷を背負っていると、恐ろしく揺れる。

谷を抜けると、こんどは岩壁が顔の真横にまで迫ってきた。もう片側は急行直下、断崖である。三郎の足は思わず止まった。極めて狭い、危険きわまりない小径である。



<もし師のロバが、つまずきでもしたら…>

そんな三郎の懸念をよそに、カリアッパ師はゆらゆらとロバの揺れに身を任せて進んでいく。

師は、「小径がそれまでと同じ幅ならば、進むのに支障はない。崖が遠くにあろうと近くにあろうと関係ない」と飄然としていた。「だいいち、ロバがつまずいたことは今まで一度もない。なぜ、ロバがここでわざわざ、つまずかなければならぬのか?」と三郎に言うのであった。

師の心には、取り越し苦労などまるでないかのようであった。それがヨーガをして、心の使い方の哲学といわしめる由縁であろうか。



しかし三郎のほうは、そうはいかぬ。

足下の崖を目にして「落ちては大変」と、必要以上に岩肌に身をこすりつけながら進んでいった。恐怖という本能が、三郎にそうさせたのであった。

のちに三郎は、そうした恐怖心を「不要残留心」と達観することになる。すなわち、そうした恐怖は原始の時代に必要だったもので、それから幾億年も経った今の平和な時代には不要なものであるというのである。

しかし、その本能ばかりは今も根強く心の奥底に住み着いているのであった。






■滝



崖を抜けると、あとは快適だった。

道端には桜草が一面に群生している。



ふと遠くから、滝の音が近づいてきた。音はどんどんと大きくなり、かなりの大滝であることがうかがわれた。

その間近にまで来ると、凄まじいばかりの轟音が三郎の耳を聾にした。滝壺から舞い上がる飛沫は、水煙から霞となって辺りをおおっていた。



カリアッパ師は、三郎の耳元にまで口をよせて大声で言った。

「夕方ちかくに迎えにくるから、それまでここで坐っていなさい。何を考えていてもよろしい。お前の好きな心配事でも何でもよい。思うままのことを心に浮かべていくことだ」

師の大きな声でも、やっと聞き取れるほどであった。大滝の大音声は、座った大岩をブルブルと震わしているようにも感じられた。

「飽きたら目を開けてもいい。その辺を歩くのもよかろう。でも遠くへ行ってはいけない。豹や蛇が出るといけないからな。この辺の蛇は大きいぞ」



のちに探検家のチャンドラ・ダスは、この滝のことを「その場から去っても3時間は耳が麻痺して、何も聞こえなかった」と書き記している。

この大滝はゼム氷河の末端にあった。ヨーガの里を支える高峰カンチェンジュンガの周囲には、名前をもつ氷河だけでも30はあった。そうした大小無数の氷河のうちでもゼム氷河は世界最大級といわれ、全長36kmにも及ぶ一枚氷河であった。

三郎の今いる標高は200mあまり。そこから一気に8,000m峰の山々が天に伸びている。その滝の長大さも推して知るべしである。






■叱責








滝の爆音のなか、ひとり瞑想の日々。

朝夕の往復は、いつもカリアッパ師が一緒であった。



「今日は、いい天気になったね」

ロバの上から、師は三郎に話しかけた。

ところが浮かぬ顔の三郎、「はぁ…、でも頭が重くてかないません」と歯切れが悪い。いつも三郎はこの調子であった。病は小康状態とはいえ、病身に山路はきつかった。



いつもの師は、三郎の愚痴に付き合うことはなかった。だが、この日は違った。

「お前が病人なのは、言われなくとも分かっている。私は身体のことなど聞いてはいない。お前の気分を聞いているのだ。こんなに気持ちのいい朝ではないか。『本当に気持ちがいいですね』とでも言ったらどうだ?」

確かに、頭上には雲一つない青空が広がっている。

それでも三郎は「でも…、身体の具合が悪くで、そういう気分にもなれないんです。天気がよくても、気分のほうは少しもよくないのですから」と相変わらずである。



「愚か者!」

師の叱咤がとんだ。

「病んでいるのは身体のほうであろう。心ではない。身体が悪いからといって、心まで病ます必要がどこにあるのだ。いいか、病は病、苦しみは苦しみだ。そういう時こそ、それをより良い方へと引っ張ってくれるのが心ではないのか?」



三郎に返す言葉はない。

師は続ける。「私は毎朝、お前の気分を聞いてきた。それはそのうち、まともな返事が返ってくるのを内心楽しみにしていたからだ。ところがお前の口からは、いつまでたっても情けない言葉しか出てこない」

「…」

「お前は考えなくていいことばかりを考えている。早い話、飛び込まなくてもいい濁り水に、自ら勝手に飛び込んでいるのだ。こっちを見れば美しい花園があるのに、お前は墓場のほうばかりを見ている。この世はすべて寂しい墓場ばかりだと思い込んでいる」

「…」

「幸不幸は、心の向け方一つで決まるものなのだ。なぜ、お前は心を花の咲いている方へと向けない? お前に墓場のほうを向けさせている”もう一人のお前”がいることに気づかないのか?」



<もう一人のお前?>

三郎には何がなんだかサッパリわからなかった。



師は、さらに続けた。

「おいおい分かってくるだろう。お前の心の中には、お前をそうやって悲観的にさせている”もう一人のお前”がいるのだ。とにかく、明日の朝からは『気分がいい』とか『元気です』とか、人を爽やかにさせる言葉だけを使いなさい。どんなに身体が悪くとも、自分の命を汚すような言葉は断じて使ってはならない」






■軽蔑



翌朝、師は三郎に声をかけた。

「今日の気分はどうかな?」

「はい、いい気分です」

三郎は仕方なしに、そう答えた。表情の晴れぬままに。



「それは結構」

師は微笑みながらうなずいた。



滝の瞑想で、三郎は一つ気づいたことがあった。

それは自分の心のなかに潜んでいた「未開の民族に対する軽蔑心」である。三郎はカリアッパ師を尊敬しながらも、どこかで軽蔑していた。たとえ師が偉大な長(おさ)であろうと、それは古代人のような暮らしをする村でのことだ、と心のどこかで思っていたのである。

実際、ヨーガの里では、男は腰布一枚、女は裸同然。食うものは鳥のエサのようなものばかりで、夜にはランプもなくただ寝るだけ。それは日本の文明開化と比べれば、ずっと遅れた、程度の低い人間たちのように思われた。



悶々としたまま村へ帰ると、なにやら怒声が聞こえてくる。

2人の若いヨギが互いを罵りながら、つかみ合ったり、蹴飛ばしたりの大喧嘩をしていた。いつもは平和な村なだけに、三郎には信じられぬ光景に思われた。

その大喧嘩をチラと見たカリアッパ師、そのまま自分の家へと帰ってしまった。あわてて三郎は、「止めなくてもよろしいのですか?」と聞いたものの、師は「構わぬ。放っておきなさい」と事もなげに言う。「陽が沈めば収まる」というのである。



やがて陽は落ち、夕闇が迫ってきた。

するとどうだ、師の言うとおり、2人は喧嘩をやめて仲直りしてしまった。

三郎は呆気にとられるばかりであった。あれほど敵意むきだしだった2人の怒りが、ウソのように消えてしまったのだから。



翌朝、師は三郎にその訳を話してきかせた。

「夜になればマナ(悪魔)が飛ぶようになる。だから喧嘩をやめたのだ。夜というのはマナが支配する世界なのだ。そのマナに魂を奪われては大変だからな」

それを聞きながら、三郎はどうしても彼らに「文化の遅れた民族」という軽蔑を抱かずにはいられなかった。まったく科学的でない、と三郎はどうしても冷笑を禁じえなかった。






■潜在意識



三郎にとって当面の問題は「もう一人の自分」ということだった。どうしても墓場のほうを向いてしまう悲観的な自分の正体をどうしても知りたかった。だから、マナ(悪魔)だとかいう村の迷信めいたものには興味はなかった。

しかし面白いことに、その2つは同根異葉の関係にあった。

三郎が瞑想にはげんでいたちょうど同じ頃、西洋ではフロイトという人物が深層心理学を完成させていた。彼に言わせれば、”もう一人の自分”も”マナ”も「潜在意識」という一言におさまることになる。



アメリカの詩人、ホイットマンはこう詠っている。

「彼が見た最初のもの、そのものに彼はなった」



暗示というものは、知らぬまにその人を形づくる。

そうした潜在意識しだいで、自分という存在は意識しているのとは別者になってしまう。たとえば三郎の場合、結核という病を治したいと”意識”していながら、その裏の潜在意識(もう一人の自分)は、ずっと墓場のほうを向いていた。

マナ(悪魔)というものも然り。カリアッパ師はこう言っている。「もし心の中に怒りや悲しみ、それに怖れや憎しみもそうだが、そういう妙なものを湧かせると、マナ(悪魔)がすぐ心の中に飛び込んでくる。同気、相引くで、同じ仲間同士はすぐに結び合う。夜になったら、どんなことがあっても怒ったり悲しんだりというようなマナ(悪魔)の心を自分の心の中に置いてはいけないのだ」



暗示というのは、昼間よりも夜のほうがかかりやすい。つまりヨーガの哲学がいうように、夜、悲観的なまま寝るよりも、打坐(ダーラナ)などで潜在意識を浄化してから寝たほうが、ずっと身体に良いことになる。

「夜はマナ(悪魔)が出るから」と言うと、いかにも原始的かつ非科学的である。だが実際のところ、当時の精神科学に照らし合わせれば最先端の内容だったのである。

一方、医師であり科学的であったはずの三郎は、夜な夜な寝入りばなには良からぬことばかりに心を悩ませていた。もう一人の自分、すなわち潜在意識は心も身体も三郎の病を重くしていたのである。






■犬



村に、小さな子犬がいた。

その子犬は三郎に戯れて離れなかった。



師は言った。

「よく教われよ」

三郎は怪訝に思った。犬に芸でも教えろというのなら分かる。だが、自分が犬に教わることなど何もないはずだ。



三郎は少々気色ばんで言った。

「犬から何を教われというのですか?」

師はこう答えた。

「生きる道だ。お前はこの犬の半分も完全な生き方をしていない。お前の生き方は、間違いだらけもいいところだ」

そうまで言われ、三郎は口惜しさを耐えるのに必死であった。自分が犬畜生に劣るなどとは考えたこともない。



師は構わずに続ける。

「お前は文明の国アメリカで医学を学んだそうだな。だが、そのお前がどうして自分の病を治せないのだ? おかしいではないか」

三郎は猛然と反論した。

「結核という病は、現在の医学ではまったく治せないのです。だから、自分が医者であろうが関係ないのです」



師は静かに言う。

「ここは文明の匂いもしない山奥だ。だが、我々はみだりに病になどかからない。それなのになぜ、知識も技術もある文明国では、お前のような若者までが病にかかるのだ? ましてや人の病を治さなければならぬ医者であるなら、他の人よりも病にかかりにくいはずだ」

なんという正論であろうか。しかし、それは三郎が今まで考えたこともない論理であった。知識階級(インテリ)は身体がひ弱なものだと勝手に思い込んでいた。



「ちょっと、その犬を貸してごらん」

師はそう言うと、テーブルの上に子犬を押さえ込み、小さなハサミで前足を軽くチョキンと切った。

なんと乱暴なことをするのか。三郎は自分の目を疑った。キャンキャン泣き叫ぶ子犬の前足からは、血がポタポタと滴り落ちている。



「今度はお前の番だ」

「えっ?」、三郎は身を引いた。

「さあ早く、手を出して」

観念した三郎は、右手をそっと差し出した。師は皮膚を少しつまみ上げると、子犬と同様、ハサミでちょきんと切った。



「さあ、どっちが早いか? 治りっこだ」

師はそう言った。



しかし、三郎は自分の傷口のことが気が気でなかった。

<化膿でもしたら大変だ。消毒液もなければ傷薬もない…>






■心と肉体



それから一週間

三郎は子犬を抱いてカリアッパ師のもとを訪れた。



まず師は、子犬の傷口を見た。

「おぉ、きれいに塞がっている。さて、お前はどうだ?」

三郎の傷口は、三郎が心配していたとおりに化膿しかけていた。

師は言った、「お前の負けだな」。



「そりゃ無理ですよ。犬ですから」

三郎がそう言うと、師はこうたずねた。

「ほう。どうして犬なら人間よりも早く治るのだ?」

三郎は言葉に詰まった。犬が早く治るのは当たり前だと言いかけて、なぜ当たり前なのか自分でわからなくなっていた。



「その理由はな、ただ一つ。心の中にあるのだ」

師は続ける。「この一週間、お前は傷口を気にしてばかりいただろう。しかし犬はな、切られた時に痛がっただけで、あとはもう忘れていたのだ。ところがお前は、心配という負担を心にかけ放しだったろう。毎日、神経を過敏にして傷口や病を気にしていたら、治る病も治らないし、傷口だって塞がらない。病を治したかったら、この犬のように悪いことは忘れてしまうことだ」

まったくその通りだった。実際に三郎も医者として、神経質な病人ほど治りが遅いということを体験的に実感していた。



「少しは見当がついたかな。では今日は、私がエジプトのカイロで初めてお前に会った時に言った言葉、『大事なことに気づいていない。それに気づけば死なずにすむ』、そのことを少し教えてやろう」

三郎の目は輝いた。それを聞きたいがためだけに、こんな山奥にまでついて来たのだった。

師は言う。「お前が見てのとおり、この村では誰もが肉体の完全な強さを発揮している。心の方とて皆安らかである。むやみに肉体を案ずることもなければ、過ぎた欲望も持っていない。心と体も、ともに大切にして生きている。だからこそ丈夫でいられるし、また幸せでもある」

「ところが文明の国の人間は、そうした生き方ができずにいる。だから、”生命を守ってくれる力”が出てくれないのだ。病にもかかりやすく、かかったら治りにくい。お前もそうだ。朝から晩まで、やれ熱がある、やれ苦しいのと、それがお前の生命にとってどれだけ大きな負担になっていることか。その大事なことをお前は少しも考えていないのだ。だから、病が治らないのだ」






■生命力



生命を守ってくれる力

それが出てくれれば、病が治る。



しかし、それは何だ?

目には見えない。科学的な三郎は、電気エネルギーのことを思った。目に見えずとも電気は機械を動かす力となっている。きっと人間の心臓を動かしているのも、そうした目に見えないエネルギーなのだろう。それを生命力と呼んでもいい。



じゃあ、自然治癒力のような生命力の強さは、何によって決まるのか?

それが「心の状態」なのではなかろうか。師も言っていた、「少しは心のことも考えてやったらどうだ?」と。

そのとき、三郎はこう反論していた、「それはずっと考えています」と。しかし師はこう言った、「お前の言う心というのは、熱は上がりはしないか、息苦しくなるんではないかと、体を心配するほうの心ではないのか?」と。



しかしなぜ、人間は生命力を損なうような心の使い方をするのであろうか?

この疑問が、のちに三郎を「不要な残留心」という考え方に導いた。大昔の人類には、一時的に怒ったりして、その場の危機を回避する必要もあったのだ。生命力を削ってまでも。しかし現在、それほどの必要はない。それでも盲腸やシッポの骨のように、いまだ残っているものなのである。



つまり、そうした生命力を損ねる感情にとらわれる人間は、進化が足らぬということになる。

それは文化文明の国に暮らそうが、未開の山奥に住もうが、まるで関係のないことであった。それは外的なものではなく、内面的なものなのだから。

この点、ヨーガという哲学は何千年もの歴史をかけて、そうした心の進化を目指してきたことになる。



このヨーガの里にしても然り。

なぜなら、たとえばランプなどは近くの都市ダージリンにいくらでもある。それでもヨギたちは、あえて古来のあり方をできるかぎり踏襲しようとしているのである。心を制するということが、何よりも優先されているのであった。

そうした意識のなかった三郎が病に冒されるのは、ある意味自然な成り行きであった。その心はまったく制御されていなかったのだから。

それでも、三郎はそのことにいずれ気がついていく。この点、彼はまったくの幸せ者であった。






■命題



「まったく、お前は幸せな人間だな」

ロバの上から、カリアッパ師は話しかけてきた。



「えっ? …私のことですか?」

三郎は思わず聞き返した。しかし解せぬ。三郎は自分を幸せだとは思っていなかった。なにより、不治の病で死にそうになっているのだから。

三郎は少し反抗的に答えた。

「分かりません。いつ死んでしまうか分からない人間が、どうして幸せと言えるのですか?」



「馬鹿者!」

師の一喝が飛んできた。

「病のことは忘れろ、と言われたばかりではなかったか?」



「第一お前は、その病があればこそ、ここへ来られたのだろう。それを思えば、病はお前にとって恩人ではないか。それに、この村で修業することなど、この近くの者とてそうそう許されることではない。まして他国の人間であるお前が、こうして行をできているのだ。それを、ありがたいとは思わぬのか」

「…」

「お前は自分で医学博士などと言っているが、私の目からみたら、無学文盲の愚か者としか映らぬ。そのお前が、ここへ来てからは毎日少しずつ心が洗われ、目覚めていっている。それを考えたら、お前ほど幸せな人間はいないだろう」



近頃は、さすがの三郎にも分かりかけていた。

幸不幸というものが、文明や学歴いかんに関わるものではなく、心一つの置き所だということを。そして自分が、足らざるところばかりを追いかけて、満たされているところに目がいっていなかったことを。



「お前は、今ここに生きている」

師は、遠い山並みを眺めながら続けた。

「たとえ熱があろうと血を吐こうと、お前は生きている。造物主が、お前にお役目を果たさせようとしているからだ。いったいお前は、この世に何をしにきたのかが分かっているのか?」

「…」

「お前はその大事なお役目を放り出して、間違った道を歩んできたのだ。だからそんな病にもかかるのだ。それは慈悲深い造物主の思いやりだ。その生き方の間違いを正さんがために、お前に病をくだされたのだ」



なにかが三郎の心のなかで響いていた。

最後に師はこう言った。

「この世に何をしにきたのか? 今日からそれを考えるのだ。いつまでかかってもよい。毎日、滝壺の脇で考えるのだ」

そして師は、ロバとともに村へ帰っていった。



はじめて師が命題をくだされた。

何のために生まれたのか?



滝の轟音は、三郎の心を少しずつ清めていった。

<われ、いずこより来たりて、いずこへ行かんとす…>

屁理屈が静まり、厚い迷妄の壁が薄らいでいく。



いよいよ三郎に、魂の夜明けが迫ろうとしていた。

あの名峰カンチェンジュンガの荘厳な夜明けのごとく。
















(つづく)

→ ヨーガの里にて 〜死者の復活〜 [中村天風] その3






出典:『ヨーガに生きる―中村天風とカリアッパ師の歩み』おおいみつる



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2014年07月11日

ヨーガの里にて 〜壺中の水〜 [中村天風] その1




どうにもならぬ暑さ

熱砂の地、エジプトのカイロ



その熱気のなか、中村三郎はぼんやりとレストランに座っていた。

テーブルには運ばれてきたスープがあった。だが、それに手をつける気は起こらなかった。



さして広くもないレストラン。

三郎の他には、この暑さのなかでガウンを羽織った老人と、それに従う侍者2人ばかりが居た。



「どこかの豪族かな?」

三郎は思った。侍者の一人は、孔雀の羽根の団扇(うちわ)でゆったりと老人に風を送り、もう一人は傍らにひざまずいている。

彼らはアラビア人というより、インド人、いや日本人にも見えた。いずれにせよ、相当の地位をもっている人物のように思われた。老人の長い白髪は、そうした気品を感じさせた。



三郎の視線に気づいたのか、老人はやおら三郎を手招くと、こう言った。

「あなたは、右の胸に大きな病をもっていますね」

三郎は驚いた。いま会ったばかりの老人に、右胸の空洞を見抜かれたのだ。このレストランに入ってからは、あの結核特有の軽い咳もまったく出ていないというのに。



当惑する三郎をよそに、老人は静かに続けた。

「その病を持ったままでは、あなたは自分の墓穴を掘ることになるでしょう」

なんと残酷な言葉か。病人には禁句ともいえる死の宣告。だが、不思議と三郎の心は乱れなかった。老人の言葉には、三郎の心を傷つけぬだけの深い慈愛、そして温もりがあった。



三郎は、ぽつりぽつりと答えた。

「もう助からないことは自分でもよく承知しています」

「どうせ死ぬなら、故国日本の土をもう一度だけ踏みたい。日本へ帰って死にたい…。そう思ったら、もう矢も盾もたまらずフランスを発っていたのです」



時は明治43年(1910)、中村三郎33歳。

その当時、結核といえば不治の病であった。なんら有効な治療法もなく、とりわけ若者の死亡率は高かった。






■結核



「なぜ、治すことを考えないのじゃ?」

老人はそう問いかけてきた。

三郎は医師である。自分の病のことは誰よりも自分が知っていた。自分のように大きな空洞が2つもできてしまっては、もう死よりほかに道はない。できることといえば、栄養と安静を保ち、一日でも命を永らえさせることのみだった。



「医学では、ダメだと言うのかね?」

三郎が医師だと知ると、老人は重ねてたずねた。

「いや、な。医学がダメだからといって、それ以外に方法はないのか、と」

三郎に返す言葉はない。



「助からない、というのは、自分でそう思っておるだけだろう」

この老人の言葉を、三郎は理解しかねた。

「自分でダメだと思っておるようじゃが、私の目には、あなたはまだ死なねばならぬ人間とは映らない。とにかく、あなたはまだ一番大事なことに気づいていないのじゃ。それさえ分かれば、あなたは死なずにすむじゃろう」



三郎には、この老人が結核のことを少しも分かっていないように思われた。自分のような重症患者が助かろうはずはない。医学的な知識があれば「まだ助かる」などとは到底言えたものではあるまい。

そうは思ってもしかし、三郎は老人の言葉に希望を感じたのも、また事実であった。老人には親のような愛の情が感じられた。

ふつう結核患者とわかっただけでも、汚いものを避けるように逃げてしまう人が多かった。ところがこの老人は、自分を少しも厭うことなく顔まで近づけてくるのである。



「どうだろう、あなたがまだ気づいていないこと、それを私が教えてあげようではないか。そうすれば死なずにすむ」

「えっ…?」



「これから私は国へ帰るのだが、どうかな、私と一緒について来ないかね?」

そう言われた三郎は、考える間もなくはっきりと答えていた。

「はい。参ります」

そう力強く言ってしまったあと、三郎は迷いのなかった自分に驚いた。第一、この老人の名前はおろか、どこの国の人かも知らなかったのだから。



三郎はなぜだか確信していた。

結果などはどうでもよい。ついて行って、そこで死んでしまっても構わない。悔いることなどあるものか。

三郎にそう思わせるほど、老人には徳の高さが感じられた。そこに疑念や迷いなどは入り込めようがなかった。






■カリアッパ師



老人が去ったあと、三郎は茫然としたままだった。

「あなたは幸運な人ですね」

その声に、三郎は我に帰った。見ると、レストランのマネージャーがそこに立っていた。



「えっ? 何が幸運なんですか?」

三郎は思わず聞き返した。

するとマネージャーは驚いたように言った。

「あの方をご存知ないのですか? あのお方はね、ヨーガ哲学の大聖者、カリアッパ師ですよ!」



そう言われても三郎にはピンと来なかった。

ヨーガという言葉すら聞いたことがなかった。

専門家ならいざ知らず、日本でヨーガという言葉が一般的になるのは戦後の話である。そして何より、本格的にヨーガを日本に伝える一人は、この中村三郎なのであるから。






■長途



翌朝、中村三郎はカリアッパ師とともにナイル河岸にあった。

そこにはヨットが繋留されており、師はこのヨットでロンドンまでの長旅から帰る途上であった。

そこから陸路に沿って、途中の港々に停泊を続けながらカラチ(パキスタン)にまでたどり着くと、今度はラクダの曳舟に乗り換えて、インダス河をさかのぼって行った。



病み衰えた三郎の身には、過酷な旅路であった。

強烈な太陽は、遠慮会釈なく照りつける。

広大な平野を延々と、三郎はラクダの背に揺られ続けた。旅の途上、三郎はどこへ向かっているのかずっと知らなかった。この灼熱地獄の日々がいつ果てるとも知らなかった。



出発から90日も経った頃であろうか。

ようやく一行は目的地へとたどり着いた。

そこはヒマラヤの高峰、カンチェンジュンガ(標高8,586m)の麓であった。



その村は、険しい岩山を背にした谷間にあった。点在する民家は、どこか日本の農家を思わせ、三郎の弱った心を妙に懐かしがらせた。

<よくもまぁ、ここまで身体が保ったものだ…>

それが三郎の偽らざる感慨であった。その昔に鍛え抜いた強靭な肉体は、病にだいぶ冒されながらも、どうにか余力を保っていたようだった。



ロバにまたがった三郎は、カリアッパ師についてその集落へと歩を進めた。

すると驚くべきことに、集落の人々は皆一様に地面にひれ伏しているではないか。その数も尋常ではない。小さな村のそれに留まらず、カリアッパ師の帰国を聞きつけて遠路はるばる大勢の人が押し寄せていたのである。

三郎は改めて、カリアッパ師の集める尊崇、その偉大さを思い知るのであった。三郎はただただ、この辺境の地の異様な光景に圧倒されるばかりであった。






■羊小屋と鳥のエサ



「ここが今日から、お前のねぐらだ」

三郎にそう示されたのは、明らかに羊小屋であった。

<こんなところで寝ろというのか…>

三郎は内心不満であった。案内したのは、カリアッパ師の紹介してくれた一人の老爺。村で唯一、英語を少し話せる人物だった。



「あ、そうだ。裸になって、これを腰に巻け」

そう言って手渡されたのは、青いシマ模様の布一枚。

<これで文明の世とも、当分お別れだな…>

丸裸になって腰布一枚になった三郎は、そう覚悟した。



「食べろ」

無遠慮に差し出されたのは、葉っぱに包まれた大根や人参、芋とおぼしきものだった。恐る恐る口に入れると、ほどよい塩味。悪くはない。しかし、もう一つの包みに入っていた稗(ひえ)は頂けなかった。

<生のまま、稗を食べるのか…>

都会育ちの三郎にとって、稗といえば鳥のエサとしか思えなかった。



「肉や魚はないのか?」と三郎は聞いた。

すると老爺は「そんなものは人間の食べるものではない」と取り合う気配も見せない。その代わり、山野に実っているバナナやマンゴーはいつでも好きなだけ食え、と言った。

三郎は急に不安になった。平時ならまだしも、病身の自分には何よりも栄養が必要だというのに…!



3ヶ月にわたる長旅を終えたばかりの三郎の肉体は、とうに限界を越した状況にあった。そして体とともに心のほうも疲れ果てていた。

<挙げ句の果てが、羊小屋と鳥のエサか…>

もはや考えるという気力も湧かず、ただ頭が朦朧とするばかりであった。






■象と人間



翌朝、三郎の寝る羊小屋のまえを、カリアッパ師が通りかかった。

ここでの三郎は、おいそれと師に話しかけることは許されない。ひたすら路傍にひれ伏すのみ。



幸いにも、師は話かけてくれた。

「どうだ、昨夜はよく眠れたか?」

「はい、疲れきっておりましたゆえ」

「そうか。それなら朝の気分も良いであろう」

「いいえ。どうにか保っているといったところで、気分が良いなどというところまではゆきません。熱もあり息切れもひどく、参っております」



ひれ伏しながら、三郎は恐る恐る師の顔色をうかがった。

師は無表情に、三郎を見下ろしていた。その冷たさに三郎は一瞬ひるんだが、思い切ってお願いをした。

「じつは食べ物のことなのですが、このままでは私の身は保ちません。贅沢やわがままで言うのではなく、この病には栄養が必要なのです」



治療法の欠いていた結核という病に対して、当時はできるかぎり栄養を摂ることが奨励されていた。三郎もそれに従い、肉や魚を嫌でも食べてきた。じつは弱りきった身体にとって、脂っこい肉や魚はノドを通りにくい。それでも三郎は無理に食べていた。それが最善の治療法と信じて疑っていなかった。

それに、これ以上は痩せられぬ、という思いもあった。かつて60kg近かった体重は、もはや40kgもない。骨と皮だけになった肉体に、少しでも栄養を与えてあげたかった。

「私の身体には、肉や魚がどうしても必要なのです」

三郎は切に訴えた。結核患者にとって動物性タンパク質がいかに重要であるかを、諄々と説いた。



しかし師は無関心に、三郎の長い言葉が途切れるのを待っていた。そして草むらを指差した。

「あの象は、いったい何を食べていると思う?」

「…」

「藁(わら)だ。それでもいっこうに痩せもしないし力も落ちない。あれとお前とどちらが大きい? お前はあのシッポほどの重さもない」



話をはぐらされたと思った三郎。必死で言い返した。

「象と人間は違います」

しかしカリアッパ師は、三郎の言葉を取り合わない。

「人間も象も同じだ。お前がどう言おうと、ここの人間は肉も魚も食べないから、皆丈夫で長生きできるのだ」



そう言うと、師はくるりと背を向け、去ってしまった。






■生い立ち



中村三郎は明治7年(1874)、東京に生まれた。

父・中村祐興は大蔵省に勤めていた。三郎が幼少より英語に堪能であったのは、イギリスから招かれた技師らと身近に接していたからであった。近くには、日本で初めての洋紙工場(今の王子製紙)があった。

文明開化に浴した三郎少年は、ずいぶんと生意気、そして腕白であった。喧嘩などは日常茶飯事。鼻血は当たり前、時には指をへし折る、手のつけられぬ暴れん坊ぶりであったという。中学では刃傷沙汰を起こして退学処分とされてしまった。









日露戦争がはじまると、三郎はロシアへと従軍した。

終戦とともに生きて帰ったはいいが、この時であった、結核を発病したのは。

救いを求めて、三郎はアメリカへと渡った。がしかし、得るところはまったくなし。イギリス、フランスと転々とするも、胸の空洞は広がるばかりであった。



三郎がエジプトでカリアッパ師に出会ったのは、すべてを諦めて日本へ帰ろうとしていた時のことだった。

不思議と、カリアッパ師のそばにいると安らぎがあった。一時的にしろ、死への恐怖から遠ざかることができた。



しかし、あれから一ヶ月、三郎は師に声すらかけてもらえなかった。

地面にひれ伏す三郎には、頭を上げて師の尊顔を拝むことすら許されていなかった。

それほどカリアッパ師はこの里における絶対的な存在であり、一転、三郎は家畜以下の身分だったのである。



心まで病んでしまっていた三郎には、すべてが恨めしく映った。

村の者たちが嬉々として働くさまさえ忌々しく思われた。

夜明けの美しさなど知るよしもなし。それはただ暑さのはじまりを告げる嫌なものにすぎない。早くから起きている羊など、蹴飛ばしてやりたい気持ちだった。



身体は鉛のように重い。

頭の芯には、いつも微熱がある。



<なんで、こんな山奥にまで来てしまったのだ…>

カイロで初めて会ったカリアッパ師は、確かに真情にあふれていた。だが、この村ではどうだ。声ひとつかけてくれない。

<自分が気づいていない一番大切なことを教えてくれるはずではなかったのか…?>

三郎の身命を賭けた一縷の望みは、遠のいてしまったかのように感じられた。師の足音が遠ざかるたびに、三郎の失望は深まるばかりであった。



<なぜこうも、自分だけが不幸であるのか。どうして、これほど惨めな思いをしなければならないのか>

三郎は心の底から、天を恨んでいた。






■村



村の人の言葉はレプチャ語である。三郎には何を言っているのか、さっぱり分からない。唯一、話相手となってくれるのは、食事を運んできてくれる老爺だけであった。

「朝メシを持ってきたぞ」

朝と夕、老爺は決まって食べ物を持ってきてくれる。そして一緒に、なにがしかの話もしてくれる。



つい三郎は、カリアッパ師のことを愚痴った。

「師はカイロで大事なことを教えてやると言った。でも、いつになったら教えてくれるのだろう…。こっちから声をかけてはいけないと言われているし」

すると老爺は「心配するな。待っていればいい」と気軽に答える。



時計など見たこともない村人たちは、そもそも時の感覚が自分とは異なっているように思われた。

老爺は「待っていろ」と言われれば、何時間でもそこに座ったままジッと待っている。自分の年齢すら定かでない。彼らにとって、時は「現在」しかないようであった。

そうした長閑(のどか)さは、三郎にとっては原始的というよりも、超人的にすら思われた。



そのように時に頓着しない彼らであったが、こと村の掟には厳正に従っていた。

インドには古来よりカースト(階級制)というものが存在し、たとえばカリアッパ師は村に数人しかいないブラミン(司祭者)という高い身分にあった。さらに師はヨギ(ヨガの行者)としても最高位の大聖者である。

一方、三郎はといえば身分は最下位のスードラ(奴隷)。それでも、それは師の恩情であった。というのも、奴隷でなければこのヨーガの里に入ることすら適わなかったのだ。それほど部外者に対する警戒心は強かった。



名目上、師の奴隷とされた三郎であったが、そのお陰で、三郎はいつでも師に従うことが許されていた。そして師から直接の教えを受けることも。

だがしかし、「生徒の準備ができたときに教師があらわれる」と言われるように、じつは三郎のほうにその準備ができていなかったのである。



そんなことも露知らず、三郎は不満と不安を募らせるばかりであった。

そして早2ヶ月が経とうとしていた。






■準備



先のことにばかり心を囚われていた三郎は、意を決した。

<よし。もうどなってもいい。カリアッパ師に聞いてみよう>

師に話しかけてはいけないという、村の掟を破る決心をしたのであった。



その日、村では儀礼が行われていた。

高弟を従えた師はおもむろに姿をあらわした。

大地にひれ伏した人々の間からは咳(しわぶき)ひとつ聞こえない。まことに静粛な雰囲気であった。



いつもは女子供たちのずっと後ろに控えていた三郎であったが、この日ばかりは、皆の最前列に陣取っていた。

師が静かに三郎の前を通り過ぎようとした、その時、三郎はガバっと、上げてはならぬ顔を上げた。そして直言した。

「お尋ねしたいことがあります」



「ほう、何かね?」

師は意外にも優しげであった。それに勢いをえた三郎、一気に言った。

「エジプトのカイロで、初めてお会いした折りに言われた、あのお約束は、いつ果たしていただけるのでしょうか?」

師は答えた。

「いつでもよろしい。私はすぐにでも教えたかったのだが、肝心な教わる方の準備がまだだったので、ずっと待っていたのだ」



三郎はキョトンとなった。そして言った。

「準備は初めからできているつもりです」

しかし師はすげない。

「いや、できていない。毎日お前の姿を見るたびに、『まだ準備ができていないのか。いつになったら教わる気になるのだろう』、そう思っていたのだ」



こうなると訳がわからない。師はなにか勘違いでもしているのではなかろうか。

困惑している三郎に、師は言った。

「どうしても分からないのか? では、あの小さな壺に、水をいっぱい入れて持って来なさい」



ますます分からない。

しかし師の言う通りにするしかあるまい。

三郎は渋々、素焼きの壺をもって立った。






■冷たい水



万人注視のなか、三郎は冷水で満たした壺を師のまえに置いた。

すると師は「よし。今度は同じくらいの壺に、お湯をいっぱいに入れて持って来なさい」と言った。

炊事場の釜には大量の湯がいつも沸かされていた。それをそっと汲むと、三郎は「水」と「湯」、2つの壺を師のまえに並べた。



「では、お湯をこちらの壺に移してごらん」

「…? 水がいっぱいに入っている壺にですか?」

「そうだ。その壺に入るかどうか、入れてみなさい」

「…入りません。こぼれてしまいます」

「そうだな。あふれるな。それは分かるな」



三郎は、完全に馬鹿にされている気分であった。

水がいっぱいの壺に、お湯を入れても入るわけがない。

そんな子供騙しのような問答に、エリート意識の強かった三郎は屈辱を感じずにはいられなかった。集まっている周囲の人々の手前もある。知らず、三郎の顔はかっかと火照っていた。



そんな三郎を気にもかけず、師は静かに言った。

「お前の心の中は、この壺と同じだ。冷たい水がいっぱいに入っている。だから、私がいくら温かいお湯を入れてやろうと思っても、それは皆、あふれてしまう。お前が水を空けてくれれば、私もお湯を注いでやれるのだが…」

「…」

「私は毎日、お前が水を空けるのを心待ちにしていたのだ。お前の中には、役にも立たない下らない理屈がいっぱいに詰め込まれている。そんな中に、私がいくら素晴らしいものを注ぎ込んでも、お前はそれを受け取ることができないであろう」

「…」



それだけ言うと、師は歩み去った。

残された三郎は、師の言葉に魂を大きく揺さぶられ、身じろぎもできずにいた。






■裸



思えば三郎は、小さい頃から乱暴ではあったが、学業はズバ抜けて良かった。

何より英語に慣れ親しんでいたことが大きかった。文明開化全盛の時代、学校の授業の多くは英語の教科書が用いられていた。ほかの級友たちは英語の難解さに辟易するばかりであった。英語の得意な三郎の鼻は、いやでも伸びざるを得なかった。

中学校に進めたのも、当時は全国で3万人ほどしかいなかった。そんな中、三郎はアメリカのコロンビア大学に渡り、医学部を出たのである。



三郎は、そんな圧倒的エリートであった。我は恐ろしく強く、理屈はこねるだけこねる。人の話など聞くような人間ではなかった。このヨーガの里へ来てからも三郎は変わらず、原始的な暮らしを続ける村人たちを、どこか心の中で軽蔑していた。

それがカリアッパ師の言う、三郎の中の「水」であった。そして師の一言は、三郎の自慢の壺を打ち転がした。

幸い、三郎はそれに気づけるくらいには賢明であった。同時に、水を空けねばならぬほどに三郎は追い詰められていた。自分の中の知識だけでは、もう自分の命が助かりそうにないことは思い知っていた。



ヨーガの里に着いてから2ヶ月、三郎は肉体の苦痛と極度の不安に苛まされ続けた。

しかしそれは、然るべき代償であったように今は思われた。そうした道を通ることでしか、「裸」に戻ることはできなかった。



ようやく、生徒の準備は整った。

そしていよいよ、ヨーガの修業がはじまろうとしていた。













(つづく)

→ ヨーガの里にて 〜心と病〜 [中村天風] その2









出典:『ヨーガに生きる―中村天風とカリアッパ師の歩み』おおいみつる



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2014年06月24日

争わない手 [宇城憲治]




「思い切り、突くように」

空手家・宇城憲治(うしろ・けんじ)師範は言った。

対するは、若き空手の日本チャンピオン。



若者の繰り出した突きは、非常に鋭く、素早く見えた。

だが、その拳が師範の胸に到達する前に、師範の右手がすでに若者のアゴを抑えていた。



若者は冷や汗を流し、凍りついていた。

「全然、見えませんでした…」



傍目には、師範の動きはむしろゆっくりに見えていた。

しかし若者には「突然、アゴの先に拳が現れた」ように感じられた。その始動も途中もまったく感じられなかった、と。











■時間



「相手の時間の中に入れば簡単です」

こともなげに宇城師範は言った。

「相手の動きがスローモーションのコマ送りみたいに見えたら、対処は簡単でしょう。私の場合もそんな感じです。相手が一コマ動く間に、スッと入ればいいわけです」



「時間は伸び縮みするんです」

師範は、まるでアインシュタインのようなことを言う。

「同じ時間の長さでも、好きな人と過ごす一時間と、嫌いな人と過ごす一時間は長さが違う。そうでしょう?」



どうやら、武術の世界では「時間の感覚」が異なるらしい。

「武術は、あくまで自分を主体にします」と師範。

ふつうなら、人間は時間に支配されていると思っている。ところが武術ではその逆、自分が主で時間が従だ、と師範は言う。



「アインシュタインは相対性理論において、それまでの時間の常識をくつがえしました。すなわち、自分の過去・現在・未来が、すでに他の誰かには見えている、分かっているということがあり得るということです」

宇城師範は、武術家であり科学者でもある。サイエンス誌ニュートンには、こうある。

「相対性理論は、過去・現在・未来という時間区分について、驚くべきことを明らかにしました。あなたにとって過ぎ去った過去の出来事や、まだ起きていない未来の出来事が、別の誰かにとっては現在の出来事である、といったことがあり得るというのです(Newton2013年10月号)」



師範は言う、「無意識という時間のなかに、先が見えているのです。身体が勝手に教えてくれるのです。そもそも『先がわかる』『先を観る』という世界は、昔の武術の世界では必須のことでした」






■いま



「『いま』という時間はあると思いますか?」

宇城師範は問う。

「過去・現在・未来と言いますが、実際には『いま』はないに等しいんです。『いま』と言っている瞬間に過去になっている。すべてはたちまち過去になってしまう。それぐらい、いまという時間は不確かなものなのです」



「『いま』は本当に短くて、無に等しい瞬間です」

そう言って、師範は両手を胸の前で合わせてみせる。

「ですが、いまを生きる日常を重ねていると、『いま』がだんだん広がってきます。『いまを広げる』、これが大事なんです」

合わせた両手は左右にゆっくりと開かれ、両手の隙間が大きく広がっていく。



人間の脳には「いま」を感じる力が備わっている。それは左右2つの脳があるうちの、右脳の機能である。順序をつかさどる左脳が「過去」と「未来」を生み出す一方、右脳にはそうした時間の概念がない。あるのは「いま」だけである。

それを実際に体験した脳科学者の話を、師範はする。

「脳科学者、ジル・ボルト・テイラー博士はある日、脳卒中となり、自身の左脳の機能が徐々に失われていく過程を経て、一時的に右脳だけの世界に至ります。過去、未来といった時間の概念がなくなり、『いま』だけの、静かで安らいだ、すべてのストレスから解放された、非常に幸せで平和な気持ちになったそうです」

その後、テイラー博士は8年かけて左脳の機能を回復させたというが、完全復帰したいまでも、右脳だけの世界、すなわち「いま」だけの世界(博士曰く、ラ・ラ・ランド)に遊ぶことができるという。











■頭と身体



「頭は遅い。身体は速い」

考えたら遅い、身体で動けば速い、と宇城師範は言う。



たとえば運転中、「危ない」と感じてとっさにブレーキを踏むまで、身体は0.2秒かかるという。そして、脳がブレーキを踏んだと自覚するのはもっと遅れて0.5秒後だという。

すなわち、現実世界が脳に描き出されるまでには0.5秒かかるのであって、われわれが頭で認識する世界は正確にいうと「0.5秒前に起こった過去の世界」ということになる。



となると、「いま」という世界はどこにあるのか?

それは、脳が知るよりも先に身体が反応した世界である。つまり、事が起こってから「0.2秒以前」。武術のアプローチするのはその世界であり、一般的には「無意識」と呼ばれる領域である。



師範は言う、「内面のスピード、すなわち無意識の時間領域にあるスピードは、外面とは比較にならない速さがあります。本来、人間のスピードというものは、無意識のなかで培われるものなのです。一方の意識とは、頭が気づく0.5秒後の世界なのです」

もし「意識して」突こうとすれば、もうその時点ですでに遅い。

脳という神経細胞がもつ時間は「1,000分の1秒」といわれているが、細胞一個一個の時間はもっとずっと速い。その1,000倍速い「100万分の1秒」だという。



だから、打とうと意識したり、投げようと意識した途端、技は相手にかからなくなるという。

さらに、「意識は一つの動作にしか向けられません」と師範は言う。手を意識すれば足が、足を意識すれば腹がおろそかになってしまう。



そうした無意識のお手本は、子供だという。

「子供は、その無邪気さゆえに、身体を無意識に使えています」

しかし、子供といえども意識するとダメになる。

「大人に『押せ』と命令されると、とたんに押せなくなります。意識してしまうからです」











■とっさ



たとえば、電車におばあさんが乗ってきた。

「席を譲ろうかな」と意識するのは、0.5秒後の世界。

「気づいたら席を譲っていた」というのが、0.2秒の世界。



師範は言う、「無意識には、頭で考えるという意識が介入しないので、身体にも強くエネルギーがでます。ところが、席を譲ろうかなと迷っているときは意識の世界にとどまっているので、エネルギーもでません」

一般的に大人は客観的であるがために、いつも0.5秒後という遅い世界にばかりとどまることになる。しかし、それはすでに終わった世界。そこでどうこうすることは蓮華の花を捻るに等しい。



宇城師範の塾を受講したある人は、こんなことを書いている。

「日曜日の午後、電車に乗っていました。駅に到着してドアが開いた直後、切羽つまった女性のうめき声を聞きました。すぐに席を立って駆けつけたところ、若い女性がホームと電車のあいだに身体が半分落ちていました。

 女性を引き上げたところ、女性が『子供がいるんです!』と私に叫びました。ホームの下をのぞいてみると、4歳くらいの子供がホームと列車の隙間から見えました。両手を伸ばして何か叫んでいました。子供の手が届きそうだったので、お母さんと一緒に腹ばいになって子供を引き上げました。

 いま思い出すと、引き上げたときに周りの方たちから拍手があったような気がします。お母さんは子供を抱きしめて泣いていましたが、自分は役割が終わったと思い席に戻りました。しばらくして電車が動きはじめたころに、やっと我に帰った気がしました。急に『ぞっと』しました。

 常々、宇城先生に『気がついたときはゴミを拾っている自分になるように』とご指導をいただいています。普段の私はゴミを見ても、通り過ぎてから『これではダメだ』と自分に言い聞かせてから、その場に戻って拾うタイプでした。しかし今回は、考える前に身体が動いていたのです。先生のご指導のお陰で、私の身体も一瞬、統一体になったのだと思います。ありがとうございました」



人のため、と頭で考えた時点で偽りだ、と師範は言う。「身体が先に動いてこそ」だという。「〜のため」は結果にすぎない。

マザーテレサは言う、「愛は言葉よりも行動」。











■統一体



立ったまま、ヒジを宙に浮かせた状態での腕相撲。



宇城師範は、相手がどれほど筋骨隆々であっても、涼しい顔のまま相手をひっくり返してしまう。

「筋力じゃできません」と師範。

20人くらいの人と腕相撲をしても軽々と勝ってしまう。まるでマンガのように。

「身体が一つになっているからです」

それが師範の言う「統一体」である。



先ほどの無我夢中で子供を助けた男性は、「私の身体は一瞬、統一体になった」と書いている。

統一体と反対の言葉が「部分体」。筋トレやサプリメントなどで部分部分を鍛えてできあがる身体である。

しかし、「部分を合わせても全体にはなりません」と師範は言う。



残念ながら今の世界、頭で考えること、そして部分的に身体を強化する傾向が主流である。しかしながら、それは師範の理想とする統一体からは離れていく方向にある。

師範は言う、「教育において知識偏重にあること、スポーツにおいて西洋型の筋力トレーニングによる強化を主体としていること。それらすべては本来の人間がもっている潜在能力を引き出すのではなくて、逆に閉じ込めフタをしてしまっているのです」



「頭の命令で部分的な力に頼ったときと、身体を一つにして生まれる力は次元が違います」

「ライオンや象などの動物が、トレーニングなどをしなくても充分強くしなやかであるという事実は、何を示しているのでしょうか。人間だって筋トレをしなくても、自然体の統一体であれば強いのです」











■呼吸



身体を一つにするのは「呼吸」だという。

「口の呼吸ではありません。大切なのは『身体の呼吸』です」

身体の細胞ひとつ一つがきちんと呼吸する。そうすることで、全身に気が巡る。そうして、頭よりも先に身体が動くようになる。



「身体に気が流れていないと、身体の内部が居着いた状態になります」

居着くというのは、武術の嫌う最たるもの。居着いた瞬間、すぐ投げられる。

宇城師範の師匠、座波仁吉・最高師範はこう言っている。

「だいたい空手の投げの基本は、相手を硬くさせること(居着かせること)。相手に技をかけて瞬間、相手は棒みたいに真っ直ぐになる。いわば、その術をかける。術なんですね、技というより」



たとえば、宇城師範は大の男を「指一本」で抑えてみせる。

「さぁ、起きてみてください」

だが、その大男はどんなに暴れても起き上がれない。

「技がかかっていますから、逃げられません」

大男はすっかり「居着かされて」しまっていた。身体の呼吸はすっかり止まり、口だけの浅くて軽い呼吸になっていた。



「鍛錬することで、呼吸は『呼吸力』に変わります」

「呼吸は筋肉のように加齢によって弱くなることはありません。逆に強くなっていくのが呼吸です」






■姿勢



「正しい姿勢は、型を通してつくられます」

姿勢という字は、姿に「勢い」と書く。

「型によってつくられる外面の姿に、身体の内面の勢いが出てきます。それが正しい姿勢です」



「型は、日常生活の中にもあります」と師範は言う。

たとえば正座のお辞儀。いわゆる土下座。身体が呼吸によって一つになった統一体で行えば、そのかがんだ背中に人を乗せても平気である。

「食事のときだけでも、家族そろって正座をして食べるといいでしょう」



日本文化に根付いている正しい姿勢は、それがそのまま統一体を導く型なのだと師範は言う。「礼儀を正す」それ自体が、いわば身体の鍛錬になるというのである。

箸を正しく持つことも然り。

「箸を使うのも、日常生活の型なんです。正しく箸をつかうと、自然に身体の呼吸が通ります」

それが日本人というものらしい。



ちなみにナイフとフォークでは、日本人は統一体になれないという。

「ほうら、呼吸が止まってる。ナイフとフォークだと呼吸が止まるんです」

口での呼吸ならいざ知らず、細胞レベルでは居着いてしまう。



日本人にとってはやはり、長年繰り返されてきた日常こそが、その心身を育むということである。

もし正座よりも椅子、箸よりもフォークを便利とするならば、日本人は統一体から遠ざかり、頭偏重の部分体に近づいていくことになるのだろう。











■海外



「海外の人は速い」

世界各国の人々に指導する宇城師範。

たとえば「頭より身体」と言ったとき、海外の人のほうが反応が良いという。



ところで日本人は、昔から「身体では欧米人にかなわない」と劣等感を抱いている。

確かに、体格や筋肉などの表面上では劣っているだろう。しかし、武術を日常的にやっていた頃の日本人、「本当の身体」という点では遥かに欧米を凌いでいた可能性もある。



1860年、日米修好通商条約のためアメリカに渡った日本人。

「大小の刀を二本帯刀した礼儀正しき使節たち、無帽のまま動ずる気配もなく、きょうこのマンハッタンの街頭をゆく」と、アメリカの詩人、ウォルト・ホイットマンを感心させている。その堂々とした威風と、アメリカ人を圧倒する迫力とが。

師範は言う、「このような背景には、武道と武術に根差した日本の生活習慣がありました。正座や礼儀といった日本人の生活文化は、単なる儀礼や形式ではありません。ひとり一人の姿勢や呼吸をも培ってきたことが、いま武術を学ぶとよく分かります」



皮肉にも現在、日本の武術に対する関心は欧米のほうが高かったりもする。武術が光をあてる身体の神秘に興味津々なのである。

逆に、身体では負けると思ってきた日本人は、「頭の優秀さ」を今も追い求め続けている。日本の武術では、昔から「頭より身体」であるのだが。











■できる



ある席で「文武両道」という話がでた。

そのアメリカ人はこう言った、「アメリカには野球選手でありながら医者になったり、フットボールの選手が引退後、弁護士になったりする。勉強もするしスポーツもする。ところが最近の日本では、そういう人材がほとんどいない」



それを聞いた宇城師範、小首をかしげる。

「文武両道の本質は違うんですよ。ほとんどの人は、文と武の2つができて文武両道だと思っている。そうじゃありません。われわれは文と武、2つで一つという発想なんです」

「文か武か」で論じるようなら、それは文武両道ではない。あるレベルを超えてしまえば「文も武も」となる。師範はそう言うのである。それが「できる」ということだ、と。



「はじめて自転車に乗れたとき、乗り方を本で勉強しましたか? それとも誰かに手取り足取り教えてもらいましたか?」

師範はそう問いかける。

「頭で考えても自転車に乗れるようにはなりません。何度もコケて、コケる中で身体が覚えて、ある瞬間にパッと乗れるようになった人が大半でしょう」

それが武術の「できる」というレベルである。

「一度乗れるようになると今度は、わざとコケようとしてもコケることができません。100%の確率でそれができるようになる。できない、ということがなくなります」



「技というのは、できるか、できないかの世界です。できたら決して後戻りしない。デジタル的なステップアップをするのです」

本当に「できる」ようになるには、「できるまでやる」しかない。



「身体を通して実体験で得た情報は、知識で得た情報とはその量がケタ違いです」

「赤ちゃんは放っておいても1歳を過ぎる頃から言葉を覚え、しゃべれるようになります。しかし英語を中学・高校・大学と10年ちかく学んでも、不思議に会話というコミュニケーションができるようになりません」






■一触



座波仁吉・最高師範は、こう言っていたという。

「理屈の質問を僕は受けません。空手に理屈はいりませんから」

理屈は頭の世界。それでは遅すぎる。



宇城師範は言う、「できる感覚を師匠から『一触』で教えられている人は速いです」

聞くより見る、見るより触れる。百見は一触にしかず。



「師は弟子に映し、弟子は師をまねる」

元来、人間にはミラーニューロンという鏡のような機能があり、他者の行動をそのまま自分に映せる能力が備わっているという。

「身体に身につけた技は無意識化され、とっさに出る技になります。ですが、頭で考えてやった稽古は永遠に無意識の技になりません」



先に時間の話を記したように、無意識とは脳で気づく以前、0.2秒以内の世界のことである。それは細胞のスピードレベルである。

人間には60兆個の細胞があるとされるが、そのうち脳(神経細胞)は0.01%にも満たない。つまり99.9%以上が「考えない細胞」である。

その世界までをも発動させるのが達人の境地。それを言葉で教えることは不可能。それでも一触によって、お互いの身体(細胞)同士は共感し合うことができるというのである。たとえそれが意識できなくとも。



余談ながら、多田宏氏は師匠・植芝盛平(合気道・開祖)の技を60年たった今も克明に再現できるという。60年前に道場でかけられた時の体感記憶が、身体に完全保存されているのだそうだ。

「身体に刷り込まれている」と多田氏は言っている。

技をかけられた瞬間、完全に師匠と同調して、師匠が何を感じているのかが全てわかったそうである。






■細胞



「『細胞先にありき』です」

宇城師範が言うには、母親の胎内で1mmにも満たなかった受精卵という細胞は、脳が先にできるわけではない。

「その細胞分裂の成長過程が、まさに『細胞先にありき』です。脳が先ではないのです。すなわち、脳を優先させる考えではなく、細胞先にありきという考え方のほうが理にかなっているわけです」



それを実証したのが、首から下を動かせなくなった弟子が、杖なしで歩いた瞬間だった。

「私のやり方は、脳→神経→筋肉という従来とは逆ルートの、細胞→神経→脳という方法で、『身体、先にありき』として働きかけるというものです」

それは武術的な方法論であった。

「A君の場合は首の神経が傷つき、そもそも頭の命令でいくら動かそうとしても足を動かせない状態になっていたのですが、身体を頭の命令から細胞の命令に切り替えることで、見事左右の足を高く上げることができるようになりました」

一生歩くことができないと宣告された足は、左右とも高らかに上がった。



師範は言う、「この事実はいまの医療では不可能とされていることでありますが、それは、いまの医療が目に見えるもののみが存在するという古典物理学に基づく物質主義にあるからです。すなわち、目に見えない『心』や『気』は存在しないとしているのです」






■心



「心は技の大もとである」

戦国から江戸にかけての剣客、伊藤一刀斎はそう言った。

「真心は武士の一芸であり、勇者の具足、鎧のようなものである」



「武術にとって心は必須です」

宇城師範は言う。

「『心豊かなれば、技冴える』です」



その「心」とは何か?

「頭で考えても意味はありません」と師範は言う。それは頭で考えるような心でも、イメージでもないという。



江戸時代の剣術書『天狗芸術論』にはこうある。



 月は水に映るともなく

 水は月を映そうとも思わぬ

 広沢の池



さざ波も立たぬ水面のごとき無心。

そこに「映そう」という意識はない。









そうした心は目にはみえない。

師範の言う「相手の中に入る」という次元である。それは無意識とも呼ばれる世界。そこに入られた相手は無力化されてしまう。先を取られたことに気づくことさえできない。

「打たずして打つ」

「投げずに投げる」

そうした無意識の技が、古伝空手の基本であるという。意識が一つのことにしか及ばないのに対して、無意識の心は同時多次元に働く。あたかも千手観音がその千本の腕の一本一本を意識することなく、それぞれに正しい働きを行うように。



伊藤一刀斎いわく

「人は眠っている時でも、頭が痒くなれば頭をかく。頭が痒いのに尻をかく者はいない」

これぞ無意識下での身体の妙。それは万人に備わっていながら、大人の脳や頭はそれを妨げる。






■戦わずして勝つ



そもそも、技と呼ばれるものは「見えない次元」で行われるもの。

人間が意識できる「いま」と、身体のそれとでは広さ深さがまるで異なる。細胞が100万分の1秒で反応できるとすれば、脳が1秒を感じている間に細胞では11日間以上(100万秒)も待ちぼうけである。



宇城師範は言う、「稽古を重ねると、相手の内面が見えてきます。幽体離脱ってありますよね。私の場合は、相手が動く前に、動く方向にそういうのが先に見える感じです」

余談ながら、江戸期の柳生新陰流では、そういったものを「陰」と表現した。また宮本武蔵の『五輪書』には、見の目ではなく「観の目(心眼)」で見ると記されている。

師範は言う、「内面の速さというのは、刀を振らずに振っているというものです。つまり、刀を持たずに勝つ、無刀ということになります。動かずして相手に映っている自分を消すことができれば、振らずして相手を制することもできます」



それは「戦わずして勝つ」という次元。

「山岡鉄舟は、剣の達人と呼ばれながら、生涯ひとりも人を斬っていません。戦わずして勝つ、相手の気を斬るという境地。山岡鉄舟はそれができていたから、江戸城の無血開城ができたのでしょう」と師範は言う。

一般的に、江戸城の無血開城を実現させたのは、勝海舟と西郷隆盛だったとされる。だがそれ以前に、山岡鉄舟は駿府の総督府に乗り込んでいたのだという。

「武術の勝負は、生きるか死ぬか。負けは即、死。真剣勝負をすれば、一方は必ず死ぬ。だからこそ、戦わずして勝つ、究極の境地を極める世界で武術の修行が行われるのです」











■調和と融合



宇城師範が、相手を無力化してしまうと、その相手は攻撃しようとする意思すら働かせることができなくなってしまうという。

そのとき師範は、相手と対立しているのではない、と言う。むしろ「調和、融合している」と。



そもそも沖縄の古伝空手は、平和を求めた末に生まれたものだと師範は言う。

「沖縄は約600年前、北山、中山、南山の三山に分かれて対立していた時代に、国を統一するために武器を捨て、平和の道を選んだ歴史があります。この歴史から、武器をもたない手(ティー)、現在の空手が生まれました。これが空手のルーツです」

「心に刃をのせて『忍』と書くように、人を大切にする、争わない手の歴史こそ、沖縄の心です」

相手と衝突するのではない。「調和と融合」こそが古伝空手の根本にある、と師範は言う。池の水は月を映すことをこばまない。









力に頼るとき、相手と対立する。

頭を使うとき、相手と衝突する。



それらはすべて「遅い」次元。そうした対立や衝突が発生する以前に、敵も自分も渾然一体となった状態がある。それは人間が意識できない0.2秒以前、無意識の世界。

そこで「事の起こり」を抑えてしまえば、戦わずして勝つに通ずる。それを宮本武蔵は「枕を抑ゆる」と表現した。

「敵のかかるという『か』の字を抑え、とぶという『と』の字の頭を抑え、きるという『き』の字を抑ふる(『五輪書』)」









宇城師範は言う。

「すべての根源は調和にあります。対立を生むのは器の小ささです。対立している状態は弱いのです」

調和は連鎖する。

「投げられたらオシマイではありません。調和の力で投げられた人は、じつはその力をそのまま身体に取り込んでいるので、投げられた状態のまま別の人を投げることもできるのです。それは5人でも10人でもずっと続くのです」

それが調和力の次元。

「現在の常識からすればあり得ない『みんな強い』という次元です。それは身体が『できる』を無意識に感じられるからです。身体がそう感じたときは、できるのです」

「私たちは60兆個の細胞をもってこの地球上に生かされています。この細胞の中には自然の理に調和する力があるのです」



しかし、もし誰かが心を閉じた状態であれば、そうした調和力は伝わらなくなってしまうという。

「心が閉じた状態は、人間にとって最も良くないあり方です。頭偏重の人は、頭が先に動いてしまうために心が閉じてしまう傾向にあります。自分を守ってくれる時空とつながりを断つことは危険なことでもあります。そうした人は軽く押されるだけで簡単に崩れてしまいます」

誰もが大人になるにつれ無意識のうちに、心の扉を閉じていく。それは徒らな知識によってであったり、常識という重しによっても。

「『どうしたらできるようになるのですか?』という質問は、本来あり得ないのです。なぜならすでに、あなたにはその能力が備わっているからです。それよりも急がねばならないのは、その能力を封じ込めている扉を自ら開くことです」











■謙虚



宇城師範は大学に講師として呼ばれたり、講演したりする機会もあるという。

東大での講演の帰り道、コーディネーターは師範に向かってこう言った。「今日は何人か分かってくれた感じですね」

すると師範は即答、「わかってもらおうなんて思ってやっとらん」。



師範は常々、こう言っている。

「わかりやすいことは、まったく意味がない場合もある」

わかりやすいことほど、その人は自分の知識内の解釈で終わってしまうのだという。



「私は広めようという考え方はしない。深める、それだけ」

そう言って師範は、両手の指先を合わせて逆三角形をつくり、地面を深く掘り進むような仕草をしてみせる。

「深めていけば、自然に間口は広くなるものです。深さを知るとは、謙虚になることです」

「大河にコップ一杯の水を流し続ける。かならず清い水を求めて、下流から魚が上流にのぼってきます」









「わたしたちは過去ではなく、『いま』に身を置かねばなりません。『いま』を広げた世界に身を置かねばなりません」



「生きるということは、真剣勝負です」











(了)






出典:
宇城憲治『気によって解き明かされる 心と身体の神秘
宇城憲治『ゼロと無限 ― 今の常識を超えた所にある未来 ―
宇城憲治監修、小林信也『古伝空手の発想



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posted by 四代目 at 07:21| Comment(0) | 心身 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする