2013年10月14日

人を信じない男、中国最初の皇帝 [史記] 後編



人を信じない男、中国最初の皇帝 [史記] 前編 よりの「つづき」






天下統一を果たした秦の始皇帝。

その孤絶の頂から、彼にはどんな景色が見えていたのか。



厳然と施行される法に、新しい国はまったく平らに整っているかのようだった。しかし一皮むけばその下に、声には出せぬ怨嗟がドロドロと渦巻いていた。

秦の徹しきった法家主義には、おおよそ血がかよっているとは思われない。あまりの厳罰主義に罪人の数ばかりが膨れ上がり、そうして罪人とされた者たちは過酷な労働に酷使された。たとえば、阿房宮の造営。その後宮には、中国全土から選りすぐりの美女3,000人が入るという、おのが欲望のためだけに建てられるような代物だった。

中国現代の史家・范文瀾の推定によれば、当時の人口約2,000万人のうち、阿房宮や始皇帝陵墓の建設のために150万人、万里の長城建設に30万人、雑役をくわえ約300万人(人口の約15%)もの民衆に労役が課せられていたという。さらには苛酷な徴税である。民はギリギリにまで絞り上げられていた。






■一君万民



秦は「黒」を好んだ。

というのは、中国には古くから五行思想(木・火・土・金・水)というものがあり、それに照らせば秦は「水」。その司る色が黒であったことから、衣服・旗印・幟などに黒が尊ばれた。

また「6」も好まれた。これもまた水の司る数であり、割符や冠は6寸、車の幅は6尺、馬車は6頭立てとされた。



「法」を重んじたのも、秦が水徳をもつとされたからであった。

”すべて法の定めどおりに行われ、冷厳一徹、恩義や人情を排除することが水徳にかなうとされた。したがって法による追求は厳しく、どれほど時が過ぎても、けっして許すことがなかった(徳間文庫『史記』)”



法は信じるが他人を信じぬ始皇帝は、従来のように各地に王を置くことを嫌った。しかし、丞相の王綰(おうわん)はそれに異議を唱えた。

「燕・斉・楚はなにぶんにも僻遠の地。王を置かなければ完全な掌握は望めません。なにとぞ諸皇子を王として、その任にお当てくださいますよう」

それに対して李斯(りし)は、「かつて同族を王とした周が、代を重ね血縁が薄れるにつれ、互いに敵視し対立するようになった」と指摘。各地に王を立てることは「戦禍のタネ」をまくに等しく、有害無益と主張した。

始皇帝はこの李斯の意見を採り、全土は始皇帝の直轄地とされた。新しく36に分けられた地方には中央から官僚が派遣され、その任免は始皇帝のサジ加減ひとつであり、世襲などもってのほかであった。






■焚書



のちに、儒者の一人であった淳干越(じゅんうえつ)は、ある酒宴の席にて王の問題を蒸し返した。

「殷・周の王朝が1,000余年も栄えたのは、子弟や功臣を王に封じ『皇室の藩屏(はんぺい)』としたからだと言われております。しかるに陛下は、ご子弟のいずれも一介の平民に留められたままでございます。これでは将来、藩屏なしでいかに皇室を保持できましょうや。なにごとにつけ、古(いにしえ)を手本としないで永らえたためしはございません」

王をおくか否かよりも、李斯(りし)は「古(いにしえ)」という言葉にカチンときた。

李斯は言う、「迂愚の学者どもは現今を師とせず往古を学び、天下を批判して民心を惑わす。上古の世を理想とみなして現代を批判し、陛下の法制に異を唱えることを名誉と心得、誹謗に明け暮れている」



「昔は、昔は」とばかりいう儒者たちに、李斯らは我慢がならなかった。新たな世を築いた自負がある。

そして断行された「焚書坑儒(ふんしょ・こうじゅ)」。

これが秦の悪政を決定づける。



「史官の秦記にあらざるは、皆これを焼かん」

詩・書を論じあう者がいれば”さらし首”。上古を理想として現代を非難する者は”一族皆殺し”。書籍を焼き捨てない者は”入墨したうえ重労働”。

ただ、医薬・卜筮・農事に関する書は例外とされた。



いわゆる愚民化政策。

だが学問を全否定したわけではない。地方の書はおおかた焼かれたが、中央にはすべてが集められた。朝廷にはあらゆる書物が保管され、儒者とはいえ登用された者もいる。

むしろ、文字などは秦の天下統一によって利便性が高まった。それまでは7つの各国で異なっていた文字が「秦篆(あるいは小篆)」と呼ばれる、簡略で書きやすい字体に改められていた(それは学を広めるというよりも、法令を全国に正しく行き渡らせるという意が強かったのだが…)。



焚書が秦にとってより有害だったのは、以後、儒者・淳干越のように皇帝を諌める「直諫の臣」が地を払ってしまったことだ。

皇帝の権威ばかりがますます高まり、その高みはもはや窺うことすら許されなくなってしまうのだった。






■真人



唯一無二の存在であった始皇帝。

ある時から、その所在すらを人にあらわさなくなった。

それは、ある方士の奏上によるものだった(方士とは、人が神仙になることを目指す行者)。



方士・盧生はいった、「仙人の方術に、”人主はつねに微行して悪鬼を避けよ。悪鬼を避ければ『真人』になることができる”とあります。人主の居所を臣下に知られては、神気の妨げとなります。そもそも真人とは無心そのものの存在で、水にも濡れず火にも焼けず、雲とともに漂って天地のあるかぎり生き続けるものです」

始皇帝は心奪われた。

「その真人とやらになりたいものだ。今後は自分を朕といわず、真人と呼ぶことにする」



始皇帝が真人になることを求めたのは、その先に「不老長寿の薬」があったからでもあった。

方士・盧生はこうも言っていた。「せめて陛下の所在を人に知られぬようお努めください。それが達成されれば、不老長寿の薬もおのずと手に入りましょう」



ある行幸の際、始皇帝が山上から李斯の行列を見下ろし、あまりの仰々しさに苦い顔を見せたところ、宦官の一人がそれを李斯に告げた。そして李斯は供回りの車騎を減らした。

それに気づくや始皇帝は激怒した。「宦官め…、洩らしおったな!」

始皇帝の所在を洩らしたものは死刑。この時、厳しい取り調べにも関わらず犯人が判明しなかったため、現場に居合わせたもの全員が死刑に処されたという。以後、始皇帝の行幸先はたえて洩れることがなくなったという。






■坑儒



それでも、不老長寿の薬はなかなか見つからない。

焦った方士・盧生は、むしろ毒づきはじめた。

「始皇帝という男は、生まれつき冷酷非情で唯我独尊。歴史はじまって以来、自分以上の人間はいないとのぼせ上がっている。政治といえば刑罰一点張り。高官たちも始皇帝の命令のままに動くだけの操り人形になっている。過ちを諌める者がいないから驕り高ぶる一方だし、臣下のほうは這いつくばって上辺だけのご機嫌とりだ。方士たちもご機嫌を損ねることをおそれて、星の動きに皇帝の過ちを示すものがあっても誰ひとり直言するものがいない」

そうつぶやくと、盧性は身を隠した。



人を信じぬ始皇帝がその代わりとしたのは、まず「法」であり、次に「方」であった。

だが、徐々に方士たちからも期待を裏切られはじめる。方士逃亡の知らせは、始皇帝を烈火のごとく怒らせた。

「方士どもは不老長寿の薬をつくるという触れ込みだったが、観衆は逃げ去って音沙汰なし。徐市らは億という費用を使いながら薬は手に入らずじまいのうえ、もっぱら私腹を肥やしているとの噂だ。盧生にいたってはわしを誹謗し、わしの不徳を吹聴してやまぬ」

そして、始皇帝は方士・学者ら460余人を、法に違反したかどで生き埋めにしてしまった。いわゆる「坑儒(こうじゅ)」である。






■長子・扶蘇



焚書につづく坑儒に、一人の男が勇敢にも始皇帝を諌めた。

それは長子・扶蘇(ふそ)であった。

「孔子の教えを信奉する儒者たちが、旧来の慣行を言い立てるからといって、これを法一本槍で規制しようとなさるのは、社会にいたずらに不安を掻き立てるだけではないでしょうか。どうかご賢察ください」



たえて無くなっていた諫言が、まさか我が子の口から出ようとは…。

始皇帝はますます怒った。

そして、扶蘇を北方の辺境へと追いやった。そこは蛮族・匈奴との激戦地、名将・蒙恬(もうてん)が30万の大軍を率いて、万里の長城を建設していた地であった。



だが、この時の扶蘇の諫言は、始皇帝の耳の奥底ふかくに鈍く響き続けた。

それが大きく鳴り響くのは、始皇帝が死の床に就いたときである。不老不死を渇望しながらも結局は死ぬのかと彼が思い極めたとき、ふと扶蘇の声音が耳奥からよみがえる。

信じられる者のいなかった始皇帝に、のちの世を託せるのはこの扶蘇をおいて他にいないと思わせるのであった。



しかし、時すでに遅し。

始皇帝と扶蘇はこの時の決裂を境に、二度と相まみえることはない。






■神山



紀元前211年、火星がサソリ座にとどまって動かなかった。

明らかな凶兆だった。

始皇帝の死は近い。だが、それを告げる骨太い臣はもういない。



始皇帝が「封禅の儀」を挙行するため泰山に登ったとき、中途で暴風雨に襲われ、大樹の根元に難を避けたことがあった。

すると、お払い箱になっていた儒者たちは「それ見たことか」と、陰で始皇帝を罵った。焚書坑儒への恨みは深く、天下の人民も然り。法の厳しさを憎み、天下はみな秦に背いていく。



それでも、そうした景色は始皇帝のいた高みからは全く見えない。

高山に湧く雲のような高官たちが、そうした「実」を始皇帝に見せることはついぞなく、始皇帝は「虚」の世界へと押しやられてしまっていたのである。長子・扶蘇がその雲間の下を始皇帝にチラと見せたのは、例外中の例外であった。



地上世界を極めた気になっていた始皇帝は、天界に手をかけるに熱心であった。方士たちに裏切られてなお、海中の三神山にあるという不死の妙薬を求めずにはいられなかった。

言い伝えによれば、蓬莱・方丈・瀛州の三神山は渤海のなかにあるという。そこに行き着いた者もあったらしく、そこには多くの仙人が住み、不死の薬もある。物はみな鳥や獣まで真っ白で、黄金づくりの宮殿がある。遠くから眺めると雲のように見えるが、近づいてみると水中に沈んでいる。

だが覗き込もうとすると、風が吹いて船が引き離されてしまうというのだった。






■最期


天下を統一して以後10年間、始皇帝は全国を5度巡行している。そのうちの何度か、三神山があるという渤海をのぞむ琅邪台にて海上を探索させた。

最後の巡行のときもそうだった。「巡遊すれば吉」との占いに従い、始皇帝は期待を込めてその地へと向かったのだった。



だが、方士・徐市(じょふつ)らの報告は、始皇帝を失望させるだけだった。

「蓬莱に行きさえすればお約束の薬が手に入るのですが、いつも大鮫に邪魔されてたどり着くことができません」

ならばと、始皇帝は漁師に命じて大鮫を仕留めるための道具一式を用意させ、自らも連射式の弩(ど)で射ようと待ち構えた。

だが、ついぞ大鮫は姿を現さない。その北上を続けるさなか、始皇帝は病に倒れた。



容態は悪化の一途であった。

さしもの始皇帝もついに観念したか、遺書をしたためる。

それは長子・扶蘇にあてた書簡で「軍は蒙恬にまかせて咸陽に帰り、わが遺骸を迎えて葬儀を行え」と記してあった。



七月丙寅の日

始皇帝は沙丘にて薨じた。

皮肉にも、不死を追った旅のさなかに。



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■遺言



『論語』にある、「人のまさに死なんとするや、その言やよし」。

始皇帝の今わの際の言は、長子・扶蘇を頼るものであった。扶蘇は20人を超す皇子たちのなかで人格見識ともに優れ、臣下の人望もひときわ厚かった。



だが、その最後の願いは空しくも、宦官・趙高(ちょうこう)の皺々の手によって握り潰される。

一介の宦官が、世継ぎの決定という始皇帝の絶対的な命を覆しえたのは、始皇帝が真人たらんとしてその姿や声をおいそれと外に現さなかったからである。すべての命は、宦官の口によって語られたのであった。

始皇帝の遺言も然り。その存在を知るものは、宦官・趙高のほか幾人もいなかった。ゆえに、趙高はそれを潰した。というのも、聡明な長子・扶蘇が後を継げば、自らの安泰はないと恐れたためであった。

趙高が力を保ち得るのは、末子・胡亥が二世となった時だけだった。もとは卑賤の出であった趙高、刑法に詳しかったのが功を奏し、胡亥に法を教えることで出世したのであった。



余談ではあるが、この古代中国史上最悪の奸物とまでいわれる趙高。こんな”馬鹿な話”がある。

趙高は二世皇帝・胡亥(こがい)に「鹿」を献上して「馬でございます」と言った。胡亥は笑った、「鹿を馬だとは」。側近のある者は皇帝とともに「鹿でございましょう」と笑った。後日、鹿といった者たちはすべて殺された。






■扶蘇



宦官・趙高は始皇帝の死を秘したまま、その遺骸が夏の暑さに腐臭を漂わせるのを急ぎ引きずり、都・咸陽に戻ると「二世皇帝は胡亥(こがい)である」と公表。

21歳だった胡亥は、始皇帝に最も愛されたといわれ、最後の巡行にも同行していた唯一の皇子であった。ゆえに、それは自然な成り行きのようにも思われた。

むしろ、長子であった扶蘇が二世となることのほうに違和感があった。というのは、彼は始皇帝に諫言した罪により、死ねとばかりに北方の匈奴の戦場へと送られていたからである。



戦場にあった扶蘇のもとには、始皇帝の本意とはまったく異なる書簡が、宦官・趙高によって届けられた。

「なんじ扶蘇は、蒙恬とともに数十万の軍を率いて辺境にあること十余年、一步も前進しえずして数多の士卒を失い、寸毫の功すら挙げえていない。にも関わらず、しばしば上書して不遜にもわが為すところを誹謗した。なんじ扶蘇は、人の子として不幸である。よって自害を命ずる」

一読した扶蘇は、その場で剣を抜きはなつと自殺をはかった。



その手を、将軍・蒙恬(もうてん)はグイと抑えた。

「一使者が来たからといって、すぐ自害されていいものでしょうか?」

蒙家は秦に三代仕える名家であり、蒙恬には異民族・匈奴を黄河の内から追い払い、万里の長城を築いたという功績があった。その蒙恬の威勢に匈奴は震え上がったいたのである。



しかし、一途なる扶蘇は、蒙恬の手を振り払った。

「父が子に死を命じたのだ」

そして、そのまま命を絶った。

悲しくも、命じたのは宦官・趙高であり、父は二世皇帝になれと言い遺していたのだが…。



さらに使者は、蒙恬にも死を迫った。

書簡にはこうあった。「将軍・蒙恬は、扶蘇とともにありながらこれを正すことがなかった。その陰謀や推して知るべし。人臣として不忠である。よって自害を命ずる」

だが蒙恬は、扶蘇の無念を晴らさんとその場では死なず、都に再度の勅命を要請した。しかし、都では宦官・趙高による粛清の嵐が吹き荒れており、蒙恬は獄中で毒薬をあおることになってしまう…。






■盛衰



あの、秦の礎を築いた李斯(りし)ですら、宦官・趙高に陥れられた。

李斯は大きな溜息をついた。「あぁ、荀卿先生(荀子)に以前、”なにごとも盛んになりすぎてはいけない(物ははなはだ盛なるを禁ず)”と言われたことがあったな。なにごとも極点に達すればあとは衰えるばかり(物極まれば衰う)」



秋霜おりて草花しぼみ、堅氷とけて万物おこる。

宦官・趙高により太い根を次々と断ち切られた秦。その花は一気に枯れた。秦の始皇帝の死からわずか15年。中国大陸初の統一国家は灰塵に帰す。

その帝国崩壊を導いたのは、陳勝・呉広という名もない貧農があげた小さな火花。それが、すでに爆発点に達していた民衆の憤懣に着火し、たちまちに原野を焼き尽くすことになる。のちの項羽も劉邦も、そうした火花の一つであった。



秦が中国史上初の統一国家であったのならば、陳勝・呉広の起こした反乱もまた中国史上初の大規模な農民反乱。この空前の帝国は、これまた空前の大反乱によって幕を閉じるのである。

その後、中国の歴代王朝はほとんど例外なく農民反乱の波のなかで衰亡するというパターンを繰り返す。そして、秦の試みた法の支配もまた、歴代王朝によって受け継がれていく。そうした意味で、秦の法制度はよい叩き台でもあった。のちの漢はその土台の上に400年の歴史を積み上げるのである。






■空



幸いにも、始皇帝はのちの惨劇を知らない。

彼は死後、驪山に造営された始皇帝陵に葬られた。それは始皇帝が即位したときから墓所としてすでに工事に着工していたもので、徒刑者70余万人の血と汗が流されていた。



墓室は地中深く三層の水脈を掘り抜いた下に設けられ、柩は銅板を敷きつめた上に安置された。地下には、地上そのままの宮殿がつくられ、諸官の席ももうけられていたという。

水銀で百川・江河・大海がつくられ、水銀の流れは機械じかけで還流。天井には天文が描かれ、床には地理がかたどられた。灯火としては、永く消えないようにと人魚の油が用いられた。

総面積56平方km、東京ドーム40個分にあたる広大さである。



さらに宮中の宝物庫から珍器奇宝が運び込まれた。そして、これを狙う者が近づけないように自動発射装置つきの弩が備え付けられ、侵入者があればたちどころに矢が飛び出すような工夫がなされていた。

始皇帝の埋葬が終わると、墳墓造営に携わった工匠たちは一人残らずその中に閉じ込められ、二度と生きて出られぬよう外の門を下ろされた。万に一つも財宝の秘密が世間に洩れぬように、と。

そして、その墓を囲むように配置された3つの兵馬俑では、いまも8,000体におよぶ兵士の像が守りを固め続けている。






人質からはじまった始皇帝の人生は、権力の絶頂期をへて、その暗い穴のなかに収まった。

なにかと不自由だった人質生活。日々の食にも事欠き、そして見上げる狭い空はどこか遠いところに希望があるように思われた。そしていざ、すべてを手にして見た空は果てしもなく高かった。だが逆に、地上の景色は見えなくなっていた。

そして収まった地下の都。

そこには、もう空がなかった…










(了)






関連記事:

日本の神にみる「外」の概念

チベットに想う、「国」の姿。

インカの民は星座よりも「星のない空間」を愛(め)でていたという。深遠なる宇宙の美。



出典:
プロファイラー「始皇帝 孤独から生まれた最強の男」
史記〈3〉独裁の虚実 (徳間文庫)



posted by 四代目 at 08:14| Comment(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月12日

人を信じない男、中国最初の皇帝 [史記] 前編



鷲のような鼻

万人を威圧しつくす恐ろしい切れ長の目

鷲のように突きでた胸

そして…

地の底から響きわたる虎のような声

それが、秦の始皇帝であった…(本宮ひろ志『赤龍王』より)








古代中国、戦国のはじめ、周の太史・老耼(すなわち老子その人であるといわれる)が秦の献公にまみえ、こう予言したという。

「秦にはやがて覇王が現れましょう」

それが現実となった。



中国最古の歴史書『史記』には、こうある。

「秦王・始皇帝は人を信じない(不信人)」

7つの国を制して中国大陸をはじめて統一した男。秦の始皇帝は、人をまったく信じないのに、すべてを手に入れた男であったという。

”数奇な運命のもとに生まれ、残酷非情とも見える冷徹さで障害となるもの一切を抹殺しながら、一直線に天下統一に突き進んだ彼の姿には、人間を超えた一種の魔性さえ感じさせる(徳間文庫『史記』)”






■父・子楚



いまから2,200年もの昔、中国大陸は500年にわたる戦乱の中にあった。凌ぎを削っていたのは「戦国の七雄」と呼ばれる7つの国。



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のちに秦の始皇帝となる人物は、隣国・趙の国で生まれる。というのも、父・子楚(しそ)が趙の人質とされていたからである。

この時代、対立する7つの国々はお互いむやみに戦をしかけないよう、王家同士で人質の交換を行っていた。父・子楚は側室の子であり、兄弟が20人以上もいたため王位継承の可能性は低かった。ゆえに敵国に人質としてだされた、いわば捨て駒の一つにすぎなかった(母は夏姫という。愛なし。『史記』)。



そんな見捨てられた王子だった子楚。

そこに、ある大商人が現れる。名を呂不韋(りょふい)。彼は子楚に商機を見い出す。

「秦の公子か。これは掘り出し物だ。買いだ(奇貨居くべし)」

※「奇貨」は珍しい品、「居く」は買うという意味。








秦の王子とはいえ子楚の暮らしは貧しく、日々の生活にもこと欠く始末。さらに、秦がしばしば趙を攻撃していたため、人質である子楚に対するあしらいは、とかく冷たかった。

そんな子楚に同情した呂不韋は、こう持ちかける。

「秦王はいまや老齢。全財産を投じて秦におもむき、安国君(皇太子・子楚の父)と華陽夫人(正室)に対し、あなたを後継ぎにさせるよう工作しましょう」

子楚は半信半疑ながらも、深々と頭を下げた。

「もし巧くいったら、秦の半分をあなたに差し上げよう」



さっそく秦に戻り、千金をばらまいて王家にとり入った呂不韋。

「色をもって事(つか)うる者は、色衰えて愛ゆるむ」

色香が衰えてからでは手遅れになると、子がなかった華陽夫人(子楚の父の正室)を説き伏せ、子楚を世継ぎとさせたのであった。






■政



子楚が妻としたのは、趙の舞姫「趙姫」であった。

もとは呂不韋の愛人だった趙姫。ある酒宴で彼女の舞に一目惚れした子楚。譲って欲しいと呂不韋に頼み込んだという。

呂不韋ははじめムッとしたが、「もって奇を釣らんと欲するなり」と子楚に趙姫を献上。彼女が秦の始皇帝の母となる。だがこの時、ある「うわさ」は趙姫が呂不韋の子を身ごもっていたと伝える。



紀元前259年、子楚と趙姫のあいだに王子が誕生。

名を「政(せい)」。のちの始皇帝は、肩身の狭い人質の子として敵国(趙)で生まれたのであった。



政2歳のとき、秦は無情にも趙に出撃。首都・邯鄲を包囲。

落城の危機にまぎれ、父・子楚は妻と子を置いて、呂不韋とともに秦に逃亡。敵国に残された人質・政は当然殺されそうになる。だが、辛うじて死をまぬがれる(『史記』は、趙姫が豪家の娘だったためと記す)。



政が秦に戻るのは、9歳のとき。

先代の王(昭王)が在位56年で世を去ったあと安国君が即位し、「奇貨」であった子楚が、呂不韋の策略通りに皇太子となったからであった。

以後、運命の歯車は急速に回転をはじめる。

新王はわずか一年で亡くなり、子楚が国王となる(荘襄王)。子楚はかつての約束通り、呂不韋を「丞相」という高位につけ重んじた。



だが、国王となった父も、わずか3年で急死。あれよあれよと、政はわずか13歳で秦の国王となったのであった。

長い人質生活をおくり、秦に頼る者の少なかった政は、呂不韋の位をさらに進め「相国」とし、さらに「仲父(ちゅうほ)」と呼び敬った。

※「仲父」の「仲」は兄弟の順を示す「伯仲叔季」の2番目で、仲父は「父に次ぐもの」を意味する。






■不信



大権を得た呂不韋は、国王・政が幼少であるのをいいことに、良からぬ暗躍をはじめる。

政の母・太后(かつての愛人・趙姫)と不義を重ね、さらに巨大な男根の持ち主・嫪毐(ろうあい)を彼女にすすめる。母・太后の淫は、政が一人前の大人になってもますます盛んであった。

巨大な一物をもつ男(大陰の人)嫪毐は、自慢のモノを心棒として車輪を転がしてまわったというが、ヒゲと眉毛を抜いて宦官になりすまし、太后の側近くに仕えた。そしていずれ、太后は嫪毐の子を身ごもった。



秦王・政の治世9年(紀元前238年)、彗星が出現し、時には天空の端から端に達することもあったという(ハレー彗星か?)。

その不吉な星とともに、巨根・嫪毐(ろうあい)は国家転覆の挙に打って出る。当時、太后の愛を一身に受けていた嫪毐は、長信侯として山陽の地を与えられ、宮殿・馬車・衣服・別荘などすべてが彼の思うがままであった。さらに、太后との隠し子を2人も抱えていた。

嫪毐の企てた反乱を察知した秦王・政。即座に攻撃、鎮圧。嫪毐の一味は一網打尽とされ、嫪毐本人は五体を引き裂く「車裂き」の刑に処された。



しかし、なんという背信か…!

母に裏切られ、父同然と慕った呂不韋にも騙された。

政25歳、彼はこのクーデターを経て、人が変わったようであった。司馬遷が『史記』にいう「不信人(人を信じない)」という人間に近づいていく。

とはいえ、政にはまだ恩愛があった。母・太后と仲父・呂不韋を殺さず、追放という処分にとどめた(太后はのちに都に呼び戻され、呂不韋は自らの運命を悟り服毒)。



この年の冬はひどい寒波で、凍死者があとを絶たなかったともいう。






■地歩



呂不韋の死により、政の「虎狼の心」は定まった。

頼れるは己一人。道は天下統一へ一直線。



幸いにも、秦の培ってきた軍団は剽悍無類。商鞅の改革以来、「力戦力耕」を中心とする富国強兵策がたわわに実っていた。

かつて秦を訪れた荀子は、その様子を次のように語っている。

「秦の風俗をみると人民は純朴、音楽は邪淫なく、服装は華美なく、役人には恐れかしこんで従順。まさしく古(いにしえ)の理想の世の民である(『荀子』彊国篇)」



他の6国に比べ、西の果てに位置した秦は「遅れた国」とされてきた。しかしながら、その後進性がむしろ強さを養うには格好でもあった。

”急速な秦の台頭は、ほかの諸国に異様な恐怖心を植えつけた。先進地域の人々の目には、自分たちとは異質の国、まさに「虎狼の国」と映ったのである(徳間文庫『史記』)”

「戦国の七雄」といわれた7つの国々は、戦国時代も中頃になると、もはや3つの強国に絞られていた(秦・楚・斉)。戦国末期になると、まず斉が脱落。燕の名将・楽毅によって一時、滅亡寸前にまで追い込まれていた。そして楚も、秦の名将・白起の攻撃により都を陥とされ遷都。100万を豪した大軍も10万にまで落ち込んでしまっていた。



圧倒的な秦の優勢。

そこに現れた若き秦王・政。国内の反乱分子を一掃した彼に、もはや敵は少なかった。

統一への道は一瀉千里。






■李斯



「秦の国力は強大。大王は賢明。この2つの条件を備えたいま、諸侯を滅ぼして天下を統一することは、たとえば『竈(かまど)のチリ』を掃き落とすようなもの(竈上の騒除)。簡単この上ありません」

秦王・政にそう説いて、天下統一への野心を焚きつけたのは「李斯(りし)」。彼はかつて呂不韋の食客として重用されていた人物であった。



李斯はもともと敵国・楚の人。しかし、2匹のネズミを見て悟り、秦に来た人であった。その逸話はこうである。

若いころ、楚の郷里で小役人を勤めていた李斯は、役所の便所でよくネズミが糞を食っているのを見た。その「便所のネズミ」は人間や犬の気配に怯え、いつもビクビクしていた。一方、食糧庫に入れば、そこにもネズミがいた。この「倉のネズミ」は糞ではなく穀物を食っている。しかも、人犬に恐れることもなく悠々と。

2種の両極端なネズミを見て、李斯は嘆息した。「あぁ、人間も同じだ。身の置きどころ一つで、運命が決まるのだ…(人の賢不肖はたとえば鼠のごとく、自ら処るところに存るのみ)」。そして、李斯は落ち目にあった楚を見捨て、昇竜の勢いにあった秦にやって来たのだった。

李斯はこうも言う。「人間であるからには、地位の低いほど恥ずかしいことはなく、貧乏ほど悲しいことはないはず(恥は卑賤より大なるはなくして、悲は窮困より甚だしきはなし)」。

李斯が秦にきたのは、政の父・荘襄王が没した直後、政が13歳で即位したばかりの頃だった。






■法



李斯の功績は「法」にある。

人間は本来、悪であるという「性悪説」。それを唱えた荀子に李斯は学んだ。

同門の韓非子はこう言う。「君主の害となるのは、人を信ずることである。人を信じると、人に制せられることになる」。



それは、まさに秦王・政の実感してきた境遇そのものであった。淫やまぬ母に裏切られ、父がわりの呂不韋にも騙された。信じたからこそ、彼は制せられてきたのであった。

人はもともと弱い存在。ゆえに法で縛る必要がある。法を奉じ守ることが強ければ国は強く、法を奉じ守ることが弱ければ国は弱い。

李斯の吐く言は、秦王・政の大きく頷けるところであった。人間を信じられなくなっていた政にとって、その穴を埋めるに法は最適であった。



身分を問うことなく、手柄を立てた者には褒美を与える。だが、法に背くものは厳しく罰する。信賞必罰。

たとえば「弩(ど)」と呼ばれる武器、射程距離が280mもあったというが、秦の兵士の命中率は格段に高かったという。

というのも、兵士に課された弩の試験は厳しく、12本の矢をうって、そのうち6本を小さな的に当てなければ罰則が課された。だが、7本、8本と定められた本数よりも多く当てることができれば、1本ごとに15日間の有給休暇が与えられたという。



そんなアメとムチが、秦では巧みな法さばきによってコントロールされていた。その立役者が李斯という人物であった。

”秦の天下統一のブレーンは、何といっても李斯であった(徳間文庫『史記』)”






■説難



秦王・政が法に魅せられたのは、韓非子の書が最初であった。

「あぁ、これを書いた者に会えたら、わしは死んでも構わない(あぁ、寡人この人を見、これと遊ぶを得ば、死すとも恨みず)」

政は、韓非子の著作(『孤憤』『五蠹』)に感嘆の声をあげた。ちなみに後世、諸葛亮孔明が幼主・劉禅に与えた書も韓非子だったという。



そして、秦王・政は韓非子のいる韓に、まず攻め込んだ(韓非子は、その姓があらわすように、韓の公子であった)。

切羽つまった韓王は、韓非子を秦に送り込む。そうして、秦王・政は韓非子に会え、大いに気に入った。しかし、周囲はそれを気に入らなかった。「韓非子が登用されたら、自分たちが危ない」。

人を信じきれぬところのあった秦王・政もまた、敵国の公子を心から受け入れることはできず、結局は韓非子を獄につないでしまう。これを好機とみた李斯。すかさず獄中に毒薬を送り、自殺を迫った(重ねて言うが、李斯は韓非子とは同門である)。

獄に送りはしたが、韓非子の才を惜しんだ秦王。赦免しようと獄に使いを送るも、時すでに遅し。韓非子は毒薬をあおって骸となっていた。



『史記』をかいた司馬遷は言う。「それにしても悲しまれてならないのは、韓非が『説難(ぜいなん)』を書きながら、自分が悲運を免れなかったことである」

韓非子の『説難』は「逆鱗に触れる」で締めくくられている。「人、これに触るる者あらば、必ず人を殺す。人主もまた逆鱗あり。これを説く者、よく人主の逆鱗に触るることなければ近し」

人のもつ逆鱗に触れることを警告していた韓非子。それを書いた彼が皮肉にも、秦王の逆鱗に触れることになってしまった。それを嘆いた司馬遷であったが、彼もまた漢の武帝の逆鱗に触れ、宦官となってしまうのであった…。










■ 尉繚と王翦



「大王が恐ろしゅうございます…。秦王においては、およそ温かさというものが感じられませぬ。自分に理があれば、たとえ流民であろうとへりくだりますが、理なくばたとえ親といえども踏みつけましょう…」

本宮ひろ志の『赤龍王』にある一場面。

その言を聞いた秦王は、地の底から響きわたる虎のような声で、「煮殺せィ」。



魏の尉繚 (うつりょう) は他国者でありながら、その言に理があるとして秦王に重く用いられた。「尉繚 に会うとき秦王は対等の礼をとり、衣服・食事もすべて尉繚 と同じものにした(『史記』)」。

しかし尉繚は、よけいに警戒心を抱く。「どうみても人間らしい心の持ち主ではない(恩少なくして虎狼の心あり)。いまでこそ素浪人の私にもへりくだった態度を見せてはいるが…。いつまでも付き合える相手ではない」



始皇帝のなかに暗く潜む、人間不信の性情。

将軍・王翦(おうせん)もまた、その暗い影に敏感であった。彼は秦の覇業達成に最大の軍功をあげた将軍であり、趙を下し燕を下し、魏を滅ぼした。それでも油断はならなかった。

天下統一を目前に控えた時、秦王は楚に対してどれほどの兵力を必要とするかと、王翦にたずねた。

「どうしても60万は必要でしょう」

この答えに、秦王は王翦の老いを感じた。ほかの若い将軍は「20万もあれば十分」と血気盛んである。ゆえに王翦を用いなかった。だが結果は、見るも無残な負け戦。



そして再び返り咲いた王翦(おうせん)。

いよいよ出陣の日、王翦は秦王に「引出物として最上級の田地邸宅を賜りたい」と懇請。秦王は言った、「安心して出陣せよ。おまえに貧乏な思いはさせない」と。

だが、王翦はなおも言う。「いえいえ、大王にお仕えする将軍は、これまで功をたてても封侯の栄誉を賜ったためしがありません。私は大王の恩顧をうけておりますうちに、頂戴できるものは頂戴して、子孫に残したく思います」。その言葉に大笑した秦王。

戦地にあってなおも、王翦は”おねだり”をやめない。土地を賜るよう、たびたび秦王のもとに使者を出したのであった。さすがにこれを見かねて、王翦に忠告する者もいた。「将軍のおねだりも度が過ぎましょう」

すると、王翦は答えた。「わからぬか。王は冷酷で他人を信頼できない方だ。わしに秦の全軍を委ねたいま、心安らかであるはずがない。こうして財産のことばかり気にかけているように見せかけなければ、逆心はないかと疑われてしまうだろう」



王翦はたちまち楚軍を大敗させ、各地の都邑を席巻。一年あまりのうちに楚王を虜にして全土を秦の直轄地に編入した。

また、王翦の子、王賁もまた燕と斉の地を平定。王翦親子は臣下のなかで最も功績の高い一族の一つであった。





■統一



かつて呂不韋は、「厳酷に法を徹底させる若い王」の性格に不安を抱いていたことがあった。

そして、彼の編纂した『呂氏春秋』は、秦王の苛烈さを暗に戒めていた。そこには、伝統的な「存亡継絶(亡びしを存し、絶えたるを継ぐ)」という教えが記されており、天下を統一するにしても諸侯を滅ぼし尽くすのではなく、亡国の君主の子孫に封地を与えて祭祀を絶やさないようにすることを示していた。

だが、呂不韋の死後、その重石はとれてしまっていた。他6国は無残にも秦に斬り従えられることとなる。



まずは韓

2年後に趙

5年後に魏

7年後に楚

8年後に燕

9年後に斉

わずか10年での中国全土統一であった(紀元前221年)。



『史記』は、秦の猛進とともに天変地異をあわせて記す。

趙を攻めたとき、彗星が東の空に現れ不吉な光芒を放つ。北の太原を攻めたとき、地震があった。韓を併合したとき、大飢饉が民を襲った。

かつて人質生活を送った趙で、母の実家を迫害した者どもを残らず捕らえ坑埋めにした時も、大飢饉がおこった。秦王の母はこの年に崩じる。

かつて秦王の暗殺を企んだ刺客・荊軻は燕におり、その屍体はバラバラにして見せしめられた。その翌年、大雪が降り二尺五寸も積もる。






■始皇帝



「この功業を後世に伝えるためには、この際、王という呼称を改める必要があろう。この件について答申せよ」

何人も成し得ないといわれた全土統一。それを成した秦王・政。もはや「王」という小さな呼称に収まりきらなくなってしまっていた。

李斯は言上する。

「昔、かの五帝は天下の主とはいえ、その領土は千里四方にすぎず、周囲は諸侯や蛮族の国でした。ところが陛下は天下を平定されました。これは上古よりこのかた、その例を見ぬ偉業であり、五帝といえども成し得なかったことであります」

さらに続ける。「博士どもが申しますには、五帝以前の太古には、天皇・地皇・泰皇の三者が君臨し、なかでも泰皇がもっとも尊い存在であったとのこと。天子の自称を朕とされてはいかがと存じます」



秦王は口を開く。

「では、泰皇の皇をとり、上古の帝とあわせて、皇帝と称することにしよう(号して皇帝といわん)」

「朕は最初の皇帝なるがゆえに始皇帝と称する。朕のあとは順次二世、三世と称し、これを千万世の後までも、無窮に伝えるものとする」



この始皇帝なくんば、中国という広大な領地は分割されたままだったかもしれず、現代にも大国・中華人民共和国の姿はなかったかもしれない。

皇帝という呼称は、秦にはじまり清に終わるまで2千年以上にわたり存続する。



人を信じることなく法と理を信じた覇者、秦の始皇帝。

その国家は現代のグローバル世界に通じる「法治国家」という最初のロール・モデルでもあった。だがしかし、その手綱はあまりにも馬を信用しなかった。そして、始皇帝にしか握れないものであった。

ゆえに以後、秦は瓦解への道を進むしかなかったのである。













人を信じない男、中国最初の皇帝 [史記] 後編へ(つづく)






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出典:
ザ・プロファイラー「もう誰にも頼らない 始皇帝 孤独から生まれた最強の男」
史記〈3〉独裁の虚実 (徳間文庫)
赤龍王 1 本宮ひろ志傑作選 (集英社文庫―コミック版)



posted by 四代目 at 07:48| Comment(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月15日

消されるはずだった神話、古事記


「無視された歴史書」

かつて「古事記」がそうだった、と千田稔氏(奈良県立図書情報館・館長)は言う。



古事記とは、今から1300年前に完成した日本最古の歴史書であり、そこには神々の神話から人間へと連なる話が連綿と書きつづられている。

具体的には、天照大神(アマテラス)という神様がどのようにして日本と関わり合い、天皇家につながっていったのかなどが面白おかしく記されている。








だが、その天皇家の歴史ともいえる古事記は、その完成のわずか8年後に成立した「日本書紀」によって正史(国の正式な歴史書)としての座を奪われる。

以後、古事記は歴史の大海に埋没し、ずっと長い間「忘れられた存在」となり果てる。それが再発掘されるのは江戸時代、本居宣長の手によってである。



なぜ、古事記は一時、日本歴史の本流から外されてしまったのか?

そしてなぜ、それでも1300年という永い歳月を生き抜くことができたのか?

その舞台裏には「2人の女帝の姿」と、その書に込められた日本という国、そして日本人というものに対する「やむにやまれぬ想い」が込められていた。






◎未曾有の国難



「国史」、つまり日本の正式な歴史書として、古事記の編纂を命じたのは「天武天皇」(681年、国史編纂の詔)。

その背後にあったのは、当時の大帝国「唐(中国)」である。



その詔からさかのぼること18年前、前帝・天智天皇の時代に、日本は朝鮮半島での戦(白村江の戦い)において、唐と新羅の連合軍に大敗を喫している(663年)。

それまで対外戦争をあまりしてこなかった日本は、軍備や戦略において全くの不十分。いとも容易く負けてしまったのである。



この敗戦を機に、日本は大きな変革を迫られる。各地に豪族たちが乱立している状態では、連合してやって来る唐と新羅には太刀打ちできない。国家の権力をどこか一点に集中させ、税と兵とを一本化しなければならない。

国難に遭った日本では、いわゆる中央集権化がかしましく叫ばれ、そのためにはそのシンボルとなる「国史編纂」が急務となった。



国史編纂という事業は、その国が一国の立派な独立国であることを、その確固たる歴史をもって他国に示すものである。日本人が独自の民族として存続するためには、そうした「国家としての枠組み」がどうしても必要とされたのである。

むしろそれなしには、大国の属国もしくは属領とされてしまう時代であった。事実、大国・唐に飲み込まれ消滅してしまった国もあったのだ。






◎女帝



歴史の大国・唐に対抗するため、日本に求められた国家神話。

その中心に据えられたのが、太陽神「天照大神(アマテラス)」。

世界各地の太陽神が「男」であるのに対して、日本の太陽神は「女性」。しかも、畏れ多くも日本の天皇家はその子孫と位置づけられた。



なぜ、日本の太陽神は女性なのか?

古事記という国史の編纂を命じたのは男帝・天武天皇であったが、その事業はその妻であった「女帝・持統天皇」に引き継がれていた。

これは古事記全般にいえることだが、この書に描かれた神話はその当時の時代背景を無視はできない。



古事記が完成の日の目を見るまでのおよそ30年間、日本の天皇は天武から持統、文武、元明と4代の時が流れている。

そのうち、古事記の編纂にとりわけ熱心だったのが「持統天皇」と「元明天皇」の2人の女帝。古事記に描かれた神話には、太陽神アマテラスをはじめ、色とりどりの女性たちが物語に花を添えていくわけだが、その裏にはこの両女帝の存在が見え隠れしている。

たとえば、アマテラスという神さまは「持統天皇」その人だともいわれている。






◎皇祖神



アマテラスは天皇家の直接のご先祖様となる「皇祖神」として古事記に登場する。だが、アマテラスは全知全能の神様ではない。むしろ弱々しく頼りない神様である。

彼女は、弟の暴れ神「スサノオ」の乱暴狼藉に右往左往し、神生みの対決(天安河原)ではいいように言いくるめられてしまう。そしてとうとうアマテラスは「天の岩屋(あめのいわや)」に隠れ籠もってしまうのであった。

そんなアマテラスを助けるのは、思金神(おもいかねのかみ)という「知恵の神」や、手力男命(たぢからおのみこと)という「怪力の神」。そうした周りの者たちの力を借りて、ようやく光を取り戻すのがアマテラスという神様である。



一方、アマテラスに模される持統天皇は、偉大な天皇であった天武天皇の跡を継いだその妻。自ずとその立場は先代に及ぶべくもなく、藤原不比等ら官僚たちの力を借りざるを得ない。

しかも、当時の日本はまだ内乱の火種が各所にくすぶっていた。というのも、663年白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に敗れた日本は、そのおよそ10年後、古代史上最大の内乱である「壬申の乱(672)」に突入したのであった。

その壬申の乱を制したのが、大海人皇子ことのちの「天武天皇」。持統天皇その人の夫である。






◎国風



そもそも内乱の原因となったのが、「国風か唐風か」の争いでもあった。

唐に敗れた後、日本国内では唐の風に倣うべきだという意見と、「いや、あくまで大和の国、独自の流儀でいくべきだ」との主張が真っ向からぶつかり合った。



大海人皇子(のちの天武天皇)と激しく対立した大友皇子という人は、いわば外国かぶれ、唐かぶれ。

作家の長部日出雄氏は「大友の皇子は日本を『唐のような国』にしたかったんですよ。この人は唐人のようにペラペラペラペラ漢語を流暢にしゃべれるし、それから漢詩もうまかった」と言う。

一方の大海人皇子、「この人はもともと日本にあった『やまと言葉』や『やまと歌』、これを大事にしなくて何の日本かっていうのがあった」と長部氏は言う。



未曾有の国難(白村江の戦い)に遭ったあと、国内でいわば「唐風」と「国風」が激突した「壬申の乱」。

唐を理想とする大友皇子は、完全に唐風の都を日本につくろうとした。だが唐風に対する国内豪族らの反発というのは凄まじく、結局は国風を掲げた大海人皇子が豪族らの力を求心して戦いに勝つことになる。

「もし唐風の大友皇子が勝ったら、日本は中国の冊封(属国)体制の中に組み込まれていましたよ」と長部氏は言う。



幸いにも、古代史上最大の内乱に勝利したのは国風の大海人皇子。のちに天武天皇となるこの人が勝ったというのことが、日本独自の神話を形づくる古事記の誕生にもつながることになる。

ゆえにこの書は、日本が日本たる道筋を描くことにもなったのである。










◎イザナギ



大乱は「国風」が勝った。だが、唐風が一掃されたわけではない。むしろ唐風勢力はその復権の機を虎視眈々と狙い澄ましていた。それは国風旋風を巻き起こした天武天皇の崩御であった。

ここで古事記の記述に照らし合わせてみると、天武天皇の妻・持統天皇をアマテラスとすれば、天武天皇その人はアマテラスを生んだ「イザナギ」となる。



イザナギという神様は、妻イザナミとともに日本列島を形作った神様である。

それ以前の世界はというと、天も地もまだしっかり固まりきらず、トロトロとクラゲのように浮かんでいただけだった。その油が浮いたようなトロトロを一振りの矛でかき混ぜた二神。その矛をさっと引き上げると、ポタポタと刃先のしずくが滴り落ちる。それらのしずくが固まると淡路島になり四国の島となり、隠岐の島、九州、壱岐、対馬、佐渡とできていく。そして一番しまいにトカゲの形をした一番大きな本州をつくるのである。

淡路島から数えれば本州は8番目の島、それで日本は「大八島国(おおやしまぐに)」と呼ばれるようになる。



イザナギとイザナミの夫婦神は日本の島ばかりでなく、風の神、海の神、山の神、川の神、火の神といわゆる八百万の神々を日本列島に生んでいく。だが、妻イザナミは火の神を生んだが最後、大火傷を負って死んでしまう。

妻の死をたいそう嘆き悲しんだのは夫イザナギ。妻イザナミを死に追いやった火の神を一刀のもとに斬り殺してしまう。そして一路、妻の去った黄泉の国へと迎えに行く。だが不幸にも、黄泉の国の火を通した食べ物を食べてしまった妻の姿は、もはやこの世のものとは思えぬほどにおぞましい。その恐ろしさのあまり、夫イザナギは一目散に黄泉の国から遁げ帰る。

何とか逃げおおせたイザナギは黄泉の国の穢れを祓おうと、清らかな川で身をすすぐ。すると不思議なことに、衣や冠、腕輪などを清めるたびに新しい神々が次々と生まれてくる。そして左目を洗った時に「天照大御神(アマテラス)」が誕生するのである。










◎神々の乱



神話のこの部分を当時の時代になぞらえれば、トロトロとクラゲのような世界はまだ国家として形をなさず、白村江の戦いで敗れてしまった日本。その日本に国家の体裁をほどこしたイザナギは天武天皇。

だが国内は、八百万の神が乱立するように各地の豪族が勝手気ままにバラバラに存在していた。そして、その一人「火の神」はイザナギを激怒させる災いを巻き起こす。その災神は壬申の乱で対立した「大友皇子」だったかもしれない。

そして黄泉の国にまで失った妻を探しにいったイザナギは、そこで8人の雷神、1,500人の悪鬼の軍勢らに追い立てられる。それは妻イザナミが変じた怪異な容貌が元になった混乱だが、それは肉親同士で皇位継承を争うことになった「壬申の乱」を模したものともいわれる。



そうした内乱を経てイザナギは美しい川で身を清め、新たな神々を生み出すわけだが、それは一新した国家体制であったかのもしれない。

壬申の乱の後、天武天皇はそれまで有力豪族らが占めていた大臣の制度を廃止。代わって、皇族や皇親らが政務を司るシステムを構築する。のちに持統天皇となる妻もその一人であり、古事記神話では左目から生まれることになる新しい神アマテラスのような存在であった。

すなわち天武天皇は対外的な国難から最悪の内乱を経て、独裁的なまでに中央集権化を推し進めたのである。だが、それゆえに新たな反体制分子、いわゆる新たな神々をも生むことになる。






◎権威



最も厄介な神は、姉アマテラスを散々に困らせる乱暴な弟「スサノオ」である。彼はイザナギの「鼻」から生まれた攻撃的な神であり、日本列島の支配を任された神でもある。また、出雲で「八岐の大蛇(やまたのおろち)」を退治するのもこのスサノオであり、アマテラスが岩屋戸の中に一時身を隠すことになるのも、彼の仕業である。

ところでアマテラスという女神は、古事記の中で権力を行使することがついぞない。むしろ、力がないかのように人間的な弱々しさを露呈するばかり。それはまるで、天武天皇という強大な権力の跡を継いだ妻である女帝・持統天皇のようであり、スサノオは彼女を困らせる反対勢力のようにも受け取れる。



それでもアマテラスという存在がなければ世界は成り立たなかった。それを示すのが、天の岩屋戸神話。それはスサノオの狼藉に対するアマテラス無言の抵抗。

力がないと思われたアマテラスにも、いざ隠れられてしまうと、「世界にはあらゆる邪神の騒ぐ声が夏の蝿のように満ち、あらゆる禍が一斉に発生した」のである。

たとえ持統天皇が強い権力を持たずといえど、前代・天武天皇によって確立された「権威」ばかりはすでに、日本という国体を保持する上で欠くべからざるものとなっていたのであった。古事記の記すのは、日本という国の「権力」と「権威」は別々に存在するということである。その象徴がアマテラスであり、彼女には力はないが、明らかな権威があった。そして権力の方は有能な官僚らが握った。






◎国譲り



アマテラスという権威の元には、知恵の神「思金神(おもいかねのかみ)」や怪力無双の神「手力男命(たぢからおのみこと)」、そして出雲に国譲りを迫る「建御雷神(たけみかずちのかみ)」らが集っていた。

一方、弟スサノオが任せられたはずの地上世界は、勢いの強い神たちがてんでに暴れ回っており、事実上「出雲」を中心とした勢力が支配するものとなっていた。そしてその主は「大国主神(おおくにぬしのかみ)」という神であった。

アマテラスのいる天界からは、幾度か使者が出雲に遣わされるものの、彼らは帰って来なかったり懐柔されたりと全く意のままにはなってくれない。



そこで白羽の矢が立ったのが「建御雷神(たけみかずちのかみ)」。彼は、最後まで地上で抵抗していた「建御名方神(たけみなかたのかみ)」と力比べをして、「信濃の諏訪湖」へと建御名方神を封じてしまう。

それを受けて、出雲の大国主神は地上の国を天界に譲ることになる(国譲り)。



現実世界では果たして、どのような熾烈な戦いが「国譲り神話」の陰に隠されているかは想像の域をでない。だが、いまも出雲や諏訪に独自の根強い信仰が残ることから考えても、それが万事スムーズに進んだとは考えにくい。古事記においても、何度も使者が派遣され(あるいは軍勢だったかもしれない)、2度3度とそれは失敗しているのである。

だが古事記は正確な現実を記すというよりも、国としての「理想」を示すという側面が強い。この点、「国譲り」は国の中央集権化にとっては理想の形であった。血を流さずに、それは話し合いで成されたことになっているのである。

さらに、その中央集権化は「公地公民」という割と緩やかなものであった。とりあえず「税と兵」を一本化できれば、それで他国による侵略の脅威はひとまず凌げたのである。具体的には「庚寅年籍(こういんねんじゃく)」という戸籍の成立によって、土地と人民が国家のものであるとされ、一定量の税と兵は中央政権に確保されたのである(690)。






◎軟化



国家改造という大望は、独裁的だった天武天皇の時代から、より穏便に反対勢力との融和を図ろうとする妻・持統天皇へと受け継がれたわけだが、天武天皇が半ば改革を強行したのに対して、妻・持統天皇は新制度を緩やかに旧体制にも戻している。

たとえば、天武天皇が廃止した大臣制度は持統天皇の時代に復活している。また、最大勢力であった出雲に対しては他地方では廃止された「国造(くにのみやつこ)」という特権が温存されることになる。



持統天皇の治世はいわば、アマテラスが他の有能な神々の意見を聴きながら国を治めたようなものである。

古事記の後の歴史書「日本書紀」は持統天皇をこう評する。「天皇は広い度量のお人柄であった。『まろやかな心』で国母の徳をお持ちであった」と。

アマテラスを囲んでいた有能な神々は、いわば持統天皇を補佐した「官僚たち」。それは藤原不比等らであり、持統天皇の権威の下、実際の権力は彼ら官僚が握っていたのである。



その融和的な持統天皇の跡を継ぐのは「文武天皇」。若干15歳、史上最若の天皇の誕生である。じつは天武天皇の指名していた皇太子は「草壁皇子」。だが彼は若くして夭折。その代わりに、まだ年端もいかぬ彼の息子・軽皇子が文武天皇となったのである。

これは全くの異例。当時、天皇になる資格の一つに「30歳」という年齢が数えられていた。ところが、持統天皇はその禁を破り、文武天皇を即位させたのである。

なぜか?

それは、壬申の乱のような大乱をふたたび繰り返してはならない、という国母としての切なる想いであった。






◎血統



女帝・持統天皇が生まれたのは、大化の改新の年(645)。それは父である天智天皇の成した大改革。その後、身をもって体験した骨肉の内乱「壬申の乱」。夫である天武天皇はその反乱者。この乱は反乱者が勝利するという類例の少ない形で幕を引いたわけだが、そもそも「大乱の因」は何だったのか?

それを持統天皇は「実力や能力による皇位継承」と見た。力のあった天武天皇は良しとしても、もし皇位継承のたびに「天皇にふさわしいか否か」を問うていたのでは、そのたびに乱が起きてしまう。ならば、実力能力の判定を捨て、それを「血縁」に依ろうではないかと持統天皇は考えたのである。



その結果が、15歳という史上最年少「文武天皇」の誕生であった。それは要らぬ乱を避けるための苦慮でもあった。

だが、それを世上に納得させるには少々工夫が必要だった。そこで登場するのが「天孫降臨」、アマテラスの地上世界を「瓊々杵命(ににぎのみこと)」に任せる古事記の名場面である。

もともと、天孫降臨の大役を任せられたのは「忍穂耳命(おしほみみのみこと)」。だが彼は土壇場でその大役を生まれたばかりの息子「瓊々杵命(ににぎのみこと)」に譲るのである。それはあたかも、予定されていた草壁皇子の思わぬ夭折によって、期せずして幼少の軽王子が新天皇となったかのように。



神話による「血統相続」の正当化。

それを古事記に織り交ぜたのは、「力に左右されない天皇制」を確固たるものにしたいという持統天皇の想い。そこには、力による争いに苦しめられてきた女性の悲哀が秘められていた。

持統天皇はさらに、異例にも存命中に文武天皇に譲位。権威を孫に譲ったあと、自らは最大の業績となる「大宝律令」の制定・施行に尽力。乏しくなっていた命の火を燃やすことになる。彼女が崩御するのは大宝律令制定のわずか2年後のことであった(703)。



律令国家、今でいう法治国家としての日本の礎は、持統天皇の大宝律令にはじまる。その成立には、持統天皇の権威の下で力をふるった藤原不比等ら有能な官僚たちが欠かせなかった。

万世一系の家系を世に認めさせたのもまた持統天皇。さらに、古事記に日本の国と民族の歴史、そして理想を明記したのもこの天皇であった。






◎やまと魂



だが、持統天皇が崩御すると、年若い文武天皇のもと、国はふたたび唐風になびきはじめることになる。

何より、権力を手中にしていた藤原不比等が、唐風の若き旗頭となっていた。彼には幸いなことに、権威である天皇はまだ若年。政治は不比等の意のままであり、ゆえに日本の唐風化は一気に進むこととなったのだった。

壬申の乱以降、停止されていた「遣唐使」は30年ぶりに復活(702)。持統天皇崩御後は、藤原京よりもさらに唐風の都「平城京」への計画が進められた。



そうした唐風化は日本の国際化にとっては必要なものであった。だが、それを苦々しげに眺める人も少なからずいた。その一人が文武天皇の跡を継ぐことになる「元明天皇」。文武天皇の母である。

若干15歳で即位した文武天皇は、その治世わずか10年足らずという儚さ(707)。若くして息子を失った母・元明天皇は、その失意のままに皇位を継承。うなだれたままに不比等らの平城京遷都を受け入れる。

「王侯大臣の言うことには拒否することができない…」



唐風官僚の勢いは今や、天武・持統朝の国風化を巻き戻さんと意気盛ん。そうして完成した平城京は、国風化を愛する人々の目には「唐かぶれの象徴」にしか映らなかった。

そんな中、元明天皇はその抑えられた大和魂を一心「古事記」に込めた。彼女が古事記の記述をあくまで「やまと言葉」にこだわったのは、そのためだと云われている。当時、正式な文章は「漢文」と相場が決まっていた。そこをあえて、元明天皇は国風の気概を「やまと言葉」に託したのである。

ちなみに、そうして生まれた万葉仮名という文字は、のちに日本独自の文字「かな」を生み出すことになる。



元明天皇は、その生涯を古事記の完成(712)に託したといっても過言ではない。元明天皇もまた持統天皇をならって生存中に皇位を譲ることになるのだが、それは古事記完成からわずか3年後のことであった(715)。

その譲位の際の詔には、周囲の力に苦しめられていただろう元明天皇の、その素直な気持ちが表れていた。

「次第に若さも衰え、政事にも倦んだ。さまざまな関わりを捨て、履物を脱ぎ捨てるように俗を離れたい。風や雲のようなとらわれない世界に身を任せたい」

女帝・元明天皇はその生涯、夫には早く死なれ、そしてまた息子にも先に旅立たれ、その治世も官僚らの思うまま。まことに疲れ多き人生であったかと思われる。






◎太安万侶



そんな元明天皇にとって乾坤一擲となった古事記。

その筆を執ったのは「太安万侶(おおのやすまろ)」という人である。

この人の父は「多品治(おおのほむじ)」といい、かの壬申の乱の折り、圧倒的劣勢であった大海人皇子(天武天皇)に真っ先に味方し、不破の道(美濃)を封鎖。東海道から東山道にかけての兵力を一手に集めたと云われている。



平城京の都華やかなりし時、その唐風文化の影で、太安万侶は黙々と古事記を書き記していた。その姿は、かつて劣勢でありながらも未来の姿を大海人皇子に見た父・多品治の生き写しであった。

そして父同様、太安万侶の古事記という功績もまた、日本の歴史に大きな楔を打ち込むことになるのである。



だが、その道のりは気が遠くなるほどに遠かった。

乾坤一擲の古事記の完成後、わずか8年にして新たな歴史書「日本書紀」にその神話を上塗りされたのである。

その日本書紀は、古事記に面と向かって対抗するかのように仕立て上げられている。古事記が「やまと言葉」で記されたのに対して、日本書紀は全文「漢文」。つまり外国語で書かれた日本の歴史であり、唐の風が色濃い仕上がりであった。






◎本居宣長



日本書紀ができると、日本の歴史はそれが正史となった。

ゆえに、古事記は歴史の表舞台からは消されてしまう。天皇家の家訓のような物語として古事記は残ったものの、その存在はおおよそ「公的」とは言い難く、「無視された歴史書」と成り果てるのである。



その虫の食ったような古事記を、装いも新たに世に問うたのは江戸時代の国学者「本居宣長」。彼が生涯を賭して記した「古事記伝」はその魂である。

その心は、かつての持統・元明、両女帝が「やまと」を愛した熱い想い以上に熱かった。本居宣長が再発火させた大和魂はのちに幕末の志士たちにも飛び火し、明治維新を起こすことにもつながる。








作家・長部日出雄氏は「本居宣長がもし古事記を読み解いていなかったら、消えてなくなっていたでしょう。やっぱり読むのが難しかったんですよ。ものすごく難しい」と言う。本居宣長をしても、古事記の注釈書を書き上げるのにじつに35年の歳月がかかっていたのである。

それでも土俵際で古事記は残った。

まるで奇跡のように、その神話は日本に残されることとなったのである。






◎日本人



古事記に込められた「日本」という国風への想い。争いに倦んだ果てにあった「平和」への希求。

その最初の登場人物となる神々は人間臭く相争い、そしてどうしようもない。とくに男たちの争いは釣り針一本にはじまることもあるしょうもなさである。その争いに巻き込まれる女性たちはその流れに翻弄され、そして時に命を落とす。

それは、古事記に関わった2人の女帝のみた世の浅ましさ、儚さだったのだろうか。アマテラスという皇祖神を女性とし、あえて無力としたのはそんな現実の投影、いやささやかな抵抗だったのかもしれない。



もしこの書によって天皇の権威を知らしめようとするならば、もっと万能な神々が登場してもよかったのかもしれない。だが、古事記に現れる神々は皆、人間の弱い心を持っている。誰一人として全能の神はいない。

むしろ清らかな心をもつ神ほど弱い。必ずといっていいほど誰かの助けが必要である。たとえば、出雲の大国主神は白いウサギに助けられる(因幡の白兎)。初代・神武天皇も一度は死んだようになるが、天から剣を遣わされ三本足のカラス(八咫烏)に助けられる。

強い神に限ってどうしようもない。八岐の大蛇を倒すほどのスサノオは宮殿でウンコをひり散らすのである。



そんな欠点だらけの神様たちの悲喜劇が、古事記であり天皇家の歴史であるわけだが、それがやはり日本的な感性であるのかもしれない。われわれは絶対的な一人の神様を必要としたわけではなく、むしろ色々な考え、能力をもった神様を必要としてきたのである。

アマテラスという神様は「水田と機織り」の神。すなわち農耕神、弥生時代の神様の象徴でもある。そして、その前の時代である縄文の神様はアマテラス以前、イザナギ・イザナミをさかのぼって描かれている。

神が神を生んでいくという古事記の話は、昔の時代を否定するものではない。むしろ前の時代があったからこそ今があるという発想が根底にある。この点、王朝交代のたびに前王朝を殲滅してしまうような中国の歴史とは大きく異なる。



日本の歴史上、女帝というのは10指に足らぬほどしか存在していないが、その内の2人(持統・元明)が古事記に関与している点は興味深い。

彼女らの受け入れる力があってこそ、古事記は懐の深いものとなったと思える。神も仏も受け入れる。漢字もやまと言葉も、縄文も弥生も。歴史書だって古事記と日本書紀、2つともあっていい。

まるで日本は「二本」、なんでもかんでも二本立て。その国の中心は決して一つではない。2つも3つも中心がある楕円のような国家であり、中心を増やそうと思えばいくらでも増やせる。多極というよりも多中心。日本の歴史で極に走ることは稀である。



日本人とは何か?

それを問う時、今の時代にも古事記の出す答えは的を得ているような気がする。

1,300年を経てなお色褪せない何かが、そこには描かれている…













(了)






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出典:NHK・BS歴史観
「古事記 国家統一の物語」
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2012年10月13日

なぜ出雲大社はあれほど大きいのか? 大国主神の国譲り


旧暦10月、日本全国の神様たちはみんな「出雲」に集まると云われる。いわゆる、国々から神々がいなくなる「神無月(かんなづき)」である。

海蛇に導かれた日本中の八百万の神々は、旧暦10月10日、出雲(現・島根県)の国の「稲佐の浜」へとやって来る。その浜で神様たちのお出迎えをするのは、出雲大社の神職にある人々。神々には、「神籬(ひもろぎ)」と呼ばれる榊の枝へと宿ってもらい、出雲大社へ。


出雲大社境内の東西には、細長い「十九社」という建物があり、ここが八百万の神々の宿舎、そして神々の話し合いの場になるとのこと。これから一週間にわたる一年に一度の話し合いが始まるのである。



◎「縁結び」の大仕事


出雲大社で待っている神様は、大国主神(おおくにぬし)。

日本中の神様がみんな集まって何を話し合うのかといえば、それは「縁結び」。神々は人の名前が書かれた札を互いに見せ合い、その「縁」を結んでいく。

文字通り、札と札とのヒモを結んでいく神々。結ぶのは男女の縁ばかりではなく、仕事の縁、農作物と天候の縁…と、一週間がかりの大仕事である。



この時期、出雲の人々も神々には気を遣う。「お忌みさん」といって、この一週間ばかりは「静けさ」を保つことを心掛けるのだという。

たとえば、騒音を出す掃除機を使うのを控えたり、テレビの電源を抜いておいたり…。それもこれも、大事な神様がたの話し合いの邪魔にならぬようにとの気遣い。

日本中の神様が集まる出雲の旧暦10月は「神無月」ではなく「神在月(かみありづき)」。神様を迎える方も何かと気苦労が多いのである。



※ちなみに、出雲大社が「縁結びの神様」として有難がられているのは、この地で日本中の縁結びの話し合いがなされるという言い伝えに由来している。



◎巨大な社


出雲大社が造営されたとされるのは、今から1,300年以上も昔の話。現在のものは江戸時代(1744)に建てられたもので、今は60年ぶりとなる平成の大改修工事が行われている(2008〜2013)。

その本殿の高さは24m(8丈)という破格の大きさ。日本で「大社」の名を持つ神社は出雲大社のみということであるが、その本殿は日本一の大きさなのである。まさに大社。





言い伝えによれば、昔はもっと巨大だったらしい。中古には48m(16丈)、上古には96m(32丈)もあったと云われている(ちなみに、大阪の通天閣は高さ100m)。

そのあまりの大きさ、にわかには信じ難い。出雲大社の宮司の家に伝わる「金輪造営図」という大社の設計図には、そう書かれてあるのだが、その信憑性はしばらく疑われていたほどである。「そんな大昔に、そんな技術があるわけがない」と。



ところが平成12年(2000)、本殿前を工事していた際に思わぬものが出土した。それは「金輪造営図」に記された通りの、直径1mの丸太を3本束ねて巨大な一本の柱としたものであった。次々と見つかる巨大な柱。その配置はまさに設計絵図そのままであった。

9本の巨大な柱が支える高さ48m(16丈)の本殿(現在の倍)、そこに昇るための100mを超える階段。それほど巨大な社が古代出雲にはあったというのである。






◎「国譲り」の神話


なぜ、出雲大社はそれほど巨大であったのか?

それは、その祭神である「大国主神(おおくにぬし)」がそう望んだからである、と古事記は記す。「わが住処を、太く深い柱で、千木(屋根の装飾)が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう(古事記)」



なぜ、大国主神は隠れていなくてはならないのか?

それは、大国主神が出雲の国を、アマテラスに譲ったからであった(国譲り)。

アマテラスというのは言わば「天上の神」である。それに対して、大国主神は「土地の神」。出雲の豊かさに魅了されたアマテラスは、出雲の地を自分の子孫(天孫)に継がせたいと考え、出雲の主であった大国主神に国を譲らせたのである。



◎国譲りへの反抗


当然、出雲を守り続けていた大国主神の心中は穏やかならぬものもあったのであろう。現に、大国主神の息子の一人は「国譲り」に猛反発して、アマテラスの使者と力比べをしたと神話は語る(毎年、氷川神社で行われる奉納相撲という神事は、その力比べに由来する)。

アマテラスの使者・タケミカツチの神と力比べをした、大国主神の息子・建御名方神(たけみなかたのかみ)。結局、大国主神の息子が敗れ、息子は遠く諏訪(長野県)まで落ち延びることとなる(これが諏訪神社の由来であり、出雲のほかに旧暦10月を「神在月」と称するのは、この諏訪地方のみである)。



神話の世界というのは寓話のようなもの。「国譲り」という平和な響きの裏には、明らかな対立の構図がある。国譲りを迫った使者と、大国主神の息子の力比べが相撲という平和的なものであったかどうか…。出雲大社近くの遺跡からは358本もの銅剣も出土している。

天上の神アマテラスは、現在の天皇家につながる大和朝廷。一方の大国主神は有力な地方豪族。しかも、出雲の地には「たたら製鉄」があった。鉄よりも強い「鋼(はがね)」を造る高い技術を擁していたのである。



◎八岐の大蛇とスサノオ


出雲の地には現在、スサノオを祀る「須佐神社」というものもある。スサノオというのは天上の神アマテラスの弟である。しかし、そのあまりの乱暴ぶりから天上界の問題児とされた神である。

その須佐神社には不思議なものが現代にまで大切に伝わっている。それは「八岐の大蛇(やまたのおろち)の骨」である。輪切りにされた背骨のようなその骨は、バスケットボールほどの直径がある。

ご存知、八岐の大蛇といえば、スサノオの退治した「8つの頭と8本の尾をもつという化け物」である。



天上界(高天原)から追い出されたスサノオは、ふらふらと出雲の地を歩いていた。すると、斐伊川のほとりで涙にくれる老夫婦と出会う。その涙のわけを聞けば、八岐の大蛇という怪物が娘の「稲田姫」を食おうとしているというのではないか。その老夫婦には8人の娘がいたというが、毎年毎年、娘たちを一人ずつ食べてしまった。そして、今年は稲田姫の番だというのである。

「稲田姫」の美しさに心を奪われたスサノオは、彼女との結婚を条件に八岐の大蛇退治を引き受けた。一計を案じたスサノオは、濃い酒を用意して大蛇を待つ。そこに現れた大蛇、まんまと酒に酔って正体不明となる。そこをすかさずスサノオは斬りつけた。

スサノオの剣は、大蛇の尻尾を切った時、その刃が欠けた。あとで不思議に思ってその尾を裂いてみると、尾の中からは立派な大刀が現れる。これが「天叢雲(あめのむらくも)の剣」。天皇家の三種の神器の一つとなるものであった。

※天叢雲の剣は、姉のアマテラスへと献上され、のちに東征した大和武尊の窮地を救う「草薙(くさなぎ)の剣」となる。そして、源平合戦の最終戦・壇ノ浦で海中に没したとも云われる。






◎大蛇という比喩


さて、このスサノオによるヤマタノオロチ退治伝説には、さまざまな歴史が隠されている。

まず、スサノオの歩いていた斐伊川というのは、出雲のたたら製鉄を支えた「良質の砂鉄」を産した川である。スサノオの剣が欠けたというのは、出雲の剣がスサノオのそれよりも硬かったからなのかもしれない。

日本刀の原料ともなった出雲の玉鋼(たまはがね)は、砂鉄10トンからわずか1トンしか取れないという貴重なものであり、古代出雲で造られていた玉鋼ほどに純度を高めるのは、現在の技術をもってしても困難だと言われている。



古代出雲には、そうした高い技術をもつ集団がいたと考えられ、それが八岐の大蛇に重ねられていると考える人もいる。大蛇の腹が赤くただれていて、その血によって斐伊川が真っ赤に染まっていたというのは、鉄分を含んだ赤い水が斐伊川に流れていたからなのかもしれない。

また、大蛇は「洪水の化身」とも考えられ、毎年娘をさらうというのは毎年の氾濫を意味し、稲田姫というのは稲作の田んぼの象徴だとも言われている。たたら製鉄には「大量の木炭」を必要とするため、周辺の山々の木々が伐採され、その結果、洪水が起きやすくなっていたとも考えられている。

はたして、スサノオは自慢の力で出雲を服従させたのか、それとも、治水を請け負った英雄だったのか?



◎天穂日命(あめのほひのみこと)の子孫


いずれにせよ、天孫一族で最初に出雲と関わりをもったのがスサノオと考えられ、出雲出自の大国主神はその跡を継いだとされている。そして、のちに国譲りとしてアマテラスへ出雲を譲るのである。

国譲りの使者として、アマテラスははじめ、天穂日命(あめのほひのみこと)を出雲へと遣わしたと云われている。ところが天穂日命は大国主神に従ってしまう。ミイラ取りがミイラになってしまったのだった。その後に改めて遣わされたのが、先に記したタケミカツチの神。大国主神の息子と力比べをした神である。



現在、出雲大社の宮司を務める家系は、アマテラスが最初に出雲に遣わした天穂日命(あめのほひのみこと)の子孫と云われている。天穂日命はアマテラスの次男でもある。

出雲国造家とも言われる「千家(せんげ)家」が、その子孫であり代々出雲大社の宮司である。この家系は天皇家に次ぐ長い歴史を誇っており、現当主は千家尊祐(たかまさ)氏、天穂日命から数えて84代目である。



◎出雲大社の本殿


夜明け前、出雲大社の宮司である千家尊祐氏は、御火所(おひどころ)と呼ばれるお清めの建物へと向かう。家族でさえ立ち入れず、中の様子を語ることも固く禁じられている神聖な場所である。

御火所で朝の祈りを捧げると、食事をとる。料理もすべて一人で行い、そこで使う火は尊祐氏が宮司になったときに起こした火で、その火は絶やすことなく一生使い続けられる。「穢れのない火が神に使える心を保つのです」。

大国主神に直接願いを告げることができるのは、この宮司のみ。千家家は世の中の平安と天皇家の繁栄を日々祈り続けているとのことである。



出雲大社の本殿内部は、60畳という広さ。天井に描かれているのは、鮮やかな雲の絵(八雲之図)。雲は神がいるところの象徴である。八雲といわれるのに7つしか雲が描かれていないのは、8つ描いて完成させると、そこで発展が止まってしまうからだそうである。

そして、その本殿を支えるのは、本殿の中心に建てられた立派な柱「心御柱(しんのみはしら)」。古来、柱は神が宿るものとして崇められてきたものであり、本殿はその柱を守るためのものなのである(神様の数え方は、一柱、二柱…)。



ところで、肝心の大国主神の席、御神座はどこに?

じつは出雲大社の本殿は普通の神社と御神座の位置が異なる。本殿に入った正面が壁で遮られているため、その壁の左側から回り込まないと、御神座にはたどり着けない(逆コの字)。

そして、御神座の「向き」も普通の神社とは異なる。普通は南側を向いているものだが、出雲大社の御神座ばかりは「西側」を向いているのである。出雲大社の西は海。その向こうは神々が住むという常世の国。そこは国譲りの際に約束した、大国主神が取り仕切る世界なのである。

出雲の大国主神は一度、天上界の申し出(国譲り)をキッパリ断っている。そこで出されてきた条件が、巨大な出雲大社の造営であり、大国主神の冥界支配であったのだ。



◎ある一説


古代出雲が大和朝廷に従うようになった歴史には、どんなドラマがあったのか? 今に伝わる断片的な歴史や風習に、そのドラマは見え隠れしている。

出雲国風土記の大国主神は、こう言っている。「私が支配していた国は、天神の子たちに譲ろう。しかし八雲たつ出雲の国だけは、垣根のように青い山で取り囲み、自分が鎮座する」と。



出雲国風土記というのは、大和朝廷がつくった古事記や日本書紀とは異なり、出雲大社の宮司(千家家)が1,300年前に編んだものとされ、全国の風土記の中では唯一ほぼ完全な形で今に伝わるものである。

この書によれば、大国主神が支配していたのは出雲一国だけではなく、もっと広範な国土であったことを示唆している。国譲りとして譲ったのは、出雲以外のほかの国々だったというのである。逆に譲らなかったのがお膝元の出雲だったというのである。

ある壮大な一説によれば、大国主神の支配は東方は越(北陸)、南方は紀伊(和歌山)、西方は筑紫(北九州)、北方は海を越えた新羅(朝鮮)にまで及んでいたとされている。もちろん、息子が逃れた諏訪(長野)も勢力下であったのだろう。






◎稲佐の浜


大国主神に国譲りを迫ったアマテラスの使者は、「稲佐の浜」にその剣を突き立てた、とある。稲佐の浜とは、旧暦10月10日に日本全国の神々を迎え入れる場所でもある。古代において、この浜はかように重要な場所だったのである。

現在も出雲大社において行われるという「縁結び」の話し合いに、アマテラス系の神々は今も参加しないという説もある。たとえ来たとしても「最後に参上し、最初に退出する」という伝承も残る。



出雲系の神々が主となって行ったとされる「縁結び」の話し合いとは、古代、如何ようなものだったのであろう。それはアマテラス系との和解を探るものだったのか、それとも…。

古代の神々には、古代の権力者たちの影がそこに重なる。そして、出雲一国、もしくは出雲大社に雲隠れせざるを得なかった大国主神の姿も…。



◎一つ


万世一系と言われる日本の歴史も、それをヒモ解けば、決して初めから一枚岩だったわけでなかったことが、容易にうかがい知れる。今は神々となった人々も、かつては血気盛んな時代があったのだ。

それでも今、この国は一つの言語、一つの民族となっている。天皇家の伝説も含めれば2,600年という永い時間の中で「一つ」となったのだ。



もしかしたら、古事記と日本書紀という日本の正史は、正しい歴史を伝えていないのかもしれない。伝説として語られる逸話は、官軍に都合に合うように美化されているところもあるのだろう。

しかし、大和朝廷は日本全国に「風土記」という形で地方の歴史を公式に残せるような配慮を成した。

それは、悲しい歴史を知る人たちへの優しさだったのかもしれない…。







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奥能登に住まうという凄まじく強い神、そして弱くも有り難い神。

神様のお米と日本人。その長い長い歴史に想う。



出典:新日本風土記「出雲」
posted by 四代目 at 09:04| Comment(1) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月29日

存在しなかったともされる聖徳太子。その存在に象徴されるものとは?


「聖徳太子」を知らぬ日本人は少ない。

それは、過去最多の計7回も「紙幣の顔」になったことにもよるのだろう(聖徳太子がお札になれば、経済は上り調子になるとまで言う人もいる)。

しかし、それほどに顔と名前が日本人に知られていながら、「聖徳太子はいなかった」という説がアチラコチラから度々浮上してくるのだが…。




「十七条の憲法」、「冠位十二階」、「遣隋使」などなど、歴史に残る業績がありながらも、なぜ、聖徳太子は「いなかった」と言うのか?

それは、聖徳太子の活躍した時代と、その活躍が「記述された時代」に大きな隔たり(およそ100年)があるからである。さらには、その大きな隔たりの間に、歴史的な大事件(大化の改新・645)が起こっているからでもある。



聖徳太子の業績が初めて記された歴史書は「日本書紀」であるが、日本書紀が成立するのは720年。聖徳太子の死後、100年近くが経過してからである。

また、聖徳太子とされる人物は、正式には「厩戸皇子(うまやどのみこ)」であり、聖徳太子という呼称は、没後130年以上のちに編纂された「懐風藻(751)」が初出とされている。

これらの歴史書は、すべて「大化の改新(645)」以降のものである。大化の改新とは、日本の政体を一変させた一大事であり、その改新により、歴史書の記述も大きく変化していくことになる。




つまり、この大化の改新により、聖徳太子に関する歴史的記述も一変したのである。

幸いにも、聖徳太子は大化の改新以降、過大に評価されることとなったのだが…。そして、その過大評価の一部をもって、「聖徳太子はいなかった」とも言われているのである。

なぜ、聖徳太子という存在が崇拝されるまでに高められていったのか? その理由を知るには、「当時の日本」を知る必要がある。



聖徳太子こと厩戸皇子が歴史の表舞台で活躍したとされるのは、およそ30年間。

ちょうど日本初の女帝である「推古天皇」の治世下においてであり、厩戸皇子は推古天皇の「摂政」として、国の政治を補佐したとされている(593〜622)。

時代区分としては、古墳時代の後、奈良時代の前の「飛鳥時代(592〜710)」ということになる。



聖徳太子登場以前の日本は、まだまだ一国としての体裁を整えていなかったという。

天皇という権力は存在していたものの、実際に力を振るっていたのは地方に林立する「豪族たち」であった。その豪族たちこそが「民と土地」を直接支配していたのである。

そのため、豪族たちは互いに争いあうことが常であった。特に有力だったのは、「蘇我氏」と「物部氏」である。両者は仏教を受け入れるか否かで激しく対立していた。

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その対立の中で即位したのが「用明天皇」。聖徳太子の父親でもある用明天皇は、仏教を是認する崇仏派であり、蘇我氏の喜ぶところであった。

しかし、不幸にして用明天皇は即位後わずか2年で没してしまう(疱瘡)。ここぞとばかりに物部氏が出張ってくるも、蘇我氏は物部氏の推す皇子(穴穂部)を暗殺。その後、蘇我氏は一気に物部氏を討伐してしまう。



物部氏を滅ぼした蘇我氏が即位させた天皇が「崇峻天皇」。当然、政治の実権は天皇にはなく、豪族・蘇我氏にあった。

腹を立てた崇峻天皇は蘇我氏との対立姿勢を鮮明にする。崇峻天皇は献上された「猪(イノシシ)」の目を刀で刺し、「憎き者を、いつかはこうして殺してやろう」と言ったとも…。

天皇に敵視された蘇我氏は、すかさず崇峻天皇を「暗殺」。臣下による天皇殺害(確定済)は、後にも先にも、この一事のみである。この時代は、それほど殺伐とした時代だったのであり、天皇といえども強大な豪族には逆らいえないところがあったのである。



暗殺された崇峻天皇の後に即位したのが「推古天皇」。そして、その補佐役とされたのが厩戸皇子(聖徳太子)である。当然、蘇我氏との合意の元である。

推古天皇は日本天皇家史上初の「女性」天皇であり、蘇我氏とも「血縁関係」を持つ。そして、厩戸皇子もまた、蘇我氏とは血がつながっているのである。



こうした背景を見るにつけ、推古天皇、ならびに厩戸皇子は、蘇我氏の都合に合わせた人事であったであろうことが窺い知れる。

蘇我氏は大敵であった物部氏を滅ぼし、己に逆らう天皇を暗殺し、ようやく安心できる天皇を戴くことができたのである。

天皇が女性であれば操り易いであろうし、蘇我氏が前面に出ていくよりは、血縁である厩戸皇子を立てておいた方が体裁も良い。



そんなこんなで、蘇我氏は権力闘争に明け暮れ、自身の足元しか見ていなかった。

しかし、厩戸皇子(聖徳太子)の目は「世界」を見ていた。そして、「日本の未来」をも見ていた。

「世界」とは、大国・隋(中国)であり、朝鮮半島(高句麗・新羅・百済)であった。そして、「日本の未来」とは、「天皇を中心とした国づくり」であった。

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聡明であった厩戸皇子は、つまらぬ内部抗争により国が廃れていく様を予見していたのであろうし、このまま豪族たちに力を持たせ続けるのは危険であるとも感じていたのであろう。

厩戸皇子は醜い争いの渦中におかれ続け、その無益さを痛感していたのかもしれない。



さっそく、厩戸皇子は大国・隋(中国)に使者(遣隋使)を送り、正式な国交を求める(600)。

ところが、その使者は大国・隋に一蹴され、国交を結ぶなどは論外と撥ねつけられてしまう。当時の日本の国体は、天皇の権力が弱く、政治的にもアヤフヤであり、正式な国書すら持参していなかったのだ。

大国・隋にしてみれば、日本人たちは海の彼方の未開の部族に過ぎなかった。そして、その未開の部族は、大切な国際舞台で大恥をかかされてしまったのである。



大いなる挫折を体験した厩戸皇子。

以後、積極的に他国からの人材や技術を受け入れ、雑多な渡来人たちを自身の本拠地「斑鳩(いかるが)」に集結させた。

この「斑鳩(いかるが)」という地は、他国の船が入ってくる「難波津」と、国の都である「飛鳥」のちょうど中間に位置し、外交には持ってこいの立地であった。

ちなみに、この地に造営された「斑鳩寺」と「斑鳩宮」だけは、紛れもなく聖徳太子にまつわる遺構であるとされている(これは太子否定派たちも認めるところである)。

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厩戸皇子は別名「豊聡耳(とよとみみ)」とも呼ばれるが、それは10人の話を同時に聞き分けることができたという伝説に由来する(一説には36人とも)。

この逸話を拡大解釈すれば、厩戸皇子が多くの人々の意見に耳を傾けたとも考えられる。そして、多くの人々とは他国から来た渡来人たちであったかもしれない。



多くの渡来人たちを抱える厩戸皇子は、国際情勢に精通するようになった。そして、その情報網を生かして、2度目の遣隋使を送るタイミングを虎視眈々と狙っていた。

一度目は大失敗に終わった遣隋使。2度連続の失敗は国家としての威厳に大きく関わる。



その絶妙のタイミングを厩戸皇子に囁いたのは、高句麗の僧侶「慧慈(えじ)」ではなかったか。僧侶「慧慈」は、厩戸皇子が仏法の師とも仰いだ人物であり、生国である高句麗の情勢に通じていた。

時は607年、この年、隋と高句麗の国境線には不穏な空気が漂っており、あわや大戦(おおいくさ)かとも思われていた。

厩戸皇子が2回目の遣隋使を送ったタイミングは、まさにその一触即発のその時である。隋がいかなる大国と言えども、高句麗と緊張関係にある中で、日本を邪険に扱うことはできなかった。



さらに、遣隋使が持参した国書の文面は、その後の歴史において忘れ難いほどの強烈な印象を世界に示した。

「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。」

「日出づる処の天子」とは日本の天皇であり、「日没する処の天子」とは隋の皇帝である。わずか7年前に未開として一蹴された日本が、ここまで堂々と大国・隋に対峙したのである。

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この書を一見するや、隋の皇帝(煬帝・ようだい)は「激怒した」とも伝わる。しかし、それでもこの書により、日本と隋は正式な国交を開くことにもなった。

大国の皇帝を激怒させながらも、しっかりと国交を結ぶことに成功したとは、如何なる次第か?



一説には、この書は教養に溢れており、大国・隋といえども一目置かざるを得なかったとも言われている。

たとえば、「日出づる処」とは東方を意味し、「日没する処」とは西方を意味する。これは、「摩訶般若波羅蜜多経」の注釈書である「大智度論(だいちどろん)」にある一節である。国書の冒頭に、こうした「おっ」と思わせる引用がなされているのである。



隋の煬帝も「日没する」という縁起の悪い表現に激怒したわけではないと考える人々もいる。むしろ、「天子が二人いる」ということに憤慨したのだという。

中国の思想によれば、天子は「一人しかいない」のが常識であり、他国とはいえ、海の向こうにもう一人の天子がいるなどということは「けしからん」ことなのである。

隋の煬帝による返書を見ると、日本の天皇を天子ではなく「倭皇」としている。しかし、そのまた返書で日本側は「倭皇」ではなく「天皇」という呼称を明記している。



日本という国が隋に認められたのは、遣隋使を送ったタイミングや国書の秀逸さもあったかもしれないが、国として体裁を整え出していたことも忘れてはならない。

国の憲法とされた「憲法十七条」、豪族以外の優秀な人材を登用する道を拓いた「冠位十二階」など、新たな国づくりは着々と進められていたのである。

これらの業績は一般的に厩戸皇子(聖徳太子)の偉業とされるものであるが、最近の通説では、聖徳太子一人の仕事ではなかったであろうとも考えられている。しかし、それでも天皇の摂政である厩戸皇子が何らかの形で関わっていたであろうことは確かなことでもあろう。



日本の政体が「天皇を中心とした国」として確立するのは、大化の改新(645)以降であるとされている。そして、その国体が完成するのが奈良時代、710年の平安京ということになる。

それ以前は、各地に豪族たちが林立する殺伐とした国だったのであり、先に記したように、豪族たちの都合で天皇が変わってしまう時代でもあった。



飛鳥時代に制定された憲法十七条を読むと、そこには「人としての心得」が示されていると同時に、豪族たちの勝手を許さないという気迫も感じられる。

「和を何よりも大切とし、諍(いさか)いを起こさぬように。人々は群れたがるが、それでは人格者にはなれない(第一条)」

「天皇の命令を受けたのならば、謹んでそれに従うように。天皇が天であり、臣下は地である(第三条)」

「国には、二人の君主はいない。天皇だけが君主である(第十二条)」




飛鳥時代に示された「天皇中心」の統治体制は、その100年後の奈良時代に確立することになる。

そして、その道を初めて示した中心人物の一人が厩戸皇子(聖徳太子)ということにもなる。それゆえ、聖徳太子を称えることは、天皇中心の体制を強化することにもつながった。

大化の改新(645)以降、聖徳太子が必要以上に讃えられたのには、こうした理由もある。

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そんな理由もあって、その死後に聖徳太子は神格化されていくわけだが、その反面、厄介者である豪族の代表格だった「蘇我氏」は徹底して貶められていった。

厩戸皇子(聖徳太子)の死後、蘇我氏はその権勢を思うままに振るい、天皇を軽んずること甚だしい。推古天皇亡き後の「舒明天皇」、「皇極天皇(女性)」は蘇我氏の立てた天皇である。

大化の改新前夜の「乙巳の変」は、専横を極めていた蘇我氏を滅ぼした政変である。そして、蘇我氏亡き後、ようやく権力は天皇の手中に戻り、中央集権の国家が誕生していくことになるのである。

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歴史は勝者によって、書き換えられていく。

悪の根源とされた豪族・蘇我氏は、歴史書において逆賊とされ、新国家の理想像は聖徳太子に求められた。

その結果、飛鳥時代の悪行は、すべて豪族たちのせいとされ、同時代の偉業は、すべて聖徳太子に起因するものとされた。

こうして、聖徳太子は「さまさま」となったのである。



そういう意味では、聖徳太子は「いなかった」のかもしれない。

厩戸皇子は確かに存在したが、その実像は聖徳太子ほどに巨大ではなかったかもしれないからだ。



聖徳太子こと厩戸皇子には、その血を継ぐ皇子(山背大兄王)がいた。

しかし、蘇我氏はその皇子が天皇となり力を持つことを恐れた。その結果、山背大兄王は遠ざけられ、攻めたてられ、自害へと追い込まれた。

無念かな、蘇我氏の血をも引いていた厩戸皇子(聖徳太子)の血統は、蘇我氏によって、ここに絶たれたのである。



厩戸皇子も、その息子・山背大兄王も、天皇になる資格を持つ皇族であった。

しかし、厩戸皇子の聡明さは、蘇我氏の恐れるところでもあったのであろう。蘇我氏が山背大兄王を必要以上に警戒したことでも、それは窺い知れる。



だが、蘇我氏を滅ぼした新政権が喜んで厩戸皇子を讃えることができたのは、その血族が途絶えていたためでもある。

どんなに讃えようとも、厩戸皇子一族に権力を与えることにはつながらなかったからだ。もはや、彼らの一族はいないのだから…。



もし、山背大兄王の悲劇がなかったならば、厩戸皇子の名も逆賊の一味とされていたかもしれない。なぜなら、厩戸皇子も逆賊・蘇我氏の血を引く一族なのである。

幸か不幸か、その血が絶たれたことで、厩戸皇子はある意味、別格の存在となりえた。

そして、聖徳太子となり得たのである。



飛鳥時代の日本は、国としての形を模索していた時代でもあった。

そして、その形は次の奈良時代により、ほぼ確定し、天皇中心の制度は現在にまでつながることとなった。

聖徳太子という存在は、失われかけていた天皇家の求心力を取り戻し、それを現代にまでつなげたということになる。



豪族たちの小競り合いが続く中、世界を見つめ、日本の未来を慮(おもんぱか)っていた聖徳太子。

彼がいたか、いなかったか? その答えは簡単には出ない。

しかし、日本という国が、現にこうして存続していることこそが、過去の先人たちの偉業の結果なのであり、その偉業が誰の手柄かどうかは、また別問題なのである。



聖徳太子にまつわる伝説の一つに、「飛翔伝説」というものがある。

諸国から献上された数百匹の馬の中から、聖徳太子は一発で「神馬」を見抜く。

そして、聖徳太子がその神馬にまたがるや、神馬は天高く飛翔して、日本国中を巡ったという。



聖徳太子の想いは、飛翔するかのように日本を飛び出し、そして、時代をも飛び越えたていたのかもしれない。

そうした存在が、我々日本人の胸の内にあることは、大いなる誇りでもある。

聖徳太子が歴史に存在したかどうかよりも、そうした理想像が後世に示されたことの方に、大いなる価値があるようにも思う。




出典:BS歴史館 シリーズ英雄伝説(2)
 聖徳太子は実在したのか!?〜古代史の巨大な謎に迫る


posted by 四代目 at 09:50| Comment(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする