2011年11月16日

知られざる日本・神話の時代。九州に残る神相撲の語りかける真実とは?


「その御顔を見たら、呪われる」

1,300年間もそう信じられてきた人形があった。

「磯良神(いそらのかみ)」の人形である。



ここは大分県中津市。

3年に一度、旧暦閏年の10月12日に「古要神社」にて、神に捧げる人形芝居が行われる(正式名称:傀儡子の舞、および神相撲)。

1,300年も住民たちに受け継がれてきた伝統行事である。



「磯良神(いそらのかみ)」はその人形芝居に登場する神様である。

その御顔には紙が巻かれ、芝居をする者たちですら見たことがないという。

御顔に巻かれた紙が古くなって、それを取り替える時ですら、細心の注意を払って御顔は見ないようにしているそうだ。

誰しも「タタリ」には遭いたくない。たとえ、それが迷信だとしても。

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この人形劇のクライマックスは「神相撲」。

東の横綱「祇園(ぎおん)さま」と西の横綱「住吉(すみよし)さま」の大一番である。



祇園さまは、ひときわ大きい。他の人形の軽く2倍はある巨大さである(65cm)。それゆえ、いかにも強そうだ。

対する住吉さまは、祇園さまの半分の小ささ(33cm)。圧倒的に不利である。



住吉さまがさらに不利になるのは、祇園さまに大勢の助太刀が現れてからである。

たった一人の小さな住吉さまは、押しに押されて何度も窮地に陥る。

ところが、一転、住吉さまは祇園さまの大軍勢を見事投げ飛ばすのである。

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この人形芝居は、九州の豪族であった「隼人」と中央政権「大和朝廷」の戦い(719)を模したものと伝わる。

大きな「祇園さま」が大和朝廷であり、小さな「住吉さま」は九州の隼人である。



史実では、当然ながら大和朝廷(大きな祇園さま)が勝利を収めるのであるが、この人形芝居においては、逆に九州の隼人(小さな住吉さま)が勝つ。

それは、殺された隼人族数千人の怨霊を鎮めるためと言われている。すなわち、この人形芝居は隼人の霊への供養祭として始められたのである(744)。

現在に伝わる人形たちは、江戸時代、細川忠興により新しく作り直されたもの(1617)を大切に使い続けているのだという。



ところで、この人形芝居の寓するところは、一地方の反乱のみではないような気がしてならない。

というのも、相撲で対決する「祇園(ぎおん)さま」と「住吉(すみよし)さま」は、もっともっと意味深な存在である。

それは両方の神様を詳しく見ていくことで明らかになる。両神の背景には共通して「朝鮮」があるのである。



祇園さまの祀る神は、「スサノオ」と「牛頭(ごず)天王」。

対する住吉さまの祀る神は、「住吉三神」と「神功皇后」。

「スサノオ」と「牛頭天王」は異国由来の神とされ、対する「住吉三神」
と「神功皇后」は日本古来の神とされている。



スサノオは天から追放された後、新羅(朝鮮)のソシモリに降り立ったと伝わる(諸説あり)。

牛頭天王は元々、釈迦の聖地である祇園精舎の守護神であり、こちらは明らかに異国の神である。

牛頭天王は京都に流行った「疫病」を鎮めるために日本に呼ばれたとされる。昔、疫病は異国から来ると考えられていたため、異国の疫病に対抗できるのは、異国の神様より他にあるまい、となったのである。

京都の祇園祭は、その名残りである。夏は疫病の蔓延しやすい季節であったから、牛頭天王に是非疫病を鎮めてもらおうとしたのが、その起源とされている。



また、スサノオと牛頭天王は「恐ろしい神様」でもある。

日本の神様は、優しい神様(和する神)と恐い神様(荒ぶる神)の大きく2つに分けられるが、両神とも「恐い神様」なのである。



スサノオはワガママによって天から追放され、その粗暴な振る舞いにより、姉である天照大御神(あまてらすおおみかみ)は岩屋にこもってしまう。

その強さから、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治するという伝説もあるが、恐ろしい乱暴者というイメージが付きまとう。

牛頭天王は、その姿カタチの恐ろしさゆえに、近寄ることすらはばかられたという。頭には1mもの赤い角があったとされ、牛の顔をした鬼のような存在であったのだ。



かたや、住吉さまを象徴する「住吉三神」と「神功皇后」には良いイメージがある。

「住吉(すみよし)」の「吉」は古来「え」と読み、「すみのえ」、つまり「澄んだ入り江」のことである。

神功皇后は、応神天皇を生んだことから「聖母(しょうも)」とも呼ばれている。



どちらかといえば、両神ともに優しい神(和する神)である。

さらに、両神ともに水と関係が深い。住吉三神は海の神様であり、神功皇后は母なる海である。

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ここで少し整理すると、「祇園さま(スサノオ・牛頭天王)」は恐ろしい神様であり、「住吉さま(住吉三神・神功皇后)」は優しい神様であることが分かる。

また、祇園さまが「大陸(異国)」を思わせるのに対して、住吉さまが「海(島国・日本)」に通ずる要素があることも分かる。



つまり、祇園さまと住吉さまとの相撲は、「大陸勢」と「島国勢」の戦いの姿をも思わせるのである。

素直なイメージに従えば、大陸勢が「悪玉」、島国勢が「善玉」ということにもなる。

人形の大きさもそれを示している。巨大な大陸勢(祇園さま)と小さな島国勢(住吉さま)である。



祇園さまと住吉さまが「朝鮮」でつながるのは、住吉さまの祭神である「神功皇后」に朝鮮征伐(三韓征伐)の伝説が残るためである。

海を渡った神功皇后は、朝鮮半島の「新羅・百済・高句麗(三韓)」を日本の支配下に収めたのだという。

この三韓征伐の伝説こそが、豊臣秀吉の朝鮮出兵、そして明治時代の征韓論、さらには韓国併合(1910)の大義名分とされるものである。



元々、神功皇后は天皇の一人とされていたのだが、なぜか大正時代の詔書(1926)により、歴代天皇から外されている。

さらには、実在しなかったという説まで根強い。また、神功皇后を卑弥呼、もしくはその跡を継いだ壹与とする説もある。

神功皇后の陵墓とされる古墳は現存するものの、宮内庁の厳重な管理下に置かれているために、まともな調査が行われたことは未だにない。



この辺りまで踏み込んでしまうと、歴史の「不都合な果実」に出くわしてしまうのかもしれない。

朝鮮半島と日本列島の知られざる歴史である。

歴史には「消された事実」が幾多とある。



冒頭でご紹介した「磯良神(いそらのかみ)」もそうである。

この神様は御顔を表すことすら許されていない。「呪い」という呪縛によって。



「磯良神」は神宮皇后の朝鮮出兵の際に、助力を求められた神様であるという。

磯良神には「潮の流れ」を操る霊力があったため、神功皇后の朝鮮征伐は成功したのだとも伝わる。



また、磯良神はウガヤフキアエズ(鵜草萱不合命)の同一神であるという説もある。

このウガヤフキアエズの神は「異類の神」とされる。

天皇につながる神々の名前には、すべてに「稲」が関連付けられているのだが、このウガヤフキアエズに限っては、その稲と無縁なのである。



現在の定説では、ウガヤフキアエズは神様の一人(一柱:神様は正確には柱と数える)とされているが、「竹内文書」などによれば、その名は一柱の神様を意味するのではなく、数十代にわたる「王朝」のことと記されている。

しかし、ウガヤフキアエズを長期に渡る王朝であったと伝える「竹内文書」は、現在「偽書」とされており、正式な歴史とは認められていない。

またまた、不都合な果実の登場である。



磯良神の御顔は、その「醜さ」ゆえに隠されているというのだが、はたしてそれは真実か?

都合の悪い真実が隠されたのではあるまいか?



ここで面白いのが、祇園さまも住吉さまも「同根」なのである。

その大元はイザナギ・イザナミの夫婦神である。

祇園のスサノオは、この夫婦の三兄弟の末っ子であり(姉にアマテラス)、住吉三神も然り、イザナギの禊ぎにより生まれた清めの三神なのである(三神とは表面・中ほど・底)。

つまり、祇園さまと住吉さまは、同じ神様の異なる側面と捉えることもできる。祇園さまが悪の顔、住吉さまが善の顔となる。



そして、その系図をさらに遡れば、ウガヤフキアエズ、つまり磯良神(いそらのかみ)に行き着くこととなる。

磯良神は、神功皇后に味方することに思い至れば、元々の正統性は住吉さまとも考えられる。

それならば、祇園さまが恐ろしい神様(荒ぶる神)であることにも合点がゆく。



しかし、現在の定説に従えば、正統と思われる住吉さまが軽く扱われ、ときには歴史の闇に葬られたりもしている。

それに対して、祇園さまは悪の神様から見事に転化し、おおいに隆盛を極めているとも言える。

大和朝廷により、歴史が都合よく操られた成果であろうか?



ここに一つ、歴史の「妙」がある。

武家政権の祖ともされる源頼朝、そのご先祖さまの源満仲(清和源氏の祖)は、住吉さまを奉じているのである。

つまり、大和朝廷以来、不遇をかこってきた住吉さまは、武家に担ぎ出されることにより、再び表舞台へと登場するのである。

そして、その武家政権は江戸時代の終わりまで続くことになる。



そもそも、武士の発生を考えると、なぜ源満仲が住吉さまを奉じたのかも、おぼろげながら見えてくる。

大和朝廷に辺境とされた東北や九州の民は、都人たちから侮られる存在であったものの、その優れた武勇によって一目置かれた存在でもあったのである。

武士階級というのは、そうした武勇に優れた辺境の民が、その祖となったと言われている。

つまり、武家とは辺境の民(東北・九州)の末裔とも言えるのである。



大和朝廷によって制圧された東北・九州の民は、日本列島に古来より住み着いていた集団とも考えられる。

すなわち、辺境の民こそが、元々住んでいたという意味では正統であり、大和朝廷こそが後からやって来た勢力であるということにもなる。

祇園さまに駆逐された住吉さまは、まさにそうした辺境の民と符合する。

それならば、その辺境の歴史が秘められ、書き換えられようとも何ら不思議はない。



江戸時代、武家の細川忠興が、あの人形芝居を再興したのは偶然なのであろうか。

それとも、真の歴史を少なからず伝えようとした歴史の必然だったのであろうか?



なぜ、1,300年もあの人形芝居は語り継がれているのか?

大きな力が残そうとしたわけではない。か弱い民衆によって細々と、しかし途切れることなく伝えられて来たのである。



歴史は無慈悲ではない。

残るべきものは、どれほどの苦難にさらされても残される。

九州の片田舎に残った人形芝居に、その影をみるのは大ゲサか?

それとも逆に、いつ途絶えてもおかしくないほどの小さき伝統が残された奇跡に、真実の影を見出すのか?

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歴史の優しさは、どうとでも解釈できる融通の中にもみることができる。

各々が信じたいように信じられるくらいの余白は、充分に残されている。



ただ、自分の解釈を人にまで強要した時には、明らかに歴史は歪む。

実際、大和朝廷の歴史には、数々の歪みがある。

そして、その歪みは時おり歴史上で不思議な因果となって現れる。武家政権の誕生も、その因果の一つであろう。



日本古代の歴史には、まだまだ異論が多い。

ということは、その歴史には未だに解消されていない因果(歪み)が、まだまだあるということだ。

そうした歪みは、知るべき時、そして、正されるべき時を待っているのかもしれない。



その日が来るまで、あの人形芝居は続けられてゆくのだろう。

そして、その因果が消えた時、その伝統は必要なくなるのかもしれない。



人形芝居のクライマックスは、祇園さまと住吉さまとによる派手な大一番ではあるのだが、「磯良神(いそらのかみ)」の登場シーンの方が「印象的」だったと感じる人も多いという。

顔をおおった磯良神が舞台に登場するや、舞台はシンと静まりかえる。

舞の囃子が中断されるのである。



そして、その静けさの中で、磯良神の「宣り言(のりごと)」が厳かに唱えられる。

この「宣り言」こそが、この人形芝居の真のメッセージなのかもしれない。

いうなれば、傀儡(くぐつ)は操り人形に過ぎない。その背後には大きな「何か」が存在するものである。



日本という不思議な国の歴史は、傀儡(くぐつ)の歴史だとでも言うのであろうか?

人智の及ぶところは限られている。誰一人として、磯良神の言葉(宣り言)理解できる者はいない…。

すべての芝居を見届けるは、「明けの明星・宵の明星」という二柱の神さまのみである…。

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出典:ドキュメント20min.
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2011年10月28日

幻の邪馬台国、謎の女王・卑弥呼とともに。


「邪馬台国と卑弥呼」

この国家と女王ほど日本人に拡大解釈されている歴史も珍しい。

それもそのはず。その根拠とされる史書は、中国の「魏志倭人伝(三国志)」のたった2,000文字(原稿用紙5枚分)のみ。

その記述は曖昧で不正確な部分も多々あるために、幸か不幸か、いかようにも解釈できる余地が多いに残されているのである。



邪馬台国の最大のナゾはと言えば、その所在地ということになる。

九州にあったのか? 畿内にあったのか?

この2大有力候補のみならず、邪馬台国の候補地として立候補しているは、新潟から沖縄まで日本全国でじつに80箇所を超えると言われている。

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魏志倭人伝の記述に正確に従えば、邪馬台国ははるか南洋海上に位置することになる。

韓国、対馬、そして九州に上陸したまでは良いのだが、そこから「南へ水行10日」、さらに「南へ水行20日」、最後に「陸路一ヶ月」。この後半部分の解釈が専門家によって大きく異なるのである。

「きっと書き間違えたか、写し間違えたに違いない」として、皆が皆、勝手な解釈を展開しているのである。

南ではなく「東」へ行ったのだと畿内説派は主張し、陸路一ヶ月は「一日」の誤りであるなどなど。

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邪馬台国はどこにあったのか、この激論の鏑矢は江戸時代に放たれた。

「新井白石」が畿内と言えば、「本居宣長」は九州という。

新井白石は「古史通域問」にて邪馬台国は「大和の国」としながら、「外国之事調書」では筑紫(九州)の国「山門郡」とする(どちらが先に記された書かは判然としない)。

新井白石の死後、本居宣長は大著「古事記伝」にて邪馬台国を「筑紫(九州)」とし、卑弥呼は「熊襲(九州古来の諸部族)の類」とした。



新井白石が「幕府の臣」であるのに対して、本居宣長は「天皇の臣」である。

そのため、本居宣長は「日本の天皇が中国に朝貢した(屈した)歴史などあってはならない」という立場に立っていた。

卑弥呼は幾たびか中国(魏国)に朝貢し、魏国からも2度ほど使者が訪れている。また、邪馬台国が他国(狗奴国)に攻撃された際には、魏国に援軍をも求めている。

朝貢したのは卑弥呼のみならず、後を継いだ「壹與」も同様であった。それゆえに、魏国の歴史(魏志)に邪馬台国の記述がわずかながらも残っているのである。



「魏志」における日本の記述はオマケのオマケのような扱いである。

通称である「倭人伝」というものは存在せず、正確には「東夷伝」の一部の「倭人の条」というところに記載されたものである。

大国・中国からしてみれば、中華の周辺民族は未開であり、歯牙にもかからない存在だったのである。邪馬台国といえども東方の蛮族(東夷)の域を出ず、遠く海を隔てた得体の知れない国の一つに過ぎない。



邪馬台国や卑弥呼というのは、当て字なのであろうが、その当てた漢字を見ても、いかに日本が卑下されていたかがうかがえる。「邪」「馬」「卑」…。

倭人の記述によく見られる漢字は、他に「奴」「狗」「鬼」「烏」などなど。国名や人名には決まってこうした蔑称が用いられている。

卑弥呼の死のキッカケともされる邪馬台国の敵国は「狗奴国」。つまり、邪馬台国と狗奴国の戦いは、「馬」と「狗(いぬ)」の争いということにもなる。

朝廷派の本居宣長ならずとも快くは思わない。



しかも、そこに描き出された倭人は実に野蛮そうである。

顔や身体に「入れ墨」が施されていたり、全身を「朱色」に塗っていたり。裸足で生活し、食べ物は「手づかみ」で食べる。

外見や行動は奇異であったようだが、その性格となると評価はまずまず。盗みはなく、訴訟は少ない。女性は慎み深く、嫉妬しない。



魏志倭人伝には、邪馬台国の他に重要な国として「伊都国」と「狗奴国」が登場する。

「伊都国」は邪馬台国の北にあり、邪馬台国の支配下に置かれている。大陸からの使者はこの地に常駐したとされる。国名に卑しい漢字を用いられていないあたり、倭国の中でも中国にとって重要な国であったことが察せられる。

おそらく、邪馬台国は武力により伊都国を制圧したのであろう。邪馬台国の成立以前は、小国が乱立して争う時代だったのである。



一方、「狗奴国」は邪馬台国の南にある敵国である。

この国ばかりは邪馬台国に屈することはなかった。邪馬台国の女王・卑弥呼はこの国との抗争中に死去している。

邪馬台国と狗奴国との争いは、どちらが勝ったか負けたかは定かでない。なぜなら、卑弥呼の死とともに、中国の歴史書から日本は消えるのである。

最後の記述は、卑弥呼の後継者となった壹與が魏国に貢物を贈ったところで終わっている。

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その後の100〜150年間、日本では何があったのか?

少なくとも、邪馬台国のような親・中国政権は誕生しなかったのだろう。朝貢があれば、中国の歴史書に記されることとなる。

ある研究者によれば、この時期に明治維新、第二次世界大戦敗戦に匹敵するような大転換点があったとも考えられている。

確かに、入れ墨をして、手づかみで食事をする邪馬台国の人々と、我々の知る日本人は大きく隔たっているようにも思う。



歴史書に突如現出し、大いに人々を惑わす邪馬台国。

そして、それに次ぐ空白の時代。

ここに日本人が渇望するルーツが秘められているのかもしれない。



歴史が明かされていないことには、それなりの理由もあるのであろう。

知るべき時が来れば、それは自ずと明らかとされるのかもしれない。

謎は謎であるのも、未知は未知であるのも美しい。




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日本武尊の霊験か? 鳥も畏れるそのオーラ。

神話を忘れた国民は100年続かないという。



出典:歴史秘話ヒストリア
女王さま振り向いて!〜最新研究!邪馬台国・卑弥呼のヒミツ



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2011年10月01日

日本武尊の霊験か? 鳥も畏れるそのオーラ。


鳥が近寄らない「銅像」があるというのも面白い話である。

その銅像とは、金沢(石川)は「兼六園」にある「日本武尊(やまとたける)」像のことである。

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「なぜ、この銅像には鳥のフンがつかないのか?」と疑問を抱いていた「廣瀬幸雄」氏。

その謎は、日本武尊像の改修工事の折に明らかになる。



この銅像は、他の銅像とは「異なる成分」で出来ていた。

何が異なるかと言えば、「ヒ素」と「鉛」の含有量が非常に多いのである。

「はは〜ん、ヒ素も鉛も毒だからか。なるほど。」と思うのは早計である。



本当の秘密は、ヒ素と鉛そのものではなく、その含有比率から誘導される「電磁波」にあった。

異種金属が多いことにより電流が発生し、「鳥の嫌がる電磁波」が銅像より発せられていたのである。

その様をイメージしてみると、あたかも日本武尊の「オーラ」に鳥が近づけずにいるようではないか。



この銅像が建てられたのは、明治13年(1880年)。西南戦争で没した霊を慰めるものであったという。

当然、鳥が近寄れない電磁波はあらかじめ計算されたものではなかった。

それは偶然の産物である。



当時の銅像造りの技術では、銅を溶かす温度が十分に上げられなかった。

そのため、銅が溶けやすいように「ヒ素と鉛」を混合したのだそうな。

後々に分かることであるが、この「ヒ素と鉛」の割合は多すぎても少なすぎても、鳥の嫌がる電磁波が出ないとのことである。

まさにタマタマ、そういう割合になったということである。



この発見をした「廣瀬幸雄」氏は、見事「イグ・ノーベル化学賞」を受賞した(2003)。

「ん?ノーベル賞でしょ?」

ノーベル賞ではなく「イグ」ノーベル賞である。これは「裏」ノーベル賞とも言われるユニークな賞である(頭に「イグ」をつけると反対の意味になる)。

この賞は「人々を笑わせ、考えさせてくれる研究」に与えられる賞であり、他の日本人の受賞者には、バウリンガル(犬の鳴き声を翻訳する機械)の発明者などもいる。



イグノーベル賞はバカバカしくも楽しい賞ばかりであるが、とても実用的な研究も少なくない。

廣瀬幸雄氏の銅像の研究もそうであり、鳥が近寄れない電磁波の技術は「カラスよけ」として応用されているのだという。



さらに余談ではあるが、日本武尊(やまとたける)に関する雑学を。

名前を聞いたことはあるけど、日本武尊が何をした人か知らない人は多いように思う。

生年は「西暦72年頃〜113年頃」、古事記や日本書紀に登場する神話的な人物である。



日本武尊の人生は、戦いの一生である。

九州(熊襲)を征伐するのを皮切りに、出雲(島根)、吉備(岡山)、難波(大阪)と次々に邪神を退治してゆく。

西方の討伐を終えるや、次は東国である。



さすがの日本武尊も東国では少々手こずる。

相模では「火攻め」に遭う。ここで登場するのが有名な「草薙(くさなぎ)の剣(天叢雲剣)」である。燃える草をこの剣で薙ぎ払うや、逆に敵を焼き尽くしてしまう(この地が焼津となる)。

相模から上総(千葉)に渡る海では「大波」に遭う。この大波を鎮めるために海に身を投げるのが、日本武尊の妻である。

日本武尊は東国を平定した後、「わが妻よ…」と三度嘆いたと伝わる。「わが妻 = 吾妻 = 東(あづま)」ということで、東国は「あづまのくに」と呼ばれるようになったのだとか。



東国平定の帰途、日本武尊は伊吹(滋賀)の神との戦いで病の身となり、伊勢を経て、熊褒野(三重)の地にて没する(享年30歳前後)。

死して後は「白鳥」になり天へと翔けてゆく。



このような人物に「鳥」が近寄れないというのも、面白い偶然である。

ついついスピリチュアルな解釈を試みたくもなるが、それが化学的なものであったというのも「幽霊の正体見たり…」のようだ。

それでも、この偶然を引き寄せたのは日本武尊の「霊験」か?





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出典:爆問学問
「笑うイグノーベル賞SP〜世界を変えた発明編」


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2011年04月18日

神話を忘れた国民は100年続かないという。



「神話を教えなくなった民族は100年続かない」

歴史学者、アーノルド・トインビーは
世界中の民族を研究して、こう言った。

第二次世界大戦以降、
日本の教科書に「神話」はない。

戦後の日本を支配したアメリカが、
「天皇の系譜や日本書紀などの建国の話を
危険思想として教えることを禁じた」からである。

世界の国々で、自国の建国の歴史を教えない国はほとんどない。
むしろ、自慢げに国の歴史を語る国民がほとんどだ。

ところが、日本人は建国の歴史を知らないほうが普通で、
自国にあまり自信を持っていない。

それほど、戦後のアメリカ支配によって植えつけられた
日本人の罪悪感は強烈だったのだ。

アメリカがことのほか丁寧に日本人の意識を変えたのは、
「天皇」に関する事柄である。

現在、日本の教科書に天皇の記述はたったの4行、

「戦前は絶対的な主権者だった天皇が、
戦後その地位を追われ、国民が主権者になった。
天皇はもはや象徴である。」という主旨。

我々が常識としている「象徴としての天皇」がここにいる。

しかし、竹田氏は言う、
「天皇主権の主権と、国民主権の主権とでは、全く意味が違う。
天皇のそれは権威であり、国民のそれは権力である」

そして、それは「戦前も戦後も何ら変わっていない」と。

過去の日本を振り返れば、
天皇が権力を握って、政治を行った例は極めて少ない。
「天智、天武、持統、宇多、醍醐、後醍醐天皇」くらい。

あとは幕末に孝明天皇が一時権力を握ったほかは、
ポツダム宣言の受諾のみ。

つまり天皇の主権とは、大昔から権威であり、
「戦前も戦後も何ら変わっていないのである」

それが、戦後の喧伝によって、
あたかも天皇が主権者から
「象徴」に転落したかのごとき錯覚に
日本人は陥ってしまっているのだそうだ。

そんな戦後の歴史を経て、日本は
「日本が好き」という人が4割しかいない国民となった。
これは先進国中「最下位」であり、異常な数字である。

戦後のアメリカが恐れたのは、
あまりにも優秀な日本の国民性だったという話は、
時代を経るにつれて、真実味を増してくる。





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posted by 四代目 at 13:20| Comment(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする