2013年06月02日

震災遺構、保存すべきか、解体すべきか? 揺れる感情







3.11 町を破壊した「大津波」の記憶。

そんなもの、思い出したくもない。

「なのに、なんであの『壊れた建物』が残されたままなんだ?」



岩手県・大槌町(おおつち・ちょう)

その役場庁舎、働いていた40名の職員が命を落とした。

その建物の遺構が、被災したそのままの姿で痛々しく残されている。



「あれを見るのも嫌だし、あそこに行くのも辛い…」

倉堀康さんは、その役場庁舎で兄を亡くしている。

「あの建物は、早急に解体してほしい…!」



一方、ボロボロになった役場庁舎を

「歴史として残しておきたい」

という意見も、やはり住民側から出された。



「保存か?」「解体か?」

揺れる住民たちの意見。

残しておけば、住民たちの心を苦しめ続ける。だが解体してしまえば、歴史の教訓は風化してしまう。

「忘れたい。でも、忘れてはならないこともある」



広島の「原爆ドーム」も、戦後すぐの時は「即座に取り壊してほしい」という声がほとんどだったという。

それがなぜ、今の時代にまで残されることとなったのか。

そこにはやはり、凄惨な体験をした人々の身を揉まれるような葛藤があり、そして勇断があった。






◎議論



上野ヒデさんは、大槌町の役場庁舎で一人娘を亡くした。

それから一年半、娘が津波に飲まれた町役場には、足を向けることすらできなかった。



そしてようやく娘の死を受け入れることができたとき、「この建物から目を背けたくない」という今までとは全く反対の想いが湧いてきたという。

それ以来、上野さんは役場の前につくられた祭壇の掃除を、足繁く行うようになった。



「わかるんですよ。私自身、見るのも辛いんですから」

役場をすぐに取り壊せという意見に、かつて上野さんは賛意を示していた。

「わかるんですけど、ここを見るのが辛い、じゃあ、その気持を忘れないで、と私は言いたいんです」

まるでそれを娘に教えられたと言わんばかりに、上野さんは「保存」を強く訴えるようになった。



「やっぱり、目に訴えるものがないと、人間は忘れてしまうんです」

上野さんはそう言う。今のわれわれがたとえどんなに辛くとも「100年後、200年後には必要なのだ」と。



「後世に残そうというのなら、何もあの建物でなくてもいいじゃないか」

あの建物で兄を亡くした倉堀さんは、あくまでも反対する。

「上野さんの言うこともわかります。ただ、あの建物だけはやめていただきたい」










◎忘れた歴史



議論が膠着するなか、ある専門家が「あの場所にあった町役場」だからこそ、残す価値があると提言した。

「なぜ、役場があの場所に建てられたのか?」

豊島正幸教授(岩手大)は、「過去の津波を忘れた歴史」が町役場を「あの場所」に建てさせた、と言うのである。



町役場が3.11で被災した場所である「海に近い低地」に移築したのは昭和29年(1954)。

それまでは山沿いの「高台」に位置していた。



町の中心を担う町役場が海側に移動すると、それに釣られるように「住宅地」もまた海のそばへと引き寄せられていった。

そして2011年3月11日、その海側へと大きく移動していた市街地は、すっかり津波に洗われてしまった…。



「人間は忘れてしまうんです」

上野さんがそう言う通り、世代が1つ2つと代わっていく間に、大津波への警戒心は緩んでいかざるを得ない。

そして、人の世代交代よりもずっと緩慢な大津波のリズムは、すっかり人間が忘れ果てたころに襲ってくる。まるで、またそれを思い出させるかのように。



うかつに海側へと移築してしまった町役場を、その場所に残す意義。

「なぜ、役場が低地のほうへ移動して、さらには住宅地を移動したのか? その歩みをもう一度振り返り、これからの町づくりを考えていくべきだと思います(岩手大・豊島教授)」



人間の「忘却の罪」。それを大津波で身をもって思い出させられるよりも、「津波を忘れないための何か」を残しておくほうが、心の傷は軽いように思われた。

たとえ今がどんなに苦しくとも…。










◎一部保存、公園



娘を失いながらも、その建物を残そうと言う上野さん。

彼女には17歳のころの津波の記憶が残っていた。



「朝のしじまを破って、津波を知らせる半鐘がけたたましく鳴り響き…」

昭和35年(1960)のチリ地震津波。岩手三陸地方に大きな被害をもたらし、上野さんの大槌町でも被害が出た。

だが、その時の記憶は人々の心からすぐに消えてしまった、と上野さんは失意する。



ところで、もし3.11で被災した役場庁舎の建物を全部保存した場合、その費用は4億9,500万円。一部保存の場合は1億6,500万円。

一方、解体費用は1億2,600万円。この解体費用を「1」とすると、一部保存は「1.30」、全部保存は「3.92」、およそ4倍もの費用負担になる。

結局、大槌町では「一部保存」に決まった。



具体的には、役場庁舎を一部保存し、その周囲に「公園」を整備することになった。

公園というアイディアは、地元の高校生(大槌高校)の生徒から出されたものだった。

「震災を忘れてほしくない、という気持ちも心に入れておいて、これからの子どもたちには安全で活発に遊んでほしいんと思います」と、高校生・小嶋愛里佳さんは述べる。



過去と未来をどうつなげていくか。

風化により過去を断絶させてはいけない。未来の子どもたちにも記憶を伝えたい。

そんな想いの結晶が、大槌町の町役場の一部保存、そして公園化であった。










◎次の震災の前



ところ変わり、宮城県女川町。

秋のサンマで有名なこの小さな町も、大津波に直撃された不幸な町の一つである。家屋の8割は津波で流されてしまった。



そして未だに、3つの鉄筋コンクリートの建物が、基礎の部分から根こそぎ「横転」したままの姿で残っている。

一時、「震災遺構」として保存の決まったこの3つの建物であったが、その後、反対の声が強まり、未だ結論は出ていない。



「ぜひ保存したい」

と立ち上がったのは、中学生の女の子たちであった(女川中学校)。

そのうちの一人、伊藤芽衣さんは自宅を津波で流された。その辛い気持ちを押してまで、残してほしいと訴える。

「今がすごく辛くても、これからのことを考えると、やっぱり忘れないようにしたいので、残すべきかな、と思って…」



伊藤さんがそう思うようになったのは、学校の授業で先生が「津波の歴史」を生徒たちと一緒に調べてくれたからだった。

調べてみると、津波の記憶は確かに女川町のいろいろなところに残されていた。たとえば、昭和8年(1933)の三陸津波を記録した石碑には「大地震の後には津波が来る」と記されていた。そして、同様の石碑がかつては町内8ヶ所にあったことも判った。



「二度と同じ誤ちを繰り返してはならない」

津波の歴史は、やはり忘却の歴史でもあった。それを調べれば調べるほど、中学生たちの思いは高まっていった。

「1,000年後の命のために、今できることを精一杯しなくちゃいけない…!」

中学生たちの中には、津波で肉親を失った子らも多かった。それでも、忘れることは嫌だと言うのであった。次の世代にそんな辛い想いをさせたくない、と。



その授業をした阿部一彦先生は、生徒たちにこう言った。

「今は震災後ではない。『次の震災の前』なんだ」と。






◎原爆ドーム



1945年、広島の町はアメリカ軍の投下した原子爆弾によって、灰燼に帰した。

その痛ましい傷跡「原爆ドーム」

当時の誰も彼もが「すぐに取り壊せ」と叫んでいた。



しかし戦後10年以上経った昭和30年代

広島の子どもたちは、保存を求める署名や募金活動などを展開した。

やがて大人たちを巻き込んだ運動が日本全国へと広がり、戦後20年経ってようやく保存が決まることになる。



原爆ドームにしろ、東日本大震災にしろ、「残したい」と切に願うのは「若い世代」であった。この先長い彼ら彼女らは、大人たちよりもずっと未来に敏感なのかもしれない。

「感情」だけに任せてしまえば、きっと「残したくはない」。でも、少し感情を落ち着かせてみると、また違った考えも浮かんでくる。







原爆ドームはすぐに解体されてもおかしくなかったわけだが、子どもたちの活動が実を結んで現在まで残され、そして世界的な建物(世界遺産)となっている。

それと同様、東日本大震災、たとえば女川町の横転したコンクリートの建物もまた、すでに世界に類例の見ないないほど稀有な例になっている。

誰もが考えていなかった。コンクリートの建物が、津波で横転するなどとは。ましてや、違うところまで流れ着いて倒れる、などと。これはある意味すでに「世界史的な記憶」である。



現在の広島の姿は、かつての原爆の傷跡など感じさせぬほどに、見事な町並みを誇っている。

その美しい街の中、歴史にポツンと取り残されたような「原爆ドーム」。

その「違和感」が、人々の心になにかを語りかける。そして、なにかを知りたくなるかもしれない。調べてみれば「忘れてはいけない歴史」があったことを知ることになる。










◎感情



原爆ドームの保存の議論でさえ、20年はかかった。

かたや東日本大震災の記憶は、まだその10分の1の2年ちょい。

まだまだ感情はその痛みを、ありありと覚えている。できれば、すべてを消してほしい。



だが100年後は?

きっと今は何もなくなってしまった女川の町も、津波の痛手がわからないほどに回復しているのだろう。

その新しい町に新しく生まれる子どもたちは、100年前の津波の話などを真に受けるものだろうか?



人間の感情もまた、津波のうねりのようなに、一気に高まったかと思えば、いつの間にか思い出さなくもなる。

心を研究する人は「感情には『今』という時しかない」と言う。過去も未来もなく、ただ「今」のみを感じるのが感情なのだそうだ。

その観点にたてば、感情には100年後も1,000年後も存在しない。



時という概念を欠いた「感情」にとっては、過去も今であり、未来も今である。気持ちがそこに移れば、歴史絵巻に心踊らせたり、未来を夢想して楽しむこともできる。

それは感情にとっての長所であり、短所でもあろう。理性よりもずっと大きな力をもつ感情は、物事を一気に動かすエネルギーを持っている。

ただ、あまりにも強いエネルギーのために、そこに釘付けにされてしまうこともままある。特定の歴史から抜け出せなくなってしまうこともあれば、未来の理想だけに生きてしまうこともある。



「今すぐ被災した建物を撤去してほしい」

そう思うのも人の感情であり

「100年後、1,000年後にも残したい」

と想うのもまた、同じ感情であろう。



現在をどう未来とつなげるか、どの過去とつなげるか。

幸か不幸か、人間にはそんな自由が任されている。



どんな過去が必要で、どんな未来を欲するのか。

それを選ぶことができるのが、今のわれわれの特権である。










(了)






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出典:NHKクローズアップ現代
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2013年05月28日

アメリカを襲った「ムーア竜巻」。強度、最大級



年間、1,000を超える「竜巻」が発生するというアメリカ

「竜巻発生数は、陸地面積あたり世界で最も多い(AFP通信)」

その大半は5〜6月の午後4〜9時の間に発生するというデータがある。



アメリカ・オクラホマ州を襲った、今回の竜巻

「ムーア竜巻」

その発生地域・時間ともに、過去の経験則通りだった。いや、むしろ今年は竜巻の到来が遅いくらいだったという(気温が例年よりも低かったため)。



2013年5月20日 午後14時45分

「まるでゾウの鼻が伸びてくるようだった」

異様に発達した上空の積乱雲から降りてきた、一筋の竜巻。その後に奮った猛威に比べれば、じつに慎ましやかに降臨したといえる。



だが、その竜巻が相当に発達するであろうことは、レーダー画像を見ていた気象予報官リック・スミス氏の目には明らかだった。

ただちに出した緊急竜巻警報。

「Go to shelter NOW! (シェルターに逃げろ! 今すぐだ!)」



その警報は竜巻発生の5分前(14時40分)。

5万人都市「ムーア(オクラホマ州)」を直撃する36分前。

「これは、予測の平均が『14分前』ということを考えると異例の早い予測であった(Wikipedia)」



「私がこれまで見てきた中では、最大級の竜巻でした。それが今にも、人口密集地に直撃しようとしていたのです」

気象予報官スミス氏の背筋には、異常発達した積乱雲に戦慄が走っていた。

そして、14年前(1999)の同じ月、やはり同じようにオクラホマ州を襲った巨大竜巻の悪夢が、まざまざと思い起こされていた(まったく不幸にも、今回も前回とほぼ同じ経路を竜巻はたどることになる)。






◎襲来



ムーアの街に鳴り響くサイレンの音。

託児所で子どもたちを預っていたブリトニー・ロジャースさんは、即座に15人の子どもたちをトイレに避難させた。

怖がる子どもたち、「これはいつもの訓練なの?」と聞いてくる。



竜巻常襲地帯であるこの一帯では、定期的に訓練を行うのが常であり、そして逃げ場所を確保しておくのもそうであった。

「頑丈なコンクリートで覆われた、窓のない避難部屋」

その中でロジャースさんは、震える子どもたちを落ち着かせようと「訓練よ、大丈夫よ」と言い聞かせていた。



「あれっ、今回のはあまり動かないぞ…」

オクラホマ大学の屋上で竜巻を観察していた佐々木嘉和さんは、不思議に思った。普通の竜巻よりも動きがずっと遅い。半分くらいのスピードしかない(およそ時速30km)。

どうやら、天空から鼻を伸ばした巨像は、よほどに巨大であるようだった。



発生から30分後

ロジャースさんら子どもたちが身を隠していた託児所に、その巨大竜巻は到来した。

「みんな、しゃがんで! 枕で頭を守って!」

予想だにしなかったほど強烈な衝撃が、コンクリートの小部屋をブルブルと震わす。

割れた天井から、雨が降り込んでくる。

子どもらは泣き叫ぶ。



「あっ! 危ない!!」

一人の女の子が、暴風にひっぺがされて窓の外に吸い出されそうになった。

職員たちは、その女の子の足に必死で取り付く。

何とか引き戻した。






◎惨状



竜巻一過

終わってみると、託児所の建物は全壊。その屋根はいったいどこへ行ったのか。

「列車が通るような轟音に言葉を失いましたが、みんなが助かって本当に良かったと思います」

ロジャースさんは、ようやく一息つけた。避難していたトイレは、建物の中央部にあり壁が頑丈だったおかげで、全員が無事だった。



発生から消滅まで、およそ50分間にわたって猛威を奮った巨大竜巻(15時35分・消滅)。

最大風速94m。竜巻の強度を示すEFスケール(改良藤田スケール)は、その上限の「EF5(強固な建造物も基礎から吹っ飛ばされ、自動車はミサイルのように上空に飛んでいく)」。

その最大級の竜巻が「市街地(ムーア)」を直撃したのは、まったくの不幸だった。



竜巻の通った跡は明瞭で、それはナメクジが這った跡のようにハッキリと市街地に残されていた。

「月面のような世界だった…」

地上部にあった何もかも、家も車もが紙細工のように軽くどこかへ吹き散らされてしまい、瓦礫ばかりが無秩序に積み重ねられていた。



巨大竜巻に市街地を横断されたのも不運なら、その経路に2つも小学校があったことも災いを一層大きなものとした(ブライアウッド小学校とプラザタワーズ小学校)。

「身体が宙に浮いたんだ! 天井が僕の上に落ちてきた! 本当に死ぬかと思った」

当時は生徒と教職員が合計75人いたという。そして不幸にも9人の死者が小学校から発見されている(竜巻被害の全体の死者数は24人)。



プラザ・タワーズ小学校では、低学年は事前に協会に避難していた無事だったものの、高学年は直前まで授業をしていた。

助かった子どもは「トイレに隠れるように言われたけど、言うことを聞かない子もいた。そこへブロックが落ちてきたんだ…」と青ざめて話す。

竜巻が直撃したそれぞれの小学校には、適切な避難施設が用意されておらず、取り残された生徒・教師らはトイレなどに身を伏せるしかなかったという。

窓が多い部分の変形は著しく、やはり窓の少ない部分は原型を留める傾向にあった。外部から吹き込み、そして吸い出す風はそれほどに強力であった。






◎竜巻街道



竜巻という自然現象は、極寒地域を除くほとんどの陸地で発生するという。

それでもなぜ、アメリカで多発するのか?

より具体的には、アメリカ国内でも「トルネード・アリー(竜巻・街道)」と呼ばれる一帯がとくに狙い撃ちされる地域である。それはメキシコ側(南側)の下から順に、テキサス州・オクラホマ州・カンザス州の3州を中心としたアメリカのほぼ中央部である。



その陸と海の地形上、南東方向から「メキシコ湾の暖かく湿った風」、北西方向からは「ロッキー山脈の乾燥した風」が、この3州の真上で激突する。

この2つの風は、真逆の性質(寒暖・乾湿)を持つものであるから、その融合には両者ともに恐ろしいほど猛烈に抵抗する。それが「世界で最も強力な竜巻」を発生させることにつながるのだという。



「暖かく軽い空気」が「冷たく重い空気」の上に乗り上げると、その境目には急激な上昇気流が生み出される。いわゆる「積乱雲(入道雲)」の発生である。

その発生する風は、下層と中層では動きが異なってくるために「ねじれ」が生じる。風がねじれると、積乱雲がねじれる。そして回転が生まれる。

「われわれ、この回転を伴う雲のことを『スーパーセル(特別な積乱雲)』と言っているわけですけど、こうした巨大なスーパーセルから、今回の竜巻は生まれたのだと思います(防衛大学校教授・小林文明氏)」










◎多重渦



さらに、今回のムーア竜巻には「多重渦(たじゅう・うず)」という特徴も指摘されている。

一つの大きな「親・竜巻」の中には、数本の「子・竜巻」が含まれていたというのである。つまり、子・竜巻が数本束ねられて、一本の巨大竜巻を形成していたというのだ。

竜巻の上昇気流が異常に強いとき、竜巻内部を下降する気流もまた強烈になる。その流れが竜巻内部で新たな竜巻を生み出すねじれを生み出し、そして回転に力を与えるのだという。



内部の小さな渦は、外側の大きな渦と回転を共にすることで、その回転速度を相乗的に増大させていく。

「大きな渦(主渦)が回転している中で、小さい渦も回転するので、竜巻の中で両方の速度が合わさってしまうのです。過去の実験結果でいうと、『最大で2倍近い風速』になる可能性があります(高知大学・佐々木浩司教授)」

大型の竜巻でもその渦が「単一」であれば、被害は局所的になるという。だが、渦が「多重」となると、小さな渦が何度も何度も波状攻撃を仕掛けてくる。その結果、その被害範囲は増大してしまう。



今回のムーア竜巻の幅は、最大2kmにも及んでいる。

たとえば昨年日本(茨城県つくば市)を襲った竜巻は、国内最大級と言われているが、その幅は500mほど。

つくば市を襲った竜巻の中にも「複数の渦」が確認されているが、ムーア竜巻の多重渦のスケールはその4倍以上ということになる。






◎予報と避難



アメリカは年間1,000件超、竜巻シーズンは5〜6月。

一方、日本は年間20件ほど、そのシーズンは9〜11月。日本では海岸線で発生するケースが多く知られている(約6割)。

だが、季節を問わず起こっている事例もあることから、日本でも「一年中どこでも起こりうる」。近年、その発生頻度は増加傾向にあるという(2倍前後)。



現在の予報技術は、ドップラー・レーダーを用いることにより、上空の積乱雲の中の「親の渦」は分かるようになってきているという。だが、そこからどうやって「子どもである竜巻」が地上にタッチダウンするかは、よく分かっていない。

それでも、ムーア竜巻のように、事前に予報できる確率は高くなっている。







しかし今回のムーア竜巻、残念ながら14年前の悪夢の教訓が活かされているとは、言い難い部分もあった。

「今回の竜巻は、41人の死者を出した1999年とほぼ同じ経路をたどったが、竜巻対策シェルターを備えた住宅や学校は極めて少なかった。オクラホマでは土質が硬いため、竜巻発生時に避難できる地下室を備えている家は少ない(AFP通信)」



窓の多い部屋と、少ない部屋があったら、窓の少ない部屋が逃げ場所になる。

「いざという時には、たとえば廊下の、階段の、あるいは風の通さない所に逃げることが必要になります。開口部の多い場所では、ガラスなども飛散します(防衛大学校教授・小林文明氏)」

「住宅でいえば、やはり1階ですよね。屋根が吹き飛ばされても、まだ下がある。今回のムーア竜巻でも、1階のバスタブにうずくまっていて助かったという人が何人もいます(同氏)」






◎やり直すだけ



オクラホマ州の被災地を訪れたオバマ大統領

多くの子どもたちが命を落とした、小学校校舎の残躯の前に立った。巨大竜巻の引っ掻き回した傷跡は、各所に生々しく痛々しい。



「警報を発した予報官。最初に瓦礫を掘り起こした救助隊員。自らの身体を盾に、子どもたちを守った教師たち」

オバマ大統領は、最初にそうした人々を称えた。

「ここには強靭な意志がある。必ずや立ち直るだろう。だが助けは必要だ。われわれはあなた方を支援する。その約束は必ず果たす」

大統領は力強く、被災した住民たちにそう宣言した。



自宅を失った住民も多い。

「帰宅して気づいたのは、家が何も残っていなかった、ということだった…」

それでも、その光景を見た人は、生き延びたことができた人だ。



ムーアの市長は、新規の住宅建設に「避難施設設置の義務化」を検討しているという(条例)。

適切な避難施設を持たなかった小学校への批判の声も高く、そのためオクラホマ州政府は地下シェルターなど避難施設設置のため、基金の設置を決定した。



「また、元通りにするさ。やり直すだけだ」

スティーブ・ウィルカーソンさんも自宅を失った一人だが、ただ家族が無事だったことにだけ感謝しているという。

「強い気持ちで前進しないと。でも本当は、泣き崩れそうだけどね…」













(了)






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日本にも竜巻は発生する。竜巻の発生メカニズム。

巨大竜巻から住民を守った「英雄」クリストファー・ルーカス。

「炎の津波」が迫るその時。大地震と地震火災



出典:NHKクローズアップ現代
「緊急報告 アメリカ巨大竜巻 多重渦の脅威」



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2012年12月14日

「自分の国は自分で護る」。大震災と自衛隊「火箱芳文」


「これは戦(いくさ)だ…」

比類なき巨大地震、そして大津波警報…。

陸上自衛隊の幕僚長「火箱芳文(ひばこ・よしふみ)」氏の全身には一気に緊張が走った。東日本大震災である。



即座に被災地・東北に電話を入れる火箱氏。

電話を受けた東北方面の総監は開口一番、「やられました…」。



火箱氏は「東北方面隊だけでは無理だ」と判断するや、全国の部隊に東北地方へと向かうよう指示。

その行動規模は前代未聞であり、本来であれば、閣議決定による大臣命令が必要なほどの大胆な行動であった。幕僚長といえども火箱氏にその権限はない。

それでも彼は「独断」で部隊を動かした。「閣議決定を待っていては、到底間に合わない…。あとでどんなお咎めや処分を受けようが、覚悟の上だ…!」



地震発生から、わずか30分。

全国の動ける部隊は、火箱幕僚長の命令により、ダッと一斉に動き出した。

各方面の総監たちも「出動すべきかどうか」、上からの指示を今か今かと待っていたのだった。



もう一つ、初動の段階で火箱氏が行ったことは、「即応予備・予備自衛官」の招集。普段は会社勤めなどをしている、いわゆる自衛官OBに集合をかけたのだった。

「ありがたいことに、全国から延べ2,648人が集まってくれました。とくに東北の方は非常にモチベーションが高かったですね」

即応予備・予備自衛官の招集は制度設立以来、初めてのことであった。



震災直後、食べ物や飲み水などの生活物資が著しく欠乏していた被災地。物資の流れは完全に停まってしまっていた。

「自衛隊の機能を使う以外にない…。事は一刻を争う」

そう思い極めた火箱氏は、震災から3日後の14日夜に「民生支援物資輸送システム」をつくり、大臣に報告。全国にある陸上自衛隊の駐屯地などに物資を集め、航空自衛隊が被災地の空港まで輸送。被災地に空路届けられたそれらの物資は、自衛隊のトラックが避難所等に運ぶこととなった。

そうして運び込まれた物資は2,200トン超。被災地の物流が麻痺する中、貴重なライフラインとなった。



被災地に身を投じた自衛隊員は、およそ7万人。

隊員たちは「何でも言って下さい! 何でもやります!」と言ってくれるものの、明らかに「過労状態」。不眠不休では3日が限界であり、長期戦においては、適切な休息も必要だった。

かねてより火箱氏は「持久力」というものを重視していた。「二夜三日の連続状況の演習は意味がない。少なくとも10日は必要だ」と言って、持続力を重視する教育訓練を常日頃から隊員たちに課していた。



「即動必遂(そくどう・ひっすい)」

これは火箱氏の造語である。「即座に動いて、持続力をもって必ず成し遂げよ」との意味が込められている。

「不眠不休だと、体力と気力には必ず限界がきます。どういう形にしろ休まないといけない。かといって、勢いを緩めることは許されません」

東日本大震災では、被災地近県に「戦力回復センター」という施設が設けられ、被災地の隊員たちに「一週間に一度は休める体制」が整えられた。



それでも、隊員たちの心労は想像を絶する。

御遺体は毎日毎日、何百体と運び込まれてくる。最終的には、陸上自衛隊だけでも8,416体もの御遺体を収容することとなる。

「これだけの御遺体を収容するなど、誰も経験がないわけです」

水の中で腐敗した御遺体を手で抱えようとすると、ズルズルと皮膚が剥げてしまう。網で丁寧に抱え上げて、微弱なシャワーで慎重に慎重に泥を洗い落としてあげなければならない。





さらなる困難は福島の原子力発電所。

隊員たちが冷却水を持って現場に駆けつけた途端に、「三号機の水素爆発」は起こった(14日午前11時ごろ)。

「4人が怪我をしましたが、もし一秒違えば死んでいたと思います」と火箱氏。



「とにかく冷やそう!」

冷却機能を失って超高温に達している原発をなだめるには、それしかなかった。

「仮りに大量の放射線が放出された場合、日本列島が福島県で真っ二つに割れてしまう!」

最悪の場合、高速道路も新幹線も二度と福島以北には立ち入れなくなるという状況までが想定されていた。



「オレがやります! 行かせて下さい!」

使命感に燃える隊員たちが、次々と名乗りを上げる。そんな志士たちがヘリコプターに乗り込み、原発建屋の真上からの注水に取り掛かった。

ヘリの高度は高ければ高いほどそれだけ安全だが、それでは水が届かない。だから彼らは、出来うる限りの低空飛行を行った。

その危険な状況下、じつに30トンもの注水が行われ、日本列島が真っ二つにされるという最悪の事態は、辛うじて回避されるのである。



その原発周辺はあまりに放射線量が高くなってしまっていたために、被災者の捜索はためらわれていた。

しかし、「宮城や岩手でやっているのに、福島だけそのままにしておくわけにはいかない」との想いを持っていた隊員たちは、その一念から高線量地域での行方不明者捜索を敢行。

「ヘドロに埋まった土管にまで潜り込んで捜索を続けてくれた隊員たちには、本当に頭が下がる思いでした(火箱芳文・陸上幕僚長)」



「自分の国は自分で護る」

その気概が、アメリカ軍をも動かした。

アメリカは原子力など特殊技術を発揮できる「虎の子部隊」を日本に派遣していたものの、彼らが最初から前面に出ることは決してなかった。

「日本が自ら『やるぞ』と動かない限り、アメリカは絶対に最初からは守ってくれないのです」と火箱氏は語る。

アメリカのスタンスは常に、「後ろにいて補完する」というものに徹していたという。





吉田茂元首相はかつて、自衛隊員たちにこう言っていた。

「君たちは在職中、決して国民から感謝されたり歓迎されたりすることなく、自衛隊を終わるかもしれない」

40年前の沖縄では、「人殺し、自衛隊帰れ!」とデモ隊が激しい反対運動をやっていた。自衛隊というだけで「白い目」で見られる時代も長かったのである。



吉田茂元首相は続ける。

「自衛隊が国民から歓迎されチヤホヤされる事態とは、外国から攻撃された国家存亡の時とか、災害派遣の時とか、国民が困窮し国家が混乱している時だけなのだ…」

かつて、自衛隊の第一混成団長を務めていた桑江良逢氏は、若き日の火箱氏にこう語っていた。

「オレたちには、任務への確たる信念があれば、それでいいのだ」。桑江団長は泰然自若の風格があり、常に落ち着いた「ぶれない芯」を持っていた。酒の飲みっぷりも美しかったという。



吉田茂元首相は、こう結ぶ。

「…どうか、耐えてくれ…」

自衛隊は自国を護ることが最大の使命。しかしながら、平時においてその仕事は評価されず、国難に遭った時にのみスポットライトが当てられる。



「任務が終わったら風のようにサーッと去って行く。去った後に爽やかな空気が残る。それだけで十分だと思ってやってまいりました」

火箱芳文氏はそう言って、平成23年8月に自衛隊を退官。

「この国を護らずにいられない」

この一途な想いが、彼をして東日本大震災という国難に命を賭けさせたのであった…。



「一切の言挙げをせず、胸に確たる矜持を秘め、黙々と任務を遂行してくれた」

これは、葛西敬之氏(JR東海会長)による東日本大震災における自衛隊への評である。



「爽やかな風」を被災地に残した自衛隊員たち。

国難はいついかなる時に日本を襲うか分からない。

その時、先頭に立って国を護るのは他ならぬ彼らである。アメリカ軍では決してない。



「日本人もまた、自分の国を大切に思う気持ちを忘れてはならないと思います」

火箱氏はそう言葉を閉じた…。








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巨大地震と火山噴火。富士山、十和田カルデラ、白頭山



出典:致知2013年1月号
「護国への変わらぬ思い 火箱芳文」

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2012年10月05日

世界の見た歴史の中の日本人。その静かなる柔和さ。


2011年3月11日、かの大震災に遭って、なぜ日本人が「平静と秩序」を保ち得たのか?

世界の常識では、大災害は「暴動と略奪」に直結するはず。中国の唐山大地震(1976)、アメリカのサンフランシスコ大地震(1989)、ロサンゼルス大地震(1994)…。そこには必ずそれらがあった。



「なぜ、日本の災害では、略奪が起きないのか(アメリカ・CNN)?」

それが外国人たちの頭を困惑させ、議論を巻き起こした。

「日本人はなぜ、こんなに冷静なのか(中国・新京報)?」



そして、とりあえず賛辞を送るより他になかった。

「他国では、日本人ほど正しい行動は取れないであろう(イギリス・BBC)」



◎数千年の気質


むしろ、東日本大震災を受けて必要以上のパニックに陥ったのは、日本人以外の人々。

日本から我先に脱出を計った外国人たち、塩が放射能に効くとのことで極端な買い占めに走った中国人たち、日本全体が放射能に汚染されてしまったと思い込んだ人たち、日本列島が津波で沈没してしまったと流言飛語を流した人たち…。



そうした周辺の騒動をヨソに、当の日本人たちは自分たちの運命を粛々と受け入れていた。

こうした日本人の気質は、いつ頃からこの国民たちに宿ったのであろうか?

「数千年前から、さほど変わっていない」と、黄文雄氏は歴史を振り返りながら述べる。「日本人には、日本の風土に培われた強さがある。それが日本人の底力でもある」



◎災害の果ての日本人


「私がどうしても滅びて欲しくない一つの民族がある。それが日本人だ」

こう言ったのは、足かけ7年間、駐日フランス大使を務めた「ポール・クローデル」。能や歌舞伎、さらには水墨画や花鳥画などを愛した文化人であり、詩人である。時は1943年、日本の敗戦色が濃厚となってきた時のことだった。

彼の言葉はこう続く。「あれほど古い文明をそのまま今に伝えている民族は他にはない。彼らは貧しい。しかし、高貴である」



彼が日本人の気質に感嘆したのは、関東大震災(1923)の時が最初だった。

「廃墟の下に埋もれた犠牲者たちでさえ、『助けてくれっ!』といった差し迫った叫び声をあげなかった。ただ、『お願いします…』という慎ましい懇願の声だった。震災当日の夜の野営地でも、不平一つ聞くことはなかった(朝日の中の黒い鳥)」





幕末に日本を訪れたアメリカのペリー提督も同様、安政南海大地震(1854)に遭った日本人の対応に驚いている。

「彼らは落胆せず、不幸に泣かず、男らしく仕事に取り掛かり、意気阻喪することもほとんどないようであった(ペルリ提督日本遠征記)」

さらに、同じ幕末に横浜大火に遭遇したエドゥアルド・スエンソンも、「日本人はいつに変わらぬ陽気さやノンキさを保っていた。いつまでを不幸を嘆いて時間をムダにしたりはしなかった。持ち物をすべてを失ったにも関わらずにである(江戸幕末滞在記)」





日本という未知の異国に住んでいた日本人という民族は、よほど彼らの目には奇異に写ったらしい。こうした記録は数多く残っている。

こうした記録を見るにつけ、日本人の気質というのは、やはり根深いものであることがうかがえる。確かに、幕末から関東大震災、そして東日本大震災と、何か目には見えない一貫したものを感じざるを得ない。



◎日本人の胸中


運命を運命として受け入れる柔軟な心をもった日本人。こうした気質を持つのは、それ歴史が苦難続きの悲しいものであったからなのかもしれない。日本人は自分たちの苦労をおいそれと表に出そうとしない。むしろ、相手に心配させるのが悪いことでもあるかのように、自分の心の内だけに仕舞っておこうとする。

「ヨーロッパ人とは異なり、日本人は相手に不愉快なことを言うべきではないと心に期しているので、決して自分の苦労や不幸や悲嘆を口にしない。苦悩をあたうる限り胸中にしまっておくのである。自らの苦労については一言も触れず、少しも気にかけていないかのような態度で、あとは一笑に付してしまうだけである」

この記述は、イタリアの外国人宣教師アリッサンドロ・ヴァリニャーノの「日本巡察記」にあるものである。まさか、これが370年前の戦国時代の日本人であるとは、言われるまで気づかない。それほどに、ここに描かれた日本人像は今のわれわれが持つもの酷似している。






◎日本人の平和観


戦争という大人災に遭っても、日本人の心は他国の人々とは異なるようである。

時は明治維新以来の大国難、超大国ロシアとの日露戦争。日本という小国は風前の灯火のようであった。「皇国の興廃、この一戦にあり」。それでも、日本人は日本人であり続けた。その様子はドイツ人医師・ベルツの日記の中に見られる。

「どうもロシアの攻撃的な調子から見て、日本の態度はあまりに控えめすぎではないどうか、と述べたところ、氏(伊東巳代治)の曰く、『さよう、まあ考えてご覧なさい。我々にとって一番肝心な点は、その忍耐と抑制により、我々日本人が平和を願っており、戦争を求めているものではない、という事実を列強に示すことなのです』

世界でも特異な存在である日本民族は、その戦争と平和のとらえ方からして異なるようだ。欧米人が矛盾を感じるようなことでも、日本人は平気で受け入れてきたようである。あたかも、水と油のごとき戦争と平和が共存しているかのように…。「武」という文字の概念は、「戈」と「止」の融合であり、「戈(ほこ)」は戦い、「止(とめる)」は平和を意味する。この一字に、日本人の願いが込められているのであろう。






◎哀れみ


そしてロシアとの戦争は佳境に入り、ついに日本海沖で世界最強と言われたバルチック艦隊と激突する。それでも、日本人は日本人のままだった。

「日本人がその歴史の上で重大なこの危機に際して、落ち着き払っているのには、どの外国人も皆感心している」とベルツは記す。



結果的にロシアに勝利した日本人は、敗者となったロシア人にむしろ同情した。戦勝に浮かれるどころか「極めて静粛」で、「むしろ憐れな捕虜の連中に、すっかり同情しているような態度であった」とベルツ医師はその印象を語っている。

日本に根強い「判官びいき」。敗者となった源義経に対する同情と同様、その憐憫の情は浅からぬものがある。これも日本人の運命の受け入れ方の特徴であるのだろう。「勝敗は兵家の常」、勝つも負けるも抗いがたい運命と思い極めているところがある。



◎負けて静かに…


幸いにも日本はロシアに勝ったが、不幸にもアメリカには負けた。第二次世界大戦の敗戦後、台湾にいた日本人60万人は日本へと帰国の途につく。その様を、林茂生は歌に詠んでいる。

「天を恨まず、地に嘆かず、黙々として整々と去る。日本人、恐るべし」

彼が「日本人、恐るべし」と表現したのは、敗戦という屈辱的かつ過酷な運命に際しても、日本人たちがパニックに陥らずに粛々と引き揚げていったことに強い衝撃を受けたからであった。台湾にいた日本人たちは、半世紀にわたり台湾で築き上げてきた全財産を中国に接収されたにも関わらず、粛々としていたのだ。

その引き際の美しさもさることながら、その運命の受け入れ方は、台湾人・林茂生の常識を超えていたのである。



「彼らの、物事を当然のこととして受け入れる態度は、西洋人も見習うべきではないかと思う」

こちらはエセル・ハワードの「明治日本見聞録」にある言葉である。彼は薩摩藩・島津家の家庭教師を務めた人物であった。

「この平静さは日本人の特徴であって、一部は生来の気質からくるものであり、一部は訓練によるものである」






◎窃盗せず


「邪馬台国」というのは、1800年ほど前の日本にあった国家とされるが、そこに見られる日本人もまた、すでに日本人である。「盗窃せず、争訟少なし」とは中国の魏志倭人伝にある言葉である。

時は下り、聖徳太子の時代にも似たような記述が中国の史書に見られる。「人、すこぶる恬静にして、訴訟まれに、盗賊少なし(物静かで争わず、盗人も少ない)」、「性質、直にして雅風あり(性格は素直で、上品なところがある)」。これらは隋書・東夷伝から。



いずれの時代も、中国は大国であり、東の端の日本は野蛮な民族とみなされていたわけだが、そうした先入観の中にあっても、中国にこのような記述が残されているのは特筆に値する。つまり、よほどのことだったのである。

当の大国・中国はといえば、「賊のいない山はなく、匪のいない湖はない」という状態である。それなのに、蛮族であるはずの日本という国には「盗みがない」。これはやはり、記しておかねばならぬほどの稀有のことであったのだ。



◎極度に嫌われる盗み


いつの時代にあっても、日本における「盗みの少なさ」は外国人を驚かせる。戦国の時代ですらそうである。宣教師フランシスコ・ザビエルは、日本人は「盗みを極度に嫌う」と本国に報告している。

「盗みは厳しく罰せられる。これは人のものを欲することが、人間として最大の悪だと認識されていたためである」とザビエルは解釈している。



戦国の世が終わり、江戸の泰平が訪れた時代などは尚更だ。「日本全国の旅行はきわめて安全なり。大道に賊なく、窃盗のごときも稀なり」と「欧米人の日本人観」には記されている。

「正直と忠実は、国中に見られる。この国ほど盗みの少ない国はほとんどないであろう。ヨーロッパ人は幕府への旅の間も、まったく安心して自分が携帯している荷物にほとんど注意を払わない」とスウェーデンのカール・チュンベリー。



そういえば、今時の日本人はiPhoneで席取りをしても、そのiPhoneが盗まれないことに外国人が驚いたという話も聞いたことがある。また、日本では普通に設置されているという自動販売機も驚きの対象だ。国によっては、またたくまに壊され、中のカネを抜き取られてしまうというのだから。

なるほど、近年の東日本大震災においても、日本に「火事場ドロボウ」が他国に比べて少なかったという事実は、この国の歴史がいかに一貫性のあるものであるかを裏付ける証左でもあるのだろう。



◎アジアでの稀有の存在


こうした日本人の安全性は「国民の誇り高い性格の中に主として存在している」とドイツのリュードルフは考えた。彼は開国直後の日本を訪れた外国人である。つまり、厳しい法によって縛られているのではなく、むしろ国民が自発的に道徳的に振る舞っていると感じたのだ。

「日本人は嘘をついたり、物を強奪することに嫌悪感を持っている。この点において、日本人は中国人と著しく異なっている」と彼は続ける。



当時の東アジア社会は、「水滸伝の梁山泊さながら」の世界、つまり、匪賊が跋扈する時代であったという。

朝鮮半島では、火賊、草賊が暗躍し、満州でも馬賊が幅をきかせていた。台湾は「三年一小反、五年一大乱(三年に一度は反乱、五年に一度は大乱)」であった。

中国も言わずもがな、この国は易姓革命が正当化されているため、前政権を滅ぼすのはむしろ天命とされた。そのため、社会に「車匪路覇(路上に巣食う強盗)」が蔓延るのが常であったという。それは現在においても、そうなのだそうだ。






◎不屈の反発力


一説によれば、「全地球の10%のエネルギーと20%の天災が日本に集中している」ともいう。これらの数字に信憑性はどうあれ、日本に災害が多いのは昔も今も変わっていない。この国は昔から火山と地震の国なのだ。

日本民族が滅びて欲しくないと切に願ったフランスのポール・クローデルも、日本は「地球上の他のどの地域よりも危険な国である」と書き残している。その最も危険な国土に暮らし続けた日本人の歴史は、それら続発する大災害への対応・対処の歴史でもあったのだろう。



大災害によって、何度も何度も住み家を打ち壊されてきた日本人の「反発力」はまた、他国の人々を驚かせてきた。

「今日午後、火災があってから36時間たつかたたぬかに、はや現場では、1,000戸以上の仮家屋が、まるで地から生えたように立ち並んでいるではないか!」。1万戸が消失した東京大火(1876)を目撃したドイツ人医師・ベルツは、その驚嘆を日記にそう記している。

また、エリザ・R・シドモアの見た復興はもっと早い。「焦土と化したばかりの場所に日本家屋が建て直されるスピードは比類がない。大火のあと12時間のうちに、小さな店の主人は元の場所で商売を再開してしまうのだ!」

こうした不屈の反発力を、黒船のペリー提督は「日本人の特性」と呼んでいる。



◎もののあわれ


自らの国が自然災害の巣である日本人は、他国の災害も決して他人事ではない。

1999年、台湾中部大地震が襲った時に、真っ先に駆けつけたのは日本の救援隊だったという。台湾の人々は、日本救援隊の昼夜を問わぬ救助活動に驚いたというが、何よりも感動したのは、「死」に対する敬意であったという。運悪く助からなかった遺体の前で整列し、頭を垂れる日本人たち。死者を悼む日本の風習は、じつに深いものであった。

その救援隊が台湾を去る時、空港に集った台湾人たちは全員総立ち、そして深々と最敬礼。その目は感涙にあふれていたという…。これらの行動は、台湾人たちにとっては全く例外的なものであり、日本人の敬意に触れた台湾人たちが、さらなる敬意でそれに応えた現れだったとのことである。

東日本大震災を受けた日本に台湾から多額の援助が贈られてきたことは、このことと無縁ではないのだろう。



災害に遭った人々を懸命に救助しようとする気質もまた、日本人の心に深く根差したものである。たとえ「村八分」にされた者でさえ、火事の時と葬儀の時ばかりは話が別だったという。そして、それは歴史的に国境という垣根をも超えたものである。

トルコ人が海難事故を起こしたエルトゥールル号、明治時代初期の出来事の際、その通報を受けた近くの海岸の村民たちは、総出で救助と介抱に当たったという。自らの食糧の蓄えも乏しいというのに、非常用のニワトリまで差し出したという村民たち。それを聞いた明治天皇も、可能な限りの援助を行うよう支持し、生存者たちは故郷トルコまで送迎されることにもなる。

トルコの恩返しは時を超えて、イラン・イラク戦争の時に返される。戦地で取り残された日本人200名以上を救出してくれたのは、危険を顧みぬトルコの航空機であった。





他国人の不幸を憐れみ、同情する日本人。

「もののあわれ」の心はいつの時代にも、日本人を突き動かしてきたのである。

そして、「情けは人のためならず」、思わぬ時に自らも助けられてきたのである。



◎柔和な教育


エセル・ハワードは、日本人の気質は「一部は訓練によるものである」と言ったが、その一端はカロンの「日本大王国志」にも見受けられる。カロンは江戸の鎖国前後を見た外国人である。彼は日本人の子供の教育に着目した。

「日本人は子供を注意深く、また柔和に養育する。たとえ終夜やかましく泣いたり叫んだりしても、打擲することはほとんど、あるいは決してない」

日本人は辛抱強く待ち続けるというのである。子供の理解力が発達するのを。子供たちが分かるようになるまでは、「辛抱と柔和」とをもって宥(なだ)めるというのである。

「柔和と良教育とをもって誘導せねばならぬ、というのが彼らの解釈である」



日本の社会では、大人がその背中をもって、その生き様を示していたのだという。それゆえ、子供たちも自制することを覚えるようになる。そのため、「打って教え込む必要はなかった」とカロンは記す。

カロン自身、「日本人は忠実にして信頼するに足る」と、本国オランダで激賞していたとも。






◎日本人像


他人の目を気にする日本人は、世界で孤立することを恐れ、いつも「ふつう」であろうとしていたのかもしれない。しかし、その歴史と民族性はどうしても「ふつう」とは言い難い。

静かで控えめであり、災難にあっては自分の身よりも他人の身を心にかけ、落胆しすぎることなくまた立ち上がろうとする。もし、人智を尽くしても及ばぬことあらば、敬意をもってそれを受け入れる…。

はからずも、こうした日本人像が東日本大震災に際して、日本人自らの身から出てきたのである。ひょっとしたら、それは自分自身も忘れていた想いだったのかもしれない。それでも、2000年を超える永き歴史の中で、こうした気質はずっとずっと育まれ続けてきていたのだ。それを美徳として…、時に遭っては実践しながら…。



自然に対する「諦観(あきらめ)」はいつしか「達観」となり、それは人災の最たる戦争においてすらそうなっていった。

「武力なくして、いかにして国を守るのか?」というのは、世界の当然の問いである。しかし、その武力が戦争を抑止する一方で、その武力があるからこそ戦争が引き起こされるという矛盾も、この問いには含まれている。そして、この矛盾は自らの尻尾を追いかける犬のように終わりのないものである。

もし、その敵意が他者のものではなく、自分の尻尾だったとしたら…、自らの所業が鏡に写し出されたものだったとしたら…。日本の平家物語はそんなことを語っている。



「日本人はなぜ、世界から尊敬され続けるか」というのは黄文雄氏の問いである。

その理想的な日本人というものを鏡に写した時、そこに写る姿には、みな襟を正さずにはいられない。それは外国人に限らず、日本人としてもそうであり、その姿に思わず頭が垂れるのである。そんな時にはじめて、「武」という力が「戈(ほこ)」を止められるのかもしれない。

波風に揺れぬ水面のように、静かに静かに…。大石が投げ込まれても、水面が収まるのを辛抱強く待ちながら…。







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出典:日本人はなぜ世界から尊敬され続けるのか

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2012年09月14日

「炎の津波」が迫るその時。大地震と地震火災


「炎の津波?」

NHKのアナウンサーは思わず聞き返していた。聞き慣れぬ言葉である。その言葉を発したのは、中林一樹教授(明治大学)。都市防災の専門家である。

「地震で『海の津波』のことはよく言われますけど、もし木造住宅の密集地で大きな地震が起これば、至るところで火災が発生し、その炎や輻射熱がまるで津波のように住民たちに襲い来るのです」



大波のごとく一気に燃え広がる炎は、高さ20〜30mにも及び、その巨大な炎の放つ強烈な熱波(輻射熱)に、人々は追い立てられる。その目には見えない輻射熱でさえ、20m先のモノを発火させてしまう力を持つ。もし人が近寄れば、わずか5秒で着ている服が燃えてしまうほどである。

まさに「炎の津波」。



◎同時多発かつ高速


巨大地震における地震火災の特徴は「同時多発」的であること。たとえば、首都東京の直下地震では、800カ所以上から同時に火の手が上がると想定されている。

そして、火の手が回るのは予想以上に早い。直接炎や輻射熱に触れなくとも、数100m先まで飛んでいく「火の粉」が、新たな火災を誘発するのである。最新の研究では、風に乗った火の粉は700m以上も飛んでいき、新たな火種をつくりだすという結果がでた。その実験では、火の粉の生んだ火種が建物を燃やすまでに要する時間は、わずか8分であった。



都の想定によれば、811カ所で発生する出火のうち、そのうちの約8割、240件ほどの火災は、地震発生から15分以内に起こるとされている。そして、それらの火は、火の粉という飛び道具を使いながら、思わぬところも炎に巻き込んでゆく。

過去の阪神大震災では、約280件の火災のうちの87件が15分以内に発生したのだという。



◎盲点


先の東日本大震災で発生した大津波は記憶も新しく、「地震→津波=即避難」という反応は、多くの人々の脳裏に明確にインプットされたかもしれない。

しかし、「地震→火災=即避難」と考える人々はまだまだ少数派であり、まだ見ぬ将来の大震災においては、抜け落ちやすい盲点と考えられている。



かつての関東大震災においては、犠牲者が10万人を超える大被害となったのは他でもない、地震による大火災が原因である。もし火災が発生しなかったら犠牲者のうちの9割は助かったのではないかとまで考えられている。それほどに、この大地震にあっては際限なく燃え広がった火災が多くの人々の命を奪ったのである。

当時の東京市内、130カ所以上から発生した火災は3日2夜も燃え続け、東京全市街のおよそ3分の2は完全に焼失してしまったという。

この時に発生したとされる火災旋風(炎の竜巻)は、鉄をも溶かす超々高温、その内部は秒速100m以上というあり得ないほどの暴風に達していたと考えられている。ちなみに、この火災旋風というのは、阪神大震災においても確認されている。



◎火を見てからでは、もう遅い


大地震が起きても、「まだまだ大丈夫だ」と考えるのは、時として危険を伴う。それが木造住宅の密集地であれば、地震火災が町を焼き尽くすまでにそう時間はかからない。

場合によっては「火を見てからでは、もう遅い」。「煙の臭いが漂ってきた段階で身構え、上空に煙を見たら、もう逃げる」。そんなスピード感が求められるとのことである。

ある程度、町に火が回ってしまうと、次々と道路や橋などが通行不可能になっていき、思わぬ遠回りを強いられることもまま発生し、よけいに時間を浪費してしまう。初動の遅れは、のちのちのより大きな遅れとなってしまうのだ。



しかし、いくら「早く逃げねばならない」といっても、自らの家が火の元になった際には、懸命かつ迅速な消化に当たらなければならない。この各家庭での「初期消火」というのが、火災の広がりを防ぐ肝となる。

消せる火も消さずに逃げてしまっては、火の手をいたずらに早めてしまうことにつながり、それが自らの退路を塞いでしまうという顛末にもなりかねない。逆に、一分一秒でも火の手が広がるのを食い止められたら、それは多くの人が逃げる時間をかせぐことにつながるかもしれない。



当然、大地震の直後に消防車はやって来ない。「自らの手で消し止めなくてはならない」。その体制を整えておくこと、具体的には消火器を用意しておいたり、家中に難燃性のモノを増やしておいたりするのは事前の務めとなる。

もし、消火できないと判断すれば、一刻も早く逃げることになる。その判断基準は「天井に火の手が達するかどうか」だそうだ。天井に炎が届くまで炎上してしまっていたら、その火は素人の手でそうそう消せるものでないとのこと。

最近では、「投げる消火剤」というものもあるようで、逃げながらでもこうしたものを火に投げ込んでおけば、それはまた地震火災のスピードを弱めることにもなるのだという。





◎危険な小学校


「さあ、どこへ逃げよう?」

多くの人は避難先として、近くの小学校や中学校のグラウンド、または公民館などをイメージするという。東京のある町にアンケートをしたところ、住民のおよそ7割がそう答えていた。



「それは危険だ」

そう指摘するのは、関澤愛教授(東京理科大学)。なぜなら、数階建ての校舎に囲まれたグラウンドとて、20〜30mも燃え上がる炎は、その校舎の上から顔を出す。そして容赦なく熱風(輻射熱)を吹き付けてくる。

たいていの小学校のグラウンドは100〜120m四方だというが、もし炎に取り囲まれてしまったら、猛火の熱風には耐えられない。たとえ炎から50m離れていたとしても、体感する熱の温度は60℃を超えてしまう。

「熱いなんてもんじゃありません。いっときもその場にはいられません」

100四方しかないグラウンドでは、こっち側で50m逃げても、反対側からもまた50mの熱波がくる。もはや逃げ場はない。その上、避難してきた多くの住民たちで押し合いへし合いの状況である。



かつての関東大震災(1923)において、本所被服廠跡(現在の墨田区横網町公園)には約4万人の住民たちが避難してきたというが、そのほとんどの約3万8,000人もの人々が焼死または窒息死している。これは、周囲の猛火が生み出した火災旋風による悲劇であった。

ひとたび火に囲まれた広場では四面楚歌、もはや逃げるに逃げられぬ苦境に追い込まれてしまうのである。



◎安全な広域避難所


「地震火災の時は、近くの小学校ではなく、十分な広さがあり、熱風や輻射熱の危険が少ない『広域避難所』に逃げる必要があるのです」

関澤教授は、そう勧める。建物の倒壊から身を守るという意味では、小学校なども有効であるが、ひとたび火災が発生したのならば「広域避難所に直接走れ」というのである。先にも記した通り、火の手は人々の予想を越えて、退路を塞ぐのだから。

東京23区であれば、それは都に指定されており、町によっての避難場所が全部決められているのだという。





政府や自治体の防災対策に関しては、こうした避難所となる広場や公園を整備することや、延焼を防ぐために幅の広い道路をつくるなどがある。

たとえば、品川区では大規模な道路(幅20m)の建設が計画されている。その道路は、木造住宅の密集地域を分断し、火が燃え広がるのを防ぐためである。東京都の想定によると、建物の焼失率が最大となるのは、この品川区(32%)なのだそうだ。

しかし、その建設予定地には住宅が密集しているため、およそ500軒以上の住民たちからの同意が必要とされている。迫り来る地震に対してはスピードが必要なことは重々承知でありながら、遅々として進まぬ現状がここにはある。



◎自助、そして共助


「結局、自分の家を守るのは、自分しかいないんです」

そう語るのは、都市防災が専門の中林教授(明治大学)。

「防災で一番大切なのは『自助』です」



「自らを助ける」。もし消し止められるのならば自分で火を消し、一件でも火災を減らす。その上で、余裕があれば「共助」、隣りの人を助ける。

「自助があって初めて、共助というのが成り立つのです」



その自助の手始めとなるのが「耐震」だという。「建物が壊れるところほど、火災が発生しやすい」。まずは壊れないような工夫をすることが、のちの火災を防ぐ「自助」につながる。

「東京では、火災811件という被害想定がありますけど、『自分はその811件には入らないぞ』という意志が、防災の基礎となるのです」



◎素早かったお年寄りたち


この自助の精神がいかんなく発揮された結果、東日本大震災で一人の被害も出さなかった介護施設があった。

その施設が位置していたのは、東日本大震災で最も多くの人がなくなった宮城県・石巻市。しかも、海岸からわずか200mしか離れていない、もっとも危険な場所であった。

当時入所していたお年寄りは47人。なかには歩くことができない人も大勢いたにも関わらず、地震発生からわずか10分足らずで全員が高台まで避難して助かったのである。



どうして? 誰かが助けてくれたのか?

いや、施設スタッフの介護・誘導はもちろんあったものの、皆自力で逃げたのである。その施設だけの力で、逃げたのである。

それは「日頃の訓練」のタマモノでもあった。この施設では10年も前から3ヶ月に一度の避難訓練を欠かさずに行ってきたのだという。日中だけと限らず、時には真夜中、時には早朝と、あらゆる事態を想定しながら。



「はじめは動けない人もいました。でも訓練することによって、立とうとするようになるのです。足も動かせない人でも」。スタッフはそう語る。「お年寄り一人一人の意識レベルは、確実に高くなっていくのです」

ひたすら訓練を繰り返すことで、お年寄りたちは「身体で」避難行動を覚えていった。それゆえ震災当日、たとえ「頭」が真っ白になっていたとしても、「身体」ばかりはしっかりと避難所に向かっていたのである。



それに加えて、施設スタッフの事前の備えも周到であった。市の避難場所がお年寄りたちには「遠すぎる」と判断し、あらかじめ独自の避難所を確保していたのである。近くの製紙会社の室内運動場をいざという時の避難場所として使わせてもらえるよう、頼んであったのだ。

だからこそ、大津波が到来する前に、誰一人欠けることなく、そこへ素早く逃げ込むことができたのだ。

「やっぱり自分たちで出来ることは自分でしないと。何でもかんでも人にしてもらうっていうのは、うまくないんでないかな。一人一人の力を合わせるから、大きな輪になるんでないかな」



◎恥ずべき一大恨事


100年近く前の関東大震災を見た中村清二氏による「大地震による東京火災報告書」には、こんな文言がある。

「消防に勤めたところでは、多くその効を奏しているのを見ると、吾人は人のかの偉大なるに驚かざるを得ない」

焦土となった東京に、なぜか点々と焼けていない場所があったことを不思議に思った中村氏。それが地元市民たちによる懸命なる消火活動の成果であったこを知って、驚きを隠せなかったのだ(具体的には、神田和泉町佐久間町をはじめとする140カ所)。



その一方で、「市民として共同一致して働作することを怠り人、かの偉大な効果十分に発揮しえなかったと断じても過言ではあるまい」とも書いている。もし、十分に協力し合えば、もっと火が止められたとの遺憾を表しているのである。

そして、それは「子孫に対して恥ずべき一大恨事である」とまで嘆いている。



中村氏の嘆きは続く。「江戸の先代の住民は『明歴の大火』に鑑みて、京橋・日本橋の中ほどに中橋広小路という防火用の広場を新設した。愚かなる子孫は、これを無益なる土地の使用法と盲断してこれを廃し、民家をもってこれを充たし、今はただ、その地名を存ずるばかりで実がない」

「明歴の大火」という江戸の町を包んだ大火事(1657)は、その死者10万人ともいわれる関東大震災にも匹敵する大惨事であった。この教訓から生まれたのが「防火用の広場」。しかし、「愚かなる子孫」たちは、この防火用の広場を「無益」と盲断して、そこに民家を並べてしまっていたのである。

この愚行が関東大震災での火災を助長してしまったと、中村氏は悔いたのだ。「恥ずべき一大恨事である」と。





◎小さな積み重ね


明歴の大火、関東大震災、東日本大震災…。こうした大災害は、世代を超えて忘れた頃にやってくる。そして、忘れたがゆえに、その備えは疎かとなってしまう。それがまた災害の被害を拡大させてしまう。

関東大震災を体験した世代には、「地震→火事=即避難」という発想があったかもしれない。しかし、今の我々にそれは薄い。また、東日本大震災を経験した我々の頭には、「地震→津波=即避難」というイメージがインプットされたが、後の世代がそう考えるとは限らない。

もし目先の経済的な価値観ばかりを優先させてしまえば、防災用の広場などは「無益」と断じられるかもしれない。津波に備えて空けておいた海岸線とて同様かもしれない。



先見の明ある識者たちが口をそろえるのは、そうした「小さな積み重ね」のことであった。

小さな訓練を積み重ね続ければ、自然と身体は避難所を向くようになる。小さな防災を積み重ねれば、自分の家が壊れにくく燃えにくくもなり、そうした自助が共助へと輪を広げてゆく。

しかし逆もまた然り。少しずつ危険な場所に家を建てていくこともできれば、少しずつ防災の気持ちを緩めていくこともできる。

将来への選択は明白でありながらも、大災害を体験した世代の気持ちは、なかなか世代を超えることが難しい。伝わらぬまでも、「子孫に対して恥ずべき一大恨事」だけは避けたいものではあるのだが…。



◎何でも良い


ところで、防災というのは、どんな「小さな積み重ね」をしたら良いものか。

矢守克也教授(京都大学)によれば、それは「何でも良い」とのこと。「防災といっても『何からしていいかわからない』というのは、逆に言えば、『何をやっても防災につながる』ということ」。

それは健康体操でも構わない、と教授は言う。逃げ足が少しでも速くなれば、それはそれで立派な「自助」なのだから。



「我先に逃げる」というのは、良く言えば「率先避難」。こうした「クギ」が出てくれば出てくるほど、その町は強くなり、自助は「共助」へと発展してゆく。

そして、その共助に「公助(国の助け)」も加われば、国全体が強くなる。



我々の住む国土は幸にも不幸にも、地震が多い。

そして、涙を流すたびに、この国は強くなってきたのである。

そんな民族の末裔として、後世に誇れる防災意識を世界に示したいものである…。







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大津波から村民を救った和村前村長の置き土産。大反対を受けてなお建造された巨大堤防。

日本にはあえて水に沈む橋がある。「沈下橋」に見る「柔」の思想。



出典:
NHKスペシャル「シリーズ日本新生 "死者32万人"の衝撃 巨大地震から命をどう守るのか」
関東大地震(日本史上最大の震災を招いた地震)

posted by 四代目 at 09:42| Comment(0) | 災害 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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