2016年10月23日

”こころ”の腰痛[夏樹静子]



54歳になって一ヶ月、夏樹静子(なつき・しずこ)さんは突然、「得体の知れない腰痛」に襲われた。

彼女は言う。

「腰から背中にかけて『鉄の甲羅』でも貼り付けられたよう」

痛くて立っていられない。椅子に座っても痛い。やむなく歩くが、休もうと立ち止まると、もっと痛む。もはや、本人の存在自体が「痛み」と化してしまっていた。

以下、夏樹さん本人の談による。







「突然、椅子にかけられなくなっちゃったんです」

1993年1月のある朝のことだった。

「で、当然ながら検査をうけますね」

整形外科はじめ、神経内科、内臓などあらゆる検査をうけた。

「でも、なんにも出てこないんです」



ある医者は言った。

「あなたは長いこと座ってばかりいて、筋肉が弱ったんだろう。運動不足です。水中で歩くのがよろしい」

それを聞いて、作家である夏樹さんは納得した。

彼女は言う。

「わたしは思い込むと単純でございますから、一週間に3〜4回もプールにいきました。でも、水中歩行っていうのは、おもしろくもおかしくもないんですよ(笑)」



3〜4ヶ月は、治りたい一心で歩きつづけた。

されど、さしたる効果はみられない。

「そのうち今度は『霊が憑いてる』とか言われて(笑)。『あんた、推理小説でいっぱい人を殺したから、その被害者の霊がみんな、あんたの腰に取り憑いてるんんだ』とかって(笑)」






ある人は「池が悪い」と言った。

「家に『動かない水』があるのが良くないんだ」と。

その言葉を最初は、せせら笑って聞いていた夏樹さんであったが、半年も痛みがつづくと、もう笑ってなぞいられない。

「池を埋めました(笑)。あと、お祓いもやっちゃって(笑)」



それでもダメだった。腰はギリギリギリギリ悪化する一方。

とはいえ作家の仕事に穴はあけられない。連載をドタキャンなどできるわけがない。

「もう、腹ばいで書きました」



そんな腰痛の日々が2年、3年とつづいた。

夏樹さんは言う。

「もう治らないんじゃないか、と思いはじめたら、人間、ほんとに落ち込みますね。希望を捨てた途端に、もうドッと落ち込みます。もう治らないんだったら、なんの夢もない。楽しみもない。家族に迷惑はかけるし、かっこ悪いし…。もう死にたい、もう人間やめたいという思いになりました」

不安で夜も眠れない。

「わるい悪いと思いながら、睡眠薬をずいぶん飲みました。この痛み、苦しみから逃れるためには、もう眠る以外にないわけです。でも、薬で眠っても、はやばやと眼が覚めてしまいます。そうしますと、朝まで二度と眠れなかったですね」






「”こころ”が原因です」

と、ある心療内科のドクターは言った。

しかし夏樹さんには、その言葉に非常な抵抗を感じた。

彼女は言う。

「たかが心因(ストレス)で、こんな酷い症状が起こるわけがないと思って、頑として受け入れられなかったんです。受け入れられなかった最大の理由は『症状が酷すぎる』と思ったからです」



夏樹さんは、真っ向からドクターに刃むかった。

「たかが心因で、こんな症状がでるとは思えません」

ドクターから返ってきた言葉は、意外なものだった。

「心因だからこそ、どんな激しい症状でも起こりうるのです」







結局、不承不承ながら、夏樹さんは入院することになった。

腰痛発症から3年、1996年1月のことだった。



心療内科でまず課されたのは「絶食療法」だった。

「12日間、なんにも食べない。精神的にも、あらゆる情報をカットする。電話も、読書、新聞、ラジオ、そして面会者も」

絶海の個室で接するのはドクターとナースのみ。



するとどうだ。

「ウソのように治る」どころか、この3年なかったほどの猛烈な痛みが、夏樹さんの腰をめがけて一斉に襲いかかってきた。

苦しみにあえぐ夏樹さんを尻目に、ドクターは落ち着いた声で言った。

「あなたは、自分が意識できる”こころ”だけを、自分だと勘違いしているのではないですか? 人間の心には、意識と、その下に何倍もの潜在意識があるのですよ。あなたの潜在意識は『もう休みたい、休みたい』と悲鳴をあげているのです」



そしてドクターは、夏樹さんの本当の病名を明らかにした。

「『疾病逃避』というのが、あなたの病気のカラクリです。潜在意識が『休ませてくれ、休ませてくれ』と悲鳴をあげているのに、顕在意識のほうは『やるぞ、やるぞ』といきり立ってばかりいる。そして両者がどんどんどんどん乖離していって、とうとう潜在意識のほうが疾病に逃避、逃げ込んだのです。『病気になれば休んでくれる』と思って」

顕在意識である「作家としての夏樹静子」から、潜在意識たる「出光静子(本名)」が逃げ出した、というのである。



そしてドクターは言った。

「『夏樹静子』の葬式をだしましょう」

この段になって、夏樹さんも観念した。

「わかりました。『夏樹静子』はもう捨てます」



快方にむかいはじめたのは、その頃からだった。

夏樹さんは言う。

「ほんとようやく、『やっぱりストレスが原因だったのかなぁ』と思えるようになってから、ほんとにウソのように不思議なことですけれど、あの激痛が、すこしずつ少しずつ穏やかになっていったんです」



まる3年間、夏樹さんを執拗に苦しめた腰痛は、この2ヶ月間の入院で完治した。

1996年3月のことだった。

夏樹さんは言う。

「すべての原因は『おのれの心』のなかにあったのだ、ということを悟らされました」







書籍「腰痛放浪記 椅子がこわい」が出版されるのは、退院から丸一年がたってからである。そろそろ、「作家である夏樹静子」も退院させようということになったのであった。

この愚直なまでの闘病記は、予想外の反響をよんだ。

「いままで読んだ、夏樹静子のどの小説よりも面白かった」

そんな読者の率直な感想を、「作家である夏樹静子」は苦々しく聞くのであった。






(了)






出典:夏樹静子「腰痛放浪記 椅子がこわい」



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2016年05月11日

生死の境にのぞみつつ [皆藤章]



「これから母を殺しにいきます」

カバンから包丁をとりだすと、その人は立ち上がった。



その時のことを、皆藤章(かいとう・あきら)臨床心理士は語る。

「その人は幼いころ、母親が目をはなしたスキに車にひかれ、身体に重い障碍(しょうがい)が残ってしまいました。面談ではしばしば、鬱積した母親への憎しみを繰りかえすのでした」



「よろしいですね」

包丁をもった男は言った。

皆藤氏は、なにも答えられずにいた。



皆藤氏は言う。

「ここは体を張って止めるべきところではあるけれども、この人の気持ちも痛いほどわかる。はたして私は、自分の心に一点の曇りもなく『やめなさい』と言えるだろうか…」



知らず、皆藤氏の頬に、幾筋かの涙がつたっていた。

男は、その涙をじっと見つめ、言った。

「すみませんでした…」

包丁をカバンにおさめた。







「死は決して私たちと無縁ではありません」

臨床心理士として生きる皆藤氏は言う。

「生と死のギリギリの境目で苦しむ人たちがいるのです」



皆藤氏が臨床心理士となったのは、日本を代表する心理学者、河合隼雄(かわい・はやお)の影響がおおきかった。

皆藤氏は言う。

「河合先生の最初の授業が、わたしの人生を変えたのです。臨床心理学の『臨床(りんしょう)』は『床(とこ)に臨む』と書く。そして『床(とこ)』は死の床を意味している。つまり臨床とは、死に逝(ゆ)く人のからわらに臨み、その魂のお世話をすることだ、と話されたのです」







河合先生は温和な人であった。

しかしその先生が珍しく、声を荒げたことがあった。



皆藤氏は言う。

「学会に出席するため、ある方との面談をお休みしているあいだに、その人が自死されたことがありました。面談を休んだことを悔いた私は、

『もし私が学会になど行かずに面談していれば、その方は亡くならずにすんだかもしれない』

と話したとき、河合先生は

『馬鹿者!!』

と、わたしを一喝されたのです。

なんと甘いことを考えているのだ、と。

『人間の死というものは、そんな単純なことではない。解き明かせないほどの要因が幾重にも連なって、人は亡くなっていく。きみが会っていれば死ななかったというのは、その人に対して、ものすごく傲慢な態度だ!』

懇々(こんこん)と諭(さと)され、わたしは心を穿(うが)たれる思いでした」



皆藤氏はつづける。

「わたしが取り組んでいるのは、『治る、治らない』といった次元にとどまるものではありません。わたしの思いの根底には、『ひとの心や運命は、意図して操作できるものではない』という河合先生の教えがあるのです」







皆藤氏は言う。

「わたしが専攻したユング心理学には、コンステレーション(Constellation)という考え方があります。

たとえば北斗七星は、7つの星が柄杓(ひしゃく)のかたちに並んでいるように見えますが、それは、そう見えるように意図して並んだわけではありません。一つ一つがただ輝いているだけで、全体がひとつの形を成しているように見えるだけです。

そういう有りようを『コンステレーション(Constellation、配置)』とユングは言いました。

同じように人間の縁や運命も、意図してつくられるものではなく、一人一人が生きるなかで自ずと形づくられるものなのです」







「先生っ! わたしに生きていける言葉をください」

遠く南米からの手紙であった。

自尊心を剥奪(はくだつ)されるような過酷な人生。途方もない痛みを、どうすることもできずにいた。



皆藤氏は言う。

「ゆっくり返事を考えている場合ではありませんでした。その方の心にとどく言葉が必要だったのです。夜どおし考えました。夜が明けたとき、わたしに語れる言葉はこれだけでした。

『黙々黙々。ただ黙々と生きてください。待っています』





半年後、その人は無事帰国してきた。

皆藤氏は言う。

「もし、わたしの返事がその方の心にどどかなかったら…? いまでも身震いします」













(了)






出典:致知2016年6月号
皆藤章「出会いを生かし、ともに関を越える」



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2016年04月09日

小さなお医者さん、ナノマシンの話 [片岡一則]








1966年にミクロの決死圏(Fantastic Voyage)』という映画がアメリカで公開された。



当時高校生だった片岡一則(かたおか・かずのり)氏は言う。

「お医者さんとその乗り物をうんと小さくして、血管の中に送り込み、患部まで行って、体のなかから病気を治してしまうと。そういう映画だったんですね」

その映画の元ネタは、手塚治虫の『38度線上の怪物』であったとか。






いずれの作品も、もちろん空想上の物語であった。

だが、あれから半世紀、彼らの夢想は現実化の過程にある。



――すでに抗がガン剤を内包した2種類の「ナノマシン」は臨床試験の第V相にはいっており、これらは副作用がなく、耐性ガンや転移ガンにも高い効果を発揮する。この「極小のマシン」が体内の病気を診断し、メスを入れずに治療してしまう。半世紀前、SF映画で描かれた世界がいま、現実のものとなりつつある(致知2016年3月号)。



その「ナノマシン(極小マシン)」たる新薬を開発しているのが、片岡一則氏である。

片岡氏は言う。

「私が何を開発しているかというと、『ミクロの決死圏』で描かれているような、血管から体の中の微小空間に自由に入り込んで、病気を治療したり診断したりする『極小のマシン』。これを完成させることが一つの究極の目標なんですね。マシンといっても従来の機械ではなく、いろいろな機能を作りこんだ『高分子ミセル(集合体)』なんです」



その「高分子ミセル(集合体)」のサイズたるや50ナノメートル(50万分の1mm)

およそ髪の毛の1,000分の1の微細さであり、ウイルスとほぼ同サイズであるという。



しかし、そんな極小の”マシン”でさえ、人体に侵入することは至難の技である。免疫細胞に見つかるや”異物”と即断され、あっというまに捕まってしまうからだ。

まず立ちはだかるのは、この人体のカベ。それを片岡氏はどうクリヤーしたのか?

片岡氏は言う。

「レーダーに見つからないステルス戦闘機のように、ナノマシンの表面を水に馴染みやすい高分子で覆って、血中を自由に回れるようにしました」







つぎなる課題は

どうやってナノマシンをガン細胞まで運ぶのか?

従来の抗ガン剤は、ガン細胞のみならず正常な細胞までをも攻撃してしまっていた。いわゆる副作用として人体を傷つけてしまっていたのである。



片岡氏は言う。

「そのポイントは、正常な血管とガンの血管では構造が異なるということです」

何が異なるのか?

ガンの血管は隙間が大きい。そのため、正常な血管なら通れないナノマシンでも、ガンの血管を通ってガンの組織の中に入っていくことができるんです。正常な細胞を傷つけることはありません」







だが、ガン細胞もバカではない。ナノマシンの侵入に対して

「どうも変なヤツがきた」

と防衛反応を開始する。具体的には、自分の細胞膜でナノマシンを包み込んでしまうのだ。そして、消化酵素によってナノマシンを溶かそうとするのである。まるで食虫植物のように、だ。

片岡氏も負けてはいない。

「私はこれを逆手にとりましてね。pH(ペーハー)が下がると高分子ミセルの構造が壊れて、薬がワ―っと出てくるように仕掛けました。まさしくギリシャ神話の『トロイの木馬』のように、です」







現在、臨床試験が行われているナノマシンは5つあるという。そして、そのうち2つはすでに最終段階である第V相(500人以上の大規模な治験)まで進んでいるという。

片岡氏は言う。

(乳ガンを対象にした)パクリタキセルというナノマシンは、順調にいけば来年度か再来年度には承認申請されて、世の中に出回るようになりますよ」

まさに夢近し、である。







ところで、片岡一則氏はどんな道を歩んで、ナノマシンに至ったのだろうか?

片岡氏は言う。

「そうですね。僕の結婚式のときに小学生の担任の先生が来てくれて、卒業論文を読んだんです。そうしたら、30年後の自分というところに『ガンの研究をしている』と書いていた。僕はそれをまったく忘れていて、あっ、そんなこと書いたんだなぁって(笑)」

父は薬品問屋、伯父は医者という環境が、少年片岡氏をして医の道へと誘ったのであろう。



東大の大学院では、高分子化学を専攻。

そこで鶴田禎二(つるた・ていじ)という師に出会った。

片岡氏は言う。

「ぼくは結構いい加減な人間で、高校までは何をやりたいのか定まっていたわけじゃないんですけど、鶴田先生のおかげで道がみつかりました。博士課程にすすむとき、鶴田先生に『これからはバイオマテリアルの分野がのびる』と言われたんです。先生がそうおっしゃるなら、きっと面白いんじゃないか、と。実際、やってみたらすごく面白かったんです。日本ではまだ誰も研究していない未開拓の領域がたくさんあったんです」







1979年、大学の博士課程を修了。

ナノマシンの研究に着手したのは1984年頃から。ドイツの先生が書いた論文にインスピレーションを受けた。

片岡氏は言う。

「その頃の研究では、脂質の粒子のなかに薬を入れて、血管内に送り込んで効かせるというのですが、ここである疑問が生じました。脂質の粒子では”異物”として排除されてしまうのではないか、と。いろいろな方に聞いたんですけど、明確な答えが返ってこない。要するに、誰も分からないんですね。そのとき、こう思いました。『いい予感がする。これは宝の山かもしれない』と」



こうして高分子ミセル(ナノマシン)の研究がはじまった。

東大の大学院生と2人だけの船出。当時はまだバイオマテリアルの黎明期。日本における高分子ミセルの位置はゼロに等しかった。周囲からは

「訳の分からないことをしている」

と冷視された。いや、無視といったほうが正しい。

片岡一則、34歳のときだった。



サポートはどこからも得られない。

海外の学会やシンポジウムにいくのは全て自腹だった。

ただ、鶴田恩師など数名の人々だけは片岡氏の可能性を信じてくれていた。



鳴かず飛ばずの数年がすぎた。

と、天からの贈り物がとどいた。



片岡氏は言う。

「アメリカでドラッグデリバリー(薬物送達)の学会がありましてね。日本の有名な先生が講演する予定だったのに、病気をわずらって急きょ出られなくなった、と。それで、学会の3、4日前に突然電話がかかってきて、僕がピンチヒッターで呼ばれたんです」

ようやく納得のいくものが出来たときだった。

その反響やすさまじく、アメリカから日本へ、注目の波は一気に広まった。その後、片岡氏の研究は加速度的に進展していくことになる。






かつて片岡氏は

「10年後くらいに多くの患者さんを助けられるものができたらいいな」

と安穏に構えていた時期があった。

しかし、一緒に机をならべていた心臓外科医に一喝された。

「明日死ぬかもしれない患者さんがいるんだ! それをどうする気だ!?」



片岡氏は言う。

「ものすごい衝撃でした。ガンだけ見ても日本で年間35万人の患者さんが亡くなっている。だから、一日もはやく実用化しなければならない。そういう意識が強くなりました」






現在、片岡氏の新たな課題は

脳に効くナノマシンだ。

ガンの血管に侵入できるナノマシンでも、脳の血管には入れない。それほど脳のバリアは強力なのである。

その強力なバリアを、ウイルスは突破できる。というのも、ウイルスの表面には分子バーコードがついていて、それがIDとなって脳の血管が小さなトンネルを開けてくれるからだ。

片岡氏は言う。

「これにヒントを得て、われわれはナノマシンの表面に分子バーコードをつけたんです。これにより、脳腫瘍の血管にナノマシンが入ることを確認しました」

脳腫瘍には可能性がみえた。だが、アルツハイマー病やパーキンソン病はもっと難しい。



片岡氏には、研究開発で大事にしている心構えがあるという。

「たとえば実験をするときに、こういう結果になるんじゃないかって、ある程度予測をたてるんですね。で、実際に思ったとおりになるのはもちろん嬉しいじゃないですか。だけど、失敗したりうまくいかない時は、もっと嬉しくなります。失敗には必ず理由があるわけで、そこから新しい発想や成功につながるヒントが生まれてくるんです」







最後に、片岡氏は言う。

「病院は英語で hospital (ホスピタル)といいますが、病院に行かなくて済むことこそが最大のホスピタリティ、おもてなしだと思うんです。そういう社会を実現するために、これからも挑戦しつづけます」






(了)






出典:致知2016年3月号
片岡一則「かくて世紀の偉業は成し遂げられた」



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2013年06月28日

300年来の知恵。越中・富山の薬売り



「売薬(ばいやく)さん」

それは、越中・富山の薬売り。

半年に一度、家々を訪問しては「家庭の常備薬」を薬箱に補充していく。



売薬さんの背負ってくる行李(こうり)は大きい。

子供らはクスリには興味はないものの、「紙風船」は楽しみにしている。売薬さんの行李には決まって紙風船が入っていたのだ。

念の入ったもので、その小さな紙風船には「薬の広告」が印刷されている。



江戸時代から続くという、この商売。悠に300年以上の歴史を誇る。

「今もこの仕事に携わる方が、全国で2万2,000人ほどいます」

現代の売薬さん「森田裕一(もりた・ゆういち)」さんは、そう話す。



なぜ、富山の薬売りは300年以上も商売を続けることができたのか?

その根底には、彼らの守り続けてきた「ある哲学」があった。






◎家庭の「置き薬」



「私の場合、東京・埼玉・千葉を中心に、約1,800軒のお得意様を回っています」と森田さんは話す。

「朝から夕方まで13軒ほど車で訪問し、同時に『新懸(しんがけ)』といってお得意様の近くにある家々を開拓することにしています」



「家々を訪問して、まずは『薬箱』を置かせていただきます。半年に一度、定期的にお伺いして中身をチェックし、使った分だけお代をいただく。さらに薬を補充し、使われなかった分も期限が近づいているものは新しい薬と入れ替えます。そういうとてもシンプルな商売なんです」と、森田さんは説明する。

富山の薬売りは、薬事法に規定されている「れっきとした医薬品販売業」。

薬事法は「店舗販売業」「配置販売業」「卸売販売業」という3種類の販売業を規定しているが、売薬さんのように「置き薬」を置く商法は、「配置販売業」の許可を得ることになる。



「薬の減り具合を見ると、ご家族の健康状態はおおよそ分かりますね」

森田さんは薬や医学に対する正しい知識を得るため、大学のセミナーに参加したり、講習会があると聞けば足を運んでいるのだという。

「そこで訪問の際には、世間話を交えながら健康に関する情報をお届けしてきます。『お酒を召し上がるのでしたら、そのまえに熊胆円を飲んでおくといいですよ』とか、『乗り物酔いには湿布薬をみぞおちに貼っておくと、少し楽になると思いますね』とか」



売薬さんの持つ縄張りは「懸場(かけば)」と呼ばれ、その顧客データが記されたものを「懸場帳」という。

「これは富山の薬売り300年の知恵なのですが、どんな薬をいくつ配置して、何がどれだけ使われたかといったことに加えて、お得意様の健康状態や家族構成なども一目で分かるよう記されています」

「一昔前までは、どこそこから銀杏をいただいたとか、仲人を依頼されたとか(笑)。そういうことまで細かに筆で書かれていたようです」






◎日本一貧しい藩



「『富山といえばクスリ』と皆さんおっしゃいますが、『なぜ薬なのか?』をご存知の方は少ないと思います」

そう言いながら、森田さんはその歴史を語り始める。

「そもそものスタートは、江戸初期にさかのぼります」



富山県は当時、「加賀藩」の一部として120万石を誇る大大名・前田家の領内にあった。

しかし、120万石という「大きすぎる禄高」が災いし、幕府から「謀反の嫌疑」をかけられてしまう。そこで頭をひねった加賀藩、兄弟3人で領地を分割することとする。

そして、加賀藩は3つに割られた。「加賀藩」および「富山藩」「大聖寺藩」の3つである(1639)。



ところがこの3領地、仲良く3等分にされたわけではなかった。長男の継いだ「加賀藩」が大半の領地、そして港などの交通の要衝を押さえた。

「富山藩」はというと、富山平野の中央を流れる神通川に沿う細長い領地を充てがわれたのみで、その神通川はしばしば氾濫をおこす暴れ川。その流域の平野部にも低湿地が多く、決して治めやすい土地とはいえなかった。石高はといえば、わずか「10万石」にすぎない。



「"富山"という地名とは正反対。経済面では大変逼迫した状況に陥り、『日本一貧しい藩』になってしまいました」と森田さんは言う。

「何とか、財政を持ち直す方法はないものか? その時考えられたのが『売薬』でした」



富山は名峰「立山」のお膝元。この地域には「立山信仰」の衆徒によって「護符や薬の頒布」が行われていた。それは、「使った分だけ代金をいただく商法」の原型でもあった。

そして、その立役者となるのが富山藩2代目藩主「前田正甫(まえだ・まさとし)」。合薬の研究を進め、富山で最も有名となる「反魂丹(はんごんたん)」を全国に売り進めるのである。






◎反魂丹



「反魂」とは、死者の魂を呼び戻す、つまり死者を生き返らせるという意味で、古く中国はそのような薬を「反魂丹(はんごんたん)」と呼んでいた。

「反魂丹」という霊薬は、室町時代に日本に伝播してきた。唐人から処方の伝授を受けたのは堺の商人・万代家(まんだい・け)。江戸時代には岡山藩の「お抱え医」とされた家柄である。



ある時、富山藩2代目藩主「前田正甫(まさとし)」は「腹痛」を起こした。

すると、万代家11代目の万代常閑がさっと「反魂丹」を取りいだす。みるみる効いた反魂丹。すっかり感心した正甫公は、その処方の伝授を受ける。

それ以来、前田正甫公は反魂丹を肌身離さず、印籠に入れて常時携帯するようになったという。



その印籠内の反魂丹が役に立つのが、江戸前期の1690年、江戸城での会議の折り。

三春藩主「秋田輝季」が突然の激しい腹痛を訴える。そこで正甫公、肌身離さず持っていた「反魂丹」を進めたところ、その腹痛はウソのように消えてしまう。

これを見ていた諸大名、その薬効に驚き、われもわれもと自分の藩内での販売を正甫公に頼み込む。それからである、富山の薬売りが全国を歩くようになったのは。






◎富山の薬売り



土地の石高は少ないとはいえ、富山藩は幸いにも交通に便利であった。

日本海沿いの「北陸街道」と、山越えの「飛騨街道」の結節点に位置し、また海上交通では、「北前船(きたまえぶね)」による日本海航路の発達によって、北は北海道から南は鹿児島までの道が拓けていた。



じつは富山藩、江戸時代に入る前から薬とは縁があった。戦国時代にはすでに「唐人の薬座」ができており、江戸時代に入ると、丸剤や散剤を製薬する専業店が現れる。

薬の原材料を「薬種」と呼んだが、意外にも富山はその産地ではない。伝統的に中国大陸からの輸入品を用いており、富山の薬種商は長崎出島から大阪に入ってきたものを吟味して、仕入れを行なっていたという(反魂丹も元は和泉国・大阪がその中心地だった)。

つまり、内に資源をもたぬ富山藩は、巧みに外の力を活用し、売薬の道を切り拓いていったのである。富山の薬は藩に庇護されたこと、殿様のお墨付きを得たことに加え、畏れ多い霊峰・立山のふもとで作られるということで、「薬効あらたかな越中富山の反魂丹」という有難い御利益も添えられたのであった。



江戸当時、薬の商売はすでに全国にあった。

「映画の寅さんのように、街頭に人を集めては口上を述べながら売るのが一般的でした」と森田さんは言う。

それに対して、富山の薬売りは家々を一軒一軒訪ねて回り、その家々に「薬箱」を置いて回った。「お代は後からで結構です」と言いながら。これは当時、全く新しい富山藩独自の商法であった。



富山の薬売りは、もともと農家の収入を補う手段の一つとされたため、その行商人たちの身分は「農民」。

そのため、農閑期に全国を巡る薬売りたちも、田植えや稲刈りの繁忙期には富山藩に戻らねばならならず、旅先で店を構えることは許されたなかった。

これは、都市部で富を蓄えて豪商となった近江商人などとは対照的である。富山の薬売りたちは、あくまで富山藩を離れることができなかったのである。それは、この商売が富山藩の財政を支えることを目的とされていたためでもあった。






◎先用後利



「故郷をあとにした行商人たちは、定められた各国の懸場(営業地)に向かって歩み続けました。五段重ねの柳行李を包んだ風呂敷を背負い、九州薩摩藩、本州最北端の松前藩まで黙々と歩くんです」

森田さんが言うには、江戸末期には富山藩内に3,000人近くの薬売りがいたという(現在およそ2万2,000人、うち富山県内は1,500人ほど)。



「300年来の私たちの哲学を一言で申し上げますと『先用後利(せんよう・こうり)』。まずはこちらから物を提供させていただいて、利は後からいただくというのが根本にある教えです。これを富山藩の時代から300年、地道に続けてきたわけです」

済世救民の志が強かった前田正甫公、「病を治すのが先で、利益は後でよろしい」という心を持っていたという。



「薬売りたちは家々で薬を点検しながら、近くの町で流行っている芝居の話や、注意しなくてはならない流行病、農作物の収穫の状況などなど、いろいろな話を提供するので、商人たちの訪問を皆心待ちにしていたようです」と、森田さんは話す。

そうした話し上手、聞き上手は現代にも受け継がれているようで、お得意様との話は決して疎かにすることがないという。

森田さんの父親も同じく「売薬さん」だというが、その父親は受話器を手にしながら「そうですか、そうですか」と熱心にお得意様の話に耳を傾け、30分でも1時間でも聞いていることも珍しくないのだそうだ。



富山商人が大切にするのは、「相手を親戚のように慮る」ということ。

売る努力の前に、人が何を必要としているか、話を聞くことに徹する。人の心内に入ってこそ、その「用」を知ることができるのだと言う。

「一軒に30分以上かけることもあります」と森田さん。「置き薬の会社によっては、とにかく一日に何軒回るかを目標に課されているところもあるようですが、それは富山人の精神ではありません」。



「用」を聞くとともに醸成されてゆく「信頼」。

「同じ薬でも、森田さんから渡されると、まったく効きが違うね」とも言われるようになったという。

まさに霊峰・立山の霊験あらたか。富山人の精神の成せる技であろうか。






◎苦境



とはいえ、江戸時代に富山の薬売りらが煙たがられることも少なくなかったという。

「とくに幕末に近くなると、どの藩も財政が厳しくなり、『国内産業の保護』に重点を置くようになります。そうなると、富山の売薬商人のような『外来商人』は極めて目障りな存在になったんです」と森田さんは話す。

5年、6年、ときには10年という商売差し止めを食らうこともあったのだとか。経済が苦しくなると内に籠りたくなるのは今も昔も一緒のようで、富山藩のように外に活路を見出す例はマレである。かつての世界大恐慌も、今のユーロ危機も内に籠ったゆえの惨劇であったろう。



たとえ他藩に睨まれても、「富山のクスリ」に対する庶民の信頼は絶大。富山の薬売りらは、藩に請願文を出すなどしてその信頼の高さを訴え続けたようである。

さらに、他藩に「利」を渡すことも忘れてはいない。

「富山の薬を売る代わりに、その藩の特産品を他国で売る手伝いをしたのも一つの手段でした。たとえば熊本藩に対して、国産品の胃腸薬『黄連丸』を他国で販売することを提案しています」と森田さんは言う。

売り上げを熊本藩に差し出すことで、その藩内の懸場(営業地)を確保していったというのである。



明治に入ると、西洋の薬の流入とともに、またも富山の薬売りは苦境に立たされる。

明治新政府は西洋志向が強かったため、旧来の薬売りらには厳しく当たった。その新たな売薬規制によって、富山の薬売りは「薬の使用の有無に関わらず、薬剤一つ一つ」に印紙税を納めることを強いられた。

先にも記してきたように、富山の薬売りは、お客が実際に使った薬の分だけを代金回収する商法だが、明治政府はそれを無視し、置いた薬すべてに課税したのである。



さらに第二次世界大戦後、GHQの占領政策下でも富山の薬売りは敵視される。

GHQが疑問視したのは「置き薬の安全性」である。安全性の欠ける配置販売を禁止し、薬は薬剤師のいる店舗でのみ販売すべきだと主張してきたのである。

だが幸いにも、最終的には「置き薬」の意義が認められ、1948年に施行された改正薬事法の中で、富山の薬売りは「配置販売業」として法的に認められるようになる。






◎堅さと諦めのよさ



「辛抱、辛抱、辛抱は金じゃ。辛抱する木にはカネがなる」

森田さんの祖母は、常々そう言っていたという。我慢、我慢で、お得意様には頭を下げ続ける。

「これは富山の県民性でもあるわけですが、おそらく江戸時代から育まれてきた精神でしょうね」と森田さんは言う。



2008年の総務省の統計によると、富山県民の「共働き家庭」は全国3位、「女性の就業率」は同4位、「平均勤続年数」はトップ。

「これも富山商人の伝統を受け継いだためなのでしょうか。富山で『堅い』というのは、真面目にきちんとしているという意味ですが、これはいまも富山では最高の褒め言葉なんです」と森田さん。



他国へ行けば、富山藩の保護が行き届かなかった富山商人。他藩でハメを外して出入り禁止にでもなろうものなら干上がってしまう。

「富山商人は、飲酒も色町への出入りもともに御法度とされていて、そこでも自律の精神が求められました」と森田さんは言う。

そうした精神の元に大成した富山の偉人たちには、ホテル・ニューオータニの創業者「大谷米太郎」、丸井グループの創業者「青井忠治」、安田財閥の創業者「安田善次郎」らが名を連ねる。



その「堅い」一方で、富山人には「諦めのよさ」もあるという。

「『いっちゃぁ』という方言は、ケ・セラ・セラと同じく、全力を込めてやるだけやって駄目なら仕方ない。またリセットして頑張ろうという諦めのよさです」と森田さんは話す。

「そういう楽天性というか、きっぱりした大胆さがあることも薬売りが300年続いた大きな理由だと思います」






◎時と空間を超えて



2001年、モンゴル政府から日本に「医療援助」の要請があった。その時に、日本財団が知恵を絞って思い至ったのが「富山の薬売り」だったという。

「遊牧民の手元に薬箱を預け、必要に応じて薬を使ってもらい、定期的に代金回収に訪れる仕組みを導入できないか」と考えたのだそうだ。

モンゴルでは今でも多くの国民が「遊牧民」として草原に暮らし、都市の医療機関は利用しづらい状況にある。さらに、旧ソ連に医療サービスを依存していた時代に、生薬を利用するような伝統医療が事実上禁止されていたため、それも廃れていたのである。



その「置き薬」と同時に、富山の薬売りの哲学である「先用後利」の精神も、教育面での価値があるとしてモンゴルに伝えられることとなった。

その後、同様にして富山の商法は、2008年にはタイで、2009年にはミャンマーでも導入が図られる。広貫堂をはじめてとする富山の薬売りの協力のもとで、モンゴルから東南アジアへと、そのネットワークは広がっていったのである。

モンゴルと東南アジアは地理的に離れているといえども、同じ「仏教文化圏」。伝統医療としての漢方などには深い馴染みがあった。



また日本でも、富山の置き薬商法は形を変え、江崎グリコの「オフィス・グリコ」という「置き菓子」商法に実践されている。

「お菓子の専用箱」や「アイスクリームの専用冷凍庫」などをオフィスに置き、会社の人々は自分がお菓子を食べた分だけ、代金箱に料金を投入するのである。お菓子の補充や入れ替えは、江崎グリコの職員が定期的に行うことになっている。



さらに、置き薬発祥の地・富山県では、高齢者を対象にした「生活便利箱」という取り組みが始まっている(黒部市)。

その便利箱には、生鮮食品や衣料・日用品などが詰め込まれており、やはり使った分だけ月一で代金回収が行われる。



海外に出るにしろ、形を変えるにしろ、その根底に流れるのは「先用後利」の心。

300年の時を越え、培われてきた精神。商売は上手くいく時もあれば、落ち込む時もあった。それでも、富山商人は堅くも諦めがよかった。

そのシンプルな哲学は、いまの時代にも求められている。



「続かない事業は、成功とはいわない」

これは、現在の「売薬さん」、森田裕一さんの言葉。

彼は今日も、一歩一歩とその歩を進めるのであった。













(了)






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出典:致知2013年7月号
「富山の薬売りに学んだ仕事の哲学 森田裕一」
posted by 四代目 at 07:27| Comment(0) | 医療 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月18日

「自彊術」の教え。近藤幸世92歳


「もともとは身体が弱くてね…」

92歳になるという近藤幸世(こんどう・さちよ)さん。

「子供の時から死ぬような病気を何回もやりました」



子供時代、あまりの身体の弱さから、「あの子はもう死んだだろう…」と噂が立つことも珍しくなかった。

「ご飯を食べるのもイヤで、首根っこつかまれて、食えっ、食えっと無理やり食事をさせられるような始末でした…」



その虚弱体質は大人になってからもどうにもならない。ある時は40度の高熱が10日間も下がらず、医者である夫も泣くしかない…。

「その後も、肝臓をやったり、なんかかんかやったり…」

一番ひどかったというのは、30歳の頃に患ったという「変形脊椎症」という背骨の歪み。

「背中がとても痛くて痛くて、注射をしてもらってもまた気持ち悪くなって、朝起きたら吐いてしまう。何にも食べることができず、我慢、我慢、我慢ばっかりで、本当にもう辛かった…」



そんな病弱な幸世さんに転機が訪れるのは、50歳を過ぎて「妙な体操」に出会ってから。

そして一年、その体操を続けたら、「すっかり身体が良くなった」。

「いまでは92歳になりましたが、今度は死ねなくて困る(笑)」



◎自彊術


その妙な体操とは、「自彊術(じきょうじゅつ)」。

31の動作で、身体を隈なく動かす運動のことであった。



昭和30年代、「運動」といえばスポーツマンのやることと思われており、普通の人には健康のためにやるなどという発想はなかった。ましてや、「病人がやる」などとは考えられもしなかった。

その「運動」が、当時のアメリカでは病人のための3つの治療法の一つとされていた。それを幸世さんはアメリカの雑誌を読んで知ったのだった。



だが、幸世さんが飛びついた「自彊術(じきょうじゅつ)」というのは、西洋の運動医学とはまったくの無縁。「古代中国」に源を発するものであった。

日本では明治時代に「中井房五郎」によって創案され、実業家の十文字大元を快癒させたということで脚光を浴びることとなる。



◎縁


大正期には300万人もの人々が自彊術を実践しており、全国どこにでも道場があったというが、世界大戦で一時中断。戦後は西洋医学の普及などにより、急速に廃れてしまう。

そんな中、久家恒衛(くげ・つねえ)という先生が一人で脈々と実践しておられた。

久家先生自身、もともと身体が弱くて軍隊にも入れてもらえないほどだったというが、90歳にもなろうかという年齢でピンピンしておられる。



調べていくと、幸世さんの住む福島県にも偉い先生がいらっしゃるとのこと。

その先生が「中井勝(なかい・まさる)」先生で、自彊術の創案者である中井房五郎氏の直弟子であり高弟の一人であった。

病弱だった近藤さんは、この中井先生の門をたたく。

「月に2回ずつ通って指導を受けました。十何年も通ったんです」



そして先述したとおり、幸世さんの虚弱な身体は「自彊術を始めて一年くらいで、すっかり良くなった」。

これには医者である夫・芳朗氏もビックリ。なにせ、いままで医者の自分が逆立ちしても妻・幸世さんの身体ばかりはいかんともしがたかったのだから…。



◎人づて


目に見えて壮健になっていく妻の姿を目の当たりにして、夫の芳朗氏も自彊術の体操を始めてみた。

すると、朝晩2回、20分ずつの体操で芳朗氏の糖尿病がすっかり良くなった。わずか3ヶ月という短期間に、体重は10kgも落とせたのだった。



すっかり自彊術にのめり込んでいった芳朗氏。

自分の診療所に来る患者たちにも自彊術を熱心に勧め、そのデータをとって「自彊術がいかに現代医学に適っているのか」を見事に証明していった。

昔は「こんな体操で良くなるわけがない」と反対する医者たちも多かったというが、東大出身の医者である芳朗氏が自彊術にお墨付きを与えたことにより、自彊術はグングンと広がりをみせるようになる。



「自彊術はやり始めると元気になるから、周りの人が『何かやってるの?』と関心を持つことで、人づてに増えてきたんだと思うんです」と妻の幸代さん。

宣伝一つしたことがなかったというが、今では全国に約4000の教室、5万2000人もの生徒さんがいらっしゃるという。





◎健康貧乏


「自彊術は天から降ってきたようなものかもしれませんね」

医者でもある夫の芳朗氏は、自彊術を通して「自分の身体の中にこそ自然治癒力がある」ということに改めて気づかされた。

ほとんどの病気は、体操すると良くなってしまう。だから芳朗氏は「体操しない人には薬はやらない」とまで言い出す始末であった。



その芳朗氏は13年前、79歳でこの世を去った。

一人残された妻の幸世さんは、自彊術普及会の会長を夫から引き継ぎ、現在第三代目となっている。



「主人はよく『健康貧乏』にはなるなと話していました」

「健康貧乏」とは、健康だけが目的になってしまうこと。より大事なのは「健康になって何をするかだ」と芳朗氏は言うのであった。

「同じように『自彊術乞食』もダメだと言ってましたね」

やはり、自彊術で元気になって「何をするか」、それが大切だと言うのである。



◎自ら


自彊術の「彊(きょう)」の字は「強」に通じ、「強める」という意味をもつ。

「『彊』という字は、一、田、一、田、一と書きますが、一は田と田の区切りで、要は自分の田んぼは自分で耕すことが大事だと、私は解釈しています」と幸世さん。



自分の身体は「自分で治そう」としない限りは良くならない。自分で強めようとしない限り、元気にはなれない。

「元気」というのは、自分から発生する気ではなく、宇宙の気をもらって、自分の邪気を吐き出すものなのだと、自彊術は教える。それは自力あっての他力である。

「やっぱり自分の意志ですよ。意志が強くなかったらできないです」と幸世さん。





「自彊術」という名称は、中国の古典「周易」から採られたものだという。

「天行健、君子以自彊、不息」

天の運行(天行)は健全である。立派な人(君子)は自らを強めること(自彊)を怠らない(不息)。



ひと時も休まぬ天の動きのように、継続することで自彊術の真価は発揮されるのだという。

せっかく自彊術を始めても、少し具合が良くなったらやめてしまったのでは、「宝の山に入って、何も持って行かずに帰ってしまうようなもの」だと幸世さんは言う。

しかし残念ながら、そんな人が大半なのだとか。



「自分が良い見本になれなければいけません。健康法を自称しているのに、早く死んじゃったらしょうがない」と幸世さん。

幸いにも彼女は92歳になっても「死ねなくて困っている」。

子供の頃は、「あの子はもう死んだだろう…」といつも周りから思われていた幸世さんが…。



「万病克服の治療体術」とも言われる自彊術。

その恩恵を受けられるのはどうやら、朝晩2回の地道な努力をひたすらに積み重ねられる人たちのようである。

「天は自ら助くるものを助く」

そんなありふれた言葉も、ここでは重く響く。



「道場に来て、座っているだけで威厳がある」

それはその人の積み重ねてきた重みなのであろう…。







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出典:致知2013年1月号
「天行健君子以自彊不息 〜近藤幸世〜」
posted by 四代目 at 06:08| Comment(0) | 医療 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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