南シナ海というのは、たいそう「深い海」であるらしい。
その深さゆえに、もし海底に「原子力潜水艦」を隠しておいても探知されないのだという(南シナ海の平均深度は約1,500m、最深部はマニラ海溝の約5,000m)。
誰がそんな物騒なモノを海底に隠しておくというのか?
それは、同海域で「委細構わぬ力による支配」を目指している中国だと、京大名誉教授の中西輝政(なかにし・てるまさ)氏は言う。
かつての米ソ冷戦時代、アメリカの核兵器に対抗していた旧ソ連は、オホーツク海(北海道の北)とバレンツ海(ノルウェー近海)という2つの「深い海」に核ミサイルを搭載した原子力潜水艦を潜らせていたという。
旧ソ連にとってこれら深海の核は「アメリカを脅す最終兵器」であり、その脅威ゆえに、かの核大国アメリカといえども、ソ連による東ヨーロッパや中東への進出を頭ごなしに抑えつることができなかったということだ。
そして現在、かつての米ソ対立は、「米中」という2軸にすっかり移り変わった。
当然のように、アメリカも中国もお互いを牽制し合っている。そして、中国にとっては「アメリカ本土を常に、中国からの核攻撃の脅威にさらしておくこと」が不可欠なのだと中西氏は考える。
しかし、地上にある中国の核ミサイルは、もし事起こらば、アメリカの先制攻撃によって「全部潰されてしまう」。
「ですから、核ミサイルは海の底、すなわち潜水艦に搭載しないと、本当のところ保有する意味がないのです」
ところが残念なことに、中国の沿海地帯は海が浅すぎて、たとえ海底に核を隠したといえども、「すぐに探知されて沈められてしまう」。
そんな中国が渇望する「深い海」。アメリカに原子力潜水艦を探知されないほどに深い海というのは、中国近海には「南シナ海」をおいて他にないのであった。
◎中国による尖閣国有化
なるほど、大国というのはそんな風に頭を巡らすものか。軍事三流の弱小国に暮らすわれわれにとっては縁遠い話にも聞こえる。
しかしながら、われわれ日本人はその大国・中国と海を接しているという厳然とした事実がある。「尖閣諸島」という問題はその象徴でもある。
「今回の騒ぎは日本にとって幸いでした。『不幸中の幸い』ともいえましょう」
中西氏は尖閣問題をそう評する。なぜなら、警戒心の緩すぎた日本人の「目が覚めた」からである。
20年以上前から尖閣諸島を注視していたという中西氏。当時から危機感を抱いていた。
というのも、今からちょうど20年前(1992)、中国は密やかに尖閣諸島を「国有化」していたからである。その時に制定された「領海法」という中国の法律には「尖閣諸島は中国領土である」ということが明記されていた。つまり、国内法上で国有化を明言したのである。
しかし、この一大事実を知らぬ人は多い。識者を自負する連中でも知らないことが多い、と中西氏は呆れ返る。
生半可な識者は「ケ小平が尖閣問題を『棚上げ』にした」と今だに勘違いしている。確かに、時の中国国家主席であったケ小平は日中平和友好条約の締結に際して、こう言った。「尖閣の問題は我々の世代は知恵がないから、知恵のある将来の世代に委ねよう」と(1978)。
ところが、この「棚上げ」は後の中国政府によって「一切反故にされた」。それが1992年に制定された「領海法」の意味するところである。
つまり、日本の尖閣国有化に先立つこと20年、中国は尖閣諸島を自国領内に組み込むことを宣言済みだったのである。
それゆえ、日本の外務省の認識は「棚上げに合意したという事実は一切ない」というものである。ケ小平が勝手に棚に上げた尖閣問題は、20年も前に中国自身の手ですでに棚から下ろされていたのである。
◎露骨
中西氏にとっては「予見」されていた尖閣問題。だからこそ、20年前から「声を枯らして」訴えてきた。
ところが、当時の日本の危機感はあまりにも希薄であり、中西氏の物騒な言葉は「極右の血迷いごと」と一蹴されてしまうのがオチだった。
そんな間も中国の「大計」は、尖閣の水面下で着実に進行していた。
そして、その一角が海面上に浮上してきたのが2年前(2010)の「中国漁船による、日本の巡視船への体当たり」。さすがに、安穏としていた日本人でさえも、目を覚まさせられた瞬間であった。
この漁船衝突事件以降、中国の大計は「露骨」になってゆく。
中国は建国以来、ただの一度も尖閣上空に軍用機を接近させることなどなかったのだが、この事件以降、頻繁に日本の尖閣上空を脅かすようになる。「防空識別圏」というのは、日本がスクランブルなどの対抗措置をとる目安となる線のことだが、中国の軍用機はしきりにこの線を侵すようになったのである。
中西氏らの防衛意識の高い人々が「色めき立った」のは、今年(2012)3月16日の中国「海監五〇」という海洋監視船による尖閣領海への突入であった。
「これは4,000万トンもある大きな監視船で、30mm機関砲を備えています。監視船といっても『巨大な軍艦そのもの』なのです」
このタイプの超大型監視船は南シナ海でしか出没しないものであったが、その主力級が尖閣領海に突入して来たのである。
悠々と日本領海内を航行する「海監五〇」。日本の巡視船は危なくて近寄れない。30mm機関砲は日本の巡視船に照準を合わせたままである。
日本側が「ここは日本の領海だから出て行くように」と遠くから警告すれば、中国側は怒気を含んだ口調で言い返す。「ここは中国の領海だ! オマエらこそ出て行け!」。ご丁寧に日本語でも脅してくる。
そんな押し問答が数十分、「海監五〇」の領海侵犯は何時間にも及んだのだという。
◎危機感
「このニュースを聞いた時、『すぐに動かなければ尖閣が危ない!』という意識をもった関係者は少なくないと思います」と中西氏。
そして、すぐに動いたのが石原慎太郎・東京都知事(当時)であった。この事件のわずか1か月後、彼はアメリカのワシントンで講演をした際に、「東京都による尖閣買い取り」を提案したのである。
「本当はもう遅すぎるんだ…」
石原氏は参考人として呼ばれた国会でそう口にした。彼も中西氏同様、古くから危機感を抱いていた人物の一人であった。
彼らの目から見れば、中国の「大計」は順調すぎるほどに進行中だったのである。
ところが、ここから事態は急転することとなる。中国にとって「予想外」のことが連鎖的に発生するのである。
まず、10万人以上の日本国民から東京都に寄せられた十数億もの寄付金。日本国民の国防意識は中国が思っていた以上に高いものとなっていた。
そして、そこに畳み掛けるように行われた日本政府による「国有化」。日本の行動は意外にも素早く大胆なものであったため、中国外交は「大きな失敗」をすることとなった。
◎米中のはざま
中国による対日戦略には3つの大きな柱があるという。それは、日米関係の分断、中国への贖罪意識の醸成、そして中国に警戒心を起こさせないようにすることなのだという。
軍事的に見た場合、中国にとっての日本はアメリカに付随した存在にすぎない。ろくな軍事力を持とうとしない日本は、とりあえず大人しくしていてくれればいい。できればアメリカからは離れてくれた方がいいし、罪の意識に苛まれてくれていたほうが都合が良い。
中国にとっての軍事的脅威は、何といってもアメリカなのである。
そのアメリカと対抗するためには、中国には原子力潜水艦を潜めるための南シナ海が必要であり、アメリカにとって絶好の足掛かりとなっている沖縄なども厄介だ。尖閣諸島は軍事的な要地でもある。
こうした軍事の視点をもつのはアメリカも同様であり、オバマ大統領が軍事の軸足(ピボット)をアジアに置くと宣言したのは、中国に南シナ海を押さえられては困るからである。南シナ海は米中両国にとっての「主戦場」なのである。
沖縄を補強しようとするのも、アメリカの軍事的意志の現れである。尖閣諸島を行動範囲内に収めることのできるオスプレイの配備は、その布石でもある。
◎監視の目
アメリカの最新鋭の大型空母(ジョージ・ワシントン、ジョン・C・ステニス)は現在、沖縄から600kmほど離れたところに配備されている。「もし、この配備がなければ、中国は間髪入れずに尖閣に上陸してきているでしょう(中西氏)」。
万が一、中国の上陸を許してしまえば、日本に実効支配はそのまま中国のものとなってしまう。
「潜水艦からゴムボートに乗り移って、夜中に20〜30人を上陸させて居座ってしまえば、国際法上、尖閣は中国に実効支配された形になります」
中西氏が「幸い」だと言うのは、今回の尖閣国有化という騒動で世界のスポットライトが一斉に尖閣諸島に集中したということである。
「中国は隠密行動を取れなくなりました」
アメリカの偵察衛星は尖閣上空に集められて、常時監視を怠らない。また、海上自衛隊の対潜哨戒機が以前の3倍にも増強されているので、中国の潜水艦はおいそれと接近できない。
「国際世論の目も厳しくなったため、中国も無茶な行動は取れないのです」
「アメリカは必ず日本を守る」、中西氏はそう信じている。
その根拠は、かつてイギリスとアルゼンチンの間で起きた領土紛争「フォークランド紛争(1982)」におけるアメリカの態度にある。
アメリカは建国以来、一貫して「他国の領土問題には介入しない」という姿勢を貫いている。それは初代大統領ジョージ・ワシントン以来、アメリカの国是であり憲法上の建前でもある。
フォークランド紛争に際しても、アメリカのレーガン政権はその姿勢を揺るがせはしなかった。どちらの領有権にもくみしなかったのである。ただ、同盟国であるイギリスの側には立ち続けた。
「今回の尖閣問題でも、アメリカは必ずこうした立場を取ります。これはアメリカ外交を知っている人間にとっては常識です(中西氏)」
◎気概
20年間、声を枯らしてきた中西氏の訴えは今、ようやく聞く耳を得ている。もう誰も尖閣諸島を「あんな小さな島々にどうしてそこまで…」とは思っていない。
もし、日本が中国の圧力に屈して国有化を撤回してしまえば、「その瞬間に世界からは『日本が尖閣を中国に返した』と受け止めらてしまう」。そうなってしまうと国際裁判を起こしても「絶対に勝てない」。
「日本は『尖閣諸島の国有化を撤回せよ』という中国の要求は何があっても呑めない。国有化は日本が最低限死守するべきラインなのです」と中西氏はふたたび声を枯らす。
ところで、そんな気概を日本政府は保ち続けられるのであろうか?
昨今の日本政府における「なし崩し的外交」は、一抹の不安をいざなう。
そこで中西氏が白羽の矢を立てる人物が、「安倍晋三(あべ・しんぞう)」氏である。
今回、安倍氏が自民党の総裁選に立候補しようとした時、多くの先輩有力者たちが彼の出馬を押し止めようとしたのだという。「元総理が総裁選に出て、もし3番目4番目の票しか入らないような負け方をしたら、政治生命を失うぞ」と。
それでも安倍氏は出馬し、そして勝った。討ち死にするかもしれなかったが、単騎突入した勝った。その様を中西氏は、幕末の志士・高杉晋作の挙兵になぞらえる。
「実際、尖閣の危機がなければ、安倍総裁は誕生しなかったでしょう(中西氏)」
◎懸念
安倍氏の前回の首相ぶりは、正直あまり感心できたものではなかった。
「中国との間で『戦略的互恵関係』というワケの分からない中途半端な妥協をしてしまいました」と中西氏も苦言を呈する。
そして挙げ句の果てには、胃腸の不調により「断腸の思い」でその座を早々に降りることとなってしまう。これは安倍氏にとっても「非常に大きなトラウマ」となったようである。
ところが、今回の安倍氏はどうやら「腹を決めた」ようだ。
前回の大きなトラウマに「捨て身の覚悟」を鍛えられ、彼の放つオーラは「国家のことしか頭になかった晩年の吉田茂」のようになったと中西氏は感じている。
「七生報国ではありませんが、『この国を建て直すためになら何度挫折しても立ち上がる』という気概が滲み出ています」
生まれ変わったような安倍晋三氏。
そんな彼を危険視する声は世界に多い。いわゆる右派、日本の戦争責任を放棄して、第二次世界大戦前の日本に逆戻りするのではないかという懸念である。
実際、安倍氏が総理になれば、「村山談話」と「河野談話」は実質的に破棄されることとなるかもしれない。村山談話というのは日本によるアジア諸国の侵略と植民地化を認めたものであり、河野談話とは韓国の従軍慰安婦を認めたものである。現在双方ともに、日本政府による公式見解とされている。
「当然、内外からは『物凄い風圧』を受けるでしょう」と中西氏。「いまの日本を『元に戻す』のは大変な仕事なのです。一回や二回、刀折れ矢尽きて倒れることは覚悟の上です」。
◎覚悟
敗戦後の日本は、軍事から目をつぶっていたのかもしれない。
そしてその目は尖閣問題によって強制的に覚まさせられた。世界の2大軍事大国が日本を挟んで対峙していることに否が応にも気づかされた。
軍事とは何か?
国防とは何か?
国とは何か?
一度抜かれた刀が鞘に収まるまでには、刀を抜く以上の覚悟が必要とされるのかもしれない。
日本人が終わったと思っている第二次世界大戦も、それは未だに歴史と化したわけではなく、時事問題として残されている部分も少なくない。
ましてや尖閣をや。
「身はたとひ、武蔵の野辺に朽ちぬとも、留め置かまし大和魂」
これは幕末の吉田松陰が処刑場に出向く時に詠んだ辞世の句であるという。
この句を安倍氏は、石原氏が都知事を辞任した時に口にした。「これが石原さんのお気持ちなのでしょう」。
80年以上前、徳富蘇峰はこう言った。
「国家が興隆する時、国民は『理想』をもって生活とし、国家が衰退する時、『生活』をもって理想とする」
今の時代は平和に見える。
だがいったい、その海底深くでは何が起こっているのか?
それは、まったく一般人の知るところではない。しかしだからといって、無関係でいられようはずもない…。
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稲田朋美という政治家の憤。歴史を知り、国を知る。
岡崎嘉平太と周恩来。日本と中国をつないだ二人。
出典:致知2013年1月号
「国難打開への道 中西輝政」