2016年04月23日

選手がコーチをこえるとき [ラグビー日本]



2013年10月

トイレから戻ると、エディー・ジョーンズの顔が土気色になっていた。

「吐いた…」

エディーは小声でいった。



羽田空港に到着したとき、エディーは自力で立てないほどに弱っており、車椅子で順天堂大学病院へと急行した。

診断は「脳血栓」だった。

即座に「血栓を溶かす薬」が投与され、エディーは一命をとりとめた。



当時、エディー・ジョーンズはラグビー日本代表、HC(ヘッドコーチ)の重任にあった。

もしこの時、エディーの身になにかあったら…?

その後のW杯、ラグビー日本代表はどうなっていたかわからない。







W杯に向け、エディーはとことん選手らを追い詰めていた。

通訳の佐藤英典は言う。

「エディーさんは、日本人に対する最も効果的なペナルティは、もっとやらせることではなく、『やらせないことだ』と言っていました。仕事を奪ってしまうんです。だから『練習やめ』だとか、『もういい、帰れ』と言って出ていくようなことが多い。たしかに効果があったと認めざるを得ません」

佐藤はつづける。

「ひと言でいえば、人間をハッピーな状態にしないということです。振り返ってみると、1週間に一度か二度は、スタッフがあたふたするような爆弾をあえて落とします。『ギリギリの状態をわざとつくりだす天才』なんですよ。休みがほとんどなく、疲れが空気が緩んできたと感じたら、徹底的に追い詰める。話し合いが膠着すると、『もうミーティングはやめだ』と言って席を立ったこともありました。『君たちだけで考えろ』と。そしてコーチ陣が真っ青な顔をして集まって、知恵をしぼる。日本人だけでなく、外国人にとってもタフだったと思います。FWコーチのスティーブ・ボーズウィックでさえ、W杯期間中に『あと10日』、『あと一週間で終わる』と、指折り数えていたほどですから」

総務を担当していた大村武則は言う。

「たしかに選手、スタッフに対するエディーの追い込み方は尋常じゃなかったですよ。でも、ニコニコしていい人間なんだけど勝てないコーチより、『どんな手段をつかってでも勝てるコーチ』のほうがいいに決まってる。われわれはプロですから」







W杯代表選手だったクレイグ・ウィングは、エディーと初めて会ったときから、エディーのコーチング手法は「選手を徹底的に揺さぶることにある」と感じていた。

ウィングは言う。

「エディーはいつも『マインドゲーム』を仕掛けてくる。合宿中、何人もの選手に『もう家に帰れ!』と突き放したとき、そこでバックアップの選手に転落してしまうのか、それともステップアップして前に進んでくるのか、じっと観察していた。それは当確線上にいる選手だけじゃなく、トシ(廣瀬俊明)のようなベテラン選手に対してもね。スーパーラグビーの参戦でもめていたとき、早朝に『あなたのおかげでチームはめちゃめちゃです』だなんてメールを出す。もちろん怒りもあっただろうけど、どんな反応を見せるのかテストしていたと思う。それは日本人であろうが外国人であろうが関係なかった。実際に自分がそういう状況で言われたら、あのタイミングではチャレンジしたと思う。競争のなかにいるアスリートは、本能で戦いにいくものだからね。エディーはその本能を自主的に発揮することを求めていたんだ」



「自主性」

エディーはそれを選手らに求めた。それが日本人に欠けていた「ミッシングリンク」であった。事実、エディーは「自ら課題を創出し、改善に向かう力がある選手」、たとえば堀江翔太や五郎丸に雷を落とすことは決してなかった。


このままではW杯で勝てないことをエディーは知っていた。

最後のキーワードは「自主性」である。

「自分たちの力で勝つ」という意識がなければ、W杯という戦場では勝てない。

(Number誌)


メンタルコーチだった荒木香織は言う。

「最初はみんな、ミーティングでも下を向いて、何も考えていませんでした。日本人は部活動などでも『やらされることばかり』で、自分で考える習慣がありませんでした。エディーさんは、選手に従順であることを要求する一方で、自主性を求めていきました。選手からすれば、『どっちやねん!』ってなると思うんですけど、そこのサジ加減が絶妙だったと思います」



「従順」「自主性」

その狭間で、エディーは選手たちを揺さぶっていたのだった。







「クソみたいな練習しやがって!」

W杯の本番前日、エディーはキャプテンのリーチに、そう吐き捨てた。



そう言われたリーチは、シリアスな表情にならざるをえなかった。

その異変に気づいた堀江翔太。リーチに声をかけた。

「なに言われたん?」

リーチは言葉をにごした。

「大したことじゃない」



堀江は言う。

「またまた〜。そんなこと言わんと、言うてみ」

すると、リーチは重く口をひらいた。

「クソみたいな練習しやがって…」



確かに、その日の練習はいつもと違っていた。

Number誌はこう記す。


南アフリカ戦は翌日に迫っていた。その前日練習をまえに、主将のリーチマイケルはかすかに緊張をおぼえた。いつもに比べてメディアの数が多く、試合に向けて準備してきたことをテレビカメラの前にさらしたくない。南アフリカが日本の練習内容を目にすることが十分に考えられたからだ。だったら、メディアがいるあいだはストレッチをやったりして、当たり障りのない練習にしよう。

それがエディーの逆鱗にふれたのだ。エディーは例外を嫌う。周到な準備によって、すべてを「アンダー・コントロール」、支配、把握することで戦いの準備をととのえる。集大成となる大一番をまえに、これまでやったことのない練習をするなど考えられなかった。いや、信じられなかった。

(Number誌)



エディーは、キャプテンとしてのリーチの力量をみとめていた。だからこそ、エディーは「選手主導の練習」をリーチにまかせていた。

だが最後の最後、肝心の南アフリカ戦をまえに、リーチのリーダーシップがエディーの癇にさわったのだった。



エディーの爆弾発言「クソみたいな練習」は、選手間に知れわたった。

「なんやねん!」

選手らは反発にいきりたった。

「勝ったろやんけ!」



一方、リーダーズ・グループ(リーチ、畠山、堀江、伊藤、五郎丸、立川)はエディーの発言に対して冷静だった。

五郎丸は言う。

「ボス(エディー)の機嫌しだいですから」

堀江は言う。

「イングランドに入ってから、精神的にいちばん不安定だったのがエディーさんだったと思います。『緊張してはいけない』と言いつつ、緊張しているのはエディーさん、あなたでしょ! みたいな(笑)」

リーチは言った。

「エディーさんは、元々スタメンだったウィング選手が怪我で、ハル(立川理道)に代わったことでナーバスになってたんだと思う。いちばん緊張してるのはスタッフの人たちだから、怒られたりしても、選手は変にネガティブにならないようにしよう」



決戦前夜、選手らの「自主性」は、いよいよ確固たるものになっていた。


ヘッドコーチ(エディー)に何と言われようと、選手たちはリーチの示す方向にしたがい、気持ちは一つに固く結束していた。

Beat the Boks
ビート・ザ・ボクス

南アフリカを倒すのだ。

(Number誌)


その夜、コーチらとの全体ミーティングが終わると、選手だけの「プレーヤーズ・ミーティング」が開かれた。

このときのためにと、廣瀬(俊明)はビデオを用意していた。それは日本のトップリーグ全チームからの応援メッセージだった。

選手たちは、村田のピタピタTシャツに、山中のダッシュに、トープリーガーたちのユーモアに大爆笑した。



高ぶっていた感情が解放された。

緊張がふうっと、とけた。

こうして9月18日の夜はふけた。







決戦の朝、バスケットコートで「ウォークスルー(歩きながらの動きの確認)」を行った。サイン、コールなどを丁寧に確認していく。

その練習を見ていたエディー、「すごく良かった」と珍しく褒めた。



ほめられても、堀江は冷静だった。

「普通っす。めっちゃ良かったほどでもないです」

五郎丸も然り。

「ボス(エディー)の気持ちが晴れてただけですよ」



選手らはじつに落ち着いていた。

凛とした集中力を保ちながら、それでいてリラックスしていた。







スタジアムには試合開始90分前に着いた。

その10分後、南アフリカのバスが到着したが、出てきた選手らはイライラしており、コーチ陣もピリピリしていた。というのも、南アフリカはスタジアムに早く到着しすぎて、30分以上もバスに乗ったまま、スタジアムの周りをぐるぐる回っていたからだった(注:スタジアムには指定された時間にしか入れない)。


キックオフまで1時間。

ピッチの様子を見ていると、南アフリカの登録外の選手たちとスタッフが集合して、にこやかに記念撮影をしている光景が目に入ってきた。そこには緊張感のかけらもない。

稲垣純一は言う。

「もしかして、行けるかもしれないと思いました。こいつら完全になめてやがるな、と。われわれは本当に、南アフリカを倒すことしか考えていなかった」

(Number誌)



日本代表のロッカールームでは、エディーが泣いていた。

「歴史を変えるんだ。歴史を変えるチャンスは一回だけだ」

感情をおさえられないまま、エディーはつづけた。

「南アフリカを殺しにいくぞ!」



ピッチ入場

国家斉唱

「君が代」が流れた。


五郎丸が、畠山健介が、田村優が泣いていた。

4年の歳月は、この日のためにあった。

やり残したことはなかった。

ひとつも、なかった。

(Number誌)


南アフリカのキックオフ。

日本の左サイドに飛んだ。

五郎丸が蹴り返す。



開始から45秒。

日本が攻勢にでた。

マレ・サウが、堀江翔太が、松島幸太朗がピッチに躍動する。



「ビート・ザ・ボクス(南アフリカを倒せ)」の始まりだった。







79分56秒

レフェリーの笛とともにデジタル時計は停止した。

試合終了まで「残り4秒」。

スコアは「29-32」、日本の3点ビハインド。



日本にペナルティキックが与えられた。

場所は、南アフリカのゴールまで「あと5m」。



キャプテンのリーチは、ゆっくりとレフェリーに近づいて言った。

「スクラム」


狙うのはスクラムトライだ。

残り4秒という時間を考えれば、文字通りのラストプレー。どんな選択をしようが、選んだプレーが終了した時点で試合は終わる。ペナルティゴールを狙えば、同点で試合が終了することは確実だった。

だが、2012年にエディー・ジョーンズがヘッドコーチに就任し、W杯の組み合わせが決まってから、チームは「打倒スプリングボクス(南アフリカ)」を掲げてきた。いま、その目標を達成できる千載一遇のチャンスが巡ってきた。このチャンスにすべてをかけたチャレンジをしないくらいなら、4年近くつづいたあの猛練習は何だったのか。

「引き分けほど最悪の結果はない」

だから、リーチは退路を絶った。のちに「ブレイブ・コール」と名づけられる、歴史的な決断が下された。

(Number誌)


コーチボックスのエディーは、真っ赤な顔をして怒り狂っていた。

「ショット! ショットだ!」

通訳の佐藤英典にむかって怒鳴った。

「ちゃんと伝えたのか!?」



リーチは、エディーの指示をちゃんと聞いていた。トレーナーの青木淳之介は「ショットです」と2回、リーチに伝えたのだった。

それでもリーチは「ショット」、すなわち同点で終わる選択をしなかった。唯一逆転の道である「スクラム」を選んだのだ。



リーチは迷わなかった。

自らの胸に問いかけ、仲間の声に耳をかたむけ、さらに冷静に状況をみて断をくだした。

特別な勇気をもって下した決断でも、玉砕を覚悟したギャンブルでもなかった。

「勝つための最善手」を選択しただけだった。

(Number誌)







五郎丸も「スクラムだろう」とわかっていた。だからキックを準備するそぶりすら見せなかった。

五郎丸は言う。

「自分のなかにもキックを蹴る選択肢はまったくなかった。あそこは15人、いや23人の選手全員がスクラムを組みに行こうと考えていた」



「歴史変えるのダレ?」

トンプソンルークは吠えていた。

「オレらや!」

山下が応えた。



スクラム勝負は選手らにとって必然だった。

そう思っていなかったのは、エディーだけだった。



この光景に、川淵三郎は思った。

「選手がエディー・ジョーンズを超えたな」



「従順」から「自主性」へ。

エディーに揺さぶられつづけた選手たちは、この大一番の土壇場で、逆にエディーを揺さぶっていた。





南アフリカのデュプレアは言う。

「リーチがスクラムを選択したとき、『負けるかもしれない』と思った。(南アフリカの)フォワードは7人でよくがんばっていたが、日本は8人でスクラムからのサイドアタックで、トライを狙ってくる。バックスがそれをカバーしなければならないのに、みんな自分のマークに気をとられていた。それがものすごく気になっていた」

南アフリカは、日本の最終兵器ことマフィに気をとれていた。にもかかわらず、「誰がマフィを止めるのか」、南アフリカはそれを明確に決められないまま、防御にのぞんでいたのである。



しかし、不幸にして日本最後のスクラムは、この試合で唯一「上手く組めなかった」。

フッカー木津は「レフェリーの合図より、相手の組むのが早い」と思い、一瞬動きを止めた。相手の反則になると思ったのだ。ところが笛はならなかった。

右へ右へと流れたスクラム。なんとか懸命にキープしていたボールは、ポロリとこぼれた。そのこぼれ球に、なぜか南アフリカのデュプレアはいかなかった。オフサイドをとられることを警戒したのだった。

その一瞬のすきに、マフィが身をていしてセーブ。南アフリカに行きかけた「一瞬の女神」は、ふたたび日本に確保された。



「ミスが許されない状況だった。だから、ボールを落とさないことだけを考えた。いつもよりしっかりボールを持つこと。それだけを心がけていた」

日和佐は、のちにそう語っている。

その日和佐の足はもう限界だった。両足を痙攣させながら、ボールをリーチにつないだ。



そのリーチも足がつりそうだった。

足がつらないようにと、両足の外側に重心をかけて「変な走り方」をしていた。スピードとパワーをまったく落とさずに。

タックルを受けたリーチは、何とかボールをダウンした。その瞬間に両足がつって動けなくなった。



右サイドは、もう使い果たしていた。

日和佐は左サイドへの展開をねらった。



そのとき、五郎丸が猛スピードで上がってきた。

「ゴローさん、ナイス!」

日和佐は心のなかで叫んだ。

日和佐はわかっていた。それがダミー、おとりのランであることを。



「練習どおりのダブルラインだ」

陣形を確認した日和佐は思った。

手前に立川、そこから横にトンプソン、木津、マフィのライン前列。後列には、田村とマレ・サウ、その大外にカーン・ヘスケス。

「これはトライになる!」

日和佐はそう確信し、立川にパスをおくった。



立川理道は、エディーに「パスの名手」と高く評価されていた選手だ。しかしこの南ア戦、ほとんどパスを放っていなかった。

ボールをもった立川は、エディーの言葉を思い出していた。

「飛ばしパスは絶対に放るな!」



しかし、いまほど絶好の「飛ばしパス」のチャンスはない。トンプソンと木津のむこう側で、マフィが何かを叫びながら、大きく手をふっているではないか。

トライチャンス!

そう判断した立川は、エディーに禁じられていた「飛ばしパス」を思いきり放った。まったく「自主的」に!



スピンのかかった長い「飛ばしパス」は、マフィ目がけて一直線につながった。パスを受けた瞬間、マフィは前を向き、クリエルにハンドオフを一発かました。

このまま強引に直進するか?

左のヘスケスにパスを通すか?



見ると、南アフリカ最後の防御3人は、みな自分に向かってきている。

一方、ヘスケスはノーマークだった。

マフィは冷静にパスを選択した。



ヘスケスはマフィと目があった。

その瞬間、パスが飛んできた。

「怖い!」

一瞬、ヘスケスは思った。

「ここでノックオンしたら…」


パスが両手におさまって走り出したとき、頭のなかでは感情が爆発していた。

ヘスケスは爆発を体内にとどめられずに口をあけ、わずかな距離の疾走のあいだずっと、叫びにならない叫びをあげていた。

雄叫びが口からほとばしったのは、インゴールに身体ごとボールをグラウンディングしてからだった。

レフェリーの笛がなって、トライが認められた。

34 - 32。

83分55秒。

ラグビー史に、ジャパンの名がくっきりと刻まれた瞬間だった。

(Number誌)







W杯がおわった翌日、最後のミーティングがひらかれた。

開口一番、エディーは言った。

「自分の仕事はすべて終わりました。だから、話すことはもうありません」

ミーティングのあいだ、エディーはずっと後ろで座っていた。



最後にリーチがスピーチに立ったとき、ふとエディーの姿が目にはいった。

「えっ! マジで?」

エディーは泣いていた。

号泣していた。



のちにリーチは、こう語っている。

「チームが終わって、エディーは本当にさびしかったんだと思う。誰がいちばんハードワークしてたかって、それはエディーだった。日がのぼる前から起きて、全力をだして働いていた。だから、倒れもした。ボスがあれだけ働いてたら、誰もサボれないですよ」



堀江翔太は言う。

「リーチのキャプテンシーはホンマ素晴らしかったよ。W杯が近づくにつれて、自分のなかに軸がでてきたやん。すべてがすべてエディーさんの言うことをそのまま伝えるんじゃなくて、自分の思い、自分の考えで、『自分がキャプテンとしてチームを動かしてるんだ』という風になってきた。それにみんながついていくようになったよね」



メンタルコーチの荒木香織は言う。

「いま世間でスポットライトが当たっているのは選手たちです。『自分たちでこうやりました』ってきちんと話せるようになりました。それは、エディーさんが選手を立てながらやってきた結果だと思います」


エディーは選手たちが自立したことを歓迎していた。

その結果、ラグビー日本代表は独自のカルチャーを創造することに成功した。

(Number誌)


五郎丸は言う。

「これまでも外国からたくさんのコーチがやってきましたが、代表にプライドを取り戻し、文化を定着させたのはエディーさんだと思います」






ウィングは言う。

「エディーは基本的に、とてもエモーショナルな人間なんだ。感受性もつよい。ただ、不器用な人でもある。そこで誤解もうまれやすいのかもしれない」

総務の大村は言う。

「ありがとう、の一言がいえない人なんです。ビートルズの『I don't like you, but I love you』ってあるでしょ。好きじゃないけど、愛してる、みたいな。自分で『くそっ、これやな』と思って。ほんとうに面倒くさい感情です」

荒木香織は言う。

「女性からしたら、エディーさんって、すごくかわいいんです。本当に勝ちたい、どうにかして選手を勝たせてあげたい、っていうそれだけの人です。だから少々演技してるしね(笑)。日本を離れるときも『いっぱい息子がいたのに、急にいなくなった感じがする。さびしい』と泣いてました」







エディーが日本を去ったあと、オフィスに一冊の本がおかれていた。

Good Boss, Bad Boss



総務の大村は言う。

「『おいおいボス、忘れ物か?』と思って手にとったんです。そしたら『良い上司、悪い上司』って、なんのメッセージやねん! って(笑)。ホンマに冗談キツイですわ」






(了)






出典:









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posted by 四代目 at 04:54| Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月21日

五郎丸とワールド杯 [ラグビー]






五郎丸歩
ごろうまる・あゆむ


ラグビーは3歳ではじめた。

”福岡市の「みやけヤングラガーズ」というラグビースクールに、3人兄弟で通いはじめた(Number誌)

当時、コーチを務めていた脇田雅和さんは、五郎丸の印象をこう語る。

「亮(五郎丸の兄)は非常に明るくて、楽しそうにやっていましたが、歩(五郎丸)はいつもフテくされたような顔でした(笑)。2人のお兄ちゃんがやっているから何となくついてきて…、という感じでしたね。性格はヤンチャ。おとなしいけど言うことを聞かない(笑)」



”小学校高学年では一時サッカーに転校したが、中学に入ると「筑紫丘Jr.スクール」でラグビーに再転向。高校は花園で常連だった「佐賀工」に進学。高校2年のとき、未来の日本代表をになう逸材を育成するエリートアカデミーに、山田章仁らとともに選ばれた(Number誌)

中学まで骨折すること8回。身体は大きかったが五郎丸は怪我がちだった。ゆえに公式戦に出場する機会も限られていた。

脇田さんは言う。

「キックについては『蹴っていたかな?』というくらいで、印象はあまりないんです。同学年の山田くん(章仁)は、小学校時代から光ってましたが(笑)」



早大1年のとき、ジョニー・ウィルキンソンに指導をうけた。

五郎丸は言う。

「早大グラウンドでキック教室を開いてくれたんですが、実際に教室がはじまる1時間も前からグラウンドに出て、延々とキック練習を繰り返していました。世界一の名選手が、そこまで地道に練習するということに感銘を受けました」





ジョニー・ウィルキンソン(Jonny Wilkinson)といえば「世界一のキッカー」と謳われたイングランド代表選手。2003年のW杯では大車輪の活躍をみせ、オーストラリアとの決勝では延長残り30秒からドロップゴールを決め、チームを優勝に導いた。この大会、ウィルキンソンはキックだけで113得点をあげて得点王にかがやいている。イングランド代表があげた得点の8割が、彼の脚から生み出されたのだった。

ウィルキンソンのキックで特徴的なのは、蹴る前に儀式のように行っていた「両手を胸の前で軽く合わせた、祈るようなポーズ」。力を身体の中心へと集めるためだという。五郎丸はそのウィルキンソンを真似るように、キックの前に両手を合わせるようになった。のちに五郎丸の「ルーティーン(決まりごと)」といわれるようになったポーズであるが、早大時代はまだ、歩数も間合いもバラバラだった。



五郎丸が日本代表に初めて選出されたのは、早大1年、19歳のときだった。

その当時の印象を、リーチマイケル(現日本代表キャプテン)はこう語る。

「ゴローさんは、キックがめちゃめちゃ上手いし、オフロードパスは上手いし、スゲエなと思ってた。テレビで見て『怖いなぁ』と思ってました。『オレに近寄るな』というオーラがでてた(笑)。実際に話をするとフレンドリーで、逆のキャラなんだけど」

”五郎丸は2005年に19歳で初めて代表入りしたものの、以後は代表から外れつづけた。次に日本代表のジャージーを着たのは、早大を卒業しヤマハ発動機で1シーズンプレーしたあとの2009年4月。しかし代表定着はかなわず、2007年フランス、2011年ニュージランドと2度のW杯を、五郎丸は逃した(Number誌)






◆エディー・ジョーンズ





五郎丸を日本代表の「大黒柱」にすえたのは、エディー・ジョーンズHC(ヘッドコーチ)

「(五郎丸は)世界で5本の指にはいるキッカー。われわれにとって最も重要な選手だ」

と高く評価した。

”2012年のエディー・ジョーンズHC(ヘッドコーチ)就任以来、日本代表が戦った41のテストマッチで五郎丸が欠場したのはわずか2試合。五郎丸はチームの一番後ろから指示の声を出し続け、豪快な攻撃参加と頑健なタックルでチームを鼓舞。正確なゴールキックを蹴り込んでジャパンに得点をもたらす。日本代表の最後尾には背番号15をつけた身長185cm、体重100kgの雄大な体躯がそびえ立っている。大黒柱という言葉が、これほどの似合う男もいないだろう(Number誌)

五郎丸は言う。

「いいプレーをした選手に、エディは『ダメだ!』と言ったりする。これは正直キツいです。だけど、それこそが試合で起きる状況なんです」

ラグビーにおいて「格」というのは重要だ。W杯で過去1勝しか挙げたことのない日本は「Underdog(劣弱者)」。自分たちが正しいと思ったプレーが、レフェリーに反則と判定されてしまうことも珍しくない。

「エディーは”W杯の勝ち”を知っている唯一の人なんだから、ここは信じてついていくしかない」



エディーはかつて、母国オーストラリア代表のHC(ヘッドコーチ)としてW杯準優勝。南アフリカ代表の参謀としてW杯優勝を経験している。彼は日本をW杯で勝たせるべく、やって来たのだ。その厳しさたるや、かつての日本代表になかったものだった。

清宮克幸(ヤマハ監督)は言う。

「まあ、スーパーブラック企業ですよ。ほとんど休みはなし。コーチやスタッフはソファで仮眠して、早朝5時や6時から練習の準備をする。そこへエディーがやって来る。スタッフの能力を最大限に引きだすスキルをもっているのは間違いありません」

五郎丸は言う。

「いやぁ、この4年間は相当な時間と犠牲を払ってきましたよ。1年前の北米遠征のときは、バンクーバーに滞在中に、下の子が生まれました。時差があるから、朝起きたら『生まれたよ』とメールが入っていた。実際に顔を見たのは、その1週間後くらいだった。ゼロ歳の1年間のうち、半分以上は合宿や遠征で留守にして、家族にも負担をかけています。練習の成果を実感するのは、試合がめちゃめちゃ楽に感じられること(笑)」



ワールカップ直前、梅雨の時期の代表キャンプは熾烈をきわめた。試合もないまま猛練習だけが延々と続いた。家族にも会えない、酒を飲むことも許されない。正直、選手らはエディーへの不満を鬱々と募らせていた。

同時期、日本を離れていたリーチマイケル(代表キャプテン)は言う。

「クラウドにあげられた練習の映像を見るたびに『ホントにハードな練習をしているんだなぁ…』と胸が痛くなった。LINEなんかでチームメートの何人かとやりとりしてたけど『これヤバイぞ』とホントに思ってた」

エディーは言う。

「梅雨のまさにあの時期に、私は選手の選別をしたのです。W杯のプレッシャーを乗り越えられる人間なのか、それとも潰されてしまう程度の人間なのか。W杯のような大きな舞台への準備として、本番前にストレスフルな時期を与えることが必要だったのです。一度、落とす。そしてW杯直前に、選手たちを心地よい状態にもっていく。ストレスフルな状態と最高の状態の落差が大きければ大きいほど、選手たちは力を発揮します。それは驚くべきほどの効果なのです」



Number誌の記者はエディーに問う。

「選手から愛されたいと思ったことはないんですか?」

「ありません」

「一度たりとも?」

「コーチになってから、まったくありません。必要ないからです。軋轢、プレッシャーこそが、成功にいつも必要とされているのです」










◆開幕



2015ラグビーW杯インランド大会

日本代表の初戦、南アフリカ戦のメンバーが発表された、その会見場で、五郎丸の顔面は蒼白になっていた。



その前日、五郎丸は早大以来の盟友・畠山健介にこう弱みを見せていた。

「オレ、緊張してるんだ…」

畠山は前回のW杯も経験していたが、五郎丸にとっては初めてのW杯だった。

五郎丸は言った。

「日本代表で50試合以上に出てきたけれど、今までで一番緊張してる。普段通りの平常心で望むのは無理(苦笑)」



そして迎えた南アフリカ戦の当日。

”ピッチに姿をあらわし、整列して国歌斉唱にのぞんだとき、五郎丸の顔は憑き物が落ちたようにスッキリしていた。対するのはW杯を2度制し、世界一のサイズとパワーを誇る「ラグビージャイアント」南アフリカ代表である。覚悟を決めて立ち向かうしかない。W杯初出場となる五郎丸歩の頬を、一筋の涙がつたった(Number誌)



刮目せよ。

ラグビー史を書き換える試合がはじまった。



ジャパン旋風のはじまりは、開始4分、いきなり五郎丸のビッグゲイン。

”五郎丸は両手でボールをつかみ、前傾姿勢で相手の防御を切り裂いて前進。直後に相手反則を得ると、正面32mの先制PG(ペナルティーゴール)を五郎丸が鮮やかに蹴り込む。スタジアムが大歓声につつまれる(Number誌)

アンダードッグ(劣等)とみなされていた日本代表が、巨人南アフリカに先制点。エディーが喩えた「ダビデとゴリアテの戦い」のごとく、小さな羊飼いは巨人の不意を突いた。



五郎丸は言う。

「エディーが試合前に言っていたんです。最初の20分に良い試合をすれば、観客は日本の味方になる、と」

謀将エディーは言う。

「ラグビーは世界で最もオーソドックスなスポーツです。保守的でもある。だからこそ、”相手を驚かすこと”が有効です。たとえば、サプライズに直面すると人は考えはじめるものです。そして、相手が考えはじめた瞬間、ラグビーというスポーツでは勝つチャンスが生まれる。それが実際に南アフリカ戦で起きたのです。そうなると、いつものプレーができなくなります。ラグビーは高速のスポーツです。考える時間はありません。状況に反応し、判断し、プレーする。南アフリカの選手には疑問が湧き、判断が遅くなった。あの試合はそうした心理戦からスタートしたのです

”日本はこの後も多彩な攻撃を仕掛ける。キックを多用したかと思えば、自陣PK(ペナルティーキック)から速攻、相手のタッチキックはクイックスローで攻めるなど南アフリカを休ませない。キックオフの蹴り方も、転がるキック、ライナー、ロングと毎回変化をつけ、安定したボール確保を許さなかった(Number誌)

エディーは言う。

「南アフリカは日本がボールをたくさん展開すると予測していたはずです。そこでキックを増やした。試合が進むにつれてハッキリしたのは、”南アフリカはキックに対するプランをもっていない”ということです」

”南アフリカの指揮官メイヤーは十分なジャパン対策を講じていなかったように見えた。スカウティングを怠っていたのではないか。日本戦への準備は「どうせ継続(展開)してくるんでしょ?」程度のものだったと思う。しかし実際のジャパンは継続してこなかった。W杯前まで1試合でせいぜい10本程度だったキックが、この試合では3倍以上の36本。「フェイズを重ねずに攻める」というアタックオプションがはまり、大量得点につながった(Number誌)



前半29分、日本に待望のトライ(リーチマイケル)。

「10 - 7」と逆転に成功した。

”国際映像に映し出されたエディー・ジョーンズHC(ヘッドコーチ)も、一瞬泣き顔になった。選手たちは指揮官の想像をも超越していたのだ。客席にも涙顔の日本人がいた。24年間、W杯で勝てなかった日本が南アフリカと好勝負を繰り広げていることは、それだけで泣けてくることなのだ(Number誌)






◆激闘



前半を「10-12」の2点ビハインド、逆転圏内で折り返した。

エディーは言う。

「(ハーフタイム時に)『勝てる』と選手には伝えました。スコア、そして時計が日本の味方になる。すでに接戦になって、40点差で勝つつもりの南アフリカの選手たちにはプレッシャーがかかっている。こんなはずじゃない、とパニックに陥っていたはずです」



「よっしゃあ!」

後半28分、地響きをたてながらトライを決めた五郎丸。拳で芝をたたいて喜んだ。

五郎丸は言う。

「トライなんて、トップリーグ(日本の国内リーグ)でも滅多に取らないのに、こんなところで取るなんて(笑)。だけど、南アフリカのあそこのスペースが空くことは分析できていました」

”たまたま近くに、遠征中の早稲田大学ラグビー部員が陣取っていた。興奮のあまり、同校の応援歌である「紺碧の空」を、肩を組んで絶唱した。するとイングランドの観客が異様なまでに喜んだ。ラグビーとは歌でもあるのだ(Number誌)

トライ後の、難しい位置からのコンバージョンキック。決まれば同点。五郎丸はいつも通りのルーティーン。少し腰をかがめた姿勢で、胸の前に両手を合わせ、祈るようにゴールを見上げる。今試合7本目となるキックを、五郎丸は冷静にきめた(この時点で成功率85%)。日本、驚異の粘りでふたたび同点に追いつく(「29 - 29」)。

会場は割れんばかりの絶叫につつまれる。

ジャッパン!

ジャッパン!

”二転三転するスコア。日本のサポーターから発生した「ニッポン、ニッポン」のコールは、次第に「ジャッパン、ジャッパン」に変わった(Number誌)

世界中が日本を応援していた。

後半残り10分。

歴史的な瞬間に立ち会えるかもしれないという期待が、異常な興奮となって日本代表を後押ししていた。



ふたたび3点差とされた日本は、最後の総攻撃を仕掛けた。

”何度となくゴールに迫った終了間際、日本は南アフリカゴール前でPG(ペナルティーゴール)のチャンスを得た。スコアは3点差。世界中のコーチが「PGを狙え」と叫ぶ場面である。引き分けでも勝ち点は「2」。プール戦(予選)では勝ち点を加算することが大切だからだ(Number誌)

しかし、日本代表の選択は違った。

実況「スクラムだ! 日本代表が南アフリカ相手に『スクラム組もうぜ』! 宣戦布告!

あくまでも勝ちにいった。

五郎丸は言う。

「だれも同点はいらなかった。チームに迷いはなかった」



「ブレイブ(勇敢な)コール!」

イアン・マギーカン(スコットランド代表監督)は叫んだ。

カモーン! ジャパーン!

スタジアムは完全沸騰。南アフリカは動揺にゆれる。



実況「もう80分を超えています。ラスト、ワンプレーです。さあ、歴史が本当に動いてしまう瞬間です!」

解説「ヘスケスにボールを持たせると面白いですね」

実況「さあ、日本の皆さんも共に戦いましょう! 勝って泣こう!」

”テレビの放送席では実況者が絶叫し、警備員、ボランティア、記者も総立ちになった。その場にいた人々が目撃したのは、ラグビー史上最大のアップセット(番狂わせ)だった(Number誌)

「立川! マフィ!」

「ひとり余ってる! ひとり余ってる!」

「行けっ! ヘスケス!」

左コーナーぎりぎり、ヘスケスが美しいトライを決めたとき、日本のラグビー史、否、世界のラグビー史が書き換えられた。



「ヤッターっ!」

「ヤッターっ!!」

「日本代表、やりましたーっ!」

「とんでもないことをやってのけました、日本代表! 世界の皆さん、これが日本代表です! どうですか!」



「34 - 32」

逆転につぐ逆転

最後の最後、ついに日本が巨人をひっくり返した。羊飼いダビデは、巨人ゴリアテの眉間を見事、射抜いてみせた。







「何回でも泣けてくる」

MOM(最優秀選手)に選ばれた田中史朗が泣きじゃくる。

エディーは言う。

「信じられなかった。アシスタントコーチに何度も聞き直しました。スコアボードを見て、本当に信じていいのだろうか、と。自分は興奮するタイプではないのに、あの時ばかりは目の前で起きていることが信じられなかった」

キャプテン・リーチは「最後は練習のようだった」と、試合を振り返った。エディーの猛練習によって選手の身体に染み込んでいた動きが、あの緊迫した場面にあっても自然と発露されたのであった。

”かつて日本代表は「ブレイブ(勇敢)」とW杯で善戦を称えられたことならあった。しかし今、ジャパンの存在価値を根本から変えたこの桜の戦士たちを、こう呼びたい。「グレイト・ブロッサムズ(偉大なる開花)」と。類稀なるコーチの下で、血のにじむような努力を重ね、ついに勝利を手にした男たち(Number誌)







”Out of a clear blue English sky came a thunderbolt”
イングランドの紺碧の空に落ちた稲妻(オブザーバー)

世界各紙は、日本の勝利を「奇蹟」「奇跡」ともてはやした。

そんな中、五郎丸は言った。

「(この勝利は)必然です。ラグビーに奇跡なんてありません。南アフリカが弱かったんじゃなく、日本が強かった」

畠山健介は舌を巻く。前夜の弱音はなんだったんだ、と。

「(五郎丸は)すごい男ですよ。今までで最高のパフォーマンスを、最高の舞台でだすんだから」



五郎丸は言う。

「開幕の前は緊張していましたけど、そのあとは肩の荷がおりたというか、楽んでラグビーをやれてますね。以前の僕は、大きい試合の前の日になると、逃げ出したくなる方だったけど、最近は変わりました。今は、その舞台に立てることが幸せなんだと思えるようになりました」

普段はポーカーフェイスを崩さない五郎丸。だがこの日は、底抜けの笑顔をみせた。










◆成長の瞬間



日本は続いて、中3日の強行スケジュールでスコットランド戦に臨んだ。

”南アフリカ戦の2日後におこなわれたメンバー記者会見では、初戦の前には1本だったマイクが13本に増え、記者は海外メディアだけで60人以上、総勢100人を超え、会見室から人があふれた(Number誌)

世界注視のスコットランド戦。

日本は前半を互角でしのぐも、後半最後の25分間で4トライを決められ、力尽きた(最終スコア「10 - 45」)。それでも世界は日本をリスペクトしてくれた。

”最終スコアが示しているほど、スコットランドにとっては簡単なゲームではなかった。ハーフタイムまでは、昨年のスコットランド独立の国民投票よりも、はるかにせめぎ合っていた(デイリー・テレグラフ)

せっかくの好ゲームを壊してしまったのは、過密すぎた「日程の問題」だ、と指摘する声も多かった。

"Shoddy schedule makes suckers of Japan's heroes”
インチキな日程のせいで、日本の英雄たちが食い物に(デイリー・メール)

”たっぷりと休み、準備万端のスコットランドと、中3日で疲労困憊の日本との試合を組むのは犯罪的だ(デイリー・ミラー)


だが、日本代表は一切の言い訳をしなかった。

エディーは言う。

「日程は関係ない。我々は3年前からこの日程を想定して準備してきました。2年前には土曜日にウェールズと、水曜にカナダと、日曜にアメリカと、9日間で3テストを戦う日程を組んだ。今日はスコットランドが素晴らしいゲームをしたのだ」



敗戦の中にあっても、日本代表は随所随所で魅せていた。

たとえば、前半終了間際の五郎丸の果敢なタックル。

”自陣ゴール前でスコットランドに連続攻撃を浴びながら、トライ態勢に入ったシーモアを、体ことタッチラインの彼方へと弾き飛ばす五郎丸の猛タックル。キングスホルム競技場を埋めた観衆がどよめきをあげる(Number誌)

五郎丸は言う。

「ちょっと嫌な雰囲気になっていたし、リーダーの一人として、悪い流れは止めなきゃいけなかった

トライ必至の状況を、すんでのところで阻止した五郎丸。それをエディーは高く評価した。

「4年前、五郎丸にはタックルをできないという定評がありました。それが、どうです。スコットランド戦の前半最後のタックルを見ましたか? 最高のタックルでした。まさにあの瞬間が、五郎丸という選手、一人の人間が成長した瞬間です。あの一つのプレーを見ただけでも、彼がどれだけ誇りをもってジャパンでプレーしているかを示してくれました」






◆リスペクト



サモア、アメリカと続いた戦いに、日本は2連勝。

だが、日本代表の快進撃は予選プールのみで終わってしまった。4戦中3勝しても決勝トーナメント(ベスト8)に行けなかったチームは、W杯が今のシステムになって以来、日本が初めてだった。「史上最強の敗者」と呼ばれた所以である。

ベスト8に届かなかったとはいえ、世界に対する日本の評価はぐっと高まった。それはレフェリーのジャッジにも現れていた。

”ラグビーに番狂わせが少ない理由の一つに、目に見えぬ「格」の存在がある。両方のチームが同時に反則を犯した場合、レフェリーは「アンダードッグ(格下)」とされるチームにペナルティを課す傾向がある。だが、サモア戦でのジュベールの笛は、これまでのW杯における日本戦のものとは一線を画するもので、感銘を受けた。初めて、すべて納得のできる判定だと感じたからである。それは日本が世界のラグビーサークルから「格」というリスペクトを勝ち得たからなのだろう(Number誌)

エディーは言っていた。

「日本はこのW杯に、ラグビーの世界でリスペクトを得るために来た」

エディーはこのW杯を機に退任が決まっていたが、彼は約束どおり、「世界からのリスペクト(敬意)」という置き土産を日本代表に残してくれたのだった。






最後の戦いとなったアメリカ戦。

”両国国旗を先頭にピッチに入ってきたとき、選手たちの目は赤く腫れていた。「試合前のロッカーで、エディーさんが涙を流しながら『プライドをもって戦おう』と言ったんです。あんなに涙ぐむエディーさん、初めてみました」。堀江翔太はそう明かす。「鬼の目にも涙ですかね(笑)。僕も試合前から泣きそうになりました」(Number誌)



五郎丸はサモア戦につづいてMOM(マン・オブ・ザ・マッチ、最優秀選手)に選ばれた。

その勝利直後のインタビュー。

「このマンオブザマッチは、チームの…」

五郎丸は湧き上がる感情に、言葉をつまらせた。

インタビューアーが次の言葉をせかすも、五郎丸の口からは何もでてこない。ただ目頭をおさえるばかり。ピッチの上では毅然とポーカーフェイスを崩さない五郎丸であったが、最後の最後、高ぶる感情を抑えることができなかった。



「悲しいけど、これが最後のテスト(マッチ)ね」

引退を表明した34歳、トンプソンルークは寂しげにそう漏らした。幾多となく日本を救った滅私のタックル。逆さに吊るしても一滴も垂れぬほど死力を尽くした。



「疲れました」

最後の記者会見、エディーは自身退任の話題はさけた。

ただ、選手たちだけを称えた。









◆スター



W杯を通して、五郎丸の存在感は一気に高まった。

”プレースキックを蹴るときの中腰の構え、指を立てるポーズは、日本でも英国でもその映像が次々にSNSに投稿された(Number誌)

清宮克幸(ヤマハ監督)は言う。

「やっと現れたスター。五郎丸は今度、私と二人で『SMAP×SMAP』に出ますよ」

五郎丸は言う。

「足も速くない、器用でもない僕が日本代表でプレーできたのは、ラグビーが団体競技だから。自分の知らないところで味方が献身的なプレーをして、僕を助けてくれている。僕ひとりにフォーカスされるのは望みじゃないけど、僕をきっかけとしてジャパンというチームを、ラグビーを注目してくれる人が増えたら嬉しいことです」



「ラグビーに恩返しをしたい」

その切なる想いから、五郎丸は著書『不動の魂』を出版した(2014年11月)。

”出版後は故郷・福岡市のすべての小中学校と図書館に224冊を寄贈。W杯への出発前には、日本代表が立ち上げた「SAKURA基金」に著者印税を全額寄付した(Number誌)






W杯を終えた、ある朝、五郎丸は「ヘッドスタートかな」と思って練習着に着替えていた。

ヘッドスタートとは、エディーHC(ヘッドコーチ)が日本代表に課した猛練習の一環で、朝5時から誰よりも先んじて行うトレーニングだった。だが、それはもう終わっていたのだった。

「それが日常でしたから」

そう言って五郎丸は、すこし遠くをみた。

「すぐにトップリーグ(日本の国内リーグ)が開幕します。これまでもずっと休みなし来ていたし、行けるところまで行こうと思ってます」



エディーは言う。

「日本ではこれから、親が自分の子にラグビーをやらせたくなるでしょう。子供たちは鏡の前で五郎丸のポーズをとる。次代のリーチ、次代の五郎丸が、きっとそこから育ってくる」








”南アフリカ戦後の連休期間、東京の調布市の少年サッカー大会で、こんな光景があった。試合前のフリーキックの練習に「ゴロウマル」が出現したのだ。あちこちのチームの子供たちが競って例の「ルーティン」に励んでいる。本当だ。日本のラグビーのイメージは、まさに一夜にして、この列島のみならず地球規模で変わった。(Rugby magazine)




(了)






出典:
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2014年06月16日

本田圭佑とACミラン [後編]




本田圭佑とACミラン [前編]

からの「つづき」






■デビュー



「なにを騒いでんねん…」

自身のホンダ・フィーバーに、本人は割と冷静だった。

「あくまでもミラン・パワーです。ここのフィーバーも全部ね」



その異様な注目度からか、本田のデビューは意外と早く訪れた。

2014年1月12日
イタリア・セリエA 
ACミラン 対 サッスオーロ

この日、チームは格下相手に4失点。名門らしからぬサッカーに、サポーターたちも苛立っていた。目を疑いたくなるようなイージーミス。味方同士、サポートする姿勢もみられない。



じつは今季のACミラン、20年来といわれるほどの絶不調に悩まされていた。リーグ前半戦を終えた時点で、20チーム中13位。監督の解任もウワサされるほど最悪の状況だった。

この日も、前半早々に2点をとりながら、その後に4点を奪われてひっくり返されるという最悪の流れのなかにあった。



後半19分

ついに本田は、エースナンバー10をつけてピッチ上に立った。

「ホンダ、見参!」

それまで鬱々としていたサポーターらは、この「救世主」の出現に熱狂した。



「ホンダ、ヘディングだー!」

外れた。それでも積極的に動く本田の登場によって、チームの攻撃は活性化した。



「ホンダ、シュートーー!」

ポスト直撃。

わずか数センチの差でゴールに嫌われた。



結局、試合は敗れた。

本田も点を決められなかった。








それでも現地紙の反応は上々だった。

「想像以上のデビュー(コリエレ・デラ・セーラ)」

「クオリティーが高く冷静(ガゼッタ・デル・スポルト)」

「ポストに当たる不運なシュートはオスカー賞もの(トゥット・スポルト)」



だが、名門復建を託されたエース10への期待は並外れて大きい。救世主に「惜しかった」という言葉は許されない。

チームに勝利をもたらすことが出来なかった本田は、「ほろ苦いデビューだった…」とも評された。






■逆風



「今だ、ブレーキング・ニュースが出たぞ!」

翌日、本田デビューの話題は、「監督解任」という衝撃に吹き飛ばされた。

TVキャスター「アレグリ監督が更迭されました。彼のスタッフも一緒に練習場を去っていきます」



敗者は去るのみ

その後ろ姿に、サポーターたちは容赦ない。

「落ちるところまで落ちたな!」

「とっとと出ていけ!」

「あいつにはガッカリだ。ザマミロ」



それが結果を出せなかった者の末路であった。本田の獲得を熱望したとされるアレグロ監督は、チームを追い出された。

いまは救世主と祭り上げられている本田も、その歓声がいつ罵声に変わるかはわからない。ただ勝利を。それがACミランの10番に課せられた宿命であった。



監督の替えは、すぐに来た。

クラレンス・セードルフ(37歳)

かつてACミランの10番を背負った英雄だった。



その新体制で最初の試合(対ベローナ、1月19日)

本田は振わなかった。ギリギリのところで味方との呼吸が合わない。

さらに悪いことに後半、本田はバテていた。それを見た新監督セードルフ。すぐに本田をベンチに下げた。



翌日の新聞

本田への評価は「チーム最低点」だった。



歓迎ムードは一転、逆風に変わりつつあった。

チームの勝利に貢献できない背番号10など、存在する意義がない。






■弱い自分



その日、チームの練習は休みだった。

しかし本田だけは、練習場の隅で走っていた。



その足元は深さ10数cmの砂。

高い負荷のかかる砂場でのダッシュ。

それをひたすら繰り返していた。



「つねに最初は『弱い自分』を倒すところから始まるんで」

汗のなか、本田は言う。

「弱い自分が日常から現れない日はないです。どんな練習やってても、一生懸命やる練習であれば、弱い自分は毎日出ます」

「そういう毎日の弱い自分と向き合ってはじめて、信念がちょっとずつ太くなっていくんです。それとの格闘をやらないことには、強い信念というものが磨かれてこないですから」



かつて、ロシアCSKAモスクワの監督は「ホンダほど規律(dicipline)のある選手は見たことがない」と言っていた。






■火星人



「ホンダは火星人」

そんな言葉がメディアに踊った。



チームメイトと息が合わない本田に、「周囲から理解されていない」との批判である。

冬に遅れた移籍は、そうした不利があった。シーズン途中でチームに加わるため、周囲と馴染めずに不発に終わるケースも多かった。



しかも、ACミランには各国のスターがずらりと居並ぶ。

イタリア代表 バロテッリ
元ブラジル代表 カカ

そうした中、本田はあくまでも新参者。パスが入らずに孤立する場面も多くあった。



「まずは味方との意思疎通。来て一ヶ月や二ヶ月でお互いのことが分かるわけがない」

そう言う本田は、イタリア語の習得にも励んだ。

「まずはしっかりと自分がこうしたいと伝える。そして、話を聞く。自分の意見を飲み込んでもらうためには、相手の要求も聞かないといけない。その交渉事を、練習前、練習後、試合前、試合後、試合中に、チャンスがあればやる」

そのためには、是非ともゴールが必要だった。

「こういう交渉事がすべてうまくいくタイミングっていうのは、ゴールを決めた後からなんです。僕はそれが分かっていたから、なんとか得点が欲しかった」



しかし、移籍から3ヶ月。

本田はずっとノーゴールのまま、もがいていた。



得点から遠い本田は、自身の希望する「トップ下」という得意のポジションから、右サイドに移されていた。

サイドというポジションは個人で現状を打開することが求められる。だが今の本田には、一人で突破するだけの技もスピードもなかった。



本田はしつこく監督の部屋を叩いた。

「もう5〜6回は行ってるんです」

そのたびにプレーが良くなる、と本田は言う。

「僕が疑いながらプレーしてる時っていうのは、物事がうまくいってないんです。だから監督の部屋をノックするわけです、その疑いを晴らしたいから。クリアにするためには、自分が納得する以外ないわけです」










■カカ



「無駄で使い物にならない」

メディアの言葉は次第に辛辣になっていった。サポーターの批判も日に日に強まる。

「なぜ金食い虫のホンダと契約したのか?」



本田は監督に訴えた。

「トップ下をやらせて欲しい」

しかしセードルフ監督には聞き入れられなかった。本田が切望するトップ下を任されていたのは、ブラジルのスター選手カカだった。本田はあくまで、その「カカの兵隊」にすぎなかった。

そして口の悪いメディアは、右サイドで活躍できない本田を「おもちゃの兵隊」と蔑んだ。



「(チームを)出るのも選択肢の一つかもな」

正直、そう考えたと本田は言う。

「ただ、そこで自問自答がはじまるのが”本田圭佑”なので。もう一人の本田圭佑が『それは違う』ということを言いはじめたわけです。『オマエは逃げている』と。『今まではそうじゃなかっただろ』と」



本田はあくまで強気にいった。

「俺、カカとバロテッリと友達になりたいと思ってないですからね。あやかりたいなんて思ったことないし。いい意味で『抜いたろ』と思ってるだけの話ですから」

ある試合でのフリーキック。カカに一歩も譲ろうとしない本田の姿がみられた。本田の手にしたボールをカカは取ろうとする。だが本田はボールを背中に回してしまって、カカに触らせようともしなかった。



そういえば本田は、かつて日本代表に入ったばかりの時も、当時のエース中村俊輔とフリーキックでもめたことがあった。本田の半生はそうやってのし上がってきた。

「だから今までも、僕より才能のある選手に勝ってきたし。なぜなら、そんなに差はなかったんです」

「天才なんかこの世の中にほぼいないと思ってます。才能の差は若干なりあるというのは認めます。ただ、若干でしょっていうことを僕は言いたい。ライオンと格闘するわけじゃない。馬と競争するわけじゃない。『あいつだから』って考えは、馬やライオンにすればいいんです」

「カカがバロンドール(FIFA年間最優秀選手賞)とったことあるんやったら、俺だって不可能じゃないと思ってますよ」






■バロテッリ



ゴールに飢えていた本田に、待望のチャンスが訪れる。

そのお膳立ては、なんとイタリアの悪童バロテッリがしてくれた。

ゴール前でボールをもったバロテッリは、自分でシュートを打たずにフリーの本田にパスをよこしたのだ(2014年3月29日、対キエーボ)。



だが、本田はキーパーと1対1で、ボールを宙に飛ばした。

「外したー! 信じられないミスを犯したぞ。ケイスケ・ホンダ!」








さすがにバロテッリは、そのモヒカンを逆立てて怒鳴った。

「お前はゴールが嫌いなのか!」








本田は即座にやり返した。

「いやいやお前、パスはゴロで出せ」

若干ではあるが、バロテッリの出したパスは跳ねていた。



そうは言った本田だが、自分が決定機を外したことはわかっていた。

「時が止まってる感じで、ボールもブーーーンッってスローモーションで上に行って。えらい時間が長いなっていう感覚でしたね。『これ外すか? 本田』って。」

本田は明らかに力んで外した。

「とりたいがゆえの”力み”です。(ゴールを)とりたいという思いが強ければ強いほど力むと思うんです。イコール、それだけ欲しいんだということです」



批判されなくなければ、移籍などしなければいい。ましてや10番など要求しなければいい。

「重圧を背負いたくなければ、行動しないことが一番なんです」

力みたくなければ、ゴールなど必要としなければいい。

「だから、あえて言うなら、力みにいってるんです」






■初ゴール



本田はさらに力んでみせた。

「まもなく初ゴールを決める」

メディアの取材に、本田はそう宣言した。



その2日後だった、待望の初ゴールが生まれたのは。

2014年4月7日 ジェノア戦

「ホンダが抜け出した! ボールがゴールに流れ込む! ゴーーーーール!!!」

「ACミランでのリーグ初ゴール! やったぞ、ケイスケ・ホンダ!」



あの時は考える余裕などなかったと言う本田だが、最後のシーンだけははっきり覚えているという。

「とられるかなと思ったんです。ディフェンスが間に合うんじゃないかな、と」

さほどスピードのなかった本田のシュートに、ディフェンダーが必死に追いすがっていた。

「まあ、ラッキーというか、クリアミスしてくれて」

確かにディフェンダーが最後に伸ばした足は、微かに追いついていた。だが、ボールの軌道を変えるまでには至らなかった。








本田の初ゴールにメディアは沸いた。

「日本の王子、みんなを喜ばせる」

それまでの批判などは吹き散った。

「ホンダは桜のように咲いた。入団した頃は裸の木だったが、今は花が咲いた。これからは果実がいっぱいの木を見せてほしい」



本田は言う。

「人間、追い込まれたら、生きるために死に物狂いでがんばるもんです。たとえば動物が泳ぎ方なんか知らなくても、水ん中にポンと投げられたら多分みんな泳げるんですよ。だって死ぬもん。そんな感覚です」










■夢



初ゴールに一息はつけた。

だが、ACミランの10番はまだスタメンの座すらままらない。



2014年5月4日
ミラノ・ダービー(対インテル)

長友佑都との日本人対決に注目が集まっていたが、本田圭佑は出番を与えられなかった。ずっとベンチに座ったままだった。



試合終了後

静まり返ったスタジアムで、本田は一人走っていた。

出る幕のなかった10番は、一人黙々とハードなインターバル走に汗を流していた。



「お疲れさん」

走るだけ走った本田は、スタジアムを後にした。



昨日は変えられないが、明日は変えられる。

「今日失敗したら、明日はその失敗をしなけりゃいい」






本田、小学6年生の作文にはこうある。



世界中のみんなが注目し、世界中で一番さわぐ4年に一度のWカップに出場します。セリエAで活躍しているぼくは、日本に帰りミーティングをし、10番をもらってチームの看板です。

ブラジルと決勝戦をし、2対1でブラジルを破りたいです。

この得点も兄と力を合わせ、世界の競ごうをうまくかわし、いいパスをだし合って得点を入れることがぼくの夢です。




世界一になるという夢

「全世界をね、『まさか』と言わせることが僕の一つのターゲットですから。それをずっと思い描いてきたわけですから」



たとえ倒れても立ち上がらない理由はない。

「どんな位置にいる人にもチャンスはある。それを目指すかどうかは、明日からじゃなくて今日決めるんです。やれることは今日からあるんです」

「あとはそれをネットの中に、ゴールの枠にボールを飛ばすだけです。イメージの中では、もう200回ぐらいゴールしてますけどね(笑)」













(了)






出典:NHKプロフェッショナル仕事の流儀
「本田圭佑スペシャル2014」



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2014年06月14日

本田圭佑とACミラン [前編]




ぼくは大人になったら

世界一のサッカー選手になりたい

と言うよりなる



本田圭佑(ほんだ・けいすけ)

小学6年生の時に、そう書いた。



サッカーをはじめたのは保育園。

3つ上の兄の背中だけを追っていた。

「おい、全然ついていけへんやん。お兄ちゃんのほうがなんぼでも上手いぞ。負けてるぞ、兄貴に」



兄が中学に入ると、本田は小学4年生ながら中学の部活にもぐりこんだ。

「よく泣かされてたよ。チビ、チビ、いうてね」

当時のサッカー部の監督、田中章博氏は言う。「それでも食らいついてたんですよ、圭佑。アイツ本気だったんですよね」

本田は監督に聞いた。「先生、力でいったってスピードでいったって勝てへんかったら、何でいく?」



ズバ抜けた才能はなかった。足も遅い。ただ、しつこいほど負けず嫌いだった。

摂津FCのコーチ、藤林繁男氏は懐かそうに振り返る。「リフティングで負けて、その場では帰るんですよ。で、次の週みるとね、相手を抜いてるんですよ。えっ? なんで?って思いますよね。どっかのグラウンドか河川敷でやるんか、どこでやるんか知りませんが、やってるんでしょうね、人より」



本田の作文は、こう続く。



世界一になるには世界一練習しないとダメだ。

だから今ぼくはガンバっている。

今はヘタだけれどガンバって必ず世界一になる。







■トレーニング



2013年1月

本田は石垣島にいた。

世界屈指の長距離ランナー、ケニア人2人と10日間にわたってみっちり走り込むという。本田は日本代表のエースに成長した今も、走るのが得意ではなかった。

「肝心なときに、ゴール前に行ったときにはバテてるわけですよ。それが僕、悔しくって。とりあえずだから、あの、救急車だけは呼んどいてください(笑)」



「すげぇ速い…」

世界レベルの走りは、恐ろしく速かった。

それでも本田は無類の負けず嫌い。限界を超えながらも2人に食らいついていた。

「マイケル・ジャクソン、尊敬しますわ。あんな楽しそうに走って(笑)」



走って走って、極限まで疲れた状態で、本田はボールを蹴りはじめた。

「今日もやるよ。3本連続で当てるまで帰らんよ」

蹴ったボールをゴールの枠に3本当てるというゲーム。だが、本田の蹴るボールは意外とバーに当たらない。



「終わらせる気ある?」

本田は独り言をいいながら蹴り続ける。

「あかんよ。集中できてないよ」

自問自答の相手、リトル・ホンダとやり合いながら。



「でかいねん、ボケ!」

一時間ちかく蹴り続けていた。もう日も暮れる。

「折れるな、折れるな、折れるな!」



「あ、3本?」

200本以上蹴って、ようやくその日は終わった。

もはやゴールの枠は暗闇に溶け込もうとしていた。






■サッカー教室



この日は雨。

石垣島の子供たちとサッカーする約束をした日だ。



プレーを続けるうち、ドシャ降りになった。

「まだやるんですか?」

心配したスタッフは聞いた。

「え? やりますよ」

ズブ濡れの本田は答えた。「雨でサッカー中止なんて聞いたことない」



「動きながらや、動きながら。つねに動け!」

本田の指導は本気だ。相手が小さな子供であろうと手は抜かない。

「ボール来る前に判断しとけよ。ボール来てから考えるな!」

「来るよ! 今みたいにボールは。どんなボールが来てもいいように、いろんなイメージつくっとけ。強いパス、弱いパス、どういうパスでも来るぞ!」



その日の終わり、本田は子供たちにこう言って別れた。

「みんなありがとう。がんばれよ。やれよ。お前らの年齢やったら、まだまだ何でも出来るぞ。夢は大きくもてよ」






■中高時代



本田は中学時代、ガンバ大阪のジュニアユースに所属していた。

だが鳴かず飛ばずだった。

当時の同期、與貴行は言う。「言いかた悪いですけど、(本田は)足も遅いし、体力もなかった。サッカーもそこまで上手くないし、いい選手にならないだろうなと思ってました」

「でも、人一倍のすごい努力家で負けず嫌い。これはもう凄かった。誰よりも早く来て一人で蹴ってたし、全体練習が終わっても、最後まで残って一人でボール蹴ってました。ネットに向かってボール蹴っては取りにいって、ボール蹴っては取りにいって…。その繰り返しです」



しかし、どれほど本田が努力しようが、実力の足りなさは覆うべくもなかった。

中学3年生のとき、本田は上のユースチームに昇格できないと告げられてしまう。



崖っぷちで飛び込んだのは、北陸石川の強豪、星稜高校。

入部早々、本田は「最初が肝心や」と思って、ブチ上げた。

「目標は『ワールドカップ優勝』です!」

ガンバ大阪ジュニアユースの落ちこぼれは、とんでもない大風呂敷を広げてみせた。



「もう生意気ですね、すごく。関西からクソ生意気なヤツが来たぞ、みたいな(笑)」

当時のサッカー部の先輩だった新田亮介は言う。ここでも本田は負けず嫌い。

「よく絡んできて、皆んなでメシ食うんですけど、ご飯は必ず2杯、3杯とよく食ってましたね。みんなが『もう腹いっぱい』って言ってるとこに、『俺、まだ食うよ』みたいな感じで(笑)。アイツはそういうとこにも負けたくないっていうか」

本田はどんな小さな競争にもガチンコだったという。



高校2年のとき、名古屋グランパスの練習に参加した。

当時のグランパスには、ウェズレイというブラジルから来た絶対エースがいた。そして本田はそのウェズレイに対抗心を剥き出しにした。



紅白戦の1シーン、本田はウェズレイにパスを出さずに、自分でシュートを打った。

ウェズレイは怒った。「なんで俺にパスを出さない!」

すると本田は臆することもなく「俺のほうにチャンスがあった」と言い返し、逆に「俺にパスを出せ」と要求したという。



そのやり取りに、名古屋グランパスの監督ネルシーニョは驚いた。

「先輩も後輩も関係なし。17歳であれほどのメンタルを持っているとは…。こういう選手がふたたび現れるには、あと100年はかかるんじゃないか?」

やり合ったウェズレイも、内心、舌を巻き、クラブ幹部にこう進言した。

「あの選手と契約すべきだ」






■海外へ



高校卒業後、本田はプロ選手となった。

所属先は、あの名古屋グランパスだった。



そして21歳のとき、オランダへ渡った(VVVフェロン)。

最初は「役立たずの日本人」と罵られた本田であったが、外れても外れてもシュートを打ち続け、ついにはキャプテン・マークをつけるまでにのし上がった。

ロシアへ移ったのは23歳(CSKAモスクワ)。ここでは激しい体当たりに苦しめられた。だがそんな中で揉まれながら、本田は日本人離れしたフィジカル(肉体)の強さを手に入れた。



この頃、本田は初めてのW杯出場を果たす。

子供の頃から「優勝する」と公言してきた、世界最高の舞台である。

その2010年の南アフリカ大会、本田はシンデレラボーイとなった。2ゴールを決めて日本代表ベスト16への原動力となった。だが、そこで敗れた代表に、本田は納得できるはずがなかった。








「自分はまだまだやれる」

本田は力強く語った。

「もう準備しはじめてます、ビッグクラブでプレーする。即レギュラーで、がんがんアシストや点取るイメージはできてます。『まさかホンマに今、そのクラブでプレーしてんねんな』っていうようなクラブでプレーしてますよ」



小学校時代の作文にはこうあった。



Wカップで有名になって、ぼくは外国から呼ばれて、ヨーロッパのセリエAに入団します。

そしてレギュラーになって、10番で活躍します。




その予言成就は近づいていた。

イタリア、セリエAの名門「ACミラン」による本田へのアプローチははじまっていたのである。











■10番



気の早いイタリアの新聞は「ミラン、ホンダ獲得を急ぐ」と報じていた。

そして2013年の夏には「ホンダが来る」とはっきり書かれた。

ACミランへの移籍は確実と思われた。実現すれば日本人初の快挙である。ACミランはイタリアリーグ優勝18回、ヨーロッパチャンピオン7回というビッグクラブ。イタリア「ビッグ3」の一角である。



だが、流れた。

移籍交渉は土壇場で決裂した。

さすがの本田もがっかりした。「あかんかったか、と。でも、しゃあないなって感じです。僕の場合、困難と向き合ってる時間が長いのか、それを楽しめないようじゃ、僕の人生やっていけないと思うんですよね」



その年の冬、ふたたび移籍マーケットが騒がしくなった。

ACミランの最高経営責任者、ガリアーノは満を持して発表した。

「もう何も隠すことはない。ホンダが1月13日からACミランの選手になる。背番号は、エースナンバーの10」



名門の10番

それは本田が要求したものだという。

本田は言う。「ミランほどの歴史があるクラブでは、その番号の重みがあります。僕自身、歴代の10番をつけた選手は知っています。でも、どうせサッカーをやるんであれば、ハラハラドキドキ刺激のある10番でプレーしてみたいっていうのが、自分の中では大きかったですね」






■入団



「ホンダが来たぞ!」

「バンザイ、ホンダ!」



2014年1月4日、サングラス姿の本田が、ミラノの空港に降り立った。

ACミランのファンは世界中にいる。本田は、その10番を背負う初めてのアジア人だった。



世界注視の入団会見。

本田には、スター選手だけに用いることが許されるエグゼクティブ・ルームが手配された。



さっそく記者は質問した、「背番号10の意味は理解しているか?」

本田「夢が一つ叶いました。12歳のとき、いつかセリエAで背番号10をつけてプレーしたいと作文に書きました。だから10番が欲しいと願っていました。ピッチ上では10番に値する選手だということを証明してみせます」

「ミランを選んだ理由は?」

本田「心の中のリトル・ホンダに聞きました。『どのクラブでプレーしたい?』と。そうしたら『ミランでプレーしたい』と答えたんです。それが決断の理由です」

「サムライ精神とは何か?」

本田「僕はサムライに会ったことがないんだ(笑)。ただ、日本男児は決して諦めない。強い精神力をもち、規律を重んじる。僕自身にもそれはあります」



堂々たる態度であった。

I really want to show “who I am” on the pitch.

自分が何者であるか、ピッチ上でぜひ表現したい。

世界を前に、英語でそう言い切った。



周囲の反応は上々。

TVキャスター「本田は、仕事に対する真摯な姿勢をもっていた」

新聞記者「揺るぎない覚悟をもっている印象を受けた」



だが皮肉にも、この華やかな入団会見が、ACミランの本田にとって最もスポットライトを浴びた瞬間となった。

以後、本田はイタリアの辛辣メディアから散々に叩かれていく。













(つづく)
→ 本田圭佑とACミラン [後編]






出典:NHKプロフェッショナル仕事の流儀
「本田圭佑スペシャル2014」



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posted by 四代目 at 07:08| Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月27日

走り続ける民「ララムリ」 彼らは、なぜ走るのか?




 走るために生まれた民がいる

 どんな馬や鹿も、彼らの持久力にはかなわない

 夜通し100kmの道のりを走り続ける



 彼らの名は”ララムリ”

 メキシコの山奥にひっそりと隠れ住んできた




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なぜ走り続けるのか?

「No se(知らない)」

彼らはそう答えるしかない

ララムリには、自分の気持ちを言語で語る習慣はない。



それにしても

なぜ、走るのか…?






■アルヌルフォ



メキシコの深い山岳地帯「コッパーキャニオン」。グランドキャニオンの4倍の広さを誇るこの岩がちな山あいにララムリは住んでいる。

人里を遠くはなれた彼らの集落は、この深淵な山谷に散らばっている。



走る民、ララムリの中でも”ズバ抜けたランナー”がいるという。

「アルヌルフォだ」

土地の人ならば、誰しもが彼の名を知るという。ララムリの集う地元のレースで彼は5連覇を果たし、現役最強の呼び声が高い。



ララムリの名が世界に知られるようになったのは1990年代。

最強ランナー「アルヌルフォ」は1996年、ロサンゼルスで開かれた160kmを競う山岳レースで優勝。ほかのララムリたちも上位を独占し、世界を驚愕させた。



そのアルヌルフォは、標高2,400mの山上、薄い空気の中に住んでいた。

ここでは滅多に人に出会うこともない。日々の仕事は、ヤギの放牧とトウモロコシ栽培。食事は一日2回、自給自足の生活。主食はトウモロコシの粉でつくるトルティーヤやレンズ豆の煮物。現金収入はヤギを売ることでしか得られない。



「トレーニングはしない」

短いスカートのような民族衣装”ウィシブルガ”を腰にまいたアルヌルフォは言う。彼の走りの強さは、日々の生活から得られたものだという。

たとえば朝晩2回の水汲み。下ること300mはあろう岩の断崖をアルヌルフォはひょいひょいと降りていき、帰りは20kgのポリタンクを肩にかついで登ってくる。これを子どもの頃から毎日繰り返しているという。



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「これで走る」

そう言って、アルヌルフォは”サンダルのような靴”を見せる。

それは”ワラッチ”という、トラックのタイヤで作ったサンダル。タイヤのゴムだけに重く、クッションもない。履いて歩くだけで疲れそうな履物だ。これはトレーニング用ではなく、本番のレースも彼はこれで挑むのだという。



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「メダルは家族のためだ。現金はすべて食料品に消える」

アルヌルフォがレースで稼いでくる賞金は、家族にとっての貴重な現金収入。自給自足の暮らしとはいえ、最近では町で売っている日用品や食料品にも頼るようになっている。

妻はこぼす。「石けんが値上がりしたわ…」



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最強ランナー、アルヌルフォが生活を賭けて挑むレースが迫っていた。

ワチョーチ
100kmウルトラマラソン
Ultra Maraton de los Canones

この山々で開かれる最も大きなレースであり、5位までに入れば、一年は生活に困らないほどの賞金が手に入る。






■100kmマラソン



会場には、伝説の走る民ララムリに挑戦したいと、メキシコ国内のみならず海外からも一流ランナーたちが集っていた。

「”本物の走りをする人々”と、この土地で一緒に走りたいんだ」

海外からの参加者は、どこか神聖な興奮に包まれている。



参加者90人中、ララムリは60人。

ララムリたちの履いているのは、あの”ワラッチ”。女性のララムリも多い。民族衣装の長いスカートをはいて走るようだ。



夜明け前の暗闇のなか、スタート地点に人々が群れる。

周囲のお祭り気分をよそに、アルヌルフォの眼差しは真剣だ。

3、2、1…



いっせいに皆が飛び出す。

100kmもの距離を走るにふさわしくない猛スピードで。

最初のペースは1kmおよそ3分。マラソンの世界記録なみのハイペースが続く。



スタートから一時間、20km地点にやってきたランナーたちは、ここから崖に入る。ララムリが真骨頂を見せるのは、いよいよここ山岳地帯からだ。

ここまで25位だったアルヌルフォは、得意の崖下りで一気に追い上げをはかる。前日の雨で岩場が濡れていて滑りやすいにも関わらず、アルヌルフォはぐんぐんとスピードを上げていく。

「どうしてララムリは、こんな崖でもスピードを落とさずに走り続けられるんだ? しかもあのサンダルで!」



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コース中盤、40km地点。

ここからは急な岩場の登攀になる。

アルヌルフォは得意の山路ですでに20人近くを抜き去っていた。すでに優勝を狙える位置につけていた。






■結果



だが、スタートしてから5時間。

アルヌルフォの足は鈍っていた。



じつは、アルヌルフォは山上の家から会場までの70kmを、2日間夜通しで歩いて来ていた。移動費を節約するために。

その無理がここにきてたたり、足が酷く痛んでしまっていたのだ。もはや、”5位以内”という賞金の夢は絶たれたも同然だった。



それでも、彼は走ることをやめようとはしなかった。

足裏のマメがどれほど潰れようとも、彼が止まる理由にはならないようだった。



「がんばれ、アルヌルフォ!」

沿道のララムリたちも知っている。どんな状況にあっても、彼らが走り続けなければならないことを。

しかしなぜ、彼らは走り続けるのか…?



ついに完走したアルヌルフォは、10位でゴール(10時間21分)。賞金は逃した。

レースは結局、ララムリが優勝(8時間39分)。上位30人までがララムリによって独占された。



歓喜の輪のなかに、アルフォンソはいなかった。

ただ独り、膝を抱えて座り込んでいた…。



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■ララヒッパリ



ララムリたちの強い走りは、その険しい山岳地帯の育んだ賜物であった。

しかし、なにも彼らは好んでこの地を選んで住んだわけではなかった。時は400年前、17世紀に侵略してきたスペイン人から逃れんがために、この山間に散らばり、隠れたのであった。



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それ以来400年間、守り続けられてきた伝統行事がある。

ララヒッパリ

野球ボールのような小さな球を蹴り続け、12時間でも14時間でも、夜を徹して走り続ける。2チームに分かれて、どちらが長く走れるかを競い合う。

凹凸のある山川の自然道を走るため、小さなボールはどこへ行くかわからない。急に止まったりダッシュしたり。普通に走るより遥かにキツい。時にボールは谷へ落ちたり、川を渡らなければならないこともある。



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なぜ彼らは、そこまでしてボールを蹴り続けるのか?

「… No se. (わからない)」

ララムリの青年はそう答えるしかない。夜通しララヒッパリをやる意味など、考えたこともない。



村の先生、セサルはこう説明する。

「転がるボールは”永遠の命”を意味します。死は生命の終わりではないということです」

走り続けること、そしてボールを転がし続けることが「生き続けること」。武器をもったスペイン人によって追いやられた過酷な大地にあって、彼らは走ることの中に”希望”を見出していったのかもしれない、とセサルは言う。

「ララムリは言葉を残さなかったけれど、走ることだけは伝えてきたのです。いまはもう走る意味は忘れられても、ララムリの身体のなかには”走ること”が染み込んでいるのです」






■一緒に走る



ララヒッパリは毎週のように行われる。

ランナーは毎回、村の大人たちが話し合って決める。今回は村の男の子たち。その代表の一人がホセ・オルギン(11)。一ヶ月前に負けて以来の再戦だという。

ララヒッパリで使われるボールは、レースのたびに大人たちが新しいものを作るのがしきたりだという。今回はホセの父・クレメンスが手ずから松の木を削って仕上げた。



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父・クレメンスは、過去のボールを大切にとってある。

「このボールは乾燥してヒビだらけだろ。でも捨てずにとってあるんだ。これはララヒッパリで28時間、走り続けたときのボールだよ」



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いよいよ、ララヒッパリがはじまる。

夕闇せまる6時、ホセの蹴り出しとともにレースはスタート。

勝負は夜通し。陽が昇るまでに相手のチームより長く走ったほうの勝ちだ。現代サッカーと同様に、足しか使えない。



スタートしてから一時間、突然、大粒のヒョウ(雹)が大地を叩きつけた。そして大雨に。それでもレースは止まらない。

ホセたちは一心にボールを蹴り続ける。

応援に駆けつけた大人たちも、いつしか一緒に走り出す。



夜8時。

辺りが真っ暗になっても大人たちは松明を灯して、子どもたちを励ます。

「がんばれ、がんばれ」



ララムリたちは、決して多くのことは語らない。

彼らは、ただ一緒に走る。

まるで、言葉よりも”一緒に走ったほうが多くを伝え合える”と思っているかのように。



夜がふけるほどに、活気は増していく。

真夜中をすぎても、ララムリたちはまだまだ走り続けていた。



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余談ではあるが、「なぜヒトには動物のような体毛がないのか?」という問いに、「走り続けるためだ」と答える人類学者がいる。

というのも、もし体毛があったら肌から汗をかくことができず、その体温調節は口からしかできなくなる(たとえば犬がハーハーと舌を出してあえぐように)。となると、さすがに長い距離を走ることは叶わない。ゆえに、体毛に覆われたライオンなどは短期決戦。その瞬発力にかける道を選んだ。

一方の”か弱い”人類は、時間をかけてしぶとく獲物を追い詰めるという手法を得意とした。長く長く追いかけていき、獲物の体力が消耗して力尽きたところを仕留めるという具合に。その”長距離を走り続ける”という進化の過程で、体毛をなくし、露出した肌から汗を流すという体温調節を獲得したのだという。






■走り続ける



「昨日、ホセはどうだった?」

翌朝、ホセの父・クレメンスの友人が訪ねてきた。

「負けたよ。朝4時まで走ったんだけどね」

ホセは50km近くを走ったものの、僅差で負けてしまったそうだ。



すると、ホセがようやく起き出してくる。

「きのう走ってどうだった?」

足を少し引きずるようにして出てきたホセは、この問いに何も答えなかった。ただ、どこか遠くを一点に見つめたままに。



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村では、次のララヒッパリのランナーが決まっていた。

今度は女の子。その代表の一人はグアダルペ(11)。彼女は両親が町に出稼ぎに出たために、叔父の家に身を寄せていた。

彼女は言う。「この村に残るって自分で決めました。この村が好きなの。ここだったら、みんなと一緒に思いっきり走ることができるから」




 悔しいことも、思い通りにならないことも、たくさんある。

 でも、なんど負けたって、また走り続ける。



 人はなぜ走るのか?

 それを知るには、

 誰かと一緒に走ればいい。




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(了)






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出典:地球イチバン
「世界一走り続ける民 〜メキシコ・ララムリ〜」
posted by 四代目 at 07:11| Comment(3) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする