2015年10月29日

なぜロンドン市民は大空襲に高揚したのか?



第二次世界大戦

いよいよドイツ軍の空襲(Blitz)が迫っていた。

チャーチルは言った。

「ロンドンは、丸々と肥えた極上の牛(a tremendous fat valuable cow)が縛られているようなものだ。猛獣(the beast of prey)ドイツは舌舐めずりをしている」



開戦前夜、イギリス軍は暗澹たる予測を発表する。

ドイツ軍の空襲がおこなわれれば、最初の一週間でロンドン市民の死傷者は25万人にのぼり、いずれ死者は60万人、負傷者は120万人にも及ぶであろう、と。

大空襲の恐怖から、ロンドン市民はパニックに陥るに違いない。そう予想したイギリス政府は、郊外に精神病院(psychiatric hospitals)をいくつか建設した。さらにロンドンの地下に防空壕(underground bomb shelters)を張り巡らせる計画も立てた。だが、それは取りやめた。防空壕に逃げ込んだ市民が二度と出てこなくなる、と懸念したからだった。








◆The panic never came



1940年秋、恐れていたドイツ軍の猛攻が開始された。

ロンドン上空に来襲したドイツの爆撃機は、爆弾と焼夷弾の雨を容赦なく降らせた。それが57日間も連続した。

死者4万人、負傷者4万6000人。損壊家屋100万棟。ロンドンは壊滅した。



すべてはイギリス政府の恐れていた通りになってしまった。

ただ一つ、ロンドン市民の反応を除いては。



懸念されたパニックは起こらなかった。

空襲下のロンドン市民の様子を、ある精神科医はこう記す。

The siren blew its warning.

空襲警報が鳴りだした。

Small boys continued to play all over the pavements, shoppers went on haggling, a policeman directed traffic in majestic boredom.

それなのに、少年たちは通りで遊びつづけている。買いもの客は値切るのをやめようとしない。警察官は真面目くさって交通整理をつづけている。

A nun seized the hand of a child she was escorting and hurried on. She and I seemed to be the only ones who had heard the warning.

子どもの手を引いた修道女ばかりが逃げるのに忙しかった。だが彼女と私以外、誰も空襲警報を聞いていないかのようであった。

No one, so far as I could see, even looked into the sky.

私の見たかぎり、空を見上げていた者はいなかった。



町中の道路は、爆弾でできた大穴でボコボコだった。廃墟と化した住宅や商店もそこらじゅうにある。そんな戦場下、疎開しなかったロンドン市民たちは日常生活をつづけていた。

マルコム・グラッドウェルは、こう書く(『David and Goliath』)。

As the Blitz continued, as the German assaults grew heavier and heavier, the British authorities began to observe -to their astonishment- not just courage in the face of the bombing but something closer to indifference.
空襲はつづいていた。ドイツ軍の攻撃はますます激化している。イギリス政府が驚いたのは、爆撃に怖気(おじけ)づかないどころか、無関心にも近いロンドン市民の態度であった。



政府が建てた精神病院では、閑古鳥が鳴いていた。






◆The puzzle



そんなバカな…

なぜパニックが起こらないんだ?



爆撃は依然はげしい。

焼夷弾の炎は夜の街を明るくするほどだ。

地下の防空壕は大勢の人々であふれかえっている。

空襲警報のみならず、消防車や救急車のサイレンがかしましい。



甚大な被害をこうむりながらも、冷静さを保っていたロンドン市民。

これが「ジョン・ブル魂」という勇気なのだろうか?

いや、そうとばかりも言えない。同じように激しい爆撃下、他国でも同じような例が確認されている。



この不思議な現象を、カナダの精神科医、J.T. マカーディは著書『モラールの構造(The Structure of Morale)』で説明してみせた。

マカーディは空襲下の人々を3つのグループに分けた。

1、死ぬ人(the people killed)

2、ぎりぎりの生存者(the near misses)

3、余裕の生存者(the remote misses)



まず、「死ぬ人」はパニックに関与しない。

マカーディは冷酷に言う。

Corpses do not run about spreading panic.
死体は走り回ってパニックを広げない。



次に、ギリギリの生存者(ニア・ミス)。

They feel the blast, they see the destruction, are horrified by the carnage, perhaps they are wounded, but they survive deeply impressed.
彼らは爆風を肌に感じ、街が破壊される様を目撃し、死体の山に身の毛をよだてた。彼ら自身、傷を負いもしただろう。それでも彼らは生き延びた。強烈なショックを心身に受けながらも。



最後に、余裕の生存者(リモート・ミス)

These are the people who listen to the sirens, watch the enemy bombers overhead, and hear the thunder of the exploding bombs. But the bomb hits down the street or the next block over.
彼らは空襲のサイレンを聞いた。ドイツの爆撃機が空を横切るのも見た。強烈な爆発音も耳にした。だが、それらは通りのずっと先、もしくは隣の街区であった。







ニア・ミスの人々と、リモート・ミスの人々では「空襲体験の捉え方が真逆になる」とマカーディは指摘する。

A near miss leaves you traumatized.
辛くも生き延びたニアミスの人々は、心身に深い傷をのこす。

A remote miss makes you think you are invincible. MacCurdy wrote, "is a feeling of excitement with a flavor of invulnerability."
簡単に生き残ったリモートミスの人々は、自分が「無敵」であるかのような錯覚をおぼえる。マカーディが言うには「どこか不死身感のただよう興奮」にひたるのだ。



イギリス政府が予想できなかったのは、リモートミスの人々の反応である。

彼らは2度3度と空襲を体験するうちに、空襲警報を怖がるどころか、むしろ楽しみにさえするようになっていた。というのも、あっさり生き残った彼らは「自分は絶対に死なないんだ」と思い込むようになっていたからだった。






◆remote miss



大空襲を簡単にくぐり抜けた人々、すなわちリモート・ミスの人々の戦後記録は数多い。

When the first siren sounded I took my children to our dug-out in the garden. And I was quite certain we were all going to be killed.

最初に空襲警報を聞いたときは、子どもを連れて庭の防空壕に逃げ込みました。「間違いなく死ぬ」と思ったのです。

Then the all-clear went without anything having happened. Ever since we came out of the dug-out I have felt sure nothing would ever hurt us.

ところが、すべてが何事もなく終わってしまいまいした。そして防空壕を出たときには、こう思うようになっていました、「何があっても死なないんだ」と。

こんな手記もある。

I lay there feeling indescribably happy and triumphant. 

私は横になりながら、言い尽くせないほどの幸福感と勝利感を味わっていました。

"I've been bombed!" I kept on saying to myself, over and over again -trying the phrase on, like a new dress, to see how it fitted. "I've been bombed!...I've been bombed -me!"

「私は爆撃されているんだ!」と、私は何回も何回もつぶやいていました。まるで新しい服が自分に合うかどうかを試してみるように、その言葉を確認していたのです。「私は爆撃されている!」「私は爆撃されているんだ!」「この私がよ!」

It seems a terrible thing to say, when many people were killed and injured last night; but never in my whole life have I ever experienced such pure and flawless happiness.

あの夜、たくさんの人々が死んだり傷ついたのを知っています。だからこう言うのは不遜なことですが、私は今までの人生で感じたことがなかったほどの「完璧に純粋な幸福感」の中にいたのです。



先に記したとおり、ドイツ軍によるロンドン大空襲によって、イギリスは死者4万人、負傷者4万6000人という甚大な被害をこうむった。

だが冷静に計算すれば、800万人という大人口のロンドンにあって、4万人という死者は人口比0.5%、ニアミスであった負傷者4万6000人は同0.6%弱であったことが判る。すなわち、空襲によって異様な高揚感をおぼえたリモートミスの人々が、最大で99%近くを占めたのである。

それが空襲下のロンドンでパニックが起こらなかった一因であるとみられている。



マカーディは言う(『The Structure of Morale』) 。

We are all of us not merely liable to fear.

われわれは皆、単に怖がるだけではない。

We are also prone to be afraid of being afraid.

「怖がることをも怖がる」という性向をもつのである。

When we have been afraid that we may panic in an air-raid, and when it has happened, we have exhibited to others nothing but a calm exterior and we are now safe.

人々は空襲されればパニックが起こるのではないかと恐れた。だが実際の空襲に遭ってみると、人々は無事だった。そして落ち着いた態度を周囲に示すことができたのだ。

The contrast between the previous apprehension and the present relief and feeling of security promotes a self-confidence that is the very father and mother of courage.

事前の恐怖と、実際の安心感とのギャップ。それが大きいほど自信は深まる。それこそが勇気を生む父母なのだから。






◆Never!



ドイツ軍は、イギリス人らを恐怖のドン底に叩き落としてやろうと大規模な空爆をしていたはずだ。

そしてイギリス政府もまた、そうなることを必要以上に恐れていた。



しかし実際はどうだったか?

「大パニックを起こすであろう」とのドイツ軍の期待は、まったく逆の結果を生んでしまった。空襲をくぐり抜けた大多数のロンドン市民(リモートミスの人々)はいよいよ勇気を増して、自らの「ジョン・ブル魂」を奮い立たせたのであった。

開戦前にイギリス政府が示した暗澹たる予測(死者60万人、負傷者120万人)、これも結果的には功を奏した。必要以上に悲惨な数字を示すことによって「事前の恐怖」が増大し、「実際の安心感」がより大きなものとなったのだから。



マルコム・グラッドウェルは言う(『David and Goliath 』)。

Too often, we make the same mistake as the British did and jump to the conclusion that there is only one kind of response to something terrible and traumatic.

私たちはイギリス政府と同じ勘違いをしてしまいやすい。「悲惨かつ衝撃的な不幸は、一つの結果しかもたらさない」と結論を急いでしまいがちなのだ。

There isn't. There are two.

だが、そうではない。じつは2つの反応があったのだ。



ボタン工場で働いていた、ある男性。

彼の自宅には、2度も爆弾が落ちた。

だが、いずれとも彼は無傷であった。



彼は、勧められた疎開を断った。

Not for all the gold in China!
冗談じゃない!

What, and miss all this?
こんなチャンスを、みすみす見逃せって言うのか?

There's never will be again!
こんなこと2度とないぞ!

Never!
絶対だ!






They were freed of the kinds of fears that can make life during wartime unendurable.

彼らの心中に、もはや恐怖はなかった。

だからこそ、戦中の耐え難きを耐えられたのかもしれないな。

(マルコム・グラッドウェル)













(了)






出典:
Malcolm Gladwell『David and Goliath: Underdogs, Misfits and the Art of Battling Giants



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爆弾と花火 [新潟・長岡]

「非武の島」、沖縄。グアムとの数奇な共通点。

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2013年09月15日

爆弾と花火 [新潟・長岡]



放浪の画家「山下清(やました・きよし)」

この「裸の大将」は、フラリと新潟・長岡の花火大会に現れた。



その時、花火師「嘉瀬誠次(かせ・せいじ)」さんは忙しく花火大会の段取りに追われていた。

「最初は、山下清なんか知らないんだよね」

白いランニングに、夏だから膝までのパンツ。山下清は手暇そうに、立ち働く花火師たちを後ろの方から眺めていた。



「危ないから向こうへ行ってなさい」

はじめ、花火師・嘉瀬さんは優しく諭した。

ところが山下清は呑気なもので、「は、花火は、な、なんで危ないのかな?」などと言っている。



一発で頭にきた嘉瀬さん。

「危ねぇから危ねぇんだよ! 向こう行ってろ!!」

ついにはどやしつけ、山下清を追っ払った。










■長岡空襲



新潟・長岡の花火大会は「日本三大花火」としても知られる壮麗なものである(他、秋田・大曲、茨城・土浦)。

その始まりは明治12年(1879)にさかのぼると云われるが、現在につながる形になったのは1946年8月1日、第二次世界大戦からの復興を願う市民の気持ちが結実したものであった。



その「8月1日」という日は、長岡市がアメリカ軍の大空襲にさらされた日(1945年)。

その日の夜22時30分、テニアン島を発した125機の爆撃機は、市民およそ7万5,000人が暮らしていた長岡市に16万発以上の焼夷弾、およそ925トンを情けもみせずに投下。

約1,500人を死に至らしめ、市街地の8割もを火の海にしてみせた。



頭上からバカバカと落ちてくる爆弾に、当時小学生だった金子登美(かねこ・とみ)さんは地獄絵図を見せられていた。

「一面の死体でした…。私の父も姉も弟も、遺体を見つけられなくて…」

母とともにいた金子さんは近くの神社に逃げ込み、「ここで死のう」と深く掘られたゴミの穴に身を投じた。同じような思いを抱いたであろう多くの人々が、そうしていた。



「そしたら母がね、いつの間にか上へ這い上がっていて、私を引きずり上げようとしてるんです」

その母の手に必死で抗ったという金子さん。

「もう、あんな地獄のような外に出るくらいだったら、もう死んじゃった方がいいと思ってグズグズしていたんです」



そんな母子の健気なやりとりを見るに見かねたか

「下になってるどこかのオジさんが、ボーンと放り出してくれたんです」



ようやく娘の手をたずさえると、母は川へ向かって一心に走った。

「ただ夢中で走って、石垣の上からドボン、ドボンと飛び込みまして」

恐ろしくも「M47焼夷爆弾」と呼ばれる大型のガソリン爆弾は、川に入ってもガソリンに火がつき逃れられないものであった。だが幸いにも、母子が身を入れた川はその魔の手からは避けられた。

「暗いあいだは怖くて上がれなくて、一晩、水の中にいたんです」



ようやく爆音が止むのは、日付を越えた0時10分。

途方もなく恐ろしい100分間はその後、幼かった金子さんの脳裏に深く深く刻まれた。

ちなみに同じ8月1日、富山市、八王子市、水戸市もまたアメリカ軍の予告通りに、ひどく爆撃されていた(長岡に予告はなかった)。



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■慰霊



その長岡空襲から、わずか一年後であった。長岡まつりのメインイベントとして大花火大会の企画が持ち上がったのは。

それは復興の狼煙となるものであったのだが、反対の声もまた高かった。

「空襲と同じようなことを頭の上でバカバカやられたら、かなわねで!」



金子さんも嫌だった。

「花火を上げることには猛反対でした。正直、スターマインなんか見ると空襲とそっくりなんです」



それでも、1946年8月1日、戦災復興祭りとして花火は盛大に打ち上げられた。

かつて空襲がはじまった夜10時30分。

慰霊の大華が夜空を彩った。



「そこは子供でね、うれしかった」

空襲の記憶はなお生々しかったものの、まだ小学生だった金子さんの心は思わず踊っていたという。

その大きな美しさに、傷んだ心は洗われていた。






■シベリア



悪夢の空襲から68年、今年(2013)もまた長岡の夜空に夜花が咲いた。

夜10時30分、慰霊の鐘とともに打ち上げられる「白一色の尺玉」3発。



それは花火師・嘉瀬さんが思いを込めた「白菊」と呼ばれる大玉である。

「葬式なんかはよく白い花でしょ。白い白銀の花火をいっぱい上げて、亡くなった人の霊を慰めようと思って」



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花火師の三代目だった嘉瀬さんは、20歳で戦争に駆り出された。そのため、故郷・長岡が空襲に傷んだその日、そこには居らず、翌年の花火大会にも参加していなかった。

もっと酷い生き地獄を、極寒の地・シベリアで味わわされていた。終戦とともに異国の地へと連れ去られてしまっていたのである。

「ロシアの船が遠くからだんだんと島に向かって来て、『戦争は終わった。日本に連れて帰る』と言って、シベリアへ騙して連れて行って…」



俗にいう「シベリア抑留」。およそ56万人の日本人兵士が最長11年間、強制労働を強いられた。

「強制労働で一番困ったのは、食い物が足りなかった。いつも腹がへって、ほんとに歩くのがやっと。そのあいだ何年もタダ使いされて、最後には餓死したでしょ」

厳寒のもと満足な食事や休養も与えられず、労働ばかりは苛烈を極めた。ひたすら課される重労働に人間の心はいつしか失われ、一日が過ぎるのばかりをただただ待つ日々が延々と繰り返された。

「とてもじゃないが、喜怒哀楽とか全くなし。家族のことも考えないし、もう何にも…。希望とかっていうのはなくなっちゃうんだよね」






■弔い



幸い、嘉瀬さんは生きて日本に帰りつけた。

しかし、心は晴れない。最果ての地で倒れた戦友たちの姿が、嘉瀬さんの心をずっと悩まし続けた。

「国のためにもならんで、そういう死に方(餓死)したら、さぞ無念だったろうて…」

そう話しつつ、嘉瀬さんは言葉に詰まる。

「うっと詰まって、いきなり止まって。しゃべりが止まるんだよ。言おうと思ってもダメなんだ。ただ(涙が)おってきてよ…」



そして1990年、68歳になっていた嘉瀬さんは、亡くした戦友らへ「弔いの花火」を捧げようと、ふたたびシベリアの地を目指した。

そのために精魂を込め、丹念に仕上げた花火が「白菊」。



ロシアの夜空に輝いた白銀の大花。

かつての戦友たちは見上げたであろうか…。

(合掌)






■ちぎり絵



さすらいの画家「山下清」もまた見上げた。長岡の夜空を。

嘉瀬さんが亡き人に手向けた花を。

そして、一枚の「ちぎり絵」を嘉瀬さんの家に預けて去った。



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その去り際、山下清はつぶやいた。

「みんなが爆弾なんか作らないで、きれいな花火ばかりを作っていたら、きっと戦争なんか起きなかったんだな…」













(了)






関連記事:

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出典:新日本風土記「花火」


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2013年07月08日

桜花と、ある飛行機乗りの最期。[永遠の0より]5



カミカゼ特攻。レイテ沖海戦 [永遠の0より]4からの「つづき」






大学生までが徴兵されるようになったのは、昭和18年(1943)頃からであった。

昭和18年といえば、日本軍がガダルカナル島の戦いに敗れ、山本五十六長官が戦死した年である。








当時の大学生というのは非常に少数のエリート。100人に一人が大学に行けるか行けないかの時代であった。ゆえに、そうしたエリートまで軍隊に送られることはそれまで考えられなかった。

だがその年、昭和18年(1943)は違った。全国の大学が空っぽになるほど大量の大学生が軍隊へと送られていった。その数10万を超えるともいわれる。

そして、この年よりいよいよ「国民皆兵の時代」に入ろうとしていた。






◎予備学生



「運命は皮肉なものだと思います。カミカゼ特攻隊の多くは、この年の学生たちから選ばれたのです」

そう語るのは、自身が予備学生だったという岡部昌男。予備学生というのは「大学出身の士官」のことである。



当時の大学生たちは頭が優秀だったゆえに、その多くが海軍の「飛行学生」とされた。

なぜかというと、飛行機の操縦というのは車の運転のように簡単なものではなく、操縦以前に覚えなければならないことも膨大にある。つまり、難解な試験をくぐり抜けた大学生たちの「豊富な知識と高い知性」が必要とされたのである。

「この点、大学生たちは手っ取り早く飛行機乗りに仕立て上げるのに『格好の素材』だったのです。そして私たちは『速成の特攻用パイロット』として作られていったのです」と岡部は言う。



第二次世界大戦、カミカゼ特攻らで命を失った人々の数は4,400人以上。

その半分近くが、そうした予備学生出身のパイロットだったという。






◎宮部教官



「飛行訓練は過酷でした。2〜3年はかかる訓練を一年足らずでやらなければならないのです。とにかく軍としても一刻でも早く飛べるようにして、特攻で使えるようにしなくてはいけませんでしたから」と岡部は話す。

「私たちは空戦のやり方も爆撃のやり方も教えられませんでした。そんなものを教えても全くの無駄だからでしょう。私たちはただ爆弾を抱いて、敵艦にぶつかるだけなのですから」



岡部を教えた教官の名は「宮部久蔵」といった。彼がやってきたのは昭和20年(1945)、終戦の年の初めの頃だった。

「第一印象はハッキリ覚えています」と岡部。「全身に異様な空気を漂わせていました。死線を超えたという凄みがありました」。

聞くところによると、宮部という教官は真珠湾攻撃にも参加した歴戦の凄腕パイロットで、ミッドウェー海戦、ガダルカナル島など、すべての激戦地の空を生き抜いてきた男だという。



だが、宮部教官が戦地風を吹かせることはまずなかった。

「華々しい話や手柄話はまったく言わない人でした。そして、私たちにはいつも丁寧な言葉で話す人でした」と岡部は言う。

当時、教官が怒鳴る蹴るは当たり前だったというが、宮部教官は学生たちに大きな声を上げることすら一度もなかったという。



だが、その静けさとは裏腹に、学生への評価は極めて厳しかった。

宮部教官は、よほどの腕がないと学生に「合格点」を与えない。いつも「不可」ばかりをつけるのだった。ゆえに、予備学生たちからの評判はすこぶる悪い。

ある学生はこう愚痴っていた。「戦地帰りの目から見れば、オレたちなどまだまだヒヨッコと言いたいのだろう。ありゃあ、戦地風を吹かすよりもタチが悪いぜ」






◎不可



宮部という教官が来てからというもの、ガクッと学生たちの訓練ペースが落ちた。宮部教官は頑として学生たちに「不可」をつけ続けたからだ。

それに焦りを感じたのは学生たちよりも、むしろ海軍の方だった。即席のパイロットが大量に必要なのである。そのため、上官の命令により宮部による採点は禁じられ、以後宮部は訓練のみに専念することとなった。

実技には厳しい目をもつ宮部だが、たまに「上手くなりました」と学生に言うことがあった。だが、その時の彼は露骨に嫌そうだった。



ある時、イヤイヤ褒められた岡部は宮部教官に問い質した。「本当は下手くそと思ってるんですか?」と。

すると宮部はこう答えた。「正直に言いますと、岡部学生の操縦は全然ダメだと思っています。わたくしは戦場で、多くの若いパイロットが十分な訓練を積めないままに実戦に投入されてきたのを見てきました。そして、彼らのほとんどは初陣で戦死しました」

宮部は続ける。「私は飛行隊長にもそのことを言いました。しかし分かってもらえませんでした。逆に、もっと合格点をつけるように言われました。とにかく今はパイロットが足りない。だから一人でも多くのパイロットが欲しい、と」



宮部は自分の教え子たちが上達していく様を、悲しそうな目で見ていた。

「上手くなった者から、戦地へやられます…」と宮部はつぶやく。

「わたしにとっての訓練は、生き残るための訓練でした。しかし皆さんは違います。ただ死ぬためだけに訓練させられているのです。それなら、ずっと下手なままがいい…」






◎人間爆弾



岡部には、生涯忘れらない訓練があった。

「私は80年生きていますが、後にも先にもあれほど恐ろしい体験をしたことはありません」と彼は言う。



それは「桜花(おうか)」という特攻兵器の操縦訓練だった。

「桜花は人間が操縦するロケット爆弾です。飛行機ではありません。本当に爆弾なのです」と岡部は言う。

「桜花」は自力で飛び立つこともできず、また着陸することもできない。ただ、爆撃機にブラ下げられて飛び、敵艦の上に落とされるだけだった。



ならば、何の訓練がいるのか?

「高空から凄まじい速度で落下し、地上付近で水平飛行する訓練です」と岡部は言う。

爆撃機の下にコバンザメのように付けられ、敵艦上空まで運ばれたという人間爆弾「桜花」。落とされた後は、パイロットが誘導して敵に体当たりを食らわせる。

つまり、落とされたら最後、パイロットは死ぬしかない。桜花というその名の通り、散るしかない運命だったのである。まったく「桜花」はかくも「非人間的な兵器」であった。



その「落とされるだけの訓練」で、多くの学生たちが命を落としたという。

「多くの者が着地に失敗して亡くなりました」と岡部は言う。「水平飛行ができずに地面に激突する機体。滑走路を大幅に超えて土手に激突する機体。着陸用のソリが滑走路との摩擦で炎上する機体…」










◎落下訓練



「私もやりました」と岡部。「本当にあの訓練は恐ろしさを通り越したものでした。あの恐怖は忘れられません」

まずは爆撃機「一式陸攻」に乗って上空へと向かう。そして、上空で一式陸攻の床を開き、下に吊るされている「桜花」に飛び移らなければならない。猛烈な風圧に吹き飛ばされそうになりながら。

「もちろん命綱などありません。もしこの時に落ちれば、命はありません」と岡部は言う。



「しかしその時の恐怖さえ、落下する時の恐ろしさに比べたら何ほどのものでもありません」と岡部。

母機である一式陸攻から切り離された「桜花」は、自然落下のモノ凄い勢いで300mくらい落ちていく(時速1,000km以上)。

「そのマイナスG(加速度)は強烈で、頭に体中の血が昇り、口から内臓が飛び出しそうな感じになります。気を失いそうになるのを必死でこらえ、渾身の力を込めて操縦桿を引き、機体を立て直して目標に向かって滑空します。そして地面ギリギリでさらに引き起こし、今度は水平飛行に移るのです」と岡部は話す。



猛スピードで落下していく時のマイナスG、そして水平飛行に移った時の「これまた想像を絶するほどのG(水平時最高速度およそ時速650km)」。

「そのGで、目の前が真っ暗になりました。あやうく失神するところでした」と岡部は言う。「おそらく訓練で亡くなった友人たちは、その時、失神してしまったのかもしれません…」。

車輪もなしに下部に取り付けられたソリだけで着地した時の衝撃も凄まじかったという。まるで体ごと地面に叩きつけられるように。






◎野中五郎



桜花を吊って運ぶ爆撃機は「一式陸攻」。この一式陸攻はアメリカ軍に「ワンタッチ・ライター」と馬鹿にされるほど、一発で撃墜しやすかった。かの山本五十六長官が撃ち落とされたのもこの機である。

岡部は説明する。「桜花一機の重量は2トン近くあります。一式陸攻が桜花を吊るして飛べば、スピードはまったく出ず、まさに撃ち落としてくれといわんばかりの状態になります」と。

つまり、桜花が特攻する時、一式陸攻の乗員7人を含めた「最低でも8人」が同時に犠牲になったのである。



自ら飛行できない桜花を敵艦上空に運ぶため、一式陸攻は敵艦30kmにまで近づかなければならない。その間、一式陸攻は敵戦闘機の攻撃にさらされる。

「桜花を抱いた一式陸攻が艦隊30kmまで近づけるということは万に一つもありません。桜花を考えた人たちは航空戦の実態も知らない人だったのでしょう…」と、岡部は悔しそうに言う。



万に一つも成功しない特攻「桜花」。

最初の出撃命令は昭和20年(1945)3月。現場の指揮官であった野中五郎は猛烈に反対した。だが上官に強行を強いられ、野中は部下の代わりに自らが桜花に乗り込み出撃。

そして、その時に出撃した一式陸攻18機、桜花15機は全滅。ゼロ戦の護衛すらろくに付けられていなかった。



死んだ野中の口癖は「野郎ども、いっちょやってやろうじゃねぇか」。

そんな親分肌の野中は、部下だけをこの作戦に行かせるのが忍びなく自らがその無謀な任務を買って出た。野中の部隊は「野中一家」と呼ばれるほどに、部下たちは野中に大事にされていたのである。



「野中少佐は自分の命を捨てて、上層部に『馬鹿な作戦』だということを教えようとしたのかもしれません」と岡部は言う。

だが、「野中一家」が全滅したにも関わらず、その後も「桜花」を積んだ神雷部隊は何度となく出撃を命じられていく。そして当然ながら、そのほとんどが敵艦の上に達することもできず、母機である一式陸攻とともに撃墜されたという。

「桜花の戦死者は150人以上。桜花を中心とした神雷部隊の戦死者は800人以上です」と岡部は言う。純粋な特攻兵器として「桜花」は世界唯一の存在といわれ、終戦までに755機が製造されている。










◎ BAKA-BOMB



「私が桜花の訓練をした神ノ池基地は今、桜花公園という公園になっているそうです」と岡部は言う。「そこに桜花も陳列してあるとか…。しかし私は二度と桜花を見たくありません」。

思い起こしたくもなかった桜花の記憶。だが、皮肉にも岡部はその桜花をかつての敵国アメリカで目にしてしまう。

「スミソニアン博物館で偶然目にしたのです。桜花は天井から吊るされていました。あまりの小ささに驚いたのを覚えています」と岡部は言う。



「そしてそれ以上に衝撃的だったのは、そこに付けられていた名前です。何と書かれていたかわかりますか?」

「バカボムです。BAKA-BOMB、すなわちバカ爆弾です。私は息子夫婦が隣にいるにも関わらず、声を上げて泣きました。悔しくて、情けなくて…!」



いくら泣いても岡部の涙は止まらなかった。

「BAKAとはそのものズバリだったのです。特攻作戦そのものが、狂った軍隊の考えた史上最大の『バカ作戦』だったのです」

「そんなバカ作戦で死んでいった戦友たちが…、ただただ…、哀れで、哀れで…。涙が止まらなかったのです」

そのことを思い出すたびに涙が止まらなくなるという岡部は、80歳の顔をクシャクシャにしてボロボロと涙をこぼすのであった。








特攻作戦を提案したのは大西瀧治郎といわれている。

だが、彼の提案は昭和19年(1944)10月。純然たる特攻兵器「桜花」の開発の後である。新兵器の開発は軍の方針なしにできるものではないことから、彼はスケープゴートにされたのではないかという説もある。

それでも「特攻の父」大西瀧治郎は、終戦の日に切腹して死んだ。彼は死ぬまで言い訳はしなかったと云われている。










◎志願



すべての飛行訓練を終えた夜、岡部には「一枚の紙」が渡された。

そこには「特攻隊に志願するか」という質問が書かれていた。



岡部はその時の心境をこう語る。

「私は予備学生として入隊した時から『死ぬ覚悟』はできていました。ただそれはあくまで命を賭けて戦った結果としての死でした。『必ず死ぬ』と決まった特攻に志願すること、その衝撃は自分の覚悟をはるかに超えるものでした」

一晩かかり、ようやく明け方近く、岡部は「志願します」という項目に丸印を書き入れた。

「名前を書く時に、文字が震えないように気をつけたのを覚えています」と岡部は言う。



しかし、何人かの飛行学生は「志願しない」と書いたらしい。だが、そうした学生たちは個別に上官に呼ばれ、最終的には皆、志願すると書かされたという。

結局、「志願する」と書いても、「志願しない」と書いても同じだったのである。



時は大戦最末期、沖縄戦では日本海軍の「虎の子」であった戦艦「大和」までが特攻まがいの作戦に駆り出されていた。

「『大和』の出撃は絶望的なものでした。沖縄の海岸に乗りあげて『陸上砲台』としてアメリカ軍を砲撃するという荒唐無稽な作戦のために出撃させられたのです。つまり『大和』もまた特攻だったのです」と岡部は言う。

当然、そんなことは出来得るはずもなかった。戦艦「大和」はその沖合いで海の藻屑と消えるのである。乗組員3,300人とともに。










◎生への執念



「連合艦隊の誇りとも言うべき『大和』でさえ特攻で捨ててしまう作戦をする軍が、予備学生を使い捨てることに躊躇するはずもありません」と岡部は言う。

「あの時代に選択の余地はありませんでした。軍部は特攻隊を志願しない者を決して許さなかったでしょう」



そんな諦めの空気の中でのことだった。岡部が宮部教官のウワサを聞いたのは。

「噂だが、宮部教官はフィリピン島で特攻を拒否したらしい」

それは、岡部にとってトンでもない驚きだった。ほとんど命令だった特攻を志願しないどころ、拒否するとは!



ほどなく、宮部は九州へと移ることになる。

その去り際、宮部教官は急に恐ろしい顔になって、こう言ったという。

「わたくしは絶対に死にません!」

それは、本音を微塵も見せることを許されぬ時代にあって、凄まじいまでの生への執念であった。






◎別人



だが無常にも宮部は行った先の九州で、カミカゼ特攻隊に選ばれることになる。

この大戦末期、宮部のような熟練パイロットが選ばれることは異例のことであった。しかも、あれほどまでに生に執着していた男が…。



特攻隊に並ぶ宮部の顔は、まるで別人のようであったと人は語る。

「なんというか…、半ば死人の顔だった。頬はこけ、無精ヒゲが生え、血走った目だけが異様に光っていた」

いつもは品のいい宮部が、無精ヒゲをそのままにしておくことなど以前はなかった。ましてや、全身から殺気をほとばしらせている今の姿は、まるで異形の者のようであった。



末期の水杯を交わした後、宮部を含む特攻隊員たちはゼロ戦へと向かって行く。

意外なことに、宮部の乗ったゼロ戦は最新の「五二型」ではなかった。ずっと古い「二一型」。真珠湾の頃のポンコツである。

どこに、なぜそんな古いゼロ戦が残っていたのか?










◎ツー



爆音とともに空に飛び立った宮部の古いゼロ戦。

その後は、通信室に届くモールス信号だけがその便りであった。

トン・ツーの打電のうち、「ト」の連続が「敵戦闘機見ユ」、そしていよいよ敵空母への突入の際は「ツー」の超長符が打たれる。それは「ワレ、タダイマ突入ス」の合図である。



「私はその『ツー』の音を聞くと、背筋が凍ります」と、かつての通信員であった大西は言う。

「その音はパイロットたちが今まさに命を懸けて突入している印なのです。彼らは体当たりの瞬間まで電鍵を押し続けるのです。しかも、電信機は右側にあるため、それを打つには左手に操縦桿を持ち替えなければなりません。今まさに死のうとする極限状態にありながら、彼らは最期まで任務に忠実であろうとしたのです…」

そして、その「ツー」の音が消えた時、パイロットの命も消えているのであった…。



だが、最後の「ツー」の合図が押せない無念のカミカゼが何機もあった。

それは、アメリカ空母に近づく前に撃ち落とされてしまうからだった。悲しくも、敵空母にまでたどり着けるカミカゼはほとんどいなかったのである。



そしてついに宮部機からも信号が入った。

「ト、ト、ト、ト」

どうやら敵を見つけたようであった。だが、いかに宮部が凄腕のパイロットであろうと、ポンコツの二一型ゼロ戦で敵艦にまで至ることができるかは確かなことではなかった。

この沖縄戦で2,000機以上の「ト」の打電が打たれてきたが、最後の突入信号である「ツー」にまで変わるのを大西が聞いたのは数えるほどしかなかった。



「その成功率のあまりの低さに暗澹とした気持ちになっていました」と大西は当時を思い返す。

アメリカ軍は新開発の優れたレーダー、そして敵機に当たらずとも爆発する「近接信管(マジック・ヒューズ)」という新型砲弾に完璧に守られていた。その鉄壁の防御の前に、命を懸かけたゼロ戦はゲームのように撃ち落とされていたのである。

かつてマリアナ沖海戦において、ゼロ戦を落とすのは「七面鳥撃ち」と嘲(あざけ)られるほどに容易なものであったらしいが、ここ沖縄戦に至ってはハエが叩き落されるようにカミカゼは海に散っていた。










◎悪魔



だが、宮部が操縦桿を握ったゼロ戦ばかりは違った。その機体の古さなど関係なかった。むしろ二一型は宮部が真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナルと運命をともにしてきた愛馬のようなものだった。

宮部機はアメリカ空母に「真後ろ」から迫っていた。しかも、近接信管を搭載した砲弾が誤作動を起こす「海面スレスレ」を。

まさかのゼロ戦接近にアメリカ砲兵らは取り乱し、しゃにむに砲を撃ちまくる。だが、一発も当たらない。自慢の近接信管は海面で電波を反射して、すぐに爆発を起こしてしまうのだった。



「悪魔だ…!」

それは人間業とは思えなかった。何千発もの対空砲火がまったく当たらないのである。その一機のゼロ戦の機敏さに。

「今までのカミカゼとは違う! 奴は本物だ! 本物のエース・パイロットだ!」

それまでに来たカミカゼは皆、素人が乗っているとしか思えないような挙動しか見せなかった。だが、この古いゼロ戦ばかりは全く違う。相当な熟練パイロット、撃墜王が乗っているとしか考えられなかった。



意表を突かれた砲兵たちは、誰もその鋭い動きについていけない。

「速い! 速すぎる!」



アメリカ兵たちがこのゼロ戦の異様さに気づいた時にはもう遅かった。

その悪魔のようなゼロ戦は、最後の最後で火を噴きながらも急上昇。

空母の真上から、鷹のように獲物をとらえていた。



その時、通信室には「ツー」の信号が鳴り響く。

宮部機、突入ス…













宮部久蔵 昭和20年(1945)8月

南西諸島沖にて永眠。26歳。

それは終戦の、わずか数日前のことだった…






(完)












関連記事:

真珠湾の「ゼロ戦」とミッドウェーの「空母」 [永遠の0より]1

ガダルカナルと飛行機乗り [永遠の0より]2

カミカゼ前夜。マリアナ沖開戦と米軍のレーダー [永遠の0より]3

カミカゼ特攻。レイテ沖海戦 [永遠の0より]4から



出典:永遠の0 (講談社文庫) 百田尚樹

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2013年07月06日

カミカゼ特攻。レイテ沖海戦 [永遠の0より]4



カミカゼ前夜。マリアナ沖開戦と米軍のレーダー [永遠の0より]3からの「つづき」






「志願する者は一歩前へ出ろ!」

パイロットを全員集合させた前で、士官はそう怒鳴った。



谷川は「誰も動かなかった」と言う。当然であろう。その志願は「特別攻撃(特攻)」を募るものである。それはいわば「今ここで、死ぬ者は名乗りを上げよ」と言われたようなものだった。

空気は張りつめ、息をするのも苦しいような重い静寂が周囲を覆う。



「行くのか、行かないのか!」

もう一度、士官は声を張り上げた。

その瞬間、ついに何人かが一歩前へ進んだ。そして、その動きにつられるように全員が…。

谷川もまた、皆に歩を合わせていた。



「あれは『命令でない命令』だった…」と谷川は振り返る。

「考えて判断する暇などない。わしらは軍人の習性として、半ば命令に反射的に従ったようなものだった」

気づけば谷川は「死刑執行書」に署名させられていたようなものであった。











◎カミカゼ



「十死零生」

特攻作戦は、出撃すれば必ず死ぬ。生き残る望みは一縷もない。



その特攻隊は「神風(しんぷう)特別攻撃隊」と名付けられた。

みなが「カミカゼ」と呼ぶようになる作戦である。

隊は4つ、「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」。これは本居宣長の「敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山桜花」という歌からの命名だった。



同じ頃、連合艦隊では「捷一号」作戦が発令されていた。アメリカ軍による「フィリピン島への上陸」を、何としても阻止するというものである。

サイパンを陥としたアメリカ軍が次に狙いを定めたのは、この「フィリピン島」。もしこの島がアメリカ軍の傘下に入ってしまえば、日本は南方との連絡が遮断されてしまう。それは、石油などの貴重な資源ルートを閉ざされることを意味した。

もう日本はギリギリまで追い詰められていたのである。



「そのため、連合艦隊はモノ凄いことを考えた」と谷川は言う。

カミカゼ特攻隊もさることながら、空母などの機動部隊そのものを「囮(おとり)」としてアメリカ艦隊を引きつけ、そのスキに戦艦「大和」「武蔵」などがフィリピンのレイテ湾に突入するというものだった。

「まさに、肉を斬らせて骨を断つという必死の作戦だった」










◎史上初の特攻



「それから間もなく、特攻隊のパイロットが発表された」と谷川は言う。

「『関大尉を隊長とする24人』だった。わしの名前がないと知った時はホッとした。そしてそんな自分を嫌悪した」



カミカゼ特攻隊を発案したといわれる大西瀧治郎長官は、選ばれた特攻隊員を前に訓示を述べる。

「今、日本は未曾有の危機である。この危機を救える者は大臣でも大将でもない。それは諸子のごとき『純粋にして気力に満ちた若い人たち』のみである。自分は一億国民に代わってお願いする。どうか成功を祈る。皆はすでに『命を捨てた神』である」








関大尉率いる「敷島隊」は、3度の出撃で敵機を発見できず、4度目の出撃でついに帰って来なかった。

その日、敷島隊を援護したのは「西澤広義」。かつて栄光のラバウル航空隊において「ラバウルにこの人あり」と言わしめた日本海軍最高の撃墜王であった。

西澤ら4機のゼロ戦の役割は、アメリカ軍の猛火にさらされる敷島隊を守りきり、そして彼らの敵艦への体当たりを成功に導くことである。



この西澤率いる最高の護衛隊に守られた特攻「敷島隊」は、見事5機全機が敵艦突入。アメリカ軍の空母を3隻「大破」させるという大戦果を挙げた。アメリカ軍の「意表を突いたこと」が最大の勝因といわれた。

それに加え谷川は「西澤という日本海軍随一の戦闘機乗りが援護したということも大きな理由だっただろう」と言う。

こうして、史上初の特攻は大成功に終わった。そして、お国に命を捧げた関大尉は「軍神」として日本中にその名を轟かせることになる。










◎西澤広義



特攻隊をアメリカ軍の対空砲火から守り抜いた西澤は、基地に戻ってきた。

「これは後に聞いた話だが、ゼロ戦から降り立った西澤飛曹長の異様な殺気には誰も声をかけられなかったという」と谷川は言う。



西澤はその夜、ポツリとつぶやいた。

「オレも間もなく彼らの後を追う…」と。

西澤はその日の出撃で二番機を失っていた。「ラバウルの魔王」とまで恐れられた彼が列機(同じ編隊の機)を失うのはこの時が初めてだった。

谷川は「これまで何百回と出撃し、百機以上の敵機を撃墜してきた男の、じつは一番の勲章は『ただの一度も部下の命を失わなかったこと』だ。彼は、あの地獄のラバウルで一年以上も戦い、ついに一機の列機も失わなかったのだ」と言う。

西澤が「後を追う」と言ったのは、特攻の敷島隊であり、その部下でもあった。



その翌日、西澤の言葉は現実のものとなる。

マバラカット基地に戻ろうとした西澤は、ある指揮官に「ゼロ戦を残していけ」と言われたため、やむなく輸送機に乗って戻ることとなった。その輸送機が敵戦闘機に撃墜されたのである。

これがアメリカ軍パイロットたちの心胆寒からしめた撃墜王のあえない最期である。



「西澤はどれほど無念だったことだろう」と谷川は嘆く。

「ゼロ戦の操縦桿を握っていれば絶対に墜とされることはなかったはずの男が、生涯最期に乗っていたのは『武器を持たない鈍足の輸送機』だったのだ…」

享年24歳という若さだった。








もう一つ皮肉なのは、名手・西澤が特攻機を守り抜いて「史上初の特攻作戦」を大成功に導いたことが、軍司令部に「特攻こそ、まさに切り札」と信じさせたことだった。

だが悲しいことに、のちのカミカゼ特攻はこの時の戦果を上回ることは二度となかった。






◎捨て身、捷一号作戦



ところで、カミカゼが大戦果を挙げた「捷一号」作戦、フィリピン島レイテ湾への決死の突入作戦はどうなったのか?

関大尉率いる敷島隊が特攻出撃を繰り返している同じ頃、戦艦「大和」「武蔵」含む「栗田艦隊」は、アメリカ空母部隊の猛烈な空襲にさらされ、とくに戦艦「武蔵」は満身創痍となっていた。



そこで、「小澤治三郎」司令長官率いる空母部隊は、かねての予定通り「囮(おとり)」としてアメリカ空母を引きつける作戦に出る。敵のレーダーにわざと発見されるように派手に電信を打ちまくり、多くの索敵機を飛ばしていた。

「これは特攻ではなかったが、実質は特攻に近いものだった」と谷川は言う。「なぜなら、空母は囮だから沈められる運命にあった」

この命を賭けた捨て身の作戦は幸いにも奏功した。アメリカの空母部隊は派手な小澤艦隊を「主力だと勘違い」し、まんまとそれを全力で深追いして行ったのだ。



しめたとばかりの「栗田艦隊」。

ガラ空きとなったレイテ湾に、世界最大の戦艦「大和」は猛進する。

「ついに、肉を斬らせて骨を断つという日本海軍の決死の作戦が実ったのだ…」








戦艦「大和」の巨大な姿を見たアメリカ軍は驚愕したという。

頼みとする空母部隊は小澤艦隊におびき出されて、ここにはいない。闇雲に煙幕を張り、魚雷を放ち、必死の逃走をはかるアメリカ軍。

この時、「全滅を覚悟した」と彼らは言う。



だが、ここで「アメリカ軍にとっての奇跡」が起こる。

なぜか、戦艦「大和」ら栗田艦隊は突如「反転」するのである。丸裸のレイテ湾に背を向けて、引き返してしまったのだ。






◎謎の反転



「これが史上有名な『栗田艦隊の謎の反転』だ」と谷川は言う。

「一体なぜ栗田艦隊は『反転』したのか? 後年、様々な説が飛び交ったが、このことについて栗田長官は戦後ついに一言も弁明せずに亡くなったという」








歴史に「if(もし)」はない。

「だが、もしあの時に栗田艦隊がレイテ湾に突入していたなら、その後に起ったレイテ島の陸上戦闘における日本陸軍の何十万人に及んだ戦死者は防げたかもしれない」と、谷川は苦しげに言う。



なぜか引き返した栗田艦隊に対し、囮(おとり)となった小澤艦隊は凄まじい攻撃にさらされていた。

空母主体の小澤艦隊が主力と勘違いされたのは無理もない。真珠湾以来、太平洋の戦いは空母こそが主体となっており、巨大戦艦の時代は終わっていたのである。



しかも小澤艦隊には空母「瑞鶴」がいた。この艦は真珠湾で大いなる戦果を挙げ、海戦史上初となった日米空母対決(珊瑚海海戦)で、アメリカ空母2隻を沈めている。

空母「瑞鶴」はアメリカ軍にとっては「過去3年にわたり苦しめられた憎っくき空母」。そして、日本軍にとっては「武運強き頼れる空母」であった。



だがついに、空母「瑞鶴」はアメリカ軍の猛攻の前に屈することになる。

真珠湾以来の歴戦艦、日本海軍一の武運に恵まれた「瑞鶴」はエンガノ岬沖に沈む。そして、小澤艦隊の多くの艦艇はその後につづく。



一方、カミカゼ敷島隊による特攻が行われたのは、栗田艦隊が反転した翌日だった。

その特攻は栗田艦隊のレイテ湾突入を援護するためのものだったが、すでにその時、栗田艦隊は去っていた…。










◎宮部



決死の「捷一号」作戦は、栗田艦隊の「謎の反転」によって失敗に終わった。

そして、特攻も終わるはずだった。なぜなら、特攻はレイテ湾のみ、捷一号作戦限定の攻撃のはずだった。



だが特攻はその後、「ひとり歩き」をはじめる。

「連日の特攻」が繰り返されるようになるのである。



「志願する者は一歩前へ出ろ!」

もうその頃になると、その声に全員が一歩前に踏み出すようになっていた。

谷川もやはり反射的に前に出た。



「その時、わしは信じられない光景を見た」と谷川は言う。

「なんと、ただ一人、その場から動かない男がいたのだ!」

それは宮部久蔵という男だった。彼は熟練の凄腕パイロット。日中戦争から始まり、真珠湾、ミッドウェー、ラバウルといかなる過酷な戦場をも生き抜いてきた男であった。



動かぬ宮部に、顔を真っ赤にする士官。

「志願する者は前へ!」と怒声を繰り返した。

しかし宮部は石像のごとく動かない。士官の身体は怒りでブルブルと震えている。



「貴様! 命が惜しいか!」

士官はたまらず、そう叫んだ。

「命は惜しいです!」

同じように叫ぶ宮部。



その後、士官は「解散!」と怒鳴り、パイロットたちは宿舎へと戻った。

宮部に声をかける者は、誰もいなかった。






◎死ぬための戦い



特攻は「命令」ではない。恐ろしく強制的だが、あくまでも「志願」という形をとっている。

だが、それに逆らえば「坑命」にあたり、死刑は免れないと考えられていた(どんな理由で死刑になるのかは分からなかったが…)。

だから、特攻に志願するために一歩前へ出ることも、前に出ないことも結局は「死」を意味した。ならば、と皆志願することに追い込まれたのであった。



それでも前に出なかった宮部は、谷川にこう言った。「どんな過酷な戦闘でも、生き残る確率がわずかでもあれば必死で戦える。しかし、必ず死ぬと決まった作戦は絶対に嫌だ」

その思いは、じつは谷川も同じだった。「十死零生」と言われたカミカゼ特攻。通常の戦闘が生き残るための戦いであるのに対して、特攻は「死ぬための戦い」であった。

だが、その「心の底にある真実」を口にするパイロットは、宮部のほか誰もいなかった。



「谷川は初めて志願したのか?」と宮部は聞く。

「二度目だ」と谷川は答える。

「オレには妻がいる」と宮部。

「オレにも妻がいる」と谷川。



谷川の言葉に宮部は驚いたようだった。

「それなら、なぜ特攻なんか志願した」と宮部は責めるように言う。

「オレは帝国海軍のパイロットだ!」

谷川はそう怒鳴った。そして、泣いた。戦闘機乗りになって初めて…。






◎妻



「いいか谷川、よく聞け。特攻を命じられたら、どこでもいい、島に『不時着』しろ」

谷川が立ち去ろうとした時、宮部はそう言った。それは恐ろしい言葉だ。軍法会議にかけられたら間違いなく死刑にされるだろう。

だがその時、谷川の脳裏には「妻・加江」の美しい姿が同時に浮かんでいた。



谷川が加江と結婚したのは、フィリピン・レイテ沖海戦の直前だった。

輸送船の都合で日本で一週間の休暇がもらえた谷川は、久しぶりに故郷に帰っていた。当時、谷川は「真珠湾攻撃に参加したパイロット」ということで村の英雄扱い。

その歓迎会に手伝いに来ていた女性の中に加江はいた。



その美しい女性は、谷川の小学校からの同級生。

「お国のために、ご苦労さまです」と加江は両手をついて深々と頭を下げた。

その後、トントン拍子に話が進み、村長のとりなしで祝言は2日後に決まったのだった。



宮部は「特攻隊員が一人死んだからといって、戦局は変わらない」と言う。

「だが、お前一人が死んだら、妻の人生は大きく狂ってしまうだろう」と。



「百千の灯あらんも われを待つ灯は一つ(東井義雄)」










◎不時着



宮部はその後、どこかへ去った。

それっきりだった。谷川が宮部を見たのは。



風のウワサによると、宮部はカミカゼ特攻で死んだらしい。

「あの宮部が…」

谷川は信じられなかった。宮部のような熟練パイロットが特攻に回されることなど、大戦末期の混乱の中でも考えにくかった。沖縄特攻でさえ、熟練パイロットは特攻には出されなかった。むしろ彼らベテランは本土防衛に必要とされたのだ。



「なぜ、不時着しなかった…?」

谷川には宮部の特攻死が惜しまれた。

「宮部の腕なら、やろうと思えばできたはずだ…」

事実、敵を発見しそこねたという理由や、発動機(エンジン)の不調で戻って来る特攻隊員はいたのであり、不時着する隊員もいたという。



宮部が特攻に出されたのは、終戦数日前の沖縄戦だというが、それならば「喜界島」に不時着できるはずだった。作戦遂行が無理な場合、その島に降りることになっていた。

「だが、終戦直前では喜界島上空も敵の制空権下にあった。さすがの宮部でも、思い爆弾を抱えさせられては如何ともしがたかったのかもしれん…」と、谷川は自分に言った。






◎羊の群れ



あるアメリカ兵は語る。

「カミカゼの噂は聞いていたが、実際に目の当たりにすると震え上がった。初めてカミカゼを見たときの感情は『恐怖』だった。こいつらに地獄の底まで道連れにされると思った」

「スーサイド(自殺)ボンバーなんて狂気の沙汰だ。しかし、日本人は次から次へとカミカゼ攻撃で突っ込んでくる。死ぬことを恐れないどころか、死に向かって突っ込んでくるんだ!」

「こいつらには家族がいないのか? 死んで悲しむ人はいないのか?」



だが、その決死のカミカゼもそう易々とはアメリカ艦隊に近づけなかった。

アメリカ軍が巨額を投じて開発した「電探(レーダー)」、そして「近接信管(マジック・ヒューズ)」などの最新技術は素晴らしかった。

アメリカ空母の撃つ5インチ砲弾はその先から電波が放射されており、飛行機に当たらなくとも近づくだけで爆発して、迫り来るカミカゼ特攻機を軽々と撃ち落とした。



「最高の兵器だ。近接信管の威力は驚異的だった。それを全艦艇が何百発と一斉に撃ちまくるんだ」と、空母の砲手だったというそのアメリカ兵は話す。

対空砲火による一斉射撃による弾幕は、空の色を真っ黒に変えるほどだったという。

「カミカゼは空母に近づく前に吹き飛んだ。その弾幕を突破できるカミカゼなど、ほとんどいなかった」



たとえその弾幕の隙間を抜けられるカミカゼがいたとしても、次に待っているのは40ミリ機銃と20ミリ機銃のシャワー。

「ほとんどのカミカゼは爆発するか、燃えながら海に墜ちた」と、そのアメリカ兵は言う。



アメリカ軍の「対カミカゼ防御」は、それほど完璧だった。

最もカミカゼの集中する沖縄戦において、ほとんどのカミカゼは本体の100マイル(160km)前方に配置されたピケット艦によって200マイル(320km)先からレーダーで補足され、撃ち落とされた。

もはや、カミカゼはアメリカ空母に近づくことすらできなかったのだ。



しかも、カミカゼのパイロットは飛び立つ訓練しか受けていないような技能が未熟な者ばかり。さらに、最初はついていた熟練パイロット機の護衛も、いずれつかなくなっていた。

「いうなれば、番犬のいないような羊の群れだった」とアメリカ兵は語る。

「そんなわけで、やがてカミカゼの恐怖も薄らいだ。最初の恐怖が過ぎるとゲームになった」と彼は言う。「われわれはクレー射撃の標的を撃つように、カミカゼを撃ち落とした」



だが、その標的はクレーじゃない、命を賭けて体当りしようとする人間なんだ!

「もう来ないでくれ…」

次々と突っ込んでくるカミカゼに、彼はそう祈ったという。










◎命の重さ



赤紙一枚「一銭五厘」。

それがカミカゼ特攻隊員の「命の値段」だった。

「赤紙」というのは戦場への召集令状であり、そのハガキ代がわずか一銭五厘だった。それ一枚で集められる名もない隊員たちの命はそれほどに軽かった。








一方、軍司令部の命はじつに重かった。

どんなに致命的な作戦ミスをしようとも、その責任を問われることはまずなかった。



たとえば、真珠湾前夜、アメリカに宣戦布告の手交が遅れたために日本の攻撃は「だまし討ち」となった。それ以後、日本人は「卑怯なだまし討ちをする民族」という汚名を着せられることなる。

だが、当時の駐米大使館の高級官僚は誰も責任を問われていない。あまつさえ、ある高級官僚はノンキャリアの電信員のせいにしようとしたといもいわれる。前夜に「泊まり込みしましょうか」と申し出たその人を。

対米宣戦布告の電報だけなら「わずか8行」。だが、前夜の仕事をパーティーのために怠ったことから、たったそれだけの仕事が、真珠湾攻撃後になってしまったのだという。



ちなみに、日本は今に至るも外務省は公式にその時のミスを認めていない。ゆえに国際的には、真珠湾攻撃は日本人の「だまし討ち」のままであり、「卑怯な民族」のままである。

一方のアメリカ軍、真珠湾の艦隊を撃滅されたということで、当時の太平洋艦隊司令長官のキンメルは解任された上に、大将から少将へと降格されている。その信賞必罰は明確であり、それは司令官とはいえ容赦のないものだった。



だが、日本は違う。ミッドウェー海戦での大敗北しかり、愚かなインパール作戦しかり。高級エリートである司令部が責任を追及された例はない。

偉い人はますます偉くなるばかりで、その代わりに責任をとらされるのは決まって「現場の下級将校たち」であった。連隊長クラス程度ならば自殺をも強要された。



それよりもずっと命の軽かった「名もない特攻隊員たち」。

彼らは、その軽視された命を賭けてアメリカ艦艇に向かっていった。アメリカ軍の凄まじい対空砲火の前に、ハガキ一枚飛ぶように蹴散らされようとも。



そしてついに、「桜花」という人間爆弾が作られる。

それは自力で飛び立つことも着陸することもできない、爆撃機から落とさたときに向きを変えるだけの「非人間的な兵器」。

その搭乗員として選ばれたのは、それまでは赤紙徴兵を猶予されていた「若い大学生たち」であった。













(つづく)

→ 桜花と、ある飛行機乗りの最期。[永遠の0より]5





関連記事:

真珠湾の「ゼロ戦」とミッドウェーの「空母」 [永遠の0より]1

ガダルカナルと飛行機乗り [永遠の0より]2

カミカゼ前夜。マリアナ沖開戦と米軍のレーダー [永遠の0より]3



出典:永遠の0 (講談社文庫) 百田尚樹
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2013年07月04日

カミカゼ前夜。マリアナ沖開戦と米軍のレーダー [永遠の0より]3



ガダルカナルと飛行機乗り [永遠の0より]2からの「つづき」






「いったい、どうなってるんだ?」

空母への着艦を失敗する飛行機が相次いでいる。艦尾にぶつけるもの、甲板でヒックリ返るもの、勢い余って海へ落ちるもの…。



確かに、陸上の滑走路と違い、波に大きく揺れる空母の「短い甲板」に降りるのは非常に難しい。

海軍の飛行機は陸軍と違い「三点着陸」が基本で、尾部のフックで艦の制止索(ワイヤー)に引っ掛けないといけない。これにうまくかからなければ、海にドボンである。

着艦にミスして海中に突っ込んだ飛行機は、後方を走る駆逐艦によってクレーンで吊り上げられる。釣られた飛行機は「トンボ」のように見えたため、「トンボ釣り」とも呼ばれた。



しかし、今回の訓練では発着のたびに相当数の飛行機とパイロットが失われていた。

「たしか、50機以上の機体と同じくらいのパイロットが失われたのではなかったか? 発着艦の訓練だけで、空母一隻くらいの戦力が失われたのだ」

そのあまりにも未熟な様に「谷川正夫」は唖然としていた。






◎昔とは違う…



谷川は真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦、ガダルカナル攻防戦を生き抜いてきた猛者である。

谷川は「ラバウルは『パイロットの墓場』と言われていたが、逆に少数生き残っている連中は腕利きぞろいだった。とにかく数は少ないが、凄腕が何人かいた。いずれも簡単に墜とされるような連中ではない。宮部もそこにいた」と言う。



その宮部というのは、谷川とは日米戦争以前、日中戦争以来の古くからの「顔見知り」だった。

「宮部の一種の天才肌の持ち主だった。格闘戦には滅法強く、いったん敵に喰らいついたら絶対に離さない。誰かが『宮部はスッポンみたいだ』と言っていたのを覚えている」

谷川と宮部は同じ戦場で闘いながらも違う艦に乗っていたため、別に仲がいいというわけではなかった。



その2人が再会するのは「サイパン」。

「お互いに大いに驚いた。その頃は日中戦争当時からの生き残りはほとんど戦死していたから、古い戦友に巡り会えただけで、本当に嬉しかった」と谷川は言う。

だが、海にドボンドボン落ちる発着訓練を見ていた2人の熟練パイロットは、暗澹たる思いにならざるを得なかった。



「着艦もまともにできないパイロットで戦争なんかできるのか?」と谷川は宮部にぼやく。

「おそらく、訓練時間を短縮して実戦にやってきたのだろう。この前、若いパイロットに飛行時間を聞いたら100時間と言っていた。100時間で空母への着艦は無理だ」と宮部は答える。

「100時間じゃ飛ぶだけで精一杯だ。オレたちが真珠湾に行った時は、皆1,000時間を超えていたぜ」と谷川。

「つまりもう昔とは全然違っているということだよ」と宮部は目を伏せる。



日本軍は、ガダルカナル上空、ソロモンの空で貴重な熟練パイロットの8割方を失っていた。そのため、サイパンにいるのは「飛行経験2年未満の若いパイロット」ばかり。

一人前になるには最低でも2年はかかるといわれる飛行訓練だが、彼らは一年足らずで訓練を終えさせられ、実戦へと投入されていたのである。その技量低下は目を覆いたくなるほどだった。



ほどなく、空母への発着艦の訓練は「中止」となった。そのまま訓練を続けていれば、おびただしい飛行機とパイロットを失っていくばかりだった。

「訓練を中止して、どうするつもりなんだ?」と谷川は言った。

宮部はこう答える。「参謀連中は、着艦できなくても発艦さえできればいいと思っているんだろう」

「すると、攻撃は最初の一回限りということか?」

宮部は頷く。「おそらく司令部は『特別攻撃(特攻)』のつもりなのかもしれない。とにかく一撃に賭けるつもりなのだろう」










◎彼我の差



1944年6月、ついにアメリカ軍がサイパンを猛攻した。

ここサイパンは、日本軍としては「絶対に守りきらねばならぬ島」。いままで失ったガダルカナル島やラバウルは太平洋戦争が始まってから占領した島だが、サイパンは違う。ここは「戦前からの日本の統治領」で、多くの民間日本人が住んでいた。

そして何より、サイパンを獲られでもしたら、アメリカ軍の新型爆撃機「B29」が日本本土を射程距離内に収めてしまう。だからこそ、日本軍はサイパンを「絶対国防圏」としていたのである。



それにしても、アメリカ空母の送り込んでくる航空機の数は凄まじい。またたく間に日本軍の基地航空隊は各個撃破され、そのほとんどが壊滅状態になった。

開戦当初、日本のゼロ戦の戦闘能力は群を抜いたいたのだが、今や大戦も末期になると、アメリカの新型戦闘機「グラマンF6F」の前にゼロ戦は刃が立たない。グラマンの装甲鋼板は分厚く、ゼロ戦の7.7mm機銃では突き通せないほどのものになっていた。

「百発くらい撃ち込んでもケロッとしている」と谷川は言う。



とくにパイロットの背中に設けられた防弾板は呆れるほど頑丈であった。その分厚い防弾装備の重装戦闘機を飛ばすため、グラマンF6Fのエンジンは約2,000馬力と、ゼロ戦の2倍はあった。

その弾も通らぬ鋼の板を叩きながら、「アメリカ軍はパイロットの命を本当に大切にするんだなぁと感心した」と谷川は言う。








一方、谷川や宮部が乗るゼロ戦の防御は「なきに等しい」。装甲は極めて薄く、防弾板など皆無である。

「防弾板がないばかりに、どれだけ多くの優秀なパイロットが亡くなったか…。たった一発の流れ弾で命を失うというのは、あまりにも理不尽な気がしたものだ」と谷川は嘆く。



戦闘機の質だけではない。

サイパンで迎え撃つ日本の正規空母は「3隻」のみ。あとは商船改造などの小型空母。

一方のアメリカ軍は、大型空母「エセックス」級をずらりと揃え、その数およそ「10数隻」。このエセックス級というのは「途轍もなく強靭な空母」で、終戦まで日本軍はついに一隻も沈めることのできない空母であった。



「もう彼我の差は、比べるべくもなく広がっていたのだ…」と谷川は言う。

航空機や空母の質や数もさることながら、日本軍兵士には歴戦の強者も少なくなっていた。






◎ボクサーのリーチ



「リスク・ゼロの戦法」

それは小澤治三郎長官の考えだしたもので、日本の航空機の航続距離の長さを活かし、400カイリ(約700km)先からアメリカ艦隊に攻撃を仕掛けるというものだった。この距離からならば、アメリカ軍の手は届かない。

「そう、ボクサーのリーチが長いみたいなものだ。相手の手が届かない距離から攻撃できるのだ」と谷川は言う。

これが世に名高い小澤長官の「アウトレンジ戦法」だった。



その出撃の前日、旗艦空母「大鳳」のメインマストには「Z旗」が翻っていた。

この「Z旗」の意味するところは「皇国の興廃、この一戦にあり」。かつて日露戦争に大勝した日本軍が、ロシアのバルチック艦隊を全滅に追い込む直前に掲げられたという「栄光の旗旒信号」である。








翌6月19日早朝、6次にわたり総計400機を超える攻撃隊が出撃した。かつてない規模であり、かの真珠湾攻撃の規模をはるかに超えていた。

「ただ悲しいことに、それを操縦するパイロットたちが真珠湾の時とはまるで違っていた。もはや昔日の海軍航空隊ではなかったのだ…。結果か? あなたの想像通りだよ」と谷川は言う。






◎マリアナの七面鳥撃ち



アメリカ軍の「電探(電波探知機・レーダー)」の能力やすさまじく、日本の攻撃隊は100カイリも先から捉えられていた。しかも高度まで読み取って!

敵の来襲が分かっていれば、迎撃側の方が圧倒的に有利になる。雲の中にでも隠れていれば、簡単に奇襲は成功するのである。高度も分かっているのだから、それよりも上にいればいい。しかも、アメリカ軍は日本の倍以上の数の戦闘機を繰り出して待ち構えていた。



「この時の戦闘を、アメリカ軍兵士たちは何と呼んだか。『マリアナの七面鳥撃ち』だ」と谷川は言い捨てる。

七面鳥という鳥は動きが非常にのろく、子供でも簡単に撃てる。もうゼロ戦はかつてのツバメのようにすばしっこい飛行機ではなく、七面鳥のようなものだった。

そしてその通り、練度の低い日本軍パイロットたちは、次々と敵戦闘機の餌食になっていった。



それでも、ベテランの谷川は敵艦隊上空まで辿り着いた。

「そこまで来て、わしは戦慄を覚えた。大型空母が何隻も群がるようにいるではないか!」

日本軍の数倍の大型空母を揃えていたアメリカ軍。

「リーチの差など関係あるもんか。重量級のボクサーに挑む軽量級のボクサーのようなものだ!」



その敵艦が打ち上げてくる対空砲火や、「見たこともない物凄い弾幕」である。空はあっという間に真っ黒になる。

もはや、日本軍の攻撃など「蟷螂の斧」。爆撃機は敵艦に近づく前に正確に狙い撃ちされ、墜とされていく。

「相手はまるでネコがネズミをいたぶるように次々と攻撃してくる。反撃などできない。わしはもう何がなんだかわからなくなって、本能だけで敵を回避していた」と谷川は振り返る。






◎大敗



「わしは母艦に帰ることにした」と谷川。

リスクゼロを謳ったアウトレンジ戦法は、パイロットに片道400カイリ(700km)という2時間以上の洋上飛行を強いる過酷なものだった(司令部にとってのリスクはないかもしれないが)。



ようやく辿り着いた味方の空母。だが1隻しか見当たらない。たしか、3隻いたはずだったが…。

空母の乗員に聞けば、「大鳳」「翔鶴」の2隻の空母は「敵潜水艦の雷撃」によって沈められたというではないか!

「全身の力がいっぺんに抜けてしまった。こちらの全戦力を傾けた攻撃が不発に終わったその間に、我が方の空母が2隻も沈められるとは…」と谷川は言う。



沈められた一隻、「大鳳」は戦艦並みの大型空母(4万トン級)で、しかも飛行甲板には「鉄板」が敷かれた新型空母だった。

ミッドウェー海戦でやられた日本の空母4隻は、いずれも500キロ爆弾の急降下爆撃によってであった。その轍を踏むまいと、新型の「大鳳」にはそれらの爆撃に耐えられるような「鉄板」が敷かれていたのである。

だが虚しくも、海中からの雷撃によって自慢の「大鳳」はあえなく沈んだのであった。








ただ一隻残った空母は「瑞鶴」。

これは真珠湾から戦い続けている空母で、海戦史上初となった日米の空母同士の対決「珊瑚海海戦」をも勝ち抜いた「武運に恵まれた艦」であった。








しばらくすると、宮部のゼロ戦も空母「瑞鶴」に戻ってきた。

「よく生き延びたな!」と安堵しあう2人。



これが「マリアナ沖海戦」の初日。

この日だけで、日本の航空機は300機以上、そして虎の子の空母を2隻失った。「たった数時間」でほとんどの戦力が壊滅したのだった。

一方、アメリカ軍の損失は「皆無」に近かった。






◎防御の発想



「大勢喰われたな…」と谷川は言った。

「たぶん『電探(レーダー)』だな。敵の電探は相当すぐれたものになっている。何かはわからんが、とんでもなく恐ろしいものだというは分かる。もう敵空母を沈めることなんか出来ないかもしれない」と宮部は話す。



ものすごい確率で命中するアメリカ空母の「対空砲火」。

その秘密兵器は「近接信管」という電探で、「マジック・ヒューズ」というアダ名で呼ばれていた。その砲弾の先からは電波が半径15mに放射されていて、その電波が飛行機を察知した瞬間に爆発するという恐ろしい仕組みになっていた。

つまり、この砲弾は飛行機に命中しなくても、その近くまでいけば飛行機を吹き飛ばすのであった。この「マジック・ヒューズ」の開発に、アメリカ軍は「原子爆弾」と同じくらいの金をかけていたという。



それを谷川が知るのは戦後のことだが、それを知った時には「日米の思想の違い」を痛感したという。

「近接信管は言ってみれば『防御兵器』だ。敵の攻撃からいかに味方を守るかという兵器だ。日本軍にはまったくない発想だ。日本軍は『いかに敵を攻撃するか』ばかりを考えて兵器を作っていた」

「その最たるものが戦闘機だ。やたらと長大な航続距離、素晴らしい空戦性能。しかしながら、防御は皆無…」



日本軍には最初から「徹底した人命軽視」の思想が貫かれていた、と谷川は言う。

「そして、これがのちの『特攻』につながっていったに違いない…」






◎カミカゼ



以後、逃走する日本軍を、アメリカの空母部隊がしつように追い回す。

ついに武運強き空母「瑞鶴」も爆弾を受けて小破。開戦以来初めての被弾であった。だが、それでも逃げ切った。

「こうして乾坤一擲の大勝負をかけた『マリアナ沖海戦』で、日本の連合艦隊は戦力の大半を失い、敵のサイパン上陸部隊を叩くことはまったく出来なかった」と谷川は話す。



この後、サイパンの日本陸軍はほとんど全滅。

「バンザイ岬」では、多くの民間日本人も身を投げて死んだ。








勢いにのるアメリカ軍の次なる反攻地点は「フィリピンのレイテ島」。

谷川は「ルソン島」の基地への配置となった。



そして、しばらくしたある夜、ついに特別攻撃(特攻)の「命令ではない命令」が下る。

その特攻とは、のちに言う「カミカゼ」のことである。













(つづく)

→ カミカゼ特攻。レイテ沖海戦 [永遠の0より]4





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真珠湾の「ゼロ戦」とミッドウェーの「空母」 [永遠の0より]1

ガダルカナルと飛行機乗り [永遠の0より]2



出典:「永遠の0」
 百田尚樹
posted by 四代目 at 08:59| Comment(0) | 第二次世界大戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする