2013年07月02日

ガダルカナルと飛行機乗り [永遠の0より]2



真珠湾の「ゼロ戦」とミッドウェーの「空母」 [永遠の0より]1からの「つづき」






「ラバウルは美しいところでした」

元海軍兵、井崎源次郎は話しはじめる。

「透き通るような青い水と抜けるような空、海岸には椰子の木が生い茂り、遠くには火山の姿も見えました。当時はラボールと言い、天然の良港がありました」



ラバウルは日本から6,000kmも離れた南太平洋、赤道を越えた先のニューブリテン島にある。1942年2月に日本軍が占領し、第二次世界大戦時、南太平洋の「最前線基地」とされた島。

「私は南海の楽園に来たように思いました。この地が後に『パイロットの墓場』と呼ばれるようになるとは夢にも思いませんでした」と井崎は苦しい表情をする。

「ガダルカナルこそ、搭乗員にとって本当の地獄の幕開けだったのです」






◎ガダルカナル



「ガダルカナルってどこだい?」

「知らないよ。そんな島に飛行場があったなんて、聞いたことがない」

ラバウルの搭乗員(パイロット)の中には、その島を知っているものは誰もいなかった。



「ガダルカナルというのは、南太平洋に浮かぶ小さな島です」と、井崎は説明をはじめる。

「ジャングルに覆われた未開の孤島です。太平洋戦争がなければ、その名も存在も永遠に知られることのなかった島でしょう」



当時、日本軍はアメリカとオーストラリアの連絡線を遮断しようと、この小さなガダルカナル島を「不沈空母」として南太平洋に睨みを利かせようとしていた。それはアメリカ軍反攻の生命線であるオーストラリアを占領しようとする布石であった。

それで昭和17年(1942)の春、ガダルカナルの未開のジャングルを切り拓き、飛行場の設営をはじめた。完成し次第、ラバウルの飛行機をそこに移行する予定だった。



ところが、滑走路ができた途端に、ガダルカナルはアメリカ軍の猛攻を受けてしまう。

「ようやく完成したばかりの飛行場を奪われたのです」と井崎は言う。

ガダルカナルにいた日本軍のほんとどは設営隊員。まったく勝負にならず、味方はあっという間に全滅。

「大本営もまさかアメリカ軍がこんな小さな島をまともに攻撃してくるとは思っていなかったのでしょう。ところが、この名もない島が太平洋戦争で最大の激戦地となったのです」と井崎は顔をしかめる。






◎臆病者



ラバウルの司令部に集められたパイロットたちには「航空地図」が手渡された。すると、ガダルカナルはラバウルから560カイリ(約1,000km)もあることが分かった。

「無理だ…。こんな距離では戦えない」

そう呟く男がいた。



「今、無理だと言ったのは誰だ!」

一人の若い士官が、怒髪天を衝かんばかりに怒鳴った。

「貴様か!」

士官は言うが早いか、その男の顔面をしたたかに殴りつけた。男の口は切れた。



「貴様は宮部だな。貴様の噂は聞いているぞ! この臆病者め!」

その男の名は「宮部久蔵」。ミッドウェーからやって来た空母乗りだったが、まるで臆病者がビクビクするかのように、飛行中もひっきりなしに後ろを振り返り、執拗な見張りを怠らない男であった。

「今後、今みたいな臆病風に吹かれるようなことを言ったら、ただではすまさんぞ!」

そう言い捨てて、士官は去った。



海軍は「兵」「下士官」「士官」の順に偉くなる。

「士官」というのは今の官僚のキャリアのようなもので、海兵学校を卒業した者たちだけがなれる特権であった。士官は宿舎も従兵付きで至れり尽くせり。食事も天と地ほどの開きがある。

「要するに軍隊というところは、徹底した身分階級がある世界ということです」と、当時「兵」であった井崎は言う。



だが皮肉にも、優秀なパイロットというのは「士官」にいなかった。「ラバウルの猛者ども」と呼ばれた凄腕の搭乗員たちは、そのほとんどが「兵」からの叩き上げであった。

それもそのはず。空の上では「経験と能力」だけがモノをいう。おびただしい数の実戦、その「死のフルイ」にかけられて生き残った者たちにこそ腕があった。



「空の上では、階級は何の意味ももちません」と井崎は言う。

学校出の士官は、操縦技術や空戦技術において下士官にかなうわけがない。

それでも日本の軍隊では士官ばかりが重んじられた。そのため、ノンキャリアである下士官は、たとえどんなに腕があっても士官の下につかざるを得ず、その命に従わざるを得なかった。たとえそれが「命を賭した上空」であっても。






◎宮部久蔵



ラバウルの基地にも、「ミッドウェーで日本の空母4隻が沈められたらしい」という噂が密かに立っていた。

宮部という男は、そのミッドウェーからやって来た。もし、日本軍惨敗の噂が本当であれば、宮部はその「死地の空」から生きて帰ってきた男である。よほどの凄腕か、もしくは臆病者か…。



井崎はさり気なく宮部に聞いてみた。

「宮部一飛曹は、空母に乗っておられたのですか?」

一瞬口をつぐんだ宮部。やはりミッドウェーのことは軍の最高機密であるらしい。宮部は「赤城に乗っていました」と言ったあとすぐに「もう乗れません」と付け加えた。

どうやら噂は本当らしい。日本に戻った後はしばらく軟禁状態に置かれていたようだ。



それにしても、宮部の戦闘機技術は華麗であった。さすが第一航空艦隊の腕前である。

井崎が雲の隙間から奇襲を受けた時、救ってくれたのは宮部だった。

「私はちょうど敵に背中を見せる格好になっており、『やられる!』と思いました。その瞬間、私の目の前を一機のゼロ戦がすごいスピードですり抜けました。宮部機です。一機を撃墜すると、さらに鋭い旋回を見せもう一機を撃ち落としました。この間、わずか数秒の出来事。『何という凄腕!』『何という早業!』。私は鳥肌が立ちました」と、井崎は語る。



基地に戻ってから、井崎は真っ先に宮部の元へと走る。

「あの時、雲の上の敵が見えていたのですか?」

「はい、雲の上からチラッと」

井崎は心の中で唸った。今日のゼロ戦隊はラバウルの猛者たちだったはず。その全員が見つけられなかった待ち伏せする敵を、宮部だけが発見し、逆に返り討ちにしたのだから。

「恐ろしいまでの戦いぶり。この人は一級の搭乗員だなと思いました」



「しかし、宮部さんの用心深さというのは、いささか度を越しているとも思えました」と井崎は言う。

しょっちゅうキョロキョロあたりを伺いながら飛んでいる。とにかくひっきりなしに後方を振り返り、背面飛行も頻繁にやる。

空中は上下左右360°に開かれており、敵機はケシ粒のように小さくしか見えない。それを一秒でも早く発見できるか否かは、飛行機乗りにとって生死を分かつ。



だが、慎重と臆病は隣り合わせ。

死なない宮部は、「きっと臆病なのだ」と思う人の方が多かった。

それも致し方ない。その飛び方は「敵を墜とすということよりも、自分が撃たれないようにしている感じ」に見えた。



宮部自身、「敵を墜とすより、敵に墜とされない方がずっと大事です」とハッキリ言ったのを、井崎は聞いている。

「たとえ敵機を撃ち漏らしても、生き残ることができれば、また敵機を撃墜する機会はあります」と宮部は言う。「しかし…、一度でも墜とされてば、それでもうおしまいです」。






◎560カイリ



ラバウルから「ガダルカナル」まで560カイリ(約1,000km)。

「ガダルカナルは知らないが、560カイリという距離がどういう距離かは判る」と宮部は言う。

「ゼロ戦が戦える距離ではない」



当時、他国の戦闘機が数100kmという航続距離しか持たなかったのに対して、日本のゼロ戦は約3,000kmも飛び続けることができた。

だがそのゼロ戦をもってしても、ガダルカナルまでの往復2,000kmは「容易な距離ではない」と宮部は言う。

「巡航速度で3時間はかかる。ガダルカナル上空では戦闘時間は『10分少々』だろう。帰りの燃料を考えると、それ以上の空戦は危険だ」



もし四面が海の状況で方位を失ってしまえば、帰還できない恐れも出てくる。

「空戦で編隊とはぐれたら、後は自力でラバウルまで帰投しないといけない。560カイリの洋上を『地図とコンパスだけ』で飛ぶのは簡単なことではない」と、宮部は表情を曇らせる。

空母乗りだった宮部は、目印も何もない広い海の上、何百カイリと敵の艦艇を目指して飛び、そして攻撃後に味方の空母に帰り着くことの難しさを肌で知っていた。



自軍の空母とて止まっているわけではなく、時速50kmほどで航行しているのだ。飛び立った場所から200kmも違う場所にいることすらあった。もし上空が厚い雲で覆われていれば、その発見は一層困難になる。

当時、零戦には無線機は積まれてたが、それは雑音しか受信しない全く役立たずの代物だった。洋上で自らの位置を見失って、帰還できなくなった飛行機は少なくなかったという。






◎出撃



その日の明け方、17機のゼロ戦と24機の一式陸攻がラバウルを飛び立った。一路、1,000km先のガダルカナルの空へ。

「あの日の光景は今も忘れません。日本海軍の最高級の搭乗員たちが、朝焼けの東の空に飛んで行きました。それはまことに美しい編隊でした。私たちはいつまでも手を振っていました」と、井崎はその日の光景を思い起こす。



そして、出撃から7時間以上が過ぎた頃、ようやく攻撃隊がラバウルに帰って来る。朝の美しい編隊はどこへやら、無数の弾痕を残した飛行機が三々五々、ばらばらに辿り着く。

「衝撃的だったのはゼロ戦の数です。なんと帰還したのは17機中の約半数の10機でした。ゼロ戦が半分近くもやられるなんて…」



当時、ゼロ戦は「無敵の戦闘機」のはずだった。アメリカにもイギリスにもゼロ戦に太刀打ちできる戦闘機は存在しなかった。

イギリスの誇る「スピットファイア」も、ドイツの名機「メッサーシュミット」でさえ、ゼロ戦の敵ではないはずだった。ましてやアメリカ軍の「グラマン」などに引けをとるものではないはずだ。

確かに日本は当時まともな自動車も作れず、「三流国のイエローモンキー」と馬鹿にされていた。ところがゼロ戦ばかりは、そんな三流国が生み出した「奇跡の戦闘機」だったのである。










◎ゼロ戦



「ラバウルの滑走路に降り立ったゼロ戦の搭乗員たちは、どの顔も疲労困憊の体でした。げっそり頬がこけ、飛行機から降りるのがやっとという感じだったのです」と井崎は言う。

今回の出撃隊として選ばれた搭乗員は、ラバウルの猛者どもの中でも選りすぐりの凄腕パイロットたち。だが、その彼らでさえ半分が未帰還、そして満身創痍であった。

宮部が「本当の名人」と認めていたある撃墜王は、全身から血の匂いを漂わせて帰ってきた。



その翌日、宮部と井崎はガダルカナルに向けて出撃を命じられた。

「出撃したゼロ戦は全部で14機。それがラバウルの使えるゼロ戦の全機でした」と井崎は言う。

「飛べども飛べども、見えるのは雲と海ばかり。ガダルカナルとは何と遠いところかと改めて実感しました」



ようやく見えてきたガダルカナル島。

「私は思わず息を飲みました。なんとそこには無数の艦艇が島の泊地を埋めていたのです。アメリカ軍はたかだか小さな島一つを奪うのに、これほど多くの艦艇を繰り出すのか、と唖然としました」と井崎。

この時アメリカ軍は、空母「サラトガ」「エンタープライズ」「ホーネット」3隻。ガダルカナルの小島のために全空母をすべてつぎ込んでいた。



井崎は暗澹たる気持ちになったものの、攻撃とあれば断固やるまで。この日の井崎の任務は「中攻(一式陸攻)の護衛」。中攻を敵戦闘機から守ることだった。

「敵の戦法は一撃離脱です。上から突っ込んできて撃ちまくり、そのまま下方に逃げていくという単純な戦法です」と井崎は言う。

その頃、アメリカ軍はゼロ戦の恐ろしさが身にしみていたらしく、ゼロ戦とまともに格闘することをひたすら避けていた。いやむしろ、ゼロ戦と遭遇したら退避することと命じられていた。もし戦うのなら2対1でやれと。



「ゼロファイターは本当に恐ろしかった」と戦後、あるアメリカ軍パイロットは語っている。

「ゼロは信じられないほど素早かった。まさに鬼火のようだった。オレたちはゼロに乗っている奴は人間ではないと思っていた。奴らは『操縦桿をもった鬼(デビル)』だった」

「『ゼロ』というコードネームは、何と気味の悪いネーミングかと思ったよ。ゼロなんて『何もない』という意味じゃないか!」



太平洋戦争初期において、ゼロ戦の力は圧倒的だった。

だが、井崎の守る「一式陸攻」という中型爆撃機は、アメリカ軍から「ワンショット・ライター」と馬鹿にされるほど防御が弱かった。「一発で火が点いた」のである。それで搭乗員7人の命が一気に失われるのであった。

「速度の遅い爆撃機であるにもかかわらず、燃料タンクの防弾もなく、操縦席を守るための装甲もほとんどありません。そのため敵の戦闘機に襲われれば、簡単に撃墜されてしまっていたのです」と井崎は言う。

じつはゼロ戦の防御も弱かった。だがゼロ戦は、その素早さとパイロットたちの抜群の腕によって、敵弾の中をかいくぐることができていたのである。










◎墓場



その日の戦果は、敵艦2隻撃沈、輸送船9隻撃沈という華々しいものだった。

宮部と井崎がラバウルに帰還したのは午後3時。狭い操縦席に7時間も座り続けていたことになる。

「初めて体験したガダルカナルまでの攻撃は、恐ろしいほどの疲労を伴いました。全身の骨がガタガタと外れていくような感じで、地面がふわふわと揺れているような感触だったのを覚えています」と井崎は話す。



日本軍の未帰還機は中攻(一式陸攻など)18機、ゼロ戦2機。中攻は23機出撃して、帰ってこれたのはわずか5機である。

「なんとわずか2日間で、中攻が32機、ゼロ戦が10機も失われたのです。ラバウルの攻撃機のほとんど、そしてゼロ戦の半分近くがです!」と井崎は言う。



「ワンショット・ライター」一式陸攻(中攻)の乗員は、操縦員・偵察員・機銃員・通信員など一機に7名。それぞれの分野で一流の腕を持った男たち、いずれも何年もかかって鍛え上げてきた貴重な搭乗員たち。

「それがたった2日間で、150人も失われたのです…」



さらに悲しいことに、こうした損失は今後、決して例外的なものではなくなっていく。

「パイロットの墓場」

ミッドウェーの生き残りのベテラン搭乗員たち、そしてラバウルのいかなる猛者たちでさえ、美しきラバウルの地に次々と墓標を増やしていくことになるのである。






◎飢え



ガダルカナル島は、略して「ガ島」と呼ばれていた。そして「餓島」とも…。

「本当の地獄を見たのは、ガダルカナル島で戦った陸軍兵士たちでした」と井崎は言う。

この島での犠牲は2万人といわれるが、そのうちの約75%、1万5,000人が戦闘ではなく「飢えて亡くなった」のだという。



大本営がガダルカナル島に最初に送り込んだ陸軍部隊は「わずか900人あまり」。ろくな敵情偵察もせず、アメリカ軍の兵力を2,000と見たのだった。

「2,000という数字がどこから出てきたのか不明ですが、驚くのはその半分以下の兵力で島と飛行機を奪還できると踏んだことです」と井崎は言う。

ところが実際には、アメリカ軍海兵隊の兵士は「1万3,000人」もいた。日本軍は最初、およそ15倍の敵にかかっていったのである。そうとは知らずに…。



のちの悲劇を知らなかった日本陸軍は、突撃前夜、なぜか「勝ち戦の気分」だったという。

というのも、陸軍兵士たちはアメリカ軍兵士を「腰抜けのヤンキー」と思い込んでいた。アメリカ人が「いかに腰抜けで弱虫か」ということをさんざんに教え込まれていたのである。

「やつらは激しい戦いになると、躊躇なく投降しやがる。『生きて虜囚の辱めを受けず』という帝国軍人とは決死の覚悟が違う。だから戦って負けるわけがないのだ」というわけである。

兵力は半分で十分、「明日は楽勝だ」と皆で笑っていた。



「しかし結果は…、話すのも辛いことですが、その部隊は最初の夜襲一撃で全滅しました」と井崎は声を落とす。

日本陸軍の戦いの基本は「銃剣突撃」。勇気をもって自らを肉弾と化す。対するアメリカ軍は重砲や機関銃を遠くから撃ってくる。その結果は明白であった。

「言うなれば日本軍は、長篠の戦いで織田信長の鉄砲隊に挑んだ武田の騎馬軍団みたいなものでした。いったいなぜこんな愚かな作戦が実行されたのでしょう? 戦国時代のような戦い方でアメリカ軍に勝てると判断した根拠がまったくわかりません」と井崎は顔をしかめる。






◎ 兵力の逐次投入



全滅の一報を受けた大本営、「それじゃあ」と送り込む兵隊を一挙に「5,000人」にした。「これならいけるだろう」と。

一方のアメリカ軍、さらなる日本軍の増強に備え、守備隊を「1万8,000人」にまで増やしていた。



日本の大本営の参謀たちの作戦はまったく「場当たり的な予想」のもとに立てられていたようで、ガダルカナル島のアメリカ軍の動向は正確にとらえられていなかった。

「これは『兵力の逐次投入』といって、最も避けなくてはいけない戦い方のイロハです」と井崎は嘆く。

その「逐次投入」された日本軍は、その度ごとにさんざんに打ち破られることになる。



追い散らされた多くの兵隊たちは「ジャングル」へと逃げ込むしかなかった。

「そんな彼らを、今度は飢餓が襲います」と井崎は言う。

鬱蒼としたジャングルに身を隠しながら、兵士たちは自らの命をこんなふうを言っていた。

「立つことのできる者は30日、座ることのできる者は3週間、寝たきりになった者は1週間、寝たまま小便する者は3日、ものを言わなくなった者は1日、まばたきしなくなった者は1日の命」



「なぜ飢えるか、ですか? 軍が食糧を用意しないからです」と井崎は言う。

日本陸軍の用意する食糧は「作戦計画」の日数分のみ。机上で立てられた計算によってそれは決まっていた。もしその日数で計画を遂行できないのであれば、あとは飢えるしかない。

「食糧のない兵士たちは、あとがないだけに死に物狂いで戦うだろうと踏んでいたのでしょうか? 敵陣を乗っ取れば、そこに食糧があるということで」と井崎。



奪うであろうアメリカ軍の食糧は「ルーズベルト給与」と呼ばれ、日本の兵士たちはそれを当てにしていたという。

だが、戦争が机上の計画通りに運ぶわけはなかった。ガダルカナル島では敵陣を奪うどころか、ジャングルへと追い立てられていってしまったのである。そこには食糧はない。あるのは「飢え」ばかり。

「兵站(へいたん)は戦いの基本です。兵站とは軍隊の食糧や弾薬の補給のことです」と井崎は言うが、ガダルカナルの日本軍のそれは無謀にも現地調達であったのだ。










◎勝機



日本軍は結局、ガダルカナル島の奪還は半年もかけて叶わぬ夢に終わるわけだが、奪還のチャンスは幾度かあった。

井崎や宮部なども出撃して搭乗員150人を失ったあの2日間ののち、アメリカ軍の損害や著しく、米空母3隻がガダルカナル島を離れていたのである。

折り良く日本の第八艦隊はラバウルを出撃して、「第一次ソロモン海戦」と呼ばれる戦いを制し、アメリカの巡洋艦をほとんど完全に打ち破った。日本海軍の得意とする夜戦による奇襲が成功したのである。



だが、三川司令長官率いるこの第八艦隊はこの勝ち戦の後、ガダルカナル島へ突き進もうとはしなかった。

「三川長官はアメリカの空母を恐れたのです」と井崎は言う。「朝になって米空母の艦載機の攻撃を受ければ、護衛戦闘機の傘のない艦隊にとっては絶望的な戦いになる」と。



だが、その恐れる敵は実際にはいなかった。しかし、三川長官はそれを知る由もなく、ただちに船首を返して撤収してしまったのであった。

「この時、三川艦隊がガダルカナル島に襲いかかっていれば、のちに行われた日本陸軍の戦いもまったく違った様相を呈していたことでしょう。この勝機をつかむことができなかったのは、本当に残念です」と井崎は悔しさを滲ませる。

「とにかく三川艦隊の撤退は、ガダルカナルの戦いで大きな悔いを残しました…」










◎捨て駒



「じつは日本軍は知らなかったのですが、アメリカ軍は一時期『太平洋上で行動可能な空母が一隻もない』という危機的状況に陥っていたのです」と井崎は言う。

その時、アメリカ軍はガダルカナル守備隊の撤退まで覚悟していたという。



「戦後、アメリカの戦史家の多くが『この時、日本の連合艦隊がすべての兵力をつぎ込めば、ガダルカナル島を奪い返すことができた』と言っています」と井崎は言う。

だが、日本軍がまず送ってきた兵力は「わずか900」。そして次に「5,000」と小出しが続く「逐次投入」。それを叩くのはアメリカ軍にとってわけもなかった。

「帝国海軍は兵力を小出しにして、千載一遇のチャンスを逃したのです。逆に全兵力をつぎ込んだのは米軍でした」と井崎。




じつな日本軍には、ラバウルの北わずか数百km先に世界最大の戦艦「大和」もいた。

「日本の水兵たちが、戦艦『大和』をどう呼んでいたか知っていますか? 『大和ホテル』です。司令部幕僚たちは、軍楽隊が演奏する中で豪華な昼食を取りながら、第一線で戦う将兵たちに命令を下していたのです」










「兵隊や搭乗員の命は『捨て駒』にするくせに、高価な軍艦となると後生大事にするとは…」

戦後に知った「できるだけ船を沈めないように」という大本営の方針に、井崎は腹が立っていた。

「いったいに帝国海軍は第一線で命を懸けて戦った者に、非常に薄いです。私たち兵や下士官などは、最初から道具扱いです。その命は鉄砲の弾と同じだったのでしょう!」

思わず井崎は興奮してしまっていた。










◎大福



長駆、ガダルカナルへの出撃が連日続くラバウル航空隊は、急速に消耗していた。熟練パイロットといえども、櫛の歯が欠けるように減っていく。

「出撃すれば半分以上の確率で撃墜される。しかもその出撃が何度も続くのです。搭乗員たちは生き延びるのを諦めているようでした」と井崎は悲しむ。



「仲間を失った悲しみを一番感じるのは戦闘直後ではありません。夕食の食堂です」と井崎は言う。

誰がどこに座るかはだいたい決まっていたという夕食の席。

「夕食の時間に空いている席があれば、そこに座っていた男は未帰還ということです。それがいつも隣りに座っていた奴だとたまりません。激しい戦闘だと、一気に何人もの席が空くことがありました」



冗談も出なくなっていた食事の席。東野という男は朝食時、急に叫んだ。

「一度でいいから、美味しい大福を食べたい!」

その声に、皆が笑った。大福餅などラバウルに来てから一度も食べたことがなかった。つい大福を想像すると、思わずゴクリと喉が鳴った。



その日の夜、食卓には「大福餅」がいっぱいに並んでいた。朝の東野の声を聞いた食事員たちが一所懸命こしらえてくれたのだった。

しかし悲しいかな、誰よりも大福を切望していた東野本人の席は空いていた…。

「彼の食卓に置かれた大福には、誰も手をつけませんでした…」






◎連日出撃



井崎は「ラバウル航空隊」こそが「掛け値なしに世界一」と自負していた。名人級のパイロットたちは、まさに「鬼」であった。

だが、日本海軍航空隊の誇るその名人たちが、連日帰らぬ人となってゆく。

連日往復2,000km、敵地上空で神経をすり減らして戦い、一日7時間以上も操縦席に座りっぱなし。その疲労は極限に達する。



「一度出撃すれば、疲労は1日や2日では抜けません。しかし、疲れが取れる前に再び出撃命令が下るのです。一週間に3度4度の出撃も珍しくなかったのです」と井崎は言う。

限界を越えた状態で飛び、戦いを強いられた搭乗員たち。連日繰り返される出撃に体力も集中力もすっかり低下してしまっていた。

「疲れからくるミスで撃墜された搭乗員も大勢いたはずです。十分な休養さえ与えられていれば、死ぬことはなかった搭乗員が少なくなかったはずです」と井崎は話す。

入神の域に達していたかに思われたエース笹井中尉が撃墜されるのも、「5日連続出撃」の末だった。



一方、アメリカ軍は優秀なパイロットの命を惜しんでいた。

ラバウルに送られてきたアメリカ軍パイロットの捕虜の話によれば、なんと彼らは1週間戦えば後方に回され、そこで「たっぷりの休養」をとったあとに再び前線にやって来るのであった。さらに何ヶ月も戦えば、もう前線に出ることはなかった。

「その話を漏れ聞いた時、我々は驚きました。我々には休暇などというものはなかなか与えられませんでした。連日のように出撃させられていたのです」と井崎は言う。










◎落下傘



ガダルカナルのアメリカ軍は、叩いても叩いても無限かと思える物量でその姿を復元してしまう。どんなに地上の航空機を爆破しようとも、すぐに同じ数の航空機が補充されてくる。

「自分たちは、不死身の化け物を相手に戦っているのかという恐怖を感じました」と井崎は言う。



そんな中、井崎は宮部のとった行動に衝撃を受ける。なんとあの臆病者の宮部が「パラシュートで脱出するアメリカ兵」を撃ったのだった。

「それを見た瞬間、私は背筋に戦慄を覚えました。何もそこまでやらなくてもと思ったのです。パラシュート脱出で無抵抗の搭乗員を撃ち殺すことはしなくてもいいのではないかと思ったのです」と井崎は言う。



その衝撃的な光景は何人もが見ていた。

「貴様には、武士の情けというものがないのか!」

その日の夜、宮部は上官にいきなり怒鳴られた。

「オレたち戦闘機乗りはサムライであるべきだ。落ち武者を竹槍で突き刺すような真似は二度とするな!」



ただでさえ臆病者扱いされていた宮部は、「男の風上にも置けないズルい奴」にまで成り下がった。その腕は一流の上をいくほどのものだったのだが…。

後日、納得のいかない井崎は、小隊長である宮部に尋ねた。「なぜ落下傘を撃ったのですか?」と。

宮部は答えた。「アメリカの工業力はすごい。戦闘機なんかすぐに作る。我々が殺さないといけないのはパイロットだ」と。



「あのパイロットの腕は確かなものだった。恐ろしほどの腕だった。あの男を生かして帰せば、何人もの日本人が殺されることになっただろう」

宮部はそう言い捨てた。普段は上品で物静かな宮部であったが、この時ばかりは興奮を抑えきれない様子であった。

「小隊長があれほど興奮したのを見たのは初めてです。私はその姿を見て、小隊長はパラシュートの米兵を撃つとき、本当に苦しかったのだろうと思いました」と井崎は振り返る。










◎トニー



幸いにも、宮部にパラシュートを撃ち抜かれたパイロットは生きていた。

そして井崎は、戦後、そのアメリカ人と会っている。

「これはじつに不思議なことなのですが、お互い殺し合った相手なのに、なぜか憎しみや恨みはまったく感じませんでした」と井崎は言う。

「時間がすべてを洗い流すのでしょうか。それとも、空の上で正々堂々と戦ったからでしょうか。向こうも同じような気持ちでいたようです」



「ゼロのパイロットは凄かった」と、トニー・ベイリーというその男は言う。

トニーは言う。「雲の隠れて待ち伏せしていたのだが、奇襲した途端に一機のゼロに発見され正面から銃撃された。エンジンが被弾したのでパラシュートで脱出したのだが、そのパラシュートも撃ち抜かれた」

だが幸い、それが海上近くであったため、海に激突して死ぬようなことはなかったのだという。



「オレを墜としたパイロットを知っているか?」とトニーは井崎に聞く。

「私の小隊長だ」

井崎がそう答えると、トニーは「おおっ!」と声を上げる。そして「生きているのか?」と聞いてくる。



「亡くなった」

「撃墜されたのか?」

「いや…、カミカゼで亡くなった」

その瞬間、トニーは口をあんぐりと開けた。そして独り言のようにつぶやいた。「…なんてことだ」。

次の瞬間、彼は顔をくしゃくしゃにして泣き出していた。



「彼の名前は何と言う?」

「宮部久蔵」

「ミヤベ…、キュウゾウ…」

そう何度も繰り返したあと、トニーは言った。「彼に会いたかった…」と。



驚いた井崎、「恨んでないのか」と問う。

「なぜ恨む?」とトニー。

「パラシュート降下しているあなたを撃ったんだぞ!」と井崎。

トニーは言う、「それは戦争だから当然だ。我々はまだ戦いの途中だった。彼は捕虜を撃ったのではない。ミヤベは本物のエースだった。私はその後も何度もゼロと戦ったが、あれほどのパイロットはいなかった」と。






◎ゼロ戦とグラマン



「ゼロのパイロットは凄かった。オレたちは10回殴られて、ようやく1回殴り返すような戦いをしていたんだ。しかし、その一発のパンチでゼロは火を噴いた」とトニーは言う。

トニーの乗るアメリカ機「グラマン」はよほどに頑丈に造られているらしく、ゼロが何発も命中弾を与えてもしぶとく墜ちなかった。







「オレたちが勝ったのはグラマンのおかげだよ」とトニーは言う。「オレが今こうして生きているのは『操縦席の背面板』のおかげだよ」。

一方、ゼロ戦はパイロットを守るようには造られていなかった。ひたすら航続距離を延ばし、格闘能力を高めるように専念されており、その防御は「ワンショット・ライター(一発で火が点く)」と揶揄された中型爆撃機「一式陸攻」と同様に薄かった。



トニーは明るい男だった。孫も5人いるという。

「何度も機体を穴だらけにされたオレが言うんだ。日本には本物のパイロットが何人もいた」

その言葉に、井崎は思わず涙がこぼれる。ラバウルの空で死んだ仲間たちが、脳裏にありありと蘇ってきた。もちろん宮部小隊長の姿も…。



そして、宮部がゼロ戦の翼を触りながらラバウル基地で言った言葉が、急に思い起こされた。

「自分は、この飛行機をつくった人を恨みたい」

井崎は驚いた。ゼロ戦こそが世界最高の戦闘機ではないか。

宮部は言う、「確かに凄い戦闘機だ。1,800カイリ(約3,000km)も飛べる単座戦闘機なんて考えられない。8時間も飛んでいられるというのは凄いことだと思う。どこまでいつまでも飛び続けることが出来るゼロ戦は本当に素晴らしい」。



「自分自身、空母に乗っている時には、まさに千里を走る名馬に乗っているような心地強さを感じていた。しかし」

「今、その類マレなる戦闘能力が自分たちを苦しめている。560カイリ(約1,000km)を飛んで、そこで戦い、また560カイリを飛んで帰る。こんな恐ろしい作戦が立てられるのも、ゼロ戦にそれほどの能力があったからだ」



「しかしそこには、それを操る搭乗員のことが考えられていない。8時間の間、搭乗員は一時も油断はできない。いつ敵が襲いかかってくるかわからない戦場で、8時間の飛行は体力の限界を超えている」

「自分たちは機械じゃない。生身の人間だ。8時間も飛べる飛行機をつくった人は、この飛行機に人間が乗ることを想定していたんだろうか?」










◎体力の限界を超えて



「私に返す言葉はありませんでした」と井崎。

「今、あの時に宮部さんの言っていたことの正しさがわかります。現代でもゼロ戦が語られる時、多くの人があの驚異的な航続力を褒め称えます。しかし、その航続力ゆえにどれほど無謀な作戦がとられたことでしょう」



戦後、航空自衛隊の戦闘機の教官に聞いたところ、「戦闘機の搭乗員の体力と集中力の限界は『1時間半くらいだ』」と話していたという。

つまり、3時間もかけて激戦のガダルカナル上空に着いた時、普通の人間であれば体力と集中力を使い尽くしてしまっていたのである。それでも彼らは戦ったのだった。体力の限界を気力で補って…。



アメリカ軍で戦ったトニーは「オレたちが勝てたのは、ホームで戦ったからだ」と言っている。

アメリカ軍は味方の上空で戦っているのだから、たとえ撃ち落されてもパラシュートで脱出できるし、発動機が不調でも不時着できる。迎撃戦というのも有利であり、雲の中に待ち伏せすると奇襲も成功しやすい。なにより燃料の心配もない。




一方、味方の基地から1,000kmも離れた地での戦いは、パラシュート脱出も不時着も、そのまま死を意味した。陸地は敵地であり、海にはサメがうようよと泳いでいる。

そして火の着きやすいゼロ戦は、グラマンに一発食らえばそれで終わりだったのである。たとえそれが乱戦中の「流れ弾一発」だったとしても…。










◎太平洋戦争の縮図



「ガダルカナル島を巡っての戦いは、半年の激戦を経て幕を閉じました。大本営はガ島の奪還のあきらめ、島に残る約1万の兵士を駆逐艦で収容しに行きました」と井崎は話す。

「この時、島に迎えに行った駆逐艦の乗員たちは、痩せさらばえたガ島の兵士たちを見て、声を失ったといいます」

陸上戦死者5,000人、餓死者1万5,000人。それが、最終的に3万人もの兵士が投入された犠牲だった。3万のうち2万が死んだのである。



海軍の血も多く流れた。

沈没した艦艇24隻、失った航空機839機、戦死した搭乗員2,368人。貴重な歴戦パイロットたちの8割方はここで失われたといわれる。まさに「パイロットの墓場」である。

「戦いが終わった時、海軍の誇る珠玉ともいえる熟練パイロットのほとんどが失われました。今にして思えば、このとき日本の負けがはっきりしたと思います」と井崎は言う。



「もっとも、ガダルカナルで何が行われていたのかを知ったのは戦後です。ですが、それを知った時、ガダルカナルこそが太平洋戦争の縮図だということがわかりました。大本営と日本軍の最も愚かな部分がこの島での戦いにすべて現れています」

「だからこそ、ガダルカナルのことは全ての日本人に知ってもらいたい!」

ガダルカナルを生き抜いた井崎は、熱くならざるを得ない。



この過酷な戦いの後、日本軍にはまた別の悲劇が襲う。

「ラバウルから飛んだ山本五十六・連合艦隊司令長官の乗った一式陸攻が、敵戦闘機により撃墜されたのです」と井崎は言う。「アメリカ軍は日本軍の暗号をすべて解読していて、長官機を待ち伏せしていたのです」

長官の乗っていた一式陸攻はあの「ワンタッチ・ライター」。雲に隠れていた敵の奇襲攻撃に火を噴いた。



長官護衛の重責をになっていた6機のゼロ戦の搭乗員は、山本長官を死なせてしまったがために、さらなる試練が科された。

「彼らは懲罰のように連日にわたって出撃させられ、わずか4ヶ月の間に4人が戦死。一人が右腕を失いました。だた一人、杉田庄一飛長は撃墜100機以上という鬼気迫る戦いぶりで終戦の年まで戦い続けましたが、終戦間際に撃墜されました…」と井崎は語る。










◎生死



「井崎、死ぬなよ」

ラバウルを離れることが決まった時、宮部はそう言った。



このとき、花吹山は大きな噴煙を噴き上げていた。

「あの山を見るのも、今日が最後かもしれんな」



翌日、井崎は朝早くにラバウルを離陸した。

「宮部上飛長は帽子を振って見送ってくれました」

離陸した後に、いったん飛行場を旋回した井崎。最後に宮部へ敬礼すると、ラバウルを後にした。

「それが私の見た宮部上飛長の最後の姿です」



戦後、2人で見た花吹山は大噴火。

ラバウルの美しい町も飛行場も灰の中に埋まったということである。あのパイロットたちの墓場も…。

「もう戦争のことなど、全部忘れろと山が言ったのでしょうか」と井崎は感慨にふける。



井崎は生きた。

だが、宮部は死んだ。

終戦のその月に、「カミカゼ」となって…













(つづく)

→ カミカゼ前夜。マリアナ沖開戦と米軍の電探 [永遠の0より]3






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出典:永遠の0 (講談社文庫) 百田尚樹
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2013年06月30日

真珠湾の「ゼロ戦」とミッドウェーの「空母」 [永遠の0より]1



「着いたところは、北海道・択捉島の単冠湾(ひとかっぷ・わん)です。11月のオホーツク海は非常に寒かったのを覚えています」

時は日米戦争の開戦直前。

空母「赤城(あかぎ)」の搭乗員・伊藤寛次は冷たい霧の中、連合艦隊の多くの艦艇が海に居並ぶ、その壮観さを眺めていた。



11月26日、全空母から搭乗員全員が集められると、飛行隊長はこう言った。

「宣戦布告と同時に、真珠湾のアメリカ艦隊を攻撃する」

搭乗員たちの間には一斉に緊張感がみなぎる。



当時は日中戦争の真っ只中で、中国一国にも手を焼いている状況。だが、同盟国ドイツはすでにイギリスと戦争状態に入っており、日本もいずれ英米と戦うかもしれないという空気はあった。

「来るべき時が、いよいよ来たか」

伊藤寛次は、真珠湾攻撃に臆することはなかった。「憎っくきアメリカに一泡吹かせてやる」と心中期していた。










◎真珠湾



「12月8日、私は夜明けとともに発艦し、艦隊上空を哨戒しました」

伊藤は悔しくも、攻撃隊の名簿に自分の名前を見つけることができなかった。彼の任務は艦隊の直衛。敵の攻撃機から母艦を守るために艦隊上空を哨戒して護衛するというものだった。



「それからまもなく、第一次攻撃隊が飛び立っていきました。私は編隊に敬礼して見送りました」

作戦中、伊藤の守る母艦上空に敵機はついに現れず、彼は一度も戦うことがなかったという。



「ご存知のように、真珠湾の奇襲は完全に成功しました。史上初の『航空機だけによる艦隊攻撃』は、戦艦5隻沈没ないし着底、3隻大破。基地航空機200機以上撃破という空前の成果を挙げました」

真珠湾攻撃は日本の大勝利。29機の未帰還機と55人の犠牲しか出さなかったという。

「真珠湾攻撃が大成功に終わった直後は、乗員もわれわれ搭乗員も大変なお祭り騒ぎでした」



だが、攻撃参加したある飛行機乗りは、静かにこう言った。

「真珠湾にいたのは、戦艦ばかりでした…。いずれアメリカの空母はわれわれを襲ってきます。そのためにも、空母をやっつけておきたかったです」










◎空母



「空母」というのは、飛行機を積んだ軍艦。艦全体が「小さな飛行場」のようになっていて、飛行機が発着できる(正式名:航空母艦)。

空母は戦艦に比べて速力があり、機動性に富む。そのため、空母の部隊は「機動部隊」と呼ばれていた。



それまでの長い間、世界は「大艦巨砲主義」の時代で、海戦というものは「戦艦同士の戦いで決着がつく」と考えられていた。戦艦こそが史上最強の兵器であり、制海権を得るには強大な戦艦が是非にも必要だと考えられていたのである。

江戸時代末期、日本に開国を迫ったアメリカの黒船がそうであったし、ロシアと戦った日露戦争において、日本海海戦を制したのは日本の軍艦だった。










一方、空母の登場は第一次世界大戦の後。その頃の空母の役割は「補助的なもの」に過ぎなかった。というのも、搭載される飛行機はまだ複葉機であったため、戦艦などの大型艦を沈めることがまず不可能だったのである。

ところがその後、航空機は日進月歩の進化を遂げ、空母の戦力は一気に増大することになる。



「これを世界に証明したのが、開戦劈頭の真珠湾攻撃です。航空機の攻撃だけで戦艦を一挙に5隻も沈めてしまったのです」と伊藤は言う。

「この瞬間、何百年もの間、制海権を巡る戦いの主役であった戦艦は、その座を空母に譲ったのです」






◎ゼロ戦



空母の戦力を飛躍的に高めたのは、日本の開発した「ゼロ戦」という当時最新鋭の戦闘機であった。

「ゼロ戦」という名は、日本建国以来の暦である「皇紀」に由来する。

「ゼロ戦が正式採用になった皇紀2,600年の末尾のゼロをつけたのですよ」と伊藤は語る。「ちなみに、その前年の皇紀2,599年に採用になった爆撃機は九九艦上戦闘機、その2年前に採用になった攻撃機は九七艦上攻撃機です」。










ゼロ戦の正式名称は「三菱零式艦上戦闘機」。正式採用になった皇紀2,600年というのは、昭和15年、西暦1940年のことである。伊藤寛次が空母「赤城」の乗組員になったのは、その翌年春のことだったという。



「これは日本が真に世界に誇るべき戦闘機です。何より格闘性能がズバ抜けていました。それに速度が速い」

格闘性能とは旋回と宙返りの能力。ゼロ戦の回転半径はほかの戦闘機の半分以下、恐ろしく小回りのきく戦闘機だった。そして速い。おそらくは当時、世界最高速である。



本来、戦闘機において「小回り」と「スピード」は相矛盾するものであった。小回りがきく飛行機ほど遅く、スピードの速い飛行機ほど小回りがきかなかったのだ。

「しかし、ゼロ戦はこの2つを併せ持った『魔法のような戦闘機』だったのです。堀越二郎と曽根嘉年という情熱に燃える2人の若い設計者の血の滲むような努力がこれを可能にしたと言われています」と伊藤は語る。










さらにその「航続距離」もケタ違い。

「3,000kmを楽々と飛ぶのです。当時の戦闘機の航続距離はだいたい数100kmでしたから、3,000kmというのがいかに凄い数字か想像つくでしょう」

当時、ドイツ空軍の誇るメッサーシュミットでさえ、わずか40km幅のドーバー海峡の往復に燃料を食われ、イギリス上空では数分間しか戦闘できなかった。

「ゼロ戦なら、ロンドン上空で一時間以上戦うことができたでしょう。こんな仮定は馬鹿げてますが、もしドイツ空軍がゼロ戦を持っていたら、イギリスを攻め落とすことができたでしょう」と伊藤は言う。










太平洋という広大な舞台で戦うことを想定されたゼロ戦には、それほどの航続距離が必要であった。海の上での不時着はそのまま死を意味するのだから。それは広大な中国大陸上空とて同じことである。

「名馬は千里を走って千里を帰ると言いますが、ゼロ戦こそまさに名馬でしたな」と伊藤は誇る。



卓越した格闘性能、高速、そして長大な航続距離。ゼロ戦はそのすべてを兼ね備えた「無敵の戦闘機」であった。さらに驚くことは、ゼロ戦が陸上機ではなく、狭い空母の甲板で発着できる「艦上機」ということである。

それが、日本の機動部隊(空母部隊)の威力を絶大なものとしたのであった。

「当時、工業国としては欧米になるかに劣ると言われていた日本が、いきなり世界最高水準の戦闘機を作り上げたのです」と伊藤はますます誇る。










◎だまし討ち



「真珠湾では残念なことがありました…」

伊藤が悔しがるのは、日本の宣戦布告が遅れてしまったことである。

「われわれの攻撃は、宣戦布告なしの『だまし討ち』になってしまったのです」



計画段階において、真珠湾攻撃は宣戦布告と同時に行われるはずであった。だが、そうはならなかった。

「その原因というのが、前日にアメリカ大使館職員たちが送別会か何かのパーティーで夜遅くまで飲んで、そのために翌日の出勤に遅れたからだといいます」

当日、宣戦布告の暗号をタイプするのにも手間取ってしまった大使館職員。それをアメリカ国務長官に手交する前に、真珠湾攻撃が始まってしまっていたのだった。



当時のアメリカ世論は、日本との戦争に反対だったという。だが、真珠湾攻撃が「卑怯なだまし討ち」になったことにより、アメリカの世論は急転回。

「『リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)!』の掛け声とともに、一夜にして『日本撃つべし』と変わり、アメリカ陸海軍には志願者が殺到したということです」










大きな「戦略」を狂わせた真珠湾。さらに局地的な「戦術」においても、大成功とは言えない部分があった。

「それは、第三次攻撃隊を送らなかったことです」と伊藤は話す。

「我が軍はたしかにアメリカ艦隊と航空機を撃滅しましたが、ドックや石油備蓄施設、その他の重要な陸上施設を丸々無傷で残したのです」



もし、それら施設まで完全に破壊しておけば、ハワイは軍事基地としての機能を完全に失ってしまうはずだった。それはすなわち、太平洋の覇権が日本のものになるということでもあった。

「飛行隊長たちは第三次攻撃を具申しました。しかしそれは受け入れられませんでした。司令長官・南雲忠一中将は『退却』を選んだのです…」と伊藤は今更のように悔しがる。










◎太平洋制圧



南雲忠一長官率いる機動部隊(空母部隊)はその後、太平洋を席巻する。

「南はニューギニアから、西はインド洋まで、まさに縦横無尽の暴れぶりでした。『半年間は存分に暴れ回ってみせます』と山本五十六長官が語ったといわれるように、まさに無敵の戦いでした」

南雲艦隊は、空母とゼロ戦の圧倒的な力によって太平洋を制圧したのだった。



多くの敵艦隊を沈めるゼロ戦。ゼロ戦が守る日本の空母に、敵機は指一本触れることができなかったという。

「当時、ゼロ戦に勝てる戦闘機はありませんでした。格闘戦では絶対に負けなかったのです」と伊藤は言う。



「また、攻撃隊の技量も入神に近いものがありました。インド洋でイギリスの艦隊を沈めた時、急降下爆撃隊の命中率は90%近かったのです。これは急降下爆撃隊としては驚異的な数字です」

真珠湾の2日後にも、日本の航空部隊はマレー半島沖でイギリスの誇る東洋艦隊を沈めている。これは、英首相チャーチルをして「第二次世界大戦でもっともショッキングな事件だった」と言わしめた海戦である(マレー沖海戦)。

真珠湾にあった戦艦と違い、イギリスの最強戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」は、完全に戦闘状態にあった。それでもなお、この2つの戦艦は日本の航空機攻撃により撃沈されたのである。










「この海戦で、護衛戦闘機を持たない戦艦は『航空機の餌食』になることが証明されました。もはや日露戦争のような戦艦同士の艦隊決戦は起こり得ない。真の艦隊決戦は『空母同士』の対決となったのです」と伊藤は言う。

当時、日本の正規空母は「6隻」。対するアメリカは「5隻」。

「我々はいつの日か戦うことになるであろう『空母同士の決戦』に、腕を撫していました」と伊藤。

そして、その機会は日米開戦から半年後にやってくる。






◎空母決戦



「昭和17年(1942年)5月、ニューギニアの『ポートモレスビー攻略作戦』で、我が軍の空母とアメリカ軍の空母が正面から激突したのです」

世界海戦史上、はじめての「正規空母同士の戦い」、珊瑚海海戦。

「ちなみに今日まで、空母 vs 空母の戦いは日本とアメリカ間以外にありません」と伊藤は言う。



日本の空母は「翔鶴(しょうかく)」と「瑞鶴(ずいかく)」。

対するアメリカは「レキシントン」と「ヨークタウン」。

史上初の空母対決を制したのは日本海軍。

「この珊瑚海海戦では、我が方は『レキシントン』を沈め、『ヨークタウン』を大破せしめました。損害は『翔鶴』が中破のみで、『瑞鶴』は無傷でした」と伊藤は語る。










当時、「翔鶴」と「瑞鶴」は「五航戦(第五航空戦隊)」と呼ばれ、「搭乗員の腕がやや落ちる」と言われていた。

日本最強の技量を誇ったのは「一航戦」。伊藤の乗る空母「赤城」と同「加賀」である。それに次ぐのが「二航戦」である「飛龍」と「蒼龍」。

誇り高き一航戦と二航戦の乗組員たちは、「チョウチョウ、トンボも鳥ならば、五航戦も鳥のうち」と戯れ歌を歌いながら、腕の落ちる五航戦をからかっていたという。



ところが、珊瑚海海戦においてはその五航戦「翔鶴」と「瑞鶴」ですら、アメリカの空母部隊を圧倒したのである。

「それで珊瑚海海戦のことを聞いた私たち一航戦の搭乗員たちは、『オレたちなら、アメリカ空母を2隻とも沈めてやったのに』と口惜しがったものです」と伊藤は思い返す。

そして、五航戦の赫々たる戦果に伊藤らの気持ちは高まらざるを得ない。

「早く我々も、敵空母と一戦を交えたい!」



その機会は、思ったよりも早くやってきた。

一ヶ月後の1942年6月。

「そうです。ミッドウェー海戦です」










◎驕れる者たち



「この戦いはあまりにも有名ですね。結果は日本軍の空母4隻が一挙に沈められました」と伊藤は淡々と話す。

その4隻とは、日本海軍の誇った一航戦と二航戦の4隻。すなわち「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」すべてである。

「戦後になって、ミッドウェーの敗北の原因をいろいろ本で呼んで知りました。すべては『わが軍の驕り』にあったようです」と伊藤は言う。



真珠湾の時はあれほど秘された情報も、ミッドウェーではアメリカ軍に「筒抜け」であった。日本軍の暗号が解読されていたのである。

珊瑚海海戦の勝利もあって、日本海軍には楽勝気分が蔓延。

ある司令が「ミッドウェーで敵空母がやって来たらどうする?」と尋ねたところ、航空甲参謀の源田実は「鎧袖一触です」と答えたという。鎧の袖が触れただけで、一撃で敵を打ち負かすというのである。



ミッドウェー島には、日本軍の暗号を知ったアメリカ軍が手ぐすね引いて待ち伏せしていたというが、それは日本軍の望むところでもあった。

「もともとミッドウェー島の攻略作戦は、アメリカの空母をおびき出して撃滅する目的が含まれており、逆に言えば、まんまとアメリカ空母がやって来たというわけです」と伊藤は言う。

驕れる日本軍は後手後手に回っており、ハワイ沖にアメリカ空母の出撃を知らせる潜水艦部隊を配置してのは、すでに米空母がハワイを出た後だったという。



「あの日はまさに海軍にとって、いや日本にとって最悪の日でした。もちろん、それ以上に酷い敗北はその後何度も繰り返されました。しかし、すべてはあのミッドウェーから始まったのです」と伊藤は語気を強める。










◎索敵



「空母同士の戦いは『索敵』で決まります」と伊藤は言う。

「索敵」とは、敵を探し出すこと。

「広い太平洋上、敵よりも一秒でも早く発見し、攻撃をかける。それこそが空母の戦いです」



海戦史上初の空母決戦となった「珊瑚海海戦」においても、「索敵」が勝敗を分けたともいわれる。

空母「翔鶴」の偵察機は敵空母を発見した時、その燃料はギリギリだったという。即座に敵空母の位置を知らせた後、その偵察機は帰路につく。

だが、発進した味方の攻撃部隊の姿を空に見つけると、偵察機は急遽反転。味方攻撃隊を確実に敵空母まで誘導したのだという。



もちろん、その偵察機に燃料はもうなかった。すなわち、自分たちはもう生きては帰れない。

「その偵察機の機長は菅野兼蔵という人です。同機の操縦員は後藤継男、電信員は岸田清治郎でした。3人は味方攻撃隊の必勝を願って、自らの命を捨てたのです」と、伊藤は涙ながらに話す。

彼ら3人の死を、攻撃隊は決して無駄にはしなかった。その索敵と誘導のおかげで、珊瑚海海戦は日本軍の大勝利に終わったのである。



そして今回、ミッドウェーにおいては彼ら五航戦よりも更に強い「一航戦」と「二航戦」が出撃している。

「負けるはずはないと思うのは当然でしょう」と伊藤は言う。

ちなみに、「翔鶴」「瑞鶴」の五航戦はミッドウェーには参加していない。「瑞鶴」などは無傷だったにも関わらず。



一方のアメリカ、珊瑚海海戦の大敗で大破していた「ヨークタウン」を、わずか3日間の応急修理をもってミッドウェー海戦に参加させていた。艦内に多数の修理工員を乗せたままで。

「われわれはアメリカ人というものは『陽気なだけの根性のないヤンキーたち』と思っていましたが、そうではなかったのです。彼らにはガッツというものがありました」と伊藤は語る。

驕れる日本に対し、アメリカはあくまで必死であった。満身創痍の米空母「ヨークタウン」のハルゼー提督は、「たとえ沈められてもミッドウェーに参加させる」と意気込んで来ていたのだ。










◎魚雷と爆弾



「待機所で休んでいた時、突然、攻撃機の魚雷を陸上用爆弾に換装が始まったのです」と伊藤は言う。

攻撃機の魚雷は敵空母を叩くため。だが、索敵状況から周辺にアメリカ空母はいないと判断され、急遽、ミッドウェー島の陸上攻撃にターゲットが切り替えられた。そのための換装、陸上用爆弾への付け替えだった。

「今にして思えば、これが第一の油断です」と伊藤は振り返る。



魚雷を爆弾に付け替えるのは大仕事。「靴を履き替えるようにはいかない」と伊藤は言う。

「リフトで一機ずつ攻撃機を格納庫に降ろして、そこで魚雷を外し、爆弾に付け替え、再びリフトで飛行甲板まで上げるという作業の繰り返しです。飛行機は数十機もあります」

しかも、モノは魚雷と爆弾。おろそかには扱えない。雷装から爆装へのすべての換装が終わるのに、2時間以上もかかったという。



皮肉にも、索敵機が敵空母を発見するのは、その換装を終えた直後であった。

「いよいよ来たか!」と伊藤は身構える。

ところが、飛行甲板上の攻撃機には陸上攻撃用の爆弾が付けられてしまっているではないか。

「何という、間の悪いことでしょう!」



ふたたび、艦船攻撃用の魚雷への雷装を命じる「南雲忠一」司令長官。

ミッドウェー作戦の最大の目的は、アメリカ空母をおびき寄せ、一気に殲滅することにあった。アメリカ軍を空母なきものとしてしまえれば、太平洋に敵がいなくなるのと同じことであった。

「そのためにも、一撃で米空母を葬り去ることができる雷撃、つまり魚雷による攻撃は絶対に必要だったのです」と伊藤は話す。



なんと、南雲中将は「兵法としては最も慎むべき戦法」である「二方面作戦」を行なってしまっていた。

最大の目的はアメリカ空母の殲滅になりながら、ミッドウェー島の爆撃をも欲張ってしまっていたのである。










◎敵機!



一斉に爆弾から魚雷への転換を始める全空母。

「私はヤキモキしながら、その作業を見ていました。何しろ、敵機動部隊がわずか200カイリ(約370km)先にいるのです」と伊藤は焦る。

「先ほどの換装がなければ、とっくに攻撃隊を発進できたのに…!」と歯噛みしながら。



焦るほどに遅々として進まぬ魚雷換装。

そのジリジリと苛立つ中、「敵機!」と叫ぶ声が響く。

「見ると、左舷前方に10数機の敵の編隊が飛んでくるではありませんか! 敵は雷撃機です」

雷撃機とは魚雷を抱いた飛行機で、一発でも魚雷を受けたら空母にとって致命傷となる。



「全身に緊張と恐怖が走りました」と甲板上の伊藤。

そして祈った。「頼むぞ! 直衛機!」。



空母上空を哨戒していた直衛機は、世界最強のゼロ戦部隊。そのゼロ戦が、迫る雷撃機の群れに猟犬のように襲いかかる。

雷撃機は瞬く間に火を噴き、海へと落ちていく。わずか数分で、敵雷撃機は全機撃墜された。

「あまりの素晴らしさ、鮮やかさに、思わず甲板の整備員からも拍手が起ったほどです」と伊藤は言う。



「右舷!」

ふたたび襲うアメリカの雷撃機8機。だが、ゼロ戦は苦もなくそれらを墜としていく。後方の空母「加賀」を襲った雷撃機も同様、ゼロ戦にバタバタと墜とされていく。

「私は改めてゼロ戦の威力を見ました。いや、ゼロ戦の操縦桿を握った男たちの凄さを見ました。まさに彼らは一騎当千の強者でした」と伊藤は語る。

その2時間ほどの間、40機以上の雷撃機が空母に襲い来たが、ほぼ全機がゼロ戦により撃ち落とされ、魚雷は一発も空母には当たらなかったという。










◎ゼロ



「ドッグファイト」とアメリカ軍が呼ぶのは、空の格闘戦。互いの戦闘機が相手の後方につこうとグルグル回りながら戦う巴戦。その空戦能力において、ゼロ戦の能力は抜群であった。

当時のアメリカ軍の書類には、飛行中に任務遂行をやめて避退してよい場合として「ゼロに遭遇した時」と書かれていたほどだったという。



「ゼロ・ファイターは本当に恐ろしかった」と、ある連合軍パイロットは言う。

「ゼロは信じられないほど素早かった。まさに鬼火。ゼロとは空戦をしてはならないという命令が出されていた」

「オレたちは、ゼロに乗っている奴は『人間ではない』と思っていたよ。悪魔か、さもなれければ戦うマシーンだと思っていた。ゼロというのは『何もないという意味』じゃないか。なんと気味悪いネーミングかと思ったよ」



そんなゼロ戦の守る空母に、アメリカ軍の雷撃機は「飛んで火に入る夏の虫」。

通常、巨体で動きの遅い雷撃機は護衛として素早い戦闘機を伴うものだが、ミッドウェーで最初に襲ってきた雷撃機の群れは、そうした戦闘機を連れていなかった。それでは、まるで「番犬のいない羊の群れ」である。

それを、ゼロ戦は面白いように撃ち落としたのだった。



なぜこの時、アメリカの爆撃機は護衛を伴っていなかったのか?

それは決死の作戦だった。じつは彼らは囮(おとり)だったのである。






◎悪魔



ゼロ戦が空母上空の雷撃機をあしらっている最中も、空母の格納庫では「必死の換装」が続いていた。2時間かかってもまだ終わっていなかった。

そして、戦後になって「運命の5分間」といわれる悲劇が起こってしまう。



「その時です…! 見張り員の悲鳴のような叫びを聞いたのは」と伊藤は語る。

空には、急転直下、急降下する爆撃機が4機見える。

「もうだめだ…」

伊藤は絶望的な思いで、その悪魔のような爆撃機を見た。そして、スローモーションのように、爆撃機から爆弾が離れる様を見つめていた。



「4つの爆弾がゆっくりと笑うように降りかかって来ました。空気を切り裂くその音はまさしく『悪魔の笑い声』のようでした。おそらく、私たちの油断と驕りを嗤っていたのでしょう」と伊藤は振り返る。

続く大轟音。そして大爆発。

甲板上の伊藤は、チリように爆風に吹き飛ばされ、艦橋に叩きつけられる。その時に爆風に目をやられた伊藤は、その後飛行機乗りとしての道を絶たれることになる。



なかば気を失った中で、火に包まれた甲板がぼんやり見える。換装を終えていた飛行機が次々と燃え上がっている。コントロールを失った飛行機同士がぶつかり合い、あるものは海へと落ちる。もう滅茶苦茶である。

飛んだ火は格納庫の爆弾にも引火し、下からも大爆発の連鎖が始まる。巨大な艦をグラグラと揺らすほどの衝撃が立て続けに起こる。

右舷後方に目をやると、日本の誇る一航戦「加賀」も燃えているではないか! はるか後方にも、もう一つの巨大な火柱が見える。

「3隻の空母が、一瞬にしてやられたのです」と伊藤は言う。










◎断末魔



艦を燃やす炎は凄まじい。数10mにもなり、その煙は数100mにも達する。

その凄まじい熱は、甲板上の伊藤の靴を焼くほどで、うっかり手すりにでも触ろうものなら大ヤケドだった。

「我々は後甲板に閉じ込められたような状況で、どうしていいかわからず、呆然としているだけでした」と伊藤は言う。



その時、海上には司令部の幕僚たちの退艦する姿があった。

「内火艇に南雲長官以下、多くの士官が乗って艦を離れて行きました。私たちはそれを見てガックリきました。司令部が見捨てた『赤城』。もうおしまいだ、と」

しばらくして、伊藤は駆逐艦のタッカーに拾われ、燃え上がる空母「赤城」を後にする。



「私はタッカーから後ろを振り返って、『赤城』を眺めました。世の中にこれほどの炎があるのかと思われるほどの巨大な火の海に包まれていました。その熱は凄まじく、100m以上離れていてもその熱波を感じました」と伊藤は語る。

それでも「赤城」は沈まなかった。魚雷を受けたわけではなく、爆弾を受けだだけだったため、沈むことはなかったのである。

「だが、それはかえって断末魔の苦しみが長引く地獄のように見えました。鉄が真っ赤になり、ドロドロと溶けています。黒煙はもう上空1kmにも達していました」



同じような黒煙は、もう2つ。

「加賀」と「蒼龍」である。










◎捨て身



空母「赤城」のゼロ戦は、魚雷への換装をせずに、爆弾のままでも飛び立ってアメリカ空母を叩けばよかったのかもしれない、と伊藤は言う。

現に「赤城」ほか2隻は爆弾でやられたのだ。



この点、アメリカ軍はあきらかに必死であった。

護衛機もなしでやって来た重く遅い雷撃機。それは自殺行為であったが、ゼロ戦の目を低空に引き寄せることには成功した。

「赤城」を沈めることになる急降下爆撃機は、そのはるか上空の間隙を突いて襲ってきたのである。



だが、これも結果論だったと伊藤は言う。

「後に知ったことですが、アメリカ軍は日本の空母部隊を発見した時、とにかく一刻も早く攻撃しようと、戦闘機の配備が間に合わなかったにも関わらず、準備の整った爆撃機から順次送り込んだというのです」と伊藤は話す。

日本の空母を発見したアメリカ軍は、取るものもとりあえず大慌てで爆撃機を送って寄こしたのだという。護衛機も付けずに。



空母同士の戦いを制するのは「索敵」。それは一刻一秒を争う。それをアメリカ軍は実直に実行したのである。

一方、2時間以上も時間のかかる魚雷への換装にこだわっていた日本軍の負けは、この時点で必然であった。爆弾のままでも敵空母に打撃を与えることはできたのに。



「私は、この時のアメリカ軍の雷撃機の搭乗員たちの気持ちを考えると胸が熱くなります」と伊藤は言う。

彼らは「ゼロの怖さ」を百も承知していた。そして、護衛機をつけずに雷撃機が飛ぶということがどういうことかも。

その気持ちは、珊瑚海海戦で燃料切れを承知で味方を誘導した日本の偵察機も同様であったろう。



「アメリカ軍雷撃隊のその捨て身の攻撃が、空母を守るゼロ戦を低空に集め、急降下爆撃機の攻撃を成功に導いたのです」と伊藤は言う。

「自分たちはまず生きて帰れないだろう、と覚悟したに違いありません。にもかかわらず彼らは出撃したのです」










◎最期の華



日本の空母4隻が沈んだミッドウェー海戦。

アメリカ側の損害は「ヨークタウン」1隻。これは珊瑚海海戦で大破し、ボロボロの状態で参戦した空母だった。

日本の空母3隻があえなく燃えた後、猛将・山口多聞率いる「飛龍」ばかりは孤軍奮闘。敵の3隻の空母と渡り合い、そして「ヨークタウン」と刺し違えて沈んだのだった。



この山口多聞少将は、南雲忠一中将の「雷装変換」に激しく反対。ただちに攻撃隊を発進させることを進言した人物だった。

さらに言えば、真珠湾の時も「第三次攻撃隊」を送り、ハワイ基地を機能不全に陥れることを強く具申した人物でもあった。



この山口多聞少将、奮戦した「飛龍」とともに運命をともにする。

その搭乗員も然り。他3隻の搭乗員の多数が救助されたのに対して、最後まで戦い続けた「飛龍」の搭乗員のほとんどが亡くなっている。










一説には、ミッドウェー海戦でゼロ戦の操縦桿を握る一騎当千の猛者どもを含めた「熟練搭乗員」が多数失われ、それが日本軍の最大の痛手だったと言われている。

だが伊藤はそれを否定する。

「それは正しくありません。熟練搭乗員が大量に失われたのは、その年の秋から始まる『ガダルカナルの戦い』においてです」と。













(つづく)

→ ガダルカナルと飛行機乗り [永遠の0より]2






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「マッカーサー宣言」に見る第二次世界大戦。日本は凶悪な侵略国家だったのか?



出典:「永遠の0 (講談社文庫)」百田尚樹


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2013年05月16日

マッカーサーと日本国憲法。神話から未来へ



渡部昇一氏が、高校歴史の教科書を監修したとき、一つだけ注文をつけたそうだ。

「1951年にマッカーサーがアメリカ上院で行った証言を、どんな形でもいいから入れてほしい」と。



渡部氏のいう「マッカーサー証言」とは?

この証言をほんとんどの日本人は知らないという。

当時のマスコミは一言半句も報道しなかったし、その後もほとんどメディアに取り上げられたことがなかったからだ(あまつさえ、外交を預かる外務省の面々も知らぬと渡辺氏は苦言をていする)。



知らぬから重要でない、ということはない。

「私は、このマッカーサー証言を、日本の近代史を理解する最大のポイントだと思っている」

そう、渡辺氏は力を込めるのであった。






◎マッカーサー証言







1953年5月3日

アメリカ上院の軍事外交合同委員会

その権威ある場に、マッカーサーは立っていた。戦勝後、日本占領をになったGHQの総司令官として、彼には証言が求められていた。



日本とはいかなる国か?

そして、なぜ日本は戦争への火蓋を切ったのか?



「We closed in.(アメリカは日本を閉じ込めた) You must understand that Japan had an enormous population of nearly 80 million people, crowded into 4 islands.(日本の8,000万という膨大な人口が、4つの島々に閉じ込めれたことを、ご理解いただきたい)」

冒頭、マッカーサーは、こう言った。ここで彼は、日本がアメリカによって身動きできない状態にされたことを語っている。



「But they didn't have the basic materials.(だが、彼らは基本的な資源を持っていなかった) There is practically nothing indigenous to Japan except the silkworm.(蚕を除いて、日本にはとりわけ何の資源もなかった)」

アメリカに閉じ込められた日本、その封じ込められた島々には蚕くらいしか役に立つ資源はなくなってしまったという。

「They lack cotton, they lack wool, they lack petroleum products, they lack tin, they lack rubber, they lack a great many other things, all of which was in Asiatic basin.(日本には綿がなく、羊毛がなく、石油製品がなく、スズがなく、ゴムがなく、そのほか多くの資源が欠乏していた。それらすべてはアジア海域に存在していたのだ)」



「They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan.(資源の供給を絶たれてしまうと、1,000万から1,200万人の失業者が生まれてしまう。そんな恐怖が日本にはあった)」

さあ、次の文言こそが、渡部昇一氏が力コブを込めることろである。

「Their purpose, therefore in going to war was largely dictated by security.(したがって、日本が戦争をはじめた目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだった)」






◎侵略か? 自衛か?



かつて、日本の教科書検定では「侵略」を「進出」に書き換えさせたといって、中国や韓国は猛烈抗議をしたことがあった(1982年。のちに誤報と判明)。

だが、マッカーサーの正式な証言において、彼は日本が「侵略」のために戦争を始めたとは一言一句も語っていない。



むしろ、その真逆のことを証言している。「安全保障(security)」、要するに「自衛のため」に戦争に踏み切らざるを得なかったのだ、と。

マッカーサーが、「日本は閉じ込められたいた」ということを冒頭で言い置いたのは、あたかも最後の「必要に迫られて(dictated)」という言を強調するためでもあるかのように思える。

この「dictated」という単語に自発的な意味はない。命令されて、要求されてなど、その原因が外にあることを示唆する(ディクテイターとは、ローマ帝国の独裁官のことである)。



「老兵は死なず、ただ去るのみ(Old soldiers never die, they just fade away)」

そう言って現役を退いたマッカーサー、その引退後に「マッカーサー証言」は行われている。だが、アメリカ軍において元帥の位に引退の制度が存在しないため、彼の籍は生涯を通して現役の元帥だった。

だから、マッカーサーの証言のすべてが公式文書として記録された(ニューヨーク・タイムズ紙にも記事として掲載)。それはすなわち、アメリカ側の公式見解ということである。

日本が自衛(security)のために戦争せざるを得なかった、ということが。










◎東條英機



これはまったく皮肉なことだった。

日本をつぶさに見て、そして日本を去ったマッカーサーは、結局、東京裁判でA旧戦犯と裁いた東條英機と同じ証言をすることになったのだから。



「勝者の裁き」と揶揄される東京裁判にあって、敗者である東條英機は頑なであった。

「この戦争は侵略戦争ではなく『自衛戦争』であり、国際法に違反しない」

その主張を一貫して曲げなかった。



だが悲しいかな、この東京裁判自体が国際法に則ったものではなかった。

「国際法にも何にも拠らず、マッカーサーの一存で行い、マッカーサー条例なるものに基づいていた(渡部昇一)」



法に則り理路整然としていた東條英機。自己弁護は一切行わず、敗戦の責任は自らが負うと明言していた。

「開戦の責任は自分にのみある」

その言った東條英機は、戦争責任を追求されていた昭和天皇を守るために必死であった。



1948年11月12日、判決は下った。

「真珠湾を不法攻撃し、アメリカ人と一般人を殺害した罪」

東條英機、絞首刑



そして12月23日、死刑執行。

この日が、当時の皇太子、今の天皇の誕生日であったことは偶然か…



浄土真宗に深く帰依していたという東條英機。

「いま、アメリカは仏法がないと思うが、これが因縁となって、この人の国にも仏法が伝わってゆくかと思うと、これもまたありがたいことと思うようになった」と相手の仏縁を念じ、絞首台に進んで立ったという。

「さらばなり 有為の奥山けふ越えて 彌陀のみもとに 行くぞうれしき」










◎中国と韓国



死んだ老兵に、死ななかった老兵。

東條英機にマッカーサー。

「自衛」という一点で、奇しくも邂逅した両者。



だが、現在の日本の教科書に、その記載は一切ない。

渡部昇一氏が唯一の注文として切望していた「マッカーサー証言」はキレイに削除されていた。

しっかりした歴史観と歴史認識をもっていた教科書執筆者たちは、渡辺氏の注文を受け入れてくれていた。だが、教科書の検定官が難癖をつけた。「マッカーサー証言を削らなければ、検定は通せない」と。



ここに見られるのは、日米関係への配慮ではなく、中国・韓国への気回しである。

かつて、教科書の「侵略」の文字が消されたと中韓が騒いだとき、時の首相・鈴木善幸氏には、中国を訪問する予定が入っていた。

このままではいかんと、時の官房長官・宮沢喜一氏は、教科書作成にあたっては近隣諸国(主に中韓)の国民感情に配慮するという趣旨の談話を発表。



それが、いわゆる「近隣諸国条項」。

日本の歴史教科書の編集権を、中国人や韓国人に委ねるというものである。

すなわちこの時、日本は教科書づくりの主体性を放棄したのであった。



このときの消極的な姿勢は、今の内閣にもそのまま受け継がれており、近隣諸国条項には手が触れられていない。

ゆえに、日本の教科書における歴史観には、つねに近隣諸国(主に中韓)のバイアス(歪み)がかかり続けているのである。

アメリカの公式見解であるマッカーサー証言すら容れられないのであれば、従軍慰安婦などはタブー中のタブーとならざるを得ない。そこに歴史学者の入るスキなどない。










◎日本国憲法



それは日本国憲法しかり。ここにも日本の主体性は見られない。

「いまの日本国憲法は、国民の安全から生存さえも、諸国を信頼して委ねるという前文は、独立国の憲法としては実に奇妙である」と渡辺氏は言う。

「なぜなら、いま憲法といわれているものは憲法ではなく、占領基本法というのが正確だからだ(同氏)」



「平和憲法」という美名の裏には、日本の武装解除という現実的な目的があった。独立国家ならばどの国もがもつ当然の権利「戦争」、その爪を占領下の日本からは剥がす必要があった。

アメリカが占領統治を円滑に行うために定めた法。それが、いま日本国憲法と呼ばれるものである。つまり、それは「付け焼刃」のようなものであった。



あるアメリカの研究者が明らかにしたところによると、日本国憲法の前文は、米国憲法をはじめ、ゲティスバーグ演説(リンカーン)、独立宣言などを「糊とハサミでつないだものに過ぎない」という。

それも致し方ない。占領下で国家主権のなかった日本に、憲法制定など認められようもなかった。



国立公文書館には、当時の日本国憲法の原本が残されているが、それは一国の憲法とは思えないほどに哀れなものである。

天皇の御璽の押された紙は、まるでワラ半紙。昔の小学校で配られるプリントのようにくすんだ色で、しかも裏が透けるほどに薄い。

さらに、筆で清書されずに、ワープロ文字を両面印刷しただけの憲法条文がホッチキスで止められている。そこに格式はまったく感じられない。







一方、それまでの憲法であった「明治憲法(大日本帝国憲法)」の原本は、畏れ多くもじつに格調高い。

一文字一文字、丁寧に記された条文は、じつに美しい。当然、用いられた紙も然るべき上等なものである。



臣民ハ此ノ憲法ニ對シ永遠ニ從順ノ義務ヲ負フヘシ

睦仁 御璽

明治二十二年二月十一日



内閣総理大臣伯爵 黒田清隆
枢密院議長伯爵 伊藤博文
外務大臣伯爵 大隈重信
海軍大臣伯爵 西郷従道
農商務大臣伯爵 井上馨
司法大臣伯爵 山田顕義
大蔵大臣兼内務大臣伯爵 松方正義
陸軍大臣伯爵 大山巌
文部大臣子爵 森有礼
逓信大臣子爵 榎本武揚



大日本帝国憲法
第一章 天皇
第一條 大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第二條 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ繼承ス
第三條 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第四條 天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總覽(木偏)シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ
第五條 天皇ハ帝國議會ノ協贊ヲ以テ立(次ページヘ)










◎明治憲法



人によっては、明治憲法の復活を声高に叫ぶ人もいる。

それは極論だとはいえ、明治憲法というものを知ることは有益である。その中には、先人たちの智慧が結晶している。



頼りにならない徳川幕府をひっくり返し、「王政復古の大号令」を成した明治維新。

「王政復古」というのは、2,600年前の神武天皇の理想にまで戻すという壮大なる発想。260年程度の幕府など物の数ではなかった。



だが、明治新政府にはまだ、憲法がなかった。

自由民権運動により、日増しに高まる憲法議論。明治十四年の政変(大隈重信)を経て、ようやく明治政府は明治22年に憲法を制定することを国民に約束する。



そして動いた伊藤博文。ドイツに向かった。時の政府は大隈のいうイギリス型よりも、ドイツ型のほうが相応しいと考えたのだった。

外に範を求める一方、井上毅(こわし)は日本の歴史を遡っていった。それこそ、古事記・日本書紀、日本創世の2,600年の昔にまで時を戻して。



外の伊藤に、内の井上。

その折衝には、折り合わぬ部分も出てくる。

だが結果的には、井上の日本の伝統のほうが優先され、明治憲法は作られていくことになる。










◎天壌無窮の神勅



日本書紀には「天壌無窮の神勅(しんちょく)」という一文がある。

「豊葦原の千五百秋の瑞穂の國は、これ吾が子孫の王たるべき地なり。爾(いまし)皇孫(すめみま)、就きて治らせ。行矣(さきくませ)。寶祚(あまつひつぎ)の隆えまさむこと、まさに『天壤と窮まりなかるべし』」



「天壌(てんじょう)」とは「天地」のこと、「無窮(むきゅう)」とは「極まりがないこと」。

すなわち「天壌無窮」とは、「天地の尽きぬさま」を表しており、それはそのまま皇孫(天皇家)の繁栄に重ねられているのである。



「神勅(しんちょく)」とは、神の命令、具体的には天照大御神(アマテラス)が、その孫の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を、高天原から日本へと送り出す時に出された命令のことである。

「(日本に)就きて治らせ」というのが、その神勅である。



「治らす(しらす)」というのは、その読み通り「知る」がその語源であり、それは統治するというよりも、民の心を知ることに主点が置かれている。

明治憲法では最終的に「統治ス」との表現に落ち着くことになるのだが、井上毅が最後の最後まで「治ス」という表現にこだわっていた因はここにある。



「天壌無窮の神勅」以来、天照大御神の子孫である天皇家は、天下の民が困窮しないようにする義務を負った。

そして、それは神武天皇以来、万世一系125代に渡り、現在にもつながる日本の背骨となっている。



この神勅のもと、国民はみな「臣」。内閣総理大臣もまた「臣」。これは現行の日本国憲法でも変わらず、総理大臣の任命は今でも天皇が行うこととなっている。

かつて井上毅が、日本の歴史・伝統を明治憲法に織り込もうとしたのは、その思考こそが日本という国を支える背骨に他ならぬ、と考えたからである。

だから「万世一系」という表現にもこだわった。ドイツ人の法律顧問、ロスフェラーに異議を唱えられ、「開闢以来一系」にしろと言われても、井上は頑として譲らなかった。










◎万世一系



日本の「万世一系」という思想は、南北朝時代の「神皇正統記(北畠親房著)」により強化された。

「大日本は、神の國なり。天祖はじめて基を開き、日神長く統を伝えたまふ。我が國のみ此の事あり。異朝には其の類なし」

「継体違わずして唯一種ましますこと、天竺にもその類なし」



日本以外の中国、インドなど近隣の偉大な国々でさえ、一つの朝廷が続くというためしがなかった。

絶対的だった秦の始皇帝は「万世無窮」という勅語を発したが、そのわずか15年後に崩壊している。中国もインドも、「一種を定むることなし。乱世になるままに、力をもって国を争う」。それが常であった。

民間から皇帝が出ることもあれば、夷狄に国を支配されることもあった中国。臣下が皇帝を弑することさえあった。

「乱の甚だしさ、云うに足らざるものをや」



ところが、日本ばかりは天皇家一系が脈々とつながっていた(たとえ幾多の乱を経ようとも)。

「唯わが国のみ、天地開けし始より今の世の今日に至るまで、日嗣を受けたもふこと邪ならず。余国に異なるべきいはれなり」



そして、北畠親房はこう言う。

「根元を知らざれば、みだりがはしき端とも成りぬべし」

日本には天皇家という背骨に連なる、天照大御神という根元があるからこそ、国は栄えることができているのだ、と言うのである。



すなわち、万世一系、そのことが2,600年の繁栄の根っこであると、北畠親房は言っている(当時は1,900年ほどの歴史だったが)。

この考えは、江戸時代、水戸学の祖といわれる会沢正志斎が著した「新論」の中にも同様に見られるもので、それは明治維新を成した幕末の志士たちに多大なる影響を与えた思想でもある。










◎背骨



明治憲法には、井上毅らによってそうした背骨が埋め込まれた。

憲法制定にあたっては、枢密院会議というものが何度も開かれ、毎回火花を散らす大激戦が繰り広げられたことが議事録からも読み取れる。だが結局、古事記・日本書紀に端を発する「天壌無窮の神勅」、そして「万世一系」という思想は認められたのであった。



その第一章、第一條がまさにそれである。

大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス



明治天皇は、枢密院会議の席に座り、じっと耳を傾けておられたという。

その審議の途中、明治天皇は親王が亡くなられたという知らせを受けたことがあった。

それでも、明治天皇は会議を中断させることはなかったという。かほどに、明治天皇が新憲法にかける想いは強かったのである。



そのビリビリとした緊張感は、現在に残された大日本帝国憲法の原本にも、いまだ色褪せずに残されている。

芸術の域にある美しき筆文字で綴られたその原本を前にしては、日本人の頭は垂れざるを得ない。そして、姿勢を正さざるを得ない。










◎GHQ



ところが戦後、この誇り高き明治憲法は、アメリカの占領軍GHQによって無下にも一蹴された。

「悪の元凶」、軍国主義の源であると断罪されたのである。



そして即席で作られた新憲法、いわゆる「日本国憲法」。

そこには、日本の背骨が抜き取られた上で、アメリカの理想が上書きされていた。武力という筋肉も与えられぬままに。



アメリカの理想には、必ず武力が必要とされる。いわば、その理想は武力に裏打ちされているのである。

だが、2,600年の日本の歴史において、武力は盛者必衰、諸行無常の一因にしかなってこなかった。第二次世界大戦で日本軍が敗れたことも、またその一つ。

絶対的な武力を必要とするアメリカの理想。一方、日本の古来より受け継いできた理念は、確かな背骨を正すことにあった。



だが敗戦国に口はない。

武力という筋肉なきまま、事実上背骨を抜かれ、理想ばかりを手渡された日本。ワラ半紙にプリントされた新憲法を。

それを戦後60年以上、日本国民は健気にも守り続けている。当時の憲法制定に携わったアメリカ人が「まだ、あれを守っていたのか?」と驚くほどに。






◎改憲論



日本国憲法に掲げられた理想は、じつに素晴らしい。

もし、それが武力なしにでも成されるのであれば。



だが、どうしてもより現実的な人々には、それが空論に映ってしまう。

どうやら現今の世界には、まだまだヤクザ者たちが蠢いているようである。そこに丸腰で立ち入るのは、よほどの勇か、世を知らぬだけの匹夫の勇。

ゆえに議論も必要だ、と言う。



しかし、それは国内外から、あらん限りの野次を招き寄せる。

もし、2,600年来の日本の国体である天皇制を正そうとすれば、軍国主義への逆戻りと叱責を受ける。

また、靖国神社を参ろうとすれば、中韓が黙っちゃいない。そこには東條英機らA級戦犯が祀られているではないか!



盛者必衰の理を知るはずの日本人は、武力の儚さも知っている。

たとえ今、どんなにアメリカが強大であろうとも、それは1,000年の業とは思えない。たとえ次に中国が立とうとも、かの国の歴史ほど脆いものはない。

武力よりも大切なものはあるはずだ、そんな想いは日本人の心に深い。



戦後の日本を見たアメリカは、東京裁判で日本を「悪」と断じ、その悪の根源を日本の歴史に見た。忠臣・楠木正成に、そして天皇に。

ゆえに万世一系の天皇家を廃そうとした。だが、命をかけても東條英機は、その矢面に立った。そして死んだ。

辛くも天皇制は守られたが、その意気を示していた憲法ばかりは失った。



世界の見る目は、いまだ日本を第二次世界大戦の中に閉じ込めている。

古の日本に戻ろうとする動きは、すべて左翼思想(軍国主義)だと警戒されてしまう。2,600年の深すぎる教えは、その底が理解されうべくもない。

現・安倍首相の一挙手一投足は、そうした監視を常に受けているようなものである。その改憲への動きは、取りも直さず軍国主義の復活だと信じられている。










◎神話



「神話を教えなくなった民族は、100年続かない」

これは、世界中の民族の歴史をつぶさに研究した歴史学者、アーノルド・トインビーの言葉である。

不幸にも、日本民族が子どもたちに神話を教えなくなってから60年以上が経つ。戦後のアメリカが、占領下の日本で日本書紀や天皇などの建国神話を「危険思想」として教えることを禁じてから、ずっとである。



さらに、日本は歴史の教科書の記述の一部を、中国や韓国に委ねたままでもあり、その主体性はいまだない(近隣諸国条項)。

これは世界でも稀有の例である。自国の建国の歴史を教えない国など、世界にほとんどない。ましてや、他国の干渉を甘受する国など。



だが、そうした考えは、すべて「危険だ」と退けられてしまうのが、今の日本の世界における立ち位置である。

日本の歴史は1945年にプッツリと切断され、その根っこのないままに、新たな時代を築くことを強いられているかのようである。










◎大和魂



「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」

これは、幕末に処刑された吉田松陰の辞世の句である。

処刑を前に、彼は目をつむり、「神勅、相違なければ日本は未だ亡びず」と静かにつぶやいたという。



「死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし

 生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし」

こうした吉田松陰の言葉は、とらえようによっては「危険な香り」も漂ってくる。だが、彼の留め置こうとした大和魂とは、もっとずっと底の深いものであったろう。







剣を抜くのは、いつか収めるためであろう。

だが、第二次世界大戦の日本は、たとえ「自衛のため(by security)」に剣を抜いたとはいえ、その収める鞘を失っていた。

ゆえに、完全に追い詰められてしまった日本は、窮鼠のごとく歯を剥き出すしかなかった。



それは危険極まりない。その牙を抜こうとしたアメリカにも、理は十分にある。それは中韓しかり。

だが、戦時の日本は、大和魂の一端が棘(とげ)のように飛び出てしまったものに過ぎず、その本質ではなかっただろう。吉田松陰があれほど苛烈であったのもまた、その本懐を守るためのものであったのだろう。

もし米中韓、そして日本にもそれぞれに理があるのならば、いたずらにスケープゴート(生け贄)を求めることには何の益もない。ただ、問題を表面的にしてしまうだけである。






◎洞



そして、時は流れた。

世代は大きく入れ替わった。

大和魂がどうなったのかは、定かではない。



これからの未来を見通そうとした時、その目を遠くへ馳せれば馳せるほど、それと同じくらい古い歴史も見ておかなければならない。

1,000年先を想うのであれば、1,000年の過去も必要となる。歴史は大樹の根っこのようなものであり、まだ見ぬこれからの枝葉は、地中の根冠以上には茂らない。もし、それ以上に茂るのであれば、その枝先は枯れるばかりである。



戦後の日本が、その幹の一部を枯らしてしまっているとしたら、それは大樹の洞(うろ)となる。

1,000年の樹木は、たとえ幹の芯を枯らしたとしても、その周りに新たな樹皮を重ねながら成長を続けていく。その結果、中心部分が洞窟のようにポッカリと空いたようになる。それが洞(うろ)である。

そしてこの洞は、森の生物・生命のゆりかごとなる。その内に小動物や小鳥たちを匿うのである。



もし、現代の日本という幹に空洞が空いているのならば、それも良し。

生命力のある限り、その洞を覆うように幹はますます太くなろう。

長い歴史をもつ大樹ほど、まことに見事な洞を持つものである。



朽ちた幹とて、決して無駄にはならない。

それは一旦は地中に没すも、いずれは再び、新たな幹を通って空へと向かうのだから…!







(了)






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出典:致知2013年6月号
「歴史の教訓 渡部昇一」

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2012年09月19日

世界に「日本人」を示した男。新渡戸稲造


「新渡戸くん、6,000億円かかった大芝居だ。一つ見物しに行こうではないか」

まるで芝居小屋にでも行くかのように新渡戸稲造を誘ったのは、後藤新平。彼の言う「6,000億円かかった大芝居」というのは第一次世界大戦のこと。そして、その行く先は海のかなた、ヨーロッパである。

時は大正8年(1919)、第一次世界大戦が終わって間もない頃であった。アメリカを回ってからフランス・パリについた一行。ここでちょっとした事件が起こる。そして、それは新渡戸稲造の将来を決定づけることともなるのだが…。



◎国連事務次長の任


パリの日本大使館、そこでは頭を抱える西園寺公望や牧野伸顕の姿があった。

「語学が堪能で、見識を備え、人格も素晴らしく、欧米人のなかで仕事をしても遜色のない人物…。そんな人物が、どこかにいないものか…?」

第一次世界大戦に途中から参戦した日本は、棚ボタ的に「戦勝国」となっていた。そのため、新たに誕生した国際連盟の「事務次長の割り当て」が来ていたのだ。しかし、お偉方たちが頭を悩ますように、その「人物」の見当がつかずにいた。



そんなところへ、フラリと現れた新渡戸稲造。その姿をみとめた牧野は小さく叫んだ。「あぁ、適任者がやって来た…」

こうして、あれよあれよと新渡戸は「国連事務次長」の席に就くこととなった。

「まったく思いがけなく、また求めずして、事務次長の一人に任命されました。自分に手腕があろうとは思いませんが…」と、当時の新渡戸の書簡には記されている。



◎ジュネーブの星


当時の日本は、中国に対して「対華二十一カ条要求」を突きつけていたこともあり、ヨーロッパでは「好戦的で野蛮」との風評が立っていた。その強い風当たりは、国連の事務次長となった新渡戸の横っ面にも、もちろん吹きつけた。

そんな風の中に置かれても、「なぁに、損しても良い。馬鹿を見ても構わぬ」と新渡戸は覚悟を決めていたとのことである。



そして数年後、クリスマスのパーティで連盟職員が数百名も集まった会場で、一つの余興が行われた。それは、「このジュネーブ(国際連盟)で、最も人気のある人物を順に3人挙げよ」という一種の人気投票であった。

その集計の結果は…、なんと全員が全員、「Inazo Nitobe(新渡戸稲造)」をナンバー・ワンと書いているではないか! 2位と3位は皆バラバラの人物を挙げているのに、新渡戸の一位ばかりは全員が一致していたのである。

就任当時の下馬評はどこへやら、わずか数年で、新渡戸は最高の評価を手にしていたことになる。



「ジュネーブ(国際連盟)の星」という呼び名は、そうした新渡戸を讃えたものである。

世界が西洋を中心に回り、日本がまだ「劣等国」とみなされていた、その時代にあって…。



◎騎士道と武士道


事務次長としての新渡戸の功績は少なからぬものがある。たとえば、ユネスコの前身となる知的教育委員会を立ち上げ、アインシュタインやキュリー夫人らを引っ張ってきたのは彼であるし、オーランド諸島の帰属問題(スウェーデン・フィンランド)に平和的解決をもたらしたのも彼である。

しかし、それ以上の功績は、世界に「日本人」を示したことであった。彼自身、そのことを「to do」よりも「to be」と表現している。

新渡戸を見るまで、西洋の人々は日本人を始めとした東洋人を「数段下等の民族」と決めつけていた。ところが、新渡戸の「紳士ぶり」はどうか。彼が下等な民族なのか? 新渡戸は紳士の多い西洋にあっても、「紳士中の紳士」だったのである。ゆえに、ともに働いた連盟職員たちも、その評価を180°変えざるを得なかったのだ。



若き日の新渡戸は、札幌農学校の机についていた。札幌農学校といえば「クラーク博士」。クラーク博士の言葉として「少年よ、大志を抱け」というものばかりが有名だが、彼が常に諭していたのは「Be Gentleman(紳士たれ)」ということである。

そうした「西洋の精神」に加え、新渡戸の心には「武士の魂」も宿っていた。盛岡藩に生を受けた新渡戸は、「生粋の武士」であったという叔父・太田時敏の手元で育てられ、武士としての心構え、そして所作を叩き込まれていたのである。



西洋の騎士道、日本の武士道、その二つを併せ持っていた人物。それが新渡戸稲造だった。

そして、その両翼の思想を根底から理解した上で著した書物が「Bushido(武士道)」であり、この書をもって、世界は初めて「日本人」を知ったのである。

その武士道を世界で体現してみせた新渡戸、まさにその存在「to be」こそが、彼の放つ魅力だったのだ。





◎便所の小窓から世界へ


幼い新渡戸の暮らした盛岡藩は、徳川幕府への忠節を最後の最後まで貫いた。しかし、明治新政府に敗れた。その頃7歳だっという新渡戸は、「我がモノ顔で市中を闊歩する新政府軍の兵士を、便所の小窓から恐る恐る眺めていた」という。

世界に扉を開いた明治新政府は、皮肉にも「便所の小窓から恐る恐る眺めていた」新渡戸少年のように、欧米列強に対しては「卑屈」であった。日本的なものを「古臭い」と恥じるような自虐的なところがあったのだ。



そんな情けない日本を見ていた新渡戸は、決然とこう言い放つ。「太平洋の架け橋となる」と。この言葉は、新渡戸が東京大学に入るための面接で、外山正一教授に「なぜ英文学を学ぶのか」と問われたことに対する答えであった。「日本の長所を西洋に紹介したい」という熱い想いが新渡戸の心中に渦巻いていたのである。

ところが、日本で最高学府であった東京大学ですら、新渡戸を満足させることができなかった。「やはり、西洋で学ぶしかない」と思い極めた新渡戸は、アメリカへと飛び出す。ちなみに、この時の費用を用立ててくれたのは、生粋の武士かつ叔父の太田時敏である。

アメリカの地では、アレゲニー大学(ペンシルベニア州)、ジョンズ・ホプキンズ大学(メリーランド州)を転々とし、3年後に帰国する。そして今度は、ヨーロッパ・ドイツに。ボン大学、ベルリン大学にて学びを深めることになる。



◎太平洋の架け橋

古今東西の知識を貪欲に吸収した新渡戸にとって、初の国際的な舞台となったのは、険悪化していた日米間の調停であった(1911)。当時のアメリカでは、日露戦争に勝利した日本の大国化が懸念されており、激しい「排日運動」が日夜繰り広げれていた。

日米の関係悪化を心配した新渡戸は、「太平洋の架け橋」となるべく排日激しい火中へと飛び込んでいた。



アメリカの排日運動の根底にあるのは、「日本への無理解」であると考えた新渡戸。日本は決して「好戦的」でもなければ、「野蛮」でもない。その想いを伝えるため、彼は合計66回もの公演を全米各地の大学で行った。

この想いが伝わったのか、すでに提出されていた「排日移民法案(外国人の移民を厳しく規制する法案)」は「廃案」となり、日米両国の関係はひとまず沈静化することになった。



当時のアメリカの新聞は、こうした新渡戸の活動に敬意を表し、「ミカドの遣わした平和の使節」と彼を称えている。

当の新渡戸も、「これで多少はお国のためになった…」と随行していた鶴見祐輔に漏らしている。

新渡戸は明らかに「太平洋の架け橋」となっていた。この8年後、新渡戸は国際連盟の事務次長に就任することになる。



◎苦言


事務次長としての責務、8年間を果たし終えた新渡戸は、66歳にして懐かしの日本へと帰ってくる。

ところが、その日本の世情はまことに穏やかではない。新渡戸には、お国がどこか悪い方向へと進んでいるように思えて仕方がなかった。そんな新渡戸の愛国心から、こんな言葉が漏れてしまう。「日本を滅ぼすものは共産党か軍閥である。そのどちらが怖いかといえば軍閥である」。



オフレコであったはずのこの言葉は、翌日の新聞にデカデカと掲載されてしまい、容赦のない執拗な追及が新渡戸を襲うこととなった(松山事件)。「新渡戸氏の奇っ怪な発言」、「カブトを脱いだ新渡戸博士」などと書き上げられ、ひどいものでは「新渡戸氏の自決をうながす」などというものまであった。

不幸にして、日本という国家はこの後、泥沼の戦争(第二次世界大戦)に突入していくのだが…。とりあえず、この場にあっては新渡戸氏が頭を下げるより他になかった。



「上司の不興を買い、群衆の怒りを招くのは、私の家の伝統なのです」と、新渡戸は「編集余録」に書いている。「私の曽祖父は、封建領主と意見をあえて異にしたカドで、追放に処せられた。私の祖父は、維新戦争では負けた賊軍側であり、幾度脅迫を受けたか知れぬ。私の父は、いわゆる蟄居閉門中に死んだ」

それでも新渡戸は、これら三代の祖父たちすべてが「政治的な罪」にすぎず、それは「名誉」なことであると心得ていた。



◎ふたたびの渡米


日本の世論が戦争へと傾くにしたがって、一時は沈静化していた日米関係も再び悪化をはじめる。アメリカで一時は廃案となっていた「排日移民法」が再び息を吹き返して、施行に至っていた。日本は日本で、アメリカの望まぬ「満州建国」を断行し、その国内では犬養毅首相の暗殺(515事件)などの社会不安が高まっていた。

「国を思ひ、世を憂うればこそ何事も、忍ぶ心は神ぞ知るらん」

この憂国の歌とともに、新渡戸はふたたびアメリカに飛んでいった(1932)。



前回の成功裡に終わった渡米からは20年以上が経っていた。そしてその間、アメリカの世論はますます日本に対して厳しいものとなっており、その反対に中国に対してアメリカはすこぶる好意的になっていた。

もはや、新渡戸の言で世論が覆るような状況ではなかったのである。新渡戸は傷心のままに、アメリカの地をあとにすることになる…(1933)。

そして、新渡戸が帰国したわずか3日後、新渡戸の心の傷には無情にも別の爪が立てられた。なんと、日本が国際連盟を「脱退」してしまったのである。あれほど、新渡戸が尽力して名声を上げていた国際連盟を…。



◎愛国心


たまらず、新渡戸はまた日本から飛んだ。

カナダで開催された第5回太平洋会議で「国際平和」を訴えるためであった。この時、新渡戸稲造77歳。もはや、彼に残された時間はほとんどなかった。

この最期の訴えを終えると、新渡戸は静かに息を引き取った…。



その後の歴史を、我々は痛いほど知っている。

「偏狭な愛国心」による争いに、世界はヒタ走ったのである。わが日本においては、新渡戸の恐れた軍閥が日本の行く末を決めてしまったのである。



日本の武士が最も大切な倫理観、それは「忠」であったと新渡戸は著書「武士道」に記している。

しかし、その「忠」は「義と勇」に裏打ちされたものでなければならない。「義」というのは己の心の内に感じるものであり、「勇」とはその心にしたがう決断である。日本の武士は「忠」であるために、時にはあえて主君に諫言もした。それは自らの「義」による「勇」である。そして、その時には必ず「死」を覚悟した。その諫言が受け入れられなかった時に、「忠」を貫き通すために…。

これはまさに、まさに新渡戸稲造が「to be」として示したものではあるまいか。



国家間の諍(いさか)いというのは、いまだ古臭い話ではなく、古くも新しい問題である。

その解決の道を探るときに、その道標となるのは、新渡戸稲造その人ではあるまいか。

本当の「星」となった新渡戸。その星はあたかも不動であるかのように、確かな方向を向き続けている…。







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出典:歴史街道 2012年 09月号
「特集:新渡戸稲造」

posted by 四代目 at 07:42| Comment(0) | 第二次世界大戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月27日

終戦のまさにその日まで、大空襲に曝されていた日本列島。


時は第二次世界大戦、最末期。それは終戦の年(1945)である。

日本軍には勝ち目がないどころか、戦闘余力も怪しくなりつつある中、アメリカ軍ばかりが元気一杯で、日本本土に対する「空襲」を盛んに繰り返していた。

日本国内の主要都市は言わずもがな、地方都市でさえ、空爆を受けなかった都市を数える方が早いほどに、ありとあらゆる都市に焼夷弾の雨が降り注いでいた。




当時、まだ少年だった神倉稔氏は、その時「横浜」にいた。

「横浜大空襲」は、5月29日の白昼堂々おこなわれた攻撃であり、横浜の中心市街地の97%が焼失。犠牲者は8000人とも一万人とも言われている。



その狂奔の中、母親に手を引かれた神倉少年は、避難先の小学校へと真っしぐらに駆けていた。

逃げ惑う大勢の人々が押し合いヘシ合い、燃え狂う炎が背に迫り、「進め!進め!」とそこら中から怒声・罵声が嵐のように上がっていた。



その人の波に揉まれるように、神倉少年は小学校の音楽室へと押しやられた。

そこまで来て、彼はふと気づく。「あれ、お母さんがいない」。

しかし、戻ることなど到底かなうはずもない。ただただ大声で「お母さん!お母さんっ!」と叫ぶばかり。その声も、喧騒の中に掻き消され…。



母子が離れ離れになったのは、たいへんに不幸なことであったが、神倉少年個人の命にとっては、皮肉にも幸いしてしまった。

それが、母子今生の別れとなり、神倉少年ばかりが生をつなぐこととなったのだ…。

激しい炎をのせた旋風が音楽室の窓を砕き、その狂った炎が教室全体へと燃え広がる最中、神倉少年はその割れた窓から思い切って校庭へと飛び出し、九死に一生を得たのである。



この5月29日に横浜で起こった大惨劇は、アメリカ軍によって「Excellent(優秀)」と評された。

その成果は、終戦後、横浜の焼け野原とともにアメリカ軍がしっかりと撮影している。爆撃機「B29」は、横浜の中心市街地の97%を焼失させるという大成功を収めたのである。

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この横浜大空襲が計画されたのは、その実行に先立つこと2年前。

その緻密な計画は、のちの人々を驚かせた。なんと、アメリカ軍が「焼夷地区(火災で燃やすのに適した地区)」としていたのは、軍需施設が集まる海岸地区ではなかったのだ。

「焼夷地区」と指定されていたのは、神倉少年が暮らしていたような「木造住宅が密集する市街地」ばかりであった。



すなわち、アメリカ軍は「市民が暮らす街をどう燃やすか」を入念に計画していたのである。

横浜市民は「空襲に巻き込まれた」のではなく、明らかに「標的とされていた」のである。

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そして、空襲に用いられた焼夷弾も、日本の住宅家屋を効率良く破壊・炎上させるために「最適化」された専用の爆弾であった。

なぜなら、通常の焼夷弾では、破壊できる家屋は「爆風の及ぶ範囲」に限定されてしまい、その被害は「散発的なもの」としかならなかったからである。



それに対して、新たに設計された焼夷弾は、日本家屋の瓦屋根を貫通できるように設計されており、内部から火災を起こさせる確率が大きく高められていた。

アメリカ軍は入念にも、日本家屋を再現した実験場まで作って、大規模な延焼実験まで行っている。その家屋にはハワイから取り寄せられた「畳」までが敷かれていたという。



関東大震災の被害実態をつぶさに検証したアメリカ軍は、日本の人口密集地域が、火災に対して極めて脆弱であることを突き止めていた。

そして、空襲の被害を最大化させるために、その目標地区として木造の住宅街を選定し、より広範な火災を起こさせるように計画していたのである。

その計画通り、「東京大空襲における被害地域・規模は、関東大震災の延焼地域とほぼ一致」しており、その成果は大震災をはるかに上回るものとなっている。



横浜大空襲(5月29日)に先立つこと、およそ2ヶ月前、東京大空襲は3月10日に行われた。

アメリカ軍の選んだ3月10日という日は、冬の季節風が強く吹く、延焼効果のより高い日でもあった。その計算通り、大空襲の炎の煙は高度1万5000mの成層圏まで達し、地上では秒速100m以上という竜巻並みの焼ける暴風が吹き荒れた。

このたった一夜にして、10万人の命が吹き飛び、東京の半分以上はブッ壊れてしまっている。日本側の甚大な被害に対して、アメリカ軍の損害は、撃墜・墜落が12機、爆破が42機と、極めて小さなものに抑えられた。

それが、東京大空襲の成果をアメリカ軍が「Excellent(優秀)」と評価する所以である(横浜大空襲と同様に)。

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結局は民間家屋を破壊し尽くしたアメリカ軍の空襲ではあるが、元々の計画では住宅街を標的とするものではなく、軍需工場や精油所などの施設のみを攻撃する計画であった。

いくら時代が時代とはいえ、非戦闘員である一般人を巻き込む「無差別爆撃」は、人道上、多大なる問題があったのである。



ところが、その計画は一変してしまう。

それは、人事の変更が大きなキッカケであった。1945年1月21日に交代した「カーチス・E・ルメイ」氏が、大規模な「無差別攻撃」へと切り替えたのだ。

爆撃の効果を高めるために「低空飛行」を命じたルメイ氏、その危険にパイロットが難色を示すと、葉巻を噛みちぎって「何でもいいから、低く飛ぶんだ」と厳命した。




空襲後の東京を部下にスケッチさせたルメイ氏、さも満足げにそのスケッチを眺めてながら、つぶやいた。「この空襲は、天皇すら予想できぬ」

日本の主要都市で空襲が計画されたのは、およそ180。そして、その3分の1の60都市でその計画が実行に移されている。終戦間際の7月・8月などは、3日と空かずに、必ずどこかに爆弾が落とされていたほどである。

※8月1日の深夜に行われた水戸・八王子・長岡・富山に対する一斉空襲は、司令官のルメイ氏の昇進を祝うもので、戦略上は「特に意味のない作戦」といわれている。それでも、富山の被害は地方都市としては最大であった(広島・長崎を除く)。

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アメリカ軍による無差別爆撃は、日本がポツダム宣言(降伏)を受け入れる意向を連合国側に伝えた8月10日以降も、止むことはなかった。トルーマン大統領は8月11日に空襲停止命令を出したというのだが…。

8月15日ギリギリまで空襲は続いた。それは、日本側が「グズグズしていたからだ」と、アメリカ側は自身の攻撃を正当化している。

小さな都市まで含めれば、200以上の都市が被災し、日本全体の被害は死者33万人、負傷者43万人、被災人口は970万人と言われている(全戸数の約2割が被災)。



戦後、アメリカ軍による日本への「無差別攻撃」は、「戦争犯罪ではないか」との声が上がった。民間人への無差別爆撃は、明らかに「戦時国際法違反」であったのだ。

しかし、サンフランシスコ講和条約の締結によって、当の日本側はその賠償請求権を放棄してしまっている。

さらに奇妙なことに、日本の無差別爆撃を指揮した司令官・ルメイ氏は、日本から勲一等旭日章の叙勲を受けている(その授与は天皇親授が通例であったものの、昭和天皇がルメイ氏に面会することはなかった)。



のちのルメイ氏は、こう語っている。

「もし、我々が負けていたら、私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。

幸いにも、私は勝者の側にいたのだ。」

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第二次世界大戦の最末期、そして戦後の混乱。

60年以上が経過した冷静な目で眺めてみると、その世界には奇妙な現象が渦巻いているように見える。

しかしそれは、「戦争という現場」を知らないからこそ冷静でいられるのであろう。



実際に焼夷弾の雨の中を生き抜いた神倉氏は、空爆による焼け野原の写真を直視することが、いまだにできない。

その目に映る像は、またたくまに涙で歪んでしまうのだ…。

あの日の別れの記憶とともに…。




新装版 アメリカの日本空襲にモラルはあったか
―戦略爆撃の道義的問題




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出典:特報首都圏 「知られざる空襲」

posted by 四代目 at 07:39| Comment(2) | 第二次世界大戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする