2012年02月17日

日本人の「謎の微笑(ほほえ)み」の裏に秘されたその心。


どうしようもない「逆境」にある時、日本人は他人に対して「微笑(ほほえ)む」ことができる。

このことは日本人にとっての「美徳」の一つでありながら、しばしば外国人から「誤解」を受けることが多いのも事実である。

「謎の微笑(ほほえ)み」だ、と。



外国人たちはストレートに考える。

悲しかったら悲しめばよい。泣きたかったら泣けばよい。

それなのに、なぜ微笑(ほほえ)むのか?



芥川龍之介の「手巾(はんけち)」に描かれた「息子を失った婦人」の言動などは、そうした外国人たちにとっては、おおよそ理解を超えるものなのであろう。

その婦人は、息子の死を報(しら)せるために、息子の恩師である大学教授の元を訪れていた。

腹膜炎で闘病中であった彼女の息子は、看病の甲斐なく亡くなってしまったのである。



当然、婦人の心は深い悲しみの淵の中にある。

ところが、大学の先生の目には、「この婦人の態度なり、挙措(きょそ)なりが、少しも自分の息子の死を語っているらしくない」ように映る。

「眼には涙もたまっていない。声も平生の通りである」。彼女は日常茶飯事を語るかのように、息子の死を告げている。

さらに、「口角には、『微笑(ほほえ)み』さえ浮かんでいる」ではないか。



その大学の先生は日本人なのであるが、日本人の彼にすら、婦人の「尋常ならぬ平静さ」に困惑する。

と、何かの拍子に、先生の持っていた団扇(うちわ)がパタリと床に落ちる。

その団扇を拾おうと先生が屈(かが)んだ時であった。婦人がひたすらに押し隠していた深い悲しみを見てしまったのは…。



「先生は、婦人の手が激しく震えているのに気がついた。

震えながら、それが感情の激動を強いて抑えようとするせいか、膝の上の手巾(はんけち)を、両手で裂かないばかりに堅く握っているのに気がついた。」



嗚呼、婦人は手巾(はんけち)を堅く握りしめ、身体中で嘆き悲しんでいたのだ…。表情には静かな微笑(ほほえ)みを湛えながら…。

「婦人は顔でこそ笑っていたが、実はさっきから全身で泣いていたのである。」




婦人のその健気な振る舞いに、先生は大きな感銘を受ける。

「これぞ、日本女性の武士道だ」と。



その先生は、かねてより日本人の「精神的な退廃」を気にかけていた。物質的に豊かになるにつれて、日本人の心は廃れていくかのようだ、と。

日本の堕落を救うためには、如何せん?

先生はその答えを「武士道」の中に見出していた。そして、「顔で笑い、全身で泣く婦人」の姿に接した先生は、日本の誇るべき武士道が日本人の心の中にしっかりと息づいていることを知り、ある種の幸福感を覚えるのである。



かつて先生がドイツに留学していた時、この婦人とは正反対に「感情をほとばしらせるドイツ人の子供たち」を目にする機会があった。

それは、皇帝ウィルヘルム1世の訃報を耳にした時のこと。一介の庶民の子供たちは、まるで肉親を亡くしたかのように、感情を剥き出しにして大声で泣き狂うのである。



日本において、感情を剥き出しにすることは、「礼に反する」のかもしれない。

だからこそ、他人様の前では「心を封じ込める」のである。

この「感情と裏腹なさま」を悪く言えば、「心を偽(いつわ)る」こととなる。



日本人同士であれば、何も言わなくともお互いの心の内を推し量ることができる。

しかし、文化が違えばそうもいかない。日本人の「礼」が、外国人には「おそろしくおかしい」ということになる。心を偽(いつわ)っている、と。

日本人の「礼」を善意に解釈したとしても、「それは行き過ぎている」ということにもなる。



日本の心を知らない外国人たちは、死に際して涙を見せない日本人を奇異に思い、「日本人が死に対して無頓着なのは、神経が鈍感だからだ」とさえ言うのである。

日本人の「謎の微笑(ほほえ)み」は、外国人たちには「冷酷」に映り、「正気を疑われる」ほどだったのである。



新渡戸稲造は、「謎の微笑(ほほえ)み」をこう解説する。

それは、「努力を隠す幕」であると。

何の努力かと言えば、「逆境によって乱された心の平衡を回復しようとする努力」である。

その微笑(ほほえ)みは、他人様への礼であると同時に、自らの「悲しみのバランス」を保つためのものでもあると、新渡戸は言うのである。



福沢諭吉は、漢書に見た「喜怒色に顕(あらわ)さず」という句を、「これはどうも金言だ」と直感し、「始終忘れぬように、独りこの教えを守った」のだという。




芥川龍之介、新渡戸稲造、そして福沢諭吉は、武士の時代の風潮が色濃く残る時代を生きた人々である。

武士たちは、如何なる悲劇が己を襲おうとも、それに動揺して平静を失うことを良しとしなかった。



日本の戦国時代に宣教師としてイタリアからやって来た「ヴァリニャーノ」は、著書「日本巡察記」にこう記している。

「彼ら(日本人)は自らの苦労について、一言も触れないか、あるいは少しも気にかけていないかのような態度で、あとは一笑に付してしまう」

その武士は、自分の大切な領地をすっかり失ってしまったというのに!



武士にとって、徒(いたずら)な心の動揺は「恥」なのである。

恥をかいてしまった武士は、切腹すらも辞さない覚悟がある。

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「武士道」というのは、その名の通り、武士の規範ではあるのだが、時代が下るにつれて、「庶民」にまで行き渡るようになっていく。

武士道が日本中に浸透していく様を、新渡戸はこう表現している。



「太陽が昇る時、まず最も高い峰を朱に染め、次第に下の谷々を照らす。

最初に武士道として結実した倫理体系は、時が経つにつれて、大衆からも追随者を呼び込んだ。」

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宣教師としてイタリアからやって来たというヴァリニャーノは、日本人の「名誉意識」の高さに驚く。その名誉意識は、庶民にまで至るものであった。

イタリアにおける「使用人」は邪険に扱われて当然の存在なのだが、日本の使用人は「ぞんざいに扱われる」ことに腹を立てる。

ぞんざいに扱われたと感じた使用人は、非常に有利な職にあったとしても、プイといなくなってしまう。名誉が汚されるよりは、不利な仕事に就くことを選ぶのである。



このように、武士道というのは日本人の心に広く広く、深く深く染みこんでいったのであり、それは現代に生きる我々日本人の心の内にも確かに息づいているのである。

だからこそ、芥川龍之介の「手巾(はんけち)」に出てくる婦人の心を我々が理解するのであり、それに涙もできるのである。



「冷酷で気違いだ」とまで誤解された日本人の「謎の微笑(ほほえ)み」。

その誤解を見極めようと、日本人の真意を追求していった新渡戸稲造は、最後にこう記している。

「日本人は、どの民族にも劣らぬほど優しい」




昨年の東日本大震災における日本人の行動は、世界中から高い評価を受けることとなった。

日本人の心は深いところに秘され、秘すことを美徳としている。

そしてその美徳は、大いなる苦難にさらされた時に、類まれな力を発揮することにもなる。



それでも、我々日本人の心は、まだまだ「世界に誤解されている」ということを知っておかなければならない。

我々の生きる現代は、新渡戸稲造や芥川龍之介の生きた時代よりもグローバル化が進んだとはいえ、その誤解が解かれたわけでは決してないのである。



日本人の美徳に従えば、日本人の心はその誤解をも優しく容認するであろう。

その誤解に激怒することもなければ、無理矢理に相手を説得することもないであろう。

ただ、相手が困っている時に、陰ながら助力できることを一生懸命に探すばかりである…。




出典:100分de名著
新渡戸稲造“武士道” 第3回「忍耐・謎のほほ笑み」

致知11月号 人生を照らす言葉(鈴木秀子)

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2011年11月01日

サムライを陰で支えたニンジャたち。


「ニンジャとサムライ」

両者はお互いが表裏一体であるかの如く、歴史に現れ、歴史に消えた。

国家の政権を握ったサムライに対して、最後まで闇に生きたニンジャ。陽があったのも、陰があったなればこそ。



しかし、「忍び」とも呼ばれるように闇に忍んでいたはずのニンジャが、なぜ、かくも有名になったのか?

日本どころか、世界にもその存在は知れ渡っているではないか。



永く秘されていた忍者の秘術が、白日の下に晒されたのは1789年。

門外不出とされていた秘蔵の文書の数々が、徳川幕府の元へと献上されたのである(その経緯は後述)。



その文書の中には、「万川集海」もあった。

万川集海とは、伊賀・甲賀の古典忍術四十九流の集大成である。

長らく口伝とされていた秘術が文書化されたのは、伊賀忍者・藤林保武の手によって(1676)。



江戸の平和によって活躍の場を失った忍者たちは、その腕を鈍らせ、次第にその技を忘れようとしていた。

その現状を危惧した藤林保武は、あえて禁じ手であった忍術の記述に踏み切ったのである。

その結果完成した万川集海は、唯一無二の優れた忍学書となり、現在の研究においても、三大忍術秘伝書の一つとして珍重されている。



この書が世に出たことにより、秘中の秘とされていた忍者たちの驚くべき実態が明らかになったのである。

後世の人々は、その驚きを様々に脚色し、現在の我々も知る忍者像なるものが出来上がる。

黒装束に覆面姿、水の上を歩き、火煙ととも姿をくらます。いわゆる忍者ハットリ君や猿飛佐助の世界である。

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その忍者たちの事の起こりはというと、サムライと同じく地方で力を持っていた豪族たちなのだという。

中央権力を指向した豪族たちは戦国大名となる一方で、あくまでも一地域で独立を保持せんとした豪族たちもいた。伊賀や甲賀、戸隠などがそうであり、ニンジャはそうした独立勢力の中から誕生することとなる。



ニンジャが明らかな形で歴史書に登場するのは、室町時代(1487)。

時の将軍・足利義尚(第9代)は、将軍の権威に刃向かう近江(滋賀)の六角氏の討伐へと大軍を進めた。

守備よく六角氏を追い払ったはいいが、逃れた六角氏は甲賀衆と結託。甲賀の忍者は将軍の寝所を闇に紛れて急襲する(鈎の陣)。

将軍は辛くも一命をとりとめるも、のちに陣中で没する(享年25)。その死因は脳溢血とも忍者の与えた致命傷だったとも…。

時は応仁の乱を経験し、各地では後に戦国大名となる小さな芽が一斉に芽吹き出しつつあった。



忍者の里は各地の戦国大名とは違い、領土拡大を望まず、ただ己の土地を守ることに専念した。

その自衛のための鍛錬は、驚異的な身体能力を育(はぐく)み、数々の技をも生み出す結果ともなった。

身体能力のみならず、その知識は森羅万象を網羅し、毒薬の作り方から火薬を自在に操る方法まで幅広く、かつ実践的であった。

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すると、侵略の鼻息荒い戦国大名たちは、伊賀や甲賀の里の忍者たちに一目置くようになり、逆に忍者たちに協力を求めるよになった。

こうして、サムライと横並びであったニンジャは、その立ち位置を徐々に闇の方へと移して行くこととなるのである。



戦国時代における忍者は、闇を翔ける強力無比な傭兵部隊として、戦国の世を跋扈することとなる。

武田、上杉、北条などの戦国大名に助力はするものの、彼らの完全な家臣になることはなく、あくまでも伊賀や甲賀の一員であり続けた。

もし、忍者の里を裏切るようなことがあれば、命の保証はない。門外不出の秘伝は断固として守らなければならなかったのである。



しかし、豊臣秀吉が天下統一に至るや、忍者の里への風当たりは俄然厳しさを増すようになる。刀狩りや領地没収の憂き目にあったのである。

統一政権にとっては、一地方が力を持ち過ぎることほどに危険なことはない。その点、忍者の里はあまりにも恐ろしい存在であったのだ。



豊臣の次は徳川の時代となる。ほぼ完全な平和の到来である。

ここまで至ると、もはや闇の忍者たちに活躍の場はほとんどない。

島原の乱(1637)を最後に、忍者は世に不要な存在となった。



里を失い、仕事も失った忍者たち。

しぶしぶ江戸の門番などの「浅ましい軍役」に甘んじざるを得なくなった。

当然、腕は鈍り、誇りも失う。



先述の忍術書「万川集海」が編纂されたのには、こうした背景があった。

失われつつあった各地の忍術を、その書名の如く、細い川の流れすべてを集めるように徹底して収集し、大海のように集大成したのがこの書である。

もはや、口伝での伝承は不可能であり、書き記して後世に託する決断に至らざるを得なかったのだ。



そこに天明の大飢饉が日本を襲う(1780年代)。

日本の浅間山の噴火やアイスランドの火山群の噴火などにより、噴煙が地球上を覆い、世界的な異常気象(低温)となったためだった。

この世界的な危機に食糧は不足し、イギリスでは産業革命が起こり、フランスではフランス革命が誘発された。



日本では、老中・松平定信の寛政の改革により、全国的な緊縮財政策がとられた。

この逆風によって、忍者たちの命運も極まった。

甲賀の忍者・大原数馬は、秘伝の忍術書(万川集海など)を幕府に献上することにより、領地の確保を図るという苦渋の決断を下す(1789)。



しかし、無念かな。

願い叶わず、領地の代わりに下されたのは、銀たったの5枚であった。

ここに忍者たちの命運は尽きる。サムライたちよりも、一足早い幕引きであった。

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「忍者は

音もなく、臭もなく

智名もなく、勇名もなし」



忍者としての役目を終えた者たちの中には、その実践的な技や知識を別の方面で活用する者たちも現れた。

先の大原数馬の子孫は、その腕を医術に活かし、医師として明治維新を迎えたとのこと。

現在にも血をつないでいる忍者の家系も数家、現存しているとのことである。


出典:ラストニンジャ 古文書発掘ミステリー

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posted by 四代目 at 15:32| Comment(2) | 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月22日

織田信長を討った男「明智光秀」。天下の謀反人とされながらも、なぜ人々に慕われ続けたのか?


「明智光秀」の肖像画は「本徳寺(岸和田)」にのみ唯一現存している。

この肖像画だけを見れば、この人物が日本史をひっくり返すほどの大クーデター(本能寺の変)を起こした人物とは到底思えない。

なぜなら、そこに描かれた人物は実に静かな佇(たたず)まいであり、その表情はあまりにも穏やかだからである。

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明智光秀は決定的な謀反人ではあるのだが、彼の生涯を追ってゆくと、「本能寺の変」だけがポッカリと浮かんだように不自然な出来事に思える。

「本能寺の変」以前の彼は、謀反人とはまったく縁遠い「忠義の士」のように見えるからだ。

そのせいか、天皇、将軍、そして主君・織田信長、皆誰も彼もが明智光秀には自然と「大きな信」を置いていた。



明智光秀は鉄砲を握らせれば「百発百中」。諸学にも通じ、教養高く、まさに文武両道の有能な武人である。

前半生は不遇も多かったとはいえ、信長に仕えて以降は、織田家中では新参者でありながら、誰よりも早く一国一城の主(坂本城)となっている(秀吉よりも3年早かった)。

だからこそ、あの本能寺の変は「なぜ」「まさか」の連続なのであり、日本史上最大の謎の一つとされているのだろう。



歴史は「勝者」により上書きされてゆく傾向があるため、決定的な「敗者」となった明智光秀は必要以上に貶(おとし)められることとなった。

しかし、不思議と彼の人気は高かったりもする。それは、敗者や悪人にも寛大な日本人の気質なのだろうか。

欧米の歴史であれば、明智光秀は間違いなく「ビンラディン」か「カダフィ大佐」のごとき扱いを受けることであろう。



明智光秀が本能寺の変を起こす前に詠まれた歌がある。

「ときは今 あめが下しる 五月かな」

「とき」は明智家の本家「土岐」に通じ、「あめが下しる」は「天下を治める」ことに通じるという。

つまり、この歌は明智光秀が「天下人」にならんとする野望を歌ったものだというのである。



この歌を世に広めたのは、明智光秀を討った豊臣秀吉である。

「惟任退治記」にこの歌が記載され、明智光秀の野心を明らかとしたのである。



ところが、これに反論する人物が近年現れた。明智家の子孫である。




この歌は「あめが下しる」ではなく、「あめが下『なる』」が本当の姿なのだという。

たった一字の違いであるが、その意味は天と地ほどに変わってくる。「あめが下『なる』」では、野心どころか、ただ単に己の不遇を嘆くだけの歌でしかない。

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この歌の解釈に関しては、諸説紛糾しているわけだが、よく調べている人ほど、「野心に満ちた明智光秀」というのはイメージしづらいようである。

明智光秀は「私利私欲」で動くような人物ではなかったようだ。

もし、彼ほどの大人物があのような大胆な行動に出るには、然るべき大義名分もあったのではなかろうかと思われるのである。



しかし、その大義はまったく判然としない。

「天皇」の意図があったのではないかという仮説もある。

そのような記録は一切ないのだが、それは明智光秀が謀反の汚名を朝廷に着せまいとして、あえて一切の証拠を残さなかったとも言われている。

確かに、それならば忠義の明智光秀の実像に相応(ふさわ)しいのかもしれない。



織田信長の天皇に対する不敬は多数ある。

その最たるものとも言えるのは、天皇に「元号」を変えること(改元)を迫ったことであろう。

強迫を受けた朝廷は、泣く泣く改元の神事を行うのである。そうして「元亀」は「天正」と改められた(1973)。この年(1973)は、室町幕府の将軍であった足利義昭を京都から追い落とした日でもあった(室町幕府滅亡)。

ちなみに、信長の死(本能寺の変)は、この10年後の天正10年(1982)である。



この他にも、信長は「正倉院」に立ち入り、宝物である香木「蘭奢待(らんじゃたい)」の一部を持ち去ったりもしている。

さらには、国師(天皇の師)と呼ばれる高僧を、信長は2度も焼き殺している。最初は比叡山の焼討ちにて、そして次が甲斐武田家滅亡時。快川紹喜の「心頭滅却すれば火もまた涼し」は、その際の言葉である。



日本の歴史においては、惜しまれた人物ほど「実は死んでいなかった」という説が後世に残されたりする。

その典型は、「源義経」である。彼は衣川で死ぬことなく、大陸へと渡り、チンギス・ハーンになったのだという壮大な伝説が残された。

「真田幸村」も大坂の陣で死んだのではなく、鹿児島に落ちのびたという説がある。



そして、明智光秀にも「生存説」がある。家康に重用された僧侶「天海」になったのだという説である。

これは大変に奇妙なことである。

天下に名をなすもの達だけに与えられる「生存説」が、なぜに「悪人(謀反人)」の明智光秀に残されているのか?



生存説が残るは、明智光秀のみならず、その長男の「明智光慶」もである。

明智光喜は、父・光秀の死後、満14歳で自害したと歴史にはある。

しかし、他方、僧侶「南国梵桂」となり、「本徳寺」を開基したとも伝わっている。

この「本徳寺」というのは、他ならぬ「明智光秀」の唯一の肖像画を大切に安置し続けているお寺である。



なぜ、謀反人の息子にまで「生存説」が?

「本能寺の変」の裏には、一体どれほどの真実が秘められているのであろうか?



話はふくらみ、明智光秀の居城であった坂本城に由来する人物が、土佐へと逃れ、幕末の坂本龍馬を生んだ坂本家につながるという話までがある。

伝説の是非はともかくとしても、こうした伝説が残されること自体、明智光秀が時代に惜しまれていたことの証左である。



ちなみに、明智光秀の最も信を置いた家臣の一人に「斎藤利三」という人物がいる。

ある時、織田信長は明智光秀に「斎藤利三を稲葉一鉄に返せ」と迫られた(斎藤利三は稲葉一鉄の元家臣であった)。

ところが、光秀「国を失っても、大切な家臣を手放すわけにまいりませぬ」と頑なに拒否。

激怒した信長、光秀の髪をつかむや床を引きずり回す。光秀は廊下の柱に何度も頭を叩きつけられ、しまいには信長、刀に手をかける。



斎藤利三は、ここまで自分を思ってくれる光秀に心から感動した。

そして、その忠節は、秀吉に惨殺される最期の最期まで貫かれることとなった。



徳川家光を育てたという「春日局」は、この斎藤利三の娘である。

なぜ、家康は天下の罪人とされた光秀の重臣の娘を、そこまで取り立てたのか。

かたや、3代将軍となる家光の生母は、信長の血を引く女性「江」である。

時代の闇に葬り去られるはずだった明智光秀は、その影をアチラコチラに残しているのである。



明智光秀と同一人物だという説もある僧侶「天海」が、没後に朝廷から送られた諡(おくりな)は「慈眼大師」である。

「大師」とつく諡は、平安時代以来700年ぶりだという。つまり、それほどに「天海」は朝廷に重んじられたのである。

本能寺の変における「朝廷陰謀説」を支持する人々は、信長の討った明智光秀の大恩に朝廷が報いるべく、その別の姿「天海」にこれほどの諡を授けたのだと信じている。



明智光秀の肖像画には、「放下般舟三昧去(仏門に入り、去って行った)」と書かれているという。つまり、明智光秀は「僧侶になり、寺を出て行った」というのである。

この肖像画は、ときおり限定公開されるというが、大変な人気のために、よほど幸運でない限りは、その場に招待されることはないらしい。



この静かさを湛(たた)える肖像画のように、光秀は静かなる男であったとも伝わる。

彼の敷いた善政には、領民の多くが大変に感謝しており、現在に至っても光秀の遺徳を偲(しの)ぶ地域も多いのだとか。

明智軍の直属の家臣団は、先の斎藤利三のごとき忠臣ぞろいで、その結束たるや不動の堅固さを誇っていたという。猛者ぞろいの織田家中にあってさえ、明智軍は最強の軍団の一つだったのである。



謎多き男、明智光秀。

その不思議な魅力は、時代を超えて人々を惹きつけている。

彼は過小評価されてなお、有能すぎる男であったようだ。






出典:BS歴史館 シリーズ
 激論!戦国の真実(1) 織田信長・本能寺の変の謎〜常識を揺さぶるミステリー

posted by 四代目 at 19:35| Comment(2) | 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月05日

「ないない尽くし」に価値がある。一乗谷の意外な広告戦略。織田・朝倉の戦国大名に想いを馳せながら。


「あまりにも何もない

だから面白い。」

このキャッチコピーが交通広告グランプリ(2011)に輝いた。

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いったい、どこの話?

福井県は一乗谷(いちじょうだに)である。

市町村のPRがグランプリをとるのは異例のことであった。

それもそのはず、このコピーを手がけたのは「佐々木宏」氏。日本を代表するクリエイターであり、ソフトバンクのCMなどは有名である。



「何もない」と言われて、どう思うか?

たいていの人は「何かあるだろう」と思うらしい。

しかし、残念ながら一乗谷には「本当に何もない」のだとか。



「一乗谷」と聞いてピンと来る人は、歴史を知っている人であろう。

室町の南北朝時代から戦国時代にかけて、朝倉氏の居城とされた場所である。



応仁の乱(1467)により京都が荒廃すると、京の公家・高僧・学者などなど「やんごとなき方々」が続々と一乗谷へ逃れ落ちてくる。

そのため、一乗谷には「北の京」と呼ばれるほどに京文化が花開いたのだそうだ。最盛期には人口1万人を超えていたという(当時の京都の人口がおよそ20万人)。

戦国時代には、後の室町将軍となる「足利義昭」も朝倉氏を頼って一乗谷へと落ち延びている。



その華やかなる北の京を一瞬にして「灰塵」としてしまうのが、かの織田信長である。

名門・朝倉氏に食ってかかった新興・織田氏。

ある戦では、命からがら信長はシッポを巻いて逃げ出している(金ヶ崎の戦い・1570)。盟友と信じていた浅井氏の裏切りによる敗戦であった。信長が辛くも逃げ切ったときには、供回りが10人もいなかったという(金ヶ崎崩れ〜朽木越え)。

ちなみに、浅井氏の裏切りを信長に知らせたのが、浅井氏に嫁いだ信長の妹「お市」の方。両端が閉じた小豆の袋をもって、「袋のネズミ」であることを伝えたという(お市はお江の母親)。



屈辱的な敗戦からの信長のリベンジは猛烈であった。

怒涛のごとく押し寄せる織田軍の前に、朝倉軍は押しに押され、朝倉家は内部からも瓦解を始める。

信長、乾坤一擲の決断となったのは、荒れ狂う暴風雨の中の出陣。

「まさか」と虚を突かれた朝倉勢は総撤退。背を見せる朝倉軍に、信長軍は徹底した追撃戦を展開し、朝倉本軍を壊滅に追いやった(刀根坂の戦い・1573)。



逃れに逃れて朝倉勢は一乗谷へ。

当主・朝倉義景(よしかげ)の手勢は500人にも満たなかったという。

義景は止むなく一乗谷の城を捨て、さらに北を目指す。しかし、その途上、いとこ・景鏡(かげあきら)の裏切りにより、義景は自刃。ここに名門・朝倉氏は滅亡することとなる。



一方、無人の一乗谷に踏み込んだ織田勢は、一気に一乗谷を制圧するや街にはことごとく火を放つ。

信長は鬼か? 一万人の人々は?

こうして、百年の栄華を誇った一乗谷は一夜にして「灰」と化した。



以後、信長の支配下に入った一乗谷は、民心定まらず相次ぐ一揆に苦しめられる。

後を任された柴田勝家は、本拠地を一乗谷から「北ノ庄」へと移す。

それ以降、一乗谷は辺境の地となり、田畑の下に埋もれていった……。



一乗谷が再び陽の目を見るのは、およそ400年後。

1960年代、遺跡の発掘調査により、朝倉五代の城下町は「そっくりそのまま」の形で姿を現した。

しかし、その後は城などが復元されるわけではなく、礎石などが点在する平坦な跡地だけが広がっている。

まさに「あまりにも何もない」状態である。

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この「何もない」様に価値を見出したのが、前出、「佐々木宏」氏であった。

東京がド田舎だった頃に、京都の奥座敷として栄華を極めた「一乗谷」。

悲劇的な歴史を抱えたこの町には、「戦国時代の息遣い」が残されていた。



灰塵とされたのは一瞬の出来事。

信長が来る前までは、実に穏やかな街だったのだという。

笑っている石仏が多いのだとか。



「全部入り」の観光地が多い中、一乗谷は「イメージするだけの場所」。

「なにもないのです。

目を閉じて、耳を澄まして、

イメージするしかないのです。」

「ある」ことが当たり前の時代に、「ない」ことはかえって貴重なのかもしれない。



佐々木氏は地方の観光地化には否定的だ。

「地方に妙な建物を造ったり、変な銅像が立っていたりする。」

プロカメラマンの撮影した息を飲むほど美しい写真にも疑問を呈す。

「広告において、ポスターは最も効かないメディアになっている。」



必要なのは、「見させる工夫」なのだという。

佐々木氏のキャッチコピー「あまりにも何もない。だから面白い。」により息を吹き込まれたポスターは、地下鉄駅のエスカレーター脇に掲げられた。



その結果、一乗谷を訪れる観光客は前年比30%増の72万人に達したという。

最も来客の多かった今夏7月は前年比200%、つまり2倍の観光客が訪れたことになる。



佐々木氏は「未来を悲観するのが好きな大人たち」に、一乗谷に来てもらいたいと思っている。

何もないから、何かを考える余地がふんだんにある。

「どうせ何かを考えるのなら、楽しいことを考えてみたらどうだろう?」



一乗谷が栄華を極めていた頃、その街が焼かれるなどと誰が想像しただろう?

一乗谷を焼いた信長も、己が焼かれるとは思ってもいなかっただろう。



400年間も眠っていた城址は、何を聞いていたのだろう?

クワの音だろうか? どこかの笑い声だろうか?

次の100年後、一乗谷はどんな姿をしているのだろう?

そして、日本は?




関連記事:
自然を守ることは、貧しくなることか? セーシェルの克服した現代の矛盾。



出典:ろーかる直送便 ヒューマンドキュメンタリー 
「なにもない だから面白い〜広告は日本を変える」
posted by 四代目 at 07:34| Comment(0) | 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月30日

秀吉と利休。お互いに反対方向を向きながらも同じ船に乗っていた不思議な関係。「茶とは?」


「朝顔の茶会」というものが知られている。

この茶会により、豊臣秀吉と千利休が胸襟を開き合うようになったと伝わっている。



利休は「庭の朝顔が美しゅう咲いております」と言い、秀吉を茶会へ誘(いざな)う。

秀吉はたいそう楽しみにして利休の庭を訪れる。

ところが、庭には一輪の朝顔もない。実は、早朝、利休がすべての朝顔を摘んでしまっていたのだ(秀吉はこのことを知らない)。



拍子抜けした秀吉。いくぶん気落ちして茶室へ入ると……。

その茶室には、さり気なく「一輪の朝顔」が生けてあった。

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秀吉はこの趣向にたいそう感じ入り、以後、秀吉と利休の蜜月時代が始まる。



しかし、秀吉と利休ほど「真逆」の道を進み続けた関係は、なかなか他に見いだせない。

両者の茶室を見れば、その両極なる様は一目瞭然である。

秀吉の茶室は「煌(きら)びやかな黄金造り」。対する利休の茶室は「これ以上削れるものはあるのか?」と思うほどに、極限まで無駄を削ぎ落している。

表面的な派手さを求める秀吉。深(しん)の美を追求する利休。のちの両者の破綻は宿命とも言えるものであろう。

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茶の歴史を遡(さか)のぼってゆくと「村田珠光」に突き当たる。

彼の求めた「侘び茶」は、「不足の美(不完全だからこそ美しい)」を体現するものであり、高価な茶器を有難がるのではなく、常日頃の茶碗で十分と教えていた。

その流れを汲む利休は、やはり素朴さの中に「美しさ」や「精神的な充足感」を求めている。



一方、戦国時代の「茶」は、織田信長以来「権威」と結び付けられていた。

家臣は土地よりも「茶器」を欲しがり、主君の「茶会」に参加できることを無上の喜びとした。

この流れを汲む秀吉は、やはり政治的な眼差しで茶の湯を眺めていた。



この両極端な両者は、なぜか同じ船に乗り続けていた。

秀吉の心は外へ外へと向かい、朝鮮半島まで兵を進めてゆく。

かたや、利休の心は内へ内へと向かい、茶室はますます小さくなり、茶器はますます地味になってゆく。



当時、珍重されていた茶器の多くは唐物という中国由来の品が多かったのだが、利休がその流れに従うことはなかった。

自ら考案した「茶杓(ちゃしゃく)」は中国で一般的であった象牙ではなく「竹製」であり、中国製の磁器が定番だった「花入れ」は漁師から譲り受けた「魚籠」を用いた。

さらに、「黒楽茶碗」というのは利休の思想を象徴するものである。

洗練された美を誇る唐物茶碗とは異なり、ゴツゴツといびつで(ロクロを用いない)、色も冴えない。

秀吉がこの黒い茶碗を大いに嫌う一方で、利休は「黒は古き心なり」として、大いにこの茶碗を評価した。

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利休の茶室の大きな特徴に「躙(にじ)り口」というのがある。

高さわずか80cm。身を屈めなければ通れない。いくら天下人とはいえ、刀を外して頭を下げなければ入れない。

利休は秀吉に配慮して、これでも予定よりも高くしつらえたのだという。なぜなら、秀吉の「まげ」は人一倍デッカくて、どうしても引っかかってしまうからだそうだ。



この「躙(にじ)り口」には、「茶室の中では身分も貧富の差もない」という利休の求める世の姿が暗に示されていた。

利休の弟子「山上宗二」はこう書き残している。

「山を谷に変え、西と東を入れ替えてしまうかのように、茶の湯の決まり事を破り、茶道具を自由に作り変えてしまった。その結果、何事も面白くなった。」

内へ内へと向かった利休は、じつに「革新的」であり、その心はどんどん自由になっていった。



この反面、外へ外へと向かい天下を制した秀吉は「保守的」にならざるをえない。

民を支配するには身分を固定しなければならないし、家臣にも勝手気ままに振舞われては大いに迷惑だ。

必然、秀吉自身もつまらなくなっってしまった部分もあったであろう。何しろ、一介の農民から身を起こした自分自身が最も型破りな存在であったのである。



かつては秀吉も「身分」には反発を抱いていたのだ。

「北野大茶の湯」においては、公家や武士のみならず、百姓や町民までも招き入れ、「茶碗一つ持ってくれば良し」としたこともあったのである。

この茶会を取り仕切ったのは、他ならぬ「利休」その人。この頃が、両者とも同じ方向を向いていた黄金時代であったと言えるかもしれない。



それ以降、時代は過酷にも両者の溝を深めに深めた。

利休の心はますます自由になり、秀吉の心はますます不自由になっていった。



そんな折に催されたのが、「野菊の茶会」である。

利休が席を外したスキを狙って、秀吉は天目茶碗と肩衝茶入の間に、かねて用意しておいた「野菊」を差し挟む。

秀吉のいたずら心は、利休がどんな反応をするかと大いに高まった。

ところが、利休は無言でその「野菊」を取り去るのみ。



実はこの茶会、九州へと向かう「黒田如水」を労(ねぎら)う目的があった。

秀吉としては、去りゆく都を「野菊」にたとえるという趣向のつもりだったのである。

しかし、利休は秀吉の心意を知ってか知らずか、全くの無反応で応じたのである。



のちの人々が語るには、この茶会において両者の「決別」は決定的なものになったとのことである。

「朝顔」に始まった秀吉と利休は、「野菊」によって終わりに至ったのである。

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この後の両者に関しては、書くのも重い。

何だかんだと因縁をつけながら、結局、秀吉は利休に切腹を命じるに至る。



利休亡き後、その後を継いだのは「古田織部(ふるた・おりべ)」である。

しかし、悲しい哉、彼もまた利休と同じ運命をたどる。

権力者は秀吉から家康へと替わるのだが、結果は同じである。大阪の陣の後、古田織部は家康に「切腹」を命じられる。



利休・織部とも、秀吉・家康にその政治的な影響力の大きさを恐れられた。

なぜなら、「茶の湯」は革新性に満ち、多くの大名を魅了してやまなかったからである。

利休に切腹を命じた秀吉は、その使者に上杉景勝勢3,000人をつけたと言われている。それは、利休に心服する他大名による「利休奪還」を恐れたためだという。

3,000の軍勢に対する利休は、生涯最後の「茶」で使者をもてなすという沈着ぶり。利休最後の茶は、彼の美を不朽のものとした。



戦国の動乱とともに世に浮上し、その終息とともに身を潜めていった「茶の湯」。

それでも長く愛され続けた理由は、やはり茶に込められた利休の想いが大きかろう。



日本人は秀吉の「豪奢さ」よりも、利休の「簡素さ」を心情的に好むのではなかろうか?

秀吉の一生は時代の上を滑っていったような感が否めない。それに対して、利休の一生は日本人の心にグサリと刺さったような印象を受ける。

足して足して、脆(もろ)くも崩れた秀吉の城。

引いて引いて、それでも残った利休の道。



今ここに茶があること。

そこに利休はいるのである。



出典:歴史秘話ヒストリア
「お茶パワー 戦国を動かす〜千利休と豊臣秀吉 友情と別れ」



posted by 四代目 at 07:23| Comment(1) | 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする