2014年11月11日

洗脳する寄生虫たち [エド・ヨン]



Why do these groups form?
なぜ、動物たちは群れるのだろう?



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seeking safety in numbers?
hunting in packs?
gathering to mate or breed?

身を守るため?
獲物を狩るため?
繁殖のため?



これらの答えは、いずれも正しい。

だが、ある仮定を必要としている。

それは「動物が自分の意志で動いている(the animals are in control of their own actions)」という大前提。



ところが自然界では、その「意志」ほどあやふやなものはない。

たとえば、自ら水に飛び込んで自殺をはかるコオロギ。それは彼の意志なのか? また、自らハチの巣へと食べられに行くゴキブリ。それも彼の意志なのか?



エド・ヨン(Ed Yong)は言う。

「寄生虫に乗っ取られたら終わりです。自分の意志では何もできません(Once the parasites gets in, the hosts don’t get a say)」






○シーモンキーが群れる理由



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シーモンキー(sea monkey)と呼ばれる、小さな小さなエビ(甲殻類)がいる。普段は単独で行動するのだが、寄生虫に取り憑かれると真っ赤になって、大きな群れをなす。



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そして群れをなしたが最後、それらはフラミンゴの格好の餌食となってしまう。シーモンキーに取り憑く寄生虫は「サナダムシ(a tapeworm)」である。サナダムシはフラミンゴの体内でしか繁殖できない。

「だから、シーモンキーに目立つ色の群れをつくらせ、フラミンゴに見つけてもらい、食べてもらうというわけ」とエドは言う。



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なんということか。シーモンキーが群れをつくるのは、天敵に食べてもらうためとは。そしてそれは彼らの意志ではない。サナダムシという寄生虫のなせる術(わざ)なのだ。

エドは言う、「サナダムシは、シーモンキーの脳と体をハイジャックして、フラミンゴの体内へとたどり着くための乗り物に変えてしまうんだ」






○ゾンビ化するゴキブリ



エメラルドゴキブリバチ(the emerald cockroach wasp)は、ゴキブリに卵を産みつける。そのためにまず、ゴキブリの頭に針を刺して、その脳に毒を注入する。

エドは言う。「イスラエルの科学者によると、この毒は特殊な化学兵器。ゴキブリは死なない。鎮静状態にもならない。逃げたければ逃げられる。けど逃げたくならない。毒が、動こうという気を削ぐのです。つまり頭の中の危機感がオフにされてしまうのです」



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すっかり洗脳されてしまったゴキブリは、易々とハチの巣へと連行されていく。

エドは続ける。「まるで犬を散歩させるみたいに、ゴキブリは蜂の巣へと連れて行かれます。そしてそこで卵を産みつけられ、生まれたハチはゴキブリの体を食べて飛び出してくるのです。だから、いったん刺されてしまったゴキブリは、もはやゴキブリというよりはハチの一部です。自分の意志では何もできないんですから」



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○自殺するコオロギ



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コオロギは泳げない。

それなのに水に飛び込むコオロギがいる。まるで自殺だ。溺れ死ぬか、魚に食べられるかしか道はない。



そうした狂えるコオロギもまた、寄生虫に操られている(a parasitic manipulation)。

その証拠に、水没したコオロギの尻からは、その黒幕たる「ハリガネムシ(a Gardian worm)」が長い長い姿を現す。

エドは言う、「ハリガネムシはゴキブリの体内で育ちます。しかし、交尾するには水中に入る必要がある。そこでタンパク質を出して、コオロギの脳を操ります。操られたコオロギは溺れ死に、その死骸からハリガネムシが脱出するのです」



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神戸大学の佐藤拓也准教授が、川の魚が食べた物を調べてみると、驚くほど大量のカマドウマ(便所コオロギ)が魚から出てきた。それらカマドウマは皆、ハリガネムシが寄生した成れの果てだった。

「秋になると、サケ科の魚がやたらカマドウマを食べていて、お腹の中からは一緒にヒモみたいな奴が出てきました。それがハリガネムシっていう寄生虫でした」

佐藤准教授は続ける。「カマキリに寄生するハリガネムシの仲間は昔から知られています。水辺に住んでいる子供たちだと、カマキリを捕まえて水につけ、お尻から何か黒い長いものが出てきて、ハリガネムシと戯れてるというのは、よく聞く話なんです」



カリフォルニアで科学者たちが調査を行ったところ、3ヶ所の河口から大量の寄生虫を発見した。

エドは言う、「とくに多かったのが吸虫(trematode)。宿主を生殖不能にする寄生虫です。河口にいた吸虫の総重量を計算すると、そこに棲む魚の総重量に匹敵するほどでした。また、佐藤拓也という科学者の調査では、ある川のマスが餌とするものの60%が、操られて水に溺れた虫でした」





○乗っ取り



「これらって珍しい現象なんでしょ(These things are oddities of the natural world)? と思う方もいるでしょう。でも、寄生虫による乗っ取りは、自然界では普通のことなんです(Manipulation is not an oddity. It is a critical and common part of the world around us)」とエド。

しかし、これまでの例はみな昆虫の話。まさか高等な人間までは…、と思いたいところであろう。だが、同じ哺乳類であるネズミの例もある。



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エドは言う。「そんなわけでこちら、トキソプラズマ(Toxoplasma)。略してトキソ。トキソはネズミを乗っ取って、猫を探すんです。トキソの出すドーパミンの合成酵素によってネズミの脳は操られ、猫の尿の匂いに誘われて近寄り、それで猫に食べられてしまう。まんまと猫の体内に入ったトキソは、そこでめでたく愛の営み。これぞ『食べて、祈って、恋をして(Eat, Prey, Love)』」

ネズミは我々人間と同じ、高等な哺乳類。一方のトキソは、下等な単細胞生物。神経系もなければ意識もない。体すらない。

「それなのに哺乳類を操作してしまう! 僕ら人間だって哺乳類。つまり、脳の基本構造や構成要素、そして寄生虫もネズミと共通なんです。諸説はありますが、人間も3人に一人はトキソに寄生されている、という説も…」



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トキソの人体への影響については、専門家の間でも見解が割れているという。

エドは言う。「交通事故率が高いとか、性格診断で違いがでる、なんていう話はある。人間だけが寄生虫の影響を受けないなんてことは、あり得ないはずです。人間だって脳を操作されることはありますよね、たとえばドラッグとか。議論や宣伝なんかも人の考えを変える手段ですよね」






○日本の「虫」



日本語にも「虫」は馴染み深い。

虫がいい
虫が好かない
虫の知らせ




江戸時代に盛んに行われた庚申講というのは、そうした「虫」を恐れた信仰だった(以下引用、安彦好重「庚申とは何か」)。

中国の庚申信仰というのは、人間の体内に「三尸(さんし)の虫」というものがいて、それが庚申の夜、人が眠っている時に人体を脱け出して天に昇り、天帝にその人の日頃の悪事を告げ、その人を死に追いやったり、寿命を縮めたりするという迷信である。三尸というのは三鬼ともいい、人の体内にいる上・中・下の三匹の虫で、頭にいるのは上尸、彭倨という黒色の虫で、腹にいるのは中尸、彭質という青色の虫で、足にいるのは下尸、彭矯という白色の虫である。

これらの虫は庚申の日(60日ごと)に鬼となって人に害を与える。この三尸の虫が人間の体内で日夜その人の行動を監視していて、庚申の夜を待って天に昇り、天帝にその人の悪事を残らず報告すると、天帝はその悪業により命をとったり寿命を縮めたり、その他の罰を与えたりするので、人は三尸の虫が体内から脱け出さないように、眠らずに徹夜をする。三尸の虫は人間が眠らないと脱け出せないし、夜が明けると昇天できない。





ちなみに「見猿・言わ猿・聞か猿」の三猿は庚申信仰の象徴であるが、こうした信仰の裏に、寄生虫の世界もオーバーラップしていると想像するのは勝手であろう。






○エド・ヨン



イギリス出身のエド・ヨン(Ed Yong)は、ケンブリッジ大学とロンドン大学で生物学を学んだサイエンス・ライター。寄生虫の魅力に関して、エドは「予想外のことがたくさん起きる(Their world is one of plot twists and unexpected explanations)」と言う。

そして、こう続ける。「寄生虫というのは、僕らの世界の見方を変えてくれるスゴイ存在なんです。自然界の見方が一変します。もしかしたら、生物のあんな行動こんな行動が『じつなその生物の意志によるものではないかもしれない(the behaviors are not the results of individuals acting through their own accord)』ってね」



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彼が世に知られるきっかけとなったのは、卒業後にはじめたブログ「Not Exactly Rocket Science(先端科学のこぼれ話)」。鏡で身だしなみをチェックする象や、アリに幼虫の世話をさせる蝶など、生物に関する驚きのエピソードを軽快なユーモアとともに綴ったものだった。その人気が瞬く間に急上昇。いまや世界のメディアに引っ張りダコの人気ライターとなった。







エドは言う。「僕は20年ほど前、テレビ『Trials of Life(生き物たちの挑戦)』で寄生虫を知り、後に『Parasite Rex(パラサイト・レックス)』を読んだりした。で、僕も寄生生物について執筆してきた。まるで洗脳されたみたいにね(笑)」




















(了)






出典:
NHKスーパープレゼンテーション「寄生虫の世界へようこそ」
TED「自殺するコオロギ、ゾンビ化するゴキブリ、その他の寄生生物にまつわる話」エド・ヨン



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posted by 四代目 at 08:39| Comment(0) | 昆虫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月21日

「変態」する生物、変わりやすき人間の心


「ある朝、グレゴール・ザムザが気がかりな夢から目ざめたとき、自分がベッドの上で『一匹の巨大な毒虫』に変わってしまっているのに気がついた」

フランツ・カフカの小説「変身」は、主人公が虫に変身してしまうという奇妙なシーンから始まる。

「彼は甲殻のように固い背中を下にして横たわり、頭を少し上げると、何本もの弓形にわかれてこんもりと盛り上がっている自分の茶色の腹が見えた。腹の盛り上がりの上には、掛け布団がすっかりずり落ちそうになっていて、まだやっともちこたえていた。普段の大きさに比べると情けないほどか細いたくさんの足が、自分の目の前にしょんぼりと光っていた」



「おれはどうしたのだろう?」と彼は思った。夢ではなかった。

窓の外の陰鬱な天気は、彼をすっかり憂鬱にした。

「もう少し眠り続けて、馬鹿馬鹿しいことはみんな忘れてしまったら、どうだろう」と考えたが、全然そうはいかなかった。










■変態



ある朝、目を覚ますと、それまでの自分とは「まったく違う生き物」になっていたとしたら?

それは昆虫などの身の上には至極当然のように起きる「変態」と呼ばれる現象である。毛虫はチョウになり、オタマジャクシは蛙になる。

「変態とは驚くほど不思議な現象です。それまでの成長をやめ、いったん身体をバラバラに解体し、『まったく違う生物』を再構成するかのようです」とデビッド・マローンは語る。



今からおよそ2,000年前、ローマの詩人・オイディウス(紀元前43〜紀元17年)は、神話を元にした壮大な詩をつくった。それは「Metamorphoses(メタモルフォセス)」という物語で、狼男に変身した男や、樹に姿を変える女の話などが描かれている(邦題『変身物語』)。

それから後の世、このメタモルフォセスという言葉は「生き物が姿を変える現象」、すなわち、幼虫からサナギ、そして成虫へと変化する「変態」を意味するようになった。



デビッドはこう考える。

「変態という概念には2つの意味があると思います。生物学的な意味と、小説などに見られる『隠喩的な意味』です」

そして、こう問う。

「姿形が変わった人間の物語は、単なる喩え話なのでしょうか? それとも、もっと深い別の意味があるのでしょうか?」










■チョウ



チョウの変態では、卵から生まれた毛虫がサナギを経てのち、美しい羽をもつ蝶となる。幼虫である毛虫と、成虫である蝶は似ても似つかぬ。しかしそれでも両者は明らかに同じ生き物、遺伝情報はまったく同じである。

鈍重な毛虫が軽やかなチョウへと変態を遂げるためには、「脱皮」を繰り返す必要がある。

それを昆虫学者スチュアート・レイノルズはこう説明する。「毛虫はつねに鎧(よろい)で身を守っているようなものです。成長するには今の皮を脱ぎ捨てて、より大きくなる必要があります。皮を破って這い出した毛虫は、古い皮の下で準備されていた新しい身体を膨らませます。まるで空気を吸い込んで膨らませるようにね」








次の段階であるサナギの、そのまさに一歩手前の脱皮を控えた毛虫の中身は、すでにサナギになっているという。その外見がまだイモ虫のままだとしても。

毛虫の体内で密かに行われるサナギの形成、これこそがチョウへの「変態」の始まりである。



そのキッカケとなるのは「幼若ホルモン」。

「幼若ホルモンが分泌されている間は、幼虫は幼虫のままでいますが、分泌されなくなると変態がはじまるんです」と、昆虫学者スチュアートは言う。

幼若ホルモンが止まると、それまで一心不乱に食していた葉っぱから毛虫は不意に口を離す。そしてムズムズする身体を落ち着かせる場所を探し当てると口から糸を吐き、そこにお尻の先をつけて仰向けにブラ下がる。

そして始まるのが、幼虫としての「最後の脱皮」。慣れ親しんでいた古い皮は脱ぎ捨てられ、体内で形づくられていたサナギが姿を現す。



次にサナギの体内で起こる変態は、まさに劇的。呼吸器官から何からほとんどが、その構造を完全に変えてしまう。頭も眼も脚も、すっかり新しくしてしまう。そして何より、生殖能力を備えることになる。

それでも変えないのは個体特有の遺伝情報(DNA)。つまり、姿形をすっかり変えようとも、個体としてのアイデンティティを変えることは一切ないのである。

古来より、人々は毛虫が美しいチョウへと変化する現象に「魔法のような力」を感じてきた。ヒンズー教の神・ブラフマーは、幼虫がサナギになりやがて蝶に姿を変えるのを見て、再生を繰り返す「輪廻転生」を説いたといわれる。古代ギリシャでは、チョウと魂はどちらも「プシュケ」と呼ばれて、結び付けられて考えられてきた。










■生き方の変化



なぜ、生き物は変態するのか?

一つの生き物に「2つの姿」がある意味とは?



「毛虫でいることの問題点は、動き回るのが難しい点です」と昆虫学者のスチュワートは話す。

「この辺りの植物を見て下さい。葉っぱは食べ尽くされ、次の世代の分はほとんど残っていません。もし繁殖するなら、もっと食べ物のある別の場所に行ったほうがいいと思いませんか? そのために、毛虫は羽を持つことにしたわけです」



ひたすら同じ場所で食べ続ける幼虫に対して、成虫は飛び回ってエサ場を探したり繁殖相手を見つけたりできる。そもそも、両者はその「生き方」がまったく異なる。

「身体の変化は確かに劇的です。でも一番大事なのは、『生き方が変化すること』なんです」



カフカの小説「変身」において、虫に変身してしまう主人公のそれまでの生き方は、あくせくと働き詰めるセールスマンだった。虫になってしまった彼は、それをこう嘆く。

「あぁ、なんという骨の折れる職業をおれは選んでしまったんだろう。毎日、毎日、旅に出ているのだ。自分の土地での本来の商売におけるよりも、商売上の神経の疲れはずっと大きいし、その上、旅の苦労というものがかかっている。汽車の乗り換え連絡、不規則で粗末な食事、たえず相手が変わって長続きせず、決して心から打ち解け合うようなことのない人付き合い。まったく忌々しいことだ!」

主人公グレゴール・ザムザは、その飛び回るような仕事から一転、狭い部屋でモゾモゾと這い回ることしかできない虫になってしまう。チョウへの変態とはまったく逆に。



「まあ、希望はまだすっかり捨ててしまったわけではない。両親の借金をすっかり店主に払うだけの金を集めたら――まだ五、六年はかかるだろうが――きっとそれをやってみせる。とはいっても、今のところはまず起きなければならない。おれの汽車は五時に出るのだ」

そして、タンスの上でカチカチ鳴っている目ざまし時計のほうに眼をやった。

「しまった!」と、彼は思った。もう六時半で、針は落ち着き払って進んでいく。



身に染み付いたセールスマンの性(さが)か、彼は虫に成り果てしまったことを自覚しながらも、まだ仕事に行く気満々であり、是が非でも両親のこしらえてしまった借金を返さなければならないと、意気込んでいるのであった。

自分の生き方がもうすっかり変わってしまったと観念するのは、もっと後のことである。






■ウニ



昆虫の変態は、およそ3億年の歴史をもつといわれる。

その変態が進化したのは昆虫よりもさらに昔、海の中のことである。



ウニは変態する前、まったく違う様子をしている。その幼生は、顕微鏡でしか見えないほど微小な透明質の物体で、海面に漂うプランクトンを餌にしている。

その変態は毛虫のそれよりも過激である。幼生の段階でやはり、将来成体の元となる構造は育っているのだが、それが文字通り、身体の中から飛び出してくる。



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「飛び出す?」

「ええ。数時間もすれば、管足(かんそく)と呼ばれる器官が幼生の身体を突き抜けてね」と、パオラ・オリヴェーリ博士は言う。

管足というのは、将来ウニのトゲとなる部分であが、それが伸びてくると、幼生の身体の大部分は成体のウニに吸収されてなくなってしまう。

「まるで違う生物が身体の中から飛び出して来るような感じです。チョウなどの変態とはまったく違います。ほとんどの生物の場合、細胞などは変態した後も残りますが、ウニの場合は違います。変態すると、幼生は吸収されたり死んだりしてもはや存在しません」と、博士は語る。






■意志



人間にも、変態と呼べるほどの「劇的な変化」は起こり得るのだろうか?

カフカの小説「変身」とは別に、そのことをテーマとした作品に、ロバート・ルイス・スティーブンソンの小説「ジキル博士とハイド氏」がある。善良なジキル博士が薬を飲んで、邪悪なハイド氏に変身する物語である。

この変身は強制的なものではなく、博士自らが望んだものという点で、カフカの「変身」とは異なる。








現代ドイツ文学の研究者、ベアーテ・ミュラーはこう解説する。

「主人公のジキル博士は立派な人物として知られていますが、そのままでは自分が望む人生を完全には手に入れられないと感じ、邪悪な面をもつ『もう一人の自分』ハイド氏を生み出します。ジキル博士は、人間は一つの顔だけをもつのではなく『二面性がある』と気づき、どちらの面にも強く惹かれたのです。彼は一方では善人でありたいと願い、もう一方では醜い本能や欲望を抱えていました」

こうした小説は、何を伝えようとしているのか?

「それは人間が『変化に対して相反する感情をもっている』ということではないでしょうか。私たちは変化を好むと同時に、変化に飲み込まれることを恐れているからです」



カフカの小説「変身」の主人公グレゴール・ザムザは、自らは望んでいなかったにも関わらず、虫となってしまった。一方、ジキル博士は自分の意志で変化を求めた。

変態する自然界の生物らは、変わることを望んでいるのか否か? そんなことを問題とするのは脳が肥大化しすぎた人間だけかもしれない。

だが、少なくとも池のカエルの変態には多少なりとも「本人の意志」を感じざるを得ない。






■モノ言うオタマジャクシ



泳ぐオタマジャクシが、跳ぶカエルに変態する現象はよく知られている。

だが、オタマジャクシがカエルになる時期を、自ら見計らっているとはあまり考えたことがない。一般的には、時計仕掛けのように、その時が来ればカエルになると思われている。

しかし実際には、それぞれのオタマジャクシによってカエルに変態する時期には大きな差がある。



「どれくらいの差が出るんですか?」

「かなりの差です。早いものは夏の初めくらいから変態をはじめます。ところが、同じ池で一冬まるまるオタマジャクシで過ごし、翌年の春に変態したものも幾つか観察されています」

そう話すのは、網を手にした行動生態学者、パトリック・ウォルシュである。



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「オタマジャクシは、今いる水中の環境が暮らしやすいかどうかによって、変態する時期を自分で決めます。それぞれが決断するんです」とパトリックは言う。

彼は、オタマジャクシは変態する時期と速度を「自分で選んでいる」と考えている。池のどの部分で過ごしているかで、その決断は変わる。

「同じ池でも場所によって日光の量やエサの量、敵に捕まる危険性は異なります。どこに棲息するかでオタマジャクシで過ごす期間の長さが変わるのです」

暖かな日差しを受ける水面近くでは、変態が早まりやすく、反対に、池の底の冷たい水では遅くなる。早く変態すると小さなカエルにしかなれず、遅くまでオタマジャクシでいると大きなカエルになれる。



敵に襲われるリスクを考えたら、大器晩成、長くオタマジャクシでいて、大きなカエルになった方がよい。だが、水中が安全とも限らない。生まれた場所がもし水たまりのような干上がりやすい場所だったら、急いでカエルにならなくてはならない。

「オタマジャクシは『水かさの変化』を察知できるんです」とパトリックは言う。

「水かさが急激に減ってくると、オタマジャクシは発育のスピードを上げて、すぐカエルになります。カエルになる前に水がなくなったら死んでしまいますから」

その逆に、水もエサもふんだんにあるのなら、オタマジャクシは長くその安楽を享受することになる。



そうした安全と危険に関する情報は、オタマジャクシの仲間同士で共有されるという。

「オタマジャクシが怪我をしたり食べられたりすると、化学信号を発し、仲間はその警告信号に反応して変態の時期を早めることがあります。ここに留まるより、カエルになって陸で暮らすほうが安全だ、とね」

もし、オタマジャクシがカエルになる時期を自ら決断しているのだとしたら、限定的とはいえ「生き物に生き方の選択が委ねられている」ということになる。人間が自らの生き方を選べるように。






■バッタと環境



人間はその生き方を変えても、外見が劇的に変化することはない。

それと同様、ある種のバッタはその外見を変態ほど劇的には変えずに、その生き方だけを180°変えてしまう。



外見の変化は、その色のみに留まる。

緑の状態にあるバッタは一匹狼。単独で行動し、群れることは決してない。一方、黒く変色したバッタは大群をなす。空が真っ黒になるほど群れに群れて、農作物などを容赦なく食い荒らす。

「世界にはおよそ4,000種のバッタがいますが、そのように習性が変化するのはわずか13種ほどです。単独で行動していたバッタが、群れをなすように変化するんです」と、神経生物学者のマルコム・バローズ博士は言う。



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「緑のバッタを、群れをなす黒いバッタに変える方法は判っています。後ろ足を数時間、コチョコチョとくすぐってやるんです。虫をくすぐるのはいい暇つぶしになりますよ(笑)」

ユーモアを交えながら、バローズ博士はその仕組みを説明する。

「バッタ同士は集まると身体が触れ合います。中でも特に接触するのは『後ろ足の先端』です。そこの何時間か刺激が続くと、それまで他のバッタを避けていた緑のバッタが、積極的に仲間を求める黒いバッタになるんです」

「砂漠などの乾燥した地域では、雨が止むと食べ物が不足します。バッタは残った食べ物を奪い合い、身体が触れ合います。そうして刺激を受けたバッタが群れをなすようになるのです。新たな食料を求めて飛び回るうちに、数百万匹もの大群になるんです」



バッタの習性を変える要因は「セロトニン」であることを、バローズ博士は突き止めた。

バッタは後ろ足に刺激を受け続けると、脳細胞内のセロトニンが次々と出てくる。それがバッタの生き方を変える信号となるであった。



このバッタの場合、変わるのはその生き方である「習性」が先である。習性が変化した後に、身体の色がそれにつられるように変化していく。

そしてまた、戻ることもできる。長い間隔離された黒いバッタは、いずれ孤独な緑バッタへと戻っていく。

こうした点において、否応なく変態するチョウ、変わる時期は選べても元には戻れないカエルとは全く異なっていることがわかる。






■変態の定義



このようなバッタの変化を「変態」と呼んでもよいのだろうか?

生き方は変われど、その外見の変化はささやかなもので、さらには元に戻ってしまうこともある。



それに関して、バローズ博士はこう語る。

「私にとって、変態はもっと広い定義をもちます。ある個体が同じ遺伝情報をもつ他の仲間と『まったく異なる振る舞い』をしたら、それも変態に含まれると考えます」

生き方を変えること、習性の変化もバローズ博士は変態の一種だと考える。

「単独で行動して生きていたものが何百万という群れをなして、まったく違う生き方をするようになるのですから。バッタの場合は、それが変態だと言えます」



もし、バッタのような劇的な習性の変化をも変態に含めるのだとすれば、周囲の状況に合わせて自分を変える人間もまた、変態をする生き物ということができるようになる。

たとえば戦場に駆りだされた兵士は、日常と同じ振る舞いをするだろうか? まったく違う生き物のように考え、行動させられるのではなかろうか。まるでバッタが群れをなすように。

「兵士は人生の一時期を過酷な戦場で過ごし、家に戻ればまったく違う生活を送ります。これは、生き方における大きな変化、変態と言えるかもしれません」




自動車から飛行機に乗り換える人間はどうか? それは地をはうイモ虫から、天を舞うチョウに姿を変えるようなものだ。その核心たる遺伝情報はそのままに、その乗り物だけを変えるのだから。

科学技術の発展によって、人間はその生き方を変えさせられてきた。移動手段は自動車が発明され、飛行機へと進化した。かつては新聞でしか得られなかった情報が、テレビの普及、そしてインターネットの普及へと拡大した。

それらがなかった時代と、ある時代では、そこに生きる人間はもはや同じ種とはいえないほどに生活スタイルを変えてしまった。ただ、外見をバッタのように変えることはなかったが。






■変化に抗う



「変化はやがて、変化を作り出した私たち自身を支配し、圧倒するようになりました」

人間は自分の生きる社会を自ら形成しながら、同時にその社会によって「個人としての自分」を変えられてしまった。



だが、人間は変化に対して、他の生き物たちとは決定的に違う点をもつ。

まず、人間は「変化に抗おうとする部分」を常にもつ。

「人間は自分が変わったことに気づきます。そして変化を恐れます。人間は変態に対して底知れぬ不安を感じるのです」

毛虫が変化を恐れてイモ虫の鎧を脱ぎ捨てられないということはないだろう。だが、恐れを知る人間はその鎧に押し潰されてしまうこともあるかもしれない。



哲学者、レイモンド・タリスはこう語る。

「人間は、変わりたい、新しいことをしたいと思う一方で、『今の自分を失いたくない』という相反する気持ちを抱き、そうしたせめぎ合いに悩まされます。今の自分を失うということが途轍もない変化に思えて恐ろしくなるんです」

この点、人間は変態に「負の側面」をみる唯一の生き物と言えるのかもしれない。



毛虫は変わることに逡巡しない。その変化に良いも悪いもない。ただその宿命に従うまでである。だが、変化の前後を知ることができる人間は、変化というものをずっと複雑に考える。そして時には後悔の念にも苛まれる。

幸にも不幸にも、人間は他の生き物たちよりもずっと選択の余地が広い。幸いなのは、その生き方を選べることであり、不幸なのは、変化に悩む性質をもつことである。何が最良の選択であったのかは、死んでもわからないかもしれないのに。






■人間の心



カフカの小説「変身」で主人公グレゴール・ザムザは、不幸にも虫になった。

だが、そのおかげで嫌だった仕事からは解放された。しかし、仕事を失ったことは新たな悩みの種ともなってしまう。自分が働けなくなってしまい、残された家族はいったいどうなるのか?

そんな彼の苦慮とは裏腹に、家族らは虫になったグレゴールの扱いにほとほと困り果てる。彼は、這ったあとに粘液を残し、天井に恍惚とブラ下がっている奇っ怪な虫でしかなかったのだから。



いずれ家族の思いは、虫に成り果てたグレゴールへの憐憫から、厄介者を見る目に変わる。

虫となったグレゴールの世話を一身に引き受けていたのは妹のグレーテだったが、いずれ部屋の掃除はおざなりになり、敵意をむき出しにしてくる。

「こんな怪物の前で、兄さんの名前なんか言いたくはないわ。だから、私たちは”こいつ”から離れようとしなければならない、とだけ言うわ。”こいつ”の世話をし、我慢するために、人間としてできるだけのことをやろうとしてきたじゃないの」



姿を虫に変えたグレゴールは、妹の言葉を「人間の心」で聞く。姿は変われど、その心は最後まで変わることはなかったのである。

変わったのは周りの人間たちの方であった。その奇妙な姿に、家族たちですらすっかり心を変えてしまったのであった。

「”あいつ”は、いなくならなければならないのよ! ”あいつ”がグレゴールだなんていう考えから離れようとしさえすればいんだわ。そんなことをこんなに長いあいだ信じていたことが、私たちの本当の不幸だったんだわ」と、妹グレーテはすっかり兄への同情を失ってしまう。






■ヴァイオリン



この小説の印象的なシーンに、妹グレーテがヴァイオリンを弾く場面がある。



妹は弾き始めた。

グレゴールは演奏にひきつけられて少しばかり前へ乗り出し、もう頭を居間へ突っ込んでいた。



グレゴールの隔離されていた自分の部屋は、居間の隣に位置していたが、虫になって以来、彼は家族のことを顧慮して居間に出てくることはついぞなかった(それが彼の誇りだった)。なのに、妹のヴァイオリンの音色にその自らの禁を犯してしまっていた。



妹はとても美しく弾いていた。

彼女の顔は少しわきに傾けられており、視線は調べるように、また悲しげに楽譜の行を追っている。

グレゴールはさらに少しばかり前へ這い出し、頭は床にぴったりつけて、できるなら彼女の視線とぶつかってやろうとした。

音楽にこんなに心を奪われていても、彼は動物なのだろうか。



グレゴールは兄として、妹を音楽学校に入れてやることが積年の夢であった。それはお金のかかることであり、借金に苦しむ身では言い出すこともはばかれることであった。

だが、言わずともグレゴールの心は固かった。死に物狂いで働き続けていたのは、その資金をなんとか捻出したいという心からの想いがあった。

もし、それを妹に打ち明けられる時がくれば、「妹は感動の涙でわっとなきだすことだろう」とまで、グレゴールは夢想するのであった。






■最期



だが、このヴァイオリンの夜が、グレゴールにとっての最期の夜となってしまう。

ヴァイオリンに夢を見ながら、ついつい居間にまで這い出してしまったことが、家の下宿人から著しい不興を買ってしまい、ついには家族らを激高させ、あの優しかった妹の口からも罵詈雑言が吐かれるようになるのである。

それでも、グレゴールは家族から仕打ちを仕方のないことだと理解していた。背中にめり込むほど打ち付けられたリンゴの炎症とて、彼はそのリンゴが腐り果てるまで受け入れていた。



感動と感情のことを込めて、家族のことを考えた。

自分が消えてしまわなければならないのだという彼の考えは、おそらく妹の意見よりももっと決定的だった。

こんなふうに空虚な満ち足りたもの思いの状態を続けていたが、ついに塔の時計が朝の三時を打った。窓の外では辺りが明るくなりはじめたのを彼はまだ感じた。

それから、頭が意に反してすっかりがくりと沈んだ。彼の鼻孔からは最後の息がもれて出た。



翌朝、手伝いの婆さんは長い箒でグレゴールの身体を突っつき、その反応のないことに眼を丸くて、そして叫ぶ。

「ちょっとご覧なさいよ。のびていますよ。すっかりのびてしまっていますよ!」

「死んだの?」と、グレゴールの母は恐る恐る手伝いの婆さんに尋ねる。

「これで、神様に感謝できる」と、グレゴールの父。

妹グレーテは「ご覧なさいな。なんて痩せていたんでしょう。もう長いこと全然食べなかったんですものね。食べものは入れてやった時のままで出てきたんですもの」と言い、死骸から眼を離さない。



「もう古いことは捨て去るのだ」

グレゴールの父はそう言い、それから家族ともども家を出る。家族はその日を休息と散歩とに使おうと決めたのだった。

暖かい陽の降り注ぐ電車の中で、三人になった家族は「未来の見込み」をあれこれと相談し合う。



これから先のこともよく考えてみると、決して悪くはないということがわかった。

ことにこれからあと大いに有望なものだった。

ザムザ夫妻はだんだんと元気になっていく娘をながめながら、頬の色も蒼ざめたほどのあらゆる心労にもかかわらず、彼女が最近ではめっきり美しくふくよかな娘になっていた、ということにほとんど同時に気づいたのだった。

目的地の停留場で娘がまっさきに立ち上がって、その若々しい身体をぐっと伸ばしたとき、老夫婦にはそれが自分たちの新しい夢と善意とを裏書するもののように思われた。













(了)






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出典:
フランツ・カフカ変身 (新潮文庫)
地球ドラマチック「生きものはなぜ姿を変えるのか ”変態”の不思議」


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2013年07月20日

小さなアリの、大きな社会性 [ハキリアリ]



南米アメリカ大陸、そして太平洋と大西洋をつなぐ「パナマ運河」。

この「世界の十字路」の脇には広く深い熱帯雨林が生い茂っている。



その広大な熱帯の密林の中、小さな小さなそのアリたちは自分の身体よりもずっと大きな「葉っぱ」を頭上に抱え、樹上と地中を縦横無尽に這い回っている。

その名は「ハキリアリ」。文字通り「葉切り(Leaf-cutter)」、木々の葉っぱを切り取りそれを巣へと運ぶアリたちである。



不思議なことに、そのアリたちは葉っぱをそのまま食べない。

忙しなく運び込まれる無数の葉っぱはいったん巣の中に貯蔵され、念入りにもそれを「秘蔵の菌」で発酵させた上でエサとするのである。

その菌は「アリタケ」と呼ばれるキノコの菌。ということは、ハキリアリたちは葉っぱを肥料にして「キノコ栽培」をしていることになる。それはすなわち「農業」を営んでいるということである。



人間の農業の歴史はおよそ1万年といわれているが、このハキリアリはその5,000倍も遠い昔、5,000万年前から脈々とキノコ栽培を行なっているのだという。なるほど、ハキリアリはかくも伝統的なキノコ農家なのである。

また、ハキリアリの仲間には巣の中に「アブラムシ」を飼っている種もいるらしく、葉っぱをエサとして与え「甘い汁」をアブラムシからもらうのだそうだ。これはいわば「酪農」、人間が牛を飼ってミルクをいただくようなものである。



キノコ栽培とアブラムシの飼育を行うという「知的なアリ」、それがハキリアリ。

一つのコロニー(集団)は100万匹からの大所帯、成熟した巣の場合には800万匹にも及ぶという。ちなみに、日本の都市で100万人以上というのは11都市しかなく、800万以上のメガロポリスとなると世界でも首都クラスの巨大都市である(日本では東京のみ)。

そうした莫大な人口を抱えるハキリアリの社会は、高度に組織化されている。工場のように分業と流れ作業が徹底しており、その働きに応じて身体のサイズまで異なる。小さな者は2〜3mm、大きな者となるとその10倍以上の3〜4cm。生涯を通じてその職は固定されており、分業する職種は30以上にも及ぶ。



「一寸の虫にも五分の魂」と言われる通り、足下のアリたちの世界には人間社会以上の複雑さが秘められている。

農業の歴史にしても、生物の種としても、さらにはその繁栄度合いにしても、ハキリアリは人間よりもずっと偉大な側面をもつ。

彼らの体現する知恵には、底知れぬ可能性が散りばめられている。






◎コミュニケーション



ハキリアリの祖といわれるアリが、今なおパナマの密林には生息している。

それは「ムカシ・ハキリアリ」と呼ばれる種である。彼らのコロニー集団は100匹ほどと小世帯であり、育てるキノコも小さい。ハキリアリという名前ではあるものの葉っぱは集めず、自分の口から吐き出した食べ物や昆虫の糞などを使ってキノコを育てている。

その社会秩序もまだ非常に原始的であり分業も発達していない。皆同じ大きさで一匹のアリがあらゆる仕事をこなすという平凡な社会である。現在、高度な社会生活と巨大キノコ農園を営むハキリアリも昔はきっと、そうした原始的な生活を送っていただろうと考えられている。



では、なぜハキリアリという種だけが、かくも知的な共同生活を営むようになったのか?

パナマの熱帯雨林でその進化の謎を20年間にわたり探っている村上貴弘博士(北海道大学)は、そのカギが「コミュニケーション」にあるのではないかと注目している。あたかも人間が言葉を話すようになって急速に進化を遂げたように。

だが、ハキリアリたちが話すのは言葉ではない。「音」と「匂い」でお互いに連絡を取り合っている。



音というのは、腹部と胸部の間にある「腹柄節(ふくへいせつ)」という節から出される。この部分を電子顕微鏡で拡大して見てみると「洗濯板」のようにいくつもの段々があることがわかる。

お尻を振ってその洗濯板をリズミカルにこすれば「美味しい葉っぱ」を見つけたことを仲間に伝えることができる。また、激しくこすれば大きな音が出る。これは外敵に遭遇した時や巣が破壊されたときに発せられる緊急警報である。また、巣の中で幼虫の世話をしているアリは、たとえようもないほど優しい音を出す。まるで幼子をあやしているかのように。

そうした振動音(摩擦音)を、村上博士は10種類ほど確認している。ハキリアリの身体の大きさはその仕事に応じて異なるが、この洗濯板の形状や出せる音もその職種によって異なるとのことである。



村上博士は言う。「ほかのアリでも音を使ってコミュニケーションをとるんですが、ハキリアリは非常に複雑な多種多様な音を使っているというのが判りました。昆虫っていうとあんまり脳ミソないかと思われている方が多いと思うんですけど、とくにアリとかハチっていうのは非常に脳が発達しています」

彼らの反応は単純な反射とは思えない。きちんと情報を処理して適切な回答を出しているように思われる、と博士は言う。






◎匂い



ハキリアリはパナマの密林の中を、整然と列をなして行進していく。その数、数十万の大軍団。木々の葉っぱを頭上に掲げて行進するその姿は、まるで「緑の小川」が流れているかのようにも見える。彼らの羽毛のように軽い体重でも、数十万で踏み締めればそれは小さな獣道となり草も生えない。

なぜ、彼らは皆同じ道を通っているのかといえば、良いエサのありかを「フェロモン」という匂い成分で道上に示しているからである。ある場所に良い葉っぱを見つければ、その帰り道にもフェロモンを放出する。だが、見つけられなければ帰りは出さない。つまり、エサのありかだけが二重に匂い付けされて匂いが強まるのである。一方、空振りに終わったルートのフェロモンはいずれ蒸発して消えてしまう。



このように、葉っぱを探しに出た働きアリたちのエサ情報は、フェロモンという匂い物質によって音の届かない仲間にも伝えることが可能となる。それはまるでツイッターのリツイートのようなもので、情報の繰り返される頻度が濃いほどに、それは重要と判断されるのである。

なるほど、森の中に緑の糸を垂らしたような彼らの歩く「葉っぱの小川」は、じつはそうした匂いの道だったのである。もちろん、ハキリアリたちの出す音や匂いは人間には感知することができないほど微細なものである。



音や匂いを巧みに組み合わせて行われるハキリアリの複雑な情報交換。直接音を使って会話することもあれば、置き手紙のような伝言メッセージを匂いに託すこともある。

こうした高度なコミュニケーション術が5,000万年も延々と繰り返されてきたことにより、ハキリアリのキノコ農場は現在のような繁栄を遂げたと考えられる。そしてその巨大農園を適切に管理するために、「分業」というシステムも必要とされていったのだろう。






◎分業



その王座に君臨するのは「女王アリ」。体長は3〜4cm、スズメバチのように巨大で、イモ虫のように丸々と肥えている。100万匹のコロニーでも800万匹のそれでも、女王アリはたった一匹。唯一無二の存在である。

その仕事もたった一つ「生殖」のみ。そのぷっくりと膨れた腹の中には無数の卵が入っており、多い時で一日に3万個の卵を産み、生涯を通しては2億個もの卵を産むといわれている。その寿命はおよそ20年。



どれほど巨大なコロニーでもその始まりは一匹の女王アリであり、もし彼女が死ねば、そのコロニーも全滅してしまう。働きアリの寿命はたった3ヶ月しかないのであるから。

女王アリに始まり女王アリに終わるハキリアリのコロニー。まさに女王さまさま。巨躯を横たえる女王アリの周りでは、つねに2〜3mmの小型の働きアリたちが細かな世話を欠かさず、大きな兵隊アリは外部のパトロールを欠かさない。

兵隊アリというのは女王の次に大きなアリで、その体長は2cmと足長バチほどにデカイ。とりわけアゴの噛む力が強く、人間の皮膚をも切り裂いてしまう。巣の中をパトロールすることはもちろん、葉を刈り取る働きアリたちの行列警護も怠らない。



葉っぱを刈るのは中型の働きアリ(約1cm)。するすると高木に登ると、木の先端にある生育旺盛な新しい葉っぱをカジカジ。長い後ろ脚をコンパスの足のように広げ、そこを支点にしてアゴで葉っぱを丸く切っていく。その切り方はハサミというよりは缶切り。片方のアゴを葉にあててノコギリのように葉っぱを切り進んでいく。硬いバナナの葉っぱとて何のその。

刈り取った葉っぱは自分の体重の2倍ほどの重さがあるが、それをエッサホイサと巣へ持ち帰る。そうした細い流れがジャングルからいくつも集まり、緑の大河となって地下にある巣の中へと吸い込まれる。



そこで葉っぱを受け取るのは2〜3mmほどの一番小さな働きアリ。彼女らはさらに細かく葉っぱを噛み砕き、せっせとキノコ畑に葉っぱを仕込んでいく。狭いスペースを最大限に活用するため、時にキノコをゆっさゆっさと揺らしてスペースを作りながら。

小型の働きアリの中には、キノコの成長を妨げる寄生菌をチェックしながら、ひたすら有害な雑菌を取り除いている者たちもいる。菌を育てる商売なだけに、この仕事を怠るとキノコが全滅してしまうこともあるからだ。

白いキノコの間に見え隠れする半透明の物体は、じつはハキリアリの卵やサナギ。小型の働きアリはそれらの子供たちにマンツーマンでつきっきりになり、大人になるまでの一ヶ月ほどずっとしがみついて世話を続ける。



ちなみに、女王アリから始まって兵隊アリ、働きアリとすべて「メス」である。巣の中にオスは一匹もいない。

オスが必要とされるのは年に一回、春の繁殖シーズンだけである。オスは、新しい女王アリが誕生した時だけ、そのペアとして産み出される。その数、オス・メスともに数百匹。彼ら彼女らには羽があり、生まれた巣を一斉に飛び立って交尾相手を探し、そして新しい巣とコロニーをつくる役目を任される。

オスたちは悲しいかな、その一回の交尾が終われば用済みとなり、ただ屍となる。女王はと言えば、その後二度と交尾はしない。






◎真社会性昆虫



100万匹以上のハキリアリの暮らす地下の巣は、掘ってみると乗用車一台分以上のスペースに大帝国を築き上げている。

出入り口は5〜6ヶ所ほどあり、地下にはラグビーボール大のキノコ農園の白い塊が点在している。キノコ農園同士をつなぐ通路は地下へ地下へと螺旋階段を降りるように連なっている。下へ行けば行くほど末広がりになっており、真横からの切断面はちょうどピラミッドのような形となっている。



この巨大な地下帝国はとてもアリ一匹の成せる業ではない。その完璧な「組織力」の賜物であり、仲間たちと互いに協力することにより成し得ることである。

そうした協力を見せるのはハキリアリだけと限らず、アリ世界に共通する特性である。さらにアリの他、シロアリやスズメバチ、ミツバチなどの昆虫もそうである。

こうした組織力をもつ昆虫を「真社会性昆虫」と呼ぶ。それらの昆虫は一様に、高度な社会性をもつことが知られている。



その中でもアリの歴史は古く、巨大恐竜が跋扈していた白亜紀の頃にはすでに地上を歩き回っていたと考えられる。つまり、アリが社会をつくりはじめたのは、人間よりもずっとずっと前の話なのである。

面白いことに、ハキリアリの社会にリーダーはいない。女王アリというのは雲の上の存在であり、現場のことには一切口を出さない。

では、どうやって100万を超える民たちが秩序を保っているというのか。



彼女らの社会にじつは複雑なルールはない。そのコミュニケーションは音や匂いといったシンプルな信号のみである。だが、そのシンプルさの徹底的な繰り返しによって、自らの仕事を忠実にこなし、そしてかくも複雑な社会を形成しているのである。

葉っぱ刈りの現場では、思わぬ外敵の出現や突然の豪雨などによって、撤退を余儀なくされることも少なくない。すると、その情報は即座に末端の働きアリにまで共有される。それは音による伝言ゲームであったり、フェロモンによる置き手紙であったり。

事件はつねに現場で起きる。だからむしろ巣の中にリーダーなどいない方がいい。「踊る大捜査線」で青島刑事が言った言葉どおり、「事件は会議室で起きているんじゃない! 現場で起きているんだ!」というわけである。






◎ゴミ問題



さて、100万もの民が一つの巣の中に暮らすとなると、大都市特有の問題が発生する。その一つが「ゴミ問題」である。

ハキリアリの農園は「菌の管理」が最重要である。彼女らが何千年と育んできたキノコの菌はすでに独自の進化を遂げており、家庭ごとに味の異なるヌカ床のように貴重なものだ。ハキリアリがそうしてキノコの菌の繁殖を一身に請け負ってくれることで、キノコの方はそこに安住し、子孫を増やすために必要な「傘」を作らなくなってしまったほどである。



菌の管理に昼夜はない。24時間、つねに雑菌の発生には目を光らせていなければならない。

寄生菌を専門に除去する作業員もいれば、ゴミを回収して回る専門のゴミ捨て係もいる。彼女たちの仕事はスピードが命。24時間休んでいる暇はない。ゴミを放置しておけばまたたく間に雑菌にはびこられてしまう。

さらにゴミは遠くまで投げ捨てに行かなければならない。近場に捨てると、悪い菌がまた巣に侵入してしまうかもしれない。そのため、ゴミ捨て係は昼夜を問わず、ずっと遠くまでゴミを捨てに行き、さらにわざわざ木に登って上から捨てる。というのも、ゴミ捨て場に足を踏み入れてしまうと、また雑菌を巣へ持ち帰ることになり元の木阿弥となってしまうからだ。

彼女らの仕事はじつに地味である。だが、その重要性は葉っぱを刈り取る華形の働きアリと同等のものである。






◎ひとたび事あらば



ある日の朝、パナマの熱帯雨林に突然スコールのような豪雨が降り注いだ。

外で葉の刈り取りをしていた働きアリたちは「こりゃたまらん」とばかり、せっかく切り取った葉っぱを投げ捨て、近場の軒先に雨宿り。残念ながら雨に濡れてしまった葉っぱを巣に持ち帰ることはできない。湿度に敏感なキノコの菌を悪くしてしまう危険性がある。

大地を激しく叩きつける大雨は止む気配もなく、しきりにジャングルを潤していく。そして皮肉にも、ハキリアリたちが行進してできた細い通路は格好の水路となり、本当の小川となってしまった。



ようやく雨がおさまった時、ハキリアリたちの道路は落ち葉や小枝やらのゴミだらけ。まるで大水害のあとの変わり果てた姿となっていた。

こんな危急に、ハキリアリたちは一致団結協力して瓦礫や土砂の片付けをはじめる。こんな時には、もう分業など関係ない。普段の道の整備係のみならず、敵と戦う兵隊アリまでが自慢のアゴを泥で汚しながら復旧作業に尽力する。大切な葉っぱの道を元通りにするために。

一見極めて厳格に見えるハキリアリたちの分業は、かくも柔軟性を兼ね備えたものである。仕事を分けるのもチームワークならば、必要に応じてその垣根を取り払うのもチームワーク。これぞ真社会性昆虫、ハキリアリの真骨頂。

5,000千万年も小さなハキリアリが、時に為す術もないほど巨大な自然で生き抜いてこれたのには、それなりの理由があった。彼女たちは普段は歯車のように機械的だが、じつはとても柔らかな機械だったのだ。



時おり、大きな兵隊アリたちは微笑ましい光景をみせる。

小さな働きアリが大きな土くれの前に道を阻まれ右往左往している時、力持ちの兵隊アリがよいしょと土くれをどかしてくれたりするのである。

きっとその兵隊アリは、働きアリの「小さな声」を聞いたのだろう。まことにアリがたいことに。






◎命の輪



葉っぱの行進が昼の風物詩ならば、夜のゴミ捨てもまたいつもの風景。

ふと見ると、ゴミ捨て係が運ぶのはゴミばかりではない。弱った「仲間のアリ」も巣の外に運んでいた。まだ微かに動いている。だが、虫の息…。



巣の中で死ぬと、その死骸から悪い菌が発生してしまうことがある。そのため、死を悟ったハキリアリは自ら独特の匂いを出して、それを仲間に知らせるのだという。

ゴミとともに捨てられるまだ息のあるハキリアリ。それが彼女の本望だ。大切なキノコに、そして仲間たちに迷惑をかけるわけにはいかないのだ…。



ハキリアリたちのゴミ捨て場、そして墓場。それは森にとって終わりの場所ではない。むしろ、新たな生命がそこから芽吹く。窒素分が豊富なそのゴミ捨て場は植物たちにとっては格好の苗床となるのである。ハキリアリの営む農業は、見事に森の命の輪を回すのだ。

木々の葉っぱを刈り取ることも森にとっての害とはならない。ハキリアリの選ぶ葉は生育旺盛な先端部分が多いため、それは植物にとって新たな成長の刺激ともなる。さらにハキリアリは特定の植物だけを狙い撃ちにすることは決してしない。たとえばパナマの森ならばその植物種のおよそ9割の植物からまんべんなく葉っぱを頂くのである。

人間の農業は時として「持続可能性」が問題になる。だが、ハキリアリの持続可能性は5,000万年という長い歳月が証明してくれている。



ハキリアリたちの仕事一つ一つはじつに小さい。しかし、その一つ一つが組織されることによってとんでもなく大きな仕事を成し遂げている。それはアリ一匹一匹が大きな生命体の一つ一つの細胞であるかのようだ。まさにハキリアリのコロニーはそれ自体が一つの大きな生命体、超個体なのである。

人間の個人個人は時として「小さな自分」、仏教で言う「小我」にとらわれてしまうことがある。だがハキリアリたちは、なんと「大きな自分」を持っていることだろうか。






春が来て、羽を持ったハキリアリたちが一斉に巣を飛び立った。

新たな女王たちと、この時だけ誕生するオスたちによる「結婚飛行」だ。

空中で交尾を済ませる彼ら彼女らは、確実に自分たちの使命を果たす。そして新しく生まれてくる生命たち誰もが忠臣である。



その健気なまでに忠実な生き方が、熱帯の森においてかけがえのない役割を担っている。

たとえどんなに小さなアリでも、その使命には何千年という重さがある…













(了)






出典:
NHKワイルドライフ「パナマ熱帯雨林 森の賢者ハキリアリ」
NHK地球ドラマチック「驚き! ハキリアリの世界」

posted by 四代目 at 19:29| Comment(1) | 昆虫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月17日

「クモの糸」を真似る。昆虫に倣う [生物模倣]



遠い遠い天上からするすると垂れてくる「クモの糸」。

その一筋の細い光に思わず手を拍って喜んだカンダタ。

彼は生前大泥坊で、今は地獄に落ちていた。そしてその底にある血の池の血にむせびながら、まるで死にかかった蛙のように浮いたり沈んだりしていたところだった。



「しめた」とばかりに早速その銀色のクモの糸にすがりついたカンダタは、一生懸命に上へ上へと登り始める。

「きっと地獄から抜け出せるに相違ない。うまくいくと、極楽へ入ることさえできるかもしれない」

一生懸命に登った甲斐あって、さっきまで自分がいた血の池は今ではもうすっかり暗の底に隠れてしまっている。

「しめた。しめた」と笑うカンダタ。



ところが、ふと気づく。

クモの糸の下の方には、数限りない罪人たちがまるでアリの行列のように、上へ上へと一心によじ登ってくることに…!

自分一人でさえ切れそうな、このか細いクモの糸。それがどうして、あれだけの人数の重みに堪えることができよう。



そして大声で叫ぶ。

「こら、罪人ども! このクモの糸はオレのものだぞ! 下りろ! 下りろ!!」

その途端、今まで何ともなかったクモの糸が、急にプツリと音を立てて切れてしまった。カンダタはあっと言う間もなく、風を切って独楽のようにくるくるまわりながら、見る見るうちに暗の底へと真っ逆さまに落ちていく。



あとにはただ、クモの糸がきらきらと細く光りながら暗い空に短く垂れているばかり。

その切れたクモの糸を、天上から悲しそうに見つめるお釈迦様。その糸は極楽のクモのもの。それをお釈迦様が蓮池の真下にある地獄の底へと垂らしたものだった。










◎強いのに伸びる



冒頭の話は芥川龍之介の「蜘蛛の糸」。

極楽のクモの糸は、人間が数限りなくぶら下がっても決して切れることはなかった。ただ、カンダタが自分だけ助かろうという無慈悲を起こしたばかりに切れてしまったのである。



ところで、地上のクモの糸はいかほどの強さを持つものであろうか?

その糸はクモという小さな生物が何億年とかけて進化させてきた結晶であり、その繊維は世界で最も強靭だといわれている。

とりわけ、クモが自分でぶら下がる時に使う糸は類まれな「強さと伸縮性」を兼ね備えているという。



強いのに伸びる。

これは一見矛盾している。強ければ硬かろうし、伸びるのなら軟らかいはずだろう。

ところがクモの糸は、その弱々しい外見からは信じがたいことに「鋼鉄」よりも強く(約2〜5倍)、しかも「ゴム」のように伸びるのだ(伸縮性はナイロンの2倍、寒さに遭ってもその軟らかさを保つ)。



その秘密は分子レベルの構造にあると見られ、そのカギを握るのが「フィブロイン」というタンパク質である。

その一本一本は「硬い部分」と「軟らかい部分」が交互に並んだ構造をしており、それが束になって集まると、硬い部分は硬い部分同士でくっつき合ってさらに頑丈に、軟らかい部分は軟らかい部分同士で絡まり合って伸びても切れにくくなる。

その結果が、相矛盾する強さとしなやかさを兼ね備えたクモの糸なのだという。鋼鉄よりも硬いものの間に、ゴムのように伸びる素材がナノ単位(100万分の1mm)で入っているのである。










◎ベンチャー精神



そんな夢のような繊維、クモの糸を人工的に作れないものか?

人間のつくった繊維の中で最も強靭といわれるのは「アラミド繊維」。石油からつくられたこの糸は防弾チョッキにも使われている。

だが、その人類自慢のアラミド繊維ですら、最もタフなクモの糸といわれる「ダーウィン・バーク・スパイダー(Caerostris darwini)」のそれに比べれば、その足下にも及ばない。天然のクモの糸のほうが7倍以上も強いのだ。



人工のクモの糸、その実用化を慶応大学発のベンチャー企業「スパイバー」は夢見た。

それは大学4年生らが集った飲み会の席、「クモの糸は物凄い! これを量産化する技術を開発して実用化しよう」と朝まで盛り上がった。だが、酔いの覚めた真面目な研究室では、その荒唐無稽なアイディアは失笑の的でしかなかった。

それもやむない。あのアメリカの大手繊維企業「デュポン」のつくったアラミド繊維でさえクモの糸には遠く及ばず、アメリカ軍も開発に取り組んで挫折したというのがクモの糸なのだ。それを大学の小僧らが酔った勢いで「それをつくってみせる」と豪語したのである。



「そんなことできるわけない。不可能だ」

そう一蹴されたにも関わらず、のちにベンチャー企業スパイバーの社長となる「関山和秀」氏は、クレージーな飲み仲間たちとともに一心不乱にクモの糸の実現化に取り組みはじめた。

そして一年、ついに完成。だがそれでも笑われた。ようやくできた繊維はミミズだがゴミだかわからない。しかもたった20mg、爪の先ほどの量をつくるのにフラスコを振り続けて3ヶ月もかかる。とても量産できるとは思えなかった。



それでも、それはすでに夢のタネであった。

クモの糸の主成分である「フィブロイン」というタンパク質は見事に再現されており、しかも石油に頼らず、微生物という自然界の力が活用されていた。

クモという生物は縄張り意識が相当に強く、大量に飼おうとしてもすぐに共食いをしてしまう。彼らは決して蚕(かいこ)のように大人しく飼われる生き物ではなかった。そこで、関山氏は最新のバイオ・テクノロジーによって微生物(バクテリア)にクモの糸を作り出す遺伝子を組み込んだ。

温度や栄養などを最適化することにより、このバクテリアは大量培養することができ、その培養液を精製すれば、クモの糸の原料たる「フィブロイン」だけを回収できた。



そして5年後、生産効率は一気に2,500倍にまで飛躍的に向上。

ついに世界で何ぴとたりとも成し得なかった「クモの糸」の量産は、ここに現実化するのである。

名作「蜘蛛の糸」を生んだ、この日本で。しかも、クレージーな若者たちが。










◎夢のまた夢



ところで、クモの糸の繊維は何に実用化でき得るのか?

「たとえば、人がぶつかっても歩行者にケガをさせない自動車」

関山社長はそう言う。クモの糸を平面に織りあげることでそれはシート状になり、自動車のボディーにもなるという。鋼鉄よりも強く、しかも軟らかいという摩訶不思議なボディーに。

最新のボーイング787「ドリームライナー」という飛行機に応用されたのは炭素繊維であるが、クモの糸の織りなす繊維はその10〜15倍もの強度(タフネス)を持つとされる。



「来ているか忘れてしまうような軽くてしなやかな防護服であったり、もしかしたら次世代の宇宙服になるかもしれない」と関山社長は続ける。

また、石油ではなく天然のタンパク質であるということを活かし、人工血管だったり手術の縫合糸であったりと、次世代の医療を担うような材料もつくれるかもしれない。



さらに驚くべきことに、このクモの糸はさらに強くしたり、より伸びるように「デザイン」できるという。

タンパク質というのは生命、たとえば私たち人間の身体の原料でもあり、およそ10万種類が知られているが、その元をたぐっていけば「たった20種類のアミノ酸」に行き着く。それらがどう並ぶか、どうつながるかによって、たとえば髪の毛になったり皮膚になったり筋肉になったり、ホルモンになったり酵素になったりする。もちろんクモの糸にも。

すなわち、そのアミノ酸の配列をデザインすることでクモの糸の強度および伸縮性をコントロールすることも可能となるのである。それはつまり、自然界最強の「ダーウィン・バーク・スパイダー」がつくるクモの糸をも凌駕する繊維を人間が生み出すこともできるということである。



なんと、現在のバイオ・テクノロジー、ナノ・テクノロジーは自然界を超える可能性があるのであった。もしかしたら、本当に「極楽のクモ」のように、カンダタはじめ数知れぬ人間を何十人とぶら下げられるクモの糸がつくれてしまうかもしれない。

関山社長は言う。「このクモの糸がありとあらゆる繊維製品に使われて、世の中を変えていく。モノづくりの概念を一変する」と。

もし一本のクモの糸がこの世界全体を引っ張り上げるとしたら、罪多きわれわれはカンダタとともに極楽への道を示されているのかもしれない。



さらに関山社長は言う。「この飲み会の席からはじまった半ばクレージーな『クモの糸を実用化するというアイディア』。はじめはみんな不可能だと言いました。みなさんは不可能だと思いますか?」

そして断言する。

「私たちはそう思わない」










◎真似



生物が何億年もかけて育んだ叡智は、クモの糸にとどまらない。

ヤモリの足の裏には吸盤も粘着物質もない。それなのに地球の重力にさからって壁でも天井でもペタペタと歩き回れる。それはその足の裏にナノ・サイズ(100万分の1ミリ)の微細な毛が数億本びっしりと生えていて、物質同士を引き合わせる特殊な力を働かせているからだという。

また、チョウが花の蜜を吸う細長いストローのような口には何の筋肉も動力もない。それなのに、粘り気のある蜜をチューチューと吸い上げることができる。なぜか? それはストローの内壁の微細な凸凹が表面張力を連続的に発生させ、その結果、ハチミツのようなネバネバな物質でも引き上げることを可能にしているのではないかと考えられている。








もし、クモの糸のようにヤモリの粘着、そしてチョウの無動力ポンプが実用化されるのならば、それは画期的である。

人間の作ったテープは容易に剥がすことができず、剥がしても跡がのこる。ところがヤモリの足の裏は何度はがしてくっつけてもその粘着力は衰えない。がっちり張り付くのに、簡単に剥がれるという矛盾があっさりと解決されている。

そして、チョウの蜜を吸い上げる原理を応用すれば、水に垂らすだけで勝手に水を吸い上げるホースが実現できるかもしれない。もしポンプなどを使わずにその内壁のザラザラだけで液体の移動が可能になったら、現在の液体輸送は極めてシンプルなものとなるだろう。事実、何十メートルと見上げるほどの大木は、ポンプもなしに地中の根っこから空の先の葉っぱにまで水を吸い上げている。



生物に学ぶ、そして真似る。

「まなぶは、まねる。まねるは、まなぶ」

それが生物模倣(バイオ・ミメティクス)とよばれる動き。クモの糸しかり、ヤモリの足裏をカーボン・ナノチューブで再現した「ヤモリ・テープ」もすでに実用化されている。










◎製造の方法



ある風力発電の羽は「クジラのヒレ」をヒントに回転効率を向上させたといい、ある自動車は「ハコフグ」という魚の形を真似て空気抵抗を極めて小さくしたという。またある注射針は、こっそりと蚊が人の血を吸うようにほとんど痛みを感じさせない。

生物学者エドワード・O・ウィルソン博士はこう言った。「人類にとっての真のフロンティアは地球上の生命であり、彼らを調査して得た知識を科学や実用に役立てることをまず考えるべきである」と。








自然は人間の師やモデルになり、そして「ものさし」にもなる、とサイエンスライターのジェニュイン・M・べニュス女史は言った。自然界をものさしとして、人間の技術革新の正しさが測れるというのである。

このものさしで見れば残念ながら、現代文明の生んだモノづくり、製造という技術は「自然のものさし」とは真逆に進んできたとも考えられ得る。







それを教える生物の一つが「アワビ」だと、垣澤英樹・東京大学准教授は考えている。

アワビの殻というのはセラミックスの一種なのだが、それは人がつくったものと違って非常に割れにくい。その秘密は、厚さ1mmにつき薄い板が1,000枚以上も積み重ねられたミルフィーユのような構造にある。さらにその一枚一枚の間には軟らかい接着層が組み入れられており、それがクッションとなって衝撃を吸収して強さを発揮するのだという。

アワビの殻の中にもやはりクモの糸と同様、硬さと軟らかさという矛盾を両立させるナノ・サイズの技術が詰め込まれている。



だが驚くのはその構造というよりも、その「製造方法」である。

人間がセラミックスをつくる時、高温で焼き固めたり高い圧力をかけなければならない。だがアワビはそんな大仰なことをせずして、それよりも優れた殻をつくり上げてしまう。アワビは海中にありふれた「炭酸カルシウム」を取り込むだけで、まったく静かに強靭な貝殻を成長させていくのである。

その見事さに垣澤准教授は「最もエネルギーの少ない作り方をしています。何億年という歴史の中で淘汰してきて辿り着いた作り方なのです」と語る。



そうした静かな建設はアワビだけに限らず、クモの糸もそうであるし、生物全般がそうである。かく言うわれわれ人間が人間をつくるのも同様、静かな内なる工程なのである。その工程は常温・常圧の下で行われ、炭素や酸素、水素や窒素などのいわゆる軽元素と呼ばれるありふれた材料でもモノづくりである。

一方、工業製品の生産現場はどうかと省みる。もし何の物音も立てない工場があるとしたら、それは廃墟に違いない。通常はガリガリと削ったりガンガンと叩いたり。高い温度や高圧、時には真空下という異常な環境に置かなければ作れないものもある。






◎破壊



今までの科学は「建設は何もしていない。しているのは破壊と機械的操作だけなんです」と、数学者「岡潔」氏は言っていた。彼は1978年にこの世を去っているのだが、彼の言葉は現在にもまだ通じているように思う。

岡氏は言う。「破壊だったら相似的な学説か何かがあればできるのです。建設をやって見せてもらわなければ論より証拠とは言えないのです。だいたい自然科学で今できることといったら破壊だけです。その最大のものは原子爆弾をつくれたということでしょうか」








破壊的な行為によって作られたものは破壊しか生まないと岡氏は言う。人類の福祉に役だっている「人類を細菌から守る」ということでさえ、「破壊によって病原菌を死滅させている」。

岡氏は続ける。「私が子供のとき、葉緑素はまだつくれないと習ったのですが、多分いまでも葉緑素はつくれない、葉緑素がつくれなければ有機化合物は全然つくれないのです。一番簡単な有機化合物でさえつくれないようでは、建設ができるとは言えない」



21世紀になった今も、人類は植物の光合成を真似ることはできていない。それでも、その植物らが葉緑素によって生み出した石炭や石油を使うことを進化させてきた。

だが、元の生産ができないということは、いずれそれらの資源が枯渇した時に行き詰まるということを意味する。ウラン鉱も然り。原子力発電も有限な「借り物」の上に成り立っている。



クモの糸を人工的に開発したベンチャー企業の関山和秀社長も、それを懸念している。

「石油からできている化学繊維というのは、私たちの身の回りのありとあらゆる製品に使われていて私たちの生活を支えています。しかし、石油が枯渇してしまったらそれは使えなくなってしまう」

そのため彼は石油に頼らない繊維として、微生物に頼ってクモの糸を合成してみせたのである。「自然のものさし」で測ったとき、きっと彼は正しい方を向いているのだろう。というのも、石油や天然ガスなどの地下資源に依存したモノづくりにはすでに陰りが見え始めているのだから。






◎昆虫



人類による「生物の真似」はまだ緒についたばかりであるが、その最大の師は「昆虫」だと言われている。

たとえば、タマムシの仲間は数十km離れた火山活動を認識することができるという。赤外線を受容できる微細な器官によってそれを可能にするらしい。ガの仲間には、まるで立体的に羽が丸まって見えるトリック・アートのようなムラサキシャチホコという蛾がいる(鱗粉の濃淡によって平面が立体的に見える)。

また、アフリカに生息するシロアリの中には「電気代0円のエアコン」を完備した巨大なアリ塚をつくる者もいる。煙突のようになった上部から熱と二酸化炭素を放出し、地下の生存域には地下水をかけて気化熱で冷房する。その仕組によって外気温が40℃の時でも、その巣の中は30℃に保たれる(ジンバブエには、この構造を真似た建造物が実際にあるという)。



クモももちろん昆虫であり、その進化の歴史は4億年という長きを誇る。

じつは地球上で最も繁栄している種は人間ではなく彼ら昆虫である。既知の種だけでも100万種に達し、未知のものも含めればその10倍、1,000万種もいる可能性がある。その生物量(バイオマス)はおよそ全人類の15倍という途方もなく巨大なものである。

それほどの大所帯のわりに、昆虫らはそれほど人類に迷惑をかけないばかりか、地球環境にもダメージを与えることはない。つまり、彼らは自然環境と境目がないほど巧みに「共生」を果たしているのである(一方の人類が完全に自然界から浮いた状態だというのに…)。



昆虫たちの進化の基本は自然との「共進化」。限られたエネルギーの範囲内で、身の回りの材料のみを用いてそれを果してきた。

その方向性は「多様化」「分散化」、そして「小型化」。種の数の多様さは、そのまま各々の生活様式の違いでもある。生きる方法も違えば住む場所も様々に異なる。そして限られた自然環境を鋳型にしてできる姿は小さなものばかり。

それに対して、人間の進んできた道は「均一化」「集中化」、そして「大型化」。ことごとく昆虫たちの成功法則とは正反対であった。






◎種



「現在の人類進化の状態ではいつの日か、自分で自分を滅ぼしてしまうのではないか」と、先述の数学者・岡潔氏は言っていた。

そしてこう続ける。「自然に対してももっと建設のほうに目を向けるべきだと思います。幸い滅びずにすんだらのことですが、滅びたら、また20億年繰り返してそれをやればよいでしょう」

岡氏のいう20億年という歳月は、人間が単細胞からここまで至った果てしのない距離である。はたして現在のわれわれは、血の池の中にうごめいているカンダタなのであろうか?



「自然を見てみますと、草は種からはえては大きくなって、花が咲いて実ができたら枯れてしまう。またその実から芽を出して、繰り返し繰り返しやっておりますが、これはまったく同じことを繰り返しているのではなく、こうしているうちに少しずつ、なぜか知りませんが、進化している」と岡氏は語る。

咲いた花もあるのなら、枯れて滅びるものもある。そして新しい種はまた新しい物語をはじめる。



「あまり人為的なことばかりやっていると、人間は弱る」と小林秀雄は言う。

そんな時だ。「自然に帰れ」という聞きいたことのある言葉がどこからか響いてくるのは。そして、眼前に垂れる一筋の銀色の光を見つけるのは。



窮すれば変ず、変ずれば通ず。

たとえ今の人類の進む道がか細くなっていこうとも、まだ選択できる道が残されていることは幸いなことである。

たとえそれがクモの糸のように頼りなく見えても…













(了)






出典:
NHKクローズアップ現代「生物に学ぶイノベーション」
NHK視点・論点「バイオミミクリーと昆虫」
人間の建設 (新潮文庫)」岡潔・小林秀雄

posted by 四代目 at 10:35| Comment(0) | 昆虫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月22日

清潔すぎるとアレルギーは増えるのか? 吸血ダニと南京虫



その子は、卵が食べられない。

嫌いというよりも、体が受け付けない。

「わずかな量の卵を食べただけで、顔や身体が痒くなり、時には呼吸困難も起こしてしまう」







いわゆる食物アレルギー。

これは、人間の身を守るはずの「免疫システム」が誤作動を起こした結果、生じるものだという。

花粉症も然り。これもアレルギーの一種。いまや3人に一人を悩ませる国民病である。



なぜ近年、こうしたアレルギーが急増しているのか。

人間の「免疫システム」は狂ってしまったのか?

その一因は先進国の「清潔すぎる環境」にある、というのだが…。






◎吸血ダニ



およそ2億年前。

現代の人類を悩ませる「アレルギーの種」は蒔かれたという。



その大昔当時、人間はまだ人間とは程遠い存在で、手に平に乗るほどの「小さいネズミ」のような存在だった。

世界最古の哺乳類「アデロバシレウス」。現在のトガリネズミとよく似た姿形だったという。やはり現代のネズミのように、コソコソと逃げ回る必要があり、おそらくは夜行性で昆虫を食べていたであろうと推測されている。



そんなちっぽけなアデロバシレウスにとって、巨大な生物たちと並ぶ最大の外敵の一つが、自分たちよりずっとちっぽけな「吸血ダニ(マダニ)」であった。皮膚に取り付かれれば、恐ろしい病原体を媒介しかねなかったのである。

こうした外敵と始終戦い、そして破れ、多くの仲間たちは死んでいったのかもしれない。だが、しぶとく生き残ったアデロバシレウスもいた。そんな生き残り組が、吸血ダニとの死闘の末に「強力な免疫システム」を獲得するに至る。

「IgE(免疫グロブリンE)」というタンパク質が、その戦利品だ。これは、われわれ哺乳類にのみ存在する糖タンパク質である。






◎起爆剤「IgE(免疫グロブリンE)」



皮膚にしがみついた吸血ダニは、皮膚を溶かすための酵素を出す。すると哺乳類の免疫細胞は、その酵素に対抗する「IgE(免疫グロブリンE)」を即座に作り出す。

この「IgE」の向かう先は、体内にある「マスト細胞(顆粒細胞)」。「IgE」の役割は、このマスト細胞を爆発させることだ。

「IgE」は導火線についた火のように、マスト細胞を爆発させ、砕け散ったマスト細胞は「ヒスタミン」という物質を体内に撒き散らす(脱顆粒)。



この「ヒスタミン」は、各所に炎症反応を勃発させる。

その炎症物質を血液とともに吸い込んだ吸血ダニは、シッポを巻いて逃げ出すか、もしくはその場でショック死してしまう。



これが、最古の哺乳類アデロバシレウスの編み出した防御法(免疫システム)であり、そのおかげで、その生を2億年後のわれわれにまで引き継ぐことが可能となった。

もし、こうした免疫システムをアデロバシレウスが獲得していなかったら、ネズミはネズミのままに吸血ダニにやられていたかもしれない。






◎イギリスの花粉症



ところが現在、生存に欠かせなかったこの免疫システムが「誤作動」を起こして、現代の人類を苦しめている。それがアレルギー。

吸血ダニの出す酵素に反応するはずだったタンパク質「IgE」が、なぜか体内に入ってきた無害なものにまで過剰に反応してしまう。その無害なものが卵であったり、花粉であったり。



「IgE」という起爆剤はマスト細胞を爆破する。そのため、「IgE」が過剰反応を起こしてしまうと、体内には大量の炎症物質がいたずらに飛散されてしまう。

それが、クシャミ・鼻水・目の痒みなどを引き起こし、時には呼吸困難までも起こしてしまうのだ。



なぜ、「IgE」が誤作動を起こしてしまうのか?

なぜか、先進国に住む人々にほど、この誤作動が多い。



世界に先駆けたイギリスでは、19世紀から早くも「ヘイ・フィーバー(hay fever)」という花粉症の患者が急増している。

「ヘイ(hay)」というのは家畜の食べる牧草であり、そのイネ科の植物の花粉がやはり、人体に炎症反応を引き起こすのである。その症状はスギ花粉と同様、クシャミ(sneeze)・止めどない鼻水(runny nose)・目のかゆみ(itchy eyes)。

イギリスでは古くから民間療法として、「イラクサ(nettle)」というチクチクする雑草をお茶(ハーブ・ティー)にして飲んだという。このイラクサ(ネトル)茶には一種の「抗ヒスタミン作用」があり、マスト細胞の爆発によって生じた炎症物質ヒスタミンをなだめすかす効果があるのだという。






◎清潔になりすぎた生活環境



イギリスの先進文明に、追いつき追い越せと躍起になった日本は、晴れて先進国の仲間入りを果たすことになるわけだが、それと同時にイギリス同様、花粉症の大流行に悩まされることにもなってしまう。

日本でスギ花粉や食物アレルギーなどに悩む人が急増するのは、高度経済成長と軌を一にする昭和30年代ごろから。

どうやら、先進国の「清潔になりすぎた生活環境」が、その一因にあるようだ。



外敵の見張り役であるタンパク質「IgE」は、御所に詰める北面の武士のようなもので、吸血ダニなどが来ようものなら、すわとマスト細胞を爆破させに走る。

だが、あまりにも長い間、吸血ダニのような外敵が来なくなると、どうも敵味方の区別があやふやになってしまうようである。その末に、本来無害であるはずの花粉を見ただけで、マスト細胞の元へ駆けつけ、いらぬ爆破を引き起こしてしまうのようになったのである。

こうして、本来自分の身を守るはずであった免疫システムが誤作動を起こし、人間は鼻水ジュルジュルになってしまうのだった。



「人間は環境を早く変えすぎた」

ヨセフ・リーデラー博士(ザルツブルク大学)は、そう言う。

「私たちの免疫システムが、その速さについていけない」



その証左か、世界一の先進大国であるアメリカが今、最もアレルギーに悩まされる国となっている。

「いかなるアレルギー疾患についても、アメリカ国外で生まれた子供のアレルギー疾患率(20.3%)に比べ、アメリカ国内で生まれた子供の疾患率が著しく高かった(34.5%)」

とことん殺菌にこだわるアメリカ。その清潔な環境に10年も住めば、アメリカ国外で生まれた人にさえ、アレルギー疾患の脅威は高まる。

「アメリカに移って在住歴10年以上の子供は、湿疹や花粉症を発症する可能性が『著しく高まる』。湿疹では約5倍、花粉症では6倍以上の発症率だった(アメリカ在住歴2年の子供との比較)」






◎疑問



哺乳類としての歴史、そして人類としての歴史。

その2億年もの間、きっと我々はダニやシラミを身体中にくっつけたままで過ごしてきたのだろう。

だが昨今、いきなり清潔になった。魑魅魍魎は雲散霧消し、北面の武士たちも大いにとまどったことだろう。



そもそも、マスト細胞を爆破させて身を守るというシステムは、どこか自爆的であり、「肉を斬らせて骨を断つ」ごとく、勝つ側にもそれなりの犠牲を強いるものであった。それは、それだけかつての戦いが熾烈だったからでもあろう。

だが清潔になりすぎ、外敵の少なくなった今、マスト細胞の爆破はその身を傷つけるばかりである。



「私たちは今、究極の衛生状態を追求して、人間以外のあらゆる生き物を排除していっています。これでいいのでしょうか?」

ヨセフ・リーデラー教授(ザルツブルク大学)は、そんな疑問を投げかける。

潔癖を愛するようになった人体は今、ほかの生物のみならず、花粉や食べ物までをも排除しようとしているのである。






◎南京虫



吸血ダニは幸いにも、今はそれほど手強い敵ではなくなっている。

ところが、叩けば叩くほど強くなる虫もいる。たとえば南京虫(トコジラミ)がそうである。



この小さな盾を背負ったようなカメムシの一種は、「南京」と名がつくように海の外からやって来た。南京という都市の名誉のために言えば、当時の日本人は舶来の珍しいもの、もしくは小さきものに「南京」と名をつけることを好んだ(南京錠、南京豆など)。

南京虫(トコジラミ)には羽がないのだが、人の身体やその持ち物にしっかとしがみついて海を渡り空を飛ぶ。日本に初めてやって来たのは、幕府が買い入れた外国の古船に乗ってのことだったという。

それ以来、爆発的に数を増やした南京虫。明治期に日本の奥地を旅したイザベラ・バードは、その行く先々で南京虫に血を吸われまくり、ほとほと閉口したようだ(日本奥地紀行)。







不衛生なところが大好きな南京虫。それゆえ、この虫に取り付かれることは非常に不名誉なことである。そのため、先進各国はこの虫を殺すのに躍起になった。

そして開発されたDDT(ジクロロジフェニルトリクロロエタン)。この白い粉末を頭からかぶれば、ノミ・シラミ、そして南京虫も生きてはいられなかった。



ドイツで合成された化合物DDTは、アメリカで諸手を上げて大歓迎された。当時のアメリカでは日本との戦争により「除虫菊」の供給が途絶えており、それに代わる殺虫剤が必要とされていたのである。このDDTは殺虫剤としても効果抜群であった。その上、安価。

第二次世界大戦後、日本を占領したアメリカ軍GHQは、極度に不衛生だった日本の国土を、DDTの白い粉末によってすっかり清めた。

そしてそれが、軍国主義と同様、明治期に隆盛を極めた南京虫の運命にも終止符を打った。この1950年代以降、日米のみならず、世界の先進国では南京虫が根絶された、かに見えた。






◎帰ってきた南京虫



出る杭として打たれた南京虫。だが、彼らは打たれるほどに強さを増すタイプだった。

DDTという強力な殺虫剤は、世界の南京虫を即死させたわけだが、中には死ぬに死なないダイ・ハードな連中が確かにいた。

DDTが世界に普及するのは1940年代だが、はやくも同年代後半には、DDTに対する「耐性」を獲得した個体が、日本の爆撃したパール・ハーバー(ハワイ)で確認されていた。



ところで人類の方はというと、この強力すぎる殺虫剤DDTが人体に「神経毒」として作用することが明らかになった。長き食物連鎖を経てDDTが生体濃縮され、それが巡り巡って人の口に入ってしまうのだった。

1960年代に出版された名著「沈黙の春(レイチェル・カーソン)」には、その危険性が克明に描き残されている。そしてついに、1970年代にはDDTの使用が禁止されることになる。







それでもまだ、南京虫は鳴りを潜めていた。

ふたたび南京虫問題が浮上するのは、ここ最近、半世紀ぶりのことである。しかも、帰ってきた南京虫はもう以前の彼らではない。もはや、DDTドンと来いである。



南京虫を殺そうとDTTを使った人間は、肉を斬ったつもりで骨を断たれた。ゆえにもう、それは使えない。その代わりに「ピレスロイド」という新たな化合物が南京虫の殺虫剤として使われている。だが、どうも効きが悪い。

というのも、南京虫がDDTによって獲得した耐性には「交差耐性」というものがあり、似た物質であれば未知のものにも対抗できる性質があったのである。「ピレスロイド」という目新しい薬品にさえ、すでに南京虫は1万倍もの耐性を持ち合わせていたのである。






◎不衛生と清潔さ



じつは、南京虫との腐れ縁は、有史以前にさかのぼる。

南京虫の祖先は「コウモリ」に寄生していたようで、そのコウモリは、洞窟に暮らし始めた人間と居をともにしていた。

殺虫剤がなかった時代、人間は南京虫にとっての格好の餌食であった。古代エジプト時代の遺跡からも南京虫は発見されている。



この強き生き物は、50℃の高温に耐え、冷凍庫の中でも数時間は生き延びる。6ヶ月くらいは食わずとも平気で、中には3年も飲まず食わずで生き延びたという例さえある。

どう考えても、弱き人間に勝ち目は薄い。知恵を絞って編み出した渾身のDTTは、我が身に跳ね返ってきたという有様である。



不衛生の象徴ともされる南京虫。だから清潔さは、唯一最大の武器である。

とはいえ、アレルギーの項で見てきたように、その清潔さもが仇になってしまうという、人間のか細さ。

まるで王手飛車取りに頭を悩ますかのようである。






◎細胞以下の世界



生物の形が、人間の形をとるにせよ、吸血ダニや南京虫の形をとるにせよ、その水面下で争っているのは、タンパク質や酵素といったレベルの物質である。

吸血ダニが放つ酵素に、人間はタンパク質「IgE」で対抗したのだし、南京虫が殺虫剤を解毒したのもやはり酵素である。



生物たちの体内では、そうした外界の変化に対応・適応する対策が日夜練られており、生命の進むべき方向を模索しているのである。それが「生命の理(ことわり)」の一つであろうし、時に進化と呼ぶものでもあろう。

たいてい、そこには「排除」という選択肢は薄い。むしろオプション(選択肢)を増やすことのほうが有効であることも多い。

たとえば、南京虫の異常な強さを支えているは、その内に養っている共生細菌たちだったりもする。まるで、役立たずとも思われる食客も喜んで受け入れた孟嘗君のように。



生命にとって、何が吉となり何が凶となるか、事前に知らされることはない。もしかしたら、不衛生が吉となり、清潔さが凶となるかもしれない。

いずれにせよ、そうした表層の出来事は、細胞以下のレベルにとって梢を揺らす風にすぎない。



ヨセフ・リーデラー博士(ザルツブルク大学)が「人間は環境を早く変えすぎた」と言う通り、表面的な生活は明らかに激変した。

長い年月をかけて降り積もった雪は、その硬く締まった表面に突然の大雪を受けると、その表層がごっそりと雪崩れてしまうことがある(表層なだれ)。

ある意味、人類が急速に積み上げてきた現代社会には、そんな危うさも内包されているのかもしれない。



「アリの一穴」という言葉は、どんな巨大なダムですら、アリの開ける小さな一穴に崩壊する恐れがあることを示している。

南京虫がその一穴となることもあろうし、鳥インフルエンザやコロナウイルスがそれとなる危険もあるだろう。






◎慣れ



今、医療の現場では、免疫システムを誤作動しないように誘導する治療が試みられている。

たとえば、花粉症の患者に、あえて花粉のエキスを少しずつ体内に入れていく(舌下免疫療法)。また、卵アレルギーの子どもに少しずつ卵を与えていく。

「これは異物ではありませんよ、ということを身体に教え、慣れさせていくんです」







半世紀前に比べ、生活環境の格段に良くなった先進国。その過程はおおむね、人間の生活環境から不要なものを排除していく道のりだった。

しかし今、その排他的な方法では要らぬ病を人間に引き起こしてしまうことに、われわれは気づいている。そして、新たな折り合いを模索し始めている。それまでは不要と切り捨てていたものを、少しずつ取り入れながら。



現代社会という美しく真新しい雪には、多少のシミも必要なのかもしれない。

過去の人類の歴史は、そんなシミばっかりだ。しかし、それらは何も汚いものではなく、生をつなぐためには無くてはならないものだったのだろう。

なにかが不要と分かるのは、それが終わってしまった時だけである…






(了)






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出典:
NHKスペシャル「病の起源 プロローグ」
日経サイエンス2012年5月号「帰ってきた南京虫」

posted by 四代目 at 09:16| Comment(0) | 昆虫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする