2011年11月11日

闘うコオロギは環境次第で強くなる。しかし、度を超してしまうと…。


中国には「虫」を闘わせる遊びがある。

その虫とは「コオロギ」。そして、その遊びを「闘蟋(とうしつ)」と呼ぶ。

日本では風流なコオロギも、お隣りの大国では立派な「闘士」なのである。

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中国の市場では、缶詰のような形の陶器に入れられてコオロギが売られている。

「アゴが大きい奴ほど強い」のだとか。

買い手は、「茜草(せんそう)」という細い草でコオロギの触角を刺激し、その闘争心を値踏みする。

人気のコオロギになると、一匹で一万円を超えるという。

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「闘蟋」の指南書である「蟋蟀(こおろぎ)文化大典」によると、「三分在種、七分在養」とある。

つまり、コオロギの強さは、その3割は「遺伝(種)」であるが、残り7割が「飼育方法(養)」で決まるというのである。



そのため、中国のコオロギ愛好家は飼育方法に工夫を凝らす。

エサには小エビやキクラゲなどに大豆を混ぜたりして、より強いアゴができそうな食材を吟味する。一日一回、コオロギを水に入れて清潔さを保つ。

闘争心を高めるために一匹ずつ隔離して育て、試合の前日にメスと一緒にする、などなど。

そうして、全中国の覇者となるコオロギを育成せんと、愛好家たちは凌ぎを削っているのである。

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試合直前、自分のコオロギの触角を茜草でツンツンして、充分に闘志をかき立てる。

そして、仕切りの板が取り払われるや、お互いのコオロギは自慢のアゴで敵に齧りつく。

鳴き方も激しい。夜長に楽しむ音色とは全く違った「闘争鳴き」と呼ばれる気合いの入った雄叫びである。

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強いコオロギは相手を場外へと投げ飛ばす。弱いコオロギはシッポを巻いて逃げ回る。

そんな熾烈な闘いを最後まで勝ち抜いたコオロギだけが、晴れて「虫王」の称号を授かることになる。



この「闘蟋」という遊びは、中国では唐の時代にまで遡ると言われており、およそ1,200年の長き伝統を誇る。

熱中するあまり、家屋敷を失った者や、国を滅ぼした者すらいたという。宋の宰相(賈似道)はコオロギの指南書を著している。

文化大革命(1966-1976)の際には、中国共産党により弾圧されたというが、コオロギのごとく草に忍び、しぶとく生き延びた。そして、現在もなお盛んである。



中国だけではなく、闘蟋はヨーロッパでも伝統的に楽しまれてきた。

ヨーロッパでもとりわけ闘蟋に熱心だったのが「イギリス」。その歴史はヨーロッパ随一である。

イギリスらしく、コオロギは午後の紅茶を楽しむ。紅茶の成分がコオロギの滋養強壮に効くことは科学的に証明されていることだとか。



イギリスのコオロギは触角に硫黄化合物を練りこまれ、2本の触角がこすり合わさることによって熱が発生し、それが強力な武器(ヒート触角)となる。

その熱攻撃の対策として、コオロギの羽には防火コーティングが施される。

また、2本の触角を一本に束ねたユニコーンなる技もあるのだとか。

お国違えば…、である。



戦闘様式は異なるといえども、中国・イギリスともに、コオロギの強さは「飼育」によって高められると考えられている。

この点に、ある科学者は疑問を感じた。

従来の学説では、昆虫のように単純な生物は、遺伝的な要素が大きく、生育環境にはあまり左右されないと考えられていたのである。

なぜなら、コオロギの脳は「微小脳」と名付けられるほどに小さく、学習能力が大きいとは考えられていなかったからだ。



ところが、中国の指南書にもあるように、コオロギの強さの7割もが生育環境にあると闘蟋の伝統は教えているのである。

それは本当だろうか? もし、そうならば昆虫への考え方を一新させなければならない。



金沢工業大学では、ある実験が行われた。

コオロギの飼育環境を3つに分けて、環境によるコオロギの変化を観察する実験である。

まず、「集団」で飼育するグループと、「単独(隔離)」で飼育するグループに分ける。

そして、「単独(隔離)」のコオロギは、光を通さない「真っ暗」な環境と、透明容器の「明るい」環境を用意した。



さて、結果は?

単独(隔離)、そして透明容器の明るい環境のコオロギが最も「狂暴化」した。

まさに狂暴、敵が死ぬまで追い詰める。相手を殺すまで闘うというのは、野生のコオロギではあり得ない。本当に狂ってしまったのだ。

オスどころか、メスまでをも攻撃してしまうようになった。

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なぜ?

単独で飼育するというのは、闘蟋の基本である。伝統的に闘争心を高める手法として用いられてきた。

しかし、通常の飼育容器は遮光(素焼き)であり、透明ではない。



透明だとなぜ狂ってしまうのか?

狂ったコオロギの脳では、脳内ホルモンに異常が見られた。特に「セロトニン」が著しく減少した。

脳内セロトニンの不足は、人間の場合、精神活動に異常をきたす。不眠症、うつ病、更年期障害などなど。

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透明な容器に入れられたコオロギは、ありえない現実に「混乱」してしまったものと考えられた。

「見えるのに触れない」。これは、コオロギがついぞ体験したことのない現実である。



コオロギの「微小脳」は単純である。モバイル機器のCPU(脳ミソ)が単純に作られ、サクサク動作するのと一緒である。

「見えるモノには触れるはず」である。遠くにあるモノではない。すぐそこにあるのに触れない。



脳内にプログラムされていた情報と、実際の現実が「あまりにもカケ離れていた」ために、コオロギの微小脳は「処理(理解)不能」に陥り、その結果、暴走してしまったものと考えられた。

人間にもあるではないか。理想と現実のギャップというものが。

そのギャップが小さければ耐えられるが、あまりにもかけ離れてしまえば、人間の素晴らしい脳ですら処理不能に陥り、一切の思考を放棄してしまう。

いわゆる、「真っ白」である。



一方、最も闘争心の小さかったコオロギは、集団飼育であった。

常に他のコオロギが存在する環境で育ったコオロギたちは、オス同士でも争うことはなかった。



さて、その穏やかな集団コオロギの中に、狂暴君を入れてみよう。

さすがに狂暴。手当り次第に暴れまくる。「オレに触るとケガするぜ」。

しかし、散々噛みつきまくって気が済んだのか、狂暴君はいつの間にやら、大人しくなっていた。



この実験結果をみれば、一目瞭然、明らかに外部の環境によってコオロギが大きく変化したことが判る。

中国の歴史が語るように、コオロギは飼育環境で激変したのである。攻撃を忘れたコオロギから、狂えるコオロギまで。

コオロギのようなシンプルな脳を持っている生物ですらそうである。いわんや人間をや。



先天的(遺伝的)な影響が思ったより少ないという事実は、ある意味「救いのある話」である。

後から何とかなるのであれば、希望も持てる。



また、脳ミソというものが、現実とのギャップに思ったよりも弱いということも判った。

コンピューターの進化とともに、バーチャル(非現実)の世界は広がりを増している。そして、インターネット上の世界はその発展とともに、新たな現実を生み出している。



それが現実にせよ、非現実にせよ、各人の脳ミソにはオリジナルな世界が広がっている。

そのオリジナルな世界が、何か耐え難いギャップに直面した時、人間は…。



新たな現実を受け入れるというのは、そうそう容易なことではない。

「そんなことは分かっているさ」とは言えども、果たして脳ミソまでが分かってくれるかどうか…。

分かった気になる「知得」と、骨身に染みて分かる「体得」では「月とスッポン」である。

狂えるコオロギの話は決して他人事ではない。




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出典:いのちドラマチック
「コオロギ 一寸の虫にも心あり」


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2011年08月06日

昆虫に「心」はないのか? 矛盾の上にある人間の感覚。

「虫には『心』があるの?」

小学一年生が、こう聞いてくる。

「どう思う?」と聞き返せば、その子はしばし考えこむ。

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そして、「ある。」と答える。

「だって、どこか行きたい、何か食べたい、と思うんだから、『心』はあるよ。」



昆虫の世界は、とても「極端な世界」である。

人間はあれこれと試行錯誤を繰り返すが、昆虫はすでに「結論」に生きている。

その結論は、時として「極端」である。



そのため、昆虫に「心」があるとは思えない。

「迷う」から、「考える」からこそ、「心」は見えやすくなるのである。



たとえば、「オス」のカマキリは、交尾中に「メス」に食べられる。

なぜなら、カマキリは動くものを「エサ」と考えるため、メスの上で動くオスは、「エサ」と勘違いされるのである。

10匹に8匹のオスは、そうして命を落とす。

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結果的に、オスはメスの「栄養」となる。そして、その栄養は、次世代の子供たちを育てることになる。

オスがどこかで野垂れ死んで、他の昆虫のエサになるよりは、自分の子供たちの栄養になったほうが、よほど効率的である。

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しかし、人間の考えでは、これは異常な行為であり、ましてや「献身的な行為」とは思われない。

どちらかというと、オスを食らう「メスの残忍性」という捉えられ方をされてしまう。

もし、食糧難において、オスが苦渋の決断を下し、「俺を食ってくれ!」と言えば、それはそれは「神か仏様」のように崇められるかもしれない。



ところが、カマキリのオスは、「迷いなく」メスのエサとなる。

それゆえ、そこに「心」は感じられず、何の美談にもならない。



また、ある「ハサミムシ」のメスは、子供が孵化すると、孵化した「子供たちに食べられてしまう」。

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母親であるメスの命は、子供たちの「タンパク質」となり、子供の成長に寄与する。

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このハサミムシの母親もまた、あまりにも「迷いなく」身を子供に捧げるために、やはり「心」は感じられない。



「心」とは、その「迷いの過程」で、より目に見える形となる。

それが、「結論」となってしまうと、あたかも「心がない」かのように感じられる。

たとえ、それが自分の身を子供に捧げているとしても。



「結論のみ」というのは「誤解の元」となる。

結論までの「過程(試行錯誤)」が見えないためである。

自分で育てた作物には「感謝の念」が湧くが、スーパーの作物には何の感慨も湧かないのと同じである。

その「過程」を知るか知らないかで、その想いは雲泥の差となるのである。

昆虫の下している「結論」は、長い試行錯誤の結果ではあるのだが、その過程を人間は考慮しようとはしない。



「心」を「愛」と言い換えても、何ら誤解はない。

カマキリやハサミムシの行為は、人間がいう「無償の愛」である。自らは何の見返りも求めない「尊い愛」である。

人間は、これほどの「無償の愛」を実現できない。

だからこそ、人間には「愛」があり、昆虫には「愛」がないとなる。



しかし、本質はまったく異なる。

昆虫は「愛そのもの」で、人間はその「過程」にある。



また、「心」を「知性」と置き換えても、同じ事である。

あるアリは、葉っぱを発酵させて、その菌糸をエサとする。

その行為は、極めて知的であるにもかかわらず、アリが賢いとは誰も思わない。

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なぜなら、「知性」の源泉となるはずの「脳みそ」がないからだ。

脳ミソがなければ、「考えることはできない」。考えることができなかったら、知的であるわけがないとなる。



これも大いなる誤解である。

「考えることができなければ、知性がないのか?」

考えていないアリは知的に感じられないが、アリの行為は「知性そのもの」である。

人間がどんなに「考えて」も、その知恵には及ばない。



「考える」という「過程」にこそ、「知性」は感じられる。

だが、結論である「知性そのもの」になってしまうと、「知性」を感じることができなくなる。

昆虫はすでに結論を出しているが、人間は結論が出せずに、いまだ「考え続けている」。そのため、人間のほうが「知的」に感じられる。



これらは、大いなる「矛盾」である。

なぜなら、目的を達成してしまうと、もはや「愛」も「知性」も感じられなくなるからである。

むしろ、目的を達成できずに、迷い考えているほうが、「愛」や「知性」を感じられる。



これは、昆虫に対する誤解にとどまらず、「人間に対する誤解」にもつながる。

迷い悩む人物のほうが「人情的」に感じられ、考え続ける人物のほうが「知的」に感じられる。

そのため、迷いなく決断する人物は、時として「冷酷」に感じられる。考えより行動を重視する人物は、時として「蔑まれる」。



しかし、洗練された愛や知性は、迷ったり考えたりはしない。

その「存在」自体が、愛となり、知性となる。




「ぐんま昆虫の森」の矢島園長は言う。

「昆虫の世界を知るほどに、人間は何も分かっていないことを思い知らされる。」

「しかし、大人になるほど、わかっていないことを忘れてしまう。」

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大人は昆虫に「心」があるとは考えない。

しかし、小学1年生の子どもは、昆虫に「心」を見る。



生きれば生きるほど、現実から乖離してゆくのか?

それとも、答えに近づいていけるのか?

忘れてはいけない感性がある。




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出典:爆笑問題のニッポンの教養
「ムシできない虫の話〜ぐんま昆虫の森」


posted by 四代目 at 08:40| Comment(1) | 昆虫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月21日

現代の大奥「スズメバチ」。日本人の共生の知恵とともに。

スズメバチの世界は、徹底した「女系」社会である。

女スズメバチたちは、男たちの精子以外、何物をも必要としない。

実際、オスが登場するのは、受精の時(秋口)のみであり、オスは女王バチに精子を渡すや、短い命を終える。

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働きバチというのは、全て「メス」であり、オスは全く働かない。

不幸にも女王バチが死んでしまうと、その巣は絶滅してしまう。

なぜなら、一つの巣には一匹の女王バチしかおらず、代わりのメスが卵を産んでも、オスしか生まれない(未受精のため)。オスは何もしないので、巣は「穀潰し」だらけとなり、ほどなく滅亡となる。

江戸の大奥は、女だらけの独立した社会であったが、スズメバチの社会も、女たちの作り上げた理想郷なのである。



人間の場合、女性は戦闘要員とはならないが、女スズメバチは昆虫界きっての「最強戦士」である(オスは毒針すら持たない)。

一つの巣で、年間100kgもの昆虫を平らげるというから驚きである。

働きバチが捕らえた昆虫を食するのは、成虫ではなく「幼虫」である。成虫は幼虫から「甘い汁(人乳に近い組成)」を頂戴する。

女性優先かつ子供優先である。

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幼虫たちが増えまくる秋、いくらエサがあっても足りなくなる。

そうなってくると、スズメバチは「ミツバチ」の巣を襲撃すべく遠征の軍を起こす。

首尾よくミツバチの巣を制圧した暁には、あふれんばかりの食糧が手に入る。



しかし、返り討ちに会うこともある。

多数のミツバチに覆い被さられ、抑え込まれてしまうと、スズメバチは熱で蒸し殺されてしまう。

ミツバチのこの技は「蜂球」として知られるが、この技が使えるのは「日本ミツバチ」だけである。

この技を持たない「西洋ミツバチ」に、スズメバチを撃退する術はなく、むざむざと死を待つより他にない。



西洋ミツバチが日本にやって来たのは、明治以降であるが、日本での「野生化」は確認されていない。

日本に多数生息するスズメバチが、西洋ミツバチの野生化を阻止しているのである。



日本ミツバチのみならず、「日本人」もスズメバチとは長い付き合いであり、その関係は深い。

長野県の南部、伊那地方ではスズメバチの幼虫やサナギを食してきた伝統がある。

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一方、お隣の静岡県では、お茶の栽培にスズメバチを重宝してきた。スズメバチが害虫をやっつけてくれるためである。

そのため、静岡県の農家は、長野県にスズメバチを捕り過ぎないようお願いしている。



また、スズメバチの巨大な巣は、子孫繁栄の「縁起物」とされ、日本各地で尊ばれている。

古き日本人にとって、スズメバチは恐ろしいだけの存在ではなく、ありがたい神様でもあったのである。

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台湾にも、日本と同じようなスズメバチ信仰があると聞く。

片や、中国にはスズメバチを食する地方はあるものの、信仰があるとまで聞かない。

日本古来の思想には、略奪的な影は薄く、むしろ共存共栄の姿が見え隠れしている。



日本では、武士が実権握って以降、女性は裏方に回った感があるが、古代日本においては、女性が権力を握っていた時代も多くある。

男系優勢の現代日本は、いまいちパッとしなくなってきた。

女系社会を堅持するスズメバチは、繁栄を欲しいままにしている。

学ぶ気にさえなれば、何にでも学ぶここは出来る。




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ミツバチの高度な能力と、そのありがたい恩恵


出典:ダーウィンが来た!生きもの新伝説
「スズメバチ 巨大マンション建設中!」

posted by 四代目 at 10:14| Comment(0) | 昆虫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月22日

ミツバチの高度な能力と、そのありがたい恩恵

ミツバチは人間以上に「社会力」がある。

一つの巣には、一匹の女王バチ、一万の働きバチ(メス)、一千のオスのハチがいる。オスのハチは、生殖が終われば巣から追い出されてしまうので、常時いるわけではない。

ミツバチ社会は、上下関係というよりは、見事に役割分担をしているといったほうが正しい。お互いに仕事がかぶらないように、自分のやるべきことが明確に決まっている結果、ミツバチの世界には社会性が生まれるのである。



女王バチはひたすら卵を生む係であり、それ以外の仕事は働きバチが担当する。

働きバチの仕事は多岐にわたるが、仕事の内容は生まれた日数によって、どんどん変わってゆく。

生まれてからの24日間は巣の中で働く「内勤」である。「掃除」から始まり、「育児」、「巣作り」、「ミツの管理」、「門番」と、4〜5日程度で、どんどん出世してゆく。

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その内勤を立派に勤め上げて初めて、花のミツを集めるという重要な「外勤」につくことができるのである。働きバチの寿命は1ヶ月なので、晴れの舞台である「ミツ集め」は1週間ほどということになる。

働きバチは、死ぬまで働き続けているかと思っていたら、そうではない。働いているのは全体の2〜3割程度で、ブラブラしている奴らのほうが多いという。人間で言えば週休5日といったところか。



ミツバチはどうして「ミツ」のありかを発見できるのか?

ミツバチには、人間には見ることができない「紫外線」が見えるという。

菜の花は我々にとって「黄色」一色である。ところがミツバチは紫外線が見えるので、「ミツ」の部分が黒く見える。「ミツ」は紫外線を吸収するので、色がなくなるのだ。

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ミツバチたちは、あてずっぽうの花に顔を突っ込んでいるわけではなく、「ミツ」を目で見て、確実に「ミツ」がある花に顔を突っ込んでいたのである。

ちなみにカラスも「紫外線」が見えるというから、紫外線が見えない人間はマイナーな生物なのかもしれない。



「ミツ」を巣に持ち帰ったミツバチは、喜びのダンスをするという。

「8の字ダンス」と呼ばれるこのダンスは、ミツの発見が多いほどに激しくなる。大発見に大興奮するのである。

興奮が大きければ大きいほど、他のミツバチにも興奮が伝染し、みんなでプルプルと踊りまくり、一斉にミツ場を目指すのだという。

ちなみにミツバチには「耳」がなく、踊りの興奮は「ブンブン」という音ではなく、振動で伝わる。我々にとってハチの羽音は「ブーン」という音で、ハチの巣も「ブンブン」と騒々しいのだが、当のミツバチには耳がないのだから、彼らにとって世界はつねに「静寂」そのものなのであろう。



昆虫は変温動物であり、自分の体温を一定に保つことはできない。ミツバチも変温動物であるが、彼らは智恵によって「体温」、ひいては「巣の温度」を絶妙にコントロールする。

彼らの目指す温度は「35℃」。この温度が「極上のハチミツ」をつくる温度である。ハチミツづくりのキモである「酵素」が最も活発に働く温度である。

夏の暑いときは、巣の中が外気以上に高温になる。そこで、羽を扇風機がわりにして、巣のフチから一斉に外気を内部に送り込む。

寒いときは、中心部に集まって、「飛翔筋」という飛ぶための筋肉をブルブルと震わせて発熱する。

温度のコントロールは、一匹では決してできない、団体の強みを最大限に活かした技である。



近頃、東京の都心で「養蜂」が営まれているという。

ビルの立ち並ぶ銀座、赤坂などでも、街路樹、庭園などに意外と花は多いのだそうな。

都会でミツバチを飼うことにより、花の受粉が促され、実をつける植物が増える。そうすると、その実を食べに小鳥たちがやってくる。小鳥たちは虫を食べてくれる。

人間により断絶された生態系の循環が、ミツバチの仲介により復活するのだ。ミツバチは動物と植物をつなぐ、とてもありがたい存在なのである。

小さいからといってミツバチを軽視することは決してできない。アメリカではミツバチが消えたと大騒ぎをしている。

ミツバチは臆病な昆虫なので、ちょっとした環境の変化でも、すぐに生息できなくなってしまうのだ。とくに「日本ミツバチ」はデリケートである。小さい害虫を殺すはずの農薬が、ミツバチをあっさり追い出してしまう。



人間たちは自然に対して、無知であることに気づいていなかった。

浅智恵にうぬぼれて、他の生物の領域を侵し続けた結果、自らの首を絞めていたことに気づかなかった。

見えないことろで人間を支えている生物はたくさんいたのだ。

そろそろ他の生物に迷惑をかけずに、静かに暮らしても良い頃なのかもしれない。




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出典:アインシュタインの眼
「ミツバチ〜驚異の団結力!」
posted by 四代目 at 08:28| Comment(0) | 昆虫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする