2012年11月25日

新たな「緑の革命」へ。40年後の食糧確保


現在、世界中で約10億人が「慢性的な飢餓」に苦しんでいるという。

この数字は、世界人口70億人の7人に1人(14%)という看過すべからざる高い割合である。

しかしそれでも、今までは看過されてきた。それはひとえに先進国にとっては「対岸の火事」に過ぎなかったからである。われわれ日本人にとっても同様、「飢餓」というリアリティは薄い。



だが、いくつかの研究を見てみると、この問題が対岸から「別の風」に煽られてきていることに気づかざるを得ない。

それは世界人口の増加という風であり、あと40年もせぬうちに世界人口は20〜30億人(30〜40%)増加し、そのために食料需要は「倍増」すると見込まれている。

なぜ人口増の割合よりも食料需要が増大するかといえば、それは多くの人の標準収入が上がると仮定されているために、みな必要以上に豊かな食物(とりわけ肉など)を食べるようになるためだ。



単純に計算すれば、あと40年そこらで全世界の食料生産を倍増(100%増)させなければ、対岸の火事は全世界を巻き込んでしまうということにもなり得る。

「この難題への取り組みは、人類がこれまで直面してきた試練の中でも、極めて重要な意味をもつ」

はたして、それは解決可能な問題なのか?

その道は無きにしもあらず…。





◎緑の革命


一見すると、より多くの人を食べさせる方法は「明確」に見える。

「農地を拡大」し、単位面積あたりの「収穫量を向上」させれば良いのだ。

この単純な発想のもとに、第二次世界大戦後の「緑の革命」は成された。



その効果たるや「革命」の名がよく似合うほどに劇的であった。

メキシコに始まった「緑の革命」は、わずか10数年のうちにメキシコの小麦の生産量を3倍、トウモロコシを2倍にまで跳ね上げた。それは、高収量をもたらす「品種改良」の成功でもあった(国際トウモロコシ・小麦センター)。

緑の革命以前のメキシコは大量の穀物を隣国アメリカから輸入する食料不足国だったのだが、革命以後、小麦の自給を達成することになる。



メキシコで成されたのは、小麦とトウモロコシの革命であったが、それがフィリピンでコメの品種改良という成果に結びつく(国際イネ研究所・IRRI)。これはコメを主食とするアジア地域への朗報となり、世界の主要穀物の準備が整うことになった。

小麦はインド、パキスタン、ネパール、アフガニスタン、トルコ、北アフリカに、コメは台湾、フィリピン、インドネシア、スリランカに、次々と緑の革命を伝播させていった。

その結果、1965〜1973年までのたった7年間で、小麦の作付面積は326倍増(4万9,000ha → 1,600万ha)、コメの面積は1,700倍増(1万ha → 1,700万ha)というトンでもない大成功を収めることとなる。収量に関しても、50%増などザラであり、2倍増ということも珍しくはなかった。






◎負


しかし、この「緑の革命」はまったく持続可能ではなかった。

その「ほころび」はすぐに現れる。まず、新品種は干ばつに弱かった。さらに、機械で深く耕し過ぎるために、よけいに土地の水持ちも悪くなっていた。

その最悪の結果が、1972年の異常気象による大不作。インドや中国をはじめとするアジア諸国、さらには全世界がその大被害を被ることとなる。コメ自給を達成したばかりのフィリピンは、またたく間に輸入国に転落した。



これを機に、さまざまな問題が次々と浮上する。

たとえば、革命を起こした新品種は一様に、大量の水と化学肥料を必要とした。そして、栽培方法が基本的に一品種による単一生産であったために病害虫が頻発しやすく、その分、大量の農薬(除草剤や殺虫剤)を必要とした。



まず、これは農家たちを苦しめた。収量は上がるといえども、そのための設備投資の額は、従来の農法に比べてケタ違いに跳ね上がることとなったからだ。

資金豊富な大農家は幸いにも事を有利に運ぶことができた。各国の政策もそうした大農家向けの優遇、貸し付けを主体としていた。一方、小さな農家は立ち行かなくなる。ここに生まれたのは「富農と貧農の二極化」であった。

しかし、たとえ富農といえども、投資額の増大によって利益率は押し下げられ、そのリスクはより長期的なものとなってしまっていた(借金返済の期間長期化)。



そして、環境を苦しめた。

大量に投入される灌漑用の水は、周辺河川の流量を減少させ、過剰に投与される化学肥料は、周辺水域の汚染を引き起こした。さらには、農地から大量の温室効果ガスも発生するようになった。

また、機械で深く耕しすぎた農地は、あまりにも水はけが良くなり過ぎて、それが土壌流出を招いた。同時に、土壌が細かく粉砕されすぎるために、風によっても土壌は侵食されていった…。



「緑の革命」はノーベル平和賞を与えられたほど偉大な功績であった反面、「いらぬ置き土産」もたくさん置いていってくれた。

そして残念ながら、現在の世界の農業は未だにこの延長線上にいる。40年以上前に顕在化した種々の問題は、より大きな問題となって、次の40年を持続不可能にしてしまっているのである。

繰り返すが、次の40年への課題は世界の食料生産の倍増である。旧タイプの緑の革命の延長線上にこの答えがないのは明らかであり、今求められているのは「新タイプ」のそれである。



◎農地


まずは、世界の農地の現状をブラウズしてみよう。

現在、極地(南極・グリーンランド)以外の陸地のざっと38%が農業によって使用されている。現実的には、これ以上の農地拡大というのは危険である。なぜなら、すでに耕作に適した土地は耕し尽くされており、さらに拡大するには熱帯雨林やサバンナなどを犠牲にしていかなければならないからだ。

それでも、食糧増産のために伐り倒される熱帯雨林は後を絶たない。過去20年間に毎年500〜1,000万haが農地として転用されている(日本の国土面積は約3780万ha)。



地球上に人間が登場して以来、陸地の表面は大きくその様を変えた。世界の草原の70%、サバンナの50%、温帯落葉樹林の45%、熱帯林の25%がすでに消滅しているか、根本的に変貌してしまっているのだという。

もちろん、文明による都市化の影響(舗装道路と建築物)も少なくないのだが、それは農業が変えた面積の60分の1でしかない。農業は「最終氷期以来、これほど生態系を乱したものは他にない」と言われるほどに環境被害甚大なのである。



すなわち、食糧増産の最大の手段である農地拡大というのは、ある意味「極」に達してしまっている。

それは、これ以上の拡大は、われわれの足元の土台である「環境を切り崩していかなければならない」ということである。確実に「農地拡大の余地は細っている」。

また、「収穫量の向上」という手段も近頃は芳しくない。「世界の平均作物収穫量は過去20年間に約20%増えただけ」である。とくに先進国ではその収穫力の「天井」が上がりにくくなっている。



◎水と空気


人類の必要とする水は、その大半を河川と帯水層(地下水)から得ているが、その70%を消費しているのが農業である。

緑の革命以後の農業は灌漑用水を大量に必要とすることは前述した通りであるが、その結果、アメリカのコロラド川などの巨大河川の流量は減り、世界の多くの地域で「地下水面が急速に低下している」。



そして、水は消失しているだけでなく「汚染」もされている。

その汚染源となっているのが、農業で大量に用いられる化学肥料と農薬(除草剤や殺虫剤)である。緑の革命以降、「環境中を循環するチッソとリンの量は倍以上に増えている」。チッソとリンというのは、三大化学肥料(チッソ・リン酸・カリ)のうちの2つである。

農地に撒かれる化学肥料は作物を太らせもするが、その大半は河川に流れ出る。それは河川の過栄養化を引き起こし、それは河口付近で「酸欠」を起こさせる。その結果、沿岸の漁場に悪影響をもたらしてしまっている。

これは皮肉なことだ。食を増やすための化学肥料が、食を太らせるのはそこそこに、その大半が流れ出て、水産物の収量を減らすのだから…。少なくとも、「肥料の半分近くが、作物に養分を与えるのではなく、流出してしまっている」。



さらに、肥料の分布は「ちぐはぐ」だ。栄養分が足りずに生産力を上げあらずにいる地域がある一方で、栄養分が多すぎて環境汚染を招いている地域があるのである。

栄養が足りないのは貧しい国家の農地であり、栄養が多すぎるのは豊かな国家の農地である。それは、その国民の体脂肪率にも比例するだろう。

「世界の耕作地のたった10%が、肥料汚染の30〜40%を生み出している」



また、少々意外なことだが、人間活動から生じる温室効果ガスの発生源として、農業は「単独で最大」である。温室効果ガスと言われるCO2とメタン、亜酸化窒素の約35%は農業由来とされている。

「これは世界の輸送(自動車・トラック・飛行機)、あるいは発電に伴う排出よりも多い」

農業による排出の大部分は「熱帯雨林の伐採」、家畜や水田から生じるメタン、肥料をやり過ぎた土壌から発生する亜酸化窒素などだそうだ。



◎無駄


なるほど、過去半世紀の緑の革命は、限界を超えて被害が出るまでになっている。そして、その先の道は細く暗い。

その反省点は、土地や水、肥料が無尽蔵であり、大気は汚れないという前提に立っていたことかもしれない。確かに前時代においては、未開拓の土地が数多く残されており、化学肥料や農薬がもつ潜在的な害悪を事前に知ることはできなかった。

しかし今、その無知への支払いは始まっている。いまや自然環境には「限界」があることも認識しなければならない。水にしろ、土地にしろ、生産力にしろ、そのすべてを「ある枠内」で考えていく必要もある。もうフロンティアは消滅したのであり、これからはすでに持っているモノの組み合わせを枠内で変えていかなければならない。



幸か不幸か、前時代は後先考えずに無闇に邁進していたところがあったため、現状には「無駄」が豊富に残されている。すなわち、その無駄を洗っていくだけでもそれなりの成果は得られるということである。

たとえば、10億人の慢性的な飢餓が世界に蔓延しているといえども、現状で「量」は足りている。足りないのは、その量を適切に分配するための「流通」である。

その流通とは輸送経路のことでもあるが、その各所に関所のように設けられた「お金のカベ」も無視できない。すなわち、道はあっても経済的な問題で流通・分配は妨げられるのである。たとえ全世界に食が行き渡ったとしても、目の前のパンが高くて買えないというオチにもなってしまう。



◎肉


目の前のパンにヨダレを垂らす人々がいる一方、レストランのステーキを食べきれずに残す人もいる。たとえ、その腹がどんなに立派な太鼓腹だとしても…。

「穀物飼料で育てられた牛から『1kgの食肉』を得るには、通常『30kgの穀物』を必要とする(最も効率的なシステムにおいてでも)」

つまり、食品トレーに乗る程度の肉が、腰を痛めるほどに重たいコメ袋一袋に相当するのである。



また、世界の農地のうちで作物栽培(主に穀物)に用いられているのはわずか3分の1ほどであり、残りの大半は食肉を生産するための牧草地と放牧地である。さらに、栽培される穀物の内訳を見てみると、直接人間の食糧となるのは60%に過ぎず、35%は動物用の飼料となっている(残りのもう5%はバイオ燃料など)。

すなわち、現在の世界の農地の多くは「家畜を太らせるため」に用いられているのである。では、もし「直接人間の口に入る作物」を、それらの農地で生産すればどうなるのか?

「総カロリーを全世界で毎年3,000兆カロリー増やせる。これは現在の食糧供給量の50%増にあたる」

なんと、すでに40年の目標の半分が達成されてしまうではないか!



しかし残念ながら、一度肉の味をしめてしまった人の舌は、ベジタリアンにはなり得ない。

現実的な可能性として考えられるのは、穀物飼料で育てられた食肉を減らすことである。「牧草で育てられた牛の肉に変えるだけでも、充分な効果がある」。また、鶏肉や豚肉は、牛ほどの無駄がないことも重要なポイントとなる。



◎ちぐはぐ


生産と消費にも無駄がある。

生産された食物の約30%は人の口に入らない。捨てられるか、腐るか、害虫に食べらられてしまう。



富裕国での無駄は、その多くが「レストランやゴミ箱、冷蔵庫内」といった消費者に近いところで発生する。

その逆に、途上国では生産者に近いところで無駄が発生する。貯蔵施設の不備などから、せっかく収穫した作物が害虫に食べられたり、冷蔵不足で腐ったりしてしまうのだ。灌漑施設や肥料の不足から栽培自体に失敗してしまうこともある。



こうした先進国と途上国、生産者と消費者の「ちぐはぐさ」は至るところに見られる。

生産・流通・消費という過程において、それぞれがあまりにも遠く隔てられてしまっているがゆえに、あらゆる過程でギャップが生じ、そのデコボコごとに無駄が溜まってしまうのである。

一方では余り、一方では不足するというバラツキは広く認識されていながら、その溝を埋める手段はまだまだ手近なものとはなっていない。重さのないビットで飛んでいくインターネットの世界は情報を拡散することはできるものの、実際に重さをもった食物を動かすには、まだまだ軽々とはいかないのである。



◎限られた肥料・水


生産現場において、アフリカや中央アメリカ、東ヨーロッパなどには、まだ収量拡大の余地が残されている。これらの地域に適切な肥料や水を施せば、全世界の食糧総生産量を50〜60%上げられるという嬉しい試算(ミネソタ大学)もある。

前時代の緑の革命からの教訓は、「野放図な灌漑(水やり)や化学物質の使用は避けなければならない」というものだったが、肥料や水を「必要な時に必要な場所へ」適量施すことで、効率的な生産増大を図ることが可能となる(精密農業)。



たとえば、肥料や水を無駄にしないためには、土地をあまり耕さないほうが好ましいとされる(節減耕起)。

あまり深く耕し過ぎると、肥料は地中に拡散してしまい、水も逃げやすくなる。つまり、肥料も水もよけいに必要になってしまう。かつては、1cmでも深く耕したほうが収量が上がると信じられていたが、それは肥料も水も無限にあることが前提となっている。

また、耕しすぎた土地は「干ばつ」に弱くなる。深くまで耕うんされた土地では荒いスキマは多くなるのだが、その一方で毛細血管のような細かいスキマは失われる。それはゴツゴツの岩石とキメ細かいスポンジほどの差となり、保水力が大きく変わってくるのだ(当然、耕しすぎずにスポンジを維持した方が保水力が高い)。



日本にとって水は無限かもしれないが、世界の水は慢性的に不足している。天然の降雨だけで農作物が栽培できるような天恵の農地は、水田を擁する国以外、そうそう世界にあるものではない。

とりわけ、これから農地の開発を進めていく必要のあるアフリカ大陸などでは、限られた水をいかに植物に集中させるかに注力することが求められる。たとえば、点滴灌漑という方法は、水を直接植物の根元へ与えるものであり、無駄な空中散布を避けることができる。



◎効率


なるほど、これからの時代の革命は「限られた条件」の中で成されるものらしい。大量消費的な豪放さは、もはや求められない。

考えてみれば、それは生命全般における普遍のテーマでもある。人間にしろ他の動植物にしろ、極めて効率的に設計されている。人間の脳はコンピューターよりも計算が遅いのかもしれないが、そのエネルギー効率の高さはiPadですら足元にも及ばない。動物の動力は音などの無駄なエネルギーを極力発生しない静音設計である。

少ないエネルギー(インプット)をいかに大きな力(アウトプット)に変えるか。このシンプルで効率的な発想は、前世紀の大量生産・大量消費の渦中では明らかに軽んじられていたものの一つである。そして、それを忘れていたのは農業も同様であった。



本来、環境に悪影響を与えるということは無駄なエネルギーである。それを人類が盛んにやっているということは、明らかにエネルギーが有り余っているからでもあろう。

しかし、そういう調子に乗りすぎた種は、地球上の歴史において例外なく淘汰されていく。いたずらに巨大化してしまった恐竜などは、もうその形のままではいられなくなった。



たとえば、経済指標で重要視されるGDP(国内総生産)という数字は、基本的にデカければデカいほど良い。しかし、それは無駄なエネルギーもプラスに評価してくれるため、環境を破壊するような森林伐採も大歓迎となってしまう。GDP成長の名の元には、長期的な費用対効果は無関係なのである。単年度ごと、もしくは四半期ごとの短期決戦である。

持続可能な世界を望むのであれば、その愚は明らかであり、むしろ「やらなくて済んだこと」や「節約した功績」が讃えられる必要もある。さもなければ、世界経済はますますモンスター化していくことともなってしまう。貨幣増刷という非伝統的な手段も多用しながら…。



◎40年後


もし人間が賢いのであれば、そうした天罰的なものを受ける前に、方向転換できるのだろう。

現に、このままでは世界的な食糧不足に陥ることは計算されている。たとえ食料不足という脅しがないにしろ、現状に改善を加えることは後世のためともなるであろう。

何より、化学肥料や農薬などの金銭的なインプットが多大となってしまった現代農業は、多くの農家の先行きを暗いものとしてしまっている。生産者サイドの希望なくして、未来の食糧を論じることなど到底かなわない。それこそ論が空回りするばかりである。





残念ながら、現在は農業における生産者サイドの効率化の実績は、正しく評価されているとは言いがたい。

商業ビルなどが、太陽光による発電やLEDの導入などにプラスのポイントが付与されるシステム(環境性能評価基準・LEED)があるのに対して、持続可能な農業はそれほど高く評価されなていない。



もし、アトム的な重い現物が動かぬのだとしたら、重さを持たないビット、すなわち情報だけでも先回りさせておくことはできるのかもしれない。牛肉が牧草で育ったのかどうかを事前に知ることもできるだろうし、農家による肥料の使用量、畑の耕し具合まで知ることも出来るだろう。

また、問題は生産者サイドだけではなく、消費者サイドにもあることは明らかであるのだから、10回牛肉を選ぶところを9回に減らしてみたり、無駄の多そうな外食を避けることもできるだろう。その逆に、家で少量の揚げ物をする方が無駄だと感じたら、惣菜屋から天プラやコロッケを買うこともできる。



はたして40年後には、どんな世界が待っているのか?

その時代に生きている人は幸いなのか、それとも災いなのか? 楽しみでもあり、恐ろしくもある。

少なくとも、「昔の方が良かった」などとは言いたくないものである…。







関連記事:
「ゾッとするほど楽しみな未来予測」。先見のフアン・エンリケス

世界に広がる「日本のコメ」。田牧一郎氏の開拓魂。

世界の「農地」は奪い合うしかないのだろうか。



出典:日経サイエンス
「人口70億人時代の食糧戦略」

posted by 四代目 at 07:43| Comment(0) | 農業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月01日

諦めの農地に実った赤いトマト。被災地に希望を与えた西辻一真


その大地は塩辛かった。

海からはだいぶ離れているはずなのに、磯の香りもする。

「こんなとこにまで、あの津波は来たのか…」



東日本大震災の大津波によって壊滅的被害を受けた東北沿岸部の「農地」。ガレキは取り除かれたとはいえども、土壌には大量の「塩分」が残されたままであった。

このありがたくない置き土産を除去するのに「3年はかかる」と国は見積もっていた。

「3年…」、これは生きる術を失ってしまった農家たちにとって、絶望的に長い年月であった。



◎若きビジネスマン


誰もが諦めていたその塩辛い農地に、一人の若いビジネスマンが現れた。

京都でベンチャー企業を成功させた29歳、「西辻一真」さん。京都大学・農学部で農業に関する法律や土壌学を学んだ彼は、耕作放棄地を「体験農園」として生まれ変わらせるビジネスで、年商を2億円近くまで押し上げた。



その彼が、塩害農地を再生させる秘薬を持って現れた。

それは海洋微生物とサンゴを混ぜ合わせた「塩害除去剤」。耕作放棄地となって荒れてしまった土壌を改良するために開発したものだった。



「海の匂いがしますね」とビニールハウスに入った西辻さん。その土をペロリと舐めると、「うわぁー、しょっぱい。塩の結晶が浮いていますね」。

そのビニールハウスの中の塩分濃度は、基準値の10倍にまで達していた。津波でハウスこそは流されなかったものの、深さ1mの海水に浸かってしまっていたのである。

そこで早速、持参した塩害除去剤を撒いていく西辻さん。地元の農家が半信半疑の眼差しで見つめる中、その効果を試す実験が始まった。



◎救世主


塩害除去剤を撒いてから一ヶ月。いよいよ種蒔き。選ばれたのはハツカダイコン(二十日大根)。あえて、塩害に弱いとされる作物を蒔いてみての実験である。

そして種蒔きから6週間後、成長は少し遅れたものの、そのハツカダイコンはキレイなに丸く赤く育っていた。



「津波をかぶった土地でも、作物は実るんだ…」。半信半疑だった農家の人たちも素直に驚いた。そして、そこに希望のタネを見た。

「正直言って、『助かった〜』っていうのが本音。もう、できないと思っていたもの」と農家の人も感謝感謝。



こうして土壌改良の救世主となった西辻さん。

次はトマト、次はキャベツと、被災農地に次々と作物を実らせていき、一躍「時の人」となった。

「被災地の農業を次々と再生させる若きビジネスマン」

メディアはこぞって彼をもてはやした。



◎出会い


そんな西辻さんの成功を伝え聞いたのが、宮城県亘理町のイチゴ農家、齋藤正一さん、66歳。「是非に」と西辻さんを町に呼び寄せた一人である。

京都の若きビジネスマン・西辻一真さん、そして被災農家の齋藤正一さん。この二人の出会いがのちに、失望の農地に希望の片鱗を見せてゆくことになる。



しかし、その道のりは海の塩以上に塩辛かった。

成功者としての西辻さんを散々に打ちのめすことにもなるのである…。



◎疑問


福井県の山間で育ったという西辻一真さんは、幼い頃から畑の野菜づくりに慣れ親しんできたのだという。そして小学生くらいになると、ある疑問を抱くようになる。

「なんで何にも植えられずに放っておかれる畑が、こんなにあるんだろう?」

それは廃れた耕作放棄地への疑問であった。そして、それらの土地は「農業への諦め」に他ならななった。



その諦めに納得のいかなかった西辻さん。農地に関わるややこしい法律や、いかにして土地の力を再生させられるのかについて学びを深めていく。

そして京大卒業後、自らが立ち上がった。「自分で何とかしないといけない!」。そして生まれたのが農業ベンチャー「マイファーム」。その理念は「耕作放棄地の根絶」であった。

そのビジネスモデルは、農家から耕作放棄地を借り受け、土壌を改良したのちに体験農園として一般の人々に貸し出すというもの。これが大当たり。創業からわずか4年で体験農園の数は60を超え、年商は2億円に達する勢いとなった。





もともと農地再生を旗頭に掲げていた西辻さんにとって、津波でやられた農地を復活させることはボランティアの域を超えていた。それは、もはや「使命」であった。

それゆえ、亘理町のイチゴ農家・齋藤さんの頼みを無下にはできない。その頼みを承諾。多忙な自社の業務をほったらかしてでも、東北の地に駆けつけた。

しかしのちに、その大きな代償を支払うことにもなる…。



◎身体一つ


一方のイチゴ農家・齋藤さん。自宅もハウスも真っさらな更地になってしまった大地で、ガレキのゴミ拾い(アルバイト)をして何とか生活を凌いでいた。

「だいたい、ここ全部ハウスだったの」と齋藤さん。地区会長でもあった齋藤さんは、地域24軒のイチゴ農家を束ねる存在で、自らも11棟のビニールハウスを手がけていた。

朝4時から作業を開始して、それが終わるのは夜の10時。それが毎日の日課であり、味が良いと評判のイチゴは1パック2,000円もの高値で取引されていた。



ところがあの日以来、そのすべてが海の彼方へと持ち去られてしまった。

「ほんと、身体一つしか残んなかった。すべて財産がなくなったちゃ。ゼロだからさ…」

そして、毎日のゴミ拾いのアルバイト。しかし、その最後の頼みの綱も、予算不足という理由から、あっさり打ち切られようとしていた…。



◎希望のタネ


期せずして異色のコンビとなった京都の西辻さんと宮城の齋藤さん。大震災がなければ、名も知らぬ顔も知らぬはずだった二人が、二人三脚を始めることとなった。

その手始めとなったのは、塩分除去剤で塩っ気を抜いた後の農地に植えられた「菜の花の種」。



「除塩の菜の花、亘理町『イチゴ生産もう一度』100人で種まき」

新聞にそう報じられた通り、去年の11月、海からの寒風が吹きすさぶ中、全国から集ったボランティアたちによって希望のタネが蒔かれた。サッカーグラウンド18面分という広大、しかし不毛になった農地に…。

「これは小さな種まきかもしれませんが、『10年後の未来』にとっては、本当に大きな種まきだと思います」と言って、西辻さんは参加者たちをねぎらった。



◎イチゴ団地


当然、齋藤さんの亘理町には行政による支援の話もきていた。

それが「亘理町『いちご団地』造成事業」。国の復興予算を使って、震災の翌年には新しく「イチゴ団地」を造る計画だった。当初の話では農家の負担金はゼロ、誰でも参加できるという話であった。



ところが、その旨いはずの話からは、どんどんと旨味が抜けていく。

復興庁の査定によって予算の4分の1がカット。誰でも参加可能というノボリを引き上げざるを得なくなり、農家にも負担が強いられることに…。

参加の条件は「後継者がいること」、そして最低5年は続け、その後は農家が土地をすべて買い取るという厳しい条件が付与された。「いろいろと国のほうの規制がありまして、最初の要望からはズンズンと絞り込んできておりますが…」と、町役場の担当者の立場も苦しい。



残念ながら、被災してすべてを失った農家たちに、この条件は厳しすぎた。震災前に250軒あった亘理町のイチゴ農家のうち、イチゴ団地に参加できたのは99軒。たったの4割程度にとどまることとなった。

多くのイチゴ農家では後継者が失われていた。莫大な設備投資をしてそのローンの支払いが滞るなか、目下の日銭も稼がなければならない状況では致し方ない。小さな子供を抱えた若き後継者たちは、当面の仕事を見つけなければならなかったのだ。



齋藤さんのイチゴ農家は7代続く名門で、息子も8代目となる意欲をもっていた。

しかし、40歳になる息子には養うべき家族もできていた。それゆえ、泣く泣く仙台へと移り、土木会社への就職を決めることとなった。

後継者を失った齋藤さん、イチゴ団地への申請は叶わなかった…。

「そりゃ、やりたいよ。心の片隅ではね。でも、ちょっと諦め加減になっていたんだ…」



◎起死回生の計画


失意と諦めに沈んでいた亘理町の光となった西辻さん。遠く京都の地にあって、懸命にイチゴ農家の生きる道を模索していた。

行政による復興計画には失望したという西辻さん、それでも諦める気はサラサラない。「諦めちゃいけないから、僕たちがいるんです」と心強い。進まない行政を横目に、着々と自らの復興計画を練り上げつつあった。



その計画は、まず農家同士の組合「農事法人」をつくり、初期費用を国の交付金でまかなうというもの。つくる作物は「トマト」。塩害に強く、灌漑設備なしでも栽培できる作物を選んだ(齋藤さんたちの農地では水路などの設備が壊れたまま)。

西辻さんの仕事は、国の支援を取り付けることと、生産する農産物の流通先の確保。この計画の根幹は、「農家の自立を促すこと」であり、自分の会社からは出資しない予定であった。



◎予算確保


しかし、行政の壁は予想以上に重く厚かった。

当初の目論見であった全額支援を受けられるはずの「東日本震災復興交付金」への申請は却下。先約であるイチゴ団地計画が優先される結果となった。

それならば、と申請したのが、半額の助成を受けられる「東日本大震災農業生産対策交付金」。こちらの申請は認められ、当初計画の初期費用1,500万円の半分をまかなう道がついた。



では、残りの半分をどうするか?

それは、あらかじめ決めておいた流通先に「前払い」という形で話を持ちかけた。そして、とりあえずそれは要望という形で受理された。



新たな農事法人に参加を申し出てきた亘理町の農家は、齋藤さんを含め全部で31名。

まずは15ヘクタールにトマトを作付けしてみるということで、西辻さんの考え出したモデルは動き出すことになった。





◎座礁


「半分以上、辞めたから」

それは思わぬ報告であった。組合の発足からわずか一ヶ月で、半分以上の農家が背を向けて去ってしまったというのだ。詳しく話を聞けば、辞めてしまったのは半分どころではない。残っていたのはたったの9人だけだった。



その理由は、西辻さんにも心当たりがあった。国に申請したはずの交付金の決定が先送りにされてしまったため、組合員に今年4月分の給料が払えなかったのだ。

この頃、国内、とくに被災地には国民の不満が渦巻いていた。読売新聞はこう報じている。「復興交付金、厳しい査定に不満続出。宮城、認定57%」。被災地に十分な支援が行き届かないにも関わらず、日本各所の他の地域に復興予算が使われているという問題が浮上していたのだ。



その煽りを食ってしまった西辻さんの組合計画。最初は参加を表明した人々も、こうした世論を聞いて、先行きに希望を失ってしまっていたのだ。たかが1ヶ月の未払い、しかし次の月にそれが支払われる保証などどこにもなかった。

「やむなし」と判断した西辻さんは、会社の金で国の交付金の遅れをカバーすることにした。最初の約束では自社からの出資はナシということだったが、事ここに至りては他に仕様がない。

ひとたび「絶対に逃げません。絶対に何とかしますから」と宣言していた西辻さん。自分の言葉にも背くわけにはいかなかった。



時に、希望のタネであったみんなで蒔いた菜の花は全滅していた。

枯れた原因は、冬季の強い海風。防風林を津波で失っていた土地に、それはあまりにも厳しかった。辛うじて芽を出した菜の花も、巻き上げられた砂の中に埋れてしまっていた…。



◎泣きっ面に…


悪い知らせは続く。

次は、確保していた流通先からの「前払い拒否」の通告だった。実績のない組合に先に金を渡すわけにはいかないというのが、その理由だった。

はたして、西辻さんは初期予算の1,500万円を全額建て替えざるを得なくなってしまった。



資金繰りの失敗は、組合員たちの不信を招くと同時に、京都の自社マイファームからの顰蹙(ひんしゅく)をも買うこととなった。

京都の本社に西辻さんが顔を出しても、スタッフたちは冷淡だ。「1ヶ月前はあんなんじゃなかったんですけど…」と西辻さんは悲しい顔を見せる。

「社長、もういい加減にして下さいよ」と、スタッフたちも呆れるほどに、西辻氏さんが被災地に掛かりっきりになってしまっていたのである。体験農園の数は順調に80にまで増え、いよいよ多忙となっていた。

自社の業務を疎(おろそ)かにする社長、そこに、今回の思わぬ巨額出費である。



そんな逆風のなかにあっても、亘理町の齋藤さんばかりは西辻さんを信じ続けていた。「たとえ一人になっても、オレはやんなきゃいけないから」と齋藤さんは覚悟を語る。

齋藤さんは希望を見せてくれた西辻さんに心底感謝していた。

「オレはさ、トマトやんねがったら、ブラっと何にもやんねがったがもしんね。仕事もなくてさ。テレビばっか見てたがもしんね。でもやっぱり、働くってことはいがったな(良かったな)って思ってさ」

毎朝8時になると決まってトマトの畑に通う生活に生きがいを取り戻していた齋藤さん。丹精込めたそのトマトは、小さな青い実を膨らませ始めていた。



◎曲がり角


ある日のこと、いつものように仙台空港に降り立った西辻さん。しかし、その様子がどうもおかしい。

「大変なことになりました…」と、うつむく西辻さん。組合に緊急会議の招集をかけた。



「じつは僕、マイファームをクビになってしまいました…」

呆れ果てていた創業当時の仲間から、離縁状を突きつけられていたのだ。

「その日は、僕の30歳の誕生日で、結婚記念日でもあって、非常にめでたい日であったはずなんですけれども…。まさか…」



組合設立からわずか4ヶ月。

ついに八方塞がりとなってしまった。



◎オアシス


それでも齋藤さんはトマトの世話を欠かさず続けていた。

「トマトを手がけたんだがら、あくまでも成功しなきゃうまぐねぇど思ってさ。どうなるか、やってみねど。進むべきは進んでいぎだいなと思って」

見渡せば、周りの農地は閑散としたまま、草が生えるのもおぼつかない。そんな荒涼とした中にあって、齋藤さんが欠かさず水をやってきたトマト畑ばかりは、青々とした生気を保っている。

それはカラカラの砂漠の中のオアシスのようであり、希望があふれ出る泉のようでもあった。



被災地の農家の多くは、みな諦めた。3年たっても塩が抜けるとは限らない。そして、西辻さんの組合に最初は賛同した人々も、その多くが今はいない…。

それでも希望を捨てなかったのは西辻さんその人、そして、齋藤さんをはじめとする心ある有志たちであった。

彼らの潤いある心には、ちゃんと見えていたのかもしれない。植えたトマトが赤々と実る姿が…、そして、その先にある甘いイチゴの姿が…。



◎収穫


トマトがいよいよ収穫期を迎えた今年9月。

仙台空港にはふたたび西辻さんの姿が戻ってきた。以前と変わっていたのは、彼の坊主頭だ。心機一転、生まれ変わったような姿になっている。

会社からはスタッフの一員として会社に残ることが許され、月一回だけという約束で、ふたたび齋藤さんたちのサポートを続けることができるようになったのである。



トマト畑には、予想以上にたくさんの人々が手伝いに来ていた。町のイチゴ団地のスタートが延期となっていたため、かつての農家仲間たちも収穫の手伝いに来てくれていたのだ。

道路には何台ものトラック、畑には収穫用のコンテナがそこらここらに多数並べられ、トマト畑は収穫の活況に湧いていた。



「僕も作業入りますよ」と腕まくりする西辻さん。

その坊主頭を見た齋藤さんは帽子を渡す。「頭暑いからさ。帽子ねえどダメかなと思って。もし、あれなどぎ、タオルかぶってな」。

西辻さんは必死になってトマトをもぎ続ける。「僕だけみんなより、少しでもたくさん採らないきゃいけないと切に思ってる人ですから」。

そんな西辻さんの姿に齋藤さんは苦笑い。「そんなちっちゃなトマトまでいらねって。ゴルフボールより大っきいやつしかいらねの。オレが監督してねどな(笑)」。

そんなやり取りに周りのみんなもつられて笑う。



その畑には、かつてあった平和な光景が戻って来ていた。

まわりの農地が黒い土を露呈したままで、イチゴ団地の計画も先延ばしになってしまった今、このトマト畑ばかりがひとり、復興の狼煙を高らかと上げていた。



◎凍み大根


「オレ、大根も考えてたの」と齋藤さんは、西辻さんに話しかける。「冬の寒い時に、ハウスのなかで凍み大根つくって売るのさ。冬の仕事っていうので」

「あぁ、いいですね。しましょっか、凍み大根」と西辻さん。



自分の会社を失いかけても亘理町のサポートを続けてきた西辻さんは、「凍み大根」を切り出してきた齋藤さんの言葉に、成功の一端を感じていた。

西辻さんは悩んでいたのだ。「僕にとって、何がここの成功なんやろ…?」



子どもの頃に感じた耕作放棄地への疑問、それは「諦め」への問いかけであった。

そして、その問いは大津波をかぶってしまった農地を舐めてみたときにも、ふたたび彼に問いかけてきた。「ここで諦めていいのか?」。



人が絶望し諦めるのは、そこに希望の光を見出せなくなったとき。

その諦めの地に、たとえ小さな一灯でも希望を灯すことができれば…。



◎10年後の未来


「凍み大根」の話は、明らかに希望の灯が未来を照らし出した証拠。

今までは作物の栽培さえ考えられていなかった土地にトマトが実ったことで、「次は大根を植えよう」という気持ちを持てるようにまでなったのだ。



「未来の話をしてるなぁ、と思いました」と西辻さん。「まだ何の成果も出ていないですけど、その芽は出てきたのかもしれません」。

何もかもがなくなってしまった畑から生まれた、未来への芽。

まだまだ逆風が冷たい中、いよいよ「10年後の未来」が始まろうとしているのかもしれない…。






「…東に病気の子供あれば、行って看病してやり、西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い、南に死にそうな人あれば、行って『こわがらなくてもいい』と言い…

…日照りの時は涙を流し、寒さの夏はオロオロ歩き…

…褒められもせず、苦にもされず…

…そういうものに、私はなりたい(宮澤賢治)」







関連記事:
世界に広がる「日本のコメ」。田牧一郎氏の開拓魂。

風評被害をどう受け止めるのか? 10年後の東北を見据える星野佳路氏とともに。

世界の「農地」は奪い合うしかないのだろうか。



出典:ETV特集
「被災農家を救え 若きビジネスマンが挑んだ農業再生550日」

posted by 四代目 at 08:41| Comment(2) | 農業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月16日

金次郎の目に映る「円い世界」。二宮尊徳


「農民に『学問』は必要ない!」

と怒鳴られ、行灯(あんどん)の火を吹き消された金次郎。

その伯父は、「行灯の油がもったいない」と言うのである。



14歳で父を、16歳で母を亡くした金次郎は、一家離散。やむなく伯父の元に身を預けられていた。かように肩身の狭い金治郎、学問など決して許される環境ではなかった。

彼はのちの「二宮尊徳」。小学校の校庭などで、薪を背負って本を読んでいる、あの銅像の人物である。





◎油つくり


一家が寝静まった頃、ひとりで本を読むのが金次郎のかすかな楽しみの一つであった。ようやく手に入れた書「大学(孔子)」を蛍の光で読むこともあったという。

だが、伯父が「やめろ」というなら仕方がない。「油がもったいない」という伯父にも一理ある。



「それなら、油をつくろう」

あくまで前向きな金次郎、さっそく友だちから貰った「菜種」を川の土手に植えると、その翌年には金色の花がキレイに咲き並ぶ。そして、袋にいっぱいの菜種が収穫できた。

近所の油屋さんは、それを「菜種油」と交換してくれた。



しかし、それでも伯父は一向に喜ばない。「いいから、もっと働け」と膠(にべ)もない。

それならばと、金次郎は山仕事の行き帰りに本を読むことにした。かの有名な「薪を背負って本を読む金治郎」の誕生である。



◎天然の学者


のちの二宮尊徳は、こんなことを書いている。「大道は『水』のようなものであり、滞ることが決してない。しかし、その大道を『書物』にしてしまうと、水が凍った『氷』のようになってしまい、それは少しも世の潤いとならない」。

かの銅像のせいか、二宮尊徳は読書の権化とも思われがちだが、彼は「書の限界」も十分に心得ていたのである。書物から離れ、大自然の中で菜種を育てた金次郎は、天地自然の妙に魅了されつつあった。



そんな金次郎は、近所のお百姓さんが捨てた「稲の苗」を拾って、それを家の近くに植えてみた。するとどうだろう、秋には二俵(120kg)もの大収穫を得ることができた。

「わずかの苗が、これほどの富をもたらすとは…」

天地自然の理は、完全に金次郎を虜(とりこ)にしてしまった。書を飛び出した彼にとっての新しい師匠は、この大自然となったのだ。



剣持広吉という和漢の学問に通じていた豪農は、こんなことを日記に記している。「私は多くの書物を読んで学習してきた。しかし、自然から学んでいる尊徳先生には、とうてい敵うべくもない」と。

剣持は自らを「稽古した学者」、そして金次郎尊徳を「天然の学者」と書いている。



◎人道は自然ではない


かくして天地自然は金次郎の師となった。以後、彼はどの思想学派にも属することがなかったという。

天地自然が御師匠様といえども、金治郎は決して従順なばかりの弟子ではなかったようだ。「天道と人道とは同じではない。天道は自然であって、人道は自然ではないのだ」とは彼の言葉である。

すなわち、金次郎は人道を自然のままに放任することを良しとしなかった。人が生きていく道は、自然のままの道とは異なるのである。



自然のままに任せておけば、「家屋は壊れ、衣服は破れ、溝や堀は埋まり、堤防は崩れる」。これでは人が生きていくことは適わない。

「人は五穀を食うために田畑をつくり、雨露をしのぐために家屋をつくり、寒暑を防ぐために衣服をつくる。田畑に水を引くために溝や堀をつくり、水害を除くために堤防をつくるのである」



自然の為すこと、そして人の為すことには、明らかな違いがある。自然はときに人道を塞いでしまう。それゆえ、人間は自然に「ひれ伏すわけにはいかない」、というのである。

かといって、傲慢に自然を屈服させようとするわけではない。あくまでも自然と「対等な立場」に立ち、自然とやりとりをしていく。こうした関わりの中にこそ、「自然を活かす道」があるのだと、金次郎は考えた。

自然は人間を「生かす」。そして、人間は自然を「活かす」のである。



◎「分度」を超していた服部家


伯父の元に身を寄せてから8年、24歳となっていた金次郎は亡父が手放さざるを得なかった土地のほどんどを買い戻し、さらには買い増しまでして見事に「二宮家」を復興してしまっていた。

その手腕を買われた金次郎、32歳の時に服部家の財政立て直しを依頼される。この服部家というのは1200石という大家であったが、実際の収入は400俵足らず、名目の3分の1程度に過ぎなかった。それでも依然として1200石の家計を続けていた服部家。その行く先は窮乏への道であった。



金次郎の頭には「分度」という基本があった。

この分度というのは、身の程に応じた生活を送るという意味で、自分の置かれた立場や状況をわきまえるということである。「貧富の違いは、分度を守るか失うかいよる」と彼はいう。



服部家に関していえば、この家は完全に「分度」を失っていた。実収入の4倍もの暮らしが持続できるわけはない。

さっそく「分度」を守らせようとした金治郎、借金の返済計画を5年と定め、毎年の予算を厳しく切り詰めた。この計画は予想以上の成果を上げ、服部家の借財は一年前倒しの4年で完済。それどころか、逆に300両もの余剰が生まれていた。



感に耐えかねた服部家は、この余剰分300両のうち、じつに100両をも金次郎へと差し出した。ところが金次郎、これを服部家の使用人たちに分け与えてしまう。

ここには彼の「推譲」という思想が見てとれる。節約して余った分を、家族や子孫のために蓄えることを「自譲」、他人や社会のために譲ることを「他譲」。これがより良い社会への道だと、彼は考えていたのである。



◎つまづき


さあ、いよいよ名の上がった金次郎、今度は小田原藩主・大久保忠真公の目に止まる。そして、命じられたのが下野国・桜町領の復興であった。

この時、金次郎35歳。ところが残念ながら、彼はこの地で大いにつまづくことになる。ここの誇り高き武士たちは、もともと「水のみ百姓」であった金次郎をバカにしてはばからない。その嫌がらせや妨害には目に余るものがあった。



7年目のある日、金次郎は突然、行くえをくらます。家族にも弟子にも何も告げずに…。

消えた金次郎、フラフラとさまよっていると、ある農村での熱烈な不動明信仰に出会う。そこに何か思うところでもあったのであろう。彼はその足で、成田山新勝寺(下総国)へと入り、そのまま21日間という過酷な断食の行に入る。



◎一円


断食から明けた金次郎。「一円」という悟りに至っていた。

人間は善か悪か、美か醜か、真か偽かの「半円」しか見ていない。それは虹の半分しか見えないことと同じだ。本当の虹は「円」の形をしているというのに…。



たとえば、夏の寒さは稲などには甚大なる被害を及ぼす。しかしその一方で、夏の寒さを利用して旺盛に育つ雑穀もある。夏の暑さを「悪」と決めつけることは、稲の側から見た「半円」にすぎない。反対側の雑穀の立場からも眺めてみて初めて、それは完全な「一円」となり得るのである。

「見渡せば、敵も味方もなかりけり
おのれおのれが心にぞある」



この成田山参籠以降、金次郎の村おこしは一変する。

自分に反対する武士や農民たちにも「一理」ある。それに反じてばかりでは、彼らを活かすことはできない。彼らの立場から見える景色を一緒に見てこそ、彼らを活かす道が見えてくるはずだ。



「一円」の悟りを得た金次郎、二宮尊徳はその一生涯において、600もの村々を復興するという偉業を成すことになる。

この偉業は己自身の力にのみ頼んでいては成し得なかったであろう。己自身の力は結局「半円」に過ぎぬのだから…。村人たち一人一人が立ち上がってこそ、その半円は「一円」と成り得るのである。





◎秋ナスの味


ある日、「ナス」を食べていた金次郎は、「んっ?」と顔をしかめる。「これは秋ナスの味だ…」。季節はまだ夏前。明らかに何かがおかしい。

「今年は冷夏か?」と思い至った金次郎は急遽、村人たちに稲の代わりに「ヒエ」を植えることを指示する。村人たちは半信半疑。金にならぬヒエなど植えたくない。

それでも金次郎は譲らない。もし冷夏が襲えば、稲などひとたまりもない。冷夏にあっても実るのは、寒さに強い雑穀・ヒエをおいて他にはないのだ。



かくしてその夏、金次郎の懸念は的中し、日本全土は前例のないほどの冷夏に襲われる。天保の大飢饉のはじまりである。

この大凶作にあっても、金次郎の取り仕切っていた桜町ばかりは餓死者が出なかったという。稲の代わりにヒエをあらかじめ植えさせていたこと、それに加えて、普段から一人当たりヒエ5俵を蓄えさせておいたことが、見事に奏功したのである。



◎限りある貧困、無限の実り


金次郎は貧乏を嘆く農民たちに、こんなことを言って励ました。

「貧困にはしょせん『限り』がある。貧困が無限に続くことなどない。むしろ『無限』なのは実りのほうである。一粒のタネから一つの実りしか得られないことなどなく、実りは必ず倍々で増えていくのだから」



「貧しさが無限だと思うのは、妄想にすぎない」といって村人を鼓舞したという金次郎。実りを得るために必要なのは、一粒のタネをまくことだと説いたのだ。

「一粒のタネをまく」という小さな一事、これをひたすら積み重ねることで、やがては大きな収穫を迎えることができる。この「積小至大」、小さきを積みて大い至る、というのは金次郎の教えである。



そのタネを実際の田畑に植えることはもちろん、自らの心の田んぼ「心田」にも植えよと金次郎はいう。

村人たちの心に希望の芽が出てこそ、その村は立ち直ることができるのだと彼は考え、それを実践していった。その信念のもと、金次郎は日本の村々に「希望のタネ」をまき続けたのである。

そして、600村にも及ぶ奇跡的な復興は、その大いなる収穫だったのだ。



◎悲願


金次郎、最期の大仕事となったのは「日光の復興」であった。

天明の大飢饉以来、この地はすっかり廃れ、離散する農民たちは後を絶たなかった。荒れ果てたとはいえ、日光は徳川家康を祀る神領。この地の復興は徳川将軍家の威光がかかった悲願でもあったのだ。



金次郎の齢(よわい)、すでに58。高齢と過労は彼の肉体を蝕みつつあり、体調は崩れ気味であった。それでも、彼は杖を片手に日光89カ所、新田2カ所を自らの足で隈なく見て回った。それには3年もの月日を要した。

その苦心の結晶が「日光仕法雛形(全64冊)」であり、幕府に提出されることとなる。しかしどういうわけか、幕府の腰は重く、この仕法の着手が命じられた時には金次郎、すでに67歳になっていた。



金次郎は自らに残された時間が少ないことを悟っていたのかもしれない。周囲もそれを察していた。日光の奉行は「籠で回られては…」と気を回すも、金次郎は杖をついて自力で歩き、指示を飛ばして回った。

のちの内村鑑三は「尊徳は真の独立の人」と賞している。



まずは農業用水となる水を引き、荒れ地をたちまち農地に変えた。そして、村人たちには5両、10両という「報奨金」を与えながら、村人たち自身の行動を促していった。

「今の日光には1000町歩の耕地がある。たとえ痩せているとはいえ、一反で4俵の米をつくれば、4万石もの米がとれる。開墾をすればさらに増える」

「無限の実り」を信じる金次郎は、力強く村人たちを励まし続けた。



しかし、その時が訪れるのは思ったよりも早かった…。

享年70歳、金次郎が天に召されたのは、この大仕事に着手してわずか2年後の秋のことであった…。



◎遺訓


金次郎の遺した「報徳訓」には、こんな一節がある。

今年の衣食は昨年の産業にあり(今年衣食住昨年産業)
来年の衣食は今年の艱難にあり(来年衣食在今年艱難)



富者は「明日のために今日つとめ、来年のために今年つとめる」。それに反して、貧者は「昨日のために今日つとめ、昨年のために今年つとめる」。

「今日のものを明日に譲り、今年のものを来年に譲るということを努めない者は、人であって人ではない。宵越しの銭を持たぬというのは、人道ではない」とも彼は記す。



さらに言う。「富んだ者がその分度を守って余財を推し(推譲)、これを貧しい者に及ぼしたなら、天の気が下にはたらき、地の気が上へはたらき、両々相まって世の中は豊かになる」。

天地自然を師とし、死ぬまで田畑に立ち続けた二宮尊徳の言葉は重い。



◎半円


戦後、二宮尊徳は戦時中の軍国主義高揚に利用されたという理由から、人々の記憶から消されていくこととなる。それは楠木正成と同様の運命であった。

人々の脳裏から二宮尊徳が消えていくにしたがって、その思想も忘れられていくことになる。それゆえか、今の世の中はかつての服部家のように「分度」を忘れ、さらには「一円」という考え方をも欠いてしまったかのようにも思える。



本来の虹は「円(まる)い」はず。それを半円にしか見れないのは人間の性(さが)であるかもしれない。しかしそれでも、我々は見えない「もう半分」を想像することができる。

禅の言葉に「担板漢(たんぱんかん)」というのがある。板を担いだ漢(おとこ)の視界は、その半分が担いだ板で遮られているため、物事の「反面」しか見えないことを意味している。見える方の片側に山ばかりを見ていると、その反対側の実りには一向に気づけない。



冷夏の裏には何があったのか。戦争の裏には何があったのか。

無限であるものは、何なのか?



目に見える半円には、妄想ばかりが映りがちである。

きっと、金次郎の心にかかる七色の虹は、きれいな真ん丸だったのであろう。

まるでそれは、後光のように…。







関連記事:
「種をまく」とはどういうことか? 人類が大地に種をまいた時。

世界の「農地」は奪い合うしかないのだろうか。

なぜそこまでして「種」を受け継いできたのか? 山形の伝統カブに想う。



出典:
致知2012年10月号「心田を耕すことから全ては始まる 〜二宮金治郎に学ぶ生き方〜」
農の哲人二宮金次郎伝を読む
posted by 四代目 at 08:03| Comment(0) | 農業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月12日

世界に広がる「日本のコメ」。田牧一郎氏の開拓魂。


飛行機で水田にタネをまく。

アメリカの米作りは、そんな壮大なものだった。

「すごいな…、とことん平らで、とにかく広い」



今から23年前の1989年、当時36歳だった田牧一郎氏は、小さな日本の田んぼを蹴って、まさに大海原へと飛び出した。

アメリカ、カリフォルニア州、ここの80ヘクタールという広大な田んぼで米をつくる(日本の水田平均の40倍)。それは心躍るチャレンジであった。

「世界に通用する米作りをしたい」。そんな希望に胸が高鳴っていた。



◎予想通り


「あっ、やっぱり売れたな」

田牧氏がカリフォルニアで育てた米は、彼の予想通り、あっという間に世界に広まった。その理由は、単純に「美味しかった」からだ。



田牧氏は、美味しさの違いが米の中の「水分量」にあることを見切っていた。たとえば、アメリカの一般的な米の水分量は、籾で20%、玄米で13%と日本の米(籾25%、玄米15%)に比べて幾分低い。この数%の差が「決定的な美味しさの違い」になると確信していたのである。

そして、それはその通りだった。理想の水分含有量を実現させるため、田牧氏は独自の乾燥・精米会社までつくった結果、独自のブランド米(田牧米)は、アメリカのみならず、遠くアジアやヨーロッパにまで売れていったのだ。



「幸か不幸か、日本の乾燥・精米技術というのは、世界一進んでいます。というか、日本にしかその技術はないんです」

田牧氏が特にこだわったのは、食味に大きく影響する「米を磨く」最終過程。これには、どうしても日本製の機械が必要だった。日本メーカーの優れた精米機は、米を磨いても温度が上がらず、割れたり、食味が損なわれたりすることが少なかったのである。





◎コシヒカリの壁



渡米5年目、さらに美味しいコメを目指した田牧氏。日本の「コシヒカリ」の栽培に挑戦することに。

今までアメリカで田牧氏が作っていたのは「中粒種」、いわゆるカリフォルニア米というコメで、これはアメリカに住む日本人や、アジア系の人々向けにアメリカが開発したお米だった。

それに対して、コシヒカリという日本を代表する品種は「短粒種」と呼ばれ、丸っこい形がその特徴である。



アメリカでのコシヒカリの栽培、これは予想以上の困難を極めた。その最大の問題は、「カリフォルニアの土」にあった。

「ほら、岩石みたいにカチッカチでしょ」

コシヒカリの根っこは細く、その量も少ない。そんな繊細な根っこでは、カリフォルニア独特の硬い土の上に育つことができなかったのだ。



「これはコシヒカリなんて言えるものじゃない…」

何とか育ったコシヒカリも、その食味は理想とは程遠い。

「普通にやってちゃダメだなっていうことだけは、ハッキリしました」



◎日本の知恵と技術


コシヒカリの壁に阻まれた田牧氏。その壁を越えるには、米作りの基礎となる「土づくり」を一から始めなければならなくなった。

福島でコメ農家をしていた田牧氏は、日本でやっていた土づくりを、このアメリカの地でもやり始めた。マメ科の植物を植えて、空気中の窒素(米の栄養)を土中に取り込んだり、その植物を田んぼに鋤き込んで、土の目を細かくしていったり…。また、水管理なども徹底して行った。



そうした日本の農家の技術を持っていた田牧氏を見て、ともに働くアメリカ人たちは驚き、感心していた。

「日本の農家の皆さんは、我々よりもずっと高度な技術でコメを作っていたんですね。日本の美味しいコメは、根を張らせるのも、収穫するのも、アメリカのコメよりもずっと難しいです」



田牧氏自身も、日本の米作りの技術の確かさを再確認していた。

「こういう技術って数年で身につくようなものではないのです。今までの経験なり、知識なりがずっとあるわけですから」

日本の田んぼには、優れた先人たちの知恵と技術がすでに「土」という形で結晶化している。だからこそ、美味しいお米が易々とつくれてしまうのである。

一方のアメリカの田んぼには、全くといっていいほどその蓄積がない。まさにゼロからのスタート。そんな状況に置かれた田牧氏は、当たり前のようにコシヒカリが実る日本の米作りに「誇り」を感じずにはいられなかったという。



◎新たな限界


試行錯誤の末、アメリカの田牧氏の田んぼにも、念願のコシヒカリ(改良種)が実った。ついに、「日本のコメ」の世界進出である。

小さな日本の農業から飛び出した田牧氏は、その日本の高い技術と深い知恵を、確実に世界に伝えることに成功していた。



ところが近年、田牧氏は「ある限界」を感じていた。それはコストの問題であった。

「カリフォルニアでずっとやってたわけなんですが、水代や地代などのコストがどんどん上がっている。その結果、お客様が『そんな値段では買えない』といって、もっと安いコメに移ってしまいました」



田牧氏のポリシーは、「美味しいお米を、たくさんの人に食べてもらいたい」という一念である。それなのに、値段を上げざるを得ず、お客様は「格落ち」のコメへと流れてしまう。

「これでは面白くない」



20数年前に、日本の農業に限界を感じたように、田牧氏はアメリカでの米作りにも明らかな限界に突き当たった。

そして、かつて日本を飛び出したように、ふたたび彼はアメリカの地を蹴っていた。





◎新天地


「開拓者としての血が、ウルグアイで高品質なコメをつくれと、私に命じたんです」

ウルグアイ? どこだ? それは日本から見てまったく「地球の裏側」であった。赤道も越えているために、季節もまったく逆の南半球である。

ブラジルの下にこじんまりと位置するウルグアイの面積は、日本の半分程度。その人口となると300万人ほどしか住んでいない(日本の40分の1)。



なぜ、ウルグアイ?

「季節が逆だという、それだけの話。日本とは『緯度』がほとんど一緒なんです」

日本とウルグアイは緯度にして、ともに赤道から35°ほど離れたところに位置する。北緯、南緯の違いはあれど、赤道からの距離(緯度)が同じということは、日照時間が同じということ。

「稲が作れるかどうかは、緯度に影響されます。緯度が同じようなものであれば、同じような稲がつくれるのです」



◎地球の裏側で実ったコシヒカリ


そのウルグアイで挑戦するのも、日本の美味しいお米、コシヒカリ(改良品種)。去年11月、試験的に植えた15ヘクタールの稲は、今年4月に刈り取りが終わっていた。北半球では「秋」に実る稲も、南半球では季節が真逆、「春」に稲穂が実る。

「春に『新米』が食べれてしまう。北半球と南半球の両方でやっていると、半年に一度ずつ新米が食べられるんです」



そう言いながら、フォークを片手に早速の試食。

「うまいですね。大丈夫です。新米の甘みもあるし、香りもちゃんとある」

見事、及第点。ふと見ると、コメを炊いた炊飯器は日本製だ。

「お釜は日本から持って来ました。日本のコメが世界進出するということは、炊飯器も一緒です。一緒に出てもらわないと、美味しいお米が美味しく食べられません」と田牧氏。



実は、このウルグアイ、米作りはずっと以前から盛んであった。作られる米は「長粒種」というタイ米のように細長いものであるが、その輸出量は世界第7位。同国の国民は300万人ほどしかいないわけだが、その生産力はその10倍、およそ3000万人を養えるほどに高い。

そのため、ウルグアイにはすでに米の生産・輸出にかかわるインフラが整っている。これは世界を相手にする田牧氏にとって、大きなメリットだ。





◎安い輸送費


田牧氏のウルグアイの米が実ったとの情報を聞きつけ、さっそく台湾からはるばるバイヤーがやってきた。「もし、味が良ければ、台湾のコンビニに売りたい」との話である。

田んぼを一目見たあと、さっそくの試食。開口一番、「買います」。「ほんとうに美味しいです。決めた。買います。美味しい」

来年春にとれる米を即決で予約した台湾のバイヤー、まずは200トン。おにぎりにして400万個分である。売り出しのキャッチフレーズは、「地球の裏側から届いた春の新米」。期間限定でのスペシャルおにぎり。



ところで、「輸送費」に問題はないのだろうか。日本同様、台湾も地球を半周しなければ、ウルグアイにはたどり着かない。

「ウルグアイから台湾に輸送する費用は、日本から台湾に輸送する費用とそれほど大きく変わりません」



なんと、目と鼻の先にある日本と輸送費が変わらない? なぜ?

「台湾や中国からウルグアイには、たくさんのモノが入ってきます。でも、ウルグアイから出ていくモノが少ない。それでもコンテナは戻さないといけない。最悪、空っぽでも。それを防ぐために、とにかく安い料金で何でもいいから運んでくれるんです」

その結果、20フィート(6m)サイズの巨大コンテナが、わずか300ドル(2万4,000円)程度で、地球を半周できるのである。



◎安い生産コストと関税


次にウルグアイの田んぼに来たのは、日本人業者。アメリカを拠点に、日本の食材の販売や輸出を手がける日系専門商社であった。

「南米や中南米にもっと日本食を普及させたい」と語る榎本社長。その最初のマテリアルとしては「コメが一番大事」なのだそうである。美味しいコメがあって初めて、日本食の魅力が伝わるのだ、と。田牧氏がウルグアイでつくる美味しいお米、これこそが最高の「切り札」となるのである。



「陸路で行けちゃうわけだな」

榎本社長が狙うのはブラジルの巨大市場。それはウルグアイと国境を接する地続きの狩り場なのである。しかも、ブラジル・ウルグアイ間には「自由貿易協定」があるため、高い関税なしにブラジルに出荷できる。



田牧氏がウルグアイでつくるコメは、ただでさえ生産コストが抑えられている。

日本の大規模農家(15ヘクタール以上)がどれほど経費を節減しても、10アール当たりの生産費用は約7万5,000円にまでなってしまうが、田牧氏のウルグアイの田んぼでは、それが80%offのおよそ1万6,000円にまで抑えられている。

日本では苗を育てて田植えをする方法が一般的だが、田牧さんは水もはらない乾いた田んぼに直接タネをまいて栽培する。こうした徹底的な作業の簡素化、コスト低減は、アメリカで鍛え抜いた田牧氏にとっては、お手のものであったのだ。



安くつくれ、安く輸出できる。そして、ブラジルの巨大市場は目の前だ。

「ブラジルを筆頭とする中南米市場に日本のコメを広げるのは、これからの世界。この地域に日本食が普及していくのは、これまでの欧米と同様、かなり確かなことです」

日本人業者、榎本社長の目は、はるか遠い未来を確実に見据えていた。





◎研究者たちの夢


次の来訪者は毛色が変わって、大学教授。

名古屋大学でコメの品種改良を研究する北野英己教授。彼は開発中の新しい品種を田牧氏のウルグアイの田んぼで試験栽培してもらっていたのである。今回試したのは「収量アップ」を目指したコシヒカリなどの改良品種30種。

その試験結果は、病気で全滅したものもあれば、期待以上にたわわな実りを見せたものなど様々。それでも、「可能性は高い」と断言する北野教授。彼はウルグアイの広大な大地と可能性にすっかり魅了されていた。

「いやぁ、すごい感激です。このスケール。360°どこにも山がない。見渡す限りの水田というのは、日本にはないですよね。実際に来てみないと、この感覚はわからないですねぇ」



ウルグアイの開放感は、北野教授の心をおおいに解放してくれた。というのも、彼は「隣りの水田と相談しながら、小じんまりと作る日本の田んぼ」に窮屈さを感じていたからだ。かつての若き田牧氏のように…。

技術的には「収量を2倍にする」という新品種の可能性も夢物語ではないのだが、それは日本では求められていない。むしろそんな研究は厄介者扱いされてしまう。なぜなら、「お米が余っているのに、そんなに取れたら困る」というのである。米価が下がり、農家がますます苦しむ、というのである。

これでは、北野教授自身のヤル気、そして、今一生懸命に勉強している後続の若手たちの夢までも奪ってしまう。



一転、世界に目を向ければ、世界中の国が食糧が足りなくて困っている。日本のように「とれすぎて困る国」など、ほかのどこにもない。

「国境を外せば、やることはまだまだ一杯あるわけです」

そう語る北野教授は、ウルグアイの壮大な田んぼを眺めながら、見果てぬ夢を見ていた。





◎由々しき問題


じつは田牧氏、去年から日本に帰ってきていた。

ウルグアイを訪れるのは月一回、作業のほとんどを現地の人々に任せていた。また、アメリカの精米会社もたまに訪れる程度、アドバイザー的な立場になっていた。



久しぶりに日本に暮らしてみた田牧氏。離れていた日本に、意外な変化が起きていたことに驚いた。なんと、日本のコメが不味くなっていたのである。美味しいお米のお膝元であるはずの日本のコメが…。

とりわけ、ファストフードやコンビニのお米は深刻だった。コメの良し悪しを判断するには、「醤油の中で、ご飯をバラバラにしてみるのがよい」という田牧氏。それを実演してくれる。

「これは良くないですね。『割れ』がかなりたくさんあります。割れた米を炊くと、そこからデンプンが出て、ベタベタしてしまうのです」



日本で食べられているコメの水準が下がっている。これは「由々しき問題」であった。

「美味しいお米のスタンダード(基準)は、キチンと維持しなければなりません。それが下がって、コンビニなどのご飯が普通になってしまうと、日本人のコメの味覚も変わってしまいます。これは非常に怖い」



世界を舞台にする田牧氏にとって、日本国内でのスタンダードが高い水準に保たれているのは、日本のコメが世界に羽ばたくための「絶対条件」である。

「これから世界に広げていこうというのに、基の部分がしっかりしていないと、なかなか広がらなくなってしまいます」

非常に困った、非常な危機感を持つべきだ、コンビニ飯を醤油の中でバラしながら、田牧氏の表情は曇っていた。





◎中南米に認められる美味しさ


ふたたびウルグアイに飛んだ田牧氏。夜7時から、日本大使主催の盛大なコメの試食会が開かれる予定である。

この日のために来てもらっていたのは、ロサンジェルスを代表する寿司職人、小野寺盛浩氏。彼は田牧米を高く評価する。「お寿司の決め手は、やはり美味しいコメ。お寿司の美味しさは、コメが70%、魚が20%、自分の腕は10%だと思っています」



寿司職人、小野寺氏が握り始めると、各国から招待されたセレブたちの目は、その姿に釘付けとなる。そして、予想以上の人気。

「みなさん、生魚をあまり食べない人たちだとのインフォメーションがあったんですが…」

用意したご飯はすぐに足りなくなり、急いで追加のご飯を炊くほどの盛況ぶりで。



「Let me try(いただいてみるわ)」と言って、お箸をグーに握ったまま器用にお寿司を口に運ぶ御婦人。彼女はウルグアイに駐在しているパナマ共和国の大使である。

「Sweet, good(甘くて、美味しいわ)」と大満足の彼女。さっそく田牧氏に相談を持ちかける。「パナマでも、この美味しいお米をつくってみたい」というのである。

「タネを紹介し、コメの育て方も教えますよ」と田牧氏。

「じゃあ、私たちの国でもお願いしますわ」とパナマ大使。



田牧氏がウルグアイでつくっている美味しいコシヒカリは、確実にその根を中南米に伸ばしつつあった。



◎新販路の開拓


今度はアメリカに飛んだ田牧氏。

アドバイザーをしているアメリカの精米会社で、食味テストをしなければならない。アメリカ人スタッフは、水分量など検査などのデータ的なことはうまくこなせるが、感覚的な味となるとよく分からない。

一人のスタッフは、こう語る。「アメリカ人はコメをあまり食べないので、良いコメとは何か? よく分からないんです。ですから、田牧さんにコメの理想的な香りや味について教えてもらうんです」

アメリカのスーパーなどにも日本米は並ぶようになった。寿司などのレストランも普及している。それでも、まだ日本人の助けは必要とされている。その生産から精米、流通の過程では、何らかの形で日本人が関わり、その品質と味が維持されているのだという。



田牧氏が次に向かった先は、ロサンゼルスのフランス料理店。新たな販路の開拓である。

「もうすでに、寿司という食べ方は世界に定着しています。じゃあ、次は何か? 今まで短粒種(日本タイプの米)があまり使われていなかった世界、そこに入っていくことで、限りない将来性が見えてくるのではないか、と」



一流のフレンチ・シェフは、田牧氏のコメを「リゾット」に。その味見をしたシェフは興奮を隠しきれない。

「まるでクリーム・リゾットだよ。クリームなんて入れていないのに…」



そのリゾットを試食するのは、料理雑誌の記者やイタリアンのシェフ、そのほか多くのグルメたち。もちろん、そのリゾットは大好評。

試しに、炊き立ての白いご飯も出してみる。ところが、その反応はまちまち。全部平らげる人、一口だけで箸を置いてしまう人…。やはり、コメ自体の美味しさというのは、よく分からないらしい。



◎国家の安全保障


ウルグアイで大使を務める佐久間健一氏は、こんなことを言っていた。

「地球の裏側でコメをつくるということは、日本の食の『安全保障』にとっても極めて重要です」

大使としての佐久間氏が考えるのは、「いざという時」。もし、日本の農業が衰退したら、もし、気候変動でコメを輸入しなければならなくなったら…。

「いざという時に、日本に安定的に食糧を供給することを考えた場合、外国に拠点を置いて、農産物を供給する日本企業が存在するのは、非常に重要なのです」

国を守ることは、食を守ること。そして、食を守ることは、日本の伝統を守ることでもある。国境という枠にとらわれずに…。





◎瑞穂の国、ニッポン


若き日の田牧氏は、日本農業の閉塞感を打破せんと、海外に飛び出した。

そして、海外での経験を積むにつれ、日本の農業が持っていた高い技術や深い知恵のありがたさも痛感した。

なにより、お米の本当の美味しさを分かるのは日本国民をおいて、他にはいないのだ。



そして今、世界は日本のコメの美味しさに気づき始めている。これは、四半世紀にもわたる田牧氏の偉大なる功績でもある。

しかし今、日本の農業は長引く閉塞感から、自らの重みに耐えかねているようでもある。美味しいお米の値段は上がり、国民の食する米は、徐々に「格落ち」しつつある。



先見の明のあった田牧氏は、アメリカで効率的な栽培、そして高い精米技術を駆使して、「安くて美味しいお米」を実現した。しかし、それもコストの高騰の波には逆らえなかった。

そして、向かった新たな新天地、ウルグアイ。ここでは、アメリカ流の効率性、そして日本流の美味しいお米が見事に融合、昇華。ふたたび「安くて美味しいお米」が世界に広がりつつある。



「瑞穂の国」と称されたニッポン。

その技術と志は今、世界へ新たな恵みをもたらそうとしている。

時と場所を越えて、国境を越えて、その夢は果てしなく広がろうとしている。



日本の国境のカベが、その行く手を阻むのであれば、その外で日本の美味しいコメをつくってしまえばいい。

自分の立ち位置を、その時に最善な場所に置き換える田牧氏。彼の行く先には、いつも希望があふれ出てくる。そして、その魅力に引かれて、多くの人々が集ってくる。

いかに場所を変えようとも、田牧氏の志は微塵も揺るがない。御年まもなく60。四半世紀にわたり彼の開拓した道は、確実に未来へとつながっている。







関連記事:
なぜそこまでして「種」を受け継いできたのか? 山形の伝統カブに想う。

世界一の棚田(中国)に残るアジア民族の壮健な心身。

世界の「農地」は奪い合うしかないのだろうか。



出典:
NHK ETV特集 「地球の裏側で”コシヒカリ”が実る」

posted by 四代目 at 08:33| Comment(5) | 農業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月16日

世界の「農地」は奪い合うしかないのだろうか。


ヨーロッパとロシアの狭間に位置する「ウクライナ」という国家は、ポーランド王国の支配下に置かれた16世紀以来、「ヨーロッパの穀倉地帯」とされてきた。

ウクライナの国土のほとんどは、平原や草原、高原といった比較的ゆるやかな地形であり、山脈というほどの山脈は少ない(最高峰ですら2000m程度)。

また、国土のほぼ中央を両断して黒海へと注ぐドニエプル川、ルーマニアの国境ともなっているドナウ川のデルタ地帯など、肥沃な大地の生まれる条件が十分にそろっている。



しかしながら、ウクライナが1922年にソビエト連邦の一員となってからは、不幸な出来事が相次いだ。

まずは、ソ連による稚拙な「農業の集団化」政策が、ウクライナに2度の大飢饉を引き起こし、400万から1000万もの人々が亡くなっている(1932年の大飢饉は、ジェノサイドであると正式認定された)。



肥沃な大地を有しているはずのウクライナではあったが、ソ連邦時代の農民たちは収穫の大部分を搾取され続け、1970年代までは社会保障すら受けられずにいたのである。

そして、悪名高きチェルノブイリの原発事故(1986)。30年以上たってなお、この傷跡は未だ癒えることがないのは周知のことであろう。



ウクライナを襲った悲劇は、「人為」による悲しい歴史である。

しかし、それでもその大地が肥沃であることに変わりはなかった。黒土と呼ばれる芳醇な農地の生産力は極めて高く、今なおウクライナは世界有数の穀倉地帯であり続けているのである。

小麦やトウモロコシの畑がどこまでも続くウクライナの大地、さらに未開発の土地もまだまだ豊富にあるのだという。

s3.jpg


歴史上、数々の争奪戦を引き起こしたウクライナの黒土。

21世紀に入ってなお、その争奪戦は手を変え品を変え、盛んに繰り広げられている。

かつてはヤリや戦車で奪い合ったその肥沃な大地であるが、今では「お金」さえ払えば、ウクライナの人々は喜んでその土地を提供してくれる。



スウェーデン企業のアルプコットアグロ社は、ある村の村長に「村ごと農地を借り上げたいのだが…」と申し入れた。

すると村長、「それは大歓迎だ。お金さえ十分に払ってくれれば、いくらでも農地を貸しますよ。農場主たちは、金融危機のあと、不況で困っているのですから」



セルビア企業のアグロインベスト・ウクライン社も同様に、ウクライナでトウモロコシの大量生産を開始している。

「わが社はあと一年で、さらに10万ヘクタールの土地を手に入れます」

※10万ヘクタールといえば、日本の県庁所在地の面積トップ3に入るほど広大である。



そんな外国人の入り乱れるウクライナの農地。

そこに一人、日本人の姿もあった。青森県で日本最大の農場を経営していたという「木村慎一」氏は、5年前、世界規模の農業にチャレンジするため、ウクライナの土地にやって来ていた。

「ウクライナは天国のようなところです。われわれ日本人からみれば、もの凄く広く、土地が大変肥沃です」

若き日の木村氏が青森で開拓した「黄金崎農場」は、本人が地獄とも呼ぶほどに条件の悪い耕作放棄地ばかりだったのだ。それでも彼は30年かけて、その農場を450ヘクタールという日本最大規模に育て上げたのだった。

s4.jpg


現在、木村氏はウクライナに50ヘクタールの農地を借りて、大豆を栽培している。

ちなみに、日本の農家一戸あたりの農地面積は「2ヘクタール」にすぎない。それに対して、木村氏の経営する50ヘクタールという面積は、日本平均の25倍である。しかしそれでも、欧州各国では平均的な広さなのである(ドイツ45ha、フランス55ha、イギリス59ha)。



木村氏は農地をさらに20倍に増やそうと考えていた。現在土地を借りているウラジーミル氏から、今の20倍の1000ヘクタールの土地を貸そうと持ちかけられていたのである。

是非ともそうしたい、しかし資金の問題が…。個人の規模を越えるには、それなりのバックアップも必要となってっくるのである。



ウラジーミル氏は、木村さんを急かす。

「種まきの時が迫っています。木村さんが借りないのなら、すぐにロシアやフランス、オランダが来ますよ」



いまや、世界は国家をあげた農地争奪戦の様相を呈している。

世界各国は食糧の確保を、軍事やエネルギーと同等の「国家の安全保障」の柱と捉えて、長期的な戦略を練って、世界の国々へと歩を進めているのである。

s2.jpg


その明らかなキッカケとなったのは、2008年の世界食糧危機。

干ばつなどの自然災害により世界の穀物生産は激減し、そこに原油価格の上昇が拍車をかけた。その結果、食料価格は暴騰(2006年比で、米217%、小麦136%、トウモロコシ125%上昇)。

時はリーマンショックによる金融危機の渦中でもあり、先進各国の政府は量的緩和という名の下に大量に紙幣を増刷。それが途上国の物価上昇の炎を煽り上げ、アラブ世界では「アラブの春」を呼び込む革命にまで発展することにつながった。



現在70億人の世界人口は、今世紀半ばの2050年までには、90億人に達すると推測されている。

地球上の全人口を食わせるためには、現在の1.5倍程度の食糧増産が不可欠とされているが、そのためにはどう考えても25%の不足が生じるとも言われている。

すなわち、現在の延長線上にあるのは、明らかな食糧不足であり、その確保は国家の急務なのでもある。

s1.jpg


そうした将来への不安は、ウクライナの黒土(チェルノーゼム)をより黒々と魅力的に見せることになる。

国家は長期的な安全保障のために、企業はビジネス・チャンスのために、せわしなくウクライナを行き来して農地の獲得を図っているのである。




ウクライナがロシアの西の端であるとすれば、その東の端の「ロシア沿海地方」も、農地ハンターたちにとっては格好の狩り場である。シベリア鉄道の沿線に広がる大地は、いまや垂涎の的である。

先見の明のあった実業家「マーチン・テート」氏は人に先んじて、この地にツバをつけて回っていた。マーチン氏は一軒一軒の農家の戸を丹念に叩いて回り、800人を超える農家から8000ヘクタールを超える農地を買い集めていたのである。

実業家である彼の目的は明白である。買い集めた土地の権利を外国企業に売却して、儲けを出すのである。

s5.jpg


マーチン氏のぶら下げたエサに真っ先に食いついたのは、意外にも日本であった(日露戦争以来宿縁のこの地は、日本人を魅了してやまぬのであろうか)。

日本の商社や農業関係者は、ロシア沿海地方で大豆を生産して味噌や醤油にしようと計画していたのだという(2009)。



ところが、ここに強力なライバルが出現する。それはお隣り「韓国」の大財閥。

世界最大の造船会社である「現代重工業」は、食糧危機をチャンスと捉えて、その舳先を海外農業へと向けていたのである。



結果は、あっさり韓国に軍配が上がった。

現代重工業がこのプロジェクトに投資した金額は6億円。マーチン氏がその足で集めたエサは、思わぬ大魚を釣り上げたことになる。



企業だけの強さを比べるのであれば、日本の商社も韓国に引けをとるものではない。しかし、韓国企業の強さは、その背中が国家に押されていることにある。

韓国の国家戦略は明確である。「2030年までに穀物の4分の1を海外農場で確保する」。そして、最終的には韓国国内と同じ広さの農地を海外に保有する計画である。



2008年の世界食糧危機の際、韓国が受けたダメージは日本の比ではなかった。小麦や大豆の価格は2倍にも3倍にも跳ね上がったのだ。

この苦い教訓があって、韓国が食糧確保へ抱く危機感は、日本よりもはるかに強い。2008年の食糧危機の最中、韓国の李明博大統領は専用機の中から、緊急に国家戦略を発表したのである。

「海外の農地獲得を、国が後押しする」という国家戦略を。



日本よりも国土の狭い韓国は、食料生産のバッファゾーンが狭い。「韓国国内では、すでに農地を広げるのが難しいのです」

ロシア沿海地方に進出する韓国企業は、現代重工業を筆頭に他7社。携帯電話の部品メーカーという異業種からも参戦している企業もある。そのアロ社は、破綻したロシア企業の広大な農地を従業員ごと買い上げている。

それは、海外の農地獲得のために、韓国政府が低金利で毎年16億円の予算を割いてくれているからでもあり、韓国・ロシア両首脳間の合意があるからでもある。



日本とて韓国同様、食糧自給率は30%程度であるが、食糧確保に本腰を入れているとは言い難い。国家戦略は不明瞭なままであり、予算もまったく不十分な状態である。

「官民一体」という言葉を韓国が吐くと実に力強く響くが、それが日本の政治家の口から出ると、綿菓子のようにフワフワと儚く消えてしまう。



ウクライナでの食料生産に孤軍奮闘する木村氏は、資金確保のために日本に一時帰国し、外務省と農水省が中心となって発足させた食糧安全保障チームの会議に参加した。

その席で、木村氏は力説する。

「日本も国を挙げて進出を急がないと、手遅れになってしまいます。

食糧自給率が100%のインドでさえも、将来の食糧不足に備えてウクライナに進出して来ているのです。日本でも、我もやりたい、我も続きたいと思わせるような仕組みを考えていただきたいのです。」

外国勢による農地の争奪戦の渦中にある木村氏は、その現実をイヤというほど肌身に感じていたのである。



日本では予算による政府の裏付けがないために、大手商社も農業の海外進出には消極的である。

農業の収穫は天候に大きく左右されるリスクもあれば、途上国には現地の腐敗体質というリスクもある。それらのリスクを政府がフォローする枠組みなしには、あまり動きたくないのである。




日本政府が本腰を入れられないのは、農業の海外進出に対して、国内の反対意見が根強いからでもある。

「まずは国内生産による自給率の向上が先決である」との声が大きく、海外進出は将来的に国内農業の衰退を招くと懸念している人々が多いのである。



結局、木村氏は失意だけを胸にウクライナへ戻ることとなった。政府の支援も企業の援助も得られたかったのだ。

期待して待っていたウクライナの農家の人々は、とんだ肩すかしを食らった形だ。「日本に農地を貸せば、ひと儲けできると思ったのに…」。彼らの失意は怒りにも変わった。「今すぐサインできるんだぞ!1500kmも遠くから来たのにガッカリだ…」

結局、その広大な農地はセルビアの企業に売られていくこととなった…。




日本の海外進出はかくも穏やかであり、韓国のそれはかくも猛烈である。日韓両国の行動はかくも両極端なのである。

どちらかといえば、世界の国々は韓国のように貪欲であり、日本のようにお行儀が良いわけではない。



中東の産油国などは、原油価格の高い今のうちに、オイルマネーの力で世界の限られた農地を手に入れようとしている。時には武装した傭兵で、農地を守らなければならない。

そのため、世界を舞台に繰り広げられる無闇な国盗り合戦は、途上国に新たな問題を巻き起こす結果ともなっている。



アフリカでは、言うなれば毎日が食糧危機である。

飢餓に苦しむ人々は3億人(全人口の3割)とも言われいるのに、なぜたまに食糧危機と騒ぐ他国に農地をやらねばならぬのか?




アフリカでも貧しい国の一つ、タンザニアでは、すべての土地が「国有地」である。そのため、土地の売買契約は政府のサジ加減で決まってしまう。当然、土地売買を巡る袖の下はふくらむ一方だ。

ある村は、地元政府の独断により、村の土地1万ヘクタールが外国企業に貸し出されてしまった。



それまでそこに暮らしていた村人たちには寝耳に水。突然、立ち退き通知が送りつけられ、家も土地も畑の作物までも、すべて引き渡すように命じられたのだ。

途方に暮れる村人たち。その数1万人。彼らにはどこにも行く当てがない…。

s6.jpg


こうした火の粉は、それまで平穏であった国をも猛火に包み込む。

まことに穏やかであったマダガスカルの国が、暴動により政権交代が起こったのは、韓国による農地獲得が原因だった。

s7.jpg


その韓国企業の計画によれば、マダガスカルの農地全体のおよそ半分もの広大な農地を、99年間借り受けるという途方もないものであったのだ。

マダガスカルの国民の激怒によって、幸いにも時の政権は倒れ、韓国企業の計画は頓挫した。しかし、今度はインド企業の触手が…。



こうした土地売買を巡る汚職、現地住民の強制退去は、農地争奪戦に引きも切らない。

お金のある企業が、力のある国家が、波のように打ち寄せてくるのであるから。



そんな魑魅魍魎のうごめく世界にあって、ウクライナの木村氏は孤立無援である。

2008年の食糧危機の際には、木村氏の育てた大豆に日本から取り次ぎが相次いだというのに、食糧が余りぎみになった今、「喉元すぎれば熱さ忘れる」。

企業からも国からも見放された木村氏は嘆息する。「日本の悪いクセです…」。




一方、ロシア沿海地方を首尾良くおさえた猛烈な韓国企業は、フィリピンでもモンゴルでも農地を獲得。次はアフリカである。

ゴールド・ラッシュならぬ、ランド(土地)・ラッシュは、世界の新たな争いの形態であり、その火の粉は土地の農家を潤すこともあれば、故なく悲しませることもある。

戦争という形態よりはマシなのかもしれないが、その「奪い合い」という本質はなんら変わるところがない。



不足したら、奪い合うしかないのだろうか?

この世界には、シェアすることにより、1足す1が2以上になるということはないのだろうか。

「奪い合えば足りず、分かち合えば余る」という相田みつを氏の言葉は、言葉だけの世界なのであろうか…。





ランドラッシュ
―激化する世界農地争奪戦




関連記事:
世界の食糧価格「高騰」に見る、世界の常識の激変。

韓国に増えつつある猛烈農家「強小農」。自由貿易ドンと来い!

森に生きた縄文人。森を伐って稲を植えた弥生人。「あがりこの森」の示すものとは?

放射能の森に悠々と暮らすネズミたち。チェルノブイリ「赤い森」



出典:NHKスペシャル「ランドラッシュ〜世界農地争奪戦〜」
posted by 四代目 at 13:10| Comment(0) | 農業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする