その津波の高さに対して、福島第一の敷地は標高「10m」。
つまり、今回の約13mの津波は福島第一の敷地よりも「3m以上高かった」ことになる。その最悪の結果が、炉心溶融に至る放射能事故である。
かたや、女川原発(宮城)の敷地標高は「14.8m」。
こちらを襲った津波の高さは「14.8m」。期せずして敷地の高さと同じであった。
そのため、女川原発はかろうじて大津波を凌(しの)ぐことができた。
明暗を分けた2つの原発の差は、敷地の標高である。
福島第一が10m、女川が14.8m。この「約5mの差」が決定的な差となった。
最も単純に考えてしまえば、そういうことになる。
なぜ、福島第一はそんなに標高の低いところに造ってしまったのか?
実は、標高の低いところに造ったのではなく、地面を掘り下げてわざわざ標高を低くしたのである。

福島第一の敷地は元々「標高35m」であった。
それをわざわざ25mも削って、標高10mにしたのである。
もし、標高35mのままだったら…。歴史は変わっていたかもしれない。
それにしても、なぜ、わざわざ掘り下げたのか?
それは、アメリカ(GE)から輸入した原子炉の「都合」であった。
この原子炉に付属していた「冷却ポンプ」が、「10mの高さまでしか水を汲み上げられなかった」のである。そのため、わざわざ原発の敷地を標高10mまで下げたのである。
福島第一で用いられた原子炉は、完全に「出来合いタイプ(Ready-made)」でポンプの設計変更は不可能とされたのである。
このタイプは「建設コストの削減」を最大の目標とした「プレバブ」型の原子炉なのである。
あらかじめ「規格通りの部材」を用いることにより、建設コストと時間を大幅に削減できる。その反面、「まったく融通が利かない」という代物である。
当時、アメリカのGE社はこの量産タイプの原子炉をスペインに納めたばかりであった。そのため、福島にも同じタイプのものをそのまま流用すれば、格段にコストが削減できたのである。
こうした販売システムは、「ターン・キー」契約と呼ばれた。
設計から建造までを全てメーカー(GE)に任せ、顧客である東京電力は鍵(キー)を差して回す(ターン)だけというわけである。

当時の東京電力は、コスト削減を最優先課題とした。
なぜなら、日本政府の補助金が思ったより見込めなくなったためである。
アメリカ(GE)の原子炉は安かった。「マークT」というこのタイプは、原子炉格納容器が非常に小型であり本体価格がまず安い。加えて、上述した通りの「プレハブ」型だったために建造費用も安いというわけである。
しかし、3.11の事故においては、原子炉格納容器の「小ささ」と、この融通の利かない「プレハブ仕様」が重大事故を誘発してしまったのである。
まさか、40年後にこれほどの大事故を起こすなど当時の人々は何も知らない。
他の原子炉を導入するよりも、大地を25m削った方が安上がりであった。
さらに悪いことには、この原子炉の「非常用電源」は海側の低い位置にあった。これもプレバブ仕様でそうなっていたため、何の疑問もなくそのまま建造された。
しかし、この海側の「非常用電源」は3.11であっさり水没し、まったく用をなさなくなる。そして、この「電源喪失」が致命傷となり、核燃料は異常な高温でトロトロに溶けてしまったのである。
こうした一連の杜撰さを、一企業だけの責任と捉えることはできない。
当時の日本の「原子力発電」に対する異様な過熱ぶりを見逃すことはできないのだ。
日本で原子力の話が持ち上がるのは、1952年のサンフランシスコ平和条約以降である。
それまでの日本では、アメリカが原子力の研究を禁じていた。
1952年に研究が再開されたとはいえ、原爆の傷が生々しい当時の日本では、原発否定派の力が大きかった。
しかし、その風向きは突然変わる。
1954年、中曽根氏の力により、いきなり原子力開発に「政府の予算(2億3,500万円)」がついたのだ(この予算額の数字は「ウラン235」にちなむもので、確たる根拠のある額ではなかった)。
これには学者連中がブッたまげた。彼らは原発の是非を問い、喧々諤々の議論の最中だったのである。
政府の力は絶大である。原発は議論を飛び越してゴーサインが出たのである。
しかし、当の経産省は何をやったらいいのか分からない。初年度の予算は4分の1ほど使っただけで、そのほとんどが繰り越されたという。

予算成立と同じ年、ビキニ環礁での水爆実験(アメリカ)により「第五福竜丸」が被曝する。
「死の灰」をかぶった久保山氏の死もあり、世論は紛糾。一挙に反原発の火の手が全国に飛び火する。
「水爆マグロ」などの言葉が聞かれたのはこの頃の話である。

そうした火の手を鎮火せんとしたのが、「原子力平和利用博覧会」である。
アメリカ(CIA)も全面協力したこの催し物は驚くほど盛り上がり、とんでもない大成功を収めた。そのお陰で、原発反対の世論は一気に吹き飛んでしまった。
この博覧会の立役者となったのが、「原発の父」とも呼ばれる正力松太郎氏。
日本テレビと読売新聞を傘下に持つ正力氏は、メディアの力を大いに活用して原発のイメージアップに尽力したのである。

1957年、正力松太郎氏の力により、日本初の原子力発電所が運転を開始する(JRR-1)。
しかし、政府は急ぎ過ぎた。十分な知識も技術もない「見切り発車」。衆目の危惧した通り、この原子炉はトラブル続きであった。
その性急さを物語るエピソードがある。
正力氏に助力を嘆願された「湯川秀樹氏(ノーベル賞)」。湯川氏は基礎研究の重要性を説き、時間をかけて原子力産業を固めていくことを提案する。
しかし、正力氏は急いでいる。知識と技術は「外国から導入すればよい」と考える。二人の意見は正反対。湯川氏は3ヶ月後に辞表を提出した。
湯川氏の主張した通り、基礎研究の欠如は日本の原発政策にとって致命的であった。
外国の言うことを鵜呑みにするしかなくなったのである。
この体質は福島第一の建造時も変わっていなかった。そのため、アメリカ(GE)の為すがままに大地を大きく削らざるを得なかったのである。
1966年、日本初の商業用原発が運転を開始する(東海発電所)。
こちらの原子炉はイギリスから輸入した「コールダーホール型」である。
正力氏の説明によれば、原子力発電は電気料金を安くできるという話であった。しかし、この「コールダール型」の原子炉ほど高くついたものはない。維持・修理費だけで年間1〜6億もかかっている。

発電コストも高かった。イギリスの試算では石炭を高く、ウランを安く見積もっていたのだ。その見積もりは日本の国情とは全く異なるものであった。
このタイプの原子炉の最大の弱点は「耐震性」にあった。イギリスでは地震がほとんど起きないのである。
当時の日本原子力発電の一本松社長はこう語っている。
「原子炉は火力発電のボイラーくらいに考えていた。しかし、次第に複雑な技術だと分かってきた。改めて考えてみると、この未知の領域で利益を上げるのは無理である。」
それほど、当時の日本には原発の知識が乏しく、しかも非効率であったのだ。
それでも、日本は電力を必要とした。
高度経済成長期、日本の電力需要は年率10%ずつ伸び続けていたのである。
その増加分を原発でまかなうというのが政府の大目標であった。
原発計画はフワフワのままに進んでいくしかなかった。
そして日本の企業も、「バスに乗り遅れるな」とばかりに次々と飛び乗ってきた。後先を考えているヒマはなかった。「臨界実験装置ってなんじゃ?」という状態だったという(三菱商事・浮田氏談)。
フワフワのまま福島第一は着工され、建造はアメリカ(GE)に一任である。
運転に必要な知識や技術は追々学んでいくというのが日本側のスタンスであった。
大地を10mまで掘り下げることも、非常用電源が不適切な位置にあることも、みなアメリカ(GE)の指示するままに作業は進んでいった。

そして時は流れ、2011年3月11日。
福島第一は壊滅した…。
いまだ終息の見通しは不確かである。
「福島第一原発」関連記事:
弱々しい原子炉であった「マークT」。福島第一の事故推移は、アメリカのシミュレーション通り。
設計上の不備が指摘される福島第一原発。製造元のアメリカでは、その欠陥が認められていたが……。
出典:ETV特集
「シリーズ 原発事故への道程〜前編・置き去りにされた慎重論」