2011年10月25日

農業は放射能の逆風を転ずることができるのか? 消費サイドにも求められる新たなシステムづくり。


大量の「桃」を果樹園に投げ捨て、その木々をもチェーンソーで伐り倒す農家。

そこは福島第一原発から100kmと離れていない果樹園だった。



放射性物質は「未検出」だったにも関わらず、価格は暴落。

元々は一個500円で売れていた高級桃も、貯蔵庫に眠ったまま腐ってゆくばかりであった。

注文は例年の10分の1にまで落ち込み、値段が付いたモノでさえ箱代すら出ない始末。

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原発事故と限らず、農家は常に様々な「リスク(危険)」に晒(さら)されている。

台風が来るかもしれないし、逆に雨が降らないかもしれない。

種を植えたからといって芽が出るとも限らなければ、収穫したからといって売れるとも限らない。



従来、こうした農産物の生産に付き物の様々な「リスク」は、最前線で働く農家の人々が一手に引き受けてきたものであった。

それが天災であろうが、人災であろうが、その責任は全て農家にあるとされる。

彼らは波濤に立って、そうしたリスクが消費者に及ばないように身体を張っているのである。



金融の世界などでは、高いリスク(危険)をとることは、高いリターン(報酬)に直結する。

なぜなら、リスクの高い金融商品は、一歩間違えば大損にもつながるからだ(現在のギリシャ国債の金利は異様に高い)。



しかし、農業の世界では、高いリスクをとったからといって、高いリターンが返ってくるとは決して言えない。

むしろ、リターンが低いことのほうが一般的だ。それは、スーパーの価格を見れば、すぐに判ることである(世界的には高いと言われるが…)。



なぜ、ハイ(高い)リスクなのに、ロー(低い)リターンなのか?

それは、「全体」で見れば、食物の生産はおおむね安定しているからである。

ところが、農家というのはたいていが「個人」である。全体的には安定していても、台風の直撃を受けた農家の作物は、全滅しているかもしれないのである。



金融の世界であれば、高いリスクを引き受けるに際しては、ヘッジと呼ばれる防御策を講じるのが常である(保険のようなもの)。

ところが、農家の場合、リスクに対して十分な防御策を講じるのは難しい。

台風や洪水からどうしたら作物を守れるのか?

放射能の雨から農地を守ることはできたのか?

リスクに対する保険はあれども、その補償は一時的なものに過ぎず、土地自体がダメージを受けてしまえば、何年となく収入が途絶えてしまうのである。



そこで、こうした農家の過大なるリスクを、「みんなで分散して負担しようではないか」という動きが見られるようになっている。

アメリカで一万を超える農家が行なっているのは、CSA(Community Suported Agriculture)というもので、「地域が支援する農業」である。

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農家と消費者は「契約」をかわす。

「Risk of Farming(農業のリスク)」を分かち合うという契約だ。

契約した消費者は、一年分の代金を「前払い」する。そして、農家からは年間を通じて農作物の供給を受ける。

しかし、もし天候不順などで作物が思うように生産できなかった場合、契約した消費者は農作物を受け取ることを「諦めなければならない」。前払いした料金も返ってはこない。



また、労働負担を共有する例もある。

消費者が農作業を手伝うのである。



なぜ、アメリカでこうした動きが活発化するかと言えば、この国は「食中毒大国」なのである。

年間に食中毒にかかる人々は「7,800万人(人口の24%)」、そのうち死に至るのは年間5,000人だそうだ。

つまり、この国では「食への不安」が慢性化しているのである。

人々は「農家のリスク」を自らが背負ってでも、安心できる作物が欲しいのである。



日本は?

昨年の食中毒は「2万人(人口の0.001%)」。

食中毒だけが食の安全を測る指標ではないが、この数値を見ただけでも日本の食の安全性の高さを垣間見ることができる。



しかし、この優れた食の安全性が、日本の農家に過度の負担を与え続けたとも言える。

安全な食を提供してくれたのは、他ならぬ農家の方々であり、その見えない尽力はその安全性を世界最高レベルまで高めてくれた。

そこには多大な労力がかかりながらも、全てのリスクは農家自身が吸収してくれていたのである。



ところが、近年は農家の吸収レベルをはるかに超える事件が続発している。

狂牛病(BSE)、鳥インフルエンザ、そして放射能。

食の安全を誇ってきた日本ですら、その牙城が揺らがざるをえなかった。



とりわけ疑問視されたのは、見えない「流通」の内実である。

冷凍・冷蔵の技術の発達、輸送技術の向上などで、日本各地どころか、世界各地の産物が日本で食せるようになった。

しかし、その広範・複雑な流通網は、生産と消費の距離を恐ろしいほどに引き離す結果ともなった。その気になれば庭で作れるモノでも、名前も知らない国から来ていることもある。



当然、その伸びてこんがらがった流通過程は「不透明」となり、安全性の追跡(トレーサビリティ)は困難となった。

流通の進化は「安さ」を実現したものの、「安全」は脇に置かれたのである。

「安さ」も「安全」も、同じ「安」という安(やす)らぎを意味する文字を使いながら、現在の流通網は、この2つを信じがたいほどに引き離してしまったことになる。



しかし、日本という国は打たれ強い。

狂牛病(2001)を受けて、全ての牛が生産現場まで追跡できるシステム(トレーサビリティ)が完備された。

現在、日本に流通する牛は420万頭。その全ての牛のデータが巨大なサーバーの中に保管されており、ひとたび問題が起これば、一瞬でその牛の全てを検索することができる。

この安全基準は世界的にも厳しく、世界最高レベルである。



今回の放射能騒ぎは、お茶が濁るがごとく、沈んでいた消費者の不安を喚起した。

その不安の最たるものは、「調べられない」ことである。

消費者も調べられなければ、生産者も簡単には調べられない。憶測が憶測を呼び、風評被害は拡大したのである。



しかし、逆に言えば、調べられれば安心できるのである。

牛もいつでも調べられるからこそ、安心できたのである。



食品の放射能検査の技術は、福島の事故後、一気に進化した。

それは元々日本に高い測定技術があったからである。

精密な検査は時間がかかるといえど、簡易検査ならば、ヤル気になりさえすれば、全てを検査可能な技術はすでにあるということだ。



ガンを検査する医療機器(PET)を応用すれば、ベルトコンベアーで通過する食品の放射性物質を検知することが可能になるという。

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簡易測定器を応用すれば、消費者が自身で食品検査を行うことも可能だという。値段も数万円とのことだ。それらを小売店に設置するというアイディアもある。

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放射能という苦い経験は、良くも悪くも受け入れなければならない。

そして、どうせ受け入れるならば、一歩前へ進んだほうが今後のためにもなる。



価格破壊というのは、消費者に恩恵があるようでいて、見えない危険が潜んでいることもあることを忘れてはならない。

安全というのは、そのロープの繋がっている先がシッカリした岩だから安心できるのである。

その流通の先が何に繋がっているのか?少し考えなければならない時もある。



その先には業者に買い叩かれた生産者がいるのか?

誘拐された児童が強制的に働かされているのか?

現代社会は「安さ」と「安全」が、最も遠いところにあるのである。



心ある消費者は、農家の背負っている過度のリスクにも目を向ける必要がある。

なぜ、国内の農家が減っているのか?

リスクを負(お)いながらも、価格を負けて負けてきた結果ではなかろうか。

「負」という漢字は、「人」と「貝」を意味するという。「貝」は元々財産を意味していたのだが、それが転じて、「重たいモノ」を意味するようになったのだという。つまり、「負」は人が重荷を背負う姿なのである。



それならば、価格を高くすればよいという話もある。

しかし、それはさらなる危険へと足を踏み入れることともなりかねない。価格を上げる付加価値のために、さらなる重荷(リスク)を背負い込むことになるからである。



現代農業はその悪循環の最中(さなか)にあるとも言える。誰かがハウスで栽培を始め、誰かが暖房も入れて…、始めは値段を高くできても、みんなでやればそれが普通になって、価格は戻る。

人為を介すれば介するほどに、その新たな手間が農家のさらなる負担となり、農作物は自然から離れてゆく。

自然から離れるほどにリスクも増大する。自然環境のリスクに、人為的に積み上げたもの(機械・設備)にもリスクがついて回るためである。

篤実な農家の工夫や努力は、一方でリスクを増大させる結果ともなってしまうのである(それが見事に返ってくれば大成功ともなるが…)。



水源が干からびてしまえば、いつもの水道から水は出なくなる。

効率に特化した流通は「強力すぎるポンプ」のようなもので、池の水をすっかり吸い尽くしてしまうこともある。

そうした流通は「元」を育てることには無頓着である。吸収先(元)を替えればいいだけの話だ。



こうした流通における姿勢は、元も子もなくなりかねない。

あまりにも、一方通行であるため、振り返るということすら無駄となる。「売れたか、売れなかったか」以外の消費者のフィードバックなどはほとんどない。

さらに流通が複雑化すれば、バケツリレーの運び手だけが増えてしまう。そうなると、バケツの水は途中で少しずつ減ってしまう。

そして、その減った分を補うのは、またしても農家ということになる。流通リスクの一端をも農家が肩代わりすることとなるのである。



それならば、そのような流通に頼らず、農家が直接販売すればよいではないかという話もある。

しかし、これほど困難な要求もあるまい。生産から販売までこなせるスーパープレーヤーはどう考えても少数派である。

さらに、近場の販売では利益は限定的であるため、どうしてもインターネットなども利用しなければならない。IT化された高齢農家というのはイメージできるであろうか?多くの高齢農家にとって、マウス(ねずみ)は害でしかない。



そんなこんなで、ある意味、農家サイドのできることは八方手を尽くした感もあり、不幸にも「手詰まり」となっている手も少なくないのである。

逆に、打つ手を多く持っているのは、実は消費者サイドの方である。

今までは、完全に受身だった消費者も、高まる食の不安から積極攻勢に出る人々も増えてきている。農家の負担を理解し、価格を超える付加価値を求める動きが少なからず出てきている。

こうした消費サイドの助力ほど、農家の救いとなることはない。政府の補助金などは終末医療に近いところがある。



幸か不幸か、原発事故は安穏としていた消費者にガツンと刺激を与えた。

もし、日本の農業が変わるのであれば、消費者の意識が高まっている今を置いて他にないのかもしれない。



昨年、インターネットで写真とは全く違う「スカスカおせち」が問題となったが、この問題が契機となり、今年のおせち販売は大変好調なのだという。

表面的な安値がスカスカだったという「スカ」のブリ返しである。良い意味で、皆がおせちに注目するようになったのである。



幸不幸、運不運はおおむね主観的なものであり、客観的には事物に注目が集まり、エネルギーが高まっている状態である。

おせちの場合は、そのエネルギーが好転したことになる。災い転じて…というやつである。

今、食の安全への逆風は、ある人々にとっては願ってもない順風ともなりうるのである。



出典:NHKスペシャル
シリーズ 日本新生 第2回「“食の安心”をどう取り戻すか 第一部」


posted by 四代目 at 07:59| Comment(0) | 農業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月19日

「自給」への渇望。金子美登氏の自給の輪は世界へと羽ばたいた。


島国である日本にとっては、「自給」という年来の悲願がある。

しかし、国家の施策としてはあまり成功を収めていない現実がある。

そこで近年脚光を浴びているのは、「国家」という大規模な構想ではなく、「地域」という小規模なそれである。



日本でその先駆けとされているのが、「金子美登(かねこ・よしのり)」氏の霜里農場(Frostpia-Farm・埼玉県)である。

この農場では、一般的な日本人が連想できる農作物のほとんどを栽培していると言っても過言ではない。その種は80種にも及び、食のみならず「エネルギー」までも自給している。




エネルギーの自給とは?

古典的な「炭焼き」から、「太陽光発電(揚水ポンプ・アイガモ防御の電気柵)」、「バイオ・ガス」、「廃油燃料」などなど。



「バイオ・ガス」は、家畜の糞尿や生ゴミを微生物の働きで「発酵」させ、その結果発生する「メタン」を利用する。この農場では、このガスを主に「給湯用」に使用しているとのこと。

ちなみに、5人家族では一日に2立法メートルのガスが必要だそうで、そのためには「牛2頭・豚8頭・鶏280羽・人間40人」分の糞尿が必要なのだとか。

また、バイオガスの副産物として得られる「液体肥料(ガスを出した後の糞尿)」は、空気の無い状態を経ているため、有害病原菌や病害虫が死滅したクリーンな肥料になるとのこと。



「廃油燃料」はSVO(Straight Vegetable Oil)と呼ばれるもので、一般的な廃食油(天ぷら油など)を遠心分離で精製したもの。

このSVOは、農場のトラクターはじめ自動車にも使用できるという。

しかし、使用に際しては若干の改造が必要となる。化学処理をしないSVOは固まりやすいため、熱交換器を取り付け、エンジン始動時にSVOを高温加熱しなければならないのだ。



金子氏の自給(食・エネルギー)への取り組みは一農場(耕地3ha)から始まって、いまや地域を巻き込んだものへと発展している。

農場の生産物は、地域の家庭およそ30軒に宅配され、各家庭は月額8,000〜1万円を負担してくれているという。

また、地域の業者により加工された製品は多岐にわたる(酒・醤油・麺・ジュースなど)。



農場のエネルギー源となる「生ゴミや廃油」も、各家庭や食品加工工場などからもたらされる。

はじめは小さかった金子氏の「循環の輪」も、いまや地域を回すほどの「循環の輪」へと拡大しているのである。



若き日の金子氏が有機農業を起点とする自給に取り組み始めたキッカケは、高度経済成長期の日本の農業が「あらぬ方向」へと進み始めていることに危惧感を抱いたからだという。

生産効率を上げるため、農場の牛を増やしたところ、なぜか牛たちが病気がちになってしまう。よくよくその原因を探ってみると、外部から購入したエサに問題があった。

農場内の草を食べさせていた頃は、胃内のバクテリアが盛んだったのに、外部からエサを買うようにしたら胃が酸性に偏り、バクテリアが胃内に住めなくなってしまっていた。そのため、病気に対する抵抗力が低下してしまっていたのだ。

若き金子氏は、効率優先の無理な規模拡大が「生命」を損ない、循環の輪を断ち切ってしまうことを身をもって知るのである。



農業で儲けることは一般的に難しい。

金子氏が有機農業を始めて間もない頃は、「異端児」としか見られなかったという。



ところが、40年経った今では、その異端児の元に多くの研修生が詰めかけるほどになっている。

金子氏の確立した優れた自給と供給のシステムは世界にも広まり、「Teikei(提携)」という言葉でアメリカでも行われているのだという。



我々島国に住む日本人にとって、「自給」という言葉は魅力的である。

食糧やエネルギーを他者に任せっきりにするのには、どこか不安が伴う。

金子氏のように、太陽と大地に直結すれば「自給」というスタイルは可能なのかもしれない。しかし、現代文明はそうした自然から遠ざかろう遠ざかろうとしているかのようである。



草の根的に日本に広がる「自給」の動きは、本能的なものとも思える。

食糧が常にスーパーにあるとも限らなければ、エネルギーが常に電気会社から送られてくるとも限らない。

我々の豊かな生活は、他者に大きく依存し切っていることを忘れてはならないのである。



出典:クローズアップ現代
「シリーズ 地域に探る“未来へのヒント” “自給力”が暮らしを変える」


posted by 四代目 at 17:20| Comment(0) | 農業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月03日

まさかのトウモロコシ先物の急落。先月まで史上最高値であったのに、なぜ?

6月30日、アメリカの「トウモロコシ」先物価格が、「急落」。

7月限が最大で12%の下落、9月以降の限月も値幅制限いっぱいに下落。

6月初旬には、「史上最高値」まで高騰していたため、この急落のインパクトは多大であった。



4月〜5月、アメリカ東部の「コーンベルト」は、「過剰降雨」と「洪水の被害」。

「コーンベルト」とは、アイオワ州、イリノイ州、インディアナ州、オハイオ州が主な構成州であり、この4州で国内のトウモロコシ生産高の約50%を占めている。

そのため、トウモロコシの作付けは遅れ、秋の収獲は充分ではないだろうと、農務省がレポートを発表した。

その結果、トウモロコシの先物は上値追いとなり、ついには史上最高値にまで手が届いていた。



しかし、今回の発表では、第二次世界大戦後、「2番目に多い」作付けが確認されており、6月1日の在庫に関しても、予想を大きく上回る量があることが判明した。

前回の発表が予想の域を出なかったのに対して、今回の発表は「農家への調査」を踏まえたものだった。

そのため、トウモロコシの先物価格は、一気に下落へと転じたのである。



それに付随して、「農機メーカー」、「食品加工会社」の株価も「反発」。

これらは、収獲増のトラクターの消耗、食品加工の原材料費の低下を見込んだ動きであった。



トウモロコシの収獲増は、農家とっては朗報であったかもしれないが、投機筋には手痛い打撃となったようだ。



出典:WSJ

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2011年06月24日

焼畑は環境破壊か? 日本人と森林の深い仲。

「焼畑」農業は、森林を破壊するのか?

世界で、2億5千万人が焼畑農業を行っているという。

この焼畑農法を「破壊的」として、より「建設的」な農法への転換を提唱する人物が、マイク・ハンズ氏である。

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イギリス、ケンブリッジ大学の研究員である彼は、30年近く焼畑農業の研究を重ね、焼畑により「土地が痩せる」という事実に行き着いた。

焼畑とは、森林を焼いて畑を作るわけだが、森を焼いたその年の収量は上がるのだそうだ。

しかし、2年目以降は収量が落ちてゆき、いずれその土地は作物が育たなくなり、放棄される。そして次の焼畑を始める、という繰り返しである。



なぜ、作物が育たなくなるのか?

ハンズ氏が言うには、焼畑により、土中の「リン」が不足してしまうという。

「リン」というのは、農業肥料の三大要素の一つで、「花肥」「実肥」とも呼ばれるように、花を咲かせ、実を実らせるのには、欠くことのできない栄養分である。

ちなみに、化学肥料には、必ず「リン酸」が含まれるが、その原料となる「リン鉱石」は世界的に不足している。

日本はリン鉱石の全量を中国から輸入しているが、いずれレアメタルのように、価格高騰するのではとの懸念の声も聞かれる。

そうなれば、化学肥料に依存する日本の農業は、ますます採算がとれなくなり、窮地に立たされることとなる。



焼畑は、その貴重な「リン」を失ってしまうだけではない。

「土そのもの」も流出してしまう。

森林には、地面を強い直射日光から守る「サンシェード」のような役割がある。

森林の覆いがなくなってしまうと、土地は乾きやすくなり、乾いた土は風に飛ばされやすくなってしまう。雨も、森林のワンクッションが失われ、地面を直撃、表土が流れやすくなってしまう。



それらの問題点を解決しようと、ハンズ氏が提唱するのが、「アレー・クロッピング」という農法であり、ホンジュラスで実践中だ。

「アレー」は、「列」を意味する。木を列状に植え付け、その木々の列の間で、作物を栽培するという。

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植えらる木々は、「インガ」という豆科の木である。

成長が早いうえ、豆科の植物は、肥料の三大要素の一つ「チッソ」を、土中に供給してくれる。

背丈を越えるほどに育つ「インガ」の木々は、地面を直射日光から守り、適度な日陰を提供してくれる。そのため、雑草も育ちにくい。

インガが繁り過ぎたときには、枝を切って、光量を調節する。伐った枝は「薪(まき)」となる。

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ホンジュラスの農民たちは、焼畑をしながら、転々と居を替えて暮らしていたが、この農法により、定住することも可能になるという。

しかし、現地の人々には、そう簡単に受け入れられない。昔ながらのやり方を変えることは、そう出来るものではない。

2009年には、ホンジュラスで政変が起こり、セラヤ大統領が追放されるという事件が起きた。

ハンズ氏の前途は多難である。



焼畑農業には、賛否が渦巻いている。

古来の焼畑というものは、環境に害を与えるよりも、むしろ環境を改善するのに一役買っていた。

森を焼くことで、病害虫などを殺菌でき、燃えた灰は肥料分となり、土壌を改良してくれる。

生態系という観点から見ても、焼畑で一度リセットすることにより、生物の多様性が増すという利点がある。



焼畑が問題となるのは、そのペースである。

古来の焼畑は、充分な休閑期がもうけられていた。作物を3〜5年栽培したら、10〜20年は休ませる。

ところが、工業ペースに踊らされた農業では、それほど悠長に構えていてはオマンマが食えなくなる。

産業革命に引っ張られるように、焼畑もペースアップしてゆく(農業には革命が起こっていないにも関わらず)。

その結果、森の回復を待たずに、森は焼かれ、森林が減っていった。森の守りを失った土壌は、海へ流れるスピードを増し、ますます森の再生が難しくなり、悪循環は加速した。

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かつてのヨーロッパ人は、略奪的な農法により、自分たちの土地で森林を失った。

新天地を求めて発見したのが、南北アメリカ大陸。食い放題ふたたびである。

広大な大自然を前に、ヨーロッパ人はコリもせずに、アメリカ大陸を略奪的に破壊する。

狩猟民族的な欧米人は、現在においても、手をかえ品をかえ、あらゆる面で搾取・略奪する傾向があるようだ。



現在の日本でも、その略奪傾向が強まっているが、古来の日本が、いかに持続可能な生活をしていたかを、思い出してみた方がいいかもしれない。

四囲を海に囲まれた日本。隣の大国を略奪しようにも、中国は強大すぎた。日本が循環可能な生活をしていたのは、歴史の必然だったのかもしれない。



「森(もり)」は「守り(まもり)」に通じ、「林(はやし)」は「生やす(はやす)」に通ずる。

つまり、「森林」とは、「守り生やす」ことを意味する。



日本の焼畑は、略奪・破壊的なものではなく、生産・建設的なものであった。

現在、山形県鶴岡市に伝わる焼畑は、木々を伐採して森を管理することと、空いたスペースで「温海かぶ」を栽培することが一体化している。



森には、手を加えてはいけない場所もある。

神社の裏山などは、「鎮守の森」として、おいそれと人間が立ち入ることすらできなかった。

神社のある森は、不思議と災害に強く、日本人が守る神社と森が「防災」機能を高めたとも言われている。

日本人は「注連縄(しめなわ)」のある森は、決して伐らなかった。注連縄は、神々を守っているようでいて、実は自分たちを守っていたのである。



世界中で、日本人ほど森と巧みに共存できた民族も珍しい。

日本の国土を離れた日本人も、世界各地に木を植えていたようだ。ブラジルでは、日本人の住んでいるところが一目でわかるという。木が茂っているからだ。

第二次世界大戦でアジアに侵攻した日本人も、木を植えていた。フィリピン、朝鮮、満州などに、その森が残る。

欧米人は、森を切り拓き、開拓地を増やすことを生き甲斐としてきた節があるが、日本人は、セッセと木を植え、森を育むことを何よりの楽しみにしてきたかのようだ。



森林は生きている。

多少焼かれたくらいでは、死にはしない。むしろ元気を増すこともある。

焼畑は、本来、伝統に裏打ちされた優れた農法である。

しかし、焼き過ぎれば、当然死ぬ。

焼畑が商業ベースに乗ったら最期、世界の森林を焼き尽くすより他にない。



英語で森林を意味する「Forest」は、「for rest」、「休む(rest)ための場所」だという。

休みなく焼いてしまっては、休む場所がなくなってしまう。



出典:BS世界のドキュメンタリー シリーズ 
森に生きる 「“マメの木”が森を救う!〜焼き畑農業からの脱却」



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posted by 四代目 at 09:42| Comment(2) | 農業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする