真珠湾の「ゼロ戦」とミッドウェーの「空母」 [永遠の0より]1からの「つづき」
「ラバウルは美しいところでした」
元海軍兵、井崎源次郎は話しはじめる。
「透き通るような青い水と抜けるような空、海岸には椰子の木が生い茂り、遠くには火山の姿も見えました。当時はラボールと言い、天然の良港がありました」
ラバウルは日本から6,000kmも離れた南太平洋、赤道を越えた先のニューブリテン島にある。1942年2月に日本軍が占領し、第二次世界大戦時、南太平洋の「最前線基地」とされた島。
「私は南海の楽園に来たように思いました。この地が後に『パイロットの墓場』と呼ばれるようになるとは夢にも思いませんでした」と井崎は苦しい表情をする。
「ガダルカナルこそ、搭乗員にとって本当の地獄の幕開けだったのです」
◎ガダルカナル
「ガダルカナルってどこだい?」
「知らないよ。そんな島に飛行場があったなんて、聞いたことがない」
ラバウルの搭乗員(パイロット)の中には、その島を知っているものは誰もいなかった。
「ガダルカナルというのは、南太平洋に浮かぶ小さな島です」と、井崎は説明をはじめる。
「ジャングルに覆われた未開の孤島です。太平洋戦争がなければ、その名も存在も永遠に知られることのなかった島でしょう」
当時、日本軍はアメリカとオーストラリアの連絡線を遮断しようと、この小さなガダルカナル島を「不沈空母」として南太平洋に睨みを利かせようとしていた。それはアメリカ軍反攻の生命線であるオーストラリアを占領しようとする布石であった。
それで昭和17年(1942)の春、ガダルカナルの未開のジャングルを切り拓き、飛行場の設営をはじめた。完成し次第、ラバウルの飛行機をそこに移行する予定だった。
ところが、滑走路ができた途端に、ガダルカナルはアメリカ軍の猛攻を受けてしまう。
「ようやく完成したばかりの飛行場を奪われたのです」と井崎は言う。
ガダルカナルにいた日本軍のほんとどは設営隊員。まったく勝負にならず、味方はあっという間に全滅。
「大本営もまさかアメリカ軍がこんな小さな島をまともに攻撃してくるとは思っていなかったのでしょう。ところが、この名もない島が太平洋戦争で最大の激戦地となったのです」と井崎は顔をしかめる。
◎臆病者
ラバウルの司令部に集められたパイロットたちには「航空地図」が手渡された。すると、ガダルカナルはラバウルから560カイリ(約1,000km)もあることが分かった。
「無理だ…。こんな距離では戦えない」
そう呟く男がいた。
「今、無理だと言ったのは誰だ!」
一人の若い士官が、怒髪天を衝かんばかりに怒鳴った。
「貴様か!」
士官は言うが早いか、その男の顔面をしたたかに殴りつけた。男の口は切れた。
「貴様は宮部だな。貴様の噂は聞いているぞ! この臆病者め!」
その男の名は「宮部久蔵」。ミッドウェーからやって来た空母乗りだったが、まるで臆病者がビクビクするかのように、飛行中もひっきりなしに後ろを振り返り、執拗な見張りを怠らない男であった。
「今後、今みたいな臆病風に吹かれるようなことを言ったら、ただではすまさんぞ!」
そう言い捨てて、士官は去った。
海軍は「兵」「下士官」「士官」の順に偉くなる。
「士官」というのは今の官僚のキャリアのようなもので、海兵学校を卒業した者たちだけがなれる特権であった。士官は宿舎も従兵付きで至れり尽くせり。食事も天と地ほどの開きがある。
「要するに軍隊というところは、徹底した身分階級がある世界ということです」と、当時「兵」であった井崎は言う。
だが皮肉にも、優秀なパイロットというのは「士官」にいなかった。「ラバウルの猛者ども」と呼ばれた凄腕の搭乗員たちは、そのほとんどが「兵」からの叩き上げであった。
それもそのはず。空の上では「経験と能力」だけがモノをいう。おびただしい数の実戦、その「死のフルイ」にかけられて生き残った者たちにこそ腕があった。
「空の上では、階級は何の意味ももちません」と井崎は言う。
学校出の士官は、操縦技術や空戦技術において下士官にかなうわけがない。
それでも日本の軍隊では士官ばかりが重んじられた。そのため、ノンキャリアである下士官は、たとえどんなに腕があっても士官の下につかざるを得ず、その命に従わざるを得なかった。たとえそれが「命を賭した上空」であっても。
◎宮部久蔵
ラバウルの基地にも、「ミッドウェーで日本の空母4隻が沈められたらしい」という噂が密かに立っていた。
宮部という男は、そのミッドウェーからやって来た。もし、日本軍惨敗の噂が本当であれば、宮部はその「死地の空」から生きて帰ってきた男である。よほどの凄腕か、もしくは臆病者か…。
井崎はさり気なく宮部に聞いてみた。
「宮部一飛曹は、空母に乗っておられたのですか?」
一瞬口をつぐんだ宮部。やはりミッドウェーのことは軍の最高機密であるらしい。宮部は「赤城に乗っていました」と言ったあとすぐに「もう乗れません」と付け加えた。
どうやら噂は本当らしい。日本に戻った後はしばらく軟禁状態に置かれていたようだ。
それにしても、宮部の戦闘機技術は華麗であった。さすが第一航空艦隊の腕前である。
井崎が雲の隙間から奇襲を受けた時、救ってくれたのは宮部だった。
「私はちょうど敵に背中を見せる格好になっており、『やられる!』と思いました。その瞬間、私の目の前を一機のゼロ戦がすごいスピードですり抜けました。宮部機です。一機を撃墜すると、さらに鋭い旋回を見せもう一機を撃ち落としました。この間、わずか数秒の出来事。『何という凄腕!』『何という早業!』。私は鳥肌が立ちました」と、井崎は語る。
基地に戻ってから、井崎は真っ先に宮部の元へと走る。
「あの時、雲の上の敵が見えていたのですか?」
「はい、雲の上からチラッと」
井崎は心の中で唸った。今日のゼロ戦隊はラバウルの猛者たちだったはず。その全員が見つけられなかった待ち伏せする敵を、宮部だけが発見し、逆に返り討ちにしたのだから。
「恐ろしいまでの戦いぶり。この人は一級の搭乗員だなと思いました」
「しかし、宮部さんの用心深さというのは、いささか度を越しているとも思えました」と井崎は言う。
しょっちゅうキョロキョロあたりを伺いながら飛んでいる。とにかくひっきりなしに後方を振り返り、背面飛行も頻繁にやる。
空中は上下左右360°に開かれており、敵機はケシ粒のように小さくしか見えない。それを一秒でも早く発見できるか否かは、飛行機乗りにとって生死を分かつ。
だが、慎重と臆病は隣り合わせ。
死なない宮部は、「きっと臆病なのだ」と思う人の方が多かった。
それも致し方ない。その飛び方は「敵を墜とすということよりも、自分が撃たれないようにしている感じ」に見えた。
宮部自身、「敵を墜とすより、敵に墜とされない方がずっと大事です」とハッキリ言ったのを、井崎は聞いている。
「たとえ敵機を撃ち漏らしても、生き残ることができれば、また敵機を撃墜する機会はあります」と宮部は言う。「しかし…、一度でも墜とされてば、それでもうおしまいです」。
◎560カイリ
ラバウルから「ガダルカナル」まで560カイリ(約1,000km)。
「ガダルカナルは知らないが、560カイリという距離がどういう距離かは判る」と宮部は言う。
「ゼロ戦が戦える距離ではない」
当時、他国の戦闘機が数100kmという航続距離しか持たなかったのに対して、日本のゼロ戦は約3,000kmも飛び続けることができた。
だがそのゼロ戦をもってしても、ガダルカナルまでの往復2,000kmは「容易な距離ではない」と宮部は言う。
「巡航速度で3時間はかかる。ガダルカナル上空では戦闘時間は『10分少々』だろう。帰りの燃料を考えると、それ以上の空戦は危険だ」
もし四面が海の状況で方位を失ってしまえば、帰還できない恐れも出てくる。
「空戦で編隊とはぐれたら、後は自力でラバウルまで帰投しないといけない。560カイリの洋上を『地図とコンパスだけ』で飛ぶのは簡単なことではない」と、宮部は表情を曇らせる。
空母乗りだった宮部は、目印も何もない広い海の上、何百カイリと敵の艦艇を目指して飛び、そして攻撃後に味方の空母に帰り着くことの難しさを肌で知っていた。
自軍の空母とて止まっているわけではなく、時速50kmほどで航行しているのだ。飛び立った場所から200kmも違う場所にいることすらあった。もし上空が厚い雲で覆われていれば、その発見は一層困難になる。
当時、零戦には無線機は積まれてたが、それは雑音しか受信しない全く役立たずの代物だった。洋上で自らの位置を見失って、帰還できなくなった飛行機は少なくなかったという。
◎出撃
その日の明け方、17機のゼロ戦と24機の一式陸攻がラバウルを飛び立った。一路、1,000km先のガダルカナルの空へ。
「あの日の光景は今も忘れません。日本海軍の最高級の搭乗員たちが、朝焼けの東の空に飛んで行きました。それはまことに美しい編隊でした。私たちはいつまでも手を振っていました」と、井崎はその日の光景を思い起こす。
そして、出撃から7時間以上が過ぎた頃、ようやく攻撃隊がラバウルに帰って来る。朝の美しい編隊はどこへやら、無数の弾痕を残した飛行機が三々五々、ばらばらに辿り着く。
「衝撃的だったのはゼロ戦の数です。なんと帰還したのは17機中の約半数の10機でした。ゼロ戦が半分近くもやられるなんて…」
当時、ゼロ戦は「無敵の戦闘機」のはずだった。アメリカにもイギリスにもゼロ戦に太刀打ちできる戦闘機は存在しなかった。
イギリスの誇る「スピットファイア」も、ドイツの名機「メッサーシュミット」でさえ、ゼロ戦の敵ではないはずだった。ましてやアメリカ軍の「グラマン」などに引けをとるものではないはずだ。
確かに日本は当時まともな自動車も作れず、「三流国のイエローモンキー」と馬鹿にされていた。ところがゼロ戦ばかりは、そんな三流国が生み出した「奇跡の戦闘機」だったのである。
◎ゼロ戦
「ラバウルの滑走路に降り立ったゼロ戦の搭乗員たちは、どの顔も疲労困憊の体でした。げっそり頬がこけ、飛行機から降りるのがやっとという感じだったのです」と井崎は言う。
今回の出撃隊として選ばれた搭乗員は、ラバウルの猛者どもの中でも選りすぐりの凄腕パイロットたち。だが、その彼らでさえ半分が未帰還、そして満身創痍であった。
宮部が「本当の名人」と認めていたある撃墜王は、全身から血の匂いを漂わせて帰ってきた。
その翌日、宮部と井崎はガダルカナルに向けて出撃を命じられた。
「出撃したゼロ戦は全部で14機。それがラバウルの使えるゼロ戦の全機でした」と井崎は言う。
「飛べども飛べども、見えるのは雲と海ばかり。ガダルカナルとは何と遠いところかと改めて実感しました」
ようやく見えてきたガダルカナル島。
「私は思わず息を飲みました。なんとそこには無数の艦艇が島の泊地を埋めていたのです。アメリカ軍はたかだか小さな島一つを奪うのに、これほど多くの艦艇を繰り出すのか、と唖然としました」と井崎。
この時アメリカ軍は、空母「サラトガ」「エンタープライズ」「ホーネット」3隻。ガダルカナルの小島のために全空母をすべてつぎ込んでいた。
井崎は暗澹たる気持ちになったものの、攻撃とあれば断固やるまで。この日の井崎の任務は「中攻(一式陸攻)の護衛」。中攻を敵戦闘機から守ることだった。
「敵の戦法は一撃離脱です。上から突っ込んできて撃ちまくり、そのまま下方に逃げていくという単純な戦法です」と井崎は言う。
その頃、アメリカ軍はゼロ戦の恐ろしさが身にしみていたらしく、ゼロ戦とまともに格闘することをひたすら避けていた。いやむしろ、ゼロ戦と遭遇したら退避することと命じられていた。もし戦うのなら2対1でやれと。
「ゼロファイターは本当に恐ろしかった」と戦後、あるアメリカ軍パイロットは語っている。
「ゼロは信じられないほど素早かった。まさに鬼火のようだった。オレたちはゼロに乗っている奴は人間ではないと思っていた。奴らは『操縦桿をもった鬼(デビル)』だった」
「『ゼロ』というコードネームは、何と気味の悪いネーミングかと思ったよ。ゼロなんて『何もない』という意味じゃないか!」
太平洋戦争初期において、ゼロ戦の力は圧倒的だった。
だが、井崎の守る「一式陸攻」という中型爆撃機は、アメリカ軍から「ワンショット・ライター」と馬鹿にされるほど防御が弱かった。「一発で火が点いた」のである。それで搭乗員7人の命が一気に失われるのであった。
「速度の遅い爆撃機であるにもかかわらず、燃料タンクの防弾もなく、操縦席を守るための装甲もほとんどありません。そのため敵の戦闘機に襲われれば、簡単に撃墜されてしまっていたのです」と井崎は言う。
じつはゼロ戦の防御も弱かった。だがゼロ戦は、その素早さとパイロットたちの抜群の腕によって、敵弾の中をかいくぐることができていたのである。
◎墓場
その日の戦果は、敵艦2隻撃沈、輸送船9隻撃沈という華々しいものだった。
宮部と井崎がラバウルに帰還したのは午後3時。狭い操縦席に7時間も座り続けていたことになる。
「初めて体験したガダルカナルまでの攻撃は、恐ろしいほどの疲労を伴いました。全身の骨がガタガタと外れていくような感じで、地面がふわふわと揺れているような感触だったのを覚えています」と井崎は話す。
日本軍の未帰還機は中攻(一式陸攻など)18機、ゼロ戦2機。中攻は23機出撃して、帰ってこれたのはわずか5機である。
「なんとわずか2日間で、中攻が32機、ゼロ戦が10機も失われたのです。ラバウルの攻撃機のほとんど、そしてゼロ戦の半分近くがです!」と井崎は言う。
「ワンショット・ライター」一式陸攻(中攻)の乗員は、操縦員・偵察員・機銃員・通信員など一機に7名。それぞれの分野で一流の腕を持った男たち、いずれも何年もかかって鍛え上げてきた貴重な搭乗員たち。
「それがたった2日間で、150人も失われたのです…」
さらに悲しいことに、こうした損失は今後、決して例外的なものではなくなっていく。
「パイロットの墓場」
ミッドウェーの生き残りのベテラン搭乗員たち、そしてラバウルのいかなる猛者たちでさえ、美しきラバウルの地に次々と墓標を増やしていくことになるのである。
◎飢え
ガダルカナル島は、略して「ガ島」と呼ばれていた。そして「餓島」とも…。
「本当の地獄を見たのは、ガダルカナル島で戦った陸軍兵士たちでした」と井崎は言う。
この島での犠牲は2万人といわれるが、そのうちの約75%、1万5,000人が戦闘ではなく「飢えて亡くなった」のだという。
大本営がガダルカナル島に最初に送り込んだ陸軍部隊は「わずか900人あまり」。ろくな敵情偵察もせず、アメリカ軍の兵力を2,000と見たのだった。
「2,000という数字がどこから出てきたのか不明ですが、驚くのはその半分以下の兵力で島と飛行機を奪還できると踏んだことです」と井崎は言う。
ところが実際には、アメリカ軍海兵隊の兵士は「1万3,000人」もいた。日本軍は最初、およそ15倍の敵にかかっていったのである。そうとは知らずに…。
のちの悲劇を知らなかった日本陸軍は、突撃前夜、なぜか「勝ち戦の気分」だったという。
というのも、陸軍兵士たちはアメリカ軍兵士を「腰抜けのヤンキー」と思い込んでいた。アメリカ人が「いかに腰抜けで弱虫か」ということをさんざんに教え込まれていたのである。
「やつらは激しい戦いになると、躊躇なく投降しやがる。『生きて虜囚の辱めを受けず』という帝国軍人とは決死の覚悟が違う。だから戦って負けるわけがないのだ」というわけである。
兵力は半分で十分、「明日は楽勝だ」と皆で笑っていた。
「しかし結果は…、話すのも辛いことですが、その部隊は最初の夜襲一撃で全滅しました」と井崎は声を落とす。
日本陸軍の戦いの基本は「銃剣突撃」。勇気をもって自らを肉弾と化す。対するアメリカ軍は重砲や機関銃を遠くから撃ってくる。その結果は明白であった。
「言うなれば日本軍は、長篠の戦いで織田信長の鉄砲隊に挑んだ武田の騎馬軍団みたいなものでした。いったいなぜこんな愚かな作戦が実行されたのでしょう? 戦国時代のような戦い方でアメリカ軍に勝てると判断した根拠がまったくわかりません」と井崎は顔をしかめる。
◎ 兵力の逐次投入
全滅の一報を受けた大本営、「それじゃあ」と送り込む兵隊を一挙に「5,000人」にした。「これならいけるだろう」と。
一方のアメリカ軍、さらなる日本軍の増強に備え、守備隊を「1万8,000人」にまで増やしていた。
日本の大本営の参謀たちの作戦はまったく「場当たり的な予想」のもとに立てられていたようで、ガダルカナル島のアメリカ軍の動向は正確にとらえられていなかった。
「これは『兵力の逐次投入』といって、最も避けなくてはいけない戦い方のイロハです」と井崎は嘆く。
その「逐次投入」された日本軍は、その度ごとにさんざんに打ち破られることになる。
追い散らされた多くの兵隊たちは「ジャングル」へと逃げ込むしかなかった。
「そんな彼らを、今度は飢餓が襲います」と井崎は言う。
鬱蒼としたジャングルに身を隠しながら、兵士たちは自らの命をこんなふうを言っていた。
「立つことのできる者は30日、座ることのできる者は3週間、寝たきりになった者は1週間、寝たまま小便する者は3日、ものを言わなくなった者は1日、まばたきしなくなった者は1日の命」
「なぜ飢えるか、ですか? 軍が食糧を用意しないからです」と井崎は言う。
日本陸軍の用意する食糧は「作戦計画」の日数分のみ。机上で立てられた計算によってそれは決まっていた。もしその日数で計画を遂行できないのであれば、あとは飢えるしかない。
「食糧のない兵士たちは、あとがないだけに死に物狂いで戦うだろうと踏んでいたのでしょうか? 敵陣を乗っ取れば、そこに食糧があるということで」と井崎。
奪うであろうアメリカ軍の食糧は「ルーズベルト給与」と呼ばれ、日本の兵士たちはそれを当てにしていたという。
だが、戦争が机上の計画通りに運ぶわけはなかった。ガダルカナル島では敵陣を奪うどころか、ジャングルへと追い立てられていってしまったのである。そこには食糧はない。あるのは「飢え」ばかり。
「兵站(へいたん)は戦いの基本です。兵站とは軍隊の食糧や弾薬の補給のことです」と井崎は言うが、ガダルカナルの日本軍のそれは無謀にも現地調達であったのだ。
◎勝機
日本軍は結局、ガダルカナル島の奪還は半年もかけて叶わぬ夢に終わるわけだが、奪還のチャンスは幾度かあった。
井崎や宮部なども出撃して搭乗員150人を失ったあの2日間ののち、アメリカ軍の損害や著しく、米空母3隻がガダルカナル島を離れていたのである。
折り良く日本の第八艦隊はラバウルを出撃して、「第一次ソロモン海戦」と呼ばれる戦いを制し、アメリカの巡洋艦をほとんど完全に打ち破った。日本海軍の得意とする夜戦による奇襲が成功したのである。
だが、三川司令長官率いるこの第八艦隊はこの勝ち戦の後、ガダルカナル島へ突き進もうとはしなかった。
「三川長官はアメリカの空母を恐れたのです」と井崎は言う。「朝になって米空母の艦載機の攻撃を受ければ、護衛戦闘機の傘のない艦隊にとっては絶望的な戦いになる」と。
だが、その恐れる敵は実際にはいなかった。しかし、三川長官はそれを知る由もなく、ただちに船首を返して撤収してしまったのであった。
「この時、三川艦隊がガダルカナル島に襲いかかっていれば、のちに行われた日本陸軍の戦いもまったく違った様相を呈していたことでしょう。この勝機をつかむことができなかったのは、本当に残念です」と井崎は悔しさを滲ませる。
「とにかく三川艦隊の撤退は、ガダルカナルの戦いで大きな悔いを残しました…」
◎捨て駒
「じつは日本軍は知らなかったのですが、アメリカ軍は一時期『太平洋上で行動可能な空母が一隻もない』という危機的状況に陥っていたのです」と井崎は言う。
その時、アメリカ軍はガダルカナル守備隊の撤退まで覚悟していたという。
「戦後、アメリカの戦史家の多くが『この時、日本の連合艦隊がすべての兵力をつぎ込めば、ガダルカナル島を奪い返すことができた』と言っています」と井崎は言う。
だが、日本軍がまず送ってきた兵力は「わずか900」。そして次に「5,000」と小出しが続く「逐次投入」。それを叩くのはアメリカ軍にとってわけもなかった。
「帝国海軍は兵力を小出しにして、千載一遇のチャンスを逃したのです。逆に全兵力をつぎ込んだのは米軍でした」と井崎。
じつな日本軍には、ラバウルの北わずか数百km先に世界最大の戦艦「大和」もいた。
「日本の水兵たちが、戦艦『大和』をどう呼んでいたか知っていますか? 『大和ホテル』です。司令部幕僚たちは、軍楽隊が演奏する中で豪華な昼食を取りながら、第一線で戦う将兵たちに命令を下していたのです」
「兵隊や搭乗員の命は『捨て駒』にするくせに、高価な軍艦となると後生大事にするとは…」
戦後に知った「できるだけ船を沈めないように」という大本営の方針に、井崎は腹が立っていた。
「いったいに帝国海軍は第一線で命を懸けて戦った者に、非常に薄いです。私たち兵や下士官などは、最初から道具扱いです。その命は鉄砲の弾と同じだったのでしょう!」
思わず井崎は興奮してしまっていた。
◎大福
長駆、ガダルカナルへの出撃が連日続くラバウル航空隊は、急速に消耗していた。熟練パイロットといえども、櫛の歯が欠けるように減っていく。
「出撃すれば半分以上の確率で撃墜される。しかもその出撃が何度も続くのです。搭乗員たちは生き延びるのを諦めているようでした」と井崎は悲しむ。
「仲間を失った悲しみを一番感じるのは戦闘直後ではありません。夕食の食堂です」と井崎は言う。
誰がどこに座るかはだいたい決まっていたという夕食の席。
「夕食の時間に空いている席があれば、そこに座っていた男は未帰還ということです。それがいつも隣りに座っていた奴だとたまりません。激しい戦闘だと、一気に何人もの席が空くことがありました」
冗談も出なくなっていた食事の席。東野という男は朝食時、急に叫んだ。
「一度でいいから、美味しい大福を食べたい!」
その声に、皆が笑った。大福餅などラバウルに来てから一度も食べたことがなかった。つい大福を想像すると、思わずゴクリと喉が鳴った。
その日の夜、食卓には「大福餅」がいっぱいに並んでいた。朝の東野の声を聞いた食事員たちが一所懸命こしらえてくれたのだった。
しかし悲しいかな、誰よりも大福を切望していた東野本人の席は空いていた…。
「彼の食卓に置かれた大福には、誰も手をつけませんでした…」
◎連日出撃
井崎は「ラバウル航空隊」こそが「掛け値なしに世界一」と自負していた。名人級のパイロットたちは、まさに「鬼」であった。
だが、日本海軍航空隊の誇るその名人たちが、連日帰らぬ人となってゆく。
連日往復2,000km、敵地上空で神経をすり減らして戦い、一日7時間以上も操縦席に座りっぱなし。その疲労は極限に達する。
「一度出撃すれば、疲労は1日や2日では抜けません。しかし、疲れが取れる前に再び出撃命令が下るのです。一週間に3度4度の出撃も珍しくなかったのです」と井崎は言う。
限界を越えた状態で飛び、戦いを強いられた搭乗員たち。連日繰り返される出撃に体力も集中力もすっかり低下してしまっていた。
「疲れからくるミスで撃墜された搭乗員も大勢いたはずです。十分な休養さえ与えられていれば、死ぬことはなかった搭乗員が少なくなかったはずです」と井崎は話す。
入神の域に達していたかに思われたエース笹井中尉が撃墜されるのも、「5日連続出撃」の末だった。
一方、アメリカ軍は優秀なパイロットの命を惜しんでいた。
ラバウルに送られてきたアメリカ軍パイロットの捕虜の話によれば、なんと彼らは1週間戦えば後方に回され、そこで「たっぷりの休養」をとったあとに再び前線にやって来るのであった。さらに何ヶ月も戦えば、もう前線に出ることはなかった。
「その話を漏れ聞いた時、我々は驚きました。我々には休暇などというものはなかなか与えられませんでした。連日のように出撃させられていたのです」と井崎は言う。
◎落下傘
ガダルカナルのアメリカ軍は、叩いても叩いても無限かと思える物量でその姿を復元してしまう。どんなに地上の航空機を爆破しようとも、すぐに同じ数の航空機が補充されてくる。
「自分たちは、不死身の化け物を相手に戦っているのかという恐怖を感じました」と井崎は言う。
そんな中、井崎は宮部のとった行動に衝撃を受ける。なんとあの臆病者の宮部が「パラシュートで脱出するアメリカ兵」を撃ったのだった。
「それを見た瞬間、私は背筋に戦慄を覚えました。何もそこまでやらなくてもと思ったのです。パラシュート脱出で無抵抗の搭乗員を撃ち殺すことはしなくてもいいのではないかと思ったのです」と井崎は言う。
その衝撃的な光景は何人もが見ていた。
「貴様には、武士の情けというものがないのか!」
その日の夜、宮部は上官にいきなり怒鳴られた。
「オレたち戦闘機乗りはサムライであるべきだ。落ち武者を竹槍で突き刺すような真似は二度とするな!」
ただでさえ臆病者扱いされていた宮部は、「男の風上にも置けないズルい奴」にまで成り下がった。その腕は一流の上をいくほどのものだったのだが…。
後日、納得のいかない井崎は、小隊長である宮部に尋ねた。「なぜ落下傘を撃ったのですか?」と。
宮部は答えた。「アメリカの工業力はすごい。戦闘機なんかすぐに作る。我々が殺さないといけないのはパイロットだ」と。
「あのパイロットの腕は確かなものだった。恐ろしほどの腕だった。あの男を生かして帰せば、何人もの日本人が殺されることになっただろう」
宮部はそう言い捨てた。普段は上品で物静かな宮部であったが、この時ばかりは興奮を抑えきれない様子であった。
「小隊長があれほど興奮したのを見たのは初めてです。私はその姿を見て、小隊長はパラシュートの米兵を撃つとき、本当に苦しかったのだろうと思いました」と井崎は振り返る。
◎トニー
幸いにも、宮部にパラシュートを撃ち抜かれたパイロットは生きていた。
そして井崎は、戦後、そのアメリカ人と会っている。
「これはじつに不思議なことなのですが、お互い殺し合った相手なのに、なぜか憎しみや恨みはまったく感じませんでした」と井崎は言う。
「時間がすべてを洗い流すのでしょうか。それとも、空の上で正々堂々と戦ったからでしょうか。向こうも同じような気持ちでいたようです」
「ゼロのパイロットは凄かった」と、トニー・ベイリーというその男は言う。
トニーは言う。「雲の隠れて待ち伏せしていたのだが、奇襲した途端に一機のゼロに発見され正面から銃撃された。エンジンが被弾したのでパラシュートで脱出したのだが、そのパラシュートも撃ち抜かれた」
だが幸い、それが海上近くであったため、海に激突して死ぬようなことはなかったのだという。
「オレを墜としたパイロットを知っているか?」とトニーは井崎に聞く。
「私の小隊長だ」
井崎がそう答えると、トニーは「おおっ!」と声を上げる。そして「生きているのか?」と聞いてくる。
「亡くなった」
「撃墜されたのか?」
「いや…、カミカゼで亡くなった」
その瞬間、トニーは口をあんぐりと開けた。そして独り言のようにつぶやいた。「…なんてことだ」。
次の瞬間、彼は顔をくしゃくしゃにして泣き出していた。
「彼の名前は何と言う?」
「宮部久蔵」
「ミヤベ…、キュウゾウ…」
そう何度も繰り返したあと、トニーは言った。「彼に会いたかった…」と。
驚いた井崎、「恨んでないのか」と問う。
「なぜ恨む?」とトニー。
「パラシュート降下しているあなたを撃ったんだぞ!」と井崎。
トニーは言う、「それは戦争だから当然だ。我々はまだ戦いの途中だった。彼は捕虜を撃ったのではない。ミヤベは本物のエースだった。私はその後も何度もゼロと戦ったが、あれほどのパイロットはいなかった」と。
◎ゼロ戦とグラマン
「ゼロのパイロットは凄かった。オレたちは10回殴られて、ようやく1回殴り返すような戦いをしていたんだ。しかし、その一発のパンチでゼロは火を噴いた」とトニーは言う。
トニーの乗るアメリカ機「グラマン」はよほどに頑丈に造られているらしく、ゼロが何発も命中弾を与えてもしぶとく墜ちなかった。
「オレたちが勝ったのはグラマンのおかげだよ」とトニーは言う。「オレが今こうして生きているのは『操縦席の背面板』のおかげだよ」。
一方、ゼロ戦はパイロットを守るようには造られていなかった。ひたすら航続距離を延ばし、格闘能力を高めるように専念されており、その防御は「ワンショット・ライター(一発で火が点く)」と揶揄された中型爆撃機「一式陸攻」と同様に薄かった。
トニーは明るい男だった。孫も5人いるという。
「何度も機体を穴だらけにされたオレが言うんだ。日本には本物のパイロットが何人もいた」
その言葉に、井崎は思わず涙がこぼれる。ラバウルの空で死んだ仲間たちが、脳裏にありありと蘇ってきた。もちろん宮部小隊長の姿も…。
そして、宮部がゼロ戦の翼を触りながらラバウル基地で言った言葉が、急に思い起こされた。
「自分は、この飛行機をつくった人を恨みたい」
井崎は驚いた。ゼロ戦こそが世界最高の戦闘機ではないか。
宮部は言う、「確かに凄い戦闘機だ。1,800カイリ(約3,000km)も飛べる単座戦闘機なんて考えられない。8時間も飛んでいられるというのは凄いことだと思う。どこまでいつまでも飛び続けることが出来るゼロ戦は本当に素晴らしい」。
「自分自身、空母に乗っている時には、まさに千里を走る名馬に乗っているような心地強さを感じていた。しかし」
「今、その類マレなる戦闘能力が自分たちを苦しめている。560カイリ(約1,000km)を飛んで、そこで戦い、また560カイリを飛んで帰る。こんな恐ろしい作戦が立てられるのも、ゼロ戦にそれほどの能力があったからだ」
「しかしそこには、それを操る搭乗員のことが考えられていない。8時間の間、搭乗員は一時も油断はできない。いつ敵が襲いかかってくるかわからない戦場で、8時間の飛行は体力の限界を超えている」
「自分たちは機械じゃない。生身の人間だ。8時間も飛べる飛行機をつくった人は、この飛行機に人間が乗ることを想定していたんだろうか?」
◎体力の限界を超えて
「私に返す言葉はありませんでした」と井崎。
「今、あの時に宮部さんの言っていたことの正しさがわかります。現代でもゼロ戦が語られる時、多くの人があの驚異的な航続力を褒め称えます。しかし、その航続力ゆえにどれほど無謀な作戦がとられたことでしょう」
戦後、航空自衛隊の戦闘機の教官に聞いたところ、「戦闘機の搭乗員の体力と集中力の限界は『1時間半くらいだ』」と話していたという。
つまり、3時間もかけて激戦のガダルカナル上空に着いた時、普通の人間であれば体力と集中力を使い尽くしてしまっていたのである。それでも彼らは戦ったのだった。体力の限界を気力で補って…。
アメリカ軍で戦ったトニーは「オレたちが勝てたのは、ホームで戦ったからだ」と言っている。
アメリカ軍は味方の上空で戦っているのだから、たとえ撃ち落されてもパラシュートで脱出できるし、発動機が不調でも不時着できる。迎撃戦というのも有利であり、雲の中に待ち伏せすると奇襲も成功しやすい。なにより燃料の心配もない。
一方、味方の基地から1,000kmも離れた地での戦いは、パラシュート脱出も不時着も、そのまま死を意味した。陸地は敵地であり、海にはサメがうようよと泳いでいる。
そして火の着きやすいゼロ戦は、グラマンに一発食らえばそれで終わりだったのである。たとえそれが乱戦中の「流れ弾一発」だったとしても…。
◎太平洋戦争の縮図
「ガダルカナル島を巡っての戦いは、半年の激戦を経て幕を閉じました。大本営はガ島の奪還のあきらめ、島に残る約1万の兵士を駆逐艦で収容しに行きました」と井崎は話す。
「この時、島に迎えに行った駆逐艦の乗員たちは、痩せさらばえたガ島の兵士たちを見て、声を失ったといいます」
陸上戦死者5,000人、餓死者1万5,000人。それが、最終的に3万人もの兵士が投入された犠牲だった。3万のうち2万が死んだのである。
海軍の血も多く流れた。
沈没した艦艇24隻、失った航空機839機、戦死した搭乗員2,368人。貴重な歴戦パイロットたちの8割方はここで失われたといわれる。まさに「パイロットの墓場」である。
「戦いが終わった時、海軍の誇る珠玉ともいえる熟練パイロットのほとんどが失われました。今にして思えば、このとき日本の負けがはっきりしたと思います」と井崎は言う。
「もっとも、ガダルカナルで何が行われていたのかを知ったのは戦後です。ですが、それを知った時、ガダルカナルこそが太平洋戦争の縮図だということがわかりました。大本営と日本軍の最も愚かな部分がこの島での戦いにすべて現れています」
「だからこそ、ガダルカナルのことは全ての日本人に知ってもらいたい!」
ガダルカナルを生き抜いた井崎は、熱くならざるを得ない。
この過酷な戦いの後、日本軍にはまた別の悲劇が襲う。
「ラバウルから飛んだ山本五十六・連合艦隊司令長官の乗った一式陸攻が、敵戦闘機により撃墜されたのです」と井崎は言う。「アメリカ軍は日本軍の暗号をすべて解読していて、長官機を待ち伏せしていたのです」
長官の乗っていた一式陸攻はあの「ワンタッチ・ライター」。雲に隠れていた敵の奇襲攻撃に火を噴いた。
長官護衛の重責をになっていた6機のゼロ戦の搭乗員は、山本長官を死なせてしまったがために、さらなる試練が科された。
「彼らは懲罰のように連日にわたって出撃させられ、わずか4ヶ月の間に4人が戦死。一人が右腕を失いました。だた一人、杉田庄一飛長は撃墜100機以上という鬼気迫る戦いぶりで終戦の年まで戦い続けましたが、終戦間際に撃墜されました…」と井崎は語る。
◎生死
「井崎、死ぬなよ」
ラバウルを離れることが決まった時、宮部はそう言った。
このとき、花吹山は大きな噴煙を噴き上げていた。
「あの山を見るのも、今日が最後かもしれんな」
翌日、井崎は朝早くにラバウルを離陸した。
「宮部上飛長は帽子を振って見送ってくれました」
離陸した後に、いったん飛行場を旋回した井崎。最後に宮部へ敬礼すると、ラバウルを後にした。
「それが私の見た宮部上飛長の最後の姿です」
戦後、2人で見た花吹山は大噴火。
ラバウルの美しい町も飛行場も灰の中に埋まったということである。あのパイロットたちの墓場も…。
「もう戦争のことなど、全部忘れろと山が言ったのでしょうか」と井崎は感慨にふける。
井崎は生きた。
だが、宮部は死んだ。
終戦のその月に、「カミカゼ」となって…
(つづく)
→ カミカゼ前夜。マリアナ沖開戦と米軍の電探 [永遠の0より]3
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出典:永遠の0 (講談社文庫) 百田尚樹