「ある朝、グレゴール・ザムザが気がかりな夢から目ざめたとき、自分がベッドの上で『一匹の巨大な毒虫』に変わってしまっているのに気がついた」
フランツ・カフカの小説「変身」は、主人公が虫に変身してしまうという奇妙なシーンから始まる。
「彼は甲殻のように固い背中を下にして横たわり、頭を少し上げると、何本もの弓形にわかれてこんもりと盛り上がっている自分の茶色の腹が見えた。腹の盛り上がりの上には、掛け布団がすっかりずり落ちそうになっていて、まだやっともちこたえていた。普段の大きさに比べると情けないほどか細いたくさんの足が、自分の目の前にしょんぼりと光っていた」
「おれはどうしたのだろう?」と彼は思った。夢ではなかった。
窓の外の陰鬱な天気は、彼をすっかり憂鬱にした。
「もう少し眠り続けて、馬鹿馬鹿しいことはみんな忘れてしまったら、どうだろう」と考えたが、全然そうはいかなかった。
■変態
ある朝、目を覚ますと、それまでの自分とは「まったく違う生き物」になっていたとしたら?
それは昆虫などの身の上には至極当然のように起きる「変態」と呼ばれる現象である。毛虫はチョウになり、オタマジャクシは蛙になる。
「変態とは驚くほど不思議な現象です。それまでの成長をやめ、いったん身体をバラバラに解体し、『まったく違う生物』を再構成するかのようです」とデビッド・マローンは語る。
今からおよそ2,000年前、ローマの詩人・オイディウス(紀元前43〜紀元17年)は、神話を元にした壮大な詩をつくった。それは「Metamorphoses(メタモルフォセス)」という物語で、狼男に変身した男や、樹に姿を変える女の話などが描かれている(邦題『変身物語』)。
それから後の世、このメタモルフォセスという言葉は「生き物が姿を変える現象」、すなわち、幼虫からサナギ、そして成虫へと変化する「変態」を意味するようになった。
デビッドはこう考える。
「変態という概念には2つの意味があると思います。生物学的な意味と、小説などに見られる『隠喩的な意味』です」
そして、こう問う。
「姿形が変わった人間の物語は、単なる喩え話なのでしょうか? それとも、もっと深い別の意味があるのでしょうか?」
■チョウ
チョウの変態では、卵から生まれた毛虫がサナギを経てのち、美しい羽をもつ蝶となる。幼虫である毛虫と、成虫である蝶は似ても似つかぬ。しかしそれでも両者は明らかに同じ生き物、遺伝情報はまったく同じである。
鈍重な毛虫が軽やかなチョウへと変態を遂げるためには、「脱皮」を繰り返す必要がある。
それを昆虫学者スチュアート・レイノルズはこう説明する。「毛虫はつねに鎧(よろい)で身を守っているようなものです。成長するには今の皮を脱ぎ捨てて、より大きくなる必要があります。皮を破って這い出した毛虫は、古い皮の下で準備されていた新しい身体を膨らませます。まるで空気を吸い込んで膨らませるようにね」
次の段階であるサナギの、そのまさに一歩手前の脱皮を控えた毛虫の中身は、すでにサナギになっているという。その外見がまだイモ虫のままだとしても。
毛虫の体内で密かに行われるサナギの形成、これこそがチョウへの「変態」の始まりである。
そのキッカケとなるのは「幼若ホルモン」。
「幼若ホルモンが分泌されている間は、幼虫は幼虫のままでいますが、分泌されなくなると変態がはじまるんです」と、昆虫学者スチュアートは言う。
幼若ホルモンが止まると、それまで一心不乱に食していた葉っぱから毛虫は不意に口を離す。そしてムズムズする身体を落ち着かせる場所を探し当てると口から糸を吐き、そこにお尻の先をつけて仰向けにブラ下がる。
そして始まるのが、幼虫としての「最後の脱皮」。慣れ親しんでいた古い皮は脱ぎ捨てられ、体内で形づくられていたサナギが姿を現す。
次にサナギの体内で起こる変態は、まさに劇的。呼吸器官から何からほとんどが、その構造を完全に変えてしまう。頭も眼も脚も、すっかり新しくしてしまう。そして何より、生殖能力を備えることになる。
それでも変えないのは個体特有の遺伝情報(DNA)。つまり、姿形をすっかり変えようとも、個体としてのアイデンティティを変えることは一切ないのである。
古来より、人々は毛虫が美しいチョウへと変化する現象に「魔法のような力」を感じてきた。ヒンズー教の神・ブラフマーは、幼虫がサナギになりやがて蝶に姿を変えるのを見て、再生を繰り返す「輪廻転生」を説いたといわれる。古代ギリシャでは、チョウと魂はどちらも「プシュケ」と呼ばれて、結び付けられて考えられてきた。
■生き方の変化
なぜ、生き物は変態するのか?
一つの生き物に「2つの姿」がある意味とは?
「毛虫でいることの問題点は、動き回るのが難しい点です」と昆虫学者のスチュワートは話す。
「この辺りの植物を見て下さい。葉っぱは食べ尽くされ、次の世代の分はほとんど残っていません。もし繁殖するなら、もっと食べ物のある別の場所に行ったほうがいいと思いませんか? そのために、毛虫は羽を持つことにしたわけです」
ひたすら同じ場所で食べ続ける幼虫に対して、成虫は飛び回ってエサ場を探したり繁殖相手を見つけたりできる。そもそも、両者はその「生き方」がまったく異なる。
「身体の変化は確かに劇的です。でも一番大事なのは、『生き方が変化すること』なんです」
カフカの小説「変身」において、虫に変身してしまう主人公のそれまでの生き方は、あくせくと働き詰めるセールスマンだった。虫になってしまった彼は、それをこう嘆く。
「あぁ、なんという骨の折れる職業をおれは選んでしまったんだろう。毎日、毎日、旅に出ているのだ。自分の土地での本来の商売におけるよりも、商売上の神経の疲れはずっと大きいし、その上、旅の苦労というものがかかっている。汽車の乗り換え連絡、不規則で粗末な食事、たえず相手が変わって長続きせず、決して心から打ち解け合うようなことのない人付き合い。まったく忌々しいことだ!」
主人公グレゴール・ザムザは、その飛び回るような仕事から一転、狭い部屋でモゾモゾと這い回ることしかできない虫になってしまう。チョウへの変態とはまったく逆に。
「まあ、希望はまだすっかり捨ててしまったわけではない。両親の借金をすっかり店主に払うだけの金を集めたら――まだ五、六年はかかるだろうが――きっとそれをやってみせる。とはいっても、今のところはまず起きなければならない。おれの汽車は五時に出るのだ」
そして、タンスの上でカチカチ鳴っている目ざまし時計のほうに眼をやった。
「しまった!」と、彼は思った。もう六時半で、針は落ち着き払って進んでいく。
身に染み付いたセールスマンの性(さが)か、彼は虫に成り果てしまったことを自覚しながらも、まだ仕事に行く気満々であり、是が非でも両親のこしらえてしまった借金を返さなければならないと、意気込んでいるのであった。
自分の生き方がもうすっかり変わってしまったと観念するのは、もっと後のことである。
■ウニ
昆虫の変態は、およそ3億年の歴史をもつといわれる。
その変態が進化したのは昆虫よりもさらに昔、海の中のことである。
ウニは変態する前、まったく違う様子をしている。その幼生は、顕微鏡でしか見えないほど微小な透明質の物体で、海面に漂うプランクトンを餌にしている。
その変態は毛虫のそれよりも過激である。幼生の段階でやはり、将来成体の元となる構造は育っているのだが、それが文字通り、身体の中から飛び出してくる。
「飛び出す?」
「ええ。数時間もすれば、管足(かんそく)と呼ばれる器官が幼生の身体を突き抜けてね」と、パオラ・オリヴェーリ博士は言う。
管足というのは、将来ウニのトゲとなる部分であが、それが伸びてくると、幼生の身体の大部分は成体のウニに吸収されてなくなってしまう。
「まるで違う生物が身体の中から飛び出して来るような感じです。チョウなどの変態とはまったく違います。ほとんどの生物の場合、細胞などは変態した後も残りますが、ウニの場合は違います。変態すると、幼生は吸収されたり死んだりしてもはや存在しません」と、博士は語る。
■意志
人間にも、変態と呼べるほどの「劇的な変化」は起こり得るのだろうか?
カフカの小説「変身」とは別に、そのことをテーマとした作品に、ロバート・ルイス・スティーブンソンの小説「ジキル博士とハイド氏」がある。善良なジキル博士が薬を飲んで、邪悪なハイド氏に変身する物語である。
この変身は強制的なものではなく、博士自らが望んだものという点で、カフカの「変身」とは異なる。
現代ドイツ文学の研究者、ベアーテ・ミュラーはこう解説する。
「主人公のジキル博士は立派な人物として知られていますが、そのままでは自分が望む人生を完全には手に入れられないと感じ、邪悪な面をもつ『もう一人の自分』ハイド氏を生み出します。ジキル博士は、人間は一つの顔だけをもつのではなく『二面性がある』と気づき、どちらの面にも強く惹かれたのです。彼は一方では善人でありたいと願い、もう一方では醜い本能や欲望を抱えていました」
こうした小説は、何を伝えようとしているのか?
「それは人間が『変化に対して相反する感情をもっている』ということではないでしょうか。私たちは変化を好むと同時に、変化に飲み込まれることを恐れているからです」
カフカの小説「変身」の主人公グレゴール・ザムザは、自らは望んでいなかったにも関わらず、虫となってしまった。一方、ジキル博士は自分の意志で変化を求めた。
変態する自然界の生物らは、変わることを望んでいるのか否か? そんなことを問題とするのは脳が肥大化しすぎた人間だけかもしれない。
だが、少なくとも池のカエルの変態には多少なりとも「本人の意志」を感じざるを得ない。
■モノ言うオタマジャクシ
泳ぐオタマジャクシが、跳ぶカエルに変態する現象はよく知られている。
だが、オタマジャクシがカエルになる時期を、自ら見計らっているとはあまり考えたことがない。一般的には、時計仕掛けのように、その時が来ればカエルになると思われている。
しかし実際には、それぞれのオタマジャクシによってカエルに変態する時期には大きな差がある。
「どれくらいの差が出るんですか?」
「かなりの差です。早いものは夏の初めくらいから変態をはじめます。ところが、同じ池で一冬まるまるオタマジャクシで過ごし、翌年の春に変態したものも幾つか観察されています」
そう話すのは、網を手にした行動生態学者、パトリック・ウォルシュである。
「オタマジャクシは、今いる水中の環境が暮らしやすいかどうかによって、変態する時期を自分で決めます。それぞれが決断するんです」とパトリックは言う。
彼は、オタマジャクシは変態する時期と速度を「自分で選んでいる」と考えている。池のどの部分で過ごしているかで、その決断は変わる。
「同じ池でも場所によって日光の量やエサの量、敵に捕まる危険性は異なります。どこに棲息するかでオタマジャクシで過ごす期間の長さが変わるのです」
暖かな日差しを受ける水面近くでは、変態が早まりやすく、反対に、池の底の冷たい水では遅くなる。早く変態すると小さなカエルにしかなれず、遅くまでオタマジャクシでいると大きなカエルになれる。
敵に襲われるリスクを考えたら、大器晩成、長くオタマジャクシでいて、大きなカエルになった方がよい。だが、水中が安全とも限らない。生まれた場所がもし水たまりのような干上がりやすい場所だったら、急いでカエルにならなくてはならない。
「オタマジャクシは『水かさの変化』を察知できるんです」とパトリックは言う。
「水かさが急激に減ってくると、オタマジャクシは発育のスピードを上げて、すぐカエルになります。カエルになる前に水がなくなったら死んでしまいますから」
その逆に、水もエサもふんだんにあるのなら、オタマジャクシは長くその安楽を享受することになる。
そうした安全と危険に関する情報は、オタマジャクシの仲間同士で共有されるという。
「オタマジャクシが怪我をしたり食べられたりすると、化学信号を発し、仲間はその警告信号に反応して変態の時期を早めることがあります。ここに留まるより、カエルになって陸で暮らすほうが安全だ、とね」
もし、オタマジャクシがカエルになる時期を自ら決断しているのだとしたら、限定的とはいえ「生き物に生き方の選択が委ねられている」ということになる。人間が自らの生き方を選べるように。
■バッタと環境
人間はその生き方を変えても、外見が劇的に変化することはない。
それと同様、ある種のバッタはその外見を変態ほど劇的には変えずに、その生き方だけを180°変えてしまう。
外見の変化は、その色のみに留まる。
緑の状態にあるバッタは一匹狼。単独で行動し、群れることは決してない。一方、黒く変色したバッタは大群をなす。空が真っ黒になるほど群れに群れて、農作物などを容赦なく食い荒らす。
「世界にはおよそ4,000種のバッタがいますが、そのように習性が変化するのはわずか13種ほどです。単独で行動していたバッタが、群れをなすように変化するんです」と、神経生物学者のマルコム・バローズ博士は言う。
「緑のバッタを、群れをなす黒いバッタに変える方法は判っています。後ろ足を数時間、コチョコチョとくすぐってやるんです。虫をくすぐるのはいい暇つぶしになりますよ(笑)」
ユーモアを交えながら、バローズ博士はその仕組みを説明する。
「バッタ同士は集まると身体が触れ合います。中でも特に接触するのは『後ろ足の先端』です。そこの何時間か刺激が続くと、それまで他のバッタを避けていた緑のバッタが、積極的に仲間を求める黒いバッタになるんです」
「砂漠などの乾燥した地域では、雨が止むと食べ物が不足します。バッタは残った食べ物を奪い合い、身体が触れ合います。そうして刺激を受けたバッタが群れをなすようになるのです。新たな食料を求めて飛び回るうちに、数百万匹もの大群になるんです」
バッタの習性を変える要因は「セロトニン」であることを、バローズ博士は突き止めた。
バッタは後ろ足に刺激を受け続けると、脳細胞内のセロトニンが次々と出てくる。それがバッタの生き方を変える信号となるであった。
このバッタの場合、変わるのはその生き方である「習性」が先である。習性が変化した後に、身体の色がそれにつられるように変化していく。
そしてまた、戻ることもできる。長い間隔離された黒いバッタは、いずれ孤独な緑バッタへと戻っていく。
こうした点において、否応なく変態するチョウ、変わる時期は選べても元には戻れないカエルとは全く異なっていることがわかる。
■変態の定義
このようなバッタの変化を「変態」と呼んでもよいのだろうか?
生き方は変われど、その外見の変化はささやかなもので、さらには元に戻ってしまうこともある。
それに関して、バローズ博士はこう語る。
「私にとって、変態はもっと広い定義をもちます。ある個体が同じ遺伝情報をもつ他の仲間と『まったく異なる振る舞い』をしたら、それも変態に含まれると考えます」
生き方を変えること、習性の変化もバローズ博士は変態の一種だと考える。
「単独で行動して生きていたものが何百万という群れをなして、まったく違う生き方をするようになるのですから。バッタの場合は、それが変態だと言えます」
もし、バッタのような劇的な習性の変化をも変態に含めるのだとすれば、周囲の状況に合わせて自分を変える人間もまた、変態をする生き物ということができるようになる。
たとえば戦場に駆りだされた兵士は、日常と同じ振る舞いをするだろうか? まったく違う生き物のように考え、行動させられるのではなかろうか。まるでバッタが群れをなすように。
「兵士は人生の一時期を過酷な戦場で過ごし、家に戻ればまったく違う生活を送ります。これは、生き方における大きな変化、変態と言えるかもしれません」
自動車から飛行機に乗り換える人間はどうか? それは地をはうイモ虫から、天を舞うチョウに姿を変えるようなものだ。その核心たる遺伝情報はそのままに、その乗り物だけを変えるのだから。
科学技術の発展によって、人間はその生き方を変えさせられてきた。移動手段は自動車が発明され、飛行機へと進化した。かつては新聞でしか得られなかった情報が、テレビの普及、そしてインターネットの普及へと拡大した。
それらがなかった時代と、ある時代では、そこに生きる人間はもはや同じ種とはいえないほどに生活スタイルを変えてしまった。ただ、外見をバッタのように変えることはなかったが。
■変化に抗う
「変化はやがて、変化を作り出した私たち自身を支配し、圧倒するようになりました」
人間は自分の生きる社会を自ら形成しながら、同時にその社会によって「個人としての自分」を変えられてしまった。
だが、人間は変化に対して、他の生き物たちとは決定的に違う点をもつ。
まず、人間は「変化に抗おうとする部分」を常にもつ。
「人間は自分が変わったことに気づきます。そして変化を恐れます。人間は変態に対して底知れぬ不安を感じるのです」
毛虫が変化を恐れてイモ虫の鎧を脱ぎ捨てられないということはないだろう。だが、恐れを知る人間はその鎧に押し潰されてしまうこともあるかもしれない。
哲学者、レイモンド・タリスはこう語る。
「人間は、変わりたい、新しいことをしたいと思う一方で、『今の自分を失いたくない』という相反する気持ちを抱き、そうしたせめぎ合いに悩まされます。今の自分を失うということが途轍もない変化に思えて恐ろしくなるんです」
この点、人間は変態に「負の側面」をみる唯一の生き物と言えるのかもしれない。
毛虫は変わることに逡巡しない。その変化に良いも悪いもない。ただその宿命に従うまでである。だが、変化の前後を知ることができる人間は、変化というものをずっと複雑に考える。そして時には後悔の念にも苛まれる。
幸にも不幸にも、人間は他の生き物たちよりもずっと選択の余地が広い。幸いなのは、その生き方を選べることであり、不幸なのは、変化に悩む性質をもつことである。何が最良の選択であったのかは、死んでもわからないかもしれないのに。
■人間の心
カフカの小説「変身」で主人公グレゴール・ザムザは、不幸にも虫になった。
だが、そのおかげで嫌だった仕事からは解放された。しかし、仕事を失ったことは新たな悩みの種ともなってしまう。自分が働けなくなってしまい、残された家族はいったいどうなるのか?
そんな彼の苦慮とは裏腹に、家族らは虫になったグレゴールの扱いにほとほと困り果てる。彼は、這ったあとに粘液を残し、天井に恍惚とブラ下がっている奇っ怪な虫でしかなかったのだから。
いずれ家族の思いは、虫に成り果てたグレゴールへの憐憫から、厄介者を見る目に変わる。
虫となったグレゴールの世話を一身に引き受けていたのは妹のグレーテだったが、いずれ部屋の掃除はおざなりになり、敵意をむき出しにしてくる。
「こんな怪物の前で、兄さんの名前なんか言いたくはないわ。だから、私たちは”こいつ”から離れようとしなければならない、とだけ言うわ。”こいつ”の世話をし、我慢するために、人間としてできるだけのことをやろうとしてきたじゃないの」
姿を虫に変えたグレゴールは、妹の言葉を「人間の心」で聞く。姿は変われど、その心は最後まで変わることはなかったのである。
変わったのは周りの人間たちの方であった。その奇妙な姿に、家族たちですらすっかり心を変えてしまったのであった。
「”あいつ”は、いなくならなければならないのよ! ”あいつ”がグレゴールだなんていう考えから離れようとしさえすればいんだわ。そんなことをこんなに長いあいだ信じていたことが、私たちの本当の不幸だったんだわ」と、妹グレーテはすっかり兄への同情を失ってしまう。
■ヴァイオリン
この小説の印象的なシーンに、妹グレーテがヴァイオリンを弾く場面がある。
妹は弾き始めた。
グレゴールは演奏にひきつけられて少しばかり前へ乗り出し、もう頭を居間へ突っ込んでいた。
グレゴールの隔離されていた自分の部屋は、居間の隣に位置していたが、虫になって以来、彼は家族のことを顧慮して居間に出てくることはついぞなかった(それが彼の誇りだった)。なのに、妹のヴァイオリンの音色にその自らの禁を犯してしまっていた。
妹はとても美しく弾いていた。
彼女の顔は少しわきに傾けられており、視線は調べるように、また悲しげに楽譜の行を追っている。
グレゴールはさらに少しばかり前へ這い出し、頭は床にぴったりつけて、できるなら彼女の視線とぶつかってやろうとした。
音楽にこんなに心を奪われていても、彼は動物なのだろうか。
グレゴールは兄として、妹を音楽学校に入れてやることが積年の夢であった。それはお金のかかることであり、借金に苦しむ身では言い出すこともはばかれることであった。
だが、言わずともグレゴールの心は固かった。死に物狂いで働き続けていたのは、その資金をなんとか捻出したいという心からの想いがあった。
もし、それを妹に打ち明けられる時がくれば、「妹は感動の涙でわっとなきだすことだろう」とまで、グレゴールは夢想するのであった。
■最期
だが、このヴァイオリンの夜が、グレゴールにとっての最期の夜となってしまう。
ヴァイオリンに夢を見ながら、ついつい居間にまで這い出してしまったことが、家の下宿人から著しい不興を買ってしまい、ついには家族らを激高させ、あの優しかった妹の口からも罵詈雑言が吐かれるようになるのである。
それでも、グレゴールは家族から仕打ちを仕方のないことだと理解していた。背中にめり込むほど打ち付けられたリンゴの炎症とて、彼はそのリンゴが腐り果てるまで受け入れていた。
感動と感情のことを込めて、家族のことを考えた。
自分が消えてしまわなければならないのだという彼の考えは、おそらく妹の意見よりももっと決定的だった。
こんなふうに空虚な満ち足りたもの思いの状態を続けていたが、ついに塔の時計が朝の三時を打った。窓の外では辺りが明るくなりはじめたのを彼はまだ感じた。
それから、頭が意に反してすっかりがくりと沈んだ。彼の鼻孔からは最後の息がもれて出た。
翌朝、手伝いの婆さんは長い箒でグレゴールの身体を突っつき、その反応のないことに眼を丸くて、そして叫ぶ。
「ちょっとご覧なさいよ。のびていますよ。すっかりのびてしまっていますよ!」
「死んだの?」と、グレゴールの母は恐る恐る手伝いの婆さんに尋ねる。
「これで、神様に感謝できる」と、グレゴールの父。
妹グレーテは「ご覧なさいな。なんて痩せていたんでしょう。もう長いこと全然食べなかったんですものね。食べものは入れてやった時のままで出てきたんですもの」と言い、死骸から眼を離さない。
「もう古いことは捨て去るのだ」
グレゴールの父はそう言い、それから家族ともども家を出る。家族はその日を休息と散歩とに使おうと決めたのだった。
暖かい陽の降り注ぐ電車の中で、三人になった家族は「未来の見込み」をあれこれと相談し合う。
これから先のこともよく考えてみると、決して悪くはないということがわかった。
ことにこれからあと大いに有望なものだった。
ザムザ夫妻はだんだんと元気になっていく娘をながめながら、頬の色も蒼ざめたほどのあらゆる心労にもかかわらず、彼女が最近ではめっきり美しくふくよかな娘になっていた、ということにほとんど同時に気づいたのだった。
目的地の停留場で娘がまっさきに立ち上がって、その若々しい身体をぐっと伸ばしたとき、老夫婦にはそれが自分たちの新しい夢と善意とを裏書するもののように思われた。
(了)
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フランツ・カフカ
変身 (新潮文庫)地球ドラマチック「生きものはなぜ姿を変えるのか ”変態”の不思議」