「売薬(ばいやく)さん」
それは、越中・富山の薬売り。
半年に一度、家々を訪問しては「家庭の常備薬」を薬箱に補充していく。
売薬さんの背負ってくる行李(こうり)は大きい。
子供らはクスリには興味はないものの、「紙風船」は楽しみにしている。売薬さんの行李には決まって紙風船が入っていたのだ。
念の入ったもので、その小さな紙風船には「薬の広告」が印刷されている。
江戸時代から続くという、この商売。悠に300年以上の歴史を誇る。
「今もこの仕事に携わる方が、全国で2万2,000人ほどいます」
現代の売薬さん「森田裕一(もりた・ゆういち)」さんは、そう話す。
なぜ、富山の薬売りは300年以上も商売を続けることができたのか?
その根底には、彼らの守り続けてきた「ある哲学」があった。
◎家庭の「置き薬」
「私の場合、東京・埼玉・千葉を中心に、約1,800軒のお得意様を回っています」と森田さんは話す。
「朝から夕方まで13軒ほど車で訪問し、同時に『新懸(しんがけ)』といってお得意様の近くにある家々を開拓することにしています」
「家々を訪問して、まずは『薬箱』を置かせていただきます。半年に一度、定期的にお伺いして中身をチェックし、使った分だけお代をいただく。さらに薬を補充し、使われなかった分も期限が近づいているものは新しい薬と入れ替えます。そういうとてもシンプルな商売なんです」と、森田さんは説明する。
富山の薬売りは、薬事法に規定されている「れっきとした医薬品販売業」。
薬事法は「店舗販売業」「配置販売業」「卸売販売業」という3種類の販売業を規定しているが、売薬さんのように「置き薬」を置く商法は、「配置販売業」の許可を得ることになる。
「薬の減り具合を見ると、ご家族の健康状態はおおよそ分かりますね」
森田さんは薬や医学に対する正しい知識を得るため、大学のセミナーに参加したり、講習会があると聞けば足を運んでいるのだという。
「そこで訪問の際には、世間話を交えながら健康に関する情報をお届けしてきます。『お酒を召し上がるのでしたら、そのまえに熊胆円を飲んでおくといいですよ』とか、『乗り物酔いには湿布薬をみぞおちに貼っておくと、少し楽になると思いますね』とか」
売薬さんの持つ縄張りは「懸場(かけば)」と呼ばれ、その顧客データが記されたものを「懸場帳」という。
「これは富山の薬売り300年の知恵なのですが、どんな薬をいくつ配置して、何がどれだけ使われたかといったことに加えて、お得意様の健康状態や家族構成なども一目で分かるよう記されています」
「一昔前までは、どこそこから銀杏をいただいたとか、仲人を依頼されたとか(笑)。そういうことまで細かに筆で書かれていたようです」
◎日本一貧しい藩
「『富山といえばクスリ』と皆さんおっしゃいますが、『なぜ薬なのか?』をご存知の方は少ないと思います」
そう言いながら、森田さんはその歴史を語り始める。
「そもそものスタートは、江戸初期にさかのぼります」
富山県は当時、「加賀藩」の一部として120万石を誇る大大名・前田家の領内にあった。
しかし、120万石という「大きすぎる禄高」が災いし、幕府から「謀反の嫌疑」をかけられてしまう。そこで頭をひねった加賀藩、兄弟3人で領地を分割することとする。
そして、加賀藩は3つに割られた。「加賀藩」および「富山藩」「大聖寺藩」の3つである(1639)。
ところがこの3領地、仲良く3等分にされたわけではなかった。長男の継いだ「加賀藩」が大半の領地、そして港などの交通の要衝を押さえた。
「富山藩」はというと、富山平野の中央を流れる神通川に沿う細長い領地を充てがわれたのみで、その神通川はしばしば氾濫をおこす暴れ川。その流域の平野部にも低湿地が多く、決して治めやすい土地とはいえなかった。石高はといえば、わずか「10万石」にすぎない。
「"富山"という地名とは正反対。経済面では大変逼迫した状況に陥り、『日本一貧しい藩』になってしまいました」と森田さんは言う。
「何とか、財政を持ち直す方法はないものか? その時考えられたのが『売薬』でした」
富山は名峰「立山」のお膝元。この地域には「立山信仰」の衆徒によって「護符や薬の頒布」が行われていた。それは、「使った分だけ代金をいただく商法」の原型でもあった。
そして、その立役者となるのが富山藩2代目藩主「前田正甫(まえだ・まさとし)」。合薬の研究を進め、富山で最も有名となる「反魂丹(はんごんたん)」を全国に売り進めるのである。
◎反魂丹
「反魂」とは、死者の魂を呼び戻す、つまり死者を生き返らせるという意味で、古く中国はそのような薬を「反魂丹(はんごんたん)」と呼んでいた。
「反魂丹」という霊薬は、室町時代に日本に伝播してきた。唐人から処方の伝授を受けたのは堺の商人・万代家(まんだい・け)。江戸時代には岡山藩の「お抱え医」とされた家柄である。
ある時、富山藩2代目藩主「前田正甫(まさとし)」は「腹痛」を起こした。
すると、万代家11代目の万代常閑がさっと「反魂丹」を取りいだす。みるみる効いた反魂丹。すっかり感心した正甫公は、その処方の伝授を受ける。
それ以来、前田正甫公は反魂丹を肌身離さず、印籠に入れて常時携帯するようになったという。
その印籠内の反魂丹が役に立つのが、江戸前期の1690年、江戸城での会議の折り。
三春藩主「秋田輝季」が突然の激しい腹痛を訴える。そこで正甫公、肌身離さず持っていた「反魂丹」を進めたところ、その腹痛はウソのように消えてしまう。
これを見ていた諸大名、その薬効に驚き、われもわれもと自分の藩内での販売を正甫公に頼み込む。それからである、富山の薬売りが全国を歩くようになったのは。
◎富山の薬売り
土地の石高は少ないとはいえ、富山藩は幸いにも交通に便利であった。
日本海沿いの「北陸街道」と、山越えの「飛騨街道」の結節点に位置し、また海上交通では、「北前船(きたまえぶね)」による日本海航路の発達によって、北は北海道から南は鹿児島までの道が拓けていた。
じつは富山藩、江戸時代に入る前から薬とは縁があった。戦国時代にはすでに「唐人の薬座」ができており、江戸時代に入ると、丸剤や散剤を製薬する専業店が現れる。
薬の原材料を「薬種」と呼んだが、意外にも富山はその産地ではない。伝統的に中国大陸からの輸入品を用いており、富山の薬種商は長崎出島から大阪に入ってきたものを吟味して、仕入れを行なっていたという(反魂丹も元は和泉国・大阪がその中心地だった)。
つまり、内に資源をもたぬ富山藩は、巧みに外の力を活用し、売薬の道を切り拓いていったのである。富山の薬は藩に庇護されたこと、殿様のお墨付きを得たことに加え、畏れ多い霊峰・立山のふもとで作られるということで、「薬効あらたかな越中富山の反魂丹」という有難い御利益も添えられたのであった。
江戸当時、薬の商売はすでに全国にあった。
「映画の寅さんのように、街頭に人を集めては口上を述べながら売るのが一般的でした」と森田さんは言う。
それに対して、富山の薬売りは家々を一軒一軒訪ねて回り、その家々に「薬箱」を置いて回った。「お代は後からで結構です」と言いながら。これは当時、全く新しい富山藩独自の商法であった。
富山の薬売りは、もともと農家の収入を補う手段の一つとされたため、その行商人たちの身分は「農民」。
そのため、農閑期に全国を巡る薬売りたちも、田植えや稲刈りの繁忙期には富山藩に戻らねばならならず、旅先で店を構えることは許されたなかった。
これは、都市部で富を蓄えて豪商となった近江商人などとは対照的である。富山の薬売りたちは、あくまで富山藩を離れることができなかったのである。それは、この商売が富山藩の財政を支えることを目的とされていたためでもあった。
◎先用後利
「故郷をあとにした行商人たちは、定められた各国の懸場(営業地)に向かって歩み続けました。五段重ねの柳行李を包んだ風呂敷を背負い、九州薩摩藩、本州最北端の松前藩まで黙々と歩くんです」
森田さんが言うには、江戸末期には富山藩内に3,000人近くの薬売りがいたという(現在およそ2万2,000人、うち富山県内は1,500人ほど)。
「300年来の私たちの哲学を一言で申し上げますと『先用後利(せんよう・こうり)』。まずはこちらから物を提供させていただいて、利は後からいただくというのが根本にある教えです。これを富山藩の時代から300年、地道に続けてきたわけです」
済世救民の志が強かった前田正甫公、「病を治すのが先で、利益は後でよろしい」という心を持っていたという。
「薬売りたちは家々で薬を点検しながら、近くの町で流行っている芝居の話や、注意しなくてはならない流行病、農作物の収穫の状況などなど、いろいろな話を提供するので、商人たちの訪問を皆心待ちにしていたようです」と、森田さんは話す。
そうした話し上手、聞き上手は現代にも受け継がれているようで、お得意様との話は決して疎かにすることがないという。
森田さんの父親も同じく「売薬さん」だというが、その父親は受話器を手にしながら「そうですか、そうですか」と熱心にお得意様の話に耳を傾け、30分でも1時間でも聞いていることも珍しくないのだそうだ。
富山商人が大切にするのは、「相手を親戚のように慮る」ということ。
売る努力の前に、人が何を必要としているか、話を聞くことに徹する。人の心内に入ってこそ、その「用」を知ることができるのだと言う。
「一軒に30分以上かけることもあります」と森田さん。「置き薬の会社によっては、とにかく一日に何軒回るかを目標に課されているところもあるようですが、それは富山人の精神ではありません」。
「用」を聞くとともに醸成されてゆく「信頼」。
「同じ薬でも、森田さんから渡されると、まったく効きが違うね」とも言われるようになったという。
まさに霊峰・立山の霊験あらたか。富山人の精神の成せる技であろうか。
◎苦境
とはいえ、江戸時代に富山の薬売りらが煙たがられることも少なくなかったという。
「とくに幕末に近くなると、どの藩も財政が厳しくなり、『国内産業の保護』に重点を置くようになります。そうなると、富山の売薬商人のような『外来商人』は極めて目障りな存在になったんです」と森田さんは話す。
5年、6年、ときには10年という商売差し止めを食らうこともあったのだとか。経済が苦しくなると内に籠りたくなるのは今も昔も一緒のようで、富山藩のように外に活路を見出す例はマレである。かつての世界大恐慌も、今のユーロ危機も内に籠ったゆえの惨劇であったろう。
たとえ他藩に睨まれても、「富山のクスリ」に対する庶民の信頼は絶大。富山の薬売りらは、藩に請願文を出すなどしてその信頼の高さを訴え続けたようである。
さらに、他藩に「利」を渡すことも忘れてはいない。
「富山の薬を売る代わりに、その藩の特産品を他国で売る手伝いをしたのも一つの手段でした。たとえば熊本藩に対して、国産品の胃腸薬『黄連丸』を他国で販売することを提案しています」と森田さんは言う。
売り上げを熊本藩に差し出すことで、その藩内の懸場(営業地)を確保していったというのである。
明治に入ると、西洋の薬の流入とともに、またも富山の薬売りは苦境に立たされる。
明治新政府は西洋志向が強かったため、旧来の薬売りらには厳しく当たった。その新たな売薬規制によって、富山の薬売りは「薬の使用の有無に関わらず、薬剤一つ一つ」に印紙税を納めることを強いられた。
先にも記してきたように、富山の薬売りは、お客が実際に使った薬の分だけを代金回収する商法だが、明治政府はそれを無視し、置いた薬すべてに課税したのである。
さらに第二次世界大戦後、GHQの占領政策下でも富山の薬売りは敵視される。
GHQが疑問視したのは「置き薬の安全性」である。安全性の欠ける配置販売を禁止し、薬は薬剤師のいる店舗でのみ販売すべきだと主張してきたのである。
だが幸いにも、最終的には「置き薬」の意義が認められ、1948年に施行された改正薬事法の中で、富山の薬売りは「配置販売業」として法的に認められるようになる。
◎堅さと諦めのよさ
「辛抱、辛抱、辛抱は金じゃ。辛抱する木にはカネがなる」
森田さんの祖母は、常々そう言っていたという。我慢、我慢で、お得意様には頭を下げ続ける。
「これは富山の県民性でもあるわけですが、おそらく江戸時代から育まれてきた精神でしょうね」と森田さんは言う。
2008年の総務省の統計によると、富山県民の「共働き家庭」は全国3位、「女性の就業率」は同4位、「平均勤続年数」はトップ。
「これも富山商人の伝統を受け継いだためなのでしょうか。富山で『堅い』というのは、真面目にきちんとしているという意味ですが、これはいまも富山では最高の褒め言葉なんです」と森田さん。
他国へ行けば、富山藩の保護が行き届かなかった富山商人。他藩でハメを外して出入り禁止にでもなろうものなら干上がってしまう。
「富山商人は、飲酒も色町への出入りもともに御法度とされていて、そこでも自律の精神が求められました」と森田さんは言う。
そうした精神の元に大成した富山の偉人たちには、ホテル・ニューオータニの創業者「大谷米太郎」、丸井グループの創業者「青井忠治」、安田財閥の創業者「安田善次郎」らが名を連ねる。
その「堅い」一方で、富山人には「諦めのよさ」もあるという。
「『いっちゃぁ』という方言は、ケ・セラ・セラと同じく、全力を込めてやるだけやって駄目なら仕方ない。またリセットして頑張ろうという諦めのよさです」と森田さんは話す。
「そういう楽天性というか、きっぱりした大胆さがあることも薬売りが300年続いた大きな理由だと思います」
◎時と空間を超えて
2001年、モンゴル政府から日本に「医療援助」の要請があった。その時に、日本財団が知恵を絞って思い至ったのが「富山の薬売り」だったという。
「遊牧民の手元に薬箱を預け、必要に応じて薬を使ってもらい、定期的に代金回収に訪れる仕組みを導入できないか」と考えたのだそうだ。
モンゴルでは今でも多くの国民が「遊牧民」として草原に暮らし、都市の医療機関は利用しづらい状況にある。さらに、旧ソ連に医療サービスを依存していた時代に、生薬を利用するような伝統医療が事実上禁止されていたため、それも廃れていたのである。
その「置き薬」と同時に、富山の薬売りの哲学である「先用後利」の精神も、教育面での価値があるとしてモンゴルに伝えられることとなった。
その後、同様にして富山の商法は、2008年にはタイで、2009年にはミャンマーでも導入が図られる。広貫堂をはじめてとする富山の薬売りの協力のもとで、モンゴルから東南アジアへと、そのネットワークは広がっていったのである。
モンゴルと東南アジアは地理的に離れているといえども、同じ「仏教文化圏」。伝統医療としての漢方などには深い馴染みがあった。
また日本でも、富山の置き薬商法は形を変え、江崎グリコの「オフィス・グリコ」という「置き菓子」商法に実践されている。
「お菓子の専用箱」や「アイスクリームの専用冷凍庫」などをオフィスに置き、会社の人々は自分がお菓子を食べた分だけ、代金箱に料金を投入するのである。お菓子の補充や入れ替えは、江崎グリコの職員が定期的に行うことになっている。
さらに、置き薬発祥の地・富山県では、高齢者を対象にした「生活便利箱」という取り組みが始まっている(黒部市)。
その便利箱には、生鮮食品や衣料・日用品などが詰め込まれており、やはり使った分だけ月一で代金回収が行われる。
海外に出るにしろ、形を変えるにしろ、その根底に流れるのは「先用後利」の心。
300年の時を越え、培われてきた精神。商売は上手くいく時もあれば、落ち込む時もあった。それでも、富山商人は堅くも諦めがよかった。
そのシンプルな哲学は、いまの時代にも求められている。
「続かない事業は、成功とはいわない」
これは、現在の「売薬さん」、森田裕一さんの言葉。
彼は今日も、一歩一歩とその歩を進めるのであった。
(了)
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「富山の薬売りに学んだ仕事の哲学 森田裕一」