「東京のド真ん中に『原生林のような森』はできまいか?」
本多静六(ほんだ・せいろく)は100年前、そんな夢をいだいた。
時は1915年、崩御された明治天皇を祀るため、明治神宮の建設が計画されて間もない頃だった。
明治神宮にふさわしい鎮守の森
それを本多静六は「常緑広葉樹」、すなわち一年じゅう葉の落ちない緑の木々であろうと考えた。というのも、昔の東京にはシイやカシなどの常緑樹が自然に生い茂っており、そうした木々が自然に生育できる土壌環境が東京にはあった。
しかし、時の総理大臣・大隈重信は断固、反対した。
「明治神宮に『藪(やぶ)のような森』はふさわしくない。伊勢神宮や日光のような杉林にしたまえ。荘厳な杉こそが、偉大なる明治天皇を祀るにふさわしい」と大隈は言い切った。
だが、本多は譲らない。
「総理、東京の土地に杉(針葉樹)は向いていません。広葉樹こそが東京に一番適しているのです」
すると怒声が飛んできた。
「ばかもん! 不可能を可能にするのが学問ではないのか!」
なんと言われようが、本多は譲らない。本多にはヨーロッパで最先端の林学を学んできたという自負がある。養分が少なく水も十分でない土地に杉は向かない。
「総理、われわれが計画している森は、数百年、数千年とつづいていく森です。それには常緑の広葉樹しかないのです」
綿々と説く本多に、ついに折れたのは総理のほうだった。
◎理想の森
”うつせみの代々木の里はしづかにて 都のほかのここちこそすれ”
かつて明治天皇がそう詠んだように、当時の代々木は閑とした荒れ地だった。ただ一本のモミの巨木だけが荒野にそびえ立っていた。
”代々木御料地なる旧井伊候下屋敷に『樅(もみ)の大木』あり。幾年代を経しを知らず。是れ当地において最も有名なり。代々木の 称は是より起これり”
「代々木」という地名の由来ともなったモミの大樹。幹回りは10m以上、左右に広げた太い枝は50m以上にも及んでいたという。樹高50m以上あったこの巨木に登れば江戸一円を眼下におさめることができ、江戸幕府はその樹上から黒船の動きを見張っていたという。
つまりは、そのモミの大木以外に目立つ木々はなく、明治神宮のための森の造営は平坦な荒野を開墾するようにしてはじまったのであった。
『明治神宮 御境内 林苑計画』
その書に、本多静六は自身の考える「理想の森」を記した。
『永久に荘厳神聖なる林相』
本多が目指したのは「永遠につづく森」。人が手をかけなくとも自然に世代を継いでいくような森。それは太古の昔、人が住む前の東京に広がっていたであろう「原生の森」であった。
ちょうどその年(1915年)、東京駅が完成した。東京が世界的な大都市としての第一歩を踏み出した、その同じ時、本多はあえて逆方向へ、太古へ帰らんかのような森づくりをはじめたのであった。
◎150年計画
神宮の森造営は、国家をあげた一大プロジェクトとなった。
献木は日本各地、遠くは朝鮮・台湾からも寄せられ、その数は12万本にのぼった。造林作業には全国の青年団がわれもわれもと押し寄せ、およそ1万3,000人もの国民が自発的に参加したという。
専用の線路がひかれた原宿駅には、1日に30両もの貨物列車が樹木や資材をとどけたというから、その賑やかさたるや推して知るべし。
まずはマツなどの針葉樹が植えられた。
最終的に目指したのは「常緑広葉樹の森」であったが、痩せた代々木の土地にはまず、荒地に強い針葉樹で土台をつくる必要があった。ゆえに、最初に植えた木の半分以上は針葉樹であり、その間の木陰に小さな広葉樹が配置されていった。
本多の夢想したのは「人の手を必要としない森」。人が関わるのは最初の造林のみで、あとは自然に任せる。自然に落ちたドングリが芽をだし、世代交代を繰りかえす。50年後、100年後、150年後と時が経るほど、自然に森林度が深まっていくような森であった。
そのための森林計画が緻密に練られた。
本多静六はじめ、弟子の本郷高徳、上原敬二。そのほか当代一流の専門家たちが多く関わった。そして記された『林苑計画』の書には、事細かに樹木の配置がデザインされた。大きな針葉樹の間に植えられた小さな広葉樹は、いずれ森の主役となる手はずだった。
いわゆる植生遷移(サクセッション)。異なる樹種を重なるように配置して、針葉樹から広葉樹へと林相の変化をうながすようにデザインされたのだった。本多の理想とした「常緑広葉樹の森」はその完成形、極相林(クライマックス)。その姿に至るまでに「150年」と予測された。
もし自然界だけに任せたら、荒地から極相林に至るまでには数百年の年月が必要とされる。
それを最初に人が木々を理想的な配置に並べることで、150年で成してしまおうというのだから、本多たちの計画はじつに野心的なものであった。しかし無謀ではない。彼らの『林苑計画』には学問という確かな道標があった。
植樹は造苑開始から6年後の1920年に無事おえた。
その年の11月1日、明治神宮は鎮座の日をむかえた。
広大な敷地22万坪(約73ヘクタール、東京ドーム約15個分)のほとんどが『神の森(神域)』とされ、本殿や参道以外への立ち入りは厳しく制限された。
人を立ち入らせず、草も刈らず枯木も除去しない。
まったくの自然に委ねられた鎮守の森。
本多たちが予測した150年後、いったい森はどんな姿をみせるのか?
本当に常緑の広葉樹が生い茂っているのだろうか。
はたして、この壮大な、世界でも類例をみない大実験は成功するのだろうか?
◎検証
あれから100年。
明治神宮は戦火の災いをかいくぐり、いまだ厳然とある。
鎮守の森もしかり。代々木の象徴であったモミの大木は米爆撃機B29によって焼失したといえども、それ以上の森林が神域を覆っている。
本多たち林学者は、森が遷移していくことを予測した。
しかし、東京がこれほどまでの大都市になることは想定していただろうか。
太古を目指した森は、予想外の大都市化の洪水に、押し流されてしまったのではなかろうか?
100年前の本多たちの大実験を検証すべく、これまで定期的に3回の科学的調査がおこなわれている。たとえば樹木の総数は毎木調査といって、境内すべての木々が一本一本、その生えている場所とともに樹種や幹の直径などが正確に調べられている。
1924年(大正13年) 2万6,497本
1934年(昭和9年) 3万1,954本
1970年(昭和45年) 2万3,979本
上記は、直径10cm以上の樹木の本数である。10年後までは順調に増えているが、50年後には4分の3に減っている。この減少は何を意味するのか? 高度経済成長の波をかぶってしまったのか、それとも、林相になんらかの変化が生じた時期なのか?
じつはこの時期(1970年代)、最初に植えたマツなどの針葉樹が次々と枯れている。それは、それまで樹下に育っていた広葉樹がついに大木化し、針葉樹の光をさえぎって枯してしまったからだった。
それは本多たちが『林苑計画』で予測した通りの経過だった。最初に植えた針葉樹はいわば地ならしのためであり、痩せ地に弱い広葉樹を傘のように保護するためだった。あくまでの目的は常緑広葉樹を育むこと。それが「永久の森」への道であった。
造林から50年、高度経済成長という環境悪化の荒波に揉まれながらも、本多たちの計画に狂いはなかった。予期された広葉樹への遷移、世代交代が確実におこなわれていた。
そして100年後となった現在(2015年)、第4回目の大規模調査がおこなわれた。
2年がかりで調査された樹木の数(直径10cm以上)は、100年前の半分ほどに減っていたが、林相はガラリと様変わりしていた。針葉樹は全体の10%以下に激減、その代わりに広葉樹が3分の2を占めるまでに至った。しかも広葉樹は直径が1mを超す大木が244本に増え、実生(こぼれ種からの発芽)が40万本も見つかった。
つまり本多たちが予想した通り、針葉樹は広葉樹の極相林(クライマックス)となり、後継樹は自然のサイクルによって世代交代を繰り返すようになっていたのだった。
本多静六の理想とした『永久に荘厳神聖なる林相』。
それは100年後の現在、すでに達成されていた。
『林苑計画』では150年と予測されていたが、これは嬉しい誤算であった。自然の底力が、天才たちの予測のずっと先をいっていたということだった。
◎タイムカプセル
肥料もやらない、剪定もしない。朽ちた木もそのまま残されている。
100年間にわたって放置された明治神宮の森は、大都会のド真ん中にあってなお、「太古の原生林」と化した。
20mを超える大木が鬱蒼と競り茂り、その深い森に暮らす動植物は3,000種以上。都心にありながらカブトムシが群がってくる。日本の図鑑には載っていないようなキノコも生える。
「100年、こうやって都会の中で放置しておいたというのは、世界でも稀なんじゃないでしょうか」
養老孟司氏は言う。
そして、境内最大の巨木、30mを超すムクノキを見上げる。
「普通、大きな樹っていうと特別に保存するんで、周りと切り離されることが多いんですね。でも、この森の主は周りの木が小さい時からずっと見てるわけです」
昼なお暗い森の中には、現在の東京が失ってしまった日本固有の動植物がいまだ生き生きとしている。
池に泳ぐミナミメダカ。100年前の東京には普通に泳いでいたこのメダカは、いまでは絶滅危惧種。神宮内の水場にはブラックバスなどの外来魚が入っていないため、こうした昔から関東地方にいた魚が温存されていた。
一面に咲くカントウタンポポ。他所では外来の西洋タンポポに圧倒され、ほとんど駆逐されてしまったこの日本固有のタンポポも、神宮内の神域にはところ狭しと咲き誇っている。これもやはり、明治神宮の分厚い森が外来種の飛来を防いでいたからこそである。
養老氏は言う。
「本当に珍しい。東京都区内にあって、ここは『残っている島』みたいなところですね。『むかしの東京の自然』をここがタイムカプセルみたいに閉じ込めているような」
鎮守の森に護られて、絶滅を逃れた生き物が数多い。
青木淳一博士(横浜国立大学)は言う。「これはトウキョウ・コシビロ・ダンゴムシっていう。東京都内でも皇居とか明治神宮とか『上等な森』にしかいない日本固有の奴でね。そこら辺にいるダンゴムシとは違うんですよ」
自然放任された森にあって唯一、人の手を入れるのが「掃き屋さん」。参道に舞い落ちる枯葉を掃きあつめて森に返している。この管理法は100年前の『林苑計画』書に細かく記されている。
”落葉は一見無用の廃物たる観ありといえども、落葉を採集除去することなければ樹木は常に営養(栄養)足り”
滋養豊富な落ち葉に育まれた土壌には、粘菌からミミズまで、多様な生活者たちであふれている。もちろんカブトムシの幼虫も。朽ちた倒木もやがては土に還り、新たな木々の糧となる。自然の循環そのままに。
◎森の王者
「コゲラが多くなったなぁ」
毎月おこなわれるバードウォッチング。
キツツキの仲間、コゲラが1960年代からずっと増えているという。
森が変われば、そこに棲む鳥も変わる。
森を造営した頃は、疎林(まばらな林)に棲むキジやホオジロが多かった。だが森が成って50年、針葉樹から広葉樹への転換がおこった1980年代を境に、これらの鳥は姿を消した。
代わって現れたのが、より深い林に棲むコゲラなど森林性の鳥たちであった。
そして驚くことに、森の王者オオタカまでが明治神宮に巣作った。
都市鳥研究会代表の川内博氏は言う。「こういう都心の森に森林性の鷹、オオタカが来るっていうのは誰も予想していませんでした。最初は冬場だけだったんですけれども、段々と一年じゅう定着するようになって、ついには繁殖もするようになったんです。これは非常な驚きです」
オオタカという巨大な鳥が巣をつくるということは、それだけ森にエサが豊富に存在するということを意味する。それは、目に見えない土壌生物からピラミッドのように積みあがった生態系が、ついにオオタカという頂点にまで栄養を行き渡らせるに至ったということである。
東京という大都市のド真ん中に「オオタカの棲む天然林」がある。
これは世界に誇れる大実験の成果であろう。
養老孟司氏は言う。「よく造ったと思いますね。造ったというより、100年経ったらこうなったんですよね。この森が都内にあるというのが大事なことで、これを造った人のことを考え、この先どうなるかと考える。それではじめて、ものを長い目でみるということが実感されると思うんです」
100年前の荒野が、いまや大森林。
「周りの東京がここまで変わっていくことは、たぶん考えていなかったんじゃないかと思います。でも、これだけ変わっても、ここは自分たちのルールで木が生い茂っている。自然というのは任せておくとこれだけの仕事をするんですね、100年で」
100年の時は、東京を世界有数の大都市へと変貌させた。その一方で、明治神宮の森は逆に原始へと還っていった。
「永久に荘厳神聖なる林相」
本多静六らが100年前にひいたレールは、最短距離で森を原始の世界へと導いた。
もし彼らが今の森を見たら、何を思うだろう。
日が没すると、明治神宮の扉は閉ざされる。
深夜の森は野生のままに、タヌキが我がもの顔でのさばり歩く。ノドが乾けば、湧水「清正井(きよまさのいど)」にやって来る。タヌキにとっては「飲用禁止」の看板など知ったことではない。
夜が明け、本殿の扉が開かれると、タヌキは悠々と森に消えた。
人ごころ
すがすがしきは
ほがらかに
あけたる空に
むかふなりけり
…明治天皇 御製
かへりみて
心にとはば
見ゆべきを
ただしき道に
なにまよふらむ
…昭憲皇太后 御歌
出典:NHKスペシャル「明治神宮 不思議の森 100年の大実験」
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