2013年06月22日

会津の悲劇「二十一人の墓」と家老・西郷頼母



幕末、とどめようのない時代の激流の中、「会津藩」は絶望的な戦いへと追い込まれていった。

そして、新政府軍との戦火に包まれる会津若松城。



男たちばかりでなく、女も子供たちも立ち上がった会津。

「白虎隊の墓」は、自決した少年たちを弔うためのもの。そして、その墓から3kmほど離れたところには「二十一人の墓」があり、今も多くの人々が供養に訪れる。



その「二十一人の墓」は、会津戦争における女性たちの悲劇の一端を物語る。

祀られているのは、会津藩家老・西郷頼母(さいごう・たのも)の妻や娘ら21人の女性たち。2歳の幼子から77歳の老女を含む西郷一族の女たちである。



なぜ、彼女らは死なねばならなかったのか?

西郷家の女たちが皆死んだ一方、当主である西郷頼母は、明治の世まで長く生き延びる。

なぜ、頼母は生きねばならなかったのか?






◎会津の血



会津藩の西郷家というのは、初代・会津藩主「保科正之」の分家であり、代々「筆頭家老」の由緒ある家柄。

本来、会津西郷家は藩主と同じ「保科姓」を名乗ることを許されるほどの身分であったが、初代・西郷近房が養子ゆえにと固辞したとされる。その行いに感じ入った藩祖・保科正之は、西郷家に保科家の家紋(九曜紋)を用いるよう言い渡したという。

一方、最後の会津藩主となった松平容保(まつだいら・かたもり)は、美濃高須藩・高須四兄弟の一人であり、遠くは水戸徳川家に血を引くものである。



江戸という時代は、そうした血筋が重んじられる時代であったため、藩主・筆頭家老ともに徳川将軍家に近い会津藩は、幕末の動乱にあってその血に縛られていくことにもなる。

藩祖・保科正之は、3代将軍・家光の弟であり、筆頭家老・西郷家は、桶狭間の合戦以後から松平元康(のちの徳川家康)に臣従した古き家柄。

会津藩には、まるで徳川将軍家と命運をともにする運命が仕込まれていたかのようである。



そのことが明文化されているのが、藩祖・保科正之の定めた「家訓15ヶ条」。

その第一に、「大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず」とある。

たとえ他藩が将軍家を裏切ろうとも、会津藩は幕府に一心忠勤を励むことを義務づけているのである。



そうした気風に200年以上も育てられていった会津藩士。

「武士中の武士」と称えられる一方で、「頑迷固陋(がんめいころう)」ともいわれていた。古いものを大切にしすぎて、頭が固くなっていると言われていたのでる。

そうした頑固で融通の利かない会津武士のなかでも、ひときわ頭が固かったのが家老「西郷頼母」と云われる。たとえ相手が藩主といえども容赦はなかった。










◎京都守護職



会津藩主・松平容保(かたもり)と、家老・西郷頼母(たのも)が最初に衝突するのは、「京都守護職」を拝命するか否かであった。

猛然と反対する頼母。

「火中の栗を拾うようなもの!」

「薪(たきぎ)を背負って火を消しに行くようなもの!」

「決して、引き受けてはなりませぬ!」



当時の京都は、倒幕に燃える過激な勢力の巣窟となっており、幕府要人の暗殺が相次いでいた。

その治安を守るために、幕府は「京都守護職」を設置(1862)。その重職を、「幕府忠勤第一」の会津藩に要請してきたのである。

だが、バリバリの幕府派である会津藩が都に入れば、それは頼母の言う通り「薪を負て火を救う」ようなもの。かえって火に油と思われた。



だが、頼母の進言は容れられず、藩主・容保は兵を率いて上洛。

そして案の定、都で度重なる騒乱に巻き込まれた会津藩。必死で火を消したものの、逆にのちの恨みのタネを蒔くことにもなってしまう。



一方、藩主を諌めた頼母は家老職を解かれ、蟄居を命じられる(頼母34歳)。

以後5年間、頼母は会津長浜村での幽居生活を強いられることとなる。






◎白河城



ふたたび頼母が「家老への復帰」を命ぜられるのは、徳川幕府崩壊後、新政府軍が怒涛のごとく東北地方へと進軍をはじめてからだった。

新政府軍の掲げる大義名分は「朝敵討伐」。

会津藩は天皇をお守りするために京都守護職に就いたはずだったが、都でのイザコザの末、いつの間にか「朝敵の汚名」を着せられていたのであった。



新政府軍はその朝敵の藩主・松平容保の首を差し出せというのだから、まったく穏やかではない。頑迷固陋な会津武士たちが激昂するのも無理はなかった。

だが、その殺気立った中にあってなお、家老・西郷頼母ばかりは「恭順降伏」を訴えた。しかし、その頼母の声は主戦派たちの叫び声にかき消されてしまう。

「義をもって倒るるとも、不義をもって生きず」

いわれのない朝敵の汚名を着せられたまま生きるより、義を貫いて倒れたほうがよい。それが会津藩の総意となった。



ならばと、自らが白河総督として頼母は出陣。東北地方の玄関口であり喉元でもある「白河城(小峰城)」の守りに就いた。

白河城に集結したのは会津兵ばかりでなく、新撰組や奥羽越列藩同盟の兵も含め2,500。この城の墨守は、東北地方全体の命運を左右するほどに重いものだった。

対する新政府軍は、伊地知正治(薩摩藩)率いるわずか700。数は旧幕府軍の3分の1以下。だが、彼らは最新の洋式銃を携えていた。



結果は、会津ら旧幕府軍の惨敗。城は新政府軍の手に落ちた。

焦った会津軍は白河城奪還のため7度も城を攻め立てるも、まるで刃が立たない。

白河城を巡る攻防激戦は100日間にも及び、この間、同盟軍の死者は927人を数えた。その一方、新政府軍の死者は113人にとどまる。武器、戦略の差は歴然であった。






◎籠城



喉元たる白河城を失った会津は、糧道を抑えられ日干しにされてしまう。武器や弾薬なども入らい。さらに悪いことには、この敗戦を機に、後ろ盾となっていた奥羽越列藩同盟はモロモロと崩れはじめる。

敗戦の責を問われたのは、白河総督たる家老・西郷頼母。登城差し止め、蟄居処分を受けることになった。



そうこうするうち、新政府軍はついに会津若松城下へと迫り来る。

アームストロング砲をぶっ放しながら進軍する新政府軍。町は次々と焼け野原に変わっていく。



大混乱に陥った会津の民。ガンガンと打ち鳴らされる半鐘とともに、われ先にと若松城へと殺到。老若男女合わせて5,000人ほどが詰めかけた。

蟄居していた西郷頼母も、居ても立ってもいられず、あえて禁を犯して登城する。

その頼母の背を見送る妻・千重子(34歳)。彼女をはじめとする西郷家の女たちは、城へは行かぬことと心に決めていた。



「幼子を伴い、かえって繋累とならんことを恐る」と会津戊辰戦史にはある。

西郷家の女たちは、城に入り足手まといとなることを恐れたのであった。

すでに会津への糧道は絶たれ、5,000人以上にも膨れ上がった籠城者たちに食わせるだけの食糧は城中にもうなかった…。










◎死出の支度



頼母の妻・千重子は上級藩士の家柄で武士の娘、しかも「武士中の武士」会津武士の教えをその身に染み込ませて育っていた。「強い意志をもった気品ある女性であった」と伝わる。

西郷家に嫁いできたのは千重子24歳の時。以後、6人の子供たちを次々と授かった。母・千重子は、子供たちには「会津の教え」である「忠孝礼儀」を重んじるよう諭し、娘たちにも凛とした気概を育んでいったという。







そうした武士の女の決意は固かった。

自害、である。

屋敷に残ったのは、妻・千重子のほか、娘5人をはじめとする一族21人。頼母の母と祖母、妹たちもそこにいた。



死出の支度をはじめる千重子。

娘らにも、死装束の縫いつけを手伝わせる。

「幼き子の、おのれと肌着の襟袖つける(栖雲記)」



頼母の長女・細布子(たいこ)16歳、次女・瀑布子(たきこ)13歳は、「辞世の歌」を詠む。

「手をとりて ともに行きなばまよはじよ(次女・瀑布子)」

「いざたどらまし 死出の山みち(長女・細布子)」

家族が一緒ならば、道に迷うこともなく、あの世へと行くことができるはず。それが姉妹2人の遺した最期の願いだった。






◎自害



しんと静まりかえった邸内。

城下の喧騒が遠くに聞こえる。



その一室に居並ぶ、白装束の女たち21人。

2歳の末娘・季子は母・千重子の腕の中で、無邪気にも戯れる。

三女の田鶴子(8歳)は分かっていたかもしれないが、四女の常盤(4歳)はどうか。



皆で水杯を上げたあと、白装束は次々と血に染まっていった。

母・千重子は決然と三女・田鶴子を刺し、驚き泣き叫ぶ四女・常磐をも「汝も武士の子ぞ」と刺す。そして泣く泣く2歳の季子も…。

心を鬼とした千恵子、自らを刺すことは、むしろ救いにも感じられたかもしれない…。



武士の血を貫いた千重子は、こう辞世を詠んでいる。

「なよ竹の 風にまかする身ながらも たわまぬ節はありとこそきけ」

弱々しき女の身は、あたかも風に揺れるばかりの細い竹のよう。だが、決してたわむことのない節もある。



西郷一族の女たち21人。

彼女らは、会津女として藩に殉ずる気概を、ここに示したのであった。






◎追放



城に入った頼母もまた、討ち死にする覚悟を決めていた。

だが、その城内、死を覚悟した者たちばかりではなかった。

「和を唱ふる者あり(会津戊辰戦史)」

新政府軍によるあまりに激しい猛攻に怯み、重臣たちの中からも講和降伏の声が上がっていたのである。



「いまさら何を申すか!」

頼母は、その弱腰に激怒した。

「この期に及んで降伏すれば、会津の名は地に堕ち、恥を晒すだけじゃ!」

もとは「恭順降伏派」だった頼母、ここでは一転、「強硬な主戦派」となっていた。おそらく妻らの死を知っていたであろう頼母、もはや一歩も退けるものではなかった。



だが、落城を目前とした状況にあって、頼母の強硬姿勢は降伏派の重臣らにとっては疎ましいだけであった。一説によれば、頼母は藩主・松平容保への切腹を迫ったと云われる。

この後、煙たがられた頼母は城を追われる。越後口への使者として城から出され、さらには刺客が差し向けられた。

刺客の命を受けたのは、大沼城之介と芹沢生太郎。だが、両名は暗殺の命令をきかず、「西郷を見失った」と報告したという。



そのおよそ一月後、会津藩は降伏。

徹底抗戦した会津藩の犠牲は、女性や老人、子供らも含め3,000人にも及んだという。










◎生をぬすむ



城を追われた頼母は、長男・吉十郎11歳と一緒であった。

妻・千重子は、長男・吉十郎ばかりには、城に入って父上とともに戦うよう命じていたのであった。



以後、頼母は息子とともに旧幕府軍に合流。米沢から仙台を経て、函館の五稜郭に入る。

当然、そこに死に花を散らせる覚悟を決めていた親子であったが、幸にも不幸にも、最後まで生き延びてしまう。



以後、館林藩に幽閉された頼母。死にきれなかった自責の念を、当時の漢詩に残している。

「呼鳴全家粉黛生死節伯也碌々僅偸生」

ああ全家の粉黛(女性たち)ともに節(みさお)に死し
伯は碌々としてわずかに生をぬすむ

母や妻、娘たちは道理(節)を守って死んでいったというのに、自分は盗むように細々と生き延びてしまった。



だが、生き残ってしまった今、頼母には成すべきことがあった。

「ただ願わくは、豚犬の少しく事を成さんことを」

「豚犬」とは会津から一緒に逃れてきた長男・吉十郎のことである。頼母の唯一の願いは、この長男を無事成長させ、名門・西郷家の血統を守ることにあった。

きっと亡き妻も、それを望んでいただろうと思われた。






◎長女・細布子



会津戦争が終わってから、頼母は人伝えに妻娘らの最期を聞いていた。

当時の土佐藩士・中島信行(のちの衆議院初代議長)は、その様子をこう残している。

「自分等は一挙して会津城を攻め落さうといふので、城門の前に押し寄せた所が、其の所に大きな屋敷があった。しきりに鉄砲を打ち込んでみたが、人の居る様子がない。それから打ち方を止めて内に入って、長い廊下を通って奥座敷に行ってみると、婦人達が見事に自刃していた」



「その内の16〜17歳のあでやかな女子が未だ死に切らないで足音を聞いて起きかへった」

この話を聞いた頼母は、その歳の様子から、それは長女・細布子(たいこ)であろうと思った。

細布子は不覚にも急所を刺し誤ったらしく、死ぬに死にきれずにいたのである。



中島は続ける。「この時はもう眼もくらんで見えなかったらしく、かすかな声で『敵か味方か』と言った」。

息も絶え絶えの細布子を憐れに思った中島は、わざと「味方だ」と答える。

すると安堵したかのような細布子。懐を探り、そっと懐剣を中島に差し出した。



「それではこれにて命を止めてくれいといふことであった」と中島は語る。

「自分は見るに見かねたから、涙を振って首を斬って外に出た…」



その話を静かに聞いていた頼母は、頭を垂れ、ただただ中島の介錯に感謝していたという。

「厚意を謝するのみ」と頼母の自叙伝「栖雲記」にはある。

細布子が中島に差し出した懐剣には、西郷家が藩祖・保科正之に許された紋章「九曜紋」があったという。






◎流浪



頼母が館林藩の幽閉を説かれるのは明治3年(1870)。頼母は41歳になっていた。

だが、もう帰るべき故郷はない。会津藩は事実上解体されており、かつての会津藩士たちは斗南藩(青森)のほか、全国ほうぼうに離散していた。

必然、頼母と息子・吉十郎も、各地を転々と放浪せざるを得なかった。



その消息は定かならずも、最初に足跡をとどめたのは伊豆半島、現在の静岡県松崎町だったようである。

その小さな町の私塾で、頼母は歴史や漢学を教え、なんとか糊口をしのいでいたという。それでも生活はカツカツであり、大切にしていた書籍(孝義録)を借金の方に手放したとも伝わる。

もはや頼母には、会津という大藩の筆頭家老という面影はどこにもなかった。



伊豆に来て3年、頼母はふたたびその地を失う。

明治新政府が公立の小学校を定めたことにより、私塾が閉鎖を命じられたのである。

またしても近代化の波に弾き出された頼母。これを機に伊豆を去る。



その後、頼母は磐城国(福島)の神社の宮司となった(当時45歳)。

だがその3年後、西南戦争に加担したという疑いで職を失ってしまう。

じつは会津西郷家は、薩摩の西郷隆盛の家とその元を一にしていた。ともに「菊池氏」の流れを汲むと考えられ、それゆえに、頼母には「西郷隆盛と気脈を通じているのではないか」との疑いがかけられたのだという。






◎カタツムリ



果てもなく続く放浪の旅。

その苦境の中、頼母は唯一の生きる理由であった「長男・吉十郎」までをも失ってしまう。

病にかかり亡くなった吉十郎。まだ22歳の若さであった。



「只ひとり残れる子を失い 心の中 実にせん方なき(栖雲記)」

ついに、頼母はたった一人になってしまった(頼母50歳)。



詮方なき頼母は、カタツムリに自身の心情を映す。

うらやまし
角をかくしつ
又のべつ
心のままに
身をも隠しつ

角を自由に出し入れできるカタツムリは、その身を殻の中に隠すこともできる。その様を頼母は羨んだ。

できれば自分も隠れたい、死んでしまいたいとも思ったであろうか。










それでも生きた。

長男を失った直後に撮られた頼母の写真が今に残るが、そのアゴヒゲを伸ばしに伸ばした様子は、まるで全てを捨て去ったかのような虚心の表情をしている。










◎運命



日光で、かつての藩主・松平容保と顔を合わせたのは奇縁であった。

容保は日光東照宮の宮司となり、頼母は禰宜となり、容保の補佐役となったのだ。

幕末の動乱期、なにかと衝突し合った両者。頼母の方が5歳年上で、その血も徳川家に近かった。それゆえに、その確執も噂されるが、大権現「徳川家康」の前ではどうだったであろう。







昔語りをしたかは知らぬが、以後、頼母の運命は巻き戻されるかのように、会津へと引き寄せられていく。

頼母は59歳の時に、現在の福島県伊達市にある「岩代霊山神社」の宮司となった。



その神社の境内には「姿三四郎」の姿があった。伝説の投げ技「山嵐」などで有名な柔道家・姿三四郎は、頼母の養子「西郷四郎」であるという。

西郷頼母は、会津藩に代々伝わっていた「大東流合気柔術」を2人の男に直伝したと伝わる。一人は養子・西郷四郎であり、彼はのちに嘉納治五郎に師事し「柔道」修行に励むことになる。もう一人は武田惣角であり、彼の弟子であった植芝盛平はのちに「合気道」を大成させることになる。

いわば、会津武士の魂の一部は、柔道と合気道の中に今も受け継がれているのである。



長男・吉十郎を失い、一時は生きる目的を失ってしまった西郷頼母であったが、頼母が生きたことが日本の武道の継承にもつながっていた。

もし、そのか細い糸が絶たれていたとしたら、会津の魂は武道の中に入り込むことがなかったかもしれない。










◎二十一人の墓



会津を離れ30年、頼母は70歳にして帰郷を果たす。

会津・善龍寺を訪れると、そこには「二十一人の墓」が建っていた。

伝え聞いていた、西郷一族21人の女たちが眠る墓である。



その21人の亡骸を埋葬したのは、一人の少女であったという。

頼母の姪・登世子は当時16歳。会津戦争が終わったあとに西郷屋敷を訪れた登世子は愕然とする。あの広大な邸宅が、すべて焼け落ちていたのである。

かつて筆頭家老・西郷家の大邸宅は、会津若松城の真正面に位置し、その屋敷面積は2,400坪という会津藩士の中でも異例の広さであった。



だが、それはもう灰燼に帰していた。

自決した女たちの遺骨さえ、野ざらしのままであった。

その惨状に心を痛めた登世子。泣く泣く灰の中から遺骨を拾い集めたという。



寺に行く途中、背に負った籠の中、遺骨が擦れ合って「かたかた、かたかた」と小さな音をしきりに立てる。

「『かたかた、かたかた』と小さい音が、自分に何かを語りかけてくるようでもあった」と、登世子は回想録に記す。



現在、その「二十一人の墓」のある善龍寺には、妻・千重子が詠んだ「なよ竹」の歌碑も建てられている。

そして、その脇には小さく「西郷頼母の墓」がある。



頼母の墓石には、自分の号「保科八握髯翁」の名とともに、妻・千重子の名も並んで刻まれている。

当時、夫婦の名を並んで刻むのは大変に珍しいことだったという。



74歳まで生きた西郷頼母。

長い漂泊の果てにふたたび帰ってきた故郷・会津。

いまは静かに、妻・千重子とともに眠っている。



酸っぱいばかりと思われた頼母の人生。

それがその最期に、ほんのりとだが、甘みを帯びるのであった…










(了)






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出典:NHK歴史秘話ヒストリア
「妻たちの会津戦争 反骨の家老・西郷頼母と家族の悲劇」
posted by 四代目 at 09:37| Comment(3) | 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月21日

もっとも名古屋らしい殿様、徳川宗春。


その名古屋のお殿様は、まさか自分が殿様になるなどとは考えていなかったのかもしれない。

なにせ、彼は長男でもなければ次男でもない。なんと二十男だったのである。それゆえに、若き日々を気ままな遊び人として送ることも許されていたのである。

ところがなんと、兄上たちには次から次へと不幸が襲う。あまたといた彼の兄弟のうちで成人できたのは、彼を含めてたったの5人。あれよあれよと彼はお殿様へとなってしまった。

そのお殿様というのが尾張藩7代藩主「徳川宗春(とくがわ・むねはる)」。宗春以降の名古屋は、彼の気風のままに、ド派手で豪華な路線を突き進むこととなり、それは現代の名古屋にまで通じることになったのだとか…。



◎気ままな二十男



「徳川宗春(とくがわ・むねはる)」が生を受けるのは、元禄文化が華やかなりし真っ最中。しかも天下の名古屋城、御三家筆頭の尾張徳川家のもとである。父(3代藩主・綱誠)は物心もつかぬうちに亡くなってしまうが、跡を継いだ兄(4代藩主・吉通)には相当に可愛がられたようである。

しかしこの後、尾張徳川家は呪われたかのように藩主の死が重なる。そして気がついたら二十男であった宗春にまでお鉢が回ってきてしまっていたというわけだ。

気ままな二十男が一転、責任重大な御三家の筆頭・尾張徳川家を相続することとなったのである(ちなみに、徳川宗家以外で将軍を出せるのは、尾張徳川家か紀州徳川家かに限られていた。そして優先権は尾張にあった)。



こうして、若い頃から遊びに夢中だったという宗春は、35歳にしてまさかまさか、尾張の殿様となってしまった。時は享保年間。お気楽な元禄の世はすでに終わり、江戸時代はじまって以来の「大不況」の真っ只中である。

さあ、尾張の運命やいかに?



◎鮮烈なる登場シーン


藩主になって初めてのお国入り(初入部)、宗春は周囲の心配の通りに、一発目からやらかしてくれる。

カゴにも乗らずに漆黒の馬にまたがった宗春のイデタチといったら、真っ黒づくめの黒装束。ピンポイントに用いた朱色と金がなんとも粋である。さらに、その頭に載せられた唐人笠は、笠の両端がクルリと巻き上がった巨大なものであった。

宗春はその大名行列の事前に、前代未聞のお触れを出していた。普通、殿様の行列といったら、庶民はみんな平グモのように土下座して、絶対に頭を上げてはならぬものであった。ところが、宗春のお触れは「頭を上げて、殿様の顔をよく見ろ」といっていたのである。

宗春はさほどに目立ちたがりやだったのか、それとも、余人には計り知れぬ深い意味があったのか…。





また別の折、墓参りに参詣した宗春。今度は真っ赤な羽織を着て、真っ白な牛にまたがっていた。頭には例の不釣り合いに大きな唐人笠。

そして、その口には、長さ3m以上もあるキセルが…。当然、そんな長いキセルは一人では持てない。キセルの先端はお付きの者が担いでおり、その先からはプッカリプッカリ、紫色の煙である。

口うるさい家老たちの慌てぶりは、如何ほどか?



◎積極財政


宗春はとんでもないバカ殿様だったのか。

いやいや、おそらく彼は名君の一人である。大不況下に行った彼の施策は、現代でも正当化されるものであり、アメリカの得意とするところでもある(後述)。

奇抜なイデタチで世間をアッと言わせた宗春は、「何かが変わる」という予感を名古屋の民に与えようとしていたのかもしれない。



事実、宗春の登場により、名古屋は激変した。

周辺諸国が飢饉に苦しむ中、名古屋ばかりは飢えた領民を出さない。いや、その人口は減るどころか激増した。宗春以前の名古屋の人口はおよそ5万人。それが宗春の時代に2万人も増えているのである(40%増)。

その名古屋の繁栄ぶりは「京(興)も冷める」と言われたほど。つまり、京の都でさえ青ざめるほどだったのである。



いったい、宗春は何をしたのか?

藩のお金を惜しみもなく使って、町の景気をジャカジャカ盛り上げたのである。祭りは派手にやるわ、遊郭は増やすわ、芝居を年に100回もやらせるわ…、名古屋の町では毎日のように花火が打ち上げられていたという。

今で言えば、極端な緩和政策。ケインズに先駆けること200年前。世界恐慌を抜け出す秘策となった公共投資の拡大であった。



◎消えない100両


当然、口うるさい家老は、野放図に藩の金を使う宗春に意見する。なにせ、時は享保の改革が行われている真っ最中、日本全国が質素質素、倹約倹約の時代だったのである。

「幕府から倹約令が出ているというのに…、差し障りがありますまいか?」

すると宗春、逆に家老に問い正す。「倹約せずに使った金はどうなる? たとえば、贅沢三昧して一夜に100両を使ったら、その100両は消えてなくなるのか?」



当然と言わんばかりの家老、「もちろん、無くなりまする」。

ここぞとばかりに宗春、「金が消えてなくなるものか! その100両は遊女屋なり料理屋なりの懐に入る。その金で遊女が箸を買うのなら、その金は小間物屋に回る。その小間物屋は子供に小遣いをやるかもしらん。そうすれば、子供はアメ玉でも買うだろう。アメ玉屋はアメをつくるために米を買う」。

つまり、お金は「消えてなくならない」というのである。天下を巡り巡って、その途上途上で多くの人々の懐を潤していくと言っているのである。



「風が吹けばオケ屋が儲かる」、「どこかでチョウが羽ばたけば、どこかで竜巻が起こる(バタフライ効果)」。この世の中、どこがどう繋がっているかは見えぬものの、必ずどこかで繋がり合っていることだけは確かである。

たとえ、100両をドブに捨てたとしても、それが再び天下の流れに乗ることもあるだろう。要するに、宗春は流通経済論をまくし立てたのであった。そして、ヘリコプターから大金をバラまくために、惜しみなく藩の金庫からカネを引っ張りだしたのであった。



当然、名古屋の庶民は大喜び。

「かかる面白き世」にしてくれた宗春を「仏菩薩の再来」と崇め奉り、ただただ「ありがたし、ありがたし」。

宗春の撒いた甘い水に、周辺の人々が面白がって集まってきたというわけだ。



◎宗春、江戸を驚かす


さて、好景気に沸く名古屋を苦々しく思っている御仁が江戸にいた。ほかならぬ8代将軍「徳川吉宗(とくがわ・よしむね)」、質素倹約令を出した張本人である。

名古屋の宗春は、将軍家のお触れを無視するどころか、真逆のことをやって大成功している。これほどの皮肉もないものだ。スキあらば宗春の足をすくってやろう、と暴れん坊将軍は良からぬことを考え始めていた。



そのスキを宗春が見せたのは、参勤交代で江戸にやって来た、その尾張屋敷でのこと。

例のごとく、宗春は豪奢な振る舞いに出た。嫡子・万五郎の端午の節句を祝うため、何の祭りかと見紛うほどに鯉のぼりから、武者のぼり、吹流しで屋敷中をいっぱいにしたのである。



ここは名古屋ではない。質素倹約の総本山・江戸である。子供のお祝いに金のカブトをつくらせた町人が牢に入れられるほどであり、端午の節句といえども、町はシンと静まり返っていた。

そこに突如として出現した宗春のお祭り屋敷。その派手さにビックリした江戸の庶民たちは、なんだなんだと宗春の屋敷を遠巻きに集まり始める。

その人混みを見た宗春、そんなに遠くで見ていないで入れ入れとばかりに、町のみんなを大名屋敷に招き入れてしまった。中では振舞い酒を出すほどの歓待ぶり。押すな押すなの大盛況である。



以後、江戸にはこんな落書が流行りだす。

「天下、町人に似たり。紀州(紀伊)、乞食に似たり。尾州(尾張)、公方(将軍)に似たり」

天下の将軍・吉宗は「町人」のような暮らしぶりであり、その生まれである紀伊(和歌山)は「乞食」のような暮らしを強いられている。一方、尾張の殿様(宗春)こそが将軍様のようだ、と言うのである。



◎倹約とは何ぞや


暴れ出さんばかりに頭に血がのぼった8代将軍・徳川吉宗。即座に、叱責の使者を尾張屋敷へと遣わす。

眼前に詰問状を突きつけられた宗春、返し矢を放つどころか、「仰せ出されそうろう段、おそれかしこみそうろう…」と平伏して謝罪したのである。



なんとも呆気ない幕切れに、拍子抜けした使者たち。その使者たちを、宗春は別室へと誘う。「ま、お茶でも…」。

すると宗春、別室では人が変わったように、「これからは雑談でござるが…」と切り出しはじめる。謝罪したのは、使者たちの体裁を保つためであり、別室に移ったのは、自分の意見を堂々と述べるためであった。

なるほど、宗春は使者の対面と自分の殿様という立場を十分に配慮していたのである。本音はあくまでも雑談として聞いてくれと…。



いきなり宗春は「そもそも倹約とは何ぞや」と使者たちに問いかける。

宗春の持論は「下を苦しめず、むしろ下を守るために、上のものが慎むことこそ『倹約』」である。



単刀直入に言ってしまえば、将軍・吉宗の倹約令は民衆の暮らしを良くするためというよりは、幕府の貧乏を打開するための策である。幕府は租税率を四公六民(40%)から五公五民(50%)にまで引き上げた。

一方、名古屋は藩の蔵を開けて、「民とともに世を楽しんでいる」。税率も「四ツならし」という定めにより、四公六民を守っている。



さらには藩札と呼ばれる藩の借金札を尾張藩では一切発行していなかった。ところが、将軍・吉宗の実家・紀州藩では藩札を濫発したために、経済が大打撃を被っていた。

何よりかにより、将軍・吉宗の仕切る日本全国が大不況に陥っているではないか! 享保17(1732)年に西国で発生した大飢饉では、200万人が被災、うち1万2,000人が餓死するという大惨事に至っており、江戸では大規模な打ち壊しが巻き起こっていた。



あまりの正論に言葉を失った使者たち。

そして当然、この「雑談」は吉宗公の耳にも届く。しかし、宗春が公式に謝罪してしまっているので、それ以上の追求は叶わなかった…。



◎方向転換


江戸の尾張屋敷の一件が収まると、宗春は名古屋へと帰っていった。

ところが、帰ってきた名古屋城の様子がどこかおかしい。尾張屋敷の一件で、将軍の叱責を被った宗春が公式に謝罪したことにより、その面目が丸潰れだったのだ。そのため、家臣たちは「お家の取り潰し」を恐れていたのである。



もともと、庶民たちには絶大な人気を誇っていた宗春も、城内のお偉方にはたいそうウケが悪かった。というのも、大藩の重臣たちは得てして変化を嫌うもの。保守的な思想に凝り固まっているものであり、宗春のような柔軟性と先進性はそのカケラも持ち合わせていなかった。

さすがに宗春もマズイと思ったのか、以降、極端な緩和政策を180度転換。武士たちに「節度」を求め始める。遊郭遊びを禁止し、博打も禁止したのである(1735)。



はじめ、その禁令は武士だけを対象とし、町人たちは依然自由のままだった。

しかし、その綱紀粛正の波は庶民をも襲い掛かることになる。遊郭は閉鎖、芝居小屋の新設も禁止されていくことになるのである(1736)。



その頃、こんな唄が名古屋で流行りだす。

「キヤキヤするわいの、ウカウカするわいの、ヘカヘカするわいの」

この意味不明の唄は、妙に民心が定まらぬ名古屋の不安を表すものだと言われている。いよいよ、宗春の時代の終わりが近づいていた…。



◎クーデター


このスキに乗じたのが、暴れん坊将軍・吉宗。幕府の老中・松平乗邑(のりむら)は、尾張藩の家老・竹腰志摩守と密談におよぶ。

老中・松平乗邑の脅しはこうだ。「宗春の失脚後、尾張藩主に田安宗武(たやす・むねたけ)を据える」というのである。田安宗武というのは、将軍・吉宗の次男。つまり、尾張徳川家の首を、同じ御三家の紀伊徳川家にすげ替えるぞ、と言うのである。

ひっくり返らんばかりに仰天した竹腰志摩守。尾張藩にはれっきとした後継者がいるというのに、それを差し置いてお家取り潰しとは…。



老中・松平乗邑が示した条件は「宗春の失脚」。

当時の常識として「主は一代、御家は末代」という考え方があった。つまり、主君は代わりがきくが、尾張徳川家が潰れたらそれまで、ということだ。すなわち、竹腰志摩守は主君を裏切るしかなかったのである。



そして、クーデターは起こる。

宗春が江戸に参ったスキに、尾張藩の主な重役たちが「殿が藩主になってから決められたことは全て廃止とする」というお触れを名古屋城下に出したのである。もちろん、宗春には無断で。

名古屋から遠く離れた江戸で、宗春はこの謀反を知った。そして、瞬時に敗北を悟った。「お家騒動」にまで発展したら、お家取り潰しは目に見えていた。宗春は重臣たちの謀りごとを黙認するより他になかったのである。



◎沙汰


すっかり、マナ板の上の鯉となった宗春。いよいよ幕府からの処分が言い渡される。

「隠居の上、謹慎もうしつける」

その正式な沙汰を伝えに来たのは、なんと外様大名(浅野幸長)。恐れ多くも尾張徳川家は御三家の筆頭、その藩主に謹慎を申し付ける使者に外様大名が選ばれるなど前例なきことであった。

さらに、謹慎というのは厳しすぎる。謹慎とは、住む屋敷がそのまま牢屋となり、そこからは一歩たりとも外に出ることは許されない。これまた御三家の殿様に対しては前代未聞であった。



さらにダメ押しが、宗春の跡目である。通常、他から藩主を迎える時は、先代の養子という形をとるもの。ところが、宗春にはそれも許されなかった。一度、尾張を幕府に取り上げられてしまったのである。そして、改めて8代藩主となる徳川宗勝に尾張が下されることとなった。

もちろん、8代藩主となった宗勝は、先代・宗春の子ではない。尾張の支藩である高須藩主であった。



◎終り初もの


あまりの厳しい沙汰、あまりに無礼な処置。

クーデターを起こした尾張の重臣たちも、さすがに激しい衝撃を受けた。まさか、こんなことになって、尾張が恥をかかされるとは思ってもいなかったのだ。

尾張の筆頭家老・成瀬隼人正は泣きじゃくって、沙汰を受けた宗春を待っていた。成瀬は年の頃20歳とまだ若く、筆頭とはいえ、古老たちに踊らされていたところがあったのだ。



ボロボロと涙をこぼす成瀬。上ずる声で宗春に詫びはじめる。

「あり得べからざること…。かくの如き処置は未曾有のことにござりまする…。面目次第もござりませぬ…」

詫びるに詫きれぬ成瀬は、ただただ歯を食いしばるのみ…。



すると、宗春、あっけらかんと一言、

「『終わり初もの』と言うわいな」と呵々大笑。

御三家で前代未聞の初めてのことならば、それはそれで良いではないか、と言うのである(ちなみに「終わり」は「尾張」にかけてある)。



謀反を起こした筆頭家老に対して、洒落で応えた宗春。その粋な言葉を廊下に残したまま、異色の殿様は姿を消していった…。

そして、派手な殿様を失った名古屋は、火が消えたように寂しくなってしまった…。



◎終焉


責任を感じていた成瀬隼人正は、たびたび幕府に恩赦を願い出るも、それは容易に叶わなかった。屋敷に閉じ込められた宗春が初めて屋敷から一歩を踏み出すことができたのは、なんと26年後。先祖の墓参りが許された。

その時の庶民の喜びようといったら…、尾張の人たちは宗春のために一斉に提灯を並び立てた。26年たってなお、庶民の宗春への想いは消えていなかったのである。

それでも宗春の罪は許されたわけではない。謹慎のままに息を引き取り、69年の生涯を終えることとなる。



明和元年(1764)、尾張徳川家の菩提寺である建中寺に建てられた宗春の墓、その上には無情にも金網が掛けられた。幕府はあくまでも宗春の罪を許さなかったのだ。

宗春を肯定することは、将軍・吉宗を否定することになる。そんな風潮は将軍・吉宗が死してなお、延々と続いていたのであった。



◎憧憬


それでも、宗春の政策であった緩和策はずっと魅力的であり続けた。尾張藩にとっても、幕府にとっても。将軍・吉宗の質素倹約では、どうにも景気は回復しなかったのだ。

少しずつ、少しずつ、幕府は宗春の緩和策へと歩み寄っていく。そして、幕府をはばかっていた尾張藩でもやはり、宗春時代への憧れは強くなるばかりであった。



宗春の罪がついに許されるは、死後75年目(1839)。

尾張藩主に徳川斉荘(なりたか)が就いた時であった。この斉荘(なりたか)は紀伊・田安家の血筋、すなわち、かつて竹腰志摩守が恐れた尾張家乗っ取りが行われてしまったのだ。

さすがに尾張藩士たちも猛然と抗議。慌てた幕府は宗春に従二位権大納言を追贈、その時に墓の金網も外されたとのことである。



◎政治理念


宗春の政治理念を記した書が、現代に遺る。

「温知政要」というその書は、表紙をめくると一面の金箔。派手好きだった宗春の人柄が偲ばれる仕立てである。そして、最初の書かれているのは大書された「慈」の文字、最後には「忍」の文字。民を慈しみ、自らは忍ぶと明記したのである。



「正理に違いて、滅多に省略するばかりでは、慈悲の心薄くなり、覚えず知らず、酷く不仁なる仕方が出でて、諸人はなはだ痛み苦しみ、省略かえって無益費(むえきのついえ)となることあり…」

「省略」というのは、当時の質素倹約の風潮を指すものであり、そればかりでは、人々が慈悲を忘れ、不仁になってしまう。そして、それが過ぎれば、はなはだ無益なこととなってしまう、と宗春は言うのである。



これは当時、将軍・吉宗に対する明らかな宣戦布告と受け取られた。そして、発禁処分とされた。

しかし、庶民たちにはたいそう歓迎された。「元文世説雑録」という書には、当時の様子が記されている。「温知政要の著述、『慈忍』の二字の意味、御覚悟のおもむき、世こぞって『希代の名君』なりと、寄り集まっては評判し…」。

当時は童までが宗春卿が「慈悲者」であることを知り、土民漁夫は「釈尊の再来」、「周公や孔子にも勝る偉人」だと感涙の涙を流したというのであった。



◎尽きぬ魅力


しかし、宗春は時代を先んじすぎた。貨幣経済の行き渡らぬところへお金を蒔いても、それは藩の税収とはならなかった。なぜなら、年貢は現物の米で収められていたからである。

その結果、尾張藩は赤字財政に苦しむこととなる。宗春が施したカネは確かに天下には回ったが、それは藩の金庫に帰っては来なかったのである。



それでも、宗春の業績は色褪せない。

なぜなら、彼こそが名古屋の気風を育てたと万人が認めるからである。



現代の名古屋が「芝居どころ・芸どころ」と言われるのは、宗春が芝居小屋を奨励してくれたからかもしれない。

トヨタなどの世界企業が生まれるのも、宗春が祭りに熱心だったために、山車に乗せるカラクリ人形の技術が異常に発達したからなのかもしれない。

「名古屋の嫁入り道具はトラック3台分」と言われるのは…。



積極財政か、緊縮財政かという2択の問題は、宗春と将軍・吉宗の最大の争点となったわけだが、この2択は現代においても未だ答えが出ていない。世界大恐慌の折は積極財政が功を奏したとはいえ、リーマン・ショック後の世界では思うような効果が得られていない。そのために、今のユーロ圏諸国は、まさに質素倹約にヒタ走っている。

それでは名古屋はどうか?

ここの町は日本屈指の勢いを、今も保っているのではなかったか。それは質素倹約に勤しんだからであったのか。?



◎金のシャチホコ


「天下様でも敵わぬものは、金のシャチホコ、雨ざらし」

名古屋城の天守閣に輝く金のシャチホコは、もともと徳川家康が乗っけたものだった。それは薄い金箔を張ったようなハリボテではなく、分厚い金の延べ板をゴテゴテとくっつけた、いわば金の塊であった(慶長大判1940枚分、純金にして215kg)。そんな巨大な金塊(高さ2.4m)が「雨ざらし」にされていたという事例は、世界広し、歴史長しといえども類例を見ない。

家康は、当時の対抗勢力であった大阪城の豊臣家を威圧するために、名古屋城を大阪城の2倍の巨大さにして、極めつけに天守の上に金のシャチホコを備え付けたのであった。文字通り、大阪方を「しゃっちょこ張らせる」ために。





ところが、宗春が登場して以来、名古屋城の金のシャチホコは軍事的な威嚇ではなく、名古屋「繁栄の象徴」となった。

宗春の理念は金箔のような薄ペッラなものではなく、内側から光を放つ金塊のようだった。江戸の尾張屋敷で堂々とお祭り騒ぎを起こしたのも、国元だけで派手にして、江戸へ来たらネコのように大人しくなるという表裏を嫌ったためでもあった。

尾張の祭りを盛大に行った宗春は、大切な祭り(家康を祭る東照宮祭りなど)を奨励する一方で、人道に反する祭り(国府宮の裸祭厄男など)は禁止した。女子どもなど、社会的弱者を保護したり、死刑を行わなかったり…。

当時の人々が「慈悲者」と宗春を呼んだのは、故なきことではなかった。彼は決して、単なる派手なお祭り男ではなかったのだ。



◎今に…


第二次世界大戦時、アメリカの焼夷弾は名古屋城を炎上させた。

金のシャチホコも、宗春のお墓までも…。



現在の金シャチは復元されたものであるが、金の量は家康時代の半分以下である。

宗春のお墓も2010年、有志たちの手によって修復された。



名古屋の愛し続けた殿様・徳川宗春は、今の世に高く評価されている。気にしなければならなかった将軍は、もういないのだ。

たとえ金網に墓を縛られようと、たとえ焼夷弾で爆撃されようと、変わることのないものは確かに残った。徳川宗春という希代の殿様は、忘れるには「派手」すぎた。



お金を使うということは、お金を誰かに与えることと同じこと。他者には「慈の心」、自らには「忍の心」を持っていた宗春は、必ずお金が返ってくると信じていたのだろう。ただ、その壮大な理想は大きすぎたがゆえに、時間もかかりすぎたようである。

幸いにも、今の名古屋の人々の気風は、豪華主義ではあるものの、堅実性を備え、他者の目を気にするとの世評である。



名古屋という町をつくったのは家康かもしれないが、そこに魂を入れたのは、きっと宗春だったのだろう。

庶民を愛し、庶民から生まれる活力を育ててこそ、町は元気なると信じた殿様、徳川宗春。その想いは、今も名古屋の町に息づいているとのことである。







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出典:
NHK歴史秘話ヒストリア
徳川宗春(佳境編)
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2011年10月07日

ロシアが日本を襲った「露寇事件」。この事件が幕末の動乱、引いては北方領土問題の禍根となっていた。


モンゴル帝国が日本を襲ったのが「元寇」。

そして、ロシアが襲ってきたのが「露寇」。

日露戦争(1904)に先立つこと100年前、北海道の各地がロシアに襲撃される事件が相次ぐ。これらを称して「露寇事件(1800年代初頭)」という。



時は江戸に文化・文政年間の「化政文化」という町人文化が花開いていた頃。

ロシア特使「ニコライ・レザノフ」という人物が、日本との通商を求めて「長崎」を訪れる(1804)。

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レザノフはロシアの外交官であると同時に、米露会社(ロシア領アメリカ毛皮会社)の経営者でもあった。

米露会社はロシア皇帝の勅許をえた国策会社(利益の3分の1は皇帝のもの)であり、アメリカのアラスカを植民地として交易を行なっていた(毛皮など)。

この米露会社の泣き所は「食糧」。北方における食糧確保は困難を極めていたため、レザノフは日本との通商により食糧調達を試みようとしたのである。



長崎に現れたレザノフとの交渉を担当したのは老中「土井利厚」。

対応に苦慮した土井は、儒家「林述斎」に意見を求めた。

すると述斎、「ロシアとの通商は『祖国の法』に反するため、拒絶すべきである」という強硬な態度を示す。ちなみに、この林述斎は、のちにアメリカの黒船・ペリーが来航した際に対応した「林復斎」の父である。



土井もさもありなんと、「ロシアが武力を行使しても、日本の武士はいささかも後(おく)れをとらない」と主張し、結局、レザノフの要求を拒絶することになる。

この間、レザノフは半年もの間、長崎で返答待ちをしていた。その結果が「No」と知らされるや、落胆よりも怒りが先行したという。

そして、この交渉の決裂が、北海道各地で頻発する「露寇事件」へと発展することになる。



余談ではあるが、日本で「鎖国」という言葉が用いられるようになったのは、このレザノフを拒絶した以降とのことであるという。

それ以前の日本には「鎖国」という感覚は薄かったようだ。

交易の相手国を「中国・オランダ」に限定し、その交易地も「長崎」のみとしていたが、それは幕府が交易の全てを管理下に置くためであった。



長崎以外にも、対馬口・薩摩口・蝦夷口という外国への窓口があり、それぞれ対馬藩・薩摩藩・松前藩が交易を担っていた。

これら各藩には当然「幕府による制限」が課されていたわけだが、「抜け荷」と呼ばれる密貿易は盛んに行われていたのだという。

さらには、幕府の許可を受けたこれら3藩のみならず、海に面する諸藩による「密貿易」は取り締まり切れるものではなかった。



「鎖国」という言葉が歴史に記されるのは、志筑忠雄の「鎖国論(1801)」という書物からである。

この書は、ドイツ人医師「ケンペル」が日本の国情を記した「日本誌」の一部を訳出したものであり、この本文中の語を志筑忠雄は「鎖国」という新造語で対応したのだ。

なお、幕府が「鎖国」という語を用いるのは1853年、アメリカのペリーが来航した年からである。この「鎖国」という言葉が一般に普及するのは明治時代以降とのことである。



一般的に「鎖国」は江戸時代の象徴とされているものの、実際には他国からの侵略を受けてはじめて明確に意識されるようになった概念だったのかもしれない。

先述の通り、交易に関しては割りとルーズな面があったのである。

しかし、国防がかかれば、そうも言っていられない。侵略者に日本の国威を示さなければならないのだ。



ところが、太平の江戸時代を謳歌していた日本は、どうにも国を守る覇気に欠けていた。

レザノフの命令で襲撃された「択捉(えとろふ)島」(北方領土)では、当地を守っていた函館奉行は一向に応戦しようとせず(腰を抜かしていたとも)、ロシアは散々に島内を荒らし回った記録が残る。

「ロシア人が上陸した時、警護の者どもは鉄砲をかついで皆山中へ逃げ、姿を消してしまったのである(私残記)」

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択捉島のみならず、樺太(当時は日本領)、礼文島、利尻島、そして周辺海域の日本商船などが次々とロシアの襲撃を受ける。



ここに来て、ようやく危機感を強めた江戸幕府は、東北諸藩(南部・津軽・仙台・会津)に出兵を命じ、非常時には秋田・富山両藩の出兵をも念頭に入れていた。

幕府の防備は固いとは言えなかったものの、以後は小競り合いが続くのみで、大きな争いには発展しなかった。



というのも、強硬だったレザノフが病死したことが大きかった。

レザノフは非常に好戦的な人物で、日本のみならず、北アメリカ大陸での戦闘の記録も多い。

アラスカでは原住民トリンギット族と戦争し(シトカの戦い・1804)、一万年もの間アラスカを支配していたトリンギット族を完全に駆逐した。

ちなみにトリンギット族はロシア人を「コロシ(殺し?)」と呼んでいたそうだ(日本語との関連は不明)。



当時スペイン領であったカルフォルニアにもレザノフは足を伸ばしている。

最初は、食糧調達を目的とした友好的な交易を結びたいと願ったようだが、スペインの法律では植民地での外国との交易を禁じていた。

そのためスペイン人官僚たちは、賄賂にも買収にも応じず交渉は不調に終わる。

残されたレザノフの書簡からは、カルフォルニアを併合し、大量の移民を送り込んだ上で、北米大陸を植民地化する意図が記されている。



レザノフの死は、日本にとっても、アメリカにとっても朗報であったのかもしれない。

レザノフの死後、ロシアの日本侵略は下火となり、アラスカでさえもアメリカに売却せざるを得ないほどに勢いを失う。

彼の寿命が長ければ、日本の歴史もアメリカの歴史も違うものになっていた可能性がある。享年42歳。若すぎる死であった。



幸い「露寇事件」は、歴史の山に埋もれることとなった。

それでも、当時の衝撃は幕府を動揺させ、国論は「開国」、「攘夷」に二分されたのだという。この点で、幕末の動乱は「露寇事件」の時に萌芽したと捉えることもできる。

地味ながらもズシリと下腹部に響く事件であったのだ。



ロシアと日本が初めて争ったのもこの「露寇事件」である。

以後、日露戦争(1904)、第二次世界大戦へと続き、現在の北方領土のゴタゴタに至るわけである。

レザノフが開いた戦端は、ある意味まだ閉じられてはいないのである。



レザノフが急襲した地が北方領土の「択捉(えとろふ)島」であったというのも奇縁なことだ。

200年以上に及ぶ「ロシアと日本の因縁」はいまだ終わりそうもない。

これは境を接する国家同士の宿命とも言えるものであろう。




「幕末」関連記事:
江戸の日本を開いた男たち。林復斎と岩瀬忠震。そのアッパレな外交態度。

江戸の心を明治の心に変えた「ジョン万次郎」。彼の結んだ「奇縁」が時代を大きく動かした。


出典:さかのぼり日本史
江戸“天下泰平”の礎 第1回「“鎖国”が守った繁栄」


posted by 四代目 at 06:46| Comment(4) | 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月26日

江戸の日本を開いた男たち。林復斎と岩瀬忠震。そのアッパレな外交態度。


日本は「ペリーによる黒船の威圧」に屈して開国したのか?

歴史学者たちの間では、「ペリーは日本を開国させられなかった」というのが定説になっている。しかし、一般常識としては「ペリーの黒船」イコール「開国(鎖国の終了)」である。

なぜ、ここに「ズレ」が生じているのか?



江戸最末期、日本が鎖国から開国へと大きく舵を切ったのは確かである。

しかし、ペリーの来航では「開国していない」のである。

開国するのは、その4年後にやって来た「ハリス」との交渉によるもので、しかもそれは「圧倒的な軍事力の前に屈した」というよりは、幕府が「自ら開国を望んだ」というのが実情らしい。



そもそも、「開国」とはどういう状態か?

国と国が「交易」を開始することである。ペリーとの交渉では、幕府は「交易」を求められながらも断固として拒否している。



この辺りを少し掘り下げて見てみよう。

アメリカからやって来た「ペリー」は圧倒的な軍事力を背景に、日本を恫喝して「開国させてやろう」と意気込んでいた。

「日本近海に軍艦を50隻、さらにカリフォルニアにもう50隻。これら100隻の軍艦は20日以内に日本に到着する。」

もし、日本がアメリカの要求を飲まなければ、武力で踏み潰すと脅してきたのである。

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このペリーの無理難題に真っ向から立ち向かった日本人は誰か?

「林復斎(はやし・ふくさい)」である。

彼は儒学者でありながら、その家柄から外交には通暁していた。

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両国の交渉の席で、ペリーはいきなり大砲をボンボンとブチかます。まさに砲艦外交である。

ところが復斎、いっこうに慌てる気配を見せない。心地良さげに轟音の振動に身をまかすのみである。

苛立つペリーは、日本がいかに外国人に不当な扱いをしたかを轟々と非難する。

しかし復斎、淡々と「ペリーの誤解」を論破する。ペリーが非を唱える「外国船打ち払い令」はとっくに廃止されているし(1842)、ラゴダ号事件(1848)で外国人を牢に入れたのは、その外国人が狼藉を働いたからやむを得なかったと説明した。



ペリーは生粋の軍人であり、復斎は外交の達人である。

当然、両者の情報量にも雲泥の差があった。

復斎は鎖国された日本にありながらも、オランダなどから豊富な国際情勢の知識を仕入れており、世界の実情を手に取るように心得ていた。



ペリーは日本に「開港地」を求める。最低でも7〜8ヵ所を要求してきた。

当時のアメリカは「捕鯨」に熱心で(燃料として鯨油を必要とした)、太平洋でクジラ漁をするには日本で燃料(薪)や水を補給する必要があったのだ。

しかし、林復斎は捕鯨の寄港地ならばそれほどの数は必要ないとして、「下田」と「函館」の2港の開港しか認めなかった。

しかも、この地での「交易」を断固認めず、あくまでも「薪と水」の補給のみに限定した。



「交易」は鎖国政策の要(かなめ)であり、そう簡単にアメリカに認める訳にはいかなかったのである。

一方、「薪と水」だけであれば、すでに「薪水給与令(1842)」というのが存在し、長崎では外国船への「薪と水」の給与が認められていた。したがって、そこに「下田」と「函館」を加えることはそれほどの難題ではなかった。

むしろ、ペリーに花を持たせるためにも、多少の譲歩は必要とされたのである。



また、ペリーは開港地における外国人の行動範囲を「10里」まで要求した。

しかし、またしても復斎は異を唱え、「7里」に限定した。なぜなら、下田港から7里の範囲には天城山脈あり、外国人が無闇に行動するのを防げると考えたからである(函館は5里)。

事情のよく分からないペリーは復斎の案に従うより他なかった。



こうして、日米交渉は復斎のシナリオ通りに進んだ。

一貫してペリーが主導権を握ることはできず、ペリーは譲歩に次ぐ譲歩を強いられたのである。

結局、大目標であった「日本の開国」すら果たせなかったのである。



林復斎という人物はよほど腹の座った人物であったのだろう。

長き交渉(およそひと月)をへて、ペリーは復斎に好意すら抱くようになっていた。帰り際、復斎にこう言ったという。

「もし、イギリスやフランスが攻めてきたら、アメリカは軍艦を率いて日本を助ける。」

アメリカ側の資料では、林復斎を「厳粛で控えめな人物」と評している。力押ししてきたペリーに対して、復斎は「控えめ」ながらも強腰であったのである。



ペリーはこうも述懐している。

「将来、日本は強力なライバルとなるだろう。」

少なからず日本を見聞したペリーは、日本人の勤勉さや教養の高さに驚いたと伝わっている。



こうして、1854年日米和親条約が締結された。

一般には下田、函館の開港をもって「開国」とされるが、厳密には「交易」を禁じている点で、この2港は単なる補給港に過ぎない。

しかし、天保の薪水給与令(1842)では薪と水の給与は「難破船」に限定していたのだから、日米和親条約によりその範囲が拡大されたのは確かなことである。



日本が本格的に開国するのは、1858年の日米修好通商条約においてである。

この交渉を担当した「ハリス」は自身を「平和の使者」と言って、砲艦外交のペリーとは一線を画する態度で臨んできた。

日本側の代表は林復斎の甥、「岩瀬忠震(いわせ・ただなり)」である。

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ペリーが帰った後、アジアの情勢は大きく変わっていた。

清がアロー戦争(1856)でイギリス・フランス連合軍にコテンパンにやられ、半植民地化してしまったのである。

イギリス・フランスの次なる狙いは日本である。日本はアメリカとの関係を強める必要に駆られていた。さらに、江戸幕府の弱体化を防ぐために、幕府の力を強化する必要もあった。



そこで岩瀬忠震は考えた。

「横浜でアメリカと交易を行おう」。

幕府を強化するために、交易の富を江戸にもたらそうとの思惑である。当時、商売と言えば「大阪」であり、日本の経済活動の7〜8割が大阪に持っていかれていた。

そこで、横浜を外国との交易の拠点とすることで、交易の利益を幕府に集中しようと考えた。横浜を「長崎の出島」としようという目論見である。

忠震は明らかに「開国派」であった。



ところが、ハリスが開港を求めたのは他ならぬ「大阪」である。富は大阪にあることは明らかなのである。

この点、忠震は譲れない。大阪を開けてしまえば、ますます富は大阪に集中してしまう。つまり、幕府はますます弱体化してしまう。

さらには、大阪・京都は「攘夷派(外国人嫌い)」がワンサカいる。大阪に外国人が現れようものなら、外国と戦争すら起きかねない。



忠震はそうした事情をコンコンとハリスに説く。

ハリスは後に述懐している。「岩瀬は頭の回転が速く、反論が次々と出てきた。私はことごとく論破され、答弁に苦しんだ。」

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結局、開港地は、横浜・長崎・新潟・兵庫・函館と決まった。もちろん大阪は外れた。そのかわりに「兵庫」を加えた。新たに開港したのは「兵庫」と「新潟」のみである(横浜は下田の代わり)。



こうして、1858年日米修好通商条約が締結された。

ここに日本は正式に開国したのである。

武力に屈したわけではなく、世界情勢を鑑(かんが)み、新しい日本のカタチを提示したのである。



この日米修好通商条約は「不平等条約」として悪名高い。

しかし、締結当時はそれほど「不平等」でもなかった。

日本に「関税自主権」がないとされたが、決められた税率は20%。他国に比べ低いわけではない。また、「治外法権」に関しても港内に限定されていた。

本当に「不平等」となるのは、薩英戦争、下関戦争などを経て、1866年に関税率を20%から5%に引き下げられてしまったからである。また、金と銀の交換レート(1:4.65)に関しては、国際的な相場(1:13.5)に比べて明らかに不平等であった。



日米修好通商条約が国内で猛反発を受けたのは、天皇の勅許を得られなかったことが大きい。

結局、岩瀬忠震(幕府)の独断で締結するカタチとなってしまったのである。

忠震は安政の大獄の余波を受け、左遷後に永蟄居処分を受け、44年の短き生涯を閉じた。



岩瀬忠震の功績は決して小さくない。

日本が植民地化を免れたのは、土壇場で日米修好通商条約が成立したからとも言われている。植民地化されるよりかは、「多少の不平等を飲む」ぐらいの腹積もりだったのである。

また、忠震の功績に「講武所」や「長崎海軍演習所」の開設がある。これらは後の「陸軍」、「海軍」となり、日本の国防の元となるのである。

激動の狭間にあって、忠震は見事な決断を下したと賞賛されている。



現在の日本外交は「弱腰」と非難されがちである。

そして、その「弱腰」の大元は江戸幕府の開国にあるとされている。

しかし、丁寧に歴史書を紐解いていけば、当時の交渉が「弱腰」であったとは言い難い。むしろ、決然とした気迫を感じる。

「世におもねず、衆にへつらわず」



「武力に屈したか?」

そうは感じない。

むしろ、あの幕末の激動の中で、世界の潮流をよくも読み違(たが)えなかったものだと感心せざるを得ない。



なぜ、「弱腰」とされたかは後の歴史の問題である。

江戸幕府の後を継いだのは明治政府。明治政府にとっては、いかに幕府が軟弱であったかを強調した方が好都合であったのだ。

そもそも、開国の歴史においてアメリカ側の「ペリーとハリス」ばかりが有名で、彼らに対した「林復斎と岩瀬忠震」が日本人にすらあまり知られていないというのも奇異な話である。

幕府は腐っていたとはいえ、人物がいないわけではなかった。幕府の高官には当代一流の人物がまだまだいたのである。林復斎、岩瀬忠震は時代の傑物である。



時代の波は過酷である。

時として真実を覆い隠し、事実を大きく歪めてしまう。

後世の我々にできることは、そうした歪みを時間をかけて修正していくことのみである。



歴史が熱いうちは手が出せない。

第二次世界大戦の歴史が歪められているのは十分承知でも、なかなか真実は語られないものである。

しかし、江戸時代ともなると、もはや直接の利害関係は存在しない。

幕末の英傑たちの姿は、少しづつ明らかになりつつある。

坂本龍馬ですら、しばらくは誰にも知られていなかったのだから。



過去の日本人を賞賛することは、未来の日本人として自信を持つことにもつながる。

いたずらにネガティブキャンペーンをするならば、それは自らの首を絞めることにもなりかねない。




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出典:BS歴史館 シリーズ
 あなたの常識大逆転!(2)
「幕末・日本外交は弱腰にあらず!〜黒船に立ち向かった男たち」
posted by 四代目 at 16:46| Comment(6) | 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月19日

日本人に「犬食」をやめさせた「憐れみ将軍」徳川綱吉。日本人の心を変えた彼の偉業とは?

日本にも「犬を食べていた時代」があった。

今から300年ほど前まで、犬は「食肉」だったのだ。



犬食文化は「アジアや南太平洋の農耕社会」では珍しいことではない。

現在でも中国では犬が食用とされている(レトルトや冷凍食品まである)。韓国では年間200万頭の犬が食用にされているというし、北朝鮮においても貴重なタンパク源となっている。



逆に「欧米の牧畜社会」においては、犬食は嫌悪されてきた。イスラム圏やユダヤ教などでは宗教上のタブーですらある。

ヨーロッパ人がアジアに踏み込んで来た時、犬を食するアジア人を見て彼らは驚く。「なんと野蛮で未開な民族なのだ」と。その感覚は、我々日本人が「アフリカ人は猿を食うのか」と驚く感覚に近かったかもしれない。

ところが、日本に踏み込んでみると他のアジア諸国とは様子が違う。明治時代の日本では、犬食はほぼ完全に消滅していたのだ。この点において、日本人は欧米人に軽蔑されることはなかった。



なぜ、日本で犬食がなくなったのか?

その大きな転機となったのが、「犬公方」こと「徳川綱吉(第5代将軍)」の登場である。

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綱吉の苛烈なまでの「犬好き」によって、日本から犬食が駆逐されたのである。

犬食が完全になくなったわけではなかったが、綱吉以降、人々が犬食を禁忌するようになったのは確かである。江戸の人々は「朝鮮通信使が肉を食う」ことを野蛮視したという記録も残っている。



日本では、聖武天皇の肉食禁止令(675)以来、犬に限らず「肉食」を「穢(けが)れ」と考えるような風潮が根底にあった。

しかし、それは建前であり現実には犬も含めた肉食は、それなりに一般的であったと考えられる。

ところが、綱吉以降、もともと日本人の底流にあった肉食嫌悪が顕著となるのである。日本で再び肉食が公に始まるのは、開国後の明治以降である。



徳川綱吉の「犬好き」はほとんど「犬ばか」であった。

東北で大飢饉(元禄の大飢饉)が起こっている最中、綱吉の建てた「中野犬小屋(東京ドーム20個分の広さ)」では、10万匹以上の犬一匹ずつに「白米3合、味噌、干しイワシ」を毎日与えていたという。

大飢饉の東北では5万人以上が餓死していた。しかし、綱吉の定めた「生類憐れみの令」により、野生の鳥獣を獲って食うことすら許されなかったという。

このため、綱吉の「生類(しょうるい)憐(あわ)れみの令」は「天下の悪法」とされている。



さらに悪いことには、綱吉の治世中に「忠臣蔵」が起こった。

切腹に追い込まれた主君(浅野内匠頭)のアダを打つべく立ち上がった「赤穂浪士」たち。見事、「吉良上野介」を打ちとって主君のアダを打つ。

しかし、将軍綱吉は「武士の鑑」と賞賛された赤穂四十七士に「切腹」を申し渡す。「忠臣蔵」において、綱吉は完全な悪役になったのである。

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もっと悪いことには、綱吉の在世中には「水戸黄門」もいた。

水戸黄門こと水戸光圀は、「生類憐れみの令」の非を鳴らすべく、将軍綱吉に「上質な犬の皮20枚」を送りつけたという。

やはり、綱吉は「水戸黄門」においても完全に悪役なのである。



こうして、徳川綱吉は見事に大悪人となったわけである。

ところが近年、この天下の悪人を見直す動きが強い。



ドイツ人医師「ケンペル」は、著書「廻国奇観(1712)」に将軍綱吉をこう評している。

「徳川綱吉は卓越した君主である。

彼のもとで全国民は完全に調和した生活を送っている。

(日本人は)他のあらゆる国の人々を凌駕している。」

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当時の日本は、いくつかの点で欧米を凌駕していた。

その一つが、様々な「登録制度」である。

犬や牛馬から、子供や妊婦、鉄砲の所持までが几帳面な「登録制」になっていたのである。

こうした制度がアメリカにできるのは、19世紀以降、日本に遅れること200年以上である。



この緻密な登録制度は、日本の「福祉」を大いに向上させた。

これは、明らかに徳川綱吉の大功績である。

彼は犬を憐(あわ)れむのみならず、「生きとし生けるもの全て」を憐(あわ)れんだのである。



綱吉以前の日本は「殺伐」としていた。

天下泰平から100年が経とうとしていたが、いまだに戦国の気風は抜け切れていなかった。

武士は平気で人を切り殺すし、農村では養いきれない子供を捨ててしまう。宿に泊まった重病人までが捨てられる。おちおち生を楽しんでいられる時代ではなかった。



そこに颯爽と現れたのが、「憐れみ将軍」の綱吉である。

子供のみならず妊婦までをも「登録」させて保護し、人間のみならず犬一匹までをも「登録」させ、そう簡単に殺生できないような仕組みを作り上げた。

確かに行き過ぎた面があったことは否めないが、綱吉がここまで徹底したからこそ、その後の日本人の心の中に「憐れみ」という美徳が根付いたとも考えられる。



幸いにも、綱吉は「生まれながらのお殿様」であった。

悪く言えば「世間知らず」ともなるのかもしれないが、そのお陰で彼は「理想の世界」に生きることが出来た。

綱吉はいい意味で「世間を無視」して、「理想世界」である生類憐れみの令を堂々と公布できたのである。

教育熱心だった父・徳川家光(3代将軍)は、綱吉に「儒学」をみっちりと教え込ませたのだという。綱吉の理想世界は、そうした学問の上に成り立っているのである。



また、綱吉は「徳を重んじる文治政治」を志した。

「武断政治」において、武士は戦うために存在したが、綱吉の「文治政治」においては、武士は「官僚」となった。

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武士は「弓馬の道」から「学問の道」への転換を求められたのである。

綱吉の引いた官僚教育のレールは明治時代にも踏襲され、優秀な官僚たちは日本をあっという間に「近代国家」へと押し上げることとなる。

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徳川綱吉は悪人だったのか?

「世の中を先んじ過ぎた」という点では、迷惑を被った人々も多かったであろう。

しかし、「日本人の心」を育んだという点においては、大いに評価できるのではあるまいか。



「死ぬのが当然」の世の中を、「生きるのが当然」の世の中に変えたのである。

綱吉の理想は、日本人の希求していたものと見事に合致したのであろう。

綱吉以来の美徳は、今の日本人にも確実に受け継がれている。日本人の心は「弱き人々を見捨てることはできない」。むしろ、「弱き人々の側(そば)にいることを誇りに思う」。



綱吉が日本人の「犬食」を断ち切ったことにより、はからずも西欧列強の高い評価へとつながった。

綱吉が「武」から「文」の政治に大転換したことにより、殺伐とした戦国の心はようやく終息した。

綱吉が武士の学問教育に熱心だったことにより、日本の官僚たちが高い能力を身につけることができた。

彼をして暗君とするのは、あまりにも惜しかろう。



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出典:BS歴史館 シリーズ
「“お犬様”騒動 隠された真実〜徳川綱吉は名君だった!?」


posted by 四代目 at 21:06| Comment(8) | 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする