2013年04月18日

高度成長の犠牲は、今なお…。水俣病


不知火の海は美しい。

まさか、この海がかつて「水俣病」を引き起こしたなどとは、にわかには信じ難い。



不知火海に、工場排水を垂れ流したという化学メーカー「チッソ」。

その排水中の有機水銀が魚などに蓄積し、それを食べた人が中毒を起こした。それが「公害の原点」ともいわれる水俣病の起こりである。

時は、戦後日本が高度成長を始めたまさにその時期。不幸にも水俣病を患った人々は、経済成長一辺倒の「犠牲者」でもあったのだ…。










◎患者と被害者



世界的にも「Minamata(ミナマタ)」として知られるこの病は、半世紀以上がたった今なお、未解決の問題である。

水俣病が公式確認されたのは1956年。それから公式認定されるまでに12年を要した(1968)。この年になってようやく、チッソ水俣工場は有機水銀を川に流すのをやめた。



被害者への本格的な補償が始まったは、公式認定からさらに6年後の1974年。

しかしながら、この時に国が定めた認定基準は、被害者らを大いに怒らせた。認定から漏れる人が相次いだため、救済を求める裁判が各地で巻き起こったのだ。

水俣病の「患者」と認定された人々に対しては、原因企業であるチッソから1,000〜1,800万円の補償金が支払われたのだが、認定されたのはわずか3,000人。国の基準による患者認定から漏れた数万人の人々は「被害者」として扱われ、補償金の対象とはされなかった。







怒れる「被害者」たちの混乱を収めようと、国は1995年、一度目の解決策を提示する。およそ260万円の一時金を国が支払うことにしたのである(認定者数およそ1万1,000人)。

しかしそれでも、憤懣は収まらない。そして2009年、国は二度目の解決策である「特別措置法」を成立させる。この時の一時金は210万円ほどであった(認定者数およそ6万5,000人)。

「このように、水俣病の歴史は、患者の認定をめぐって紛争が起きるたびに、国が政治解決策を打ち出し、また紛争が起きる。その繰り返しでした(NHK時論公論)」



国の認定基準の問題点の一つは、「患者」と「被害者」を分けてきたことにある。

「患者」として認定されるには、「感覚障害や運動失調、視野狭窄など『複数の症状の組み合わせ』」が条件とされている。そのため、たとえば感覚障害だけの人は、患者ではなく「被害者」とされてきたのである。

「症状があるのに、なぜ患者として認めないのか? 水俣病でなければ何の病気なのか?」

そうした不満を胸に大いに燻らせたまま、被害者たちは半世紀以上にわたる戦いを続けてきたのである。






◎二重基準



さて今回、福岡高裁と大阪高裁において、2件の判決が下された。

福岡高裁は「国の基準だけでは不十分」として、国の基準からは認められなかった熊本の女性を水俣病患者として認定した。

一方、国の基準を順守した大阪高裁は、大阪の女性を患者とは認めなかった。そのため、最高裁から心理のやり直しを命ぜられた。



ここに明らかにされたのは、「行政と司法のダブル・スタンダード(二重基準)」である。

行政は「複数症状の組み合わせ」を患者の認定基準としているが、司法の方は「症状の組み合わせがない場合でも、水俣病として認定する余地はある」と、これら2件の裁判を通して言っている。

行政(国)と司法(裁判所)は、まったくの平行線をたどっているのである。



はたして、認定基準は何のためにあったのか?

「患者を切り捨てるためか」、それとも「患者を救済するためか」。

何のために裁判を行うのか。それは人を苦しめるためか、それとも楽にするためか?



いずれにせよ、今回争われた2人の被害者は、すでにこの世にはない…。

憤懣やるかたない遺族らが、無念を胸に戦っているのである。

「土下座しろ!」といった苛烈な声が上がるのも、無理はない…。






◎心


水俣の地域の人々の想いは、ずっと複雑だ。

たとえ大問題を起こしたとはいえ、地元の「チッソ」は大切な企業。

「チッソが潰れると困るから、このまま放おっておいてくれ…!」

そんな声も少なくない。また、偏見や差別を心配して、手を挙げられない被害者もいる。







そもそも、これまで被害の全容は一度も調べられていない。全域の住民に対して、健康調査も行われていない。

「何が水俣病かという根本も、十分に明らかになっていないのです(NHK時論公論)」



病気や障害を背負ってしまった人々…。

差別や偏見にさらされた人々…。



「補償金を受け取っただけで、本当の幸せにつながるのでしょうか?」



不知火の海は、何を想う…。










(了)





出典:NHK時論公論
「問い直される責任 水俣病最高裁判決」

posted by 四代目 at 12:32| Comment(0) | 環境 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月29日

地球で最も暑いのは…、エチオピアのアファール低地。何もないから全てある。


この地球上で「最も暑い場所」。

それは、アフリカの「アファール低地(エチオピア)」だという。

年間の平均気温は34.4℃(東京は16.3℃)。加えて「乾燥」も半端ではない。湿度は20%程度しかない(日本は冬でも50%ほど)。フライパンに落とした「卵」は、目玉焼きになるどころか、カピカピの乾燥タマゴになってしまう。

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夏には気温50℃以上の日々が3ヶ月も続くのだとか。

神が人々に与えたもうた「最も過酷な大地」、それがアファールである。



なぜ、そこまで暑い(熱い?)のか?

アファール低地は海よりも低く(海抜マイナス100m)、くぼんだ巨大な皿のようになっている(面積は日本の半分)。

アフリカの熱風(火の風)がこの窪んだアファール低地に吹き込み、気温を極端に上昇させ、同時にカラカラに乾燥させるのだ。

しかも、地下には巨大な「マグマ」が眠っているため、この巨大な皿は上からだけでなく下からもフライパンのごとく熱せられるのである。



驚くことに、このアファール低地に古来より暮らす人々がいる。

わずかな地下水(井戸)を頼りに、ヤギとともに細々と生きるバドレ村の人々である。

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家屋はヤシで作られたシンプルなもので、風を通す工夫のある涼しい家や、熱風を通さない密閉された家まで様々。

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食事は熱く辛い。身体に熱いものが入ると、身体の冷やそうとする機能が活性化するのだそうだ。汗などはその代表例である。



世界一水の豊かな国に暮らす日本人は、一日に一人300リットルの水を消費するという。

それに対して、バドレ村の人々が一日に使う水の量は、一人たったの8リットル程度(バケツ一杯分)に過ぎないという(日本人の37分の1)。



井戸があると言っても、それは小さなコップで何杯もすくわなければならないほど貧弱なものであり、いつ枯れるとも知れない頼りないものである。

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その貴重な水を使うには、昔からあるルールがあるのだという。

「弱い者から先に飲む」というルールだ。子供がいれば、子供が最優先である。

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彼らの生業(なりわい)とするのは、「塩」の採掘である。

このアファール低地は、かつて海であったのだという。



アフリカ大陸からアラビア半島(サウジアラビア)が分離した跡がアファール低地であるため、しばらくの間、アファール低地は海の底にあった。

長い年月を経て、周りの土地が隆起すると、アファール低地だけが湖のように取り残される。

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しかし、上述のような灼熱の条件ゆえに、その湖の水もすっかり蒸発。そうして、海水に含まれていた「塩」だけがアファール低地に残されたのである。



アファール低地に広がる塩の大地は、およそ1,000平方km(東京都の約半分)。そこには10億トンの塩が蓄積されているのだという。

切り出した塩はラクダの隊商により運ばれて行く。

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一口に塩と言っても、採れる場所によりその成分には違いがあるのだという。

例えば、土地の隆起してできた塩の山から採れる塩は、薬効の成分が含まれる。

そのため、アファール人はその小山の塩を大切に大切に「薬の山」として珍重している。



わずかな水に、大量の塩。

アファール低地にあるのは、ほぼこれだけといって過言ではない。

しかし、村の長老は「これで十分。大切なものは全てそろっている。」と言う。



物質の山に囲まれて暮らす我々の感覚からすれば、アファール低地には「何もない」。

とてもではないが、ここで暮らそうとは考えもしないであろう。

しかし、長老の言う通り、人は「水と塩」があれば生きていけるはずである。実際に彼らはそうして生命をつないできているのである。



水にも食糧にも乏しいこの村の人々には、「分け合う」という気持ちがあらゆる行動に垣間見られる。

水は最も弱い者に、食糧は労働した者に。

物資が少ないからこそ、分かち合わなければ生きていけないのである。

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物資に溢れた世界では、「分かち合い」どころか、壮絶な「奪い合い」が展開されがちである。

物は豊富だから分け与えるのか? いや、それは少々違うようである。

少ないからこそ「分かち合う心」が培われるのかもしれない。皮肉にも、豊富であるほど奪い合うという性質が人間にはあるらしい。



物質が増えれば増えるほど、人の心の余地は狭くなってしまうのだろうか?

物が少ないアファールの人々には、どこにでも人間らしい心を容易に見つけ出すことができる。



物と心とはトレードオフの関係(どちらかの二者択一)にあるのだろうか?

もし、そうならば、我々は物によって「心」が駆逐されないように注意しなければならないだろう。



アファールは確かに最も過酷な土地である。

しかし、その過酷さの中にも確かな「恩恵」が存在する。

わずかな水しかないにも関わらず、人々は心はとても大きく育っていたではないか。



この日、アファールには「雨」が降った。

年に2、3度しか降らないという雨だ。

アファールに降る雨は極めて珍しく、極端に「有限」なものであるが、その有難さといったら何モノにも変えがたい。「無限」の喜びを人々にもたらしてくれるのだ。



相対的な価値観の元に生きる我々にとって、物はあり過ぎると「ない」ように感じたり、物がないほうがかえって「ある」ことを実感できたりもする。

物があるから幸せと限らないことは、現代人の痛感するところでもある。



アファールには、何もないからこそ幸せが簡単に見つかるのかもしれない。

ただ、その幸せは豊かさの感覚が麻痺してしまっている現代人にとっては、あまりにも些細なものだろう。

しかし、そういった些細なものに幸せを見い出せなくなってしまうと、人々は何モノにも満たされなくなってしまう。



日本には「足るを知る」という言葉があるが、人は自分が思うよりもずっと「少し」で事足りてしまうのかもしれない。

無限に求めている間は、いつまでも有限(足りない状態)であり、有限に満足した時にこそ、人は無限の恵みを感じることができるのだろう。

よく見れば、「無限」という漢字に「有」の字はないではないか。



そろそろ、アファールの人々がヤギの乳からバターを作る季節になる。

子供たちは喜々としてヤギを追いかけ回している。

たくさんはできないであろうそのバターは、みんなが楽しみにしているものの一つである。



出典:地球イチバン <新>
「地球でイチバン暑い場所」〜エチオピア・アファール低地〜


posted by 四代目 at 08:38| Comment(4) | 環境 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月08日

石炭を燃やした方が「温暖化」が止まる? 誤解を生みかねない奇妙な真実。

中国が石炭を燃やしたお陰で、温暖化が止まった?

チグハグに聞こえるこの事実は、アメリカとフィンランドの研究結果である。



理論はこうだ。

石炭を燃やすと、「硫黄」が排出される。

空気中に放出された「硫黄」の粒子(硫酸塩エアロゾル)は、「太陽光」を遮(さえぎ)る。

その結果、太陽光が充分に地表に届かないため、温暖化が和らいだという次第である。

つまりは、石炭燃焼によって出た硫黄が、地球に日陰をつくったということだ。



この現象は、第二次世界大戦後の、先進各国の経済成長期にも見られた現象だという。

この時期、日本をはじめ、欧米各国も盛んに「温室効果ガス」を排出したが、同時に「硫黄」も大量に排出されたために、「温室効果ガスの影響が相殺された」というのだ。

事実、温暖化が進行するのは、「先進国が硫黄排出量を削減する取り組みを始めた1970年初頭ごろから」だという。



世界の石炭消費の7〜8割は「中国」の消費と言われ、中国は「世界最大の温室効果ガス排出国」である。

かつては、石炭を燃やせば燃やすほど、汚染物質も撒き散らしていたわけだが、近年、中国でも「汚染物質・除去装置」の設置が増え始めている。

ところが、この措置により、地球温暖化が加速し始めているというのだ。



それなら、硫黄を処理しないほうが良いと思うかもしれないが、事はそう単純ではない。

「大気中の硫黄は、酸性雨や呼吸器系の疾患の原因となるなど、数々の有害な影響をもたらす」

硫黄を使って温暖化を防止しようとするのは、「毒をもって毒を制する」ようなものだと、研究者の一人、カウフマン教授は述べる。

今回の研究結果は、硫黄排出を肯定するものでは決してないことは、留意しておく必要がある。

誰も、「中国のような汚い空気の中で生活しようとは思わないだろう」。



posted by 四代目 at 06:47| Comment(0) | 環境 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月03日

じつは環境に優しい大都市「ニューヨーク」。自家用車通勤の少なさが好評価。

アメリカ・カナダで、「地球環境に優しい都市は?」

1位、サンフランシスコ。

2位、バンクーバー。

そして、3位がなんと「ニューヨーク」。



「眠らない街」ニューヨークは、人口が800万人を超えるメガシティ。面積は「東京23区」のおよそ2倍。

ニューヨークの市内総生産は約6,000億ドル(48兆円)で、東京(約1兆ドル・80兆円)に次ぐ「世界第2位」。

その大都市・ニューヨークが、北アメリカで3番目に環境に優しい都市というのだから、驚きの結果である。



好評価の要因として、「公共機関の充実」がある。

「ニューヨーカーの37%が自家用車ではなく、公共交通機関で通勤している」

その結果、ニューヨークの自動車利用度は低く、CO2排出量(一人当たり)は、極めて低い。都市平均の半分以下だという。



また、「緑地の利用がすすんでいる」という。

アメリカでは最も人口密度が高いこともあって、逆に緑を大切にしているとのこと。



「環境に配慮した行政運営」という項目では、「デンバー、ワシントンともに満点を獲得した」。

そういわれれば、ニューヨークといえば、世界的にも「タバコ」に厳しい街だ。

ブルームバーグ市長は、元愛煙家でありながら、禁煙を促進する法案を次々に可決。ニューヨークの禁煙箇所は、レストラン・オフィスに始まり、公園・ビーチ・歩行者専用区域と拡大を続け、タバコを吸える箇所を探すのが困難なほどだ。



ニューヨーク市の取り組みは、環境に優しい都市としての好評価をえることができたわけだが、問題がないわけではない。

「エネルギー消費コスト」は、異様に高い。ニューヨークは金融業のメッカであり、データセンターが軒を連ねる。省エネという観点からは、高得点が望めそうにない都市である。



出典:WSJ

posted by 四代目 at 10:03| Comment(0) | 環境 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする