2011年12月10日

卑怯と罵られた日本の真珠湾攻撃。その裏で交錯していた日本人たちの想いとは?


なぜ、日本はアメリカとの戦争に踏み切ったのか?

なぜ、日本はハワイの真珠湾を奇襲したのか?



歴史の結果だけを見れば、真珠湾攻撃(1941)は日本の大勝利。

しかし、その後に勃発した太平洋戦争においては、日本はアメリカに惨敗を喫することとなる(1945)。



すでに結末を知っている我々は、冒頭のような問いを当然抱く。

なぜ、日本はアメリカと戦争したのか?

しかし、当時の人々は当然ながら結果を知らない。



アメリカから石油の輸出を止められてしまった当時の日本は、まさに窮鼠(当時の日本は、石油の8割をアメリカからの輸入に頼り切っていた)。

その窮状の中、日本はアメリカとの開戦を決意する。

それは、真珠湾攻撃の一週間前(12月1日)、御前会議にて決せられたことであった。



この決意に先立つこと5日前(11月26日)、日本の艦隊はハワイに向けて「出港済み」であった。

すでに太平洋上にあった艦隊は、もし、開戦回避ならば「ツクバヤマノボレ」の電文、開戦ならば「ニイタカヤマノボレ1208」の電文を受け取ることになっていた。



御前会議の翌日(12月2日)、艦隊に届いた暗号電文は…、「ニイタカヤマノボレ1208」。

つまり、真珠湾への「奇襲決行」である。



ところ変わって、こちらはアメリカの日本大使館。

アメリカ在住の外交官たちは、戦争回避の想いを強く持っていた。



しかし、アメリカ国務長官「コーデル・ハル」氏との外交交渉は、全く思わしくない。

アメリカの求める厳しい条件(ハル・ノート)を日本が飲むことは、まず不可能であった。



それでも、何とかアメリカとの戦争だけは「回避」したい。

そこで、「来栖三郎」駐米特命全権大使は、「裏口工作」に踏み切った。



「国賊となってくれ」

来栖氏がそう言って白羽の矢を立てた相手は、「寺崎英成」であった。

「国賊」とはどういう意味か? 寺崎氏は来栖氏の真意を図りかねた。

来栖氏が寺崎氏に求めたのは、アメリカ大統領ルーズベルトに、「あるお願い」をすることだった。

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あるお願いとは?

日本の天皇に直接「親電」を送ってもらいたい、ということだった。

つまり、ルーズベルト大統領に「アメリカが日本との戦争を望まない旨」を、昭和天皇に直接伝えて欲しいというお願いであった。

この国賊の汚名を着ることとなる工作が始まるのは11月26日。奇しくも、日本の艦隊が真珠湾へ向けて旅立った、まさにその日であった。



この密命を受けた寺崎氏は、死を覚悟する。

国賊として死ぬつもりだった。

自分一人の死が、日本国民の命を救うことになるのならとの想いは、それほどに強かった。



この決死の工作は、なんと見事に成功。

ルーズベルト大統領は、昭和天皇に向けて親電を送ったのだ。

ルーズベルト大統領の親電が日本に到着したのは、真珠湾攻撃の前日(12月7日)。正確には、たった「15時間前」である。



ところが、この親書は東京電信局で「10時間」留め置かれてしまう。

なぜか?

当時の通信科の「戸村盛男」氏の記録には、こうある。



「もう今さら親書を届けても、かえって現場が混乱をきたす。

御親電は10時間以上送らせる処置をした」

時は真珠湾攻撃の前夜、戸村氏の判断により留め置かれた親電が昭和天皇の元に届けられたのは、真珠湾攻撃のわずか20分前(12月8日午前3時)であった。



そのルーズベルト大統領の親電とは?

その結びには、こう記されている。

「私と陛下が、日米両国民のみならず、隣接諸国の住民のため、両国民の友情を回復させる神聖な責務がある。

I am confident that both of us, for the sake of the peoples not only of our own great countries but for the sake of humanity in neighboring territories, have a sacred duty to restore traditional amity an prevent further death and destruction in the world」

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この親電では、ルーズベルト大統領が日本軍に大幅な譲歩(インドシナ半島からの撤退)を強く求めているため、この親電が予定通りに届いたとしても、戦争を回避できた可能性は低かったかもしれない。

しかし、この親電は、何とか戦争を回避したいと切に願った日本人たちによる、悲痛なる懇願であったのだ。

しかし、その血のにじむほどの願いですら、意図した通りには届かなかった…。



こうした「すれ違い」は、日本の「宣戦布告」の時にも起こっている。

日本の宣戦布告は、真珠湾攻撃の「1時間後」にアメリカに知らされたのである。

結果として、日本は「宣戦布告なし」に、アメリカに奇襲攻撃を仕掛けたことになった。



これは、日本側の意図したものではなかった。

予定通りに事が運べば、その宣戦布告は真珠湾攻撃の「30分前」に届くはずだった。

ところが、駐米の日本大使館に届けられた宣戦布告文(対米覚書)は、あまりにも直前であったため、指示された時間まで、翻訳と清書が間に合わなかったのである。



長々とした対米覚書(全14部)の最後の一枚が、やきもきするほどに来なかった。

ようやく届いたのは、指示された時間のわずか「2時間30分前」。

その結果、この文書がハル国務長官に手渡されたのは、予定より「1時間」遅れてしまった。

つまり、日本の宣戦布告文たる対米覚書は、「真珠湾攻撃の後」にアメリカに手渡されたのである。



なぜ、最後の一枚だけが、それほど遅れてしまったのか?

そこには、日本国内で大きく揉めたことが、後の資料から判明する。

実は、アメリカに届けられた対米覚書は、最初の原文とは異なっていた。



決定的に違っていたのは、「一切の事態」という記述の有無である。

原文にはあった「一切の事態」という記述が、実際に送られた対米覚書では「削除」されてしまっている。

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「一切の事態」とは、国際法上「戦争」を意味する正式な宣戦布告である。

ところが、アメリカに届けられた対米覚書には、この記述がない。

ということは、正式には宣戦布告文ではなかったのである。この文言を欠いた対米覚書は、単なる外交交渉の打ち切りしか意味していなかった。

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つまり、もし時間通りに、この対米覚書がアメリカに届けられたとしても、結局は宣戦布告なしに真珠湾攻撃が開始されたと判断されてしまうのである。

なぜ、こんな中途半端な覚書になってしまったのか?

そこには、真珠湾攻撃を最後の最後まで「極秘」にしておきたかった日本軍の意図が介在したものと思われる。

そして、それが最後の一枚を大きく遅らせた原因ともなったのである。



果たして、この2つの「すれ違い」はアメリカに大きな「大義名分」を与えることとなった。

ルーズベルト大統領は、親電を直接天皇に送ってまで、戦争の回避を望んだ。

それにも関わらず、日本側はその申し出を踏みにじり、宣戦布告もなしにアメリカに攻撃を仕掛けて来た。



「この卑怯な行為に、アメリカは敢然と立ち上がる」

世界に向けて、アメリカは堂々と宣言したのである。

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その結果、好戦的な日本に対して、アメリカはやむなく迎え撃ったという構図が見事に成立した。

正当性はアメリカにあり、日本の行為は不当とされたのである。結果的に戦争に負けた日本は、今もって、この構図に縛り付けられたままである。



しかし、この戦争を詳しく見ていくと、それは必ずしも真実とは言い切れない部分が多数浮かび上がってくる。

日本への石油の輸出を止めるというアメリカの厳しすぎる「経済封鎖」に対しては、「自衛」のために日本が戦争せざるを得なかったという解釈も成り立つ。



もし、「自衛」のための戦争であれば、国際法上、宣戦布告は必ずしも必要とされない。

つまり、日本の「自衛」という主張が認められれば、宣戦布告なしの奇襲攻撃とされた真珠湾攻撃は、「卑怯」とは断じ得ないのである。



A級戦犯と断じられた東条英機・元首相は、その東京裁判で、こう主張している。

「日本は侵略のために戦争を始めたのではなく、安全保障(自衛)のためであった」

しかし、その声はどこにも届かなかった。



ところが、この東京裁判を行ったマッカーサー氏は、のちの退任演説において、こんなことを言っている。

「日本が戦争へと向かった目的は、主として安全保障(自衛)のために余儀なくされたものである(Their purpose in going to war was largely dictated by security)」

しかし、この声は逆に日本に届かなかった(このマッカーサー証言が日本の教科書に取り上げられたことは一度もない)。



日本の自衛という主張は、結局まともに取り上げられることは、今もない。

それは、開戦前夜の日本のゴタゴタにも一因がある。

ゴタゴタの中で、致命的な「すれ違い」が続発したからである。



当時の日本では様々な思惑が交錯していた結果、その行動はスキだらけであった。

そして、アメリカは巧みにもそのスキに乗じ、見事にすべての大義を引き寄せたのである。

こうした情報戦やPR合戦において、日本はアメリカに完敗であった。



「情報」という観点で見れば、日本はその価値を軽んじすぎたのかもしれない。

それに対して、アメリカは日本が思う以上に、情報に価値を見出していた。



アメリカは日本の暗号のほとんどを解読していたと言われている。

それは、日本も同様。暗号解読には熱心であった。

しかし、解読した情報が必ず大統領に届く仕組みになったいたアメリカに対して、日本が解読した情報は、必ずしも上層部に伝わるとは限らなかった。



それは、日本における「縦割り」の弊害でもある。

各省庁の判断で、伝える情報と伝えない情報があった。

先の戸村氏が、ルーズベルト大統領の親電を留め置いたのも、その弊害の一つであろう。

日本の各権力には、縦に深い溝が走っていたため、横のつながりに欠け、その構造上、「すれ違い」が起きやすい仕組みになっていたのである。



銃弾を交わすだけが戦争ではない。

情報というのも、立派な武器である。

太平洋戦争においては、アメリカほどこの武器(情報)を巧く使いこなした国はなかったのである。



これらは60年以上前の遠い過去の話であるのだが、どこか現在にも通じる要素が多々あるようにも思える。

歴史を眺めていると、人間がそれほど変わっていないということに驚かされることも多々ある。



我々は堂々巡りを繰り返しているのだろうか?

手を変え、品を変え…。



現在ヨーロッパで起きているユーロ金融危機において、度々引き合いに出されるのは1930年代。すなわち、世界大恐慌へと向かった歴史である。

その大恐慌はどこへ向かったか?

第二次世界大戦である。



まさか…。

でも…。



世界は変わり得るのか?

人間は変わり得るのか?

それは、一人一人の心に委ねられているのではなかろうか?



「君子は諸(これ)を己に求む。小人は諸(これ)を人に求む」

自分の至らなさを人のせいにするのか、それとも自分の責任と感じるのか。



この言葉は、今から2,500年以上の昔を生きた「孔子」のものである。

とんでもない大昔の言葉にも関わらず、現在の我々も「はっ」とさせられる。

それはひとえに、我々が堂々巡りをしているからではなかろうか?




関連記事:
「マッカーサー宣言」に見る第二次世界大戦。日本は凶悪な侵略国家だったのか?

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出典:BS歴史館
真珠湾への7日間〜日米開戦・外交官たちの苦闘と誤算


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2011年10月17日

「マッカーサー宣言」に見る第二次世界大戦。日本は凶悪な侵略国家だったのか?


「日本は『侵略』のために戦争をした『悪の権化』だ」

これが、マッカーサーが初めて日本に降り立った時(1945)、彼が胸に抱いていた思いだったという。

マッカーサーという人は、第二次世界大戦後、GHQの総司令官として日本占領の任務に当たった人物である。



マッカーサーのこの思いを現実化させたのが「東京裁判」であり、その結果、日本国民全体が日本を「悪の権化」だと思い込むようになる。

東京裁判以来、「日本人の多くは自国の歴史を恥じ、罪悪感にまみれて自分の国をとらえる心情と態度に染められた(渡部昇一)」



ところが、マッカーサーは日本を占領統治する中で「日本の実像」に気づかされ、従来の考えを改めていくこととなる。

日本に降り立ってからおよそ6年後、考えを改めたマッカーサーは米国議会でこう証言する(1951)。



「日本人は労働に尊厳を見出しており、その労働力は質量ともに大変優れており、どこの国にも劣らない。

しかし、日本には蚕(かいこ)以外にこれといった資源がなかった。多くの資源はアジア海域にあり、この供給を絶たれれば一千万以上が失業してしまう。

それゆえ、日本は戦争へと向かったのであり、その目的は主として『安全保障(生存)』のために余儀なくされたものである(Their purpose in going to war was largely dictated by “security”.)」



これが、かの有名な「マッカーサー証言」である。

日本に来る前のマッカーサーは、日本が「侵略」のために戦争をおこなったと思い込んでいた。

ところが、長年に及ぶ日本統治の末、日本は「自衛(security)」のために戦争に踏み切らざるを得なかったのだとマッカーサーは思い至るのである。



ご存知の通り、日米開戦の大きな要因となったのは、アメリカによる日本への経済封鎖である。

日本を敵視するアメリカは、1940年に「航空機用燃料と屑鉄」の日本への輸出を制限(のちに全面禁止)。

さらに翌年(1941)、アメリカは日本への石油を全面禁輸(日本は石油輸入の8割をアメリカに依存していた)。そのため、国内の備蓄では平時で3年弱、戦時で1年半ももたない状況に追い込まれてしまった。



東京裁判で、東条英機・元首相が主張したのはこの点であった。

「日本は侵略のために戦争を始めたのではなく、安全保障(security)のためだった」と。

この東京裁判によって、東条英機・元首相は有罪、A級戦犯とされ絞首刑により処刑される(享年64歳)。



彼は獄中で「親鸞(吉川英治)」の書を所望し、こう述懐したという。

「有難いですなあ。私のような人間は愚物も愚物、罪人も罪人、ひどい罪人だ。」



処刑したマッカーサー、そして処刑された東条英機、この両者は期せずして同じ結論に至るのである。

「日本は『侵略』のために戦争をしたのではない」



マッカーサーの日本への評価は極めて高い。以下、退任演説より。

「日本ほど穏やかで秩序正しく、勤勉な国を知らない。

また、人類の進歩に対して将来、積極的に貢献することがこれほど大きく期待できる国も他に知らない。」



日本の占領中、マッカーサーは日本の占領軍を朝鮮半島へ派遣することとなるのだが、「その結果生じる日本の空白に対して、何の躊躇(ためら)いもなかった」と言うほど、日本に全幅の信頼を置いている。

「(日本は)世界の信頼を裏切るようなことは2度とないだろう」とまで語っているのである。



「日本人は見事な意志と熱心な学習意欲、そして驚くべき理解力によって、戦後の焼け跡の中から立ち上がった。

今や日本は、政治的にも経済的にも、そして社会的にも地球上の多くの自由な国々と肩を並べている。」

この有名な演説を締めくくる言葉が、「老兵は死なず。ただ消え去るのみ(Old soldiers never die, they just fade away.)」である。



戦後の日本の「戦争観」には、いくぶん偏りがあるようである。

「極悪な日本が第二次世界大戦という侵略戦争を巻き起こし、世界を混乱の渦に落とし込んだ。」

こうした歴史観は部分的には真実があるのかもしれないが、その全てを物語っているとは言い難い。何よりもそう思い込んでいたマッカーサー自身が、その思いを後に公式の場で撤回しているのである。



しかし、日本の歴史教育(教科書)において、この「マッカーサー証言」が取り上げられたことは、未だかつて一度もないという。

歴史の大家・渡部昇一氏に言わせれば、「(日本の)高級官僚にしても、ジャーナリズムにしても、日本は他国を侵略した悪い国だという立場に立ち、日本の悪口を言うことでそれぞれの立場や地位を築き、出世してきた人たちがほとんどだ」ということになる。

つまり、そうした人々にとっては、マッカーサー証言ほどに都合の悪い真実はないのである。



正確な歴史認識は、現実とは別の領域に存在することも珍しくない。

一般常識(歴史の解釈)というのは、時の権力者たちによって作られていることもままある。歴史はまさに「history = high story」なのである。



マッカーサーの退任演説を読むと、彼の冷静な観察眼を知ることができる。

時代の影響か、「共産主義」に対しては偏った考えが垣間見られるものの、全体的には沈着な状況判断を感じることができる。



マッカーサーの見たアジアとは?

「地球の人口の半分と、天然資源の60パーセントが集まったこの地域で、アジアの人々は物心両面で新たな力を急速に結集させている。

アジアの進む動きを止めることはできない。

これは世界の辺境が移動することの当然の帰結であり、世界の中心は巡り巡って、それが始まった地域に戻るものなのなのだ。」

現在のアジアは、マッカーサーの言う通り、世界経済の趨勢を決する場となりつつある。



アジア支配に対する欧米の態度には批判的である。

「彼ら(アジア)が今求めているのは、友好的な指導、理解、支援であり、尊大な指図ではない。

彼らが求めるのは尊厳ある対等であり、隷属(植民地化)という恥辱ではないのだ。」



マッカーサーも歪められた真実には苦労したようである。

「私は好戦主義者だと言われ続けてきた。しかし、これほど事実と遠いことは他にない。

むしろ、私は同時代の誰よりも戦争を知っているのであり、それゆえに戦争ほど嫌悪すべきものは他にないと思っている。

我々はもっと優れた公平な制度を作り出す必要がある。そうしなければ、ハルマゲドンは身近に迫ってくるだろう。」



偏った思想や歴史観は、その時々においては有効かもしれない。

しかし、最終的にバランスを取っていかなかなければ、その偏りのまま地に沈んで逝くことともなりかねない。



確かに第二次世界大戦は大きな衝撃であったであろう。

その反動やブリ返しが大袈裟なものとなったとて、何の不思議もない。

しかし、いつまでも頑張って「振り子」を揺らし続けることはない。自然に収束するものは収束し、必要な教訓は自ずと明らかになるものである。



歴史の「解釈」は常に更新されて然るべしである。

更新なき歴史は、いつまでも歪められたままであり、新しい時代への飛躍を阻む足カセともなりかねない。




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致知10月号 歴史の教訓 渡部昇一
「目に見えない言論弾圧が行われている」


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2011年08月23日

明治維新の功労者を祀り、平和を祈願するはずだった「靖国神社」。中国が干渉して以来、全てが「逆さま」になってしまった。

日本の政治家たちが、おいそれとは参拝できない神社。「靖国神社」。

なぜか?

靖国神社には、東京裁判にてA級戦犯とされた「昭和受難者」14人(東条英機・元首相など)が祀(まつ)られているためである。

靖国神社を参拝することは、戦争犯罪者を崇め奉ることであり、それは戦争を「美化」する行為にもつながる。ゆえに、この神社に参拝することは、「まことにけしからん!」となるのである。

そのため、政治家たちは、靖国神社を参拝することに対して、「腫(は)れ物に触る」ように慎重にならざるを得ないのである。



「靖国神社」とは、そもそもどんな神社なのか?

この神社ができたのは、明治時代。江戸幕府との戦い(戊辰戦争)に殉じた人々の霊を慰めるために作られた。

明治維新の功労者として、「坂本龍馬」なども祀(まつ)られている。

たいてい、神社は「神話の神や天皇」を祀るのが普通だが、靖国神社の場合は、人間そのものを祀っているところが、神社としては特異な点である。



靖国神社に祀(まつ)ることを「合祀(ごうし)」というが、どんな人々が合祀されてきたのだろう?

基本的には、戦争で「お国のために殉じた人々」である。その基準は、「例外」を見ればより分りやすくなる。

明治維新の功労者たる「西郷隆盛」は祀られていない。なぜなら、後に西南戦争を起こし、政府に歯向かったからである。同様の理由で、「新選組や彰義隊」も祀られていない。

日露戦争で功績のあった「乃木希典」、「東郷平八郎」は祀られていない。なぜなら、戦争で死んだわけではないからである。



現在、靖国神社には246万6532人(正確には「人」ではなく、「柱」と数える)の「英霊」が祀られている。

その内の213万3915柱(86.5%)が太平洋戦争による犠牲者である。次に多いのが日露戦争の犠牲者であるが、その数は8万8429柱(3.6%)と、ぐんと少なくなる。

つまり、靖国神社に合祀されているほとんどの英霊は、「第二次世界大戦」時の犠牲者たちなのである。



第二次世界大戦の犠牲者には、沖縄戦で犠牲になった「ひめゆり学徒隊」の女性たちや、学徒動員を強いられた子供たちも含まれる。

それゆえ、靖国神社参拝が「戦争美化」に直結するわけではない。

問題とされるのは、冒頭で述べた「A級戦犯14人」のみである。



この14人が祀られたのは1978年。戦闘で死んだ人以外が祀られるのは異例のことであった(明治維新の「高杉晋作」も戦死ではないが、靖国神社に祀られている)。

14人中7人は、東京裁判により死刑された人々。他7人は、刑期(終身刑)中または判決前に病死した人々である。

これら14名が合祀された後、時の首相・鈴木善幸氏は8回ほど靖国神社に参拝しているが、諸外国から抗議を受けることはなかった。



ハチの巣をつついたような騒ぎが巻き起こったのは、1985年に中曽根康弘・元首相が靖国神社を参拝してからである。

この時以来、中国・韓国・北朝鮮の三国は、日本の首相が靖国神社を参拝するたびに、せっせと抗議を繰り返している。



他の諸外国の反応はどうか?

おおむね「中立」であり、中国が必要以上に騒ぎ立てることに「同情的」な国さえある。

基本的には、アメリカが示すように、「日本の政治家の靖国神社参拝には、一切不干渉。自国の戦死者の追悼は、その国独自の慣行があり、他国が口を挟むべきことではない。」ということになる。



以下、英米の肯定的な公的発言。

「中国政府が日本の首相に参拝中止を支持することは不当である(リチャード・アーミテージ)」

「中国は、朝貢システムによる日本の土下座を求めている。日本を永遠に不道徳な国としてのレッテルを貼っておきたいのだ(ダニエル・リンチ)」

「靖国参拝にこだわるのはバカげている。中国に利用されているだけだ。(ジェレミー・ハント)」



第二次世界大戦時、日本の被害を受けた国々では?

「靖国問題は、中国がプレッシャーをかけているだけだ。(シンガポール、リー・クワン・ユー)」

「私たちにとって、全く問題ではない。問題にするのは中国だけだ(インドネシア)」

「英霊をお参りするのは当たり前のこと。外国が口を挟むべきことではない。(台湾・李登輝)」



もちろん、肯定的な意見ばかりではない。否定的な意見も数多い。

しかし、それらの意見に共通するのが、「中国」に対する反応である。

諸外国では、中国の干渉が「政治的」なものであるのを認識した上で、「日本の対応は、慎重になるべきだ」との意見が多い。


日本の揚げ足をとってきた感のある「中国」の意図は、わりと明白なのかもしれない。

中国事情に詳しいウォルドロン氏のよれば、その目的とは、「自国の要求を、日本に受け入れさせること」。

おそらくは、尖閣諸島の問題などの本質も同じであろう。「日本の非を鳴らし、自国の要求を通す」ことができそうな問題ならば、中国はどんな些細な問題でも、世界の大問題としかねない。



その点、政治家だけでなく、日本国民も慎重になる必要がある。この靖国問題自体も、もとは日本国内で賛否が紛糾していたところに、中国が乗っかってきているのである。

日本の報道姿勢が、中国に「大義」を与えてしまったという意見もある。中国は、平和を願うはずの靖国崇拝を逆手にとって、靖国参拝を「戦争美化」に転じてしまったのである。

軍事費を増大させ、他国の領土を虎視眈々と狙っている中国が、本気で「戦争を否定」しているとは考えがたい。逆に、国民の大半が戦争に無関心な日本が、「戦争を肯定」しているとも考えがたい。

この問題は、中国の思惑通りか、いろいろなことが「逆さま」になってしまっているのである。



最近の風潮として、他者を批判・非難するような報道は数多い。ここで考えなければならないのは、問題を解決する方法は、「批判や非難なのだろうか」ということである。

こうしたネガティブ・キャンペーンのような姿勢が、他国に付け入るスキを与えかねないことも充分に考慮しておかなければならない。

原発問題も然り。本当の解決策とは何なのか?無責任なヤジは、自国の価値を貶(おとし)めることにつながることも認識しておく必要がある。

他人を非難することは、あまりにも安易で、ときには有害な手法ですらある。




posted by 四代目 at 07:43| Comment(0) | 第二次世界大戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月21日

沖縄戦にアメリカの正義はあったのか?

戦争を生き延びた人々は、おいそれと戦闘を語らない。あまりの壮絶さに、思い起こすことすら躊躇(ためら)われているのである。

しかし、老境に入り、自分の死を意識し始めると、「語るべきこと」が自然と口をついて出てくるようにもなる。

戦後、半世紀以上が経ち、ようやくその歴史が語られようとしている。



第二次世界大戦末期の、日米最後の大決戦が「沖縄戦」である。

この決戦の悲惨さは、民間人の死者数の、度を越えた多さにある。

日本側の死者19万人弱のうち、半数の9万4,000人が民間人の犠牲であった。

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1945年4月、アメリカ軍の上陸した沖縄の浜辺は、人影のない「無人の浜辺」であった。

安々と上陸を果たしたアメリカ軍は、南北二手に別れて、沖縄本島の制圧に取りかかる。

早々に、戦艦「大和」を撃沈し、アメリカ軍は北部地域を占領。

残る南部地域に軍を集結させ、沖縄占領の総仕上げ…、のはずが。



この頃である、絶対優勢にあったアメリカ軍が、動揺を見せ始めたのは。

絶対不利の日本兵が、降伏しようとしないのである。

降伏どころか、死を恐れずに、果敢に斬り込んで来るではないか。

銃も持たず、棒の先に小さなナイフをくくりつけて、突っ込んで来る。

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死を恐れぬ日本兵を前に、アメリカ兵はパニックに陥る。

恐れおののいたアメリカ兵は、動く物を見るや、反射的に射撃。もはや、民間人を見逃す余裕はなかった。



「ガマ」と呼ばれる、天然の洞窟に日本人は隠れていた。

その中には、当然、女子供もいる。

アメリカ兵は、その洞窟にまで、手榴弾を投げ入れる。

もはや戦闘とは呼べない。「殺戮」である。

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戦死した日本兵の中には、14歳〜17歳の少年兵たちも多数いた。

後方援助の任務を帯びていた彼らだが、否応なく戦闘に巻き込まれた。

2000人中、900人の少年兵が帰らぬ人となった。



半世紀以上が経ち、生き残った人々が一様に口にするのは、沖縄戦の「異様さ」である。

兵も民もなく、女子供まで、何万人となく犠牲になった。

勝利したはずのアメリカ兵は、この戦いを経て、何か大切なものを失ってしまった。

勝利の実感はなく、ただあるのは、眼前に広がる虚空のみであった。



辛くも沖縄戦を生き延びた、元少年兵の眼は厳しい。

「アメリカの正義とは、何なのか?」

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アメリカ人ジャーナリストの眼を射抜いて離さない。

重い沈黙が、場を支配する。

返答に窮したジャーナリストは、辛うじてつぶやく。

「私には、わからない…。」

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アメリカの正義とは?

今だ戦争の手を休めることのない、アメリカの正義。

正義の攻撃を受けた、沖縄の元少年兵。



彼の問いは、重い。

その答えは、ぼんやりと姿を現し始めている。

今まで語られることのなかった歴史の闇が、今ここに来て、ようやく語られようとしている。




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出典:NHKスペシャル
「昔 父は日本人を殺した〜ピュリツァー賞作家が見た沖縄戦」
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2011年05月25日

日中戦争を勝利に導いた、中国の世界戦略。

「中国は負け続けなければならない」

1937年に始まった「日中戦争」のさなか、こんな大胆な発言をしていた中国人がいた。北京大学の「胡適(こてき)」という学者である。

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その意図は?

「ソ連」と「アメリカ」を戦争に巻き込むためであった。

「胡適」によれば、中国一国のみで「日本」に対抗することは「不可能」。日本に勝てるのは「ソ連の陸軍力」と「アメリカの海軍力」しかないと考えていた。

当時の日本は、それほどに強大な軍事力を有した国家だったのである。



陸・海ともに、世界最強レベルにあった日本は、中国は「弱い」とバカにしていた。軍首脳から一兵卒、一般市民にいたるまで、それは共通認識であった。

ところが、中国は予想以上に強かった。ドイツから軍事顧問を招き、兵力の近代化を図っていたことが効を奏していた。

思わぬ苦戦を強いられた日本。

中国との戦闘は長期化し、ついにはアメリカとの戦争が始まり、結局はソ連も参戦。日本は降伏せざるをえない結末を迎える。



歴史の結末をみれば、「胡適」の意図通りに戦争は進んだ。

負け続けた中国は、アメリカを引っぱり出し、ソ連を引っぱり出した。そして、最終的には勝利を収めた。

「世界を巻き込む」という遠大な計略は、見事に成功したことになる。



日中戦争に対する日本の「大義名分」は、「東亜新秩序」と呼ばれた。

アメリカの「資本主義」ではなく、ソ連の「共産主義」でもない。「第3の道」である。

朝鮮、台湾、中国、満州国を含めて、東アジア全域を豊かな経済圏にして、「東亜永遠の安定」を目指すという、たいそうなものであった。

第二次世界大戦後、世界はアメリカ陣営とソ連陣営に二分され、両陣営は朝鮮戦争、ベトナム戦争とアジアを苦しめ、その後遺症は現在まで続いている。

もし、日本がこの2大勢力に割って入り、「第3の道」を示せていたら、と考えるのも面白い。

しかし、大国を自認し傲慢になっていた日本。そんな国がどんな立派な理想を掲げようと、他国にとっては「押しつけ」以外の何物でもなかった。現在のアメリカの「押しつけ」と何ら変わるところがない。



現在の世界において、ソ連の「共産主義」はすでに崩壊し、アメリカの「資本主義」も怪しくなりつつある。

「東亜新秩序」ではないが、必然的に「第3の道」を世界は必要とし始めている。

新しい秩序とは、どんなものであろうか?



出典:さかのぼり日本史 昭和 とめられなかった戦争
 第3回「日中戦争 長期化の誤算」
posted by 四代目 at 04:58| Comment(0) | 第二次世界大戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする