2016年11月15日

速水御舟の「闇と光」



「これが本当に、日本画の絵の具で描いたんだろうか…?」

山種美術館の館長・山ア妙子さんは、一枚の名画をまえに感嘆する。

速水御舟(はやみ・ぎょしゅう)27歳のときの作品
『鍋島の皿に柘榴』(1921, 大正10)



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なんという細密な描写だろう。すべすべとした柘榴(ざくろ)、硬い磁器の質感。背景は皿の影のみという明快さ。

山ア妙子さんはつづける。

「モノの質感描写を追求した結果、御舟(ぎょしゅう)はモノの存在の神秘さにまで行き着いているような気がいたします」

モノという対象を徹底的に見つめつづけた若き日の御舟。この一枚で、ひとつの完成をみた。と同時に、大きな壁にも直面した。

御舟は言う。

「なにか、それ(写実)だけでは済まない問題が、常に往来している。この無味乾燥を打破して、本当の何ものかをつかみ出さなければならない」



”本当の何ものか”

モノの描写だけでは満たされない、それだけでは済まされない”何ものか”が、御舟には必要だった。



悩みを背負った御舟は、武蔵野の禅寺、平林寺の門をたたいた。

ひたすら座禅をくむ日々。

修行僧としての生活は9ヶ月にも及んだ。



大正14年の夏、御舟は軽井沢の別荘にいた。

毎晩毎晩、御舟は焚き火をして、その炎をじっと見つめつづけた。



そして描いた『炎舞』(1925, 大正14)。

渦を巻くように燃え上がる炎。

その光に群がる蛾(が)。

背景には、深い闇があった。







一見、写実的に見えるこの作品だが、よく見るとその炎は日本画のように様式化された形であり、精緻な 蛾もじつは、みな真正面から描かれているという不自然さがある。にも関わらず、炎にも蛾にも、現実を超えた生命力がみなぎっている。

そして圧巻は、その「闇」である。

御舟自身、「もう一度描けといわれても、二度と出せない色」と語ったほどの「闇の色」。黒に朱をまぜ、その境目に金泥をほどこして微妙な色調を表現。さらに深い闇の部分には、青みがかった炭をつかったという。

美術家の森村泰昌さんは言う。

「あの絵は、闇という空間を表現しているんです。その闇は真っ暗なものじゃなくて、微妙な色を積み重ねて、とても豊かな闇空間を表現しています。救いがあるというか、そういう闇です」



これほどの作品をもってしても、御舟は納得しなかった。

御舟は言う。

「絵画修行の過程において、わたしが一番恐れることは型が出来るということである。なぜなれば、型が出来たということは、一種の行き詰まりを意味するからである。芸術は常に、より深く進展していかねばならない。だから、その中道に出来た型は、どんどん破壊して行かねばならない」

日本画にあって日本画にあらず、西洋画のようでいて西洋画にあらず。独自の画風を切り拓いていった速水御舟は、自ら切り拓いた画風を惜しみもなく捨て去る画家であった。

こうも言う。

「梯子(はしご)の頂上に登る勇気は貴い。さらにそこから降りて来て、ふたたび登り返す勇気をもつ者は、さらに貴い」



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御舟が次に登りはじめた梯子は、何だったのか?

それは、『名樹散椿』(1929, 昭和4)となって現れた。

御舟が描いた椿は、京都・昆陽山地蔵院にあったという樹齢400年の古木。豊臣秀吉の寄進によると語り継がれてきた名樹だった。







この作品にとりかかった理由を、御舟はこう記している。

「伝説的な古木には必ず、そうした伝説と名声とを発生させるだけの、特殊な崇高美や画的美感がその樹姿のうちに認識されるに相違ないということを想察したからである。だから、それを表現し描写することは、ただ単なる花鳥描写、自然描写と相違して、そこにもっと内面的なもの、より深奥なもの、を展開し得られるだろうも希望された」



古木ゆえの逞しい幹。そこから太い枝が左へ左へと何本ものびる。花は五色のあでやかさで輝き、散った花弁は苔むした地面に横たわる。

そして圧巻は、金地の背景である。

普通、背景に金箔を貼るとき、金箔同士に隙間ができないよう、わずかに重ねながら貼っていく。その結果、金箔と金箔の継ぎ目には「箔足(はくあし)」とよばれる格子状の筋が残る。しかし、御舟の『名樹散椿』の金地には、まったく繋ぎ目が見えない。

金を背景とする手法は、ほかに金泥を用いるものがある。金箔を細かくして膠(にかわ)で溶き、刷毛で丁寧に何回も塗り重ねるという手法だ。しかし、どうしても刷毛の跡が横筋として残ってしまい、完全に均一な背景をつくることはできない。



いったい御舟は、どうやってムラのない完璧な背景を金で表現しえたのか?

それは彼が少年のころに学びおぼえた「蒔絵(まきえ)」の技法にヒントがあった。沃懸地(いかけじ)とよばれる技法で、粉にした金を撒いて地をつくるものだった。

『名樹散椿』においては、膠(にかわ)を塗った紙のうえに、粉にした金箔を散らし、それを手の平で丁寧にならしていく「撒きつぶし」という手法がつかわれていた。貼るだけの金箔に比べると、途方もない時間がかかる。さらに金箔の量も貼る場合に比べて10倍もの量が必要になる。



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しかしなぜ、御舟はそこまで「ムラのない均一な背景」にこだわったのだろう?

美術家の森村泰昌さんは、こう考える。

「ぼくはこれ、金じゃないと思ってます。金箔とか金泥というのは物質です。金という物質なんです。でも、この御舟の撒きつぶしは”非物質”なんです。金箔のてらてらした感じとか、金泥のざらざらした感じとか、そういう金の物質感がまったくありません。だから非物質なんです」

御舟が求めたのは、モノに非ず、ということか。

森村さんはつづける。

「物質に非ず。この世のなかでの非物質といえば、それは光です。だから、御舟が表現したのは金ではなく光、光の空間だったんです」



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モノから闇へ、そして非物質たる光へ。

できそうになる型を、次々と壊しつづけた御舟。



その花が散るのは、『名樹散椿』完成からわずか5年後。

享年40という急逝であった。











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2016年11月09日

ゆっくり時間をかけて[甲州印伝]




「あ、これ持ってます」

生方(うぶかた)ななえさんは、小さな印鑑ケースを指差した。桜花の文様があしらわれた、小粋な一品。






この店は、甲州印伝(こうしゅういんでん)の老舗である。その創業は、本能寺の変と同年の1582年と、じつに歴史が深い。

店長の前田英二さんは、言う。

「この小桜の文様は、もともと戦国時代の武将がつかっていました」

生方さんは驚く。

「こんなカワイイのを? 武将が?」

前田さんは言う。

「桜が散るときの美しさ、それを武将は好んだようです」

甲州印伝とは、鹿革にウルシの文様をほどこした工芸品で、インド(印度)伝来ということから「印伝」と呼ばれるようになったらしい。甲州とは言わずもがな、今の山梨県のことである。



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もとは武具や甲冑にはじまったという甲州印伝、いまでも定番の「トンボ」柄や「菖蒲」柄は、武士に好まれた図柄であった。

トンボは前を向いて飛ぶことから「勝ち虫」として縁起がよく、菖蒲には「尚武(武をたっとぶ)」という意味が込められていた。







戦国の世がおわると、甲州印伝は武具から小物へと姿をかえた。タバコ入れや合切袋など、身の回りの生活に役立つ品々が作られるようになった。

池田屋13代目の上原勇七さんは言う。

「戦国時代には戦国の、江戸時代には江戸の、そのときどきの状況に合わせて職人さんが甲州印伝をつくってきました。これが一番大事なことだと思います。これからも時代は変化していくのでしょうけれども、それをどうつかんで、対応できるかですね」



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時代を反映してきた甲州印伝、すでに現代的なデザインも取り入れはじめている。たとえば現代の若者が好む「ヒョウ」柄などは、400年の歴史のなかで初めての試みだ。



とはいえ、400年の歴史は深い。

ある気鋭のデザイナーは言う。

「真似しようとしても真似できない、唯一無二の存在であるのが甲州印伝です。そこに一番の魅力を感じました」



じつは甲州印伝のルーツをたどっていくと、その歴史は1,300年前にまでさかのぼることができる。

「うわー、すごく柔らかい。ふにゃふにゃ(笑)」

生方(うぶかた)さんが手にしたのは、幻の印伝と云われる逸品。千年前の技法でつくられたものだった。



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「さわってて、すごく気もちいい。吸い付くような革ですね」

”燻(ふす)べ”とよばれる古代の技法によって、その極上の質感は生まれるのだという。







さっそく、その工房を訪れる。

伝統職人の戸澤武士さんは言う。

「こちらは”焼き擦(す)り”という工程で、野生のシカ革特有の凸凹したところをきれいにしていきます」

鹿革は天然素材であるため、その表面に凸凹や硬い部分などがまだらにある。それを熱したコテで擦(す)りならし、さらに研磨して表面をなめらかにしていく。何度も何度も根気よく、シカ革がしっとりと柔かくなるまで繰り返す。



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次に、色を付けていく。

その色はなんと、煙で付ける。”太鼓”とよばれる回転ドラムに巻きつけられた鹿革が、稲ワラの煙に燻(いぶ)される。”燻(ふす)べ”と呼ばれる由縁である。

燻す前、鹿革にタコ糸を平行に巻いていく。このタコ糸があとで縞模様をつくることになる。



「こんなに煙がでるんですね!」

あえて煙をだすため、カマドは不完全燃焼の状態に保たれる。

「こんなに早く、色が付くんですね」

見る間に鹿革は煤(すす)けていく。均等に色づくよう、”太鼓”の回転や位置を微妙に調整しつづけなければならない。一回の”燻(ふす)べ”は20〜30分ほど。これを10回以上くり返す。2日がかりの大仕事だ。

燻べ職人の神宮寺秀哉さんは言う。

「ゆっくりゆっくり、”燻(ふす)べ”が仕上がっていくのです。時間をかけるということが大切です」



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時間と根気が生み出す、究極の手ざわり。

”燻(ふす)べ”を行うことによって、鹿革のコラーゲンがねじれて絡み合い、あの吸い付くような独特の柔らかさが生み出される。



古代の煙が、現代の心をいやす。







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2016年05月12日

「楽器のような、ふしぎな声」 [柏田ほづみ]



うぶ声もあげられなかった。

彼女には生まれつき、ノドに障碍(しょうがい)があった。



「宇宙人みたいな声だ」

そうバカにされるたび、思った。

「自分の声なんて、大っ嫌い」



柏田ほづみ(かしわだ・ほづみ)さんは言う。

「ノドの異物感で、声をだすことが辛くて辛くて。いまでも忘れられないんですけど、授業参観の日に先生にあてられたのに、声がでなくて、もう悲しくて悲しくて、立ったままボロボロ泣いたことがあります」






音楽が好きだった。

柏田さんは言う。

「先生をしていた父が、自宅でピアノを弾いてくれるのを聴くのが大好きで、演奏がはじまると私はいつも、『わぁーっ』て、声にならない声をだして踊っていたんです」



中学校からフルートをはじめた。

柏田さんは言う。

「自分の声にずっと苦しめられていたから、代わりに『歌をうたうようにフルートを吹くんだ』っていう気持ちがあって。もうフルートが大好きで大好きでしょうがなかったんです」



音楽の短大にすすみ、卒業後はドイツにいくことになっていた。

しかし…

「交通事故で、指を骨折してしまって…」







一時、音楽はあきらめた。

マッサージ師として働きはじめた。



それでも、あきらめきれない思いが残っていた。

「このまま人生を終えたくない! どんな苦労をしても、音楽をやりたい!」



もう一度、フルートを手にとった。

しかし、どこか軽い。



そこで、オーボエを選んだ。

「憧れていたオーボエに挑戦することにしました。『オーボエで絶対に、ドイツのオーケストラの奏者になろう』って」







仕事がおわると、カラオケBOXにむかう。

「毎日、最低4時間の練習をきめていました。26歳っていったら、もうオーケストラにはいってなきゃいけない歳ですから。4時間でも足りないくらいだと思って、必死にやっていました。気がついたら朝の5時になっていたり」



そうして3ヶ月ほどした頃、ハンブルク歌劇場のオーボエ奏者にレッスンをうける機会にめぐまれた。

すると…

「ドイツに来なさい」



ところが今度は、尺骨(しゃっこつ)神経麻痺になってしまった。オーボエの練習過多と、マッサージの仕事で、手に負担がかかりすぎていた。

柏田さんは言う。

「オーボエのキーも押さえられなくなったんです。結局、泣く泣く断念しました…」






音楽への扉は、また閉ざされた。

しかし、新たな扉が、大きく開かれようとしていた。



柏田さんは言う。

「ドイツにいるときに『オペラ』を聴いて。もう、お客さんの拍手の大きさっていうか、感激の度合いがケタ違いで、

『あぁ、人間の声ってやっぱりスゴいんだなぁ』

って実感したことがありました」







そのときは、自分が歌手になるとは、ゆめ思っていなかった。

ノドに障碍(しょうがい)をもつ自分が。



28歳のとき、ノドの手術をすすめられた。

「日本の声楽家専門に多くの手術をされている先生をご紹介いただきまして。手術のあとで先生が、

『こんな手術ははじめてだ。血が一滴もでないなんて』

って驚かれるくらい、みごとに成功したんです」



ひと月したら、声をだせるようになった。

「すごく楽に声がだせて、

『あぁ、わたし、こんな声をもってるんだ』

って」






オペラの先生に、こう言われた。

「あなた、大劇場で歌うような歌手になれるわよ」

そしてミュンヘンで、本格的にオペラの勉強をはじめた。



柏田さんは言う。

「ずっと楽器をやってきて肺活量なんかが鍛えられていたことが、声をだすときにプラスになったようなんです。それにフルートをやっていた頃に、歌をうたうような気持ちで吹いていたこともあってか、わたしの歌ってよく

『楽器のように不思議な声ですね』

って言われるんです」






イタリアの国際オペラコンクールで優勝。

「優勝したときは、もう子供みたいに泣きじゃくりました。それまで辛いこともたくさんあったけど、人生にムダなことってないんだなって思います」







柏田さんの「不思議な声」は、小鳥たちにも喜ばれた。

「イタリアでコンクールに参加するまえ、知人の家の中庭で歌わせていただいたんですが、小鳥がやってきて、わたしの声に共鳴して、いっしょに歌いはじめたんです。絶妙のタイミングで合いの手を入れてくれて、おもしろいセッションになったので、YouTubeに『小鳥とセッション』ってタイトルをつけてアップしています」







柏田さんは言う。

「わたしの声には『倍音(ばいおん)といって、実際に発声している音階よりも高い周波数の音がすごく含まれているそうです。脳波を研究している志賀一雅先生が調べてくださったところ、わたしが歌っているときには、地球の周波数といわれる『シューマン周波数(7.8ヘルツ)』がとても長い時間おこって、それが人や生き物に対して癒(いや)しとして伝達されるそうなんです」







小笠原諸島では、ザトウクジラと歌をうたった。

「ザトウクジラって、求愛するときに歌うっていわれているんですけど、わたしの歌声を聞かせたらどんな反応をしてくれるのかな? と3年前にロケ隊を組んで小笠原に行ったんです。

ザトウクジラは私らが到着した5日前からまったく姿を現していなかったらしいんですけど、最初に陸で歌の撮影をはじめたら、びっくりするくらいのカツオドリがやって来て、旋回をしはじめて。

『これはいける』って海にでて、20〜30分船を走らせていると、遠くにザトウクジラが現れましてね。わたしの歌に合わせてジャンピングを繰りかえすんですよ。







わたしも感激して、カンツォーネからオペラ、日本の『ふるさと』まで、いろんな歌を日が暮れるまで歌いつづけました。

丘からもたくさんの観光客のかたが見てくださっていて、

『船のまわりで、クジラがピョンピョン跳ねていて、不思議な光景でした』

って驚いてらっしゃいました」






「わたしね、ゲーテと誕生日がいっしょなんですよ。

そのゲーテが

『おまえの本当の腹底からでたものでなければ、人を心から動かすことはできない』

って言っていて、わたし自身のポリシーにしています。いくら取り繕っても、心の底で思っていることは、その人の声をきけばすぐ分かりますからね」




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2016年04月17日

1,000敗という「強さの証」 [加藤一二三]



朝日新聞の将棋観戦記に、こうあった。

「ある一手を指すと、次に指す手がない」

この一文に、ある将棋少年は悟った。

「将棋というのは、好手を指しつづければ、勝てるゲームなんだ」







加藤一二三(かとう・ひふみ)

当時、小学4年生。

のちの名人となる棋士である。



加藤は言う。

「これは初めて話すことなんですが、隣の市に、一局いくらで将棋を教えるオジさんがいると聞いて、四年生のときに訪ねていったら、私が全勝してしまった。そのオジさんは、たぶんお金を受け取らなかったと思うんだけど(笑)」

夏休みになると、大人にまじって将棋三昧。とくに将棋を勉強するということなしに、メキメキ腕をあげていった。



「福岡から相当見込みのある子供がやってきた」

そんな話が、関西将棋会館で伝えられた。

その”相当見込みのある子供”、加藤一二三は、まず野村慶虎七段と飛車落ちを指した。そして今度は、板谷四郎九段に飛車香落ちを打った。



そうした対局をかたわらで見ていた、升田幸三(ますだ・こうぞう)は言った。

「この子、凡ならず」

当時、升田は飛ぶ鳥を落とす勢いの名人だった。







加藤一二三はその後、14歳で史上初の中学生棋士に、18歳の時にはA級八段となった。

「神武以来の天才」

と呼びそやされた。



20歳のとき(昭和35年)、最初の檜(ひのき)舞台にあがった。

名人戦である。

相手は大山康晴(おおやま・やすはる)名人。







加藤は言う。

「その頃の大山名人は、名人を含めたほとんどのタイトルを独占しておられて、仰ぎ見るような存在でした」

ちなみに江戸から昭和のはじめ頃まで、名人は「世襲制」だった。現在のような「実力制」にかわったのは昭和12年(1937)。以来、将棋界は大変な活況を呈するようになった。

加藤は言う。

「実力制は、棋士の生活を大きく変えました。弟子をとって生計を立てていたのが、大手新聞社がスポンサーについて、まぁ名人戦を戦うというだけで家が一軒建つくらい収入が安定していきました」



20歳の初対局から数えて、加藤は大山名人と生涯、125局戦うことになる。

加藤は言う。

「十局でいうと、5.5割対4.5割で負け越して、タイトルを奪還することはなかなかできませんでした。だけど、われわれの勝負というのは長いんですよ。10年間どちらかが勝ち続けても、後の10年は負け続けるということが実際にある。大山名人との対局でも、6回目の挑戦にして、ようやくタイトル(十段戦)を獲得できました」

この対局、加藤には「7時間かけた一手」があった。

「私は一つの手を7時間かけて考え抜いて勝ちました。7時間かけて見つかる素晴らしい手があったのかと、勝負の深さを実感しました」

昭和43年(1968)、加藤は大山名人から十段位を奪取。加藤28歳のときだった。






大山名人以上に加藤が苦戦をしいられたのは、中原誠(なかはら・まこと)名人だった。

加藤は言う。

「中原名人には8年間で一回も勝てなかった。タイトル戦で20連敗していますからね」







加藤は言う。

「技の特徴を意識しながら中原名人と対局を重ねるたびに、自分の技が非常にシャープになっていくのを感じていきました。私は大山名人とは125局戦ったわけだけど、面白いことに、そういう感覚を掴んだことはありませんでした」

さしもの大山名人でさえ、中原名人には手を焼いていた。中原名人にだけは負け越していたのである。



大山名人と中原名人の対局は主に2日制だった。

加藤は言う。

「一日が終わった段階で、新聞で局面を見ると、中原名人が一歩リードしている。形勢の良さを維持して、押し切って勝とうという作戦です。つまり先攻逃げ切りです。そういう作戦のパターンに気づいた頃から、私も少しずつ勝てるようになっていきました」



昭和48年(1973)、中原名人を相手に、加藤は2回目の名人戦に挑む。

結果は4連敗。

だが、不思議と劣等感はなかったという。

「一回も劣等感をもったことがないんです。ちょっとこの人は器が違うな、歯が立たないなと思ったことは一度もないんです」



そして、9年後の昭和57年(1982)第40期名人戦、中原名人に勝つときがきた。

加藤は言う。

「十局戦ってついに私が勝ちました。このときの対局は激しい鍔(つば)迫り合いがつづき、名人戦史上の名勝負として、いまも語り草になっています。私自身も9年間の鍛錬があったのでしょう。このときは私なりの悟りがありました。『負けた直後に自信がうまれて強くなる』ということを、私は人生のなかで何度か体験してきました。負けた時ほど、己と徹底的に向き合うからなのでしょうか」







名人と呼ばれる人々には、

「自分はなぜ負けたのか、ということを客観的に知りたい好奇心」

がある、と加藤は言う。

「ひと言でいえば、負けず嫌いということでしょうか。升田名人というのは面白い人で、対局で私が勝つと、その後の感想戦(対局を振り返っての研究)が3時間におよぶんです。そのくらい自分の将棋を徹底して見つめられた。だけど、自分が勝ったときは10分で終わり(笑)」

升田名人の「負けん気」は有名だった。

加藤はつづける。

「ある時など、午前2時に対局が終わって、感想戦を終えて将棋会館をでたのは朝7時だったこともあります。大山名人もまた『意地』が口癖でしたし、感想戦は真剣そのものでしたね」

プロの将棋の世界には、「10の222乗」という天文学的な指し手が存在するという。そんな膨大な星の数の中から、お互いが最強とおもえる一手を繰り出し合うのである。ゆえに、その吟味となるとまた、天文学的とならざるをえない。







負けと真剣に向かい合うからこそ

負けて強くなる。

将棋の道一筋62年、

加藤九段は76歳のいまもなお、現役の棋士である。



加藤は言う。

「私の場合は、1,000回以上も負けているんです。なんと言っても『負け数一位』ですから(笑)。将棋界の歴史で『千敗達成者』は、私を含めてまだ3人しか存在しません」

プロの棋士界では、負けつづけると最短13年で引退に追い込まれる。負けてなおプロでありつづけるためには、負け以上に勝たなければならない。

「たくさん負けるには、それ以上にたくさん勝たなくてはいけない。千敗というのは、60年以上現役をつづける『強さの証』だと、自負しているわけです(笑)」



加藤一二三(かとう・ひふみ)

2016年4月現在

対局数2479(歴代1位)
1320勝(現役2位)
1158敗(歴代1位)










(了)






出典:致知2016年2月号
加藤一二三「続けると、勝負の奥にある感動が掴める」



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2014年08月20日

正直のままに [画家・宮芳平]




ずっと無名の画家だった。

宮芳平(みや・よしへい)

生前は、美術の先生くらいにしか思われていなかった。



「心で見なさい、ということを一生懸命おっしゃっていたと思うんです」

宮の教え子、中沢優子さんはそう話す。

作家のドリアン助川さんは「絵がそんなに売れたわけでもないし、大きな名声を得たわけでもない。なのに一生描き続けた人ですよね」と語る。



宮芳平はこう言っている。

「絵の具がたくさんくっついているからといって、良い絵とは言われない。ただ私の場合、よたよたと歩こうとした”私の正直”を見てもらいたい。その盛り上がった一筆一筆のかたまりが、その一つ一つの陰影が、画面に不在の美しさを加味していることを時折思う」






■マグマ



宮芳平は明治26年(1893)、新潟の呉服商の家に生まれた。8人兄弟の末っ子で、親からは孫のように可愛がられて育った。

日本海に沈む夕日に感動して画家になることを決意した若き芳平。高校卒業後、家族の反対を押し切って上京。一年浪人して東京美術学校に入学した。1914年、20歳で東京大正博覧会に初入選を果たし、幸先の良いスタートを切ったかにみえた。



ところがその矢先、田舎から突然の訃報がとどく。父・末八の死であった。

通夜の晩、芳平は独りキャンバスに向かうと、一枚の自画像を描いた。どこか虚ろなその目は、先行きのおぼろさを暗示しているかのようであった。




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その年、芳平は政府が主催する公募展、文展への出品を決意。返す当てもない借金をして絵の具を買うと、大作『椿』に挑む。

執拗に塗り重ねられる点描。赤や緑、小さな絵の具の点々がキャンバスを埋め尽くす。その画面は圧倒的に暗い。その薄暗さのなかに目を凝らすとようやく、赤いドレスを着た女性が浮かび上がってくる。




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その印象をドリアン助川さんはこう表現する。「なんでしょう、火山の噴火口から底を覗いたときに、うっすら見えているマグマのような…。それは青年・宮芳平の血であり、情念であり、生命的なマグマであり、そういうものがここに込められている」

野地耕一郎氏(泉屋博古館・分館長)はこう語る。「憑かれたように点描を重ねている。キャンバスの目に食い込ませるように、捻じ込むように点描を打っている。あまりにも魂を込めすぎたような、抜き身の刀のような鋭さがあります」



それほど生命を賭けた『椿』。

しかし結果は落選。

どうしても納得のいかない芳平は、とんでもない行動に打って出る。文展の審査委員長、森鴎外(もり・おうがい)の自宅へと押し掛けたのだ。






■森鴎外



「私の所へ、アカデミィの制服を着た一人の青年が尋ねて来た。M君はいかにも無邪気で、その口吻には詞を構えて言うやうな形跡が少しもなかった」

森鴎外は、宮芳平の突然の来訪を、短編小説『天寵』に書き留めている。









M君(宮芳平)は言った。

「あの画(え)は、布、顔料、額縁に、持っていただけの金を掛け、費やされるだけの時間を費やし、嘗められるだけの苦辛を嘗めて為上(しあ)げた。ほとんど自分の運命は懸けてあの画にあると云っても好い。そこでせめてもの心遣(や)りに、あの画のどこが各に合わぬか、聞かせて貰いたい」

鴎外はこう答えた。

「私はすこしも君の画を嫌う念を有していない。君の画には大衆の好みに阿(おもね)った跡もなく、また大家の意を迎えた跡もない。これは君が何を能(よ)くするかと云う問題である」



鴎外は、この青年に好感を抱いた。そして、その素質を認めた。

芳平の絵はそれほど上手なものではなかった。しかし、そこには純粋さがあった。たとえ暗くとも、澄み切った心があった。自分の感情に対する正直さがあった。鴎外は、その一途な思いを丁寧に受け止めた。

その後も、芳平は鴎外のもとをしばしば訪ねた。そしてその度に、鴎外は丁重にもてなした。鴎外は知り合いの文化人の名刺を渡して、積極的に会うことを勧め、見識を広めるよう助言したという。



ある日、芳平は鴎外に相談をもちかけた。友人たちが自分の絵を「奇態(きたい)だ」と言って笑う、と。

「ほほー」

それを聞いた鴎外は笑った。そしてこう答えた。「でも君、毛虫は奇態だろ。しかし蝶になる。君はこの”嘘偽りない気持ち”を積み重ねていけば、奇態な絵であっても最後はやっぱり蝶になる」



鴎外は、宮芳平の絵を一枚買った。

『歌』

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その絵にはもう『椿』のような暗さはなかった。世の安穏を祈るような平和さがあった。咲き誇る椿の下、男女が親しげに顔を寄せ合っている。それは自分だけの世界から一歩踏み出した、「世の人との間に立った絵(ドリアン助川評)」であった。

鴎外は生涯、この絵を自宅に飾っていたという。






■教え教わる



25歳で、芳平はエンと結婚。

しかし絵はまったく売れず、困窮した生活が続いていた。家計を支えていたのは、妻エンであり、肺病を患いながらも洗濯の手伝いなどに精をだしていた。



29歳のとき、長野の諏訪市に移った。知人から、高校の美術教師にならないか、と声をかけられてのことだった。

「芸術家にとって職に就くことは堕落だ」と考えていた芳平。されど背に腹はかえられず、長野の高校の非常勤講師となった。それ以来、絵を描く時間はきわめて限られたものとなった。放課後のわずかな時間しか、彼の自由とならなかった。

当時の葛藤を、芳平はこう記す。「創作することと教えることは違うような気がする。これはどうしても二つの仕事だ。創作は創作で全力のいる仕事だし、教えることは教えることで全力のいる仕事だ。それではこの二つをどう調和したらよいだろうか?」

苦悩のなか、公募展での落選が続いた。



そんな暗闇にいた芳平を救ったのは、教え子たる生徒たちであった。疑うことを知らない素直な子どもたち。それは汚れのない光であった。

芳平は記す。「しんとした部屋の中に、黙って置かれてある子どもたちの道具すらが眼に触れて、私のためにあんなにもよい生徒がここに座して、おとなしく勉強して行ってくれた。これがその部屋であると思うと、何とも言えない嬉しい気持ちがこみ上げて来て、体中いっぱいになる」

生徒たちもまた、芳平を慕った。教え子の中沢優子さんは、その思い出をこう語る。「ともかく優しかったんです。先生でありますっていうような威圧的なところがなくて。だから、とっても居心地がいいんです。美術室にほぼ入り浸っていましたね」






■抜けた空



生徒たちの清らかな純粋さに触れ、宮芳平の画風は明らかに変わった。

ドリアン助川さんは言う。「もう全然違う人ですよね。どうですか、この青空の鮮やかさ」

『茜さす山』

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生徒たちをよく教室の外に連れ出したという芳平。自分もまた、雄大な大自然のなかでのスケッチをともにした。

『けしの花』

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芳平はこう記す。「いま、雑草の頭を越えて、大きな花が丈高く咲きました。私はなぜこの花が好きなのでしょう。わかりません。紅にしろ、また白にしろ、純粋とはこのようなものだと教えてくれるような気がします」



純然たる大自然、そして無垢なる子どもたちにより拓かれた、宮芳平の画。

ドリアン助川さんは言う。「いま純粋にこの花をまえにして、蝶も蜂もいたでしょう、香りもしたでしょう、光も輝いていたでしょう。それが嬉しくて嬉しくてしょうがない。細胞が喜んで描いている。金ないけど、今日も幸せだなオレ、みたいな。その無邪気な感じが伝わってきますね」

野地耕一郎氏は言う。「絵の具と一緒に遊んで、キャンバスに一緒に飛び込んでるという感じ。信州に行ってからの彼の絵は、点描主義とかそういう理論じゃなくて、見たまま。花なら花、自然そのままを全部描きたいっていう気持ちが絵になっている」






■拙さ



芳平は生徒たちにこう教えていた。

「形などいくら崩れたっていい。絵の命はそんなところにない。むしろ崩れているところに本当の正しさがあると言いたいくらいだ。だからあなた方は、絵の稽古など必要じゃあないんだ。ただ、あらゆる情熱と根かぎりの誠実と、力いっぱい投げ出して描いていけばいいんです。それだけで、どんな素人でも完全な芸術を生み得る。いや、芸術とはその他にはないんだ」

そうした教えを端的に表すために、芳平は「養拙(ようせつ)」という言葉を用いた。「拙(つたな)さ」を養うという意味である。

野地耕一郎氏はこう解説する。「拙いっていうことを、すごく積極的にとらえているのです。つまり、子どもたちの絵を見るとやはり幼い『拙い絵』ですよね。でも、拙いということは決して消極的なことではなく、むしろ童心に帰るということ。生まれたままの資質をそのまま、大人になってもうまくうまく持ち続けるということ。それが人間にとって最も大切なことではないかと思いはじめるんです。大人になると拙さを擦り減らしていくわけですが、その拙さを養いながら大切にしていく、そこに何か光があるだろうということだと思うんです」



巧まずして描く。芸術的な企みはもはや、芳平の絵から影をひそめた。

結果的に、教師になったことは彼にとっての堕落ではなかった。むしろ、彼はそのことによってどんどん純化されていったのであった。



芳平は記す。



一枚の絵がうまくいくことと、一つの授業がうまくいくことと、どっちが楽しいだろうか。

とにかく一つの絵がうまく行くと、一つの授業がうまく行く。一つの授業がうまく行くと、一つの絵がうまく行く。

この二つはどうも二つではないようだ。

一つのようだ。






■妻



心は開けたものの、生活は依然厳しかった。

売れぬ絵に、高価な絵の具の代金ばかりがかさんでいった。「いい絵を描くためには、いい絵の具が必要だ」。そう言う芳平を、妻のエンは黙って支え続けた。



一本の絵の具を買えば悲し
子供のゴム靴はまた一と月と延びたり

二本の絵の具を買えば悲し
わが帽子はもとのままなり

三本の絵の具を買いし時
医者に薬代払わざりき

かくして十本の絵の具を買いし時
吾が小さき絵は出来上がりたり





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8人の子供の面倒をみていた妻エン。宿痾となっていた肺病は、彼女を苦しめ続けた。

「結核が重くなってきて、医者が栄養のあるものを摂らせなさいと言うが、栄養のあるものが買えなかったんで」と、孫の大地さんは言う。

「最後、おばあちゃんが死ぬときは苦しそうだったって聞きました。洗面器いっぱいくらい血を吐いて死んだらしいです」



47歳という若さで、エンは他界した。

「なかなか良くしてあげられなかった。絵を投げうって看病にあたるとか、そういうことがしてやれなかった。そうした忸怩たる思いっていうのは、ずっと引きずっていたんだと思うんです」

孫の大地さんは、祖父・芳平の心境をそう思いやる。



葬儀のさい、芳平は自分が書いた妻の肖像画を遺影がわりに飾ったという。

『妻』

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■晩年



はじめは3〜4年と考えていた長野での教員生活であったが、一年また一年と延び、ついには35年という長き歳月がすぎていた。

定年を迎えても芳平は、ずっと諏訪に暮らした。教え子や友人たちが金を出し合って、アトリエを建ててくれたからだった。

今の残るそのアトリエ。壁には「こはわが城わが砦、われここに死なん」という、自身が掘った文字がぶら下げてある。



1966年、73歳となった芳平は、かねてよりの念願であったヨーロッパ・中近東の「聖地巡礼」へと旅立つ。心ある人々の助力により、それが叶った。聖書の教えにはずっと心ひかれていたのだ。

ローマやエルサレム、聖地を巡りながらスケッチを重ねた宮芳平。その成果は14枚の連作、「聖地巡礼シリーズ」へと結実した。

その中には、『マグダラのマリアの悲しみ』『エフタとその娘』など、聖書にも登場する女性たちの受難の物語が描き込まれた。それは、尽くしてくれた妻に対する慚愧の念であったのかもしれない。




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77歳、末期ガンを宣告された芳平は、そのわずか半月後に帰らぬ人となった(1971)。

一度も裕福になることはなかった。

一度も名声が世に広まることもなかった。

それでも彼は描き続けた。文字通り、死ぬまで描き続けた。



絶筆となった『黒い太陽』。

この太陽に黒い絵の具を塗ったあと、芳平は病院へ運ばれたという。




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晩年の彼は、太陽というモチーフを多く描いている。

井浦新さんはしみじみと言う。「一筆の重みというか、最終的にたどり着いたのが、この太陽」

野地耕一郎氏は「無心の絵といっていいかもしれません」と言う。「そこに打算のようなものがまったく入り込んでいないですよね。初めて見る人たちは、純粋な絵だと直感するんじゃないでしょうか。彼はこれで完成だとは思っていなかったと思いますが、でも未完成ななかに純朴な自分がどれだけ出ているかっていうことを、ずっとやってきたわけです。最初は抜き身の刀のような鋭さだった彼の画も、その刃はもうボロボロになっている。だけど、人生と画業一つになって鍛えられた刀は太くて頑丈で重みがあって、偉大なる鈍(なまくら)となって、こういう絵になっているのかなと思います」

去年(2013)、生誕120周年をむかえた宮芳平。生前は無名だった彼の絵がいま、多くの人々の共感を得て、高く評価されている。初となる大規模な回顧展は、全国各地に新鮮な驚きをもたらしている。



最後にふたたび、彼の言葉をひく。



絵の具がたくさんくっついているからといって、良い絵とは言われない

ただ私の場合、よたよたとして歩こうとした私の正直を見てもらいたい。













(了)






出典:NHK日曜美術館
「野の花のように描き続ける 画家・宮芳平」



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posted by 四代目 at 08:43| Comment(0) | 芸術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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