3.11 町を破壊した「大津波」の記憶。
そんなもの、思い出したくもない。
「なのに、なんであの『壊れた建物』が残されたままなんだ?」
岩手県・大槌町(おおつち・ちょう)
その役場庁舎、働いていた40名の職員が命を落とした。
その建物の遺構が、被災したそのままの姿で痛々しく残されている。
「あれを見るのも嫌だし、あそこに行くのも辛い…」
倉堀康さんは、その役場庁舎で兄を亡くしている。
「あの建物は、早急に解体してほしい…!」
一方、ボロボロになった役場庁舎を
「歴史として残しておきたい」
という意見も、やはり住民側から出された。
「保存か?」「解体か?」
揺れる住民たちの意見。
残しておけば、住民たちの心を苦しめ続ける。だが解体してしまえば、歴史の教訓は風化してしまう。
「忘れたい。でも、忘れてはならないこともある」
広島の「原爆ドーム」も、戦後すぐの時は「即座に取り壊してほしい」という声がほとんどだったという。
それがなぜ、今の時代にまで残されることとなったのか。
そこにはやはり、凄惨な体験をした人々の身を揉まれるような葛藤があり、そして勇断があった。
◎議論
上野ヒデさんは、大槌町の役場庁舎で一人娘を亡くした。
それから一年半、娘が津波に飲まれた町役場には、足を向けることすらできなかった。
そしてようやく娘の死を受け入れることができたとき、「この建物から目を背けたくない」という今までとは全く反対の想いが湧いてきたという。
それ以来、上野さんは役場の前につくられた祭壇の掃除を、足繁く行うようになった。
「わかるんですよ。私自身、見るのも辛いんですから」
役場をすぐに取り壊せという意見に、かつて上野さんは賛意を示していた。
「わかるんですけど、ここを見るのが辛い、じゃあ、その気持を忘れないで、と私は言いたいんです」
まるでそれを娘に教えられたと言わんばかりに、上野さんは「保存」を強く訴えるようになった。
「やっぱり、目に訴えるものがないと、人間は忘れてしまうんです」
上野さんはそう言う。今のわれわれがたとえどんなに辛くとも「100年後、200年後には必要なのだ」と。
「後世に残そうというのなら、何もあの建物でなくてもいいじゃないか」
あの建物で兄を亡くした倉堀さんは、あくまでも反対する。
「上野さんの言うこともわかります。ただ、あの建物だけはやめていただきたい」
◎忘れた歴史
議論が膠着するなか、ある専門家が「あの場所にあった町役場」だからこそ、残す価値があると提言した。
「なぜ、役場があの場所に建てられたのか?」
豊島正幸教授(岩手大)は、「過去の津波を忘れた歴史」が町役場を「あの場所」に建てさせた、と言うのである。
町役場が3.11で被災した場所である「海に近い低地」に移築したのは昭和29年(1954)。
それまでは山沿いの「高台」に位置していた。
町の中心を担う町役場が海側に移動すると、それに釣られるように「住宅地」もまた海のそばへと引き寄せられていった。
そして2011年3月11日、その海側へと大きく移動していた市街地は、すっかり津波に洗われてしまった…。
「人間は忘れてしまうんです」
上野さんがそう言う通り、世代が1つ2つと代わっていく間に、大津波への警戒心は緩んでいかざるを得ない。
そして、人の世代交代よりもずっと緩慢な大津波のリズムは、すっかり人間が忘れ果てたころに襲ってくる。まるで、またそれを思い出させるかのように。
うかつに海側へと移築してしまった町役場を、その場所に残す意義。
「なぜ、役場が低地のほうへ移動して、さらには住宅地を移動したのか? その歩みをもう一度振り返り、これからの町づくりを考えていくべきだと思います(岩手大・豊島教授)」
人間の「忘却の罪」。それを大津波で身をもって思い出させられるよりも、「津波を忘れないための何か」を残しておくほうが、心の傷は軽いように思われた。
たとえ今がどんなに苦しくとも…。
◎一部保存、公園
娘を失いながらも、その建物を残そうと言う上野さん。
彼女には17歳のころの津波の記憶が残っていた。
「朝のしじまを破って、津波を知らせる半鐘がけたたましく鳴り響き…」
昭和35年(1960)のチリ地震津波。岩手三陸地方に大きな被害をもたらし、上野さんの大槌町でも被害が出た。
だが、その時の記憶は人々の心からすぐに消えてしまった、と上野さんは失意する。
ところで、もし3.11で被災した役場庁舎の建物を全部保存した場合、その費用は4億9,500万円。一部保存の場合は1億6,500万円。
一方、解体費用は1億2,600万円。この解体費用を「1」とすると、一部保存は「1.30」、全部保存は「3.92」、およそ4倍もの費用負担になる。
結局、大槌町では「一部保存」に決まった。
具体的には、役場庁舎を一部保存し、その周囲に「公園」を整備することになった。
公園というアイディアは、地元の高校生(大槌高校)の生徒から出されたものだった。
「震災を忘れてほしくない、という気持ちも心に入れておいて、これからの子どもたちには安全で活発に遊んでほしいんと思います」と、高校生・小嶋愛里佳さんは述べる。
過去と未来をどうつなげていくか。
風化により過去を断絶させてはいけない。未来の子どもたちにも記憶を伝えたい。
そんな想いの結晶が、大槌町の町役場の一部保存、そして公園化であった。
◎次の震災の前
ところ変わり、宮城県女川町。
秋のサンマで有名なこの小さな町も、大津波に直撃された不幸な町の一つである。家屋の8割は津波で流されてしまった。
そして未だに、3つの鉄筋コンクリートの建物が、基礎の部分から根こそぎ「横転」したままの姿で残っている。
一時、「震災遺構」として保存の決まったこの3つの建物であったが、その後、反対の声が強まり、未だ結論は出ていない。
「ぜひ保存したい」
と立ち上がったのは、中学生の女の子たちであった(女川中学校)。
そのうちの一人、伊藤芽衣さんは自宅を津波で流された。その辛い気持ちを押してまで、残してほしいと訴える。
「今がすごく辛くても、これからのことを考えると、やっぱり忘れないようにしたいので、残すべきかな、と思って…」
伊藤さんがそう思うようになったのは、学校の授業で先生が「津波の歴史」を生徒たちと一緒に調べてくれたからだった。
調べてみると、津波の記憶は確かに女川町のいろいろなところに残されていた。たとえば、昭和8年(1933)の三陸津波を記録した石碑には「大地震の後には津波が来る」と記されていた。そして、同様の石碑がかつては町内8ヶ所にあったことも判った。
「二度と同じ誤ちを繰り返してはならない」
津波の歴史は、やはり忘却の歴史でもあった。それを調べれば調べるほど、中学生たちの思いは高まっていった。
「1,000年後の命のために、今できることを精一杯しなくちゃいけない…!」
中学生たちの中には、津波で肉親を失った子らも多かった。それでも、忘れることは嫌だと言うのであった。次の世代にそんな辛い想いをさせたくない、と。
その授業をした阿部一彦先生は、生徒たちにこう言った。
「今は震災後ではない。『次の震災の前』なんだ」と。
◎原爆ドーム
1945年、広島の町はアメリカ軍の投下した原子爆弾によって、灰燼に帰した。
その痛ましい傷跡「原爆ドーム」
当時の誰も彼もが「すぐに取り壊せ」と叫んでいた。
しかし戦後10年以上経った昭和30年代
広島の子どもたちは、保存を求める署名や募金活動などを展開した。
やがて大人たちを巻き込んだ運動が日本全国へと広がり、戦後20年経ってようやく保存が決まることになる。
原爆ドームにしろ、東日本大震災にしろ、「残したい」と切に願うのは「若い世代」であった。この先長い彼ら彼女らは、大人たちよりもずっと未来に敏感なのかもしれない。
「感情」だけに任せてしまえば、きっと「残したくはない」。でも、少し感情を落ち着かせてみると、また違った考えも浮かんでくる。
原爆ドームはすぐに解体されてもおかしくなかったわけだが、子どもたちの活動が実を結んで現在まで残され、そして世界的な建物(世界遺産)となっている。
それと同様、東日本大震災、たとえば女川町の横転したコンクリートの建物もまた、すでに世界に類例の見ないないほど稀有な例になっている。
誰もが考えていなかった。コンクリートの建物が、津波で横転するなどとは。ましてや、違うところまで流れ着いて倒れる、などと。これはある意味すでに「世界史的な記憶」である。
現在の広島の姿は、かつての原爆の傷跡など感じさせぬほどに、見事な町並みを誇っている。
その美しい街の中、歴史にポツンと取り残されたような「原爆ドーム」。
その「違和感」が、人々の心になにかを語りかける。そして、なにかを知りたくなるかもしれない。調べてみれば「忘れてはいけない歴史」があったことを知ることになる。
◎感情
原爆ドームの保存の議論でさえ、20年はかかった。
かたや東日本大震災の記憶は、まだその10分の1の2年ちょい。
まだまだ感情はその痛みを、ありありと覚えている。できれば、すべてを消してほしい。
だが100年後は?
きっと今は何もなくなってしまった女川の町も、津波の痛手がわからないほどに回復しているのだろう。
その新しい町に新しく生まれる子どもたちは、100年前の津波の話などを真に受けるものだろうか?
人間の感情もまた、津波のうねりのようなに、一気に高まったかと思えば、いつの間にか思い出さなくもなる。
心を研究する人は「感情には『今』という時しかない」と言う。過去も未来もなく、ただ「今」のみを感じるのが感情なのだそうだ。
その観点にたてば、感情には100年後も1,000年後も存在しない。
時という概念を欠いた「感情」にとっては、過去も今であり、未来も今である。気持ちがそこに移れば、歴史絵巻に心踊らせたり、未来を夢想して楽しむこともできる。
それは感情にとっての長所であり、短所でもあろう。理性よりもずっと大きな力をもつ感情は、物事を一気に動かすエネルギーを持っている。
ただ、あまりにも強いエネルギーのために、そこに釘付けにされてしまうこともままある。特定の歴史から抜け出せなくなってしまうこともあれば、未来の理想だけに生きてしまうこともある。
「今すぐ被災した建物を撤去してほしい」
そう思うのも人の感情であり
「100年後、1,000年後にも残したい」
と想うのもまた、同じ感情であろう。
現在をどう未来とつなげるか、どの過去とつなげるか。
幸か不幸か、人間にはそんな自由が任されている。
どんな過去が必要で、どんな未来を欲するのか。
それを選ぶことができるのが、今のわれわれの特権である。
(了)
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出典:NHKクローズアップ現代
「1000年後の命を守るために 〜どう伝える 震災の教訓〜」