彼の鉄砲は「能(よ)く当たる」ということで、その銘に「能当」を用いることを例外的に許されたという。

この鉄砲名人の一貫斎、晩年には、その卓越した技術を駆使して、自らの手で「天体望遠鏡」を制作し、「天体観測」に明け暮れていたという。
「このごろは、毎日の観測を楽しみにしており候(そうろう)」
一貫斎の天体観測は、「老後の楽しみ」とは思えぬほどに精緻を極めた。
「月のクレーター」から、「太陽の黒点」、果ては「土星の衛星(タイタン)」の詳細なスケッチ画までが、現在に残る。
太陽黒点の観測に関しては、一年以上(1835年2月3日〜1836年3月24日)にわたり連続して行われており、その観測データは、当時先進のヨーロッパのデータと比較しても、遜色のないほど「科学的に忠実」であったという。

世界トップクラスの観測精度を支えたのが、自作の「天体望遠鏡」である。
反射式と呼ばれるこの望遠鏡は、高い倍率(70倍)にもかかわらず、実にコンパクトである。

そして、高性能である。当時のイギリス製の同型の望遠鏡の「2倍の倍率」を持ちながら、その像は、より鮮明であったという。
反射式望遠鏡の精度を左右するのが、像を反射させる「鏡」である。
一貫斎の望遠鏡は、この「反射鏡」が実に優れている。
いくつか優れた点があるのだが、その一つが「研磨の精度」である。
「中心部と周辺では、その研磨の深さを変えたほうが、よく見える」と一貫斎は記録しているが、これは「放物面鏡の研磨方法」である。
反射鏡をただ球状に研磨しても、像は一点に集まらない(像がぼやける)。放物面に沿って研磨することで、像は一点に集まり、見える画像がよりシャープになるのである。
一貫斎の反射鏡の放物面のカーブは、現代の望遠鏡のカーブと、ほぼ一致するほどに完璧な出来であった。
一貫斎の反射鏡は、現在の量産型の望遠鏡よりも精度が高いと言われている。

さらに、反射鏡の「材質」が優れている。
反射鏡の材質は、「銅」と「錫(すず)」である。反射鏡の優劣は、この2つの素材の割合で決まる。
「銅」は10円玉のように、赤っぽい色をしている。そこに「錫(すず)」を混ぜることにより、白色に近づき、像を綺麗に反射するようになる。
しかし、「錫(すず)」を混ぜすぎると、今度は成型が難しくなり、ヒビが入ったりして使い物にならなくなる。

一貫斎は反射鏡の「錫(すず)」の割合を、ギリギリまで増やした。
ヨーロッパでも見られないほどに、その割合は高い。
鉄砲づくりで培った高い技術は、反射鏡を最高の「銀白色」にすることを可能にしたのである。
さすがの一貫斎でも、この脆(もろ)い金属を作り出すのには、3年近い年月がかかったという。
しかし、その成果は十分すぎるほどであった。
一貫斎は、「100年曇らない鏡を作る」と明言したが、180年たった現在においても、その反射鏡には一点の曇りもない。
「曇りやすいと言われている金属鏡が、なぜ曇っていないのか?」
現代の技術をもってしても、科学者たちが頭を悩ますほどである。
江戸の技術の何と優れていることか。
一貫斎は、望遠鏡に限らず、様々な分野で独自の創造性を発揮した。
「風船を作りて、空を行く。翼を作って、鳥を翔ける」と言い、「飛行機」の研究にまで乗り出している。
ここまで来ると、もはや「東洋のレオナルド・ダ・ヴィンチ」である。
もし、彼に十分な時間が与えられていたら、彼のもつ高い技術と志は、ライト兄弟をも凌ぐ成果を上げ得たかもしれない。
類マレな天体望遠鏡を知れば知るほどに、そう空想してみたくもなる。
一徹な職人気質をもっていた彼は、現役を退くまで、愚直に鉄砲を作り続けた。
世界に誇る天体望遠鏡は、定年後の10年足らずで完成させたものである。
世界が賞賛する高い精度にもかかわらず、一貫斎は命尽きるまで改良を続けていたという。
彼の楽しみは、死ぬまで尽きることがなかったようである。
1991年、杉江淳氏は、新たな小惑星を発見し、その小惑星を「Kunitomoikkansai(国友一貫斎)」と命名した。
発見した天文台が滋賀県にあったため、かつて長浜(滋賀県)で活躍した「国友一貫斎」に敬意を表して命名したとのことである。
一貫斎は、日本の天文学の草分け的存在でありながら、広く知られることがなかったが、この命名以来、一躍世界に注目される存在となった。
彼の業績は、望遠鏡の歴史として、ガリレオ・ニュートン等と並んでいても、決して引けをとるものではないだろう。
出典:直伝 和の極意 あっぱれ!江戸のテクノロジー
第7回「国友一貫斎 反射望遠鏡の極意」