2011年09月17日

日本の誇り「真田一族」の堂々たる生き様よ。

「当世の英雄、真田にあらずして誰ぞや」

信州に起こった「真田一族」の名声は、伝説的な魅力となって現代にまで語り継がれている。

とりわけ、真田幸村の名は神格化されるほどに人々に敬(うやま)われることとなった。



真田一族の名が歴史上明らかに現れるのは、「真田幸隆」からである。

信濃の豪族の一人であった幸隆は武田信玄に帰順し、北方の上杉謙信との戦いの最前線で活躍を続けた。最大の激戦となった川中島の合戦において、真田幸隆は上杉本陣への夜襲に名を連ねている。

名将ぞろいの武田家中にあって、真田幸隆は「攻め弾正(だんじょう)」の異名のもとに一目置かれる存在であったと言われている。



その「攻め弾正」が戦の旗印としたのが「六文銭」。

sa6.jpg


六文銭とは三途の川の渡し賃であり、「不惜身命」、身命を捧げて惜しまないという強い決意を意味している。

真田を語るに、これほど格好の旗印は他にあるまい。



幸隆の後を継ぐのが「真田昌幸」。

武田信玄は、昌幸の才を父・幸隆に勝るとも劣らぬと高く評し、「我が眼」として重く用いたという。

sa5.jpg


しかし、武田信玄の死後、武田家は織田信長の猛攻の前に滅亡。真田家は織田信長の配下に入る。しかし、その織田信長も暗殺され、真田家は宙に浮く。



そんな真田家に徳川家康は大軍を差し向ける。

徳川軍7,000、対する真田軍は3分の1以下の2,000。

徳川家康は「根切緊要」と息巻き、真田家を皆殺しにするつもりであった。

ところが、圧倒的劣勢と思われた上田城での一戦は、あっさり「真田家の勝利」に終わる。

強兵でなる徳川軍としては珍しくもキレイに負けた戦であった。真田軍の死傷20〜30人に対して、徳川軍は1,300人もの死傷者を出したと伝わる。

sa4.jpg


真田昌幸が「戦国きっての謀将」と呼ばれる所以(ゆえん)である。



関ヶ原の戦いにおいても、真田昌幸の上田城は再び徳川の大軍に取り囲まれる。

次期将軍となる秀忠軍3万8,000である。真田軍はやはり2,000。

さしもの謀将といえども勝利は望めない。昌幸は言を二転三転させながら、秀忠軍を足止めし、その結果、秀忠軍は関ヶ原の戦いに間に合わなくなってしまった。



この時の籠城中に珍事が起こる。

秀忠の家来の島田兵四郎という男が、敵である上田城(真田軍)の門前に一人で現れ、「急いでおりますゆえ、城内を通してくだされ」と言うのである。

兵四郎は、交戦中の敵城を通って近道をしようというのである。当然断られるだろう。ところが、昌幸はこの男をたいそう面白がり、なんと門を開けて通してやるのである。

敵城に入った兵四郎はまた素っ頓狂なことを言い出す。「帰りも通りますゆえ、また開けてくだされ。」

その言に違わず、兵四郎は帰りもヒョウヒョウと敵城へやって来た。昌幸は自ら出迎え、わざわざ城内を案内して回ったという。

昌幸は兵四郎の後ろ姿を見送りながら、「なんとも肝っ玉の太い武士であることか」といたく感服していたという。

兵四郎も兵四郎なら、昌幸も昌幸である。天然ボケの兵四郎と謀将の昌幸、思わぬ邂逅である。



さて、いよいよ「真田幸村」の登場である。

彼は「大阪の陣」までは無名といってよい。ところが、この戦(大阪の陣)を経て、その名を不朽のものとすることになる。



関ヶ原の敗戦以来、幸村は父・昌幸とともに紀州九度山にて細々と暮らしていた。

時は流れ、父・昌幸はこの世を去る。そこに豊臣氏からの使者が現れ、幸村は大阪城へと向かうこととなった。

sa2.jpg


幸村の軍勢は、鎧を赤で統一する。この「赤備え」と呼ばれる装束は、勇猛な武田軍中にあって、「甲山の猛虎」と謳われた飯富虎昌以来の伝統であった。

飯富虎昌の後を継ぐのが、山県昌景。この両者の武勇があまりにも秀でていたため、「赤備え」は最強部隊の証となったのである。

そして幸村の赤備えも、その名をさらに高めるほどの戦ぶりを見せるのである。



真田が大阪城へ入ったという一報は、家康を震撼させる。

家康は思わず「親の方か?子の方か?」と問い正したという。

この時、「親の方」である昌幸はとうに死んでいた。しかし、昌幸に何度も苦杯を舐めさせられた家康は、彼の死すらも疑っていたというのだ。昌幸はどこまでいっても謀将の名に恥じない。

入城したのが「子の方」であると知るや、家康の震える手はようやく落ち着いたという。しかし、当の合戦では「子の方」であっても「真田がいかに恐ろしいか」を思い知らされることとなる。

この後、家康は念のために幸村の調略を試みる。その条件は「信濃一国」という破格のものだったにも関わらず、幸村が家康の方を向くことはなかった。



徳川と豊臣の最後の決戦となった「大阪夏の陣」。

幸村の味方する豊臣軍は劣勢に次ぐ劣勢である。

その劣勢にあっても、幸村の赤備えは他を圧していた。道明寺の戦いにおいては伊達政宗軍に大打撃を与え後退させている。「関東勢100万とはいうが、男は一人もいないのか」とは、この時の幸村の言葉とされている。



しかし、豊臣軍の劣勢は覆いがたい。

幸村は観念する。「もはや戦は終わった。あとは快く闘うのみ。狙うは家康の首、ただ一つ」。

そう言うなり、家康の本陣に真一文字に切り込んだ。

「その速(すみ)やかなるは、疾雷の耳を覆うに及ばざるが如し」(大阪御陣覚書)



勝ち戦と思い込んでいた徳川軍は、幸村の壮絶な覇気に押され、完全に浮き足立つ。

赤い一閃は、屈強な家康の旗本勢を真っ二つに切り裂き(御旗本、大崩れ)、その勢いのまま、幸村は家康に肉薄。

家康を守るはずの旗本までが逃げ出し、家康自身も本陣を捨てざるをえない。さすがの家康も一時は切腹を覚悟したとも伝わる。



家康が本陣に攻めこまれて「馬印を倒された」のは、生涯に二度しかないという。

一度目は、若き家康が武田信玄の騎馬軍団に駆逐された「三方ヶ原の戦い」。

そして、二度目がこの真田幸村の「大阪夏の陣」における突撃である。

家康は期せずして、二度までも武田家ゆかりの武将に「馬印を倒された」ことになる。



この時の幸村の奮戦ぶりが日本中で激賞されることとなる。

「真田日本一の兵(つわもの)。古(いにしえ)よりの物語にもこれなき由(よし)」(島津忠恒)

「真田は一度も不覚の名を得ず」(翁草)

「日本には、ためし少なき勇士なり」(山下秘録)



幸村はこの戦で生命を落とす。

sa1.jpg


しかし、世の中は幸村を死なせてくれなかった。その死を信じたくなかったのである。

「花のようなる秀頼様を 鬼のようなる真田が連れて 退きも退いたる鹿児島へ」。こんな童歌がまことしやかに流行したという。

幸村が山伏に化けて、豊臣家の秀頼を鹿児島へ逃したというのである。



逆に、家康にはどうしても死んで欲しかったようである。

「逃げる家康は幸村の十文字槍に突き刺され、堺のある寺に逃げこむも、すでに息絶えていた」という俗説があり、ご丁寧にその寺(南宗寺)には「家康の墓」が現存している。



真田の血は現在まで受け継がれている。

幸村の次男(守信)は、仙台に匿(かくま)われ「仙台真田氏」の祖となる。

直系である真田昌幸の嫡男「真田信之(幸村の兄)」は、まれに見る長寿である(享年93歳)。彼が存命中に、徳川家は家康、秀忠、家光、そして家綱と、四代も代替わりをしているほどである。

信之は弟・幸村を評して「幸村は国郡を支配する本当の侍である」と言っている。そして、逆に自分のことは「見かけを必死に繕い、肩をいからせている道具持ち」と卑下している。

しかし、真田家の本流を守りぬいたのは、他ならぬ信之の大功績である。

sa3.jpg


真田家発祥の地である長野県では、いまも人々は真田家を誇りに思っている。

真田神社には参拝の人々が絶えず、毎年の「真田まつり(上田)」には何万人という人々が押し寄せる。



「今に至りても、女も童もその名を聞きて、その美を知る」

真田一族は日本の誇る名家である。




出典:歴史秘話ヒストリア
「真田一族 戦国最強の絆〜真田昌幸・信之・幸村 父と子の物語」
posted by 四代目 at 17:18| Comment(0) | 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月11日

偉人を輩出しつづける薩摩の教え。戦国の猛将・島津義弘が種をまいた「郷中教育」。

「負けるな

ウソを言うな

弱い者をいじめるな」

このシンプルな教えが、鹿児島に伝わる「郷中(ごじゅう)教育」である。

薩摩藩が堅守したこの教えが、明治維新の「西郷隆盛」、「大久保利通」、そして日露戦争を勝利に導いた「東郷平八郎」等を生んだとされている。



およそ4〜5町(400〜500m)単位の地区ごとに、青少年たちは年齢により「稚児(ちご・6〜15歳)、二才(にせ・15〜25歳)」に二分される。

稚児、二才、それぞれに「頭(かしら)」が立てられ、頭(かしら)は郷中(ごじゅう)内での生活・教育の全責任を担(にな)う。

年長者は年少者を「指導」する。年少者は年長者を「尊敬」する。こうした規律の元、薩摩の男たちは歴史を動かすほどの力を育んでいったのである。



この郷中(ごじゅう)教育を始めたとされるのが、戦国時代の猛将「島津義弘」とされている。

義弘は豊臣秀吉に征服されるのを良しとせず、当主の兄・義久が降服した後も、最後まで頑強に抵抗し、その結果、「所領安堵」のお墨付きを獲得している。

朝鮮出兵においては、朝鮮・明軍に「鬼島津」と恐れられ、「泗川(しせん)の戦い」では寡兵をもって敵の大軍(島津勢の10倍とも20倍とも)を打ち破る。「前代未聞の大勝利」と激賞されたこの戦は、世界戦史上においても類例のない大勝利であった。

この大勝利が、島津義弘を「伝説の武将」とし、のちの関ヶ原の戦い、そして幕末までも、「薩摩軍」を恐れさせることになったと言われている。



実際、負け戦となった「関ヶ原の戦い」においてすら、その壮絶な島津軍の撤退戦は歴史に残っている。

西軍が壊滅、敗走をはじめた時、島津軍は予期せぬ反撃に打って出る。眼前に布陣する東軍きっての猛将「福島正則」の軍に正面きって突っ込んでいったのだ。

意表をつかれた福島軍、島津軍の刺すような突撃によって、その突破を許してしまう。中央突破した島津軍のその先にいたのは……、東軍の大将・徳川家康である。



家康、思わず立ち上がり刀を抜く。ところが、島津軍は急反転。退却に転ずる。

「捨て奸(すてがまり)」と呼ばれるその退却戦法は、殿(しんがり)部隊が全滅するまで敵を食い止め、その部隊が全滅するや、新たな部隊が再び殿(しんがり)となり全滅するまで戦い続けるという熾烈なものであった。

「死に兵」と化した島津軍は、追撃する井伊直政、本多忠勝などの徳川四天王の猛攻をも凌ぎ切る。逆に追撃隊の大将・井伊直政に致命傷を負わせるほどであった。

この退却戦こそが、「島津の退き口」として全国に勇名を轟かせた戦いぶりである。



凄惨な退却戦のあと、鬼と化していた義弘は思わぬ温情を見せる。

「大阪城の人質を残して、国元に帰れようか」

そう言って、満身創痍のまま大阪城へと「妻子の救出」に向かうのである。



無類の強さに、深い情を合わせもつ島津義弘。

味方のみならず、敵ですら賛辞を送らずにいられない。

福島正則などの武闘派からの尊敬も厚く、関ヶ原後の和平を仲介したのは、他ならぬ井伊直政、島津軍に致命傷を負わされた猛将によるものであった。



その島津義弘ゆずりの教育が、薩摩(鹿児島)の「郷中(ごじゅう)教育」である。

いまなお、その教えを「不易の教え(変わることのない教え)」として守り続けている。

sa2.jpg


一年に1,000回近く噴火するという「桜島」の麓(ふもと)の小学校。

恒例行事として、桜島から対岸の4キロを泳ぎ切るという伝統がある。

一人の脱落者も出さないという決意のもと、日々の鍛錬を積み重ね、何としてでも泳ぎ切る。

sa3.jpg


「桜島」はいつ噴火してもおかしくない「若い火山」である(2万6,000歳)。

数100年に一度は「大噴火」により、大惨事に見舞われる。大正の大噴火(1914)では、あふれかえった溶岩によって、桜島が大隅半島と陸続きになるほどであった。

それでも、人々はこの山の麓に住み続ける。「火山には敵(かな)わない」と熟知していながらも、住み続ける。

「本島の爆発は、必然のことなるべし」

sa1.jpg


そのために、万が一の備えは怠らない。

伝統の遠泳もその備えの一つである。

いざとなれば、頼れるものは何もないかもしれない。自分の力で対岸まで泳ぎきらなければならないのだ。



島津義弘以来の教えは、薩摩の気風を育み、日本を救うほどの英傑を生み出した。

「負けるな

ウソを言うな

弱い者をいじめるな」

ここまでシンプルな教えだからこそ、本筋を外すことがなかったのかもしれない。



どんなに素晴らしい教えであっても、伝わらなければ意味をなさない。誤解を生じさせては、後々の禍根ともなりかねない(キリストやイスラムの教えは難解すぎるのかもしれない)。

負けて負けて負け続けた島津義弘だからこそ、この美しいシンプルさに行きつけたのだろう。負け戦であっても、彼が屈服することは決してなかった。彼は絶対的な劣勢のなか、常に輝き続けた。

その彼の体現した生き様こそが、この教えを力強く裏打ちしている。

そして、郷中(ごじゅう)の教えを守り続けた後続の獅子たちも、大いに日本を照らし出した。



現在の日本は劣勢に立たされているのかもしれない。

しかし、劣勢な時にこそ輝く教えが、桜島の火山灰にはシッカリと根を張っている。

かつては何も作物が育たないと言われていた「薩摩の火山灰」。それでも、あきらめずに育つ作物を探し続けた。その末に見つけたのが「サツマイモ」であり、このサツマイモこそが薩摩の民を飢饉から救うこととなった。

「郷中教育」は、まさにこのサツマイモのように、試練の中から芽を出し、火山灰の地に逞(たくま)しく生き続けている。

劣勢の日本においても、希望の灯はまだまだある。

完全な負け戦のなかでさえ、活路は必ず見い出せる。少なくとも島津義弘はそうした人生を生き抜いたのである。




出典:新日本風土記 「桜島」
posted by 四代目 at 08:56| Comment(0) | 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月13日

戦国石垣づくりのプロ集団・穴太衆

織田信長に認められ、安土城の石垣を積んだのが
「穴太衆(あのうしゅう)」である。

戦国初期の観音寺城(滋賀県)の石垣が、
近世の城郭石垣の先駆とされているが、
これを手掛けたのも「穴太衆」と伝わる。

織田・豊臣・徳川と天下人たちに
その技術の高さを認められ、数々の石垣を積み続け、
彼らは全国の諸藩に召抱えられていったという。

「穴太衆」の歴史は恐ろしく長い。
彼らは古墳時代にもさかのぼる、石工集団の末裔だという。

そして、驚いたことに
その子孫は、現代でも石垣を積み続けている。

彼らの技は口伝のみで伝わる。
使う道具も、戦国期からほとんど変わっていない。
変わったのは、石を吊り上げる重機くらいだそうだ。

彼らの石垣は、石を一切加工せず、
自然の姿のままの石を、巧みに組み合わせてゆく。

ishigaki1.jpg

そうして出来る石垣は、恐ろしく頑丈だという。
近年、専門家が強度試験をしたところ、目を見張る結果が出た。
1平方メートルあたり、250トンもの重さに耐えたのだ。

戦国由来の技術は、現代においても全く見劣りしない。
その強度を買われて、2004年には新名神高速の石垣を積んだ。
そして、数々のお城の石垣の補修に携わっている。

「石には声がある」
「石の声を聞けば、石は行きたい所に自ずと収まる」

ishigaki2.jpg

先々代の言葉である。
彼の積む石垣は、それぞれの石が
まるで最初からそこにあったかのようだったと言う。


出典:NHK新日本風土記スペシャル
美の城 戦の城

【送料無料】城のつくり方図典

【送料無料】城のつくり方図典
価格:2,940円(税込、送料別)

posted by 四代目 at 10:16| Comment(0) | 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする