「竹島がどこにあるかご存知だろうか?」
ちなみに、「竹島」とは韓国と「領土問題(韓国名:独島)」がある島である(日本では「島根県」)。
「竹島」の位置を地図上で示してもらったところ、ある有名大学では正答率がわずか「37.3%」であったという。
「北方領土」や「尖閣諸島」と違い、「竹島問題」は日本国民の関心が薄いことは否めない。
現在の「竹島」はどうなっているのか?
「韓国」が武力により実効支配している状態であり、日本は遠くから「抗議」するばかりである。韓国はこの島に「領土問題」があることすら認めてはいない。
「竹島(独島)」には、韓国国家警察官(軍に準ずる装備を持つ)が40名、灯台管理人3名が「常駐」。とりわけ日本側からの船等の接近には「厳重に警戒」している(1991年より韓国人夫婦が居住を開始)。
島には、船舶の接岸場(1997)・灯台(1998)・ヘリポート・レーダー等が完備され、「要塞化」している。
韓国側が自領であると主張する最大の根拠の大元は、「李承晩ライン(1952)」にある。
このラインに従えば、「竹島(独島)」は韓国領ということになる。
しかし、ここで注意を要するのは、「李承晩ライン」が韓国政府の「独断による一方的な決定」であるという点である(国際法を無視)。
ちなみに、このラインに従えば「対馬」ですら韓国領ということになる。
当時の時代背景を理解するには、このラインを設定した「李承晩」という人物を知らなければならない。
彼の生きた時代は、現在からは想像もできないほどに「激動の時代」であった。
「日露戦争(1904)」、「韓国併合(1910)」、「第二次世界大戦」、「朝鮮戦争(1950)」などなど、これら全ては彼の存命中の出来事である。
彼は時代の生んだ「好戦的な独裁者」であった。その苛烈な性格は、35年間に及んだ「日本支配に対する反発」により醸成されたといっても過言ではなかろう。
李承晩は1911年、「寺内正毅(朝鮮総督)」暗殺未遂で投獄され、その後アメリカへ逃亡(36歳)。1913年、上海で結成された臨時政府の大統領になり(38歳)、朝鮮独立を旗頭に活動を展開。
1948年、反共の旗印の元、アメリカの支持を得て初代大統領に就任(73歳)。しかし、「アメリカの傀儡だ」と国民に猛反発を受け、朝鮮半島は大混乱。
とりわけ済州島での反発は凄まじく、島民の5人に一人にあたる6万人が虐殺される大惨事にまで発展した(済州島四・三事件)。この混乱の流れから、後の「北朝鮮」も生み出されることとなった。
1950年、「朝鮮戦争」が勃発(75歳)。
李承晩率いる韓国軍は、モロモロと総崩れ。半島の突端まで追い込まれる。
この戦での彼の評判は芳しくない。「勝ち戦にあっては誰よりも目立とうとし、負け戦にあっては誰よりも早く逃げ出した。」
1953年、アメリカの関与により南北は「休戦」(78歳)。
しかし、李承晩は「休戦は国家的死刑だ」と猛反発。徹底した北進を主張し続け、結局、彼は死ぬまで署名を拒否し続けた。
そんな頑(かたく)なな李承晩にアメリカもホトホト困り果て、「アメリカ大統領も彼とは太刀打ちできない」という状態だったという(この頃には、アメリカで李承晩の言葉に耳を貸すものはいなくなっていた)。
老いて増々盛ん、李承晩の独裁は勢いを増し続ける。
大統領の任期が切れても、憲法を改憲しながら大統領の座に居座り続けた。
議会で否決された改憲案も「強引に可決」にした(1票足りなかったところ、四捨五入という詭弁により可決にした。俗に言う「四捨五入改憲」1954)。
1958年の大統領選挙(83歳)では、自身の当選が不可能と判断するや、対立候補の゙奉岩(チョ・ボンアム)を処刑(進歩党事件)。
さすがに李承晩はヤリ過ぎた。
不正選挙を糾弾する「デモ」が激化。デモに参加した高校性が催涙弾により死亡するや、デモは韓国中に飛び火した。
ここに至り、頼みの綱であったアメリカが完全に李承晩を見限る。
それでも李承晩は「行政からは去るが、元首としては留まる」と宣言。
韓国の学生たちは発狂し、李承晩の銅像を引きずり下ろすわ、副大統領の邸宅を襲撃するわと蜂の子たちの騒ぎは過激さを増す一方。
粘りに粘った李承晩は、ここまで来てようやく「失脚」。
12年間に及ぶ長き独裁の終焉であった(85歳)。
そして5年後、亡命先のハワイで死去(90歳)
20世紀という時代は、数々の独裁者を生んだ。
フセイン(イラク)、ムバラク(エジプト)、カダフィ(リビア)、ベンアリ(チュニジア)、アサド(シリア)……。
李承晩も彼らに負けずとも劣らない立派な独裁者であった。
李承晩の手にかかれば、北朝鮮や沖縄でさえ「不法占拠」であり、ましてや「対馬」、「竹島(独島)」は当然自分のものである。
これが「李承晩ライン」である。
李承晩は反日により、自己を確立した人物である。
彼の時代に「日本の統治のほうが良かった」などと発言しようものなら、即投獄である。
親日派は政治犯なのであり、投獄・拷問・処刑は当然。李承晩が大統領になってわずか2年で、政治犯の投獄者は日本支配30年間の投獄者数を軽く上回ったという。
この悪しき名残りのため、現在においてすら政治家が親日を公言することは危険である。
1952年の「李承晩ライン」はそうした一連の反日の象徴でもある。
公海であろうが、日本の漁船は拿捕され、長期抑留の憂き目にあった。
「李承晩ライン」が廃止されるまでに、韓国に拿捕された日本の船舶数は300隻を超え、日本人抑留者は4,000人に迫る。44人の死傷者まで出た。
この「李承晩ライン」が廃止されるのは、李承晩の後を継いだ「朴正熙(パク・チョンヒ)」大統領の時代である。
李承晩の独裁時代に、韓国の経済は「壊滅」した。その立て直しを迫られた朴正熙大統領は、日本の協力(資本)を不可欠としたのである。
1965年、日本と協力関係を結ぶため、「日韓基本条約」が締結される。
ここに至り、「李承晩ライン」は廃止された。
ところが、なぜか「竹島」だけは韓国の軍事占拠が続いた。
日韓基本条約において、竹島問題は「紛争処理事項」と記された。
しかし、その後の韓国は「竹島に紛争はない」という日韓基本条約をホゴにしかねない立場を堅持し、一切の交渉に応じないのである。
日韓両国が「紛争」を認めない限り、国際司法裁判所は手出しができない。
日本は幾度も国際司法裁判所での問題解決を望んだが、韓国側は「紛争はない」の一点張りである。
韓国にとっては、竹島の領土問題は日本の作り出した空想であり、問題視すること自体がおかしいとなる。
こうなると、もはや論じることすらできない。
しかし、李承晩という人物がその発端となっていることは、日本人として知っておいた方がよい事実であろう。
現在、日本人は韓国人に対して「おおむね好意的」である。
中国人を好感する日本人が少ないのとは対照的である。
それもこれも、韓流スターやドラマなどの影響が大きいものと思われている。
国家間の政治的感情は、文化面とは一線を画している。
両国に負の歴史があろうがなかろうが、文化は別次元で浸透していく。
そして、それらが新たな国民感情を醸成する。
歴史は「将来」を損ねるためにあるのではなかろう。
たとえ負の歴史とはいえ、「将来」にとっては益となって欲しいものである。
画像:白熱教室JAPAN
慶応義塾大学 第2回「日中・日韓関係を考える」

