2011年07月21日

江戸時代、世界レベルの天体望遠鏡をつくった「国友一貫斎」。高度な鉄砲鍛冶の技術が、恐るべき精度を生んだ。

江戸時代の名鉄砲鍛冶、「国友(くにとも)一貫斎(いっかんさい)」。

彼の鉄砲は「能(よ)く当たる」ということで、その銘に「能当」を用いることを例外的に許されたという。

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この鉄砲名人の一貫斎、晩年には、その卓越した技術を駆使して、自らの手で「天体望遠鏡」を制作し、「天体観測」に明け暮れていたという。

「このごろは、毎日の観測を楽しみにしており候(そうろう)」



一貫斎の天体観測は、「老後の楽しみ」とは思えぬほどに精緻を極めた。

「月のクレーター」から、「太陽の黒点」、果ては「土星の衛星(タイタン)」の詳細なスケッチ画までが、現在に残る。

太陽黒点の観測に関しては、一年以上(1835年2月3日〜1836年3月24日)にわたり連続して行われており、その観測データは、当時先進のヨーロッパのデータと比較しても、遜色のないほど「科学的に忠実」であったという。

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世界トップクラスの観測精度を支えたのが、自作の「天体望遠鏡」である。

反射式と呼ばれるこの望遠鏡は、高い倍率(70倍)にもかかわらず、実にコンパクトである。

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そして、高性能である。当時のイギリス製の同型の望遠鏡の「2倍の倍率」を持ちながら、その像は、より鮮明であったという。

反射式望遠鏡の精度を左右するのが、像を反射させる「鏡」である。

一貫斎の望遠鏡は、この「反射鏡」が実に優れている。



いくつか優れた点があるのだが、その一つが「研磨の精度」である。

「中心部と周辺では、その研磨の深さを変えたほうが、よく見える」と一貫斎は記録しているが、これは「放物面鏡の研磨方法」である。

反射鏡をただ球状に研磨しても、像は一点に集まらない(像がぼやける)。放物面に沿って研磨することで、像は一点に集まり、見える画像がよりシャープになるのである。

一貫斎の反射鏡の放物面のカーブは、現代の望遠鏡のカーブと、ほぼ一致するほどに完璧な出来であった。

一貫斎の反射鏡は、現在の量産型の望遠鏡よりも精度が高いと言われている。

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さらに、反射鏡の「材質」が優れている。

反射鏡の材質は、「銅」と「錫(すず)」である。反射鏡の優劣は、この2つの素材の割合で決まる。

「銅」は10円玉のように、赤っぽい色をしている。そこに「錫(すず)」を混ぜることにより、白色に近づき、像を綺麗に反射するようになる。

しかし、「錫(すず)」を混ぜすぎると、今度は成型が難しくなり、ヒビが入ったりして使い物にならなくなる。

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一貫斎は反射鏡の「錫(すず)」の割合を、ギリギリまで増やした。

ヨーロッパでも見られないほどに、その割合は高い。

鉄砲づくりで培った高い技術は、反射鏡を最高の「銀白色」にすることを可能にしたのである。



さすがの一貫斎でも、この脆(もろ)い金属を作り出すのには、3年近い年月がかかったという。

しかし、その成果は十分すぎるほどであった。

一貫斎は、「100年曇らない鏡を作る」と明言したが、180年たった現在においても、その反射鏡には一点の曇りもない。

「曇りやすいと言われている金属鏡が、なぜ曇っていないのか?」

現代の技術をもってしても、科学者たちが頭を悩ますほどである。

江戸の技術の何と優れていることか。



一貫斎は、望遠鏡に限らず、様々な分野で独自の創造性を発揮した。

「風船を作りて、空を行く。翼を作って、鳥を翔ける」と言い、「飛行機」の研究にまで乗り出している。

ここまで来ると、もはや「東洋のレオナルド・ダ・ヴィンチ」である。



もし、彼に十分な時間が与えられていたら、彼のもつ高い技術と志は、ライト兄弟をも凌ぐ成果を上げ得たかもしれない。

類マレな天体望遠鏡を知れば知るほどに、そう空想してみたくもなる。



一徹な職人気質をもっていた彼は、現役を退くまで、愚直に鉄砲を作り続けた。

世界に誇る天体望遠鏡は、定年後の10年足らずで完成させたものである。

世界が賞賛する高い精度にもかかわらず、一貫斎は命尽きるまで改良を続けていたという。

彼の楽しみは、死ぬまで尽きることがなかったようである。



1991年、杉江淳氏は、新たな小惑星を発見し、その小惑星を「Kunitomoikkansai(国友一貫斎)」と命名した。

発見した天文台が滋賀県にあったため、かつて長浜(滋賀県)で活躍した「国友一貫斎」に敬意を表して命名したとのことである。

一貫斎は、日本の天文学の草分け的存在でありながら、広く知られることがなかったが、この命名以来、一躍世界に注目される存在となった。

彼の業績は、望遠鏡の歴史として、ガリレオ・ニュートン等と並んでいても、決して引けをとるものではないだろう。



出典:直伝 和の極意 あっぱれ!江戸のテクノロジー
 第7回「国友一貫斎 反射望遠鏡の極意」
posted by 四代目 at 18:37| Comment(0) | 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月17日

江戸の心を明治の心に変えた「ジョン万次郎」。彼の結んだ「奇縁」が時代を大きく動かした。

「ジョン万次郎」という一風変わった愛称で知られる人物が、江戸末期から明治初期にかけての激動期を生きていた。

土佐(高知)に生まれた彼は、一介の漁師でありながら、遭難という偶然によりアメリカへ渡り、かの地で10年を過ごした後に、日本に帰国。

アメリカで得た、当時最先端の学識を活かしながら、勝海舟・坂本龍馬・福沢諭吉などなど、歴史上の名立たる人物たちとも深い関わりを持ってゆく。

今回は、この奇才「ジョン万次郎」の影を追ってみたい。



彼の誕生は「1月1日」と伝わる。太閤秀吉も、「正月の日の出とともに、世に出(い)でた」というが、真偽はともかくとしても、何とも「めでたい話」である。

実際に、ジョン万次郎は、直接的・間接的に「明治という夜明け」を導くこととなるわけである。



彼が「運命の遭難」をするのは、年の頃14歳。今であれば「中学生」くらいの時分である。仲間4人が運命をともにした。

嵐に飲まれ、海を漂うこと5日とも6日とも。奇跡的に漂着したのは、伊豆諸島の「鳥島」という無人島。



この「鳥島」は、アホウドリの渡る島として有名である。明治以降、この島のアホウドリは乱獲され(羽毛目的)、火山の噴火もあいまって、一時は絶滅が宣言された。ところが、奇跡的に13羽のアホウドリが生き残っており、その13羽が今に生をつなぐこととなった。

ジョン万次郎の奇跡も、この島が演出したことを想うと、何とも奇縁をもたらす島である。



アホウドリは、その名の通り、アホのように簡単に捕まえられる。ジョン万次郎は、この鳥島で「5ヶ月間に及ぶサバイバル生活」を生き抜くわけだが、アホな鳥がいっぱいいたお陰で、とりあえずの食糧は確保された。

困ったのは、「飲み水」である。2ヶ月以上も雨の恵みがなく、小便を飲んでなお、干からびかけしまう。

ある時、古いお墓をひっくり返してみると、その下には、井戸のように命の水が溜まっているではないか!

万次郎は、思わず手を合わせ、念仏を唱える。干からびかけた身体であったが、涙までは枯れてはいなかった。



無人島生活143日目。新たな運命は幕を開ける。

アメリカの捕鯨船、ジョン・ハウランド号の登場である。後に彼の愛称となる「ジョン」は、この船の名に由来する。

この船が鳥島に立ち寄ったのは、「海ガメ」の卵を食糧として捕獲するためだったという。ジョン万次郎は、浦島太郎のように、「海ガメ」の縁によって、竜宮城ならぬアメリカへと渡るチャンスを得たことになる。



船長のホイットフィールド氏(当時36歳)の航海日誌には、当時の様子が、こう記されている。

「五人のみすぼらしき疲れた人間を発見。連れ来るが、彼らが空腹であるという以外、何も理解する事かなわず」

渡り鳥であるアホウドリは、すでに鳥島からアリューシャン列島へと旅立ってしまっていた。

そのアホウドリたちに遅れはしたものの、ジョン万次郎にも、この船の出現によって、新たな人生の門出が到来したことになった。



船員のアメリカ人たちは、面白がって万次郎たちに「英語」を教えた。

日本での万次郎は貧しい漁師。読み書きソロバンなど、日本では高嶺の花であった。

ところが、教育を受けていなかったとはいえ、万次郎はバカではなかった。それどころか、アメリカ人も目を丸くするほどの「大秀才の卵」であった。

船上の数ヶ月だけで、以下の英文を理解できるまでになっていたという。

"There has to be iron in a man before there is iron in a whale"

おそらく、大卒ですら、この文意を正確に理解するのは難しいのではなかろうか。



アメリカの学校においても、その才は遺憾なく発揮され、難民であった万次郎は、学友たちから一目置かれる存在となった。学友の一人は、こう語っている。

「万次郎はクラスでいつも首席であり、学習に完全に没頭していた。恥ずかしがりやで態度はいつも静かで、謹み深く丁寧であった」

万次郎は、帰国後、東京大学(当時は開成学校)の教授とまでなる男である。



万次郎の巨大な原石は、10年に及ぶアメリカ人との生活により磨き上げられていくわけだが、その陰に、無人島から救い出した上に、養子にまでしてくれた「ホイットフィールド船長」がいたことは、望外の幸運であった。

万次郎は、のちに船長のことを、こう述懐している。

「The great Godを除けば、この世で最良の人である」



さあ、そしていよいよ、満を持しての日本への帰国である。

カリフォルニアのゴールドラッシュで巨富をえた万次郎は、「アドベンチャー号」を購入して、一路日本へと旅立った。

しかし、鎖国を堅持する当時の日本は、頭がカチコチで、脱藩でも「死罪」、それが国抜けともなれば……。



万次郎は、なぜ死の危険を犯してまで、日本へ戻ることを望んだのか?

母の待つ地は、万次郎にとって宿願の地であった。 万次郎は母の香りが残る「木綿袷半てん」をアメリカでも10年間大切に扱い、帰国においても、その荷のなかに忍ばせてきていた。

母との再開は無事叶い、晩年には死を看取ることまでできたという。



帰国した万次郎は、白砂に引き出されること18回に及ぶも、万次郎の奇才を理解できた薩摩の開明藩主・島津斉彬などの存在もあり、死罪とはならずに済んだ。

万次郎は先進派からは熱く歓迎されるも、水戸藩などの保守派からは毛嫌いされた。

しかし、日本は明らかに万次郎を必要としていた。彼を理解できた誰もが、のちの大仕事を次々と達成してゆく。



万次郎に触発された「坂本龍馬」は、一気に開眼し、日本を大きく前進させることとなる。

咸臨丸で一緒にアメリカに渡った「勝海舟」「福沢諭吉」も然り。

咸臨丸による太平洋横断という偉業を成し遂げられたのは、万次郎の優れた航海術の賜物である。船長であった勝海舟は、船酔いのため、全く使い物にならず、実質的な指揮をとったのは万次郎である。

万次郎には、難民時代に、アメリカの捕鯨船に乗って、世界7つの荒海を渡り歩いた経験があったのだ。

福沢諭吉(当時26歳)は、万次郎の勧めにより、サンフランシスコでウェブスターの英語辞書を買って帰る。万次郎の勧めは、「学問ノススメ」への道を開いた。

このアメリカ行きで、万次郎は大恩あるホイットフィールド氏とも再会する。この時、万次郎は、身につけていた日本刀を彼に捧げたと伝わる。



鎖国の日本をコジ開けたのは、ペリーかもしれないが、新たな世界観を日本に浸透させたのは、ジョン万次郎だったのかもしれない。

アメリカのクーリッジ大統領は、こう語っている。

「万次郎が帰国したことは、アメリカが日本に親善大使を送ったようなものだ。」

アメリカは、日本以上に万次郎の功績を賞賛している。



万次郎は才能にも恵まれていたが、何より彼の人柄が人々への影響を深めていったのだろう。

「奢ることなく謙虚で、晩年は貧しい人には積極的に施しを行い、役人に咎められても続けていたという。」

「万次郎は不思議な人だ。大名とも話すし、乞食とも話す。」

無類のウナギ好きとしても知られる万次郎は、その大好物のウナギを残してまで、橋の下の乞食友達に、その残りを足繁く持って行っていたという。



時代は急に変化したように見える時でも、その地下では、静かに静かに変化は起こっているものである。

万次郎の語る世界は、人々へ大きな期待を与えたのだろう。

もし、彼が才を鼻にかけるような人物であったとしたら、誰も彼の話に耳を傾けなかったかもしれない。坂本龍馬も、鼻をほじってアクビをするだけだったかもしれない。



時代は動くべき時に、然るべき人物を与えてくれる。

世の中の奇縁は、どこでどうつながってゆくのか、皆目見当もつかない。

自分に与えられる運命は、悲劇であれ幸運であれ、それら奇縁の一つなのかもしれない。

万次郎も、まさか無人島から拾われて、アメリカと日本の架け橋となるとは、無人島にあっては夢想だにできなかったであろう。



のちの栄光は夢想できずとも、万次郎は目先の希望を失うことは決してなかったという。

アホウドリが島を去り、仲間たちは絶望した。それでも、万次郎は仲間を励まし続け、必死で木の実を探しに島を奔走した。

水が尽きてもなお、危険な崖を這い登り、奇跡のたまり水を発見した。

ジョン・ハウランド号が島を離れたように見えた時も、万次郎は必死で船影を追いかけ、島の裏にいた船を発見した。

もし、このとき船影を追わずに諦めていたら、この船は海ガメの卵を手に入れた後は、不幸な少年たちに気づかずに島を去っていたかもしれない。



小さな小さな希望に目を凝らし、ついに万次郎は大きな希望の源となったのである。

まさに、「死中に活あり、苦中に楽あり、壺中に天あり」である。




「幕末」関連記事:
ロシアが日本を襲った「露寇事件」。この事件が幕末の動乱、引いては北方領土問題の禍根となっていた。

江戸の日本を開いた男たち。林復斎と岩瀬忠震。そのアッパレな外交態度。
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2011年07月03日

武士の鑑たる会津藩士。蝦夷地売却という苦渋の決断。

「会津藩」の名が天下に轟くのは、幕末動乱の最末期、新政府軍との激戦が繰り広げられたためである。

10代の少年たちで結成された「白虎隊」は、会津の武士の名を汚すまいと、「自刃」して果てる。

それほどに、会津の武士は誇り高く、その士風は他藩に賞賛されるほどであった。



「大君の義、一心大切に忠勤に存ずべく」というほどに、徳川本家への会津藩の忠節は、ひたむきである。

しかし、時代の大波には、さすがの会津藩といえども抗(あらが)えず、最後は新政府軍に降伏することとなる。



それでも、江戸の無血開城から会津・鶴ヶ城の落城までの数ヶ月間、会津藩は必死になって、徳川再興への道を模索し続けた。

新政府軍に対抗するために、奥羽越の列藩同盟を結成。薩長連合軍の北上を、東北諸藩で食い止めんと図った。

武器は新潟を経由して、フランスの「シュネル」から大量に買い求めた。

戊辰戦争勃発に先立って、アメリカでは「南北戦争」が終結。アメリカに売る予定だった大量の武器が、世界中にあふれており、武器の調達には事欠かなかった。

武器商人にとって、他国の内戦ほどに儲かる機会はないのである。



さらに、会津藩は列強の協力を取り付けんと、プロイセン(ドイツ)に蝦夷地の売却まで申し出る。

会津藩は1859年に北方警備のために、幕府から蝦夷(北海道)の一部(根室・紋別)を譲渡されていた。

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当時の蝦夷地(北海道)は、米がとれないということで、進退窮まった会津藩にとっては、無用の長物。庄内藩(山形)とともに、その管轄地をプロイセン(ドイツ)へと売り渡そうとしたのである。

国土を他国に売り渡そうとするとは、何たる非国民的な行いかと思うかもしれないが、当時の蝦夷(北海道)は、日本であって、日本でなかった。

蝦夷(北海道)を旅した「イザベラ・バード」は、「日本はどこもかしこも誰かの土地で、焚き火も自由にできない。しかし、北海道なら、どこでも焚き火ができる」と書き残しているくらいである。



蝦夷地(北海道)譲渡の話を受けた、駐日プロイセン公使の「ブラント」は大喜び。

「ブラント」は、過去2回ほど蝦夷地(北海道)を訪れており、その土地の価値を充分に評価していたのだ。

「ブラント」に同行した農業の専門家「ゲルトナー」が、北海道が「ジャガイモや麦」などの栽培に最適であると助言したためでもある。「気候は北ヨーロッパと似ており、土地は広大、水は豊か、牧畜には最適である」。

当時の日本人にとっては、国力は「米の生産力」に他ならず、米のとれない蝦夷(北海道)は、その意味で無価値であった。ところが、プロイセン(ドイツ)人にとって、ジャガイモ、麦、そして放牧に格好の土地である蝦夷(北海道)は、ノドから手が出るほどに有益な土地であった。

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しかし、プロイセンの鉄血宰相「ビスマルク」は、この会津藩の申し入れを「却下」。

蝦夷(北海道)を手に入れるということは、ロシア・フランスとの関係悪化を意味したからだ。

ただでさえ、日本の領有を巡り、欧州各国は割れに割れていた。

イギリスは日本の「生糸」の交易を狙って、薩長に肩入れし、フランスは幕府軍に武器を売り込み、内乱を激化させ、ロシアは北の大地を虎視眈々と狙っていた。

プロイセン(ドイツ)は、どちらかというとアジア諸国の植民地化には消極的で、日本に介入しすぎることで、他国との関係を悪化させることを恐れていた。

それほどに慎重であったプロイセン(ドイツ)も、戊辰戦争後、フランスとの争い「普仏戦争」へと突入することとなるのだが‥。

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8月20日、新政府軍に会津攻撃の勅命が下る。

その3日後の23日には、鶴ヶ城を包囲。

落城したと勘違いした「白虎隊」の悲劇は、この時に起こる。



会津藩主「松平容保(かたもり)」は孤立無援の中でも、一ヶ月も激戦に耐える。さすがは蒲生氏郷以来の名城よと謳われる。

しかし、9月22日、容保は降伏を決意。

家老・萱野権兵衛の切腹により、御家断絶は免れるものの、容保は鳥取藩あずかりの禁固刑。許された嫡男の容大は、斗南藩(青森)3万石へと流れてゆく。

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鶴ヶ城の落城とともに、幕府再興の夢が断たれた会津藩であったが、それでも諦めない会津武士たちもいた。

彼らは、かつて武器を融通してくれたフランスの「シュネル」とともに、アメリカへと落ち延びる。「シュネル」には、「会津の将軍」と呼ばれるほどに日本贔屓な面があったようだ。

会津武士たちは、カリフォルニア州に「ワカマツ・コロニー」という入植地をつくり、いつかの再起を夢見て、力を蓄えんと、「クワ・竹・お茶」などを栽培。

なかでも「クワ」は、会津の人々にとって格別の思い入れがあった。お隣・米沢藩の上杉鷹山が地域振興にクワの栽培を奨励して成功したこともあり、会津の人々にとってのクワは、復興のシンボルでもあったのだ。

会津の武士たちは、地域のアメリカ人にも評判で、その礼儀正しさや武士らしさを高く評価されていたようである。

しかし、彼らが日本に戻れたかどうかは定かではない。

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会津藩がプロイセン(ドイツ)に、蝦夷地(北海道)を提供したという事実は、近年の外交文書により明らかになった事実である。

そして、その実現に動いたのが、駐日プロイセン公使の「ブラント」と、農業専門の「ゲルトナー」。

特に「ゲルトナー」は積極的で、函館近郊の地の開拓を開始していたという。

その時に植えられたのが、ジャガイモや麦、トウモロコシなどの現代の北海道を代表する作物。つまり、ゲルトナーの開拓戦略は、クラーク博士を経て、後世に受け継がれたこととなる。

北海道の農産物は、プロイセン(ドイツ)由来のものが多いのは、そのためである。



江戸から明治にかけての日本は、一歩間違えれば、植民地化されていた可能性すらあった。

それでも、日本は日本として生き残った。

神州ニッポンを外国人に穢されてはなるものかと、皆必死だった。

それは、新政府軍であろうが、旧幕府軍であろうが、同じ想いであったろう。

日本の誇る、会津の武士魂。その最期の煌(きら)めきは、現代日本人も賞賛し、涙するところである。



出典:BS歴史館 発見!戊辰戦争
「幻の東北列藩・プロイセン連合」
posted by 四代目 at 12:36| Comment(6) | 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月25日

先走りすぎた平賀源内のエレキテル。才は才を知る。杉田玄白との親交。

夏といえば「ウナギ」というほどに、「土用の丑(うし)の日」は、日本で名高い。

五行説では「火」の性質が強まる夏。「火は土を生じる」とされ、夏の土用は「土」の力が強くなり過ぎてしまう。

バランスを第一と考える陰陽五行説にとっては、何とか「土」の力を抑えなければならない。「水は土を剋す」というように、「土」を抑えるのは「水」である。

「水」の季節である冬の「丑月(12月)」にあやかり、「丑の日(12日に一度)」に「丑(うし)」を食そうとなった。

ところが、江戸時代の牛は、おいそれと食せるものではない。そこで「う」から始まる「水」に住む「ウナギ」の出番となったのである。



江戸時代、鰻屋は「夏にウナギが売れぬ」と愚痴っていた。

そこに上記のような頓智(とんち)を効かせて、ウナギを売ったのが「平賀源内」と伝わる。

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平賀源内といえば、「エレキテル」である。

電気を発生させるという、当時ではトンでもない発明にもかかわらず、その用途を見出せぬまま、彼は一生を終える。

早過ぎたのである。

時代が彼に追いつくのは、ペリーが浦賀に現れて以降であり、彼の死後70年以上がたってからである。

天下の「先走り男」・平賀源内は、江戸随一の多芸多才であったにも関わらず、「貧家銭内(ひんか・ぜにない →ひらが・げんない)と自嘲するほどに、身銭に窮した。



江戸時代に「特許」や「印税」の概念はなく、源内がどれほど優秀な発明(100以上の発明がある)をしようとも、どれほどベストセラー(幾多と書いた)を世に送ろうとも、一銭の収入にもならない。

一山あてようと、鉱山開発に熱中するも、山は当たらず、借金は億を数えた。



四国の「天狗小僧」。

平賀源内の子供時代のアダ名である。

「御神酒(おみき)天神」という源内作の掛け軸は、お酒を供えると、天神様の顔が真っ赤に酔っ払うという、それはそれは不可思議なものであった。

知性に溢れながらも、野山を駆けずり回り、実地の学問を身につけていった源内。長崎に遊学した時(25歳)に、そのタガが外れた。

異国の文物は、一発で彼を魅了したのだ。



四国を飛び出した彼は、一路江戸へとヒタ走る。

路上の有馬温泉で一句、

「湯上りや  世界の夏の   先走り」

若き日のこの一句は、その後の源内そのままであり、彼は死ぬまで先走り続けることとなる。



彼の著作に「放屁論」という、奇抜な作品がある。

「音に三等あり。ブツと鳴るもの上品にしてその形円(まろ)く、ブウと鳴るもの中品にしてその形いびつなり、スーとすかすもの下品にて細長い」

源内は「珍奇」をこよなく愛し、常識的なものを蛇蝎のごとく軽蔑した。

「俳人は芭蕉のヨダレをねぶり、茶人は利休のクソをなめる」

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江戸庶民には抜群の人気を博した源内。

しかし、金がない。才能が金にさっぱり結びつかない。

そんな悩める源内に一報が飛び込む。

親友であった杉田玄白の「解体新書」完成である。

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源内と玄白は、若き日に夢を語り合った仲だ。

オランダ語の書物の翻訳を玄白に勧めたのは、他ならぬ源内である。

玄白は、己の道を一心に、ついには偉業を成し遂げた。

反面、源内は溢れる才能をあちこちに散らし、いまだ窮している。



玄白の偉業に触発された源内は、一念発起、エレキテルの偉業に取り掛かる。

苦節6年、原理もよくわからぬままに、エレキテルは完成する。

当時の実用性はどうあれ、現代の我々も知る偉業である。



しかし、心魂を注いだエレキテルに、人々は「へー、ほ〜」と珍しがるのみ。それ以上でも、それ以下でもなかった。

腐った源内は、エレキテルを「屁(へ)れきてる」と名を変えようかと卑下する始末。

酔いの席で、設計図を盗った盗らないの問答から、源内は人を殺めてしまう。

源内の異才は、世に生かされることなく、獄中に埋没してしまう。



平賀源内は、生まれる時と場所を間違えたのであろうか?

もしも、もう少し遅く生まれていれば、明治の電気時代を牽引したかもしれない。もし、イタリアに生まれていれば、ルネサンスの寵児となったかもしれない。



源内の偉大なる「勇み足」を、玄白は心底惜しんだ。

玄白は、源内の葬儀を営む。しかし、源内は罪人。幕府の許可が下りず、遺体のない葬儀となった。

玄白が私財を投じた源内の墓は、今も東京に残る。



その墓碑には、こう書かれている。

「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常」

ああ非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや

ああ、変わり者の源内よ、好みも行いも常識を超えていた。それでも、死ぬ時くらいは、普通に畳の上で死んで欲しかった‥。



源内の先進性は、江戸の保守性とは、水と油であった。

江戸という時代に、彼は拒絶された。



それでも、彼の魅力は色あせない。

彼の偉業は、現代の我々を鼓舞してやまないのだ。

誰一人、彼を罪人などと非難しようか。

日本の鬼才ここにあり、である。



出典:歴史秘話ヒストリア
「痛快!江戸のお騒がせ男〜天才・平賀源内の先走り人生」

posted by 四代目 at 08:00| Comment(3) | 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月16日

東洋のエジソン「田中久重」。江戸時代の万年時計の刮目すべき技術力。

「東洋のエジソン」とは?

江戸末期から明治にかけて、発明に発明を重ねた「からくり儀右衛門」こと「田中久重」のことである。

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彼の発明は、時計、大砲、蒸気船、電話‥‥、と大小多岐にわたり、後に「東芝」を起こすこととなる。



彼の優れた発明品の中でも、逸品とされるのが「万年時計」である。

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一日、二日で止まってしまう時計が当たり前であった時代に、彼の万年時計は、一度ネジを巻けば、一年間、時を刻み続けた。



この逸品のレプリカを復元しようと、現代の工匠たちが立ち上がった。

2005年の愛知万博にて展示されたレプリカ。

その復元には100人の技術者が携わり、1億円の巨費を投じたにも関わらず、完全な復元には至らなかったという。



この「万年時計」の最大の特徴は、「和時計」であることだ。

「和時計」とは?



江戸時代、人々は太陽とともに暮らしていた。

「日の出」とともに起き、「日の入り」とともに眠る。

ご存知の通り、「日の出」と「日の入り」は一定ではない。毎日少しずつ変わり、季節によっては、大きく異なる。



江戸時代、真昼と真夜中の12時(九つ)は「不動」の時刻であったのに対し、日の出入りの時刻(六つ)は、季節・昼夜により大きく「変動」した(不定時法)。

このことは、西洋時計に慣れ親しんだ「現代の日本人」には解りにくい。



江戸の時間は、「刻」という単位(一日に12の刻)を使うが、季節によって「一刻」の長さが異なる。

昼夜の長さが同じとなる「春分・秋分」は、一刻は「2時間」。単純に一日の24時間を12(刻の数)で割った時間である。

ところが、「夏至」は昼が最も長いため、日中の一刻はおよそ「2時間30分」にもなる。かたや、夜は短いので、夜中の一刻はおよそ「1時間30分」ほどにしかならない。

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「冬至」の場合も然り。夏至とは昼夜の一刻の長さが、真逆になる。

このように、江戸時代の「一刻」という時間の単位は、「季節・昼夜」によって、長く伸びたり、短く縮んだりするのである。その差は最大で「1時間」にもなる。



さて、この「伸び縮みする時間」を、どう時計で表現するのか?

田中久重の「万年時計」では、文字盤の数字の間隔を「伸び縮みさせる」ことで表現した。

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江戸時代の時計には、「割駒(わりこま)式」という、文字盤の数字を動かす方式の時計はあったが、それは手動であった。

田中久重の万年時計では、文字盤の数字が自動で動いた。少しずつ数字が離れて行ったり、近づいて来たり、実に精妙な細工である。

この細工には「虫歯車」と名付けられた、特殊な歯車が使われており、その仕組みは、現代の工匠たちを唸らせたほどの巧みさであった。



日本に西洋の時計が伝わったのは、鉄砲伝来と同じく「戦国時代」。

しかし、西洋の時計は一定のリズムで動き続けるだけなので、伸縮自在の江戸の時間には、まったく対応できず、実用価値がなかった。

そのため、西洋の時計が江戸に普及することはなかった。



江戸時代に、時計を作る技術がなかったわけではない。

鉄砲が伝来するや、またたく間に模倣し、普及させた当時の日本人。西洋の時計を模倣することも、さほど難しいことではなった。

しかし、生き物のように伸び縮みする「江戸の時間」を再現する時計(和時計)を作るのには、手こずった。

どうしても全自動とはいかず、何日かごとに手動で調整する必要があった。

全自動の和時計の完成は、田中久重の登場を待たねばならなかったのである。

結局、江戸の人々は、時計に頼ることなく、太陽を感じ、時を知らせる「お寺の鐘の音」とともに、寝起きを繰り返した。



久重の「万年時計」が完成したのは、1851年。明治まで20年を切っていた。

時が明治に移るや、従来の暦は廃され、江戸の時間は、西洋の時間に置き換えられた。



開国とともに、無関税の「ボンボン時計」がアメリカから大量に流れ込み、日本の「和時計」は一気に駆逐される。

日本の時計職人たちは、一斉に職を失った。しかし、複雑極まる「和時計」を手掛けていた彼らにとって、西洋の時計は単純極まりない。

こうして、国産時計の逆襲が始まる。

日清戦争の頃までには、日本から輸入時計は姿を消した。

「メイド・イン・ジャパン」の時計の評価は高く、アジア全域のアメリカ時計を一掃するほどであった。



田中久重の「万年時計」は、160年たった今でも、色褪せることがない。

天頂部では、「太陽と月」が時とともに動き、その高度を表現。

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6面ある中央部では、「和時計」「西洋時計」、「月の満ち欠け」、「二十四節気」、「曜日」、「十干十二支」が示される。

久重自身も、この時計の出来には大層満足し、大金を積まれても、決して他へ譲ることなく、自分の元へ置き続けたという。



世界に誇る日本の「モノづくり」。

田中久重は、西洋の技術を取り入れながらも、決して「日本の魂」を忘れることはなかった。

「和魂洋才」

久重は、江戸から明治という「激変」に身を置きながら、西洋を巧みに利用し、「和の心」を常に持ち続けた。

その心が、世界の「東芝」を生み、現在の日本の「モノづくり」を支えている。



出典:直伝 和の極意
あっぱれ!江戸のテクノロジー 
第2回「田中久重 万年時計の極意」
posted by 四代目 at 08:09| Comment(1) | 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする