2012年12月10日

尖閣という「不幸中の幸い」。中西輝政


南シナ海というのは、たいそう「深い海」であるらしい。

その深さゆえに、もし海底に「原子力潜水艦」を隠しておいても探知されないのだという(南シナ海の平均深度は約1,500m、最深部はマニラ海溝の約5,000m)。



誰がそんな物騒なモノを海底に隠しておくというのか?

それは、同海域で「委細構わぬ力による支配」を目指している中国だと、京大名誉教授の中西輝政(なかにし・てるまさ)氏は言う。



かつての米ソ冷戦時代、アメリカの核兵器に対抗していた旧ソ連は、オホーツク海(北海道の北)とバレンツ海(ノルウェー近海)という2つの「深い海」に核ミサイルを搭載した原子力潜水艦を潜らせていたという。

旧ソ連にとってこれら深海の核は「アメリカを脅す最終兵器」であり、その脅威ゆえに、かの核大国アメリカといえども、ソ連による東ヨーロッパや中東への進出を頭ごなしに抑えつることができなかったということだ。



そして現在、かつての米ソ対立は、「米中」という2軸にすっかり移り変わった。

当然のように、アメリカも中国もお互いを牽制し合っている。そして、中国にとっては「アメリカ本土を常に、中国からの核攻撃の脅威にさらしておくこと」が不可欠なのだと中西氏は考える。

しかし、地上にある中国の核ミサイルは、もし事起こらば、アメリカの先制攻撃によって「全部潰されてしまう」。



「ですから、核ミサイルは海の底、すなわち潜水艦に搭載しないと、本当のところ保有する意味がないのです」

ところが残念なことに、中国の沿海地帯は海が浅すぎて、たとえ海底に核を隠したといえども、「すぐに探知されて沈められてしまう」。

そんな中国が渇望する「深い海」。アメリカに原子力潜水艦を探知されないほどに深い海というのは、中国近海には「南シナ海」をおいて他にないのであった。



◎中国による尖閣国有化


なるほど、大国というのはそんな風に頭を巡らすものか。軍事三流の弱小国に暮らすわれわれにとっては縁遠い話にも聞こえる。

しかしながら、われわれ日本人はその大国・中国と海を接しているという厳然とした事実がある。「尖閣諸島」という問題はその象徴でもある。



「今回の騒ぎは日本にとって幸いでした。『不幸中の幸い』ともいえましょう」

中西氏は尖閣問題をそう評する。なぜなら、警戒心の緩すぎた日本人の「目が覚めた」からである。



20年以上前から尖閣諸島を注視していたという中西氏。当時から危機感を抱いていた。

というのも、今からちょうど20年前(1992)、中国は密やかに尖閣諸島を「国有化」していたからである。その時に制定された「領海法」という中国の法律には「尖閣諸島は中国領土である」ということが明記されていた。つまり、国内法上で国有化を明言したのである。



しかし、この一大事実を知らぬ人は多い。識者を自負する連中でも知らないことが多い、と中西氏は呆れ返る。

生半可な識者は「ケ小平が尖閣問題を『棚上げ』にした」と今だに勘違いしている。確かに、時の中国国家主席であったケ小平は日中平和友好条約の締結に際して、こう言った。「尖閣の問題は我々の世代は知恵がないから、知恵のある将来の世代に委ねよう」と(1978)。

ところが、この「棚上げ」は後の中国政府によって「一切反故にされた」。それが1992年に制定された「領海法」の意味するところである。



つまり、日本の尖閣国有化に先立つこと20年、中国は尖閣諸島を自国領内に組み込むことを宣言済みだったのである。

それゆえ、日本の外務省の認識は「棚上げに合意したという事実は一切ない」というものである。ケ小平が勝手に棚に上げた尖閣問題は、20年も前に中国自身の手ですでに棚から下ろされていたのである。





◎露骨


中西氏にとっては「予見」されていた尖閣問題。だからこそ、20年前から「声を枯らして」訴えてきた。

ところが、当時の日本の危機感はあまりにも希薄であり、中西氏の物騒な言葉は「極右の血迷いごと」と一蹴されてしまうのがオチだった。



そんな間も中国の「大計」は、尖閣の水面下で着実に進行していた。

そして、その一角が海面上に浮上してきたのが2年前(2010)の「中国漁船による、日本の巡視船への体当たり」。さすがに、安穏としていた日本人でさえも、目を覚まさせられた瞬間であった。



この漁船衝突事件以降、中国の大計は「露骨」になってゆく。

中国は建国以来、ただの一度も尖閣上空に軍用機を接近させることなどなかったのだが、この事件以降、頻繁に日本の尖閣上空を脅かすようになる。「防空識別圏」というのは、日本がスクランブルなどの対抗措置をとる目安となる線のことだが、中国の軍用機はしきりにこの線を侵すようになったのである。



中西氏らの防衛意識の高い人々が「色めき立った」のは、今年(2012)3月16日の中国「海監五〇」という海洋監視船による尖閣領海への突入であった。

「これは4,000万トンもある大きな監視船で、30mm機関砲を備えています。監視船といっても『巨大な軍艦そのもの』なのです」

このタイプの超大型監視船は南シナ海でしか出没しないものであったが、その主力級が尖閣領海に突入して来たのである。



悠々と日本領海内を航行する「海監五〇」。日本の巡視船は危なくて近寄れない。30mm機関砲は日本の巡視船に照準を合わせたままである。

日本側が「ここは日本の領海だから出て行くように」と遠くから警告すれば、中国側は怒気を含んだ口調で言い返す。「ここは中国の領海だ! オマエらこそ出て行け!」。ご丁寧に日本語でも脅してくる。

そんな押し問答が数十分、「海監五〇」の領海侵犯は何時間にも及んだのだという。



◎危機感


「このニュースを聞いた時、『すぐに動かなければ尖閣が危ない!』という意識をもった関係者は少なくないと思います」と中西氏。

そして、すぐに動いたのが石原慎太郎・東京都知事(当時)であった。この事件のわずか1か月後、彼はアメリカのワシントンで講演をした際に、「東京都による尖閣買い取り」を提案したのである。



「本当はもう遅すぎるんだ…」

石原氏は参考人として呼ばれた国会でそう口にした。彼も中西氏同様、古くから危機感を抱いていた人物の一人であった。

彼らの目から見れば、中国の「大計」は順調すぎるほどに進行中だったのである。



ところが、ここから事態は急転することとなる。中国にとって「予想外」のことが連鎖的に発生するのである。

まず、10万人以上の日本国民から東京都に寄せられた十数億もの寄付金。日本国民の国防意識は中国が思っていた以上に高いものとなっていた。

そして、そこに畳み掛けるように行われた日本政府による「国有化」。日本の行動は意外にも素早く大胆なものであったため、中国外交は「大きな失敗」をすることとなった。





◎米中のはざま


中国による対日戦略には3つの大きな柱があるという。それは、日米関係の分断、中国への贖罪意識の醸成、そして中国に警戒心を起こさせないようにすることなのだという。

軍事的に見た場合、中国にとっての日本はアメリカに付随した存在にすぎない。ろくな軍事力を持とうとしない日本は、とりあえず大人しくしていてくれればいい。できればアメリカからは離れてくれた方がいいし、罪の意識に苛まれてくれていたほうが都合が良い。

中国にとっての軍事的脅威は、何といってもアメリカなのである。



そのアメリカと対抗するためには、中国には原子力潜水艦を潜めるための南シナ海が必要であり、アメリカにとって絶好の足掛かりとなっている沖縄なども厄介だ。尖閣諸島は軍事的な要地でもある。

こうした軍事の視点をもつのはアメリカも同様であり、オバマ大統領が軍事の軸足(ピボット)をアジアに置くと宣言したのは、中国に南シナ海を押さえられては困るからである。南シナ海は米中両国にとっての「主戦場」なのである。

沖縄を補強しようとするのも、アメリカの軍事的意志の現れである。尖閣諸島を行動範囲内に収めることのできるオスプレイの配備は、その布石でもある。



◎監視の目


アメリカの最新鋭の大型空母(ジョージ・ワシントン、ジョン・C・ステニス)は現在、沖縄から600kmほど離れたところに配備されている。「もし、この配備がなければ、中国は間髪入れずに尖閣に上陸してきているでしょう(中西氏)」。

万が一、中国の上陸を許してしまえば、日本に実効支配はそのまま中国のものとなってしまう。

「潜水艦からゴムボートに乗り移って、夜中に20〜30人を上陸させて居座ってしまえば、国際法上、尖閣は中国に実効支配された形になります」



中西氏が「幸い」だと言うのは、今回の尖閣国有化という騒動で世界のスポットライトが一斉に尖閣諸島に集中したということである。

「中国は隠密行動を取れなくなりました」

アメリカの偵察衛星は尖閣上空に集められて、常時監視を怠らない。また、海上自衛隊の対潜哨戒機が以前の3倍にも増強されているので、中国の潜水艦はおいそれと接近できない。

「国際世論の目も厳しくなったため、中国も無茶な行動は取れないのです」



「アメリカは必ず日本を守る」、中西氏はそう信じている。

その根拠は、かつてイギリスとアルゼンチンの間で起きた領土紛争「フォークランド紛争(1982)」におけるアメリカの態度にある。

アメリカは建国以来、一貫して「他国の領土問題には介入しない」という姿勢を貫いている。それは初代大統領ジョージ・ワシントン以来、アメリカの国是であり憲法上の建前でもある。

フォークランド紛争に際しても、アメリカのレーガン政権はその姿勢を揺るがせはしなかった。どちらの領有権にもくみしなかったのである。ただ、同盟国であるイギリスの側には立ち続けた。

「今回の尖閣問題でも、アメリカは必ずこうした立場を取ります。これはアメリカ外交を知っている人間にとっては常識です(中西氏)」





◎気概


20年間、声を枯らしてきた中西氏の訴えは今、ようやく聞く耳を得ている。もう誰も尖閣諸島を「あんな小さな島々にどうしてそこまで…」とは思っていない。

もし、日本が中国の圧力に屈して国有化を撤回してしまえば、「その瞬間に世界からは『日本が尖閣を中国に返した』と受け止めらてしまう」。そうなってしまうと国際裁判を起こしても「絶対に勝てない」。

「日本は『尖閣諸島の国有化を撤回せよ』という中国の要求は何があっても呑めない。国有化は日本が最低限死守するべきラインなのです」と中西氏はふたたび声を枯らす。



ところで、そんな気概を日本政府は保ち続けられるのであろうか?

昨今の日本政府における「なし崩し的外交」は、一抹の不安をいざなう。



そこで中西氏が白羽の矢を立てる人物が、「安倍晋三(あべ・しんぞう)」氏である。

今回、安倍氏が自民党の総裁選に立候補しようとした時、多くの先輩有力者たちが彼の出馬を押し止めようとしたのだという。「元総理が総裁選に出て、もし3番目4番目の票しか入らないような負け方をしたら、政治生命を失うぞ」と。

それでも安倍氏は出馬し、そして勝った。討ち死にするかもしれなかったが、単騎突入した勝った。その様を中西氏は、幕末の志士・高杉晋作の挙兵になぞらえる。

「実際、尖閣の危機がなければ、安倍総裁は誕生しなかったでしょう(中西氏)」



◎懸念


安倍氏の前回の首相ぶりは、正直あまり感心できたものではなかった。

「中国との間で『戦略的互恵関係』というワケの分からない中途半端な妥協をしてしまいました」と中西氏も苦言を呈する。

そして挙げ句の果てには、胃腸の不調により「断腸の思い」でその座を早々に降りることとなってしまう。これは安倍氏にとっても「非常に大きなトラウマ」となったようである。



ところが、今回の安倍氏はどうやら「腹を決めた」ようだ。

前回の大きなトラウマに「捨て身の覚悟」を鍛えられ、彼の放つオーラは「国家のことしか頭になかった晩年の吉田茂」のようになったと中西氏は感じている。

「七生報国ではありませんが、『この国を建て直すためになら何度挫折しても立ち上がる』という気概が滲み出ています」



生まれ変わったような安倍晋三氏。

そんな彼を危険視する声は世界に多い。いわゆる右派、日本の戦争責任を放棄して、第二次世界大戦前の日本に逆戻りするのではないかという懸念である。

実際、安倍氏が総理になれば、「村山談話」と「河野談話」は実質的に破棄されることとなるかもしれない。村山談話というのは日本によるアジア諸国の侵略と植民地化を認めたものであり、河野談話とは韓国の従軍慰安婦を認めたものである。現在双方ともに、日本政府による公式見解とされている。

「当然、内外からは『物凄い風圧』を受けるでしょう」と中西氏。「いまの日本を『元に戻す』のは大変な仕事なのです。一回や二回、刀折れ矢尽きて倒れることは覚悟の上です」。



◎覚悟


敗戦後の日本は、軍事から目をつぶっていたのかもしれない。

そしてその目は尖閣問題によって強制的に覚まさせられた。世界の2大軍事大国が日本を挟んで対峙していることに否が応にも気づかされた。



軍事とは何か?

国防とは何か?

国とは何か?



一度抜かれた刀が鞘に収まるまでには、刀を抜く以上の覚悟が必要とされるのかもしれない。

日本人が終わったと思っている第二次世界大戦も、それは未だに歴史と化したわけではなく、時事問題として残されている部分も少なくない。

ましてや尖閣をや。



「身はたとひ、武蔵の野辺に朽ちぬとも、留め置かまし大和魂」

これは幕末の吉田松陰が処刑場に出向く時に詠んだ辞世の句であるという。

この句を安倍氏は、石原氏が都知事を辞任した時に口にした。「これが石原さんのお気持ちなのでしょう」。



80年以上前、徳富蘇峰はこう言った。

「国家が興隆する時、国民は『理想』をもって生活とし、国家が衰退する時、『生活』をもって理想とする」



今の時代は平和に見える。

だがいったい、その海底深くでは何が起こっているのか?

それは、まったく一般人の知るところではない。しかしだからといって、無関係でいられようはずもない…。







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出典:致知2013年1月号
「国難打開への道 中西輝政」

posted by 四代目 at 07:28| Comment(78) | 領土問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月23日

歴史は一つではない。認識の数だけある。中韓の常識と領土


「日本はなぜ、法律法律と原則にこだわるのか…」

これは、ウラジオストクで開かれたAPEC(アジア太平洋経済協力)における「韓国・李明博(イ・ミョンバク)大統領」の発言。

日韓両国に領土問題のある「竹島」への突然の上陸について、弁解に追われていた中から飛び出した言葉だった。



この発言で明確になったことの一つが、日本と韓国の「歴史認識」の愕然たる違いである。われわれ日本人にとっての歴史は、「事実」に基いて認識されるものである。これは欧米諸国も同様である。

しかし、韓国の歴史は「政治的利益」に基いて形づくられる感がある。これは「王朝の変転めまぐるしかった中国の伝統を引き継ぐものである」と、歴史学の大家・渡部昇一氏は語る。

「欧米でも日本でも、歴史は『事実』に基いて形成され、認識されるのが常識である。だが、コリアやシナはそうではない。『政治的利益』が歴史認識を形成するのだ」



◎事実に基づく歴史


事実に基づけば、竹島に「不明瞭なものは何一つない。すべては明晰である」と渡部昇一氏は言う。そもそも、「韓国側には竹島に関する資料は全くない」。

一方の日本は歴史上、竹島と深い関わりをもってきた。「竹島に関する資料は江戸時代から豊富にある。竹島周辺には江戸時代から山陰地方の漁民が出漁し、竹島を風除けや避難の場所として使っていた(渡部昇一)」。

そして明治38(1905)年、竹島は島根県に編入される。この時、当時の韓国、李氏朝鮮からは何の文句も出なかった。竹島は韓国側の漁場でもなければ、竹島に来る韓国人もいなかったのだ。



韓国が竹島に触手を伸ばし始めるのは、第二次世界大戦で日本が敗れてから。

韓国は戦勝国である連合国に対して、日本の「竹島放棄」を求めてきた。しかし、連合国側がその要求を認めることはなかった。「竹島は日本固有の領土」、それが常識としてあったからである。樺太や台湾などは、戦争の勝敗によって領有権が動いた場所であったが、竹島はその例ではなかったのだ。



◎独裁者・李承晩


それでは、いつから韓国は竹島を「実効支配」するようになったのか?

それは韓国の独裁者・李承晩が独断で決めたことである。

「時の韓国大統領・李承晩が突如、何もない海上に勝手に線引きをし、その線から韓国側は自国の領海だと主張した。『李ライン』である(1952)。竹島は李ラインの韓国側にあるから韓国領というわけである(渡部昇一)」



もちろん、こんな「勝手な言い分」が国際的に通用するわけがない。ほどなく李ラインは解消されることとなる。

ところが不思議なことに、竹島ばかりには韓国が居座り続けた。

そして、それが現在にまで至る。





◎トチ狂ったパフォーマンス


「一連の領土問題は、考えてみれば非常に奇妙である。不法占拠されて脅かされているのは日本なのである。日本が領土問題を騒ぎ立てるなら話は分かる。だが、不法占拠し実効支配している側が『トチ狂ったパフォーマンス』までやって騒ぎ立てるのは、どういうことなのか(渡部昇一)」

渡辺氏が「トチ狂ったパフォーマンス」というのは、他ならぬ韓国大統領・李明博による「竹島上陸」のことである。

「勢い余ってか、天皇は訪韓し『土下座して謝罪すべきだ』と暴言を吐き、挙句の果てに日本政府からの親書を突き返すという、外交上考えられない暴挙をやった(渡部昇一)」



李明博大統領が日本の天皇に謝罪要求したのは、「従軍慰安婦」の問題である。

そして、このことこそが「政治的利益に基づく『虚妄の歴史』」だと渡部昇一は言う。



◎従軍慰安婦


というのも、日韓間には日韓基本条約(1965)というのもがある。

この条約締結のため、日韓双方は「数多くの会議を行い、主張を洗いざらいブッつけ合い、議論し、歩み寄り、締結に漕ぎ着けた」。ここで不思議なことは、この喧々諤々の過程で「従軍慰安婦」なるものが、「議論の俎上にも上らなかった」ということである。



当時の韓国大統領・朴正熙(パク・チョンヒ)は、従軍慰安婦問題を知らなかったのか?

朴正熙氏は、日本の陸軍士官学校を出て満州国軍の将校も務めたという経歴を持つ。いわば、日本軍の内部にいた人であり、「普通の日本人以上に日本軍のことは知っていた」。その彼がなぜ、従軍慰安婦のことを知らなかったのか?

考えられる答えは2つ。そんな事実はなかったか、もしくは問題にならなかったかである。



ところが今の李明博大統領は、この従軍慰安婦問題を「日韓間最大の懸念」であるかのごとく持ち出し、天皇に謝罪まで要求している。

そこにはあるのは、「政治的利益に基づく『虚妄の歴史』」であろうか。

しかし残念ながら、この歴史には日本側も大きな一役を買っている。時の官房長官であった河野洋平氏が、日本軍による従軍慰安婦の強制連行を認め、公式に謝罪しているのである(河野談話・1997)。



従軍慰安婦問題において、日本が世界的に非難されるのは、この公式謝罪(河野談話)が大元となっている。

そして、李明博大統領が取る「揚げ足」ともなっている。

ちなみに、この河野談話による公式謝罪は「事実に基づく歴史認識」ではなく、「政治的利益」に基づくものであったと一般的には考えられている。



◎政治的利益


ところで、中国が作り上げた「政治的利益による歴史」とは何なのか?

それは中国の歴史を振り返れば、自ずと知れる。有数のシナ学者であるレジナルド・ジョンストン氏は、「チャイナにあるのは『王朝』だけだ」と明言した。つまり、中国という国は「巨大な容れ物」に過ぎないというのである。

確かに、中国の王朝というのは、漢民族ばかりではなく、周辺の異民族が打ち立てたものも少なくない。契丹族の王朝であったり、蒙古族の王朝であったり、満州族の王朝であったり…。もし、豊臣秀吉が明朝を征服でもしていたら、日本民族がその王朝を担うこともあり得たということだ。



王朝が変わると、前王朝の歴史は全否定、もしくは都合の良いように書き換えられることも珍しくはない。新しい王朝が善、倒れた王朝は悪として。

「こういう国では歴史はどのように捉えられ、書かれるか。もっぱら前の王朝に対して、今の王朝の正当性を主張することに筆が費やされる(渡部昇一)」

そのためには当然、「事実」をねじ曲げる必要も出てくる。それが「政治的利益」である。



つまり、この政治的利益は「軍事力次第」である。強き者こそが、その利益を享受できるのだ。

この観点から見た国境線というのは、「武力の及ぶ限り」ということになる。

「このやり方を規定する政治学の言葉がある。『帝国主義』である(渡部昇一)」





◎中国の軍事力


「この20年間、中国は20%増に次ぐ20%増の莫大な予算を注ぎ込み、軍拡に邁進してきた(渡部昇一)」

2000年以降、中国の国防費はおよそ4倍に増えている。一方の日本は「足踏み状態」、むしろ後退傾向。その結果、相対的に日本の軍事力は愕然と低下したことになった。

「その結果は逆転とまでは言わないが、彼我の国防力は『拮抗』、中国は通常戦闘能力でも拮抗以上のものを有していると自信を深めてきている(渡部昇一)」



中国が尖閣諸島を突っついてきたのは、明らかに軍事的背景を有してのことである。

さらに悪いことは、日本が最大同盟国であるアメリカとの関係に「ほころび」が見え始めていることである。それは民主党の政権交代に起因する米軍基地問題。自民党時代の合意は反故にされ、いまだ迷走中である。



こうした不和を中国が見逃すはずはない。それは韓国もロシアも同様。

この3カ国がほぼ同時に、領土問題を蒸し返してきたのは、「日本が舐められたからだ」と渡部昇一は言う。

「考えてもみるがいい。自民党政権下の日米同盟が緊密であった時期、このようなことが起こり得たであろうか? 各国はアメリカに配慮せざるを得なかったし、またアメリカの牽制も働いていた」



◎腹をくくる


中韓のセオリーに従えば、事実は歴史にならない。

事実は政治的利益によって、生み出されるものである。



「歴史を事実に沿って研究する人で、南京大虐殺の存在を認めている人はほとんどいない」といえども、それが中国の政治的利益に適えば、それは歴史となる。

従軍慰安婦が韓国の政治的利益に適えば、それが歴史となる。

そして、それらが後世の人々にとっての事実となるのである。



「日本はなぜ、法律法律と原則にこだわるのか」

そう言った李明博大統領にとっては、虚妄の歴史とて立派な事実である。



「日本は腹をくくらなければならない」

そう渡部昇一氏は言う。

「日本の周辺にあるのは、そういう帝国主義国家なのだと心得、腹をくくって付き合っていかなければならない」

隣人を変えることはできない、ということだ。







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出典:致知2012年11月号「歴史の教訓 渡部昇一」

posted by 四代目 at 07:08| Comment(0) | 領土問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月29日

尖閣は「力の理論」を超えられるのか?


世界史の戦争とは、領土問題による争いに他ならない。

今や世界は日本と中国の国境に存在する「尖閣諸島」をよく知るようになった。日本が領有(実効支配)している事実もよく知っているし、中国がそれを主張していることもまた、よく知っている。それゆえ、日本が繰り返し唱えている「尖閣に領有権問題は存在しない」というお題目は、まったく虚しく響くばかり…。

「アメリカ政府もイギリス政府も、尖閣諸島は『領土問題の係争地』と定義しています」



◎係争地


「当たり前です。どういう方向から解釈しても、今の尖閣は係争地としか思えません」とイギリス人記者は語る。

中立を国是とするスイス人も、尖閣諸島が日本固有の領土であるかどうかには首をかしげる。「日中両国の歴史学者たちが数百年前までさかのぼって尖閣の領有権を主張していますが、両者とも説得力に欠けます。どうしてでしょうか? それは文献を読んだだけでは、どちらが『先占の要件』を満たしているのか分からないからです」



「先占の要件」とは?

文字通り、先に占拠したのがどちらかという問題である。

このほかにも、領土問題には「固有の領土」という考え方もある。



しかし残念ながら、過去の領土紛争において、「先占の要件」「固有の領土」という考え方が考慮された試しは一度もない。

たとえば、アルゼンチンとイギリスが争った「フォークランド」。この地で「先占の要件」を満たしていたのはスペインだ。しかしスペインは領有権を主張しなかった。「固有の領土」という観点ではアルゼンチンに軍配が上がるはずだった。

しかし実際はどうか? イギリス軍の「力の理論」が勝ったのである。イギリス軍を前に、アルゼンチンは白旗を揚げざるを得なかった。



◎実効支配


つまり、過去の領土問題においては、「戦争に勝った国が思うように国境を決定してきた」というが厳然とした事実が横たわっているのである。これを「実効支配」と呼ぶ。

韓国の竹島支配もそうであり、ロシアの北方領土支配もそうである。また、日本の尖閣諸島もそうである。

それゆえ中国は、尖閣を「日本が盗んだ」と言うのである。



たとえば、フランスとドイツの国境、アルザス・ロレーヌは、ドイツ人に言わせれば「フランスが盗んだ」土地である。しかもかなり暴力的に。

アルザス・ロレーヌは「固有の領土」としてはドイツかもしれない。もともとドイツ語系の人たちが住んでいた土地だったとのことだ。しかし、第二次世界大戦でドイツがフランスに敗れてフランス領になって以来、「ずっとそのまま」。北方領土や竹島と同じように…。




それでもドイツ国内ではアルザス・ロレーヌを取り返せという機運は日本ほどには高くない。なぜなら、この地を巡って、どれほど多くの血が流されてきたかを知っているからである。過去400年間、ドイツとフランスはアルザス・ロレーヌの占領を何回も繰り返し、何回も戦争をしてきたのだから。

「今は過去から少し学んで、争わなくなりました」

第二次世界大戦後、日本の領土問題は幸いにも、アルザス・ロレーヌほどの血は流れていない。しかし逆に考えれば、だからこそ不幸にも争おうとしているのかもしれない。



◎ナショナリズム


ノーベル経済学賞をとったトーマス・シェリング氏は、著書「紛争の戦略」の中で、こう述べている。

「完全に対立し合う純粋な紛争など、滅多にあるものではない」

つまり、その争いは国民みんなの利益になるとは限らない、ということだ。たとえ、力で領土を奪ったとしても、その過程で失われるものが、その後の利益を上回ってしまうかもしれない。





しかしそれでも、領土紛争の当事国は一歩もあとに引けなくなる。

「純粋に知的な詳察の末であれば、日中両国の学者の何割かは『この島は我が国のものではない』と述べる方が自然である」

ところが、そんな学者は極めて少数であり、ましてや公の場になど現れない。



それは、オリンピックで日本人選手を応援しない日本人がまずいないのと一緒である、と堀田氏は言う。たとえその選手の名前も顔もよく知らなくても、我々は日の丸を背負った選手を一生懸命に応援するのである。

もし、何かの決勝戦で、日本人選手と中国人選手が対戦したら? 当然、我々は力の限り日の丸を応援する。それがナショナリズムというものだ。

でももし、その中国人選手が自分の友だちだったら? 日本人の前では声を出さないかもしれないが、心の中では、中国人選手を応援するかもしれない。



幸か不幸か、われわれは尖閣諸島を知らない。行ったこともなければ、問題になるまで存在も知らなかった。

それと同様、われわれは中国人もほとんど知らない。それゆえ、中国人によほどの縁がない限りは、同胞である日本人の肩を持ちたいと思うのは当然である。



◎歴史


それでも、われわれは領土紛争の歴史を知っている。

実際に血を見たことはなくとも、その歴史だけは知っている。

他国ではアルザス・ロレーヌ、フォークランド…。自国では北方領土、竹島、尖閣…。これらの地に、明るい歴史を見つけ出すことはまずできない。



そして今、とりあえずの答えが尖閣に迫られている。

かつての「田中角栄・周恩来」のように「棚上げ」にするのか?

それとも、歴史に前例のない「先占の要件」や「固有の領土」という争いのない解決法を試みるのか?



もし、尖閣に平和的な解決がもたらされるのならば、それは両国の歴史、いや世界史にとっても偉大なる第一歩を記すことにつながる。前向きにとらえるならば、尖閣問題はそのチャンスでもある。

かつて中国のケ小平は、それが尖閣でできないと悟って、その決断を「より賢いであろう後世の人々」に譲っている。



◎欲しいもの


期せずして今、「負けて勝つ」という吉田茂のドラマが放映されているが、彼は日本国憲法を他国に委ねるという苦汁を飲んでまで、天皇陛下の存命、そして日本国の独立という大勝利を勝ち取った。

ある食糧庫でのワン・シーンは、そんな吉田茂の想いを強く語っている。



「小麦か?」と芦田均は聞いた。「トウモロコシです」と答える吉田の秘書。

芦田はそのトウモロコシの粉をペロリ。「うっ、まずいな」と顔をしかめる。

吉田の秘書は語り出す。「アメリカのトウモロコシには2つの種類があります。一つは人の食糧、もう一つは家畜のエサです。今回、我々が輸入したのは、家畜のエサです」



その言葉を聞いた途端に激怒する芦田、「日本人はアメリカの家畜かっ!!」。トウモロコシの粉を床にぶちまける。

すると、吉田茂はトウモロコシ粉の散らばった床に這いつくばり、愛おしそうにそれを両手で集め始める。「上等、上等、家畜で上等だ…」とつぶやきながら。

そんな卑屈な吉田の様を見て、ますます激昂する芦田。「あんたは…、政治家失格だ!」

そして吉田、「オレは政治家じゃない。外交屋だ…。10のうち9を譲っても、欲しいもの一つを手に入れる。それが外交屋だ。ブタだって、牛にだってなってやる」





はたして、今の日本が欲するものとは?

われわれはかつてのケ小平が期待したように、賢くなっているのだろうか。

平和を希求する国民は、いかにして知恵の道を見出すのであろう?



吉田茂は決して誇りを失ったわけではあるまい。

われわれはまだ、そこまで追い込まれているわけでもない。

尖閣諸島にはまだ、領土問題解決の金字塔を建てる”のりしろ”も残されているはずである。







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チベットに想う、「国」の姿。



出典:
JBpress「世界の人たちから見た尖閣諸島問題(堀田佳男)」
NHK土曜ドラマ「負けて勝つ 戦後をつくった男、吉田茂」

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2012年09月26日

岡崎嘉平太と周恩来。日本と中国をつないだ二人。


「中国には、『水を飲むときには、その井戸を掘ってくれた人を忘れない』という言葉があります」

中国の元首相「周恩来」は、そう話し始めた。

時は今から40年前(1972)、戦争により国交を断絶していた日本と中国が、まさに国交を正常化させんとする、その2日前の夜のことである。それはすなわち、歴史的な「日中国交正常化」の前夜であった。



「まもなく田中角栄総理が中国に来られて、日中国交は正常化します。しかし、田中総理が来られたから国交が回復するのではありません。これまでの長い間、困難な時期にも日中間の友好に尽力された方々があったからこそ、正常化という念願が叶うのです」

日中国交正常化という「甘い水」が湧きいでたのは、それまでに汗を流して「井戸」を掘ってくれた人たちがいたからこそである、そう周恩来は言うのであった。

そして、その井戸を掘ってくれたと周恩来が感謝する人物、その一人が「岡崎嘉平太」であった。



◎暗黒の日中関係


「岡崎さんが今の中国と日本の様々な問題を知ったならば、間違いなく心配で、居ても立ってもいられなくなるでしょう」

岡崎嘉平太を心から尊敬するという、ある中国人はそんなことを言った。



岡崎の生きた時代は、日中関係が暗黒の時代。1894年の日清戦争、1937年からの日中戦争(第二次世界大戦)、そして日本の敗戦…。今とは比べようもないほど、日本と中国の関係は暴力的で険悪な状態が続いていた。

そんな交戦・断絶の関係の中、岡崎嘉平太は日中関係の改善に生命を賭け、そしてそれをまさかまさか、成し遂げたのである。



「隣りの国と、いつまでも敵対しているのはおかしい。主義の違う者の悪口を言って、蹴飛ばして済むか、そういうわけにはまいりません。いつかは友好親善をやらなきゃいかん。それは朝になれば東から太陽が昇るのと同じようなことなんです」

そうした信念を持っていた岡崎は、日本人と中国人がお互いを知り合うことが何よりも大切だと考えた。

「まず、相手を知る。とにかく行ってみる。向こうの人と直接会って、話をしてみる。そうすれば、戦争によって『カラカラに乾いてしまった感情』もいずれ戻ってくる」

生涯を通して、岡崎嘉平太は100回以上も中国へ足を運んでいる。まさに死ぬまで中国へ直接行き、中国人と会い、そして話をしてきたのであった。



◎中国人・留学生との出会い


岡崎嘉平太が初めて中国人と接したのは「中学時代」。日本にやって来ていた中国人・留学生との出会いであった。

親友となった中国人留学生の話はじつに面白い。中国の歴史、文化…、岡崎は大いに感銘を受けた。



ところが、戦争の時代は二人の仲を引き裂くことになってしまう。日本が中国と戦争を始めたため、国内には「中国人蔑視」の空気が充満することとなってしまう。

「オレはもう帰る!」

親友の中国人留学生はひどく腹を立てていた。「こんなイヤな日本だったら、来るんじゃなかった! 一日だっていたくない! 岡崎、君だけはオレに親切にしてくれたから、君だけに別れを言いにきた…」

そう告げるや、彼は本当に中国へと帰ってしまった。



多感な年頃であった岡崎は、この出来事に痛く傷ついた。

そして、それが生涯をかけた日中友好の道へと岡崎を駆り立てていく原点ともなった。



◎泥だらけの額


日本と中国が戦争をしていた間、岡崎には中国に8年間ほど暮らしていた時期があった。上海で国際銀行の理事を務めていたのである。

この中国暮らしの間、岡崎嘉平太の息子・彬(あきら)にとって、一生忘れられない出来事が起きる。



その事件は小さな出来事のはずだった。小学生だった彬が、中国人の子供にケガをさせたというのである。オモチャの空気銃で。

それを聞いた父親の嘉平太、とんでもなく怒った。あまり怒られたことのなかった彬は、すっかりビビってしまう。そして、そのまま嘉平太は何軒も何軒もケガをさせた中国人の子供の家を探し歩き、ようやくその子の家を見つけたときには、すっかり夜も更けていた。



いきなり土下座する父親・嘉平太、同じように彬にも土下座をさせて、泥んこの地面にガンガンと頭を打ちつける。

先方の親子はビックリ。日本の偉い人が、名もなき中国人家族に頭を下げまくっているのである。その額を泥だらけにしながら…。



「中国人を差別するな」。それが父親としての嘉平太が身を挺して示したことだった。

のちに敗戦で日本に引き上げることとなった岡崎一家、その後ろ姿に厳しい言葉を投げかける中国人は一人もいなかったという…。



◎貿易構想


1962年夏、岡崎嘉平太は日中間の大規模な「貿易構想」を提案。

「私の狙いは、中国にプラントを売って、その建設のため、日本の技師や労働者が中国に働きに行くことです。長ければ半年、少なくとも3〜4ヶ月は向こうの中国人たちと一緒に働けば、戦争によってカラカラに乾いてしまった感情も戻ってくるかもしれません」



その年の秋、その案を携えた岡崎は、緊張しながら中国を訪問する。

その岡崎を待っていたのは、中国の周恩来首相。運命的な二人の出会いである。



周恩来は話し始める。「日清戦争以来、日本は我が国を侵略し、人民を傷つけ苦しめてきました。我々にはその深い恨みがあるのです」

なんとも手厳しい言葉、岡崎の身はますます堅くなる。ところが、周恩来の次の言葉は、岡崎の硬化していた心を一気に解きほぐしてくれた。

「恨みがあるといえども、中国と日本には2000年にわたる『友好の歴史』があります。戦争による不幸な歴史は、わずか数十年に過ぎないのです。我々は恨みを忘れようと努力しています。これからは中日が力を合わせて、アジアを良くしていこうではありませんか」



心打たれ、感極まる岡崎。すると周恩来、いきなり岡崎に問いかける。「岡崎さんはどう思われますか?」と。

岡崎は一瞬あわてるも、すかさず「刎頸の交わり」の故事を引き出した。一時は仲違いしていた二人が、友のためなら死も厭わぬ仲になったという物語である。

大きくうなずく周恩来。内心、岡崎の中国歴史古典に関する造詣の深さに感心し、そして共感していた。



この会談の成功を受け、岡崎の貿易構想は「日中総合貿易に関する覚書(LT貿易)」という形で現実化することとなる(1962年11月)。

日中両国間に正式な国交が結ばれる10年前、その道を切り拓くために、まずこの半官半民の貿易協定が結ばれたのである。

こうして、細いながらも初めて、両国間に和解の道が拓かれることとなった。



◎親友


「周総理と会っていると、偉い人と会って話しているような感じがしないんです。まったく、何十年来の友人と話しているような、そんな感じを醸す人でしたね」

のちに岡崎は周恩来の印象をこう語っている。

ある時、周恩来は岡崎に「歳」を尋ねた。すると、岡崎は自分よりも一つ年上だった。「じゃあ、あなたが兄だ」と周恩来。二人は兄、弟と呼び合うほどに、信頼し合うようになっていったのである。



こうした岡崎嘉平太と周恩来の親密さとは裏腹に、日本国内の状況は依然として厳しいものがあった。

まず、貿易協定に基づいて、日中双方に貿易事務所が置くことが決まったのだが、外務省は人材を派遣することを拒否。当時の日本は台湾の国民政府と外交関係を結んでいたため、岡崎が交渉を進める周恩来の中華人民共和国を国家として承認していなかったのである。

「いくらお国のためだって言ったってね、じゃあ、中国に行かされる奴はどうなるんだ? どうも、あんまり我が省(外務省)の利益にはなんねぇなぁ…」



次に岡崎が向かったのは通産省。やはり難色を示されるが、岡崎は粘る。通産省の渡辺弥栄司(やえじ)は次第に、岡崎の「先見の明」に感心していく。「これは、本物かもしらん…」。

岡崎の情熱にほだされた渡辺。思い切って人材を中国に派遣することを決め、のちに自らもスタッフの一員となる。



こうした貿易事務所に派遣された一人に、高向巌という人がいたが、彼は岡崎が口癖のように言っていた「事務はするな、中国人と触れ合え」という言葉を鮮明に記憶している。

「岡崎先生はね、ただ単に仕事をしてちゃダメだ。中国人と交わる、日本人が中国人を知る。中国人も日本人を知る。仕事での親しさではなく、『人と人としての親しさ』が大事だよ、と言っていました」



◎抗議


ようやく官を味方につけた岡崎嘉平太。しかし、国民からの抗議は激しさを増していった。

「もう、売国奴って罵られるわ、右翼団体から卵は投げつけられるわ、そりゃあ、大変な攻撃でしたね」と岡崎。

自宅にも脅迫電話が絶えず、巨大なトラックが何十台となく家を取り囲む。「岡崎っーー! 出て来ーーーーいっ!!!」と、ボリュームを目一杯にして。



警察官が家に泊まり込み、子どもたちはブルブルと震えていた。

岡崎の妻も覚悟を決めていた。母親としての彼女は怯える子どもたちに、こう諭した。「あんたたち、お父さんがもし急にいなくなっても、誇りを持ちなさい。お国のためになったんだから…」



抗議活動に揉みくちゃにされながら、岡崎は自宅を出て、空港へと向かい続けた。当然、周恩来との会談を重ねるためである。この激烈な抗議活動の中、岡崎はじつに18回も訪中している。

ある時、息子の彬は父親について中国へ行き、初めて周恩来と会った。その時、周恩来は静かに話しかけてきた。

「君のお父さんはね、たぶん自分のことを言わない。でも、私たち中国人は友のために生死をかけるような人を、本当に信頼するんだよ」

周恩来は続ける。「中国にいる私は、すごく安全だ。誰も私を殺そうとなどしない。でも、君のお父さんが日本に帰ると、ちょっと危ないんじゃないかな。それでも君のお父さんは、中日のために命を賭けてきたんだ。だから、私たちは信用しているんだよ」



◎唯一のパイプ


一部に猛烈な抗議を受け続けながらも、両国に設けられた貿易事務所は確実に機能していた。正式な国交がない中、それはあたかも両国の「大使館」であった。

日中間のあらゆる問題は、この貿易事務所を通して話し合われ、新聞やテレビの記者交換なども実現した。記者は常駐するようになり、日本人が中国を知り、中国人が日本を知るための貴重な情報を彼らが発信することになる。

時は共産主義下の中国、その情報は現在の北朝鮮のように、闇の中にあった中、少しずつその様子を日本人たちが伝え聞くようになっていた。



ところが、日中をつなぐこの唯一のパイプは、時の佐藤栄作政権により叩き折られそうになる。

周恩来の中華人民共和国と敵対する「台湾」を訪問した佐藤総理は、同じく周恩来と敵対するアメリカとともに、「中華人民共和国が『軍事的な脅威』である」との共同声明を発表。

中華人民共和国側が、それを「明確な敵視政策」と受け取り、日本に対して猛反発してきたのである。



◎粘り


時悪く、岡崎の貿易協定は、その5年契約が期限切れを迎え、新たな更新を必要としていた。

その交渉のテーブルは当然穏やかではない。中国側は佐藤政権を痛烈に批判。その誤りを文書で認めない限り、貿易協定の更新はできないと迫ってきたのである。



「決裂」だけは避けなければならないと心に決めていた岡崎嘉平太。粘りに粘り、議論に議論を重ねる。

その岡崎の胸中には、母の言葉が蘇っていた。「自分が譲れば事が丸く収まるときには、譲るものだよ」。子供時分の岡崎は「けんか太郎」、生一本で怒りっぽかった。母はそんな岡崎を心配し、繰り返し繰り返し「譲ること」を諭していたのである。



岡崎とともに交渉のテーブルについていた、田川誠一議員はこう振り返る。

「『切って帰っちゃえ!』って思うことが、あたしらには何度もありましたよ。その点、岡崎さんは練れてましたね。だから、大事なことは全部、岡崎さんにお任せしてました」

このパイプがいったん切れたら、二度とつなげられない、と岡崎は思っており、決して切ってなるものかと、粘り続けたのである。



その末に、ついに中国側も折れた。

過激な表現を柔らかく改めることにしぶしぶ同意し、妥協案を認めたのである。そして、交渉から一ヶ月後、なんとか日中覚書貿易という新たな協定を締結するに至る。

岡崎が身を挺して守った貿易協定は、辛うじて断絶という最悪の事態だけは避けられたのである。



しかし帰国後、岡崎は「中国に屈服した」という痛烈な批判にさらされることにもなる。



◎新たな風


逆風につぐ逆風の岡崎嘉平太。

その風向きが変わるのは1972年。最初の貿易協定から10年たった後のことであった。


この年、アメリカのニクソン大統領は中国を訪問。中華人民共和国は「国連」への加盟を認められ、国際社会への復帰を果たす。

このアメリカの政策変更を受け、当然日本もその潮目に乗ろうとする。しかし、日本政府には「ある懸念」があった。もし、中国との国交を回復しようとした場合、莫大な「戦争賠償金」を請求されるのではないか、という不安である。



日中唯一の窓口となっていた岡崎は、周恩来との会談の席上、戦争賠償金についての話を切り出す。

周恩来いわく、「今、日本に軍部があれば、我々は賠償金を請求したでしょう。しかし、もう日本に軍部はありません。そんな時、もし、我々が賠償金を請求すれば、同じく軍部に苦しんだ日本国民に負担を背負わせてしまうことになります。ですから、私は賠償金は取らないほうがいいと思います」



中国が国交正常化の条件として、戦争賠償金を持ち出すことはないという岡崎の貴重な情報は、日本を一気に正常化への道へと押し進めた。

1972年7月、中国で不人気が極まっていた佐藤内閣に代わり、田中角栄が新政権を発足させた。そして、その2ヶ月後には、中国への訪問が決まったのである。



◎ささやかな食事会


もはや、日中国交正常化は時間の問題であった。岡崎も自分の役割を一つ終えたと感じ、自宅で静かな日々を送っていた。

すると、そこに一本の電話がかかってきた。それは周恩来の命を受けた金光貞治からの電話であった。周恩来は、日中国交正常化が決まるその日に岡崎が招かれていないことに気づき、すぐにでも北京に来て欲しいと金光に頼んだのである。

電話口の岡崎、静かにゆっくりと「あぁ……、恐縮です……、恐縮です……」とだけ繰り返した。この短い言葉には、岡崎の喜びが噛みしめられていた…。



田中角栄総理が中国を訪問する2日前、周恩来は岡崎をもてなすために、一卓だけのささやかな食事会を開いた。

一言話したいと立ち上がる周恩来。「中国には『水を飲むときには、その井戸を掘ってくれた人を忘れない』という言葉があります」

「まもなく田中総理は中国に来られ、国交は正常化します。しかし、その井戸を掘ったのは岡崎さん、あなたです」



岡崎嘉平太と周恩来が初めて出会ってから、およそ10年。

岡崎が日本から引っ張ってきた「細い糸」は、いままさに、国と国とを結ぶ「太い絆」となって結実しようとしていた。



1972年9月29日、戦後27年目にして、ついに日本は中国と正式な国交を開くに至る。



◎友の死


それからわずか4年後、周恩来は78年の生涯を閉じる。死因となったガンが発見されたのは、奇しくも日中国交正常化が叶ったその年であった。

日本でその悲報を知った岡崎。その時からずっと口をきかなくなり、食事もノドを通らなくなってしまう。

「お父さん、かわいそうだった…、かわいそうだったよ…」、そんな言葉を息子の彬さんは母親から聞いた。そんな言葉を今まで聞いたこともなかったのに…。



しばらくして、岡崎嘉平太は周恩来の故郷、江蘇省淮安市の生家を訪れる。

その生家の一画にあった「井戸」。その井戸端で岡崎は涙をためていた。ずっと佇んだまま…。

「周総理、あなたこそ日中友好の井戸を掘った人だ…。今わたしたちが飲んでいる日中友好という水は、あなたが掘った井戸から湧いてきた水なんです…」



◎雨中嵐山


日中国交正常化が成った時、周恩来は「これからもずっと中国に来てください」と岡崎に声をかけていた。

その声に応えるように、岡崎は老齢になっても精力的に中国を訪れ続けた。そして、中国へ行くときは決まって「初めて中国に行く人」を日本から連れて行った。それは、少しでも多くの日本人に中国人を知ってもらいたい、という願いでもあった。

岡崎自身、中学時代に中国人を知り合えたことが、中国人を好きになるキッカケとなったこともあり、岡崎は積極的に若者たちの交流を後押しした。北京にある日中交流センター生んだのも岡崎であり、今まで何百人、何千人という中国人留学生が日本に行く橋渡しとなってきた。



周恩来その人も、若き日には2年間ほど日本に留学している。「雨中嵐山」という詩は、周恩来が日本を去る時に詠んだものである。



雨濛々として 霧深く
陽の光 雲間より射して いよいよなまめかし

世のもろもろの真理は 求めるほどに模糊とするも
模糊の中に たまさかに一点の光明を見出せば
真にいよいよなまめかし



この若き日の詩は、その後の日中関係を示唆しているかのようである。

雨が朦々と霧が深く、前途もなかった日中関係。その厚く暗い雲間から差し込んだ一条の光明。そこから真理が現れ、ついには国交正常化へと道は進む…。



◎中国古来の徳


周恩来と会ったアメリカ大統領ニクソンは、「上品で、並々ならぬ知性をそなえた繊細な人物」と周恩来を賞賛している。

あるジャーナリストは「周恩来は中国古来の徳としての優雅さ、礼儀正しさ、謙虚さを体現していた」と書いた。

周恩来の後を継いだケ小平は、「彼は同志と人民から尊敬された人物である」と語っている。



ある時、北京の料理店で食事をしていた周恩来は、店員の間で起こった「揉め事」の仲裁を買って出た。

双方の言い分を十分に聞いた周恩来、「どっちも悪い」と断を下した。「なんでだよ!」と気色ばむ店員。どちらも自分が悪いなどとは思っていない。

「お前さんたち、二人ともお客さんに料理を出すのを忘れているじゃないか」と周恩来。店員としての本分を忘れたことを気づかせたのであった。



この逸話もまた、のちの日中関係の修復を示唆しているかのようである。

日本も中国も、政治闘争に明け暮れている時代があった。しかし、政治家としての本分は? それは国同士を争わせることではなく、国民を食わせることではなかったか。

周恩来の英断は、その本質の筋に沿うことを決して忘れてはいなかったのである。



◎100回くらいでは分からない


1989年、岡崎嘉平太の訪中はじつに100回を数えた。

「中国のような奥深い国は、100回くらいでは分からない」。そう言う岡崎は、さも嬉しそうだった。

そして、その3ヶ月後、岡崎嘉平太は息を引き取る。92年の生涯であった。その棺には敬愛する周恩来お写真が添えられたという。



故郷の岡山県に眠る岡崎。その墓へお参りする中国人留学生は、今でも後を絶たない。

「素直な若いときにこそ、お互い知り合い、交流することが大切だ」と考えていた岡崎。彼の渡した日中交流の橋を行き来した留学生は数知れない。

岡崎奨学金で日本へ来た中国人留学生の一人は語る。「私たちのような普通の人の交流をもっと広げていきたいです。お互いが、どういう生活をしているのか、どんな違いがあるのか、それを知ることが大切だと思います」



◎井戸の水


中国に留学する日本人も、周恩来の生家を訪ね、その井戸を見る。

日中をつないだ井戸。それを掘った周恩来と岡崎嘉平太。そして、そこから湧いて出た水が、戦争でカラカラになっていた両国民の心を潤した。

「子どもたちの世代も、そして次の世代も、この水を枯らしてはいけない」と岡崎は常々言っていた。



「信は縦糸、愛は横糸、織りなせ人の世を美しく」

これは岡崎嘉平太の言葉である。



「この機織り(はたおり)作業の素晴らしさに目覚めるとき、新しい社会への道は、決して苦労などではなく、楽しい発見の営みになっていくのです。

より良い日本、より良いアジアの錦織をあとに続く人々に遺すこと、それが私の心からの願いなのです」



海を挟んで国境を接する日中両国、時には風波も立つだろう。

それでも、両国2000年の歴史のその大半が平和的であったことは、偉大なる事実である。

それは岡崎嘉平太や周恩来のような人々が、永い歴史に点在してくれていた、そのお陰でもあるのだろう…。



時おり、埋まりかける井戸。

それをますます埋めようとする人々もいるかもしれない。それでも、岡崎嘉平太は掘り続けた。上から泥をぶっかけられても…。



あれから40年。

今の日中関係に、岡崎ならば何を想い、何を成すのであろう?






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出典:
NHKアーカイブス
命をかけた日中友好 岡崎嘉平太

posted by 四代目 at 08:28| Comment(3) | 領土問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月31日

チベットに想う、「国」の姿。


かつて中国の毛沢東は、こう言った。

「人を支配するには、百人の軍隊よりも『ただ一曲の名曲』があればよい」



そうした戦略のもと、「チベット」の歌曲は徐々に中国化され、今ではその踊り方、歌い方、装いまでがすっかり中国式にすり替わってしまったのだという。最近ではチベット語で歌うことも許されるようになったというが、かつては中国語でしか歌うことができなかったともいう。

現在のチベットは中国の一部とされているが、その抑圧に対するチベットの抗議は後を絶たない。北京オリンピック時の騒動も記憶に新しいが、現在でも抗議の焼身自殺がやむことなく続いている。



何よりチベットの擁する最高指導者「ダライ・ラマ」が、チベットの土地に入れないというのは異常な状態である。

中国とチベット、その関係やいかに?




◎チベットとは?


中国の奥座敷のような山中にあるチベット。そのチベットの位置するチベット高原というのは、世界最高峰のヒマラヤ山脈の山裾ということもあり、高原としては世界最大級の広大さを誇る。

面積にして日本の国土の6倍、かの広大な中国の23%もの面積を占める。



「山が川を生む」の言葉通り、アジアの主要な大河川のすべては、このチベット高原に源を発する。中国を潤す長江・黄河、インドのインダス河・ガンジス河、東南アジアのメコン河・サルウィン河…。

チベット高原に端を発する大河川群は、世界人口のおよそ半数の人々の生活を支えていることになる。



◎歴史あるチベット


日本は世界一歴史のある国家であり、初代・神武天皇から数えれば、その皇紀は2672年。一方のチベットも負けてはいない。チベット暦に従えば、今年は2139年となる。

さらに歴史を遡れば、インドと中国に古代文明が起こったのと同じ頃、山中のチベットでも文明が誕生していたと考えられている。ただ、その地理的に孤立していた土地柄から、考古学的証拠は乏しい。それでも、紀元前5000年の遺跡が発掘されるなど、チベット文明は誕生から7000年は経ているものとされている。



チベットの伝説によれば、チベットは長らく「水の中」にあったとされている。それがいつしか、現在のような高原となり、「雪の国」と称されるようになる。

そして、その雪の国に降り立った「観音菩薩」。その土地の主となるよう運命づけられていた観音菩薩は、人の子を生むために雄猿に姿を変え、6人の子を成した。そして、その6人の子供たちはそれぞれ、チベット民族の6つの氏族を形成することになる。

※現在、チベットの最高指導者とされるダライ・ラマは、観音菩薩の化身であるとされている。





◎強大なるチベット


チベットに明らかな国が現れるのは紀元前127年。この年が現在のチベット暦の起点となる。

その後、数百年して、歴史の教科書にも見られる「ソンツェン・ガンポ王」が登場(7世紀)。チベット高原の諸族を初めて統一したのは彼であり、事実上の初代建国の父である。ソンツェン・ガンポ王の勢いや著しく、唐とネパールの王室はチベットに娘を嫁がせるほどであった。



王の死後もチベットの隆盛は300年にわたって続き、ティソン・デツェン王の治世には、唐の都・長安を陥落させた(763)。そのため、一時的ではあるが、唐がチベットへの朝貢を余儀なくされていた時期もある。

※当時の中国は、美女・陽妃姫に溺れた玄宗皇帝のために大いに国が乱れ、チベットだけに限らず、ウイグルなどの諸民族も大きく力を伸ばした(821年、三国会盟により国境線確定)。



◎モンゴルの旋風


世界を席巻したモンゴル帝国の旋風は、チベット高原にも吹き荒れた。

ところが、モンゴルとチベットの関係は、チベットが宗教としての聖地だったこともあり、征服者と被征服者の関係というよりも、「寺と檀家」のような関係(チュ・ユン)に落ち着いた。モンゴル(元)のフビライ・ハーンはチベット仏教を受け入れ、チベットを師として仰いだのだ。

世界最大の帝国で国教となったチベット仏教は、モンゴルの傘下にありながらも、その地位は別格であり、モンゴルに直接支配されることもなければ、モンゴルに納税したこともなかった。



こうして、中央アジアに出現したこの「風変わりな関係」は、のちに中国を支配する清の時代にまで受け継がれていくことになる。檀家である清は、彼らの寺(チベット)を外敵から守るために、幾度か出兵もしている。

チベットの立場は、ヨーロッパでいえばローマ教皇に近いものがあったという。19世紀半ばにチベットに滞在した者の記録には「たとえるなら、チベット政府はローマ教皇で、中国人大使はローマ駐在のオーストリア大使だ」ともある。

Source: piccsy.com via El on Pinterest





◎欧米から押し寄せる植民地の波


新たな大波はイギリスからやって来た。新エネルギーである石炭の活用法を発達させたイギリスは、その石炭の力を借りて世界の海へと漕ぎ出して来たのである。その勢いや殺ぎ難し。インドをはじめとするチベット南方の諸国は次々とイギリスの軍門に下り、大国の清ですら、アヘン戦争に敗北した。

そのイギリス帝国の強力な対抗馬となっていたのはロシア。北方のロシアは怒濤の勢いでアジアに南下・東進してきていたのである。北はロシア、南はイギリスの板挟みにされたチベット。檀家の清は頼りにならないどころか、チベットに攻め入ってくるではないか。



欧米列強による草刈り場と化したアジアは混乱の極みに達する。大陸のはずれにあった島国・日本とて例外ではない。いかにイギリスの猛攻を凌ぎ、ロシアの南下を阻止するか。国を挙げての戦いが始まっていた。

日露戦争における日本の歴史的勝利は、アジア全域をまさに飲み込まんとしていた植民地化の波を最後の最後で防ぎきることとなった。

この勝利があって、幸いにも日本は植民地化を免れる。それは明治維新の功労者たちの先見の明であり、早い段階で大陸に足場を固めていたことが奏功したものであった。ちなみに、アジアで植民地化されなかった国は、日本とタイの2カ国だけである。



◎中国共産党によるチベット占領


チベットにおける本格的な混乱は、太平洋の戦火がやんだ後、1949年に中国共産党が国民党に勝利し、中華人民共和国が成立してから始まった。

チベットに攻め寄せる人民解放軍は4万の大軍。迎え撃つチベット軍はわずか8000。わずか2日で東チベットの州都・チャムドは陥落。この侵略行為に対して、チベット側は「強者による弱者征服の最悪の実例」と世界各国に訴えた。

しかし、世界は「遺憾」を表明するばかりで、「温情ある政府と心満ちた人民からなる幸せの国・チベット」は侵略され、解放という口実のもとに占領されてしまう。



さあ、世界の助け船はやって来ないと悟ったチベット、中国共産党との直接交渉にすべてを託さざるをえない。

ところが、北京に入ったチベットの代表団は「侮辱的な言葉を浴び、暴力をほのめかす脅しを受け、囚人同様に拘束」されてしまう。挙げ句の果てには、「強迫と銃剣を突きつけられた」代表団は無理矢理「平和協定」に署名させられた。

署名はしたものの、協定の効力発生に必要とされた印章の捺印は拒否した代表団。しかし、中国政府はその書に偽造したチベットの印を捺してしまった(中共・チベット17条協定、1951)。



◎虚しい大儀


「中共・チベット17条協定」は明らかに国際法に違反しており、本来であれば詐欺により無効ということになるのだが、中国共産党はこの協定を盾にしてチベットの武力制圧を完了してしまう。

その大義名分とされたことの一つが「チベットからの帝国主義勢力の駆逐」であったが、中共軍の侵入前にチベット内にいた西洋人はたったの6人。しかも、中共軍侵入時にはすでにチベットを去っていたという。



また、「農奴解放」という名目もあった。中国共産党に言わせれば、チベットは「人口の90%が虐げられながら生活する、まさにこの世の地獄」であったのだ。しかし、実際には中国が農奴と呼ぶ小作農はそれほど多くは存在せず、物乞いも「両手の指で数えられるほど」しかいなかった。

自給自足が行き届いたチベット社会は地獄どころか、飢饉すら経験したことのない平和さであったという。そんなチベットに本当の地獄が現れるのは、中国による占領以降、毛沢東により「気違いじみた大躍進政策」が実行されてからである。その結果、チベットは初めての飢饉にさらされたのであった(1959〜63)。

そして、その後の文化大革命は、チベットにさらなる死と破壊の波を押し寄せさせることになる…。



◎天国という名の地獄


チベットからの亡命を余儀なくされたダライ・ラマ法王は、のちの自伝にこう記している。

「人々のもたらした空恐ろしい話の数々は、あまりに残酷で何年も信じる気になれなかったほどだ。〜中略〜。磔、生体解剖、腹を裂き内蔵を暴き出す、手足の切断などざらであり、打ち首、焙り殺し、撲殺、馬で引きずり回して殺したり、手足を縛って凍った水に投げ込み殺すといった残虐さは枚挙にいとまがなかった。処刑の最中に『ダライ・ラマ万歳』と叫べないよう舌を引き抜いたりもした」



中国共産党は「社会主義の天国」をチベット人に約束したはずであったが、その天国とはいかなるものか。現在、インドにあるチベット亡命政府の首相ロブサン・センゲ氏は、こう語る。

「『社会主義の天国』を約束した中国は、チベットとの間に道路を造ると、森林を伐採してチベットの豊富な天然資源を持ち出し、貴重な仏像や文化遺産まで持ち去っていったのです。『社会主義の天国』は、チベットを中国の植民地にして経済発展のために搾取するものだったのです」



中国のチベット占領以降、チベットの豊かな森林の半分は木材となって消え去り、チベットの地下に静かに眠っていた天然鉱物も盛んに掘り起こされた。こうした無思慮な開発は、水源地としてのチベット高原を痛く傷つけてしまい、その下流に暮らす世界人口の半分の人々に多かれ少なかれ悪影響を与えてしまっている。

また、チベットに存在した僧院の97%以上が、無人化ないし廃墟化。全チベット内の僧院6259ヶ所のうち、破壊を免れたのはわずか8ヶ所だけだったという。



◎同化政策


1954年に完成した中国とチベットを結ぶ2本の道路、成蔵公路と青蔵公路。これらの道路を通じて、はじめは軍隊が送り込まれ、のちに大規模な中国人による入植が行われることとなった。現在のチベットには、チベット人600万人に対して、中国人はそれを上回る750万人が暮らしている。

軍隊による武力制圧から、人民による中国同化。それは冒頭に記した毛沢東の言葉、「人を支配するには、百人の軍隊よりも『ただ一曲の名曲』があればよい」の示すものでもある。

中国政府はチベット人の中で優秀な子供たちを見つけると、上海などにある特別な学校へと進学させる。「5〜6歳でチベットから連れてこられた小学生は、12〜13歳頃にはもう中国語しか話せない」というほどに、その教育は中国式である。悪く言えば、それは同化政策による洗脳教育となる。



◎チベットの国旗

チベットには国としての国旗がある。しかし、それはチベットを独立国として認めない中国政府にとっては忌まわしいばかり。「チベットの国旗と似たものを所持するだけで、7年間投獄される」。

その国旗に描かれるのは、チベット伝説の雪山と2頭の雪獅子。そのデザインには日本人・青木文教氏が関与しており、そこには日本の「旭日旗」を思わせる意匠が重ねられている(太陽から放射する6つの光線はチベット民族の起源となった6氏族を意味する)。

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旗の周囲に描かれた黄色の縁取りは、「仏教がすべての場所で永遠に栄えること」を象徴しているのだが、右側の一方だけにその縁取りはない。その縁取りのない一ヶ所は「仏教以外の教えや思想にもオープンであること」を示すのだという。

しかし皮肉にも、中国共産党はその縁取りのない東方からやって来ることになる。チベットのオープンさが仇となったかのように。



◎現代に生きる万里の長城


現在の中国政府は諸外国に対して、「チベットは中国の国内問題であり、内政干渉すべきではない」と主張する。そして、おせっかいなアメリカに対しては、「アメリカがチベットについて口を挟むのならば、我々はアメリカ先住民について問いたい」という言い方をする。

時代がソーシャル化し、世界がグローバル化する中にあっても、中国共産党は頑ななままであり、インターネットを厳しく規制する「金盾(ファイアー・ウォール)」により、徹底的な検閲を行っている。それはあたかも、歴史上、夷狄の進入を防いできた遺物「万里の長城(ザ・グレート・ウォール)」のように。



インドにあるチベット亡命政府の首相ロブサン・センゲ氏の給料は、インドの平均月収にも満たない3万円程度である。それでも激務に励む彼を支えるのは、その信念にほかならない。

「チベット仏教には、『シャンティディバ』という言葉があります。『もし問題が解決できるなら、なぜ悩む。もし解決できないなら、悩んで何になる』という意味です」

はたして、チベット問題というのは「解決できる」のか、「解決できない」のか。いずれにせよロブサン首相に「悩み」はないのである。

「チベットには『ディグドゥイット、ディグドゥイット』という言葉もあります。『大丈夫、大丈夫』という意味です。解決できる問題は解決すればいいし、最善を尽くしたならば、あとは悩むことはないのです」



◎祖国への想い


彼は最後に、しみじみとこう言った。

「我々チベット人の夢は、首都ラサを詣でることです。ポタラ宮からラサの谷を見下ろし、深呼吸を一つして言うのです。『あぁ、これがチベットだ』と」

Source: weibo.com via Jessica on Pinterest





なんという言葉であろう。自らの国を見るのが夢だという言葉は。

もし、日本が日露戦争で敗れていたら…、もし、日本が中国に武力制圧されていたとしたら…。我々の夢は首都・東京を眼下に見下ろすことであったのか。

幸いにも、日本はロシアの南下を満州で防ぎ切り、中国共産党の猛攻は台湾の国民党の奮戦によってピタリと止められた。現在、尖閣諸島のいざこざで済んでいることは、もっけの幸いなのかもしれない。場合によっては、協定の書に偽の日本印を捺されていたかもしれないのだから…。



チベットは不幸にして国を失った。

それはウイグルにしても、台湾にしても同じ思いなのであろう。



◎日本の心意気


現在においても海上に多くの領土問題をかかえる中国。その中国の強硬なる姿勢に過剰に反応する周辺諸国の対応は、決して故なきものではない。中国の歴史を知っている者ならば尚更だ。

尖閣諸島の領有権を主張する中国は、最近では沖縄のそれまで言い出す者もいるという。過去の琉球王国が中国に貢ぎ物を送っていたという事実がその根拠である。



譲れば譲るだけ前に出てきそうな外交姿勢に対しては、必ずどこかで踏みとどまる必要も生じるであろう。

こうした危機感は、日本ではある意味お馴染みのものである。古くは聖徳太子が決然と言い放った。「日の出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す…」。庶民の多くが裸足で歩き、手づかみで食事をしていたという時代にあって、聖徳太子は日本の独立国としての気概を大国に示したのである。

大帝国モンゴルの襲来に遭っても、時の執権・北条時宗はその身命を賭して、国を護った。鈴木大拙氏はその偉業をこう讃える。

「時宗は日本国家の上に降りかかろうとした大災害を除くため、天から遣わされた使者であったごとくに思われる。彼は日本歴史における最大の事件の終末をつけるとともに逝ったのである。彼の短い人生は単純であった。その全部はこの事件に捧げられたのだ」



近現代における金字塔となったのは、日露戦争における「コペルニクス的な大勝利」であった。欧米列強のアジア完全制覇の夢を打ち砕いたのは、この勝利に他ならない。

しかし悲しいかな、石炭から石油へと時代が変わる中で、日本は追い詰められていく。石炭は日本にあったものの、石油は日本になかったのだ。窮鼠となった日本はアメリカに噛みつき、そして敗れた…。



それでも国を失わなかったのはなぜであろう。

一時は日本語すら失われ、日本の貨幣・円をも消えゆく危機に立たされながら…。

やはり、そこには有名・無名の多くの日本人たちの国を護ろうとする尽力があったのであろう…。



◎色を付けられる歴史


歴代の王朝が変遷を繰り返してやまなかった中国という国家は、前時代の王朝の歴史を「上書き保存」してしまうのに長けた国家でもあった。つまり、過去を否定し、現在を正当化することを得意としたのである。

その時は荒唐無稽に思える主張ですら、正式な歴史書に記されて既成事実となってしまうと、後で読んだ人は「さもありなん」と納得してしまう。そして、受け入れてしまう。つまり、もし尖閣諸島を中国が支配することになれば、それはそれで後世には正当化される危険性があるということだ。世界にひかれている現在の国境線には、不当なものが山ほどあるのである。



今回の記事は、チベット亡命政府の記す歴史を元に構成されているが、その同じ歴史を中国政府が記すと、まったく別の風景が浮かび上がってくる。どちらの言い分にしろ、多少の色づけはやむをえないものの、やはり色を付けすぎているのは中国共産党のものであると感じずにはいられない。

時の政府は、真上から強い光をあてて歴史を記す。その結果、その陰は極端に暗いものとなり、いずれは忘れさられる。すっかり陰となってしまったチベット亡命政府、それが消え去るのであれば、その時にチベットの歴史は中国共産党によって上書きされることにもなるのであろう。



チベット僧たちによる抗議の焼身自殺は涙を誘う。

しかし、その行為を中国共産党は「テロ行為」としか記そうとしない。





それでも、チベットの高峰は静かなままである。

人の歴史はそれほどに儚いものなのか。

水の中から現出したというチベット高原が、その姿を地上に顕しているのも、ひょっとしたら一時なのかもしれない。



そして、チベットの観音様はすべてを知っているのであろう。

今も昔も、これからも…。






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出典・参考:
チベットを知るために(ダライ・ラマ法王日本代表部事務所)
致知2012年7月号「他者のために生きてこそ、自己を超える存在となる」チベット亡命政府首相ロブサン・センゲ

posted by 四代目 at 07:32| Comment(0) | 領土問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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