2011年05月21日

8月15日で戦争が終わったわけではなかった。植民地化を回避した終戦後の暗闘。

「第二次世界大戦が終わったのは?」

日本人に問えば、百発百中「8月15日」と即答するだろう。

ところが、同じ質問に外国人は例外なく「9月2日」と答える。



「9月2日とは?」

1945年9月2日は、日本がアメリカの戦艦ミズーリ号の艦上で、降伏文書にサインをした日である。

8月15日とは、前日(14日)に受諾した「ポツダム宣言」を受け、昭和天皇が「日本の降伏」をNHKラジオ(玉音放送)で国民に伝えた日である。



じつは、第二次世界大戦は、日本がポツダム宣言を受諾しただけでは終わらなかったのである。

日ソ中立条約を一方的に破り捨て、ソ連が日本に侵攻を開始したのが8月8日。

その頃、すでに「原爆」を落とされていた日本は、もはや戦意をすっかり喪失。ソ連は狡猾にもこの虚を突いてきた。日本がアメリカに食い荒らされる前に、我々も日本を食いまくろうと慌てて日本侵攻を開始したのだ。

満州、樺太を破竹の勢いで進軍してくるソ連軍。その猛攻はポツダム宣言受諾後も、いっこうに止む気配を見せなかった。

8月18日、千島列島・侵攻。8月28日、択捉島・侵攻。

8月15日にアメリカとの戦闘は終わったものの、ソ連との戦闘は依然続いており、正式な終戦は「9月2日」の降伏文書調印を待たなければならなかった。

ソ連の非道は、降伏文書調印以降、9月5日まで戦闘行為を継続したことにもある。ソ連の火事場泥棒は、北方領土4島を完全占領した後にようやく止んだのである。



9月2日、横浜港に停泊中の戦艦ミズーリ艦上へ向かったのは、外務大臣・重光葵、岡崎勝男など11名。

艦上を埋め尽くさんばかりのアメリカ兵が、ニヤニヤと好奇の目で、日本の全権団を見下ろしていた。「人間の視線とは本当に痛みを与えるものだと知りました」と全権団の一人、加瀬氏は後に語った。

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まさに刺すような視線の中、粛々と調印の儀は執り行われてゆく。

GHQの親玉マッカーサーは、ポケットに手をつっこんだままという倣岸さである。背後にはペリー時代のアメリカ国旗。日本に第二の開国を暗に迫っていたのである。



この時、全権団の一人・岡崎氏は、降伏文書の不備に気づく。

カナダ代表がサインの場所を間違え、その後の国々のサインが一つずつズレてしまっていたのだ。

マッカーサーが去った後、刺すような視線がいっそう強まる中、岡崎氏は勇敢にもその不備を指摘する。

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ナンバー2のサザーランドは無造作に横棒をギーギー引いて、面倒くさそうに文書を訂正する。この無残にも見苦しく訂正された文書が、日本に残る公式文書となった。



まったく礼を欠いた調印式であったが、マッカーサーの本当の横暴は、この後に待っていた。

悪名高い「三布告」である。

ひとつ、英語を公用語とする。ふたつ、司法権をアメリカ軍がもつ。みっつ、日本通貨「円」を廃止する。

要するに、日本政府を完全に無視し、アメリカ軍が日本を統治する。いわば日本をアメリカの州のひとつにしてしまうという宣言である。



この驚愕の事実が日本に告げられたのは、公布のわずか14時間前。まさに有無を言わせるスキを与えない、伝えたという既成事実を作るためだけの報告であった。

ところが、公布までのわずかな時間で、この「三布告」を決死の覚悟で止めた人物がいた。

調印式において文書の不備を指摘した岡崎氏であり、外務大臣の重光氏であった。

岡崎氏は深夜12時をまわっていたにも関わらず、GHPのホテルを直撃。不法侵入として射殺されても文句はいえない状況であったが、命がけで公布延期を何とか取り付ける。



岡崎氏が必死に稼いだ時間でマッカーサーと交渉にあたったのは、外務大臣・重光葵氏。

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重光氏は、ポツダム宣言における日本政府の扱いを切々と説く。

ポツダム宣言は、日本政府の存在を前提に語られたものであり、「三布告」はそれに全く反すると説くのである。日本政府を「無視」して占領政策を進めるよりも、日本政府を「利用」したほうが容易に占領政策は進むとも説く。

重光氏の説得は見事に功を奏し、「三布告」の公布は中止される。

「折衝にもし成らずんば、死するとも我帰らじ」という決死の交渉であった。



重光氏の交渉成功なしに、今の日本はありえない。

今ごろ、英語を話し、ドルを使っていたかもしれない。そうなった占領国も多い。沖縄も一時そうなった。

「三布告」は占領軍が、その国の政治・経済・司法を握ることを宣言するものであり、その暴挙はアメリカの汚点ともなったであろう。

重光氏は、日本を救い、アメリカをも救ったのだ。

戦後の混乱の中でも、日本には国の将来を見据え、適切な行動をとれる人物がいたことは、まことに不幸中の幸いであった。



出典:BS歴史館 「それはミズーリ号から始まった〜日本の運命を分けた2日間」
posted by 四代目 at 12:17| Comment(1) | 第二次世界大戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月13日

日本の敗北を決定づけたサイパン陥落。その後、アメリカ軍の無差別爆撃が始まった。

1944年7月「サイパン陥落」

この負け戦をもってして、第二次世界大戦における日本の敗戦は、ほぼ絶対的となった。

サイパンを含むマリアナ諸島は、日本が定めた「絶対国防圏」という、防衛のカベであった。もし、ここを抜かれるようなことがあれば、日本本土がアメリカの長距離爆撃機の射程距離内に入ってしまう。

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事実、サイパン陥落以降、日本本土はアメリカ軍の無差別空爆の格好のエジキとなり、最終的には原子爆弾が広島・長崎に投下される。サイパン陥落以降、本土空爆により50万人の民間日本人が、アメリカ軍に殺されたといわれる。

兵士が戦死すれば、その遺族は遺族年金が受け取れる。しかし、空爆で死んだ民間人の遺族には何の補償もない。理不尽な焼夷弾により、無抵抗のまま死んだ多くの日本市民の悲しみは如何ほどか。

サイパンにおける戦闘は、アメリカ軍の一方的勝利であった。この戦闘に先立つ「マリアナ沖海戦」にて、日本帝国海軍は、2日間で艦載機400機を失うという大敗北を喫していたからだ。もはや帝国海軍の機動部隊は壊滅していたのだ。

最後の突撃の前夜、日本の司令官は全員自決。残された日本兵4,000人は、ろくな武器も持たずに、無意味な「バンザイ突撃」を敢行、そして全滅。「死して虜囚の辱めを受けず」の言葉どおりの死であった。

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戦争がここで終わってしまえば、その後の悲劇を体験することはなかった。しかし、日本は敗色濃厚の戦争を、もう一年継続し、完膚なきまでに叩きのめされることになった。

第二次世界大戦で戦死した日本兵の9割は、この「サイパン陥落」以降とまで言われる。さらにその6割は「餓死」である。各戦線で孤立無援に陥った兵士たちが、完全に補給を断たれた悲惨な結果である。

「サイパン陥落」から降伏までの一年間が、日本の戦争体験を壮絶なものにしてしまったのである。


出典:さかのぼり日本史 昭和
 とめられなかった戦争 第1回「敗戦への道」
posted by 四代目 at 16:14| Comment(0) | 第二次世界大戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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