2012年12月23日

不屈のミカン「三ヶ日(みっかび)」。外へ外へ


ミカンといえば「三ヶ日(みっかび)」。

静岡県の三ヶ日町は、それほどに名高いブランド力を誇る。

そのブランドを支えるのが「JAみっかび」という地域農協。三ヶ日ミカンの年間出荷量は3万1,000トン、額にして77億円。同農協の農畜産物の売り上げの8割超をミカンが占めるため、JAみっかびは「ミカン専門」といっても過言ではない。



この全国的に有名な「三ヶ日みかん」に支えられたJAみっかびの財務体質はじつに健全。ここ30年ほどは毎年、組合員に総額数千万年単位の配当を行なっている。

「毎年、組合員に配当できる全国でもマレな農協」、それが「JAみっかび」なのである。





◎守られなかった三ヶ日


今は飛ぶ鳥をも落とすJAみっかび。

しかし意外なことに、その戦後の歴史は「破綻」から始まった。

昭和26年、貯払い停止に追い込まれた三ヶ日農協は、事実上の経営破綻。その原因は、元・宮内庁務めをしていた組合長の放漫経営によるものだった。



そもそも、三ヶ日町という地域は国の農業政策から「守られていなかった」。

日本政府の守る農業というのは、とどのつまり「米」である。ところが残念なことに、三ヶ日町ではその山がちな地形ゆえにコメ栽培には不向きであった。

管内の耕地面積およそ2,000haの水田の割合は、全体の7%強に過ぎない。つまり、三ヶ日町における9割以上のほとんどの農地は、「国の保護の対象にならなかった」。



◎再起


破綻から3年後、三ヶ日農協は何とか業務を再開することとなる。

しかし、農家からの信頼は「失墜」している。皆、農協を通さずに出荷を行うようになってしまっていたため、農協に集まるのは「Bクラス品」ばかり…。

1960年には、三ヶ日町みかん出荷組合をつくってミカン販売の強化に乗り出すものの、生産者の加入率は12%という低さであった。



しかも、一度破綻を経験していた三ヶ日農協への「監視の目」は厳しく、経営者も二度と失敗できない。それゆえ、その経営意識は高まらざるを得ない。コメをほとんど持たない三ヶ日農協は国の支援も当てにすることができないのだ。

「自らの存在意義を、自らの行動と結果で示すしかない」



この苦境を脱っせんと、三ヶ日みかんは「東京」へと飛び出すことに。

東京進出は勝算などない中での試行錯誤であった。ところが幸いにも、東京市場で三ヶ日みかんは「高評価」を受けた。そして、それが「全国区」への道のりの始まりともなった。



◎岐路


着々とブランド名が高まっていった三ヶ日みかん。

しかし、日本経済のバブルが弾け飛んだ時に、その名は「消滅の危機」に立たされる。



「合併問題」

バブル崩壊以降、浜松市とその周辺15農協は、組織の生き残りをかけた規模拡大、つまり合併を図ることにした。その15農協の中には当然、三ヶ日農協も含まれていた。

一時は話がまとまりかけていた合併交渉。しかし、三ヶ日管内の農家からは「『三ヶ日みかん』というブランドが消滅してしまう」との懸念の声が高まり、結局は合併を断念。



最終的に、三ヶ日農協は「単独農協」として一匹狼の道を歩む決断を下す。

「浜松市と周辺14農協の合併で誕生した新農協に参加しなかったのは、『JAみっかび』だけだった」

こうして、JAみっかびは国にも守られず、地域にも守られず、ただひたすら「三ヶ日みかん」というブランドのみに、その存続を託す道を選んだのである。



◎効率化


合併を断った1990年代、折しもウルグアイ・ラウンド関連の対策予算が6兆円以上計上されていた(1994〜2001)。

その予算を使って、JAみっかびは徹底した「機械化」を図ることにする。

「好景気で単価の高いミカンを拡大した園地で、効率的に生産して儲けるには機械化が不可欠でした」と後藤善一氏は振り返る(JAみっかび代表専務理事)。



傾斜のきついミカン園の農道を整備し、消毒用のスピードスプレーヤーだけでなく、大型の土木作業機も、農道からすべての畝に入っていけるようにした(農道作業方式)。

その結果、収穫を除くすべての作業が「機械化」された。

「今やスピードスプレーヤー(消毒)、ユンボ(土木作業)、フォークリフト(出荷)は、大型農家にとって『3種の神器』と呼ばれるほどに普及しています」と後藤氏。



各農家の機械化による「省力化」。その初期投資は決して小さなものではなかった。だが、そのおかげで農家の「集約化」が図られ、専業農家の平均面積は3〜5haと大規模に拡大。

「ミカン農家は減っても、園地面積は減らなかった」



◎東洋一の選果場


農家から共同の選果場に集められたミカンは、一個一個の糖度と酸度が光センサーで測られ、大きさや品等別に箱詰めされて出荷される。

この「光センサー式の選果システム」は2001年、JAみっかびが28億円の投資を行なって導入したものであり、今年はさらに8億円が投じられて、腐敗果を選別するセンサーがより精度の高い最新式に交換された。

「この選果場は、東洋一の処理能力を誇ります」と後藤専務理事も自慢げだ。

バーコード管理によるトレーサビリティも完備されており、2001年からカナダへの輸出も開始されている。



◎有能な歴代トップ


破綻から生まれた「三ヶ日みかん」というブランド。そして、その名を守るために合併の誘いも断った一匹狼「JAみっかび」。

その経営を担うトップ2人(組合長と専務)は代々、「専業農家の成功した農業経営者」から選抜されている。というのも、かつての破綻という苦い経験は、その放漫経営にあった。それゆえ、経営トップを「名誉職的」に選ぶことをJAみっかびは決して好まないのである。



現在のトップは後藤善一(ごとう・ぜんいち)氏。3年前からJAみっかびの代表専務理事を務めている。

8haという広大なミカン園を所有する後藤氏は、年間2,000トン以上もの三ヶ日みかんを出荷する域内有数のミカン農家。その年商は5,000万円を超える。



今でこそ後藤氏はJAみっかびの先頭に立つものの、元々はむしろ農協とは「あまり関わりたくなかった」。

なぜなら、父親が苦しい時代の農協組合長を務めていた時代を知っており、「家族が苦労する姿」を目の当たりにして後藤氏は育ってきたからだった。

「合併の前後は周囲の風当たりも強くて大変でした。だから最初は関わりたくなかったのです」と後藤氏。



それでも後藤氏がJAみっかびの要職を引き受けたのは、2005年に三ヶ日町が浜松市の一部として市町村合併されたことにより、三ヶ日みかんの浮沈が地域全体の生活に影響するようになったためだった。

「周囲から何を言われても構わない。次の世代のために、地域を支える三ヶ日みかんの未来のために役に立ちたいと思い、代表専務理事に就くことにしました」と後藤氏。



◎危機感


経営感覚の鋭い後藤氏の目で見てみると、現在のJAみっかび、そして三ヶ日みかんというブランド名とて決して安泰ではない。

JA職員の多くは60年前の経営破綻の危機感をすっかり忘れてしまっており、「いざとなれば誰かが尻拭いしてくれる」という意識が抜け切らないのだという。

「本来、JAみっかびがすべきことは助けてもらうことではありません。むしろ地域産業を主導する役割が求められているのです」と後藤氏。



今までのJAみっかびが歩んできたのは、守られてきた道ではない。むしろ「守られなかった歴史」である。いつ消え去るか分からないという危機感こそが、三ヶ日みかんをして時代の先を行かせてきたのであった。

機械化を促進するための農道生産方式や、最新鋭の品質管理システム、こうした徹底した差別化が今の三ヶ日みかんのブランド名を支えている。

しかし、これらの差別要因は「ハードに負う部分が大きい」ために、競争が本格化すれば「あっという間に他の産地に真似されてしまう」という恐れがある。



「しかも、三ヶ日町には園地を拡大できる余地が少ない。そのため、三ヶ日ブランドで供給できるミカンの生産量には自ずと限界があるのです」

「このままでは、組織・人・事業が『ゆでガエル』になってしまう」、そんな危機感を後藤氏は感じずにはいられない。



◎次なる一歩


「ミカンを含めた『何か』を売る」

それが後藤氏の描く次なる青写真である。



たとえば「三ヶ日みかんハイボール」。これはサントリーのウイスキーをベースに、三ヶ日みかんシュースをソーダ水で割ったもの。

「サントリーとの強力なメディア戦略により、資金を使わずにマスコミ露出が増えました」と後藤氏。





「ミカンの皮」までもが戦略の道具となる。

「むきお君」は、ミカンの皮をウサギや馬などの動物の形に剥きあげていく。もともとは小学館の児童書のキャラであった「むきお君」に、後藤氏はさっそくのタイアップを実行。小中学校などにミカンと剥き方レシピを配布して、その普及活動に尽力している。





また、「オフィスみかん」というのも新たな取り組みである。

都心のオフィスなどでは、小腹の空いたサラリーマンやOL向けに業者が「お菓子」などを置いていき、食べた分だけ集金するビジネスが伸びている。

そのお菓子を、よりヘルシーな「みかん」に代えたもの、それが「オフィスみかん」。会社のオフィスでミカンを食べるシチュエーションを創り上げることが、その目的である。



◎外へ


三ヶ日みかんという「限られた資源」。

その枠組みの中ばかりに安住していては、またたく間に干上がってしまう恐れがある。



「座して死するわけにはいかない…」

三ヶ日町の活路は、つねに「外」にあった。守られずとも、合併せずとも名を高めることができたのは、外へ外へとその手を広げていったからだった。

そして今、三ヶ日みかんは「ミカンという枠」のみならず「農業という枠」までをも超えて羽ばたこうとしている。



そんな「JAみっかび」は、閉鎖的な日本農業界にあって異彩を放つ。

なぜ、JAみっかびが「毎年、組合員に数千万単位で配当できる全国でもマレな農協」なのか?

そこには、明らかな理由があったのだ…。







関連記事:
「こたつミカン(温州みかん)」の歴史と効用に想う。

高すぎる日本の栽培技術が、一個10万円を超える高級フルーツを生み出した。

「自給」への渇望。金子美登氏の自給の輪は世界へと羽ばたいた。



出典:農業経営者2012年6月号
「ブランド産地の可能性を探る 即行動の農村経営者 JAみっかび」
posted by 四代目 at 09:50| Comment(0) | 農業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月21日

世界にタネを蒔くトキタ種苗。自然とともに…


「イチゴ、ありがとう!」

当時2歳だった娘は、そう言って大喜びした。だがじつは、それはイチゴではなく「トマト」だった。

その甘さもさることながら、その先の尖った形がイチゴと勘違いさせてしまったようだ。



そのトマトの名前は「トマトベリー」。

日本で普及するよりも先に、イギリスやアメリカなどの海外で栽培面積を増やすことになった品種であり、日本の種苗メーカー「トキタ」が生み出したものであった。



社長の「時田巌(ときた・いわお)」氏は、このトマトベリーを「偶然できてしまったもの」だと語り出す。

「研究農場の試作品種を見ていたら、どうも狙ったものができていない。そこに一本、『先の尖ったトマト』がありました」

担当者に「これは何だ?」と聞いたところ、「いや、これはダメです。先が尖ってしまうんです…」とガッカリしている。



でも、時田社長にはその尖った形が「ハート」のように見えて面白かった。

それを2歳の娘に見せてやろうと家に持ち帰ったところ、冒頭の通り、イチゴだと思われて大喜びされたのであった。





◎スピードある海外市場


「これを活かそう」と思い立った時田社長は、さっそくイギリスのバイヤーに写真を送った。

「これは面白い!」とすぐに話がまとまった。

「日本だとビジネスとして具現化するまでに複雑なステップがあるんですが、向こうは規模が大きいこともあって、一人と話をするとスーッと物事が決まっていくことが多いですね」と時田社長。



アメリカも同様、大規模生産者がスーパーに電話一本すればそれで万事OK。

「以前、アメリカの展示会でトマトベリーをプレゼンした時、そこに若い人が試食して気に入ってくれました。その若い人が是非やりたいからと日本に来たんですが、じつはその人、全米で5本の指に入る大規模生産者でした」

彼の農場は、アメリカのみならずメキシコにまで及ぶ広大さで、温室の面積だけでも数十ヘクタールもあった。当然、必要とされるタネの量もケタ違い。



2008年にこの「トマトベリー」を世界最大級の見本市(フルーツ・ロジスティカ)に出品したところ、革新・新規性を競う「イノベーション・アワード」で見事に世界3位を受賞。

「なんだ3位か…」とちょっとガッカリしたと社長は言うが、この好成績はアジア勢で初という快挙であった。当然、周りは狂喜乱舞。日本の農業が世界に認められた瞬間でもあったのだ。

「来場者は5万人以上、国籍はおよそ140カ国。世界の人々が注目している展示会でした。日本からの出展者もチラホラいましたね」



◎中国


トキタ種苗株式会社というのは、今年で「創業95周年」を迎える伝統ある企業。

早くから国際化時代の到来を予見していたという先代は、23年前にいち早く中国に進出。現地との合併会社を設立し、数年で黒字化。以来、トキタ・グループの中では「最も優秀な成績」を収めているという。



「10年くらい前に中国に視察に行った時は、中国の栽培技術的は『まだまだだな』と思ったものですが、今では途方もなく進化しました。ネギ一つとっても、下手な日本の農家よりはるかに上手に作ります」と時田社長。

中国の農業も欧米同様、規模が大きくスピードがある。そして商売意識が日本よりずっと高い。

「脅威です。ヤバいと感じるほどです」



ただ、品質やパフォーマンスが良ければ「高くても買ってもらえる」。

「こちらも作りがいがありますね。日本で売られている価格より、中国の方が高く売られている品種も出てきたほどです」と時田社長。



◎インド


中国の次にトキタ種苗が手を伸ばしたのは「インド」であった。15年ほど前の話である。

「最初はカルチャーショックでした。ハイアットのような高級ホテルに泊まっているインド人もいれば、路上に溶け込んでいるように暮らしている人もいるんです」



そんな路上の人々を見ていた時田社長は、ふと思った。

「この人たちだって、ニンジンは食べるだろう…」

ということで、さっそくインドに会社を作った(TOKITA SEED INDIA)。同族会社なのですぐ作れる。今では「インドのニンジン4本のうち1本くらい」がトキタのニンジンなのだという。

トキタの種は、インドの土と相性が良かったらしく、その収量パフォーマンスがインドの地元種とは比べ物にならないほどに優れていたのが、その勝因だった。



また、インド人は「トウガラシ」もよく食べる。

そこで、日本から遺伝子のプールを全部持っていった。ところが、インドの土にトウガラシのタネを撒いてみると「全部ダメ」。インドの在来種以外は、青々と茂らなかった。

「日本ではナンバー1の品種でも、土が変わるとダメということもあります」

ニンジンの場合はラッキーだったが、トウガラシの方では苦戦が続いている。トウガラシ文化に関しては中国・韓国の方が一日の長もあり、「まだまだこれから」ということだ。



ちなみに、インドには経営の難しさもあった。

「インドでは人が辞めたり入ったりが激しいんです」

仕事に飽きると、すぐ「辞めます」という人もいる。10年かけて育て上げたマネージャーもライバル会社にあっさりと持っていかれてしまった。

「さすがにガックリきましたが、その後に入ったマネージャーが前任者の5倍くらい仕事ができたので、今ではありがたかったと思っていますけど(笑)」



◎イタリア


イタリアに出たキッカケは、知り合いのイタリア人が何かやりたいと言ってきたからだった。

「イタリアを起点として、ヨーロッパをカバーできれば面白いな」と時田社長は思ったという。「日本人は『イタリア好き』ですしね」。



初めのうちは、トマトベリーをはじめとする日本の野菜をヨーロッパに売り込んだというが、その流れは途中から逆転して、イタリアの野菜が日本に来ることになる。

「考えてみれば、イタリアの野菜を食べて美味しくなかったことがなかったし、イタリアは野菜の消費量がものすごく多いんです」

イタリア人は日本人以上に「いろんな種類のしかも独特な野菜」を普段から食べている。

「でも、日本ではほとんど知られていません。だから、チャンスがありました」と時田社長。今はイタリア野菜を日本で栽培しやすいように改良する取り組みを行なっている。

「現在、プロの農家がうちの品種を採用してくれています」





現在のトキタ種苗株式会社は、中国を皮切りにインド、イタリア、そして昨年からはアメリカに現地法人を設立。

親子2代にわたる夢であったというアメリカ進出。消費大国アメリカの胃袋を日本の野菜で満たす日が一歩一歩近づいている。



◎他人がやらないこと


埼玉県に生まれた時田巌社長は、アメリカの大学院(ニューヨーク・ロチェスター大学)を出ている。

「大学院で一番勉強になったのは、『世の中には頭のいい人が、ごまんといるなぁ』ということでした」

時田社長が学んでいた大学院には、日本から企業派遣された人たちも数十人いたというが、みんな凄く頭が良かった。



理解の早さや分析能力などでは、とても敵わない。ショックを受けた時田社長が感じたのは「自分が特別だと思ってはダメだ」ということだったという。

「自分が思いつく程度のことは、すでに世界ではごまんという人たちが思いついているんです。それが大学院で得た一番の収穫でした」と時田社長。



そう痛感して以来、「他人がやらないこと」を意識するようになったという。

「インドやイタリアで開発するというのも、そうした発想から来ています」と時田社長。

幸いにもトキタ種苗株式会社は同族会社であり、「決めたらパッと動ける」。それが最大のメリットとなって、世界中にタネを蒔くことができた。



◎自然と一緒


時田社長は「株主重視とは正反対」と言う。

株主は短期的な成果を求めてくるが、品種の開発には「時間がかかる」。

「株主第一という姿勢は、種苗という業態に向いていないんです。種の開発には平均すると10年くらいかかります。でも、時間がかかるからやめようという発想はないんです」



品種開発は年月がものをいうところが大きく、後からでは絶対に追いつけない。

時田社長がトマトベリーに至ることができたのも、ミニトマトにいち早く取り組んでいたという積み重ねのタマモノであった。

「私たちは『自然と一緒』に商売しています。いくら技術が進んでも『植物が必要としているもの』は変わっていません」



しかし、そういう考えを持つ会社が少なくなったのも事実であるという。

極端な例では、遺伝子の特許を押さえる戦略をとるアメリカのモンサントなどがある。化学薬品メーカーである同社は株主重視の「完全な重商主義」であり、自然と一緒という感覚とはほど遠い。



「品種改良といっても、元々は『自然がつくったもの』で、人間が作ったソフトウェアとは違います。そこに権利を主張するのは、いわば『後出しジャンケン』みたいなもので、私にはおかしいとしか思えない」

そう語る時田社長は、種という遺伝資源について強い問題意識を持っている。たとえば、品種改良されたトマトの遺伝子に権利を主張して、他の人が使おうとすると特許使用料を要求することに強い違和感を抱いている。

「でも、私は彼らのやっていることに脅威を感じません。おカネだけを目的とすると長続きしません。冷ややかに見ています」

間もなく100年企業にならんとする会社を率いる社長の言葉は重く響く。



◎知恵比べ


時田社長は、品種改良の面白さを「自然との知恵比べ」にあると言う。

「たとえば、100粒の種が実って地面に落ちたとしても、半分くらいは発芽しません」

もし全部が発芽してしまうと、干ばつや洪水などがあったら全滅してしまう。だから、種の保存のためにあえて芽を出さない種が半分くらいあるのだそうだ。



人間の知恵は、芽を出したがらない種を「いかに発芽させるか」にあると社長は言う。

「一言で言えば、種に『危機感』を与えてやるんです。種を残そうとするのは、子孫を存続させるためです。だからヌクヌク育てていると、なかなか種ができない」

そう言って、時田社長はキャベツの葉っぱをむしり出す。

「でも、いじめすぎてもダメなんです。ここが自然との知恵比べです。じつに難しい。でも、楽しくてしょうがない(笑)」



サクランボなどの青果物も、あえて生命の危機感を与えることで甘みが増すことがよく知られている。しかしやはり、いじめすぎると枯れてしまう。ただ、青果物をとる農家と「種をとる農家」では、そのテクニックがまったく違うという。

「環境を極限に持っていくという点では、種をとる方が難しいかもしれません」と時田社長。

その難しさゆえに、技術の伝承がなかなかできない。日本の気候だけでは難しいところも多く、「種をとる仕事は95%以上海外にお願いしているのが現状」だという。



◎適地適作


時田社長は最良の種をとるために、世界中のいろんなところの地理や気候を贅沢に使う。

「たとえば、日本で売られているホウレンソウは、ほとんどデンマークで種をとられています」

「適地適作」、それこそが野菜にとって最も理に適っていると時田社長は考える。



逆に「地産地消」という考えは、野菜にムリをさせることになる。一つの土地、一つの気候があらゆる野菜に向いているとは限らない。

日本人はどうしても考え方が土地に縛られてしまいやすいが、世界の人々はもっともっと自由に発想していると時田社長は言う。



たとえば、「ワワサイ」という糖度の高いミニ白菜をトキタ種苗は台湾に売り込んでいるというが、暑さが苦手なワワサイをどこで作るか悩んだことがあったという。

ところが台湾の業者に聞くと、あっさり「インドネシアの高地で作らせる」と答える。

「『えっ?』と驚いたんですが、そういう柔軟な発想がごく自然に出てくる。日本ではなかなかそういう発想は生まれません」と時田社長。



◎タネを撒き続ける


日本の農業はどこへ行こうとしているのか?

今はその模索の時期、岐路にあるのかもしれない。



たとえ迷いがあるといえども、「とにかく、今、種を蒔かないといけない」。そう時田社長は語る。

「何年かすれば必ず実を結びます。とにかく、今、現場に出て『種を蒔きつづけること』です」



先代が23年前に中国に蒔いたタネは、今大きな実りの時期を迎えている。そして、現・時田社長はインドにもイタリアにも、そしてアメリカにもタネを蒔いた。

品種改良の際に、スタッフがこう言うことがある。「社長、時間がかかりますよ」。

すると、時田社長は決まってこう答える。「いいんじゃない(笑)」。



時間をかけること、それが「自然とともにある」ということなのだろう。

たとえ時代が変わっても、植物が必要としているものは変わらない。それと同様、人間が本当に必要としているものも、じつは昔からあまり変わっていないのかもしれない。

ただ、選択肢だけは格段に増えた。これは幸にも不幸にも「悩ましいタネ」である…。







関連記事:
なぜそこまでして「種」を受け継いできたのか? 山形の伝統カブに想う。

たかが白菜、されど白菜。本当は変わりたいその想い。

世界に広がる「日本のコメ」。田牧一郎氏の開拓魂。



出典:農業経営者2012年6月号
「世界中にタネを蒔きつづける 時田巌」

posted by 四代目 at 06:28| Comment(0) | 農業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月12日

なぜ日本は「小さな魚」ばかりを獲るようになったのか?


「乱獲も乱獲、日本の魚の多くは『食べるサイズに達する前』に漁獲されています。もう『早獲り競争』です」

勝川俊雄氏(三重大学・准教授)はそう切り出した。

「いま日本で一番多く獲れるのはサバ類なんですが、非食用、つまり養殖のエサにしかならないような『小型魚』が漁獲の大半を占めています」



養殖のエサにしているようなサバは0歳。100gほどしかない。「一尾10円にもなりません」。

もしあと3年待てば、一尾80円以上で売れる。サバは3年で500g以上に成長するからだ。また、3歳になったサバは卵も産めるようになるので、のちのちの資源再生化にもつながっていく。

「3年間、海に泳がしているだけで何倍もの価値が出るんです。これは本当にもったいない話なんですよ」と勝川氏。



たとえば、0歳100g未満のサバを10尾売っても、65円にしかならない。一方、3年待つと、個体数は自然淘汰により10尾から3尾にまで減ってしまうものの、一尾が500g以上に育っているので、たった3尾でも260円以上で売れる。

「つまり、小さい魚を獲らずに3年待つだけで、漁獲重量は1.5倍、利益は4倍にまで増えるのです」



なんとも単純な計算である。3年待った方がどう考えても得である。

しかし、現在の日本漁業はその3年が待てない。

「魚が成長する前に獲ってしまうんです。農産物だったら、果実が実る前に収穫してしまうようなものです。あり得ないですよね?」



◎早獲り競争


なぜ、そんな滑稽な話になってしまうのか?

「簡単です。日本に適切な漁獲制限がないからです。だから『早獲り競争』に陥ってしまうんです」と勝川氏は言う。



日本の沿岸漁業というのは「漁業権をエリア別で持っている」。だから、魚が自分たちのエリア外に出ていってしまったら、よその漁師に獲られてしまう。

「だったら、今日獲れるものは獲っておこう」という発想になる。たとえ、小さくて値段が安くても、ほかのエリアに出られたらもう手も足も出ないのだから。

「『親の仇と魚は、見たら獲れ』というのが、今の日本の漁師なんです」



早獲り競争が進めば進むほど、成魚の数は減っていき、各エリア内には小さい魚ばかりしかいなくなっていく。当然、単価は安くなる一方。

だから「まとめて獲ろう」と考えて、小さな魚を一網打尽にしようとする。網のサイズは巨大化し、その目はより細かいものとなっていく(ちなにみ、水産庁は網を大きくするための補助金を出している)。

幸か不幸か、魚群探知機やソナーの進化によって、1km先でも2km先でも正確に魚群を捕捉できるようになった。つまり、より簡単に魚群を一網打尽にすることができるようになったのだ。そうやって、みんなで競って「未成魚」を獲りまくる。



「たとえばクロマグロだって、漁獲の9割が0歳、1歳という未成魚です。カツオみたいな大きさで獲っちゃってる」と勝川氏はぼやく。

これではマグロが獲れなくなるのも当たり前であろう。まだ未熟な果実を早獲りしているどころか、木そのものを根こそぎひっくり返しているようなものである。

魚が次の卵を産む前にみな獲ってしまったら、次の魚はどこからやって来るのだろうか。ひょっとしたら、卵よりもニワトリが先なのであろうか?



◎誰も得をしない


「誰も得をしない漁業」

乱獲、早獲りによって、日本の漁業の姿はそんなものになってしまったのだと勝川氏は訴える。



誰も得をしないどころか、みんな損をしている。

「稚魚から根こそぎ獲っていくような漁業を公的資金(税金)で後押ししておいて、その結果、地方の漁村が廃れていくと、今度はそっちを何とかしようと補助金を入れる。もう支離滅裂ですよ」

海も苦しめば、漁師も苦しむ。そして、その苦しみは日本国民全体で分かち合われることになる。

「そんな日本は水産予算が世界一なんです。しかもダントツで。EU諸国全体の予算よりもずっと多いんです」



「農業もそうですが、一次産業というのは放っておくと衰退しちゃう。だから、上からおカネを落として支えなければならないという発想が日本にはあります」と勝川氏。

しかし残念ながら、そうした補助金は生産者の手に落ちるとは限らない。「生産者じゃなくて、土木屋に落ちていたりする」。

また、逆に地方産業を弱めてしまうこともある。「北海道の奥尻では、600億円以上の予算が用意されて、今までよりも立派な防波堤を造ったり、船を全部新しくしたりしました。で、どうなったかと言えば、漁業者が半減しているんですよ。限界集落も増えてしまいました」





◎ノルウェー


「補助金なんて入れなくても、今の漁業者くらいは十分に養えるはずなんですよ。方法さえ間違わなければ…」と勝川氏は話しはじめる。

「現に『世界の漁業は儲かっている』んです」

勝川氏がその好例として挙げるのは「ノルウェー」の漁業である。



「1970年代のノルウェーでは、主力のニシンが激減していました。そこで、漁業に大金が投ぜられたわけですが、そしたら逆に『あっという間に資源が枯渇してしまった』。まったく今の日本のような状況です」

ここからがノルウェーの面白いところである。

「ノルウェーでは各漁船に『漁獲枠』が割り振られることになりました」



先述したように、日本での漁獲枠は各漁場(エリア)ごと与えられている。そして、それが未成魚の早獲りを助長させる悪因ともなっている。

ところがノルウェーでは、それが『各漁船ごと』に割り振られているのである。そのため、早く獲ろうとは決して発想しない。充分に大きくなるのを待ってから獲ったほうが利益は大きくなるのである。

つまり、小さな魚を大量にとって漁獲枠をいっぱいにしてしまうより、利益が何倍にもなる成魚で漁獲枠を埋めたほうが、よっぽど得することになるのである。



その結果、ノルウェーの漁師たちの発想は「いつ獲るべきか」に変わった。早く獲れば獲るほど損をしてしまうのだから、「高く売れる時」を慎重に見極めるようになったというわけだ。

「さて、ボチボチ値段が上がってきたから、魚でも獲りに行くか」といった具合である。

彼らは決して他の漁師に先に獲られてしまうことを焦らない。各々の漁獲枠が決まっているのだから、みな自ずと獲る量には限界がある。早い者勝ちがすべてを制するわけではないのである。



◎三方良し


「もう漁業は量ではなく、質で勝負する時代」

40年以上前の1970年代、ヨーロッパ諸国の漁業は大きな方向転換を果たしていた。ノルウェーもEUと漁獲枠を共有しており、その漁獲枠は国際交渉によって国ごとに分けられる。

ノルウェーという国自体に漁獲量の制限があり、そしてノルウェー内ではその枠を漁船ごとに振り分けているのである。



こうした資源管理の結果、海の資源はここ10年で倍くらいに増えた。

それでもノルウェーの漁獲量は増えていない。EU全体の漁獲総量は、研究者たちが海の状態や魚の生産力を調べることによって決められているのである。

漁獲量は増えていなくとも、ノルウェーでは「毎年のように漁業生産金額を伸ばしている」。つまり、量よりも質によって儲けているということだ。それは漁師の一人ひとりが「高く売れる時」を見極めて漁をするようになった好結果でもある。



日本では誰も得をしなくなった漁業。

ところが、ノルウェーでは海良し、漁師良し、国家良しの「三方良し」。近江商人のお株はすっかりノルウェーに持っていかれてしまったようである。





◎マルチ


「ノルウェーの漁船は、1年のほとんどの間、遊んでいるんですよ」

「高く売れる時」だけに漁に行くようになったノルウェーの漁師たち。そのため、船を出す日数は大幅に減った。それでも収入は増えたのだ。



ある2人の漁師は、船を遊ばせておくのもなんだからと言って、2つあった船のうちの一つをスクラップにして、2人で一つの漁船を交代で使うことにした。

先に述べたように、ノルウェーの漁獲枠は漁船ごとに割り振られている。だから、漁船をスクラップにする時、その船が持っていた漁獲枠をほかの船に譲ることもできる。

ということは、もし2人の漁師が2つの漁船を一つにしてしまえば、漁業枠を一つに集めることもできる。すなわち、1台の漁船で2倍の漁獲枠にすることができるのである。そうすると、船の管理という固定費を大幅に減らすことも可能となる。



もし高齢で漁を辞めるときも、自分の漁船が持っていた漁獲枠をほかの船に売却することもできる。

「これは双方にメリットがあるシステムで、辞める人は退職金代わりの一時金を手にできるし、枠を譲り受けた人は漁獲枠が増えるわけです」



また、漁船が遊んでいる期間、その船を貨物船や調査船として使わせている漁師もいる。

そうしたマルチパーパス(多目的)の漁船は、漁業以外のビジネスとしても収益を上げることが可能となっている。



◎ニュージーランド


ノルウェーのような漁獲枠制度は、遠くニュージーランドでも採用された。

ところが、ニュージーランドでは地元漁師たちの「ものすごい抵抗」に遭ってしまう。「説明会を行うたびに、トマトを投げつけられる」。

それでも無理を押して導入したところ、漁師たちはすぐに理解した。「なんだ、こっちの方が儲かるじゃん」。それ以来、手のひらを返したように漁獲枠制度は支持されるようになったとのこと。



日本でも、かつてのニュージランド同様、批判する人が多い。

「地方の小さな漁村が潰れてしまう!」と。



はたしてニュージーランドでは、小さな漁村が潰れてしまったのか?

それを自分の目で確かめるために勝川氏は、「ニュージーランドで一番辺鄙」といわれるチャタム島という離島の漁村に足を運んでみた。

伊勢エビやアワビを採っていたその村は、「これがなかったら、逆にこの島の漁業は消滅していたよ」と皆声をそろえていたという。



◎漁業でメシを食う


さて、ふたたび目を日本に転じてみよう。

早い者勝ちの漁業が加速するばかりの現状は、日本の漁業を衰退の一途にヒタ走らせている。そして、それを補うための莫大な補助金が、その悪循環をさらに歪んだものとしてしまっている。

「魚を獲っても、メシを食っていけないという状況自体が、まったく手付かずで放置されているのです」と勝川氏。漁業で生活できないのであれば、新しい人など寄り付くはずもない。



「一番大事なのは、漁師が魚を獲って、それで充分生活していけることです」

そう言う勝川氏は、そのモデルとして北海道の猿払村(さるふつ・むら)を取り上げる。



北海道の一番北の僻地という猿払(さるふつ)は一時、「貧乏見たければ猿払に行け」と言われるほどに壊滅的な状況に陥っていたという。

高齢者の多かった猿払村であったが、あえて行政は高齢者福祉を優先しなかった。それよりも「漁業自体を何とかする」という方向性を打ち出した。とにかく「漁業で利益を出す」ということを最優先事項と位置づけたのである。



具体的にはホタテの養殖技術である「地撒き式」という方法が採用された。海底にホタテを撒いて育てる方法である。

この方法の問題点は、ホタテの所有権がハッキリしないことであった。地面に撒かれたホタテはどうしても「早い者勝ち」になってしまう。いわゆる早獲り。日本漁業の悪循環の世界である。



この既知の問題に対して、猿払村は「グループ化によって競争を排除した」。一人ひとりの漁師が早い者勝ちを競い合うのではなく、全体の利益をプールしておいて、それを月給として配分することにしたのである。

「その結果、漁師一人当たりの平均年収は何千万円にもなりました」

なんと、貧乏を見たくて猿払に行っても、もう貧乏が見られないではないか。



◎歯止め


「漁業って『良いときあり、悪いときあり』なんですよ」と勝川氏。

そのムラを軽減するためには、ときに「規制」も必要になるのかもしれない。

自由な競争ばかりでは、どうしても先行者利益にばかり目が行ってしまう。そうした早い者勝ちの世界では、一時的に強い者しか勝ち残れない。長期的な視野はむしろ弱点ともなってしまうため、「機が熟す」のを待っている余裕などもてようもない。



ノルウェーやニュージーランドでの成功例は、「資源が有限である」ということを直視した結果でもあろう。有限ならば育つのを待ったほうが賢い。待ってるだけで利益は膨らんでくる。

そこには、青田刈りをするような無法者は存在しない。それをやり出したら際限がなくなり、有限な資源はますますその量を減らしてしまうことは分かりきっている。ここはどうしても歯止めをかけたいところである。



この問題は漁業だけには留まらない。

この世界経済が一分一秒を争う世界になってしまったのは、なぜなのか。一日たりとも仕事を休めない人も少なくない。

いったい、この世界は「歯止め」を失ってしまっているのだろうか。GDP(国内総生産)競争というのは、ややもすると早い者勝ちを喜ばせるだけにも終わってしまう。四半期(3ヶ月)ごとの成果ばかりを追いすぎれば、いつしか海からは魚が消えてしまうかもしれない。



はたらけど、

はたらけど猶、わが生活楽にならざり

ぢつと手を見る



石川啄木は「一握の砂」でそう謳った。

しかし、われわれ現代人は「ぢつと手を見る」ヒマさえも持てていないのかもしれない…。







関連記事:
人の生んだ「トラウトサーモン」。マスでありサケであり、オスでありメスである…。

消えゆくウナギ…、流され続けたウナギの行く先は…。

クジラを優しくした魔法。小さなオキアミと怖いシャチ



出典:農業経営者2012年11月号
「日本の漁業を復活させるための処方箋」

posted by 四代目 at 06:33| Comment(0) | 農業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月08日

電照菊の灯りとともに消えるもの。愛知県の菊農家


秋の夜長に煌々と明かりが灯る農業ハウス。

それは東三河(愛知県)の風物詩。



そのハウス内で栽培されているのは「菊」。

夜中まで人工的に灯をともすのは、菊の開花時期そして出荷時期をコントロールするため。菊は、日照時間が短くなると開花するという性質があり、人工的に明るくしてやることで本来の開花を抑制することができるのである。

菊の栽培・出荷にかけては愛知県が日本一。作付面積は日本全土の25%(1286ha)、出荷量は同28%(4億6,520万本)。



ところが現在、その風物詩であったハウスの灯が揺らいでいるという。

その原因はといえば、折りしもの原油高、そして他国からの輸入などなど、グローバルな荒波による影響だと言うのだが…。



◎原油高


菊用だったそのパイプハウスは、重機によって小さな塊に折り畳まれてしまっていた。

「今年だけで3haのハウスを潰したね。油があまりに高いから」

よく日焼けした60代ほどのその男性は、農業の経験があるという解体業者。菊の主産地である東三河(愛知県)でビニールハウスを相次いで取り壊しているのだという。



「いまの菊の値段じゃあ、油を焚くだけ赤字になるからね」

ここ数年間で、原油価格は高騰し、逆に菊の値段は急落していた。



3年前までは1リットル50円程度だった農業用施設のA重油。それが今年4月には85円(70%増)という過去再高値にタッチすると、以後70〜80円という高止まりを続けている。

「菊の生産費のうちで原油代は17%を占める(個人出荷の場合)」と農業指導員は言う。「おまけに、原油高はビニールなど他の農業資材の高騰も招くので、わずかな値上がりでも菊のような施設園芸の経営には響いてくるのです」。

もはや原油高は「わずかな値上がり」では済んでいない。その影響たるや激震である。パタパタとビニールハウスが畳まれていくほどに…。



◎過去類を見ない相場


通例、生産費の高騰は、商品価格の値上がりにも繋がるものであるが、不幸にも菊の場合にはそうはならなかった。逆に値下がりしたのである。

たとえば、輪菊の主力品種である「神馬(じんば)」を見てみよう。菊の平均単価は約40円という中、6月は30円前後(約25%減)、悪い時で17円にまで値を下げた(約60%減)。6月に東北地方に送ったという白の輪菊はもっとヒドい。1本あたり5〜6円。「例年ならこの時期、70〜80円なのに、今年は10分の1にも満たない」。

相場表には「非常に軟調、過去類を見ない相場」、「回復の兆しなし」などなど暗澹たるコメントばかりが記されていた…。



わざわざ油を焚いてまで菊の開花時期を調整するのは、ひとえに高値で菊を売るため。そのためにコスト増という犠牲を払っているのである。ところが、その見返りは少ないどころかマイナスになってしまっていた。

1箱200本入りで1,000円少々。箱代が300円、運送費が400円…、「1箱ごとに数百円の赤字」だった。



菊の価格急落の遠因は「原油高」にあった。

原油高を嫌気した各農家は「できるだけ加温代のかからない作型に一斉に切り替えた」。そして、本来は4〜5月に出荷するはずの秋ギクを、6〜7月に2ヶ月ほど遅らせた。というのも、時期を遅らせれば重油代を節約できたからだ。すると何が起こったか?

遅くなった秋ギクの出荷が、生育の早まった夏ギクの出荷に重なってしまった。本来、秋ギクと夏ギクは、それぞれ別のピークをつけるものである。ところが、その2つの山が不幸にも重なりあって、全国的に供給過剰となりモロモロと値崩れを起こしてしまったのだ。

良好なる天候の推移が、夏ギクの出荷を予想以上に早めてしまっていたのである。



◎常春半島


日本一の菊生産を誇る愛知県のなかでも、その生産拠点となっているのは東三河の「渥美半島」。

愛知県は昆虫のアゴのように2つの半島が飛び出ているが、渥美半島というのは静岡寄りの半島であり、その年間を通した温暖な気候から「常春半島」とも呼ばれている。

その常春半島の付け根部分にあたるのが「豊橋市」。そしてその先に伸びるのが「田原市」。渥美半島はこの2つの市から成り立っている。



「菊で儲けたら、高級車を買うというのが当たり前だったね」

ある菊農家はそんな昔を振り返る。渥美半島の田原市といえば、トヨタの高級車「レクサス」を製造する国内最大の工場も建っているのである。

ちなみに、田原市は市町村別の農業産出額で「全国一位」にもなったことがある(2006年実績)。その総額724億円のうち、およそ半分の354億円を叩き出したのが、ほかならぬ「菊」であった。



秋の夜長に人工灯をともして栽培する菊を「電照菊(でんしょうぎく)」という。

菊の少なくなる正月から彼岸の時期に菊を供給するために、この栽培技術は考案されたのであった。それは今から80年前の1932年(昭和7年)、渥美半島の付け根にあたる豊橋市においてであった。

本格的な栽培が行われるのは戦後の1947年以降、半島の先の田原市にまで栽培は拡大し、以後、日本一の名をほしいままにしてきたのである。



◎需要低迷と輸入拡大



ところが今、この半島に「かつてのような勢い」は見られない。

赤錆びた古いハウスは小さく折り畳まれるものも数多く、放置されたビニールハウスの中には雑草ばかりが旺盛に茂っている。

原油高騰以前にも、「すでに彼岸やお盆、葬儀での需要は低迷し、菊の消費は落ち込んでいた」。菊の作付面積は10年前を境に減少傾向。ピーク時から2割近くも落ち込んでしまっている(6280ha→5233ha)。



代わりに目立つのが「輸入品」。

「財務省の貿易統計によると、この10年間で数量ベースにして3倍以上という『急激な伸び』を示している」

輸入先はマレーシアやベトナム、中国など。いずれも恵まれた気候条件から無加温で菊が栽培できる地域ばかりだ。「スプレーギクに限っていえば、すでに国産の単価と変わらない」。



◎活路


「今年はもっとキャベツが増えるんじゃないか?」

金食い虫となってしまった電照菊の代わりに、田原市ではキャベツが盛んに作付されているのだという。近年、相場が好調なキャベツの生産は同市では増産基調にある。



キャベツによる複合経営を始める農家は増える一方。

彼らは「キャベツで稼いだカネを、菊の油代にあてる」と口をそろえる。

しかし、キャベツの座とて安泰ではない。野菜の高値は刹那的であり、相場の乱高下はひときわ激しい。供給過剰となれば、あっという間にその高値は暴落に転ずる恐れが常にある。



その周知のリスクを知る農家たちの中には、「他県」に活路を見い出す動きも見られはじめている。

たとえば、長野県の八ヶ岳山麓で「夏イチゴ」の生産を始めている人々もいる。国産イチゴの出荷時期は11月〜翌年5月が主体となっているため、夏場の国産イチゴは慢性的な不足状態であり、菓子店などはその時期をアメリカ産などで補っているのが現状なのである。

「それでも絶対量が足りないうえ、国産を望む声も高い」



◎苦境


愛知県といえば、「日本一の農業産出額を誇る、粒ぞろいの農業経営者」のそろう一等地。

愛知県では、年間販売額が1,000万円以上の農家層が県全体の14%を占める。これは全国平均8%の1.75倍という高い数字である。そして、その上流層が県全体の農業収入の8割近くを稼ぎ出している。

「愛知県は日本で最も農業が発展した地域といえるのだ」

愛知という立地も、一大消費地である関東・中京・関西のいずれにも近い。じつに恵まれたマーケット環境である。



しかし、常春半島の風物詩であった電照菊のハウスの灯の揺らぎは、時代の流れを暗示している。

かの最強県・愛知といえども、安穏とはしていられないのである。それは何も農業に限った話ではなく、トヨタなどの世界的な大企業にも言えることなのかもしれない。



◎農業とは


かつての農業には「無数のスキマ」が放置されていた。野菜は旬の季節に限られたものであったし、正月には菊も十分になかった。そして、そこに「利益のタネ」が存分に隠されていたのである。

ところが今や栽培方法や技術の進展や目覚しく、そのスキマはここ何十年かでほとんど埋め尽くされてしまった。一年中同じ野菜がスーパーに並ぶことが常識となり、季節を外して栽培したからといって高値を期待できるわけでもなくなった。

おそらく、愛知県の菊農家が見つけた「夏イチゴ」というスキマすら、それが広く知られてしまえば、またたく間にそのスキマは埋まっていくのだろう。



ビニールハウスや温室による加温栽培は、じつに革命的な出来事であった。

しかしそれが今や農家の苦しみの元凶ともなっている。もはや、普通に栽培していては経営がおぼつかないのであるから。

かつての農家は、作物がロクに実らぬ冬場は幾分安穏としていられたのかもしれない。しかし、加温設備の充実は、彼らをコタツの中に留めておくことを許さなくしてしまった。



ここでは日本の恵まれた気候ですらアダとなる。

やれば何でも栽培できてしまうため、逆に、やらなければ干されていってしまうのだ。

なんとも贅沢な悩みでもある。世界には逆立ちしても何も育たぬ不毛の大地も多いのに…。



農業とは?

あまりに恵まれた日本国民の多くは、その本質を忘れてしまっているのだろうか。

それは日本の農家があまりにも優れていたからでもあるのかもしれない。



農業の思想は根源的であると思う。

どんなに文明が飛躍しようとも、われわれは土の上に立ち続けなくてはならない。

われわれの思想があまりにも宙に浮いて空転してしまった時、農業の世界はきっとひっくり返る。



かつて動かないとされた地球も、今は超高速で動いていることが分かっている。それは太陽とて同様。この宇宙に動かずに留まっているものを我々は知らない。

しかし、だからといってすべてが動いている前提で物事を考えることは人智では難しい。どこかを動かぬことにして、そこを根城にした方がいろいろな物事を理解しやすい。クルマの時速に地球の公転スピードを加算して考えるよりも、地球は動かぬことにしてクルマの時速だけを計算するほうがずっとシンプルだ。

その思考の根城の一つを、農業的思想に求めるのも悪くない。



利益を軸とした経済的な概念が、世界経済を軋ませていることはもはや疑うべくもない。

次の時代に雄飛するためには、きっともっとシッカリとした思考的地盤が必要とされるはずである。

農家たちの悲鳴は、もはや枯れてしまって聞こえぬほどだ…。







関連記事:
諦めの農地に実った赤いトマト。被災地に希望を与えた西辻一真

金次郎の目に映る「円い世界」。二宮尊徳

世界に広がる「日本のコメ」。田牧一郎氏の開拓魂。



出典:農業経営者 2012年11月号(200号)
「危機に直面する伝統産地 そこにある問題と可能性 電照菊」

posted by 四代目 at 06:11| Comment(0) | 農業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月07日

日本人がカンボジアでつくる「コショウ」。世界最高級


「クラタ・ペッパー(Kurata Pepper)」

それはドイツでもてはやされる「最高級コショウ」のことである。

「クラタ」というのは、日本人の姓である「倉田」。つまり、この世界最高級のコショウは、じつは日本人「倉田浩伸」氏がカンボジアの地で生産する胡椒なのである。



なぜ、「カンボジア」なのか?

倉田氏がその奇縁を得るのは、若き日の大学時代。NGOのボランティアとして同国に入ったことがそのキッカケだったという。倉田氏の任された仕事は、カンボジアの独裁政権ポル・ポト時代に避難民となってしまった人々を同国に帰還させるプロジェクト。



タイ国境のレセプションセンターで働いていた倉田氏に、難民となっていた人々はこんな不安を訴えていた。

「カンボジアには何も産業がない。どうやって生きていったらいいのか?」

はたして「ハコものだけの支援」で充分なのか? 国の自立にはもっと別の方法も必要なのではないか? 若き日の倉田氏にとってのこの疑問は、のちに続くコショウへの道の始まりでもあった。



「カンボジアは農業国だから、農産物を輸出してはどうか?」

倉田氏のチャレンジは、そこからスタートした。



「ドリアンはどうだ?」

その悪臭(失礼!)にも関わらず、日本に輸出するとドリアンの評判はたいそう良い。ところが、輸送の段階で問題が発生した。その「王様の匂い」が他の乗客のスーツケースについてしまうというクレームが来てしまったのである。

そのため、ドリアンは「危険物」という汚名を着せられてしまい、日本に輸送する手段はチャーター便という極めて高額なものしか選択肢がなくなってしまった。完全にアウト。コスト的に無理だった…。



「じゃあ、ヤシの実は?」

これもやはり輸送の問題で引っかかってしまう。他の荷物が上に乗せられて、その重みでヤシの実が破裂してしまった。周りの荷物は水浸し…。…失敗。



失意の中にあった倉田氏は、ある日何気なく目を通した資料に「コショウ」のデータを見つける。それは1960年代の農産物に関する資料であり、当時はコショウがカンボジアの主要な商品作物であることが記されていた。

現在、コショウの産地といえば「ベトナム」。同国の生産量は悠に世界の消費量すべてを賄えるほどに巨大である。ところが調べてみると、ベトナムで胡椒の生産が開始されるのは1960年代。じつは50年ほどの歴史しかない。世界に雄飛したのはここ15年という浅さである。



意外なことに、ベトナムが世界の輸出を占める以前、胡椒といえば「カンボジア」だった。しかもその歴史は遥か遠い中世から続くものであり、じつに700年以上。アンコールワットの時代から胡椒づくりの伝統があったのである。

植民地時代、カンボジアの胡椒は宗主国であったフランス人に高く評価されていたという。カンボジアの胡椒は「ほどよい辛さと爽やかな香り」がその特徴であり、それがまさにフランス料理の求めるものだったのだ。辛さが強すぎる胡椒では繊細なフランス料理の風味を損ねてしまうのである。



「これだ!」

倉田氏は直覚した。

カンボジア再生の道はコショウにあり。



残された資料を唯一の頼りに、かつてのコショウ産地を訪ね歩くと、なるほど「良い胡椒」がある。輸出産業が廃れてしまった今なお、その香りと味は優れており、品質は非常に高い。

それなのになぜ、カンボジアの胡椒畑は廃れてしまったのか?

それはポル・ポト独裁政権時代の悲劇だった。農民たちが強制収容所へと送られてしまい、コショウ畑のほとんどが根絶やしとされてしまったのだ…。



なんたる奇縁。

大学時代の倉田氏がカンボジアに関わるキッカケとなったのは、そのポル・ポト時代の避難民を帰還させる仕事。

そして今、その同じ時代に根絶やしにされてしまったコショウ畑の命運が、倉田氏の手に委ねられることとなったのだ…!



あるコショウ畑は、胡椒の木が3本しか残っていなかった。

ポル・ポト政権により強制収容所に送られていた3年間、まったくケアができなかったために「ほぼ全滅」してしまっていた。

それでもその畑の主は、少しずつ少しずつ必死に畑を広げ、1ヘクタールほどの面積にまでなっていた。しかし、品質のコントロールまでは及ばず、お世辞にも商品にできるものではなかった。



そこで1997年、倉田氏は自社農園を持つことに心を決める。最初の土地は1ヘクタール、50年契約。カンボジアの首都プノンペンからは160kmも離れた片田舎であった。

その地域は依然としてポル・ポト派が力を保持しており、封鎖なども日常茶飯事で自由な往来すらかなわない。そもそも道路自体のインフラ整備などもなされていなかった。

そんな中、倉田氏はオフロードバイクにまたがってでも自社のコショウ畑に通い続けたのだという。



現在、その畑はより条件の良い場所に移転がかない、6倍近くの6ヘクタール弱にまで拡大している。直営のほかの契約畑はその5倍の30ヘクタールにも及ぶ。従業員は36人。日本人は倉田氏一人。

倉田氏の目指すのは、安心・安全のコショウづくり。徹底的に有機栽培にこだわっている。その品質の高さが、世界一のコショウ消費国であるドイツの厳しい舌をも唸らせているのである。

それでも倉田氏は、まだスタート地点にすら立っていないと感じている。彼の考えるスタート地点とは、「ポル・ポト時代の前の姿」。「世界一」の称号をほしいままにしていた栄光の時代である。



栽培の面での困難も幾多とある。

コショウの木は若い時には多くの実がとれるものの、古木になってしまうと収穫量が激減する。最高に採れる時は1ヘクタール当たり5トンも7トンも採れるのだが、平均すればその半分にも満たない。

有機栽培にこだわる倉田氏には、さらなる困難もある。木が弱ってきた時に薬が使えないために、収量減少の問題がいまだに克服できないのである。



また、労働力も問題だ。

コショウの労働力は収穫の一時期ばかりに大量の人出を必要とする。だが、コショウ畑のような田舎にはなかなか人が集まらない。町に働きに出ている人々が収穫の一時期にだけ手伝いに来てくれるのは難しいのである。

人手不足による収穫の遅れは、意外なダメージをコショウ畑に与えることとなる。基本的に黒胡椒というのは「緑の実」を収穫するのだが、収穫が遅れると熟して「赤い実」になってしまう。すると、「土がドンドン痩せていく」。実を熟させるパワーというのは相当なもので、赤く熟すまで樹上に放っておくと木の体力までもがミルミル落ちてしまうのだ。

土地と木が消耗すれば、病気や害虫にも弱くなる。薬剤を使えない有機畑にとっては致命傷だ。つまり、収穫の遅れはこうした悪循環の起点ともなってしまうのである。



「町に行かなくても同じくらいの収入が得られる仕組みが必要です」

今のカンボジアの人々は、家族で一緒に暮らしたがるのだという。本当は家族から一人離れて町へ出稼ぎになど行きたくないのである。だから、もし農村に通年頼れる仕事があれば、そこで働きたいのだという。

そのためには今の規模では小さすぎる。販路を拡大しなければならない。そのマーケットはどこへ広げるのか?

「ドイツが一番です。ドイツは日本の4倍くらいコショウを消費します」

また、デンマークやカリフォルニア州(アメリカ)も有望だという。日本では愛知県。倉田氏の妻の出身地という縁に加え、日本有数の農業発展県でもある(愛知県は1000万円以上の年収を上げる農家の割合が極めて多い)。



「日本企業とタイアップして開発を進めています。近々日本のマーケットにも並べられるようになるのではと思います」

この秋から、「クラタ・ペッパー」は日本での販売を開始した。しかし、取り扱いはアマゾンや紀伊国屋インターナショナルなどと限定的である。

それでも反響は大きい。レビューには「この胡椒を使ったら、他のものは使えません」とまで書いている人もいる。どうやら、その人は現地カンボジアで、クラタ・ペッパーの「比類なき香り」に魅了されてしまったらしい。「アマゾンで買えるようになって一安心です」。





「カンボジアには、まだまだ宝の山が埋まっています」

倉田氏はそう語る。「地元にあるもので世界的に価値のあるものを、もっともっと世界に出していきたいですね」。

実に力強い言葉である。暗中模索の地からコショウを引っ張りだしてきた人物の力量や、推して知るべし。ベトナムがたった15年でコショウの天下を獲ったのなら、かつて世界一だったカンボジアがその座を奪うことも決して夢ではないだろう。幸いにも、この地の伝統は熾烈な内戦を経験しながらも、根絶やしにされてしまったわけではなかった。



倉田氏のスピリッツとカンボジアの風土が出会って生まれた「クラタ・ペッパー」。

今の企業規模は決して大きいとはいえないものの、その中身は日本を代表する堂々たるグローバル企業のそれである。



もし、カンボジアに宝の山が眠っているのなら、もっと歴史の深い日本には、どれほどの宝が埋もれているのであろうか?

未来の芽は、希望という土壌の上に顔を出すのだろうか。倉田氏がカンボジアのコショウに見ている希望は、日本の農業がもつ潜在力に比すれば、ひょっとすると決して大きいものではないのかもしれない。

それでも彼はすでに、国際的なコショウ会議に招かれるほど世界への発言力をもっている。



日本のスーパーにもクラタ・ペッパーが並ぶ時、それは日本人として誇れる瞬間でもあるだろう。

カンボジアを救わんとした倉田氏の志が、母国日本にも恩恵をもたらすこととなるのだから。



世界に誇れる日本人。

倉田浩伸氏は、そんな一人となるのだろう。

コショウの花咲くカンボジアの地で…。







関連記事:
世界に広がる「日本のコメ」。田牧一郎氏の開拓魂。

韓国に増えつつある猛烈農家「強小農」。自由貿易ドンと来い!

新たな「緑の革命」へ。40年後の食糧確保



posted by 四代目 at 12:00| Comment(2) | 農業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする