2013年04月30日

政府の「高債務」と経済の「低成長」。その因果と未来


「政府の債務水準は大きな問題だ」

英国エコノミスト誌がそう懸念するように、先進国政府の債務(借金)は現在、軒並み高水準にある。

「政府の借り入れは、民間投資を減少させる『クラウディング・アウト』につながり、成長の足を引っ張る恐れがある」と同誌は続ける。



ここに「90%」という臨海値がある。

「政府の債務残高がGDP(国内総生産)の90%を超えると、その国の経済成長が大きく停滞する」

ハーバード大学の「ラインハート」と「ロゴフ」両氏は、そう言った。その事実を示す論文を2010年に発表している(著作「This Time is Different」邦題:国家は破綻する)。



両氏に示された具体的な数字により、この「90%という数字」は、政治論争における格好の武器となった。

去年のアメリカ大統領選挙で、共和党のポール・ライアン氏(副大統領候補)は、ここぞとばかりにこの武器を振り回していた。

政府の公共支出の厳しい削減を求める予算案の中で、彼はこの90%という数字を「経験に基づく決定的な証拠」として引用したのだった。また、EU加盟国の財務省に宛てた書簡の中でも、彼は「広く認知されている数字」として、この90%上限を引き合いに出していた。










◎ラインハート=ロゴフ論文



ラインハートとロゴフ両氏は、著書の執筆にあたり2世紀分の公的債務データ(1790〜2009)を参照した。

その結果、「政府の債務残高が、GDP(国内総生産)の90%に達するまで、その債務が成長率にはほとんど影響を及ぼさないことが分かった」。だが、「90%を超えると、急激に成長率が落ち込む」ということも同時に分かった。

具体的には、債務残高が90%という臨界値を超えると「平均成長率が3%強からわずか1.7%に、およそ半減することが分かった」。第二次世界大戦後の限られたデータでは、90%という閾値に達すると、その平均成長率は約3%からマイナス0.1%にまで劇的に下落していた。



両氏が導き出した結論は、債務と成長の関係が「線形ではない」ということだった。

線形の関係においては、債務が増えると、それに応じて成長率は徐々に低下するはずだった。ところが、2世紀分のデータが示すところによれば、「臨界点に達するまで、債務の水準は成長に悪影響を及ぼさないが、臨界点を超えたとたんに一変する」のだった。



両氏の論文(ラインハート=ロゴフ論文)は、世界の耳目を集めると同時に、激しい議論を呼んだ。そして問いかけられた「疑問」が、火に油を注いだ。

油となったのは、マサチューセッツ大学の「ハーンドン」と「アッシュ」と「ポリン」の3氏が提示した論文。この論文で、3氏はラインハート=ロゴフ論文の「分析のミス」を指摘した。



「両氏が使用したエクセルのスプレッドシートは、コーディング(プログラミング)に誤りがあり、複数の国が対象データから抜け落ちている」と3氏は主張した。

この分析のミスにより、「債務水準が高い場合の平均成長率が『過小評価』されている」と3氏は論じている。たとえば、第二次世界大戦後の平均成長率は、マイナス0.1%ではなく、2.2%であると3氏は結論づけている。










◎政治色の濃い数字



90%という臨界値は存在するのか?

たとえば、BIS(国際決済銀行)は「閾値を85%」としていた(2011)。その一方で、IMF(国際通貨基金)は「特定の閾値は存在しない」と述べている(2012)。



では、臨界値(閾値)が存在しないとしたら、債務と成長の関係は「線形か否か」。

ラインハート=ロゴフ両氏は、線形ではないと結論した一方で、ハードソン=アッシュ=ポリン3氏はほとんど線形である(成長率は一気にではなく、徐々に下降する)ことを示した。



臨界値の有無、そして線形か否か。この難題は「まだ完全に解明されていない」。

すなわち、政治家ポール・ライアン氏が得意げに挙げた「90%という数字」は、とうてい「経験に基づく決定的な証拠」とは言い難いものであり、ましてや「広く認識された数字」でもない。とどのつまり、90%という数字は「政治色の濃い数字」に過ぎなかったのである(実際には彼がこの数字を政治的にしたわけだが)。

「要するに、公的債務残高のGDP比が90%を超えたら、経済成長は必ず大幅に下がるなどという鉄則は存在しないのである(Financial Times紙)」






◎低成長と高債務



90%という数字を巡る議論は、その数字自体の瑣末な問題よりも、その外枠にあたる「債務と成長の因果関係」を追求することこそ、その本質であろう。

「卵が先か、ニワトリが先か」というのが、債務と成長の関係。どっちが先でどっちが後か、じつはまだ誰も知らない。



低成長は高債務の原因になり得るのだろうか。

「たとえば、日本の高債務は低成長の原因なのだろうか、それとも結果なのだろうか?」

「では、今日のイギリスの低成長は、高債務が引き起こしたものなのだろうか?」

成長が鈍るから借金が増えるのか、それとも、借金が重荷になって成長が鈍るのか?



一般の人々にはどっちでもよいと切り捨てられそうな問題であるが、国民の税金をどう使うかを思案しなければならない政治家たちにとっては、その因果関係が決定的に重要となる。

成長が鈍るから借金が増えるのであれば、積極的な財政出動を敢行する大義名分となる。だが逆に、借金が重荷になって成長が鈍るのであれば、そうした積極性は害悪(無駄遣い)としかならない。むしろ財布のヒモをきゅっと締めて、緊縮財政に舵を切る必要が生じる。

つまり、政治家たちは分からないなりに卵か先かニワトリが先かを決めてしまわないと、その政策実行が真逆の決断となってしまうのである。これが「積極財政派」と「緊縮財政派」に政界が二分される理由でもある。どっちも正しいかもしれないし、どっちも間違っているかもしれない。それはまだ誰も知らない。






◎イギリスの産業革命



たとえば「積極財政派」は、こんな歴史の話を持ち出す。

今からおよそ100年前(1816)、イギリスの公的債務残高はGDP(国内総生産)の240%に相当する規模に膨れ上がっていた。この膨大な借金は125年にも及ぶ「フランスとの戦争」の産物だった。

さて、これほど莫大な債務を背負ったイギリスは、ペシャリと潰れてしまったのか?



もし、ラインハート=ロゴフ両氏の筋書きに従えば、公的債務が90%という危険値をとうに超えてしまったイギリスに、成長の芽は残されていないはずだ。

ところがその後、イギリスは突然立ち上がった。産業革命が勃ったのである…!



産業革命前夜、イギリスは陰鬱とした話題でもちきりだった。

「デイビッド・ヒュームやアダム・スミスといった18世紀の偉大な経済学者たちは、イギリスの過大な公的債務にガンガン警鐘を鳴らしていた(Financial Times紙)」

無理もない。1815年から1855年にかけて、イギリスの歳出のほぼ半分が「債務の利払い」で消えていたのだから。そんな苦境の中、積極財政の大風呂敷は広げにくいものであり、どうしても緊縮財政派が勢いを増さざるを得ない。



実際、そのほぼ同時期のイギリスの経済成長率の平均は約2%という低成長に過ぎなかった。

だが、この2%という数字は、「途方もない額の債務を抱えた、しかも増税の余地が非常に乏しい国」で実現されたものである。それを考慮するのならば、2%は「大した値」であろう。






◎大砲



100年前のイギリスの高債務が、「戦争」という「人間の数ある行動のなかでも最も破壊的なもの」で積み上がったものであれば、それを吹き飛ばしたのは「革新(産業革命)」という「人間の数ある行動のなかでも最も建設的なもの」だった。

それは、第二次世界大戦後の日本でも見られたような奇跡の一つかもしれない(または、江戸幕府崩壊のあとの明治維新か)。



人間を打ちのめすような危機は、戦争であれ金融危機であれ、人々を本能的に萎縮させるものである。

ゆえに崩れかけた城門を固く閉ざし、「緊縮」の旗を掲げたい衝動にも駆られる。だが、そんな縮みきった状況下に置かれても、敢然と撃って出る隊が存在するのも、また人間の行動であろう。

そうした輩の一見無謀な挙が、イギリスの産業革命、もしくは日本の高度経済成長期の呼び水となったのかもしれない。



緊縮派は債務を敵とし、さらにお金を使おうとする積極派をも敵とする。それは積極派も同様、「景気刺激策は常に正しい」とする彼らは、緊縮派を仇とみなす。

お互いの敵を敵とする姿勢は、その姿勢そのものが、いなかったはずの敵をも生み出していく。そしていつの間にか、一番の味方にすべきだった「未来」までもが、どこかの敵の陣中に収まってしまう恐れもある。



じつは未来は、解明不能な因果の根元にあるのではなく、その先の枝先に実っているものなのかもしれない。

もしそうだとしたら、債務と成長を秤にかけてそれと睨めっこしているばかりでは、その果実に気付くことがないだろう。



では、日本の安倍政権は、その果実を見つけたのであろうか。

日本は20年の沈黙を破り、撃って出た。

公的債務200%以上という厚い厚い殻を打ち破らん、と。



「日本は大きな大砲を撃った」と、ポール・ゲスト氏(ラサール・インベストメント・マネジメント)は言う。

だが、こうも付け加える。

「これが一時的な花火で終わらぬとよいが…」







(了)






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誰かが転べば全員転ぶ。「金融リスク」の話

もっとも名古屋らしい殿様、徳川宗春。



出典:
The Economist「緊縮論争に火:ラインハート=ロゴフ論文は誤りか」
Financial Times「債務は成長の敵ではない」

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2012年11月19日

誰かが転べば全員転ぶ。「金融リスク」の話


「30人が肩を組んで野原を行進しているとしよう。大の大人が転ぶとは考えにくいものの、30人もいれば『誰かがつまづく可能性』がそこそこある」

2008年のリーマン・ブラザーズがその「誰か」であった。

「その場合には、列全体が倒れかねない」

もし、つまづいたリーマン・ブラザーズにアメリカ政府が手を貸していれば、「列全体」は倒れなかったかもしれない。ところが、アメリカ政府はリーマンを助け起こさなかった。その結果、リーマン・ブラザーズという由緒ある投信銀行、いわば「大の大人」はデフォルト(債務不履行)となって破綻。世界的な金融危機の引き金となった。





◎つながり


「2008年を通して、金融当局はリスク評価に『銀行間のつながり』を考慮していなかった」と、コロンビア大学金融工学センター所長のコントは言う。

当時の金融当局は、「個々の金融機関のリスクが低ければ、金融システム全体は安全だ」と考えていた。ところが、2008年の世界金融危機は、この想定が「甘い」ことを露呈させた。リーマン・ブラザーズなど大手金融機関がデフォルトに陥る可能性は「ごく小さい」と思われていたにも関わらず、金融システム全体は安全ではなかったのだ。



たとえば、個々の発電所が停止する確率は低いが、どこかの発電所が実際に停止してしまうと、その発電所に連なった他の発電所に過大な負荷をかけて、「大停電」を招く場合がある。それは、電力網が繋がり合っているためである。

「アメリカでは、この種の大停電が1965年と1977年、2003年に起きている」

これを反省した電力各社は「N1テスト」というのを実施するようになった。そのテストは、どこか1ヶ所の発電所がダウンしたと想定し、全体の電力網に何が起こるのかをシュミレートするものである。



それならば、それを金融システムに応用すればよいのではないか?

ところが、事はそう容易(たやす)いことではない。電力各社がそれをできるのは、「すべての発電所がどう接続しているかを分かっているからこそできるのだ」とコントは指摘する。





◎ブラック・ボックス


残念ながら現在、「金融システムの『実際の姿』を知っている者は誰もいない」。

誰が何を誰とどれだけ取引しているのか、正確には誰も分からない。それはあえて「ブラック・ボックス」の中にしまわれているのである。「各銀行はそうしたデータの報告をヒドく嫌がる」。

というのも、もし進行中の大型投資が世間に知れてしまえば、要らぬ価格上昇を招くかもしれない。また逆に、大規模な売りの場合には、その対象に問題があるとのシグナルとなってしまい、余計に売りが加速してしまうかもしれない。



そこでコントが提案するのが、すべての報告を「データ収集機関限りの機密扱いにする」という対処である。それならば、市場に隠れて巨額の資金を動かすことも可能となる。

「各国政府は『核に関する機密データ』を国際機関で何年も共有してきた実績がある。金融データのほうが機密性が高いということはあるまい」

アメリカでは実際、2010年に発効したドッド・フランク法によって、アメリカ国内の金融機関からデータを収集できる「金融調査室」なるものの設定が定められている。



◎リスク・モデル


しかし、いくらデータが出揃ったとしても、金融危機のリスクを想定することは可能なのだろうか?

「今のリスクモデルは、それほど精緻ではない」

スタンフォード大学の金融論教授のダフィーによれば、「確率」に基づく既存のリスクモデルは、未来について一切の前提条件を置かずに、将来に生じうる「気の遠くなるような無数の条件」を計算に入れているのだという。

しかし、それは「個々の銀行」についての結果でしかなく、他行との「つながり」まで計算を広げようとすれば、「ほとんど馬鹿げている」とダフィーが言うほどに、天文学的な計算が必要となるのだという。



「新モデルなら、2008年のような破綻の再発を防げるだろうという期待は、現実離れの希望的観測かもしれない」

たとえデータ数が増えようとも、結局世界は「おぼろげ」にしか反映されず、時には「とんでもない結果」が起きてしまうかもしれない。

しかしそれでも、金融分野はそのお粗末なリスクモデルに「過大な信頼」を置いている。そのモデルには「非常に大きな不確実性」があると分かっていながら、それを信じるのだ。



◎考慮し損なっている要因


数学的なリスクモデルに身を委ねているのは、なにも金融業界ばかりではない。

科学者たちも、気候変動や原子力の安全性など多くの分野で「不完全でお粗末な科学」に信頼を置いている(金融業界ほど絶大な信頼ではないが…)。



ある科学者は「雲の効果」を欠いた気候モデルがあまりにも多いと指摘する。

「雲は天気の60%を左右しているのに、たいていの気候モデルは雲を『無視』している」



様々なモデルが「考慮し損なっている要因」というのは、そこら中に転がっている。

たとえば、新型インフルエンザの感染拡大モデルに、「人々のワクチン接種を受ける意志」は組み込まれているのか? 原子力発電所のリスクモデルには、フクシマ50のような勇猛果敢な緊急対応チームの能力は組み込まれていたのか?





◎流動性


考慮し損なっている要因もあれば、容易には考慮できない要因もある。

金融危機においては「非流動性」がそれに当たる。

「もし、全員が自分の保有資産を同時に売却しようとしたら一体どうなるのか?」



売りか買いのどちらか一方に偏ってしまえば、売買は成立しない。

2008年に住宅価格が下落し始めた時、どこまで価格が下がるのか誰にも分からなかった。その結果、抵当証券の取引はストップ。売買の流動性が失われて「非流動化」してしまった。

「このため、銀行は抵当証券を現金化できなくなり、投資家はパニックに陥った」



カネは天下に回ってこそ価値がある。

つまり、流動性があるほど、言い換えれば、交換が容易であるほど正常に機能する。しかし、2008年の金融危機ではその流動性が失われ、スムーズな交換ができなくなってしまっていた。

そして、それが負の連鎖を加速させることにもつながった。



◎予測不能


なぜ、非流動性はリスクモデルに組み込まれていなかったのか?

「金融リスクモデルに非流動性を取り入れることは容易ではない」と、コーネル大学で金融リスクモデルを研究するジャローは言う。

なぜなら、流動性という要因は、通常の価格変動に比べると「はるかに非線形に変化する傾向が強い」からだ。つまり、次にどっちにいくかが予測しづらいのである。直前まで高い流動性を保っていたマーケットでも、一瞬のうちに非流動化する場合すらあるという。



それでもジャローは非流動性をリスクモデルに組み込もうとしている。

しかし、出てくる方程式は「単一のきれいな解をもたない」。簡単に言えば、「予測不能」ということである。

「私が開発しているモデルは、非流動性リスクの『推定』には役立ちます。しかし、完璧には程遠い状態です」



◎シナリオ


一方、スタンフォード大学のダフィーは全ての可能性を考慮することを諦めて、特定のシナリオだけに絞る「シナリオ・ストレステスト」を提唱している。

たとえば、一個人が将来、住宅ローンを返済できなくなるリスクを考えた場合、将来の「あらゆるリスク」を計算するよりも、給料10%カットなどといった「特定のシナリオ」に絞ったほうが簡単である。



ダフィーは一つの銀行につき、10種類ほどのシナリオを想定する。そして、他の10行が破綻するリスクをそこに組み込む。この作業を10行に対して行えば、10×10×10のマトリックス(行列)が得られることになる。

しかし、このモデルの欠点は、将来起こりうるシナリオの「ほんの一部」しか想定できないことである。

たとえ、想定するシナリオが確率の高いものだとしても、「そのテストに含まれない無数のシナリオの1つ」で金融システムは崩壊してしまうかもしれない。確率の高いところにブラックスワンがいるとは限らない。



かといって、いちいち何千何万もの想定をシナリオに組み込むことは、「モデルの複雑さ自体が障害となる」。

新たな変数とパラメーターが何十何百と加われば「泥沼にハマり込んでしまう」。その変数やパラメーターが誤差を生む可能性まで考慮すれば、結局「ひどく不正確なモデル」にもなってしまいかねない。





◎スイートスポット


理想を言えば、リスクモデルは「そこそこ」現実に近似し、限界を理解できるような「シンプルさ」があれば良いともいわれる。

それを「数学的スイートスポット」と言うらしいが、残念ながら、「このバランスを見極めることに成功した者はほとんどいない」と応用数学者のウィルモットは認める(彼はヘッジファンドのマネージャーも務めていた)。



とどのつまり、「金融リスクモデルは今後ともに信頼できないと考えたほうが安全」だ。

「金融市場に見られる全ての不確実性と予測不能な挙動を説明できるモデルが存在するという考えが、そもそも馬鹿げている」と、ミドルベリー大学の経済学者コランダーは身も蓋もないことを言っている。

「現実的な対処策はただ一つ、リスクモデルは信用しないことだ」



しかし、「ウォール街(金融街)の精神」はそんなことは認めない。

なにせ、彼らは「金融モデルを利用して大金を稼いでいる」のである。投資家の利益は「平均すると少なくなってしまう」。不完全なリスクモデルを信用するからこそ、利益は平均化されない。



30人が肩を組んで野原を歩いている時、ひょっとしたら誰かがつまづくのを期待している人も、その中にはいるのかもしれない…。

他人の不幸は…。










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出典:日経サイエンス
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2012年10月09日

破格の投資家「ウォーレン・バフェット」。並外れた普通のこと


もしもタイムマシーンがあって、1970年代に戻れるとしたら?

投資家たちは「どの株」を買っていたら、今現在、儲かっていただろう。



その答えの一つは、明らかに「バークシャー・ハザウェイ」の株。

かの大富豪、ウォーレン・バフェット氏の会社の株である。



◎異常値


世界最大の投資持株会社であるバークシャー・ハザウェイは、その本拠地がアメリカ・ネブラスカ州の「オマハ」にあることから、バフェット氏のあ「オマハの賢人」とも称せられる。

その賢人がバークシャー・ハザウェイの経営権を握ってから現在までの約45年間、その株価は約82万%超という「ケタ外れの上昇」をみせたのだ(一万円が85億円に?)。この同じ期間、アメリカの主要株価であるダウ平均の上昇率は、「たったの」1400%である。

運用成績としては年間20%以上のリターンを40年以上に渡って出し続けていることになる。これは息の短い投資会社の中にあっては異常な状態である。そのため、学者の中にはバフェット氏のことを「異常値」として考えないことにしている人もいるのだとか。



さて、そのオマハの賢人の異常な戦術とは、いかなるものなのか?

一言で言うと、「低ベータ株を買い、レバレッジを効かせてリターンを高める」ということになる(ニューヨーク大学とARQキャピタルによる新たな論文)。

金融業界用語というのは不親切なもので、この言葉を正確に理解するには、少々「翻訳する必要」がある。





◎低ベータ株


まず、「ベータ」とは何か?

これは「株価の値動きの荒さ」を示すもので、この値が大きい(ベータ値が高い)ほど、その株価は上がったり下がったりを激しく繰り返していることになる。

一般的なモデルでは、あえて変動の大きな(ベータ値の高い)銘柄を買って、大きな儲けを狙っていく。しかし、当たりが大きいということは、外れる時もデカイということでもある。金融砂漠を跋扈する攻撃的なハチュウ類たちが、往々にして討ち死にしてしまうのはこのためだ。



一方、賢人は賢人らしく、もっと賢く銘柄を買う。

あまり欲張らずに、変動の小さな(ベータ値の低い)銘柄を選ぶのである。そして、「長い目で見ると」、より高いパフォーマンスを見せるのは、賢人の選ぶ低ベータ株なのである。



それが分かっているのなら、なぜみんな高ベータ株を買ってしまうのか?

逆に考えれば、みんなが賢人とは違う選択をするからこそ、賢人の戦略は40年以上の長きに渡って通用してきたとも考えられる。

「ほとんどの投資家が、このような戦略を使えない、あるいは使わないからこそ、この変則性(アノマリー)は存在するのかもしれない」



一般的な投資家たちはリスクがあると分かっていても、どうしてもハイテク株のような変動の激しいセクターに惹かれてしまう。

その結果、多くの投資家は「低ベータ株を無視する」傾向が強くなる。それゆえ、賢人・バフェット氏は「残りモノ」となる低ベータ銘柄を、より割安に購入することが可能となるのである。ちなみに、賢人は概してハイテク株を避けてきた。



◎まずまずの価格


「素晴らしい会社の株をまずまずの価格で買う方が、まずまずの会社を素晴らしい価格で買うよりずっといい」

賢人・バフェット氏はかつて、そう語っていた。



素晴らしい会社、たとえばコカ・コーラやGE(ゼネラル・エレクトリック)といった大企業でも、長い年月の間には「一時的にツキに見放される時」がある。

コカ・コーラは「ニューコーク」が大失敗した時(1980年代)、GE(ゼネラル・エレクトリック)はリーマン・ショックの直後(2008)、「ツキ」に見放され、その株価は大きく値を下げた。

その時である。バフェット氏の触手が動いたのは…。その結果、彼はまんまと「まずまずの価格」で素晴らしい会社の株を買うことができたのだ。

「もっともバカげた株の買い方は、値上がりしてから買うというやつです(ウォーレン・バフェット)」



◎テコの原理


さて、「低ベータ株を買い、レバレッジを効かせて、そのリターンを高める」というバフェット氏の戦略の「レバレッジ」とは何か?

直訳すれば、それは「テコ」となる。テコの原理を用いれば、10の力を100にも、1,000にも高めることができる。金融の世界では、10万円しかなくとも、レバレッジを効かせれば、それを100万円にも1,000万円にも「見せかける」ことができるのだ。



もし、10万円しかないのに100万円を持っているフリをして取り引きをした時、そのレバレッジは10倍(10×10)である。さらに欲張って1,000万円に見せかければレバレッジは100倍(10×100)となる。

こうした詐術まがいは、金融業界では日常茶飯事。別に悪いことでもなんでもない。銀行といえども、自己資本比率というのは国際的には8%、日本国内では4%程度で良いとされている。つまり、銀行は100万円の取り引きをするときに、その資金はじつは8万円とか4万円とかしか持っていないのである。「ヘタ」をした金融機関がアッという間にフッ飛ぶのは、このためだ。



100万円の取り引きをする時に4万円しかないのであれば、そのレバレッジは25倍(100÷4)である。この状態で利益を出せば、その利益は25倍になる。勝てば官軍、利益は何倍になっても社会に迷惑がかかることがない。

だが、もし負けたら…。たった4%の負け、4万円の損失を出しただけで「飛んでしまう」。失敗してしまえば、その損失も25倍になってしまうわけだから、大きなテコほど、その失敗の反動もデカい。

大きな利益をあげようとして大きなテコを使った時に、間違って自分が飛んでいってしまうことも珍しくない。星の数ほどの投資家たちが、そうやって銀河のかなたへと消えていったのだ…。



◎信用


どれほど大きなテコを使えるかどうかは、その「信用次第」である。

すぐ負ける人、過去に負けてばかりの人は大きなテコを使わせてもらえない。たとえば、高い金利を請求されることになる。

一方、オマハの賢人・バフェット氏のように勝ち続けている人は、人よりも大きなテコを使うことが許される。つまり、低い金利で借り入れをして、自己資本を増強することができるのだ。

彼のバークシャー・ハザウェイという会社には、1989〜2009年まで「トリプルA」という最高の格付けが与えられており、その信用力は今なお世界最高クラスである。



また、保険事業も営む同社は、保険料という形でより多くの人々から資金を得ることも可能になっている。資金の借り入れと保険料ではまったく異なるようにも感じるが、実は結果的には同じことだ。

被保険者に保険金を支払うのは「のちのち」のことであり、被保険者は「前もって」保険料を保険会社に支払わなければならない。つまり、実質的に保険料というのは前借りであり、これは保険契約者からの「借り入れ」という形なのである。

その保険事業による借り入れコストは平均で2.2%。これはアメリカ政府の短期資金の調達コストの平均よりも、3%以上低い。つまり、バークシャー・ハザウェイの資金調達効率は、その属する国家以上に高いということでもある。





◎シンプルさ


なるほど、バフェット氏の異常な業績を説明するのに、多くの言葉はいらない。

「低ベータ株」と「高いレバレッジ」。これだけだ。

年齢81歳になるバフェット氏は、このシンプルな戦略で資産を増やし続け、今年も世界長者番付(フォーブス社)の第3位にランクインしている(総資産3兆5,000億円)。



賢人・バフェット氏の名言に、こんなものがある。

「You don't need to have extraordinary effort to achieve extraordinary results.

 (並外れた結果を出すのに、並外れた努力はいらない)

 You just need to do the ordinary , everyday things exceptionally.

 (ただ、日々の普通のことを、並外れて行うだけでよい)」



日々の「普通のこと」の積み重ねの大切さを説いたバフェット氏。

普通のことを積み重ねることこそが、「並外れたこと」だと言うのである。



株式市場を「誰かがバカげた値段をつけていないかどうかを確認する場所にすぎない」というバフェット氏は、バカげた値段をつける人々は「簡単なことを難しくするのが好きなようだ」とも言っている。



◎木を植えた誰か


静かな「低ベータ株」を信じてずっと長く持ち続け、コツコツと信用を積み重ねながら、「高いレバレッジ」を利用できるようにしていったバフェット氏。

「人からそれなりの信用を得るには20年かかる。だが、その信用はたった5分で崩れることもある。そのことを頭に入れておけば、今後の生き方が変わるはずだ」と語っている。



「今日、誰かが木陰で休むことができるのは、遠い昔に誰かが木を植えてくれていたからである」と言うバフェット氏の視線は、一般の投資家たちのそれよりも、ずっとずっと遠い未来を見ているかのようである。

「価格とは何かを買うときに『支払うもの』、価値とは何かを買うときに『手に入れるもの』」というバフェット氏は、ずっと何かを手に入れ続けてきたのだろう。

そしてその手に入れてきたものは、決して並外れたもの(extraordinary things)ではなく、きっと普通のもの(ordinary things)でもあったのだろう。何兆円といえども、それはたった一円の積み重ねであるのだから。



バフェット氏は2010年から、Microsoftのビル・ゲイツ氏とともに「財産の半分を寄付する慈善活動(The Giving Pledge)」を行なっている。そして、その賛同者は92人にもなったという。

遠い目をもつバフェット氏は、遠い未来の誰かのために、木陰で休むための木を植えてくれようとしているのである。



◎リスク


一般的に「投資家」という言葉は、あまり美しく響かないかもしれない。それでも、未来に投資してくれている本当の投資家が、この世界には少なからず存在しているという事実もある。

「投資とは、消費を延期すること。今お金を出しても、あとでもっと大きなお金になって戻ってくるわけです(ウォーレン・バフェット)」



金融業界には、危険(リスク)を引き受けれくれる人に、ご褒美(リターン)を与えるという構図がある。

そのリスクについて、バフェット氏はこう語る。「リスクというのは、あなたが『何を行なっているか』知らないことなのです」

一般的に、リスクというのは「不確実な将来」のことを意味するわけだが、バフェット氏は「自分の行いを知らない」ことがリスクだと言っている。逆に言えば、今自分のしていることの意味が分かっているのならば、「不確実な将来」はリスクにはならないということだ。



そもそも、将来が不確実なのは今に始まったことではない。「一寸先」のことすら、みんな知らない。つまり、将来が不確実なのは「確実」なのである。

それよりもリスクが高いのが、人間たちが「今、何をやらかすか分からない」という怖さなのかもしれない。それは他人に対して言えることでもあり、自分に対してもまた然り。そんな人間の歴史は「まさか」の連続である。



◎行住坐臥


もし、自分の今の行いが、将来にどんな結果をもたらすのかを意識するのなら、その将来は多少変わってくるのではなかろうか。

禅の言う「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)」というのは、日常生活の一挙手一投足がすべて修行という意味である。その所作というのは何も特別なものではなく、行(ゆく)、住(とどまる)、坐(すわる)、臥(ねる)といった、ごく普通のことばかり。

こうした自分の小さな行いの一切合切、それら一つ一つの積み重ねが、将来の自分をつくり、ひいては将来の社会を形成していくことにもなる。



きっと禅僧たちは、「自分の行い」を知っているのだろう。

そしてまた、ウォーレン・バフェット氏もそれを知っているのであろう。



かつて、マルティン・ルターは「たとえ明日、世界が終わりになろうとも、私はリンゴの木を植える」と言ったという。

「今の自分」の行い、そこから全ては始まっているのかもしれない。



今の自分はいったい、どんな種をまいているのだろう?

すぐに枯れてしまうような種だろうか、それとも82万倍にも殖える種だろうか。

どれほど将来が不確実だとしても、必ず育つ種があるのだろう。そして、きっとその種は、何も特別な種ではなく、何気なくその辺に転がっているような種なのだろう…。







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2012年09月24日

欧州の民主国家に芽生えた「独裁のタネ」


「ヨーロッパは、民主主義を『生け贄』に出しはじめた」

光の見えないユーロ金融危機を何とかしようともがいていた「ECB(欧州中央銀行)」。その総裁のマリオ・ドラギ氏は、ユーロ救済のためなら「何でもやる。信じてくれ」と訴えていた。

その「何でもやる」との約束を形にしたのが、今回のECBによる国債「無制限」購入という特効薬だった。

投資家のジョージ・ソロスは、ECBによるこの決断を「過去にない、強力な一手」と誉め讃えた。しかし、この一手は危険な禁じ手でもあった…。



◎独断


借金で首が回らなくなっている国々の「国債」は、当然のように積極的な買い手が現れない。それゆえ、その金利ばかりが上昇して、回らない首がますます回らなくなる。

そこで、その人気のない国債をECB(欧州中央銀行)が「無制限」に買い取ろうというのである。



ところで、それら不人気な国債、貸した金が返ってくるかもわからない国債を買う金は、どこから来るのか? 当然、ヨーロッパ国民の小さな財布からである。

では、それをヨーロッパの国民は了解したのか?

そこが問題であった。



各国国民たちの「選挙の洗礼」を受ける政治家たちとは異なり、ECB(欧州中央銀行)の面々は、その洗礼を受けることなく席に座ることができる。

すなわち、ECBの決断は、すでに国民の手を離れているのである。

これが、「民主主義が傷つけられた」とする所以である。



◎マイナスと信用



第二次世界大戦後、「民主主義」という政治体制は急速に世界に浸透していった。そして、今もその勢いは衰えない。

ところが、民主主義の先陣をきったヨーロッパでは、その逆行現象が起こり始めていた。それは奇しくも、民主主義発祥の地、アテネ(ギリシャ)から始まったことだった。



「自由」を謳歌していた民主国家の民たちは、あまりにも自由に「お金」を使ってしまっていた。

モノには限りがあるものの、お金に限りはない。「マイナス」という数学的なトリックを用いれば、お金は無限に生み出せるのだ。

しかしそれでも、そのマイナスには限度がある。それが「信用」という曖昧な限度である。



数字的にはいくらマイナスになっても構わないが、人々が「お互いを信用し合える限度」は確実に存在する。

いくら民主国家が「自由」だといっても、「信用」の枠ばかりはそれほど自由ではなかったのだ。



◎破綻


信用というのは、「個」よりも集団のものの方が高まる。それは、一人が破綻しても誰か他の人が責任を取ってくれるからだ。

たとえば、ギリシャ一国の信用よりも、ヨーロッパ全体の信用の方が確実に高い。なにせ、ヨーロッパにはお金持ちのドイツの信用があるからだ。

それゆえ、「ユーロ」という欧州共通通貨の信用は、ギリシャ一国の信用よりははるかに大きなものだった。そして、そのユーロに加盟したギリシャは、ドイツのクレジット・カードを使うことが許された。自分のカードよりもずっと限度額の大きい他人のクレジット・カードを…。



その結果、さすがに度を超したギリシャは破綻。

そして、その責任は共同体である「ユーロ」が取ることとなった。つまり、ギリシャの「使い込み」を、他国の国民が負担することになったのである。



この「アリとキリギリス」状態に、ドイツ国民は怒った。「なんで、俺らがエーゲ海のビーチで楽しんだバカンス代を払ってやらなきゃならないんだ!」

怒ったドイツはギリシャに命じた。「もう少しカネを貸してやるけど、もっと節約しろ」と。

これにはギリシャもカチンとくる。「俺たちは民主国家だ。財布のことまで首を突っ込まれるのは真っ平ゴメンだ!」



こうして、ユーロ危機はギリシャを発火点として、その火は野火のごとき広がりを見せる。

救済を必要とする国家が続々と手を挙げはじめ、まったく収拾がつかなっくなってしまった。



◎救済と緊縮


困窮した国家を救済しなければ、その国の国債の利回りは高騰し、月々の支払いはますます増える。そうなると、破綻は早まるばかり。そして、破綻は連鎖する。

それゆえ、救済は必至。しかし、救済を受ける側は、「緊縮」を命じられる内政干渉に難色を示す。たとえば、日本が中国政府に消費税を10%にしろと命じられたら、どう思うだろう。

貸し手と借り手の「綱引き」は決着のつかぬぬままに、その綱はどんどん細くなっていき、両者共倒れの様相を呈してきていた。



そこで、冒頭のECB(欧州中央銀行)の登場である。

「わかった、わかった。俺らがその借金、全部買い取るから。いくらでも買い取るから」

そう言うECBのカネは、先に述べた通り、「みんなのお金」である。そうそう勝手に使ってよいものではない。



ところが残念ながら、このECBの決定に「反対する術(すべ)」は誰も持たない。

かのドイツですら、この決断を覆すことはできない。大国ドイツですら、ECBにおける議決権は、他国と同様の一票。議決権は経済規模に比例するわけではないので、ドイツの一票とギリシャやマルタの一票は同じ価値なのである(それでも、ドイツは唯一の反対票を投じたが…)。

しかも、この投票は国民に選ばれた政治家たちによるものではなく、各国の中央銀行総裁たちによるものだ。ご存じの通り、金融政策に関して、政治家たちは関与できない。中央銀行は完全に独立した機関なのである。



◎ドイツの無力さ


「ECBの行動(無制限国債買い取り)は、違法であり危険である」

ドイツの世論は、そう言っている。ECBの計画は「紙幣を印刷して国家の借金を穴埋めする」に等しく、そのリスクや負担は「まじめに働いている国の納税者にまで分配」されるのだ。



これまでのユーロ圏内の救済策は、ドイツ議会の承認を得る必要があった。そして、ドイツの裁判所の審査対象にもなった。

しかし、ECB(欧州中央銀行)はEU(欧州連合)の機関であるため、ドイツの裁判所がチェックすることはできない。それができるのは、より上位の欧州司法裁判所だけである。



昔々、ローマ帝国の掟では、非常事態において独裁官(ディクタトル)という、あらゆる領域に強大な権限を有する一人の人物が選ばれることになっていた(独裁者の語源)。そして、このディクタトルの決断には何ぴとたりとも拒否権を持たなかった。

今のヨーロッパはいわば金融の非常事態。ECBはディクタトルとして行動することも許されるのかも知れない(そんな法はないけれど)。

非常事態にあって、権力が国民に「分散」されているのは、かえって不都合、非効率。ゆえに、ECBが独裁者となるのである。たとえ、民主主義には真っ向から反対することになったとしても。



金融のルールは、分散に弱い。お金はある程度まとまってこそ、その価値を高めることができる。

しかし、「卵は同じカゴに盛るな」との格言どおり、集中させればリスクも高まることにもつながるのだが…。



◎アリの一穴



かくして、ヨーロッパにおける民主主義の一角は綻(ほころ)んだ。

アリのあける小さな穴からでも、時には堅牢な堤防が決壊することもある。ECBによる独裁は民主主義にとって、アリの一穴となるのかどうか。



かつて民主主義を謳歌したアテネ(ギリシャ)は、独裁官を認めたローマに滅ぼされた。

しかし、そのローマも拡大につぐ拡大戦略により、自らの重みで瓦解してしまった。

今の世の中、国土が拡張することはないものの、バランスシートという風呂敷だけは大きく広げることができる。だが、広げすぎたバランスシートに潰されることもありうる。日銀がいくら紙幣をまいても、日本の景気は一向に上向かない。



自由を求めた民主国家は、ここに来て、その再考を迫られている。

「マイナス」という概念をもつマネーを野放しにすることが、いかに危険なことか。もはや、ありきたりの経済理論はまったく刃が立たないところまで、マネーは先に突っ走っていってしまった。



◎ドイツだけは孤立させるな


そのマネーを自由にさせすぎないように、中央銀行ばかりは民主的な投票からは独立することとなったが、その中央銀行もいまや手詰まりだ。

それは民主的に選ばれた政治家たちが、お金の使い道を握りしめているからでもある。選挙民にアメをあげたがる政治家たちが…。



思いっきり痛い目にあって、その不都合に気づいたギリシャは、一時的に国民が選ばない政治家たち(テクノクラート)を政権の座につけた。

ところがどっこい。民主的なギリシャの国民たちは黙っちゃいなかった。国論は紛糾、国の意見は散り散りとなり、その隙に極右・極左などの過激な政党も支持率を伸ばしてきてしまった。



そのギリシャの様は、どこかで見たような…。

あぁ、それはかつてのドイツではないか。第二次世界大戦の引き金を引いた、あの頃の…。



あの惨事以来、ヨーロッパではある一つの暗黙知が共有されることとなっていた。「ドイツだけは孤立させるな」。

「歴史に通じた人ならばきっと、ECBの会議でドイツ代表が孤立し、投票で負けた光景を見て、背筋が寒くなったはずだ」



幸い、ドイツには過激な思想をもった政党の台頭はまだ見られない。

しかし、ドイツ国民の心中穏やかならぬことだけは確かである。



いったい、自由が自由であるためには、何が求められるというのであろうか。

そもそも民主主義とは、何を求めていたのだろうか?



◎自らを由とする


ある人は「自由」をこう表現した。

「自由とは、自らを由(よし)とすること」

多忙のあまり、自分の時間が寸分ももてぬ中、彼女はそんな境地に達したというのである。



自分が好きなことをやるばかりが自由とは言い切れない。というのも、「好きなこと」というのは限定的であるがために、その道はどんどんと狭くなっていってしまう。つまり、自ら自由の道を狭めていってしまうのである。

他方、「由(よし)とする」心は「良し」にも通じ、好ましからざることをも受け入れていくことを意味する。それがゆえに、道幅は自ずと広がり、それが自由を広げることにもつながる。



とはいえ、「すべてを受け入れる」ということは、自由と言うよりも「盲従」ではないかともなる。

その点、日本の武士は「義を見てせざるは、これ勇なきなり」と言った。彼らは封建制度という個人の自由度の低い政治体制にありながら、決して主君に盲従していたわけではない。「義」を重んじ、時には主君を諌めもしたのである。それこそが「忠」であった。



「民主」とは何か? そして、「自由」とは何か?

金融という概念に自失しつつある先進国。

すでに各所で「義」の旗は掲げられているようだ。






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2012年03月21日

無知のヴェールの中で想う「富の格差」。

日本の「お金持ち」は、どれほどお金持ちなのか?

ある統計によれば、日本の富裕層「上位1%」で、日本のすべての富の「20%」を占めるそうだ。



それでは、アメリカは?

アメリカは富裕層上位1%が、アメリカの富の「40%」を占める(日本の2倍の割合)。



昨年(2011)の9月にアメリカで起こった「ウォール街を占拠せよ(Occupy Wall street)という運動は、こうした「富の格差」に抗議するものであった。

その参加者たちは自らをこう定義した。「私たちは残りの99%だ(We are the 99%)」。



ここ30年間で、上位1%の収入は「急増」している(275%増)。

ところが、同じ期間、中間所得層(国民の60%)の収入は40%増にとどまる(上位1%の約7分の1)。低所得者層(国民の20%)ともなれば、わずか18%増(上位1%の約15分の1)。

こうした富の格差は明らかに「増大する傾向」にあるため、上位1%に引き離され続ける「残り99%」は、ウォール街で抗議の声を大にしたのである。




こうした不公平を是正するために、国家には「税金」という制度がある。

単純に考えれば、お金持ちから税金をたくさん取って、自らを恵まれないと叫ぶ「残り99%」に分配すれば、いくぶん公平になるような気がする。



こうした考えを示すのが、「所得税」という制度である。

それぞれの収入に応じて税率が変わるようにもなっているため、収入が多い人がたくさんの所得税を払い、逆に収入が少ない人の負担は軽くなる。

実際に、日本での所得税はアメリカよりも税率が高いため、アメリカほどの格差は生まれないのだという人もいる。



日本とは異なり、「実力の国」アメリカにおいては、収入が多いのは「自分の実力」と考える傾向が日本以上に強いため、富裕層への課税は政治的にシビアな問題となる。

「能力あるものが収入を得て何が悪い? 収入を得れば得るほど支払う税金が増えるというのでは、ヤル気が失せる」

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まったくの正論であろう。



それでも成功者の中には「謙虚」な人物も少なからず存在する。

自分の成功は「運が良かった」というのである。

つまり、その成功は自分の実力や努力のみの成果ではなく、周囲の環境やタイミングが幸運にも自分に味方したのだと言うのである。



考えてみれば、収入獲得レースのスタート地点は皆大きく違う。

紛争地帯に生まれる人もいれば、平和な先進国に生まれる人もいる。スラム街に生まれる人もいれば、大富豪の家に生まれる人もいる。




我々の「種」のまかれた場所が「肥沃な大地」であれば、その種はいかんなく実力を発揮して「大木」となることも夢ではない。

一方、その種が「砂漠」に落ちたとすれば、その種は発芽することすら叶わないかもしれない。

「種」自体に幾ばくかの優劣はあれど、それが発芽して大きく成長するには、その土壌や気候が大きくモノをいうのは、大自然の摂理に他ならない。



もし、ある成功者がその成功を「全く自分の実力だ」と主張するのであれば、それは少々傲慢な主張なのかもしれない。

「他の恩恵」というものは、少なからず存在するはずである。その恩恵は、成功者を生みやすい社会の土壌であったり、周囲の人々の助けであったりもするだろう。



世界の大富豪「ウォーレン・バフェット」は、この辺の事情を周知し「お金持ちにもっと高い税金を課せ」と主張する。

マイクロソフト(Windows)の「ビル・ゲイツ」も、他者への寄付行為に熱心である。




大自然の法則には「循環」という概念がある。

「陰極まれば陽に転ず(易経)」という言葉は、流転してやまない世界を如実に表現したものである。



ウォーレン・バフェットやビル・ゲイツのような成功者たちは「陽極まり」、「陰」にいる残り99%への配慮を始めたのかもしれない。

またそれは、自らが「陰」に転じないための無意識の防衛であるのかもしれない。



富への道は「一方通行」でもないのだろう。

皆がみな、富への階段を登りたいと思っているわけでもない。なぜなら、積極的に富の階段を降りようとする人々だっているのだから。



キリスト教の聖人とされる「聖フランチェスコ(12世紀)」という人物は、裕福な商人の息子として生まれながら、「身にボロをまとい、裸足で歩き、一片のパンによって生きる乞食僧」に徹したと伝わる。

「無所有」と「完全な貧困」に徹した彼の求めたものは何だったのか?




若き日の彼は、ローマ教皇のお膝元に「あまりにも貧しい乞食が多い」ことに愕然とする。

心を痛めた彼は、一人の貧しき乞食のボロと自分の贅沢な衣装を交換し、自らを富豪の御曹司から一介の乞食へと変貌させる。

すると…、今までの宿には入れてもらえなくなり、物乞いをしても「あまりにも恵む者が少ない」ことに驚いた。



キリストはかつて、こう言った。

「空の小鳥を見なさい。種をまきもしないし、刈り入れもしない」



聖フランチェスコは、こんな詩を書いた。

「私はヨレヨレの服を着ているが、小鳥たちは素晴らしい衣服を身につけている。

小鳥たちは透明な声で鳴くが、それは好い声になろうとしてなったわけではない。」



小鳥たちは、自然の恩恵をそのままに受け、そのままに生きる。

そして、小鳥たちが「他と比較すること」は決してない。




「格差」という概念は、他と比較して初めて生まれるものである。

隣りの人の給料の額を知らなければ、自分の給料が高いのか安いのかが分からない。それゆえ、格差があるのかないのかも分からない。

それはある意味「幸せ」な無知であり、「原初的」なことでもある。



「ジョン・ロールズ」の唱えた「無知のヴェール」は、こうした考えに基づいている。




自らをヴェールに覆うように周囲の知識に目をつむれば、自分が「本当に欲するもの」が見えてくるというのである。

それはあたかも、中世キリスト教の聖者たちが「山に籠ったり、砂漠に隠れたりして、自らに課した困難に耐えながら神を想った姿」のようであり、聖フランチェスコが何不自由ない生活を捨て、完全な貧困を目指したようなものでもある。



世の中の些事は、我々の心をグラグラと惑わす。

見たくないものも見せられ、聞きたくないことも聞きかされ、いつの間にか、想いたくないことまで想ってしまう。



はたして、己の生は何のためにあったのか?

空の小鳥たちが決して惑わされることのない問いに、我々は答えを見出せない。



他人との「差」を、「格差」という否定的な捉え方をする限りにおいては、その差は広がりを続けるのであろう。

逆にその差を、「多様性」という少々前向きな捉え方をしたらどうか?

富める者だけが出来ることもあれば、貧しい者にしか見えない世界も必ずある。



多くの人々に平等な負担を課す消費税の是非や、特定の富裕層へ対するさらなる課税の是非に、万人が納得する答えを提示することはおおよそ不可能なことのようにも思える。

他者との比較という「相対性」の世界において、その差がなくなることは望むべくもない。

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一方、自らを「無知のヴェール」で覆って、他者との比較から離れたならば、その「絶対的な世界」には何らかの答えがあるのかもしれない。

その答えは万人に通ずるものではないかもしれないが、少なくとも「今の自分」を納得させるものではあるだろう。



ところで、「無知のヴェール」という考え方は、単なる「現実からの逃避」なのであろうか。

格差に目を向けなければ、世界の格差はなくなるのだろうか。格差に目を向けなければ、逆に格差が広がるに任せてしまうことになるのではないか。



この答えは、我々の知るところではない。

なぜなら、これは現在進行中の出来事であり、現在の我々はその渦中に置かれているのである。

「無知のヴェール」が現実逃避に終わるのか、それとも問題解決へと向かう道筋なのかは、我々の「これからにかかっている」とも言える。



「無知のヴェール」の中で想うことの一つに、「自分の価値観は本当に自分のものなのか」というものがある。

聖フランチェスコはローマの乞食を目にして以来、その価値観は一変してしまった。それは、王宮の外に足を踏み出したブッダとて然りであろう。



時代の速度が加速し続ける現代において、歩みを止めることは自殺行為ともなる。

一日とて仕事を途絶えさせることが許されず、一月(ひとつき)でも給料がもらえなくなれば、あっという間に窮してしまう。

それは富裕層上位1%の仕業なのであろうか?



良かれ悪しかれ、世界の何かは「極まりつつある」ようだ。

その転ずる先は、幸となるのか、不幸となるのか?

この岐路にあって、自らをヴェールで覆って何かを想うことは無駄ではないように思う。たとえ、それが高速道路の真ん中であろうとも…。




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出典:マイケル・サンデル 究極の選択 「許せる格差 許せない格差」


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